「こんにちは。置き薬の確認に来ました」
古風な一軒家の前で、私はいつものように声を掛ける。
程無くして、戸ががららと開き、家主のお婆さんが顔を出した。
「おや、いつもいつもすまないねぇ」
「いえ」
「さあ、中へどうぞ」
「失礼します」
私が此処に来てから、何度も何度も繰り返してきたやりとり。
最初の頃は手際も悪く、師匠に怒られることもしょっちゅうだった。
「えーと、じゃあこの薬とこの薬……足しておきますね」
「ええ、お願いします」
「では今回の代金ですが……」
だが今ではもう、そんなこともなくなった。
いつも通り、淡々と仕事をこなすだけ。
「……確かに、代金を受け取りました。それでは、失礼します」
「はい。いつもありがとうね」
そんな、いつも通りの……やりとり。
でも。
「……はあ」
とぼとぼと、次の民家へと向かう。
足取りは、重い。
「……憂鬱」
仕事には慣れたが、人間には慣れない。
私は今でも、人間が苦手だった。
「なーに辛気臭い顔してんの?」
ふいに、背後から声が掛けられた。
私が反射的に振り返ると、
「……てゐ」
私の親友兼悪友の因幡てゐが、妙ににやにやとした笑みを浮かべて立っていた。
「……何やってんのよ。こんなとこで」
「別にー。暇だったから、里に下りてきてみただけ」
「ああ、そう」
そりゃいい身分ですこと。
思わず、そんな皮肉を言ってやりたくなった。
てゐは私と違い、師匠直属の弟子というわけではないので、師匠から仕事を言いつけられるということも殆どない。
せいぜい、人手が足りないときの助っ人要員くらいのものだ。
だから、こうして私が仕事に出ているときも、彼女は暇を持て余していることが多い。
そしてそんなときは、大抵こうやって私にちょっかいを出してくるのだ。
「で? 何でそんなにどんよりしてるのさ?」
「……分かってるくせに」
「ふふっ」
てゐは弾むように笑うと、ぴょんと私の方に跳ねてきた。
そして、満面の笑顔で言う。
「まだ苦手なんだ? 人間と接するの」
「…………」
てゐの問いに、私は沈黙を以って答えとした。
ええ、そうよ。
苦手よ。
でも、それがどうしたっていうの?
別に問題ないじゃない。
仕事は、滞りなくこなしているんだし。
―――そんな思いを視線に込めて、てゐの顔を真正面から見据えてみた。
まあこいつのことだから、私の考えていることなんて全部お見通しなんだろうけど。
するとてゐは、大袈裟なジェスチャーで肩を竦めてみせた。
「まったく。何をそんなに怯えているのやら」
「……別に怯えてなんか」
「嘘」
「…………」
「鈴仙は怯えてる。人間に」
「…………」
「いや、正確に言うと人間の大人に、かな。鈴仙、人間の子供とは普通に仲良いもんね。寺子屋のナナちゃんとか」
「……子供は、いいのよ」
子供は、私に笑顔を向けてくれるから。
妖怪だからとか、人間じゃないからとか、そういった偏見を、子供は持たない。
ただただ無垢で純真な瞳を、私に真っ直ぐに向けてくれる。
だから子供は、好き。
でも、大人は違う。
大人は、私に笑顔を向けてはくれない。
それどころか、私を訝しげな目で見てくる。
何か裏があるんじゃないかと、此方の腹を探るような目で。
その理由も単純明快。
それは私が、妖怪だから。
人とは違う形をした、妖怪兎だから。
もしも私に心を読む能力があったなら、きっとこういう声が聞えてくるに違いない。
―――何考えてるんだ? この妖怪。
―――相変わらず、怪しい兎だな。
―――そのうち、変な薬でも飲まされるんじゃないか。
とか、ね。
実際に、面と向かってそう言われたことは無いが、目を見れば分かる。
どことなく気まずそうに、厄介者を見るような目。
先ほどのお婆さんも、そうだった。
口では私を労っていたけど、口元は僅かに緩んでいたけど……その目の奥は、笑っていなかった。
だから大人は、苦手。
だから私は、この仕事が憂鬱だった。
否が応にも、人間の大人と接しなければならないから。
「でも、それってさあ」
相変わらずの軽い調子でてゐは言う。
「鈴仙の勘違いだと思うよ?」
「……?」
勘違い?
何を言っているのだろうか、こいつは。
「なんていうか、自意識過剰っていうか。被害妄想っていうか」
「……何ですって?」
これには、流石の私もカチンと来た。
人の気も知らないで。
「だってそうじゃない。実際に言われたわけでもないのに、一人で勝手にそう思い込んでる」
「言われなくたって分かるわよ。皆皆、私を奇異な目で見てくるんだから」
「……それは、鈴仙が妖怪だから?」
「そうよ」
「鈴仙が、人間じゃないから」
「そうよ!」
自分でもおかしいくらい、頭に血が上っていた。
何でだろう、てゐの軽口なんて、いつもは聞き流しているのに。
しかしてゐは、私の感情を逆撫ですることをやめなかった。
「……鈴仙」
「何よ」
「君は実に馬鹿だな」
「なっ!?」
言うに事欠いて馬鹿だと。
自分では視認できないが、今の私の目はいつも以上に赤く染まっているに違いない。
「馬鹿だから馬鹿だって言ったんだ。ばーかばーか」
「……ッ、この!」
私は思わず、てゐの胸倉を掴んでいた。
普段の私からはありえないくらいに、動揺していた。
だがてゐは、微塵も表情を崩さずに言った。
「……馬鹿って言われたら、腹が立つでしょ?」
「はあ? 当たり前でしょそんなの。何言ってんの?」
「それだけのことだよ」
「……え?」
「鈴仙は、たったそれだけのことに気付いていないんだ」
「……意味分かんない」
私はてゐから手を離し、彼女に背を向けた。
もうこれ以上、こいつのとんちじみた問答に付き合っている暇は無い。
「……鈴仙」
少し離れた位置から、てゐの声。
私はそれに振り返ることなく、歩を踏み出す。
だが私の優れた聴覚は、てゐの最後の呟きを聞き逃さなかった。
「……それに気付けるかどうかは、鈴仙次第だよ」
「…………」
何の事やらさっぱりだ。
いや、てゐが変な事を口走るのは間々あることだ。
別に、今日に限った話じゃない。
私は頭を振り、できるだけ心の動揺を抑えてから、次の民家へと向かった。
―――その後も、私は滞りなく仕事をこなした。
いつものように民家を回り、いつものように挨拶をし、いつものように会話をした。
人間には慣れないままだけど、そういう処世術だけは覚えた。
これでいい。
これでいいのだ。
こうやって、何も考えず、感じず、淡々と、与えられた仕事だけをこなしていけばいいのだ。
―――その翌日。
「今日も……ですか?」
「ええ。昨日、新しいお薬を持って行ってもらおうと思っていたんだけど、うっかり忘れちゃっててね。そういうわけでお願い、ウドンゲ」
「……分かりました」
師匠から新しい薬の入った箱を手渡され、私は自分の部屋へと戻った。
まさか、二日連続で里へ行く羽目になるとは……。
いや、いい。
何も問題は無い。
昨日、そう言い聞かせたばかりじゃないか。
いつものように民家を訪ね、いつものように薬の説明をするだけ。
今まで何度も何度もやってきたこと。
それを今日もやるだけだ。
大丈夫。
私ならできる。
今までだって、そうやってきたんだから。
何度も何度も心の中でそう呟きつつ、私は薬を入れたリュックを背負うと、部屋の襖を開けた。
すると。
「「あっ」」
てゐと鉢合わせた。
「…………」
「…………」
昨日の一件以来、まともに会話をしていなかったため、少し気まずい。
だが、どうやらてゐの方が先に空気を読んでくれたらしく、
「……いってらっしゃい」
「……ん。行って来ます」
それだけのやりとりを交わして、私達は何事も無くすれ違った。
付き合いが長いと、こういうときに便利だと思う。
多少の諍いがあっても、すぐに元に戻せるから。
―――そうして私は、今日も此処、人里へとやって来た。
「……よし」
深呼吸をして。
まずは最初の目的地である、あのお婆さんの家……に、向かおうとしたときだった。
「あっ」
道端で、地面に絵を描いて遊んでいる女の子を見つけた。
彼女は、慧音さんの寺子屋に通っている子で、授業が始まるまでの時間、よくこうして一人で遊んでいる。
そのため、里に薬を売りに来た私と顔を合わせることも多く、いつのまにか親しい仲になっていた。
よかった。
ここで彼女と話ができれば、いい感じにリラックスできることだろう。
そう思い、私は大きめの声で呼びかけた。
「おーい! ナナちゃーん!」
すると、その女の子―――ナナちゃんは、すぐに此方に顔を向けた。
「れいせんちゃん!」
ぱあっ、と明るい笑顔を浮かべ、私の名前を呼んでくれた。
この子の表情には、裏が無い。
ひたすらに純粋で純朴で、一分の疑心も無い。
だから私は、この子のことが好きだった。
ナナちゃんはたたたっと、私の方に駆け寄ってくる。
私も早足で、彼女に近付く。
「れいせんちゃん、今日もおしごと?」
「うん。新しいお薬を置いてもらいに来たんだ」
「そっかー。たいへんだねー」
「まあ、これも仕事だからね」
さっきまで張り詰めていた気持ちが、みるみるうちに落ち着いていくのが分かる。
もう、大丈夫だ。
何も怖くは無い。
たとえ他の誰にどう思われようと、この子だけは私の味方でいてくれる―――。
そう思ったとき、ふと訊ねてみたくなった。
別に、そこから何かを得ようと思ったわけではないし、昨日のてゐの言葉も、このときは頭になかった。
「ねえ、ナナちゃん」
「んー?」
「ナナちゃんは、私のこと、好き?」
今にして思えば、なかなかに危ない質問だったような気がする。
だが誓って言うが、私にそういった趣味はない。くれぐれも誤解のなきよう。
「…………」
唐突な私の問い掛けに、ナナちゃんは少しぽかんとしてから、
「うん! 大好き!」
と、弾けるような笑顔で言った。
その笑顔が、あまりにも眩しくて。
私は、ほとんど反射的に聞き直していた。
「ほ、ほんとうに?」
「うん!」
「そ、そっか……ありがとう」
やばい。
嬉しい。
ちょっと泣きそう。
私は涙をぐっと堪えつつ、この勢いに乗じて、さらに踏み込んでみることにした。
「ね……ねえ。ナナちゃん。もうひとつだけ、聞いてもいい?」
「うん。なに?」
「ナナちゃんは……なんで、私のことが好きなの?」
「んー? 何でって……」
「…………」
少し上を向き、うーんと思案顔を作るナナちゃん。
変な事を聞いてしまったかな……。
不安げな私を余所に、ナナちゃんはうん、と一度頷いてから、私の方に向き直った。
「れいせんちゃんは、いつも笑ってくれるから」
「……えっ」
「いつも、すっごくにこーって笑ってくれるから。だから、大好き!」
「笑って……?」
笑っていた?
私が?
……いや。
言われてみれば。
「……笑ってた」
このときの私は、阿呆の子みたいにぽかんとしていたと思う。
そうだ。
ナナちゃんを見かけたら、私は必ず、自分から率先して、笑顔で挨拶をしていた。
いや、ナナちゃんだけじゃない。
ナナちゃんに限らず、彼女と同じくらいの年頃の子を見かけたときには、常にそうしていた。
……ってことは。
つまり。
―――鈴仙は、たったそれだけのことに気付いていないんだ。
「そういう……こと……」
ああ、なるほど。
確かに、てゐの言うとおりだ。
私は、実に、馬鹿だった。
「……ナナちゃん」
「?」
「ありがとう」
「……?」
唐突に礼を言われ、きょとんと首を傾げるナナちゃん。
私は何も言わず、その小さな頭をぽんぽんと撫でてやった。
ナナちゃんは不思議そうな顔をしていたが、私がそうやって頭を撫でているうちに、また元のような笑顔になった。
そして、私もきっと―――同じ顔。
―――ナナちゃんと別れた後、私は、古風な一軒家の前へとやってきた。
すぅっと息を吸い込み、できる限りの大きな声で、言う。
「こんにちは! 新しい薬を置かせて頂きに来ました!」
……するとすぐに、がららと戸が開き、お婆さんが顔を出した。
心なしか、少し驚いたような表情を浮かべている。
だが、ここで引いてはいけない。
私は軽く息を整えてから、もう一度大きな声で言った。
「昨日、新しい薬を持って来るのを忘れてしまいましたので、今日、再び持って参りました。よろしければ、少々お時間頂けないでしょうか?」
―――そして私は、今の自分にできる、精一杯の笑顔を浮かべた。
もっとも、ちゃんと笑顔になってるかどうか、自分じゃ確認できないけれど。
でも、きっと大丈夫。
うまくできてる。
笑えてる。
今の私には、その確信があった。
……だって、ほら。
その証拠に―――。
「それはそれは……ご苦労さま」
―――笑顔。
お婆さんは、私に今まで見せたことのない笑顔を、浮かべていた。
口元だけじゃない。
目の奥までしっかり笑っている、そんな笑顔を。
そこには、気まずさなんて欠片も無かった。
ナナちゃんのそれと何ら変わらない、心からの笑顔。
ああ。
こんな、
こんな簡単な事だったんだ。
―――私が、子供に笑顔を向けていた理由。
それは、子供は私に偏見を持っていないと思っていたから。
そして、私が笑顔を向けていたから、子供も私に笑顔を向けてくれていた。
―――私が、大人に笑顔を向けていなかった理由。
それは、大人は私に偏見を持っていると思っていたから。
そして、私が笑顔を向けていなかったから、大人も私に笑顔を向けてはくれなかった。
―――でも。
『人間の大人は、妖怪である私に偏見を抱いている』
それ自体が……私の偏見だったんだ。
『人間とはそういうものだろう』と、無意識のうちに、勝手に決めつけてしまっていたんだ。
何の根拠も無い、一方的な思い込みによって。
だから。
私は大人に笑顔を向けてはいなかった。
だから。
大人も私に笑顔を向けはしなかった。
そして、そんな大人の表情を見て、私は一層、自分の中の偏見を強めていた。
私が妖怪だから、人間じゃないから―――皆、私に笑顔を向けてくれないのだと。
今にして思えば、馬鹿みたいだ。
そもそも、私が笑顔を向けていなかったから。
無愛想な表情しか、浮かべていなかったから。
たったそれだけの、理由だったのに。
考えてみれば、当たり前の事。
誰だって、自分に対して無愛想な表情を浮かべている者に、あえて笑顔を向けようとはしないだろう。
それは、人間だろうと、妖怪だろうと……大人だろうと、子供だろうと、同じことだ。
誰だって、馬鹿って言われたら、腹が立つ。
誰だって、無愛想な表情を浮かべられたら、嫌な気分になる。
……でも。
誰だって、笑顔を向けられたら―――嬉しくなる。
―――ただそれだけの、事だったんだ。
そのとき、ふいに、申し訳なさそうな声が耳に届いた。
「あのー……うさぎさんや?」
「えっ、あ、はい」
「新しいお薬の説明……してもらえんじゃろか」
「す、すいません! 直ちに!」
いけないいけない。
感慨に耽るがあまり、ついつい、肝心の仕事を忘れるところだった。
―――その後、いつもなら数分で終わる薬の説明が、この日は実に三十分以上もかかった。
その理由は、単純明快。
私がずっと、笑っていたから。
お婆さんもずっと、笑っていたから。
「―――それでは、今後とも宜しくお願いします!」
「ええ。また来てくださいね」
大きな声で挨拶をし、深く頭を下げる。
そして最後は、笑顔でお別れ。
ああ。
なんて気持ちがいいんだろう。
―――こうしてお婆さんの家を後にした私は、弾むような足取りで、次の民家へと向かった。
と、そこで。
「なーに嬉しそうな顔してんの?」
ふいに、背後から声が聞えた。
それは聞き違えようもない、親友兼悪友の声。
「…………」
「…………」
一瞬の、沈黙の後。
「……てゐ」
「ん?」
私は勢いよく振り返った。
そして、できる限りの大きな声で。
「―――ありがと!」
上手くできてたかな?
笑顔。
「…………」
しかし、てゐは無言で、目をパチクリとさせているのみ。
あら?
少し変だったかしら?
「……ちょっと、てゐ?」
「え、あ」
いつになく、動揺しているてゐ。
なんだか顔も赤くなっているように見える。
一体どうしたというのだろうか。
「何とか言いなさいよ」
「……は」
「は?」
「……反則っ!」
「……はあ?」
意味が分からない。
私が首を傾げていると、てゐはぷいっと顔を背け、ぴょんぴょんと跳ねて何処かへ行ってしまった。
「……何なのよ? 一体……」
我が親友ながら、相変わらずよく分からない奴である。
「……まあ、いいか」
なんだかんだで、今回は、てゐのお陰で、大切なことに気付くことができたわけだし。
お礼に今度、てゐの好物のクローバーでも摘んできてやろう。
「よぅし」
私は気合を入れ直すと、次の民家へと向かった。
足取りは、軽い。
そして私は、今の私にできる、とびっきりの笑顔で言うのだ。
「こんにちは! 新しい薬を置かせて頂きに来ました!」
了
古風な一軒家の前で、私はいつものように声を掛ける。
程無くして、戸ががららと開き、家主のお婆さんが顔を出した。
「おや、いつもいつもすまないねぇ」
「いえ」
「さあ、中へどうぞ」
「失礼します」
私が此処に来てから、何度も何度も繰り返してきたやりとり。
最初の頃は手際も悪く、師匠に怒られることもしょっちゅうだった。
「えーと、じゃあこの薬とこの薬……足しておきますね」
「ええ、お願いします」
「では今回の代金ですが……」
だが今ではもう、そんなこともなくなった。
いつも通り、淡々と仕事をこなすだけ。
「……確かに、代金を受け取りました。それでは、失礼します」
「はい。いつもありがとうね」
そんな、いつも通りの……やりとり。
でも。
「……はあ」
とぼとぼと、次の民家へと向かう。
足取りは、重い。
「……憂鬱」
仕事には慣れたが、人間には慣れない。
私は今でも、人間が苦手だった。
「なーに辛気臭い顔してんの?」
ふいに、背後から声が掛けられた。
私が反射的に振り返ると、
「……てゐ」
私の親友兼悪友の因幡てゐが、妙ににやにやとした笑みを浮かべて立っていた。
「……何やってんのよ。こんなとこで」
「別にー。暇だったから、里に下りてきてみただけ」
「ああ、そう」
そりゃいい身分ですこと。
思わず、そんな皮肉を言ってやりたくなった。
てゐは私と違い、師匠直属の弟子というわけではないので、師匠から仕事を言いつけられるということも殆どない。
せいぜい、人手が足りないときの助っ人要員くらいのものだ。
だから、こうして私が仕事に出ているときも、彼女は暇を持て余していることが多い。
そしてそんなときは、大抵こうやって私にちょっかいを出してくるのだ。
「で? 何でそんなにどんよりしてるのさ?」
「……分かってるくせに」
「ふふっ」
てゐは弾むように笑うと、ぴょんと私の方に跳ねてきた。
そして、満面の笑顔で言う。
「まだ苦手なんだ? 人間と接するの」
「…………」
てゐの問いに、私は沈黙を以って答えとした。
ええ、そうよ。
苦手よ。
でも、それがどうしたっていうの?
別に問題ないじゃない。
仕事は、滞りなくこなしているんだし。
―――そんな思いを視線に込めて、てゐの顔を真正面から見据えてみた。
まあこいつのことだから、私の考えていることなんて全部お見通しなんだろうけど。
するとてゐは、大袈裟なジェスチャーで肩を竦めてみせた。
「まったく。何をそんなに怯えているのやら」
「……別に怯えてなんか」
「嘘」
「…………」
「鈴仙は怯えてる。人間に」
「…………」
「いや、正確に言うと人間の大人に、かな。鈴仙、人間の子供とは普通に仲良いもんね。寺子屋のナナちゃんとか」
「……子供は、いいのよ」
子供は、私に笑顔を向けてくれるから。
妖怪だからとか、人間じゃないからとか、そういった偏見を、子供は持たない。
ただただ無垢で純真な瞳を、私に真っ直ぐに向けてくれる。
だから子供は、好き。
でも、大人は違う。
大人は、私に笑顔を向けてはくれない。
それどころか、私を訝しげな目で見てくる。
何か裏があるんじゃないかと、此方の腹を探るような目で。
その理由も単純明快。
それは私が、妖怪だから。
人とは違う形をした、妖怪兎だから。
もしも私に心を読む能力があったなら、きっとこういう声が聞えてくるに違いない。
―――何考えてるんだ? この妖怪。
―――相変わらず、怪しい兎だな。
―――そのうち、変な薬でも飲まされるんじゃないか。
とか、ね。
実際に、面と向かってそう言われたことは無いが、目を見れば分かる。
どことなく気まずそうに、厄介者を見るような目。
先ほどのお婆さんも、そうだった。
口では私を労っていたけど、口元は僅かに緩んでいたけど……その目の奥は、笑っていなかった。
だから大人は、苦手。
だから私は、この仕事が憂鬱だった。
否が応にも、人間の大人と接しなければならないから。
「でも、それってさあ」
相変わらずの軽い調子でてゐは言う。
「鈴仙の勘違いだと思うよ?」
「……?」
勘違い?
何を言っているのだろうか、こいつは。
「なんていうか、自意識過剰っていうか。被害妄想っていうか」
「……何ですって?」
これには、流石の私もカチンと来た。
人の気も知らないで。
「だってそうじゃない。実際に言われたわけでもないのに、一人で勝手にそう思い込んでる」
「言われなくたって分かるわよ。皆皆、私を奇異な目で見てくるんだから」
「……それは、鈴仙が妖怪だから?」
「そうよ」
「鈴仙が、人間じゃないから」
「そうよ!」
自分でもおかしいくらい、頭に血が上っていた。
何でだろう、てゐの軽口なんて、いつもは聞き流しているのに。
しかしてゐは、私の感情を逆撫ですることをやめなかった。
「……鈴仙」
「何よ」
「君は実に馬鹿だな」
「なっ!?」
言うに事欠いて馬鹿だと。
自分では視認できないが、今の私の目はいつも以上に赤く染まっているに違いない。
「馬鹿だから馬鹿だって言ったんだ。ばーかばーか」
「……ッ、この!」
私は思わず、てゐの胸倉を掴んでいた。
普段の私からはありえないくらいに、動揺していた。
だがてゐは、微塵も表情を崩さずに言った。
「……馬鹿って言われたら、腹が立つでしょ?」
「はあ? 当たり前でしょそんなの。何言ってんの?」
「それだけのことだよ」
「……え?」
「鈴仙は、たったそれだけのことに気付いていないんだ」
「……意味分かんない」
私はてゐから手を離し、彼女に背を向けた。
もうこれ以上、こいつのとんちじみた問答に付き合っている暇は無い。
「……鈴仙」
少し離れた位置から、てゐの声。
私はそれに振り返ることなく、歩を踏み出す。
だが私の優れた聴覚は、てゐの最後の呟きを聞き逃さなかった。
「……それに気付けるかどうかは、鈴仙次第だよ」
「…………」
何の事やらさっぱりだ。
いや、てゐが変な事を口走るのは間々あることだ。
別に、今日に限った話じゃない。
私は頭を振り、できるだけ心の動揺を抑えてから、次の民家へと向かった。
―――その後も、私は滞りなく仕事をこなした。
いつものように民家を回り、いつものように挨拶をし、いつものように会話をした。
人間には慣れないままだけど、そういう処世術だけは覚えた。
これでいい。
これでいいのだ。
こうやって、何も考えず、感じず、淡々と、与えられた仕事だけをこなしていけばいいのだ。
―――その翌日。
「今日も……ですか?」
「ええ。昨日、新しいお薬を持って行ってもらおうと思っていたんだけど、うっかり忘れちゃっててね。そういうわけでお願い、ウドンゲ」
「……分かりました」
師匠から新しい薬の入った箱を手渡され、私は自分の部屋へと戻った。
まさか、二日連続で里へ行く羽目になるとは……。
いや、いい。
何も問題は無い。
昨日、そう言い聞かせたばかりじゃないか。
いつものように民家を訪ね、いつものように薬の説明をするだけ。
今まで何度も何度もやってきたこと。
それを今日もやるだけだ。
大丈夫。
私ならできる。
今までだって、そうやってきたんだから。
何度も何度も心の中でそう呟きつつ、私は薬を入れたリュックを背負うと、部屋の襖を開けた。
すると。
「「あっ」」
てゐと鉢合わせた。
「…………」
「…………」
昨日の一件以来、まともに会話をしていなかったため、少し気まずい。
だが、どうやらてゐの方が先に空気を読んでくれたらしく、
「……いってらっしゃい」
「……ん。行って来ます」
それだけのやりとりを交わして、私達は何事も無くすれ違った。
付き合いが長いと、こういうときに便利だと思う。
多少の諍いがあっても、すぐに元に戻せるから。
―――そうして私は、今日も此処、人里へとやって来た。
「……よし」
深呼吸をして。
まずは最初の目的地である、あのお婆さんの家……に、向かおうとしたときだった。
「あっ」
道端で、地面に絵を描いて遊んでいる女の子を見つけた。
彼女は、慧音さんの寺子屋に通っている子で、授業が始まるまでの時間、よくこうして一人で遊んでいる。
そのため、里に薬を売りに来た私と顔を合わせることも多く、いつのまにか親しい仲になっていた。
よかった。
ここで彼女と話ができれば、いい感じにリラックスできることだろう。
そう思い、私は大きめの声で呼びかけた。
「おーい! ナナちゃーん!」
すると、その女の子―――ナナちゃんは、すぐに此方に顔を向けた。
「れいせんちゃん!」
ぱあっ、と明るい笑顔を浮かべ、私の名前を呼んでくれた。
この子の表情には、裏が無い。
ひたすらに純粋で純朴で、一分の疑心も無い。
だから私は、この子のことが好きだった。
ナナちゃんはたたたっと、私の方に駆け寄ってくる。
私も早足で、彼女に近付く。
「れいせんちゃん、今日もおしごと?」
「うん。新しいお薬を置いてもらいに来たんだ」
「そっかー。たいへんだねー」
「まあ、これも仕事だからね」
さっきまで張り詰めていた気持ちが、みるみるうちに落ち着いていくのが分かる。
もう、大丈夫だ。
何も怖くは無い。
たとえ他の誰にどう思われようと、この子だけは私の味方でいてくれる―――。
そう思ったとき、ふと訊ねてみたくなった。
別に、そこから何かを得ようと思ったわけではないし、昨日のてゐの言葉も、このときは頭になかった。
「ねえ、ナナちゃん」
「んー?」
「ナナちゃんは、私のこと、好き?」
今にして思えば、なかなかに危ない質問だったような気がする。
だが誓って言うが、私にそういった趣味はない。くれぐれも誤解のなきよう。
「…………」
唐突な私の問い掛けに、ナナちゃんは少しぽかんとしてから、
「うん! 大好き!」
と、弾けるような笑顔で言った。
その笑顔が、あまりにも眩しくて。
私は、ほとんど反射的に聞き直していた。
「ほ、ほんとうに?」
「うん!」
「そ、そっか……ありがとう」
やばい。
嬉しい。
ちょっと泣きそう。
私は涙をぐっと堪えつつ、この勢いに乗じて、さらに踏み込んでみることにした。
「ね……ねえ。ナナちゃん。もうひとつだけ、聞いてもいい?」
「うん。なに?」
「ナナちゃんは……なんで、私のことが好きなの?」
「んー? 何でって……」
「…………」
少し上を向き、うーんと思案顔を作るナナちゃん。
変な事を聞いてしまったかな……。
不安げな私を余所に、ナナちゃんはうん、と一度頷いてから、私の方に向き直った。
「れいせんちゃんは、いつも笑ってくれるから」
「……えっ」
「いつも、すっごくにこーって笑ってくれるから。だから、大好き!」
「笑って……?」
笑っていた?
私が?
……いや。
言われてみれば。
「……笑ってた」
このときの私は、阿呆の子みたいにぽかんとしていたと思う。
そうだ。
ナナちゃんを見かけたら、私は必ず、自分から率先して、笑顔で挨拶をしていた。
いや、ナナちゃんだけじゃない。
ナナちゃんに限らず、彼女と同じくらいの年頃の子を見かけたときには、常にそうしていた。
……ってことは。
つまり。
―――鈴仙は、たったそれだけのことに気付いていないんだ。
「そういう……こと……」
ああ、なるほど。
確かに、てゐの言うとおりだ。
私は、実に、馬鹿だった。
「……ナナちゃん」
「?」
「ありがとう」
「……?」
唐突に礼を言われ、きょとんと首を傾げるナナちゃん。
私は何も言わず、その小さな頭をぽんぽんと撫でてやった。
ナナちゃんは不思議そうな顔をしていたが、私がそうやって頭を撫でているうちに、また元のような笑顔になった。
そして、私もきっと―――同じ顔。
―――ナナちゃんと別れた後、私は、古風な一軒家の前へとやってきた。
すぅっと息を吸い込み、できる限りの大きな声で、言う。
「こんにちは! 新しい薬を置かせて頂きに来ました!」
……するとすぐに、がららと戸が開き、お婆さんが顔を出した。
心なしか、少し驚いたような表情を浮かべている。
だが、ここで引いてはいけない。
私は軽く息を整えてから、もう一度大きな声で言った。
「昨日、新しい薬を持って来るのを忘れてしまいましたので、今日、再び持って参りました。よろしければ、少々お時間頂けないでしょうか?」
―――そして私は、今の自分にできる、精一杯の笑顔を浮かべた。
もっとも、ちゃんと笑顔になってるかどうか、自分じゃ確認できないけれど。
でも、きっと大丈夫。
うまくできてる。
笑えてる。
今の私には、その確信があった。
……だって、ほら。
その証拠に―――。
「それはそれは……ご苦労さま」
―――笑顔。
お婆さんは、私に今まで見せたことのない笑顔を、浮かべていた。
口元だけじゃない。
目の奥までしっかり笑っている、そんな笑顔を。
そこには、気まずさなんて欠片も無かった。
ナナちゃんのそれと何ら変わらない、心からの笑顔。
ああ。
こんな、
こんな簡単な事だったんだ。
―――私が、子供に笑顔を向けていた理由。
それは、子供は私に偏見を持っていないと思っていたから。
そして、私が笑顔を向けていたから、子供も私に笑顔を向けてくれていた。
―――私が、大人に笑顔を向けていなかった理由。
それは、大人は私に偏見を持っていると思っていたから。
そして、私が笑顔を向けていなかったから、大人も私に笑顔を向けてはくれなかった。
―――でも。
『人間の大人は、妖怪である私に偏見を抱いている』
それ自体が……私の偏見だったんだ。
『人間とはそういうものだろう』と、無意識のうちに、勝手に決めつけてしまっていたんだ。
何の根拠も無い、一方的な思い込みによって。
だから。
私は大人に笑顔を向けてはいなかった。
だから。
大人も私に笑顔を向けはしなかった。
そして、そんな大人の表情を見て、私は一層、自分の中の偏見を強めていた。
私が妖怪だから、人間じゃないから―――皆、私に笑顔を向けてくれないのだと。
今にして思えば、馬鹿みたいだ。
そもそも、私が笑顔を向けていなかったから。
無愛想な表情しか、浮かべていなかったから。
たったそれだけの、理由だったのに。
考えてみれば、当たり前の事。
誰だって、自分に対して無愛想な表情を浮かべている者に、あえて笑顔を向けようとはしないだろう。
それは、人間だろうと、妖怪だろうと……大人だろうと、子供だろうと、同じことだ。
誰だって、馬鹿って言われたら、腹が立つ。
誰だって、無愛想な表情を浮かべられたら、嫌な気分になる。
……でも。
誰だって、笑顔を向けられたら―――嬉しくなる。
―――ただそれだけの、事だったんだ。
そのとき、ふいに、申し訳なさそうな声が耳に届いた。
「あのー……うさぎさんや?」
「えっ、あ、はい」
「新しいお薬の説明……してもらえんじゃろか」
「す、すいません! 直ちに!」
いけないいけない。
感慨に耽るがあまり、ついつい、肝心の仕事を忘れるところだった。
―――その後、いつもなら数分で終わる薬の説明が、この日は実に三十分以上もかかった。
その理由は、単純明快。
私がずっと、笑っていたから。
お婆さんもずっと、笑っていたから。
「―――それでは、今後とも宜しくお願いします!」
「ええ。また来てくださいね」
大きな声で挨拶をし、深く頭を下げる。
そして最後は、笑顔でお別れ。
ああ。
なんて気持ちがいいんだろう。
―――こうしてお婆さんの家を後にした私は、弾むような足取りで、次の民家へと向かった。
と、そこで。
「なーに嬉しそうな顔してんの?」
ふいに、背後から声が聞えた。
それは聞き違えようもない、親友兼悪友の声。
「…………」
「…………」
一瞬の、沈黙の後。
「……てゐ」
「ん?」
私は勢いよく振り返った。
そして、できる限りの大きな声で。
「―――ありがと!」
上手くできてたかな?
笑顔。
「…………」
しかし、てゐは無言で、目をパチクリとさせているのみ。
あら?
少し変だったかしら?
「……ちょっと、てゐ?」
「え、あ」
いつになく、動揺しているてゐ。
なんだか顔も赤くなっているように見える。
一体どうしたというのだろうか。
「何とか言いなさいよ」
「……は」
「は?」
「……反則っ!」
「……はあ?」
意味が分からない。
私が首を傾げていると、てゐはぷいっと顔を背け、ぴょんぴょんと跳ねて何処かへ行ってしまった。
「……何なのよ? 一体……」
我が親友ながら、相変わらずよく分からない奴である。
「……まあ、いいか」
なんだかんだで、今回は、てゐのお陰で、大切なことに気付くことができたわけだし。
お礼に今度、てゐの好物のクローバーでも摘んできてやろう。
「よぅし」
私は気合を入れ直すと、次の民家へと向かった。
足取りは、軽い。
そして私は、今の私にできる、とびっきりの笑顔で言うのだ。
「こんにちは! 新しい薬を置かせて頂きに来ました!」
了
確かに薄いのかもしれない。
ウサギシリーズいいですね!!!
他のを読み返してきました!
もっと見てぇ…………
れーせん自体が荒んだ心をほぐしてくれる清涼剤です。家にも定期的に来てくれませんかね?
クローバーいっぱい用意して待ってます。
大事ですよね