永遠亭の夜空にはなんでもない月が浮かんでいた。別に本物の月が隠されているわけでも、兎たちが餅を搗いているわけでもない。暗い夜には頼りなくて、不完全な弓なりの月。縁側に腰掛ける私は薄明かりを受けて、影が背後にある部屋の暗がりに接続している。
月の兎だった私は遥か三十八万キロ先に置いてきて……そう、他の兎と一線を画す存在となってしまったのだ。嫦娥様を仕留めんとする仙霊を単独で倒し帰還した私は、これまでの臆病だった自分とはかけ離れていて。
「――ほら。手をのばしても届かない」
浮かぶ三日月に左手を被せる。月にいる無口な女神もこうして顔を覆っていた。まあ私の敵じゃなかったけど。
「なにを笑っているの」
不意に後ろから白い指が伸びてきて、中空に掲げた手首と首筋にあてられた。頸動脈あたりに意識が集中して、ぞわぞわと不快感が流れこんでくる。聞かれた、と思った。
「幽霊でも出たのかと」
夏にはちょうどいいでしょうと笑って、純狐さんは私の斜め後ろにぴったりくっついて腰を下ろした。手首をつよく握られて、私の月は隠れたままだ。きっと血流は拍動としてとくとくと彼女に伝わっている。そう思うと少し気恥ずかしくなって、自由な右手で自分のふとももをぽりぽり掻いた。
用があるなら言えばいいのに、純狐さんは握るちからを強めたり弱めたりで、なにも話そうとはしなかった。ただずっと、ふとももを掻く音だけがあった。
月での一件以来、なぜかこの人は私を気に入ったようでこうしてたまに遊びに来るようになった。アポなしにいきなり現れては、ひとしきり私をもみくちゃにして帰ったり、家事や手伝いをしているのを部屋の隅でジッと見つめていたりで……言葉を交わすことはあまりないけれど。彼女のどこに埋まってるかわからない地雷を避けて楽しくおしゃべり、なんて芸当私にはできないし、こんな風に無言でいてくれるほうがいいのかもしれない。
はぁっと、生温い吐息が左耳を撫でた。一瞬、ふとももを掻く音が遠くなる。なんだか手や声より純狐さんの存在を近くに感じて、私の芯がかぁっと熱くなった。
夫をそそのかされ、息子を殺された恨みは、家庭を持たない私が軽々と触れていいものじゃないと思う。だけど、私は純狐さんのことをそれくらいしか知らなくて。彼女の無言のスキンシップに応えられないままでいた。踏み抜けば、きっと、殺される。首筋に添えられた右手が、大きくて、熱い。
「近くにいると、暑苦しいかしら」
首にあった手が、肩を撫でて、二の腕に。ゆっくりと降りてくる。素肌を滑る手のひらは私の汗を薄く伸ばして、彗星みたいに尾を引いた。
「――ね。貴女は昔、あそこに居たのでしょう」
さっと三日月光線が目に入り込んで、意識が上層に手繰られた。もはや血も抜けきった指に純狐さんが指を絡ませて、ふにふにと感触を確かめる。
腕を伸ばして。
私の頂点を捉えて。
純狐さんと私の間にある、あってないような空間を狭めてくる。
私の背中に密着して、耳元で呼吸をして、その振動が確かな肉感として背に刻まれた。赤くなったふとももをひっかくのはやめた。頭のなかで鳴ってる拍動が私のものなのか純狐さんのものなのか考えるだけで精一杯だった。
こうして、と囁いて、左手の甲に純狐さんの手が重なる。力なんて入れてないはずなのに、支えのない腕は月を目指していた。
純狐さんが指を折って、私の手を包んで――月を、握りつぶしていく。私の故郷の記憶さえ、消えてしまうような気がした。
「バン!」
私が振り向くのと同時に、純狐さんが強く握って――月は砕けて――パッと手を離した。ピクリともしなかった腕が膝元に転がる。
はじめてみた、まつげを数えられるほど近くにある金色の瞳。その中央、大きく開いた瞳孔に、すっぽりおさまった私の姿。まるで金色の檻にとり囲まれてしまったみたい。
純狐さんはクスクスと笑って。目だけが、目だけがまっすぐに、私を捕らえている。バン、という声が、耳のなかでドンドン強く響いた。
「純狐さん……」
ダメだ。私は今、言っちゃいけないことを言おうとしてる。それでも、この距離で毛穴一つ見えないきめ細かなミルク色の肌を見せつけられて。ささやかな風を受けた金髪が、砕いた月をちりばめたように輝いて。触れ合うお互いの体温をなじませていくうちに。誰かが私に浸透して、操って、口を開いて、止められない。
「純狐さんは、なんで……復讐を続けるんですか」
瞳のなかの私がゆらめいた。こんなに優しい顔をする人が、恨みを抱えているようには思えなかった。だから、踏み込んで、踏み抜いた。
純狐さんが腕をまわして、両手でしっかりと抱きしめてくる。ぎゅっと力を入れるから、私は後ろを向いていられなくなって永遠亭の庭に向き直った。背中が熱を帯びる。二人で共有する夏の蒸し暑さがこもっている。ひらいた左手は手汗でぐしゃぐしゃになって、月明かりをきらきら返した。
「へその緒がね、繋がっているの」
頬をすり合わせるぐらい近くから、聞こえてくる。よどんだ感情のない、透き通った音。
「伯封はまだ、許していないのでしょう。だから私を引っ張って……私は、へその緒が途切れてしまわないように、後ろを歩くの」
脇腹の辺りが、なぜかこそばゆく感じた。純狐さんのへそがあるあたりから、なにかがながれこんでくるような。もちろん、へそからへその緒が伸びているわけではないけれど。こうして包まれていると、私を保つ境界があやふやになって、純狐さんと繋がっているんじゃないかって、勘違いしてしまう。暑苦しいはずなのに、純狐さんから受け取る温度は、心地よくて、気持ちよくて、安心できた。
「この繋がりが途切れたら伯封は本当に消えてしまうんじゃないかって、不安だった」
純狐さんが腕を緩める。二人の間を風が吹き抜けた。
「それを断ち切ったのは貴女よ」
純狐さんが離れていく。立ち上がって、背後の暗がりにとけていく。密着して汗をかいた身体は私から一気に熱を奪っていって。
「また今度ね、伯封」
辺りにはもう誰の気配もなくて。
私は全身に鳥肌を立てながら、温かい霊に取り憑かれていたのだと気づいた。
月の兎だった私は遥か三十八万キロ先に置いてきて……そう、他の兎と一線を画す存在となってしまったのだ。嫦娥様を仕留めんとする仙霊を単独で倒し帰還した私は、これまでの臆病だった自分とはかけ離れていて。
「――ほら。手をのばしても届かない」
浮かぶ三日月に左手を被せる。月にいる無口な女神もこうして顔を覆っていた。まあ私の敵じゃなかったけど。
「なにを笑っているの」
不意に後ろから白い指が伸びてきて、中空に掲げた手首と首筋にあてられた。頸動脈あたりに意識が集中して、ぞわぞわと不快感が流れこんでくる。聞かれた、と思った。
「幽霊でも出たのかと」
夏にはちょうどいいでしょうと笑って、純狐さんは私の斜め後ろにぴったりくっついて腰を下ろした。手首をつよく握られて、私の月は隠れたままだ。きっと血流は拍動としてとくとくと彼女に伝わっている。そう思うと少し気恥ずかしくなって、自由な右手で自分のふとももをぽりぽり掻いた。
用があるなら言えばいいのに、純狐さんは握るちからを強めたり弱めたりで、なにも話そうとはしなかった。ただずっと、ふとももを掻く音だけがあった。
月での一件以来、なぜかこの人は私を気に入ったようでこうしてたまに遊びに来るようになった。アポなしにいきなり現れては、ひとしきり私をもみくちゃにして帰ったり、家事や手伝いをしているのを部屋の隅でジッと見つめていたりで……言葉を交わすことはあまりないけれど。彼女のどこに埋まってるかわからない地雷を避けて楽しくおしゃべり、なんて芸当私にはできないし、こんな風に無言でいてくれるほうがいいのかもしれない。
はぁっと、生温い吐息が左耳を撫でた。一瞬、ふとももを掻く音が遠くなる。なんだか手や声より純狐さんの存在を近くに感じて、私の芯がかぁっと熱くなった。
夫をそそのかされ、息子を殺された恨みは、家庭を持たない私が軽々と触れていいものじゃないと思う。だけど、私は純狐さんのことをそれくらいしか知らなくて。彼女の無言のスキンシップに応えられないままでいた。踏み抜けば、きっと、殺される。首筋に添えられた右手が、大きくて、熱い。
「近くにいると、暑苦しいかしら」
首にあった手が、肩を撫でて、二の腕に。ゆっくりと降りてくる。素肌を滑る手のひらは私の汗を薄く伸ばして、彗星みたいに尾を引いた。
「――ね。貴女は昔、あそこに居たのでしょう」
さっと三日月光線が目に入り込んで、意識が上層に手繰られた。もはや血も抜けきった指に純狐さんが指を絡ませて、ふにふにと感触を確かめる。
腕を伸ばして。
私の頂点を捉えて。
純狐さんと私の間にある、あってないような空間を狭めてくる。
私の背中に密着して、耳元で呼吸をして、その振動が確かな肉感として背に刻まれた。赤くなったふとももをひっかくのはやめた。頭のなかで鳴ってる拍動が私のものなのか純狐さんのものなのか考えるだけで精一杯だった。
こうして、と囁いて、左手の甲に純狐さんの手が重なる。力なんて入れてないはずなのに、支えのない腕は月を目指していた。
純狐さんが指を折って、私の手を包んで――月を、握りつぶしていく。私の故郷の記憶さえ、消えてしまうような気がした。
「バン!」
私が振り向くのと同時に、純狐さんが強く握って――月は砕けて――パッと手を離した。ピクリともしなかった腕が膝元に転がる。
はじめてみた、まつげを数えられるほど近くにある金色の瞳。その中央、大きく開いた瞳孔に、すっぽりおさまった私の姿。まるで金色の檻にとり囲まれてしまったみたい。
純狐さんはクスクスと笑って。目だけが、目だけがまっすぐに、私を捕らえている。バン、という声が、耳のなかでドンドン強く響いた。
「純狐さん……」
ダメだ。私は今、言っちゃいけないことを言おうとしてる。それでも、この距離で毛穴一つ見えないきめ細かなミルク色の肌を見せつけられて。ささやかな風を受けた金髪が、砕いた月をちりばめたように輝いて。触れ合うお互いの体温をなじませていくうちに。誰かが私に浸透して、操って、口を開いて、止められない。
「純狐さんは、なんで……復讐を続けるんですか」
瞳のなかの私がゆらめいた。こんなに優しい顔をする人が、恨みを抱えているようには思えなかった。だから、踏み込んで、踏み抜いた。
純狐さんが腕をまわして、両手でしっかりと抱きしめてくる。ぎゅっと力を入れるから、私は後ろを向いていられなくなって永遠亭の庭に向き直った。背中が熱を帯びる。二人で共有する夏の蒸し暑さがこもっている。ひらいた左手は手汗でぐしゃぐしゃになって、月明かりをきらきら返した。
「へその緒がね、繋がっているの」
頬をすり合わせるぐらい近くから、聞こえてくる。よどんだ感情のない、透き通った音。
「伯封はまだ、許していないのでしょう。だから私を引っ張って……私は、へその緒が途切れてしまわないように、後ろを歩くの」
脇腹の辺りが、なぜかこそばゆく感じた。純狐さんのへそがあるあたりから、なにかがながれこんでくるような。もちろん、へそからへその緒が伸びているわけではないけれど。こうして包まれていると、私を保つ境界があやふやになって、純狐さんと繋がっているんじゃないかって、勘違いしてしまう。暑苦しいはずなのに、純狐さんから受け取る温度は、心地よくて、気持ちよくて、安心できた。
「この繋がりが途切れたら伯封は本当に消えてしまうんじゃないかって、不安だった」
純狐さんが腕を緩める。二人の間を風が吹き抜けた。
「それを断ち切ったのは貴女よ」
純狐さんが離れていく。立ち上がって、背後の暗がりにとけていく。密着して汗をかいた身体は私から一気に熱を奪っていって。
「また今度ね、伯封」
辺りにはもう誰の気配もなくて。
私は全身に鳥肌を立てながら、温かい霊に取り憑かれていたのだと気づいた。
>純狐さんと私の間にある、あってないような空間を狭めてくる。
ココ好き。
描写表現も面白かったです。素敵でした。
純狐さんセクシー