木々が鬱蒼と生い茂る森の中、まるで木々に抱かれているかの様に設計されたある一つの家屋がある。そこには三名の妖精が、仲睦まじく生活している場所である。
――普段通りであれば、この説明に何ら語弊は無いのだが、本日の朝はやや様子が違う。妖怪は朝を慄いて眠りに就き、野生動物の類はまだ目覚めぬ時分である、朝の早い頃、この樹木に抱かれた家屋の中は、きぃきぃと甲高くやかましい喧騒に包まれていた。森の情緒たる静けさ等何処へやら、聞いている者の精神状態を著しく害する、あまり幸福な響きの無い騒々しさである。
家屋の中で、二人の妖精が取っ組み合いの喧嘩を演じていた。二者とも美しい金色の髪を持つ幼い妖精である。一方の者は肩の辺りまで伸びた髪を、巻貝の様にくるくると巻いている。もう一方の者は、前者程髪は長くなく、左右に尻尾の如く束ねた髪を飛び出させている。
お互いにまるで意思疎通しているかの様に互いの髪を引っ張り合っている。腕力に乏しく、人体の急所やら痛点に関する知識が無い妖精達にとって、髪とは手っ取り早く相手に痛手を与えることが出来る便利な部位なのである。
目尻に涙を溜めながら髪を引っ張り合う二人の姿は、その幼さ故にやや微笑ましささえ感じることも可能であろうが、しかし二者とも遠慮も加減も躊躇も知らず、ただただ、目の前の腹立たしい同居人を何とか屈服させようと必死なのである。先に痛いと言ったら負け――そんな暗黙の勝敗決定要因の元で繰り広げられる、己が威信を賭けたこの根競べは、かれこれもう三分間程続いている。
「もう止めなよ、二人ともっ!」
この可愛らしい激戦に参加していない黒い長髪の妖精が悲鳴にも似た声を上げる。この激闘の三分間の中で再三同じことを言い続けて来たのだが、終戦の兆しは全く見えて来ない。相変わらず戦いに明け暮れる二者は退くことを知らぬかの様に、相手の髪を引っ張り続けている。
傍観するに堪えなくなった長い黒髪の妖精――スターサファイアは、無理矢理二人を引き剥がした。強引な仲介者のお陰で表面上の終戦を迎えた訳であるが、争っていた金髪の妖精二名の心は戦火の余韻でぼうぼうと燃え滾ったままである。まだ戦いは終わっていないのだ。――しかし、髪の引っ張り合いと言う争いは余りにも過酷であった為、スターサファイアが無理矢理終わりに導いてくれたことに、二者とも心密かに些かの感謝を覚えている。
「サニーもルナも、そんなに怒らないで!」
“尻尾”の方であるサニーミルクと、“巻貝”の方であるルナチャイルド――二方の妖精にスターサファイアが落ち着けと勧告するのだが、当然の如く二人ともそんな勧告を聞き入れる気は毛頭無い様子である。
「サニーがいけないのよ!」
ルナチャイルドが声を荒げる。
「皿洗いが雑だって前から言い続けてるのに! 全然改善しないし、指摘すると怒るし!」
家事の手抜きを指摘されたサニーミルクは、その左右へビヨンと飛び出た金の尾っぽを振り乱して、負けじと奇声を上げる。
「指摘の仕方が毎度毎度気に食わないのよ! いちいちチクチク、ネチネチと陰湿でさぁ! 全く、無音を操るあなたらしい陰湿さね!」
愛くるしい八重歯をちらつかせながら吐き出されたこの辛辣な一言に、ルナチャイルドは増々腹の底を沸き立たせて行く。
「自分の罪を認めない上に返答に困ったら人格を攻撃するなんて! 信じられない! 最低だわ!」
「私はあなたの小言で十分傷付いたもの。これくらいする権利はあるわ!」
「小言を言われない様な家事をすればいいだけのことじゃないの! この役立たず!」
「ルナが厳し過ぎで気にし過ぎなの! どうせ自分は大した仕事してない癖に!」
「私の家事のどこに不備があるって言うのよ!」
髪を引っ張り合いの次は口喧嘩である。喧嘩の原因は二人の会話を見れば一目瞭然であろう。共同生活ではこう言うことが度々起きてしまうものなのだ。大抵は笑って見過ごしてしまえるものなのだが、秋の空と乙女の心とは上手いことを言ったもので、心と言う奴はどうしようも無く気まぐれであり、しかもその心の有り様一つで、同じ愚痴や小言や指摘が、あたかも全く別の言葉であるかの様に聞こえてきてしまう。
今日のこの騒動は久方ぶりの大喧嘩である。当事者ではないスターサファイアからすれば、二人は何をこんなにいきり立っているのだろうと甚だ疑問に思えてくる程の至極ありふれた瑣事なのだ。
宥めても仕方が無いと判断したスターサファイアは、事の成り行きを天に丸投げした。ただ、また取っ組み合いの喧嘩になることだけは阻止する為に、黙って二人を見守り続けた。
十数分が経過した。
幸いにも暴力への発展は無かったものの、サニーミルクもルナチャイルドも完全に臍を曲げてしまい、お互いの顔を見ようともしなくなった。
ルナチャイルドは私室に帰り、内から鍵を掛けて部屋に逼塞してしまった。
対してサニーミルクはリビングルームと定めている部屋の椅子に腰かけ、腕を組んで頬を膨らませている。
「絶対ルナが悪いんだから」
己が罪を認めたくない一心でこんなことをぶつくさ呟いている。
「スターもそう思うでしょ?」
挙句、無関係のスターサファイアに同意を求めた。
「さあ……何とも言えないよ」
なるべくサニーミルクを刺激しない様にスターサファイアはのらりくらりと返事をしてサニーミルクの言葉をかわした。サニーミルクは尚も不服そうに、そこに居座り続けた。
それから一時間程度経過したが、この家屋の中の状態は完全な膠着状態に陥っていた。ルナチャイルドは部屋から出て来ず、サニーミルクは何をするでも無くリビングルームに居座り、険悪な二者を家屋で二人切りにする訳にはいかぬと、スターサファイアも適当に家屋の中で暇を潰していた。
太陽が昇り始め、幻想郷の一日がようやく始まろうとしている時分である。
窓から入り込んできた陽光に、サニーミルクが一瞬顔を顰めた。しかし、その一光によって、サニーミルクはようやく、外出してもいい頃であることを知る。頭に血が昇っていて、時間等と言う概念が完全に脳内からすっ飛んでいた様子である。
「遊びに行こう」
唐突にサニーミルクが言い、椅子を降りた。たまたまリビングルームに居合わせたスターサファイアが些か驚いてサニーミルクを見やる。一日中不貞寝でも決め込むのだろう……等と思っていたからである。もしも自分がこんな大喧嘩を繰り広げた日はそうするだろう――と、スターサファイアは思った。
「どこへ行くの?」
一応、スターサファイアは問うた。
「知らないよ」
やはり未だサニーミルクは虫の居所が悪いらしく、つんけんどんと言い放つ。それ以上言葉を重ねることなく、別段準備もしないまま玄関へ向かって歩み出した。
妖精が外出してやることと言えば、ほぼ間違い無く悪戯である。しかし、冷静さを欠いたままそんなことをしてしまうと、最悪の事態を招きかねない。特にサニーミルクは普段から大胆不敵な悪戯を好んでいるから、機嫌の悪い今日は特にその大胆さが際立ってしまう可能性がある。スターサファイアは、とてつもなく嫌な予感を覚えたので、
「待って、私も行くわ」
こうサニーミルクを呼び止めた。
まさか同行してくれるとは思っていなかったと見える。サニーミルクは些か動揺している。しかし、断る理由は無い。一人よりも二人の方が出来ることの可能性は増して行くことは明白だからである。
「いいよ。行こう」
サニーミルクはやや引き攣った笑顔でスターサファイアを迎えた。
行っていた雑事の片付けを手早く済ませた後、
「ちょっと待ってて」
スターサファイアはサニーミルクにこう言い、足早にルナチャイルドの私室へ向かった。
スターサファイアが、しっかりと錠が掛けられている部屋の扉をコツコツと叩く。
「ルナ。起きている?」
そっと問うたが、返事は無かった。不貞寝でもしているのか、無視しているのか、判然としない。あまりしつこく呼んでも神経を逆撫でするだけだと思い、
「ちょっと出掛けて来るね。サニーも一緒。そんなに遅くはならないと思う。……早く機嫌を直してね」
穏やかな口調でこう告げ、また足早にリビングルームへ戻った。もしもルナチャイルドが起きていなかったら、家屋の中に誰もいないことに慌ててしまうのではないかと危惧したスターサファイアは、メモ帳に先程扉の向こうに捧げた言葉と大体同じ内容の文章を書き、テーブルに置いておいた。
サニーミルクは先に外へ出ている様であった。スターサファイアが玄関を出ると、すぐ横でサニーミルクが待機していた。
「お待たせ」
スターサファイアが言う。
「じゃ、行こうか」
サニーミルクの言葉を合図とし、二人は朝の幻想郷の空へと飛び立った。
サニーミルクがそうであった様に、スターサファイアも別に何処へ行こうと言う計画は一切無かった。だから、行く当ての無い二人は、空を飛びながらどこか面白そうな場所や施設は無いものかと、きょろきょろと地上を見下ろしていた。
しばらくそうやって雲の様に適当に空を飛んでいたのだが、不意にサニーミルクが「あっ」と頓狂な声を上げた。
「どうしたの?」
スターサファイアが問う。サニーミルクは指でどこか遠方を指し示した。
「ほら、あそこ! あの川沿いの、灰色のでっかい家っ!」
大体サニーミルクが指差していると思われる方向へ目をやってみると、なるほど、確かに川沿いに灰色の屋根の馬鹿でかい家屋がある。その建物からもう数百メートル程行った所には集落があるのだが、そのサニーミルクのお眼鏡に適った灰色の建物は、遠目に見ても、そこで群れを成している多くの家屋とはまるで異質であることが分かる。大きさが比べ物にならないくらい大きい。
実際にその建物の真ん前に降り立った二人は、改めてその建物の異質さを痛感する。扉は無骨な鉄製で、果たして非力な妖精が自力で開くことが出来るのが疑問に思えて来る程に大きい。窓はあるが、可愛げも何も無い鉄格子がはめ込んである。壁が灰色なのは上空からでも視認出来ていたが、間近で見ると一層その灰色はいかにも『灰』らしい色をしている。汚れなども目立つが、洗った形跡が見られない。かなり雑な扱いを受けていることが分かる。
「何なんだろう、この建物」
好奇心と恐怖心に満ちたサニーミルクの声色。スターサファイアも皆目見当がつかないので「さあ」と言う他無かった。
次の瞬間、サニーミルクが大きな扉に挑みかかった。
「ちょっと、サニー、本当にここに入るの?」
この圧倒的な存在感を誇る建物の威容に、スターサファイアは怖気付いている様子である。気が立っているサニーミルクは、どこか勇猛な声で言い返す。
「当たり前よ。こんな怪しい建物、入らなきゃ妖精が廃るわ!」
「まあ、確かにそんな気はするけど、でも……」
あまりにも下調べがなされていないし、何よりサニーミルクがいつもと異なる精神状態であるが故に、スターサファイアはいつも以上の不安を感じた。しかし、サニーミルクは退く気は無い様子である。重たい鉄の扉を懸命に押し開けている。
「それじゃあ、スターサファイアは来なくていいよ。私は一人で行くから」
――ああ、やはりいつものサニーじゃない!
スターサファイアは些か辟易した。こんな勇猛果敢なサニーミルクを放っておく訳にはいかなかった。監督者としての責務を果たさなくては――妙な義憤に駆られ、スターサファイアもサニーミルクへ同行して、この巨大な建物の中へ入ることを心に決め、鉄製の扉を一緒に押し開けた。
二人で押すと、あっと言う間に扉は開いた。微かな隙間にするりと滑り込んで、そっと扉を閉めた。
建物の中は、意外にも明るかった。窓は所々に多々あれども、小さい上に鉄格子なんてものが設えられているから、陽光の取り入れは少ない。代わりに、天井に何個も供えられた電灯が、広々とした屋内を明るく眩く照らしている。
同時に室内は意外にもうるさかった。音源は一目瞭然である。二人がこの建物に入ったその瞬間から、その視界には大量の機械が幾つも飛び込んで来ていたからだ。大小、新旧、構造も様々であり、どれがどんな役目を果たしているのか、知識の無い闖入者二人にはさっぱり分からなかった。だが、二人とも理解でき、そして全ての機械に共通していることが一つある。それが『うるさい』と言う真実である。
サニーミルクが耳を塞いだ。
「あーっ! 何よこのうるささはっ!」
ただでさえ喧嘩で気が立っていると言うのに、こうも耳触りな空間に入り込んでしまっては、余計にフラストレーションが溜まってしまう。
「ルナがいれば音が消せたのに……」
心底残念そうにスターサファイアが呟いた。……言下に彼女は己が失言に感付いて、ハッと口を手で塞いだのだが、
「え? 何か言った?」
どうやらサニーミルクの耳には届いていなかった様であった。心密かに安堵しつつ、
「本当にうるさいね、って言ったの」
こう誤魔化しておいた。
さて、外から見ても十二分に珍妙であったこの灰色の建物は、中へ入ってみて更にその怪しさを増したと言える。何せ、大自然の中に生きる妖精である二人にとって、この様な油塗れの鉄の塊は無縁の物品だからである。
サニーミルクは騒音に眉を顰めつつ、最寄りの機械へ歩み寄った。きっと彼女も、心のどこかで、ルナチャイルドがいれば静かに探索が出来たのに――と思ってしまったのだろう。喧嘩したばかりの忌々しい者の必要性を感じてしまった自分に若干の嫌悪を覚えてしまい、おまけにこの騒音と来るのだから、サニーミルクの機嫌は加速度的に悪化していく。
見事に噛み合いながら高速で回転する歯車を、サニーミルクはまじまじと見つめていた。その構造は不自然さを感じる程完璧であり、見ていてなかなか楽しいものであったが、やはりこの建物はいかんせんうるさ過ぎて、楽しめるものも楽しめないのであった。
「ああうるさい! 本当にうるさい!」
自分から入った癖にこの言い草である。
「ねえ、もう出ようよ! 仕方無いよ、こんな所にいてもさぁ!」
スターサファイアはこの家屋に踏み入った直後の場所から一歩たりとも動かないで、サニーミルクに提案を投げ掛ける。
「こんな所にいたら耳がおかしくなっちゃうよ!」
スターサファイアが何か言っていることは、サニーミルクも分かっていた。しかし、機械達の喧喧囂囂の大合唱のお陰で、その詳細を聞き取ることは出来なかった。ただ、その表情から、この場所を忌避していると言うことだけは何となく理解出来た。
確かにこの家屋の中は、森の中にある彼女達の住まいとはまるで正反対の場所である。緑は無く、人工物ばかりで、それがギャンギャンと好き勝手喚き立てているのだから。
サニーミルクも、普段ならば探索などしようとも思わないで、こんな所からは撤退していたであろう。だが、今日はその『普段』とは程遠い精神状態である。これ程の不快感を与えられたのに、何の成果も無くすごすごと退散することに、敗走にも似た屈辱を感じた。
だからサニーミルクは、何としてもここで何か大きな手柄を立ててやろうと自棄を起こした。それは、この建物への勝利の証であり、一人寂しく家で留守番しているルナチャイルドを悔しがらせる為の一手であった。故に、退く訳にはいかなかったのだ。
サニーミルクは機械の間隙を縫い、どんどん建物の奥へ奥へと駆けて行く。一刻も早くスターサファイアはここを出たかったのだが、サニーミルクはその気が無い様子であるので、渋々彼女を追って、入口の真ん前を離れた。
すぐにスターサファイアはサニーミルクに追い付いた。サニーミルクは壁際に立ち止まっていたのである。
――外から入口の扉を見る方向で立ち、その扉がある壁を『横の辺』と定めれば、この家屋は横に長い長方形をしている。サニーミルクが立っているのは、その出入り口の扉がある『横の辺』の壁の、向かいの『横の辺』に当たる壁の、左端である。
「何があるの?」
スターサファイアが、サニーミルクの肩越しに、彼女の見ているものを視認する。
それが何なのか、スターサファイアにははっきりと分かる訳では無かったが、スイッチの類であろうと言う漠然とした回答を導き出した。正方形の白色の鉄板に、沢山の細長いスイッチが付いている。それら一つ一つにタグが取り付けられていて、どのスイッチが何を司っているのかが一目で分かる様になっている。……が、二人は機械類の知識が皆無なので、タグを読んでも何が何やらさっぱり分からない。
「これ、スイッチだよね」
確認する様にサニーミルクが言う。スターサファイアは無言ではっきりと頷いて見せた。声でのやり取りは正確な情報交換が行えないかもしれない――と思ったからだ。
スターサファイアの肯定を得て、サニーミルクは自信ありげにニヤリとあくどい笑みを浮かべた。
「どれが何のスイッチかは全然分からないけど、これを弄っていれば、このうるさい機械達は止まってくれるってことだよね?」
サニーミルクのとんでも無い提案――スターサファイアは刹那、返答の言葉さえ失ってしまった。論理的に正しい、倫理的に最低のアイデアである。
「だ、駄目よサニー! 流石にそんなのは駄目! いくら私達が妖精で、悪戯が仕事って言っても、そんなのは赦されないわ!」
この悪戯を止める為にとスターサファイアはあれこれと説得を行ったのだが、サニーミルクは全く聞く耳を持たない。自棄酒ならぬ、“自棄悪戯”と言ったところであろうか。とにかく、何か度の過ぎた悪戯の一つでもやってのけてやらねば、サニーミルクは腹の虫が収まらないのである。
「そんな消極的でどうするのよ! 伝説になって後世に名を残せるよ」
「後世って、私達は死なないんだから前後なんて無いでしょ!」
「じゃあ妖精間で英雄になれるよ」
「ならなくていい!」
「じゃあスターは帰ればいいよ。私はやるから」
ツンと言い放ち、サニーミルクはスイッチの群へ手を伸ばす。
スターサファイアはやはり止めなくてはいけないとは思いつつも、しかしあたふたとそれを見守ることしか出来ない。
間誤付いている内に、サニーミルクの人差し指が、スイッチの一つに触れた。彼女が初めに触れたスイッチは、黒色のスイッチが多くあるその中で、唯一銀色で、しかもサイズが段違いに大きい、かなり目立ったものであった。だから、つい手が行ってしまったのだろう。
ぱちん――と、小気味良い音が、やかましく駆動する機械達の絶叫の最中で、可愛らしく鳴る。
次の瞬間、ゴォン――と、遠方から聞こえてきた除夜の鐘の突き損じみたいな音が鳴って、途端に馬鹿に明るかった屋内が真っ暗闇に閉ざされた。機械達も一斉に黙り込んだ。
家屋内に息衝いていた未知なる技術が、一瞬にしても全員眠りに就いてしまったのだ。
まさかスイッチ一つでこの様な大々的な効能が得られるとは、傍観しているばかりであったスターサファイアは勿論、スイッチを実際に操作したサニーミルクでさえ予期していなかった。
「えっ? えっ?」
闇の中でサニーミルクの声が響く。相当狼狽しているのが分かる。
「ちょっとサニー! あなた、何てことしてるのよ!?」
再三記して来た通り、二人は機械類の知識など無い。無いが、自分達がしでかしてしまったことが、何かとてつも無くマズいことなんだと言うことは、現状が痛い程に思い知らせてくれる。耳触りだった機械音は一斉に止まって、今二人の聴覚を支配するのは絶望感漂う静寂である。訪れて間も無い朝よりもずっと明るいのではないかとさえ思わせた照明も、今は一つとして光を発していない。さっきまではどこを見てもうるさい機械が目に入っていたのに、今見えるのは黒色のみである。見知った妖精二人は、互いの顔さえ確認できない様な有様である。無骨な小さな窓から差し込む外界の光がやけに有り難く、そして暖かく思えた。
二人は闃寂の世界の中で微動だにせず、そこに立ち竦んだ。正確に言うと、動く勇気が湧いて来なかったのである。少しでもその場を動いたら、闇に紛れて潜んでいる化け物に手首でも引っ掴まれてそのまま頭から食われるのではないか――そんな妄執に見舞われ、二人は地面に縫い付けられたかの様にその場に立ち竦んでしまっている。
「も、もう一回さっきのスイッチを押した方がいいんじゃ……」
スターサファイアが声を潜めて提案する。
「見えないんだってば!」
半ば怒ったかの様にサニーミルクが言い返す。
二人の短い会話は途切れた。またも闃寂。無音に耳を犯されれば犯される程、まるで胸が孕んだかの様に一杯一杯になって、張り裂けそうな感覚に襲われる。
「逃げなきゃ」
サニーミルクがぽつんとこう漏らした。
次の瞬間、スターサファイアの襟首がむんずと引っ掴まれた。
屋内に俄かに騒々しさが舞い戻ってきた。ただ、今度のそれは、機械達の絶叫の様な無骨で生命力に乏しいものでは無く、闇討ちを受けた少女の悲鳴と言う、生命力に満ちた甲高い声であった。
「この、悪戯妖精め! 何てことしてんだッ!」
見知らぬ少女の声が闇の中に木霊する。スターサファイアは襟首を掴まれたままきゃーきゃーと悲鳴を上げるばかりである。サニーミルクは恐慌に見舞われ、一も二も無く駆け出した。
「このやろ、待て!」
スターサファイアの襟首を掴んでいる少女の声。
「ちょっと、待ってよサニー!」
少女に襟首を掴まれているスターサファイアの声。
両方の声が聞こえていたが、サニーミルクは待つことはしなかった。機械にぶつかったり、投げっ放しの工具を蹴飛ばしたり、機械から伸びる管に足を引っ掛けて転んだり、壁に激突したりしながらも、どうにか唯一無二の出入り口たる鉄の扉へ到達し、自分でも信じ難い程の馬力を発揮して瞬く間に扉を開け、家屋を出て行った。
一人を逃がしてしまったことを、少女は酷く悔やんでいる様子であったが、それでも一人は捕まえられたと言うことで、サニーミルクを深追いすることはしなかった。
スターサファイアを捕まえた少女は、ひっ捕らえた妖精の襟首を掴んで、猫の様に持ちながら、手さぐりでスイッチの場所を探り当て、つい先程、サニーミルクがオフにしたスイッチを再びオンの状態へ戻した。
俄かに屋内は光と轟音に満ちる。
同時にスターサファイアは、自分を捕えた少女の顔を拝むことが出来た。
前髪を綺麗に切り揃えてある、肩まで届くか届かないかくらいの水色の髪。サニーミルクと同じように、左右に『尻尾』が飛び出ているが、彼女の様な跳躍感は無く、ボリューミーでふわふわとしている。
その表情は――当然の如く、怒りに満ちている。
スターサファイアは弁解することさえ出来ず、ただただその顔を見返すことしか出来なかった。
少女は無言のままその場にスターサファイアを降ろし、
「そこに座って」
こう指示した。そこ――と言ったのは、適当な地面である。スターサファイアは素直にその場に正座した。油で汚れ切った固い地面である。散見される小石が脚に食い込んで来て、まるで古来の日本国で行われた拷問の一種であるかの様な働きをしている。表情が苦痛に歪む。
少女は傍らに置いてあったパイプ椅子を引っ張り寄せて、そこに座った。
はあ――と大きな溜め息を吐いた後、凄みの利いた声で言う。
「お前達さぁ。自分がした事の重大性、分かってる?」
スターサファイアは首を横に振った。
「機械に詳しくないのでよく分からないです」
「機械に詳しいとか詳しくないとか、そう言う問題じゃないんだよ」
少女の声色が一層不機嫌になった。
「この機械、見えてるよね?」
「見えてます」
「全部とは言い切れなくても、沢山動いてるのも分かるよね?」
「分かります」
「そんな場所のブレーカー落とすってさ。一体何考えてんのお前達? ……達と言っても、一人は逃がしちゃったけど」
サニーミルクが適当に選出したあのボタンは、この家屋のブレーカーであった様である。だから電気系統の全てが機能停止し、照明は落ち、機械も止まってしまったのであった。
止めたのは私じゃないんだけど――とスターサファイアは心密かに思ったのだが、我ながら「だから何だ」と言う気分になったので、口には出さないでおいた。下手に相手の神経を逆撫でするのは得策ではないと思ったのだ。
「まさかそんな重要なスイッチだとは思わなかったんです」
申し訳程度の弁明をしてみたが、
「重要じゃなけりゃ、何が何だか分からないスイッチを勝手に弄ってもいいと思うの?」
瞬く間に反論されてしまい、押し黙るしか無かった。
一体何から言っていけばいいのか――と言った様子で少女は暫く沈思した後、
「お前、名前は」
少女が短く問うた。
「スターサファイアと言います」
スターサファイアが言う。その瞬間、少女は目を細めた。
「お前、さっき逃げた子をサニーとかそんな風に呼んでたよね?」
「はい。呼んでいました」
「……あー、お前達、あれか。三人くらいで一括りにされてる。何だっけ? 陸海空だか月だか星だかよく覚えてないけど、そんな類の。そうか、魔理沙の言ってた件の妖精なんだ」
やかましく鳴り響く機械音の最中に、スターサファイアは見知った魔法使いの名前を聞いて、一瞬安堵した。
「魔理沙さんを知っているんですね」
思わず声を上げたが、少女は何も返事をしなかった。
少女は黙って考え事を始めてしまった。その間も、機械達はうるさく喚き散らしながら稼働し続けている。よくこんなやかましい環境で考え事など出来るものだ――スターサファイアは場違いだが感心を覚えた。スターサファイアの耳は、もう止まぬ轟音にすっかり支配されてしまっている。実生活に影響が出ないか不安な程であった。
「さて、どうしたものかな」
唐突に少女が開口した。俯いたままきゅっと唇を噛み、握り拳を作り、足の痺れと痛み、それから騒音等、いろいろなものと懸命に戦っていたスターサファイアは弾かれる様に顔を上げた。
「私だって鬼じゃァない。河童だからね。お前に贖罪の機会を与えてやろうじゃないか」
やや演技染みた口調である。少女は少しばかり、今のこの説教する状況を楽しんでいる様にも見受けられる。
「ありがとうございます!」
とりあえずスターサファイアは礼を言っておいた。下手に出れば大なり小なり罪が軽くなるのではないか――と思ったのである。
「私は欲しいものがあるんだ。お前にはそれを取って来て貰う。そうしたら今日のことは赦してあげる」
「分かりました。それで、欲しいものと言うのは?」
スターサファイアが問う。
少女はパイプ椅子から身を乗り出して、意地悪そうに――心底意地悪そう笑って、そっとスターサファイアの耳元で一つの単語を囁いた。
その単語を聞き取った瞬間、スターサファイアは全身に電流でも流されたかの様な衝撃を受けてしまった。
*
河童に贖罪の機会を与えられたスターサファイアは、灰色の建物から放り出された。
一体これからどうしたものか――あれこれ思案しつつ、彼女はゆっくり帰路を辿り始めた。一足先に逃げたサニーミルクがどこへ行ったかは見当がつかなかったので探すのを諦めていたのだが、
「スター……」
歩き始めてそう時間が経たぬ内に、傍らから小さな声がした。ハッとスターサファイアは声のした方を見る。その方向には大き目の茂みがあった。そこがガサガサと音を立てて揺れたと思ったら、サニーミルクが飛び出して来た。頭や衣類に付いた葉っぱを厭うこともせず、スターサファイアの手を取る。
「よかった、無事だったのね! ……あの、ごめんね、一人で逃げちゃって」
おずおずとサニーミルクが、単独での逃亡を謝罪した。
「うん。そんなのは、別にいいけど」
そもそも河童にあれ程の説教をされたのも、サニーミルクが重要なスイッチを落としてしまったからなのだから、スターサファイアは本当ならば鬼の様に怒り狂っても良いのであるが、今はそんな気にはなれなかった。自分達に振りかかった、罪を償う為の難題――これをどう解決するかを思案せねばならないのである。
「サニー、聞いて欲しいことがあるの」
「うん?」
「落ち着いて聞いてね。さっき、あの建物の中で捕まった河童に説教されたんだけど……」
「うん」
「あの河童、すごく怒っていたわ。すごくよ。それで、もしも許して欲しいのなら……」
スターサファイアはここで一度言い淀んだが、意を決した様に生唾を飲み込み、言い放った。
「月の子――ルナチャイルドを寄越せって言われちゃった」
刹那、サニーミルクは全身の血が凍り付いたかの様な衝撃を覚えた。
「ルナを引き渡せって!?」
サニーミルクは頓狂な声を上げる。スターサファイアは薄ら涙を目に浮かべてに頷いて見せた。
まさか自分の些細な――つもりであった――悪戯が、仲間を売って賠償せねばならない程の大事に発展してしまうとは、サニーミルクも全く予期していなかった。まるで水遊びを終えた子どもの様に唇を青く、顔を白くし、カタカタと微震する手で口を抑えた。
「で、でも、どうしてルナが? ルナはあの場にいなかったじゃない!」
「あの河童、魔理沙さんと知り合いみたいなの。魔理沙さんから私達のこと聞いてたから、ルナのことも何となく知ってたんだよ」
スターサファイアはそう説明したが、しかしサニーミルクは根本的にこの条件に納得が付いていない。
「そもそも、どうしてルナが欲しい訳? 一体何に使うのよ」
「そんなこと知らないよ」
「……あの建物の中でする何かに必要なのかな」
サニーミルクが恐々と呟いた。瞬時に頭の中に、あの場違いに明るくやかましい空間の全貌が想起された。大中小様々雑多な機械が、皆一様に轟音を鳴らして、完璧過ぎる構造の元、変化に乏しいルーティンワークを淡々と熟し続けている――。
あの洗練され切った、一切の無駄を省いた作業工程のどこにルナチャイルドが入り込む余地があると言うのか? ……機械に疎い二人には皆目見当がつかない。故に彼女達の発想は、ルナチャイルドは『機械』ではなく、『材料』として用いられるのではないか……と言う、何とも凄惨な方向へとシフトして行く。そちらを想像するのは至極簡単であった。ただただ、己らの友人たる妖精が駆動する機械に巻き込まれて、何だかよく分からない赤黒い塊へと変貌して行くばかりなのだ。
余りにも恐ろしいので、二者は頭を振って、この酸鼻極まる空想を払い除けた。
会話が途切れた。気まずい沈黙である。こうやって不幸な帰り道を歩んでいるだけで、どんどん自宅は近付いてくる。自宅に到着すれば、ルナチャイルドと対面することとなる。今日の一件をどう説明し、留守番をしていた彼女をどう説得し、全てをどう解決すれば良いのか――そんなことばかり考えていたのだが、結局、何の名案も浮かばない内に自宅に到着してしまっていた。
時刻は丁度昼食の頃であった。
「ただいま」
スターサファイアが覇気の無い声で言いながら玄関扉を開けると、何やら芳しい香りが鼻孔を突いた。
ルナチャイルドが昼食を作っていたのである。やや早めの昼食であった。部屋に逼塞した後、彼女は昼前まで不貞寝していたから、朝食を食べていなかったのである。
「おかえり」
反応したルナチャイルドの声色も決して明るくない。
次いでサニーミルクも家へ入ったのだが、ルナチャイルドの姿を見るや否や、慌ててスターサファイアの背に隠れてしまった。ルナチャイルドはそれを黙って見ているばかりである。謝罪の言葉も、歓迎の言葉も、何も発さない。非常に険悪な雰囲気である。サニーミルクは喧嘩なんてしている場合では無いと言う思いが強いのだが、それを口に出す勇気は無い。ましてや現状の説明など出来る筈も無かった。
サニーミルクが余り己の姿をルナチャイルドに見せたくない様子であったので、スターサファイアは暫くその場に立ち止まってやっていた。
ルナチャイルドは玄関先で立ち止まった二人を睨め付ける様に見ていたが――やがて小さく溜め息を吐いて、
「サニー。あなたはただいまも言えないのね」
こう一喝した。態度も口調もいちいち刺々しい。
全く機嫌が直っていない――帰宅した二人は確信した。
「私、昼ご飯終わったから。二人で何か適当に作って食べてね」
つんけんどんとこう言いながら、使っていた食器を纏める。
「はー。綺麗に洗わなくちゃ。誰かさんが洗い残した分まで綺麗に」
猛毒を吐き出しながら流しへ向かうルナチャイルド。サニーミルクが突っ掛かって来なかったことが意外であった様であるが、面倒臭い諍いが生じなくてよかったと心密かに喜んでいた。
食器を至極丁寧に洗って、乾かす為のスペースに置いた後、またルナチャイルドは自室に閉じ籠ってしまった。
完全なフリースペースとなったリビングルームで、サニーミルクとスターサファイアは、昼食を作ることもしないで、与えられた難題についての協議を始めた。はっきり言って、ルナチャイルドが自室に帰ってくれたのは好都合であった。
二人は向かい合った席に座り、極めて深刻な面持ちで顔を合わせ、この問題への対処を話し合い始めた。
「まず、ルナにこのこと全部説明する?」
こう切り出したのはサニーミルク。スターサファイアは即座に首を横に振って見せた。
「言い聞かせて『ハイ分かりました』で贄になってくれると思う?」
「思わない。思わないけど、何も言わないでいて、いきなりさあ行きなさいって河童に差し出すのは酷過ぎないかしら」
「酷過ぎるけど、仕方が無いわ。だって、事実を知ったらどうお願いしても行ってくれなくなるかも知れないのよ? 私達の言動全てを疑って掛かって、もうこの一件と関係無い話さえ聞いてくれなくなる可能性もある」
「だけど、ほら……最悪死んでも一回休みで復活するし、意外とノリノリで行ってくれるとか、そういうことは」
「あり得ません。復活するからと言って死にに行きたがる妖精はいません」
「そ、そうだね」
余りに軽率な発言だったと、サニーミルクは自戒した。とてつもなく重大かつ非現実的な問題が、彼女の中にそもそも真剣味と言うものを生じさせるのを阻害している様だ。
「河童の怒りを治めることが出来なかったら、この森の存続が危うい。それは即ち妖精の終焉よ。ルナ一人で妖精が助かるなら、そうするしかないじゃない!」
確かにそうだね――森や他の妖精をも巻き込んでいるとくれば、サニーミルクはもはやこう返事するしか無かった。
「逆に、どうすればルナは抵抗無く河童の所へ行ってくれるんだろう」
サニーミルクが疑問を提示する。
「そんなことは何が何でもあり得ないと思うよ」
スターサファイアが即答した。しかしサニーミルクの方はこの一縷の希望にしがみ付きたいらしく、頭を抱えて沈思し始めた。挙句、パッと顔を上げた。
「私達が思っている程、河童はルナに酷いことする気は無いんじゃないかしら! ほら、あの建物の中、すごくうるさかったでしょ。その音消しの為にルナが欲しいだけとか」
一理あるかもね――とスターサファイアは言ったものの、表情は晴れないままだ。
「それなら、確かに機械に掛けられてぐちゃぐちゃになるよりはマシだろうけど、それでも一日中音を消し続けるってかなり過酷な労働環境だよ?」
「そ、それもそうか」
「何日続くか分からないし」
「……それもそうだ」
「永遠に音消しに従事させられるくらいなら、自ら機械に飛び込んで死んだ方がまだマシに思えるわ」
「でも、アットホームで明るい職場かも知れない……」
「そうだったら幸いね。だけど、違ったら私達、河童の集落足を向けて眠れなくなるわよ」
縋り付いた希望の殆どをスターサファイアに淡々と否定されてしまい、結局サニーミルクも閉口するしか無くなってしまった。
議論は早々に暗礁に乗り出した。二人とも沈痛やるかた無い面持ちで口を閉じ、佇んでいた。
暫くしてサニーミルクが開口した。
「とりあえず、ルナにこのことは言わない方向なのね?」
確認する様に言う。
「言わないでおきましょう」
スターサファイアは首を深く縦に振った。陰湿と言うか、姑息と言うか――悪戯の主犯であるサニーミルクはこの決定を受けて、胸が張り裂けてしまいそうな錯覚を、払拭し切ることが出来なかった。どうにかルナを助ける方向へ持って行きたい――その一心で、焦燥に駆られて正常な動作をしていない脳みそを必死に制御し、あれこれ思案した。
「悪戯自体を無かったことにするとか!」
思案の挙句に脳裏を過った考えを、サニーミルクは一字一句違わず口にした。スターサファイアは無言で首を傾げて見せた。サニーミルクはそのまま言葉を紡ぐ。
「河童にこの一件を忘れて貰う――及び諦めて貰うのよ! 河童が忘れれば悪戯も無かったことになって、同時に私の罪も無かったことになって、ルナを差し出す必要も無くなる!」
「どうやってそんなことするの?」
スターサファイアが問う。サニーミルクはほんのちょっとだけ口籠った後、
「妖怪退治を依頼する。霊夢さんに」
やけに自信無さそうに言った。スターサファイアは顔を顰めた。
「『悪戯を隠蔽したいので河童を退治してください』って霊夢さんにお願いするの? そんなこと言ったら寧ろ私達が一コテンパンにされるだけだと思うよ」
「『些細な悪戯に対して不当な罰則を課せられた。誠に遺憾』って言えばちょっとそれっぽくない?」
「『それっぽさ』なんて別に求められてないから。そもそも些細じゃないからこんなことになったんでしょ。万が一――いや、億が一くらいが妥当かな。霊夢さんが河童を退治してくれて、公的に『悪戯は無かった』ってことにして貰えたとしても、河童の私怨は増々膨らんで行くと思うよ。解決になってないどころか、余計面倒なことになりそう」
相変わらずスターサファイアは冷然とサニーミルクの“迷案”を撥ね退けて行く。しかし負けじとサニーミルクも次々代案を挙げて行く。『質より量』と言わんばかりの勢いである。
「霊夢さんじゃなくて魔理沙さんならこの依頼を受けてくれるかも! 何でもしてくれるんだよね? 前だって蔦の異変を快く引き受けてくれたし」
「あの二人は知り合いなのよ? 何が面白くて『妖精達の悪戯を忘れてやってくれ』と河童を退治するのよ」
「じゃあ、退治じゃなくていい。説得して貰うとか」
「無理だと思うよ。あの魔理沙さんだし、事件の根本を覆すって相当な労力が要るし」
「えーと、それじゃあ! 山の上の現人神に頼んでみようよ!」
「行くのが大変過ぎるし、やっぱり私事に対して動いてくれる程暇じゃないだろうし」
「……寺の大魔法使いなら?」
「あの人は霊夢さん達とはちょっとタイプが違うよ。積極的に動いてくれる人じゃないわ」
「うう……あっ、そうだ!」
「アリスさんは今まで会って来た様子から考えると、どうやったって絶対動いてくれない」
「……うん。そうだよね。言うまでも無いわ」
結局、サニーミルクの中に芽生えた遍く代替案は呆気無く白旗を揚げてしまった。サニーミルクは燃え尽きた様に椅子の背凭れにだらんと背を預けた。溜め息を吐く気力さえ無い様子である。
「サニー。もう『私達は悪くない』って言う方向に持って行くのは諦めよう。無理だよ。紛れも無く私達はあの河童の逆鱗に触れる様な悪戯を仕出かしてしまった。これは認めなくちゃいけない。どうしたって逃れられっこ無いよ。これは、私達の受難なの」
スターサファイアにこう諌められ、サニーミルクは脱力しながら「うん」と小さく返事をした。
「やっぱりルナを河童に引き渡すしか無いのかしら」
沈痛極まる静寂の果てにサニーミルクの寂しげな一言が響き渡る。スターサファイアは黙って頷く他無かった。気休め程度の言葉なら幾らでも掛けてやることは出来るが、それで何かが解決する訳でも無い。現実とは真反対の甘い言葉に塗れたままでは、実際にその時が訪れた時、サニーミルクの心が無事でいられるかどうかまで危うくなる。
励ましの言葉の一つさえ受けることが許されないサニーミルクは頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
「ああ、なんて馬鹿なことをしてしまったんだろう! どうして……何であんなことしちゃったのよ、私は!?」
荒ぶる心を鎮めたいが為の“自棄悪戯”を決行した瞬間の自分を思い出しているのであろう、サニーミルクは後悔の念に塗れた金切り声を上げる。バリバリと頭を掻き毟る姿には狂気さえ認められる。
「スター、どうしてあの河童があの家屋の中にいるって教えてくれなかったのよぅ。分かってればあんなことしなかったかもしれなかったのに!」
次いで始まったのは八つ当たりである。敵は強大でまるで歯が立たないから、いるようでいない様な仲間に怒りと悔いの矛先が向くのは至極当然であると言える。
しかし、矛先の的となった当のスターサファイアは堪ったものではない。
「あんまりうるさかったものだからそこまで頭が回らなかったのよ。そもそもあんな所に誰かいるなんて思わなかったし……。大体、私は帰ろうって打診したんだから!」
「嘘ばっかり! 全然聞こえなかったよ!」
「入口から動こうとしてなかった辺りから察してよ!」
一気に二人の雰囲気が険悪になった。椅子から立ち上がり、テーブルに手を付いてメッと睨み合う。
「ねえ」
直後に上階から声がした。二人はほぼ同時にびくりと肩を震わせてすとんと椅子に座った。
「ルナ? どうしたの?」
微かに上ずった声で上階からの声に反応したのはスターサファイア。サニーミルクは胸に手を当てながら深呼吸して気分を落ち着かせている。仲間割れなんてしている場合じゃなかった――そんな風に自分に言い聞かせている。
「さっきからうるさい」
至極不機嫌そうにルナチャイルドが言う。
「ああ、うん。ごめんね」
スターサファイアはぎこちなく笑って答える。会話の内容は聞かれていなかった様であったのが幸いであった。
再びルナチャイルドは私室へ戻って行った。
共用の空間に静寂が舞い戻って来た。
「私達まで啀み合ってる場合じゃ無いわ」
サニーミルクが小声で言う。スターサファイアは無言で頷いた。
その後、二人は至極落ち着いて――茶や菓子なんかも交えつつ――今日やらかしてしまった大事の、穏便な解決策を模索した。しかし、どれだけ議論を交わしても状況は平行線を描いたまま一向に振幅しなかった。それもその筈、元々解決策なんてものは無いのである。二人はただ、自らの過ちを贖う為、河童が提示した条件に応える他無いのだ。
昼過ぎに始まった議論は、熱を保持しつつも、だらだらと、そして長々と、夕方まで尾を引き続けた。
夕方になる頃、二人は燃え尽きた様な状態となって、テーブルに突っ伏していた。
ルナチャイルドには非常に申し訳無かったが、もう議論を交わす意味さえ見出せなくなっていた。何を言い合ったところで、事態が好転する程の名案の捻出なんて絶対に出来ない。存在しないものは発見出来る筈が無い――丸一日を費やして行った話し合いは、無情にもそんな事実を突き付けて来た。
ふとサニーミルクが顔を上げた。大きな窓から外を見てみると、太陽は既にとっぷりと沈んでいた。もう茜色も殆ど黒ずんでいる。直に夜が訪れる。
「夜逃げ……」
サニーミルクが最後っ屁の様に呟いた。スターサファイアは首を横に振って見せる。今日この動作を何回行ったかも分からない。
「一生続く逃亡生活に幸せなんて無いよ」
「でもルナ一人を不幸にするくらいなら」
「違うわ、サニー。この問題は全ての妖精の死活問題なのよ。私達の我儘で皆を不幸にすることになるのよ」
ああ――サニーミルクは悲劇的な声を上げ、またもどさりとテーブルに突っ伏してしまった。
入れ違いでスターサファイアが顔を上げた。リビングルームの灯りさえ点けていなかったことにようやく気付いた。そっと椅子を降り、灯りを点ける。室内が明るくなった。
「晩御飯の時間だわ」
スターサファイアがぽつんと言う。諦観した様な飄々たる口吻、そして表情。サニーミルクが顔を上げ、台所へ向かうスターサファイアを眺めていたが、
「私も手伝うよ」
感極まった様にこう言って立ち上がり、台所に立つ妖精へ駆け寄った。
「サニーはあんまり料理したこと無かったね」
スターサファイアが言う。サニーミルクは頷いた。
「今日が三人最後の晩御飯かもしれないし」
悲観的な一言。言下にサニーミルクは、ずず――と洟を啜り上げた。
重苦しい雰囲気の中で夕食作りが始まった。サニーミルクは料理に不慣れであったので、スターサファイアに様々な手順を聞く場面がちらほらあったのだが、その最低限の会話以外、二人は口を利こうとしなかった。和気藹々と食事を作る様な心情では無かったのだ。
夕食作りが佳境に差し掛かった頃である。
「明日は私がルナを連れて行くから」
初めてサニーミルクが、料理とは無関係の言葉を紡いだ。それはそれで、ちっとも楽しくも何とも無い、悲しい言葉ではあったのであるが。
特に滞り無く、夕食作りは完了した。サニーミルクは食器を並べ、スターサファイアはルナチャイルドを呼びに私室へ向かう。
扉を叩き、
「ルナ。夕ご飯出来たよ」
努めて底抜けに明るい声で呼ぶ。
中で何やらがさこそと音がした後、ルナチャイルドが姿を見せた。相変わらずの仏頂面であるのだが、微かにそこには躊躇いの色が認められる。機嫌を直しつつある――及び、怒り疲れ始めている様子であった。
「うん。ありがと」
ルナチャイルドは簡素な礼を言った。スターサファイアは小走りに階下へ降りて行く。サニーミルクは配膳を終えていて、一足先に椅子に座って待機していた。
スターサファイアも席に着いたところで、ルナチャイルドがいたくのろのろと階段を降りて来た。
階段を降り切ったところで、気まずそうにサニーミルクを一瞥した。当のサニーミルクは、朝の喧嘩や昼前の惨事、そして明日の使命のことがあるので、一体どんな顔をしてルナチャイルドと接すればいいのかが判然とせず、少し崩れた、困った様な笑みを浮かべることくらいしか出来なかった。
おずおずとルナチャイルドが席に着いた。
「今日はサニーも一緒に作ったのよ」
スターサファイアが言う。
「へえ」
ルナチャイルドは、食卓に並べられた、普段と比べてやや豪華な食事を眺めて、感慨深げに一言。
「それじゃあ、頂きましょう」
スターサファイアが音頭を取って、夕食が始まった。
皆、口数は少なかった。サニーミルクとスターサファイアに関しては、殊更書き連ねる必要は無いであろう。ルナチャイルドはきっと朝の一件で二人とも躊躇しているのだろうと受け取っていた。だからと言って、それを積極的に打開するのは気が引けたから、二人と同じ様に喋ることはせず、黙々と食事をした。
平常時と何ら変わらない速度で食事が食べ尽くされて行く。違うことと言えば三人の心模様くらいのものだ。ただそれだけのことで、こうも食事と言う行為は苦痛になってしまうのか――言葉にはしていないが、三人全員、全く同じことを感じていた。
一食分食事を抜いていたルナチャイルドは相当空腹であった為か、他二名よりも若干早く食事が終わりを迎えた。若干形の歪んだ卵焼きの一切れを箸で摘み上げ――
「ねえ」
――不意に開口した。二人は食事の手を止め、ルナチャイルドを見やる。
「何?」
問うたのはやはりスターサファイアであった。サニーミルクはいそいそと食事に戻る。
「サニーは何を作ったの?」
目線は卵焼きに向いたままだが、言葉は確実にサニーミルクに向けられている。スターサファイアはちらりとサニーミルクの方を見やった。急に言葉を差し向けられたサニーミルクは酷く狼狽していたが、
「それ」
どもりつつ、ルナチャイルドが摘み上げている卵焼きを人差し指で指し示した。
「それ、私が作ったよ。卵焼き」
返答を受けたルナチャイルドは「へえ」と大して抑揚の無い声で言った後、それを口へ放り込んだ。
「何か変だった?」
恐々とサニーミルクが問う。ルナチャイルドは咀嚼しつつ首を横に振った。細かく噛み砕いたそれを飲み込んだ後、
「ううん。美味しい」
素っ気なく答えた。
*
仲直り出来た。――サニーミルクは寝床の中でこう考えた。
結局、ルナチャイルドとは、食事の終わりの間際にたった一言言葉を交わしただけなのだが、それでもあの一言は、二人の関係の修繕の証拠となり得る力を秘めていた。少なくともサニーミルクはこう確信している。
出来たからこそ、サニーミルクは明くる日、朝から非常に陰鬱であった。ルナチャイルドを河童の元へ連れて行く使命の所為だ。
皮肉にも、ルナチャイルドを巻き込んでしまった今回の騒動は、二人の関係修復に一役買っている。あんな大事を仕出かしてしまったからこそ、サニーミルクは冷静になることが出来たのだから。故に、やるせなさは一入であった。
それでも彼女は、ルナチャイルドを約束通り、河童に差し出すことに決めた。これは妖精達の為でもある。サニーミルクの私情で反古に出来る様な生易しいものでは無い。それに、悪いのは自分だから罰を受けねばならないと言う自覚もあった。
サニーミルクは重たい身心でリビングルームへ起き出した。スターサファイアとルナチャイルドは既に起きていた。ルナチャイルドが朝食を準備している。スターサファイアは一足先に着席していた。きっとルナが座らせたんだろう――とサニーミルクは思った。
鴉天狗が作った新聞を面白く無さそうに流し読みしていたスターサファイアの目が、その視界の隅で、階段半ばで立ち止まっているサニーミルクを捉えた。
スターサファイアはハッと息を呑み、サニーミルクの方を見やる。その過敏な反応に気圧された様に、サニーミルクも身体をピクリと微動させる。
二人は揺蕩う様に見つめ合っていたが、
「おはよう、サニー」
スターサファイアが先に開口し、この気まずい邂逅に終止符を打った。
その声に感付いたルナチャイルドがくるりと振り返った。純白のエプロンが、クルクルと巻いている金の髪が、ふわりと揺れる。
階段半ばで固まっているサニーミルクを見て、ルナチャイルドは怪訝な、そしてやや当惑した様な表情を見せたが、
「おはよう」
なるべく心中に生じた違和感を表に出してしまわない様に留意しつつ、サニーミルクに朝の挨拶を投げ掛ける。些細なことでまた関係が壊れてしまうことを、ルナチャイルドは警戒している様子である。
サニーミルクは、何だか涙が溢れそうになったので、
「おはよう。二人とも」
そう言った後、逃げる様に洗面所へ駆けて行った。
起掛けから余りにも挙動不審なサニーミルクに、スターサファイアは何だか胃痛を覚える感じがした。
しかし、ルナチャイルドは彼女の異変をさして気に留めていない様子である。昨日までの出来事を未だにちょっと気に病んでいるのだろう――くらいにしか受け止めていない。
そんな蟠りを解消する為に、洗面所へ消えて行ったサニーミルクに、ふっと小さな笑声を向けた。
「いくら寝癖が凄いからって、あんなに慌てること無いのに」
サニーミルクが自身の物凄い寝癖に気付いたのは、泣きそうになるのを堪えて駆け込んだ洗面所に備え付けてある鏡の前に立った時であった。しかし、そんな寝癖のことなど、今の彼女にとって二の次であった。涙を堰き止めていた緊張は崩壊し、ぱたぱたと涙が溢れて来た。拭っても拭っても、涙は止むことを知らず、サニーミルクの頬を濡らし続けた。
まだ河童がルナに何をするかなんて聞いていない。死んだとしても一回休み――どれ程前向きに考えようとしても、サニーミルクの悲しみを抑えることは出来ない。
それもその筈、彼女はルナチャイルドに『何が起きるか』と言うことよりも、『自分と彼女の間に何が起きるか』を重要視しているからだ。
自分の下らない悪戯の所為でルナチャイルドが罰を受けねばならないと言うこの状況を知った彼女が、自分にどんな言葉を向けるのか、自分にどんな感情を抱くのか――それを考えると、涙を禁じ得ないのだ。十中八九、ルナチャイルドは怒るだろう。無謀な悪戯を決行し、その結果として、現場に居合わせもしなかった自分を巻き込んだ自分を恨むだろう――この事実が溜まらなく悲しかった。
泣き顔のまま食卓に着くこと等出来やしないので、サニーミルクは随分長い時間、洗面所に潜伏していた。寝癖を直す以上に涙を抑えるのに時間が掛かった。
寝癖も泣き顔もどうにかして、やっと洗面所を出ると、丁度朝食の支度が完了した頃合いであった。
「随分長かったね」
出て来たサニーミルクに、ルナチャイルドが気さくに話し掛ける。
「寝癖が凄かったから」
サニーミルクは、精一杯『普段通り』を装って応えた。
朝食はサニーミルクの感ずる所から言うと、あっと言う間に終わってしまった。後片付けを手伝ったのだが、普段よりも念入りに皿を洗ったのに、やはりこれもあっと言う間に終わってしまった。いろんなことが目まぐるしい速度で終わってしまう。刻一刻と、河童とに約束の時間が近づいて来る。
時計の短針が『11』を指し示した。
平凡な鐘の音が午前十一時を告げる。
それに尻を叩かれたかの様に、サニーミルクがふっと椅子から立ち上がった。三人は皆リビングルームにおり、本を読んだり、編み物をしたり、沈思していたりとそれぞれ好き勝手に過ごしていたのだが、急にサニーミルクが立ち上がったものだから、残る二人は読書も編み物も止めて、起立した彼女を見やった。
「どうしたの?」
ルナチャイルドが問う。スターサファイアは人知れず生唾を飲み込んだ。問題の刻が来てしまったんだ――全身に俄かに緊張が奔る。
サニーミルクはそっと椅子をテーブルの方へ押し寄せ、ルナチャイルドの方を真っ直ぐ見やった。
「あのね、ルナ。行きたい場所があるの」
恐々とサニーミルクが開口する。
「行きたい場所? 何処?」
ルナチャイルドが問う。
「それは、ちょっと言えない」
もごもごとサニーミルクが言う。ルナチャイルドは不思議そうに首を傾げたが、
「まあ、別にいいけど」
そう言って読んでいた本を閉じ、テーブルに置くと、椅子を降りた。
「スターも行く?」
何も知らないルナチャイルドは呑気にこんなことを問う。スターサファイアは、まさか自分までも誘われるとは露とも思っておらず、些か狼狽したのだが、
「二人で行きたいの」
サニーミルクがこう口を挟んだのでどうにかルナチャイルドに怪しまれたりすることなく、この窮地を脱することが出来た。
「二人? そうなの」
サニーミルクとは昨日はいがみ合っていた仲である。二人切りになると言うことは、きっとそれと関連したことなのだろうと察した様で、その面持ちには若干の緊張が感じられる。だが、彼女はそれを拒まなかった。
「じゃあ、二人で行こうか。スター、留守番お願いしていい?」
「うん。行ってらっしゃい」
何とか平然を装い、スターサファイアは応答することが出来た。
サニーミルクとルナチャイルドの二人は、簡素な出発の挨拶を遺して、家を出て行った。
二人が出て行って、屋内は完膚無き静寂に包まれた。
編み物などやっていられなくなり、スターサファイアは手にしていた道具一式をテーブルへ放り投げ、どさりとテーブルへ突っ伏した。
*
サニーミルクは黙々と歩を進めていた。ルナチャイルドは、何処へ行くのか具体的に教えられてすら貰えていないが、粛々と先を行く妖精に追従した。何となくサニーミルクからは、余り多くを語りたくないと言いたげな雰囲気が感じ取れたから、あれこれと尋ねるのが憚れてしまうのであった。
しかし、そんな状態でも、どうしても一つだけ問いたいことがあったので、おずおずとルナチャイルドは、背後からサニーミルクに一つの質問を投げ掛けた。
「歩くより飛んだ方が速くない?」
サニーミルクはさっと後ろを振り返って、
「歩きたいから」
早口にこう言って、また前を向き直してしまった。何故歩きたいのか――とまで問うてしまうとしつこい感じがしたので、ルナチャイルドは再び閉口するしか無かった。
歩き始めて数十分が経過して、森を抜けてしまった。大きな河川が二人の目の前を悠々と横断しているのだが、今のサニーミルクにはその光景が何ともおぞましく映ってしまう。この河を辿って上流へ、上流へと歩いて行くと、やがて河童の集落に到着してしまう。集落の場末にある灰色の四角い建物――そここそが全ての元凶たる場所であり、そして全ての終焉を司る場所でもある。長かった苦しい時が、この上ない苦痛によって、その幕を降ろそうとしている。
――サニーミルクの歩みが止まった。
ルナチャイルドはぶつかる寸での所で立ち止まった。
「どうしたの?」
唐突に硬直してしまった友人を訝しんでいる様子である。サニーミルクは即答出来ず、すぅと息を呑んで、
「何でも無いよ」
恐々と決然した様な頼り無い声でこう答え、再び歩み出した。ルナチャイルドはやはり無言でそれを追って歩く。
相変わらず二人は無言であったが、その静けさをせせらぎが絶えず穴埋めした。清水の流れる音が心地よく耳朶に響き続ける。この清流の歌声は、戦々恐々たるサニーミルクには残念ながら大した効果は無かったのだが、ルナチャイルドの心を幾分か癒した様である。彼女は感慨深げにずっと川に目をやっていた。
そうやって暫くの間、各々感ずることは違えども、しかし確実に川沿いで歩を進めて行く内に――遂に二人は河童の集落に到達してしまった。
何処から何処までが集落と明確に線引きされたりしている訳では無いが、今のサニーミルクは不可視の境界を幻視した様な気がした。在りもしない壁に衝突するのを防ぐ様に、またピタリと立ち止まった。ルナチャイルドも、川沿いの道へ到達した時と同じ様に、サニーミルクにぶつかる前に立ち止まった。
喧嘩していたのは昨日の今日のことであったから、あまりサニーミルクとの間に荒波を立てたり、またそれの原因となる様な言動をしたりするのは極力避けようと心掛けていたルナチャイルドであったが、流石に二度もこの様な急停止を仕掛けられは、やや気に障るし、またサニーミルクの挙動に若干の心配を覚えたりもしてしまう。
「もう、急に止まらないでよ」
だから彼女はこの一言を口にした。――この一言でルナチャイルドは、まるで口に宛がっていた蓋が取り外されたかの様に饒舌になった。
「ここが目的地なの? あなたが行きたかった所って、河童の集落だったの? こんな所に何の用なの?」
勢い任せに全ての疑問を口にした。これ程に情報を隠蔽されつつも、よくぞここまで愚直にサニーミルクに従って歩いて来たものである。
サニーミルクは暫く黙っていたが、やがてくるりと後ろを振り返り。
「そう。ここが目的地」
心密かに悲壮な決意を固め、力強く言い放った。
随分と神妙な面持ちと声色で返答が帰って来たものだから、ルナチャイルドは些か動揺したが、
「そう。やっと到着なのね」
とりあえず、いつまで歩くのかさえ知らされていなかったこの長旅が終わりを迎えたことを喜んだ。
「着いて来て」
サニーミルクはそう言って再び歩み出す。ルナチャイルドは一も二も無くそれに従って歩み出した。
最終目的――件の灰色の四角い建物は、集落の場末にある為、あっと言う間に辿り着いてしてしまった。サニーミルクはまじまじと、言い知れぬ威圧感を放つ建物を見上げる。ルナチャイルドも、他の河童達の住居たる建造物とは質も造形もまるで異なるこの建物に圧倒されている様であった。
サニーミルクは大きく深呼吸をした。
そして、呆然と建物を見上げているルナチャイルドの手をパッと握った。急に手を取られたルナチャイルドは酷く狼狽し、そして少し照れ臭さを感じた。
ルナチャイルドはそんな状態なのに、サニーミルクの表情には少しも茶化した様な色が見られない。そんなサニーミルクの顔を見ていると、ルナチャイルドまで、彼女の感じている緊張が伝染してしまうのであった。
ルナチャイルドの――贄の手を取ったまま、サニーミルクは灰色の建物の鉄の扉に手を付けた。
「ねえ、勝手に入って平気なの?」
ルナチャイルドが当たり前のことを問う。その当たり前が、昨日のサニーミルクには分からなかった。分からなかったから、こうして罪を贖うべく、ここへ再来する羽目になったのだ。
――結局、ルナに何の説明も出来ないままここへ来ちゃったな。
後悔の念が脳裏を過ったが、今更どうしようも無かったし、そもそも扉を開けた途端、相変わらずの機械達の騒音が、彼女の陰鬱な思考を瞬く間に打ち砕いてしまったので、それ以上、そのことについての考えは深まらなかった。
扉を開けた時点でルナチャイルドは顔を顰めた。無音を操る彼女は、この手の騒音が大嫌いなのである。
完全に屋内へ立ち入って、その嫌悪感は隠されること無く表情に表れた。
「ちょっと、ここは何? うるさい!」
手を握られていない、自由な方の手の人差し指を耳の穴に突っ込んで、如何にもうるさそうにしながらルナチャイルドが頓狂な声を上げる。
サニーミルクはしっかりとルナチャイルドの手を握ったまま、きょろきょろと左右を見回した挙句、事の始まりの舞台となった、あのスイッチの群がある場所を目指して歩み出した。
「ねえ、ここで何をするの?」
ルナチャイルドはこう問わずにはいられなかった。しかし、サニーミルクは何も答えない。
機械と壁の織り成す急な曲がり角を曲がった瞬間、サニーミルクは胸を木の棒で突かれた様な衝撃を覚えた。
スイッチの群、その周辺の雑然とした机。その傍らには、果たして、昨日の河童の少女がいた。名前は河城にとりと言う。大量の書類と睨み合っているのが遠巻きにも分かった。
サニーミルクの心臓がドクドクと暴れ回り出した。胸を破って、若しくは口から飛び出して、心臓が体内から飛び出して来そうな勢いである。視界に映るごちゃごちゃした機械の輪郭がぐにゃりとひん曲がり、或いは歪に変形し、更には色を失ったり、逆に在り得ない着色が施されたり――とかく、サニーミルクの視界は非現実的な様相を呈し始めた。遠くにいる全体的に青と水色の河童の少女が、まるでパレットに薄く延ばされた青の絵具の様に、唯の色と化し、味気無い建物の壁の中に混ざって行く。
やかましい筈の機械音が、その音を円滑に吐き出す為の油の臭いが、次から次へと遠ざかって、挙句、消えて行く。
ルナチャイルドに触れている筈の自分の手が切り落とされたかの様に触覚を失う。
「ねえ、サニー。あの人こっち来るよ?」
心配そうなルナチャイルドの声で、サニーミルクの視覚、聴覚、嗅覚、感覚が舞い戻って来た。
ハッと我に帰って前を見た時には、河城にとりはもう数メートル先まで歩み寄って来ていた。
「おや? 昨日の妖精の友達か何かかな?」
河城にとりは、何となく見た憶えのある妖精であるサニーミルクを見て頓狂な声を上げる。次いで、全く見覚えの無い妖精のルナチャイルドを一瞥した。その際目が合ったので、
「こんにちは」
ルナチャイルドは律義に挨拶をした。にとりは薄く笑んで、
「うん。こんにちは」
と返事をした。
サニーミルクは何も言うことが出来ず、ボーっと二人のやり取りを眺めていたのだが、
「さて、妖精よ」
にとりがこう切り出したので、ぴくりと体を震わせ、ピンと背筋を伸ばした。ルナチャイルドの手を握る手にぐっと力が籠る。とてつもない手汗の量である。――ルナチャイルドは心密かに不快感を覚えている。
「約束のものを持って来てくれたんだね?」
サニーミルクは恐々とにとりの顔を見上げ、
「はい」
と小さく答えた。機械の音がうるさいので、聞こえていたかどうか心配であったが、
「そっか。それじゃあ、早速」
にとりが手を差し出した。
再びサニーミルクに、あの非現実の世界が舞い戻って来た。何もかもが歪み、何も聞こえず、何も香らず、何も感じない、あの世界が。幼子の落書きで囲繞されている水中を漂っている様な感覚に襲われる。
「どうしたんだよ」
にとりの声。まるでそれに押されたかの様に、サニーミルクは、友に触れている手をぐっと前方へ伸ばした。
「――どうぞ」
急に手を思い切り引かれたものだから、ルナチャイルドは危うく転びそうになったが、どうにか堪えた。サニーミルクと河城にとりの間に、何も知らないルナチャイルドが立たされた。しかしそうなっても、当然のことながら、やはり彼女は自分がどんな状況に置かれているのかが理解出来ない様で、目をパチクリさせて、青ざめているサニーミルクと、無言で二人を見やっている見知らぬ河童を見比べる。
――一体何がどうなっているの?
この際河童でもいいから状況説明をしてはくれないものかと懇願する様な眼差しを河童へ送ってみたのだが、
「ごめん、ルナッ!」
不意に後ろからサニーミルクが奇声染みた声で謝罪して来たものだから、驚いてそちらに目をやった。
「ご、ごめんって? は? ……あっ、ああ。いや、いいのよ、別に。私も悪かったから。ね?」
ルナチャイルドは昨日の喧嘩のことについて謝罪されていると勘違いしている。余りに唐突な謝罪であるし、何よりそれだけのことをこんな遠くてうるさい所まで赴いて、見知らぬ河童の目の前でやる意味が寸分も理解出来なかったから、返答らしい返答が出来なかった。
「違うの、ルナ。今日は、私は――」
何も知らないルナチャイルドに、この期に及んでやっとサニーミルクは真実を語ろうとして開口したのだが、
「あの、すいません。これってどう言うことなんですか?」
些か声が小さ過ぎた様でルナチャイルドには全然聞こえていない。現に彼女は河童に状況説明を乞うている。サニーミルクと面識があると思い込んでいるのだ。
河城にとりは彼女の疑問には答えず、サニーミルクとルナチャイルドを見比べていたが、
「なるほどねぇ」
やがてこう切り出した。
「これがお前達の『誠意』と言う訳だ」
にとりの声は妙に低く、機械音とは交わらず、やけにこの場で通った。
贄となる友人に対して現状を説明するタイミングを逸してしまったサニーミルクは、再び開口することも憚れてしまい、ぎゅっと口も目も閉じてしまった。目尻からはぽろぽろと涙が零れている。結局言えないまま終わってしまうんだ――自身の愚図さが堪らなく嫌になった。
ルナチャイルドは、ただただ狼狽し、河童と友人を交互に見比べている。
にとりは暫く黙っていたのだが――不意にぽんとサニーミルクの肩に手を置いた。サニーミルクがびくりと身体を震わせる。
河童の口から漏れて出たのは――濃厚な失望の色を湛えた溜め息。
「お前は、私を馬鹿にしているのか?」
――その瞬間、サニーミルクは全身の力がするりと抜けて行く様な感じに襲われた。
あれ程の時間議論し、死を遥かに凌駕する苦悩と戦いながら友人をこの場所へ誘い、後悔に塗れつつもとにかく全てが終わった。その挙句に掛けられた言葉が『馬鹿にしているのか?』
サニーミルクは恐々と、にとりを見やった。
「え、だって、あなたが言ったんでしょう? ルナを渡さないと、絶対赦さないって……」
にとりは心底当惑した様に眉を顰めた。
「ルナ? ……ああ、この子のこと? ルナって言うの? 昨日は来てなかったよね?」
そう言い、未だ現状の把握が出来ていないルナチャイルドを見やった。
にとりの言う通り、何も知らないし、こんな所へ来たことも無いルナチャイルドは、とりあえずぺこりと頭を下げ、
「ルナチャイルドと申します。昨日はここへは来てません」
軽い自己紹介をしておいた。
「だよね。見覚え無いし」
にとりは自分の記憶力の正常さが確認出来たことに安心した様に息を吐いて、次いでまたサニーミルクに厳しい目線を向ける。
「それで? 何でお前はこの子を私に差し出そうとしてるの? この子がどんな妖精かは知らないけど、はっきり言って全然欲しくないんだけど」
確かに自分を売る気など毛頭無いが、全然欲しくないと目の前で言われるのは余り快いものでは無いなと、ルナチャイルドは眉を顰めた。
この言葉を受けて、遂にサニーミルクまで当惑してしまった。この場にいる誰もが、現状を上手く把握し切れていない。
「だ、だって! スターがルナを――月の子、ルナチャイルドを差し出せって言われたって!」
しどろもどろしながらこう言うと、にとりは目を点にしてサニーミルクを見やっていたが、
「月の子……ルナチャイルド……?」
暫く譫言の様にこの二語を口にしたと思ったら、突然呵々と笑い始めた。腹まで抱えて笑っている。サニーミルクはもう何が何やら分からず、笑い転げる河童を呆然と見やるしか無い。
一頻り笑った後、にとりは目尻に薄ら浮かんだ涙を人差し指で拭い、言い聞かせ始めた。
「あのねえ、よくお聞き、妖精」
にとりの声色がいつに無く優しい。
「私が頼んだのはね、『月の子』じゃないんだよ。『ツチノコ』なんだ。ツ、チ、ノ、コ」
「は?」
瞬く間にサニーミルクの非現実世界が再来した。映ろう景色がぐにゃぐにゃ歪んで行く。立っているのか浮いているのかさえよく分からなくなって行く。油の臭いも遠のいた。
ただ、河童の声だけは、やけに鮮明に聞こえた。
――昨日も機械がうるさかったから、きっとあの黒髪の子が聞き間違えたんだね。
――魔理沙が珍しい生き物を手に入れたと自慢していたんだ。私も欲しかったんだよ。あれ程珍しい特性を持つ生き物なら、何かに使えるかもしれないし。
――妖精って悪戯のプロフェッショナルでしょ? 人間一人からツチノコ一匹盗み出すくらいなら簡単かなって思ったんだ。
――昨日の悪戯を全く気にしていない訳じゃ無い。だけど、黒髪の子に言ってやった程怒っちゃいないよ。森をぶっ壊すとか、あれは全部嘘。
――本当のことを言うと、やりたいけど許されないんだ。今のこのご時世じゃァね。それくらい分かるもんだと思うのだけど、もしかして本気にしちゃった?
――悪戯の反省のついでにツチノコちょろまかして貰えれば儲けもんだと思ったから、罰って名目で頼んでみただけのことだよ。はっきり言って、ツチノコの約束は愚か、私の所に律義に来ることすら期待して無かった。
――その様子だとツチノコは無理だったみたいだね。……ああ、トライすらしてないか。いいよ、気にしなくて。
――あ、もしかしてずっと月の子……ルナチャイルドだっけ。その子を私に差し出さなきゃって恐々としてたの? どうすれば助けられるかとか、本気で考えちゃった? あはは! いい話のタネが手に入った。ありがとさん。
――私も、他の河童の連中も、そんなに怒っちゃいないから安心して。さあ、もうお帰り。あの黒髪の妖精の聞き間違いを思い切り笑ってやりな。
*
スターサファイアは、高級な茶葉を惜しみなく使用して作ったミルクティーを、静謐な我が家で優雅に楽しんでいる。傍らには上等なクッキーの詰まった缶も置いてある。
ちらりと時計を見やる。やや遅いティータイムであるが、そんなことはどうでもよかった。
「そろそろサニーも真実を知った頃かしら?」
自分のでっち上げた話を本気で信じ込んで、顔を白黒させていたサニーミルクを思い出し、思わずスターサファイアは笑みを零してしまった。危うく高級ミルクティーまで零してしまうところであった。
スターサファイアは昨日、あの灰色の建物の中で河城にとりに捕まって説教された時に言われた『ツチノコ』を、少しも間違うこと無く聞き取っていた。
だが、スターサファイアは河童の説教なんて全く気にしていなかったのだ。根っから反省する気など皆無だったのである。悪戯を幇助した訳でも無ければ、実行したと言うことも無いから、罪の意識が著しく薄かったのが原因だ。
説教を聞き流している最中につまらない考え事に耽っていたら、ふと『ツチノコ』と『つきのこ』がひどく似ていたことに気付いたので、面白半分で壮大な『サニーとルナの仲直り大作戦』を決行してみたのである。無謀な“自棄悪戯”を強行し、そのとばっちりを喰らう切っ掛けを作ったサニーミルクへの報復の意も兼ね備えている。
森林を破壊する云々は本当に言われたことであるが、水と言う大いなる自然と共生する河童が、自然を躊躇無く破壊してやる……等と言う筈が無いのである。こんなこと少し考えてみれば分かることである。ただサニーミルクは、悪戯を実行した張本人であるから、スターサファイアと比べて幾らか大きく気持ちが動揺していた上に、伝聞される形で河童の考えを聞いてしまったから、冷静な判断が出来なかったのである。
妖精だからと言って、あの河童は少々私を見くびっていたわ――少しそれが不快であったが、何にせよ、喧嘩していた二人はこの一件を介して仲を直すことが出来た。ルナチャイルドに関してはもう夜の頃には怒り疲れていた様子であったが、サニーミルクはいつまで根に持つか分からないから、こう言う強硬な手段でスパッと怨恨の根を絶ってしまった方が懸命だとスターサファイアは思っている。
加えて、二人の放つ険悪な雰囲気の中で居た堪れない気持ちに苛まれていた分を、こうして静かな空間を一人占めすることで取り返すことも出来た。
下らない喧嘩で第三者を不愉快にした代償にしては安いモンよね――スターサファイアはそう結論付け、意気揚々と高級なクッキーの缶を開いた。
サニーが私に何か言って来るかもしれないけれど、私は大人の対応で事無きを得てみせるわ――こんな決意を固め、さて、帰って来たらあの子はどんな呪詛を私に吐いて来るかしら――などとあれこれシミュレートしつつ、スターサファイアは一枚目のクッキーを齧った。
「機械の音の所為で、河童の声の受け取りが難かったのよ」
とりあえず、言い訳の一つが決まった。
――普段通りであれば、この説明に何ら語弊は無いのだが、本日の朝はやや様子が違う。妖怪は朝を慄いて眠りに就き、野生動物の類はまだ目覚めぬ時分である、朝の早い頃、この樹木に抱かれた家屋の中は、きぃきぃと甲高くやかましい喧騒に包まれていた。森の情緒たる静けさ等何処へやら、聞いている者の精神状態を著しく害する、あまり幸福な響きの無い騒々しさである。
家屋の中で、二人の妖精が取っ組み合いの喧嘩を演じていた。二者とも美しい金色の髪を持つ幼い妖精である。一方の者は肩の辺りまで伸びた髪を、巻貝の様にくるくると巻いている。もう一方の者は、前者程髪は長くなく、左右に尻尾の如く束ねた髪を飛び出させている。
お互いにまるで意思疎通しているかの様に互いの髪を引っ張り合っている。腕力に乏しく、人体の急所やら痛点に関する知識が無い妖精達にとって、髪とは手っ取り早く相手に痛手を与えることが出来る便利な部位なのである。
目尻に涙を溜めながら髪を引っ張り合う二人の姿は、その幼さ故にやや微笑ましささえ感じることも可能であろうが、しかし二者とも遠慮も加減も躊躇も知らず、ただただ、目の前の腹立たしい同居人を何とか屈服させようと必死なのである。先に痛いと言ったら負け――そんな暗黙の勝敗決定要因の元で繰り広げられる、己が威信を賭けたこの根競べは、かれこれもう三分間程続いている。
「もう止めなよ、二人ともっ!」
この可愛らしい激戦に参加していない黒い長髪の妖精が悲鳴にも似た声を上げる。この激闘の三分間の中で再三同じことを言い続けて来たのだが、終戦の兆しは全く見えて来ない。相変わらず戦いに明け暮れる二者は退くことを知らぬかの様に、相手の髪を引っ張り続けている。
傍観するに堪えなくなった長い黒髪の妖精――スターサファイアは、無理矢理二人を引き剥がした。強引な仲介者のお陰で表面上の終戦を迎えた訳であるが、争っていた金髪の妖精二名の心は戦火の余韻でぼうぼうと燃え滾ったままである。まだ戦いは終わっていないのだ。――しかし、髪の引っ張り合いと言う争いは余りにも過酷であった為、スターサファイアが無理矢理終わりに導いてくれたことに、二者とも心密かに些かの感謝を覚えている。
「サニーもルナも、そんなに怒らないで!」
“尻尾”の方であるサニーミルクと、“巻貝”の方であるルナチャイルド――二方の妖精にスターサファイアが落ち着けと勧告するのだが、当然の如く二人ともそんな勧告を聞き入れる気は毛頭無い様子である。
「サニーがいけないのよ!」
ルナチャイルドが声を荒げる。
「皿洗いが雑だって前から言い続けてるのに! 全然改善しないし、指摘すると怒るし!」
家事の手抜きを指摘されたサニーミルクは、その左右へビヨンと飛び出た金の尾っぽを振り乱して、負けじと奇声を上げる。
「指摘の仕方が毎度毎度気に食わないのよ! いちいちチクチク、ネチネチと陰湿でさぁ! 全く、無音を操るあなたらしい陰湿さね!」
愛くるしい八重歯をちらつかせながら吐き出されたこの辛辣な一言に、ルナチャイルドは増々腹の底を沸き立たせて行く。
「自分の罪を認めない上に返答に困ったら人格を攻撃するなんて! 信じられない! 最低だわ!」
「私はあなたの小言で十分傷付いたもの。これくらいする権利はあるわ!」
「小言を言われない様な家事をすればいいだけのことじゃないの! この役立たず!」
「ルナが厳し過ぎで気にし過ぎなの! どうせ自分は大した仕事してない癖に!」
「私の家事のどこに不備があるって言うのよ!」
髪を引っ張り合いの次は口喧嘩である。喧嘩の原因は二人の会話を見れば一目瞭然であろう。共同生活ではこう言うことが度々起きてしまうものなのだ。大抵は笑って見過ごしてしまえるものなのだが、秋の空と乙女の心とは上手いことを言ったもので、心と言う奴はどうしようも無く気まぐれであり、しかもその心の有り様一つで、同じ愚痴や小言や指摘が、あたかも全く別の言葉であるかの様に聞こえてきてしまう。
今日のこの騒動は久方ぶりの大喧嘩である。当事者ではないスターサファイアからすれば、二人は何をこんなにいきり立っているのだろうと甚だ疑問に思えてくる程の至極ありふれた瑣事なのだ。
宥めても仕方が無いと判断したスターサファイアは、事の成り行きを天に丸投げした。ただ、また取っ組み合いの喧嘩になることだけは阻止する為に、黙って二人を見守り続けた。
十数分が経過した。
幸いにも暴力への発展は無かったものの、サニーミルクもルナチャイルドも完全に臍を曲げてしまい、お互いの顔を見ようともしなくなった。
ルナチャイルドは私室に帰り、内から鍵を掛けて部屋に逼塞してしまった。
対してサニーミルクはリビングルームと定めている部屋の椅子に腰かけ、腕を組んで頬を膨らませている。
「絶対ルナが悪いんだから」
己が罪を認めたくない一心でこんなことをぶつくさ呟いている。
「スターもそう思うでしょ?」
挙句、無関係のスターサファイアに同意を求めた。
「さあ……何とも言えないよ」
なるべくサニーミルクを刺激しない様にスターサファイアはのらりくらりと返事をしてサニーミルクの言葉をかわした。サニーミルクは尚も不服そうに、そこに居座り続けた。
それから一時間程度経過したが、この家屋の中の状態は完全な膠着状態に陥っていた。ルナチャイルドは部屋から出て来ず、サニーミルクは何をするでも無くリビングルームに居座り、険悪な二者を家屋で二人切りにする訳にはいかぬと、スターサファイアも適当に家屋の中で暇を潰していた。
太陽が昇り始め、幻想郷の一日がようやく始まろうとしている時分である。
窓から入り込んできた陽光に、サニーミルクが一瞬顔を顰めた。しかし、その一光によって、サニーミルクはようやく、外出してもいい頃であることを知る。頭に血が昇っていて、時間等と言う概念が完全に脳内からすっ飛んでいた様子である。
「遊びに行こう」
唐突にサニーミルクが言い、椅子を降りた。たまたまリビングルームに居合わせたスターサファイアが些か驚いてサニーミルクを見やる。一日中不貞寝でも決め込むのだろう……等と思っていたからである。もしも自分がこんな大喧嘩を繰り広げた日はそうするだろう――と、スターサファイアは思った。
「どこへ行くの?」
一応、スターサファイアは問うた。
「知らないよ」
やはり未だサニーミルクは虫の居所が悪いらしく、つんけんどんと言い放つ。それ以上言葉を重ねることなく、別段準備もしないまま玄関へ向かって歩み出した。
妖精が外出してやることと言えば、ほぼ間違い無く悪戯である。しかし、冷静さを欠いたままそんなことをしてしまうと、最悪の事態を招きかねない。特にサニーミルクは普段から大胆不敵な悪戯を好んでいるから、機嫌の悪い今日は特にその大胆さが際立ってしまう可能性がある。スターサファイアは、とてつもなく嫌な予感を覚えたので、
「待って、私も行くわ」
こうサニーミルクを呼び止めた。
まさか同行してくれるとは思っていなかったと見える。サニーミルクは些か動揺している。しかし、断る理由は無い。一人よりも二人の方が出来ることの可能性は増して行くことは明白だからである。
「いいよ。行こう」
サニーミルクはやや引き攣った笑顔でスターサファイアを迎えた。
行っていた雑事の片付けを手早く済ませた後、
「ちょっと待ってて」
スターサファイアはサニーミルクにこう言い、足早にルナチャイルドの私室へ向かった。
スターサファイアが、しっかりと錠が掛けられている部屋の扉をコツコツと叩く。
「ルナ。起きている?」
そっと問うたが、返事は無かった。不貞寝でもしているのか、無視しているのか、判然としない。あまりしつこく呼んでも神経を逆撫でするだけだと思い、
「ちょっと出掛けて来るね。サニーも一緒。そんなに遅くはならないと思う。……早く機嫌を直してね」
穏やかな口調でこう告げ、また足早にリビングルームへ戻った。もしもルナチャイルドが起きていなかったら、家屋の中に誰もいないことに慌ててしまうのではないかと危惧したスターサファイアは、メモ帳に先程扉の向こうに捧げた言葉と大体同じ内容の文章を書き、テーブルに置いておいた。
サニーミルクは先に外へ出ている様であった。スターサファイアが玄関を出ると、すぐ横でサニーミルクが待機していた。
「お待たせ」
スターサファイアが言う。
「じゃ、行こうか」
サニーミルクの言葉を合図とし、二人は朝の幻想郷の空へと飛び立った。
サニーミルクがそうであった様に、スターサファイアも別に何処へ行こうと言う計画は一切無かった。だから、行く当ての無い二人は、空を飛びながらどこか面白そうな場所や施設は無いものかと、きょろきょろと地上を見下ろしていた。
しばらくそうやって雲の様に適当に空を飛んでいたのだが、不意にサニーミルクが「あっ」と頓狂な声を上げた。
「どうしたの?」
スターサファイアが問う。サニーミルクは指でどこか遠方を指し示した。
「ほら、あそこ! あの川沿いの、灰色のでっかい家っ!」
大体サニーミルクが指差していると思われる方向へ目をやってみると、なるほど、確かに川沿いに灰色の屋根の馬鹿でかい家屋がある。その建物からもう数百メートル程行った所には集落があるのだが、そのサニーミルクのお眼鏡に適った灰色の建物は、遠目に見ても、そこで群れを成している多くの家屋とはまるで異質であることが分かる。大きさが比べ物にならないくらい大きい。
実際にその建物の真ん前に降り立った二人は、改めてその建物の異質さを痛感する。扉は無骨な鉄製で、果たして非力な妖精が自力で開くことが出来るのが疑問に思えて来る程に大きい。窓はあるが、可愛げも何も無い鉄格子がはめ込んである。壁が灰色なのは上空からでも視認出来ていたが、間近で見ると一層その灰色はいかにも『灰』らしい色をしている。汚れなども目立つが、洗った形跡が見られない。かなり雑な扱いを受けていることが分かる。
「何なんだろう、この建物」
好奇心と恐怖心に満ちたサニーミルクの声色。スターサファイアも皆目見当がつかないので「さあ」と言う他無かった。
次の瞬間、サニーミルクが大きな扉に挑みかかった。
「ちょっと、サニー、本当にここに入るの?」
この圧倒的な存在感を誇る建物の威容に、スターサファイアは怖気付いている様子である。気が立っているサニーミルクは、どこか勇猛な声で言い返す。
「当たり前よ。こんな怪しい建物、入らなきゃ妖精が廃るわ!」
「まあ、確かにそんな気はするけど、でも……」
あまりにも下調べがなされていないし、何よりサニーミルクがいつもと異なる精神状態であるが故に、スターサファイアはいつも以上の不安を感じた。しかし、サニーミルクは退く気は無い様子である。重たい鉄の扉を懸命に押し開けている。
「それじゃあ、スターサファイアは来なくていいよ。私は一人で行くから」
――ああ、やはりいつものサニーじゃない!
スターサファイアは些か辟易した。こんな勇猛果敢なサニーミルクを放っておく訳にはいかなかった。監督者としての責務を果たさなくては――妙な義憤に駆られ、スターサファイアもサニーミルクへ同行して、この巨大な建物の中へ入ることを心に決め、鉄製の扉を一緒に押し開けた。
二人で押すと、あっと言う間に扉は開いた。微かな隙間にするりと滑り込んで、そっと扉を閉めた。
建物の中は、意外にも明るかった。窓は所々に多々あれども、小さい上に鉄格子なんてものが設えられているから、陽光の取り入れは少ない。代わりに、天井に何個も供えられた電灯が、広々とした屋内を明るく眩く照らしている。
同時に室内は意外にもうるさかった。音源は一目瞭然である。二人がこの建物に入ったその瞬間から、その視界には大量の機械が幾つも飛び込んで来ていたからだ。大小、新旧、構造も様々であり、どれがどんな役目を果たしているのか、知識の無い闖入者二人にはさっぱり分からなかった。だが、二人とも理解でき、そして全ての機械に共通していることが一つある。それが『うるさい』と言う真実である。
サニーミルクが耳を塞いだ。
「あーっ! 何よこのうるささはっ!」
ただでさえ喧嘩で気が立っていると言うのに、こうも耳触りな空間に入り込んでしまっては、余計にフラストレーションが溜まってしまう。
「ルナがいれば音が消せたのに……」
心底残念そうにスターサファイアが呟いた。……言下に彼女は己が失言に感付いて、ハッと口を手で塞いだのだが、
「え? 何か言った?」
どうやらサニーミルクの耳には届いていなかった様であった。心密かに安堵しつつ、
「本当にうるさいね、って言ったの」
こう誤魔化しておいた。
さて、外から見ても十二分に珍妙であったこの灰色の建物は、中へ入ってみて更にその怪しさを増したと言える。何せ、大自然の中に生きる妖精である二人にとって、この様な油塗れの鉄の塊は無縁の物品だからである。
サニーミルクは騒音に眉を顰めつつ、最寄りの機械へ歩み寄った。きっと彼女も、心のどこかで、ルナチャイルドがいれば静かに探索が出来たのに――と思ってしまったのだろう。喧嘩したばかりの忌々しい者の必要性を感じてしまった自分に若干の嫌悪を覚えてしまい、おまけにこの騒音と来るのだから、サニーミルクの機嫌は加速度的に悪化していく。
見事に噛み合いながら高速で回転する歯車を、サニーミルクはまじまじと見つめていた。その構造は不自然さを感じる程完璧であり、見ていてなかなか楽しいものであったが、やはりこの建物はいかんせんうるさ過ぎて、楽しめるものも楽しめないのであった。
「ああうるさい! 本当にうるさい!」
自分から入った癖にこの言い草である。
「ねえ、もう出ようよ! 仕方無いよ、こんな所にいてもさぁ!」
スターサファイアはこの家屋に踏み入った直後の場所から一歩たりとも動かないで、サニーミルクに提案を投げ掛ける。
「こんな所にいたら耳がおかしくなっちゃうよ!」
スターサファイアが何か言っていることは、サニーミルクも分かっていた。しかし、機械達の喧喧囂囂の大合唱のお陰で、その詳細を聞き取ることは出来なかった。ただ、その表情から、この場所を忌避していると言うことだけは何となく理解出来た。
確かにこの家屋の中は、森の中にある彼女達の住まいとはまるで正反対の場所である。緑は無く、人工物ばかりで、それがギャンギャンと好き勝手喚き立てているのだから。
サニーミルクも、普段ならば探索などしようとも思わないで、こんな所からは撤退していたであろう。だが、今日はその『普段』とは程遠い精神状態である。これ程の不快感を与えられたのに、何の成果も無くすごすごと退散することに、敗走にも似た屈辱を感じた。
だからサニーミルクは、何としてもここで何か大きな手柄を立ててやろうと自棄を起こした。それは、この建物への勝利の証であり、一人寂しく家で留守番しているルナチャイルドを悔しがらせる為の一手であった。故に、退く訳にはいかなかったのだ。
サニーミルクは機械の間隙を縫い、どんどん建物の奥へ奥へと駆けて行く。一刻も早くスターサファイアはここを出たかったのだが、サニーミルクはその気が無い様子であるので、渋々彼女を追って、入口の真ん前を離れた。
すぐにスターサファイアはサニーミルクに追い付いた。サニーミルクは壁際に立ち止まっていたのである。
――外から入口の扉を見る方向で立ち、その扉がある壁を『横の辺』と定めれば、この家屋は横に長い長方形をしている。サニーミルクが立っているのは、その出入り口の扉がある『横の辺』の壁の、向かいの『横の辺』に当たる壁の、左端である。
「何があるの?」
スターサファイアが、サニーミルクの肩越しに、彼女の見ているものを視認する。
それが何なのか、スターサファイアにははっきりと分かる訳では無かったが、スイッチの類であろうと言う漠然とした回答を導き出した。正方形の白色の鉄板に、沢山の細長いスイッチが付いている。それら一つ一つにタグが取り付けられていて、どのスイッチが何を司っているのかが一目で分かる様になっている。……が、二人は機械類の知識が皆無なので、タグを読んでも何が何やらさっぱり分からない。
「これ、スイッチだよね」
確認する様にサニーミルクが言う。スターサファイアは無言ではっきりと頷いて見せた。声でのやり取りは正確な情報交換が行えないかもしれない――と思ったからだ。
スターサファイアの肯定を得て、サニーミルクは自信ありげにニヤリとあくどい笑みを浮かべた。
「どれが何のスイッチかは全然分からないけど、これを弄っていれば、このうるさい機械達は止まってくれるってことだよね?」
サニーミルクのとんでも無い提案――スターサファイアは刹那、返答の言葉さえ失ってしまった。論理的に正しい、倫理的に最低のアイデアである。
「だ、駄目よサニー! 流石にそんなのは駄目! いくら私達が妖精で、悪戯が仕事って言っても、そんなのは赦されないわ!」
この悪戯を止める為にとスターサファイアはあれこれと説得を行ったのだが、サニーミルクは全く聞く耳を持たない。自棄酒ならぬ、“自棄悪戯”と言ったところであろうか。とにかく、何か度の過ぎた悪戯の一つでもやってのけてやらねば、サニーミルクは腹の虫が収まらないのである。
「そんな消極的でどうするのよ! 伝説になって後世に名を残せるよ」
「後世って、私達は死なないんだから前後なんて無いでしょ!」
「じゃあ妖精間で英雄になれるよ」
「ならなくていい!」
「じゃあスターは帰ればいいよ。私はやるから」
ツンと言い放ち、サニーミルクはスイッチの群へ手を伸ばす。
スターサファイアはやはり止めなくてはいけないとは思いつつも、しかしあたふたとそれを見守ることしか出来ない。
間誤付いている内に、サニーミルクの人差し指が、スイッチの一つに触れた。彼女が初めに触れたスイッチは、黒色のスイッチが多くあるその中で、唯一銀色で、しかもサイズが段違いに大きい、かなり目立ったものであった。だから、つい手が行ってしまったのだろう。
ぱちん――と、小気味良い音が、やかましく駆動する機械達の絶叫の最中で、可愛らしく鳴る。
次の瞬間、ゴォン――と、遠方から聞こえてきた除夜の鐘の突き損じみたいな音が鳴って、途端に馬鹿に明るかった屋内が真っ暗闇に閉ざされた。機械達も一斉に黙り込んだ。
家屋内に息衝いていた未知なる技術が、一瞬にしても全員眠りに就いてしまったのだ。
まさかスイッチ一つでこの様な大々的な効能が得られるとは、傍観しているばかりであったスターサファイアは勿論、スイッチを実際に操作したサニーミルクでさえ予期していなかった。
「えっ? えっ?」
闇の中でサニーミルクの声が響く。相当狼狽しているのが分かる。
「ちょっとサニー! あなた、何てことしてるのよ!?」
再三記して来た通り、二人は機械類の知識など無い。無いが、自分達がしでかしてしまったことが、何かとてつも無くマズいことなんだと言うことは、現状が痛い程に思い知らせてくれる。耳触りだった機械音は一斉に止まって、今二人の聴覚を支配するのは絶望感漂う静寂である。訪れて間も無い朝よりもずっと明るいのではないかとさえ思わせた照明も、今は一つとして光を発していない。さっきまではどこを見てもうるさい機械が目に入っていたのに、今見えるのは黒色のみである。見知った妖精二人は、互いの顔さえ確認できない様な有様である。無骨な小さな窓から差し込む外界の光がやけに有り難く、そして暖かく思えた。
二人は闃寂の世界の中で微動だにせず、そこに立ち竦んだ。正確に言うと、動く勇気が湧いて来なかったのである。少しでもその場を動いたら、闇に紛れて潜んでいる化け物に手首でも引っ掴まれてそのまま頭から食われるのではないか――そんな妄執に見舞われ、二人は地面に縫い付けられたかの様にその場に立ち竦んでしまっている。
「も、もう一回さっきのスイッチを押した方がいいんじゃ……」
スターサファイアが声を潜めて提案する。
「見えないんだってば!」
半ば怒ったかの様にサニーミルクが言い返す。
二人の短い会話は途切れた。またも闃寂。無音に耳を犯されれば犯される程、まるで胸が孕んだかの様に一杯一杯になって、張り裂けそうな感覚に襲われる。
「逃げなきゃ」
サニーミルクがぽつんとこう漏らした。
次の瞬間、スターサファイアの襟首がむんずと引っ掴まれた。
屋内に俄かに騒々しさが舞い戻ってきた。ただ、今度のそれは、機械達の絶叫の様な無骨で生命力に乏しいものでは無く、闇討ちを受けた少女の悲鳴と言う、生命力に満ちた甲高い声であった。
「この、悪戯妖精め! 何てことしてんだッ!」
見知らぬ少女の声が闇の中に木霊する。スターサファイアは襟首を掴まれたままきゃーきゃーと悲鳴を上げるばかりである。サニーミルクは恐慌に見舞われ、一も二も無く駆け出した。
「このやろ、待て!」
スターサファイアの襟首を掴んでいる少女の声。
「ちょっと、待ってよサニー!」
少女に襟首を掴まれているスターサファイアの声。
両方の声が聞こえていたが、サニーミルクは待つことはしなかった。機械にぶつかったり、投げっ放しの工具を蹴飛ばしたり、機械から伸びる管に足を引っ掛けて転んだり、壁に激突したりしながらも、どうにか唯一無二の出入り口たる鉄の扉へ到達し、自分でも信じ難い程の馬力を発揮して瞬く間に扉を開け、家屋を出て行った。
一人を逃がしてしまったことを、少女は酷く悔やんでいる様子であったが、それでも一人は捕まえられたと言うことで、サニーミルクを深追いすることはしなかった。
スターサファイアを捕まえた少女は、ひっ捕らえた妖精の襟首を掴んで、猫の様に持ちながら、手さぐりでスイッチの場所を探り当て、つい先程、サニーミルクがオフにしたスイッチを再びオンの状態へ戻した。
俄かに屋内は光と轟音に満ちる。
同時にスターサファイアは、自分を捕えた少女の顔を拝むことが出来た。
前髪を綺麗に切り揃えてある、肩まで届くか届かないかくらいの水色の髪。サニーミルクと同じように、左右に『尻尾』が飛び出ているが、彼女の様な跳躍感は無く、ボリューミーでふわふわとしている。
その表情は――当然の如く、怒りに満ちている。
スターサファイアは弁解することさえ出来ず、ただただその顔を見返すことしか出来なかった。
少女は無言のままその場にスターサファイアを降ろし、
「そこに座って」
こう指示した。そこ――と言ったのは、適当な地面である。スターサファイアは素直にその場に正座した。油で汚れ切った固い地面である。散見される小石が脚に食い込んで来て、まるで古来の日本国で行われた拷問の一種であるかの様な働きをしている。表情が苦痛に歪む。
少女は傍らに置いてあったパイプ椅子を引っ張り寄せて、そこに座った。
はあ――と大きな溜め息を吐いた後、凄みの利いた声で言う。
「お前達さぁ。自分がした事の重大性、分かってる?」
スターサファイアは首を横に振った。
「機械に詳しくないのでよく分からないです」
「機械に詳しいとか詳しくないとか、そう言う問題じゃないんだよ」
少女の声色が一層不機嫌になった。
「この機械、見えてるよね?」
「見えてます」
「全部とは言い切れなくても、沢山動いてるのも分かるよね?」
「分かります」
「そんな場所のブレーカー落とすってさ。一体何考えてんのお前達? ……達と言っても、一人は逃がしちゃったけど」
サニーミルクが適当に選出したあのボタンは、この家屋のブレーカーであった様である。だから電気系統の全てが機能停止し、照明は落ち、機械も止まってしまったのであった。
止めたのは私じゃないんだけど――とスターサファイアは心密かに思ったのだが、我ながら「だから何だ」と言う気分になったので、口には出さないでおいた。下手に相手の神経を逆撫でするのは得策ではないと思ったのだ。
「まさかそんな重要なスイッチだとは思わなかったんです」
申し訳程度の弁明をしてみたが、
「重要じゃなけりゃ、何が何だか分からないスイッチを勝手に弄ってもいいと思うの?」
瞬く間に反論されてしまい、押し黙るしか無かった。
一体何から言っていけばいいのか――と言った様子で少女は暫く沈思した後、
「お前、名前は」
少女が短く問うた。
「スターサファイアと言います」
スターサファイアが言う。その瞬間、少女は目を細めた。
「お前、さっき逃げた子をサニーとかそんな風に呼んでたよね?」
「はい。呼んでいました」
「……あー、お前達、あれか。三人くらいで一括りにされてる。何だっけ? 陸海空だか月だか星だかよく覚えてないけど、そんな類の。そうか、魔理沙の言ってた件の妖精なんだ」
やかましく鳴り響く機械音の最中に、スターサファイアは見知った魔法使いの名前を聞いて、一瞬安堵した。
「魔理沙さんを知っているんですね」
思わず声を上げたが、少女は何も返事をしなかった。
少女は黙って考え事を始めてしまった。その間も、機械達はうるさく喚き散らしながら稼働し続けている。よくこんなやかましい環境で考え事など出来るものだ――スターサファイアは場違いだが感心を覚えた。スターサファイアの耳は、もう止まぬ轟音にすっかり支配されてしまっている。実生活に影響が出ないか不安な程であった。
「さて、どうしたものかな」
唐突に少女が開口した。俯いたままきゅっと唇を噛み、握り拳を作り、足の痺れと痛み、それから騒音等、いろいろなものと懸命に戦っていたスターサファイアは弾かれる様に顔を上げた。
「私だって鬼じゃァない。河童だからね。お前に贖罪の機会を与えてやろうじゃないか」
やや演技染みた口調である。少女は少しばかり、今のこの説教する状況を楽しんでいる様にも見受けられる。
「ありがとうございます!」
とりあえずスターサファイアは礼を言っておいた。下手に出れば大なり小なり罪が軽くなるのではないか――と思ったのである。
「私は欲しいものがあるんだ。お前にはそれを取って来て貰う。そうしたら今日のことは赦してあげる」
「分かりました。それで、欲しいものと言うのは?」
スターサファイアが問う。
少女はパイプ椅子から身を乗り出して、意地悪そうに――心底意地悪そう笑って、そっとスターサファイアの耳元で一つの単語を囁いた。
その単語を聞き取った瞬間、スターサファイアは全身に電流でも流されたかの様な衝撃を受けてしまった。
*
河童に贖罪の機会を与えられたスターサファイアは、灰色の建物から放り出された。
一体これからどうしたものか――あれこれ思案しつつ、彼女はゆっくり帰路を辿り始めた。一足先に逃げたサニーミルクがどこへ行ったかは見当がつかなかったので探すのを諦めていたのだが、
「スター……」
歩き始めてそう時間が経たぬ内に、傍らから小さな声がした。ハッとスターサファイアは声のした方を見る。その方向には大き目の茂みがあった。そこがガサガサと音を立てて揺れたと思ったら、サニーミルクが飛び出して来た。頭や衣類に付いた葉っぱを厭うこともせず、スターサファイアの手を取る。
「よかった、無事だったのね! ……あの、ごめんね、一人で逃げちゃって」
おずおずとサニーミルクが、単独での逃亡を謝罪した。
「うん。そんなのは、別にいいけど」
そもそも河童にあれ程の説教をされたのも、サニーミルクが重要なスイッチを落としてしまったからなのだから、スターサファイアは本当ならば鬼の様に怒り狂っても良いのであるが、今はそんな気にはなれなかった。自分達に振りかかった、罪を償う為の難題――これをどう解決するかを思案せねばならないのである。
「サニー、聞いて欲しいことがあるの」
「うん?」
「落ち着いて聞いてね。さっき、あの建物の中で捕まった河童に説教されたんだけど……」
「うん」
「あの河童、すごく怒っていたわ。すごくよ。それで、もしも許して欲しいのなら……」
スターサファイアはここで一度言い淀んだが、意を決した様に生唾を飲み込み、言い放った。
「月の子――ルナチャイルドを寄越せって言われちゃった」
刹那、サニーミルクは全身の血が凍り付いたかの様な衝撃を覚えた。
「ルナを引き渡せって!?」
サニーミルクは頓狂な声を上げる。スターサファイアは薄ら涙を目に浮かべてに頷いて見せた。
まさか自分の些細な――つもりであった――悪戯が、仲間を売って賠償せねばならない程の大事に発展してしまうとは、サニーミルクも全く予期していなかった。まるで水遊びを終えた子どもの様に唇を青く、顔を白くし、カタカタと微震する手で口を抑えた。
「で、でも、どうしてルナが? ルナはあの場にいなかったじゃない!」
「あの河童、魔理沙さんと知り合いみたいなの。魔理沙さんから私達のこと聞いてたから、ルナのことも何となく知ってたんだよ」
スターサファイアはそう説明したが、しかしサニーミルクは根本的にこの条件に納得が付いていない。
「そもそも、どうしてルナが欲しい訳? 一体何に使うのよ」
「そんなこと知らないよ」
「……あの建物の中でする何かに必要なのかな」
サニーミルクが恐々と呟いた。瞬時に頭の中に、あの場違いに明るくやかましい空間の全貌が想起された。大中小様々雑多な機械が、皆一様に轟音を鳴らして、完璧過ぎる構造の元、変化に乏しいルーティンワークを淡々と熟し続けている――。
あの洗練され切った、一切の無駄を省いた作業工程のどこにルナチャイルドが入り込む余地があると言うのか? ……機械に疎い二人には皆目見当がつかない。故に彼女達の発想は、ルナチャイルドは『機械』ではなく、『材料』として用いられるのではないか……と言う、何とも凄惨な方向へとシフトして行く。そちらを想像するのは至極簡単であった。ただただ、己らの友人たる妖精が駆動する機械に巻き込まれて、何だかよく分からない赤黒い塊へと変貌して行くばかりなのだ。
余りにも恐ろしいので、二者は頭を振って、この酸鼻極まる空想を払い除けた。
会話が途切れた。気まずい沈黙である。こうやって不幸な帰り道を歩んでいるだけで、どんどん自宅は近付いてくる。自宅に到着すれば、ルナチャイルドと対面することとなる。今日の一件をどう説明し、留守番をしていた彼女をどう説得し、全てをどう解決すれば良いのか――そんなことばかり考えていたのだが、結局、何の名案も浮かばない内に自宅に到着してしまっていた。
時刻は丁度昼食の頃であった。
「ただいま」
スターサファイアが覇気の無い声で言いながら玄関扉を開けると、何やら芳しい香りが鼻孔を突いた。
ルナチャイルドが昼食を作っていたのである。やや早めの昼食であった。部屋に逼塞した後、彼女は昼前まで不貞寝していたから、朝食を食べていなかったのである。
「おかえり」
反応したルナチャイルドの声色も決して明るくない。
次いでサニーミルクも家へ入ったのだが、ルナチャイルドの姿を見るや否や、慌ててスターサファイアの背に隠れてしまった。ルナチャイルドはそれを黙って見ているばかりである。謝罪の言葉も、歓迎の言葉も、何も発さない。非常に険悪な雰囲気である。サニーミルクは喧嘩なんてしている場合では無いと言う思いが強いのだが、それを口に出す勇気は無い。ましてや現状の説明など出来る筈も無かった。
サニーミルクが余り己の姿をルナチャイルドに見せたくない様子であったので、スターサファイアは暫くその場に立ち止まってやっていた。
ルナチャイルドは玄関先で立ち止まった二人を睨め付ける様に見ていたが――やがて小さく溜め息を吐いて、
「サニー。あなたはただいまも言えないのね」
こう一喝した。態度も口調もいちいち刺々しい。
全く機嫌が直っていない――帰宅した二人は確信した。
「私、昼ご飯終わったから。二人で何か適当に作って食べてね」
つんけんどんとこう言いながら、使っていた食器を纏める。
「はー。綺麗に洗わなくちゃ。誰かさんが洗い残した分まで綺麗に」
猛毒を吐き出しながら流しへ向かうルナチャイルド。サニーミルクが突っ掛かって来なかったことが意外であった様であるが、面倒臭い諍いが生じなくてよかったと心密かに喜んでいた。
食器を至極丁寧に洗って、乾かす為のスペースに置いた後、またルナチャイルドは自室に閉じ籠ってしまった。
完全なフリースペースとなったリビングルームで、サニーミルクとスターサファイアは、昼食を作ることもしないで、与えられた難題についての協議を始めた。はっきり言って、ルナチャイルドが自室に帰ってくれたのは好都合であった。
二人は向かい合った席に座り、極めて深刻な面持ちで顔を合わせ、この問題への対処を話し合い始めた。
「まず、ルナにこのこと全部説明する?」
こう切り出したのはサニーミルク。スターサファイアは即座に首を横に振って見せた。
「言い聞かせて『ハイ分かりました』で贄になってくれると思う?」
「思わない。思わないけど、何も言わないでいて、いきなりさあ行きなさいって河童に差し出すのは酷過ぎないかしら」
「酷過ぎるけど、仕方が無いわ。だって、事実を知ったらどうお願いしても行ってくれなくなるかも知れないのよ? 私達の言動全てを疑って掛かって、もうこの一件と関係無い話さえ聞いてくれなくなる可能性もある」
「だけど、ほら……最悪死んでも一回休みで復活するし、意外とノリノリで行ってくれるとか、そういうことは」
「あり得ません。復活するからと言って死にに行きたがる妖精はいません」
「そ、そうだね」
余りに軽率な発言だったと、サニーミルクは自戒した。とてつもなく重大かつ非現実的な問題が、彼女の中にそもそも真剣味と言うものを生じさせるのを阻害している様だ。
「河童の怒りを治めることが出来なかったら、この森の存続が危うい。それは即ち妖精の終焉よ。ルナ一人で妖精が助かるなら、そうするしかないじゃない!」
確かにそうだね――森や他の妖精をも巻き込んでいるとくれば、サニーミルクはもはやこう返事するしか無かった。
「逆に、どうすればルナは抵抗無く河童の所へ行ってくれるんだろう」
サニーミルクが疑問を提示する。
「そんなことは何が何でもあり得ないと思うよ」
スターサファイアが即答した。しかしサニーミルクの方はこの一縷の希望にしがみ付きたいらしく、頭を抱えて沈思し始めた。挙句、パッと顔を上げた。
「私達が思っている程、河童はルナに酷いことする気は無いんじゃないかしら! ほら、あの建物の中、すごくうるさかったでしょ。その音消しの為にルナが欲しいだけとか」
一理あるかもね――とスターサファイアは言ったものの、表情は晴れないままだ。
「それなら、確かに機械に掛けられてぐちゃぐちゃになるよりはマシだろうけど、それでも一日中音を消し続けるってかなり過酷な労働環境だよ?」
「そ、それもそうか」
「何日続くか分からないし」
「……それもそうだ」
「永遠に音消しに従事させられるくらいなら、自ら機械に飛び込んで死んだ方がまだマシに思えるわ」
「でも、アットホームで明るい職場かも知れない……」
「そうだったら幸いね。だけど、違ったら私達、河童の集落足を向けて眠れなくなるわよ」
縋り付いた希望の殆どをスターサファイアに淡々と否定されてしまい、結局サニーミルクも閉口するしか無くなってしまった。
議論は早々に暗礁に乗り出した。二人とも沈痛やるかた無い面持ちで口を閉じ、佇んでいた。
暫くしてサニーミルクが開口した。
「とりあえず、ルナにこのことは言わない方向なのね?」
確認する様に言う。
「言わないでおきましょう」
スターサファイアは首を深く縦に振った。陰湿と言うか、姑息と言うか――悪戯の主犯であるサニーミルクはこの決定を受けて、胸が張り裂けてしまいそうな錯覚を、払拭し切ることが出来なかった。どうにかルナを助ける方向へ持って行きたい――その一心で、焦燥に駆られて正常な動作をしていない脳みそを必死に制御し、あれこれ思案した。
「悪戯自体を無かったことにするとか!」
思案の挙句に脳裏を過った考えを、サニーミルクは一字一句違わず口にした。スターサファイアは無言で首を傾げて見せた。サニーミルクはそのまま言葉を紡ぐ。
「河童にこの一件を忘れて貰う――及び諦めて貰うのよ! 河童が忘れれば悪戯も無かったことになって、同時に私の罪も無かったことになって、ルナを差し出す必要も無くなる!」
「どうやってそんなことするの?」
スターサファイアが問う。サニーミルクはほんのちょっとだけ口籠った後、
「妖怪退治を依頼する。霊夢さんに」
やけに自信無さそうに言った。スターサファイアは顔を顰めた。
「『悪戯を隠蔽したいので河童を退治してください』って霊夢さんにお願いするの? そんなこと言ったら寧ろ私達が一コテンパンにされるだけだと思うよ」
「『些細な悪戯に対して不当な罰則を課せられた。誠に遺憾』って言えばちょっとそれっぽくない?」
「『それっぽさ』なんて別に求められてないから。そもそも些細じゃないからこんなことになったんでしょ。万が一――いや、億が一くらいが妥当かな。霊夢さんが河童を退治してくれて、公的に『悪戯は無かった』ってことにして貰えたとしても、河童の私怨は増々膨らんで行くと思うよ。解決になってないどころか、余計面倒なことになりそう」
相変わらずスターサファイアは冷然とサニーミルクの“迷案”を撥ね退けて行く。しかし負けじとサニーミルクも次々代案を挙げて行く。『質より量』と言わんばかりの勢いである。
「霊夢さんじゃなくて魔理沙さんならこの依頼を受けてくれるかも! 何でもしてくれるんだよね? 前だって蔦の異変を快く引き受けてくれたし」
「あの二人は知り合いなのよ? 何が面白くて『妖精達の悪戯を忘れてやってくれ』と河童を退治するのよ」
「じゃあ、退治じゃなくていい。説得して貰うとか」
「無理だと思うよ。あの魔理沙さんだし、事件の根本を覆すって相当な労力が要るし」
「えーと、それじゃあ! 山の上の現人神に頼んでみようよ!」
「行くのが大変過ぎるし、やっぱり私事に対して動いてくれる程暇じゃないだろうし」
「……寺の大魔法使いなら?」
「あの人は霊夢さん達とはちょっとタイプが違うよ。積極的に動いてくれる人じゃないわ」
「うう……あっ、そうだ!」
「アリスさんは今まで会って来た様子から考えると、どうやったって絶対動いてくれない」
「……うん。そうだよね。言うまでも無いわ」
結局、サニーミルクの中に芽生えた遍く代替案は呆気無く白旗を揚げてしまった。サニーミルクは燃え尽きた様に椅子の背凭れにだらんと背を預けた。溜め息を吐く気力さえ無い様子である。
「サニー。もう『私達は悪くない』って言う方向に持って行くのは諦めよう。無理だよ。紛れも無く私達はあの河童の逆鱗に触れる様な悪戯を仕出かしてしまった。これは認めなくちゃいけない。どうしたって逃れられっこ無いよ。これは、私達の受難なの」
スターサファイアにこう諌められ、サニーミルクは脱力しながら「うん」と小さく返事をした。
「やっぱりルナを河童に引き渡すしか無いのかしら」
沈痛極まる静寂の果てにサニーミルクの寂しげな一言が響き渡る。スターサファイアは黙って頷く他無かった。気休め程度の言葉なら幾らでも掛けてやることは出来るが、それで何かが解決する訳でも無い。現実とは真反対の甘い言葉に塗れたままでは、実際にその時が訪れた時、サニーミルクの心が無事でいられるかどうかまで危うくなる。
励ましの言葉の一つさえ受けることが許されないサニーミルクは頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
「ああ、なんて馬鹿なことをしてしまったんだろう! どうして……何であんなことしちゃったのよ、私は!?」
荒ぶる心を鎮めたいが為の“自棄悪戯”を決行した瞬間の自分を思い出しているのであろう、サニーミルクは後悔の念に塗れた金切り声を上げる。バリバリと頭を掻き毟る姿には狂気さえ認められる。
「スター、どうしてあの河童があの家屋の中にいるって教えてくれなかったのよぅ。分かってればあんなことしなかったかもしれなかったのに!」
次いで始まったのは八つ当たりである。敵は強大でまるで歯が立たないから、いるようでいない様な仲間に怒りと悔いの矛先が向くのは至極当然であると言える。
しかし、矛先の的となった当のスターサファイアは堪ったものではない。
「あんまりうるさかったものだからそこまで頭が回らなかったのよ。そもそもあんな所に誰かいるなんて思わなかったし……。大体、私は帰ろうって打診したんだから!」
「嘘ばっかり! 全然聞こえなかったよ!」
「入口から動こうとしてなかった辺りから察してよ!」
一気に二人の雰囲気が険悪になった。椅子から立ち上がり、テーブルに手を付いてメッと睨み合う。
「ねえ」
直後に上階から声がした。二人はほぼ同時にびくりと肩を震わせてすとんと椅子に座った。
「ルナ? どうしたの?」
微かに上ずった声で上階からの声に反応したのはスターサファイア。サニーミルクは胸に手を当てながら深呼吸して気分を落ち着かせている。仲間割れなんてしている場合じゃなかった――そんな風に自分に言い聞かせている。
「さっきからうるさい」
至極不機嫌そうにルナチャイルドが言う。
「ああ、うん。ごめんね」
スターサファイアはぎこちなく笑って答える。会話の内容は聞かれていなかった様であったのが幸いであった。
再びルナチャイルドは私室へ戻って行った。
共用の空間に静寂が舞い戻って来た。
「私達まで啀み合ってる場合じゃ無いわ」
サニーミルクが小声で言う。スターサファイアは無言で頷いた。
その後、二人は至極落ち着いて――茶や菓子なんかも交えつつ――今日やらかしてしまった大事の、穏便な解決策を模索した。しかし、どれだけ議論を交わしても状況は平行線を描いたまま一向に振幅しなかった。それもその筈、元々解決策なんてものは無いのである。二人はただ、自らの過ちを贖う為、河童が提示した条件に応える他無いのだ。
昼過ぎに始まった議論は、熱を保持しつつも、だらだらと、そして長々と、夕方まで尾を引き続けた。
夕方になる頃、二人は燃え尽きた様な状態となって、テーブルに突っ伏していた。
ルナチャイルドには非常に申し訳無かったが、もう議論を交わす意味さえ見出せなくなっていた。何を言い合ったところで、事態が好転する程の名案の捻出なんて絶対に出来ない。存在しないものは発見出来る筈が無い――丸一日を費やして行った話し合いは、無情にもそんな事実を突き付けて来た。
ふとサニーミルクが顔を上げた。大きな窓から外を見てみると、太陽は既にとっぷりと沈んでいた。もう茜色も殆ど黒ずんでいる。直に夜が訪れる。
「夜逃げ……」
サニーミルクが最後っ屁の様に呟いた。スターサファイアは首を横に振って見せる。今日この動作を何回行ったかも分からない。
「一生続く逃亡生活に幸せなんて無いよ」
「でもルナ一人を不幸にするくらいなら」
「違うわ、サニー。この問題は全ての妖精の死活問題なのよ。私達の我儘で皆を不幸にすることになるのよ」
ああ――サニーミルクは悲劇的な声を上げ、またもどさりとテーブルに突っ伏してしまった。
入れ違いでスターサファイアが顔を上げた。リビングルームの灯りさえ点けていなかったことにようやく気付いた。そっと椅子を降り、灯りを点ける。室内が明るくなった。
「晩御飯の時間だわ」
スターサファイアがぽつんと言う。諦観した様な飄々たる口吻、そして表情。サニーミルクが顔を上げ、台所へ向かうスターサファイアを眺めていたが、
「私も手伝うよ」
感極まった様にこう言って立ち上がり、台所に立つ妖精へ駆け寄った。
「サニーはあんまり料理したこと無かったね」
スターサファイアが言う。サニーミルクは頷いた。
「今日が三人最後の晩御飯かもしれないし」
悲観的な一言。言下にサニーミルクは、ずず――と洟を啜り上げた。
重苦しい雰囲気の中で夕食作りが始まった。サニーミルクは料理に不慣れであったので、スターサファイアに様々な手順を聞く場面がちらほらあったのだが、その最低限の会話以外、二人は口を利こうとしなかった。和気藹々と食事を作る様な心情では無かったのだ。
夕食作りが佳境に差し掛かった頃である。
「明日は私がルナを連れて行くから」
初めてサニーミルクが、料理とは無関係の言葉を紡いだ。それはそれで、ちっとも楽しくも何とも無い、悲しい言葉ではあったのであるが。
特に滞り無く、夕食作りは完了した。サニーミルクは食器を並べ、スターサファイアはルナチャイルドを呼びに私室へ向かう。
扉を叩き、
「ルナ。夕ご飯出来たよ」
努めて底抜けに明るい声で呼ぶ。
中で何やらがさこそと音がした後、ルナチャイルドが姿を見せた。相変わらずの仏頂面であるのだが、微かにそこには躊躇いの色が認められる。機嫌を直しつつある――及び、怒り疲れ始めている様子であった。
「うん。ありがと」
ルナチャイルドは簡素な礼を言った。スターサファイアは小走りに階下へ降りて行く。サニーミルクは配膳を終えていて、一足先に椅子に座って待機していた。
スターサファイアも席に着いたところで、ルナチャイルドがいたくのろのろと階段を降りて来た。
階段を降り切ったところで、気まずそうにサニーミルクを一瞥した。当のサニーミルクは、朝の喧嘩や昼前の惨事、そして明日の使命のことがあるので、一体どんな顔をしてルナチャイルドと接すればいいのかが判然とせず、少し崩れた、困った様な笑みを浮かべることくらいしか出来なかった。
おずおずとルナチャイルドが席に着いた。
「今日はサニーも一緒に作ったのよ」
スターサファイアが言う。
「へえ」
ルナチャイルドは、食卓に並べられた、普段と比べてやや豪華な食事を眺めて、感慨深げに一言。
「それじゃあ、頂きましょう」
スターサファイアが音頭を取って、夕食が始まった。
皆、口数は少なかった。サニーミルクとスターサファイアに関しては、殊更書き連ねる必要は無いであろう。ルナチャイルドはきっと朝の一件で二人とも躊躇しているのだろうと受け取っていた。だからと言って、それを積極的に打開するのは気が引けたから、二人と同じ様に喋ることはせず、黙々と食事をした。
平常時と何ら変わらない速度で食事が食べ尽くされて行く。違うことと言えば三人の心模様くらいのものだ。ただそれだけのことで、こうも食事と言う行為は苦痛になってしまうのか――言葉にはしていないが、三人全員、全く同じことを感じていた。
一食分食事を抜いていたルナチャイルドは相当空腹であった為か、他二名よりも若干早く食事が終わりを迎えた。若干形の歪んだ卵焼きの一切れを箸で摘み上げ――
「ねえ」
――不意に開口した。二人は食事の手を止め、ルナチャイルドを見やる。
「何?」
問うたのはやはりスターサファイアであった。サニーミルクはいそいそと食事に戻る。
「サニーは何を作ったの?」
目線は卵焼きに向いたままだが、言葉は確実にサニーミルクに向けられている。スターサファイアはちらりとサニーミルクの方を見やった。急に言葉を差し向けられたサニーミルクは酷く狼狽していたが、
「それ」
どもりつつ、ルナチャイルドが摘み上げている卵焼きを人差し指で指し示した。
「それ、私が作ったよ。卵焼き」
返答を受けたルナチャイルドは「へえ」と大して抑揚の無い声で言った後、それを口へ放り込んだ。
「何か変だった?」
恐々とサニーミルクが問う。ルナチャイルドは咀嚼しつつ首を横に振った。細かく噛み砕いたそれを飲み込んだ後、
「ううん。美味しい」
素っ気なく答えた。
*
仲直り出来た。――サニーミルクは寝床の中でこう考えた。
結局、ルナチャイルドとは、食事の終わりの間際にたった一言言葉を交わしただけなのだが、それでもあの一言は、二人の関係の修繕の証拠となり得る力を秘めていた。少なくともサニーミルクはこう確信している。
出来たからこそ、サニーミルクは明くる日、朝から非常に陰鬱であった。ルナチャイルドを河童の元へ連れて行く使命の所為だ。
皮肉にも、ルナチャイルドを巻き込んでしまった今回の騒動は、二人の関係修復に一役買っている。あんな大事を仕出かしてしまったからこそ、サニーミルクは冷静になることが出来たのだから。故に、やるせなさは一入であった。
それでも彼女は、ルナチャイルドを約束通り、河童に差し出すことに決めた。これは妖精達の為でもある。サニーミルクの私情で反古に出来る様な生易しいものでは無い。それに、悪いのは自分だから罰を受けねばならないと言う自覚もあった。
サニーミルクは重たい身心でリビングルームへ起き出した。スターサファイアとルナチャイルドは既に起きていた。ルナチャイルドが朝食を準備している。スターサファイアは一足先に着席していた。きっとルナが座らせたんだろう――とサニーミルクは思った。
鴉天狗が作った新聞を面白く無さそうに流し読みしていたスターサファイアの目が、その視界の隅で、階段半ばで立ち止まっているサニーミルクを捉えた。
スターサファイアはハッと息を呑み、サニーミルクの方を見やる。その過敏な反応に気圧された様に、サニーミルクも身体をピクリと微動させる。
二人は揺蕩う様に見つめ合っていたが、
「おはよう、サニー」
スターサファイアが先に開口し、この気まずい邂逅に終止符を打った。
その声に感付いたルナチャイルドがくるりと振り返った。純白のエプロンが、クルクルと巻いている金の髪が、ふわりと揺れる。
階段半ばで固まっているサニーミルクを見て、ルナチャイルドは怪訝な、そしてやや当惑した様な表情を見せたが、
「おはよう」
なるべく心中に生じた違和感を表に出してしまわない様に留意しつつ、サニーミルクに朝の挨拶を投げ掛ける。些細なことでまた関係が壊れてしまうことを、ルナチャイルドは警戒している様子である。
サニーミルクは、何だか涙が溢れそうになったので、
「おはよう。二人とも」
そう言った後、逃げる様に洗面所へ駆けて行った。
起掛けから余りにも挙動不審なサニーミルクに、スターサファイアは何だか胃痛を覚える感じがした。
しかし、ルナチャイルドは彼女の異変をさして気に留めていない様子である。昨日までの出来事を未だにちょっと気に病んでいるのだろう――くらいにしか受け止めていない。
そんな蟠りを解消する為に、洗面所へ消えて行ったサニーミルクに、ふっと小さな笑声を向けた。
「いくら寝癖が凄いからって、あんなに慌てること無いのに」
サニーミルクが自身の物凄い寝癖に気付いたのは、泣きそうになるのを堪えて駆け込んだ洗面所に備え付けてある鏡の前に立った時であった。しかし、そんな寝癖のことなど、今の彼女にとって二の次であった。涙を堰き止めていた緊張は崩壊し、ぱたぱたと涙が溢れて来た。拭っても拭っても、涙は止むことを知らず、サニーミルクの頬を濡らし続けた。
まだ河童がルナに何をするかなんて聞いていない。死んだとしても一回休み――どれ程前向きに考えようとしても、サニーミルクの悲しみを抑えることは出来ない。
それもその筈、彼女はルナチャイルドに『何が起きるか』と言うことよりも、『自分と彼女の間に何が起きるか』を重要視しているからだ。
自分の下らない悪戯の所為でルナチャイルドが罰を受けねばならないと言うこの状況を知った彼女が、自分にどんな言葉を向けるのか、自分にどんな感情を抱くのか――それを考えると、涙を禁じ得ないのだ。十中八九、ルナチャイルドは怒るだろう。無謀な悪戯を決行し、その結果として、現場に居合わせもしなかった自分を巻き込んだ自分を恨むだろう――この事実が溜まらなく悲しかった。
泣き顔のまま食卓に着くこと等出来やしないので、サニーミルクは随分長い時間、洗面所に潜伏していた。寝癖を直す以上に涙を抑えるのに時間が掛かった。
寝癖も泣き顔もどうにかして、やっと洗面所を出ると、丁度朝食の支度が完了した頃合いであった。
「随分長かったね」
出て来たサニーミルクに、ルナチャイルドが気さくに話し掛ける。
「寝癖が凄かったから」
サニーミルクは、精一杯『普段通り』を装って応えた。
朝食はサニーミルクの感ずる所から言うと、あっと言う間に終わってしまった。後片付けを手伝ったのだが、普段よりも念入りに皿を洗ったのに、やはりこれもあっと言う間に終わってしまった。いろんなことが目まぐるしい速度で終わってしまう。刻一刻と、河童とに約束の時間が近づいて来る。
時計の短針が『11』を指し示した。
平凡な鐘の音が午前十一時を告げる。
それに尻を叩かれたかの様に、サニーミルクがふっと椅子から立ち上がった。三人は皆リビングルームにおり、本を読んだり、編み物をしたり、沈思していたりとそれぞれ好き勝手に過ごしていたのだが、急にサニーミルクが立ち上がったものだから、残る二人は読書も編み物も止めて、起立した彼女を見やった。
「どうしたの?」
ルナチャイルドが問う。スターサファイアは人知れず生唾を飲み込んだ。問題の刻が来てしまったんだ――全身に俄かに緊張が奔る。
サニーミルクはそっと椅子をテーブルの方へ押し寄せ、ルナチャイルドの方を真っ直ぐ見やった。
「あのね、ルナ。行きたい場所があるの」
恐々とサニーミルクが開口する。
「行きたい場所? 何処?」
ルナチャイルドが問う。
「それは、ちょっと言えない」
もごもごとサニーミルクが言う。ルナチャイルドは不思議そうに首を傾げたが、
「まあ、別にいいけど」
そう言って読んでいた本を閉じ、テーブルに置くと、椅子を降りた。
「スターも行く?」
何も知らないルナチャイルドは呑気にこんなことを問う。スターサファイアは、まさか自分までも誘われるとは露とも思っておらず、些か狼狽したのだが、
「二人で行きたいの」
サニーミルクがこう口を挟んだのでどうにかルナチャイルドに怪しまれたりすることなく、この窮地を脱することが出来た。
「二人? そうなの」
サニーミルクとは昨日はいがみ合っていた仲である。二人切りになると言うことは、きっとそれと関連したことなのだろうと察した様で、その面持ちには若干の緊張が感じられる。だが、彼女はそれを拒まなかった。
「じゃあ、二人で行こうか。スター、留守番お願いしていい?」
「うん。行ってらっしゃい」
何とか平然を装い、スターサファイアは応答することが出来た。
サニーミルクとルナチャイルドの二人は、簡素な出発の挨拶を遺して、家を出て行った。
二人が出て行って、屋内は完膚無き静寂に包まれた。
編み物などやっていられなくなり、スターサファイアは手にしていた道具一式をテーブルへ放り投げ、どさりとテーブルへ突っ伏した。
*
サニーミルクは黙々と歩を進めていた。ルナチャイルドは、何処へ行くのか具体的に教えられてすら貰えていないが、粛々と先を行く妖精に追従した。何となくサニーミルクからは、余り多くを語りたくないと言いたげな雰囲気が感じ取れたから、あれこれと尋ねるのが憚れてしまうのであった。
しかし、そんな状態でも、どうしても一つだけ問いたいことがあったので、おずおずとルナチャイルドは、背後からサニーミルクに一つの質問を投げ掛けた。
「歩くより飛んだ方が速くない?」
サニーミルクはさっと後ろを振り返って、
「歩きたいから」
早口にこう言って、また前を向き直してしまった。何故歩きたいのか――とまで問うてしまうとしつこい感じがしたので、ルナチャイルドは再び閉口するしか無かった。
歩き始めて数十分が経過して、森を抜けてしまった。大きな河川が二人の目の前を悠々と横断しているのだが、今のサニーミルクにはその光景が何ともおぞましく映ってしまう。この河を辿って上流へ、上流へと歩いて行くと、やがて河童の集落に到着してしまう。集落の場末にある灰色の四角い建物――そここそが全ての元凶たる場所であり、そして全ての終焉を司る場所でもある。長かった苦しい時が、この上ない苦痛によって、その幕を降ろそうとしている。
――サニーミルクの歩みが止まった。
ルナチャイルドはぶつかる寸での所で立ち止まった。
「どうしたの?」
唐突に硬直してしまった友人を訝しんでいる様子である。サニーミルクは即答出来ず、すぅと息を呑んで、
「何でも無いよ」
恐々と決然した様な頼り無い声でこう答え、再び歩み出した。ルナチャイルドはやはり無言でそれを追って歩く。
相変わらず二人は無言であったが、その静けさをせせらぎが絶えず穴埋めした。清水の流れる音が心地よく耳朶に響き続ける。この清流の歌声は、戦々恐々たるサニーミルクには残念ながら大した効果は無かったのだが、ルナチャイルドの心を幾分か癒した様である。彼女は感慨深げにずっと川に目をやっていた。
そうやって暫くの間、各々感ずることは違えども、しかし確実に川沿いで歩を進めて行く内に――遂に二人は河童の集落に到達してしまった。
何処から何処までが集落と明確に線引きされたりしている訳では無いが、今のサニーミルクは不可視の境界を幻視した様な気がした。在りもしない壁に衝突するのを防ぐ様に、またピタリと立ち止まった。ルナチャイルドも、川沿いの道へ到達した時と同じ様に、サニーミルクにぶつかる前に立ち止まった。
喧嘩していたのは昨日の今日のことであったから、あまりサニーミルクとの間に荒波を立てたり、またそれの原因となる様な言動をしたりするのは極力避けようと心掛けていたルナチャイルドであったが、流石に二度もこの様な急停止を仕掛けられは、やや気に障るし、またサニーミルクの挙動に若干の心配を覚えたりもしてしまう。
「もう、急に止まらないでよ」
だから彼女はこの一言を口にした。――この一言でルナチャイルドは、まるで口に宛がっていた蓋が取り外されたかの様に饒舌になった。
「ここが目的地なの? あなたが行きたかった所って、河童の集落だったの? こんな所に何の用なの?」
勢い任せに全ての疑問を口にした。これ程に情報を隠蔽されつつも、よくぞここまで愚直にサニーミルクに従って歩いて来たものである。
サニーミルクは暫く黙っていたが、やがてくるりと後ろを振り返り。
「そう。ここが目的地」
心密かに悲壮な決意を固め、力強く言い放った。
随分と神妙な面持ちと声色で返答が帰って来たものだから、ルナチャイルドは些か動揺したが、
「そう。やっと到着なのね」
とりあえず、いつまで歩くのかさえ知らされていなかったこの長旅が終わりを迎えたことを喜んだ。
「着いて来て」
サニーミルクはそう言って再び歩み出す。ルナチャイルドは一も二も無くそれに従って歩み出した。
最終目的――件の灰色の四角い建物は、集落の場末にある為、あっと言う間に辿り着いてしてしまった。サニーミルクはまじまじと、言い知れぬ威圧感を放つ建物を見上げる。ルナチャイルドも、他の河童達の住居たる建造物とは質も造形もまるで異なるこの建物に圧倒されている様であった。
サニーミルクは大きく深呼吸をした。
そして、呆然と建物を見上げているルナチャイルドの手をパッと握った。急に手を取られたルナチャイルドは酷く狼狽し、そして少し照れ臭さを感じた。
ルナチャイルドはそんな状態なのに、サニーミルクの表情には少しも茶化した様な色が見られない。そんなサニーミルクの顔を見ていると、ルナチャイルドまで、彼女の感じている緊張が伝染してしまうのであった。
ルナチャイルドの――贄の手を取ったまま、サニーミルクは灰色の建物の鉄の扉に手を付けた。
「ねえ、勝手に入って平気なの?」
ルナチャイルドが当たり前のことを問う。その当たり前が、昨日のサニーミルクには分からなかった。分からなかったから、こうして罪を贖うべく、ここへ再来する羽目になったのだ。
――結局、ルナに何の説明も出来ないままここへ来ちゃったな。
後悔の念が脳裏を過ったが、今更どうしようも無かったし、そもそも扉を開けた途端、相変わらずの機械達の騒音が、彼女の陰鬱な思考を瞬く間に打ち砕いてしまったので、それ以上、そのことについての考えは深まらなかった。
扉を開けた時点でルナチャイルドは顔を顰めた。無音を操る彼女は、この手の騒音が大嫌いなのである。
完全に屋内へ立ち入って、その嫌悪感は隠されること無く表情に表れた。
「ちょっと、ここは何? うるさい!」
手を握られていない、自由な方の手の人差し指を耳の穴に突っ込んで、如何にもうるさそうにしながらルナチャイルドが頓狂な声を上げる。
サニーミルクはしっかりとルナチャイルドの手を握ったまま、きょろきょろと左右を見回した挙句、事の始まりの舞台となった、あのスイッチの群がある場所を目指して歩み出した。
「ねえ、ここで何をするの?」
ルナチャイルドはこう問わずにはいられなかった。しかし、サニーミルクは何も答えない。
機械と壁の織り成す急な曲がり角を曲がった瞬間、サニーミルクは胸を木の棒で突かれた様な衝撃を覚えた。
スイッチの群、その周辺の雑然とした机。その傍らには、果たして、昨日の河童の少女がいた。名前は河城にとりと言う。大量の書類と睨み合っているのが遠巻きにも分かった。
サニーミルクの心臓がドクドクと暴れ回り出した。胸を破って、若しくは口から飛び出して、心臓が体内から飛び出して来そうな勢いである。視界に映るごちゃごちゃした機械の輪郭がぐにゃりとひん曲がり、或いは歪に変形し、更には色を失ったり、逆に在り得ない着色が施されたり――とかく、サニーミルクの視界は非現実的な様相を呈し始めた。遠くにいる全体的に青と水色の河童の少女が、まるでパレットに薄く延ばされた青の絵具の様に、唯の色と化し、味気無い建物の壁の中に混ざって行く。
やかましい筈の機械音が、その音を円滑に吐き出す為の油の臭いが、次から次へと遠ざかって、挙句、消えて行く。
ルナチャイルドに触れている筈の自分の手が切り落とされたかの様に触覚を失う。
「ねえ、サニー。あの人こっち来るよ?」
心配そうなルナチャイルドの声で、サニーミルクの視覚、聴覚、嗅覚、感覚が舞い戻って来た。
ハッと我に帰って前を見た時には、河城にとりはもう数メートル先まで歩み寄って来ていた。
「おや? 昨日の妖精の友達か何かかな?」
河城にとりは、何となく見た憶えのある妖精であるサニーミルクを見て頓狂な声を上げる。次いで、全く見覚えの無い妖精のルナチャイルドを一瞥した。その際目が合ったので、
「こんにちは」
ルナチャイルドは律義に挨拶をした。にとりは薄く笑んで、
「うん。こんにちは」
と返事をした。
サニーミルクは何も言うことが出来ず、ボーっと二人のやり取りを眺めていたのだが、
「さて、妖精よ」
にとりがこう切り出したので、ぴくりと体を震わせ、ピンと背筋を伸ばした。ルナチャイルドの手を握る手にぐっと力が籠る。とてつもない手汗の量である。――ルナチャイルドは心密かに不快感を覚えている。
「約束のものを持って来てくれたんだね?」
サニーミルクは恐々とにとりの顔を見上げ、
「はい」
と小さく答えた。機械の音がうるさいので、聞こえていたかどうか心配であったが、
「そっか。それじゃあ、早速」
にとりが手を差し出した。
再びサニーミルクに、あの非現実の世界が舞い戻って来た。何もかもが歪み、何も聞こえず、何も香らず、何も感じない、あの世界が。幼子の落書きで囲繞されている水中を漂っている様な感覚に襲われる。
「どうしたんだよ」
にとりの声。まるでそれに押されたかの様に、サニーミルクは、友に触れている手をぐっと前方へ伸ばした。
「――どうぞ」
急に手を思い切り引かれたものだから、ルナチャイルドは危うく転びそうになったが、どうにか堪えた。サニーミルクと河城にとりの間に、何も知らないルナチャイルドが立たされた。しかしそうなっても、当然のことながら、やはり彼女は自分がどんな状況に置かれているのかが理解出来ない様で、目をパチクリさせて、青ざめているサニーミルクと、無言で二人を見やっている見知らぬ河童を見比べる。
――一体何がどうなっているの?
この際河童でもいいから状況説明をしてはくれないものかと懇願する様な眼差しを河童へ送ってみたのだが、
「ごめん、ルナッ!」
不意に後ろからサニーミルクが奇声染みた声で謝罪して来たものだから、驚いてそちらに目をやった。
「ご、ごめんって? は? ……あっ、ああ。いや、いいのよ、別に。私も悪かったから。ね?」
ルナチャイルドは昨日の喧嘩のことについて謝罪されていると勘違いしている。余りに唐突な謝罪であるし、何よりそれだけのことをこんな遠くてうるさい所まで赴いて、見知らぬ河童の目の前でやる意味が寸分も理解出来なかったから、返答らしい返答が出来なかった。
「違うの、ルナ。今日は、私は――」
何も知らないルナチャイルドに、この期に及んでやっとサニーミルクは真実を語ろうとして開口したのだが、
「あの、すいません。これってどう言うことなんですか?」
些か声が小さ過ぎた様でルナチャイルドには全然聞こえていない。現に彼女は河童に状況説明を乞うている。サニーミルクと面識があると思い込んでいるのだ。
河城にとりは彼女の疑問には答えず、サニーミルクとルナチャイルドを見比べていたが、
「なるほどねぇ」
やがてこう切り出した。
「これがお前達の『誠意』と言う訳だ」
にとりの声は妙に低く、機械音とは交わらず、やけにこの場で通った。
贄となる友人に対して現状を説明するタイミングを逸してしまったサニーミルクは、再び開口することも憚れてしまい、ぎゅっと口も目も閉じてしまった。目尻からはぽろぽろと涙が零れている。結局言えないまま終わってしまうんだ――自身の愚図さが堪らなく嫌になった。
ルナチャイルドは、ただただ狼狽し、河童と友人を交互に見比べている。
にとりは暫く黙っていたのだが――不意にぽんとサニーミルクの肩に手を置いた。サニーミルクがびくりと身体を震わせる。
河童の口から漏れて出たのは――濃厚な失望の色を湛えた溜め息。
「お前は、私を馬鹿にしているのか?」
――その瞬間、サニーミルクは全身の力がするりと抜けて行く様な感じに襲われた。
あれ程の時間議論し、死を遥かに凌駕する苦悩と戦いながら友人をこの場所へ誘い、後悔に塗れつつもとにかく全てが終わった。その挙句に掛けられた言葉が『馬鹿にしているのか?』
サニーミルクは恐々と、にとりを見やった。
「え、だって、あなたが言ったんでしょう? ルナを渡さないと、絶対赦さないって……」
にとりは心底当惑した様に眉を顰めた。
「ルナ? ……ああ、この子のこと? ルナって言うの? 昨日は来てなかったよね?」
そう言い、未だ現状の把握が出来ていないルナチャイルドを見やった。
にとりの言う通り、何も知らないし、こんな所へ来たことも無いルナチャイルドは、とりあえずぺこりと頭を下げ、
「ルナチャイルドと申します。昨日はここへは来てません」
軽い自己紹介をしておいた。
「だよね。見覚え無いし」
にとりは自分の記憶力の正常さが確認出来たことに安心した様に息を吐いて、次いでまたサニーミルクに厳しい目線を向ける。
「それで? 何でお前はこの子を私に差し出そうとしてるの? この子がどんな妖精かは知らないけど、はっきり言って全然欲しくないんだけど」
確かに自分を売る気など毛頭無いが、全然欲しくないと目の前で言われるのは余り快いものでは無いなと、ルナチャイルドは眉を顰めた。
この言葉を受けて、遂にサニーミルクまで当惑してしまった。この場にいる誰もが、現状を上手く把握し切れていない。
「だ、だって! スターがルナを――月の子、ルナチャイルドを差し出せって言われたって!」
しどろもどろしながらこう言うと、にとりは目を点にしてサニーミルクを見やっていたが、
「月の子……ルナチャイルド……?」
暫く譫言の様にこの二語を口にしたと思ったら、突然呵々と笑い始めた。腹まで抱えて笑っている。サニーミルクはもう何が何やら分からず、笑い転げる河童を呆然と見やるしか無い。
一頻り笑った後、にとりは目尻に薄ら浮かんだ涙を人差し指で拭い、言い聞かせ始めた。
「あのねえ、よくお聞き、妖精」
にとりの声色がいつに無く優しい。
「私が頼んだのはね、『月の子』じゃないんだよ。『ツチノコ』なんだ。ツ、チ、ノ、コ」
「は?」
瞬く間にサニーミルクの非現実世界が再来した。映ろう景色がぐにゃぐにゃ歪んで行く。立っているのか浮いているのかさえよく分からなくなって行く。油の臭いも遠のいた。
ただ、河童の声だけは、やけに鮮明に聞こえた。
――昨日も機械がうるさかったから、きっとあの黒髪の子が聞き間違えたんだね。
――魔理沙が珍しい生き物を手に入れたと自慢していたんだ。私も欲しかったんだよ。あれ程珍しい特性を持つ生き物なら、何かに使えるかもしれないし。
――妖精って悪戯のプロフェッショナルでしょ? 人間一人からツチノコ一匹盗み出すくらいなら簡単かなって思ったんだ。
――昨日の悪戯を全く気にしていない訳じゃ無い。だけど、黒髪の子に言ってやった程怒っちゃいないよ。森をぶっ壊すとか、あれは全部嘘。
――本当のことを言うと、やりたいけど許されないんだ。今のこのご時世じゃァね。それくらい分かるもんだと思うのだけど、もしかして本気にしちゃった?
――悪戯の反省のついでにツチノコちょろまかして貰えれば儲けもんだと思ったから、罰って名目で頼んでみただけのことだよ。はっきり言って、ツチノコの約束は愚か、私の所に律義に来ることすら期待して無かった。
――その様子だとツチノコは無理だったみたいだね。……ああ、トライすらしてないか。いいよ、気にしなくて。
――あ、もしかしてずっと月の子……ルナチャイルドだっけ。その子を私に差し出さなきゃって恐々としてたの? どうすれば助けられるかとか、本気で考えちゃった? あはは! いい話のタネが手に入った。ありがとさん。
――私も、他の河童の連中も、そんなに怒っちゃいないから安心して。さあ、もうお帰り。あの黒髪の妖精の聞き間違いを思い切り笑ってやりな。
*
スターサファイアは、高級な茶葉を惜しみなく使用して作ったミルクティーを、静謐な我が家で優雅に楽しんでいる。傍らには上等なクッキーの詰まった缶も置いてある。
ちらりと時計を見やる。やや遅いティータイムであるが、そんなことはどうでもよかった。
「そろそろサニーも真実を知った頃かしら?」
自分のでっち上げた話を本気で信じ込んで、顔を白黒させていたサニーミルクを思い出し、思わずスターサファイアは笑みを零してしまった。危うく高級ミルクティーまで零してしまうところであった。
スターサファイアは昨日、あの灰色の建物の中で河城にとりに捕まって説教された時に言われた『ツチノコ』を、少しも間違うこと無く聞き取っていた。
だが、スターサファイアは河童の説教なんて全く気にしていなかったのだ。根っから反省する気など皆無だったのである。悪戯を幇助した訳でも無ければ、実行したと言うことも無いから、罪の意識が著しく薄かったのが原因だ。
説教を聞き流している最中につまらない考え事に耽っていたら、ふと『ツチノコ』と『つきのこ』がひどく似ていたことに気付いたので、面白半分で壮大な『サニーとルナの仲直り大作戦』を決行してみたのである。無謀な“自棄悪戯”を強行し、そのとばっちりを喰らう切っ掛けを作ったサニーミルクへの報復の意も兼ね備えている。
森林を破壊する云々は本当に言われたことであるが、水と言う大いなる自然と共生する河童が、自然を躊躇無く破壊してやる……等と言う筈が無いのである。こんなこと少し考えてみれば分かることである。ただサニーミルクは、悪戯を実行した張本人であるから、スターサファイアと比べて幾らか大きく気持ちが動揺していた上に、伝聞される形で河童の考えを聞いてしまったから、冷静な判断が出来なかったのである。
妖精だからと言って、あの河童は少々私を見くびっていたわ――少しそれが不快であったが、何にせよ、喧嘩していた二人はこの一件を介して仲を直すことが出来た。ルナチャイルドに関してはもう夜の頃には怒り疲れていた様子であったが、サニーミルクはいつまで根に持つか分からないから、こう言う強硬な手段でスパッと怨恨の根を絶ってしまった方が懸命だとスターサファイアは思っている。
加えて、二人の放つ険悪な雰囲気の中で居た堪れない気持ちに苛まれていた分を、こうして静かな空間を一人占めすることで取り返すことも出来た。
下らない喧嘩で第三者を不愉快にした代償にしては安いモンよね――スターサファイアはそう結論付け、意気揚々と高級なクッキーの缶を開いた。
サニーが私に何か言って来るかもしれないけれど、私は大人の対応で事無きを得てみせるわ――こんな決意を固め、さて、帰って来たらあの子はどんな呪詛を私に吐いて来るかしら――などとあれこれシミュレートしつつ、スターサファイアは一枚目のクッキーを齧った。
「機械の音の所為で、河童の声の受け取りが難かったのよ」
とりあえず、言い訳の一つが決まった。
でも、重々しい雰囲気の中に感じた違和感はなんだったのだろう……
妖精の価値観として書いたなら、ひとつの考えとして理解できるけど。
ルナを売るサニーとか正直誰得、もう一回三妖精を読んでくる事を推奨します
しかし、まさかそう来るとはw
スターがルナを売るしかないと誘導するあたりに、おや?と思ってたんですが納得です。
でもスター良い子だなあ。頭なでたい。
流れなどは良かったのですが……