鴉天狗は酷く驚いていた。
「無意識、ですか」
まったく理解できない内容に言葉を詰まらせながらも、なんとか一言を搾り出す。
「だから興味のないことなんて、見た事すら覚えていない」
「覚えていない……」
こいしはちゃぶ台をはさんで向かい側に座る文に向かって、あっけらかんと答えた。
先ほどからオウム返ししかしていない事に気付き、文はいそいそと筆を走らせる。
酷く閑散とした通り道でも、記事に出来る事があるかもしれないのに。
意識を配らせる事、ましてや記憶にまったく残らないなど、文には信じられない事だった。
縁側には萃香が座り込んでいた。時々、二人のいる茶の間へと視線を向けるが、面白く無いのか目の前の猫弄りに没頭する。
「そーれ」
真っ白な雪が降り積もった庭に向かって、尻尾が二本ある化け黒猫を、まるで賽銭でも投げ入れるように放り投げた。
――ぼふっ。
柔らかい音と共に、庭の一角に小さな黒い点が出来上がった。
黒猫はすぐさま逃げ出そうとするが、萃香の手元にずるずると〝萃められ〟てしまう。両手を伸ばして何かにしがみつこうとするが、白で覆われたここに爪がひっかかる物なんてありはしなかった。
「こんなに冷えて……。そら、これを呑めばあったかくなるよ」
すっかりびしょ濡れ、毛並みが酷く冷えてしまった黒猫に、萃香は瓢箪を無理やりねじ込もうとした。
それははたから見ても、あまりに凄惨で。
「――人の家で虐待とかしないでくれる?」
この神社に使える巫女が、さすがに口を挟んだ。
「もう悪さしないように、よーく躾けてるだけだよ」
御盆を片手に現れた少女、霊夢は目の前に広がる日常に大きなため息をつく。
勝手に居座る鬼、勝手にエサだけ貰いに来る化け猫、勝手に取材をしていく鴉、勝手に上がりこんでいる妖怪――
――なんとも日常的な絵図である。たまには参拝者が現れるぐらいの非日常を見てみたいものだ。
「見に行くだけ無駄、どうせ入っていないって」
霊夢の心を読んだように萃香がツッコミを入れる。それがなんだか腹立たしくて片手で軽く小突くと、萃香はすっと立ち上がり、黒猫を解放した。にゃあ、と悲鳴だけを残し、黒猫は部屋の奥へと消えていった。どこかに温まりに行ったんだろうか。
「むぅ、本当の事言っただけじゃん」
萃香は霊夢の持つ御盆から湯飲みを一つ奪い取ると、捨て台詞と共に黒猫を追いかけていった。
霊夢がちゃぶ台へ運び終えると、文とこいしは当たり前のように湯飲みを手にした。礼などないし、それに対して怒りを覚える事もない。すっかり慣れてしまっていた。
二人が両側に見える位置にちょこんと座ると、霊夢もようやく口にした。茶の苦味と温かさが、暖気を失い始めた体にじんわりと広がっていく。それだけで幸せな気分になれた。
「ふぅ……。時間もあるし、私も入ってこようかしら」
数日前に湧いた異変。
間欠泉と怨霊。
それが実は友人を救うための救難信号だったり、そもそも産業革命がどうのこうのだったりと、霊夢の知らない場所で色々と巻き起こっていた。
だが、博霊の巫女たる霊夢の力を持ってすれば、これぐらいの異変は簡単に解決するのでした、おわり。
間欠泉は温泉へと変貌し、怨霊もだいぶ姿を見せなくなった。今では単なる休息地だ。
ちなみに、先ほどまで黒い魔法使いが浸かっていた。異変に関わろうとせず、もちろん参拝もせずに。
随分とおかしな陰陽玉を提供したスキマ妖怪もたまに入るらしい。けれど風の噂で冬眠を始めたとか聞いたので鉢合わせることはないだろう。彼女の唐突な気紛れに巻き込まれたりしない、それだけで霊夢の冬は安泰だ。
あぁ、そうか。さっきの猫と鬼は、温泉へ向かったのかもしれない。
未の上刻(午後2時~3時の間らしい)まで、まだまだ時間があった。
霊夢は入ろうか入るまいか、ぼーっと悩みながら時間を潰した。
お詫びも兼ねて話がしたい。
化け猫もとい、お燐がそう伝えてきた。さとりから地霊殿への招待である。詫びを入れたいというのに、向こう側から来ないのもおかしなことだ。
だが、さとりのペットに温泉の温度について言いたい事もあったので、霊夢は仕方なく了承した。
無意味に火力が高すぎて、時たま温泉が熱湯に変わっているのだ。入りたい時に入れない、あのもどかしさはもう味わいたくない。
「お空への伝言? あとで伝えておくよ。それより先に温泉にでも入って、くいっとしてくるかな。想像するだけで溜らないねぇ」
だというのに、さとりへの伝言は即座に伝えに来て、地獄鴉への伝言は適当だったのだ。ちゃんと伝わった頃には、冬が終わっているかもしれない。この季節だからこそ、温泉という安らぎを完璧なものにしたかった。
あの館の主の能力を思い出すだけで、あまり良い気持ちがしないのだが……ついでで侘びを貰いに行こう。
そうして、約束の日が訪れた。
どこから聞いてきたのか文が現れ、いつの間にか茶の間にこいしが湧いたように出現し、今に至る。
雪が音を立てずに、うっすらと降り始めた頃。
霊夢は未だに悩み、取材のやり取りが交わされる茶の間で、呆けていた。
「そこの縁起の良さそうな巫女に、さっきまで遊んでいた鬼、あと山の神様なんかもペットにしたら楽しそうね」
「なるほど、無意識な人は巫女と鬼と神をペットにしたくなる……ふむふむ。ということは、無意識に動ける人は強い人ばかりなんですね、知りませんでした」
今まさに三流新聞が生まれようとしていたが、霊夢がそれに口を挟むことは無い。
「そろそろ時間だよ」
人の姿に戻ったお燐が、すっかりと温まったらしい萃香と共に戻ってきた。
萃香は再び縁側に向かうと、腰を掛け、足をぶらぶらと揺らしていた。何か苛立っているようにも見える。
「もうそんな時間か。でも先に温泉に入る事にしたわ」
霊夢はゆったりとした口調で当たり前のように話した。
「そんな事をしたら間に合わなくなるんじゃないのかい?」
「しょうがないじゃない、やっぱり入りたくなったんだから」
「さっきまで時間がたくさんあったっていうのに」
「私は今浸かりたいの」
そう言うと、お燐はそれ以上何も抵抗しなかった。神社で過ごす日が多くなり、霊夢の性格を理解し始めたからだ。
こう言い出しては、もう打つ手は無いだろう、黙って従うしかない。
すっかりと博霊神社のペットとして板に付いてきたようだ。
霊夢が温泉に満足して戻ってきた頃には既に申の上刻(午後4時~5時の間らしい)を過ぎていた。本来ならば地霊殿に到着している時間である。
文とこいしはずっと話を続けていたらしい。そんなに話をして楽しいのだろうか。
茶の間にはお燐の姿がない。当たり前だ。
霊夢を時間までに連れて来る。それが今日ここにいた理由だったのだから、果たせないと分かった以上、すぐにその事を伝えに行くのが懸命だ。
「さて、と」
「あ、地下に行くんだったらコレお願いします」
霊夢が動き出そうとしたのを感じ取ったのだろうか。文はこいしとの会話を中断すると、スカートの中から大きな珠を取り出した。見覚えのある、面倒な思い出が詰まった陰陽玉だ。
「私はこれで盗み聞きさせて貰うので。よろしくお願いします」
「おおやけに言って、それは盗みというのか?」
愚痴を漏らしつつも、霊夢はそれを嫌々受け取った。後々のことを考えると、こちらの方が懸命らしい。
――時間の許す限り。どれだけ嫌と言っても、この鴉は何があったか聞き出そうとするだろう。こちらの心が折れるまで、ずっと。
それぐらいにネタになりそうな事が好きで、地下にはそれが詰まっているのに、絶対に行きたくないのだ。
「そんなことより早く教えてよ。花が咲き乱れた時の話。結局何が原因だったの?」
「あぁ、はいはい。あれは閻魔様が私たちを無理やりにでも裁こうと計画したことで――」
いつの間にか、文とこいしの立場が入れ替わっていた。もっとも、こいしは地上の事を聞くためここに来たのだろう。先ほどの興味のなさそうな表情は消え去っていて、茶菓子を出された童のように目を輝かせている。
「じゃ、そろそろ行こーか」
「……え、なに。あんたも行くの?」
そう言って立ち上がったのは萃香だった。その言動には酒気が混じっていない。珍しい事に、今朝から一口も酒を口にしていなかった。
「勇儀に呼ばれててね、久々に呑もうって話さ。今日は朝から絶ってるから、さぞかしうまく感じられるだろうね」
そう言いながらも、瓢箪に目がいったのか、苦虫を噛み潰したような表情を見せた。邪念を振り払うように瓢箪を辺りに振り回す。素面な方がよっぽど危ないとはどういったことなのか。先ほどまでは化け猫が堰き止めていたらしいが、このままでは苛々の矛先がどこに向かうか分かったもんじゃない。
これ以上長居する理由はなかった。
文の誇張された話に聞き入るこいしを残し、霊夢と萃香はようやく地下へと向かった。
「いやに遅かったですね。まあ、お燐から聞いていたから問題ないのだけれど」
「蜘蛛が興味本意でついてきたり、開口一番に妬ましいなんて嫌味を言われたり、おまけに地下まで雪が降ってるんだから。これぐらい誤差の範囲よ。それと温泉に入っていた」
「結局あなたはいったい何時に神社を出たの? ……出発の時点で約束の時間を過ぎてるじゃない」
「面倒ね、そうやってすぐ心を読んで。言い訳がまったく出来ない」
地霊殿の主、さとりは霊夢の心に悪気というものが一切混じっていない事を"視て〟、呆れたようにため息をついた。
しかし、今回の事件はさとりのペットが引き起こした――正確には地上に住まう山の神のせいなのだが――いわば、監督不届きが原因である。しかも、解決してくれた本人にこうしてわざわざ足を運んでもらったのだ。怒れるような立場ではなかった。
そういう立場だという事を、霊夢は理解している。だからこんな横暴がまかり通っているのだ。
――立場や時間がどうであろうと、こうして適当に来ていただろうけど。
「改めて、今回は本当にごめんなさい。私のペット達のせいで、あなたに無駄な手間を取らせてしまったわね。お燐があんな事をしていたなんて思いもしなかったわ」
「そんなことより、地獄鴉に『力を試すのはいいけどやり過ぎだ』って伝えてもらえる? 温泉が熱過ぎるのよ。あの化け猫、ちゃんと伝えてくれないし」
「……後で伝えておきます」
謝罪を『そんなこと』で済まされて、さとりはがくりと肩を落とした。
地霊殿の二階にあるバルコニー。そこにある席に、霊夢とさとりは腰掛けている。
ピンク色の可愛らしいパラソルが降り積もろうとする雪から二人を護っていた。霊夢のように大人びていない、童心を持った少女が見ればさぞ喜ぶだろう。
霊夢の座る場所からは、旧地獄街道と呼ばれるこの地下世界を見かけ上は一望することが出来た。
萃香は久しぶりにやってきたここが懐かしかったのか、この館に来る途中でふらふらと何処かへ消えていった。
――しかし目線上に障害物がないというだけで実際のところ、ここからは遠くの方がどうなっているのか漆黒に包まれていて分からない。
今もどこかで、鬼が二人騒いでいるのだろうか。
この館はあまりに明るすぎた。赤や白、彩度や明度が高すぎる色彩が散りばめられ、この世界の太陽のような役割を果たしている。
けれど光は強すぎて、逆に遠くに被さる闇をいっそう濃くし、ここにいる限りは遠くを可視出来なくなっていた。
――物腰も柔らかく、良い性格をした嫌われ者。
霊夢は異変を解決しに訪れた際、萃香から聞いた事を思い出していた。
この館はまるで、ここの主の性格を写したようである。
「それは褒めてくれているの?」
さとりは当たり前に心を読んで、会話を切り出す。
「たまには慎ましくしてみたらどう? 全部読んで、しかも直球で返すから嫌われるのよ」
「あなたも大分直球に思えるのですが」
「私はいいのよ」
霊夢は至極当然のように言った。
「正体を隠してみるとか。ちょうど今、堂々と盗み聞きをしているヤツに相談すれば、色々とためになるかも」
『な、なんですか突然』
「……地上に出る事があったら、そうしてみます」
嘘と言えば、このテーブルの上にある陰陽玉、その向こう側にいる鴉が最適だ。何てったって、嘘を並べ立てた新聞を出すぐらいなのだから。
竹林の方にいる兎もあるが、行動、言動が嘘で塗り固められすぎて、さとりにはまだ向かないだろう。
「あんまり妖怪に興味が無いと思っていたけれど、本当は優しいのね。久しぶりに、こうしてゆっくりと話が出来て嬉しいわ。ありがとう」
霊夢は思わず目を見開いた。今のさとりが何と言ったのか分からず、思考が一時停止してしまう。
……優しい、ありがとう?
疑問を浮かべたのは、陰陽玉を通じて話を聞いている文も同じだった。
『え? 霊夢さんが優しい!? これはスクープの匂いがします』
「そんなに驚くことですか? 彼女はとても温かい心をしています」
霊夢の気持ちを知ってか知らずか、なおもさとりは気恥ずかしくなりそうな言葉を続ける。我慢が出来ず、霊夢は口を挟んだ。
「変な事を言わないで。もう私から話すことはないから、喋るのを止めることにする。……神社への参拝、期待してる」
そうして口を閉じると、さとりから視線を外し、雪がさんさんと注がれる地下世界を眺める事にした。
――恥ずかしかったのである。
地上のあいつらは、〝ありがとう〟なんて言葉、嫌味以外で使ったりしない。
なのに、さとりは当たり前のように、それを口にした。
なんだか良く分からないけれど、心がむず痒い。
……あぁ、今まさにこの考えも、全部見られている。
だからと言ってここで帰るなんて、なんだか負けるみたいで、悔しくて出来なかった。
そうして、霊夢は最大限の譲歩をした。
喋る事〝のみ〟止めたのだ。そんなこと、さとりの前では意味がないって理解している。
それでも、何か態度で示さずにはいられなかった。
『あやや、話し声が聞こえなくなりました。どうしたんでしょうか』
現状を把握できないのは、自ら赴かない卑怯な三流新聞記者だけだ。今のこの現状を文に見られなくて、霊夢は心底安堵していた。
「実は、こいしの事で相談が……え、そっちに来てたの?」
(いつの間にか居た、というか)
霊夢と〝会話〟をしたさとりは、テーブルの上にある珠を手にすると、向こうにいるであろう文に向かって話しかけ始めた。
「珠の向こうの妖怪さん。そちらにこいしはいるかしら」
『えぇ、すぐ傍に……って、あやや、いつの間にかいなくなってます。これまたスクープの香りがします!』
「そう、無意識にどこかへ行ったのね。いないんだったら、大丈夫か」
先ほどから興奮しっ放しの妖怪はどうでもいいのか、球をテーブルに戻すと、さとりは霊夢に向かって話を始めた。
「異変を解決してみない?」
(私は早く、適度な温度の温泉に浸かって、適度に一日を過ごしたいんだけど)
霊夢は面倒だと心に浮かべたが、席を立とうとはしなかった。さとりはそれを、話を続けていいのだという風に受け取り、柔和な口調で語り始めた。
「私の妹、こいしと仲良くしてもらいたいのです。出来れば、話し相手になってあげてもらえないでしょうか」
(怨霊の次は妖怪相談か。私は便利屋じゃないんだけどね)
「じゃあ何でしょう。空を飛ぶ程度の少女?」
(博霊神社の巫女)
さとりが子供っぽく笑いながら冗談を口にすると霊夢は言葉もとい心を返す。
あまりにもさとりが嬉しそうな笑顔をするものだから、霊夢も思わず苦笑した。こんなに楽しそうに笑う妖怪を見るのは初めてかも知れない。
(仲良くもなにも、あいつは勝手に居座って、当たり前のように茶を飲むほど馴染んでるよ。まったく……参拝していってくれるのなら、無碍にはしないんだけど)
そうして、口を開いてため息を溢す。面倒事を増やしたくない霊夢に取って、神社に妖怪が居座るというのはそれだけで不味いことだった。
もうすっかり、博霊神社は妖怪の遊び場として有名になってしまったが。
こいしがそこまで神社に入り浸っている事に驚き、さとりは少し考え込んだ。
ここ最近、彼女はどんな行動を取っていたっけ?
先ほどもそうであったように、興味のある場所へふらふらと流れて行き、そして時間が来るとここへ帰ってくる。そういった部分は、昔――彼女が〝第三の目を閉じて〟から変わっていない。
変わったことと言えば、彼女が饒舌になったことである。地上に住む妖怪の話、神社や山の話だったり、どこで聞いたのか、過去に起きた異変の話なんかを楽しそうに話してくる。
会話をする回数も増えた。この数百年で、ここまでこいしが楽しそうにしているのは初めての事だ。
地上、特に神社。今一番の興味はそこに集結しているのだろう。
「よく地上の事を話してくるようになったのだけれど……そんなに楽しいんでしょうか」
(ふーん)
「でもあの子の気持ちだけは視えないから、どうすればいいのか分からないんです。楽しんでいるのなら、それでいいんですが……」
(過保護ね)
「妹想いなだけです」
バルコニーに冷ややかで鋭く、けれど柔らかな風が忍び寄る。さとりの、菖蒲色の細髪が静かになびいた。
パラソルで守られていた二人の領域に、雪片が横から抜けるように流れる。
中に入らないか、そう言おうとして霊夢は言葉を発する事が出来なかった。
――哀愁。
ほんの少しの間に変わってしまった、喜の感情などこれっぽっちも含まれていない、哀の顔。
テーブルの上の珠を見ているのか、それとも視線は何も捉えていないのか、さとりは俯いたまま固まっていた。話しかける事が憚られてしまう、辛そうな態度。
妹の事が関わるだけで、彼女はこんなにも感情を変えてしまう。
やはり、違った。
霊夢は戸惑ってしまった。こんな妖怪、やっぱり初めてだ。
今まで出会ったどんな妖怪よりも人間臭かった。きっと、自身以上に。
さとりは突然顔を上げると、席を立った。
「冷えてしまったかしら。淹れ直しましょうか?」
そう言われて霊夢は慌てたように、頷く。一瞬、彼女の言葉が頭の中に入らなかった。
まるで表に出てしまった感情を見せないように、さとりは席を立ってティーカップを取りに行った。
テーブルの上には、一度も口にしないまま冷めてしまった紅茶。
彼女の見た目みたいに、ピンク色の可愛らしいデザインのカップ。霊夢には絶対に似合わないだろう。
そこに広がる、淡い色のそれを一気に飲み干す。
「……不味い」
体の中を広がっても、幸福感なんてこれっぽっちも生まれなかった。
『久しぶりに霊夢さんの声が聞こえました。何があったんですか?』
「冷めた紅茶は飲み物じゃないって再認識しただけよ」
『……それは記事にならないですね』
陰陽玉の向こうから、何か物音が聞こえた。どうやら文が席を立とうとしたらしい。
「ちょっといい?」
『ん、何かありました?』
珍しく呼び止められたものだから、文は不思議そうに尋ね返してきた。
「なんで、こいしは地上の事を聞きたがっているのかしら」
『……? 理由なんてあるんでしょうか』
「うーん、ほら。例えばさぁ――」
ふとした事。
霊夢ははっとした。今、自分が出そうとした例が、あまりにも的確だったからだ。
もしもこの考えが合っているとするのならば。
――この異変は随分と簡単に解決しそうだ。
『どうしました、まただんまりですか?』
「なんでもない。今の話は気にしなくていいわ」
『はぁ。それじゃ私はそろそろ取材に行ってきます。このままここに居ても、いい情報が手に入りそうにありませんし』
つまり、霊夢とさとりの会話――さとりの話し声だけしか聞こえないもの――がつまらないと言いたいらしい。
文と止める理由はもう無かった。
再び、畳を擦る音が聞こえると、珠の向こうから微かに、けれど力強い羽音が聞こえ、それっきり音はなかった。
明るい色のティーカップと一緒に現れたさとりは、その色と同じぐらいに明るい笑顔で霊夢の正面の席へと戻った。
言葉を発するようになった霊夢。さとりは大して何とも思わず、それから他愛も無い話をした。
お互いが地上の歴史、地下の歴史を話し合うだけである。
といっても、霊夢が蓄えてきた歴史なんてさとりと比べれば米粒にも満たない極小量である。積み重ねてきた月日が圧倒的に負けていた。
だから、次第に話すのはさとりだけになった。
「ここにこうして話相手として人が来たのは何百年振りかしら」
時々、なんて反応すればいいか分からない話題が過ぎる。その度、霊夢は「そう」とだけつけて、ゆっくりと紅茶を口に運んだ。
「二名様ごあんなーい」
聞き慣れた声に、さとりはすぐさま視線を屋内へと向けた。一方、霊夢は若干面倒そうだ。
頭に嫌に響く、最近はほぼ毎日聞く人物の声だった。
「れいむー! 一緒に呑むぞー!」
「何時ぞやの人間! 弾幕じゃ負けたが、呑み比べじゃ負けないよ!」
その直後に、ふにゃけた声で霊夢を呼ぶ声が二つ。威勢こそいいものの、力強さはこれっぽっちも感じられない。
萃香と勇儀、そして二人の案内人となったこいし。なんとも奇妙な組み合わせだ。
霊夢とさとりが座るテーブルに、他のテーブルから椅子を運んで、萃香と勇儀は無理やり輪に入ってきた。霊夢の真横に、挟み込むように席を成してくる。
「ちょっとあんた達、どういうつもりよ」
「どうもこうもないよ。ただ呑みに来ただけ」
「あんたも強いって話じゃないか」
勇儀は霊夢が手にしていたティーカップを奪い取ると、中に溜まった甘ったるい紅茶を一挙に飲み干した。
「こんな甘ったるいのより、酒だよ酒! 萃香、なみなみと」
カップを萃香に差し出し、瓢箪の中に在る酒をこぼれんばかりに注ぐ。
「私のお酒が呑めるなんて、そう滅多に無いよ。さ、ほら。呑んだ呑んだ!」
「鬼が勧める酒を呑まないなんて無粋な事は言わないでくれよ? さ、どれぐらい強いのか教えておくれ」
「うぎぎ、あんた達ねぇ……」
酒気を帯びた息が両隣から漂い、霊夢は袖で口元を隠した。それを見た鬼達は何が楽しいのか、けらけらと笑いながら更に吐息を吹きかけてくる。
席を立とうと試みても、吸い寄せられるように椅子に戻された。その理由も分かるし、それに抗って余計な力を使いたくない。霊夢は心底面倒がった。
遠巻きで見ていたこいしは、自分よりも強いはずの人物が成すすべもなく苦しむ様が可笑しく見えた。どんな気持ちなんだろう、なんて考えて、人の心が読めない事を少しだけ悔やんでしまう。
「ねぇねぇ、お姉ちゃん。どんな風に視えてるの?」
だから、椅子でゆったりと座りながら紅茶をすする姉に聞いてみる事にした。
こいしはさとりの横に移動すると、彼女の持つティーカップ、その中を覗き込むとうっすらと映る自身の顔と睨めっこをしながら尋ねた。
「面倒、ってだけね。……ん? そう、帰るのですか、残念です」
「なんだぁーっ? 呑まないで帰るつもりかー?」
「そんな事、私は許さないよ。酔い潰れるまで逃がさないからね」
霊夢は一つため息を溢すと、勇儀からカップを奪い、その中の酒を一気に飲み干した。カップを壊れない程度にテーブルへ叩きつけ、ガチャリと音を立てる。二人の鬼は、おぉーっ! なんて嬉しそうに声を漏らした。
その隙に霊夢は椅子から軽く飛び上がる。ふわふわと浮きながら、鬼二人の後ろに回り、その首根っこを掴んだ。鬼と紅白、随分と縁起の良さそうなモノの塊だ。
「続きは帰ってから付き合ってやる、分かったら大人しく付いて来い、と言いたいみたいよ」
「ふーん。あんまり面白そうなモノが視えてるわけじゃないんだね」
霊夢の表情を見ればそれぐらいの事、こいしにも分かる。
実はそれ以外にも、雪風に当たれば酔いも冷めるだろう、という霊夢の作戦があったのだが、さとりは補足しないことにした。
萃香と勇儀はさとりの言葉に納得したのか、それとも元から聞こえていないのか、なおも軽快な笑い声を響かせている。霊夢が酒を飲み干した時点で満足していたのかもしれない。
霊夢の波長というか、浮遊に合わせて鬼達もふわりと地から足を離す。
「こいしはどうするの。ついていく?」
「んー、今日はもういいや。お姉ちゃんに話したい事とか色々とあるし」
そう答えると、こいしは霊夢とさとりのティーカップを手に、屋内へと戻っていった。
(あんたは地上に行こうとは思わないの?)
小さい荷物と大きい荷物を両手に、
「ここを出ようとは思いません。興味はあるけれど……」
ある、けれども。
その後に続いたであろう言葉を予想し、霊夢は紅茶が無い事を後悔した。
(妹の事、知りたい?)
「……えぇ。けれど、視えないから」
酔いの回った二人にはきっと、独り言を呟く変わったヤツぐらいにしか感じないだろう。思考もまとまらず笑い声を漏らすしか出来ない鬼なんて、真剣に話し合う彼女達に割って入る事は出来ない。
(自分の力に頼りすぎなのよ。そんな力なくても心なんて読めるわ)
「へぇ。凄い事を言うのね。妖怪や怨霊から恐れられる私の力を、あなたも持っているっていうの?」
なんだか馬鹿にされたみたいで、さとりは少しだけ霊夢に噛み付いた。
(なんなら、うーん……)
「……そうね、確かに少しだけ怒っているわ。けど、そんな表の部分だけじゃなくて、私はもっと心底を読み取ることが――」
(けど、私はこいしの気持ちが分かるわ)
「…………ッ!」
(たぶんだけど)
あまりにもさとりが驚いたものだから、霊夢はすぐに補足を添えた。
私にも視えなかった気持ちを、この巫女は汲み取ることが出来たというのか。
それだけでさとりを動揺させるには十分だった。
「じゃ、私はそろそろ戻るから」
だというのに、霊夢はさとりが欲しがっている答えを口にしないまま、けれど久しぶりに口を開き、地上へ戻ろうとした。
「ちょ、ちょっと待って!」
霊夢はついにバルコニーから旧地獄街道へと飛び立っていった。
あまりに突然の事にパニックになってしまったさとりは、思い出したように自らの能力を具現させた。
「……なによ、それ」
読まれることを予測して、霊夢は一つの考えを心に浮かべていた。
たった一言、〝この言葉〟を言ってみろ、と。
そのあまりに些細な他愛ない一言の意味を計りかねて、さとりは疑問を浮かべることしか出来なかった。
さとりは珍しく、若干の好奇心を漂わせていた。
理由は明白だ。
異変解決が得意な、空を飛ぶ程度の少女が答えを残していってくれたからだ。
……もっとも、あまりにか細くて信用出来ないのだが。
だから、若干。
気分を落ち着かせようと、さとりは館の中へと戻り、紅茶を取りに行った。
「あ、お姉ちゃん」
そこには既に、紅茶と二つのカップを準備してるこいしがいた。
きっと、この紅茶と一緒に地上の話をしようとしていたのだろう。
「また地上の話聞いてくれる?」
さとりもそれぐらいは読むことが出来た。
二人で、先ほどまで巫女が座っていたテーブルへと向かった。
さとりが残りの準備をしようとしたが、
「いーから、お姉ちゃんは座ってて」
こいしがそれを阻んで、一人で全ての準備をしてしまった。そんなに話を聞いてもらいたいんだろうか。
先ほどとは少しだけ違う。
今度はさとりが聞く立場になっていた。
こいしは、地上で聞いてきた話を、さも自分が体験したかのように、楽しそうに話す。
(……あれ?)
実は、霊夢が先ほど話した内容と、今こいしが話している内容は同じだった。
両方とも、地上の異変についてである。
(けど、さっきは確か、外の世界で死者が大量に増えたから、行き場を失った魂のせいで花が咲き乱れたって……)
しかし、こいしが話す内容は何故か違った。異変の発症内容は同じでも、原因や解決方法が違うのだ。
もちろん、三流新聞記者のデマカセが原因で、こいしがその話を真摯に聞いていたのを霊夢から教わっている。
その嘘の情報を信じて、楽しそうに話すこいしが可愛く、そして可笑しく思えた。
だからさとりは、淑やかに笑みを浮かべる。
それを見たこいしは、教わった異変を更にヒートアップさせて話した。
心の読めないこいしには、笑いのツボが話でなく、自身にあることに気づけないのだが、それでも二人は十分楽しそうだった。
饒舌なこいしに対して、紅茶を飲み笑顔を浮かべ続けるさとり。
手にしたカップをテーブルへ戻したその時、ある物が目に映った。
――なるほど、理由も作ってくれたのか。
……だったら、言ってみよう。ここまで準備してくれたのだから。
さとりはテーブルの上に置かれたままだったそれを手にして、こいしに見せた。
「これ覚えてる?」
「あー……それって、何か声が聞こえる不気味な玉? 変な弾幕が出てきて痛い覚えしかないけど」
現在は遮断されているが、地上とも連絡の取れる陰陽玉。二人にとって、これを持って現れた巫女にとっても、良い思い出はあまりない。
「それ、貰ったの?」
「ううん、忘れていったみたいよ」
「ふーん。じゃ、明日もたぶん神社に行くし、届けておこうか?」
そう言って、陰陽玉に興味があるのか、さとりからそれを掴もうとして――
――さとりはそれを遮ぎった。
「これは、私が届けに行くわ」
それを聞いて、こいしはぽかんとしてしまった。
その様子に、さとりは彼女の言葉の意味をようやく理解した。こいしはきっと、この言葉を待っていたのだ。
こいしの心を見透かした気分になりながら、さとりは更に言葉を続けた。
「明日、こいしに道案内を頼みたいの。〝一緒に地上に来てくれる?〟」
弾けるような笑顔で、こいしは、うんと頷いた。
つまりは、姉をこの館から連れ出したかったのだ。
けれど、それを直接言っても返答はノーだっただろう。
だから、少しでも地上が楽しい事を伝えて、興味を示そうとした。
心の読めないこいしには、さとりがどれぐらい興味を抱き始めたのかは分からない。それでも、どれだけ期間が掛かろうと、いつか、あの言葉を言ってくれると信じていた。
「と言っても、最終的な後押しはあなたのおかげだったのですが」
博霊神社、茶の間。
茶をすすりながら、さとりは言った。
「ま、あんたがいると余計な奴らが寄ってこないから助かるけど」
「お姉ちゃんはみんなに恐れられてるからねー。私より弱いけど」
その正面で霊夢が、二人の間にこいしが座っていた。ちょうどちゃぶ台を中心に三角形のような形になっている。三人で同じ茶を飲み、幸せな気分、みんなで共有。
地上に来たという事実、それだけで大スクープなのは間違いないが、あの鴉天狗はここにやって来なかった。
それだけじゃない。鬼も、魔法使いも、他には誰一人としてやってこない。心を見透かす妖怪がいるだけで、神社は随分と平穏だった。
「その玉は本人に返して。私のじゃないし。しかも欲しくない」
「でも、そのスキマ妖怪ってどこで会えるのかしら」
「さぁ? ちょくちょくここに来たら、会えるんじゃない?」
霊夢は彼女を、他の妖怪よりは歓迎した。
見透かされても、別段妙な考え事をしているわけではないし。
うるさい妖怪達もやって来ない。
なにより彼女が人間臭かったからだ。
こうして、さとりは神社にやって来る妖怪の一員となった。
「ところでさ、ペットに温泉の事伝えた?」
「あ」
けれど、霊夢の冬が安らぎで満たされるようになるのは、もう少し後になりそうだった。
最初から最後までしっかりと安定した作りに、こちらも安心して読むことができました。
読むテンポと言いますか、会話の掛け合いが小気味良くて微笑ましいですね。
大学時代、陽はまだ暖かく風は冷たい今の時期に、気の知れた友人と東北の宿に泊まりに行った時を思い出しました。
のどかな風景を彷彿させる面白い作品でした。
好好。
でもなんだろう・・・さとりと霊夢のやり取りが何かひっかかる・・・・・・。
これはもしや、新カップリングの誕生か!?(自重)
・・・・・・ところで、某赤い館の姉妹も妹のほうが強かったな・・・・・・あれ、神主まさか妹もe(プログラムが削除されました
それにしても地霊殿の面々はほのぼの話が合うなー
それにしても、さとりはどんどんいいキャラに見えてくるなぁ
>「明日、さとりに道案内を頼みたいの。〝一緒に地上に来てくれる?〟」
こいしに道案内を ではないかと
それと誤字報告です
>球をテーブルに戻すと、こいしは霊夢に向かって話を始めた。
ここはこいしではなくさとりではないですか?
>明日、さとりに道案内を頼みたいの。
こっちのほうはさとりではなくこいしだと思います。
文のミニスカの何処に仕舞ってあったんだろう…
あたな ではなく あなた ですかね。
やはり地霊殿のこういう話は良いです。読みやすかったですしね。
ほのぼのした話は大好きですのでもっと読みたいですね。
誤字
何かほんわかした
おお、ブラボー
そんな細かい事はさておいて、良かったです。霊さとは盲点でした。
>地上から来たという事実、それだけで大スクープなのは~
さとりについての話なら「地下から来た」もしくは「地上に来た」ですね。
次回も勝手に期待してます
スカーレット姉妹とは、外に出る・内に居るが反対なんですね。
>果たせないと分かった以上、すぐにその事を伝えに行くのが懸命だ。
>後々のことを考えると、こちらの方が懸命らしい。
両方とも、~~した方が賢い、と言う意味なら『賢明』にすべきかと。
そういやスカーレット、秋、古明地姉妹は全員妹の方が強いんだったな。
>だが、博霊の巫女たる霊夢の力を持ってすれば
博麗では?
それはともかくとてもほのぼのした作品ですね。
とても良かったです。