「人里にある青果店の並びがすごく好きでさ、昔からあそこを通るたびに、思わず立ち止まって匂いを嗅いじまうんだ。果物の水々しくて甘ぁい香りがどうにも好きなんだ。なにがなにで、どの果物がその匂いを発してるかなんて、まったく結びつかないんだけど、わたしはリンゴが一番好きかな。ちょっと酸いんだよ。涎が出てきそうで、でも、実際に食べるとそんなに美味しく感じないんだ。口の中に残るっていうかな、カスが……味は好きなんだけど、それ以外はてんでダメだ。ジュースにしたり、アップルパイにしたら好きなんだけど、アップルパイってわかるか?アップルってのはリンゴで、パイって言うのが……なんて言ったら良いのかな、薄い生地をたくさん重ねて、焼くんだと思うよ。リンゴごと焼いちゃうんだ。あれを焼くっていうのはあんまり想像できないと思うけど、わたしは焼いた方が好き。自分で作ったことは無いけど、今度来て、永琳が許してくれたら、食わせてやるよ。だからさぁ……あんた……なんでもない」
きっかけは些細なこと。そのきっかけって言うのは、きっと幻想郷でも外の世界でも珍しいもんじゃない、そこら中に転がってるもので、そんなものにわたし達はハッピーにされたり、悲しい目に遭わされたりする。きっかけ=些細なこと、と考えてるくらいだ。サンスクリット語って知ってる?いったい、いつ使うんだって言うような単語がたくさんあるんだけど、たまに「おっ」と思うような表現があるんだよな。きっかけって言葉の語源がサンスクリット語だとして、「些細な」みたいな意味だったら、とても納得する。
親父はとっくに病理に侵されていた。身体を蝕むそれは、やっぱりどこにでもあるそれで、発作が起きたら血を吐いて倒れるような今時珍しくもなんともない症状を見せる。今時、血を吐くシーンなんか、どんなに小さい子でも見れるって言うのに、里の中でいきなり発作を起こした親父を見たら、思わず駆け寄っちまった。きっかけと言えば、それもそう。わたしがたまたま里を歩いていたら、親父が血を吐いて倒れ、そして、たまたま走っていた馬車に轢かれた。
どうすることもできなかった。治療の心得が無いとか、そういう理由じゃない。目の前で死にゆく親父に対して、わたしは見送ることしかできなかった。親父を轢いた馬車が親父を乗せて走り去るのをではなく、親父があの世に行くのを。
すぐに追いかけて、馬車の運転手と一緒に竹林を駆け抜けて、永遠亭に運び込んだ。里の中にも医者はたくさんいるけど、親父の容体は永琳以外の手には負えないように見えたと、運転手は言った。まったくもって同感だった。
すぐに手術が始まって、一時間くらい経った。もっと経ったかもしれない。とにかく一時間という時間を恐ろしく長く感じた。人が死ぬのに準備も覚悟もできないくらい短い時間だったから、どうせ手術が失敗して死ぬというのなら、もっと長い時間、どうにか治療を施して、死ぬ準備やら覚悟やらをさせてやれと思った。親父が死んだって、どうでも良いみたいだった。諦めと言えば諦めだが、そういう感情を抱いたのはこの時が初めてじゃない。遠い昔に撒いた諦めの種が、この時になってようやく花をつけただけ。
手術は成功した。親父は死の淵から蘇った。馬車の運転手がわたし以上に喜んだ。わたしは少しも喜ばなかったから、当然だ。
ベッドに寝かされた親父は、とてもじゃないが生きているとは胸を張って言えなかった。たくさんの管でたくさんの機械と繋がれて、こうまでして生かしておく理由なんか無いような気さえした。
「あなた、この人の子供でしょ?」永琳が言った。
「どうしてわかった?」
「顔立ちが似ているから」
「……」
「見ての通り、こんな状態では生きているとは言い難いし、今までと同じように生活ができるまで回復するとは限らない。もしもあなたが望むなら……」
時間をくれ、とだけ言って、その日は帰った。それから二日間、膝を抱えて家で過ごした。なんの変化もなかった。なにかを考えたりすることすら無かった。人生で最も不必要で無意味で無駄な二日間だった。
きっかけは些細なこと。洗面台で顔を洗ったら水がいつもより冷たく感じたとか、本棚から本が落ちてきたとか、なんでもないことがわたしを動かしてくれた。二日ぶりに風呂に入り、二日ぶりに着替え、二日ぶりに飯を食ってから、二日ぶりに日の光を浴びた。うんざりするくらい、良い天気だったのを覚えている。
親父の病室には親父以外に誰もいなかった。なんとなく、ここには命と呼べるものなんか一つもないなと思った。親父の口に当てられた呼吸器が白く曇るのと、一定の間隔で鳴る電子音だけが、親父がまだ生きているということを事実たらしめていた。
「来たぜ」
すんなりと出てきた言葉に、自分でも驚いた。親父はなんにも答えてくれなかったけど、一瞬だけ呼吸が止まったような気がして、喋らない方が良いんじゃないかと思った。
電子音を聞きながら佇んでいたら、永琳が病室に入って来て、わたしを見るや否やびっくりした。わたしがまたここに来るなんて、思ってもいなかったらしい。それだけだった。永琳は黙って親父の体を拭いたり、呼吸器を取り替えたりした。
「なあ、その人を助けられないのか?」
部屋を出て行こうとする永琳の背中に声をかけた。永琳は立ち止まり、こちらに半目を据えて、こう言った。
「命を長らえさせることが、人を助けることにも結びつくとは思えません」
永琳は部屋を出た。寝たきりの親父は温かな西日に包まれていて、お天道様でさえ親父を苦しめているような気がした。
「また来るよ」
返事は無かった。
次に来た時には、親父の近縁者や知り合いや古い友人がたくさん来ていた。迷いの竹林は誰一人迷わせることなく、親父の不幸を悲しむべき人間達を親父の元へ導いたのだ。誰も来ないだろと思って病室に入って、びっくりしてしまった。いつもの白黒の格好で来たのはわたしだけで、他の人間は死にゆく人を見送るのに相応しい格好をしていた。自分を恥じずにいられない。こういう場は初めてじゃないのに。
親父の見舞いに来ていたのは、錚々たる顔ぶれだった。わたしでも知ってる顔が多いって意味で。だけど、向こうの方はわたしがベットで眠っている男の娘だとは気付かなかったらしい。不思議そうに会釈したり、常識を知らない若者のふしだらにイラついたりするだけだった。
わたしは病室を出、扉越しに中の会話を聞いた。わたしへの文句も程々に、すぐに親父が死んだ後の、あまり他人には聞かれたくないような問題の話になった。
「お姉ちゃん、だれ?ドアの前でなにしてるの?」
中の口論が白熱の度合いを増してきた頃に、その女の子は来た。中の誰かの子供だろうと思った。その女の子を一目見て、胸に誓ったことがある。自分の境遇とこの子の境遇を照らし合わせ、どちらがマシか、などと考えるようなことは絶対にやめよう。
「おう、ガキ。歩くのに疲れてな、休んでるだけだよ」
「ふうん……」
「もしかして、邪魔か?」
「いいよ。大人の話はつまらないし」
「だよな」
手持ち無沙汰になって、ポケットの中をまさぐった。なにか人生を打開できるようなものがあればいいなと思ったけど、いつ買ったか思い出せないような飴玉くらいしかなかった。
「これ、食うか?」
自分で舐める気にもならなかったので、女の子に差し出した。
「うん!」
女の子は大喜びで封を開けて、あっ、と声を上げた。
「これ、いつもおじちゃんがくれるやつ!」
女の子が摘み上げたのは、星の形をした水色の飴だった。
「おじちゃん?」
「うん。お姉ちゃんの後ろにある部屋のベッドで、寝てるんだ」
「……」
「色も形も一緒だよ!」
と、後ろの扉が引いて、ずっこけてしまうところだった。振り返ると、女の子の母親らしき女がぷりぷり怒りながら、わたしに鬼のような一瞥をくれてから、女の子の方に向き直った。
「なに、それ」『それ』が女の子が手に持っている飴玉を差しているのは明白だった。
「お姉ちゃんから貰ったの」
女の子がわたしを見ると、やはり母親もこちらを見た。憧れと軽蔑を同時に向けられるのは生まれて初めてだった。
「ありがとうございます」母親が会釈して、こっちはしどろもどろになった。
「あ、いや……別に」
「あんたも中に入りなさい。静かにしてるのよ」
嫌がる女の子の手を引きながら、母親は扉を閉めた。取り残されたわたしは扉に耳を当てて、会話を盗み聞く。
知らない人からものをもらっちゃいけませんって言ってるでしょ!
でも、あのお姉ちゃんがくれたの、おじちゃんと同じ飴玉だったよぅ……
関係ありません!
「なにしてるの?」
振り返ると、永琳が頭のおかしいやつでも見るような顔をしていた。なにか人生を打開できるものがポケットに入ってはいないかとまさぐり、やはり埃のかぶった封の切られていない飴玉が出てきた。
「これ、食べる?」
「用がないなら出て行きなさい」
そうした。
日がすっかり沈んでいて、わたしはちょっとだけ安心した。こんな心境でいる時に夕暮れの空なんか見せつけられたら、きっと世界を憎まずにはいられなかっただろうから。
そんなこんなで、一週間くらい親父を訪ねるだけの日々が続いた。親父の生殺与奪は相変わらずわたしに委ねられているし、その親父はどんどん痩せ細っていくし、親父が生きようが死のうが明日は必ず来る。だったら、とっとと背中を押してやるのが一番なんじゃないか。寝たきりの、それも絶縁している親父に話しかけるなんて、無駄でしかないんじゃないか?
わたしはなにを期待しているんだろう?
繋がれた管を全て引っこ抜いたら、きっと親父は死ねる。元からわたしの人生から手を引いていた親父が、もっと遠くへ行くだけ。親父とわたしの出会う確率がものすごく低かった世界から、絶対に出会わなくなる世界になるだけ。このまま生きてても苦しみ続けるだけなら、いい加減にその機械やらなんやらをぶっ壊しちまえよ……。
と、病室の扉がノックされて我に帰る。永琳はノックなんかしないし、親戚とかなら尚更だろうし、たぶん、他の患者がここをトイレかなんかと勘違いしてるんだろうと思って、無視した。
「魔理沙、いないの?」
霊夢の声だ!
「大丈夫?」扉を開くと、たいそう心配そうな霊夢の姿があった。「その……残念だったわね」
扉を開けてしまったことを後悔した。誰かの気遣いなんか求めちゃいなかったのに。
まともに会話なんかできる気がしないから、わたしは黙っていた。沈黙こそが最も価値のあるものだと霊夢に教えるかのように。わたしがここにいると霊夢にわかったのは、いつもの勘のおかげだろうし、その冴え渡る勘でわたしの心情も理解してくれと期待をかけてみる。
わたしは黙って座っていた。霊夢も始めは戸惑っていたけど、持つべきものは友だ。わたしの気持ちをわかってくれたらしい。初めから心配事なんかなんにもなかったみたいに、わたし達は押し黙り、黙り続け、価値が薄れるくらい黙った。
「なあ、霊夢」失われた価値を取り戻さんとして、喋ってみた。「果物の中で、なにが一番好き?」
「ええ?」質問の意味か意図か、或いはそのどちらもわかっていなさそうな顔をされた。「なんだろ、最近はみかんをよく食べたけど」
「そうか」
「なんなの?」
「別に」軽率に口を開いてしまったことを後悔していた。
「あのね、魔理沙……」
「なに?」
「あんたのせいじゃないからね」
「……なにが?」
「お父さんのこと」
「当然だろ。わたしのせいであってたまるか」
「なにかを気負っているように見えるけど」
「そんなことないよ」
「じゃあ、どうして何日も連絡もよこさずにここへ来たりしてるのよ」
「そんなに変か?わたしはこの人の……」
言葉に詰まった。自分がとんでもない自己中野郎になってしまったような気がして、その先が言えなかった。
霊夢は全てを見透かしたような顔をしていた。あんたは負い目を感じている。人生から手を引いたのはお父さんじゃない、あんたがお父さんの人生から手を引いたんじゃないの?
わたしにも呼吸器が必要なくらい、呼吸のリズムが崩れてしまう。俯いて、膝に置いた手に力が入る。霊夢はなにも言ってない。自分の考えてることを、想像上の親友の口から言わせて、言い訳の手段を作ろうとしている。
「魔理沙」霊夢が椅子から立ち上がる気配。「今度、神社で小規模な飲み会をやろうと思うんだけど」
酒で全てが上手く纏まるとは思えなかったけど、霊夢の提案を凄く魅力的に思った。それだけだった。
曖昧に頷くと、霊夢が病室から出て行った。入れ違いに永琳が入って来た。永琳は親父の体を拭いたり、ベッドを整えたり、機械をいじったりして、わたしに向き直った。
「今日はもう閉めますから」
「……うん」
「また、明日」
建物を出たら、憎たらしいオレンジの空が広がっていた。帰ればいい。こんな鼻持ちならない色をした空の下にいつまでもいたら、本当に誰かが悲しむようなことをやってしまいたくなる。どうせ死刑になるなら一人も十人も変わりゃしない、そんな気持ちで、わたしは帰路に着く。家には帰りたくなかった。閉じこもったら、それはそれで、危険な思想家にでもなってしまいそうだったから。
地面の草や土が舗装された道になって、舗装された道がまた土になった。周りの景色が竹林から見渡す限りの人や建物になって、木や川になった。わたしの気持ちはなんにも変わらなかったが、どこかに世界を変えるためのきっかけが落っこちちゃいないかと思って、歩き続けた。
地上から探すのが億劫になって、空を飛んでみた。進めば進むほど森が深くなるばかりで、探し求めてるものなんかどこにもなかった。世界が終わったら、きっと森や山だらけになるんだろうな、なんて思った。
「おい!」なにかが風を切る音と共に聞こえた声は、いきなり怒気を帯びていた。「誰だ、おめぇ」
声の方を見やると、いつか見た山姥が大鉈を持って、そこにいた。世界の果てまで来たようなつもりだったけど、全然そんなことはなかったらしい。
「会ったことあるだろ」わたしは言った。「あの時はもっと厚着してたけどな」
「ん?ああ……あの時の魔法使いか」などと言いながらも、やつは弾幕を飛ばしてくる。なるほど、さっきわたしを横切ったのは弾幕だったのか。
「ぐえっ!」
「え?なんで避けないの?」
視界を阻む煙の向こうから困惑した様子が伝わって来る。弾幕を喰らった痛みとは関係なしに体が動かなかった。
「戦うつもりがないなら、出て行け!」
次は殺すとばかりに、やつの持つ大鉈を想起させるような形の弾幕を放ってくる。体は動かない。弾幕なんかで死ぬとは思えなかったけど、無事でいられるような確証もなかった。
極彩色の死の気配が近づいてくるのを、わたしは黙って眺めていた。やっぱり、死ぬんじゃないか……死ぬのはとても恐ろしいことだけど、弾幕は喰らい慣れているし、これで死ぬということなら恐怖はさほどでもなかった。
と、まったく別の方向から衝撃が来て吹っ飛ばされた。間一髪のところで弾幕が目の前を通り過ぎてゆく。わたしはまだ生きていた。
「なんで助けた?」
当然の疑問を山姥にぶつける。山姥自身、自分でもなにをやったかわかっていないみたいだった。
「あ、いや……」
やつはしばし周囲を見渡し、それから真っ直ぐにわたしの目を見た。
「子供の目をしてた」
「はあ?」
「お前は殺せね。子供は殺しちゃいけねえんだ」
「おいおい、わたしはもう……」
「自分のことを大人だなんて思ってるやつほど、子供なんだ」
勘弁してくれ。
「来い。見たとこ腹を空かしてるみてえだし、飯を食わしせてやる」
本当に勘弁してくれ!ああ、どうしてこんな時に限って、わたしに優しくしてくれるんだ?どうしてわたしはやつに着いて行こうとしている?もうわたしのことなんか放って置いてくれ!
……きっかけはいつだって些細なことなんだ。もしかしたら、腹が減ってただけかもしれない。
山姥……坂田ネムノの後を追って、森の中に入る。ネムノは薄暗い森の中をすいすい進んでいくものだから、だんだんと距離を離されてしまう。その度にネムノはこっちを振り返って、わたしがちゃんと着いて行けてるかを確認する。どうにも気恥ずかしくて、やっぱり帰りたくなってしまう。
「おーい」と、振り返り振り返りしながらネムノ。「なにが食べたい?」
森の中を歩くのに疲れて、食欲なんかとっくに失せていた。
「肉……」声を出すのも嫌々だった。
「そうか、そうか。じゃあ、ちょっと寄り道して猪でも狩ってくべ」
「勘弁してくれ!」
結局、ネムノの家にあるものならなんでも良いと言うことになり、わたし達はさらに歩き続け、ようやく辿り着いた時には自分がなぜここにいるのかもわからなくなっていた(本当になぜ?)。
ネムノの掘っ建て小屋は、掘っ建て小屋というカテゴリーの中では立派と呼べる代物だった。中に入って、灯りを灯すと、思わず立ちすくんだ。壁や天井に、夥しい数の刃物が吊るされていた。全て一人で使うものの筈だろうけど、どういう用途で使い分けられることがあるのかは、想像したくなかった。
「びっくりしたか?」部屋の隅に積まれた薪を拾いながら、ネムノが笑った。「初めてここに来るやつはみんなびびっちまうから、諭すのがたいへんだよ」
「他にも誰かが来るのか?」
「ん……まあな。薪を外に運ぶのを手伝ってくれ」
「はいよ」
外に薪を運び出し、ネムノが本でしか見たことが無いような方法で火を付けようとするのを、漠然と眺めていた。火は魔法みたいに一瞬で付いてしまったので、大した考え事もできなかった。
「さっき、わたしの目を子供みたい、って言ったな」
ネムノは家の中から持ってきた食料を適当に火の中に突っ込んだ。火は勢いを増し、それでようやく温かいと思えるようになった。ただ、単にそれが火という理由だけで温かいんだとも思えなかった。火であること以上のなにかの理由が、わたしを釘付けにした。
「うちにもわからん。が、おめえの目は間違いなく子供だった」
「こんな山奥に住んでて、子供なんかと接する機会があるのか?」
「ある。むしろ、子供としかねえ」
「……まさか、あんたが産んだのか?」
「んもぉ、んなわけあっか!」
「痛い痛い!」
ネムノがバシバシとわたしの肩を叩いて、肩が外れそうになった。そういや妖怪だったなと思い出す。
「捨て子だよ」ネムノが言った。「親が山に捨てていったのを拾って、育ててる」
思わず背後を確認したり、立ち上がって火の向こう側を見たりした。この山にそんな負の側面があったということを知り、火に当たっているというのに寒気を感じた。
「焼けたぞ」ネムノは火の中に手を突っ込んで、中から食料を取り出し、手製の皿に乗せて、わたしにくれた。「まあ、悩みなんか美味いもんを食ってれば消えんべ」
「悩み事とは無縁そうなやつに言われてもなあ」
「こいつ!」バシバシ!「生意気なガキだ!」
「痛い痛い!落ちる、飯が落ちる!」
食え、と目線で促されて、手掴みで皿の上に乗ったものを食べる。なにかの木の実であることと、なかなかイケるということ以外はまったく正体不明の料理だったけど、そこから感じられる温かみもまた本物だった。
「どう?」ネムノが顔を覗き込んでくる。「美味いか?」
「うん」
普段からそこら辺に生えてるものを食い慣れている身としては、親近感が湧く。
「そうか!最近育ててた子は、木の実なんか絶対に食わないって聞かなかったからなあ」
「その子は?」
「栄養が足らなくて死んだ」
「……」
「母親の料理しか食わねぇって、その母親に捨てられたってのにな」
火のせいで陰って見えるネムノの表情が、悲しげに見えた。子供を喪ったことへの悲しみなのか、自分が母親だと認められないことへの悲しみなのかはわからなかった。
「親への執着が命を凌駕したんだ」ネムノの声には、どこか感動的な響きさえあった。
「そういう子供は送り返したりしないのか?」
「うちはこの山を出ることはない。だから、一人で帰らせる」
「それじゃあ……」
「ああ、大抵の子は途中で獣に襲われるか、道に迷うかして死ぬ」
「一人でも大人まで育てたことはあるのか……?」
「本当に一握りだが、あるぞ。きっと山の中のどこかで暮らしてるんじゃあないかな」
「でも、他の子はだいたい悲しい結果に終わってるじゃないか。そんなの……」
「悲しいとは思わん。その子達は自分を捨てた親のところへ自力で戻ろうとした。最後まで親のことを思って逝ったのなら、それは喜ばしいことじゃないか」
「また忘れてたよ。あんたが妖怪だってこと」
「価値観の違いが単なる種族の違いで済ませられるなら、楽なことだ。だけど……それすらできない子もいる。身体やオツムが悪い子だ。自分で考えたり、動くことができない子供は、一番よく見るな」
「……」
「もちろん、うちは育てる。子供は子供だ。だけど、そういう子達に限って、親の方から戻ってくるんだ」
「また拾いに来るってことか?」
ネムノは首を横に振った。
「殺しに来るんだ」
死の気配を背後に感じて振り返るが、獣一匹いやしなかった。捨てた子を殺しに来る親の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
「親は親だ。自分で産んだ子供と最後を共にしたいんだろ」
「……」
「すまんな、こんな話は子供に聞かせるもんじゃながっだ」
結局、わたしは親父のお情けで生かされていたってだけだったのか?家を出て行ったのはわたしの方だけど、子供の心境としては、捨てられたのだと思っても間違いではないのかもしれない。親父はわたしを殺しに来たりはしなかった。病気に体を蝕まれているのに、最後の時を一人で迎えようとしている。
「……また子供の目になっているぞ」
「なあ、あんた」目の端に溜まっているものを焼き尽くそうとして、焚き火をジッと睨み付ける。「子供を殺しに来た親に対して、あんたはどうするんだ?」
「好きな様にさせる。子供も親も死ぬが、それで構わないと思う。あの世では楽しく一緒に暮らせるだろう」
「子供を殺すような親が、子供と同じ場所に行けるとでも言うのか」
「幻想郷に天国なんて大層な場所は無いだろ?知らんがな」
「そうだな」目の辺りを袖で拭く。「そんな場所は見たことがない」
「やっぱりか!」
ネムノは嬉しそうだった。
火が消えたので、わたし達は家の中に入った。簡素な明かりが部屋の中に灯って、家中の刃物が光を反射する。まるで光さえも切り裂いているような刃物の大群の中は、冬の朝の布団の中みたいに落ち着いた。
わたし達は囲炉裏を挟んで、向かい合って座った。わたしはボーッとしていた。ネムノはそんなわたしのことを、母親みたいにぼんやりと眺めていた。
「なに考えてる?」と、ネムノが言った。「いや、わかるよ。親のことで悩んでるんだべ、そうだぁ?」
「うん」呆れてしまうくらいにすんなりと肯定してしまった。「あ、違う、別にそんな……」
「恥ずかしがるな。今だけはうちがお前の親だ。なんでも話してみろ」
「なあ、子供扱いはやめてくれよ。その方が恥ずかしいから」
「こんなのは『子供扱い』のうちに入らん。きっと、お前も親と一緒に過ごした時間が長くないんだろ、んだべ?」
「当たりだよ、ちくしょう!」
「そうか、そうか」
「……よくわかるなぁ」
「親の愛を受けられなかった子供は見慣れてるからな」
「……あのさ、親に捨てられた以外でここに来る子供って、どんなのがいる?」
「ただの迷子か……そんくらいだな」
「例えばだよ、自分から親の元を去った子供って言うのは……自立とかじゃなくて、嫌気が刺したとかで」
「お前もその類だな?」
「決めつけるなよ!そうだけど!」
ネムノは沈むように笑った。
「そういう子はな、最後には絶対に親のところへ帰るんだ。だから山なんかには来ない」
「……」
「どれだけお前が親から離れているか知らんけどな、親子間の愛っていうのは本物なんじゃないかと思うよ。どれだけ放浪してても、帰る場所って言うのは、親のいるところしかないんだ」
こんな山奥に引きこもってる奴がわかったような口を効きやがってと楯突く気にもならなかった。刃物に囲まれてるからじゃない。ネムノが言ったから、妙に説得力があるような気がした。
「でも……もうわからないんだ。あの人のことを、どうやって呼んでいたか」
「母親か?」
「父だ」
ネムノも首を傾げてしまった。しばし考えてから、ネムノは言った。
「呼び方なんか、お互いの関係を証明するものでもなんでもねえ。好きなように呼んでやれ。現に、今のうちはお前の親だが、お前はうちのことを『あんた』なんて呼ぶ」
「言っとくけどな、今の今までお前のことを親だなんて思ったことは一度もないからな」
「なにぃ?」ネムノが刃物を手に取りそうな気配があったが、気のせいだった。「生意気な口を聞くのはどの口だ?」
「欲しかったのはきっかけなんだと思う。誰かに聞いて欲しかったんだ。この……自分の心のざわつきを、吐き出してしまいたかった。たしかに、子供みたいな悩みだったよ」
「……」
「だから、親みたいな人に聞いて欲しかったんだ」
「ふふん」ネムノは刃物がはじき出した光から逃れようとするように、視線を逸らした。「子供みたいな悩みを抱えたら、うちがまた育ててやってもいいぞ」
「今はもう子供の目をしてないか?」
「うん」ネムノが真っ直ぐにこっちを見た。「夜空に浮かぶ星みたいに輝いた目をしているよ」
わたしは掘っ建て小屋を出て、空を見上げると、わたしの目みたいな星が瞬いていた……なんて、自意識過剰が過ぎるが、なんだか吹っ切れたような気分だった。冷たい風が心地良く体を撫でていく。
「ところでさ、あんたはどうして子供を育てるんだ?聞いてなかったよな」
「簡単なことだ。自分の存在を保つためだよ」
「そこは妖怪らしいのかよ」
「うちは誰かとの交流を好まないが、このままでは存在が希薄になってしまうだ。んだが、うちという存在の正体がそのまんま誰かに伝承するのも嬉しくない。子供相手なら、大人になっても、うちのことは子供の頃の不思議な出来事として片付けられるだろう。不思議というところがミソだ」
「よくわかったよ」
「でもな、それはあくまでお前達の言うところの妖怪としての価値観だ。坂田ネムノとしての価値観はだな……」
「ん?うわっ!」
ネムノが突然にわたしを抱き寄せ、ギュッと体で包み込む。火や料理よりも温かく、柔らかく、優しくて、強かった。いつまでもここにいたいと思えるような、神様から祝福されたような空間だった。
「子供はみんな可愛い!」
ネムノの胸に顔を埋めた。良い匂いとは言えないけど、心の底から安心できる匂いだった……が、
「お、おい……離せ……苦しい、息ができない……!」
ネムノから解放されて、山の新鮮な空気をたっぷりと吸う。ネムノは頬をポッと紅く染めて、もじもじと後ずさった。
「死ぬかと思った……」
「だ、大丈夫か?」
「ああ、うん……」ポケットに入っていたちり紙で鼻をかむ。「ああー……天国が見えた」
ネムノが笑いながらわたしの肩を叩いた。
「……山の奥にな、山姥って妖怪がいるんだ。前に会った時は戦ったんだけど、昨日は一緒に飯を食ったり、話を聞いて貰ったりしたよ。とても気の良いやつでさ……まあ、妖怪だし相容れないところはあるけど。それを言ったら人間相手にだって譲れないところはあるし、わたしにとっては個性が際立ってる仲間がまた一人出来たってだけかな。ああ、そうそう、アップルパイを作ってきたんだ。前に話しただろ?友達の……そう、友達の人形遣いに頼んで、作り方を教えてもらった。もしかしたら、その友達も、あんたは見たことがあるかもな。里で人形劇を演ってるから……永琳、アップルパイを食わせても良いか?」
「だめ」
わたしはアップルパイを鞄の中にしまった。永琳は親父の病室でやらなくてはならないことを一通りやってから、出て行った。
わたしも親父も黙っていたが、静寂が部屋を満たすことだけは許されない。この部屋が完全に無音になった時、それは親父が死ぬということ。
「なあ、辛いか?」
ピッ……ピッ……親父の命がまだここにあると証明してくれる電子音と会話しているみたいな気持ちになる。
「思えば、親孝行なんかなんにもしてこなかったよな。それどころか、わたしが家出して、きっと迷惑ばかりかけてるよな。その結果がこんなんで……本当に悪いと思ってるんだ。本当だよ」
横たわる親父の手を握ってみる。生まれて初めて触れたんじゃないかと思うほどに、新鮮な感触があった。
「冷たいな……」
窓から差し込む日の光でさえ、親父の体を温めてやることなど不可能なのか?親父はもう、歩くこともできなくなって、温もりも体から抜け出て行って、人間らしいこともできなくなって。
「今日は親孝行をしに来たんだよ」
娘が目の前にいても、父親らしいことなんかできなくなって。
「……わたしが楽にしてやる」
親の教えの中に自分の居場所を感じることができず、親から逃れた後でさえ自分がなにをすればいいかわからず、再び親と対面した時には全てが狂っていて、やっぱりどうすれば良いかなんかわからなかった。親との付き合い方なんか想像もできなかったし、その上相手が寝たきりとあっては、八方塞がりもいいとこだ。
ネムノが言った。親は親だ。自分の産んだ子供と最後の時を過ごしたい……まるで全ての親の代弁者みたいに、自信満々に言った。
寝たきりの親父はなにも言ってくれないけど、もしも親父もネムノみたいに思ってるんだとしたら、死ぬ時はわたしが側についてて欲しいと思っているんなら、わたしが送ろう。死ぬのは悲しいことだけど、わたしのいないところで死なれたりするのは、ただ死ぬことよりも悲しい。
親父に繋がれた管を全て引っこ抜くと、すぐに死神に取り憑かれたみたいに、親父の体が震えだした。死ぬ。今まさに親父が死に向かって歩き出している。西日が差し込む病室の中で、わたしはそれを眺めている。
「……苦しいのか?」
なに言ってんだ、こいつ。窓に映る、茫然としている自分の姿を見て思った。
「なあ、おい、なあ……」苦しみ喘ぐ親父の体を抱く。「苦しいのか、おい、なあ!」
ベッドの脇に落ちた管を拾って、もともと挿さっていた場所にもう一度挿そうとする。暴れる親父のせいで、全然上手くいかなかった。
「やめろ、おい、誰か来てくれ!永琳!」
わたしは叫んだ。ピッピッピ……間隔が短くなってくる電子音を掻き消すように叫んだ。
「ちくしょう、父さんが……父さんが死んじまう!誰か来てよ!お願いだぁ!」
親父の動きが止まって、眼から熱いものが溢れていく。
「死ぬな、死ぬな、父さん、死ぬな!うわぁぁぁ……」
病室の扉が勢いよく開かれ、わたしは親父の体から引き離され、壁に後頭部を思い切りぶつけた。それでも叫ぶ。
「永琳!お願いだ、頼む!父さんを……父さんを助けてくれ……」
鈴仙・優曇華院・イナバに頬をぶたれる。永琳はとっくに親父の命を救おうと意気込んでる。
「あんた、自分で殺そうとしたんじゃないの⁉︎」
「うるせえ!ちくしょう、父さんを死なせやがったらただじゃ済まさねえぞ!」
「師匠、助けるんですか⁉︎」鈴仙が永琳の方に向き直る。
「命を長らえさせることが、その人を助けることに繋がるとは思えない……たしかに、前はそう教えました」永琳が心臓マッサージかなにかをしながら言った。「本当に人の命を助けるということがどういうことか、これから教えてあげる。だから、鈴仙も手伝いなさい」
鈴仙はわたしを見下ろし、やれやれと言った感じにため息を吐き、親父を助けに行く。わたしは部屋の隅で祈ることしかできなかった。父親のために祈ってやることが、わたしの人生初の親孝行だった。
「よし!」鈴仙が言った。「息を吹き返した!」
「本当か⁉︎」思わず立ち上がり、鈴仙からゴミを見るような視線を貰う。「助かったのか⁉︎」
「命に関しては心配ありません」永琳が言った。「ですが、助かったと言えるかどうかは、あなた次第ですよ」
永琳の優しげな笑みに、人目も憚らず泣く。泣いて頭を下げまくった。永琳が鈴仙の肩を叩き、二人は病室を出て行った。
わたしは親父の顔を見た。あの世に送ろうとする前と、なんにも変わらないような気がした。それでも、生きている。こんな寝たきりの状態でも生きていてくれている。
「……あれ?」
親父の顔を眺めていて、気がつく。いつも親父と共にあった呼吸器のやつが見当たらない。呼吸器なしで、親父は呼吸をできていた。
助かったと言えるかどうかは、あなた次第ですよ。永琳の優しげな笑みや言葉が、頭の中を駆け抜けて行く。振り返ったが、部屋の中にはわたしと親父だけで、他には誰もいなかった。
ふと、感じる筈のない視線を感じて、また振り返った。電子音以外の音が、耳に入った。
「魔……理沙……?」
ずっと昔に聴いたような声が、ベッドの上から発せられていた。
「……」
この期に及んで言い淀む。部屋の外から嘲笑されたような気がして、何度も振り返ってしまう。
「そこにいるのは……魔理沙なのか?」
わたしはゆっくりと親父に顔を近づけて、半分くらい開いている目を覗き込んだ。
わかるんだ。家を出て、里でうっかり会ってもバレないように髪を染めたりしても、わかるものなんだな。
「その……」小さく咳き込んで、言った。「魔理沙、です」
「なんてこった……」
親父は天井を仰いで、信じられないものでも見たかのように言った。
「俺は今、天国にでもいるのか?」
きっかけは些細なこと。そのきっかけって言うのは、きっと幻想郷でも外の世界でも珍しいもんじゃない、そこら中に転がってるもので、そんなものにわたし達はハッピーにされたり、悲しい目に遭わされたりする。きっかけ=些細なこと、と考えてるくらいだ。サンスクリット語って知ってる?いったい、いつ使うんだって言うような単語がたくさんあるんだけど、たまに「おっ」と思うような表現があるんだよな。きっかけって言葉の語源がサンスクリット語だとして、「些細な」みたいな意味だったら、とても納得する。
親父はとっくに病理に侵されていた。身体を蝕むそれは、やっぱりどこにでもあるそれで、発作が起きたら血を吐いて倒れるような今時珍しくもなんともない症状を見せる。今時、血を吐くシーンなんか、どんなに小さい子でも見れるって言うのに、里の中でいきなり発作を起こした親父を見たら、思わず駆け寄っちまった。きっかけと言えば、それもそう。わたしがたまたま里を歩いていたら、親父が血を吐いて倒れ、そして、たまたま走っていた馬車に轢かれた。
どうすることもできなかった。治療の心得が無いとか、そういう理由じゃない。目の前で死にゆく親父に対して、わたしは見送ることしかできなかった。親父を轢いた馬車が親父を乗せて走り去るのをではなく、親父があの世に行くのを。
すぐに追いかけて、馬車の運転手と一緒に竹林を駆け抜けて、永遠亭に運び込んだ。里の中にも医者はたくさんいるけど、親父の容体は永琳以外の手には負えないように見えたと、運転手は言った。まったくもって同感だった。
すぐに手術が始まって、一時間くらい経った。もっと経ったかもしれない。とにかく一時間という時間を恐ろしく長く感じた。人が死ぬのに準備も覚悟もできないくらい短い時間だったから、どうせ手術が失敗して死ぬというのなら、もっと長い時間、どうにか治療を施して、死ぬ準備やら覚悟やらをさせてやれと思った。親父が死んだって、どうでも良いみたいだった。諦めと言えば諦めだが、そういう感情を抱いたのはこの時が初めてじゃない。遠い昔に撒いた諦めの種が、この時になってようやく花をつけただけ。
手術は成功した。親父は死の淵から蘇った。馬車の運転手がわたし以上に喜んだ。わたしは少しも喜ばなかったから、当然だ。
ベッドに寝かされた親父は、とてもじゃないが生きているとは胸を張って言えなかった。たくさんの管でたくさんの機械と繋がれて、こうまでして生かしておく理由なんか無いような気さえした。
「あなた、この人の子供でしょ?」永琳が言った。
「どうしてわかった?」
「顔立ちが似ているから」
「……」
「見ての通り、こんな状態では生きているとは言い難いし、今までと同じように生活ができるまで回復するとは限らない。もしもあなたが望むなら……」
時間をくれ、とだけ言って、その日は帰った。それから二日間、膝を抱えて家で過ごした。なんの変化もなかった。なにかを考えたりすることすら無かった。人生で最も不必要で無意味で無駄な二日間だった。
きっかけは些細なこと。洗面台で顔を洗ったら水がいつもより冷たく感じたとか、本棚から本が落ちてきたとか、なんでもないことがわたしを動かしてくれた。二日ぶりに風呂に入り、二日ぶりに着替え、二日ぶりに飯を食ってから、二日ぶりに日の光を浴びた。うんざりするくらい、良い天気だったのを覚えている。
親父の病室には親父以外に誰もいなかった。なんとなく、ここには命と呼べるものなんか一つもないなと思った。親父の口に当てられた呼吸器が白く曇るのと、一定の間隔で鳴る電子音だけが、親父がまだ生きているということを事実たらしめていた。
「来たぜ」
すんなりと出てきた言葉に、自分でも驚いた。親父はなんにも答えてくれなかったけど、一瞬だけ呼吸が止まったような気がして、喋らない方が良いんじゃないかと思った。
電子音を聞きながら佇んでいたら、永琳が病室に入って来て、わたしを見るや否やびっくりした。わたしがまたここに来るなんて、思ってもいなかったらしい。それだけだった。永琳は黙って親父の体を拭いたり、呼吸器を取り替えたりした。
「なあ、その人を助けられないのか?」
部屋を出て行こうとする永琳の背中に声をかけた。永琳は立ち止まり、こちらに半目を据えて、こう言った。
「命を長らえさせることが、人を助けることにも結びつくとは思えません」
永琳は部屋を出た。寝たきりの親父は温かな西日に包まれていて、お天道様でさえ親父を苦しめているような気がした。
「また来るよ」
返事は無かった。
次に来た時には、親父の近縁者や知り合いや古い友人がたくさん来ていた。迷いの竹林は誰一人迷わせることなく、親父の不幸を悲しむべき人間達を親父の元へ導いたのだ。誰も来ないだろと思って病室に入って、びっくりしてしまった。いつもの白黒の格好で来たのはわたしだけで、他の人間は死にゆく人を見送るのに相応しい格好をしていた。自分を恥じずにいられない。こういう場は初めてじゃないのに。
親父の見舞いに来ていたのは、錚々たる顔ぶれだった。わたしでも知ってる顔が多いって意味で。だけど、向こうの方はわたしがベットで眠っている男の娘だとは気付かなかったらしい。不思議そうに会釈したり、常識を知らない若者のふしだらにイラついたりするだけだった。
わたしは病室を出、扉越しに中の会話を聞いた。わたしへの文句も程々に、すぐに親父が死んだ後の、あまり他人には聞かれたくないような問題の話になった。
「お姉ちゃん、だれ?ドアの前でなにしてるの?」
中の口論が白熱の度合いを増してきた頃に、その女の子は来た。中の誰かの子供だろうと思った。その女の子を一目見て、胸に誓ったことがある。自分の境遇とこの子の境遇を照らし合わせ、どちらがマシか、などと考えるようなことは絶対にやめよう。
「おう、ガキ。歩くのに疲れてな、休んでるだけだよ」
「ふうん……」
「もしかして、邪魔か?」
「いいよ。大人の話はつまらないし」
「だよな」
手持ち無沙汰になって、ポケットの中をまさぐった。なにか人生を打開できるようなものがあればいいなと思ったけど、いつ買ったか思い出せないような飴玉くらいしかなかった。
「これ、食うか?」
自分で舐める気にもならなかったので、女の子に差し出した。
「うん!」
女の子は大喜びで封を開けて、あっ、と声を上げた。
「これ、いつもおじちゃんがくれるやつ!」
女の子が摘み上げたのは、星の形をした水色の飴だった。
「おじちゃん?」
「うん。お姉ちゃんの後ろにある部屋のベッドで、寝てるんだ」
「……」
「色も形も一緒だよ!」
と、後ろの扉が引いて、ずっこけてしまうところだった。振り返ると、女の子の母親らしき女がぷりぷり怒りながら、わたしに鬼のような一瞥をくれてから、女の子の方に向き直った。
「なに、それ」『それ』が女の子が手に持っている飴玉を差しているのは明白だった。
「お姉ちゃんから貰ったの」
女の子がわたしを見ると、やはり母親もこちらを見た。憧れと軽蔑を同時に向けられるのは生まれて初めてだった。
「ありがとうございます」母親が会釈して、こっちはしどろもどろになった。
「あ、いや……別に」
「あんたも中に入りなさい。静かにしてるのよ」
嫌がる女の子の手を引きながら、母親は扉を閉めた。取り残されたわたしは扉に耳を当てて、会話を盗み聞く。
知らない人からものをもらっちゃいけませんって言ってるでしょ!
でも、あのお姉ちゃんがくれたの、おじちゃんと同じ飴玉だったよぅ……
関係ありません!
「なにしてるの?」
振り返ると、永琳が頭のおかしいやつでも見るような顔をしていた。なにか人生を打開できるものがポケットに入ってはいないかとまさぐり、やはり埃のかぶった封の切られていない飴玉が出てきた。
「これ、食べる?」
「用がないなら出て行きなさい」
そうした。
日がすっかり沈んでいて、わたしはちょっとだけ安心した。こんな心境でいる時に夕暮れの空なんか見せつけられたら、きっと世界を憎まずにはいられなかっただろうから。
そんなこんなで、一週間くらい親父を訪ねるだけの日々が続いた。親父の生殺与奪は相変わらずわたしに委ねられているし、その親父はどんどん痩せ細っていくし、親父が生きようが死のうが明日は必ず来る。だったら、とっとと背中を押してやるのが一番なんじゃないか。寝たきりの、それも絶縁している親父に話しかけるなんて、無駄でしかないんじゃないか?
わたしはなにを期待しているんだろう?
繋がれた管を全て引っこ抜いたら、きっと親父は死ねる。元からわたしの人生から手を引いていた親父が、もっと遠くへ行くだけ。親父とわたしの出会う確率がものすごく低かった世界から、絶対に出会わなくなる世界になるだけ。このまま生きてても苦しみ続けるだけなら、いい加減にその機械やらなんやらをぶっ壊しちまえよ……。
と、病室の扉がノックされて我に帰る。永琳はノックなんかしないし、親戚とかなら尚更だろうし、たぶん、他の患者がここをトイレかなんかと勘違いしてるんだろうと思って、無視した。
「魔理沙、いないの?」
霊夢の声だ!
「大丈夫?」扉を開くと、たいそう心配そうな霊夢の姿があった。「その……残念だったわね」
扉を開けてしまったことを後悔した。誰かの気遣いなんか求めちゃいなかったのに。
まともに会話なんかできる気がしないから、わたしは黙っていた。沈黙こそが最も価値のあるものだと霊夢に教えるかのように。わたしがここにいると霊夢にわかったのは、いつもの勘のおかげだろうし、その冴え渡る勘でわたしの心情も理解してくれと期待をかけてみる。
わたしは黙って座っていた。霊夢も始めは戸惑っていたけど、持つべきものは友だ。わたしの気持ちをわかってくれたらしい。初めから心配事なんかなんにもなかったみたいに、わたし達は押し黙り、黙り続け、価値が薄れるくらい黙った。
「なあ、霊夢」失われた価値を取り戻さんとして、喋ってみた。「果物の中で、なにが一番好き?」
「ええ?」質問の意味か意図か、或いはそのどちらもわかっていなさそうな顔をされた。「なんだろ、最近はみかんをよく食べたけど」
「そうか」
「なんなの?」
「別に」軽率に口を開いてしまったことを後悔していた。
「あのね、魔理沙……」
「なに?」
「あんたのせいじゃないからね」
「……なにが?」
「お父さんのこと」
「当然だろ。わたしのせいであってたまるか」
「なにかを気負っているように見えるけど」
「そんなことないよ」
「じゃあ、どうして何日も連絡もよこさずにここへ来たりしてるのよ」
「そんなに変か?わたしはこの人の……」
言葉に詰まった。自分がとんでもない自己中野郎になってしまったような気がして、その先が言えなかった。
霊夢は全てを見透かしたような顔をしていた。あんたは負い目を感じている。人生から手を引いたのはお父さんじゃない、あんたがお父さんの人生から手を引いたんじゃないの?
わたしにも呼吸器が必要なくらい、呼吸のリズムが崩れてしまう。俯いて、膝に置いた手に力が入る。霊夢はなにも言ってない。自分の考えてることを、想像上の親友の口から言わせて、言い訳の手段を作ろうとしている。
「魔理沙」霊夢が椅子から立ち上がる気配。「今度、神社で小規模な飲み会をやろうと思うんだけど」
酒で全てが上手く纏まるとは思えなかったけど、霊夢の提案を凄く魅力的に思った。それだけだった。
曖昧に頷くと、霊夢が病室から出て行った。入れ違いに永琳が入って来た。永琳は親父の体を拭いたり、ベッドを整えたり、機械をいじったりして、わたしに向き直った。
「今日はもう閉めますから」
「……うん」
「また、明日」
建物を出たら、憎たらしいオレンジの空が広がっていた。帰ればいい。こんな鼻持ちならない色をした空の下にいつまでもいたら、本当に誰かが悲しむようなことをやってしまいたくなる。どうせ死刑になるなら一人も十人も変わりゃしない、そんな気持ちで、わたしは帰路に着く。家には帰りたくなかった。閉じこもったら、それはそれで、危険な思想家にでもなってしまいそうだったから。
地面の草や土が舗装された道になって、舗装された道がまた土になった。周りの景色が竹林から見渡す限りの人や建物になって、木や川になった。わたしの気持ちはなんにも変わらなかったが、どこかに世界を変えるためのきっかけが落っこちちゃいないかと思って、歩き続けた。
地上から探すのが億劫になって、空を飛んでみた。進めば進むほど森が深くなるばかりで、探し求めてるものなんかどこにもなかった。世界が終わったら、きっと森や山だらけになるんだろうな、なんて思った。
「おい!」なにかが風を切る音と共に聞こえた声は、いきなり怒気を帯びていた。「誰だ、おめぇ」
声の方を見やると、いつか見た山姥が大鉈を持って、そこにいた。世界の果てまで来たようなつもりだったけど、全然そんなことはなかったらしい。
「会ったことあるだろ」わたしは言った。「あの時はもっと厚着してたけどな」
「ん?ああ……あの時の魔法使いか」などと言いながらも、やつは弾幕を飛ばしてくる。なるほど、さっきわたしを横切ったのは弾幕だったのか。
「ぐえっ!」
「え?なんで避けないの?」
視界を阻む煙の向こうから困惑した様子が伝わって来る。弾幕を喰らった痛みとは関係なしに体が動かなかった。
「戦うつもりがないなら、出て行け!」
次は殺すとばかりに、やつの持つ大鉈を想起させるような形の弾幕を放ってくる。体は動かない。弾幕なんかで死ぬとは思えなかったけど、無事でいられるような確証もなかった。
極彩色の死の気配が近づいてくるのを、わたしは黙って眺めていた。やっぱり、死ぬんじゃないか……死ぬのはとても恐ろしいことだけど、弾幕は喰らい慣れているし、これで死ぬということなら恐怖はさほどでもなかった。
と、まったく別の方向から衝撃が来て吹っ飛ばされた。間一髪のところで弾幕が目の前を通り過ぎてゆく。わたしはまだ生きていた。
「なんで助けた?」
当然の疑問を山姥にぶつける。山姥自身、自分でもなにをやったかわかっていないみたいだった。
「あ、いや……」
やつはしばし周囲を見渡し、それから真っ直ぐにわたしの目を見た。
「子供の目をしてた」
「はあ?」
「お前は殺せね。子供は殺しちゃいけねえんだ」
「おいおい、わたしはもう……」
「自分のことを大人だなんて思ってるやつほど、子供なんだ」
勘弁してくれ。
「来い。見たとこ腹を空かしてるみてえだし、飯を食わしせてやる」
本当に勘弁してくれ!ああ、どうしてこんな時に限って、わたしに優しくしてくれるんだ?どうしてわたしはやつに着いて行こうとしている?もうわたしのことなんか放って置いてくれ!
……きっかけはいつだって些細なことなんだ。もしかしたら、腹が減ってただけかもしれない。
山姥……坂田ネムノの後を追って、森の中に入る。ネムノは薄暗い森の中をすいすい進んでいくものだから、だんだんと距離を離されてしまう。その度にネムノはこっちを振り返って、わたしがちゃんと着いて行けてるかを確認する。どうにも気恥ずかしくて、やっぱり帰りたくなってしまう。
「おーい」と、振り返り振り返りしながらネムノ。「なにが食べたい?」
森の中を歩くのに疲れて、食欲なんかとっくに失せていた。
「肉……」声を出すのも嫌々だった。
「そうか、そうか。じゃあ、ちょっと寄り道して猪でも狩ってくべ」
「勘弁してくれ!」
結局、ネムノの家にあるものならなんでも良いと言うことになり、わたし達はさらに歩き続け、ようやく辿り着いた時には自分がなぜここにいるのかもわからなくなっていた(本当になぜ?)。
ネムノの掘っ建て小屋は、掘っ建て小屋というカテゴリーの中では立派と呼べる代物だった。中に入って、灯りを灯すと、思わず立ちすくんだ。壁や天井に、夥しい数の刃物が吊るされていた。全て一人で使うものの筈だろうけど、どういう用途で使い分けられることがあるのかは、想像したくなかった。
「びっくりしたか?」部屋の隅に積まれた薪を拾いながら、ネムノが笑った。「初めてここに来るやつはみんなびびっちまうから、諭すのがたいへんだよ」
「他にも誰かが来るのか?」
「ん……まあな。薪を外に運ぶのを手伝ってくれ」
「はいよ」
外に薪を運び出し、ネムノが本でしか見たことが無いような方法で火を付けようとするのを、漠然と眺めていた。火は魔法みたいに一瞬で付いてしまったので、大した考え事もできなかった。
「さっき、わたしの目を子供みたい、って言ったな」
ネムノは家の中から持ってきた食料を適当に火の中に突っ込んだ。火は勢いを増し、それでようやく温かいと思えるようになった。ただ、単にそれが火という理由だけで温かいんだとも思えなかった。火であること以上のなにかの理由が、わたしを釘付けにした。
「うちにもわからん。が、おめえの目は間違いなく子供だった」
「こんな山奥に住んでて、子供なんかと接する機会があるのか?」
「ある。むしろ、子供としかねえ」
「……まさか、あんたが産んだのか?」
「んもぉ、んなわけあっか!」
「痛い痛い!」
ネムノがバシバシとわたしの肩を叩いて、肩が外れそうになった。そういや妖怪だったなと思い出す。
「捨て子だよ」ネムノが言った。「親が山に捨てていったのを拾って、育ててる」
思わず背後を確認したり、立ち上がって火の向こう側を見たりした。この山にそんな負の側面があったということを知り、火に当たっているというのに寒気を感じた。
「焼けたぞ」ネムノは火の中に手を突っ込んで、中から食料を取り出し、手製の皿に乗せて、わたしにくれた。「まあ、悩みなんか美味いもんを食ってれば消えんべ」
「悩み事とは無縁そうなやつに言われてもなあ」
「こいつ!」バシバシ!「生意気なガキだ!」
「痛い痛い!落ちる、飯が落ちる!」
食え、と目線で促されて、手掴みで皿の上に乗ったものを食べる。なにかの木の実であることと、なかなかイケるということ以外はまったく正体不明の料理だったけど、そこから感じられる温かみもまた本物だった。
「どう?」ネムノが顔を覗き込んでくる。「美味いか?」
「うん」
普段からそこら辺に生えてるものを食い慣れている身としては、親近感が湧く。
「そうか!最近育ててた子は、木の実なんか絶対に食わないって聞かなかったからなあ」
「その子は?」
「栄養が足らなくて死んだ」
「……」
「母親の料理しか食わねぇって、その母親に捨てられたってのにな」
火のせいで陰って見えるネムノの表情が、悲しげに見えた。子供を喪ったことへの悲しみなのか、自分が母親だと認められないことへの悲しみなのかはわからなかった。
「親への執着が命を凌駕したんだ」ネムノの声には、どこか感動的な響きさえあった。
「そういう子供は送り返したりしないのか?」
「うちはこの山を出ることはない。だから、一人で帰らせる」
「それじゃあ……」
「ああ、大抵の子は途中で獣に襲われるか、道に迷うかして死ぬ」
「一人でも大人まで育てたことはあるのか……?」
「本当に一握りだが、あるぞ。きっと山の中のどこかで暮らしてるんじゃあないかな」
「でも、他の子はだいたい悲しい結果に終わってるじゃないか。そんなの……」
「悲しいとは思わん。その子達は自分を捨てた親のところへ自力で戻ろうとした。最後まで親のことを思って逝ったのなら、それは喜ばしいことじゃないか」
「また忘れてたよ。あんたが妖怪だってこと」
「価値観の違いが単なる種族の違いで済ませられるなら、楽なことだ。だけど……それすらできない子もいる。身体やオツムが悪い子だ。自分で考えたり、動くことができない子供は、一番よく見るな」
「……」
「もちろん、うちは育てる。子供は子供だ。だけど、そういう子達に限って、親の方から戻ってくるんだ」
「また拾いに来るってことか?」
ネムノは首を横に振った。
「殺しに来るんだ」
死の気配を背後に感じて振り返るが、獣一匹いやしなかった。捨てた子を殺しに来る親の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
「親は親だ。自分で産んだ子供と最後を共にしたいんだろ」
「……」
「すまんな、こんな話は子供に聞かせるもんじゃながっだ」
結局、わたしは親父のお情けで生かされていたってだけだったのか?家を出て行ったのはわたしの方だけど、子供の心境としては、捨てられたのだと思っても間違いではないのかもしれない。親父はわたしを殺しに来たりはしなかった。病気に体を蝕まれているのに、最後の時を一人で迎えようとしている。
「……また子供の目になっているぞ」
「なあ、あんた」目の端に溜まっているものを焼き尽くそうとして、焚き火をジッと睨み付ける。「子供を殺しに来た親に対して、あんたはどうするんだ?」
「好きな様にさせる。子供も親も死ぬが、それで構わないと思う。あの世では楽しく一緒に暮らせるだろう」
「子供を殺すような親が、子供と同じ場所に行けるとでも言うのか」
「幻想郷に天国なんて大層な場所は無いだろ?知らんがな」
「そうだな」目の辺りを袖で拭く。「そんな場所は見たことがない」
「やっぱりか!」
ネムノは嬉しそうだった。
火が消えたので、わたし達は家の中に入った。簡素な明かりが部屋の中に灯って、家中の刃物が光を反射する。まるで光さえも切り裂いているような刃物の大群の中は、冬の朝の布団の中みたいに落ち着いた。
わたし達は囲炉裏を挟んで、向かい合って座った。わたしはボーッとしていた。ネムノはそんなわたしのことを、母親みたいにぼんやりと眺めていた。
「なに考えてる?」と、ネムノが言った。「いや、わかるよ。親のことで悩んでるんだべ、そうだぁ?」
「うん」呆れてしまうくらいにすんなりと肯定してしまった。「あ、違う、別にそんな……」
「恥ずかしがるな。今だけはうちがお前の親だ。なんでも話してみろ」
「なあ、子供扱いはやめてくれよ。その方が恥ずかしいから」
「こんなのは『子供扱い』のうちに入らん。きっと、お前も親と一緒に過ごした時間が長くないんだろ、んだべ?」
「当たりだよ、ちくしょう!」
「そうか、そうか」
「……よくわかるなぁ」
「親の愛を受けられなかった子供は見慣れてるからな」
「……あのさ、親に捨てられた以外でここに来る子供って、どんなのがいる?」
「ただの迷子か……そんくらいだな」
「例えばだよ、自分から親の元を去った子供って言うのは……自立とかじゃなくて、嫌気が刺したとかで」
「お前もその類だな?」
「決めつけるなよ!そうだけど!」
ネムノは沈むように笑った。
「そういう子はな、最後には絶対に親のところへ帰るんだ。だから山なんかには来ない」
「……」
「どれだけお前が親から離れているか知らんけどな、親子間の愛っていうのは本物なんじゃないかと思うよ。どれだけ放浪してても、帰る場所って言うのは、親のいるところしかないんだ」
こんな山奥に引きこもってる奴がわかったような口を効きやがってと楯突く気にもならなかった。刃物に囲まれてるからじゃない。ネムノが言ったから、妙に説得力があるような気がした。
「でも……もうわからないんだ。あの人のことを、どうやって呼んでいたか」
「母親か?」
「父だ」
ネムノも首を傾げてしまった。しばし考えてから、ネムノは言った。
「呼び方なんか、お互いの関係を証明するものでもなんでもねえ。好きなように呼んでやれ。現に、今のうちはお前の親だが、お前はうちのことを『あんた』なんて呼ぶ」
「言っとくけどな、今の今までお前のことを親だなんて思ったことは一度もないからな」
「なにぃ?」ネムノが刃物を手に取りそうな気配があったが、気のせいだった。「生意気な口を聞くのはどの口だ?」
「欲しかったのはきっかけなんだと思う。誰かに聞いて欲しかったんだ。この……自分の心のざわつきを、吐き出してしまいたかった。たしかに、子供みたいな悩みだったよ」
「……」
「だから、親みたいな人に聞いて欲しかったんだ」
「ふふん」ネムノは刃物がはじき出した光から逃れようとするように、視線を逸らした。「子供みたいな悩みを抱えたら、うちがまた育ててやってもいいぞ」
「今はもう子供の目をしてないか?」
「うん」ネムノが真っ直ぐにこっちを見た。「夜空に浮かぶ星みたいに輝いた目をしているよ」
わたしは掘っ建て小屋を出て、空を見上げると、わたしの目みたいな星が瞬いていた……なんて、自意識過剰が過ぎるが、なんだか吹っ切れたような気分だった。冷たい風が心地良く体を撫でていく。
「ところでさ、あんたはどうして子供を育てるんだ?聞いてなかったよな」
「簡単なことだ。自分の存在を保つためだよ」
「そこは妖怪らしいのかよ」
「うちは誰かとの交流を好まないが、このままでは存在が希薄になってしまうだ。んだが、うちという存在の正体がそのまんま誰かに伝承するのも嬉しくない。子供相手なら、大人になっても、うちのことは子供の頃の不思議な出来事として片付けられるだろう。不思議というところがミソだ」
「よくわかったよ」
「でもな、それはあくまでお前達の言うところの妖怪としての価値観だ。坂田ネムノとしての価値観はだな……」
「ん?うわっ!」
ネムノが突然にわたしを抱き寄せ、ギュッと体で包み込む。火や料理よりも温かく、柔らかく、優しくて、強かった。いつまでもここにいたいと思えるような、神様から祝福されたような空間だった。
「子供はみんな可愛い!」
ネムノの胸に顔を埋めた。良い匂いとは言えないけど、心の底から安心できる匂いだった……が、
「お、おい……離せ……苦しい、息ができない……!」
ネムノから解放されて、山の新鮮な空気をたっぷりと吸う。ネムノは頬をポッと紅く染めて、もじもじと後ずさった。
「死ぬかと思った……」
「だ、大丈夫か?」
「ああ、うん……」ポケットに入っていたちり紙で鼻をかむ。「ああー……天国が見えた」
ネムノが笑いながらわたしの肩を叩いた。
「……山の奥にな、山姥って妖怪がいるんだ。前に会った時は戦ったんだけど、昨日は一緒に飯を食ったり、話を聞いて貰ったりしたよ。とても気の良いやつでさ……まあ、妖怪だし相容れないところはあるけど。それを言ったら人間相手にだって譲れないところはあるし、わたしにとっては個性が際立ってる仲間がまた一人出来たってだけかな。ああ、そうそう、アップルパイを作ってきたんだ。前に話しただろ?友達の……そう、友達の人形遣いに頼んで、作り方を教えてもらった。もしかしたら、その友達も、あんたは見たことがあるかもな。里で人形劇を演ってるから……永琳、アップルパイを食わせても良いか?」
「だめ」
わたしはアップルパイを鞄の中にしまった。永琳は親父の病室でやらなくてはならないことを一通りやってから、出て行った。
わたしも親父も黙っていたが、静寂が部屋を満たすことだけは許されない。この部屋が完全に無音になった時、それは親父が死ぬということ。
「なあ、辛いか?」
ピッ……ピッ……親父の命がまだここにあると証明してくれる電子音と会話しているみたいな気持ちになる。
「思えば、親孝行なんかなんにもしてこなかったよな。それどころか、わたしが家出して、きっと迷惑ばかりかけてるよな。その結果がこんなんで……本当に悪いと思ってるんだ。本当だよ」
横たわる親父の手を握ってみる。生まれて初めて触れたんじゃないかと思うほどに、新鮮な感触があった。
「冷たいな……」
窓から差し込む日の光でさえ、親父の体を温めてやることなど不可能なのか?親父はもう、歩くこともできなくなって、温もりも体から抜け出て行って、人間らしいこともできなくなって。
「今日は親孝行をしに来たんだよ」
娘が目の前にいても、父親らしいことなんかできなくなって。
「……わたしが楽にしてやる」
親の教えの中に自分の居場所を感じることができず、親から逃れた後でさえ自分がなにをすればいいかわからず、再び親と対面した時には全てが狂っていて、やっぱりどうすれば良いかなんかわからなかった。親との付き合い方なんか想像もできなかったし、その上相手が寝たきりとあっては、八方塞がりもいいとこだ。
ネムノが言った。親は親だ。自分の産んだ子供と最後の時を過ごしたい……まるで全ての親の代弁者みたいに、自信満々に言った。
寝たきりの親父はなにも言ってくれないけど、もしも親父もネムノみたいに思ってるんだとしたら、死ぬ時はわたしが側についてて欲しいと思っているんなら、わたしが送ろう。死ぬのは悲しいことだけど、わたしのいないところで死なれたりするのは、ただ死ぬことよりも悲しい。
親父に繋がれた管を全て引っこ抜くと、すぐに死神に取り憑かれたみたいに、親父の体が震えだした。死ぬ。今まさに親父が死に向かって歩き出している。西日が差し込む病室の中で、わたしはそれを眺めている。
「……苦しいのか?」
なに言ってんだ、こいつ。窓に映る、茫然としている自分の姿を見て思った。
「なあ、おい、なあ……」苦しみ喘ぐ親父の体を抱く。「苦しいのか、おい、なあ!」
ベッドの脇に落ちた管を拾って、もともと挿さっていた場所にもう一度挿そうとする。暴れる親父のせいで、全然上手くいかなかった。
「やめろ、おい、誰か来てくれ!永琳!」
わたしは叫んだ。ピッピッピ……間隔が短くなってくる電子音を掻き消すように叫んだ。
「ちくしょう、父さんが……父さんが死んじまう!誰か来てよ!お願いだぁ!」
親父の動きが止まって、眼から熱いものが溢れていく。
「死ぬな、死ぬな、父さん、死ぬな!うわぁぁぁ……」
病室の扉が勢いよく開かれ、わたしは親父の体から引き離され、壁に後頭部を思い切りぶつけた。それでも叫ぶ。
「永琳!お願いだ、頼む!父さんを……父さんを助けてくれ……」
鈴仙・優曇華院・イナバに頬をぶたれる。永琳はとっくに親父の命を救おうと意気込んでる。
「あんた、自分で殺そうとしたんじゃないの⁉︎」
「うるせえ!ちくしょう、父さんを死なせやがったらただじゃ済まさねえぞ!」
「師匠、助けるんですか⁉︎」鈴仙が永琳の方に向き直る。
「命を長らえさせることが、その人を助けることに繋がるとは思えない……たしかに、前はそう教えました」永琳が心臓マッサージかなにかをしながら言った。「本当に人の命を助けるということがどういうことか、これから教えてあげる。だから、鈴仙も手伝いなさい」
鈴仙はわたしを見下ろし、やれやれと言った感じにため息を吐き、親父を助けに行く。わたしは部屋の隅で祈ることしかできなかった。父親のために祈ってやることが、わたしの人生初の親孝行だった。
「よし!」鈴仙が言った。「息を吹き返した!」
「本当か⁉︎」思わず立ち上がり、鈴仙からゴミを見るような視線を貰う。「助かったのか⁉︎」
「命に関しては心配ありません」永琳が言った。「ですが、助かったと言えるかどうかは、あなた次第ですよ」
永琳の優しげな笑みに、人目も憚らず泣く。泣いて頭を下げまくった。永琳が鈴仙の肩を叩き、二人は病室を出て行った。
わたしは親父の顔を見た。あの世に送ろうとする前と、なんにも変わらないような気がした。それでも、生きている。こんな寝たきりの状態でも生きていてくれている。
「……あれ?」
親父の顔を眺めていて、気がつく。いつも親父と共にあった呼吸器のやつが見当たらない。呼吸器なしで、親父は呼吸をできていた。
助かったと言えるかどうかは、あなた次第ですよ。永琳の優しげな笑みや言葉が、頭の中を駆け抜けて行く。振り返ったが、部屋の中にはわたしと親父だけで、他には誰もいなかった。
ふと、感じる筈のない視線を感じて、また振り返った。電子音以外の音が、耳に入った。
「魔……理沙……?」
ずっと昔に聴いたような声が、ベッドの上から発せられていた。
「……」
この期に及んで言い淀む。部屋の外から嘲笑されたような気がして、何度も振り返ってしまう。
「そこにいるのは……魔理沙なのか?」
わたしはゆっくりと親父に顔を近づけて、半分くらい開いている目を覗き込んだ。
わかるんだ。家を出て、里でうっかり会ってもバレないように髪を染めたりしても、わかるものなんだな。
「その……」小さく咳き込んで、言った。「魔理沙、です」
「なんてこった……」
親父は天井を仰いで、信じられないものでも見たかのように言った。
「俺は今、天国にでもいるのか?」
唐突に突き付けられた現実にどうしたらいいかわからず右往左往する魔理沙がよかったです
思わずネムノに甘えてしまうところも、最後に根性を見せようとしてやっぱり死んでほしくないと騒ぐ姿もとても素晴らしかったです
楽しんで読めました
空寒さの中で暖かさに触れるような感触が印象に残りました