Coolier - 新生・東方創想話

その目に触れさせてよ

2026/09/06 07:32:43
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目を、開けた。瞬きが数回、間延びした間隔で繰り返される。やがて体を起こすと、気だるそうに頭を押さえた。
時刻はすでにお昼過ぎ。寝過ぎてしまったときの、頭に重くのしかかるあの感じだ。

「あー……だるい。昨日どうやって帰ったんだっけ……」

ぺた……ぺた、と廊下に不規則な音が響く。毎朝のルーティンをこなすために、キッチンに向かう。
蓮子はいつも顔を洗うより先にコーヒーを飲む。物理学者の仕事はコーヒーを法則に変えること、というのが彼女の口癖だった。

蓮子は目元を細めたまま、体に染み付いた動作にしたがって、湯を沸かして、コーヒーを用意する。
ふと、目線が手元に止まる。

「あれ。私服のままじゃない。昨日飲みすぎたのかしら……うん、きっと彼女と……」

そこまで言いかけて、不思議そうな顔をして口元を押さえた。

「彼女……? 誰だっけ」

心臓が、深く脈打った。鼓動が速くなって、何かが全身を巡る。呼吸は小刻みになって、そのたびに、体の重みがろ過されているかのよう。
新鮮な空気を取り込むたびに体の輪郭は戻っていく。しかし、気づくと疑問はコーヒーの香りとともに薄く広がって消えてしまったようだった。

最後の一滴までコーヒーカップに落ちた。蓮子は特に砂糖やミルクを加えることなく、そのままコーヒーに口をつける。何度かコーヒーを口に運ぶうちに、意識もはっきりしてきたようで、昨晩のことを思い出すように、考える素振りを見せる。

「ふう」

カップを飲み干して一息つく。答えが出ることはなく、何度か唸り声をあげつつ洗面台へ向かった。
腫れた瞼に驚いたのか、鏡にぐっと近づいて、つまんだり、擦ったりしながら昨日のことを思い出そうとしている。それから歯ブラシを手に取った。

「え? これって……」

紫色の、毛先の固い安物と、ミント色で毛先が柔らかいお高めの歯ブラシだ。蓮子が手に取るのは、紫色の安物。しばし蓮子は考え込む。

「たしか、台所にも」

足早に台所に戻る。そして、先程コーヒーセットを取り出した棚をもう一度開くと、ちょうど手の届きやすいところに、最初から馴染んでいたかのようにティーセットがあることに気づいた。

「こんなの、買った覚えは……」

一度気づいてしまうと、違和感は連鎖する。他にも何かあるのではないかと、粗探しを始めるからだ。

蓮子は寝室に戻り、部屋を大きく見回す。視線はいくつかの場所で止まった。本の前の箱を手に取って開くと、緑のガラス細工で作られたブローチが入っていた。
光にかざすと、葉の部分がキラキラと輝いていた。同時に、ブローチの裏に刻まれた人名らしきアルファベットに気づいた。

「うーん。名前の響きからするとたぶん、アイルランドの工芸品かしら」

本棚の前には、もう一つ見慣れないものがある。旧型酒の空き瓶だ。

たしか、どこかの酒造所が作っていた代物で、後継不足とかで作られなくなったもの。

収納棚の上に手を伸ばす。古い文字が刻まれた石板。表面をなぞると、何か文字らしきものが刻まれているが、もはや読むことはできないくらい摩耗している。

「なにこれ、ただの石? どっかの遺跡から盗んできたものじゃないでしょうね……流石に私も歴史的遺物を盗んだりは……するかもしれない」

脳裏には嬉々とした表情で遺跡荒らしをする姿が思い浮かんでいる。苦笑いをした。もとの場所に戻す手つきは丁寧だった。

蓮子はいくつかの物品を調べても、どの品も手に入れた覚えがないということを除けば、特に不審な点はないと判断した。

何かの折に誰かから物貰っても、あえなく箪笥の肥やしになって忘れ去られる、というのは往々にして起こる。
しかしどれも目につくところに、こんな密度で置かれていては、当然蓮子はそれを異変と捉えるだろう。

蓮子は、ぐるぐると部屋を歩き回りながら、ぶつぶつと独り言を漏らし始める。

「記憶の混濁、誰かの私物らしきもの、見知らぬ物品。たぶん、この部屋に頻繁に泊まっていた誰かがいたことは間違いない。よくあるのは解離性健忘? でも、大学に通っている記憶は……」

それから、数分そこに立ち尽くす。しかし、ピースは足りず、論理的な結論にたどり着くことはできない。思考が反芻し始めたのか、緊張が解けたのか、ふと視線がデスクに向かう。

「こんな目立つように置かれたもの、どうして気づかなかったのかしら」

デスクの上の日誌に手を伸ばす。そこには、記録を開始した日付と、終了した日付が書かれている。
そして、後から付け足したように書かれた、『秘封倶楽部活動日誌』、というタイトル。記録し始めた年月は、蓮子が大学に入る前、高校生の頃からのようだ。

「ああ、懐かしいわね。あのころの記録ノート……だけど」

タイトルに見覚えがない。聞いたこともないのだ。
過去を想起する顔は懐かしさとも喪失とも見て取れる。口元はゆるんでいる。

蓮子は、椅子に深く腰かけて、卓上灯を背にして日誌を持つ。すぐには開かなかった。表紙に書かれたタイトルを、慈しむように指でなぞっている。

「秘封倶楽部……ね」

蓮子は、ここに手がかりが、答えがあることを期待している。空いた余白を埋めるピースを。だがここに書いてあることが、必ずしも彼女のためになるとは限らない。

蓮子は、目を瞑って、大きく深呼吸をする。そして、不安を断ち切るかのように、表紙を開いて、1ページずつめくり始めた。
頭が痛む。そのページをめくる指は、何を失っても変わっていない。

そこにいた誰かの姿を見た気がした。

最初のページには、日付と場所だけが記されていた。蓮子自身の筆跡だ。几帳面とも雑とも言い難い、読めれば良いと言わんばかりの文字である。

東京のどこかの地名、神社仏閣の名前、結界に関する資料の考察。そしてページをめくるたびに、考察だけでなく、実験の記録も混ざってくる。几帳面に、ひとつひとつ再現できるようにした記録。実に科学徒の蓮子らしい。

「確かに、この頃は躍起になっていたわね」

事実を確認するだけの淡々とした声。ページを捲る手つきには迷いがない。素早く、めくって確認するだけ。

一人の活動記録は淡々と続く。文献を漁り、実地に赴き、仮説を立てては棄却する。成果と呼べるものはほとんどない。それでも筆致に落胆はなく、むしろ次の候補地を検討する文章には、妙な活気がある。

はじめて、蓮子の指が止まった。

先程の淡々とした、実験ノートのような日誌ではない。日常について、とりとめもない言葉で綴られている。日誌と言われて正しいのはこちらだ。

蓮子は、少し前のめりになって、本を膝の上に置いて、文字をなぞる。

4月の頭、私たちが入学した頃だ。
今日は,大学のオリエンテーションだった.履修の方法がどうとか,学生生活がどうとか,合法薬物は禁止だの学生運動は禁止だの,口うるさく言われた.この大学の自由な校風はとうの昔に失われている.

ようやく退屈な話が終わった頃,隣に座っていた子に話しかけられた.彼女の名前はマエリベリー・ハーン.金髪で,琥珀色の瞳の子.よく覚えている.夜空に浮かぶ月のような目に,引き寄せられるかのような気分だった.思わず
とにかく,話したんだ.当たり障りのない話.ふと.サークルの話になった.このときのハーンさんは,まだ決めてないって言ってた.私は,オカルトサークルに入ろうと思っていたことを話した.歴史ある,本物の霊都である京都で,オカルトをやらないのはもったいない,結界を暴きたいのだって.どうやら,ハーンさんもオカルトに興味があったらしく,一緒に回ることになった.

だけど,この大学のサークルは,満足のいくものではなかった.どのサークルも,実地調査に欠けている.文献を並べて,歴史を語って,それで満足している.最初のサークルで,部長に結界の実地調査はしないのかと聞いたら,きょとんとされた.二つ目のサークルでは,結界に関する独自の仮説を話したら,苦笑いされた.三つ目のサークルは,パンフレットだけで十分だった.説明を聞いている間,気づけば机を指で叩いていた.聞けば聞くほど,聞く気は失せていた.隣で,ハーンさんが小さく肩を揺らしていた.笑われていたらしい.後から聞いた.

現実にある結界を証明するなら,現実での検証が必要なのに.
どれだけ理論物理が極まろうとも,実験が伴わなければ,理論は完成しなかった.それはただの数学だったから.同じことなのだ.

結局どこにも入らなかった.ハーンさんがキャンパスの外のカフェに誘ってくれた.正直,サークルにいちゃもんをつけるような態度をとってしまって,ハーンさんに申し訳なく思っていたのでありがたかった.
ハーンさんが頼んだのは紅茶だった.お嬢様ってイメージの彼女は,イメージそのままだった.最初は,歓談していたと思うけれど,いつのまにか,愚痴を延々と話してしまっていた.ハーンさんは相槌を打ちながら,ときどき紅茶に口をつけて,黙って聞いていた.ええ、思わず、苦笑いだったわね。

しょうがないから,私は一人で活動を続けるつもりだった.店から出て,一言二言交わして別れようと思ったところで

結界なんて,ほんとうに存在していると思うの?

真剣な問いかけだった.ゆっくりと,振り返った.それまで見たどの表情とも違う.

皆がいつもそう言う.この国では結界が公然のものとして扱われているのに,これは形骸化している.科学が極まった時代で,不思議を合理が排除した.だが,私はこの世界に不思議が存在していることを確信していた.

私の目が証拠なのよ.私の目は,月を見れば場所がわかって,星を見れば時刻がわかるの.不思議でしょう? だから信じるのよ.

ハーンさんは目をまんまるにしていた.まさにお月様.それまで品があってキリッとした顔をしていたものだから,ギャップに思わず笑ってしまった.

ハーンさんは,私の次の調査についてきたいって言ってきた.

結界はあるわ.結界は,どこにでも存在していて,その向こうには不思議があるって,信じてる.

その言葉に,飛びついた.どうしてそう思うの? ほんとに調査について来るの?って.
このときの勢いはすごかった。私の目の毛細血管が見えるくらいの距離まで近づいて。
私はもちろん大歓迎だった.しかも初めて出会った,結界を信じる人間だ.これまで誰に結界のことを話しても,怪訝な顔をされるか,頭のおかしいやつ扱いされるかでしかなかった.だけど一人でできることには限りがある.色んな意味で.だからありがたかったのだ.あと,人手も欲しかったし.

こうして次の調査には二人で向かうことになった.ああ,でもどうして結界の存在を信じているか,そのきっかけは結局聞き出せなかった.次の調査では,どうにか,その上品な笑みを引っ剥がしてやろう.

「マエリベリー・ハーン。私は彼女と」

日誌の文字を何度もなぞるたび、じくじくと胸が痛んだ。蓮子には、マエリベリー・ハーンの記憶はない。

「あのとき、私の隣の席は空席だった」

夕焼けの光が、瞳に茜色を射す。瞳の中を光が乱反射して、星のように煌めかせた。
蓮子は決して空を見ないで、カーテンを閉ざしてしまった。

「そういえば、しばらく、月を見ていないわね」

再び、前のめりになる。ページをめくる音は軽い。

今日はとてもすごかった! メリーの目! この世の不思議を暴くための,本物の目だ!

ああ、コーヒーをこぼしてる。どれだけ興奮していたのかよくわかる。
そこから数行、コーヒーのシミを避けて日誌が書かれている。内容は初めての調査の時のことだ。

今日の目的は古い神社で境界を暴くことだった.文献によれば,この辺では昔から神隠しが起きているようだった.少なくとも,近年の新聞で行方不明者が出ているのは見た.それだけで調査の対象としては十分だった.

時間帯は丑三つ時.人気のない参道を二人で登った.地図ではわかりにくかったが,神社は山間にあり,参道が急でかなり大変だった.メリーの様子をちらと見ながら登っていたけど,怖がってる様子はなかった.見た目通りのインドア派だったのか,息も絶え絶えで,私のリュックに掴まって,かろうじてついて来ていた.私は数々のフィールドワークで鍛えられているので問題なかった.当然.

参道を登りきって,一度休憩を取った.メリーはリュックから魔法瓶を取り出して,紅茶を振る舞ってくれた.私もおんなじように,温かいコーヒーを持ってきていたのだが,メリーには大不評だった.こんな深夜にコーヒーを飲んだら寝れなくなって肌が荒れるからって.むしろ,私は深夜だからこそコーヒーを飲むべきだと思うのだけれど.眠いほうが危ないもの.

結界を暴く前に,もう一度手順を確認した.眉唾物の意味のありそうな行為をかき集めただけだから,どれが本当に効果のあるものなのかはわからない.そもそも時たま起きる不思議な現象は,霊的な場に起因するのか,あるいは特定の行為に起因するのか,いまだ因果も不明だ.美しくない実験設計であるが,まずは現象を観測しないことには仮説も立てられない.これは今後の課題だ.

メリーには,所定の動作をしてもらったあと,札を掲げてもらう必要があった.ここを押さえていて,と指示すると,素直に従ってくれた.しかし思えばこの時からすでに,異常が見えていたのだろう.

手順を進めるたびに,空気が変わっていくのがわかった.わかった,と言っても,私の目に見えるものは何も変わらない.曖昧な表現はしたくないのだが,温度か,振動か.とにかく何か妙な雰囲気なのはわかった.

最後の手順に入るとき,メリーはずっと本殿を見ていた.顔は平静を装っていたけれど,目だけが忙しく動いていた.札はくしゃくしゃ.私はそれに気がついていたけれど,止める気はなかった.むしろますます確信して,止めるべきではないと思っていた.

全てを終えると,どこかとつながった.何故わかったかと言えば,風の流れが本殿に向かってできていたからだ.おそらくは気圧差や温度差によるもの.私の目には何も見えないが,ワームホールの類いなのだろう.つまりこことは空間的に隔たれた別の空間と,連続的に繋がり,そこには同じような大気環境があって,同じような物理法則が働く世界があると推測できる.別の真空に繋がったりしなくて良かったと今は思う.
それが認識できるサイズで発生するメカニズムや,なぜこの場で現れたのか,空気,危険性,いろんなことが頭を巡ったけれど,気づけば,いや意図的に私はそこに向かって進み始めた.伸ばした腕が,空間に溶けるように輪郭を失い,ワームホールがあるであろう場所より向こう側の部分は見えなくなっていた.

頭まで入れたとき,だめ,向こう側に進んだら,という声と後ろに強く引っ張られたことだけ覚えている.

次に目覚めたとき,最初に感じたのは温かさだった.メリーが抱きついていた.目を赤くして,泣いていた.こんな山奥に一人きりで置いて行ったら,そりゃ不安になるわよねと言ったらはたかれた.メリーは見た目と裏腹に容赦がない.

私は気を失っていたのだ.だがそれどころではなかった.メリーが発した向こう側という言葉.
何かをくぐって,気を失う瞬間,どこかの田園風景と夜空が見えた.メリーには,それが見えていたのだ.

意識を取り戻したのに、数分も黙っているものだから、ますます不安になっていたのを思い出した。そうしたら、急に起き上がって、両肩が掴まれたんだ。

3時16分.場所はわからなかったけれど,星の並びから見て日本である可能性が高いわ.

メリーはヘ,と間抜けな顔をしていた.

向こう側のことよ.あなたには見えていたのね.最初から,ずっと.

メリーは目を逸らした.唇をキュッと結んで,何も言わない.
帽子のせいで目元が見えなかった。どんな目をしているのか、そんなことを考えていたら肩を思いっきり揺さぶられた。

メリーに,あのとき何が見えていたのか聞いた.

そう、最初から見えていた。本殿の周りに、向こうとこちらがねじれて絡み合った空間が存在していた。時空のエンタングルメントのように。手順が進むにつれて、それはほどけて開いていく。不安と恐怖は増していった。

蓮子が向こう側に歩き出したとき、一歩ごとに、輪郭が滲んで薄くなっていくのが見えた。向こうが見えているからこそ、怖かった。声をかけても止まらなかった。聞こえていなかったのだと思う。だから走り出して、蓮子の腕を掴んだ。向こう側が怖かったのに。ここで、蓮子を失うことのほうが怖かったから。

メリーが一つ答えるたびに,質問が倍に増えた.たぶん,すごい剣幕だった.メリーはすっかり泣き止んで,たじたじだったもの.実際に結界が見える存在が,目の前にいるのだ.この目は,私が何年もかけて証明しようとしていたものを,最初から見ていたのだ.
ひとしきり質問し終わると,どっと疲れが来て,地面の上に仰向けになった.しばらく夜空と月を眺めていたら,メリーが覗き込んできた.メリーの目はぼんやり光を持っているように見えた.

ねえ、私といっしょにこの世の不思議を探さない? あなたと私で、サークルを組むのよ。

この時のことは忘れられない。私も、多分貴方も。

私もそう思っていたの。じゃあ、名前を決めないとね。

名前、うーん。

封じられた秘密を暴く、秘封なんてどう?

じゃあ、秘封倶楽部ね。うん、いいわね。

メリーの方から誘ってきて,私たちはオカルトサークルを作ることにした.私たちの名は秘封倶楽部.この世の封じられた秘密を暴く,から秘封倶楽部.良いセンスよね.

次のページをめくると、数ページに渡って、びっしりと考察が書いていた。能力の詳細から、できそうなこと、能力の起源に至るまで。メリーの能力は、正確には境界を認識するものである可能性が高い。さらに言えば、高次元を認識する能力である可能性もある。微視的なプランクスケールの高次元を認識して……なんて考察が続く。

蓮子は、熱のこもった考察を見て頬を引きつらせている。でも読み進める手は止めない。

「ええ、そのとおり。境界を認識する能力は、きっと、コンパクト化された余剰次元を観測できるんだわ。プランク長で丸められたカラビ・ヤウ多様体を直接。だとすると、ブレーンの外、バルクにだって届く。外から見れば、時間なんて四次元多様体の葉層の取り方の一つにすぎないもの。それは未来、現在、過去すべてを見通せる能力と言っても……」

蓮子は、過去の自分の記録を見て、メリーの能力を考察している。日誌の中の蓮子が、メリーの能力を垣間見たときと同じ反応。

興奮していた蓮子が、急に黙る。冷水を浴びせられたように、日誌を見つめている。自分の中の高揚を処理できないかのように。

声を出さずに、口だけを動かしている。三文字の言葉。

「メリー」

言葉にしてみれば、あっさりと。驚くほど言い慣れた言葉。不思議そうに、口を指先でなぞる。いつか、何度も聞いた言葉。だが、今は初めて聞いた言葉。

再びページをめくる。

蓮子の指がページをめくるたび、過ぎ去った過去が浮かんでは流れていく。私たちは本当に、たくさんの活動をしていた。

「あ、切符……」

途中、卯酉新幹線の切符の半券が貼ってあった。蓮子のお彼岸参りついでに、東京に遠征に行ったときのものだ。

「東京旅行に? 紙のチケットなんて時代錯誤だけど」

日誌には今どき新幹線に乗ってまで東京にいくことは少ないから、と書かれている。

「げ、実家にまで連れて行ってるじゃない。何考えてるのよほんとにもう……ずいぶん東京を楽しんだみたいね」

蓮子は切符を日誌に戻して再びページをめくる。

それから数ページは、京都近辺での活動記録が続く。神社仏閣、廃線跡、他愛もない噂。たくさんの不思議を見て、暴いた。ただ、合間に挟まるなんでもない記述——カフェで宇宙旅行に行く計画を立てたこと、帰り道に人工ではないケーキを食べたこと、二人で勉強したこと——が、めくるたびに増えていく。

ふと、蓮子の視線が日誌から離れて、本棚の方に向かう。三段目の、本の前に置かれた三つ葉のブローチ。

目線が日誌に戻る。開いているページには、メリーが帰省してお土産を持ってきてくれた、と書かれている。

蓮子は立ち上がって、ブローチを手に取った。襟や胸元へとあてがっている。以前の自分と同じようにつけてみれば、何かの記憶を思い出すのではないか。そんな期待もあったのかもしれない。

さらに時間は進む。季節とともに、色鮮やかな思い出が流れていく。ひとつひとつが二人の大切な思い出だったはずのもの。だけど、今はこの日誌の中でだけ、漫然と輝いている。

蓮子がページをめくる速度を落とす。その目が、一つの記録をなぞっている。ああ、と声が漏れた。

「夢の中で、衛星トリフネに行った……ね」

衛星トリフネ。動植物が宇宙に適応しうるかを試すために、人間の宇宙への憧れが形作った宇宙ステーションだ。そのために船の中だけで完結する生態系が乗せられていた。

あれは数年前に原因不明のエラーにより制御不能に陥った。そして、地球と月のラグランジュポイントに自動で移動して、今も寂しく宇宙に漂っていると目されていた。

日誌の中の蓮子の記録は、トリフネの中を詳細に記録していた。メリーの能力によって、夢の中で訪れたのだ。
トリフネの中は熱帯のジャングルのようになっていて,独自の生態系を作っていた.しかし,宇宙に適応したのか,それとも特異な環境によるものか,突然変異した怪物がトリフネの中にはいた.私たちは必死に逃げたけれど,目が覚めたときに,メリーは怪我を負っていた.

「夢の中で、怪我を……?」

蓮子は口元に手をあてがって、考えている。日誌を掴む指が少し白くなっている。
夢の出来事が現実へと影響することは、もはや境界を見るという能力では説明がつかない。能力を取り違えていたのだろうか。あるいは強まっているのか。しかし、考察はそれだけで、途中で別の話題に移っている。
メリーはその傷がもとで熱病にかかり、しばらくサナトリウムで療養していた、と記録されていた。何度も見舞いに来ていたことが、日付の頻度でわかる。退院するまでは、ずっと病状と回復の様子が記録されていた。

「……よかった、退院できたのね」

柔らかい独り言。

退院後のページをめくると、活動の質が変わっていた。以前のように蓮子が文献を漁って候補を出す割合は減り、起点がメリーへと移っている。メリーが何かを感じた場所に赴く。夢の中で訪れた場所を調査する。

日誌を書いている蓮子は、その変化に気づいていない。面白がっている。新しい発見のたびに考察は長くなり、興奮は隠しきれていない。けれど、ページを追うごとに、不思議ではなくメリーの能力そのものへと考察の焦点が移っていく。

最近,メリーの力が,強くなっている.最初は夢の中で,遠く離れたどこかに行くだけだった.でも,トリフネに行って,メリーが熱病にかかって以来,彼女の能力は深化した.夢の中から,物品を持ち帰れるようになったのだ.それだけでなく,時間すら超えて,どこかに行けるようになった.

これは因果律に反している.いや,禁止はされていない.アインシュタイン方程式は局所的な方程式で,大域的な因果構造については何も言わない.エキゾチック物質があれば,通過可能なワームホールは解として存在し,閉じた時間的曲線が現れる.ホーキングは年代保護仮説でそれを退けたが,あれは定理ではなく仮説だ.

メリーによれば,私たちの世界は一枚の膜のようなもので,障壁を隔てて別の真空がいくつも存在しているらしい.しかし夢の中から物品を持ち出すということは,その障壁を越えて別の真空と接続していることになる.障壁の向こうでは粒子の質量も定数も同じとは限らないのに.彼女の意識だけが,トンネル効果のように障壁を抜けて別の真空に届いているのだろうか.そのラグランジアンなんて書けるのだろうか.

メリーの力はますます強まっている.もはや,夢の中だけでなく,現実にすら影響を及ぼしつつある.メリーの目の先に映るものを,私は見ることができない.

次の記録の日付は、直前から大きく空いていた。

秘封倶楽部の活動をしたときは,大抵は夜遅くになる.今日もそうだった.街灯のない暗い道を通っていると,メリーの目がぼんやりと薄く光って見える.メリーは気づいていないようだったけど,私はそれが好きだった.
だけど今日は黄金色の目に,かすかに紫が混ざっているように見えた.私はそれについて聞いてみた.

帰ってきた答えは,特段普通のものだった.月が欠け始めていた夜だった.

特段、普通の記述だ。だが蓮子はその記述をじっと見ている。とうとう台所に立って水をコップに汲むと、一息で飲み干した。手が少し震えている。

それから記録は飛び飛びになり、秘封倶楽部の活動というより、日常の記録になっていった。二人で相談して、しばらく休止するということにしたのだ。

今日は二人でバーに行った.新型酒ではなく,旧型酒を提供しているところだ.メリーはなぜかボトルをキープしていたようで,ごちそうしてもらった.ワインやテキーラではなく,なぜか日本酒だったが.風情がない.どこで手に入れたか聞いたらはぐらかされた.グラスを握る彼女の手は白く透き通って見えた.目にはまだ黄金があった.さすが,本来のお酒は人工のものとは比べ物にならないくらい酔いが回る.そのせいであんまり会話を覚えていない.

今日はカフェに行った.窓に映る目は.今日は私の家で鍋をつついた.料理をする目は.今日は一緒に旅行に行った.隣に寝るメリーの目は.今日はメリーのポスター発表を見に行った.少し照れて説明する目は.
目は、目は、目は。

「なんなのよ! 目、目、目って……」

さすがの蓮子も驚いたようで、首元の産毛は逆立ち、瞳孔は開いて、息を呑んでいた。だが読む手は止まらない。

何度も指摘した.しかし彼女はいつ聞いてもそれを気にも留めていないようだった.

過去の自分は別人のように目に執着して、段々と様子が変わっていって、自分であるはずなのに、自分ではないような感覚。

「これが本当に私なの?」

これは私じゃない、私じゃない。
大きく深呼吸をした。

日誌には何度も何度も、何かを書こうとした跡があった。どれも塗りつぶされたり、修正液で消されている。

「メリーの目が強まる度に……能力の正体は……とすると使用しているのは極一部で……だめだ、読めない。くそっ」

ページをめくる。前のページの記録を最後に、空白のページが並ぶ。

「終わり? 嘘でしょう。まだ何もわかっていない。失った記憶も、メリーのこともまだ」

しかし、理解するための材料はすでに揃っている。全容は見えなくても、蓮子はわかっているのだ。

ページをめくる。
これが最後の記録だ。

最近私の家によくメリーが来る.私の家のほうが大学に近いからって,溜まり場にされるのは困る.ただ,メリーは毎回紅茶を淹れてくれる.私はそれを見るのが好きだ.メリーが台所に立つだけで,ずいぶん慣れたこの家が,そこだけ別世界のように感じられるからだ.新鮮なのだ.
たまに二人で料理を作る.前は野菜中心の料理で,よく味気ないと文句を言っていた.最近は肉や魚料理中心になっていた.貧血気味とかなんとか言って.
メリーの目はほとんど紫になった.けれどメリーはメリーだった.変わらずいつものように話して,笑って,大学に行っている.
結局,メリーの能力とはなんだったのだろうか.どんどん能力は強まって,けれどいつしか能力を見せてくれなくなった.今の彼女を知るのは、彼女本人のみだ.
別の真空に干渉するということは,やはり重力のように余剰次元を伝わって
いや,それだけでは説明ができない.意識から物的世界へとなにかを持ってくることなんて,その範疇から外れている.我々の知らない相互作用があって,彼女だけがゼロでない結合定数を持って

いや,違う.知りたいことはそんなことではないはずだ.知りたかったのは
知りたかったのは
彼女自身のこと.
今彼女は何を見ているのだろう.彼女にはこの世界が折りたたまれた紙のように見えているのか.ともすれば時の流れが流れ星のように見えているのではないか.
本当に同じ物を見ているのだろうか.同じ味を感じているのだろうか.同じ温度を感じているのだろうか.
彼女の目の先には,何が映っているのだろうか.
メリーの目には私はどう映っていたのだろうか.

胸が痛い。苦しい。

ページをめくる。

宇佐見蓮子の瞳は、星に時刻を、月に座標を映す。鳶色の瞳。いつも寝不足で隈のある目。未知に飛びついて、未知を求めて様々な場所に一緒に赴いた。遠出には必ずコーヒーを持って来た。濃い味が好きで、料理にはいつも馬鹿みたいに塩を加えてる。お酒には弱い。古典論回帰主義者で紙とインクを好んで用いる。知性を見せたかと思えば、無邪気に喜ぶ。好奇心の塊。

だから、その目には私しか映っていなかったのだろう。

ページをめくる。

もう文字が書かれたページはない。

蓮子は最後のページと前のページを行ったり来たりしながら、考え込んでいた。自分の名前を書いて、見比べている。最後に大きくため息をついて、台所に向かった。

手に取ったのはコーヒー、ではなくティーセット。
水をケトルで沸かし、茶葉をポットに加えるとそのままお湯を注ぐ。数分蒸らして、すぐさまカップに注いだ。

「薄い……渋い……こんなに紅茶ってまずかったっけ」

頭の中に知識はあるくせに、味に違いはないといつも適当に淹れるのだ。
蓮子は、いつも紅茶を淹れるのが下手だった。
最後の一滴まで淹れるのが大事だって、何度も教えてあげたのに、あなたはそうしてくれなかったわ。

「私はどうしたらいいの……メリー、秘封倶楽部。きっとメリーは」

蓮子は閉じていたカーテンを開けた。もうすっかり夜だ。空にはまんまるのお月様が浮かんでいる。

「メリー、あなたは誰なの? どこにいるの?」

満月が蓮子の瞳に琥珀色の光を射した。
やっぱり、その目は星のように綺麗だった。

月越しに目が合った。
そこには何も映っていない。
けれど、あなたは変わらない。その目は好奇心を映しているもの。
ほら。

「これだけの記録があれば、きっといつか」

だから、私の目にはずっと。

月に手を伸ばしたくなって、もう片方の手でそれを制止した。

私はあなたに届かない。
だから、
読んでくださりありがとうございます。
のらいぬ
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