「で、この本」
「はい、あ、お嬢様お気をつけて」
「持ってる分には大丈夫っぽいから」
紅魔館地下図書館の片隅。いつも図書館の主が座っているその椅子に、今は紅魔館の主が腰掛けていた。
その手には一冊の分厚い書物がある。魔法書の類であることは、その書から漏れてくる魔力で十二分に理解出来ていた。
問題は、その書物が引き起こしたことである。紅魔の主――レミリア・スカーレットが、書をぱらぱらとめくりながら傍らに控えている小悪魔に尋ねた。
「で、パチェがこの中に飲み込まれた、と」
「おそらく。私も後を追っかけようと思ったのですけど」
「開いても何も起こらなかった、と」
小悪魔の報告を聞きながら、レミリアはふむと形のよい顎に手を当てた。
『パチュリー様が! パチュリー様が消えちゃいましたぁ!!』
そう、泣きそうな――というよりほぼ半泣きの状態の小悪魔がレミリアの執務室に駆け込んできたのが小半刻ほど前のこと。
要領を得ない小悪魔を宥めてやりながら図書館に着き、主が不在のデスクの上で件の書物を見つけたのだった。
「うーむ……」
レミリアは書を矯めつ眇めつしながら小さく唸った。小悪魔から聞いた話を統合するとこうなる。
幻想に入ったのか図書館の奥で埋もれていたのかわからない書物が出てきた。
パチュリーは早速それを読み解き始めた。読解自体はそう難しくなかったのか、さらさらと読み始めたらしい。
小悪魔はその光景を見た後、いつものように蔵書整理にとりかかったらしい。
少しの後、パチュリーのデスク周辺が急に閃光に包まれ、何事かと小悪魔が戻ったときにはもうパチュリーの姿はなかったのだそうだ。
後には、パチュリーが読んでいた書物だけが残されていた。
「まあ、状況は把握したわ」
行儀悪くデスクに両足を組んで乗せ、椅子を揺らしながら、レミリアは書を軽く額に当てた。
そんなことをしても何にもならないが、とにもかくにも、状況把握は大事である。
「お嬢様、お行儀が悪いですよ」
「いいじゃない、どうせ文句を言う相手はいないんだし」
「後で怒られますよ……?」
図書館の異変に気が付いた咲夜とたまたま休憩に来ていた美鈴も、そう軽く言いながらレミリアの持っている書に視線を向けた。
向けられた視線に気が付きながらも、レミリアはただ問いだけを返す。
「どこにもいなかったわね、咲夜」
「はい。館内にはどこにも」
咲夜は首を振った。この一件が発覚した後、咲夜は館中を調べているはずだった。
レミリアがそう求めるだろうことなど、この完全なる従者はとうに察している。
その返答には軽く頷くだけにとどめる。それくらいはしていて当然と、レミリアも思っているのだった。
「そしてここからパチェの魔力はする」
「はい、中から漏れてきています」
小悪魔が即答した。魔力的に繋がっている二人である。これに関して小悪魔の発言は絶対であった。
レミリアは少し考え、書を開く。中身を見ないことには始まらないと判断したのだ。そしてパチュリーが消えたのは書を開いた直後ではない。
「やはり大丈夫のようね」
「ほ、本当に大丈夫でしょうか」
「ええ。この本……が原因は原因だけど、何か条件が……」
レミリアは顎に手を当てたまま、ぱらぱらと頁をめくる。パチュリーは何をしようとしたのだろうか。
描かれている口絵には、異形の怪物達の姿。人間には畏怖を呼び起こすのかもしれないそれは、レミリアにはただの絵にしか見えない。
おそらくパチュリーもそうだったはずだ。いや、もしかすると何かの解読の鍵になるか、くらいは思ったかもしれないが。
悩むレミリアの耳に、ぽつりと呟きが届いた。
「……気の流れが」
「美鈴、何か?」
「何となく、その本の気の流れはおかしいのですよね。私は魔法には明るくないのですが」
美鈴は顎に手の甲を当てていた。レミリアは美鈴を見上げ、本に再び視線を落とす。
気の流れ、というのはレミリアにはよく理解はできない。だが、美鈴が引っかかるほどの何かがこの書にはあるということだった。
「……生物であるかのよう?」
「…………似ているのかもしれないです。確証はありません」
軽く首肯だけを返し、レミリアは片目を眇めて書に集中する。パチュリーを取り込んだ意義はどこなのか。
生きているとするならば――それに近しい魔法生物ならば、何が必要なのか。
ピン、と直感的に繋がった。美鈴の抱いた違和感。小悪魔の証言。そしてパチュリーがやろうとしたこと。
全ての正しさを確かめようと、ぱらぱらとめくりながら、レミリアは書の文章に視線を走らせていく。
レミリアの眼は、パチュリーが何をしようとしていたのか、何をしていたのかを追っていた。
「ああ、そうか、そういうことか」
「お嬢様?」
「今から迎えに行ってくる。何、時間はかからないよ」
咲夜の言葉に軽く返事をして、レミリアは視線を落としたまま断言した。
「パチェが飲み込まれた理由もわかった。それなりの魔力のある者しか呼び込まないみたいだね」
今や直感は真実になっていた。レミリアは音を立てて開いたままの書をデスクに叩きつけ、三人の顔を見回す。
「私が行ってくる。何、心配はしなくていいわよ、ちょっと遊んでくるだけだから」
レミリアの視線を受けて、三人はそれぞれの表情を浮かべていた。咲夜は納得したように、美鈴は笑顔で、小悪魔は心配そうに。咲夜が一つ頷く。
「お気をつけて」
「ん」
「あの、お嬢様、これ、パチュリー様に」
小悪魔の差し出した瓶を手にとった。中には不思議な色をした、錠剤のような何かが入っている。
「渡しておけばいいのね」
「は、はい! お願いします!」
「そちらは、私達が作ったと言えばわかりますので」
美鈴の言葉に頷いて、レミリアは書のとある一節に目を留めた。紅い瞳がすっと細くなる。獲物を狙うように、細く、鋭く。
「全く、私はこういうのは苦手なのよ。知ってるでしょう、パチェ」
呟きは低すぎて誰の耳にも届かない。視線は魔法書のその一節をさらに追っていた。
おそらくパチュリーもまたこの文を読みとり、そしてさらなる先に進むために魔力を流し込んだのだ――それが罠だと気が付かずに。
いや、罠だと言うことを理解した上で踏み込んだのかもしれない。それもまた親友らしい。
レミリアの口唇が笑みの形を象る。悪魔じみた笑みを浮かべたまま、紅い吸血鬼はその魔力を書にそそぎ込んだ。
閃光が図書館を覆い、そして消える。レミリアの姿もまた、その場から消え去っていた。
机に残っているのは、ただ書物だけ。
咲夜が書物を手に取り、レミリアがやっていたように魔力を注ぐ。
「……やはり」
書は何も反応しなかった。軽くため息をついて、咲夜は書から手を離す。
「この館では、後は妹様くらいなのでしょうね、この本が反応する魔力は」
「美鈴」
咲夜の戸惑うような言葉に、美鈴はにっこりと笑った。他者を無条件で安心させる類の微笑みだった。
「大丈夫ですよ、お嬢様は。小悪魔もほら」
「ううう……」
小悪魔は不安そうにまだ書物を見つめている。よしよしと美鈴はその頭をなでた。
「身体に良いものを作って待ってるといいですよ。私はこれからまた門に戻りますけれども」
「はぁい……」
「咲夜さんも。お嬢様が全部解決してくるでしょうから」
「……ええ。いろいろ用意して待つことにするわ」
そうしてくださいな、と言って、美鈴は一つ帽子の位置を直す。
「それでは」
颯爽とした足取りで、美鈴は一足先に図書館を出て行った。残された従者二人は、顔を見合わせる。
「美鈴の言う通りね。帰ってきたら紅茶を入れて差し上げないと」
「わ、私も、何か薬湯を準備します」
「では、ハーブティーにしましょう。小悪魔、手伝って」
「はい」
小悪魔は頷いて、咲夜の後ろについて行く。
そして、図書館にはつかの間の静寂が訪れた。
爆音と共に、影がゆらりと揺れて消える。パチュリーはそれを見届けて、小さく呟いた。
「全く、きりがないわね」
大きく息を吐いて胸に手を当てる。軽く咳き込んだ。体調はよくはない。
上も下もなく、方向感覚さえも狂わせられる。どちらに進めばいいのか、そもそもどうやって脱出するのか。
見当が付いていないわけではない。この空間を書の中に作り出したモノ。作り出せるほどの力を持っているモノ。とにかくはそこに辿り着くことだ。
パチュリーは再びため息をつき、小さく呟く。
「主はどこかしら。それを消したらとりあえずは――」
パチュリーの言葉は途中で中断させられた。背後で嫌な気配が膨れ上がる。
振り返りざまに咄嗟に張った防御陣ごと、太い丸太のような何かでなぎ払われた。
「く……」
衝撃を抑えつつ、身を翻して敵の姿を確認する。下方――下方と言っていいのか、ともかくパチュリーの足下側に、気味の悪い形をしたものが見える。
丸太と言ったのはあながち間違いでもないようだった。正確にはその生き物の触腕。
蛸や烏賊、あるいは深海の海洋生物をねじ曲げて醜悪にしたようなそれに、パチュリーは見覚えがあった。
「……ふむ、挿絵と同じね」
そんな悠長なことを言っていられる場合でもないはずなのだが、こればかりは性分である。
先ほどまで倒していた西洋の小鬼に似た群れもそうだった。
挿絵と内容に一貫性がないことも気にかかっていたのだが、どうやら挿絵はただ書の中に住んでいるもの達の図であったらしい。
うねうねとしたそれは、畏怖はないが不快感を与える外見をしている。魔力自体が高い魔物ではない。これは主ではない。
「っ!」
思考中に、再びそれは腕――腕と言っていいのかわからない、無数にある触腕のようなそれ――を振るってきた。
ぎりぎりでかわして、パチュリーは集中する。とにかくは敵を倒してからだ。
「火符『アグニシャイン』」
簡単に符を練り上げ、叩きつける。炎の嵐は防ごうとした触腕ごと飲み込み、焼き尽くしていく。
やはり主ではない。上級でさえないこの符すら受け止められないのだ。格闘などになれば勝ち目は薄いだろうが、魔法戦のうちはそうそう負けはしないだろう。
ふう、とまた一つ息をついた。これでは本当にきりがない。魔力だって無限ではないのだ。どうにかして脱出しなければ――そう思った瞬間だった。
「ぐ、っ……!?」
身体に衝撃が走って、パチュリーは弾き飛ばされる。反射的に張った防御陣に、再び衝撃が走った。一度二度ではない。
「く、うう……っ!」
叩きつけるようなその攻撃を、パチュリーは防御陣の魔力を調節しながら受け止めた。本当はどこかで素早く離脱するべきだったのかもしれない。
だが、攻撃が激しくてもう耐えるしかない。反応が遅れたのが全てだった。そもそも彼女は近接攻撃には敏くも強くもない。
ただ闇雲に打っても効果がないと思ったのか、攻撃の手が緩んだ。すかさず距離を取る。間合いを突き放すまではなくとも、超接近戦は避けるべきだった。
(もう一体いたのね……!)
防御でまだ痺れている身体の体勢を立て直し、パチュリーは歯を食いしばった。間合いを離せないまま、続けざまの攻撃を避ける様に動き始める。
彼女に狙いを定める触腕の狙いを外しながら、詠唱の準備を始めた。一つ二つを焼いていく。
だが、触腕の方が速い。加えて、パチュリーの手数は少なく、一気に焼き尽くす詠唱には足りない。
レジストし損ねた触腕がパチュリーの身体を捉えようとした、まさにそのとき――
――紅い何かが降ってきて、その不定形の魔物の本体を弾き飛ばした。
弾き飛ばした何者かは、パチュリーの方を向いてにっこりと笑った。
「やあパチェ、久し振り。危機一髪ね」
「計ってたんじゃないかと疑うほどのナイスタイミングよ、レミィ」
一条の槍となって降ってきたもの――無二の親友の姿に、パチュリーは一つ息をついた。文字通り一息つけるのだった。
「随分楽しそうなことになってるじゃないか」
「全くね」
親友の軽口に応えながら、パチュリーは先ほどの化け物の気配を探る。
レミリアも同様のようで、パチュリーに対する気安い口調とは裏腹に、その瞳だけは冷たく魔物が落ちた先を見据えていた。
パチュリーでさえぞくりとするようなその冷徹な眼差しが、少しだけ眇められる。唸りと共に、魔物が再び深淵から現れたのだった。
動こうとしたパチュリーを、レミリアが手だけで制する。パチュリーはそれに頷いた。正直、少し休めるのはありがたい。
「さて、私が相手だ」
挑発するような言葉もまた、どこか冷たいものを帯びていた。
「貴様ごときでは相手にもならんだろうがね」
不遜なレミリアの小柄な身体を押し潰そうと、魔物は触腕ごとのしかかり、包み込もうとする。あるいはそうやって魔力を食らおうとしているのかもしれない。
それに対して、レミリアは驚きも慌てもしなかった。ただ、優雅に羽を広げただけだった。
「紅符『不夜城レッド』」
レミリアの身体が、視界を灼く紅い魔力で輝く。墓標を示すかのような十字架は、化け物の断末魔すら飲み込んでいった。
もう見慣れたそれを、静かにパチュリーは眺めていた。眺めながら、周囲の気配に――魔力の流れに気を配る。
「大丈夫よ、パチェ。ここに来るまでにも倒してきたから、近くにはそうそういないはず」
「だといいけれど。どこから現れるかわかったものじゃないからね」
「気を付けておくわ」
レミリアは笑って、周囲を見回す。漆黒の闇は、ここまでの戦闘でも揺らぐ気配も見えなかった。
「また随分な空間ね。まあ、私はこういう闇の方が動きやすいけれど」
「こういうときって、外から解決方法を探すものじゃないかしら?」
「だってこれが一番手っ取り早いんだもの。それに、随分と楽しそうなことが視えたしね」
レミリアの瞳は暖かみを取り戻していた。どこか安堵しながら、パチュリーは肩を竦める。とにもかくにも、レミリアが来てくれたのはありがたく、心強かった。
不意に、ああそうだ、とレミリアは呟いて、ポケットから小瓶を取り出した。
「パチェ、とりあえずこれ」
「何これ」
「小悪魔から。美鈴も作ったって聞いたけど」
ぽんと投げられたのを不器用に身体全体で受け止めて、パチュリーは中身を見て納得する。
「ああ、作ってたのね」
「知ってるの?」
「まあね。何やら美鈴と二人で作ってる、というのは知ってたから」
食事を抜きがち――というよりも、魔女であるパチュリーは食事を必要とはしない。
だが、体調を崩しがちでもあるパチュリーを心配して、小悪魔などはよく薬膳や薬湯を作ってくる。
それでも忙しいときには何も取らなくなるからと、薬湯を煮詰めたものをタブレットの形にする案はあったのだ。パチュリーがそれを望んだのもある。
パチュリーは瓶を開け、幾つか手のひらに転がすと、口の中に放り込んだ。
「……ん」
「どうしたの」
「…………絶妙に微妙な気遣いがね。次は錠剤にしてもらおうかしら」
錠剤と思って噛んだらグミだったものを、少し咀嚼して飲み込む。食べやすいようにと言う配慮かもしれないが、逆に食べ辛い。
薬湯を煎じているくせに苦みやえぐみの少ない、だが決して美味しいとは言えないそれは、消費していた魔力を取り戻させるには十分だった。
「私も後で食べてみたい」
「美味しくないわよ」
「じゃあいいや」
レミリアはひらひらと手を振って、闇の向こうに視線を向ける。無数の気配が蠢くのがパチュリーにもわかった。
はてさて、何十、いや何百いるのだろうか。あの書物一冊分とするならばかなりの量のはずだ。
それでも、たとえ万の敵が相手であっても――レミリアとなら、何の問題がない気がした。
パチュリーの調子が戻ってきたのを察して、レミリアは軽く笑う。
「はてさて、行こうかパチェ、随分と楽しそうだ」
「はいはい、やりすぎて壊さないでね?」
パチュリーの軽口も、今は力のあるものになっていた。レミリアは満足げな表情をする。これでなくては。
無数の魔物の群れも、レミリアにとっては心を躍らせるものに過ぎない。
「腕が鳴るわね。パチェとこう組むなんていつ以来?」
「そもそもこういうことなんてあったかしら?」
パチュリーは肩を竦めた。悪戯っぽい笑みのまま、レミリアは身を翻して蝙蝠の形をした魔力を放つ。
群れの先頭にいた何匹かがそれに貫かれ、闇に溶けていく。
「手応えのないことだ」
「ここの主が生み出したモノがほとんどのようね。ただ、命令系統などは確立されてはいないみたい」
「確かに、連携なんかはなかったわね」
レミリアはふむ、と顎に手を当てる。そして、パチュリーに向かって首を傾げた。
「で、終着点は?」
「呆れた。それも知らないうちに入ってきたの?」
「パチェが考えてくれるだろうと思ってね」
応じながら、レミリアは何かを思いついたような顔をした。パチュリーが目を瞬かせる。
思いついたことに対しては言葉を発せず、レミリアは唐突に魔物の群の中に降り立った。
魔力を伴った爪で次から次へと魔物を切り裂いていく。大した手応えはない。やはり烏合の衆なのかもしれない。
パチュリーは軽くため息をついて、レミリアと背を合わせるように降り立った。降りながら、なぎ払うよう腕を振る。指先に灯った炎が魔物達を焼いていった。
阿鼻叫喚の図を呈し始めた周囲を気にも留めず、パチュリーは最初の問いに答える。
「終着点はこの空間の主。書の魔物よ」
「そうか、それなら話は早い」
爪が再び目の前の魔物を抉った。そのまま連続攻撃には続けず、ひょいと身を屈める。頭上を稲妻の形をした魔力が通っていった。
それを確認しないまま、レミリアは羽を蝙蝠として展開し、パチュリーの左右の敵を飲み込む。鈍い音と断末魔にも似た唸りが聞こえた。
二人は動きを止めない。そのままレミリアは翼を元に戻して前方の敵を貫く槍に変え、パチュリーは稲妻から刃へと魔法を変えた。
互いのことなど気にも留めないかのように、二人は好き勝手に全方位攻撃を始める。それでもまるで舞踏でも踊るかのよう。
その自儘な攻勢について、レミリアもパチュリーも全く視線を合わせない。合わせる必要もない。
ただ、楽しそうに笑っていた。何の気兼ねもなく力を振るえることをこの上なく楽しんでいた。
「それにしても多いことね」
「何パチェ、ばてた?」
「そうではないけど。もう百近くは倒してるわよ」
「数えてたんだ」
パチェはまめだなあ、と笑いながら腕を振りかぶったレミリアの眼前に緑色の岩壁が現れる。レミリアは顔色一つ変えない。
エメラルドシティ。それに足止めされた魔物達に向かって、レミリアは溜めた力を解放する。
轟音と共に何十匹かが塵になった。だが、その後ろからまたわらわらと影が現れる。
「随分大盤振る舞いしなければならないわね」
「それも良かろうさ」
レミリアの声は朗らかとでも言えるようなものになっていた。パチュリーもそうだろうが、レミリアはこの状況を楽しみこそすれ、悲観的には見ていない。
「あら、何か打開策が?」
「簡単な話よ、パチェ」
レミリアは無邪気な子供のような笑みを浮かべた。かつて、たった一人で幻想郷に喧嘩を売った、畏れ知らずの吸血鬼は、心から楽しそうな声を上げる。
「とりあえず、全部やっつけていけばいい」
無数の紅い槍が彼女達から見て上空に現れ、彼女達の敵にその照準を合わせた。
獣の唸り声が聞こえた。結局一掃してしまった二人は深淵を飛びながら、その声を聞く。
「主かな」
「もういい加減気配もなくなってしまったものね。おそらく」
「うん、随分楽しめた」
レミリアは上機嫌だ。結局楽しみすぎてあのグミを二人して食べる羽目になっていたが、とにもかくにも大いに楽しんだのは事実だった。
少し前を飛ぶレミリアを追いながら、それだけの騒ぎでありながらも主が出てこなかった理由をパチュリーは考え続けている。
この主は何を持ってあれらを作ったのか。どうして出てこないのか。考えがまとまる前に、前を行くレミリアの声がした。
「いた」
レミリアは嬉しそうに瞳を輝かせた。パチュリーは慎重な視線で闇の向こう側を探る。強い魔力を持った存在がある。間違いはなさそうだ。
「……待ちかまえていたのかしら」
パチュリーはそっと呟いた。もう視認できるほどの距離にはきている。
見た目は、今まで倒してきた魔物達よりも小柄――それでも二、三メートルはあろうかという二足の魔獣であった。
二本のねじ曲がった角が額に当たる部分から生えた、狼にも似た外見の魔物。外見はそう大したものではない。
そう、見た目は問題ではない。いや見た目も恐ろしげでこそあるが、それは問題ではない。
大したものなのは、その内に持つ魔力であった。その身に渦巻く魔力は、レミリアとパチュリーに主と確信させて然るべきものだった。
魔物はこちらを睨み上げてくる。どこか侮る瞳だ。
その瞳に気が付きながらも、レミリアの声は弾んでいる。見た目よりも幼く見えそうなその声は、しかし威厳だけは十分に持っていた。
「これはこれは大物だ、どうだ、Knowledge、心が沸かないか」
芝居がかった物言いに、パチュリーもにやりと返す。
「そうね、紅の王。相応わしい獲物といったところ?」
「……パチェの意地悪」
途端、拗ねたように、ぷいとレミリアがそっぽを向く。くすくすとパチュリーは口元に手を当てた。
知っている。レミリアは自身を紅の王とは呼ばないし、呼ばれるのもそんなに好まない。
いや、嫌ではないのだ。むしろ、王と呼ばれるのは光栄でさえある。だが、だからこそレミリアはその評をあまり受けたがらない。
紅の王の後継者たる者は、レミリアではないのだから。
けれども、パチュリー自身は、こっそりと紅の王と呼ぶのを気に入っている。
初めて対峙したときからずっと。あの想いと力を知ってから、ずっとだ。
「ごめんなさい、レミィ。さ、行きましょう」
パチュリーはそう、少し拗ねたままの彼女の王に声をかけた。
魔物はレミリアとパチュリーを敵と見なしたようだった。いや、敵と言うよりも食らう相手だろうか。魔物にとっては、彼女たちは獲物なのだ。
吼えるような猛るような声と共に、炎の雨が降り注ぐ。一つ一つが、サマーレッド程度の威力は持っているようだった。
「おやおや、脳筋かと思えば意外にやるじゃないか」
「知識を食らって自分のものにはしていたのね。そしてそれを使いこなしてる。うん、それは間違いではないわね」
パチュリーは何やら感心している。レミリアは呆れたような息を吐いた。パチュリーは自らに向かってくる魔法を簡単にレジストしている。
羽で打ち返して、レミリアは魔物が下がったのを確認した。書の中にいるから火に弱いのだろうか、などと益体もないことを思ってみる。
「ふぅむ、骨はありそうかな」
「どうかしらね」
レミリアはおやと思った。パチュリーの視線は静かに魔物を射抜いている。何かを思考しているのだ。
それについての問いは返さない。答えが出たら教えてくれるだろう。目の前の魔物に相対してればそのうち教えてくれるに違いない。
魔物は一つ吼えた。一筋縄では行かない相手と判断したらしい。レミリアとパチュリーの周囲で爆音が轟き、爆風が髪を靡かせた。
本来は彼女達を狙ったものだった。冷静な瞳のままのパチュリーが跳ね除けたのだった。
「言葉は必要としなかったのね、ここに一人で閉じこもっていたから」
「話し相手もいないのは退屈そうだな」
レミリアは正直に感想を述べた。一人きりを寂しいなどと思う心は吸血鬼にはない。だが、退屈だけはどうにもならない。それは心を殺す毒だとレミリアは思っていた。
いろいろ騒動を起こすのもそれが故とも言える。最近はよくフランドールも巻き込むようになった。
フランドールが騒動を引き起こすこともあるか、と考えを訂正する。最近は訪ねてくる者も出てきた。それは必ずしも悪いことではない。
レミリアの些細な述懐は、しなるように放たれた水流に中断させられた。蛇のように食らいつこうとしたそれらを、レミリアは蝙蝠を生み出して弾き飛ばす。
「吸血鬼のことも知っているのかな。まあ、確かにそれは間違いではないが」
弾きながら、レミリアは手の中に紅く短い槍を数本生み出した。思い切り振りかぶる。魔物はそれを見て身を屈めた。レミリアは構わず放つ。
魔物は大きく吼えながらそれをかわし、かわしきれなかった最後の一本を腕ではねのけた。低く唸りながら、こちらを見据えている。
動こうとした相手の機先を制して、パチュリーが銀の刃を生み出した。降り注ぐそれを、魔物はレジストし、あるいは砕いた。それに続けるように、魔女は次々と魔法を撃ち続ける。
「ふむ……」
魔法は唐突に止まった。だがパチュリーは未だ何かを考えている。ならばそれが固まるまではレミリアの番だった。
急に止まった攻撃を訝るように唸る魔物とパチュリーの間に入るように、レミリアは降り立つ。
腕を振って現したサーヴァントと、それに応じた魔物の魔法とぶつかり合って、周囲の闇が鮮やかな光に彩られた。
魔物は続け様に礫のような魔法を撃つ。無軌道なそれは、魔物が吼えると同時、まるで風に乗って渦を描くかのようにレミリアに集中してきた。
レミリアは低く笑う。手に紅い槍を現して叩き落とした。礫同士がぶつかる音がして、酷く耳に障る。さらに水弾が飛んできた。流石にそれは受けてはいられない。
手にした槍を無造作に投げて相殺し――相殺するだけに飽きたらず、魔物の胸を狙う。魔物は目を見開いて横飛びに避けた。
「さあ、次はどうする?」
地の底から響くような唸りが魔物から漏れた。レミリアが一筋縄どころの相手ではないと察しているのだった。
ならばとでも言うように、パチュリーに向かって風刃が飛んでいく。魔力で象られた蝙蝠弾がそれを追うが、風の方が一足速い。
「パチェ!」
パチュリーは煩そうに手を振っただけだった。水弾がそこに現れて、風刃をかき消す。
少しだけたじろぐ気配があった。魔物のその気配を感じながら、レミリアはさっと距離を取る。
魔物もそれに気が付き、ふわふわと頼りなげに飛んでくる水弾から離れた。破裂音。
「っ、と」
レミリアは身をそらした。破裂した水弾の欠片がレミリアの顔すれすれを飛んでいく。少し目測を誤った。
魔物は避けきれなかった。弾き飛ばされ、一つ宙で回転して体勢を立て直す。反撃なのか、雷のような魔力を纏ってパチュリーへ突撃しようとしていた。
「おや、それは許さないよ」
瞬時に魔物の眼前に現れたレミリアは、弾丸のように駆けているそれを片手で押しとどめ、ひょいと手を捻って転がした。
魔物は再び受け身を取った。唸り声は動揺していた。ここまでの相手に遭ったことがなかったのだろう。
再び一つ鋭く吼え、レミリアに飛びかかる。
「私相手に力比べか? いい度胸だ」
レミリアは魔力で強化された魔物の爪を簡単に弾く。唸りを上げて打ち下ろされる拳を、楽しむように彼女は受け止め続けた。
魔法型、とでも呼べばいいのだろうか。流石に格闘でレミリアの相手にはならない。
身体を頑丈にしているからか一応耐えることは出来るものの、打撃が当たれば簡単によろける。爪も受け止めるのが精一杯のようだ。
いや、受けられるだけでも大したものなのだ。並みの者ならば、一撃目で絶命している。
だがここにきてようやく、魔物は分の悪さに気が付いたらしい。一つ吼えて、自身を中心に爆発を起こした。爆風に紛れ、深淵に溶け込もうと。
「おや、逃げるなよ。まだ終わってないんだ」
レミリアはそれを見逃さなかった。彼女の周囲に紅い鎖が現れ、周囲を包み込む。ミゼラブルフェイト。
鎖はレミリアの覇気を示すかのように鋭く空気を切り裂き、逃げ出そうとしていた魔物を絡め取った。
唸り声を上げて引きちぎろうとするが、もがけばもがくほどその鎖は魔物に食い込んでいく。
「無駄だよ。これはお前が食ってきたほど柔なものじゃない」
レミリアは軽く笑った。これは決闘ではない。単なる戦いだった。生きるか死ぬかだけがある、ただの無粋な戦い。
魔物は強い。異界の魔力、異界の強さ。これまで食らって身につけてきたもの。全ては確かに、強い妖と異って然るべきもの。だが、いうなればただ一つ。
「相手が悪かったな」
魔物は大きな咆吼を上げる。力強い、だが無意味な咆吼。レミリアはそれについては何も言わなかった。憐れみすら向けなかった。
このまま引き裂こうと思えば引き裂けないことはない。だがそれをレミリアはしなかった。
幕引きは自分の役目ではない。この戦いを終わらせるのは自分の役目ではない。それを知っているレミリアは、ただ静かに親友を見上げる。
無慈悲な運命に捕らわれた魔物を、パチュリーは静かに見据えていた。魔物は身動ぎをやめている。動いても無駄と理解している。
「ようやく、わかったわ」
声は凛然としていた。魔物とレミリアの視線を感じながら、パチュリーは言葉を続ける。
「知識を求めるのは結構。魔力もまた。それは我らの本分だもの」
パチュリーは静かに魔物の行動を肯定した。パチュリーもまた知識を追い求める者であり、それについては何の文句もない。
問題はそこではなかった。レミリアとパチュリーと、二人相手でも抗し得たかもしれないほどの魔力。だがしかし、現在の状況はそれを感じさせないもの。
その理由を、パチュリーは悟っていた。この空間での、あれだけの騒動にも関わらず出てこなかった理由も。
「でもね、ただ闇雲に食らうだけでは何にもならないのよ」
魔物が微かに動いた。それは逃れようとしての動きではなかった。パチュリーの言葉に反応したのだった。パチュリーは構わない。
「貴方は得たもので何をしようとしたの? 何かを成そうとした? ただ怠惰に貪るだけでは意味はないの」
静かな声は激情にも等しかった。Knowledgeは知識を得るだけを良しとしない。それを書き残し新たな研鑽へと向かう。それに終わりはない。立ち止まってなどいられない。
そう、そうなのだ。これは何もしなかった。これだけの知識、これだけの魔を有しながら。パチュリーにとってそれは許し難かった。
パチュリーは常に進み続けることを己に課している。それはKnowledgeの本分だけではない、彼女自身が、己の意志で決めていること。
パチュリー・ノーレッジは、いつかその身が潰える日まで立ち止まりはしないのだと。
「もし違うというのならば、その力で証明なさい」
だから、パチュリーが負けるはずがないのだ。ただ何の意志も意義も持たず、ただ知識を貪るだけに徹してしまった者などに負けはしないのだ。
パチュリーの右手が胸元で翻る。一枚の符が手の中から現れた。パチュリーの意志の強さを表すもの。
レミリアと一瞬だけ視線が交錯した。鎖が解ける。魔物は逃げなかった。知を食らうモノとしての意地だろうか、パチュリーの言葉に受けて立つように佇んでいた。
一つ大きく吼える。吼えて、魔物のその身から魔力が膨れ上がるのを、パチュリーは確かに感じた。
魔物はパチュリーだけを見ていた。それでいい。ただその想いだけで勝負をすればよい。無粋な戦いであっても、これくらいは許されて然るべきだ。
パチュリーはそう心に呟き、宣言した。手の中の符がかっと熱くなる。パチュリーの胸中を表すかのように。
「日符『ロイヤルフレア』」
厳かな詠唱とともに、パチュリーの魔力が膨れ上がる。無限の深淵を照らす陽の光。パチュリーは手のひらを翻して、その軌道を制御する。
狙いは一点、かの魔物だけ。
咆吼が轟いた。魔物もまた魔法を唱えたのであった。魔物の周囲に雷霆にも似たものが渦巻く。一瞬だけ、ロイヤルフレアの動きが止まる。
だが、それは本当に一瞬だけだった。陽光はその輝きを増しながら、闇を灼き尽くし、雷を飲み込んでいく。魔物の姿はもはやパチュリーからは見えない。
抵抗は未だあった。未だ強い魔力を放ちながら、陽光に対抗しようとしている。
パチュリーは一瞬だけ瞑目し、さらに指先に魔を集中させた。自分の指を焼くのではないかと思うほど強く。強く。
瞳を灼くほどの陽の光と、それに抗おうとする、だが純粋な魔力の明かり。パチュリーの瞳にはただ、その魔力だけが見えていた。この一件の中で初めて見た、どこまでも純粋な魔力。
だがそれも、少しずつ消えていく。パチュリーの全力に抗いながら、少しずつ。少しずつ。
再び咆吼が聞こえた。咆吼だけが聞こえた。
閃光が満ちる中、レミリアは陽光の余波から身を守るように閉じていた羽を開いて、静かにパチュリーの傍に寄る。パチュリーはじっと闇が灼けていくのを見つめていた。
言うべき言葉はなかった。言葉などかけずとも良かった。だからレミリアは何も言わない。ただ、周囲を見回した。
この空間を止めていた魔力が綻んで、出口らしき境が見えた。光が――慣れ親しんだ光が見える。図書館から漏れる明かりに相違なかった。
光は徐々にこの空間を押し包んでいる。間もなくこの空間は消えるのだろう。
それを目を細めて確認した後、レミリアはパチュリーに声をかけた。
「さあ、帰ろうか。小悪魔が随分と心配している」
「あの子はちょっと過保護なのよね」
「なに、心配なのさ。何も小悪魔に限った話じゃあないが」
そう笑いながら、紅き悪魔は無二の親友に手を差し出す。その手を取りながら、七曜の魔女も軽く笑った。
「ええ、そうね。こうして心配してもらえるのだもの」
レミリアが微かに苦笑する。照れたようにも見えたそれは、すぐに光に飲み込まれて見えなくなった。
かくして、騒動は決着を迎える。
その後、静かなはずの図書館にて。
「ずーるーいー!」
フランドールがレミリアの頭の上に乗って不満を述べていた。
あの後――あの空間が崩れ、光が消えると同時に、レミリアとパチュリーは図書館に戻ってきていた。
ちょうどそれを目撃した小悪魔曰く、『一瞬本が光ったと思ったらパチュリー様とお嬢様が立ってました』だそうだ。
結局のところ、あの書は魔物が宿ったか魔物が成ったかどちらかだろう、というものであった。
読んだ者を取り込んで食らい、知識と魔力を奪う。そういう代物だったらしい。それも、ある程度以上の者を飲み込めるように、きちんと読解でき、かつ魔力を注ぎ込める者に限っていたようだ。
パチュリーの見立てでは『最初はそうではなかったもの』で、『少しずつ魔力の強い者を飲み込むように進化させていったのだろう』ということであった。
そして進化させていく中で、様々なものを見失ったのだろうと。強い魔力も豊富な知識も、その何たるかを誤らせるものに成り果ててしまったのだと。そう告げたパチュリーの瞳は静かだった。
魔物がため込んでいた知識は書の中に残されているようで、パチュリーはそれでいいと納得していた。書の解読の目的も果たされたのである。
とにかく、そういうことでこの一件は収まったのだが――
「ずるいずるいずるい! お姉様とパチュリーだけ楽しそうなことしててずるい!」
顛末だけを聞かされたフランドールが、自分も遊びたかったと駄々をこねているのだった。
「あー。仕方ないでしょ、呼んでる暇なかったんだから」
とりあえず頭の上から降りなさい、と、じと目で頭上の妹を見上げつつ、レミリアはパチュリーに視線で訴えかける。
パチュリーはその視線をさらりと流して、事実だけを口にした。
「随分といいタイミングだったものね」
「私だもの、当然でしょう」
何に胸を張っているのかよくわからないが、とにかくレミリアは胸を張ってそう告げる。
ずるいーずるいーと喚いていたフランドールが、急にぽんと手を打った。
「そうだパチュリー、今度作って!」
「あ、そのときは私も遊びたい」
「貴女達私を何だと思って」
名案を思いついたかのように羽をパタパタさせるフランドールと、しゅたっと片手を挙げたレミリアに、パチュリーは額に手を当てる。ため息を一つ吐いて、手元の書に視線を落とした。
「まあ確かに、この書のやり方は興味深いけどね」
「もう魔力流し込んでも何も起きない?」
「起きないわね。主を倒してしまったから」
レミリアの頭からパチュリーの頭に移ったフランドールが、パチュリーの手から書を受け取って開いた。
ぱらぱらとめくっていた手を止め、フランドールは頁をじっと見つめ始める。紅い瞳孔はすっと細くなっていた。何をしているのかに気が付いたパチュリーが慌てて止める。
「……ストップ妹様、それは壊れるわ」
「えー」
どうやら際限なく魔力を流し込もうとしていたらしい。フランドールの瞳が落ち着きを取り戻すと共に、流し込まれそうになっていた魔力は霧散した。
「フランの魔力は馬鹿みたいに高いからなー」
「同じ機構作ろうとしてもきちんと作らないと作動する前に壊れるわね」
パチュリーはフランドールから書を受け取り、呆れ気味のため息をついた。そのため息の持ついろいろな意味に気が付き、フランドールは目を輝かせる。
「作ってくれるの!?」
「実験するにはちょうど良さそうだからね」
仕方なさそうに微笑して、パチュリーは親友に視線を向ける。レミリアも軽く頷いた。
二人ともわかっているのだ。急いでいたとはいえ、フランドールを連れて行った方が早く終わっていただろうことなど。
それなのに、何故レミリアは単独で向かったのか。
レミリアは当然そのことを口にしない。パチュリーも聞かない。二人にはそれでいい。
「まあ、私達だけで楽しんで悪かったわ、フラン」
「今度は一緒に遊びましょう」
「本当!? やったあ!」
喜ぶフランドールにくすりと微笑って、レミリアはパチュリーと視線を合わせた。
「とんだハプニングだったが、本当に楽しかったよ」
「ええ、本当に」
くすくすと笑い合う二人を交互に見て、お姉様とパチュリーだけわかってずるいなあ、とフランドールはぼやくように呟く。
そうでもないわよ、と冷静に書を開くパチュリーと、むうと膨れるフランドールに笑いかけ、レミリアは妹の機嫌を取るために、呼び鈴を一つ鳴らしたのだった。
紅い喧騒が二つとも去った後のこと。
「私は」
ようやく静けさを取り戻した図書館で、パチュリーは小さく呟いた。
「貴方のようにはならないわ」
静かな瞳のまま、書に視線を落とす。ページをめくり、文字を追いながら、そっと語り掛けるように口を開いた。
「……なれないのよ」
知識だけを貪って、澱んだような空気にただ沈むことなど赦されるものではない。
何より、そんなことをしようものなら、壁をぶち抜いて無理矢理空気を入れ替える紅い悪魔がいるのだから。
槍を持って仁王立ちしているその図がありありと想像できて、パチュリーはくすりと笑みを漏らす。
そう、此処はあまりにも楽しくて、あまりにも騒々しすぎて。
ただただ待つだけの存在になど、おそらく生涯をかけてもなれそうにもなかった。
「パチュリー様? 何か?」
図書整理の途中だったらしい小悪魔が、呟きを聞きとがめたのかひょいとこちらに顔を出してきた。軽く首を振る。
「いいえ、何でもないわ。ああ、ハーブティーを一杯もらえるかしら」
「あ、はいっ!」
元気の良い返事と共に、小悪魔が飛び去っていく。その気配が遠ざかるのを感じながら、パチュリーは静かに書を閉じた。
「はい、あ、お嬢様お気をつけて」
「持ってる分には大丈夫っぽいから」
紅魔館地下図書館の片隅。いつも図書館の主が座っているその椅子に、今は紅魔館の主が腰掛けていた。
その手には一冊の分厚い書物がある。魔法書の類であることは、その書から漏れてくる魔力で十二分に理解出来ていた。
問題は、その書物が引き起こしたことである。紅魔の主――レミリア・スカーレットが、書をぱらぱらとめくりながら傍らに控えている小悪魔に尋ねた。
「で、パチェがこの中に飲み込まれた、と」
「おそらく。私も後を追っかけようと思ったのですけど」
「開いても何も起こらなかった、と」
小悪魔の報告を聞きながら、レミリアはふむと形のよい顎に手を当てた。
『パチュリー様が! パチュリー様が消えちゃいましたぁ!!』
そう、泣きそうな――というよりほぼ半泣きの状態の小悪魔がレミリアの執務室に駆け込んできたのが小半刻ほど前のこと。
要領を得ない小悪魔を宥めてやりながら図書館に着き、主が不在のデスクの上で件の書物を見つけたのだった。
「うーむ……」
レミリアは書を矯めつ眇めつしながら小さく唸った。小悪魔から聞いた話を統合するとこうなる。
幻想に入ったのか図書館の奥で埋もれていたのかわからない書物が出てきた。
パチュリーは早速それを読み解き始めた。読解自体はそう難しくなかったのか、さらさらと読み始めたらしい。
小悪魔はその光景を見た後、いつものように蔵書整理にとりかかったらしい。
少しの後、パチュリーのデスク周辺が急に閃光に包まれ、何事かと小悪魔が戻ったときにはもうパチュリーの姿はなかったのだそうだ。
後には、パチュリーが読んでいた書物だけが残されていた。
「まあ、状況は把握したわ」
行儀悪くデスクに両足を組んで乗せ、椅子を揺らしながら、レミリアは書を軽く額に当てた。
そんなことをしても何にもならないが、とにもかくにも、状況把握は大事である。
「お嬢様、お行儀が悪いですよ」
「いいじゃない、どうせ文句を言う相手はいないんだし」
「後で怒られますよ……?」
図書館の異変に気が付いた咲夜とたまたま休憩に来ていた美鈴も、そう軽く言いながらレミリアの持っている書に視線を向けた。
向けられた視線に気が付きながらも、レミリアはただ問いだけを返す。
「どこにもいなかったわね、咲夜」
「はい。館内にはどこにも」
咲夜は首を振った。この一件が発覚した後、咲夜は館中を調べているはずだった。
レミリアがそう求めるだろうことなど、この完全なる従者はとうに察している。
その返答には軽く頷くだけにとどめる。それくらいはしていて当然と、レミリアも思っているのだった。
「そしてここからパチェの魔力はする」
「はい、中から漏れてきています」
小悪魔が即答した。魔力的に繋がっている二人である。これに関して小悪魔の発言は絶対であった。
レミリアは少し考え、書を開く。中身を見ないことには始まらないと判断したのだ。そしてパチュリーが消えたのは書を開いた直後ではない。
「やはり大丈夫のようね」
「ほ、本当に大丈夫でしょうか」
「ええ。この本……が原因は原因だけど、何か条件が……」
レミリアは顎に手を当てたまま、ぱらぱらと頁をめくる。パチュリーは何をしようとしたのだろうか。
描かれている口絵には、異形の怪物達の姿。人間には畏怖を呼び起こすのかもしれないそれは、レミリアにはただの絵にしか見えない。
おそらくパチュリーもそうだったはずだ。いや、もしかすると何かの解読の鍵になるか、くらいは思ったかもしれないが。
悩むレミリアの耳に、ぽつりと呟きが届いた。
「……気の流れが」
「美鈴、何か?」
「何となく、その本の気の流れはおかしいのですよね。私は魔法には明るくないのですが」
美鈴は顎に手の甲を当てていた。レミリアは美鈴を見上げ、本に再び視線を落とす。
気の流れ、というのはレミリアにはよく理解はできない。だが、美鈴が引っかかるほどの何かがこの書にはあるということだった。
「……生物であるかのよう?」
「…………似ているのかもしれないです。確証はありません」
軽く首肯だけを返し、レミリアは片目を眇めて書に集中する。パチュリーを取り込んだ意義はどこなのか。
生きているとするならば――それに近しい魔法生物ならば、何が必要なのか。
ピン、と直感的に繋がった。美鈴の抱いた違和感。小悪魔の証言。そしてパチュリーがやろうとしたこと。
全ての正しさを確かめようと、ぱらぱらとめくりながら、レミリアは書の文章に視線を走らせていく。
レミリアの眼は、パチュリーが何をしようとしていたのか、何をしていたのかを追っていた。
「ああ、そうか、そういうことか」
「お嬢様?」
「今から迎えに行ってくる。何、時間はかからないよ」
咲夜の言葉に軽く返事をして、レミリアは視線を落としたまま断言した。
「パチェが飲み込まれた理由もわかった。それなりの魔力のある者しか呼び込まないみたいだね」
今や直感は真実になっていた。レミリアは音を立てて開いたままの書をデスクに叩きつけ、三人の顔を見回す。
「私が行ってくる。何、心配はしなくていいわよ、ちょっと遊んでくるだけだから」
レミリアの視線を受けて、三人はそれぞれの表情を浮かべていた。咲夜は納得したように、美鈴は笑顔で、小悪魔は心配そうに。咲夜が一つ頷く。
「お気をつけて」
「ん」
「あの、お嬢様、これ、パチュリー様に」
小悪魔の差し出した瓶を手にとった。中には不思議な色をした、錠剤のような何かが入っている。
「渡しておけばいいのね」
「は、はい! お願いします!」
「そちらは、私達が作ったと言えばわかりますので」
美鈴の言葉に頷いて、レミリアは書のとある一節に目を留めた。紅い瞳がすっと細くなる。獲物を狙うように、細く、鋭く。
「全く、私はこういうのは苦手なのよ。知ってるでしょう、パチェ」
呟きは低すぎて誰の耳にも届かない。視線は魔法書のその一節をさらに追っていた。
おそらくパチュリーもまたこの文を読みとり、そしてさらなる先に進むために魔力を流し込んだのだ――それが罠だと気が付かずに。
いや、罠だと言うことを理解した上で踏み込んだのかもしれない。それもまた親友らしい。
レミリアの口唇が笑みの形を象る。悪魔じみた笑みを浮かべたまま、紅い吸血鬼はその魔力を書にそそぎ込んだ。
閃光が図書館を覆い、そして消える。レミリアの姿もまた、その場から消え去っていた。
机に残っているのは、ただ書物だけ。
咲夜が書物を手に取り、レミリアがやっていたように魔力を注ぐ。
「……やはり」
書は何も反応しなかった。軽くため息をついて、咲夜は書から手を離す。
「この館では、後は妹様くらいなのでしょうね、この本が反応する魔力は」
「美鈴」
咲夜の戸惑うような言葉に、美鈴はにっこりと笑った。他者を無条件で安心させる類の微笑みだった。
「大丈夫ですよ、お嬢様は。小悪魔もほら」
「ううう……」
小悪魔は不安そうにまだ書物を見つめている。よしよしと美鈴はその頭をなでた。
「身体に良いものを作って待ってるといいですよ。私はこれからまた門に戻りますけれども」
「はぁい……」
「咲夜さんも。お嬢様が全部解決してくるでしょうから」
「……ええ。いろいろ用意して待つことにするわ」
そうしてくださいな、と言って、美鈴は一つ帽子の位置を直す。
「それでは」
颯爽とした足取りで、美鈴は一足先に図書館を出て行った。残された従者二人は、顔を見合わせる。
「美鈴の言う通りね。帰ってきたら紅茶を入れて差し上げないと」
「わ、私も、何か薬湯を準備します」
「では、ハーブティーにしましょう。小悪魔、手伝って」
「はい」
小悪魔は頷いて、咲夜の後ろについて行く。
そして、図書館にはつかの間の静寂が訪れた。
爆音と共に、影がゆらりと揺れて消える。パチュリーはそれを見届けて、小さく呟いた。
「全く、きりがないわね」
大きく息を吐いて胸に手を当てる。軽く咳き込んだ。体調はよくはない。
上も下もなく、方向感覚さえも狂わせられる。どちらに進めばいいのか、そもそもどうやって脱出するのか。
見当が付いていないわけではない。この空間を書の中に作り出したモノ。作り出せるほどの力を持っているモノ。とにかくはそこに辿り着くことだ。
パチュリーは再びため息をつき、小さく呟く。
「主はどこかしら。それを消したらとりあえずは――」
パチュリーの言葉は途中で中断させられた。背後で嫌な気配が膨れ上がる。
振り返りざまに咄嗟に張った防御陣ごと、太い丸太のような何かでなぎ払われた。
「く……」
衝撃を抑えつつ、身を翻して敵の姿を確認する。下方――下方と言っていいのか、ともかくパチュリーの足下側に、気味の悪い形をしたものが見える。
丸太と言ったのはあながち間違いでもないようだった。正確にはその生き物の触腕。
蛸や烏賊、あるいは深海の海洋生物をねじ曲げて醜悪にしたようなそれに、パチュリーは見覚えがあった。
「……ふむ、挿絵と同じね」
そんな悠長なことを言っていられる場合でもないはずなのだが、こればかりは性分である。
先ほどまで倒していた西洋の小鬼に似た群れもそうだった。
挿絵と内容に一貫性がないことも気にかかっていたのだが、どうやら挿絵はただ書の中に住んでいるもの達の図であったらしい。
うねうねとしたそれは、畏怖はないが不快感を与える外見をしている。魔力自体が高い魔物ではない。これは主ではない。
「っ!」
思考中に、再びそれは腕――腕と言っていいのかわからない、無数にある触腕のようなそれ――を振るってきた。
ぎりぎりでかわして、パチュリーは集中する。とにかくは敵を倒してからだ。
「火符『アグニシャイン』」
簡単に符を練り上げ、叩きつける。炎の嵐は防ごうとした触腕ごと飲み込み、焼き尽くしていく。
やはり主ではない。上級でさえないこの符すら受け止められないのだ。格闘などになれば勝ち目は薄いだろうが、魔法戦のうちはそうそう負けはしないだろう。
ふう、とまた一つ息をついた。これでは本当にきりがない。魔力だって無限ではないのだ。どうにかして脱出しなければ――そう思った瞬間だった。
「ぐ、っ……!?」
身体に衝撃が走って、パチュリーは弾き飛ばされる。反射的に張った防御陣に、再び衝撃が走った。一度二度ではない。
「く、うう……っ!」
叩きつけるようなその攻撃を、パチュリーは防御陣の魔力を調節しながら受け止めた。本当はどこかで素早く離脱するべきだったのかもしれない。
だが、攻撃が激しくてもう耐えるしかない。反応が遅れたのが全てだった。そもそも彼女は近接攻撃には敏くも強くもない。
ただ闇雲に打っても効果がないと思ったのか、攻撃の手が緩んだ。すかさず距離を取る。間合いを突き放すまではなくとも、超接近戦は避けるべきだった。
(もう一体いたのね……!)
防御でまだ痺れている身体の体勢を立て直し、パチュリーは歯を食いしばった。間合いを離せないまま、続けざまの攻撃を避ける様に動き始める。
彼女に狙いを定める触腕の狙いを外しながら、詠唱の準備を始めた。一つ二つを焼いていく。
だが、触腕の方が速い。加えて、パチュリーの手数は少なく、一気に焼き尽くす詠唱には足りない。
レジストし損ねた触腕がパチュリーの身体を捉えようとした、まさにそのとき――
――紅い何かが降ってきて、その不定形の魔物の本体を弾き飛ばした。
弾き飛ばした何者かは、パチュリーの方を向いてにっこりと笑った。
「やあパチェ、久し振り。危機一髪ね」
「計ってたんじゃないかと疑うほどのナイスタイミングよ、レミィ」
一条の槍となって降ってきたもの――無二の親友の姿に、パチュリーは一つ息をついた。文字通り一息つけるのだった。
「随分楽しそうなことになってるじゃないか」
「全くね」
親友の軽口に応えながら、パチュリーは先ほどの化け物の気配を探る。
レミリアも同様のようで、パチュリーに対する気安い口調とは裏腹に、その瞳だけは冷たく魔物が落ちた先を見据えていた。
パチュリーでさえぞくりとするようなその冷徹な眼差しが、少しだけ眇められる。唸りと共に、魔物が再び深淵から現れたのだった。
動こうとしたパチュリーを、レミリアが手だけで制する。パチュリーはそれに頷いた。正直、少し休めるのはありがたい。
「さて、私が相手だ」
挑発するような言葉もまた、どこか冷たいものを帯びていた。
「貴様ごときでは相手にもならんだろうがね」
不遜なレミリアの小柄な身体を押し潰そうと、魔物は触腕ごとのしかかり、包み込もうとする。あるいはそうやって魔力を食らおうとしているのかもしれない。
それに対して、レミリアは驚きも慌てもしなかった。ただ、優雅に羽を広げただけだった。
「紅符『不夜城レッド』」
レミリアの身体が、視界を灼く紅い魔力で輝く。墓標を示すかのような十字架は、化け物の断末魔すら飲み込んでいった。
もう見慣れたそれを、静かにパチュリーは眺めていた。眺めながら、周囲の気配に――魔力の流れに気を配る。
「大丈夫よ、パチェ。ここに来るまでにも倒してきたから、近くにはそうそういないはず」
「だといいけれど。どこから現れるかわかったものじゃないからね」
「気を付けておくわ」
レミリアは笑って、周囲を見回す。漆黒の闇は、ここまでの戦闘でも揺らぐ気配も見えなかった。
「また随分な空間ね。まあ、私はこういう闇の方が動きやすいけれど」
「こういうときって、外から解決方法を探すものじゃないかしら?」
「だってこれが一番手っ取り早いんだもの。それに、随分と楽しそうなことが視えたしね」
レミリアの瞳は暖かみを取り戻していた。どこか安堵しながら、パチュリーは肩を竦める。とにもかくにも、レミリアが来てくれたのはありがたく、心強かった。
不意に、ああそうだ、とレミリアは呟いて、ポケットから小瓶を取り出した。
「パチェ、とりあえずこれ」
「何これ」
「小悪魔から。美鈴も作ったって聞いたけど」
ぽんと投げられたのを不器用に身体全体で受け止めて、パチュリーは中身を見て納得する。
「ああ、作ってたのね」
「知ってるの?」
「まあね。何やら美鈴と二人で作ってる、というのは知ってたから」
食事を抜きがち――というよりも、魔女であるパチュリーは食事を必要とはしない。
だが、体調を崩しがちでもあるパチュリーを心配して、小悪魔などはよく薬膳や薬湯を作ってくる。
それでも忙しいときには何も取らなくなるからと、薬湯を煮詰めたものをタブレットの形にする案はあったのだ。パチュリーがそれを望んだのもある。
パチュリーは瓶を開け、幾つか手のひらに転がすと、口の中に放り込んだ。
「……ん」
「どうしたの」
「…………絶妙に微妙な気遣いがね。次は錠剤にしてもらおうかしら」
錠剤と思って噛んだらグミだったものを、少し咀嚼して飲み込む。食べやすいようにと言う配慮かもしれないが、逆に食べ辛い。
薬湯を煎じているくせに苦みやえぐみの少ない、だが決して美味しいとは言えないそれは、消費していた魔力を取り戻させるには十分だった。
「私も後で食べてみたい」
「美味しくないわよ」
「じゃあいいや」
レミリアはひらひらと手を振って、闇の向こうに視線を向ける。無数の気配が蠢くのがパチュリーにもわかった。
はてさて、何十、いや何百いるのだろうか。あの書物一冊分とするならばかなりの量のはずだ。
それでも、たとえ万の敵が相手であっても――レミリアとなら、何の問題がない気がした。
パチュリーの調子が戻ってきたのを察して、レミリアは軽く笑う。
「はてさて、行こうかパチェ、随分と楽しそうだ」
「はいはい、やりすぎて壊さないでね?」
パチュリーの軽口も、今は力のあるものになっていた。レミリアは満足げな表情をする。これでなくては。
無数の魔物の群れも、レミリアにとっては心を躍らせるものに過ぎない。
「腕が鳴るわね。パチェとこう組むなんていつ以来?」
「そもそもこういうことなんてあったかしら?」
パチュリーは肩を竦めた。悪戯っぽい笑みのまま、レミリアは身を翻して蝙蝠の形をした魔力を放つ。
群れの先頭にいた何匹かがそれに貫かれ、闇に溶けていく。
「手応えのないことだ」
「ここの主が生み出したモノがほとんどのようね。ただ、命令系統などは確立されてはいないみたい」
「確かに、連携なんかはなかったわね」
レミリアはふむ、と顎に手を当てる。そして、パチュリーに向かって首を傾げた。
「で、終着点は?」
「呆れた。それも知らないうちに入ってきたの?」
「パチェが考えてくれるだろうと思ってね」
応じながら、レミリアは何かを思いついたような顔をした。パチュリーが目を瞬かせる。
思いついたことに対しては言葉を発せず、レミリアは唐突に魔物の群の中に降り立った。
魔力を伴った爪で次から次へと魔物を切り裂いていく。大した手応えはない。やはり烏合の衆なのかもしれない。
パチュリーは軽くため息をついて、レミリアと背を合わせるように降り立った。降りながら、なぎ払うよう腕を振る。指先に灯った炎が魔物達を焼いていった。
阿鼻叫喚の図を呈し始めた周囲を気にも留めず、パチュリーは最初の問いに答える。
「終着点はこの空間の主。書の魔物よ」
「そうか、それなら話は早い」
爪が再び目の前の魔物を抉った。そのまま連続攻撃には続けず、ひょいと身を屈める。頭上を稲妻の形をした魔力が通っていった。
それを確認しないまま、レミリアは羽を蝙蝠として展開し、パチュリーの左右の敵を飲み込む。鈍い音と断末魔にも似た唸りが聞こえた。
二人は動きを止めない。そのままレミリアは翼を元に戻して前方の敵を貫く槍に変え、パチュリーは稲妻から刃へと魔法を変えた。
互いのことなど気にも留めないかのように、二人は好き勝手に全方位攻撃を始める。それでもまるで舞踏でも踊るかのよう。
その自儘な攻勢について、レミリアもパチュリーも全く視線を合わせない。合わせる必要もない。
ただ、楽しそうに笑っていた。何の気兼ねもなく力を振るえることをこの上なく楽しんでいた。
「それにしても多いことね」
「何パチェ、ばてた?」
「そうではないけど。もう百近くは倒してるわよ」
「数えてたんだ」
パチェはまめだなあ、と笑いながら腕を振りかぶったレミリアの眼前に緑色の岩壁が現れる。レミリアは顔色一つ変えない。
エメラルドシティ。それに足止めされた魔物達に向かって、レミリアは溜めた力を解放する。
轟音と共に何十匹かが塵になった。だが、その後ろからまたわらわらと影が現れる。
「随分大盤振る舞いしなければならないわね」
「それも良かろうさ」
レミリアの声は朗らかとでも言えるようなものになっていた。パチュリーもそうだろうが、レミリアはこの状況を楽しみこそすれ、悲観的には見ていない。
「あら、何か打開策が?」
「簡単な話よ、パチェ」
レミリアは無邪気な子供のような笑みを浮かべた。かつて、たった一人で幻想郷に喧嘩を売った、畏れ知らずの吸血鬼は、心から楽しそうな声を上げる。
「とりあえず、全部やっつけていけばいい」
無数の紅い槍が彼女達から見て上空に現れ、彼女達の敵にその照準を合わせた。
獣の唸り声が聞こえた。結局一掃してしまった二人は深淵を飛びながら、その声を聞く。
「主かな」
「もういい加減気配もなくなってしまったものね。おそらく」
「うん、随分楽しめた」
レミリアは上機嫌だ。結局楽しみすぎてあのグミを二人して食べる羽目になっていたが、とにもかくにも大いに楽しんだのは事実だった。
少し前を飛ぶレミリアを追いながら、それだけの騒ぎでありながらも主が出てこなかった理由をパチュリーは考え続けている。
この主は何を持ってあれらを作ったのか。どうして出てこないのか。考えがまとまる前に、前を行くレミリアの声がした。
「いた」
レミリアは嬉しそうに瞳を輝かせた。パチュリーは慎重な視線で闇の向こう側を探る。強い魔力を持った存在がある。間違いはなさそうだ。
「……待ちかまえていたのかしら」
パチュリーはそっと呟いた。もう視認できるほどの距離にはきている。
見た目は、今まで倒してきた魔物達よりも小柄――それでも二、三メートルはあろうかという二足の魔獣であった。
二本のねじ曲がった角が額に当たる部分から生えた、狼にも似た外見の魔物。外見はそう大したものではない。
そう、見た目は問題ではない。いや見た目も恐ろしげでこそあるが、それは問題ではない。
大したものなのは、その内に持つ魔力であった。その身に渦巻く魔力は、レミリアとパチュリーに主と確信させて然るべきものだった。
魔物はこちらを睨み上げてくる。どこか侮る瞳だ。
その瞳に気が付きながらも、レミリアの声は弾んでいる。見た目よりも幼く見えそうなその声は、しかし威厳だけは十分に持っていた。
「これはこれは大物だ、どうだ、Knowledge、心が沸かないか」
芝居がかった物言いに、パチュリーもにやりと返す。
「そうね、紅の王。相応わしい獲物といったところ?」
「……パチェの意地悪」
途端、拗ねたように、ぷいとレミリアがそっぽを向く。くすくすとパチュリーは口元に手を当てた。
知っている。レミリアは自身を紅の王とは呼ばないし、呼ばれるのもそんなに好まない。
いや、嫌ではないのだ。むしろ、王と呼ばれるのは光栄でさえある。だが、だからこそレミリアはその評をあまり受けたがらない。
紅の王の後継者たる者は、レミリアではないのだから。
けれども、パチュリー自身は、こっそりと紅の王と呼ぶのを気に入っている。
初めて対峙したときからずっと。あの想いと力を知ってから、ずっとだ。
「ごめんなさい、レミィ。さ、行きましょう」
パチュリーはそう、少し拗ねたままの彼女の王に声をかけた。
魔物はレミリアとパチュリーを敵と見なしたようだった。いや、敵と言うよりも食らう相手だろうか。魔物にとっては、彼女たちは獲物なのだ。
吼えるような猛るような声と共に、炎の雨が降り注ぐ。一つ一つが、サマーレッド程度の威力は持っているようだった。
「おやおや、脳筋かと思えば意外にやるじゃないか」
「知識を食らって自分のものにはしていたのね。そしてそれを使いこなしてる。うん、それは間違いではないわね」
パチュリーは何やら感心している。レミリアは呆れたような息を吐いた。パチュリーは自らに向かってくる魔法を簡単にレジストしている。
羽で打ち返して、レミリアは魔物が下がったのを確認した。書の中にいるから火に弱いのだろうか、などと益体もないことを思ってみる。
「ふぅむ、骨はありそうかな」
「どうかしらね」
レミリアはおやと思った。パチュリーの視線は静かに魔物を射抜いている。何かを思考しているのだ。
それについての問いは返さない。答えが出たら教えてくれるだろう。目の前の魔物に相対してればそのうち教えてくれるに違いない。
魔物は一つ吼えた。一筋縄では行かない相手と判断したらしい。レミリアとパチュリーの周囲で爆音が轟き、爆風が髪を靡かせた。
本来は彼女達を狙ったものだった。冷静な瞳のままのパチュリーが跳ね除けたのだった。
「言葉は必要としなかったのね、ここに一人で閉じこもっていたから」
「話し相手もいないのは退屈そうだな」
レミリアは正直に感想を述べた。一人きりを寂しいなどと思う心は吸血鬼にはない。だが、退屈だけはどうにもならない。それは心を殺す毒だとレミリアは思っていた。
いろいろ騒動を起こすのもそれが故とも言える。最近はよくフランドールも巻き込むようになった。
フランドールが騒動を引き起こすこともあるか、と考えを訂正する。最近は訪ねてくる者も出てきた。それは必ずしも悪いことではない。
レミリアの些細な述懐は、しなるように放たれた水流に中断させられた。蛇のように食らいつこうとしたそれらを、レミリアは蝙蝠を生み出して弾き飛ばす。
「吸血鬼のことも知っているのかな。まあ、確かにそれは間違いではないが」
弾きながら、レミリアは手の中に紅く短い槍を数本生み出した。思い切り振りかぶる。魔物はそれを見て身を屈めた。レミリアは構わず放つ。
魔物は大きく吼えながらそれをかわし、かわしきれなかった最後の一本を腕ではねのけた。低く唸りながら、こちらを見据えている。
動こうとした相手の機先を制して、パチュリーが銀の刃を生み出した。降り注ぐそれを、魔物はレジストし、あるいは砕いた。それに続けるように、魔女は次々と魔法を撃ち続ける。
「ふむ……」
魔法は唐突に止まった。だがパチュリーは未だ何かを考えている。ならばそれが固まるまではレミリアの番だった。
急に止まった攻撃を訝るように唸る魔物とパチュリーの間に入るように、レミリアは降り立つ。
腕を振って現したサーヴァントと、それに応じた魔物の魔法とぶつかり合って、周囲の闇が鮮やかな光に彩られた。
魔物は続け様に礫のような魔法を撃つ。無軌道なそれは、魔物が吼えると同時、まるで風に乗って渦を描くかのようにレミリアに集中してきた。
レミリアは低く笑う。手に紅い槍を現して叩き落とした。礫同士がぶつかる音がして、酷く耳に障る。さらに水弾が飛んできた。流石にそれは受けてはいられない。
手にした槍を無造作に投げて相殺し――相殺するだけに飽きたらず、魔物の胸を狙う。魔物は目を見開いて横飛びに避けた。
「さあ、次はどうする?」
地の底から響くような唸りが魔物から漏れた。レミリアが一筋縄どころの相手ではないと察しているのだった。
ならばとでも言うように、パチュリーに向かって風刃が飛んでいく。魔力で象られた蝙蝠弾がそれを追うが、風の方が一足速い。
「パチェ!」
パチュリーは煩そうに手を振っただけだった。水弾がそこに現れて、風刃をかき消す。
少しだけたじろぐ気配があった。魔物のその気配を感じながら、レミリアはさっと距離を取る。
魔物もそれに気が付き、ふわふわと頼りなげに飛んでくる水弾から離れた。破裂音。
「っ、と」
レミリアは身をそらした。破裂した水弾の欠片がレミリアの顔すれすれを飛んでいく。少し目測を誤った。
魔物は避けきれなかった。弾き飛ばされ、一つ宙で回転して体勢を立て直す。反撃なのか、雷のような魔力を纏ってパチュリーへ突撃しようとしていた。
「おや、それは許さないよ」
瞬時に魔物の眼前に現れたレミリアは、弾丸のように駆けているそれを片手で押しとどめ、ひょいと手を捻って転がした。
魔物は再び受け身を取った。唸り声は動揺していた。ここまでの相手に遭ったことがなかったのだろう。
再び一つ鋭く吼え、レミリアに飛びかかる。
「私相手に力比べか? いい度胸だ」
レミリアは魔力で強化された魔物の爪を簡単に弾く。唸りを上げて打ち下ろされる拳を、楽しむように彼女は受け止め続けた。
魔法型、とでも呼べばいいのだろうか。流石に格闘でレミリアの相手にはならない。
身体を頑丈にしているからか一応耐えることは出来るものの、打撃が当たれば簡単によろける。爪も受け止めるのが精一杯のようだ。
いや、受けられるだけでも大したものなのだ。並みの者ならば、一撃目で絶命している。
だがここにきてようやく、魔物は分の悪さに気が付いたらしい。一つ吼えて、自身を中心に爆発を起こした。爆風に紛れ、深淵に溶け込もうと。
「おや、逃げるなよ。まだ終わってないんだ」
レミリアはそれを見逃さなかった。彼女の周囲に紅い鎖が現れ、周囲を包み込む。ミゼラブルフェイト。
鎖はレミリアの覇気を示すかのように鋭く空気を切り裂き、逃げ出そうとしていた魔物を絡め取った。
唸り声を上げて引きちぎろうとするが、もがけばもがくほどその鎖は魔物に食い込んでいく。
「無駄だよ。これはお前が食ってきたほど柔なものじゃない」
レミリアは軽く笑った。これは決闘ではない。単なる戦いだった。生きるか死ぬかだけがある、ただの無粋な戦い。
魔物は強い。異界の魔力、異界の強さ。これまで食らって身につけてきたもの。全ては確かに、強い妖と異って然るべきもの。だが、いうなればただ一つ。
「相手が悪かったな」
魔物は大きな咆吼を上げる。力強い、だが無意味な咆吼。レミリアはそれについては何も言わなかった。憐れみすら向けなかった。
このまま引き裂こうと思えば引き裂けないことはない。だがそれをレミリアはしなかった。
幕引きは自分の役目ではない。この戦いを終わらせるのは自分の役目ではない。それを知っているレミリアは、ただ静かに親友を見上げる。
無慈悲な運命に捕らわれた魔物を、パチュリーは静かに見据えていた。魔物は身動ぎをやめている。動いても無駄と理解している。
「ようやく、わかったわ」
声は凛然としていた。魔物とレミリアの視線を感じながら、パチュリーは言葉を続ける。
「知識を求めるのは結構。魔力もまた。それは我らの本分だもの」
パチュリーは静かに魔物の行動を肯定した。パチュリーもまた知識を追い求める者であり、それについては何の文句もない。
問題はそこではなかった。レミリアとパチュリーと、二人相手でも抗し得たかもしれないほどの魔力。だがしかし、現在の状況はそれを感じさせないもの。
その理由を、パチュリーは悟っていた。この空間での、あれだけの騒動にも関わらず出てこなかった理由も。
「でもね、ただ闇雲に食らうだけでは何にもならないのよ」
魔物が微かに動いた。それは逃れようとしての動きではなかった。パチュリーの言葉に反応したのだった。パチュリーは構わない。
「貴方は得たもので何をしようとしたの? 何かを成そうとした? ただ怠惰に貪るだけでは意味はないの」
静かな声は激情にも等しかった。Knowledgeは知識を得るだけを良しとしない。それを書き残し新たな研鑽へと向かう。それに終わりはない。立ち止まってなどいられない。
そう、そうなのだ。これは何もしなかった。これだけの知識、これだけの魔を有しながら。パチュリーにとってそれは許し難かった。
パチュリーは常に進み続けることを己に課している。それはKnowledgeの本分だけではない、彼女自身が、己の意志で決めていること。
パチュリー・ノーレッジは、いつかその身が潰える日まで立ち止まりはしないのだと。
「もし違うというのならば、その力で証明なさい」
だから、パチュリーが負けるはずがないのだ。ただ何の意志も意義も持たず、ただ知識を貪るだけに徹してしまった者などに負けはしないのだ。
パチュリーの右手が胸元で翻る。一枚の符が手の中から現れた。パチュリーの意志の強さを表すもの。
レミリアと一瞬だけ視線が交錯した。鎖が解ける。魔物は逃げなかった。知を食らうモノとしての意地だろうか、パチュリーの言葉に受けて立つように佇んでいた。
一つ大きく吼える。吼えて、魔物のその身から魔力が膨れ上がるのを、パチュリーは確かに感じた。
魔物はパチュリーだけを見ていた。それでいい。ただその想いだけで勝負をすればよい。無粋な戦いであっても、これくらいは許されて然るべきだ。
パチュリーはそう心に呟き、宣言した。手の中の符がかっと熱くなる。パチュリーの胸中を表すかのように。
「日符『ロイヤルフレア』」
厳かな詠唱とともに、パチュリーの魔力が膨れ上がる。無限の深淵を照らす陽の光。パチュリーは手のひらを翻して、その軌道を制御する。
狙いは一点、かの魔物だけ。
咆吼が轟いた。魔物もまた魔法を唱えたのであった。魔物の周囲に雷霆にも似たものが渦巻く。一瞬だけ、ロイヤルフレアの動きが止まる。
だが、それは本当に一瞬だけだった。陽光はその輝きを増しながら、闇を灼き尽くし、雷を飲み込んでいく。魔物の姿はもはやパチュリーからは見えない。
抵抗は未だあった。未だ強い魔力を放ちながら、陽光に対抗しようとしている。
パチュリーは一瞬だけ瞑目し、さらに指先に魔を集中させた。自分の指を焼くのではないかと思うほど強く。強く。
瞳を灼くほどの陽の光と、それに抗おうとする、だが純粋な魔力の明かり。パチュリーの瞳にはただ、その魔力だけが見えていた。この一件の中で初めて見た、どこまでも純粋な魔力。
だがそれも、少しずつ消えていく。パチュリーの全力に抗いながら、少しずつ。少しずつ。
再び咆吼が聞こえた。咆吼だけが聞こえた。
閃光が満ちる中、レミリアは陽光の余波から身を守るように閉じていた羽を開いて、静かにパチュリーの傍に寄る。パチュリーはじっと闇が灼けていくのを見つめていた。
言うべき言葉はなかった。言葉などかけずとも良かった。だからレミリアは何も言わない。ただ、周囲を見回した。
この空間を止めていた魔力が綻んで、出口らしき境が見えた。光が――慣れ親しんだ光が見える。図書館から漏れる明かりに相違なかった。
光は徐々にこの空間を押し包んでいる。間もなくこの空間は消えるのだろう。
それを目を細めて確認した後、レミリアはパチュリーに声をかけた。
「さあ、帰ろうか。小悪魔が随分と心配している」
「あの子はちょっと過保護なのよね」
「なに、心配なのさ。何も小悪魔に限った話じゃあないが」
そう笑いながら、紅き悪魔は無二の親友に手を差し出す。その手を取りながら、七曜の魔女も軽く笑った。
「ええ、そうね。こうして心配してもらえるのだもの」
レミリアが微かに苦笑する。照れたようにも見えたそれは、すぐに光に飲み込まれて見えなくなった。
かくして、騒動は決着を迎える。
その後、静かなはずの図書館にて。
「ずーるーいー!」
フランドールがレミリアの頭の上に乗って不満を述べていた。
あの後――あの空間が崩れ、光が消えると同時に、レミリアとパチュリーは図書館に戻ってきていた。
ちょうどそれを目撃した小悪魔曰く、『一瞬本が光ったと思ったらパチュリー様とお嬢様が立ってました』だそうだ。
結局のところ、あの書は魔物が宿ったか魔物が成ったかどちらかだろう、というものであった。
読んだ者を取り込んで食らい、知識と魔力を奪う。そういう代物だったらしい。それも、ある程度以上の者を飲み込めるように、きちんと読解でき、かつ魔力を注ぎ込める者に限っていたようだ。
パチュリーの見立てでは『最初はそうではなかったもの』で、『少しずつ魔力の強い者を飲み込むように進化させていったのだろう』ということであった。
そして進化させていく中で、様々なものを見失ったのだろうと。強い魔力も豊富な知識も、その何たるかを誤らせるものに成り果ててしまったのだと。そう告げたパチュリーの瞳は静かだった。
魔物がため込んでいた知識は書の中に残されているようで、パチュリーはそれでいいと納得していた。書の解読の目的も果たされたのである。
とにかく、そういうことでこの一件は収まったのだが――
「ずるいずるいずるい! お姉様とパチュリーだけ楽しそうなことしててずるい!」
顛末だけを聞かされたフランドールが、自分も遊びたかったと駄々をこねているのだった。
「あー。仕方ないでしょ、呼んでる暇なかったんだから」
とりあえず頭の上から降りなさい、と、じと目で頭上の妹を見上げつつ、レミリアはパチュリーに視線で訴えかける。
パチュリーはその視線をさらりと流して、事実だけを口にした。
「随分といいタイミングだったものね」
「私だもの、当然でしょう」
何に胸を張っているのかよくわからないが、とにかくレミリアは胸を張ってそう告げる。
ずるいーずるいーと喚いていたフランドールが、急にぽんと手を打った。
「そうだパチュリー、今度作って!」
「あ、そのときは私も遊びたい」
「貴女達私を何だと思って」
名案を思いついたかのように羽をパタパタさせるフランドールと、しゅたっと片手を挙げたレミリアに、パチュリーは額に手を当てる。ため息を一つ吐いて、手元の書に視線を落とした。
「まあ確かに、この書のやり方は興味深いけどね」
「もう魔力流し込んでも何も起きない?」
「起きないわね。主を倒してしまったから」
レミリアの頭からパチュリーの頭に移ったフランドールが、パチュリーの手から書を受け取って開いた。
ぱらぱらとめくっていた手を止め、フランドールは頁をじっと見つめ始める。紅い瞳孔はすっと細くなっていた。何をしているのかに気が付いたパチュリーが慌てて止める。
「……ストップ妹様、それは壊れるわ」
「えー」
どうやら際限なく魔力を流し込もうとしていたらしい。フランドールの瞳が落ち着きを取り戻すと共に、流し込まれそうになっていた魔力は霧散した。
「フランの魔力は馬鹿みたいに高いからなー」
「同じ機構作ろうとしてもきちんと作らないと作動する前に壊れるわね」
パチュリーはフランドールから書を受け取り、呆れ気味のため息をついた。そのため息の持ついろいろな意味に気が付き、フランドールは目を輝かせる。
「作ってくれるの!?」
「実験するにはちょうど良さそうだからね」
仕方なさそうに微笑して、パチュリーは親友に視線を向ける。レミリアも軽く頷いた。
二人ともわかっているのだ。急いでいたとはいえ、フランドールを連れて行った方が早く終わっていただろうことなど。
それなのに、何故レミリアは単独で向かったのか。
レミリアは当然そのことを口にしない。パチュリーも聞かない。二人にはそれでいい。
「まあ、私達だけで楽しんで悪かったわ、フラン」
「今度は一緒に遊びましょう」
「本当!? やったあ!」
喜ぶフランドールにくすりと微笑って、レミリアはパチュリーと視線を合わせた。
「とんだハプニングだったが、本当に楽しかったよ」
「ええ、本当に」
くすくすと笑い合う二人を交互に見て、お姉様とパチュリーだけわかってずるいなあ、とフランドールはぼやくように呟く。
そうでもないわよ、と冷静に書を開くパチュリーと、むうと膨れるフランドールに笑いかけ、レミリアは妹の機嫌を取るために、呼び鈴を一つ鳴らしたのだった。
紅い喧騒が二つとも去った後のこと。
「私は」
ようやく静けさを取り戻した図書館で、パチュリーは小さく呟いた。
「貴方のようにはならないわ」
静かな瞳のまま、書に視線を落とす。ページをめくり、文字を追いながら、そっと語り掛けるように口を開いた。
「……なれないのよ」
知識だけを貪って、澱んだような空気にただ沈むことなど赦されるものではない。
何より、そんなことをしようものなら、壁をぶち抜いて無理矢理空気を入れ替える紅い悪魔がいるのだから。
槍を持って仁王立ちしているその図がありありと想像できて、パチュリーはくすりと笑みを漏らす。
そう、此処はあまりにも楽しくて、あまりにも騒々しすぎて。
ただただ待つだけの存在になど、おそらく生涯をかけてもなれそうにもなかった。
「パチュリー様? 何か?」
図書整理の途中だったらしい小悪魔が、呟きを聞きとがめたのかひょいとこちらに顔を出してきた。軽く首を振る。
「いいえ、何でもないわ。ああ、ハーブティーを一杯もらえるかしら」
「あ、はいっ!」
元気の良い返事と共に、小悪魔が飛び去っていく。その気配が遠ざかるのを感じながら、パチュリーは静かに書を閉じた。
危険な状況なのに余裕を持って遊んじゃう二人がかっこよかったです