ギィ、ギィと木の軋む音。ちゃぷん、ちゃぷんと水の音。それによーい、ほーいと船頭の掛け声。それぞれに小気味良い三つの拍子に乗って、一艘の小舟が運河の上をゆっくりと進んでいく。人間の里を横断する〈柳の運河〉を行き来するこの船は、普段は主に商人に雇われて米や材木などを運んでいるが、春の盛りのこの時期だけは、川沿いに並ぶ桜が目当ての人間達のための観光船として運航することになっていた。閉じた境界の中、代わり映えのしない生活を送る里の人間達にとっては花見のような季節の風物は貴重な楽しみであり、船は連日えらい賑わいだ。多くの者は船着き場の周りに並んだ屋台で買った茶や団子を持ち込み、思い思いに飲み食いしている。風にはちらちらと散った花びらが混じり、見上げれば桜の枝は誘うようにぐうっと頭を垂れ、少し手を伸ばせば指先が触れるほどで、乗り合い衆は皆互いの肩がぶつかるような窮屈さも忘れて、春の美しさを満喫していた。しかしそんな船の上、一人だけ、これっぽっちも桜に興味のない女が乗っていた。よく見ればこれだけ込み合った船の上、その女の周りだけ畳一畳ばかり隙間ができている。まだ昼も過ぎていないというのに人目も気にせずに右手で小さな酒樽を抱え込んでいるこの女、これが余人ではなく、「ええじゃないか」、掛け声で始まって里を散々騒がせた宗教戦争、そこで名前が知られた圧倒する妖怪行者、ハイカラ娘の雲居一輪は、今左手に持った湯呑みにその酒を注ぎ終えると、ちろりと舌なめずりをしてから、それをぐいっと一息で煽った。
「っは~っ……うまいっ!」
思ったよりも大きな声が出てしまい、さすがに多少の恥ずかしさを感じた一輪は慌てて左右を見回したが、幸い周りの客も自分達の会話に夢中で、見たところ一輪を怪しんでいる者はいなかった。ほっと安心がてら、湯呑みを持った手の甲で口元を拭うと、一輪は次の一杯を注ぎ、また一息に飲み干した。
「っ、あ゛~っ、生き返る……」
タンッ!と音を立てて湯呑みを置き、一輪は心底幸せそうにため息を吐いた。
(寅丸様のお遣いなんて面倒だと思ってたけど、こうしてみると役得ね)
よく見ると縁が欠けてしまっているその湯呑みにまたすぐに酒を注ぎながら、一輪は今朝の出来事をぼんやり思い出した。
***
『一輪、悪いのだけど、ちょっとこちらに……』
その日の朝早くのこと。門前の妖怪小娘、幽谷響子の張り上げた声で目を覚ました一輪が、寝ぼけ眼をこすりながら顔を洗おうとぼんやり廊下を歩いているところ、後ろから袖を掴んで脇にある空き部屋へ引っ張り込んだのは命蓮寺のご本尊様、寅丸星だった。
『虎丸様?どうしたの?こんな朝早くから……』
『実は、少し頼みたいことがありまして……』
『寅丸様が私に頼み事だなんて珍しい。どうしたの?』
春先とはいえまだ朝晩は冷える。冷たい畳の上で裸足の足先をすり合わせている一輪に、星は少し顔を赤らめ、袖で口元を隠して小声で打ち明けた。
『いえ、実はその、宝塔を……』
『えぇ、またぁ?』
一輪は呆れ果ててじとりと星を見下ろした。見下ろした、というのは本来星の方が背は高いのだが、今星はさすがに失態を恥じているのか、虎ならぬ猫のようにぐっと背中を丸めて縮こまっており、一輪の顔を見るのに上目を遣っている有り様なのだ。
『えぇ、なんともきまりが悪い話なのですが、またなのです……』
『全く、懲りないわねぇ。早いとこナズーリンに頭下げて見つけてもらいなよ』
『いえ、それが、ナズーリンは今法界に帰ってしまっているのです。毘沙門天様への定期報告とかで……』
『あら』
言われてみればここ数日見かけてなかったな、と思いながら一輪がくあっと大きな欠伸をし、涙を拭ってもう一度前を見ると、星は先ほどまでよりもなお小さく縮こまってしまっていた。
『そ、それでですね……』
『え?』
くい、と引っ張られ、見下ろすといつの間にか星が一輪の袖を指先で摘まんでいた。
『あの……すまないのですが、私の代わりに宝塔を取りに行ってはもらえないかと……』
『えぇ?』
素っ頓狂な声を上げた一輪の袖を慌ててぐいっと引っ張り、星は自分の唇の前でしーっと人差し指を立てて見せた。
『声が高いですよ、一輪!』
『ああ、ごめんなさい。でも、なんで私にそんなこと?悪いけど私、ナズーリンと違って探し物なんてできないし……』
それに今日はせっかく勤めがない日だから面倒だし、というのは飲み込んでおくと、星は今度は一輪の肩にポンと手を置いた。
『その点は心配ありません。実は、今回はどこに置き忘れてきたはわかっているんです。一輪にはそこに取りに行ってもらうだけでいいんです』
『あら、そうなの?言っちゃあ悪いけど、寅丸様が失せ物の在処を覚えているなんて珍しいね』
『はい、というのも……』
『でもそれなら簡単な話じゃない、私なんかに頼まなくたって自分で取りに行けば』
一輪がそう言うと、星はうんんと唸って顔をしかめた。毘沙門天の代理の割には何ともは表情豊かな人があったもんだなあ、と一輪が変に感心していると、星は何やら左右を見回してから、そっと一輪の耳元に口を寄せて囁いた。
『実は、その宝塔を置いてきた場所というのが……里の、猪鍋のお店なのです』
『えっ!?』
思わず声を上げる一輪の袖をまた引っ張り、星は顔を寄せたままでしーっとやって見せた。額がぶつかりそうな距離に、一輪はわかったから、となだめながら星の肩を押し返した。
『猪鍋って、あんた、ナズーリンが留守だからって……』
『うぅ……だって、どうしてもお腹が、というか肚が空いたんですよ、もう10年もお肉を食べてなかったし……』
『10年も続いたのに何で破っちゃうかなあ……あれ、でも、里の店なんでしょ、どうやって行ったの?まさかいつもの毘沙門天装束で行ったわけじゃないでしょ?』
『ええ、二ツ岩の貸元に変化の術をかけてもらって、普通の人間のフリをして行ったんです』
『貸元って、博徒じゃないんだから』
一輪が苦笑いしていると、星は袖で引っ張って一輪の手を持ち上げてから、それを自分の両手で包んでぐっと握った。
『うわ、ちょっと』
『お願いです、一輪!貸元は昨夜からどこかへ行ってしまいましたし、私は今日は一日法事で寺を離れられませんし……ナズーリンは明日には帰って来てしまいます。どうかこの虎丸を助けると思って、宝塔を取りに行ってきてください……!』
『え、えぇ……?』
ものすごい熱量のこもった両手に、しかしあくまで優しく包まれながら、一輪は困って斜め上に目を逸らした。人里なんてひとっ飛びで行って帰って来られてしまう距離ではあるのだが、実は今日は商売敵の物部を誘って旧地獄に飲みに行こうと思っていたのだ。里と違ってあそこなら噂が聖の耳に入ることも滅多にないし、向こうはまだ雪が降っているだろうから、帰る前にちょっとその辺の雪山に顔を突っ込めば酔いもすぐに醒ませるから帰った後も聖にわかりはしないだろうし(それをやると物部は呆れるが)、何かと便利なのだ。星の肉喰いに呆れた顔を見せておいてなんだが、一輪も尼の恰好はしていても所詮何百年来の大酒飲み、大虎ぶりなら虎丸と名のついた星にも引けは取らない。そんな身には寺暮らしは辛いが白蓮姐さんへの恩と義理があればこそどうにか我慢をしている毎日で、月に一度あるかないかの寺を抜け出して酒を飲む機会を逃したくはなかった。
『うーん、助けてあげたいのはやまやまだけど私今日ちょっと用事があって……ほら、村紗とか響子とか、それかその辺によくいるあの唐傘お化けとかに頼んだら?』
『水蜜と響子は今日は一日聖の手伝いをすることになっているんです。小傘はいい子ですけど、寺の者ではないので宝塔を任せるのは少し心配で……だから、あなただけが頼りなんです!』
自分の手を胸元に抱え込むようにして上目遣いで半べそをかいている星に、一輪はなぜかどくりと胸が高鳴るのを感じた。なるほど、こんな顔をして見せるからナズーリンはなんだかんだ毎回助けてやってるのか、などと考えながらも、一輪はぶるぶると頭を振ってその熱を追い払う。
『いや……でも、私本当に用事が……』
『……わかりました。ただでとは言いません』
『え?』
さりげなく後ずさろうとした一輪の手をしっかり握って離さぬまま、星は恨めしそうな眼をして前のめりになり、一輪にまた顔を近づけた。
『……そのお店に行くと、酒樽が一つ私の名前で取って置いてあります。それをあなたにあげましょう』
『えっ?すると何、そのお店で猪鍋を食べただけじゃなくお酒まで飲んだの?』
『声が高い!……えぇ、きまりが悪いけどつまりそうなんです。酒樽を一つ買って、酒樽と言っても小さな物でしたから、それでは足りなくて二つ目を頼んで……でも二つ目はまだ半分以上は残っているはずです』
(前言撤回、大虎ぶりじゃ本物には敵わないわ)
一輪が呆気に取られて黙っていると、それを拒否と取ったのか、星は慌てて片手だけ一輪の手から離して袂に突っ込み、少し探って小判を一枚取り出すと、それを一輪の目の前に差し出した。
『これもつけます。これでどうか……』
『いやいやちょっと、しまってよこんなの。仮にも毘沙門天様の代理ともあろう方が弟子を金で買おうなんて、あんたそれはちょっと情けないわよ』
『う、うぅ~、だって~……』
(うわまただ可愛い)
小判を一輪の胸に押し付けながら、身体ごと寄りかからんばかりに前のめりになって顔を近づけてくる星を雲山に押し返してもらった一輪は、頬を少し赤らめながらやっとの思いで星の手を振り払った。
『ああもう、わかった、わかったわよ。取りに行ってあげるから、とりあえず一旦落ち着いて……』
『うぅ、一輪、ありがとうございます~!』
『わぷ』
その後一輪は抱き着いてきた星の体格を支えきれず、畳の上にどさっと押し倒されてしまったところを、物音を聞きつけて入ってきた居候の疫病神に見られてしまい、宝塔のことを悟られないようにしながらうまく誤魔化すのに2人して朝から冷や汗をたくさんかいたのだった。
***
さて里へ来ると、件の猪鍋の店はすぐに見つかった。幸い星も宝塔を裸では持ち歩かず巾着袋に入れる程度の良識はあり(巾着袋で腰に提げられる宝塔、というのも間抜けなものだが)、また店の女中も客の忘れ物を勝手には開けずに、奥まった棚に大事にしまって取りに来るのを待ってくれていたので、こうこうこういう背格好でこういう飲み食いをした女が、と説明するとすんなりと返してもらうことができた。酒樽もしっかり受け取り、さてどこぞ人目につかない場所に行って飲むか、と思っていた一輪だったのだが……。
(なんか……もうわざわざ遠くまで行きたくないなあ)
里はすっかり花見時、桜の花は満開の、人の心も春めいて何となく良い気持ち。そこここに植わる桜の木の横を通り、その香りを嗅いでいるとどうにも気分がよくて、一輪はすっかり里を離れたくなくなってしまった。
(とはいえ、里で飲んでたら姐さんに知られそうだしなあ。どこか里の中で、人の目が無いところとか……あ!)
背伸びをして辺りを見回していた一輪の目が、ふと運河端に立つ「花見遊覧船」ののぼりの上に止まった。
***
(へっへっへ、どうよ、やっぱり私って利口じゃないか)
花見船の一番後ろに座った一輪は、口元が緩むのを隠そうともせずに、懐に持っていた湯呑みになみなみと酒を注いだ。法衣のままで、人で溢れそうな船の上だが、一輪は全く気にしていない。なぜなら乗客は誰も一輪のことなど見ていないからだ。そう、船の運航中、乗客達は進行方向、もしくは精々桜を追って左右しか見ていない。誰もわざわざ後ろを振り返ったりしないのだ。そこで一輪は船頭に星からもらった小判を渡し、一番後ろの空間を畳一畳ばかり借り切ると、他の乗客が皆乗ってしまうのを待ってからそこにどっかり胡坐をかき、念のために頭巾で髪だけは隠すと、船が動き出すのを待ってから、雲山に持ってもらっていた酒樽をこっそり取り出して、一人とはいえ楽しく飲み始めたのだった。
(ああ、桜も綺麗だしお酒も美味しい……このじゃあきい?っていうのも初めて食べたけど美味しいわ)
先ほど猪鍋の店に行った際、何か肴が欲しいと思い、ついでにそこで売っていた猪肉のじゃあきいという、聞いたことのない一品を買ってみたのだった。恐る恐る食べてみたが、これはつまり干し肉だ。戒律に違反していることに目を瞑れば、何百年も生き抜いてきた一輪にとっては食べ慣れた味だった。
「いやいや、やはり弾幕と言えば我らが博麗の巫女様だろう」
(ん?霊夢さん?)
突然知った名前が耳に入り、一輪はふと顔を上げた。見ると少し離れたところで乗客達が集まり、何やら大声で盛り上がっている。
「あのお方はさすが妖怪退治を生業にされているだけのことはある、見ていて神々しいってもんだ」
「けっ、何が我らの、だ。おめえ妖怪が怖いってんで神社に参拝に行ったことだってあるめえに」
「ああ、それに博麗様は駄目だ、確かにつええことはつええが、勝負に無駄がなくて見ていていまいちおもしろくねえ。そこいくとやっぱりあの河童よ。いろんなからくりがおもちゃ箱みたいに飛び出してくるんだ、あれなら見物しがいがあらあ」
(ははあ、弾幕ごっこの話か)
先の憑依異変、その前のオカルトボールの騒ぎ、またその前の宗教戦争では、幻想郷でも名だたる弾幕遣い達が人里の真ん中で腕を揮った。それを喜んで見物したり博打のネタにしたり、中にはひどく入れ込んでしまって弾幕遣いが描かれた浮世絵なんかを喜んで集める好事家なんかもいるとは聞いたが、どうやらこの連中もそれらしい。
「なんだい河童なんて、あんなのただ自分のからくりを見せびらかしたいだけじゃないか。それよりあのお面の妖怪を見なよ、勝負の最中に能を舞ってるんだから。いいかい、弾幕ってのはね、単に強さを競うもんじゃねえんだ。弾幕の美しさ、いかに弾幕を通して自分を表現できるか、見る者を魅了できるか、その上で相手を倒して初めて本当に勝ったっていうのさ」
(やってる方はいちいちそこまで考えちゃいないけどね)
こっそりと苦笑しながら、一輪はまた一口酒を煽った。素人が自分の稼業の話をするのを聞くのも意外に面白いものだ。この話を酒の肴にしてやろうと、身を乗り出して耳をすませる。
「ほう、詳しいなお前さん」
「へへ、わっしはこの弾幕ってのが好きでがしてね」
「どうでしょう、今里に来るような連中の中で一番の弾幕遣いというと誰でしょうね」
「ないね」
「え?」
「近頃は神様やら妖怪やらもたくさん里に来ては弾幕をやっていくが、今は皆おんなじくらいに肩を張っていてぐっと頭抜けて強いってのはないよ。でもあともう五年も経つとね、一番ってのが出てくるね」
「ほう。誰です?」
「あのマントの娘さ」
「マント?」
「ほら、あの合羽みてえな」
「ああ、すると太子様かい?」
「そうでねえ、ほらあの、眼鏡をかけたマントの娘がいるだろ」
「ああ、外から来たとかいう、確か宇佐美とかいった」
「そうそう。まだ弾幕に馴染みが薄いようだが、あれは見ていて中々筋がいい。もう五年も経って、あれがもう少しこなれてくれば、ありゃあ里で一番の弾幕遣いになるでしょうなあ」
(なるほどねえ)
ぶちり、と干し肉を奥歯で嚙みちぎりながら、一輪は湯呑みをこっそり頭の上に持ち上げ、雲山にも一口飲ませてやった。董子といったか、あの娘は異変の時に一度見かけたきりだが、そんなに評判がいいとは知らなかった。いつでも幻想郷にいるというわけではないようだから、いつ会える機会があるかはわからないが、そのうち一緒に酒くらい飲んでおくべきかもしれない。そんなことを考えながら次の一杯を注いでいると、視界の端で、人の隙間で横になって寝ていた年老いた小柄な女ががばっと身体を起こした。……寝ていた?はて、さっきまで寝転がっている老婆なんていただろうか。一輪が首を傾げていると、その老婆はすっと右手を持ち上げ、ほとんど髪の残っていない頭をつるりと撫でた。てっぺんの辺りに、妙な形をした痣がある。それから老婆はぐぐっと伸びをして、しかしそれでもなお曲がったままの背中を精一杯張って、しわがれた声で話に割り込んだ。
「あーあ全く、お前さん方よくもまあ大きな声でそんな馬鹿な話をしおるわい。おう、そこの人。今弾幕の話をしておったな」
「へい?」
「弾幕の話をしていたじゃろうが。なんだって?5年経ったら一番の弾幕遣いができる?マントの娘?笑わせるわい。来年の話をすると鬼が笑うというが、5年も先の話をしたら鬼が何と言って笑うんじゃ、今ごろ伊吹も星熊もどこぞで笑いように困っておるわい。だから話すんなら今の話にするんじゃな、郷(くに)一番の弾幕遣いなら、今立派にあるじゃろうが」
「はあ、それは知らなかった。その郷一番の弾幕遣いは、一体誰でございましょう」
「寺や神社の多い幻想郷でも一番徳のあるお寺が命蓮寺、そこの住職で毘沙門天様に仕える聖白蓮阿闍梨様。これが郷で一番の、弾幕遣いよ!」
ぐいぐいと酒を飲み進めながら乗客達の話を聞いていた一輪だが、聖白蓮という名前が出たのを聞くと、思わず頭巾の下でにっこりと笑い、手に持った湯呑みをそっと膝の上に置いた。
(ふふふ、わかってるじゃないのお婆さん、さすが伊達に年を取ってないわね。そうよね、やっぱり弾幕のことは女じゃないとわからないわ。お年とはいえあの肝っ玉があれば当然お酒だって強いはず、ちょっと一杯飲ませてあげようかな)
そう独りごちながら思わずほくそ笑んだ口元を袖で隠した一輪は、湯呑みを脇にどけて立ち上がると、その老婆に向かって手招きした。
「おーい、そこのお婆さん!そこの景気のいい、寝起きの良いお婆さん!」
「なんだい、あたしかい?」
「あんたよあんた、ちょっとこっちに来なよ。ほらここに座って……あぁいいんだよ、お金払ってこの場所は借り切ってるんだから。いいから座んなよ」
「お、こりゃあありがたいね。ちょうどせまっ苦しくて参ってたところさ。邪魔するよ」
老婆は、海老のように丸まった背中の割には軽い身のこなしでひょこひょこと近づいてくると、一輪の前にどっかりと胡坐をかいた。
「お婆さん一杯どう?呑みなよほら、私が注いであげるよ。この干し肉も食べなよ、お婆さん歯はまだ大丈夫?喉に詰まらせないように気をつけてよ」
「っぷは、けっ、何を言うんだいこの小娘は」
「あはは、怒らないでよ、ほらもう一杯注いであげるからさ。ねえ、ところでさ、さっきの話がちょっと聞こえちゃったんだけど、郷で一番の弾幕遣いがどうとか言ってなかった?」
「そりゃ聖白蓮様さね」
「そう、聖白蓮。その白蓮さんっていうのはそんなに偉い人なの?」
「あん?」
湯呑みを口に運ぶ手を止め、老婆はじろりと一輪を見上げた。ひょっとすると耳が遠いのかな、そう思いながら、一輪は少し声を大きくして繰り返した。
「白蓮っていうのは、そんなに偉い人なの?」
「おい」
老婆は湯呑みの中身を一息で煽ると、それを叩きつけるようにして下に置き、ドスを利かせた声で一輪を遮った。たかが老婆の声なのにそこには妙に迫力がこもっていて、一輪は少し驚いてしまった。
「何よ」
「酒を飲ませてもらったり肉を食わせてもらったりしておいて文句を言うもんじゃないが、言いたくなるじゃないか。口は災いの門舌は災いの根ってことを知らないかい。白蓮様は偉い人なの、とは何だい。なの、ってのは人を疑る言葉だよ。幻想郷はあまり広いところじゃないがお坊さんはたっくさんいる、弾幕遣いだってたくさんいる。その中に聖白蓮様くらい偉いお方が、2人とあってたまるかってんだよ!」
「呑みなよ呑みなよ呑みなよほら、肉を食べなよ肉を!ほらもっとこっちに寄って!」
老婆が言い終わるか言い終わらないかのうちから、一輪は腰を浮かせて酒樽を持ち上げ、老婆の手元の湯呑みに並々と注いでやった。顔にはにこにこと心底嬉しそうな笑顔を浮かべている。
「へぇそう、白蓮様っていうのはそんなに偉い人なんだね」
「偉いなんてもんじゃないよ。だけどお前さんに言っておくけどね、白蓮様だけが偉いんじゃないよ」
「え?まだ他にも偉いのがいるの?」
「いいかい小娘、世の中何にしたって出世をするのにはね、話し相手、番頭役が肝心なのさ」
注がれた酒をすぐさま飲み干し、干し肉の大きな欠片を口に放り込んでから、老婆は身を乗り出してにやりと笑った。一輪は気のせいか、どこかでその笑顔を前にも見たことがあるような気がした。
「あんた秀吉公を知ってるかい」
「秀吉?」
「豊臣秀吉公、あの太閤様だよ」
「うーん……いやごめん駄目だ、私長いこと地底で暮らしていたから……」
「何だい、あんた出世大将を知らんのかい、話し甲斐の無い奴じゃ。それじゃあ……いや、それなら徳川も知らんか、紀伊国屋も……まあとにかくじゃ、どんなに偉い人だって自分1人じゃあ出世はできない、良い話し相手を持つのが大切だってことじゃ。白蓮様だって同じこと、良い話し相手がいるからねえあの方には」
「話し相手?誰よそれ」
「お弟子さんだよ」
「え?」
「お弟子さんだよ。良いお弟子さんがいるからねえ白蓮様には」
「呑みなよ呑みなよ呑みなよほら、肉を食べなよ肉を!ほらもっとこっちに寄って!」
またしても一輪は腰を浮かせ、老婆が持った湯呑みにこぼれんばかりに酒を注いでやった。顔はもうすっかり頬が緩んでにまにまとほくそ笑んでいる。老婆も老婆で嬉しそうに笑いながら、また一口で酒を飲み干し、干し肉を口に放り込んだ。
「いいねえお婆さん。ねえ、お婆さんやけに詳しいみたいだから聞きたいんだけどさ、その白蓮様のお弟子さんの中で、一番強いのは誰だか知ってたりする?」
「そりゃ知ってるさ」
「じゃあ聞くけど」
一輪は床に拳を突き、ほとんど四つん這いのような恰好で身を乗り出した。
「その一番強い奴っていうのは、一体誰なの?」
「白蓮様の門下で一番強いのはね」
「うん!」
老婆は一度軽く咳払いをすると、もう一度にやりと笑って見せた。
「元は山の妖怪だったが白蓮様に見初められて今じゃ立派に毘沙門天様。門下の一人といいながらもお寺を支える神聖なる御本尊、寅丸星様だね」
それを聞くと、目を輝かせていた一輪はがくりと項垂れ、口からは盛大にため息を漏らした。
(あー、まあでもやっぱり寅丸様には敵わないよね。なんたってご本尊様なんだから。功徳や力比べどころか飲み比べだって勝てっこないや)
そこまで考えてから一輪は、そう言えばこのお婆さんよく寅丸様が元々妖怪だったなんて知ってたな、とふと思ったが、今はそれどころではなかった。
「それじゃあ、二番目に強いのは誰なの?」
「見た目は生白い小娘だがこれでも怨念一筋で千年この世に留まる幽霊船長。御阿礼の九代目をして危険度は極高と言わしめた念縛霊、村紗水蜜だね」
(水蜜かあ、まああいつは水があるところだと本当に強いからなあ)
「じゃあ三番は?」
「たかが鼠とあなどるなかれこれでも毘沙門天様直々のお遣い。小さな賢将、ナズーリンだね」
(うーんナズーリンって強いのかな?まあでも確かにあいつはあれでも法界から来てるありがたい神獣さまだし、それになんてったって利口だからなあ、しょうがないか)
「四番は?」
「はるか昔平安の世から京を騒がせた正体不明の大妖怪、封獣ぬえだね」
(あれ、ぬえって結局聖の弟子になったんだっけ?いや、まあいいや、もう五番だし、いい加減私が出てくるでしょう)
「五番は」
「依神女怨」
「あんな新入りの何が……じゃなくて、じゃあ六番は」
「幽谷響子」
「はぁ!?……あーもう、じゃあ七番は」
「秦こころ」
(いやいやいやちょっとちょっと)
先ほどまで身を乗り出してニコニコしながら聞いていた一輪は、このころにはすっかり後ろに下がってどっかりとあぐらをかき直し、小坊主の身ではあるが仏頂面で腕を組んでいた。
(この婆さん、さては私を知らないわね。あーあ、異変の時あんなに活躍したっていうのに。やっぱり目か耳が遠いのかな。ってうわ、いつの間にか干し肉がこんなに減ってるし)
「……ちょっとお婆さん、近いってば、もうちょっと後ろに下がってよ。まったく干し肉もこんなに食べちゃって、いくら呑みな食べなって言われたって普通遠慮ってもんがあるでしょうが。それにお婆さんあれだね、詳しいようであんまり詳しくないね。聖白蓮さんのお弟子さんで肝心なのを1人忘れてるんじゃないですかってのよ。この船が運河の端に着くまででいいからちゃんと思い出してよ、ねえ」
そう言っているうちに急に悔しくなってきて、酔いも手伝ってか、一輪は急に目頭が熱くなるのを感じた。それを拳でぐいっと拭ってから、一輪は老婆の手元に手を伸ばして湯呑みをひったくると、自分で一杯注いで誤魔化すように勢いよく飲み干した。
「何だい、泣いたってしょうがないじゃないかい。いくら考えてみたって、白蓮様のお弟子さんでわざわざ名前を挙げるようなのなんてもう皆……あっ、待ちな、もう一人いたよ!」
「ほら見なよ、誰よそれは!」
「多々良小傘!」
再び身を乗り出しかけていた一輪は、がくりと盛大に崩れ落ちた。
「いやなお婆さんだな、思わせぶりしないでよ思わせぶりを!そんなの思い出せって言ってるんじゃないよ、大体あの子はお墓に居ついてるだけで弟子じゃないでしょうが。お婆さんね、頼むから、もう一度気を落ち着けてよーく考えてみてよ。もう何にも心配しないでさあ」
また涙が出てきて、一輪は情けなくてたまらなくなってもう一杯流し込んだ。耳元で雲山がそれくらいにしろと囁いたのを、しっしっと手を振って追い払う。
「何を言ってんだい、何も心配なんかしてないわい。どう考えたって何を言われたって白蓮様のお弟子さんで名高いのと言えば寅丸星様、村紗船長、ナズーリン様に封獣ぬえに依神女怨に幽谷響子、秦こころに雲居のい……あれ?」
「ん!?」
一輪はすかさず湯呑みを置き、また床に手を着いて身を乗り出した。老婆ははて、とばかりに顎に手を当てて首を傾げている。
「寅丸星様、村紗船長、ナズーリン様に封獣ぬえに依神女怨に幽谷響子、秦こころに雲居のい……あーっ!しまったよあんたの言う通りだ、命蓮寺で特別強いのを1人忘れていたよ!」
(……面白くなってきたじゃないの)
一輪は湯呑みにたっぷりと酒を注ぐと、それを老婆の前に出し……老婆がそれを掴もうとしたところですっと手を引っ込めた。
「お婆さん、これね、このお酒ね、今呑みなってんじゃないんだよ、お預けだよこれは。後の出様によっては好きなだけ飲ませてあげるから。ね、それで、その強い弟子ってのは誰なのよ」
「この人はねえ、もうおっそろしく強いんだよ」
「うん!」
「元はただの百姓娘、肝っ玉一つで見越し入道を見越して見せた、守り守られしハイカラ娘。名前を雲居の一輪とて、見る者を圧倒する妖怪行者。これが、命蓮寺一番のお弟子さんだね!」
「……呑みなよ吞みなよ吞みなよほら、肉ももうあとは全部食べていいよ!ほらもっとこっちに寄って!」
そう言って老婆の胸元に湯呑みを押し付けた一輪は、再び満面の笑みを浮かべていた。老婆がその酒を飲み干すと、すかさずまた一杯注ぐ。それを三度ほど繰り返してから、にまにま笑った一輪はようやく酒樽を置いた。
「いやーもう私はさっきからね、この人はいいお婆さんだなーとそう思ってたのよほんとに!へぇ、じゃあなに、その一輪ってのはそんなに強いんだ?」
「強いったってねえあんた、あんなに強いのは幻想郷に2人といるもんじゃないよ」
「あっははは、そうかいそうかい、照れるねえ。お婆さんね、そこまで言われちゃしょうがない。実は何を隠そう、この私がその……」
「でもあの小坊主はね、人間が馬鹿だからね」
「ばっ……」
両手を腰に当てて高笑いしていた一輪だが、老婆のその言葉を聞くとぴたりと静かになり、言葉の続きを飲み込んでしまった。見下ろすと、老婆はついには自分で手を伸ばして酒を注ぎ、楽しそうにぐいぐい飲んでいる。
「へっへ、ありがたいね、あたしゃ何が好きって酒が一番好きなのさ。どうもありがとうよお嬢さん」
「いや、あんたね……ってちょっと、ちょっと!もう駄目だよ、湯呑みを返してよほら!全くもう……じゃあ何、聖白蓮さんのお弟子さんの雲居一輪ってのはそんなに馬鹿なの」
「馬鹿ったってあんたあんな馬鹿なのないよ。もう幻想郷中、それどころか外の世界中探して回ったってあんな馬鹿なの見つかんないだろうね。わかるかいあんた?外の世界って広いんだよ、そこ探してもいないんだよあんな馬鹿は、ねえあんた」
「ちぇっ、何を言うのよこのお婆さんは、外の世界なんて行ったこともないくせに。何よ、じゃあこの一輪ってのは、どういうわけでそんなに馬鹿だってのよ」
「へっ」
そう笑った老婆の声色がついさっきまでと違っていたような気がして、一輪は首を傾げた。老婆は笑いながら片手を挙げ、皺の深い額から頭のてっぺんに向けてつるりと撫でた。
「じゃああんた、この痣が見えるかい」
「見えるも何も、失礼だから言わなかったけどそんなおっきい痣がてっぺんにあるんだもん目立ってしょうがないよ。それが何よ」
「だからお前さんは馬鹿だと言ったんじゃよ」
「はぁ?」
いよいよ腹が立ってきた一輪は思わず声を荒げると、老婆は相変わらず笑いながら、爪の先で痣の端のあたりの皮膚を摘まんで見せた。はて、改めてよく見ると妙な形をした痣だ、まるで人の手形のような、いやというよりこれはまるで葉っぱのような形の……。
「こんなものをずっと見せてもらっておいてやがって相手が儂だともわからないんだから、馬鹿と言われても文句はなかろうて」
「ちょっと待って、その声、あんたもしかして……」
ようやく気付いた一輪がばたばた立ち上がろうとするやつ、相変わらず笑っている老婆は手をぐっと引っ張り、頭から痣を……木の葉を一枚べりべりと引き剥がした!
「あんた、マミ……」
ようやく片膝立ちなった一輪は片手を伸ばして老婆の襟元に掴み掛ろうとしたが、指先が着物に触れる寸前でぼふんっ!と間の抜けた音とともに老婆の姿は消え、代わりにどこからともなくたくさんな煙が沸き立って、たちまち一輪は何も見えなくなってしまった。
「うわっくそっ、やられた、げほっげほっ……」
せき込みながら両手を振り回して煙を払い、ようやく前が見えるようになった一輪はそこであっと息をのんだ。呑気に桜を眺めていたところに突然大きな音がして煙が立ったのだから無理がない、花見客たちどころか船頭まで一人残らず振り返って一輪の顔をぽかんと眺めていた。
「あー、えっと、今のはあの……」
「おい、あの人、命蓮寺の一輪さんじゃねえか?」
「冗談言うない、一輪さんといえば尼さんじゃねえか、見ろよあの女酒の樽を抱えてやがる。いやでも待てよ、言われてみりゃ袈裟を着てやがんな」
「いや、あの、私はあの何ていうか……」
慌てて目を伏せ、せめて頭巾で顔を隠そうと頭を下げたところで、一輪のつむじのあたりから何かがはらりと落ちて膝の上に乗った。はっと見ると、万年筆で何か書きつけた白い紙だった。地底に封じられていた頃に知り合って今でもたまに寺で遊んでいる、先ほども名前が出た大妖怪の封獣ぬえ、その縁でこれまたよく寺に顔を出す外来の化け狸で人呼んで佐渡の二ッ岩。そのマミゾウがいつも腰に下げている帳簿から一枚破いたものだと気づいた一輪は、慌ててそれを手に取り、書かれた文字に目を走らせた。
『いやー酒も肉もうまかったわい。しかし断っておくが、儂はお前さんから盗んだのではないぞ。知らない中でもないお前さん、仮にも仏様に仕えるもんが真昼間から道を外れようとしているからあんまりに気の毒で、畜生の儂が代わりに腹に入れてやったんじゃ。ま、精々感謝せいよ』
読み終わったかと思うと、またしてもぼんっと煙が立ち、その紙すら一輪の手の中から消えてしまった。後に残ったのはほとんど空になった酒樽、干し肉の包み紙、人々の視線、それに悔しさでわなわなと震えている一輪と、呆れたように静かに笑う雲山だけだった。
「あんの狸が……次あったら、覚えてなさいよー!」
「っは~っ……うまいっ!」
思ったよりも大きな声が出てしまい、さすがに多少の恥ずかしさを感じた一輪は慌てて左右を見回したが、幸い周りの客も自分達の会話に夢中で、見たところ一輪を怪しんでいる者はいなかった。ほっと安心がてら、湯呑みを持った手の甲で口元を拭うと、一輪は次の一杯を注ぎ、また一息に飲み干した。
「っ、あ゛~っ、生き返る……」
タンッ!と音を立てて湯呑みを置き、一輪は心底幸せそうにため息を吐いた。
(寅丸様のお遣いなんて面倒だと思ってたけど、こうしてみると役得ね)
よく見ると縁が欠けてしまっているその湯呑みにまたすぐに酒を注ぎながら、一輪は今朝の出来事をぼんやり思い出した。
***
『一輪、悪いのだけど、ちょっとこちらに……』
その日の朝早くのこと。門前の妖怪小娘、幽谷響子の張り上げた声で目を覚ました一輪が、寝ぼけ眼をこすりながら顔を洗おうとぼんやり廊下を歩いているところ、後ろから袖を掴んで脇にある空き部屋へ引っ張り込んだのは命蓮寺のご本尊様、寅丸星だった。
『虎丸様?どうしたの?こんな朝早くから……』
『実は、少し頼みたいことがありまして……』
『寅丸様が私に頼み事だなんて珍しい。どうしたの?』
春先とはいえまだ朝晩は冷える。冷たい畳の上で裸足の足先をすり合わせている一輪に、星は少し顔を赤らめ、袖で口元を隠して小声で打ち明けた。
『いえ、実はその、宝塔を……』
『えぇ、またぁ?』
一輪は呆れ果ててじとりと星を見下ろした。見下ろした、というのは本来星の方が背は高いのだが、今星はさすがに失態を恥じているのか、虎ならぬ猫のようにぐっと背中を丸めて縮こまっており、一輪の顔を見るのに上目を遣っている有り様なのだ。
『えぇ、なんともきまりが悪い話なのですが、またなのです……』
『全く、懲りないわねぇ。早いとこナズーリンに頭下げて見つけてもらいなよ』
『いえ、それが、ナズーリンは今法界に帰ってしまっているのです。毘沙門天様への定期報告とかで……』
『あら』
言われてみればここ数日見かけてなかったな、と思いながら一輪がくあっと大きな欠伸をし、涙を拭ってもう一度前を見ると、星は先ほどまでよりもなお小さく縮こまってしまっていた。
『そ、それでですね……』
『え?』
くい、と引っ張られ、見下ろすといつの間にか星が一輪の袖を指先で摘まんでいた。
『あの……すまないのですが、私の代わりに宝塔を取りに行ってはもらえないかと……』
『えぇ?』
素っ頓狂な声を上げた一輪の袖を慌ててぐいっと引っ張り、星は自分の唇の前でしーっと人差し指を立てて見せた。
『声が高いですよ、一輪!』
『ああ、ごめんなさい。でも、なんで私にそんなこと?悪いけど私、ナズーリンと違って探し物なんてできないし……』
それに今日はせっかく勤めがない日だから面倒だし、というのは飲み込んでおくと、星は今度は一輪の肩にポンと手を置いた。
『その点は心配ありません。実は、今回はどこに置き忘れてきたはわかっているんです。一輪にはそこに取りに行ってもらうだけでいいんです』
『あら、そうなの?言っちゃあ悪いけど、寅丸様が失せ物の在処を覚えているなんて珍しいね』
『はい、というのも……』
『でもそれなら簡単な話じゃない、私なんかに頼まなくたって自分で取りに行けば』
一輪がそう言うと、星はうんんと唸って顔をしかめた。毘沙門天の代理の割には何ともは表情豊かな人があったもんだなあ、と一輪が変に感心していると、星は何やら左右を見回してから、そっと一輪の耳元に口を寄せて囁いた。
『実は、その宝塔を置いてきた場所というのが……里の、猪鍋のお店なのです』
『えっ!?』
思わず声を上げる一輪の袖をまた引っ張り、星は顔を寄せたままでしーっとやって見せた。額がぶつかりそうな距離に、一輪はわかったから、となだめながら星の肩を押し返した。
『猪鍋って、あんた、ナズーリンが留守だからって……』
『うぅ……だって、どうしてもお腹が、というか肚が空いたんですよ、もう10年もお肉を食べてなかったし……』
『10年も続いたのに何で破っちゃうかなあ……あれ、でも、里の店なんでしょ、どうやって行ったの?まさかいつもの毘沙門天装束で行ったわけじゃないでしょ?』
『ええ、二ツ岩の貸元に変化の術をかけてもらって、普通の人間のフリをして行ったんです』
『貸元って、博徒じゃないんだから』
一輪が苦笑いしていると、星は袖で引っ張って一輪の手を持ち上げてから、それを自分の両手で包んでぐっと握った。
『うわ、ちょっと』
『お願いです、一輪!貸元は昨夜からどこかへ行ってしまいましたし、私は今日は一日法事で寺を離れられませんし……ナズーリンは明日には帰って来てしまいます。どうかこの虎丸を助けると思って、宝塔を取りに行ってきてください……!』
『え、えぇ……?』
ものすごい熱量のこもった両手に、しかしあくまで優しく包まれながら、一輪は困って斜め上に目を逸らした。人里なんてひとっ飛びで行って帰って来られてしまう距離ではあるのだが、実は今日は商売敵の物部を誘って旧地獄に飲みに行こうと思っていたのだ。里と違ってあそこなら噂が聖の耳に入ることも滅多にないし、向こうはまだ雪が降っているだろうから、帰る前にちょっとその辺の雪山に顔を突っ込めば酔いもすぐに醒ませるから帰った後も聖にわかりはしないだろうし(それをやると物部は呆れるが)、何かと便利なのだ。星の肉喰いに呆れた顔を見せておいてなんだが、一輪も尼の恰好はしていても所詮何百年来の大酒飲み、大虎ぶりなら虎丸と名のついた星にも引けは取らない。そんな身には寺暮らしは辛いが白蓮姐さんへの恩と義理があればこそどうにか我慢をしている毎日で、月に一度あるかないかの寺を抜け出して酒を飲む機会を逃したくはなかった。
『うーん、助けてあげたいのはやまやまだけど私今日ちょっと用事があって……ほら、村紗とか響子とか、それかその辺によくいるあの唐傘お化けとかに頼んだら?』
『水蜜と響子は今日は一日聖の手伝いをすることになっているんです。小傘はいい子ですけど、寺の者ではないので宝塔を任せるのは少し心配で……だから、あなただけが頼りなんです!』
自分の手を胸元に抱え込むようにして上目遣いで半べそをかいている星に、一輪はなぜかどくりと胸が高鳴るのを感じた。なるほど、こんな顔をして見せるからナズーリンはなんだかんだ毎回助けてやってるのか、などと考えながらも、一輪はぶるぶると頭を振ってその熱を追い払う。
『いや……でも、私本当に用事が……』
『……わかりました。ただでとは言いません』
『え?』
さりげなく後ずさろうとした一輪の手をしっかり握って離さぬまま、星は恨めしそうな眼をして前のめりになり、一輪にまた顔を近づけた。
『……そのお店に行くと、酒樽が一つ私の名前で取って置いてあります。それをあなたにあげましょう』
『えっ?すると何、そのお店で猪鍋を食べただけじゃなくお酒まで飲んだの?』
『声が高い!……えぇ、きまりが悪いけどつまりそうなんです。酒樽を一つ買って、酒樽と言っても小さな物でしたから、それでは足りなくて二つ目を頼んで……でも二つ目はまだ半分以上は残っているはずです』
(前言撤回、大虎ぶりじゃ本物には敵わないわ)
一輪が呆気に取られて黙っていると、それを拒否と取ったのか、星は慌てて片手だけ一輪の手から離して袂に突っ込み、少し探って小判を一枚取り出すと、それを一輪の目の前に差し出した。
『これもつけます。これでどうか……』
『いやいやちょっと、しまってよこんなの。仮にも毘沙門天様の代理ともあろう方が弟子を金で買おうなんて、あんたそれはちょっと情けないわよ』
『う、うぅ~、だって~……』
(うわまただ可愛い)
小判を一輪の胸に押し付けながら、身体ごと寄りかからんばかりに前のめりになって顔を近づけてくる星を雲山に押し返してもらった一輪は、頬を少し赤らめながらやっとの思いで星の手を振り払った。
『ああもう、わかった、わかったわよ。取りに行ってあげるから、とりあえず一旦落ち着いて……』
『うぅ、一輪、ありがとうございます~!』
『わぷ』
その後一輪は抱き着いてきた星の体格を支えきれず、畳の上にどさっと押し倒されてしまったところを、物音を聞きつけて入ってきた居候の疫病神に見られてしまい、宝塔のことを悟られないようにしながらうまく誤魔化すのに2人して朝から冷や汗をたくさんかいたのだった。
***
さて里へ来ると、件の猪鍋の店はすぐに見つかった。幸い星も宝塔を裸では持ち歩かず巾着袋に入れる程度の良識はあり(巾着袋で腰に提げられる宝塔、というのも間抜けなものだが)、また店の女中も客の忘れ物を勝手には開けずに、奥まった棚に大事にしまって取りに来るのを待ってくれていたので、こうこうこういう背格好でこういう飲み食いをした女が、と説明するとすんなりと返してもらうことができた。酒樽もしっかり受け取り、さてどこぞ人目につかない場所に行って飲むか、と思っていた一輪だったのだが……。
(なんか……もうわざわざ遠くまで行きたくないなあ)
里はすっかり花見時、桜の花は満開の、人の心も春めいて何となく良い気持ち。そこここに植わる桜の木の横を通り、その香りを嗅いでいるとどうにも気分がよくて、一輪はすっかり里を離れたくなくなってしまった。
(とはいえ、里で飲んでたら姐さんに知られそうだしなあ。どこか里の中で、人の目が無いところとか……あ!)
背伸びをして辺りを見回していた一輪の目が、ふと運河端に立つ「花見遊覧船」ののぼりの上に止まった。
***
(へっへっへ、どうよ、やっぱり私って利口じゃないか)
花見船の一番後ろに座った一輪は、口元が緩むのを隠そうともせずに、懐に持っていた湯呑みになみなみと酒を注いだ。法衣のままで、人で溢れそうな船の上だが、一輪は全く気にしていない。なぜなら乗客は誰も一輪のことなど見ていないからだ。そう、船の運航中、乗客達は進行方向、もしくは精々桜を追って左右しか見ていない。誰もわざわざ後ろを振り返ったりしないのだ。そこで一輪は船頭に星からもらった小判を渡し、一番後ろの空間を畳一畳ばかり借り切ると、他の乗客が皆乗ってしまうのを待ってからそこにどっかり胡坐をかき、念のために頭巾で髪だけは隠すと、船が動き出すのを待ってから、雲山に持ってもらっていた酒樽をこっそり取り出して、一人とはいえ楽しく飲み始めたのだった。
(ああ、桜も綺麗だしお酒も美味しい……このじゃあきい?っていうのも初めて食べたけど美味しいわ)
先ほど猪鍋の店に行った際、何か肴が欲しいと思い、ついでにそこで売っていた猪肉のじゃあきいという、聞いたことのない一品を買ってみたのだった。恐る恐る食べてみたが、これはつまり干し肉だ。戒律に違反していることに目を瞑れば、何百年も生き抜いてきた一輪にとっては食べ慣れた味だった。
「いやいや、やはり弾幕と言えば我らが博麗の巫女様だろう」
(ん?霊夢さん?)
突然知った名前が耳に入り、一輪はふと顔を上げた。見ると少し離れたところで乗客達が集まり、何やら大声で盛り上がっている。
「あのお方はさすが妖怪退治を生業にされているだけのことはある、見ていて神々しいってもんだ」
「けっ、何が我らの、だ。おめえ妖怪が怖いってんで神社に参拝に行ったことだってあるめえに」
「ああ、それに博麗様は駄目だ、確かにつええことはつええが、勝負に無駄がなくて見ていていまいちおもしろくねえ。そこいくとやっぱりあの河童よ。いろんなからくりがおもちゃ箱みたいに飛び出してくるんだ、あれなら見物しがいがあらあ」
(ははあ、弾幕ごっこの話か)
先の憑依異変、その前のオカルトボールの騒ぎ、またその前の宗教戦争では、幻想郷でも名だたる弾幕遣い達が人里の真ん中で腕を揮った。それを喜んで見物したり博打のネタにしたり、中にはひどく入れ込んでしまって弾幕遣いが描かれた浮世絵なんかを喜んで集める好事家なんかもいるとは聞いたが、どうやらこの連中もそれらしい。
「なんだい河童なんて、あんなのただ自分のからくりを見せびらかしたいだけじゃないか。それよりあのお面の妖怪を見なよ、勝負の最中に能を舞ってるんだから。いいかい、弾幕ってのはね、単に強さを競うもんじゃねえんだ。弾幕の美しさ、いかに弾幕を通して自分を表現できるか、見る者を魅了できるか、その上で相手を倒して初めて本当に勝ったっていうのさ」
(やってる方はいちいちそこまで考えちゃいないけどね)
こっそりと苦笑しながら、一輪はまた一口酒を煽った。素人が自分の稼業の話をするのを聞くのも意外に面白いものだ。この話を酒の肴にしてやろうと、身を乗り出して耳をすませる。
「ほう、詳しいなお前さん」
「へへ、わっしはこの弾幕ってのが好きでがしてね」
「どうでしょう、今里に来るような連中の中で一番の弾幕遣いというと誰でしょうね」
「ないね」
「え?」
「近頃は神様やら妖怪やらもたくさん里に来ては弾幕をやっていくが、今は皆おんなじくらいに肩を張っていてぐっと頭抜けて強いってのはないよ。でもあともう五年も経つとね、一番ってのが出てくるね」
「ほう。誰です?」
「あのマントの娘さ」
「マント?」
「ほら、あの合羽みてえな」
「ああ、すると太子様かい?」
「そうでねえ、ほらあの、眼鏡をかけたマントの娘がいるだろ」
「ああ、外から来たとかいう、確か宇佐美とかいった」
「そうそう。まだ弾幕に馴染みが薄いようだが、あれは見ていて中々筋がいい。もう五年も経って、あれがもう少しこなれてくれば、ありゃあ里で一番の弾幕遣いになるでしょうなあ」
(なるほどねえ)
ぶちり、と干し肉を奥歯で嚙みちぎりながら、一輪は湯呑みをこっそり頭の上に持ち上げ、雲山にも一口飲ませてやった。董子といったか、あの娘は異変の時に一度見かけたきりだが、そんなに評判がいいとは知らなかった。いつでも幻想郷にいるというわけではないようだから、いつ会える機会があるかはわからないが、そのうち一緒に酒くらい飲んでおくべきかもしれない。そんなことを考えながら次の一杯を注いでいると、視界の端で、人の隙間で横になって寝ていた年老いた小柄な女ががばっと身体を起こした。……寝ていた?はて、さっきまで寝転がっている老婆なんていただろうか。一輪が首を傾げていると、その老婆はすっと右手を持ち上げ、ほとんど髪の残っていない頭をつるりと撫でた。てっぺんの辺りに、妙な形をした痣がある。それから老婆はぐぐっと伸びをして、しかしそれでもなお曲がったままの背中を精一杯張って、しわがれた声で話に割り込んだ。
「あーあ全く、お前さん方よくもまあ大きな声でそんな馬鹿な話をしおるわい。おう、そこの人。今弾幕の話をしておったな」
「へい?」
「弾幕の話をしていたじゃろうが。なんだって?5年経ったら一番の弾幕遣いができる?マントの娘?笑わせるわい。来年の話をすると鬼が笑うというが、5年も先の話をしたら鬼が何と言って笑うんじゃ、今ごろ伊吹も星熊もどこぞで笑いように困っておるわい。だから話すんなら今の話にするんじゃな、郷(くに)一番の弾幕遣いなら、今立派にあるじゃろうが」
「はあ、それは知らなかった。その郷一番の弾幕遣いは、一体誰でございましょう」
「寺や神社の多い幻想郷でも一番徳のあるお寺が命蓮寺、そこの住職で毘沙門天様に仕える聖白蓮阿闍梨様。これが郷で一番の、弾幕遣いよ!」
ぐいぐいと酒を飲み進めながら乗客達の話を聞いていた一輪だが、聖白蓮という名前が出たのを聞くと、思わず頭巾の下でにっこりと笑い、手に持った湯呑みをそっと膝の上に置いた。
(ふふふ、わかってるじゃないのお婆さん、さすが伊達に年を取ってないわね。そうよね、やっぱり弾幕のことは女じゃないとわからないわ。お年とはいえあの肝っ玉があれば当然お酒だって強いはず、ちょっと一杯飲ませてあげようかな)
そう独りごちながら思わずほくそ笑んだ口元を袖で隠した一輪は、湯呑みを脇にどけて立ち上がると、その老婆に向かって手招きした。
「おーい、そこのお婆さん!そこの景気のいい、寝起きの良いお婆さん!」
「なんだい、あたしかい?」
「あんたよあんた、ちょっとこっちに来なよ。ほらここに座って……あぁいいんだよ、お金払ってこの場所は借り切ってるんだから。いいから座んなよ」
「お、こりゃあありがたいね。ちょうどせまっ苦しくて参ってたところさ。邪魔するよ」
老婆は、海老のように丸まった背中の割には軽い身のこなしでひょこひょこと近づいてくると、一輪の前にどっかりと胡坐をかいた。
「お婆さん一杯どう?呑みなよほら、私が注いであげるよ。この干し肉も食べなよ、お婆さん歯はまだ大丈夫?喉に詰まらせないように気をつけてよ」
「っぷは、けっ、何を言うんだいこの小娘は」
「あはは、怒らないでよ、ほらもう一杯注いであげるからさ。ねえ、ところでさ、さっきの話がちょっと聞こえちゃったんだけど、郷で一番の弾幕遣いがどうとか言ってなかった?」
「そりゃ聖白蓮様さね」
「そう、聖白蓮。その白蓮さんっていうのはそんなに偉い人なの?」
「あん?」
湯呑みを口に運ぶ手を止め、老婆はじろりと一輪を見上げた。ひょっとすると耳が遠いのかな、そう思いながら、一輪は少し声を大きくして繰り返した。
「白蓮っていうのは、そんなに偉い人なの?」
「おい」
老婆は湯呑みの中身を一息で煽ると、それを叩きつけるようにして下に置き、ドスを利かせた声で一輪を遮った。たかが老婆の声なのにそこには妙に迫力がこもっていて、一輪は少し驚いてしまった。
「何よ」
「酒を飲ませてもらったり肉を食わせてもらったりしておいて文句を言うもんじゃないが、言いたくなるじゃないか。口は災いの門舌は災いの根ってことを知らないかい。白蓮様は偉い人なの、とは何だい。なの、ってのは人を疑る言葉だよ。幻想郷はあまり広いところじゃないがお坊さんはたっくさんいる、弾幕遣いだってたくさんいる。その中に聖白蓮様くらい偉いお方が、2人とあってたまるかってんだよ!」
「呑みなよ呑みなよ呑みなよほら、肉を食べなよ肉を!ほらもっとこっちに寄って!」
老婆が言い終わるか言い終わらないかのうちから、一輪は腰を浮かせて酒樽を持ち上げ、老婆の手元の湯呑みに並々と注いでやった。顔にはにこにこと心底嬉しそうな笑顔を浮かべている。
「へぇそう、白蓮様っていうのはそんなに偉い人なんだね」
「偉いなんてもんじゃないよ。だけどお前さんに言っておくけどね、白蓮様だけが偉いんじゃないよ」
「え?まだ他にも偉いのがいるの?」
「いいかい小娘、世の中何にしたって出世をするのにはね、話し相手、番頭役が肝心なのさ」
注がれた酒をすぐさま飲み干し、干し肉の大きな欠片を口に放り込んでから、老婆は身を乗り出してにやりと笑った。一輪は気のせいか、どこかでその笑顔を前にも見たことがあるような気がした。
「あんた秀吉公を知ってるかい」
「秀吉?」
「豊臣秀吉公、あの太閤様だよ」
「うーん……いやごめん駄目だ、私長いこと地底で暮らしていたから……」
「何だい、あんた出世大将を知らんのかい、話し甲斐の無い奴じゃ。それじゃあ……いや、それなら徳川も知らんか、紀伊国屋も……まあとにかくじゃ、どんなに偉い人だって自分1人じゃあ出世はできない、良い話し相手を持つのが大切だってことじゃ。白蓮様だって同じこと、良い話し相手がいるからねえあの方には」
「話し相手?誰よそれ」
「お弟子さんだよ」
「え?」
「お弟子さんだよ。良いお弟子さんがいるからねえ白蓮様には」
「呑みなよ呑みなよ呑みなよほら、肉を食べなよ肉を!ほらもっとこっちに寄って!」
またしても一輪は腰を浮かせ、老婆が持った湯呑みにこぼれんばかりに酒を注いでやった。顔はもうすっかり頬が緩んでにまにまとほくそ笑んでいる。老婆も老婆で嬉しそうに笑いながら、また一口で酒を飲み干し、干し肉を口に放り込んだ。
「いいねえお婆さん。ねえ、お婆さんやけに詳しいみたいだから聞きたいんだけどさ、その白蓮様のお弟子さんの中で、一番強いのは誰だか知ってたりする?」
「そりゃ知ってるさ」
「じゃあ聞くけど」
一輪は床に拳を突き、ほとんど四つん這いのような恰好で身を乗り出した。
「その一番強い奴っていうのは、一体誰なの?」
「白蓮様の門下で一番強いのはね」
「うん!」
老婆は一度軽く咳払いをすると、もう一度にやりと笑って見せた。
「元は山の妖怪だったが白蓮様に見初められて今じゃ立派に毘沙門天様。門下の一人といいながらもお寺を支える神聖なる御本尊、寅丸星様だね」
それを聞くと、目を輝かせていた一輪はがくりと項垂れ、口からは盛大にため息を漏らした。
(あー、まあでもやっぱり寅丸様には敵わないよね。なんたってご本尊様なんだから。功徳や力比べどころか飲み比べだって勝てっこないや)
そこまで考えてから一輪は、そう言えばこのお婆さんよく寅丸様が元々妖怪だったなんて知ってたな、とふと思ったが、今はそれどころではなかった。
「それじゃあ、二番目に強いのは誰なの?」
「見た目は生白い小娘だがこれでも怨念一筋で千年この世に留まる幽霊船長。御阿礼の九代目をして危険度は極高と言わしめた念縛霊、村紗水蜜だね」
(水蜜かあ、まああいつは水があるところだと本当に強いからなあ)
「じゃあ三番は?」
「たかが鼠とあなどるなかれこれでも毘沙門天様直々のお遣い。小さな賢将、ナズーリンだね」
(うーんナズーリンって強いのかな?まあでも確かにあいつはあれでも法界から来てるありがたい神獣さまだし、それになんてったって利口だからなあ、しょうがないか)
「四番は?」
「はるか昔平安の世から京を騒がせた正体不明の大妖怪、封獣ぬえだね」
(あれ、ぬえって結局聖の弟子になったんだっけ?いや、まあいいや、もう五番だし、いい加減私が出てくるでしょう)
「五番は」
「依神女怨」
「あんな新入りの何が……じゃなくて、じゃあ六番は」
「幽谷響子」
「はぁ!?……あーもう、じゃあ七番は」
「秦こころ」
(いやいやいやちょっとちょっと)
先ほどまで身を乗り出してニコニコしながら聞いていた一輪は、このころにはすっかり後ろに下がってどっかりとあぐらをかき直し、小坊主の身ではあるが仏頂面で腕を組んでいた。
(この婆さん、さては私を知らないわね。あーあ、異変の時あんなに活躍したっていうのに。やっぱり目か耳が遠いのかな。ってうわ、いつの間にか干し肉がこんなに減ってるし)
「……ちょっとお婆さん、近いってば、もうちょっと後ろに下がってよ。まったく干し肉もこんなに食べちゃって、いくら呑みな食べなって言われたって普通遠慮ってもんがあるでしょうが。それにお婆さんあれだね、詳しいようであんまり詳しくないね。聖白蓮さんのお弟子さんで肝心なのを1人忘れてるんじゃないですかってのよ。この船が運河の端に着くまででいいからちゃんと思い出してよ、ねえ」
そう言っているうちに急に悔しくなってきて、酔いも手伝ってか、一輪は急に目頭が熱くなるのを感じた。それを拳でぐいっと拭ってから、一輪は老婆の手元に手を伸ばして湯呑みをひったくると、自分で一杯注いで誤魔化すように勢いよく飲み干した。
「何だい、泣いたってしょうがないじゃないかい。いくら考えてみたって、白蓮様のお弟子さんでわざわざ名前を挙げるようなのなんてもう皆……あっ、待ちな、もう一人いたよ!」
「ほら見なよ、誰よそれは!」
「多々良小傘!」
再び身を乗り出しかけていた一輪は、がくりと盛大に崩れ落ちた。
「いやなお婆さんだな、思わせぶりしないでよ思わせぶりを!そんなの思い出せって言ってるんじゃないよ、大体あの子はお墓に居ついてるだけで弟子じゃないでしょうが。お婆さんね、頼むから、もう一度気を落ち着けてよーく考えてみてよ。もう何にも心配しないでさあ」
また涙が出てきて、一輪は情けなくてたまらなくなってもう一杯流し込んだ。耳元で雲山がそれくらいにしろと囁いたのを、しっしっと手を振って追い払う。
「何を言ってんだい、何も心配なんかしてないわい。どう考えたって何を言われたって白蓮様のお弟子さんで名高いのと言えば寅丸星様、村紗船長、ナズーリン様に封獣ぬえに依神女怨に幽谷響子、秦こころに雲居のい……あれ?」
「ん!?」
一輪はすかさず湯呑みを置き、また床に手を着いて身を乗り出した。老婆ははて、とばかりに顎に手を当てて首を傾げている。
「寅丸星様、村紗船長、ナズーリン様に封獣ぬえに依神女怨に幽谷響子、秦こころに雲居のい……あーっ!しまったよあんたの言う通りだ、命蓮寺で特別強いのを1人忘れていたよ!」
(……面白くなってきたじゃないの)
一輪は湯呑みにたっぷりと酒を注ぐと、それを老婆の前に出し……老婆がそれを掴もうとしたところですっと手を引っ込めた。
「お婆さん、これね、このお酒ね、今呑みなってんじゃないんだよ、お預けだよこれは。後の出様によっては好きなだけ飲ませてあげるから。ね、それで、その強い弟子ってのは誰なのよ」
「この人はねえ、もうおっそろしく強いんだよ」
「うん!」
「元はただの百姓娘、肝っ玉一つで見越し入道を見越して見せた、守り守られしハイカラ娘。名前を雲居の一輪とて、見る者を圧倒する妖怪行者。これが、命蓮寺一番のお弟子さんだね!」
「……呑みなよ吞みなよ吞みなよほら、肉ももうあとは全部食べていいよ!ほらもっとこっちに寄って!」
そう言って老婆の胸元に湯呑みを押し付けた一輪は、再び満面の笑みを浮かべていた。老婆がその酒を飲み干すと、すかさずまた一杯注ぐ。それを三度ほど繰り返してから、にまにま笑った一輪はようやく酒樽を置いた。
「いやーもう私はさっきからね、この人はいいお婆さんだなーとそう思ってたのよほんとに!へぇ、じゃあなに、その一輪ってのはそんなに強いんだ?」
「強いったってねえあんた、あんなに強いのは幻想郷に2人といるもんじゃないよ」
「あっははは、そうかいそうかい、照れるねえ。お婆さんね、そこまで言われちゃしょうがない。実は何を隠そう、この私がその……」
「でもあの小坊主はね、人間が馬鹿だからね」
「ばっ……」
両手を腰に当てて高笑いしていた一輪だが、老婆のその言葉を聞くとぴたりと静かになり、言葉の続きを飲み込んでしまった。見下ろすと、老婆はついには自分で手を伸ばして酒を注ぎ、楽しそうにぐいぐい飲んでいる。
「へっへ、ありがたいね、あたしゃ何が好きって酒が一番好きなのさ。どうもありがとうよお嬢さん」
「いや、あんたね……ってちょっと、ちょっと!もう駄目だよ、湯呑みを返してよほら!全くもう……じゃあ何、聖白蓮さんのお弟子さんの雲居一輪ってのはそんなに馬鹿なの」
「馬鹿ったってあんたあんな馬鹿なのないよ。もう幻想郷中、それどころか外の世界中探して回ったってあんな馬鹿なの見つかんないだろうね。わかるかいあんた?外の世界って広いんだよ、そこ探してもいないんだよあんな馬鹿は、ねえあんた」
「ちぇっ、何を言うのよこのお婆さんは、外の世界なんて行ったこともないくせに。何よ、じゃあこの一輪ってのは、どういうわけでそんなに馬鹿だってのよ」
「へっ」
そう笑った老婆の声色がついさっきまでと違っていたような気がして、一輪は首を傾げた。老婆は笑いながら片手を挙げ、皺の深い額から頭のてっぺんに向けてつるりと撫でた。
「じゃああんた、この痣が見えるかい」
「見えるも何も、失礼だから言わなかったけどそんなおっきい痣がてっぺんにあるんだもん目立ってしょうがないよ。それが何よ」
「だからお前さんは馬鹿だと言ったんじゃよ」
「はぁ?」
いよいよ腹が立ってきた一輪は思わず声を荒げると、老婆は相変わらず笑いながら、爪の先で痣の端のあたりの皮膚を摘まんで見せた。はて、改めてよく見ると妙な形をした痣だ、まるで人の手形のような、いやというよりこれはまるで葉っぱのような形の……。
「こんなものをずっと見せてもらっておいてやがって相手が儂だともわからないんだから、馬鹿と言われても文句はなかろうて」
「ちょっと待って、その声、あんたもしかして……」
ようやく気付いた一輪がばたばた立ち上がろうとするやつ、相変わらず笑っている老婆は手をぐっと引っ張り、頭から痣を……木の葉を一枚べりべりと引き剥がした!
「あんた、マミ……」
ようやく片膝立ちなった一輪は片手を伸ばして老婆の襟元に掴み掛ろうとしたが、指先が着物に触れる寸前でぼふんっ!と間の抜けた音とともに老婆の姿は消え、代わりにどこからともなくたくさんな煙が沸き立って、たちまち一輪は何も見えなくなってしまった。
「うわっくそっ、やられた、げほっげほっ……」
せき込みながら両手を振り回して煙を払い、ようやく前が見えるようになった一輪はそこであっと息をのんだ。呑気に桜を眺めていたところに突然大きな音がして煙が立ったのだから無理がない、花見客たちどころか船頭まで一人残らず振り返って一輪の顔をぽかんと眺めていた。
「あー、えっと、今のはあの……」
「おい、あの人、命蓮寺の一輪さんじゃねえか?」
「冗談言うない、一輪さんといえば尼さんじゃねえか、見ろよあの女酒の樽を抱えてやがる。いやでも待てよ、言われてみりゃ袈裟を着てやがんな」
「いや、あの、私はあの何ていうか……」
慌てて目を伏せ、せめて頭巾で顔を隠そうと頭を下げたところで、一輪のつむじのあたりから何かがはらりと落ちて膝の上に乗った。はっと見ると、万年筆で何か書きつけた白い紙だった。地底に封じられていた頃に知り合って今でもたまに寺で遊んでいる、先ほども名前が出た大妖怪の封獣ぬえ、その縁でこれまたよく寺に顔を出す外来の化け狸で人呼んで佐渡の二ッ岩。そのマミゾウがいつも腰に下げている帳簿から一枚破いたものだと気づいた一輪は、慌ててそれを手に取り、書かれた文字に目を走らせた。
『いやー酒も肉もうまかったわい。しかし断っておくが、儂はお前さんから盗んだのではないぞ。知らない中でもないお前さん、仮にも仏様に仕えるもんが真昼間から道を外れようとしているからあんまりに気の毒で、畜生の儂が代わりに腹に入れてやったんじゃ。ま、精々感謝せいよ』
読み終わったかと思うと、またしてもぼんっと煙が立ち、その紙すら一輪の手の中から消えてしまった。後に残ったのはほとんど空になった酒樽、干し肉の包み紙、人々の視線、それに悔しさでわなわなと震えている一輪と、呆れたように静かに笑う雲山だけだった。
「あんの狸が……次あったら、覚えてなさいよー!」
コミカルかつシニカルで落ちも最高でした…
うわーそうきたか!そういえば痣あったな!という
人が自分たちの話してると気になっちゃいますよね
単純にすごく読みやすくて作者様の文章を書き慣れている感覚をとても感じました。
とても面白かったです。
次回作を楽しみにしております。