博麗神社。
この幻想郷の東端に在り、古くからこの地に伝わる社で、人里の人間の中には妖怪に占拠された妖怪神社だと言って寄り付かない者もいた。
それでも、幻想郷と外の世界を分かつ博麗大結界の要として成り立っていた。
この神社の巫女を務めていた博麗霊夢は稀代の才能を有し、ありとあらゆる異変を収めたと云われている。
いずれも数百年以上前の逸話だから、真実かどうかは疑わしい。
「ふぅ…」
一息吐いて、筆を置く。
開かれた障子の向こうから蝉の鳴く声が聞こえてきた。
「暑いわね」
机の上に置かれた扇子を開いて扇ぐ。
縁側へと歩を進めると燦々と照り付ける陽光が目に突き刺さった。
あまりの眩しさに眉を顰めて眼を瞑る。
随分と日が高く昇っていた。
さっき見た時は、地平線の少しばかり上を掠めていただけだったのに。
不思議とお腹は空いていなかった。
それだけ集中していたのだろうか。
この編纂作業は義務付けられてやっている訳でもなければ、特に追記すべき事柄も見当たらない。
それでは何故、古びた書物と相対しているかと言えば、それ以外に自分がするべきことが見つからないのだ。
確かに私の使命とも言うべき役割は、先代―――第十二代目稗田家当主の時代までは有意義なことだった。
しかし、『幻想郷縁起』の編纂は今世代に於いては何の価値も無いものになってしまった。
私の感覚ではついこの間、眠りに着くその瞬間まで何ら異常は無いように思えた。
幾度となくお世話になった地獄の閻魔の下で、与えられた職務を果たし、百年もすれば再び御阿礼の子として誕生する筈だった。
あの晩から、本来であれば百年間働く必要があるにも関わらず、目を覚ましたのはこの荒んだ屋敷の畳の上だった。
ひょっとしたら転生する際に、なんらかの影響で記憶を消去されたのかもしれないが、不可思議なことはそれだけではなかった。
この幻想郷は、空だ。
まるで、神隠しにでもあったかのように。
私は歩く。無人の人里を。
打ち捨てられた農具、荒れ果てた田畑、ぼろぼろになった御屋敷。
廃れた人里はその全てが、何者かによって破壊されたのではなく、ただ時間だけが経過したのだという事を示していた。
何が起きたのか。皆何処かへ移住してしまったのか、それとも消失してしまったのか。
今となっては知る由もない。
人里だけではない。
森や竹林、山…人間どころか妖怪すらも姿をくらましてしまった。
私はこの広い広い庭園で、孤独だった。
汗が伝い地面に落ちる。
夏の日差しは身を焦がして視界を揺らし、今にも焼き尽くしそうなほど鋭く輝いていた。
「はぁ…はぁ…」
滝のように止め処なく溢れる汗は、目尻に溜まって涙と混ざった。
私はどうしてここにいるんだろう。どうして私だけが生きているんだろう。
崩れ去った人里の門が、私の行く手を阻む。
青々と茂る植物。しかしそこに妖精の影は無い。
見慣れた道を初めて歩いた。
博麗神社に繋がる道を。
参道の階段の下で漸く私は、この世代になって博麗神社を訪ねていないことに気が付いた。
無論、誰もいないのだから行く用は無いが、幻想郷縁起を改めるに至って一度見ておこうと思ったのだ。
境内に着いたら、いつものように皆が宴会を開いている、そんな空想が頭を過った。
鳥居を潜り抜けた先にある寂れた神社の境内は、草が生い茂り、狛犬の動く気配も無い。
私の空想は儚くも消え去った。
「本当に誰も...いないのね」
そうぼやきながら、本殿の方を見つめると、穴の空いた賽銭箱の上に奇妙なものが在った。
近づいてみると、その空間から目玉が私を見つめていた。
「……境界?」
一際強大で、一際胡散臭い幻想郷の管理者、八雲紫が能力を使った痕跡があった。
管理人がその仕事を放棄しているとすれば問題だ。
だが、あの大妖怪が居るのにどうしてここまで幻想郷が荒むだろうか。
不審に思いつつも、その境界の中を覗き見る。
目玉だらけの空間の奥には、小さな机がぽつんと置かれているように見える。
抉じ開けるように中へと入った。
平衡感覚が失われそうな空間の中で、不思議と足は正確に動いた。
机の上には一冊の本があった。
意を決してその本を手に取り、表紙を捲る。
『第十三代稗田家当主様
この本を読んでいるならば、貴女はただ一人ここに取り遺されているのでしょう。
幻想郷を管理する立場として、貴女をこんな目に遭わせたことを謝ります。
ですが、時間が足りなかったのです。どうか御理解いただきたい…』
八雲紫が書いたと思しき本を私は食い入るように眺めた。
結局、無駄足だったのか。
夕焼けが目に沁みる。
神社の境内から見下ろすと、あの人里も小さく見えた。
本に書かれていたのはとんでもなく胡散臭い内容だったが、今はそれだけが状況を説明していた。
「幻想郷が滅びかけたから新たな地で幻想郷を創り直す、ねぇ…」
溜息とも深呼吸ともつかない一息を吐く。夕風に髪が靡いた。
次代の御阿礼の子が女であることを見抜いていたあたりは流石大妖怪だ。
それで、私が生まれるまでこの幻想郷を守ってくれていれば言う事無しだったのに。
「どうにも、胡散臭いの」
でも、私はその話を信じていなかった。
信じたくないという願望だったのかもしれない。
「これからどうすればいいのかしら」
答える相手はいない。本に書かれていた一節を思い出す。
『貴女の役目は終わりました。最期の人生を思う存分楽しんでくださいな』
「そんな無駄なお節介、焼かれるくらいなら転生させずに死なせてくれればよかったのに」
怒りだか哀しみだかよくわからない感情が私を渦巻いた。
「どうやって楽しめっていうのよ…」
顔を覗かせた月が私を見つめる。
気付けば私は走っていた。
そうでもしていなければどうにかなってしまいそうだった。
否、私はとっくのとうにどうにかなっていた。
生きている意味が無いことにはすぐに気付いた。
自分のすることが如何に愚かで、如何に無意味か、そんなことはどうでもよかった。
どの道この世界で独りぼっちの私に存在すべき理由など存在しない。
本の著者に対するささやかな反抗の意思表示だ。
だから私は――――
「と、いうわけ」
目の前の妖怪が小憎たらしい笑みを漏らす。
「結局、あんたの掌で踊らされてたってことね…」
手に持った盃に酒が注がれた。
百年程前、適性を持つ次代の博麗の巫女が見つからず、大結界が弱体化した。
それに伴い、外の世界からの来訪者が増え、幻想郷の内部で保たれていた均衡が崩れ、あちこちで綻びが生じるようになってしまった。
煌々と輝く太陽も、心地よく感じた。
あちこちで人間や妖怪やそれ以外の騒ぐ声が聞こえる。
そこで、地球とも月とも遠く離れた地へ全ての人妖を移住させることにしたのだ。
しかし、全ての人妖が住めるような環境の場所は余りにも遠すぎたため、数多の人妖の力を以てしても行くのが精々だった。
そうして人妖が身を引くとやがて物珍しさに訪れる人間もいなくなり、幻と実体の境界によって自動的に呼び戻されることを狙ったのだが…
「悪かったわね、邪魔で」
「転生先の決まっていた霊達もそうだったのよ」
幻想郷のことを覚えていた人間や緩んだ結界から外の世界に溢れ出てしまった転生者によって、人妖たちは中々引き戻されなかった。
「全てを記憶している人間がいたんですもの」
時が経ち、外の世界の人間たちは幻想郷を忘れ、転生した人間も亡くなったが、それでも尚幻想郷に帰ることができないでいた
最大の理由は、幻想郷を記憶している御阿礼の子が外の世界に転生してしまったことだ。
「つまり、私が見ていたのは外の世界だったのですね」
そう言うと、妖怪は不敵な笑みを漏らした。
「貴女が自死してくれたから、早く帰れたの」
やはり妖怪は妖怪だ。
自らの目的のためならば一人を死なせるくらい何とも思わずやってのけてしまうのだ。
「閻魔様に掛け合ってもらえれば良かったんですけど」
「いや、どうにもあの閻魔が気に食わなくて…」
面倒だったからより手軽な方法を選んだという事なのだろう。
「私の気持ちも、少しは考えてください」
「善処いたしますわ」
心にもない顔でそう言いながら、妖怪は私に酒を勧めてきた。
今日は宴会だ。
見慣れた顔、見慣れない顔…この百数十年の間に何があったのかを知るいい機会でもある。
私は妖怪の酒を呑んだ。
博麗神社。
この幻想郷の東端に在り、古くからこの地に伝わる社で、人里の人間の中には妖怪に占拠された妖怪神社だと言って寄り付かない者もいる。
それでも、幻想郷の要であり、宴会に相応しい場所である。
この幻想郷の東端に在り、古くからこの地に伝わる社で、人里の人間の中には妖怪に占拠された妖怪神社だと言って寄り付かない者もいた。
それでも、幻想郷と外の世界を分かつ博麗大結界の要として成り立っていた。
この神社の巫女を務めていた博麗霊夢は稀代の才能を有し、ありとあらゆる異変を収めたと云われている。
いずれも数百年以上前の逸話だから、真実かどうかは疑わしい。
「ふぅ…」
一息吐いて、筆を置く。
開かれた障子の向こうから蝉の鳴く声が聞こえてきた。
「暑いわね」
机の上に置かれた扇子を開いて扇ぐ。
縁側へと歩を進めると燦々と照り付ける陽光が目に突き刺さった。
あまりの眩しさに眉を顰めて眼を瞑る。
随分と日が高く昇っていた。
さっき見た時は、地平線の少しばかり上を掠めていただけだったのに。
不思議とお腹は空いていなかった。
それだけ集中していたのだろうか。
この編纂作業は義務付けられてやっている訳でもなければ、特に追記すべき事柄も見当たらない。
それでは何故、古びた書物と相対しているかと言えば、それ以外に自分がするべきことが見つからないのだ。
確かに私の使命とも言うべき役割は、先代―――第十二代目稗田家当主の時代までは有意義なことだった。
しかし、『幻想郷縁起』の編纂は今世代に於いては何の価値も無いものになってしまった。
私の感覚ではついこの間、眠りに着くその瞬間まで何ら異常は無いように思えた。
幾度となくお世話になった地獄の閻魔の下で、与えられた職務を果たし、百年もすれば再び御阿礼の子として誕生する筈だった。
あの晩から、本来であれば百年間働く必要があるにも関わらず、目を覚ましたのはこの荒んだ屋敷の畳の上だった。
ひょっとしたら転生する際に、なんらかの影響で記憶を消去されたのかもしれないが、不可思議なことはそれだけではなかった。
この幻想郷は、空だ。
まるで、神隠しにでもあったかのように。
私は歩く。無人の人里を。
打ち捨てられた農具、荒れ果てた田畑、ぼろぼろになった御屋敷。
廃れた人里はその全てが、何者かによって破壊されたのではなく、ただ時間だけが経過したのだという事を示していた。
何が起きたのか。皆何処かへ移住してしまったのか、それとも消失してしまったのか。
今となっては知る由もない。
人里だけではない。
森や竹林、山…人間どころか妖怪すらも姿をくらましてしまった。
私はこの広い広い庭園で、孤独だった。
汗が伝い地面に落ちる。
夏の日差しは身を焦がして視界を揺らし、今にも焼き尽くしそうなほど鋭く輝いていた。
「はぁ…はぁ…」
滝のように止め処なく溢れる汗は、目尻に溜まって涙と混ざった。
私はどうしてここにいるんだろう。どうして私だけが生きているんだろう。
崩れ去った人里の門が、私の行く手を阻む。
青々と茂る植物。しかしそこに妖精の影は無い。
見慣れた道を初めて歩いた。
博麗神社に繋がる道を。
参道の階段の下で漸く私は、この世代になって博麗神社を訪ねていないことに気が付いた。
無論、誰もいないのだから行く用は無いが、幻想郷縁起を改めるに至って一度見ておこうと思ったのだ。
境内に着いたら、いつものように皆が宴会を開いている、そんな空想が頭を過った。
鳥居を潜り抜けた先にある寂れた神社の境内は、草が生い茂り、狛犬の動く気配も無い。
私の空想は儚くも消え去った。
「本当に誰も...いないのね」
そうぼやきながら、本殿の方を見つめると、穴の空いた賽銭箱の上に奇妙なものが在った。
近づいてみると、その空間から目玉が私を見つめていた。
「……境界?」
一際強大で、一際胡散臭い幻想郷の管理者、八雲紫が能力を使った痕跡があった。
管理人がその仕事を放棄しているとすれば問題だ。
だが、あの大妖怪が居るのにどうしてここまで幻想郷が荒むだろうか。
不審に思いつつも、その境界の中を覗き見る。
目玉だらけの空間の奥には、小さな机がぽつんと置かれているように見える。
抉じ開けるように中へと入った。
平衡感覚が失われそうな空間の中で、不思議と足は正確に動いた。
机の上には一冊の本があった。
意を決してその本を手に取り、表紙を捲る。
『第十三代稗田家当主様
この本を読んでいるならば、貴女はただ一人ここに取り遺されているのでしょう。
幻想郷を管理する立場として、貴女をこんな目に遭わせたことを謝ります。
ですが、時間が足りなかったのです。どうか御理解いただきたい…』
八雲紫が書いたと思しき本を私は食い入るように眺めた。
結局、無駄足だったのか。
夕焼けが目に沁みる。
神社の境内から見下ろすと、あの人里も小さく見えた。
本に書かれていたのはとんでもなく胡散臭い内容だったが、今はそれだけが状況を説明していた。
「幻想郷が滅びかけたから新たな地で幻想郷を創り直す、ねぇ…」
溜息とも深呼吸ともつかない一息を吐く。夕風に髪が靡いた。
次代の御阿礼の子が女であることを見抜いていたあたりは流石大妖怪だ。
それで、私が生まれるまでこの幻想郷を守ってくれていれば言う事無しだったのに。
「どうにも、胡散臭いの」
でも、私はその話を信じていなかった。
信じたくないという願望だったのかもしれない。
「これからどうすればいいのかしら」
答える相手はいない。本に書かれていた一節を思い出す。
『貴女の役目は終わりました。最期の人生を思う存分楽しんでくださいな』
「そんな無駄なお節介、焼かれるくらいなら転生させずに死なせてくれればよかったのに」
怒りだか哀しみだかよくわからない感情が私を渦巻いた。
「どうやって楽しめっていうのよ…」
顔を覗かせた月が私を見つめる。
気付けば私は走っていた。
そうでもしていなければどうにかなってしまいそうだった。
否、私はとっくのとうにどうにかなっていた。
生きている意味が無いことにはすぐに気付いた。
自分のすることが如何に愚かで、如何に無意味か、そんなことはどうでもよかった。
どの道この世界で独りぼっちの私に存在すべき理由など存在しない。
本の著者に対するささやかな反抗の意思表示だ。
だから私は――――
「と、いうわけ」
目の前の妖怪が小憎たらしい笑みを漏らす。
「結局、あんたの掌で踊らされてたってことね…」
手に持った盃に酒が注がれた。
百年程前、適性を持つ次代の博麗の巫女が見つからず、大結界が弱体化した。
それに伴い、外の世界からの来訪者が増え、幻想郷の内部で保たれていた均衡が崩れ、あちこちで綻びが生じるようになってしまった。
煌々と輝く太陽も、心地よく感じた。
あちこちで人間や妖怪やそれ以外の騒ぐ声が聞こえる。
そこで、地球とも月とも遠く離れた地へ全ての人妖を移住させることにしたのだ。
しかし、全ての人妖が住めるような環境の場所は余りにも遠すぎたため、数多の人妖の力を以てしても行くのが精々だった。
そうして人妖が身を引くとやがて物珍しさに訪れる人間もいなくなり、幻と実体の境界によって自動的に呼び戻されることを狙ったのだが…
「悪かったわね、邪魔で」
「転生先の決まっていた霊達もそうだったのよ」
幻想郷のことを覚えていた人間や緩んだ結界から外の世界に溢れ出てしまった転生者によって、人妖たちは中々引き戻されなかった。
「全てを記憶している人間がいたんですもの」
時が経ち、外の世界の人間たちは幻想郷を忘れ、転生した人間も亡くなったが、それでも尚幻想郷に帰ることができないでいた
最大の理由は、幻想郷を記憶している御阿礼の子が外の世界に転生してしまったことだ。
「つまり、私が見ていたのは外の世界だったのですね」
そう言うと、妖怪は不敵な笑みを漏らした。
「貴女が自死してくれたから、早く帰れたの」
やはり妖怪は妖怪だ。
自らの目的のためならば一人を死なせるくらい何とも思わずやってのけてしまうのだ。
「閻魔様に掛け合ってもらえれば良かったんですけど」
「いや、どうにもあの閻魔が気に食わなくて…」
面倒だったからより手軽な方法を選んだという事なのだろう。
「私の気持ちも、少しは考えてください」
「善処いたしますわ」
心にもない顔でそう言いながら、妖怪は私に酒を勧めてきた。
今日は宴会だ。
見慣れた顔、見慣れない顔…この百数十年の間に何があったのかを知るいい機会でもある。
私は妖怪の酒を呑んだ。
博麗神社。
この幻想郷の東端に在り、古くからこの地に伝わる社で、人里の人間の中には妖怪に占拠された妖怪神社だと言って寄り付かない者もいる。
それでも、幻想郷の要であり、宴会に相応しい場所である。
お見事でした。参りました。良かったです。
何回か読み返してやっと理解できた時にそういう事か!と驚きました。
面白かったです。
徹底的に描写が丁寧にかつ端的で、無駄を省かれた様な文章が面白かったです。
発想といい展開といいとても素晴らしかったです
さぞかし名の有る方とお見受けしますが、初めて書いたとか嘘ですよね