河城にとりは喝破した。必ず、かの邪知暴虐の巫女を除かなければならぬと決意した。
にとりには、信仰が分からぬ。にとりは妖怪の山のエンジニアである。機械を弄り、同僚と遊んで暮らして来た。けれども盟友に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明にとりは山を出発し、野を越え河越え、遠くはなれたこの博麗神社の縁日にやって来た。にとりには父も、母も無い。夫も無い。長寿の、活発な河童たちと山暮らしだ。この河童たちは、香霖堂のある今風なPCを、近々、筐体として購入することになっていた。仕事始めも間近なのである。にとりは、それゆえ、PCの周辺機器やら増設メモリやらを買いに、はるばる縁日にやって来たのだ。先ず、それらの品々を買い集め、それから神社の境内をぶらぶら歩いた。
にとりには竹馬の友があった。犬走椛である。今はこの神社の縁日で、売り子をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちににとりは、縁日の様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、縁日の暗いのは当たり前だが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、縁日全体が、やけに寂しい。のんきなにとりも、だんだん不安になって来た。境内で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の縁日に来たときは、夜でも皆が酒を呑んで、縁日は賑やかであった筈だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。にとりは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺はあたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「巫女は、妖怪を退治します」
「なぜ退治するのだ」
「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ」
「たくさんの妖怪を退治したのか」
「はい、初めは紅魔館のお嬢様を。それから、白玉楼のお嬢様を。それから、永遠亭のお嬢様を。それから、彼岸の閻魔様を。それから、守矢神社の神様を。それから、賢者の紫様を」
「驚いた。巫女は乱心か」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人外を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、人間の心をも、お疑いになり、少しく怪しい暮らしをしている者には、賽銭ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御参拝を拒めばお祓い棒にかけられて、退治されてしまいます。きょうは、六人退治されました」
聞いて、にとりは激怒した。
「呆れた巫女だ。生かして置けぬ」
にとりは、愚直な河童であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ本殿にはいって行った。たちまち彼女は、巡邏の自警団に捕縛された。調べられて、にとりの懐中からはのびーるアームが出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。にとりは、巫女の前に引き出された。
「こののびーるアームで何をするつもりだったの? 言いなさい!」
鬼巫女霊夢は静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その巫女の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「縁日を鬼巫女の手から救うのだ」
とにとりは悪びれずに答えた。
「あんたが?」
巫女は、憫笑した。
「仕方の無いやつね。あんたには、私の孤独が分からないのよ」
「言うな!」
とにとりは、いきり立って反駁した。
「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。巫女は、人の信心をさえ疑って居られる」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、私に教えてくれたのは、あんたたちよ。人の心は、あてにならない。人間はもともと私慾のかたまり。信じては、いけない」
鬼巫女は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。
「私だって、平和を望んでいるのよ」
「なんの為の平和だ。自分の賽銭を守る為か」
こんどはにとりが嘲笑した。
「罪のない人間を退治して、何が平和だ」
「黙れ、妖怪」
巫女は、さっと顔を挙げて報いた。
「口では、どんな清らかな事でも言える。私には、人の腹綿の奥底が見え透いてならないわ。あんただって、いまに、退治されてから、泣いて詫びたって聞かないわよ」
「ああ、巫女は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと退治される覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」
と言いかけて、にとりは足もとに視線を落し瞬時ためらい
「ただ、私に情をかけたいつもりなら、退治までに三日間の日限を与えて下さい。職場のPCに、環境を用意してやりたいのです。三日のうちに、私は山でPCをセッティングし、必ず、ここへ帰ってきます」
「ばかな」
と鬼巫女は、嗄れた声で低く笑った。
「とんでもない嘘を言うのね。逃がした妖怪が帰って来るというのかしら」
「そうです。帰って来るのです」
にとりは必死で言い張った。
「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許してください。同僚が、私の帰りを待っているのだ。そんなに信じられないならば、よろしい、この縁日に犬走椛という白狼天狗がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の夕暮れまで、ここに帰ってこなかったら、あの友人を退治して下さい。たのむ、そうして下さい」
それを聞いて巫女は、残虐な気持ちで、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うのね。どうせ帰って来ないにきまっているわ。この妖怪に騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代わりの白狼天狗を、三日目に退治してやるのも気味がいい。妖怪は、これだから信じられないわって、私は悲しい顔して、その白狼天狗を退治してやるのよ。世の中の正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいわね。
「願いを、聞いてやるわ。その身代わりを呼びなさい。三日目には日没までに帰って来なさい。おくれたら、その身代わりを、きっと退治するわ。ちょっとおくれて来るといいわ。あんたの罪は、永遠に許してあげる」
「なに、何をおっしゃる」
「ふふ。いのちが大事だったら、おくれて来なさい。あんたの考えは、分かっているわ」
にとりは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなった。
竹馬の友、犬走椛は、深夜、本殿に呼ばれた。鬼巫女霊夢の面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。にとりは、友に一切の事情を語った。犬走椛は無言で首肯き、にとりをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。犬走椛は、縄打たれた。にとりは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。
にとりはその夜、一睡もせず十里もの空路を急ぎに急いで、河童の里へ到着したのは、翌る日の午前、陽は既に高く昇って、河童たちは職場へ出て仕事をはじめていた。にとりのセッティングするPCも、きょうは普段のPCの代わりにデスクに山積みされていた。よろめいて墜落して来るにとりの、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさくにとりに質問を浴びせかけた。
「なんでも無い」
にとりは無理に笑おうと努めた。
「博麗神社に用事を残して来た。またすぐ神社に行かなければならぬ。あす、PCをセッティングする。早いほうがよかろう」
河童は、喜んだ。
「嬉しいか。周辺機器も買って来た。さあ、これから行って、職場の上長に知らせて来い。セッティングは、あすだと」
にとりは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰ってPCの筐体を弄り、OSのインストールを調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのは夜だった。にとりは起きてすぐ、職場のデスクを訪れた。そうして、少し事情があるから、PCのセッティングを明日にしてくれ、と頼んだ。職場の上長は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度もできていない。仕度ができるまで待ってくれ、と答えた。にとりは、待つことは出来ぬ。どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。職場の上長も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか上長をなだめ、すかして、説き伏せた。
セッティングは真昼に行われた。新規PCの、使用書の提出が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。セッティングに参加していた同僚たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持ちを引きたて、狭い職場の中で、むんむん蒸し暑いのも怺え、必死に伝票を処理し、PCをセッティングした。にとりも、満面に疲労を湛え、暫くは巫女とのあの約束をさえ忘れていた。セッティングは、夜に入っていよいよ修羅場となり、同僚たちは、職場のマニュアルを全く気にしなくなった。にとりは、一生このままここにいたい、とおもった。この佳い同僚たちと生涯仕事をして行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬことである。
にとりは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの職場に愚図愚図とどまっていたかった。にとりほどの妖怪にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい同僚に近寄り
「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに神社に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには新しいマニュアルがあるのだから、決して困ることは無い。私の、一番きらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは知っているね。新しいマニュアルに、どんな遠慮もしてはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。私たちは、たぶん凄い仕事をしたのだから、おまえもその誇りを持っていろ」
同僚は、夢見心地で首肯いた。にとりは、それから上長の肩をたたいて
「仕度の無いのはお互いさまさ。私の職場にも、宝と言っては、PCと人だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、私の上長になったことを誇ってくれ」
上長は肩を竦めて、笑っていた。にとりは笑って同僚たちにも会釈して、職場から立ち去り、仮眠室にもぐり込んで、死んだように深く眠った。
眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。にとりは跳ね起き、南無三、寝過ごしたか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までは十分間に合う。きょうは是非とも、あの巫女に、人の信心の存するところを見せてやろう。そうして笑って弾幕ごっこの舞台に上がってやる。にとりは、悠々と身支度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身支度は出来た。さて、にとりは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、家の如く飛び出た。
私は、今宵、退治される。退治される為に飛ぶのだ。身代わりの友を救う為に飛ぶのだ。巫女の奸佞邪知を打ち破る為に飛ぶのだ。飛ばなければならぬ。そうして、私は退治される。いつだって友情を守れ。さらば、妖怪の山。一人のにとりは、つらかった。幾度か、立ちとまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら飛んだ。山を出て、霧の湖を横切り、魔法の森をくぐり抜け、香霖堂に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。にとりは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや職場への未練は無い。同僚たちは、きっと佳いエンジニアになるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに神社に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達したころ、降って湧いた災難、にとりの足は、はたと、虚空を踏んだ。
見よ。前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木端微塵に橋桁を跳ね飛ばし、にとりを巻き込んだ。にとりは成されるがままに、流されていった。必死にあたりを眺めまわし、また声を限りに呼び立ててみたが、繋舟は残らず浪に浚われて影なく、人の姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上がり、海のようになっている。にとりは濁流に流されながら、泣きに泣きながら守矢の祭神に哀願した。
「ああ、沈めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、神社に行き着く事が出来なかったら、あの佳い友達が、私のために退治されるのです」
濁流は、にとりの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えていく。今やにとりは覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ友情と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。にとりは、ざんぶと流れに逆らい、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ、掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の河童の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐憫を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹にすがりつく事が出来たのである。ありがたい。にとりは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先を急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい呼吸をしながら峠を飛び、飛び越えてほっとした時、突然、目の前に三妖精と妖精の一隊が躍り出た。
「待ちなさい」
「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに神社に行かなければならぬ。放せ」
「どっこい放さないわ。持ちものを全部置いて行きなさい」
「私にはこのいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから巫女にくれてやるのだ」
「その、いのちが欲しいのよ」
「さては、巫女の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな」
三妖精たちは、ものも言わず一斉に弾幕を撃ち放った。にとりはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近の妖精に襲い掛かり、その弾幕をかわしきって
「気の毒だが友のためだ!」
と、猛然一撃、たちまち、三人をピチュらせ、残る者のひるむ隙に、さっさと飛んで峠を下った。一気に峠を飛び降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと河童の皿に照って来て、にとりは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろと僅かばかり飛んで、ついに、真っ逆さまに墜落した。立ち上がる事も出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。
ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、妖精を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破してきたにとりよ。真の河童、にとりよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。敬愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて退治されなければならぬ。おまえは、稀代の不信の河童、まさしく巫女の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝転がった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、河童に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣食った。
私は、これほど努力したのだ。約束を破る心はみじんも無かった。鬼も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで飛んで来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の皿を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。敬愛と信実の胡瓜だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な河童だ。私は、きっと笑われる。私の仲間も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、初めから何もしないのと同じ事だ。
ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定まった運命なのかもしれない。犬走椛よ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、犬走椛。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。犬走椛、私は飛んだのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。妖精の弾幕からも、するりと抜けて一気に峠を飛び降りて来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。
巫女は私に、ちょっと遅れて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代わりを退治して、私を助けてくれると約束した。私は巫女の卑劣を憎んだ。けれど、今になってみると、私は巫女の言うままになっている。私はおくれて行くだろう。巫女はひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、退治されるよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の河童だ。犬走椛よ、私も退治されるぞ。君と一緒に退治されるぞ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。職場には私のデスクが在る。PCも在る。同僚たちは、まさか私を職場から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して妖怪が生きる。それが幻想郷の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようににとりは身をかがめた。水を両手で掬って、皿に掛けた。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を犠牲に、友情を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている友があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている友があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。退治されてお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。飛べ! にとり。
私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。にとり、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の河童だ。再び立って飛べるようになったではないか。ありがたい! 私は、友情の士として退治される事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、鬼よ。私は生れた時から正直な河童であった。正直な河童のままにして退治させてやって下さい。
路行く人を押しのけ、跳ねとばし、にとりは青い風のように飛んだ。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の狸たちを仰天させ、犬を蹴けとばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く飛んだ。一団の妖精と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。
「いまごろは、あの白狼天狗も、退治されているよ」
ああ、その天狗、その天狗のために私は、いまこんなに飛んでいるのだ。その天狗を退治させてはならない。急げ、にとり。おくれてはならぬ。敬愛と友情の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。にとりは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、博麗神社の鳥居が見える。鳥居は、夕陽を受けてきらきら光っている。
「ああ、にとり」
うめくような声が、風と共に聞こえた。
「誰だ」
にとりは飛びながら尋ねた。
「文よ、射命丸文よ。貴女の友人の犬走椛の友よ」
その若い烏天狗も、にとりの後について飛びながら叫んだ。
「もう、無理よ。無駄よ。飛ぶのはやめなさい。もう彼女は助けられないわ」
「いや、まだ陽は沈まぬ」
「ちょうど今、彼女が退治されるところよ。ああ、貴女は遅かった。貴女の事が憎いわ。ほんの少し、もう少しでも、早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ」
にとりは、胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。飛ぶより他は無い。
「もうやめなさい! 飛ぶのはやめなさい! 今は貴女の命の方が大事よ、貴女まで退治されるつもりですか!? 彼女は最後まで、貴女を信じていたわ。境内に引き出されても、平気でいたわ。巫女が散々からかっても、にとりは来ますとだけ答えて、ずっと千里眼で貴女を見ていたのよ」
「それだから、飛ぶのだ。信じられているから飛ぶのだ。間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。友の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に飛んでいるのだ。そう、きっと幻想郷の為に! ついて来い! 射命丸文」
「気でも狂ったの!? それなら好きなだけうんと飛べばいい。ひょっとしたら、間に合うかもしれないわ。飛びなさい、河城にとり!」
言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽くして、にとりは飛んだ。にとりの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて飛んだ。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、にとりは疾風の如く境内に突入した。間に合った。
「待て。その天狗を退治してはならぬ。にとりが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た」
と大声で境内の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は一人として彼女の到着に気がつかない。すでにお祓い棒が高々と振り上げられ、縄を打たれた犬走椛に、一気に振り下ろされていく。にとりはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、描きわけ
「私だ、巫女! 退治されるのは、私だ。にとりだ。彼女を人質にした私は、ここにいる!」
と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついにお祓い棒を払いのけ、友に抱き着いた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。犬走椛の縄は、ほどかれたのである。
「椛」
にとりは眼に涙を浮かべて言った。
「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。君も見ていただろう。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君を友と呼ぶ資格さえ無いのだ。殴れ」
犬走椛は、全てを見てきた様子で首肯き、境内一ぱいに鳴り響くほど音高くにとりの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み
「にとり、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと貴女を疑った。生れて、はじめて貴女を疑った。貴女が私を殴ってくれなければ、私は貴女を友と呼べない」
にとりは腕に唸りをつけて犬走椛の頬を殴った。
「ありがとう、友よ」
二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。鬼巫女霊夢は、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「あんたらの望みは叶ったわよ。あんたらは、私の心に勝った。信心とは、決して空虚な幻想ではなかったと。どうか、私もあんたらの仲間に入れてくれないかしら。どうか、私の願いを聞いて、私をあんたらみたいな人間にして欲しいの」
どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、巫女様万歳」
一人の少女が、群青の長着をにとりに捧げた。にとりは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「にとり、君は、まっぱだかじゃないか。早くその長着を着るといい。この少女は、にとりの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく恥ずかしいのだ」
河童は、ひどく赤面した。
にとりには、信仰が分からぬ。にとりは妖怪の山のエンジニアである。機械を弄り、同僚と遊んで暮らして来た。けれども盟友に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明にとりは山を出発し、野を越え河越え、遠くはなれたこの博麗神社の縁日にやって来た。にとりには父も、母も無い。夫も無い。長寿の、活発な河童たちと山暮らしだ。この河童たちは、香霖堂のある今風なPCを、近々、筐体として購入することになっていた。仕事始めも間近なのである。にとりは、それゆえ、PCの周辺機器やら増設メモリやらを買いに、はるばる縁日にやって来たのだ。先ず、それらの品々を買い集め、それから神社の境内をぶらぶら歩いた。
にとりには竹馬の友があった。犬走椛である。今はこの神社の縁日で、売り子をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちににとりは、縁日の様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、縁日の暗いのは当たり前だが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、縁日全体が、やけに寂しい。のんきなにとりも、だんだん不安になって来た。境内で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の縁日に来たときは、夜でも皆が酒を呑んで、縁日は賑やかであった筈だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。にとりは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺はあたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「巫女は、妖怪を退治します」
「なぜ退治するのだ」
「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ」
「たくさんの妖怪を退治したのか」
「はい、初めは紅魔館のお嬢様を。それから、白玉楼のお嬢様を。それから、永遠亭のお嬢様を。それから、彼岸の閻魔様を。それから、守矢神社の神様を。それから、賢者の紫様を」
「驚いた。巫女は乱心か」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人外を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、人間の心をも、お疑いになり、少しく怪しい暮らしをしている者には、賽銭ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御参拝を拒めばお祓い棒にかけられて、退治されてしまいます。きょうは、六人退治されました」
聞いて、にとりは激怒した。
「呆れた巫女だ。生かして置けぬ」
にとりは、愚直な河童であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ本殿にはいって行った。たちまち彼女は、巡邏の自警団に捕縛された。調べられて、にとりの懐中からはのびーるアームが出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。にとりは、巫女の前に引き出された。
「こののびーるアームで何をするつもりだったの? 言いなさい!」
鬼巫女霊夢は静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その巫女の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「縁日を鬼巫女の手から救うのだ」
とにとりは悪びれずに答えた。
「あんたが?」
巫女は、憫笑した。
「仕方の無いやつね。あんたには、私の孤独が分からないのよ」
「言うな!」
とにとりは、いきり立って反駁した。
「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。巫女は、人の信心をさえ疑って居られる」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、私に教えてくれたのは、あんたたちよ。人の心は、あてにならない。人間はもともと私慾のかたまり。信じては、いけない」
鬼巫女は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。
「私だって、平和を望んでいるのよ」
「なんの為の平和だ。自分の賽銭を守る為か」
こんどはにとりが嘲笑した。
「罪のない人間を退治して、何が平和だ」
「黙れ、妖怪」
巫女は、さっと顔を挙げて報いた。
「口では、どんな清らかな事でも言える。私には、人の腹綿の奥底が見え透いてならないわ。あんただって、いまに、退治されてから、泣いて詫びたって聞かないわよ」
「ああ、巫女は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと退治される覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」
と言いかけて、にとりは足もとに視線を落し瞬時ためらい
「ただ、私に情をかけたいつもりなら、退治までに三日間の日限を与えて下さい。職場のPCに、環境を用意してやりたいのです。三日のうちに、私は山でPCをセッティングし、必ず、ここへ帰ってきます」
「ばかな」
と鬼巫女は、嗄れた声で低く笑った。
「とんでもない嘘を言うのね。逃がした妖怪が帰って来るというのかしら」
「そうです。帰って来るのです」
にとりは必死で言い張った。
「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許してください。同僚が、私の帰りを待っているのだ。そんなに信じられないならば、よろしい、この縁日に犬走椛という白狼天狗がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の夕暮れまで、ここに帰ってこなかったら、あの友人を退治して下さい。たのむ、そうして下さい」
それを聞いて巫女は、残虐な気持ちで、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うのね。どうせ帰って来ないにきまっているわ。この妖怪に騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代わりの白狼天狗を、三日目に退治してやるのも気味がいい。妖怪は、これだから信じられないわって、私は悲しい顔して、その白狼天狗を退治してやるのよ。世の中の正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいわね。
「願いを、聞いてやるわ。その身代わりを呼びなさい。三日目には日没までに帰って来なさい。おくれたら、その身代わりを、きっと退治するわ。ちょっとおくれて来るといいわ。あんたの罪は、永遠に許してあげる」
「なに、何をおっしゃる」
「ふふ。いのちが大事だったら、おくれて来なさい。あんたの考えは、分かっているわ」
にとりは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなった。
竹馬の友、犬走椛は、深夜、本殿に呼ばれた。鬼巫女霊夢の面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。にとりは、友に一切の事情を語った。犬走椛は無言で首肯き、にとりをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。犬走椛は、縄打たれた。にとりは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。
にとりはその夜、一睡もせず十里もの空路を急ぎに急いで、河童の里へ到着したのは、翌る日の午前、陽は既に高く昇って、河童たちは職場へ出て仕事をはじめていた。にとりのセッティングするPCも、きょうは普段のPCの代わりにデスクに山積みされていた。よろめいて墜落して来るにとりの、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさくにとりに質問を浴びせかけた。
「なんでも無い」
にとりは無理に笑おうと努めた。
「博麗神社に用事を残して来た。またすぐ神社に行かなければならぬ。あす、PCをセッティングする。早いほうがよかろう」
河童は、喜んだ。
「嬉しいか。周辺機器も買って来た。さあ、これから行って、職場の上長に知らせて来い。セッティングは、あすだと」
にとりは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰ってPCの筐体を弄り、OSのインストールを調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのは夜だった。にとりは起きてすぐ、職場のデスクを訪れた。そうして、少し事情があるから、PCのセッティングを明日にしてくれ、と頼んだ。職場の上長は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度もできていない。仕度ができるまで待ってくれ、と答えた。にとりは、待つことは出来ぬ。どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。職場の上長も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか上長をなだめ、すかして、説き伏せた。
セッティングは真昼に行われた。新規PCの、使用書の提出が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。セッティングに参加していた同僚たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持ちを引きたて、狭い職場の中で、むんむん蒸し暑いのも怺え、必死に伝票を処理し、PCをセッティングした。にとりも、満面に疲労を湛え、暫くは巫女とのあの約束をさえ忘れていた。セッティングは、夜に入っていよいよ修羅場となり、同僚たちは、職場のマニュアルを全く気にしなくなった。にとりは、一生このままここにいたい、とおもった。この佳い同僚たちと生涯仕事をして行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬことである。
にとりは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの職場に愚図愚図とどまっていたかった。にとりほどの妖怪にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい同僚に近寄り
「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに神社に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには新しいマニュアルがあるのだから、決して困ることは無い。私の、一番きらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは知っているね。新しいマニュアルに、どんな遠慮もしてはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。私たちは、たぶん凄い仕事をしたのだから、おまえもその誇りを持っていろ」
同僚は、夢見心地で首肯いた。にとりは、それから上長の肩をたたいて
「仕度の無いのはお互いさまさ。私の職場にも、宝と言っては、PCと人だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、私の上長になったことを誇ってくれ」
上長は肩を竦めて、笑っていた。にとりは笑って同僚たちにも会釈して、職場から立ち去り、仮眠室にもぐり込んで、死んだように深く眠った。
眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。にとりは跳ね起き、南無三、寝過ごしたか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までは十分間に合う。きょうは是非とも、あの巫女に、人の信心の存するところを見せてやろう。そうして笑って弾幕ごっこの舞台に上がってやる。にとりは、悠々と身支度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身支度は出来た。さて、にとりは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、家の如く飛び出た。
私は、今宵、退治される。退治される為に飛ぶのだ。身代わりの友を救う為に飛ぶのだ。巫女の奸佞邪知を打ち破る為に飛ぶのだ。飛ばなければならぬ。そうして、私は退治される。いつだって友情を守れ。さらば、妖怪の山。一人のにとりは、つらかった。幾度か、立ちとまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら飛んだ。山を出て、霧の湖を横切り、魔法の森をくぐり抜け、香霖堂に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。にとりは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや職場への未練は無い。同僚たちは、きっと佳いエンジニアになるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに神社に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達したころ、降って湧いた災難、にとりの足は、はたと、虚空を踏んだ。
見よ。前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木端微塵に橋桁を跳ね飛ばし、にとりを巻き込んだ。にとりは成されるがままに、流されていった。必死にあたりを眺めまわし、また声を限りに呼び立ててみたが、繋舟は残らず浪に浚われて影なく、人の姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上がり、海のようになっている。にとりは濁流に流されながら、泣きに泣きながら守矢の祭神に哀願した。
「ああ、沈めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、神社に行き着く事が出来なかったら、あの佳い友達が、私のために退治されるのです」
濁流は、にとりの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えていく。今やにとりは覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ友情と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。にとりは、ざんぶと流れに逆らい、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ、掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の河童の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐憫を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹にすがりつく事が出来たのである。ありがたい。にとりは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先を急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい呼吸をしながら峠を飛び、飛び越えてほっとした時、突然、目の前に三妖精と妖精の一隊が躍り出た。
「待ちなさい」
「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに神社に行かなければならぬ。放せ」
「どっこい放さないわ。持ちものを全部置いて行きなさい」
「私にはこのいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから巫女にくれてやるのだ」
「その、いのちが欲しいのよ」
「さては、巫女の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな」
三妖精たちは、ものも言わず一斉に弾幕を撃ち放った。にとりはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近の妖精に襲い掛かり、その弾幕をかわしきって
「気の毒だが友のためだ!」
と、猛然一撃、たちまち、三人をピチュらせ、残る者のひるむ隙に、さっさと飛んで峠を下った。一気に峠を飛び降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと河童の皿に照って来て、にとりは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろと僅かばかり飛んで、ついに、真っ逆さまに墜落した。立ち上がる事も出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。
ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、妖精を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破してきたにとりよ。真の河童、にとりよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。敬愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて退治されなければならぬ。おまえは、稀代の不信の河童、まさしく巫女の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝転がった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、河童に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣食った。
私は、これほど努力したのだ。約束を破る心はみじんも無かった。鬼も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで飛んで来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の皿を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。敬愛と信実の胡瓜だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な河童だ。私は、きっと笑われる。私の仲間も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、初めから何もしないのと同じ事だ。
ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定まった運命なのかもしれない。犬走椛よ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、犬走椛。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。犬走椛、私は飛んだのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。妖精の弾幕からも、するりと抜けて一気に峠を飛び降りて来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。
巫女は私に、ちょっと遅れて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代わりを退治して、私を助けてくれると約束した。私は巫女の卑劣を憎んだ。けれど、今になってみると、私は巫女の言うままになっている。私はおくれて行くだろう。巫女はひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、退治されるよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の河童だ。犬走椛よ、私も退治されるぞ。君と一緒に退治されるぞ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。職場には私のデスクが在る。PCも在る。同僚たちは、まさか私を職場から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して妖怪が生きる。それが幻想郷の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようににとりは身をかがめた。水を両手で掬って、皿に掛けた。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を犠牲に、友情を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている友があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている友があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。退治されてお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。飛べ! にとり。
私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。にとり、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の河童だ。再び立って飛べるようになったではないか。ありがたい! 私は、友情の士として退治される事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、鬼よ。私は生れた時から正直な河童であった。正直な河童のままにして退治させてやって下さい。
路行く人を押しのけ、跳ねとばし、にとりは青い風のように飛んだ。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の狸たちを仰天させ、犬を蹴けとばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く飛んだ。一団の妖精と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。
「いまごろは、あの白狼天狗も、退治されているよ」
ああ、その天狗、その天狗のために私は、いまこんなに飛んでいるのだ。その天狗を退治させてはならない。急げ、にとり。おくれてはならぬ。敬愛と友情の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。にとりは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、博麗神社の鳥居が見える。鳥居は、夕陽を受けてきらきら光っている。
「ああ、にとり」
うめくような声が、風と共に聞こえた。
「誰だ」
にとりは飛びながら尋ねた。
「文よ、射命丸文よ。貴女の友人の犬走椛の友よ」
その若い烏天狗も、にとりの後について飛びながら叫んだ。
「もう、無理よ。無駄よ。飛ぶのはやめなさい。もう彼女は助けられないわ」
「いや、まだ陽は沈まぬ」
「ちょうど今、彼女が退治されるところよ。ああ、貴女は遅かった。貴女の事が憎いわ。ほんの少し、もう少しでも、早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ」
にとりは、胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。飛ぶより他は無い。
「もうやめなさい! 飛ぶのはやめなさい! 今は貴女の命の方が大事よ、貴女まで退治されるつもりですか!? 彼女は最後まで、貴女を信じていたわ。境内に引き出されても、平気でいたわ。巫女が散々からかっても、にとりは来ますとだけ答えて、ずっと千里眼で貴女を見ていたのよ」
「それだから、飛ぶのだ。信じられているから飛ぶのだ。間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。友の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に飛んでいるのだ。そう、きっと幻想郷の為に! ついて来い! 射命丸文」
「気でも狂ったの!? それなら好きなだけうんと飛べばいい。ひょっとしたら、間に合うかもしれないわ。飛びなさい、河城にとり!」
言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽くして、にとりは飛んだ。にとりの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて飛んだ。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、にとりは疾風の如く境内に突入した。間に合った。
「待て。その天狗を退治してはならぬ。にとりが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た」
と大声で境内の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は一人として彼女の到着に気がつかない。すでにお祓い棒が高々と振り上げられ、縄を打たれた犬走椛に、一気に振り下ろされていく。にとりはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、描きわけ
「私だ、巫女! 退治されるのは、私だ。にとりだ。彼女を人質にした私は、ここにいる!」
と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついにお祓い棒を払いのけ、友に抱き着いた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。犬走椛の縄は、ほどかれたのである。
「椛」
にとりは眼に涙を浮かべて言った。
「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。君も見ていただろう。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君を友と呼ぶ資格さえ無いのだ。殴れ」
犬走椛は、全てを見てきた様子で首肯き、境内一ぱいに鳴り響くほど音高くにとりの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み
「にとり、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと貴女を疑った。生れて、はじめて貴女を疑った。貴女が私を殴ってくれなければ、私は貴女を友と呼べない」
にとりは腕に唸りをつけて犬走椛の頬を殴った。
「ありがとう、友よ」
二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。鬼巫女霊夢は、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「あんたらの望みは叶ったわよ。あんたらは、私の心に勝った。信心とは、決して空虚な幻想ではなかったと。どうか、私もあんたらの仲間に入れてくれないかしら。どうか、私の願いを聞いて、私をあんたらみたいな人間にして欲しいの」
どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、巫女様万歳」
一人の少女が、群青の長着をにとりに捧げた。にとりは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「にとり、君は、まっぱだかじゃないか。早くその長着を着るといい。この少女は、にとりの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく恥ずかしいのだ」
河童は、ひどく赤面した。
これに得点を入れても80年越しに太宰治を褒めてるだけになっちゃう
のびーるアームが出てきて騒ぎが大きくなってしまったはすき