ずっと、横顔を見ていた。
桜の花びらを一枚ずつ眼で追いながら、まるで興味が無いような表情をつくっている。私はそんなときの幽々子さまが嫌いだった。
何とかして咲かせたい。そう言ってくれればいいのに、私に触れようともしないで膝に手を置いて、隣に座っている。西行妖は今日も花を咲かせることなく、満開の桜に囲まれていた。
「幽々子さま、春ですしもう一度集めて来ましょうか?」
毎年こんなことを言っている。その度に勇気を出して、覚悟を決めて。答えはいつも決まっていた。幽々子さまは呆れたような、憐れむような顔して振り向いた。
「あのね、そんな暇があるなら庭の掃除してきなさい。あなたはまだ未熟なんだから」
そう言って縁側から離れていく。私から距離を置こうとする。
確かに私にはわからないことがたくさんあるけれど、幽々子さまが今どんな気持ちなのかくらいわかる。わざとらしく花を咲かせている桜の下に突っ立っている。その華奢な背中を色んな感情が包んでいる。必死にそれに耐えている。
私も立ち上がってついさっき掃いたばかりの広い庭を回ることにした。幽々子さまと反対の方へ箒を引きずっていく。幽々子さまが私を認めてくれないことに腹が立っていた。私が役に立てないことが悔しかった。
私のことを愛してくれていないんじゃないか、そんなことを思ったりして寂しかった。幽々子さまは何も言ってくれない。
一歩遠ざかる度に背中に視線を感じるけれど、振り向く気にはなれない。もし私のことを見ていなかったらと思うと怖かったから。
「こんにちわ」
一瞬、ほんの少しだけ期待してしまったけれど、それは幽々子さまのものとは似ても似つかない声だった。
「とりあえず降りなさい、叩き斬るわよ」
細身の木の枝に座っていたのはいつかの邪仙だった。彼女は案外素直に降りて来て、必要以上に目の前で会釈した。
「お久しゅうございます、お師匠様」
はじめ、何が何だか分からなかった。
「ご機嫌いかがでしょうか? ご挨拶に来るのが遅れてしまって申し訳ありませんでした」
何となく言葉にならないまま立ち尽くしてしまった。
「今日は天気も良くて、やっぱり春は良いものですね」
霍青娥はそんな風に言いながら私の肩に触れた。とても大事そうに、私に触れた。
「ちょっと待って、いつ私があなたの師匠になったのよ」
「あら、この前こてんぱんにやられちゃいましたから。責任とって弟子にしてくださいな」
「いやいや、あなた仙人なんでしょ? なんで私なんかに」
「だって、あなたは私以上に素質に満ちていらっしゃるもの。きっと立派な仙人になりますわ。ううん、もしかしたらもう仙人だったりして」
そんな馬鹿なと思ったけれど、この邪仙をやっつけたのは本当だった。彼女はペラペラ途切れることなく私を褒めちぎり、私だって馬鹿じゃないから話半分に聞いていた。
でも、よく考えると私は仙人なのかもしれない。仙人に打ち勝ったわけだしおかしくない。もしそうなら私は自分の力を知らずにいたのだろうか?
「そんなわけですから、今日からお師匠様のお世話をさせて頂きたくて来たんですの。だって仙人の弟子ってそういうものですから」
何だか良い気持ちになってきた。だって、未熟者の私が弟子をとるなんて。私が仙人だったなんて。
「ね、おそばに置いてくださいな? 娘々がんばります」
さっきまで妖しく見えた彼女が年下の少女にしか見えない。妹が出来たようで急に可愛くなってくる。
「まあ、そこまで言うならしょうがないですね。でも私は幽々子さまの従者なんですから、邪魔しちゃだめですよ?」
ぱあっと明るい顔をぶつけてくる青娥が愛おしく思える。私だって、幽々子さまに認めてもらえたら、頼ってもらえたらこんな顔になるんだろう。
(ううん、これからは庭師兼仙人として幽々子さまのお役にたてるんだ)
青娥がきゃっきゃと身をよじらせながら、肩に置いていた手を私の額に伸ばして来る。ゆっくりと、宝物についた埃を拭き取るように撫でられて、言いようの無い幸福感がやってくる。
「お師匠様、お顔をきれいにしましょうね」
背中に視線を感じていた。でも、振り向く気にはならなかった。もう少し、浸っていたかったから。
「妖夢、アレを今すぐ追い出しなさい」
案の定、幽々子さまは認めてはくれなかった。
「でも、初めて出来た弟子なんです。しばらく置いてあげてもいいじゃないですか」
「妖夢、私がダメって言ってるの」
青娥は意外にすんなり身を引いて、通い弟子でいいと言って帰って行った。そのいじらしさと、幽々子さまの冷たく、冷たく怒った顔は一晩寝ても忘れられなかった。
はっきりと、幽々子さまのことが嫌いになりかけていた。それは今までみたいな、甘えたい気持ちのようなものではなくて、何だか初めての感情だった。
次の日も、そのまた次の日も、青娥は毎日朝早くからやってきて私の仕事を代わりにこなすようになった。庭の掃除は大変だというのに嬉々として箒を振り回している。幽々子さまはそれにすら眉をしかめていて、食事や風呂などの身の回りの世話だけは絶対にさせることは無かった。もっともそれは私が譲ることは無いのだけれど。
「妖夢、いいかげんになさい。アレを追い出しなさい」
何となく、本当に何となく。すっと言葉が口から飛び出した。
「アレではありません。青娥という名前があります。・・・・・・私の大切な弟子です」
こんな反抗的な言葉を口にしたのは初めてだった。幽々子さまの顔が少しづつ青ざめていくのがわかる。
「妖夢、あなた鏡を見て来なさい。酷い顔してるわよ」
「嫌です、私そんなブサイクなんかじゃないですもん」
反抗するのが気持ちよかった。私、仙人なんだもん。少しくらい良いんだと思った。
「ねえ幽々子さま、私って実は仙人だったんです。喜んでください、もっとお役にたてますよ。西行妖だって咲かせてみせます。そうしたら幽々子さま、嬉しいでしょう?」
快感だった。自分の言葉がどんどん私に自信を与えてくれる。今にも幽々子さまが私を抱きしめてくれるんじゃないかと待ち遠しかった。
でも、いくら待ってもそんな気配は無い。
幽々子さまは、すごく寂しそうな眼をしていて、それでも細い眉を曲げることは無く必死に私をみつめている。
いい気味だと思った。私はずっと、今だって寂しいんだから。
青娥は後ろの方でにこにこしている。幽々子さまのきつい視線にも負けずに私の傍にいる。なんて可愛いんだろう。
「妖夢、お願い。私をみて。妖夢」
幽々子さまが錯乱している。でも私は仙人だから、慌てず騒がずおゆはんの支度をすることにした。
「ねえ、助けてちょうだい」
仙人になって少ししてから、幽々子さまは私を色んなところに連れ出すようになった。
「ねえ、うちの妖夢ったら仙人なんだって。もうおかしくって! 笑い死にしそうなの、助けてちょうだい」
そう言ってだれかしこに言って回る。
「ほら妖夢、仙人なんだったら何か術を見せてちょうだい?」
そう言って私に恥をかかそうとする。
「ほらね!何もできやしないでしょう? あなたは仙人なんかじゃないのよ」
けらけらと笑っている。霊夢も、魔理沙も、紫さまにまで言いふらして一緒に笑っている。
「ねえ、あなたは仙人なんかじゃ無いの。私の妖夢なんだから」
術なんかできなくたって私は仙人なのに、どうしてこんな恥をかかせるんだろう。
「ねえ、助けてちょうだい。お願いよ。私じゃどうにもできないの。」
私は、一人で先に帰ることにした。
青娥が私を出迎えてくれた。私は不満をぶちまけながら、彼女の腕の中で泣いていた。ただ幽々子さまの為になりたいだけなのに、その気持ちを彼女は分かってくれている。
「お師匠様、あなたが今一番したいことはなあに? あなたが幽々子さんに一番してあげたいことはなあに?」
それは、西行妖を咲かせることだった。
まるで呪いの様にあの大木に執着している幽々子さまを救ってあげることだった。でも、あの人はその苦しみをいつも自分の中に閉じ込めている。自分を西行妖に埋め込んでしまって決して私に打ち明けてはくれない。
「どうしてなんだろう、青娥? 私はどうして幽々子さまのあんなお顔を見ていなきゃいけないの? それとも私があの人を苦しめてるの? ねえ青娥?」
青娥の手が私の額を暖かく撫でていく。
「大丈夫よお師匠様、娘々がいるじゃない。私の言うとおりにすればきっと楽しいわ」
青娥の指が生きものみたいな動きで私の口の中に入って来る、涙とよだれが混ざって襟元に垂れていく。この手が幽々子さまのものだったらどんなに嬉しいだろう。
青娥と二人で屋敷を飛び出してから二日? 三日? もしかしたらもっと経ったのかもしれない。私は娘々ルームの中でずっと気を練っている。青娥がそうしろというからずっと、この狭くて暗い部屋の中で一人仙人らしく瞑想している。
初め、座禅をくんでいたと思う。
いつの間にか立ったまま一日が終わっていた。
ある日、青娥がやってきて額を軽く叩いた。
「うん! 妖夢ちゃんいい感じね。もう少しで完成よ」
多分そんなことを言っていた。久しぶりに会った彼女は嬉しそうで、師匠の私も嬉しかった。青娥の手が額から離れると、私の視界は半分くらいになった。鼻先にひらひらと何かが当たってむず痒いけれど、仙人っぽいんだろう。
「それじゃあ行きましょっか?」
手を引かれるまま部屋を出た。外の日差しは眩しくて、足をもつれさせながらついて行く。
「青娥、どこへ行くの?」
「決まってるじゃない! あのおっきい桜を咲かせに行くのよ」
「そっか、嬉しいな」
家出しておいて幽々子さまに会うのは怖かったけれど、やっと役にたてるんだと思うと気が昂ってくる。なにより青娥の言葉に反対する気なんて起きなかった。
白玉楼はいつも通り、桜の花びらと幽霊でいっぱいだった。掃除をする者がいないから、地面が淡いピンクで覆われている。
幽々子さまに見つかるんじゃないかとびくびくしながら西行妖を見上げていると、青娥がいくらかの霊を抱えてきた。
「はい、どうぞ妖夢ちゃん」
「ん? そんな風に差し出されたってわけわかんないよ」
「召し上がれ」
耳を疑った。青娥は私に幽霊を食べろと言っているのだろうか? そんなのできるわけない。
「妖夢ちゃん、お花には人の魂が宿ってるのよ。だからあなたが咀嚼して、この桜の肥料にしましょう。そうすればきっと立派に花が咲くにちがいありません」
青娥の手がゆっくりと、確実に近づいてくる。私の半分は幽霊なんだから共食いみたいなものだ。
「やめて、お願い青娥、そんなの嫌だ!」
「大丈夫、きっと美味しいわ。芳香だっていつも美味しそうにしてるもの」
「師匠をあんなキョンシーと一緒にしないで! やだ!」
「大丈夫、娘々が食べさせてあげる。手、動かないでしょう?」
自分の声とは思えないような呻きが漏れた。さっきから必死に遮っているつもりの両手は、前ならえして動かなかった。手首から先はだらしなくぶらついていて、まるであのキョンシーの様だった。
「騙したの?」
青娥は相変わらずニコニコしている。
「何で?」
「だって、楽しいんだもの。それに人手が増えればもっと楽しめるもの」
あまりにも悪気のない、無垢な笑顔だった。
何とか動く唇に懸命に力を込めていやいやして耐えていた。青娥の空いている手は私の顔を撫でるのではなく、鼻を優しく、でもしっかりとつまんだ。
「さ、これを食べれば完成よ。あーんして。」
息の限界が来ていた。頭がぼうっとして、もういいやって気持ちが湧いてくる。
歯に冷たくて柔らかな幽霊の感触。その冷たさが私に昔のことを思い出させた。それは閻魔様に怒られて帰った時のことだった。幽霊を斬ってはいけない、そう言われて私なりに色々考えたあの時、知恵熱が出そうになっていた私の額にそっと手を当てる幽々子さまの笑み。その手の冷たさが嬉しかった。
(最後に思い出せて良かった)
そう思った。
口内に詰め込まれていく霊が喉に滑り込もうとしたとき、凄まじい光と轟音がすぐ隣を走った。その馬鹿でかい直線も、風を切る針も、青娥を囲むスキマも、見覚えがあった。
青娥は素早く私から離れ、ぺろっと舌を出す。
「残念、もうちょっとだったのに。またね、妖夢ちゃん」
そう言ってあっという間に遠ざかっていく。どんどん小さくなっていく後姿に、もの凄い速さで追いかける箒に乗った魔法使いたちもじきに見えなくなった。
しばらく、静かになった庭に私が幽霊を吐き出す嫌な音だけが響いていた。やっと口の外に出ることが出来た霊がよだれだらけになって逃げていく。
ひとり、西行妖の下で突っ立っていると背中に視線を感じた、足音がすぐそばまで近づいて、背中越しにあの人は言った。
「自称仙人さん、お願いがあるの」
恥ずかしかった。ただ恥ずかしかった。でも、もう何日もその顔を見ていなかったので、我慢できずに振り向いてしまう。
「私のお願い聞いてくれる?」
「私は、何もできません」
私は仙人なんかじゃ無かった。じゃあ一体なんだろう。
「お願い、聞いてくれる?」
「はい」
「私の妖夢を返してちょうだい」
幽々子さまの手が額に触れた。何でもないように、でも暖かだった。
何かが剥がれる感触があって、視界が戻る。風に運ばれていくお札が見えた。腕が少し動くようになって、目の前には幽々子さまの顔があった。
「幽々子さま」
「なあに?」
「ごめんなさい」
「あとで紫たちにもお礼言わなきゃね」
そう、幽々子さまはからかっていたんじゃなくて、助けを求めていたんだ。
「ごめんね、妖夢。私じゃ無理だったの。私が言えば反発させてしまうだけで余計にひどくなりそうだったから」
「違います、私が悪いんです」
そうだ、私は庭師なんだ。この人の、妖夢なんだ。
「ごめんね」
「違います」
幽々子さまの手が、近づいてくる。細い指が涙を拭ってくれるけれど、とめどなく溢れてしまう。
「あのね、妖夢。確かに西行妖を咲かせたいって今でも思うことがあるの」
「はい」
「でもね」
「はい」
「もう、いいの」
みてほしいと思っていた。私をみてほしかった。でも今はその瞳を見返すことができない。
「だって、あなたがいるもの」
着物の端をぎゅっと掴んだ。
「ゆっくりでいいの、妖夢。ゆっくり色んなこと、知ってね」
幽々子さまが私を覆うみたいにして抱きしめてくれた。冷たい、冷たい体がとても暖かい。
「ごめんね、こんな風にするのが怖かったの。大事なあなただから」
「幽々子さま、ごめんなさい。私、未熟です」
「いいの。ゆっくりでいいの。もう少し私の妖夢でいてね」
それから、手を貸してくれた三人には毎日のようにからかわれ続けた。幽々子さまも傍でくすくすと笑っていた。
春が終わろうとしている。自分で花を咲かすことのない西行妖。それをみつめる幽々子さまの横顔を、私はずっとみている。
幽々子さまも、ずっと私をみてくれている。
私はできるかぎり満開の笑顔でいようと思う。
桜の花びらを一枚ずつ眼で追いながら、まるで興味が無いような表情をつくっている。私はそんなときの幽々子さまが嫌いだった。
何とかして咲かせたい。そう言ってくれればいいのに、私に触れようともしないで膝に手を置いて、隣に座っている。西行妖は今日も花を咲かせることなく、満開の桜に囲まれていた。
「幽々子さま、春ですしもう一度集めて来ましょうか?」
毎年こんなことを言っている。その度に勇気を出して、覚悟を決めて。答えはいつも決まっていた。幽々子さまは呆れたような、憐れむような顔して振り向いた。
「あのね、そんな暇があるなら庭の掃除してきなさい。あなたはまだ未熟なんだから」
そう言って縁側から離れていく。私から距離を置こうとする。
確かに私にはわからないことがたくさんあるけれど、幽々子さまが今どんな気持ちなのかくらいわかる。わざとらしく花を咲かせている桜の下に突っ立っている。その華奢な背中を色んな感情が包んでいる。必死にそれに耐えている。
私も立ち上がってついさっき掃いたばかりの広い庭を回ることにした。幽々子さまと反対の方へ箒を引きずっていく。幽々子さまが私を認めてくれないことに腹が立っていた。私が役に立てないことが悔しかった。
私のことを愛してくれていないんじゃないか、そんなことを思ったりして寂しかった。幽々子さまは何も言ってくれない。
一歩遠ざかる度に背中に視線を感じるけれど、振り向く気にはなれない。もし私のことを見ていなかったらと思うと怖かったから。
「こんにちわ」
一瞬、ほんの少しだけ期待してしまったけれど、それは幽々子さまのものとは似ても似つかない声だった。
「とりあえず降りなさい、叩き斬るわよ」
細身の木の枝に座っていたのはいつかの邪仙だった。彼女は案外素直に降りて来て、必要以上に目の前で会釈した。
「お久しゅうございます、お師匠様」
はじめ、何が何だか分からなかった。
「ご機嫌いかがでしょうか? ご挨拶に来るのが遅れてしまって申し訳ありませんでした」
何となく言葉にならないまま立ち尽くしてしまった。
「今日は天気も良くて、やっぱり春は良いものですね」
霍青娥はそんな風に言いながら私の肩に触れた。とても大事そうに、私に触れた。
「ちょっと待って、いつ私があなたの師匠になったのよ」
「あら、この前こてんぱんにやられちゃいましたから。責任とって弟子にしてくださいな」
「いやいや、あなた仙人なんでしょ? なんで私なんかに」
「だって、あなたは私以上に素質に満ちていらっしゃるもの。きっと立派な仙人になりますわ。ううん、もしかしたらもう仙人だったりして」
そんな馬鹿なと思ったけれど、この邪仙をやっつけたのは本当だった。彼女はペラペラ途切れることなく私を褒めちぎり、私だって馬鹿じゃないから話半分に聞いていた。
でも、よく考えると私は仙人なのかもしれない。仙人に打ち勝ったわけだしおかしくない。もしそうなら私は自分の力を知らずにいたのだろうか?
「そんなわけですから、今日からお師匠様のお世話をさせて頂きたくて来たんですの。だって仙人の弟子ってそういうものですから」
何だか良い気持ちになってきた。だって、未熟者の私が弟子をとるなんて。私が仙人だったなんて。
「ね、おそばに置いてくださいな? 娘々がんばります」
さっきまで妖しく見えた彼女が年下の少女にしか見えない。妹が出来たようで急に可愛くなってくる。
「まあ、そこまで言うならしょうがないですね。でも私は幽々子さまの従者なんですから、邪魔しちゃだめですよ?」
ぱあっと明るい顔をぶつけてくる青娥が愛おしく思える。私だって、幽々子さまに認めてもらえたら、頼ってもらえたらこんな顔になるんだろう。
(ううん、これからは庭師兼仙人として幽々子さまのお役にたてるんだ)
青娥がきゃっきゃと身をよじらせながら、肩に置いていた手を私の額に伸ばして来る。ゆっくりと、宝物についた埃を拭き取るように撫でられて、言いようの無い幸福感がやってくる。
「お師匠様、お顔をきれいにしましょうね」
背中に視線を感じていた。でも、振り向く気にはならなかった。もう少し、浸っていたかったから。
「妖夢、アレを今すぐ追い出しなさい」
案の定、幽々子さまは認めてはくれなかった。
「でも、初めて出来た弟子なんです。しばらく置いてあげてもいいじゃないですか」
「妖夢、私がダメって言ってるの」
青娥は意外にすんなり身を引いて、通い弟子でいいと言って帰って行った。そのいじらしさと、幽々子さまの冷たく、冷たく怒った顔は一晩寝ても忘れられなかった。
はっきりと、幽々子さまのことが嫌いになりかけていた。それは今までみたいな、甘えたい気持ちのようなものではなくて、何だか初めての感情だった。
次の日も、そのまた次の日も、青娥は毎日朝早くからやってきて私の仕事を代わりにこなすようになった。庭の掃除は大変だというのに嬉々として箒を振り回している。幽々子さまはそれにすら眉をしかめていて、食事や風呂などの身の回りの世話だけは絶対にさせることは無かった。もっともそれは私が譲ることは無いのだけれど。
「妖夢、いいかげんになさい。アレを追い出しなさい」
何となく、本当に何となく。すっと言葉が口から飛び出した。
「アレではありません。青娥という名前があります。・・・・・・私の大切な弟子です」
こんな反抗的な言葉を口にしたのは初めてだった。幽々子さまの顔が少しづつ青ざめていくのがわかる。
「妖夢、あなた鏡を見て来なさい。酷い顔してるわよ」
「嫌です、私そんなブサイクなんかじゃないですもん」
反抗するのが気持ちよかった。私、仙人なんだもん。少しくらい良いんだと思った。
「ねえ幽々子さま、私って実は仙人だったんです。喜んでください、もっとお役にたてますよ。西行妖だって咲かせてみせます。そうしたら幽々子さま、嬉しいでしょう?」
快感だった。自分の言葉がどんどん私に自信を与えてくれる。今にも幽々子さまが私を抱きしめてくれるんじゃないかと待ち遠しかった。
でも、いくら待ってもそんな気配は無い。
幽々子さまは、すごく寂しそうな眼をしていて、それでも細い眉を曲げることは無く必死に私をみつめている。
いい気味だと思った。私はずっと、今だって寂しいんだから。
青娥は後ろの方でにこにこしている。幽々子さまのきつい視線にも負けずに私の傍にいる。なんて可愛いんだろう。
「妖夢、お願い。私をみて。妖夢」
幽々子さまが錯乱している。でも私は仙人だから、慌てず騒がずおゆはんの支度をすることにした。
「ねえ、助けてちょうだい」
仙人になって少ししてから、幽々子さまは私を色んなところに連れ出すようになった。
「ねえ、うちの妖夢ったら仙人なんだって。もうおかしくって! 笑い死にしそうなの、助けてちょうだい」
そう言ってだれかしこに言って回る。
「ほら妖夢、仙人なんだったら何か術を見せてちょうだい?」
そう言って私に恥をかかそうとする。
「ほらね!何もできやしないでしょう? あなたは仙人なんかじゃないのよ」
けらけらと笑っている。霊夢も、魔理沙も、紫さまにまで言いふらして一緒に笑っている。
「ねえ、あなたは仙人なんかじゃ無いの。私の妖夢なんだから」
術なんかできなくたって私は仙人なのに、どうしてこんな恥をかかせるんだろう。
「ねえ、助けてちょうだい。お願いよ。私じゃどうにもできないの。」
私は、一人で先に帰ることにした。
青娥が私を出迎えてくれた。私は不満をぶちまけながら、彼女の腕の中で泣いていた。ただ幽々子さまの為になりたいだけなのに、その気持ちを彼女は分かってくれている。
「お師匠様、あなたが今一番したいことはなあに? あなたが幽々子さんに一番してあげたいことはなあに?」
それは、西行妖を咲かせることだった。
まるで呪いの様にあの大木に執着している幽々子さまを救ってあげることだった。でも、あの人はその苦しみをいつも自分の中に閉じ込めている。自分を西行妖に埋め込んでしまって決して私に打ち明けてはくれない。
「どうしてなんだろう、青娥? 私はどうして幽々子さまのあんなお顔を見ていなきゃいけないの? それとも私があの人を苦しめてるの? ねえ青娥?」
青娥の手が私の額を暖かく撫でていく。
「大丈夫よお師匠様、娘々がいるじゃない。私の言うとおりにすればきっと楽しいわ」
青娥の指が生きものみたいな動きで私の口の中に入って来る、涙とよだれが混ざって襟元に垂れていく。この手が幽々子さまのものだったらどんなに嬉しいだろう。
青娥と二人で屋敷を飛び出してから二日? 三日? もしかしたらもっと経ったのかもしれない。私は娘々ルームの中でずっと気を練っている。青娥がそうしろというからずっと、この狭くて暗い部屋の中で一人仙人らしく瞑想している。
初め、座禅をくんでいたと思う。
いつの間にか立ったまま一日が終わっていた。
ある日、青娥がやってきて額を軽く叩いた。
「うん! 妖夢ちゃんいい感じね。もう少しで完成よ」
多分そんなことを言っていた。久しぶりに会った彼女は嬉しそうで、師匠の私も嬉しかった。青娥の手が額から離れると、私の視界は半分くらいになった。鼻先にひらひらと何かが当たってむず痒いけれど、仙人っぽいんだろう。
「それじゃあ行きましょっか?」
手を引かれるまま部屋を出た。外の日差しは眩しくて、足をもつれさせながらついて行く。
「青娥、どこへ行くの?」
「決まってるじゃない! あのおっきい桜を咲かせに行くのよ」
「そっか、嬉しいな」
家出しておいて幽々子さまに会うのは怖かったけれど、やっと役にたてるんだと思うと気が昂ってくる。なにより青娥の言葉に反対する気なんて起きなかった。
白玉楼はいつも通り、桜の花びらと幽霊でいっぱいだった。掃除をする者がいないから、地面が淡いピンクで覆われている。
幽々子さまに見つかるんじゃないかとびくびくしながら西行妖を見上げていると、青娥がいくらかの霊を抱えてきた。
「はい、どうぞ妖夢ちゃん」
「ん? そんな風に差し出されたってわけわかんないよ」
「召し上がれ」
耳を疑った。青娥は私に幽霊を食べろと言っているのだろうか? そんなのできるわけない。
「妖夢ちゃん、お花には人の魂が宿ってるのよ。だからあなたが咀嚼して、この桜の肥料にしましょう。そうすればきっと立派に花が咲くにちがいありません」
青娥の手がゆっくりと、確実に近づいてくる。私の半分は幽霊なんだから共食いみたいなものだ。
「やめて、お願い青娥、そんなの嫌だ!」
「大丈夫、きっと美味しいわ。芳香だっていつも美味しそうにしてるもの」
「師匠をあんなキョンシーと一緒にしないで! やだ!」
「大丈夫、娘々が食べさせてあげる。手、動かないでしょう?」
自分の声とは思えないような呻きが漏れた。さっきから必死に遮っているつもりの両手は、前ならえして動かなかった。手首から先はだらしなくぶらついていて、まるであのキョンシーの様だった。
「騙したの?」
青娥は相変わらずニコニコしている。
「何で?」
「だって、楽しいんだもの。それに人手が増えればもっと楽しめるもの」
あまりにも悪気のない、無垢な笑顔だった。
何とか動く唇に懸命に力を込めていやいやして耐えていた。青娥の空いている手は私の顔を撫でるのではなく、鼻を優しく、でもしっかりとつまんだ。
「さ、これを食べれば完成よ。あーんして。」
息の限界が来ていた。頭がぼうっとして、もういいやって気持ちが湧いてくる。
歯に冷たくて柔らかな幽霊の感触。その冷たさが私に昔のことを思い出させた。それは閻魔様に怒られて帰った時のことだった。幽霊を斬ってはいけない、そう言われて私なりに色々考えたあの時、知恵熱が出そうになっていた私の額にそっと手を当てる幽々子さまの笑み。その手の冷たさが嬉しかった。
(最後に思い出せて良かった)
そう思った。
口内に詰め込まれていく霊が喉に滑り込もうとしたとき、凄まじい光と轟音がすぐ隣を走った。その馬鹿でかい直線も、風を切る針も、青娥を囲むスキマも、見覚えがあった。
青娥は素早く私から離れ、ぺろっと舌を出す。
「残念、もうちょっとだったのに。またね、妖夢ちゃん」
そう言ってあっという間に遠ざかっていく。どんどん小さくなっていく後姿に、もの凄い速さで追いかける箒に乗った魔法使いたちもじきに見えなくなった。
しばらく、静かになった庭に私が幽霊を吐き出す嫌な音だけが響いていた。やっと口の外に出ることが出来た霊がよだれだらけになって逃げていく。
ひとり、西行妖の下で突っ立っていると背中に視線を感じた、足音がすぐそばまで近づいて、背中越しにあの人は言った。
「自称仙人さん、お願いがあるの」
恥ずかしかった。ただ恥ずかしかった。でも、もう何日もその顔を見ていなかったので、我慢できずに振り向いてしまう。
「私のお願い聞いてくれる?」
「私は、何もできません」
私は仙人なんかじゃ無かった。じゃあ一体なんだろう。
「お願い、聞いてくれる?」
「はい」
「私の妖夢を返してちょうだい」
幽々子さまの手が額に触れた。何でもないように、でも暖かだった。
何かが剥がれる感触があって、視界が戻る。風に運ばれていくお札が見えた。腕が少し動くようになって、目の前には幽々子さまの顔があった。
「幽々子さま」
「なあに?」
「ごめんなさい」
「あとで紫たちにもお礼言わなきゃね」
そう、幽々子さまはからかっていたんじゃなくて、助けを求めていたんだ。
「ごめんね、妖夢。私じゃ無理だったの。私が言えば反発させてしまうだけで余計にひどくなりそうだったから」
「違います、私が悪いんです」
そうだ、私は庭師なんだ。この人の、妖夢なんだ。
「ごめんね」
「違います」
幽々子さまの手が、近づいてくる。細い指が涙を拭ってくれるけれど、とめどなく溢れてしまう。
「あのね、妖夢。確かに西行妖を咲かせたいって今でも思うことがあるの」
「はい」
「でもね」
「はい」
「もう、いいの」
みてほしいと思っていた。私をみてほしかった。でも今はその瞳を見返すことができない。
「だって、あなたがいるもの」
着物の端をぎゅっと掴んだ。
「ゆっくりでいいの、妖夢。ゆっくり色んなこと、知ってね」
幽々子さまが私を覆うみたいにして抱きしめてくれた。冷たい、冷たい体がとても暖かい。
「ごめんね、こんな風にするのが怖かったの。大事なあなただから」
「幽々子さま、ごめんなさい。私、未熟です」
「いいの。ゆっくりでいいの。もう少し私の妖夢でいてね」
それから、手を貸してくれた三人には毎日のようにからかわれ続けた。幽々子さまも傍でくすくすと笑っていた。
春が終わろうとしている。自分で花を咲かすことのない西行妖。それをみつめる幽々子さまの横顔を、私はずっとみている。
幽々子さまも、ずっと私をみてくれている。
私はできるかぎり満開の笑顔でいようと思う。
きっと本当に青蛾みたいな連中が跋扈していたのが彼国であり、そして多くの国で似たようなことはあったのだろう
自分を特別だと囁く人間は怖い
(でも程々なら言われたいかも)
日常が狂ってゆくリアリティがそこはかとなくあり、途中かなり怖かった。
最後はゆゆみょんらしい終わり方だったけど、こういう可愛い反抗の仕方をする妖夢なら二人の仲は続く気がする。