融解する線
『境界(きょうかい)』―――土地のさかい。物事のさかい。
八雲紫という妖怪がいる。
彼女は、その境界を司ることが出来る。
金の髪、鮮血を解いた双眸。
幼い顔立ちであるが、瞳に揺らめく妖艶さは年輪を重ねた奥深さを湛え、捉われた者は一様に息を呑む。やや低い、だが張りのある声は鼓膜を緩やかに揺さ振り、流水の様な身のこなしは時が止まった様な錯覚に陥る。彼女は幻想郷創造に深く関わる妖怪だ。気の遠くなる様な年月を、その類い稀な力と頭脳を以て構築していった。
彼女は、幻想郷に於いては、“どんなものの境界も自在に操る”ことが出来る。文字通り、どんなものでも境を無くしたり、作ったりすることが出来るのだ。物などの物質的な存在は勿論、事象についても、まるで性質の異なる物同士の境を操ることが出来る。空想と現実の境でさえも、彼女の細い手にかかれば、繋ぎ目も無く綺麗に境を取り払い融合することが出来る。反対に、現実を空想にわけることも出来るのだ。
神と呼ばれる存在が斯様な芸当が出来ると書物に書かれていたことが、紫は妖怪の中でいかに異質であるかを証明していた。
そんな大妖の彼女の下に付く妖怪は、意外にも少ない。
八雲藍。
妖狐である。
尾は九つ。金色のそれはまるで焔の様に揺れ、両の眼も、髪も、同じ焔を静かに灯している。
紫が長髪の金髪に対し、藍は項のあたりで切り揃えており、藍の方がやや陽に焼けて時折茶に光っていた。
主よりも小柄だが、そこいらの妖に指一本触れさせる隙も与えない力量を持っている。紫に比べれば生きた歳月は赤子の様なものだが、万の時を刻んだ瞳の鋭さは紫に通ずるところが見られた。
藍は式神の身分でありながら、自身も式神を使役することが出来る。頭脳明晰で、難解な数式は彼女の得意とする分野だ。しかし、これらも主の方が優に勝り、彼女の護衛と言うより雑用を任されている所が強い。式神の用途として尤もらしい使役の仕方ではあるが。
藍は己の主と役目に誇りを持っている。
八百万の妖怪の中でも、最高峰に立つ大妖の式神として選ばれた。紫に匹敵する実力の妖怪は確かに居る。だが、その中でも紫に手を差し伸べてもらえたことが、藍は誇らしかった。
紫は、どの妖怪よりも美しい。藍はそう思ってやまない。
数え切れない、気の遠くなる様な歳月を越えてなお、心は淑女と少女の面を併せ持つ。子どもの様な悪戯は時にささやかで、時に世界を巻き込む大掛かりなものだが、本人は全て“遊び”と称しているので呆れる者の方が多い。振り回される藍も時に困惑と溜息が入り混じるのだが、その度に主の思慮深さや思考の奥深さを目の当たりにし、感嘆するのである。
そのような主を、藍は慕っている。
華麗な装い。フリルとリボンをふんだんに取り入れた衣装は実に女性らしく、華やかな主にはよく似合っていた。いつも着用している長い手袋から覗く腕の白さは、目が眩む程悩ましい。
あの手に触れる物は、己を見失う。境を失くして。
きっと自分も、あの手に触れたら己を見失うのだろう。
ぼんやりとそのようなことを考え、計算の手をとめることもしばしばであった。
「暑いわね。」
夏の日差しは、幻想郷にも降り注いでいた。
肌に纏わりつく様な熱気に、藍も己の上等な毛皮が憎らしく思う。紫は扇子を仰ぎながら、博麗神社の縁側に座していた。
数刻前のことである。この神社の神子・霊夢に用事があると言って紫は屋敷から力を使い、此処まで移動した。急な来訪もすっかり慣れっこのなっていた霊夢は“隙間”から訪れた紫と藍の姿に別段驚く様子も無かったが、やや怪訝な表情をしていた。そんな霊夢の態度を意に介すことなく、紫は着いて早々冷たい麦茶を催促するあたり、力も奔放さも妖怪一ではなかと、藍は小さく溜息を吐いた。
やや揉めたが、今は霊夢がしぶしぶ麦茶を取りに行ったところである。
境内の蝉が、ひしめき合う様に鳴く。
木々や花に水を撒いたのだろうか。土や砂利がそちこちで水気を含み、葉は水滴を載せてきらきらと光っている。雨後のにおいに似た空気が感じられた。風のひとつでも吹けば涼しいものだが、それは望めそうに無い様だ。
どんなに暑い日でも、紫は服装も身だしなみは崩れない。肌の露出も、極力抑えている。暑いと言いつつ、汗の一つもかいていなかった。
しかし、流石の紫でも真夏の日差しには耐えられなかったらしい。溜息を吐きながら、長手袋だけは静かに外した。
日焼けや染み一つ無い、真っ白な手が晒される。何気なく視線をやった藍は、目を丸くした。
歳月も、辛苦も、幸福も、何一つ表われていない。
無垢。
言い様の無い、高揚に似た感情が背中を走り抜け、藍は小さく身震いする。
「お持ちします。」
手袋を受け取る振りをして、動揺を掻き消そうとした。声が幾分か、上擦る。
「あら。ありがとう。」
拒まず、紫は手袋を差し出した。
陽に当たって、その細い指はまるで発光しているかのように白く照る。
眩しい。
何度も見たことのあるはずの光景だというのに、今日は特別、眩しく感じる。
この細くて無垢な手は、あらゆる“世界”を壊し、構築出来る。まるで児戯の様に。
眩んだのは、目か、心か。
藍は、紫の手を握って離さなかった。
柔らかく、冷たい手。
己の熱に、ゆっくりとその冷たさが染み込んでくる。
心地好い感覚だった。
「藍。」
紫の声が掛かる。やや硬質で、藍に命じる時の声色だった。
藍の視界が、急に明瞭になる。
己の手が主の手袋ではなく、掌を握っていることに気付くのに、随分と時間がかかった。
今度こそ、藍は取り乱す。
「御無礼を。」
掠れた声で、手を離す。奪う様にして手にした手袋を危うく落としそうになって、身を屈めた。
繋いでいた手が、熱い。
頬も、熱い。
見惚れていた。主に。ただ手が白いというだけで。
そうして己の仕事を放棄していた。主を守護するという仕事を、僅かな時間であれ、手放していた。
式神としてあるまじきことをしでかした罪悪に、藍の顔は文字通り血の気が引いてみるみる青褪める。
一方、紫は冷静だった。
「どうしちゃったのかしらね、私の式神は。」
小さく笑って、紫は藍に向かって扇子を煽ぐ。
「申し訳ありません、紫様。」
藍は立ち上がり、主の前で拳を組んで跪いた。
「御手が、」
「手?」
「はい。」
「あら、何かついていたかしら。」
静かに微笑む紫の眼が、きらりと光った。
言葉の先を促している。
藍はそう思った。
枯れそうな喉が、音を立て唾を飲む。
「斯様にも華奢で美しい手が、境界を無くす大いなる力を持っているという二つの事実に、感嘆していたのです。」
率直な想いだった。言葉の最後の方は、掠れて震えてしまった。
蝉が鳴く。
縁側の影の中で微笑む主の瞳は、獰猛な色を湛えていた。跪く藍には、この時見えなかったが。
扇子を閉じる乾いた音がした。
するとその扇子が目の前に現れ、藍の顎を引き上げる。主と強制的に目が合った藍は、再び喉を鳴らした。
「上手になったこと。この口は。」
紅い双眸に見据えられ、息が止まりそうになる。言葉は鼓膜をゆるりと掴み、やがて心臓を締め付ける。
扇子が下ろされ、視線はそのままに縁側の淵へ置かれた。
「私の力が矮小とは言わないけれど、誰にだってその才はあるのよ。」
そう、例えば。
紫は握られた藍の拳に手を載せた。
先程感じた冷たさが、手の甲に伝わる。
「さっきみたいに、握って頂戴。」
主の命に、藍は目を白黒させた。
手を握れば、先程の様に妙な気を起こさないとも限らない。主の意図もわからない。此処は博麗神社だ。麦茶を取りに行った霊夢も、もうすぐ戻って来るかも知れない。
目でそれを訴えると、紫の更なる眼圧が藍を制止させた。“いいから握りなさい”と、無言で言われている。従わざるを得なかった。
組んだ拳を解き、甲に載せられた手の上に、もう一方の手を重ねる。遠慮がちに、柔らかく冷たい手を握りこんだ。
少し、自分の方が手は大きいだろうか。汗ばんだ手で主の手に触れるなど恐れ多く、こちらの手が冷たくなってしまいそうだと藍は思う。
だが、ひんやりと冷たい主の手は、やはり心地好い。
じわりじわりと、己の熱と紫の冷感が混ざり合う。分け合う体温。徐々に脈も感じられるようになってきた。
穏やかな鼓動。主の手を握るという事態に胸は高鳴っていたが、この鼓動は体温と共に藍に得も言われぬ安堵をもたらしていった。
鼓動が重なる。
手の重なった部分が、温かみも冷たさも感じなくなっていった。
蝉の鳴き声が遠い。
現に居るという感覚が薄れていく。
眩暈が起きそうな浮遊感。
二つの手が、融ける。
「ほら。」
優しい声が、耳をくすぐった。紫の声だ。
「貴女と私の境は、僅かながらではあるけれど、今、混ざり合っているのよ。」
紫は瞼を閉じて続けた。
「全体で云うところの本当に微量でしかないけれど、でも私達は今、手と手の細胞が確かに混ざり合っている。わかるでしょう、この感覚が。」
藍は驚愕した。だが、紫の言う通り、混ざり合う感覚は今も侵食し、深く繋がっていることがはっきりと知覚出来る。まるで融ける様に。
「貴女は私のことを大変尊敬してくれているし、畏怖も抱いている様だけれど、現実はこうよ。
私の手も、貴女の手も、こうやって一つになれる。境とは、こうも簡単に無くなる。」
長い睫毛の下から、緩やかに紅い目が覗く。
金の双眸は紅を見詰め、しばしこの時に身を委ねていた。
紫と今、一つになっている。実に簡単な方法で。
それがどれほど素晴らしいことで、恐ろしいことであるか。藍は頬が緩んでいくのを感じた。
「光栄です。我が主。」
跪いたまま、主の手の甲に唇を落とす。
蝉が鳴き始めた。
陽も高く昇り、肌に熱気が刺さる様に感じる。
紫は満足そうに笑うと、藍の頭を撫でた。
「よろしい。この緩慢な時をどう生きるか、私も貴女もこれからね。」
「境が失われる程、夢中になれる様な日々をお届けしたい所存です。」
「あら。それは頼もしいわね―――随分立派な口を利いたのだから、必ず実行すること。良いわね。」
「御意。」
それが出来るのは他ならぬ自分だけであると胸を張れるよう、新たな忠誠を再び組んだ拳を掲げ、主に誓ったのだった。
境は無くなる。
いとも簡単に。
【了】
『境界(きょうかい)』―――土地のさかい。物事のさかい。
八雲紫という妖怪がいる。
彼女は、その境界を司ることが出来る。
金の髪、鮮血を解いた双眸。
幼い顔立ちであるが、瞳に揺らめく妖艶さは年輪を重ねた奥深さを湛え、捉われた者は一様に息を呑む。やや低い、だが張りのある声は鼓膜を緩やかに揺さ振り、流水の様な身のこなしは時が止まった様な錯覚に陥る。彼女は幻想郷創造に深く関わる妖怪だ。気の遠くなる様な年月を、その類い稀な力と頭脳を以て構築していった。
彼女は、幻想郷に於いては、“どんなものの境界も自在に操る”ことが出来る。文字通り、どんなものでも境を無くしたり、作ったりすることが出来るのだ。物などの物質的な存在は勿論、事象についても、まるで性質の異なる物同士の境を操ることが出来る。空想と現実の境でさえも、彼女の細い手にかかれば、繋ぎ目も無く綺麗に境を取り払い融合することが出来る。反対に、現実を空想にわけることも出来るのだ。
神と呼ばれる存在が斯様な芸当が出来ると書物に書かれていたことが、紫は妖怪の中でいかに異質であるかを証明していた。
そんな大妖の彼女の下に付く妖怪は、意外にも少ない。
八雲藍。
妖狐である。
尾は九つ。金色のそれはまるで焔の様に揺れ、両の眼も、髪も、同じ焔を静かに灯している。
紫が長髪の金髪に対し、藍は項のあたりで切り揃えており、藍の方がやや陽に焼けて時折茶に光っていた。
主よりも小柄だが、そこいらの妖に指一本触れさせる隙も与えない力量を持っている。紫に比べれば生きた歳月は赤子の様なものだが、万の時を刻んだ瞳の鋭さは紫に通ずるところが見られた。
藍は式神の身分でありながら、自身も式神を使役することが出来る。頭脳明晰で、難解な数式は彼女の得意とする分野だ。しかし、これらも主の方が優に勝り、彼女の護衛と言うより雑用を任されている所が強い。式神の用途として尤もらしい使役の仕方ではあるが。
藍は己の主と役目に誇りを持っている。
八百万の妖怪の中でも、最高峰に立つ大妖の式神として選ばれた。紫に匹敵する実力の妖怪は確かに居る。だが、その中でも紫に手を差し伸べてもらえたことが、藍は誇らしかった。
紫は、どの妖怪よりも美しい。藍はそう思ってやまない。
数え切れない、気の遠くなる様な歳月を越えてなお、心は淑女と少女の面を併せ持つ。子どもの様な悪戯は時にささやかで、時に世界を巻き込む大掛かりなものだが、本人は全て“遊び”と称しているので呆れる者の方が多い。振り回される藍も時に困惑と溜息が入り混じるのだが、その度に主の思慮深さや思考の奥深さを目の当たりにし、感嘆するのである。
そのような主を、藍は慕っている。
華麗な装い。フリルとリボンをふんだんに取り入れた衣装は実に女性らしく、華やかな主にはよく似合っていた。いつも着用している長い手袋から覗く腕の白さは、目が眩む程悩ましい。
あの手に触れる物は、己を見失う。境を失くして。
きっと自分も、あの手に触れたら己を見失うのだろう。
ぼんやりとそのようなことを考え、計算の手をとめることもしばしばであった。
「暑いわね。」
夏の日差しは、幻想郷にも降り注いでいた。
肌に纏わりつく様な熱気に、藍も己の上等な毛皮が憎らしく思う。紫は扇子を仰ぎながら、博麗神社の縁側に座していた。
数刻前のことである。この神社の神子・霊夢に用事があると言って紫は屋敷から力を使い、此処まで移動した。急な来訪もすっかり慣れっこのなっていた霊夢は“隙間”から訪れた紫と藍の姿に別段驚く様子も無かったが、やや怪訝な表情をしていた。そんな霊夢の態度を意に介すことなく、紫は着いて早々冷たい麦茶を催促するあたり、力も奔放さも妖怪一ではなかと、藍は小さく溜息を吐いた。
やや揉めたが、今は霊夢がしぶしぶ麦茶を取りに行ったところである。
境内の蝉が、ひしめき合う様に鳴く。
木々や花に水を撒いたのだろうか。土や砂利がそちこちで水気を含み、葉は水滴を載せてきらきらと光っている。雨後のにおいに似た空気が感じられた。風のひとつでも吹けば涼しいものだが、それは望めそうに無い様だ。
どんなに暑い日でも、紫は服装も身だしなみは崩れない。肌の露出も、極力抑えている。暑いと言いつつ、汗の一つもかいていなかった。
しかし、流石の紫でも真夏の日差しには耐えられなかったらしい。溜息を吐きながら、長手袋だけは静かに外した。
日焼けや染み一つ無い、真っ白な手が晒される。何気なく視線をやった藍は、目を丸くした。
歳月も、辛苦も、幸福も、何一つ表われていない。
無垢。
言い様の無い、高揚に似た感情が背中を走り抜け、藍は小さく身震いする。
「お持ちします。」
手袋を受け取る振りをして、動揺を掻き消そうとした。声が幾分か、上擦る。
「あら。ありがとう。」
拒まず、紫は手袋を差し出した。
陽に当たって、その細い指はまるで発光しているかのように白く照る。
眩しい。
何度も見たことのあるはずの光景だというのに、今日は特別、眩しく感じる。
この細くて無垢な手は、あらゆる“世界”を壊し、構築出来る。まるで児戯の様に。
眩んだのは、目か、心か。
藍は、紫の手を握って離さなかった。
柔らかく、冷たい手。
己の熱に、ゆっくりとその冷たさが染み込んでくる。
心地好い感覚だった。
「藍。」
紫の声が掛かる。やや硬質で、藍に命じる時の声色だった。
藍の視界が、急に明瞭になる。
己の手が主の手袋ではなく、掌を握っていることに気付くのに、随分と時間がかかった。
今度こそ、藍は取り乱す。
「御無礼を。」
掠れた声で、手を離す。奪う様にして手にした手袋を危うく落としそうになって、身を屈めた。
繋いでいた手が、熱い。
頬も、熱い。
見惚れていた。主に。ただ手が白いというだけで。
そうして己の仕事を放棄していた。主を守護するという仕事を、僅かな時間であれ、手放していた。
式神としてあるまじきことをしでかした罪悪に、藍の顔は文字通り血の気が引いてみるみる青褪める。
一方、紫は冷静だった。
「どうしちゃったのかしらね、私の式神は。」
小さく笑って、紫は藍に向かって扇子を煽ぐ。
「申し訳ありません、紫様。」
藍は立ち上がり、主の前で拳を組んで跪いた。
「御手が、」
「手?」
「はい。」
「あら、何かついていたかしら。」
静かに微笑む紫の眼が、きらりと光った。
言葉の先を促している。
藍はそう思った。
枯れそうな喉が、音を立て唾を飲む。
「斯様にも華奢で美しい手が、境界を無くす大いなる力を持っているという二つの事実に、感嘆していたのです。」
率直な想いだった。言葉の最後の方は、掠れて震えてしまった。
蝉が鳴く。
縁側の影の中で微笑む主の瞳は、獰猛な色を湛えていた。跪く藍には、この時見えなかったが。
扇子を閉じる乾いた音がした。
するとその扇子が目の前に現れ、藍の顎を引き上げる。主と強制的に目が合った藍は、再び喉を鳴らした。
「上手になったこと。この口は。」
紅い双眸に見据えられ、息が止まりそうになる。言葉は鼓膜をゆるりと掴み、やがて心臓を締め付ける。
扇子が下ろされ、視線はそのままに縁側の淵へ置かれた。
「私の力が矮小とは言わないけれど、誰にだってその才はあるのよ。」
そう、例えば。
紫は握られた藍の拳に手を載せた。
先程感じた冷たさが、手の甲に伝わる。
「さっきみたいに、握って頂戴。」
主の命に、藍は目を白黒させた。
手を握れば、先程の様に妙な気を起こさないとも限らない。主の意図もわからない。此処は博麗神社だ。麦茶を取りに行った霊夢も、もうすぐ戻って来るかも知れない。
目でそれを訴えると、紫の更なる眼圧が藍を制止させた。“いいから握りなさい”と、無言で言われている。従わざるを得なかった。
組んだ拳を解き、甲に載せられた手の上に、もう一方の手を重ねる。遠慮がちに、柔らかく冷たい手を握りこんだ。
少し、自分の方が手は大きいだろうか。汗ばんだ手で主の手に触れるなど恐れ多く、こちらの手が冷たくなってしまいそうだと藍は思う。
だが、ひんやりと冷たい主の手は、やはり心地好い。
じわりじわりと、己の熱と紫の冷感が混ざり合う。分け合う体温。徐々に脈も感じられるようになってきた。
穏やかな鼓動。主の手を握るという事態に胸は高鳴っていたが、この鼓動は体温と共に藍に得も言われぬ安堵をもたらしていった。
鼓動が重なる。
手の重なった部分が、温かみも冷たさも感じなくなっていった。
蝉の鳴き声が遠い。
現に居るという感覚が薄れていく。
眩暈が起きそうな浮遊感。
二つの手が、融ける。
「ほら。」
優しい声が、耳をくすぐった。紫の声だ。
「貴女と私の境は、僅かながらではあるけれど、今、混ざり合っているのよ。」
紫は瞼を閉じて続けた。
「全体で云うところの本当に微量でしかないけれど、でも私達は今、手と手の細胞が確かに混ざり合っている。わかるでしょう、この感覚が。」
藍は驚愕した。だが、紫の言う通り、混ざり合う感覚は今も侵食し、深く繋がっていることがはっきりと知覚出来る。まるで融ける様に。
「貴女は私のことを大変尊敬してくれているし、畏怖も抱いている様だけれど、現実はこうよ。
私の手も、貴女の手も、こうやって一つになれる。境とは、こうも簡単に無くなる。」
長い睫毛の下から、緩やかに紅い目が覗く。
金の双眸は紅を見詰め、しばしこの時に身を委ねていた。
紫と今、一つになっている。実に簡単な方法で。
それがどれほど素晴らしいことで、恐ろしいことであるか。藍は頬が緩んでいくのを感じた。
「光栄です。我が主。」
跪いたまま、主の手の甲に唇を落とす。
蝉が鳴き始めた。
陽も高く昇り、肌に熱気が刺さる様に感じる。
紫は満足そうに笑うと、藍の頭を撫でた。
「よろしい。この緩慢な時をどう生きるか、私も貴女もこれからね。」
「境が失われる程、夢中になれる様な日々をお届けしたい所存です。」
「あら。それは頼もしいわね―――随分立派な口を利いたのだから、必ず実行すること。良いわね。」
「御意。」
それが出来るのは他ならぬ自分だけであると胸を張れるよう、新たな忠誠を再び組んだ拳を掲げ、主に誓ったのだった。
境は無くなる。
いとも簡単に。
【了】
今回は手を合わせていましたが、それだけでも十分です。
少し緊張しながら読んでいました。何と言いますか、橙になった気持ち。
静かな文の中から信頼や親愛というものが感じられて、いいですね。
投稿されてから大分経っていますのでおそらくこのコメントは投稿者様の目には入らないかと思いますが、
>この神社の神子・霊夢~
巫女、が正しいので良いんですよね……?