我が最愛の妹、古明地こいしに特別な人が出来た。
私がその世紀の大悲報を知ったのは、お燐と一緒におやつのパンケーキを食べていた時だった。
「も、もう一度言ってくれるかしら、お燐……」
いや、正確にはお燐は何も言っていない。最近こいしはよく地上に出かけているようだという、私の何気ない問いかけに対して、彼女はまだ何一つ答えていない。けれど、彼女が心に浮かべたそのイメージは、間違いなく私にそう告げていた。こいしに特別な人が出来たという、この世の終わりに匹敵するカタストロフを。
「もう、いやですよさとり様。心を読むのは構いませんが、何のことかちゃんと言ってもらわないと」
「あ、え、こ、こ、こいしの話よ。あ、あなたが一瞬思い浮かべたそれ。もう少し詳しく教えてくれないかしら……?」
「ああ、そのことですか」
震える私の声と、あっけらかんとしたお燐の声。慣れたもので、彼女は心を読まれたことに驚いたりなんてしない。その程度には、私たちの付き合いも長い。けれどそれは、互いの様子に無頓着になるということでもあり、事実、私がいま喰らっている衝撃の大きさに、彼女が気付いた様子はない。というより、お燐は全く勘違いをしている。事の重大さが、まるでわかっていないようだった。
「むふふ、やっぱりさとり様も気付いちゃいます? こいし様、最近浮かれてるっていうか、はしゃいでるっていうか。ちょっと様
子が変わりましたよねえ。少し前から、あたいたちの間ではかなり噂になってたんですよ。たまにどきっとするほど色気を感じる時もありますし、これはもう、アレだなと」
「な、ななななな、何を馬鹿な!」
じゃあなにか。ナニがアレして肌にハリが出るとかそういうあれだとでも言うのか。私ですらまだ何もないのに。
こんな馬鹿な話、私の聞き間違いに違いなかった。あるいは、心の読み間違い。そう、誰にだってうっかり失敗してしまうことはあるものだ。落ち着けさとり。落ち着いて、しっかりと耳を澄まして、お燐の話をもう一度聞くのだ。きっと、他愛もない勘違いだったというオチが付くに決まっている。
「それでー、この前あたいがこっそり後を付けてみたんですよ! そうしたら、えっへへ。なんとですね。ちょっとだけ年上なのかな? よくわかりませんが、こいし様ったらすっごくかわいい子とデートしてたんですよ!」
きゃーと黄色い声をあげるお燐。
ぎゃーと声にならない悲鳴をあげる私。
くねくねと身体をよじらせながら語るお燐から顔を背けて、心の中で思いつく限りの悪態をつく。違う、違う。お燐のそのリアクションは、違う。これはそういう恋ばな的なものではない。そんなに軽いノリですむ問題ではない。むしろ圧倒的にどす黒い何かだ。いかにも地底っぽいそういうのだ。それを大声でぶちまけようとして、すんでのところで思いとどまる。仮にも私はお燐の飼い主であり、さらに言えばこの屋敷の主人でもある。その私が、そう簡単にみっともない姿を晒すわけにはいかなかった。いわゆるクールビューティであるところの古明地さとりには、常に冷静であることが求められているのだ。
「と、ところでお燐。相手はどこの誰なのかしら。もし知っているなら、住処とかどういう特殊能力があるのかとか、洗いざらい
吐きなさい」
「なんで声裏返ってるんですか? というかさとり様怒ってません?」
「お、怒ってなんていないわ。私を怒らせたら大したものよ。って、そんなことはいいから、相手の事は知っているの? 知らないの? どうなの?」
ふぁさっと髪をかきあげ、平静を装いつつお燐に食い下がる。
とにもかくにも、私には是が非でもその相手を知っておく必要があった。古い兵法の教科書にも、敵を知り、己を知ればなんとかと書いてある。ひょっとしたら恋敵になるかもしれない相手の情報を集めておくことは、とてもとても大事なことだった。なぜなら私は、絶対にその戦争に勝たなければならないのだ。もし万が一。万が一にも負けることがあれば、そのとき私は――
錯乱する頭。既に正常じゃない思考。心の奥底で、これはいけないと囁く声もあった。けれどこの、心中で吹き荒ぶ黒い奔流には抗えない。なぜならこれはそのままそっくり、愛情の裏返しなのだから。長い長い時間をかけて溢れるほどに蓄積された、私のこいし愛そのものなのだから――
「うにゅ。さとりさまー」
そのとき、そんな私の思考を遮るように、扉の向こうから声がした。やや遅れて部屋の扉が開き、おくうが顔を覗かせる。
「あ、あら、どうしたのおくう」
「お客様だよ。さとりさまに」
その台詞に、大いに混乱しながらも、どうにかおくうに向き直る。まだ気持ちの悪い冷や汗は止まっていないけれど、一つ、息を吐いて頭を振る。気持ちを、切り替える。そうして考えてみると、今あまりこいしの話を引っ張るのは良くないように思われた。なぜならあれは、まだ精神的に幼いおくうに聞かせるにはアダルティが過ぎる。なにしろ私にすら刺激が強すぎるのだ。ましてやおくうには百年早い。彼女に必要なのは良質な環境であり、それを用意することは私の義務なのだ。頭が悪くてもいい、健やかに育って欲しい。
「そう。お客様だなんて珍しいわね」
だから。というわけではないけれど、にっこりと笑っておくうに応える。それに、こいしのことで動揺しているのは確かだけれど、客が来たと言う珍事にも興味はあった。
詳しく話を聞こうと、手招きをしておくうを呼び寄せる。彼女が、心底嬉しそうにこちらに駆け寄ってくる。しかし、彼女の塞いでいた扉の後ろには、既に別の人影があった。どうやらおくうは、既に客をここまで案内していたらしい。やや驚きつつも立ち上がり、まだよく見えないその顔に目を凝らす――
「――パルスィ? それと――」
「はじめまして。こうしてお会いするのははじめてですね。私、永江衣玖と申します――」
顔見知りでもある地底の姫と、もう一人。永江と名乗った彼女は慇懃に頭を下げると、続けて笑顔で言い添えた。
「――私たちは、あなたを迎えに参りました」
※
※
※
地霊殿の客間は、ひどく殺風景な場所だ。
どっしりとした、丈の低いテーブルが一つに、相対して置かれた茶色いソファ。ほとんど物の入っていないいくつかの棚。花
もなければ絵画もなく、ヒトの出入りも滅多にない。生物に喩えるなら、息をしていない。言ってみれば、死んだ場所。
しかしこの日。その死んだと思われていた目立たない部屋は、本当に久方ぶりに息を吹き返していた。それが私にとって歓迎すべきことなのかと言うと、間違いなく否なのだけれど。
「まあ。私、こんな薄いお茶を飲んだのは博麗神社以来です」
「というか白湯でしょ、これ」
まったく忌々しいことに、突然やってきた衣玖とパルスィは、客間でも傍若無人に振舞っていた。ぬるい白湯だけでは足りなかっただろうか。早く帰れという、控えめな私の精一杯の意思表示も、彼女たちの前では皮肉にもなりはしない。というよりむしろ、二人のかしましさに火をつけてしまっただけという気もする。うるさい。実にうるさい。私が無言で非難の視線を送っているというのに、ぎゃあぎゃあと喚きたてるのをやめる気配は一向にない。普通こういう場所では畏まるものじゃないだろうか。しおらしくなるものじゃないだろうか。まだ何も始まっていないというのに、既に頭痛がとんでもないことになっている。しかしだからといって、さっさと話を進めるのも気乗りしない。なぜなら、この二人は相当に下らない、はた迷惑な提案を持ち込んできているからだ。お燐とおくうを自室に帰したのも、はっきり言ってそれが原因。万が一にも知られるわけにはいかないし、私だって基本的に聞く耳を持つつもりもない。どうにかして、穏便にお帰りいただく方向に持っていきたいところだった。
「ほ、ほ、ほーたる来い。こっちの水はあーまいぞ」
「へい!」
「あっちの水はにーがいぞ」
「へい!」
だというのに、異常なテンションで跳ね回る二人は、手を叩きながらおかしな歌まで歌っていた。時折、ちらちらとこちらを見るのがこの上なく鬱陶しい。やっぱりおくうを呼んできて、力ずくでお帰り願おうか。
「――それで、繰り返しになりますが、今日はあなたに会いに来たのです」
しかし私がそんなことを思案しているうちに、突然真面目な顔に戻った衣玖が、あっさりと話を切り出した。今の今まで馬鹿やっていたくせに、こちらから話を進める気がないと見るや、この変わり身の早さ。空気を読む読まないではない。そも読む気がない。皆無。そして腹立たしいことに、悪気も皆無。むしろ、いくら心を覗いても、彼女たちの中に悪意はまったく見当たらない。むしろ湧きあがる喜びに打ち震えているといった方が近いほどだ。その無自覚さがまた、私には最高に我慢ならなかった。
「ど、どういうことでしょうか……」
嫌々ながら、話をあわせる。本当は、彼女たちが何をしに来たかなんて、とっくの昔に把握していた。心なんて読まなくてもわかる。いや、既に読んでしまったからそれを言うのは適切ではないのだけれど。彼女たちは要するに――私を勧誘しに来たのだ。
「時として、想いは時間も空間も飛び越える。シンクロニシティというやつです」
「あんたもないとは言わせないわよ。ふっとした瞬間に匂ってくる同類の空気! すれ違っただけでわかる直感! あ、こいつは――! で全て事足りる、超常的な第六感!」
「あ、ありません、そんなの……」
ああ、やめろ。そんな目で私を見るな。その先を、言うな――
けれど私の不自由な目は、既に二人の心を丸裸にしていた。
仕事上がり。狭くて汚い、もういつ掃除したのかもわからない部屋で一人、ビールとつまみで寂しさを癒す一人の女性。
ずっと昔から。失恋の痛みをそのまま引きずり、今もいじけたまま橋のたもとに佇む緑目の女性。
そして――暗くひっそりとした地底の屋敷。物言わぬ動物たちを唯一の支えとして、じっと息を潜め続ける女性。
さっき私が想像したものとそっくり同じ。こいしが嫁いでいなくなってしまった場合の、暗黒の未来像が彼女たちの中にもはっきりと共有されている。いや、経験者ゆえの切迫感と現実感か。私の甘っちょろい想像以上の壮絶さで迫ってくる。身寄りのない、近所でも変わり者として有名なおばちゃんみたいに、見境なく家に動物を連れ込む痛々しい私。全てのペットをちゃん付けで呼び可愛がりつつも、その中で絶対君主として振舞う私。あまりのしんどさに、彼女たちの心を、その中にいる私を、直視できない。
「や、やめて! そんな私を見つけないで!」
「何を恥ずかしがることがあるのです」
「本当の自分を解放するのよ。そうすれば楽になれるわ」
「慣れてきたら、むしろ気持ちよくすらなれます」
「い、いや……」
「さあ」
「さあ!」
「いや、やめて――」
迫り来る魔の手。
私をダークサイドへと導く、邪悪な手。
「い、い――いっ、いい加減にしなさいっ!」
私はそれから逃げ惑いながら、思わず絶叫していた。と同時に、思い切りテーブルを叩いて威嚇する。
しかしそんな必死の抵抗もどこ吹く風。目の前の二人が怯んだ様子は全くなく、むしろ私の方が肩で息をしている有様だった。眩暈で頭もくらくらする。なるほど。心に受けるダメージとは、かくも深刻なものなのか。だとしたら以後、私は接するみんなにとびきり優しくなろう。この痛みを知ってしまったら、もはやそうせざるを得ない。
「わ、わた、わたしは、そんなことにはなりません! あなたたちみたいになんか、絶対!」
「なるわ」
「ならない!」
「我々の嗅覚を舐めてもらっては困ります。悪いことは言いません、共に運命を受け入れ、歩んで行こうではありませんか」
「そ、そんな運命になんて絶対負けない! 一緒にしないで!」
けれど私の抵抗は、いつの間にか相手への罵倒にまで及んでいた。ついさっきの優しくなる宣言なんて、完璧に嘘。出来心未満の気の迷いだ。
しかし、さすがにこの言い草には向こうもカチンと来たらしい。やや言葉を荒げながら、パルスィが口を開く。
「言ってくれるわね。じゃあそれを証明してもらおうかしら」
「ど、どうやって?」
狼狽した私の返しに、にやにやと笑いあう衣玖とパルスィ。不気味すぎて、思わずぞわぞわと鳥肌が立つ。またしても良くない予感が頭をよぎる。
それを打ち消そうと、なんとか言葉を絞り出しかけたその時。またしても私の出鼻を挫くように、衣玖が言い放った。
「では、それを証明しに参りましょうか」
「え、どこへ……?」
「決まってるでしょ、地上よ」
あまりにも、あまりにも無慈悲なその提案。彼女たちの台詞に、私は出掛かっていた言葉を飲み込んで、呆然と立ち尽くした。これはもう、私のセンシティブなハートの扱い方を知らない、無骨なグーパンチと言っても過言ではない。魂への腹パンだ。
「はっ、橋姫が、そんな簡単に地上に出ていいのかしら……?」
「構わないわ。新しい橋姫が生まれるかもしれないしね」
くすくすと笑うパルスィ。
「妹さんの様子をその目で見て、しっかりと自分と向き合うのです。その上で――」
そこで言葉を止める衣玖。その先を口にする気配はない。心を読み、絶句する。あろうことか、この二人は、その上で私がどこまでこの態度を貫けるかテストするつもりなのだ。
なんて残酷!
なんて非道!
ショックを通り越して、私の中にはふつふつと怒りすら湧きはじめていた。その激情に任せて、顔を上げる。睨みつける。私たち姉妹の絆も見くびられたものだ。今日はじめて、二人の恐怖に慄いた表情を見て、私は勝利を確信した。私たちが積み重ねてきた時間と想いは、こんなしみったれた仲間意識になんて絶対負けない。
「あは、あははっはあ」
おかしな笑い声が漏れた。
「ふふ、ふふふふふ」
パルスィと衣玖も笑っていた。
その笑い声はどこまでも湿っぽい空気を含んでいて、まるで出来の悪いメロドラマのようだと私は思った。
※
※
※
こいしは、夕日が見える美しい丘で私を待っていた。
やはり、こいしは私のこいしだったのだ。その証拠に、ほら。きょろきょろと周りを見ては、何かを探しているではないか。今か今かと、私を待っているに違いない。ああ、待っててこいし。お姉ちゃんいま行くから。すぐにあなたを抱きしめるから。
「あなたじゃありません」
「は、離して。こいしー、こいしー」
私は身を潜めていた茂みから飛び出し、三十歩ほど離れた妹の居る場所へと、一目散に駆け出そうとした。しかし、そんな私の首根っこを捕まえて、恋路を邪魔してくる性悪妖怪がいる。死ね、死ねと呟きながらそれを振り払い、すわ全力ダッシュと意気込んだその瞬間。
「ほら。来たわよ」
もう一人の悪玉、パルスィが低い声で言った。
「ちょ、ちょっと! 誰ですかあれ! こっ、こいしもそんな、なにやってるの!」
叫ぶ。と同時に慌てて隠れる。突如現れた珍妙な妖怪。それに一目散に駆け寄り、にこにこと笑いながら手を握るこいしの姿に、私は言葉では言い尽くせないほどのショックを受けていた。
そんなはずはない。こいしが、私以外にあんなことをするはずがない。私はこいしが生まれた時から今日に至るまでの、パンツのローテーションまで全て把握しているのだ。その私を差し置いて、他にねんごろになる相手なんて存在して良いはずがない。
「認めない! 絶対認めない! というか、誰ですか、あれ! 何か知ってるなら吐きなさい!」
「彼女があなたの妹さんの特別な人。秦こころさんです」
「嘘よ!」
「あれを見ても、そう言えますか?」
「な、なにを……あっ!」
私たちが不毛な言い争いをしている間に、二人はいつの間にか小さなベンチへと移動していた。仲良くそこに腰掛け、笑いあいながら何かを話している。小さなベンチ。綺麗な夕日。その二人のシルエットが、重なって私たちの方へ伸びてきている。そして腹立たしいことに、あまりにベンチが小さすぎるということに今さら気付く。小柄な二人だというのに、肩と肩は完全に触れ合っている。あのチェックシャツ。絶対に許さない。私のこいしに、あんなにぴったり密着するなんて。
「……というか、二人用のベンチって言う存在がそもそも許せない。作った奴は死ねばいいのに」
「同感ですね。公園はみんなの場所です。そんな用途が限られるようなもの、置く必要性がまったく見当たりません」
あとで破壊しましょう、そう頷きあう二人はこの際無視だ。私とて二人の言い分に異論はないのだが、今はそんなことを言っている場合ではない。
あんなに近づいて。
あんなに仲良さそうに。
あの二人は、一体何を話しているのだろう。気になって仕方がない。ひょっとして、姉の悪口なんて言っているのではないだろうか。
「うちのお姉ちゃんマジ過保護でちょーウザイんだけどー」
「えー、マジー? シスコンちょーきもーい」
「へ、変なアテレコはやめなさい! ぶっ飛ばすわよ」
「さとり。あんたには言ってなかったけど、私の耳って、そこらの妖怪よりずっと良いのよ。見ての通り、長いし」
「えっ、うそ。それじゃ今のは――」
「まあ嘘だけど」
「――っ」
一瞬にして頭に血が上り、あと一歩のところまで手が出かかる。が、今はそんな、下らないことに構っている場合ではなく、渾身の思いを込めて舌打ちをするに留める。殴り合いの喧嘩をするより、ずっとずっと大事なことが私にはあるのだ。
どうにかして、あの二人を止めなくてはならない。
このまま甘いばかりの青春を突っ走らせるなんて、死んでも許さない。
だが、いったいどうすれば――
「み、見てください。よく見たらあの二人、お互いに手を――!」
「う、うわあああああああ」
「しかもあの握り! 指と指が完全に絡み合って――!」
「い、いやあああああああ」
もう沢山だ。もう十分だ。恋人つなぎなんて、都市伝説だとばかり思っていた。それをまさか、妹が公衆の面前でやっているなんて。
私の目からは、知らないうちに涙が溢れてきていた。見ると、衣玖とパルスィも必死に涙を堪えているようだった。パルスィにいたっては、噛み締めた奥歯が、ぎりぎりと音を立てている。衣玖も黙りこんではいるが、拳は血管が浮き出るほどにきつく握り締められている。まるでいつか漫画で見た、拳王のそれのようだ。あの拳には、きっとこれまでの彼女の人生の苦味が、丸ごと込められているに違いない――
もし私たちの様子を離れたところから眺めている者がいたら、昏いオーラが膨れ上がっていくのを目の当たりにしたことだろう。しかし、そのオーラは膨らみきる前に流されて、立ち消えた。突然、とても強い風が吹いたのだ。
なびくこころの長い髪。その柔らかそうな波に少しだけ触れて、こいしの帽子が飛んでいく。幸い風はすぐにやみ、そう遠くには行っていない。しかし、この風は大自然のファインプレーに違いなかった。その帽子を取ろうと、こころが席を立ったのだ。
「うわ優しい! 彼女の帽子を拾いにすぐに走り出すなんて! 死ねばいいのに!」
パルスィが叫ぶ。
「それに見てください。あのこいしさんの幸せそうな顔。後ろ姿を見送るはにかんだ笑みは、まさしく恋する少女のそれ! 死ね
ばいいのに!」
衣玖も叫ぶ。
しかし私としたら、二人の手が離れたというのが今もっとも大事なことだった。これはチャンス。大チャンスだ。偶然舞い込んだこの好機を利用して、なんとかこいしを我が手中に取り戻すのだ。風船スカートめ。調子に乗るのもここまでだ。今この瞬間から、私のターンが始まる。ライフがゼロになったって許してはやらない。
決意も新たに、私は一目散にこいしの元へと走り出した。こいし。こいし。私のこいし。最愛の妹を、どこの馬の骨とも知れない奴に奪われてなるものか。一心不乱に、走る。ベンチが近づく。そこにいるこいしに、飛びつく――
「あれ?」
けれど、こいしはもうそこにはいなかった。慌てて辺りを見渡すと、ようやく帽子を拾ったらしいこころが、こいしにそれをかぶらせている。どうやら私が真っ直ぐベンチを目指している間に、こいしは仮面妖怪を追いかけて移動していたらしい。二人は、そのまま正面から向き合って佇んでいた。言葉はない。ただ黙って、見詰め合っている。ああ、いけない。これはいよいよもって、いけない。これじゃ、もう完全に――
「掬い取ろうとすると、指の間からするりと逃げていくものなんですよ。幸せというのは」
「つか、狭いわねこのベンチ」
「そ、そんなことより、このままじゃ二人が、もう、もう――」
いつの間にかベンチに座っていた衣玖とパルスィに、涙目で訴えかける。人攫いよろしく、こいしを抱きかかえてそのまま地底に連れ帰るつもりだったのに、これではもう間に合わない。あわあわと、指をくわえてみていることしか出来ない。
「落ち着きなさいよ、振られ妖怪」
それはお前だろと思いながらも、言葉にならない。視線の向こうでは、とうとうこいしとお面妖怪がぴったりと密着していた。完全に、体勢が決まった。流れも決まった。もう数秒後の展開を、どうしたら覆せるだろうか。わからない。わからなくて、気ばかり焦って、気が狂いそうになる。
「な、なんて大胆な。もうほぼくっついてますよ! 完全に密着ですよ!」
「これ入ってるわよね。完全に入ってるわよね!」
うるさい。こいしに入れるものなんてない。それとも何か。入るものでも装備しているとでも言うのか。そんな育て方をした覚
えは断じてないし、そんなもの屋敷内には置かないようにしているのに。どこで手に入れたというのだ。
「ああ! ああ!」
「こいしさんが目を閉じた!」
うるさい。こいしの目はずっと前から閉じている。いやわかっている、そういうことじゃない。くそと心中で呟いて、真っ赤な目で、顔を上げる。こいしが大人の階段を上るというのなら、私はその旅立ちを見届けなくてはならない――
視線の先で、こころが心を決めたような、無表情だけどなんとなく男前な表情をしていた。
「私が後生大事に抱えてるものを、あんな小さい子が捨てようとしているなんて!」
「私が死んでも得られなかった夢を、こんな簡単に手に入れる奴がいるなんて!」
「死ねば良いのに!」
「死ねば良いのに!」
ベンチの二人は絶好調。悔しがっているのか、楽しんでいるのかすらもうわからない。けれど、実を言うとその気持ちもちょっとわからないでもない。
「し……し……」
なにを隠そう、今にも口づけをせんばかりの二人を目の前にして、私もその言葉が喉元まで出掛かっているのだ。こいしがもう私にはずっと見せてくれていない表情を、あの子の前ではいとも簡単にする。その事実が、私を狂気へと駆り立てる。なぜ私ではないのだろう。私はずっとずっと、こいしのことだけを思って生きてきたのに。こいしは私ではなく、あの子の前でだけ――
「リピートアフターミー。死ねば良いのに!」
「死ねば良いのにー!」
「し……し……――っ」
完全に興が乗ったらしい。ノリノリで騒ぎ立てる二人のテンションに引っ張られて、私もその気になってくる。
一向に迫ってこない相手の唇に痺れを切らしたのか、こいしが薄目をあける。とても。それは喩えようもなく綺麗で、それを見た私の中で何かがはじけ飛んだ。思わず。ああ、無意識とはこういうことなんだなと思ってしまうくらいに無意識に。
「し……し……っ」
私は叫んでいた。
「し――しあわせになるのよ、こいしっ!」
涙でにじむこいしの姿に背を向けて駆け出す。
もう私の居場所なんてどこにもなかった。けれど、それでもこいしは私の妹なのだ。最愛の、妹なのだ。その幸せを願わないわけがない。たとえそこに私がいなくても。それが私の無意識が選んだ答えなのだ。
あまりのショックに足が上手く前に出ない。死ぬ間際みたいに世界の全てがスローモーションのように動いている。その中でただ、私の頭だけが光速で動き続けていた。見える。華やかな道を歩み、幸せを掴むこいしの姿が見える。私にはそれを邪魔するつもりなんてない。だからせめて、結婚式の招待状くらいは寄越して欲しい。もちろん出席なんてしないから。あの地底の霊殿で、ひとりで静かにこいしの幸せを祈るから。ああ、祈るから――
「あぶ――」
「ぶふぉあ――」
しかし、勢いのついた私の独白は、後ろから聞こえた謎の悲鳴によって中断された。振り返る。地獄があった。正確には狼がいて、それに吹き飛ばされたらしい衣玖とパルスィが、一足先に空への旅を始めていた。これはきっと地獄の番犬、ケルベロスに違いない。けれど私の考察もここまで。その犬に弾き飛ばされ、私も一気に離陸した。
さとり、空へ。もういっそ、このまま宇宙にまで飛んで行きたい。スポーツ競技ならウルトラC。空中回転を何度も繰り返しながら、私は空を舞っていた。回る。世界が回る。天と地が交互に入れ替わる。ほんの少し、視界の端を衣玖とパルスィが横切った。そして遠くの方には、こいしがいた。その隣に、高らかに拳を突き上げる例の彼女もいる。
なるほど、ようやく合点が行く。私たちは彼女のスペルの直撃を喰らい、大空へと舞い上がっているのだ。と言っても、それも当たり前だろう。気づくに決まっている。あれだけ騒げば、気づかれない方がどうかしている。陰から覗きをした挙句、聞こえないわけがない大声で、延々と死ねばいいなどと叫んでいたのだ。追い払いたくもなるだろう。
それでも。
「愛してるわ、こいしー!」
ありったけの思いを込めて、叫ぶ。きっと届きはしないだろう。それでも、自分に言い聞かせるように大切に、私はその言葉をつむぎ出した。
まるで、一仕事やり終えたかのような達成感。不意に意識が遠くなる。視界が霞み、瞼も重い。空。地面。遠くに見える里。景色が瞬く間に過ぎ、落ちかけの意識に過大な付加を与えてくる。くるくると回転するたびに、ちらちらと衣玖とパルスィの姿も目に入る。二人はなぜだろう。大声で馬鹿笑いをしていた。今が人生で一番愉快だとでも言うように、本気で心の底から笑っているようだった。その中で辛うじて、またこいしの姿が目に入る。こいしはこころにぴったりと身体を寄せ、抱きついていた。顔なんてもう、ほとんど胸に埋まっている。だけど、ぎりぎり窺える範囲ではこいしは、とてもとても幸せそうな顔をしていた。衣玖もパルスィも、こころもこいしも、みんなみんなとても幸せな顔をしていた。
だから私も笑った。
「もうほんと、みんな死ねばいいのに」
最後に呟いて、意識を失う。
それすらもただ、ひたすらに楽しくて。
私は夢の中でも大笑いをしているようだった。
幸せだったなぁと呟いて生涯を終えれーっ!
あああああー!!
最終的にはお姉ちゃんが一番大好きだよENDになると信じて疑ってなかった…
どうやって話を着陸させるのだろうと思っていたらそのまま夕日に向かって飛び去ってしまうとは、さとりん…
それは置いといて、こいここは可愛いかった
しかしこころちゃん、冗談でもなんでもなくこいしちゃんの特別になりそうな予感
みんな幸せにな~れっ
めでたし、めでたし。
さとりの愛はこいしに届いたと思います。
こいここの二人に祝福を!
こいこころは一大勢力を築きそうですなぁ