比べた物は、自己の存在と大切な人への想い。
失った物は、どれだけか。
気付けなかったんだ。どちらも単なる自己愛だったと。
※Farewell 上 からの続きです。
星と水蜜が恋人設定でございます。その他百合要素を含みます。
苦手な方は、回れ右願います。
Farewell 中
1
それは昨晩のことであった。
「ナズーリン……?」
妙な気配を感じ、私はお堂へ向かった。白い息を吐きながら回廊を抜け、お堂の前に見つけた人影に声をかける。かちゃかちゃと、尾につけた籠を揺らしながら出てきた彼女に私は怪訝な目を向けた。
「何を、しているのです……?」
それもそのはず。お堂から出てきたネズミの手には……宝塔が握られていたのだから。私に気付くとナズーリンは悪びれもせずにいつもの調子で話し出した。
「おや、聖か。これは丁度良い、手間が省けたよ。今から挨拶に行こうと思ってたんだ」
「……挨拶…………?」
そう返しながら私はナズーリンの手元を見る。私の視線に気付いたのか彼女は「ん?」とつぶやくと手にした宝塔を私の方へかかげてみせた。
「そう、挨拶だ。お別れのね。だからこれを返してもらうよ」
「……お別れ…………?」
きつねに、いや、ネズミにつままれたような顔で私はナズーリンを見た。お別れだとか言うのにその態度といったらまるでいつも通りである。彼女は宝塔を恭しく抱き寄せると、軽快に説明を始めた。
「私は、ね。聖。もう君達といっしょにいる理由がないんだ」
「…………?」
「ここ、命蓮寺にいるのは君を慕い、敬い、自然と集まった者達だ。君の理想に感化されたり、君の力にほれ込んだり……そんな者たちが集った。しかし私は違う。私がこうして命蓮寺に来たのは、半仏半妖の獣が悪さをしないか、それを見張るよう主におおせつかったからに過ぎない。……君はその旨、わが主より伝えられているはずだ」
「ええ。そうでしたね……」
ナズーリンが星を呼び捨てにしたことがひっかかる。既に己の主などではない。そういう意思が含まれていた。
「しかしもう私は星より命を下されることなど……金輪際ないんだよ」
「どういうこと……?」
そしてナズーリンは再び宝塔に目を落とす。
「……寅丸星は、毘沙門天であることをやめた」
「………………え?」
「半仏半妖の獣は、ただの妖獣に成り下がった」
「………………!」
「ゆえに、私が仕える理由はもうないのさ」
今朝の星の様子が思い出される。
悩んでいたようであった。しかし、口には出したくない……そんな星が抱えていた問題は、己の在り様に関することだったのか。
「…………何が、あったのですか」
動揺こそしたものの、努めて冷静に聞き返す。しかしネズミはまともには答えてくれなかった。
「さあ。心境の変化じゃないの。まあともかく、私が命蓮寺にいる理由はなくなったのさ」
ナズーリンが手を高く掲げるとどこからともなくわらわらと子ネズミたちがやってくる。それらは全てナズーリンの周りにぐるりと集まった。たくさんのネズミを回りに従え、彼女はこちらを向く。
「じゃあね、聖。今までの生活……悪く無かった。また会うことは……もう、ないと思うが。元気で」
くるりと回り、彼女は背中を向けた。
その背中がなんだかとても寂しげで
「ナズーリン」
私はつい、声をかけていた。
発とうとした体が、止まる。
「もし……もし、貴女が望むのであれば。命蓮寺に、留まっても良いのですよ」
「………………」
「貴女は既に命蓮寺の一員です。私の大切な門下生であり、仲間です。毘沙門天さまの部下、などという立場でなく、貴女個人としてずっとこのお寺で共に暮らしていて良いのですよ」
「……はっ」
背を見せるナズーリンから聞こえてきたのは、嘲笑だった。
「……なめるなよ人間」
彼女は振り返る。
「私はここより遥か北方、北倶盧洲におわす毘沙門天様が配下、随一の将だ。貴殿ら下賎の者の情けなど、受けるに及ばん!」
「それでも、情けとして受け取ってもらえたのですね?」
勢い良く啖呵を切ったナズーリンは、ばつの悪そうな顔をつくるとそっぽを向いた。
「………………たとえそれでも」
一端は、躊躇しながらも
「私は、毘沙門天様にお仕えする」
彼女の答えは明確だった。
迷いはあっても悩みはしない。ただ己の仕えるものの為生きて行こうと願う……それが彼女の在り様なのだろう。
「残念です」
「星の部下として過ごしたこの1000年ばかり……いろいろあったが、まあ楽しかった。……ありがとう、聖」
「ええ。私も。貴女と過ごした日々、とても楽しかった」
ナズーリンは子ネズミたちを抱きかかえる。
「達者で。みんなには聖からよろしく言っておいてくれ。……じゃあ。本当に、さよならだ」
そしてナズーリンは地面を蹴る。ゆっくりと飛翔し星空の中へと消えていく。真の主の元へと。
……そして一人、いなくなる。
雲ひとつ無い暗闇を見上げた。
「妖怪と共に暮らしていれば……もう、別離などないと思ったのですがね」
幽かに音となった声は、漏れ出た吐息と共に夜空に溶けて消えて行く。同じく夜空に溶けて見えなくなってしまった背中を私はまだ追い続けていた。
**********
「以上が私の知る全てです」
そして聖は話を終えた。
……だれも口を開こうとしなかった。一人だけ少なくなった食堂に静けさが舞い戻る。ぐるりと見回し皆の反応を確認すると、聖は二の句を継いだ。
「私が知っていることは、これだけです。ですが……もう一人、当事者がいますね」
聖はこちらを向く。
「星。貴女からも話を聞かせてください。一体、何が…………!」
私と目が合った瞬間、聖ははっと息を呑んだ。
どうしたんだろう。
聖の反応に首を傾げていると、斜向かいに座す一輪が、す、と何かを差し出してきた。ハンカチだった。
「…………あ」
一輪の行動の意味を理解する。……いつの間にか、私の頬は濡れていた。
「ごっ、ごめ……」
慌てて法衣の袖でぬぐう。
「………………星、気が付かなかったのですね?」
私の涙が言外に語った事を聖は見逃さなかった。
"ナズーリンがいなくなるなど、予想だにしていなかった" 、と。
「…………はい」
無意識にも込みあげてくる嗚咽をぐっとこらえ、返事をする。
「貴女が毘沙門天さまに破門されればナズーリンもまた、貴女の前からいなくなる……少し考えればわかったはずです」
「…………」
「……教えてください、星。そんなことに気が付かないほどに、そんな簡単なことに考えが及ばないほどに、一体、何を悩んでいたのか」
四人の視線が、いっせいにこっちを向いた。
「……本当に、私達には話せないようなことだったのですか………?」
私はただうつむいて口を閉ざすばかり。
そんな私にふりかかるのは怪訝な目であり、好奇の目であり、私の言葉を期待する目であり……そして、何の考えも読み取れない冷徹な目であった。
「星。私たちは志を共にする仲間です。……私の思い上がりかもしれませんが、家族も同然だと思っています」
「…………それは、私も同じ……です。命蓮寺の皆は……家族だと思っています」
「それでも。私達にも、言えないようなことなのですか……?」
「………………」
「星」
ガタッ
「ッ星!」
聖の声も振りほどいて
「星!待ちなさい!!」
いたたまれなくなった私は外へと駆け出していた。
2
勢い良く飛び出して、とにかく駆けて、息を切らした頃には命蓮寺の端、三門にまで走り着いていた。長い間走っていたように思ったが、こうして振り返ると大した距離は進んでいなかったのだと知る。
急な疾走に荒げた息を整えようと門に背を預け座り込んだ。ぜいぜいと大きな息をつき肩を上下させながら、かすれた視界の中、お堂の方をぼんやりと見やる。
「…………む」
ぼんやりと向けた視線の先に、私を追ってか、誰かがいた。聖か……と思ったが、それにしては小さい。
追いかけるというには随分ゆっくりと。純白の衣服を纏う彼女は、急ぎもせず、まるで散歩でもするかのようにこちらへやってくる。……私とて別段逃げようとは思わない。食堂(じきどう)から飛び出したことだって、ほとんど無意識の行動だ。逃げるつもりだったわけではない。
だからゆっくりと近づいてくる彼女を、私はただ、座って待った。
そして私の前で彼女は止まる。
目を逸らした。
彼女は、ただ見下ろしてきた。
何も言わず、瞳に若干の怒りの色を灯した彼女は何を求めているのか。
謝罪か。
「ナズーリンがいなくなるなんて……思わなかった」
それとも懺悔(さんげ)か。
「……私は…………仲間を裏切りたくなかっただけなんだ……」
だから水蜜を消したくなかった。
恋慕の情ももちろんある。
けれど……けれど、もしも存在を消すべき相手が水蜜以外の誰かだったとして、それでも私は毘沙門天をやめていたに違いない。…………命蓮寺から、もう、誰一人失わせてはいけない。もう、誰も離れてはいけない。大切な、仲間。
「そう思っていた……のに………………なのに」
結果、ナズーリンはいなくなった。
「……どうして……」
聖の言う通り、良く考えれば気付かないわけがなかった。
それほどまでに私は混乱していたのか??
否。
そんな混乱した頭で、重大な決断をしてしまったのか??
否??
「………………ナズーリン……ッ…………」
実際のところ、天秤計りの上に乗っていたのは毘沙門天でも己の存在意義でもなかった。私は無意識にも両皿に水蜜とナズーリンを並べたに過ぎなかったのだ。そして水蜜を選んだ、と。
「ナズーリンがいつも隣にいるのが……当たり前だと、思っていた…………」
私がどうなろうとずっと傍に居るものだと……思い込んでいたのか。
「……思い上がりだね、星」
引き続き見下ろしてくる目は、冷たくて。懺悔の言葉はとどかず、ただ突き放されただけ。
「水蜜……すまない」
深い深い海の底も、この瞳のような温度だったのだろうか……。
「ごめん……」
懺悔が届かぬのなら、謝罪を。しかし水蜜は顔をしかめた。私の態度は水蜜の希望に全く応えていない。私を見据えたままの水蜜は……ややあって、感情を吐露する用意を整えた。
「あのさ、星。それは何に対する謝罪???」
「それは無論、ナズーリンが、いなくなってしまったからだ……私のせいで」
「うん。あんたのせいだ。ネズミが消えたのは星のせい。でも……それだけ?もっとほかに謝ることあるんじゃないの??」
「……私が、毘沙門天さまから破門されたことか…………?」
「違うわよッ!!!!!」
びくっ
「あんたが、」
「っぅぐ!」
襟ぐりをつかまれた。
「あんたが、なんの相談もしなかったからに決まってるでしょ!!!!」
「………………」
浴びせられる怒号。
「一人で抱えるなって、言ったのに!!!!!!!もしかしたら、もっといい解決法がみつかったかもしれないのに!!!!私や、聖や、一輪や、たよりにならないかもしれないけど……ぬえとか!!!」
「……………………だからそれは……」
出かかった言葉を、グッと飲み込む。
「あんたは一人で生きてるの?!違うでしょ、命蓮寺のみんなといっしょにいるんでしょ!!!」
「………………」
「毘沙門天続けるか妖怪に戻るか……そんな重大な決断、なんで、なんでみんなに……私に、何も言ってくれなかったのよ…………!!」
「……………………」
「すまない…………」
募る言葉は、胸にあれど。
私はただ口を引き結び、謝罪に徹する。
それしか…………できることが、ないから…………。
「……私はそんなに、信用ならなかったの…………?」
「…………………………いいや。ごめん」
引き続き私の襟ぐりをつかんだまま睨みつけてくる水蜜にそっぽを向ける。視線も合わさず発する謝罪は、さぞかし胡散臭かっただろう。
私が一人で決断を下したことが……これほどまでに聖や、水蜜を傷つけようとは。
水蜜はなおも言葉を重ねる。
「それに……それに、ナズーリンだけじゃない。星が毘沙門天さまの弟子を辞めたら、もしかしたら星も、命蓮寺に居られなくなってたかもしれないんだよ…………?」
「それは無論。覚悟の上で」
その言葉は決定打だったようだ。襟を掴む水蜜の腕からふっと力が抜けて。瞬間、無重力の次に私を襲ったのは鋭い衝撃と痛みだった。強く頬をはたかれ、地面に打ちつけらる。
「…………みなみっ……」
強い衝撃に痛む体も意に介さず、とっさに起き上がり見上げようとした天空から降ってきたのは、大粒の水滴。
雨…………な、わけがない……。
私をはたいた右手を、ぐっと握り締めて立つ水蜜。
「何……言ってるのよ…………」
何があろうともさせてはいけないと思っていた水蜜の表情にずきりと響く胸の痛み。
「もし聖が認めてくれなかったら、出て行く気だったわけ?!私を置いて?!?!!」
「…………!!」
「私…………私はずっと星を信じてたのに……星は私のことなんて、どうでもよかったんだね……!!!」
「それは違う水蜜!私はッ……!!」
「嫌!知らないッ!!!!!!」
ぐるっと向きを変え、去ろうとする水蜜。
そんな誤解は受けたくないと水蜜に向かって伸ばす手。
……しかしその手は水蜜に触れることなく。
「…………………………みなみつ……?」
空を掴んだ手。
そしてその手の下には…………
蒼ざめた顔の水蜜が、地面に倒れこんでいた。
3
聖たちは随分驚いただろう。話を聞くことを恐れて飛び出した私が、その私を追ってきた水蜜を抱えて飛び込んできたのだから。ともかく手短に事情を説明すると、聖は水蜜を聖輦船の船長室に連れて行った。
依然意識を取り戻さない水蜜を聖が診ている間、医療の心得のない私たちは部屋の外でただ待つだけだ。
がちゃり……。ぱたん。
しばらくして船長室の扉が開く。ゆっくりと、極力音を立てないように、室内から出てきた聖が扉を閉めた。皆の視線が集まる。
応えるように聖は皆に向かうと口を開いた。
「迷いの竹林に高名な医師がいると聞いたことがあります。その方をお呼びしましょう」
「……聖の法力では治らないのですか?ムラサはそんなに、酷いのですか…………?」
不安げに尋ねた私に向かって、安心させるように、だろうか。聖は笑みをつくって答えた。
「……いえ、そういうわけではありません。そういうわけではありませんが……ムラサは幽霊です。人間や妖怪とは勝手が違いますので、その道の方の意見も聞いた方が確実でしょう。念に念を入れて悪いということはありません」
「成程。せかんどおぴにおんてやつだね、ひじり」
「そういうことです。……では、早速行ってきますね」
「姐さん、お供します」
「聖、私も行きます!」
「ありがとう一輪、星。……星は残って寺の留守番をお願いします。ムラサの容態も心配ですからね。傍についていてあげてください」
「……はい」
「では一輪、行きましょう」
「はい」
歩き出す二人を追って私も外に出る。あとは頼みますよと言いながら飛び立つ聖と一輪を見送り、船長室へ行こうと振り返った。
「ねぇとらまる」
「うわぁっ……なんだ、ぬえか。どうした?あと、私はもう寅丸ではない。その名は毘沙門天様にお返しした」
「じゃ、とらとら」
「…………とらとら」
「カミサマのフリは辞めたから、今はただのとらでしょ?」
「…………好きに呼べばいい」
「ね、とらとらってさ。カミサマパワーがなくても妖怪として強いんだよね?山で一番とかだったんだよね?」
「別段、強さが認められたというわけではないが……」
「一番だったんだよね?」
「まあ…………そう、らしいが」
ばしゅっ
…………?
言い終わるが早く、何かが頬を掠め、何かが頬に垂れる。異物感に手の甲で頬をぬぐうと、赤い液体がぺたっと付いた。
「………………ぬえ……?」
「じゃ、見せてよそのチカラ」
「な…………」
「見せてよ見せてよ見せて欲しいなぁッ!!!」
目の前、近距離から繰り出されるお札。
「ぬえっ何を!!」
なんとか全て見切る。かすった札が法衣を切り裂いて背後へと消えていく。
「あはっ!何って、弾幕ゴッコだよ!見てわかんない??!」
高く飛翔するぬえ。ほどなく黒雲が立ち込め、ぬえの周りを取り巻いた。
「弾幕ごっこ……?!こんな時に、何をふざけてるんだッ!!」
黒雲に向かって叫ぶ。眼に映らない姿から、声だけが響いてきた。
「ふざけてないよ……?いたって真面目、真面目の一点張り。だぁってさぁ、ひじりもいない、いっちゃんもいない、ネズミは消えた、ムラサはダウン。だぁれも、邪魔しない…………こんなチャンス、千載一遇ってやつだよ」
「…………何だと」
「ほうら、楽しいでしょッ?!」
黒雲から赤い光が飛び出す。光は稲妻の如く私を貫かんと向かってくる。同時に振るのは、大量の雨粒。古都の安穏をおびやかした、雷獣の遊戯。
全て避ける。反撃は、しない。
「いっぺんさっ、真面目に戦ってみたかったんだよね!!だってさっカミサマパワーか何か知らないけど、とらとらにちょっかい出そうとすると、力がまともに使えなかったんだものッ!!」
黒雲が、ふ、と消える。本来の姿を取り戻した快晴の青空に、きらりと光る影。
「それはそうだ……!妖怪を封じる力を持つ仏、それが毘沙門天なのだから……!」
「でしょでしょ?!だっかっらっ!今のうちに、とらとらのチカラ、ビシャモンのセーギのイコーをなくしたとらとらは、どれだけ戦えるのか……見せてみてよッ!!!!!!!!」
大空にきらめく影の正体は、円盤。ゆっくりと向かってくる円盤を避けるのはわけない。問題は、その軌道上に残される光球。稲妻と同じ力を帯びた光球は近づくだけで多少の痺れを感じる。そしてそれらはばら撒かれた後、予測の難しい動きで速度を上げてあたりに散らばった。
「……くっ!」
弾がかすった法衣の裾が黒くこげる。炭化した。
「っはは!!そろそろ反撃しないとやばいんじゃないのー??まだまだいくよぅっ!次っかもんスネィクゥッ……」
ぬえは大きく右手を振り上げる。しかし何も起きなかった。
「…………あぁ?」
ぬえは高く上げた己の右手を見た。矢が、刺さっている。そして腕を伝って垂れてくる血。
状況が飲み込めず、ぬえはただ、その赤い液体を目で追うだけだ。
「馬鹿ぬえ!何やってんの!!」
「ぁ…………ぐわぁっ!!!」
呆然と矢傷を見ていたぬえにでかい張り手が飛んできた。ぬえは強い衝撃と共にそのまま地面に押さえつけられた。雲山だ。
「ったく……この緊急時に!!!」
ほどなく一輪が雲山に押さえつけられたぬえの隣に降り立つ。続いて聖と、そして
「ほととぎす、名をも雲居にあぐるかな、弓はり月の射るにまかせて…………なんてね」
「ぬえ、おいたが過ぎますよ」
「聖!…………と、えと……」
聖の隣には弓を構えた女性がいた。どうやらぬえを射た矢は彼女の手によるもののようだ。二人が空から降り立つ。
「星、留守番ありがとうございます。ムラサの容態を見ている暇は、無かったようですが」
「すみません…………」
「鵺?珍しいものを飼っているのね。……はじめまして、永遠亭の医者、八意永琳よ」
「あ、私は星です。命蓮寺の一門下生です。……貴女が、迷いの竹林のお医者様ですか」
「さて…………」
巨大な手に押し付けられたぬえに全員の視線が集まる。ぬえはといえば、バツの悪そうな顔をしてこちらを見上げていた。
「ちょーっと遊んだだけじゃん。なのにカブラヤとか飛ばすなんて、ほんと酷い話だよ」
一輪の指示で雲山が手を放すと、ぬえはひょいっと起き上がる。聖の手前、暴れるようなことはしなかった。
ぬえはささった矢を乱暴に引き抜くと八意殿に渡す。妖怪の力であれば本来すでに完治しているはずの傷口からは、まだ血が垂れていた。どうもぬえは矢に対して何らかの心的外傷があるらしい。
「それにしてもよくわかったねぇ、私が京妖怪、鵺様だって。すごいすごい」
「それは、私が教えましたので」
「ありゃあ……わかってないなぁ、ひじり。私のウリは正体不明なのにさぁー…………」
ぬえが心底遺憾だと顔で言う。
「それより、患者はどこ?まさか鵺退治に呼ばれたわけではないでしょう?」
「ええ。こちらです。星、一輪、ぬえ、行きますよ」
「はい」
「はい」
「へーい」
聖は八意殿を連れると船長室へ向かった。
4
船長室に入っていく聖と八意殿を見送り、手持ち無沙汰な私たちは居間で診察の終わりを待っていた。痛い痛い~と痛くなさそうにつぶやくぬえの手に包帯を巻く一輪。そんな様子を眺めていると、気が気でならない心も幾分落ち着いてくる。
しばらくして、聖と八意殿が居間にやってくる。設えられた机の上座席に座る。聖が八意殿に目配せすると、一度肯き、八意殿は私たちの方を向いて説明を始めた。
「私が来る前に白蓮さんが診察していたようですが……私の診断も、それと同じです」
八意殿は一度聖の方を見る。聖が肯いたことを確認すると、八意殿は説明を再開した。
「もったいぶっても仕方ないので単刀直入に言いましょう。あの舟幽霊は、もう長くありません」
………………は?
ちょっと、言葉の意味がわからなかった。
「え?なに、どういう意味??」
いや、わからないというよりも。その言葉はきっと、今、自分が思い浮かべた意味とはまた違った意味をもって発せられた言葉なのではないか。そう期待したのだ。
一輪とぬえだってきっと私と同じ状態に違いない。だからこそ今ぬえはどういう意味かと聖に問いただしたのだ。
「聖、八意殿……どういうことですか?」
私も問う。きっと私の聞き間違い、あるいは意味の取り違いだと。そう、言って欲しくて。
「みなさん、落ち着いて聞いてください。……一から、順を追って説明します」
問に答えてくれようとしたのは八意殿だった。
「彼女、村紗水蜜さんは念縛霊です。念縛霊というのは、"魂と魄だけの存在になって尚、未練があってこの世に留まろうとする幽霊"のこと。……しかしこの世、つまり顕界というのは肉体が在って初めて存在できる場所です。故に魂魄だけでこの世に留まることは負担がかかる。負担を強いられた魂魄は、疲弊し、磨り減ります」
魂が……磨り減る。つまり。
「彼女は1000年以上を魂魄の状態で彷徨っているということですが。四桁を越える年月の間、魂魄のみで顕界に留まったこと。よほど強固な未練・意思があったのでしょう。むしろ賞賛に値するわ」
八意殿はそこで言葉を切ると、一端私たちを見渡す。誰もが不安げな表情で八意殿を見ており、聖だけが、堅く口を結んでうつむいていた。
そして診察結果は告げられた。
「それでもすでに彼女は限界です。魂は疲弊し、磨り切れる寸前。つまり彼女は…………ほどなく消滅します」
静まり返る場。
「き」
しかし静寂は一瞬で、驚嘆の声に塗り替えられた。
「きっききき、消えちゃうのっ?!?!ムラサ、消えるの?!?!」
ぬえが机をばんばんと叩く。衝撃で包帯が赤くにじむほどに。
「そっそんな……!!消滅を食い止める方法はないのですか!??!」
同じく一輪も八意殿にくってかかる。
「無理ね。もう、魂自体が限界なの。薬や施術でどうにかなる話ではないわ…………せめて……ここまで磨り減るまでに成仏していれば、よかったのだけど」
しかしどうしようもないと告げる八意殿と、ただうつむく聖。
そして私は
「…………成 仏?」
八意殿は…………今、何と言った??
私が発した、本当に小さな一言。しかしそれが耳に入ったのか、八意殿は私の方に向き直る。
「ええ。成仏して川を渡り、閻魔の元で生前の罪を清算し本来の輪廻の輪に戻る。そうすれば魂は転生し、新たに生きる力を宿す。つまり魂が摩滅してしまうまでにあの世へ送ってあげることができれば、魂の消滅は免れました。無論、転生以前の村紗水蜜としての記憶は残りませんが……魂自体は、救えます」
「っ…………成、仏……」
一単語が、頭に巡る。
「そう。それだけが、唯一の方法だったのだけれど…………さすがに手遅れね。今、あの世に送ったところで三途の川を渡る力は残ってないでしょう。せめてもう少し早ければ」
「なんで?今からじゃあ間に合わないの?!昨日までムラサ元気だったんだよ??!!」
「ふむ。…………念縛霊は、存在する基盤、つまり未練やこの世に固執する理由がなくなれば、ほどなく消滅か成仏に向かいます。仮説に過ぎないけれど…………恐らく、自分が顕界に留まる理由が薄まるような何かがあったんじゃないかしら。それでも成仏を選ばなかったことにより、魂の疲弊が一気に早まり…………魄にガタがきたのね。今の状態で三途の川を渡ることは……1000年を越える顕界での"人生"と舟幽霊としての罪。恐らく、無理でしょう」
「そ、そんな…………」
「念縛霊とはそういうもの。存在の理由がなくなればすぐにでも疲弊してしまうし、未練がなくなればすぐにでも成仏に向かう…………儚いのよ」
ぬえと一輪が閉口する。
「……八意殿」
「はい」
しかし私はどうしても、これだけは聞いておかねばならなかった。
「いつ……なら、間に合ったのですか。その、成仏は…………」
「そうね。魄にガタが来るほどの疲弊でなければ、間に合ったでしょう」
「………………つまり……」
「魂の疲弊の影響が、体に出るまで。つまりは、せめて倒れるほどの疲弊がなければ転生は間に合っただろう、と思われます」
「…………そう、です、か………………」
私は、ゆっくりと立ち上がる。静まり返った場の中に、衣擦れの音だけが響いた。
「……星?」
無言で起立した私は、大きく、ゆっくり、息を吐いた。
「…………すみません、聖。少し気分が優れないので……席を外してもよろしいでしょうか」
「…………ええ、構いません。無理もないですから」
「ありがとう、ございます」
おぼつかぬ足取りで居間を出る。
「私にできることはなにもないわ。あとは、どのように最期を見送ってあげるかを皆で考えることが一番建設的なことでしょう。…………申し訳ないけれど」
八意殿の言葉を背中で聞いた。居間の扉を後手で閉めると、私は廊下に踏み出す。
……床板の冷たさが今更のように足裏に響き渡る。ガラス戸越しに見える外の風景は、もう、夕暮れか。
取り巻く空気は依然冷たい。しかし額ににじむ汗は止まることなく頬を撫で、ぽたぽたと床板を濡らしていた。
八意殿の言葉がぐるぐると頭を回る。
成仏していれば、転生できて、水蜜の魂は、消滅を迎えることはなくて、
……それは、どういう意味だ?
私は水蜜と別れたくなかっただけで、でも水蜜は倒れて、
……私が……間違って……いた?
頭の整理なんてつかなくて、何も考えずに寺の中をふらふら彷徨った。
……聖の弟様・命蓮の遺産、そして聖の住まいで、聖輦船で、命蓮寺。そして…………妖怪ムラサの依り代。 それが、この命蓮寺。
導かれたのか、選んだのか。無意識に彷徨った結果、私は一つの扉の前で立ち止まった。
ぎぃ…………
ドアノブに手をかける。きしむ音が響いた。
ぱたん…………。
何度か入ったことのあるこの部屋は私の部屋より幾分広い。聖の手によるものか。今は常と比べて綺麗に整頓されていて、散らかっているのは机の上くらいのものであった。机上にはログブックと表紙に書かれたノートが散乱していて、空インクの瓶が無造作に重ねられていた。
ベッドの横まで歩み寄る。
未だ覚醒していない彼女。
かがみこむと、その頭の脇に両手をつき、顔を、覗き込んだ。
安らかとも苦しげとも言えぬその顔を見つめる。
微かに動いたまぶたが
「…………水蜜」
薄く、
「……………………しょ…………ぅ……?」
開いた。
「水蜜、ごめん」
「どうしたの…………?」
意識を取り戻した彼女のかすれた声が、幽かに聞こえる。
「ごめん」
「なに……?…………わかんないよ」
「ごめん」
「なんで…………」
「ごめん」
「なんで泣いてるの…………??」
見上げる水蜜の頬が、私の涙でぬれていた。優しい笑顔を浮かべた水蜜は、手を伸ばし、そっと私の目じりをぬぐう。
「ごめん……ごめん、水蜜、ごめん、ごめん、ごめん…………!!!」
涙をすくった手を、私は両手で握った。
それはとても柔らかくて、小さくて、冷たかった。
「ごめん、ごめん、水蜜、ああ、ああっ、ああああああ…………!!!!!!!!」
水蜜の手を握った両手を額に当て、私は謝り続けた。
5
自室にいた。窓から見える風景は暗闇。もう丑の刻にさしかかろうという頃合か。
四畳一間の寝起きだけを目的とした部屋。ここにあるの物は文机と、そこに載せられた経典、筆、そして向かいに据えた小さな小さな毘沙門天立像。
それらを睨みながら、しかし意識はどこか遠くで。
……あれから何日経ったろう。
あれ以来、私は一度も船長室には立ち入らなかった。頻繁に船長室に出入りし水蜜の様子を見ている聖が言うには、何度か意識を取り戻してはいるが、しばらくするとまた昏睡してしまうらしい。
…………もう消滅が近い、ということなんだろうか。
命蓮寺から、また一人……いなくなる。
はじめはナズーリン。次に、水蜜。
どちらも…………私のせい。
私が、毘沙門天様の命に、背いたせい。
そんな私が水蜜に合わせる顔なんて、あろうはずがなかった。
「星、だから言ったろう?」
ガラス張りの引き戸を隔てた向こう側から声が聞こえた。
幻聴だろうか……?
「絶対に、後悔すると。ご主人様もそう言っていたはずだ。だから君を引きとめようとした」
いや……違う……。
「…………ナズーリン……?」
もう、二度と聞くことなどないと思っていた、小憎らしい声。
「ナズーリン、ナズーリンなのかっ?!」
「久しぶりだね、星」
冷たい床板の上に一人たたずんでいるのだろうか。しかし彼女は決して扉を開けようとはしない。
「大変なことになっているね」
「……………………」
「君、今後悔しているのかい?」
「………………それは」
「良い気味だね。我らがご主人様を信用できなかった罰さ」
「……………………」
「君ね。なぜご主人様が君にあんな命令を下したと思ってるんだい」
「念縛霊が…………歪んでいる……から」
ナズーリンはハッと笑う。
「それを聞いたらご主人様、悲しむだろうなぁ。…………違うよ。それは建前さ。師匠バカな毘沙門天様の本音を隠すためのね。ご主人様はムラサ船長の魂がもう長く保たないことを予期していた。だから成仏させようとしたんだ。輪廻の輪に戻すことで、魂がこれ以上磨り減るのを防ぐために」
「………………」
「ご主人様は考えたんだ……。どうしたら、君が傷つかずにすむか。どうすれば、君の為になるのか」
「考えて考えて、一つの結論を出した」
「今のうちに船長を成仏させて輪廻の輪に戻せば、またいつか、縁があれば船長と星は結ばれる……それが、可愛い弟子にとって一番良い結果だ、と」
「ところがどっこい、不肖の弟子は主の提案を断った。だからご主人様は信じたんだね。星なら、君ならどうにか乗り切っていくだろう。そう、信じた」
「…………………………」
「馬鹿だね」
「…………なんとか、ならないのか…………?」
「無理だよ」
「今から、成仏させることは…………」
「わかっているんだろう?もう魂は磨り切れる寸前なんだ。たとえ今輪廻に戻したところで、転生する力があるかどうか妖しい。きっと三途の川すら渡りきれず、消滅してしまうんじゃないかな…………」
「…………………………そう、か…………」
「まあ逆に言うと、それほどまでに無理をしていたのさ。船長は」
「なぜだ………………」
「うん?何が、"なぜ"なんだい?」
「なぜ……なぜ水蜜は、そんなに無理をしたんだ…………!なぜ、なぜ魂をすり減らしてまで、顕界に留まったんだ…………!!!」
星のその一言は私を激昂させるに充分だった。
「…………なぜ…………だって?」
私は耳を疑う。元・わが主は一体今なんと言った?
"なぜ"?
言うに事欠いて、"なぜ"??
「なぜって、そんなの…………」
今の発言を船長の立場になって聞いてみろ…………。
「君の為に決まっているじゃないか!!!!!!!!!!君がいるから船長は…………船長は、どんなに無理をしてでも現世に留まろうとしたんだろうが!!!!!!!!!馬鹿を言うな!!!!!!!!!!」
ほんとうに、浮かばれないじゃないか…………っ!
「共にいようと約束したんだろう?!共にいたいと願ったんだろう?!現世に引きとめようとしたんだろう?!君の為に…………君という未練があるから………………!!!!」
「君が……船長しか、見て、ないから…………ッ」
搾り出す言葉は支離滅裂で。
君が私のことを見ていれば、船長は未練なく苦しまずに済んだんだよ。だから君のせいだ。精々苦しめば良い。
私のように。
「でも…………そうだな…………方法がないわけじゃあ、ない…………」
一つの思いつき。試す如く、独り言のようにつぶやいた。
「…………あるのか……方法が…………?」
項垂れたままだった虎が、もそっと動く。
「ッ……教えてくれナズーリン!水蜜が助かる方法をッ!!!水蜜が、消えずに済む方法を!!!」
「……いやしかし。私たちのような妖獣ごときには無理な話だ。魂なんぞを扱うには、もっとスケールの大きな力がないと」
「それは、つまり」
「…………うん。……ご主人様……毘沙門天様なら、あるいは」
私の言葉に、少し間をおいて星は言う。
「…………ナズーリン。勝手な言い分であるとは思うが……」
「ああ、君の言いたいことは分かるよ。ご主人様にとりなして欲しい、だろう?しかしこの方法は……オススメできないな」
「どんなやり方でも構わない!水蜜が助かるのであれば!!!」
扉の向こうの虎は勢い良く立ち上がった、ようだ。
「そこまで言うのなら、毘沙門天様と話をつけてあげてもいい。……………………しかし…………」
「……なんだ……ナズーリン!」
「ただで、とはさすがに…………言えないな…………」
「もちろん、構わない!どんな対価でも払おう!!」
「その言葉、本当かい」
「嘘などつくものか!」
即答してくるその声は、凛としていて。さっきまでのヘタレた虎とは思えない。
「星。その……だ」
船長はそんなにも君にとって大切かい?
「…………私にも、触れてくれないか」
「………………?」
じゃあ、こう言えば君はどうしてくれるのかな…………?
「君が船長にしていたように、私にも…………触れて欲しいんだ…………それが、条件だ」
(続きます)