無くした貴重品が見つからない。自分のすべきことが分からない。
これは私の身の回りでよく聞く悩み事の例だが、この二つには大きな違いがある。
それは、教えにより助けられるかどうかだ。
前者は当人の行動量によって結果が決まり、後者は考え方、時には外部からの助言をもとに解決する。
後者で問題なのはあれもこれも挙げ始めればキリがなく、その大半はどのような答えを出しても正解として扱われることにある。
原因としても他人の軽率な言葉だったり、思い込みだったりと小さなもので、事案としても端から見たら小さなことが多い。
そして不思議とそういう場合こそ、案外、他人の方が解決法に気づいていたりするものだ。
● ★ ●
時刻は明朝、地は無縁塚。三途の川を近くに構えた、幻想郷の中でも特に辺境の、本来は人間の訪れないであろう土地。
そこに構える私の小屋に、今朝は珍しいことに客人がやって来た。それも、人間の客人だ。
「探し物はなんですか、見つけにくいものですか。とはよく言ったものだが」
印を踏んでいるつもりなのか、ただふざけているのか、ドアを開けたとたんに客人はつらつらと喋り出す。口調の滑らかさからして、私の閉じかけている瞼には気づいていない。
「自分一人で解決しないならばどうすればいいか。小さい頃に言われなかったか、困ったときには人の手を借りなさい、って。つまり探し物で困っている私は、探し物のプロに頼ればいい。だろ?」
その客人は「な。ナズーリン」と気軽に私の名を読ぶ。
妖怪鼠である私の睡眠を破った度胸のある客人、その正体は霧雨魔理沙という名の人間だった。魔法使いを職としていて、度胸と無謀さを除けば、そうそうレア度は高くない普通の人間。
その姿は以前出会った聖白蓮復活の時と同じく、黒いドレスに白いエプロン、片手に箒といったスタイル。それに加えてあの時と同じ笑顔で、金髪を揺らしながら平然と私の安息を壊しに来た。
「君はその、プロがどうとか、そんな訳の分からんことを言うために朝っぱらから来たのか」
「善は急げと言うからな」
正直急がれる身にもなって欲しい。辺りを徘徊する亡霊すら静かにしている時間に人を訪ねるなど、さすがに限度がある。
隠す気も起きず、目の前でため息を吐いてしまう。
「ため息なんてしてどうした。私は『とりあえず上がるといい』の台詞を待ってるんだが」
● ★ ●
私、ナズーリンは現在、人里に停留している仏教寺の命蓮寺に身を置いている。
にもかかわらず、愛しの寺を離れて人里離れたこんな辺境の小屋で朝を迎えたのには、れっきとした理由がある。
我が表向きの上司に、遺失物の捜索を頼まれているのだ。それも急ぎの用件と言われたら、体裁的にも性格的にも、断るわけにはいかない。
困ったことにこのような事案は今回に限ったことではない。度々振りかかる用件を早く終わらせるためにも、仕事中は無縁塚に立てた小屋を拠点として行動している事が多い。設備的には決して便利な拠点ではないが、遺失物は毎度人里離れた場所に転げ落ちているため、仮拠点から捜索を開始する方が効率が良いのだ。
「あー、君には何から諭せばいいのかな」
それにしても、まさかこんな所に客とは。台所と寝るスペースしか無いため、たとえ友人であっても上げたりはしない空間だ。
まだ回らない頭と共に、薄目を開けて目の前の客人をランク付けする。残念ながら友人未満、顔見知りあたりに位置する魔理沙は、まだ粘るつもりなのか「頼むよナズーリン」と軽々しく手を合わせている。
「私は今ご主人の探し物で手一杯なんだ。君のノックで仮眠に別れを告げた後、またすぐ出掛ける程度には忙しい」
「その探し物の片手間でいいから、無理かね?」
「探し物は片手間でやるから見つからないんだ」
両手で耳をわしわしと握ってなんとか目を覚ましながら、目の前の魔理沙を追い返す算段を立てる。
「そもそも、私の優先順位はご主人大なりイコールチーズだ。他にもいろいろあるが、この時点で君の交渉が成立する可能性はゼロに等しい」
「むう、確かに厳しそうだな。私が探して欲しいのはチーズじゃないからな」
当たり前だ。分かっている。
「実は高級チーズでなく、秋を探している」
「山に行きたまえ。紅葉が綺麗だぞ」
「秋の風物詩といっても、正確にいうと南瓜だな」
「里に行きたまえ。買うにも失敬するにも、そちらの方が適任だ」
それがな、今年は不作なんだよ。
魔理沙はさも自分が農家の者で、その苦労を背負っているかのように話す。本来は開店休業の魔法店を営んでいる筈であるから、野菜の出来はあまり関係ないだろうに。
「とりあえず、今日のところは引き取ってくれ。着替えて出掛けなくてはいけない。あまりレディの身支度を邪魔するもんじゃないよ」
「けち臭いこと言うなよ、同じレディ同士なら上がってもいいだろう」
それ以上の言葉を聞かずに、躊躇わずに戸を閉めた。このタイプには少しでも遠慮したら負けだ。
顔が見えていないことをいいことに、続くノックの音を聞き流しつつ、もう一度大きく欠伸をした。
「とんだ目覚ましだったが、まあいいか」
鏡を覗き、私の特徴であろう、頭頂に生えた鼠の耳を撫でて徐々に目を覚ます。人前では控えているものの、この起き方はもはや私の癖に近い。
ふと触れた拍子に、整っていない髪のまま出てしまっていたことに気づいた。前髪の一部が自己主張激しく跳ね上がっている。
激しいノックに急かされた起床だったため仕方ないのだが、少しみっともなかったかと反省する。
強情な髪を強めに撫で付けてから、顔を洗いに水場へと歩を進めた。
● ○ ●
「やあ、今朝もご苦労様」
「あっ、ナズーリンさん。おはようございます!」
遺失物の捜索を終えて朝一で命蓮寺へ向かうと、門前で山彦の修行僧によく会う。名は幽谷響子といい、よく箒を振り回し、寺中を掃除している感心な妖怪である。
「昨晩までずっと探し物だったのですか?」
「ああ、無縁塚の方に寝泊まりしていた。失せ物探しといっても手がかりを探すことからで、以外と時間がかかるものなんだ。範囲も定まらないしね」
足元を見ると、集められた落葉は綺麗に紅く染まっていた。紅葉の神もなかなか良い仕事をする。
「ダウザーっていうお仕事も、一人で各地を回って大変なのですね」
響子の言葉に、顔を上げる。
彼女は何気なくそう言ったが、私の本当の仕事は別にある。
それは毘沙門天の代理で命蓮寺の僧、寅丸星の監視役だ。
ただ監視といっても、実際は度々上司に近況を報告するだけで済む仕事だ。別に暗殺を企てている訳でもなければ、彼女の粗を探し蹴落とすのが目的でもない。
そのため私はさほど神経質になることもなく、彼女の部下として立ち振る舞えている。そういった事からも、寺の皆を始め、響子からもダウザーという認識を受けているようだ。
「ああ、まあ、ね。それよりどうしてご主人は出張の先々で忘れ物ができるのか、私は不思議でしょうがないよ」
私は少々大げさに肩を竦めてみせる。
それに気を悪くしたわけではないだろうが、響子の顔が少し、曇った。
「その寅丸様なのですが」
箒を振る手を止め、響子は本殿の方を心配そうに見つめる。
「昨晩、あまりお眠りになられていないようです。遅くに思い詰めた表情をしているのを見てしまって」
「ほう」
響子によると、彼女は夜更けに庭をじっと見つめ、考え事をしていたらしい。それも天を仰いでため息などという、深刻そうな仕草のおまけ付きで。
確かに、普段の印象からは異なる行動だ。素直に感謝の感情を示す姿が先に出てきて、響子の話した光景を想像するのが遅れたぐらいだ。
響子につられて本殿へ向けていた目線を、目の前の彼女に戻す。
「しかし、君もどうしてそんな時間に。ご主人とお揃いで、何か悩みごとかい」
「いえ、その。迷って、厠まで遠回りをしてしまいまして」
私の心配は、どうやらお節介だったようだ。響子は「紛らわしくてすみません」と頬を掻いた。
「君もここに来てそこそこ経つだろうに」
恥ずかしげに笑う響子に、つられて笑ってしまう。入門したての彼女の初々しさ、それも早朝の私にとっては、安らぎになっているのかもしれない。
束の間の休息に満足した私は労いの言葉をかけ、命蓮寺の門をくぐる。
「あっ、でも門前と寺の外周なら任せてください! 落葉の分布もばっちりですよ!」
「それなら結構だ」
背後から飛んできた元気な声に一度振り返り、手を上げて応えてやる。頭を下げた響子はちり取りでも取りに行くのだろうか、ぱたぱたと駆け出した。
私も前へ向き直り、捜索完了の報告を頭で組み立てる。
しかし、あの人が思い詰めるとは。いったい何があった?
● □ ●
衣服の埃を落としてしっかりと手洗いうがいを済ませた後、私はご主人へ報告をするために歩を進めた。
ここ命蓮寺は聖白蓮の教えを信仰する仏教寺である。それと同時に水霊、入道使いなどの古くからの信仰者を始めとした、教えに賛同する妖怪たちの拠点でもある。
命蓮寺最大の特徴は、所有する大型の妖怪船だろう。無音で飛行し人里から妖怪の山まで、少し本気を出せば魔界にも行ける優秀な船舶である。現在は命蓮寺の裏手、人里の外れに停泊しているが、来訪者にとっては仏像に近い扱いなのか、たまに賽銭が投げ込まれている。
庭越しに見えた聖輦船を見ながらそんなことを思い返していると、目的の部屋へたどり着いた。我が主、寅丸星の部屋である。
「どんな者でも一度話を聞いてみないと分からない」
疼き出す好奇心を抑えるように、扉の前でぽつりと呟いてみる。聖のよく口にする言葉だ。
どんなに軽そうな事柄でも、その奥底には大きな闇があるかもしれない。受け止める側の我々がそれをすべてを引き出してやらねばならない。そういった聖の底知れぬ包容力には、正直舌を巻いている。
意を決して襖を開くなり、真っ先に私の目に映ったものは丸まった背中と、小さなため息だった。
「本当にため息をついているとは」
毘沙門天に似た衣に虎を彷彿とさせる柄のスカート。そして雷雲纏った背姿だけでもう見間違うことなく、私の主人、寅丸星である。
本来ならば「書を前にため息など集中したまえ」と言いたいところだが、先程響子から思い詰めている様子と話を聞いた後だ。開口一番、そう強くは当たれない。
丁度ため息と重なったか、彼女は襖が開かれた事にも気づいていないようだった。金髪のショートカットを揺らし、彼女はもう少しだけ頭を垂れた。
「どうしたご主人、ため息を吐くと幸せが逃げるぞ」
私の声に素早く振り返り、ああナズーリン。と弱気に言葉を発した。
虎の威を借る、ではなく、正真正銘虎の妖怪。そして毘沙門天の弟子。しかしながら今朝の様子はその片鱗も見せず、明らかに不調である。
金色の髪に通る芯のある黒髪は、いつもと違い自身なさげに隠れ。里の人間が話す『ありがたい後光』とやらはとても差しては見えない。本人が知らないだけで寺では少し曲がっている背中も、今日は丸み一割増しだ。
「人に見えないところでもしゃんとしなさいと聖は言うじゃないか。それを守ってきたご主人がどうした、体調でも優れないのかい」
「いえ、別に、そういう訳ではないのです」
言葉を区切ると書の書き写しをする手を止め、彼女はこちらに向き直った。手は膝に揃えられ、先程出ていた猫背はしゃんとしている。
それから整えるように一度息を吸い、決意の表情を固める。
何事かと訪ねそうになった矢先、急に彼女の背が小さくなった。
「ナズーリン、いつも苦労をかけてすみません。反省しています」
瞬きをしても、見間違いではない。顔は見えず、頭の頂点に止めた、髪飾りだけがこちらを向いている。背が縮んだのではない、こちらにぐいと頭を下げた状態だ。
予想外の行動に、言葉が詰まった。
私に謝罪した? 苦労をかけてすみません、と言ったか。
こう言ってはなんだが、失せ物探しに駆り出されるのは今に始まったことではなく、そう大きな事案ではない。普段なら反省よりも解決した喜びが先なのか「見つけてきてくれたのですね、ありがとうございます!」と私の手を握ってにこにこしている彼女が、今日はなぜびしりと頭を下げているのか。
「えっと、どうしたご主人。そんな急に」
今は私の気持ちなどさて置き、彼女の行動の真意を問わねばなるまい。
さすがに上司に頭を下げっぱなしにさせるわけにはいかない。
「ご主人、どうか顔を上げてくれ。あなたがそれでは、遣いの私は立つ瀬がない」
膝を付いて言葉をかけると、彼女は恐る恐る、といった様子でこちらを見た。不安げにこちらを見上げるその表情は、とても人前では見せられない。
「怒って、いないのですか」
「ああ、鼠達ですら慣れるような事態だ。今さら怒るものか」
そうですか。と安堵の息を吐きながら、彼女は姿勢を正した。
しかしその目にはまだ凛々しさは戻らず、眉は自信なさげに形作られている。
「最近は特に、ナズーリンには迷惑をかけてばかりな気がしまして……あなたも忙しい身であろうというのに、それを私が阻害しているように思えて」
そう言って彼女は再び目を伏せ、膝の上で握った手を見つめた。どうやらたまたまの気分などではなく、本当に思い詰めているようだ。
どうしたものか。
彼女は命蓮寺の中でも、その聖への信仰心と、持ち前の誠実な性格から日の光のように私たちを内から照らす存在となっている。その太陽が陰る事は彼女だけでなく、命蓮寺全体の問題なのだ。この事に、彼女自身は未だに気づいていない。
「ご主人、よく聞いてくれ」
指を立てながら、目の前の彼女を落ち着かせる言葉を探す。
「まずご主人は勘違いをしている。あなたの命を直々に受けられるということは、私にとっては誇りに等しい」
主は自らの手の届かないこと、あるいは手もつけられないような多忙から、部下に任務を命ずる。部下は自らが力になれることに喜び、その身をもって命に応える。上下関係とは得てしてそういうものだ。
「ご主人は聖に使命を与えられたとき、嬉しいだろう?」
「はい」
「聖の命を受けるとき、誇りに思うだろう」
「それは、もう」
「それと同じだ」
彼女が納得したかは分からないが、先程よりも十分イメージしやすくなったはずだ。
「先程多忙の身を案じると言っていたが、命ぜられることに対して私はさして不満を感じていない。たとえそれが失態から来る失せ物捜しでも、だ」
言葉を選んでから、彼女が何か言いたげに目線を上げる。
「その、毎度似たような案件でもですか?」
「似たような案件でもだ」
「怒ったりはしていないのですか?」
「ほとんど、していない」
地底に行った帰りに無くした際は、さすがに怒った記憶がある。旧地獄と言われる地へ向かう際は、自分の身と命蓮寺の今後を案じた。
「ともかくだ、私の顔色を窺う必要はない。聞いたところによると、昨夜も思い詰めて寝付けていなかったそうじゃないか」
動揺が漏れたのか、膝に乗せていた拳がぴくりと動いた。
「私だけでない。寺の者も心配している。責任を感じるなとは言わないが、私を扱うことに躊躇されるのは、私の望むところではない」
● □ ●
暫しの沈黙の後、彼女の背が少し、高くなった。
「分かりました。ナズーリン」
しっかりとこちらを見据え、顎を引いた。その目を見るに、この件に関しては大丈夫そうである。
「分かってくれたならいいんだ」
毘沙門天の代理ともあろう方が、顔色を窺い、半ば懇願する形で命ずるというのは、正直他には見せられない。
用件を考えれば慎ましく有るのが望ましいのかもしれないが、身内には少しくらい強く出てもいいのではないか。私はそう思う。
彼女はまだ何やら思うところがあるようで、しっかりとこちらを見据えて口を開いた。
「しかし、私も罪悪感に駆られてただ呆けていたわけではありません。度重なるこの失態に、考えました」
「それが、昨晩の」
「はい」
一度息をつき、言葉を続ける。
「私もまだまだ修行の身。与えられた地位や神具に頼るのみで、それに見合うだけの精神が無いのだと。宝塔が私の元を離れてしまうのも、私が認められていないが故、己の未熟さ故と考えました」
絞り出すような声は己への憤りからか、今にも消えてしまいそうである。
しかし顔を上げたときには、いつものびしっとした表情に戻っていた。
「貴女に感謝すると共に、早く毘沙門天として認められるよう、この寅丸星、より一層修行に励みます」
成る程。
本来なら施錠の確認や火の元の確認と何ら変わらない、持ち物確認程度で済む筈なのだが、そこまで発展させるとは。
生真面目なご主人らしい、ポジティヴシンキングと言えなくもない。
しかし本音を言えば、具体的な例を、特に声出し確認を一番に挙げてほしかった。
「……分かった。そのご主人の気持ちは良く伝わった」
そんな真剣な表情をされては、私はそれ以上何も言えない。これだけ真面目な目をして語る上司をさらに叱れる部下が居るのなら、是非見てみたいものだ。
「さあ、この話は終わりにしよう。今度は私から報告をさせてくれ」
私は外出用に斜め掛けした鞄から、片手サイズの巾着袋をご主人の前に差し出す。
「これが、頼まれていた物だ。確かに見つけてきたぞ」
すると先程の押し潰される寸前といった表情から一転、ねだった物を買い与えられた童のように、彼女の表情がぱっと晴れ渡った。
「わぁ! ナズーリン、ありがとうございます!」
『大切なもの』とやらが入っているという、とても軽い巾着袋。それを覗き込み、中身が確かに揃っていることを確認する。
仄かに満足げな表情をしてから、私に顔を戻す。
「実はこれ、妖怪の山で買い求めた土産物なのです」
ほう、そうなのか。
「ほう、そうなのか」
「土産物を無くしたなんて、バツが悪くて言えなかったんです」
そういうことだったのか。
「そういうことだったのか」
「ですからナズーリンに早急に探してもらえて、本当によかったです!」
今までの経験から、適切な相槌を咄嗟に返す。笑顔で礼を述べられたからには、謙遜するしかないだろう。
「この程度なら御安いご用だよ。だがまあ、気を付けてくれたまえ」
ご主人は後半を聞いていたのか聞いていなかったのか、巾着袋をごそごそとして私に何かを差し出した。
「はい、これがナズーリンの分です!」
目の前に掲げられたのは、小さな金属製のストラップだった。簡単ながらも小綺麗な作りになっており、一緒に紐に通ったプレートにはネズミらしき絵が掘ってある。
「河童の方が販売していた細工品です! 簡単ですがナズーリンを掘ってもらいました。どうです、驚きましたか?」
「私の分とは、ありがとう」
目を輝かせて土産物を渡すご主人に、出来るだけ微笑みながら礼を言った。手のひらに乗せ、さも初めて目にしたように、プレートの自分を見てみる。
嘘も方便、という言葉がある。
ご主人には誠に残念なことに、私は捜索の時に中身の確認をしてしまっている。
つまりどう足掻いても、驚きようがなかったのだ。
● ◇ ●
「あははっ! そのご主人の探し物とやらは、本当に妖怪の山で買い求めた土産物だったと!」
「そう、何か他に重要な物があるのかと思えば、本当にそれしか入っていなかった」
私は後日、頂いた休日を使って無縁塚に来ていた。そして大概そこで寝転んでいる死神の友人に、近々のご主人に関するエピソードを話していた。
早い話が、愚痴である。
「なんか前にも無かったっけ? 妖怪の山の辺りで落として中身がおかしかった話」
「魔法の森に落とした話かな。霧雨魔理沙に回収されて、再利用された袋が藍色に変色して帰ってきた」
そうだったそうだった。と腹を抱えて大笑いするのは、死神の小野塚小町。
別に仕事が一緒だったわけでも、彼女が命蓮寺に出入りするわけでもない。無縁塚の小屋で行動する内に、そこに居たから会話するようになった。きっかけはそれだけ。私にしては珍しい友人のきっかけである。
しかし友人と言っても時間を合わせてどこへ行くわけでもない。会ったときだけ、気が向いた内容をお互い話すだけ。それだけなのに、何故か馬が合った。彼女があっさりとした性格で、必要以上にベタベタしてこないというのも、気の合う要因だろう。
「虹色にしたり藍色にしたり、あの子は染め物でもしてるのかね」
小町が無縁塚の草地に手を付いて、赤い髪を揺らしながら気分良さそうに笑う。
彼女は背が高く、斜めに構えて、ようやく目線が同じ高さになる。
「そう、思い出したが、先日魔理沙が訪ねてきたな。南瓜がどうとか言っていたが」
「かぼちゃ、ねぇ。この間の祭りで使う気だったのかな」
「詳しくは知らないが、急に食べたくなった、とかではなさそうだったな」
当時の魔理沙の様子を思い返すが、連動して南瓜の煮物、それも味と匂いをしっかりと想像する。するとどうだろう、魔理沙の記憶はそれらに容易く塗りつぶされてしまった。
「煮物、食べたいな」
「いいねぇ、あたいも命蓮寺にお邪魔しようかな」
ぽつりと溢すと、小町が食いついてきた。食事の席に座るかは置いておいて、死神が寺にやってくると、果たして一体どうなるのだろう。皆目検討もつかない。
「あれ、牛乳で煮ても美味しいよな」
「え、それやったことない」
「本当か? 甘くて美味しいぞ」
宙を見上げて味を夢想する小町を眺めて、それから何となく目線を奥に移す。無縁塚の奥地に続く、雑木林が遠くに見えた。
幻想郷は巨大な博麗大結界により、外界と区切られた空間である。その中には要となる博麗神社をはじめ、人里、妖怪の山、冥界など様々な地が存在する。
中でも無縁塚は結界が緩み、少し空間が歪んでいる特殊な土地だ。普通に見る分にはただ外界からの漂流物の多い原だが、揺らぎに近い木々の中を少し歩き進めれば、途端に景色は変わり、別の空間へ歩み進んでしまう。
それは幻想郷内や、外来人の住む、いわゆる外の世界とだけには限らない。あの世の入り口として光明高い、三途の川へも通じている。
通常一人では渡れない三途の川だが、閻魔様が裁きを下す地獄は川の対岸のさらにその先にある。
そこで舟を出し、霊を対岸まで渡すのが死神の仕事の一つ。そして私の目の前にいる小野塚小町の仕事は、まさにそれ、三途の川の舟渡しだ。
死神から来る薄暗いイメージとは裏腹に、昼間の勤務もある職の筈、なのだが――
目をつむって考えていた小町が「うん」とも「うーん」ともとれる声を出し、後ろに付いていた手を戻した。
「味は今度おたくのお寺で試すとして、だ。あんたたちは何かやったのかい」
何か、とはなんだろう。まさか騒動を起こす寺と思われている訳でもあるまい。
私の頭に疑問符でも見えたのか、小町が促す。
「ハロウィンだよハロウィン。あの魔法使いもたぶんそれだったんだろ」
ああ、それか。
「流石に文化が違うかな。仏教寺だし。墓の方では死んだ墓守が何やら騒いでいたが、命蓮寺としては特に」
「騒音被害の責任を取るおつもりは」
「取らん。別団体でむしろうちは迷惑している」
茶化す小町を一蹴し、水筒の水で喉を潤した。蓋を閉めながら、先ほどやった雑木林に目線を戻す。
あの先を真っ直ぐ行くのが、経験で覚えた、三途の川まで繋がる道順だ。その道が、正確に言えばその着いた先の様子が気になる。
「なあ、本当に戻らなくていいのかい」
私自身は悪いことをしているわけではないのだが、たまらず遠慮がちに訪ねてしまう。
彼女自身、言わなくても分かるはずだ。戻るとは職場である三途の川に、である。
「ん、いいのいいの」
少し首を捻って、私と同じ方角を見る。雑木林以外に何かが見えたのか、二、三度頷いて顔を戻す。
「今日はそんなに溜まってないし、大丈夫でしょう」
そう言って小町は先ほど私がしたのと同じように、手に持ったものを傾けた。違う点は私が水筒で、彼女は徳利と御猪口であることだ。
「溜まってないなんて、見もせずによく分かるな」
「あたいを舐めちゃいけないよ。“距離を操る”あたいの手にかかれば、すぐそこの景色を見るのと同じさ」
「本当か、それ」
嘘か真か、断定できない範囲であるからたちが悪い。見極めるような私の目線をよそに、小町は「水をくれ」と手を出した。
「……まぁ、君が良いというならいいか」
彼女はこれで勤務時間中というのだから、驚きである。
● ○ ●
土産物失踪事件解決から数日、私は早めに支度を整えて寺の門前へ向かった。
秋物の服に袖を通しては来たが、この時間帯は流石に肌寒い。寒気に抵抗して無理矢理目を覚ましていると、今朝も響子は変わらぬ元気な挨拶を飛ばしてくれた。
「あっ、おはようございます!」
「やあ、おはよう」
彼女は時間帯に適した暖かい格好をしてはいるが、それにしても寒さなど微塵も感じさせない。元気印とはまさにこの事か。
「君は朝から元気だな。寒くはないのかい」
「今朝は結構冷えてますけど、ちゃんと厚着してますから、大丈夫です!」
「そうか。私なんかは特に耳が寒い」
鼠の妖怪と違い、山彦の耳は長い毛に包まれてふさふさ、あるいはもふもふといった感じだ。
これからの季節は非常に羨ましい。
「それにしてもナズーリンさん、こんな早くからどうしたんですか。お散歩ですか?」
「ああ、君に渡すものがあってね」
響子が促してくれたので、さっそくだが懐から例の土産物を取り出す。
一度振って鈴の音を鳴らし、彼女の視線を向けてから手渡してやる。
「ご主人が山に行ったときのお土産だよ。君の分だ」
自分へのお土産。そう理解したとき、彼女はぱっと目を輝かせた。
私に渡されたのと同じような、ストラップ状の細工品だ。緑色の紐を通した札には「健康祈願」と書かれていて、傍らには小さな鈴が付いている。
「わあ! いいんですか!」
「いいんですかって、ご主人からのお土産だよ。礼はあの人に言ってやってくれ」
休日を貰い友人の所へ赴いていたため、渡す日が少し開いてしまった事は黙っておこう。
そんなずるは知るよしもなく、彼女は「やっぱり付けてお礼言わなきゃね」と肩にかけている小さな鞄に結び始めた。
それが完了してから、そうそう、とこちらを向いた。
「寅丸様、元気出たみたいですね」
「うん? ああ、確かにね」
「確かに、なんて他人事みたいですね」
響子が箒を動かしながら、意外そうな声を出す。
「どういうことだ」
「てっきり何か悩みごとがあって、ナズーリンさんがそれを解決したのかと」
解決なんて。私はご主人に思うことを伝えただけだ。
「解決というほど、そう難しいことは言ってないよ。あなたはよくやってるから自信持っていい、あと私をこき遣うのに躊躇するな、とかね」
こき遣うって言い方はどうなんですか。響子がからからと笑う。
「うーん、でも確かに。あの人がびしばし指示してこき遣うのは、想像しづらいなあ」
「無理もない。当人である私だって想像できないからね」
秋にしては冷たい風が吹き、思わず首を竦めた。風の吹いていった方向を、何気なく目線で追う。
「あの人は他人に頼らないんじゃない、遠慮し過ぎてるんだ。見返りなんて求めず手を伸ばし、その癖返せるものがないからと人に助けを求めない」
まあ、私に助けを求めるのは随分と慣れた方だが。
「もしあの人があからさまに悩んでいたとしても、自分から悩みを打ち明けないのは、決して君を信用していないんじゃない。それは、分かっていてほしいな」
あの土産物だってそうだ。土産の一つ二つ、無くたって誰も気に止めはしないのに。
自分に関しては注意が足りない癖に、人の事には気を配れる、むしろ気を配りすぎなのだ。
「小遣いだってたまに菓子をくわえているのしか見ない。もう少しくらい、自分の娯楽に使っても良いだろう」
いけない、少し五月蝿くなってしまっただろうか。
「まあ、あの人の話はいいか」
鼻から息を吐いて落ち着くと、背後からくすくすと声が聞こえる。目を開けてそちらを見てみれば、響子が口に手をやり、微かに笑っていた。
「なんだ、人が話してるのに思い出し笑いか」
「いえ、違いますよう。ナズーリンさん、本当に寅丸様がお好きだなって」
お好きって。
「違う、私は直属の部下としてあの人をよく見ているだけだ。それにあの人の評価が誤解されるのは、私が動きづらいのに直結する」
「はいはい、そうですね」
「はいはいそうですねって、私にそんな言い方するかい君は」
再び掃除を再開した響子の言動がやけに素っ気ない。先程とは手のひら返しの様子ではないか。
よく見れば口元が微かに笑っている。そして追求すれば顔を背け、終いには背を向けてしまった。
「君は笑うけどな、あの人の印象が悪くなればな」
「ナズーリンさん」
震える肩を止め、ふっと息を着いてから。振り返った響子はいつもの柔らかい笑みを湛えていた。
「大丈夫です。寅丸さまが裏表の無い優しい方だと、私も、寺のみんなも知ってます」
命蓮寺の中でそんな誤解されてる方が居たら会ってみたいですよ、と響子は自分で言って笑ってから、それに、と続けた。
「それに寅丸さまが皆に好かれてるのは、本当はナズーリンさんが一番知ってるじゃないですか」
まあ。
「まあ、それはそうなんだが」
それ以上は何も言えなくて、強張っていた尻尾をへたりと脱力させた。
● ◇ ●
私が小野塚小町と出会ったのは、聖白蓮復活の少し前の事だった。
聖復活のための倉の破片と、ついでにご主人の宝塔を探して回る際、無縁塚を仮拠点としてテントに寝泊まりしていた。その布製の住まいが紆余曲折あって今も使われる小屋になるのだが、今はその経緯は置いておこう。
記憶が正しければ、たしか昼過ぎの事だった。その日の進展がどれほどだったのかは定かではないが、ひどく疲れていたことを覚えている。
簡単に昼食をとって、日が暮れるまでに別の方角を探そう。そう算段を立てながら歩いていると、地面に横になる人影が目に入った。
服が野草に擦れるのも構わない。地面に脇腹を付け、肘を着いた手で頭を支える。怪我や急病といった類いではそうはなれない、まさしく「だらしなく」を体現したような体勢でその者は寝転がっていた。
「またか」
度々現れるこの女に、私は嘆息しそうになる。
自分の土地ではないのだから私に咎める権利はないはずだが、敷物も敷かずただ寝転がっているだけというのは、警戒とまでは行かずとも、不審には思っていた。
只者ではないのだろう、というのは傍らに転がっている大きな鎌を見れば分かる。幻想郷でも鎌を持つような職は、死神か農家ぐらいのものだ。
その死神であろう人物は肘が疲れたのか背中から寝転がり、気持ち良さそうに天を仰いだ。それから視界の端の私に気づき、手を頭の後ろで組み直した。
「いい天気だね」
それが私に向けられた言葉であると気づくのに、時間がかかった。それだけ自然で、よく通る声だった。
「確かに、いい天気だ」
どうやらコミュニケーションのとれない死神ではなさそうだ。一つ警戒度合いを下げる。
「こんな所で何をしているんだい。これから誰かを迎えにでも行くのか」
まさか私のではないだろうな。言いかけて、やめる。
「暇をしている」
「ひま」
迷いのない口調に、思わず復唱してしまう。そうか、暇をしているのか。
「ああ、安心しな。別にあんたの様子を観察しに来たとかじゃないから。あたいは“これ”は使わない方だしね」
言いながら、女は傍らに投げ出した鎌を指だけで指す。
決まりなのか種族の癖なのか、死神たちは職務中、必ず鎌を持ち歩くと聞いたことがある。つまり横に転がして寝転んでいるということは、彼女は職務中に「暇をしている」ということか。
「度々見かけてはいたが、仕事は終わっているものなのだと思っていた」
本心半分、皮肉半分だった。
初対面相手にはこのぐらいの言葉の配合が、相手の性格を掴みやすいものだ。
女は特にむっとした様子もなく、答えた。
「暇はできるものじゃなくて作るものさ。肉体労働に休憩ってのは必須だからね」
どうやら仕事が辛いとかでただ逃避しているわけではないようだ。しかし堂々と言い切る辺り、なかなか図太い性格をしているか、私とは感覚がずれているらしい。
「まあいいか」
危険人物ではないが、やはり中々の変わり者。という判子を押す。
思えば死神は相手に寿命を告げた後、説得なり武力行使なりで連れて来る。霊を渡すために川の向こうまで船を漕ぐ。分業しているとはいえ、確かに結構過酷な肉体労働なのかもしれない。
くだらないことを考えてから、もう立ち去ろうと歩を進めたとき。女は私の背中に声をかけてきた。
「なああんた」
「なんだい、休憩時間を邪魔しちゃ悪いと思ったんだが」
先程まで背中をつけていた女は、肘をついて身をひねり、こちらに視線を向ける。
「肩こってないかい?」
肩?
「見たところ、あんたはその小さな肩に重荷を背負いすぎてる。尽くしすぎじゃないかね」
先程から目尻を下げるばかりの死神が、その時は私の背景を見透かすような、鋭い目をしていた。
今思えばその目付きが信用の印を押す要素になっていたのだが、それはまだ知るよしもなく。知りもしない癖にずけずけと物言う死神だな、というのが第一印象だった。
「お仕事に勤しむのは結構だが、あたしの仕事を増やすなよぉ」
そう言って再び背を向け、先程までしていたのと同じように、横になったまま杯を傾けた。
その晩三途の川近くを通りかかったとき、渡る方法が分からず岸をさ迷う亡霊が多く目についた。
それが彼女の暇に起因するものとはつゆ知らず、当時の私は「最近はそんな物騒な時期なのか」と外界の心配を少しした。
● ◇ ●
「ああ、そんなこと言ったかもねえ」
目の前に胡座をかいて座る現在の小町は、御猪口を片手に無責任に天を仰いだ。
「きっとあんたが相当くたびれて見えたんだな。あたいが声をかけるってことは」
「その日も一日捜索して帰ってきた後だったからね」
「なるほどね。労働の辛さが分かる優しい小町ちゃんは、そういう人を見ると放っておけないからなあ」
真偽を問うために目線を合わそうとするが、かわされる。
「ん、美味い。これも土産物かい」
目の前に横たわる魚の干物を、小町が箸を使って器用につまむ。
「いいや、これは信仰者からの奉納物さ。平たく言えば、お裾分けだ」
小町がつついた魚の干物を、反対側からむしって口にする。その隣には小町がさっき作った芋の素揚げと、同じく小町が持ってきた酒がある。
数刻前には捜索をしていた日というのに、どう転ぶか分からないものだ。
夜、捜索を終えて機嫌良く無縁塚に戻る道すがら、三途の川で小町の姿を見つけた。普段見慣れない時間だったので聞いてみれば、友人に代わりを頼まれ夜勤に入っているという。
思えばそこで「私は機嫌が良い。一人酒でもしてから寝ようと思っていたのだが、君が夜勤では仕方ないな」と挑発してしまったのが失敗だった。私の発言の直後、小町は目を輝かせ、夜勤の筈であるというのにあっという間に肴を用意し、宴会の仕度をしてしまったのだ。
今日は私の手元にも御猪口がある。口当たりの良いすっきりとした酒は僅かに私の頬を紅潮させ、酒気に吹かれた頭は、恐らく気まぐれであろうが、彼女と出会ったときの懐かしい記憶を思い出させた。
出会った当初から彼女は寝転び、或いは酒を片手に笑っていた。今までもこれからも、それはずっと変わらないように思える。
「誘惑しておいてなんだが、本当に仕事の方はいいのかい」
「いいのいいの。元々あたいはこの時間、誰かとこうしてるつもりだったんだから。船に悪戯されてなければ、この際何でも良い」
挙げ句、「元を正せば代わりを私に頼んだ奴が悪い」とまで言い出した。気の毒だが、それには同意せざるを得ない。
「まあ、いいか」
知らぬ友人に一つ合掌し、私は素直に美味しいお酒を頂くことにする。
塩のまぶされたさつま芋をかじっていると、小町がぽつり、「肩」と呟いた。
「肩、まだ凝ってるかい?」
何の話かと顔を上げ、こちらを見る小町と目線が合う。それから漸くして、先程の話の続きだと理解した。
「まだ、と聞かれても、あの時なんて答えたかは忘れてしまったよ。適当な事を言って立ち去った気がする」
聞いた口で何だが私も覚えていない、と小町が小さく笑う。
「まあ少し凝っているかもな。背筋伸ばして、勤労な生活サイクルをずっと続けているからな」
「そうか。お互い誠実な仕事ぶりは変わらずか」
言葉の違和感に瞬きをしている内に、再び小町は干物に目線を移した。「ああ美味い美味い」と箸を進めている。
「君は疲れてないかとよく言って、整体師にでもなった方がいいんじゃないか」
「死神は目が良いんだよ。肥えていると言ってもいい」
「確かに、職業と種族によるもの両方かもね」
死神の目が肥える要因と言えば生き物の死と生。それしかないだろう。
そんな目に疲労の烙印を押されては、それが死を暗示するものではないかと疑うのも、無理はないのではないだろうか。
「寿命は見えるのかい」
「見えるよ。言わないけど」
「死因は?」
「推測はできる。たまに賭けたりもする」
寿命間近な生者を物影から除き、ひそひそと話す死神。あまり想像したくない光景だ。
私の顔に不安そうな表情が出たのだろうか、小町が笑ってフォローする。
「見えると言っても一応だし、他人の死を物事の対象にするなんて、そうそうしないから安心していいよ」
そうそう、ということは、以前は行ったことがあるのだろうか。聞いてみると彼女は「あの頃はあたいも若かったね」とだけ溢してはぐらかした。
当時の小町の様子や賭けの結果が非常に気になるが、聞いてしまったら暫くは尾を引きそうな気がする。
そんな時期も含めて今の人格形成、というところか。
「まあ、いいか」
勝手に納得してこの件は済ませようとしたとき、まじまじとこちらを見つめる、小町の目線に気づいた。
静かになった前方を見れば、小町は箸を口に運んだ形のまま、ぴたりと動きを止めている。
何か変なことを言っただろうか。
「どうした、何か気を悪くしてしまったか」
探るように声をかけてみても回答は無い。
返答の代わりに、まるで何か閃いたかのように、くわえていた箸をこちらへぴっと向けた。
「それだ」
何を挙げているか気になるが、その様にされては集中できない。
「箸で人を指すのは感心できない」
「ああ、すまん」
慌てて箸を握り込み、小町は人差し指でこちらを指し直した。
「それ、あたいが感じてた違和感」
違和感? 何の事だろうか。
「その『まあいいか』ってやつ。あんた意識してないだろうけど、よく言ってるよ」
「え」
思わず口に手を当てた。
感情を落ち着かせるためだろうか、自分の瞬きが増えたのが分かる。
別に失言をしたわけではないのだが、自分のコントロールできてない部分を人に指摘されるのは、不思議と恥に近い感情がある。
「そんなに言っていたか」
「数えちゃいないが、あたいが気づくくらいには」
全く意識していなかった。癖というのは得てしてそういうものなのだろうが、真っ向から指摘されると気恥ずかしい。
だからといって言われたものを気にするなというのも無理な話だ。
「ああ、それだったのかもな。煮えきってなさそうな感じは」
……なんだと?
予想だにしなかった言葉が飛び込んできて、反射的に耳がぴくりと動いた。
「その煮えきらないというのは、私の事か」
他に誰がいる。と小町は眉を上げる。
「いつもとは言わないが、あんたが話をするとき、どこか納得してないように聞こえてね」
「納得していない?」
自分でも情けない相槌だとは思う。
だが話の先が私には見えないので、小町の言葉をオウム返しにするしかない。
「例えば、主の捜し物で各地を回るのは大変だけど、仕事だからまあいいか。死神に心配されても私は生きるしかないし、多少の疲労はまあいいか」
小町は要所で音色を変え、説明する。
「どっちも現状に不満不安を残していても、途中で考えをシャットアウトして先送り、って寸法だ。自分でも意識せぬ間に切り捨てた部分が溜まってく。あんまり良くない感じがする」
珍しく小町に強く断言され、思わず目を逸らした。目線を移した先の魚を、自分でもぎこちなく摘まむ。
そしてイメージする。まだ身のついた魚の骨を、急いで放る自分を。
「まあいいか」と呟く度に繰り返し、気がつけば自分の丸めた背中を越すほどに、積もり積もった身の残る魚を想像する。
「その鬱憤をどうにか処理できてるならいいんだが、あんたの場合」
小町は一度言葉を止め、私の肩辺りに目をやった。
「あんたの場合、あんまり上手くはなさそうだ」
意識しないうちに肩でも張っていたのだろうか。
居住まいを正すふりをして肩を小さく回し、一度ほぐしてみる。
「つまり、なんだ。私は何でも先送りにする性格だったのか」
「何でも、とは言わないが」
小町は酒で舌を濡らし、続ける。
「前提として、あんたは賢い。自分の思考が完全に停止して、打つ手がないからまあいいや、っていうのとはまた違う。本当はその先も考えられるが、解決するのは面倒だからまあいいや、ってパターンだ。諦めきれない不平不満が、少なからず残る」
「つまり面倒くさがりだと」
「だからそう焦るな」
意を決して唇をぎゅっと結び、小町の言葉を待つ。
「考えるなとは言わん。あんたの場合、想定外が無いよう頭を働かせる性格なんだろう。ならその分、そこで動かした頭を労ってやるべきで、ガスを抜けという話になるんだ。簡単にいえば、ストレス解消だ」
もう一度肩を上げて、落として。強張っていた肩の力を抜いてやる。なるほど私はストレスが溜まっているらしい。
確かに納得できる話だ。
そう相槌を打とうとしたが、また何か余計なことを言ってしまいそうだった。口をつぐんだまま縦に頭を振り、納得したことを示す。
「うむ、分かれば宜しい」
小町はいつになく満足げな表情をした。
「開き直ってしまうってのも一つの手だが、理由もなしに開き直れる性格してなさそうだしねえ」
続けて溢し、それからふうと息を吐く。
「しかしさ、酒の入った死神の話をこうも真面目に聞く奴が居るかね。丁寧にうんうんと頷いてさ」
恥ずかしさのあまり、すんでのところでロッドを振り回すところだった。
手に持ったものを傾け、上乗せした酒気で赤らみを誤魔化す手段を取ったのは、まだ冷静だったと思う。
● ◇ ●
続けてつまみを口にして、落ち着いてから考える。始まりは私の肩が凝っているかからだったか。
「言い方は悪いが、普段ごろごろしてる死神から見ても、私はそんなに疲れて見えるかい」
「見える。あんたは少し、生真面目すぎる」
きっぱりと、先程と似た言葉を私に放った。
何か自信があるのか、「あたいの上司ならそう言うだろう」と小町は得意気だ。
「君の上司か。会ったことはないが、苦労人だというのは想像が付く」
「確かにそうかもしれない。あたいより気の抜けない仕事だろうしね」
その職については以前に聞いたことがある。たしか閻魔の裁判長だったか。
「その閻魔様が見るまでもなく、君から見ても私は『生真面目過ぎる』わけだ」
「そう。たまには荷物を降ろして心も体も休めてやらんと、あんた早死にするよ。これは死神としての忠告だ」
酒を流しながら語る点を除けば、それはまるで専門医のような語り口だった。
死神こそ命の専門家と言われればそうなのだが、彼女は橋渡しがメインなのでなんとも言えない。
それよりも、医師に命を告げられるのと死神に命を告げられるのでは、どちらが堪えるものなのだろう。どうでも良い疑問がまた頭をよぎる。
「鼠相手にわざわざ短命と告げるなんて、君も変わった死神だね」
「しかし鼠と言っても妖怪だ」
「うむ」
「それに神の遣いでもある」
「それももっともだ」
思い返せばこの命、わりと色々なことを経験はしてきたが、これから残りの命など気にしたことがなかった。
気にしたことがなかったくせに、考え始めたら意識せずにはいられないのが妖怪の、生き物の性である。あと何度美味しいものを食べられるのだろうか。あと何度いい思いができるのだろうか。
ただ一つ言えるのは、失せ物探しに駆り出される中、気がついたらぽっくり、などというのは避けたいということだ。
「まあぶっちゃけた話をするとね」
見れば小町の杯は空いていた。瓶を持ち、酒をついでやる。
「寿命なんてのは何かとつけて変わるものなんだ。たとえあたいがズバリと告げたってその日の行いによってコロリと変わったりするし、気にしたってしょうがない。気に病んで迎えに許しを請うくらいなら、よく寝てよく食べて、健康に気を付ける方がよっぽど寿命が変わる」
特に夜更かしは駄目だね、生活リズムがずれるのは良くない。小町が最後にそう言ったものだから、現在の時刻も相まって、驚きに目を見張るしかない。
小町が失言に気づく様子はない。
諦めて再び杯を取り、小町が笑うのを眺める。一対一で顔を突き合わせて呑むなんて普段はしないものだが、たまには悪くない。
しかし小町に合わせて喉に通すとあっという間に酔ってしまうため、つられて口をつけてはいけない。
それを考える余裕はある。私はまだまだ冷静だ。
「君はさっき、息抜きをしろと言ったな。それには一つ問題がある」
塩気を求め、肴をつまむ。小町が目線で続きを促すのを見てから意見を請う。
「私は暇を潰す方法に明るくない。遣えるのが寺というのもあって、修行というのが主だった。なにか君の思う、いい暇潰しを教えてくれないか」
趣味のダウジングにも飽きは来る。幻想郷に来た頃は楽しんでやっていたのだが、最近は外の世界からの遺失物も偏りがあって実りが少ない。それに普段ご主人に駆り出されている状況と視界がダブり、一概に安息の時ともいえない。
かといって命蓮寺で意見を募れば、半数は改めて奉仕活動を提案するだろう。息をするようにそういうことをするのが聖であり、宗教というものはそれに賛同する者たちの集まりなのだ。
その点、これは絶好の機会に思えた。無所属に近く、娯楽を謳歌する彼女は絶好の教師であり、自分でもくだらない冗談だとは思うが、これも一種の神のお言葉と言えなくもない。
「そうだねえ」
小町は思考を巡らせ、ぽつぽつと呟いた。昼寝、賭け事、夢日誌。日向ぼっこ、釣り、詩を詠む。
やがて小町はこちらに向き直り、真剣な表情で提案した。
「とりあえずすぐ実行できるものとして、河原で石でも積んでみるかい」
河原にしゃがみこみ、淡々と石を選んで握る。亡者たちの好奇の視線を浴びながらも、石の塔を立てようと、顔を寄せて集中する姿。
とてもじゃないが、ストレス解消と呼べそうになかった。
「それだけは、遠慮させて貰うよ」
結局、その晩は寝転がる以外に息抜きの方法は思い付きそうになかった。だが疲労感よりも充実感の方が強いのは、不覚にもいい酒だけが原因ではないのだろう。
まあ、たまにはこういうのも悪くない。
● ○ ●
「おはよう」
「ナズーリンさん、おはようございます!」
小町と小さな宴会を開いた翌朝、目を擦りながら門前に現れた私に、響子はいつも通りの挨拶をくれた。
そして私のかけたポーチが膨らんでいるのを見て、響子が「今回は早かったですね」と笑顔で付け加えた。
「君に心配されるようでは、私たちもおしまいだな」
私たち、というのは遺失物を出すご主人とそれを探す私の事だったのだが、響子は私と同胞たち、つまり子鼠たちの事だと思ったらしい。
私が尻尾に提げている籠を覗き込み、響子が同胞たちに挨拶をする。
「ご主人の様子はどうだい、ちゃんとやってるかい」
前回はちゃんと諭したから大丈夫だと思うが、念のため確認してみる。
すると響子は耳をぴくりと動かし、頬をかきながら私に向き直る。
「ちょうどナズーリンさんが捜索に出た辺りからでしょうか、敷居につまづいたり、花瓶を割ったり」
「ああ」
焦ってばかりではないか。
「昨日には猫背が戻ってきてました」
「寒さのせいだということにしておきたいね」
症状が背中に現れる様子だと、昨日の時点で思い悩む限界が来ているようだ。
「気にせず堂々としていろと言ったろう」と声を荒げる様を想像しようとして、断念する。どうも、私はあの人に強く言える気がしない。
すると、少し遠回りでも別の切り口から促す必要がありそうだが、門前から報告までの間に、有効策は思い付きそうにない。次の相談時に話せるよう、内容を考えておこう。
一方で、ご主人への対策が先伸ばしになっているのは、こうした甘い考えが原因な気もしている。
「まあ、いいか」
言ってしまってから、口をぐっとつぐんだ。微かに目線を送ってみたが、響子は気にかけた様子はなく、掃除を再開している。
証人はここにもいるかも知れない。渋る自分に鞭を打ち、訊ねてみる。
「なあ、私がよく口にしてる、いわゆる口癖とか。思い当たるものはあるか?」
私が問うと、響子は手を止め、明らかに質問の内容に疑問を抱いていた。しかし頭上に疑問符を浮かべながらも、ちゃんと記憶を辿り、考えてくれた。
「うーん、ご主人、っていうのはカウントしませんよね? 仕方ない、とか、やれやれ、とかでしょうか」
「『まあいいか』は?」
「あ、結構言ってるかもしれません。そんなニュアンスの言葉」
ここでも口にしていたのか。
響子の前でも、知らず知らずのうちに見せてしまっていたようだ。思わず手で顔を覆う。酒はもう残っていない筈なのに頬が熱い。顔から火が出そうだ。
「もしかして気にしてるんですか?」
気にしている。答えたものの、手を顔にやっているために、もごもごとした声になった。
意を決して顔から手を外す。
「昨晩友人に指摘され、初めて気がついた。意識しない内に皆にそんな自分を見せていたのかと思うと気が気でない」
大袈裟ですねえ。と響子が微笑む。
昨晩小町が話していた内容を、全てではないが、かいつまんで説明する。響子はふむふむと相槌をうち、耳を傾けた。
「なるほど、解決を後に回すから、解消できないと後々良くないと」
しかし響子は箒を二回ほど振ってから「でも私は悪くないと思いますけどね」と続けたのだから、意外だった。
風に吹かれた髪を直すふりをしながら、指の隙間から響子を伺い見る。
「だってそれだけ寛容ってことじゃないですか。自分の苦労と分かってても構わずかかって、達成したらそれ以外は後回し。相当優しい人でないとできませんよ」
指を外し、笑顔で掃除を続ける彼女を目で追う。
「寛容、か。物は言い様かな」
「でも確かに、解消できていないのであれば気にするべきでしょうが」
その点に関しては、検討中であるためなんとも言えない。
努力するよ。と弱々しく答える。
「でもそんなによく見てるなんて、やっぱり素敵なご友人ですね」
「やっぱり? まさかとは思うが、会ったことがあるのか」
まるで初めて聞く話でないかのように響子が話すので、聞かずにはいられなかった。先日の南瓜の煮付けの話もある。小町の仕事以外に向ける行動力であれば、食卓に混じる布石と言ってやりかねない。
「会ったことはないですけど、分かりますよ」
私の心配をよそに、何を聞くのか、という表情でこちらを見てから、響子が笑って続けた。
「だってナズーリンさんの見つけたご友人ですから、素敵な方に決まってます」
恥ずかしげもなく言い切られ、再び私の顔が赤くなる。
これ以上ないほどに顔が赤らんでしまってから、冗談のような口調で話を区切った。
「君はたぶん、法師の素質があるよ」
口調こそ冗談だったが、本心からだった。
● ◇ ●
凝った肩と頭を溶かすように、音の鳴らない水面をひたすら眺める。
手は目の前の竿を掴むが、意識しすぎて肩に力を入れないようにする。何も考えず、楽なように手で台に置いた竿を支える。
三途の川といっても僅かな川の流れは確認でき、一切の音を立てずに形成される流線と波紋は、意識を散らすには最適に思えた。
「今日はお休みかい」
振り返らなくても分かる。ここで私に声をかけるのはまず一人だ。
簡易椅子に座っているため、普段以上に小町を見上げる格好になる。振り返り、挨拶と一緒に、見れば分かるようなことを説明する。
「釣りにしたよ」
「みたいだね。案外、様になってるよ」
誉め言葉であろう言葉に、とりあえず礼を言う。小町の方も自然に出た感想というような感じだった。
先日羅列された内容のうち、釣りという単語が頭の中に残っていた。唯一自分のしている姿が想像できたためだろう。
というわけで霧雨魔理沙の言葉ではないが、善は急げ。寺の倉に埋もれていた誰の物とも分からない簡単な釣り道具を引っ張り出し、静かな三途の川に道具一式を持ち込んでいた。
どうやら聖輦船の船長は釣りの経験があるらしかった。そんな彼女に一緒に来てもらい、教えを直接乞うべきなのかも知れないが、生憎今日は遠方への説法のため、船を動かす役目があるらしい。
彼女は「釣りは黙って待つのが掟」と言っていた。それが魚に気取られないためなのか、辛抱強く待つという意味なのかは分からないが、とりあえず鵜呑みにし、小町に対して魚がかからないという不平不満は口にしなかった。
そんな私の隣で、小町は釣竿を見たり川の方を見たり、振り返ったり何やらきょろきょろしていたが、やがて言いにくそうに言葉を発した。
「ちなみになんだが、三途の川で魚は釣れないよ」
え?
なんだって?
内心、吹き出して直ぐに小屋へ帰りたい気持ちだった。
顔に出さずにいられたのは、意地と根性だろう。あるいは睡魔に襲われ、小町の声を話し半分に聞いていたからだろうか。
「それなのにぼうっと釣糸垂らして、何を待っているのかねえ」
そうと分かれば水面と樹脂の棒に目を凝らす理由はもう無い。目線を切り、横に立つ小町へ椅子ごと体を向けた。
「そういうことは早く言ってくれ。というか、ならばわざわざ候補に挙げないでほしかったな」
ここまで口角を上げるだけだった小町が、ついに吹き出した。
「いやあ、まさかここでやるとは思わなかった。静かな三途の川で釣糸を垂れる妖怪ねえ。風情かもだけど、さすがの亡霊も不審がってたよ」
亡霊クラスに変な目で見られるのは、流石に堪えるな。
思わず小町の傍らの亡霊を睨み付けると、目線に怯えたのか、小町の影に隠れてしまった。
ここでふと気がついた。珍しいことに、どうやら小町は仕事中らしい。亡霊が背後を着いてきて、帳面を片手に持っている。と言うことは、これから船で“向こう側へ”連れていくのだろう。
「でもまあ糸を引くまでは待つだけだし、案外今のあんたには向いてるかもね。気が向いたなら場所を移して続けてみればいいさ」
「他に釣り場になりそうなのは、山の方か、その下流の湖か」
人里近くの川も考えたのだが、一応妖怪の身であるし、警戒させたくない。それに命蓮寺の妖怪と知っている人間には、気を使わせてしまいそうで、なるべく避けたいという結論が出ていた。
山の川は河童に怒られるし、湖の方は吸血鬼の館が近くにあるとの噂だし、どちらも近づきたくない。竿の持ち主が倉に仕舞いっきりだったのにも、頷ける。
「……あ、折角だし片付けは是非ゆっくりするといい。もしかしたら、あんたが三途の川の釣り人第一号になるかもしれないからね」
小町が妙な言葉を残し、その場を立ち去った。不審に思いながら背中を見送り、川と置物と化した竿に向き直る。
冷静になってみると、ここで水面が跳ねるのを見たことがない。それに魚が住むにも、餌が生息しているとは思えない。
確かに、他に当たるべき場所がもっとあったかもしれない。
頭をかきながら背もたれに身を預けた。しかしすぐに道具を片付けるのも癪なので、そのままぶらぶらと、昼寝でもできないかと意識を散らした。
ぼんやりとしていると、反応を見せる筈のない竿が大きく動いた。
最初は気のせいかと思ったが、急かすような滑車の音に、気を抜いていた私も竿を手に取った。
「えっ? ちょっと、ちょっと待て!」
急いで頭を上げ、糸を巻き上げるためハンドルを回す。不馴れな操作だが、これで少しずつ巻き取れているはずだ。
しかし、いったい何がかかったのだ。小町の話では魚はいないとの事だったが、やはり魚の亡霊ぐらいはかかるのだろうか?
あるいは、転落して流された亡霊だろうか。蜘蛛の糸にすがり付くように、釣り針に絡み付く亡霊を想像する。
「しかし、これは重いな」
魚にしろ亡霊にしろ、相当大物なのだろうか。それにしては、逃げる素振りを見せない。いや、そもそも亡霊に質量はあるのだろうか?
何にせよこれが何者かを確かめなければ、気になって立ち去れそうにない。
久しぶりの力仕事に、額に汗が滲んできた。巻き取り具合を見るに、もう少しの筈だ。足腰を踏ん張らせて、竿を持ち上げる。
「よいしょっ!」
ついに、獲物を水面下から引き上げる事に成功した。
成る程、辛抱と労力の後のこの達成感。趣味として成立するのも分かるかもしれない。
そう思ったのも束の間、目の前に現れたのは魚でも亡霊でもなく、大きな木材だった。予想外の獲物の姿に、初めて釣り上げた感動は、何処かへ行ってしまった。
「なんだ、これは」
何度瞬きをしても、見間違いではない。茶色い魚でも何でもない、木材だ。
よく里では「大地を釣った」などという言葉が聞こえるが、用は流木に針を取られただけである。
負け惜しみの言葉を使うことになるとは認めたくないが、しかし、私の目の前に下がるこの物体は、明らかに魚でも亡霊でもない。つまり大地に分類されるのだろう。
だが目の前の大地は流木などではないだろう。葉が一つも付いていなければ、枝の一本も見受けられなかったのだ。
「三途の川ではこんな奇妙な大地が創造されたのか?」
顔を近づけて臭いを嗅いでみれば、鼻をつく臭いが私の顔を引っ込めさせた。
予想通り、長年水に浸かって腐食した木材の臭いだ。こんな臭いを好きな者はいない。
顔を近づけた際によく見れば、何やら人工物のようにも見える。ただ変形した木の幹ではなく、人工的によって組まれた木々のようだ。
一枚の板を囲むように別の板が組み立てられ、空間ができている。空間の広さは私が一人、横になれるかといったところか。棺かと思ったが、それにしては不自然な形状だ。臭いが示すように古い物なのか、板には無惨な穴が空いている。
「あっはっは! とんだ大物が釣れたじゃないか」
川から声が聞こえてきた。首を伸ばして板を避けるように目線をやると、川の真ん中から小町がこちらに手を振り、私の注意を引いている。
「そう、おかげさまで大物が釣れたよ。君の話では釣れない予定だったの、に」
目線の先には、小町と亡霊と、それらを乗せる木材の塊。
私が釣り上げた代物は、小町の乗る舟と、全く同じ形をしていた。
「小町! これって!」
「おや、昔うっかり穴を開けられて沈めちゃった舟かなあ。あの時はひどく叱られたもんだ。それがかかったなんて、いやあ、偶然だなあ」
言い回しからするに、偶然ではなさそうだ。彼女がどうにかして針にかけさせたのだろうか。
「帰ってきたらそいつをなんとかするから、適当な岸にでも引き上げといておくれよ」
いやあ仕事が一つ片付いちゃったな。と小町は言い残して行く先に向き直り、再び舟を漕ぎ始めてしまった。
何を言うべきか言葉を探していたが、文句が纏まらない。張り上げたところで無様な台詞なだけだった。
暫し口を開けたり閉じたりした後、文句をぶつけるのは断念し、目の前の舟を眺める。第一の釣り人とはこういうことだったのかと納得する。結果的に、小町に上手く乗せられてしまった。
聞いたところ、キャッチアンドリリースという言葉もあるらしい。文字通り釣り上げた魚を川へ帰してやることで、殺生することなく魚釣りを楽しむとのことだ。
それに習って今回も獲物を水中に帰すこともできる。が、形状も形状、まるで三途の川に不法投棄をするかのようで、非常に憚られる。
さんざん悩んだ挙げ句――早い段階から自分がこうするであろう事は分かっていたのだが――私は息を吐きながら竿を傾け、記念すべき初の獲物を岸へと引き上げた。
「まあ、いいか」
敢えて口に出した言葉の後、二人が笑って指摘する顔を想像する。
口癖も、案外悪い気はしなかった。
これは私の身の回りでよく聞く悩み事の例だが、この二つには大きな違いがある。
それは、教えにより助けられるかどうかだ。
前者は当人の行動量によって結果が決まり、後者は考え方、時には外部からの助言をもとに解決する。
後者で問題なのはあれもこれも挙げ始めればキリがなく、その大半はどのような答えを出しても正解として扱われることにある。
原因としても他人の軽率な言葉だったり、思い込みだったりと小さなもので、事案としても端から見たら小さなことが多い。
そして不思議とそういう場合こそ、案外、他人の方が解決法に気づいていたりするものだ。
● ★ ●
時刻は明朝、地は無縁塚。三途の川を近くに構えた、幻想郷の中でも特に辺境の、本来は人間の訪れないであろう土地。
そこに構える私の小屋に、今朝は珍しいことに客人がやって来た。それも、人間の客人だ。
「探し物はなんですか、見つけにくいものですか。とはよく言ったものだが」
印を踏んでいるつもりなのか、ただふざけているのか、ドアを開けたとたんに客人はつらつらと喋り出す。口調の滑らかさからして、私の閉じかけている瞼には気づいていない。
「自分一人で解決しないならばどうすればいいか。小さい頃に言われなかったか、困ったときには人の手を借りなさい、って。つまり探し物で困っている私は、探し物のプロに頼ればいい。だろ?」
その客人は「な。ナズーリン」と気軽に私の名を読ぶ。
妖怪鼠である私の睡眠を破った度胸のある客人、その正体は霧雨魔理沙という名の人間だった。魔法使いを職としていて、度胸と無謀さを除けば、そうそうレア度は高くない普通の人間。
その姿は以前出会った聖白蓮復活の時と同じく、黒いドレスに白いエプロン、片手に箒といったスタイル。それに加えてあの時と同じ笑顔で、金髪を揺らしながら平然と私の安息を壊しに来た。
「君はその、プロがどうとか、そんな訳の分からんことを言うために朝っぱらから来たのか」
「善は急げと言うからな」
正直急がれる身にもなって欲しい。辺りを徘徊する亡霊すら静かにしている時間に人を訪ねるなど、さすがに限度がある。
隠す気も起きず、目の前でため息を吐いてしまう。
「ため息なんてしてどうした。私は『とりあえず上がるといい』の台詞を待ってるんだが」
● ★ ●
私、ナズーリンは現在、人里に停留している仏教寺の命蓮寺に身を置いている。
にもかかわらず、愛しの寺を離れて人里離れたこんな辺境の小屋で朝を迎えたのには、れっきとした理由がある。
我が表向きの上司に、遺失物の捜索を頼まれているのだ。それも急ぎの用件と言われたら、体裁的にも性格的にも、断るわけにはいかない。
困ったことにこのような事案は今回に限ったことではない。度々振りかかる用件を早く終わらせるためにも、仕事中は無縁塚に立てた小屋を拠点として行動している事が多い。設備的には決して便利な拠点ではないが、遺失物は毎度人里離れた場所に転げ落ちているため、仮拠点から捜索を開始する方が効率が良いのだ。
「あー、君には何から諭せばいいのかな」
それにしても、まさかこんな所に客とは。台所と寝るスペースしか無いため、たとえ友人であっても上げたりはしない空間だ。
まだ回らない頭と共に、薄目を開けて目の前の客人をランク付けする。残念ながら友人未満、顔見知りあたりに位置する魔理沙は、まだ粘るつもりなのか「頼むよナズーリン」と軽々しく手を合わせている。
「私は今ご主人の探し物で手一杯なんだ。君のノックで仮眠に別れを告げた後、またすぐ出掛ける程度には忙しい」
「その探し物の片手間でいいから、無理かね?」
「探し物は片手間でやるから見つからないんだ」
両手で耳をわしわしと握ってなんとか目を覚ましながら、目の前の魔理沙を追い返す算段を立てる。
「そもそも、私の優先順位はご主人大なりイコールチーズだ。他にもいろいろあるが、この時点で君の交渉が成立する可能性はゼロに等しい」
「むう、確かに厳しそうだな。私が探して欲しいのはチーズじゃないからな」
当たり前だ。分かっている。
「実は高級チーズでなく、秋を探している」
「山に行きたまえ。紅葉が綺麗だぞ」
「秋の風物詩といっても、正確にいうと南瓜だな」
「里に行きたまえ。買うにも失敬するにも、そちらの方が適任だ」
それがな、今年は不作なんだよ。
魔理沙はさも自分が農家の者で、その苦労を背負っているかのように話す。本来は開店休業の魔法店を営んでいる筈であるから、野菜の出来はあまり関係ないだろうに。
「とりあえず、今日のところは引き取ってくれ。着替えて出掛けなくてはいけない。あまりレディの身支度を邪魔するもんじゃないよ」
「けち臭いこと言うなよ、同じレディ同士なら上がってもいいだろう」
それ以上の言葉を聞かずに、躊躇わずに戸を閉めた。このタイプには少しでも遠慮したら負けだ。
顔が見えていないことをいいことに、続くノックの音を聞き流しつつ、もう一度大きく欠伸をした。
「とんだ目覚ましだったが、まあいいか」
鏡を覗き、私の特徴であろう、頭頂に生えた鼠の耳を撫でて徐々に目を覚ます。人前では控えているものの、この起き方はもはや私の癖に近い。
ふと触れた拍子に、整っていない髪のまま出てしまっていたことに気づいた。前髪の一部が自己主張激しく跳ね上がっている。
激しいノックに急かされた起床だったため仕方ないのだが、少しみっともなかったかと反省する。
強情な髪を強めに撫で付けてから、顔を洗いに水場へと歩を進めた。
● ○ ●
「やあ、今朝もご苦労様」
「あっ、ナズーリンさん。おはようございます!」
遺失物の捜索を終えて朝一で命蓮寺へ向かうと、門前で山彦の修行僧によく会う。名は幽谷響子といい、よく箒を振り回し、寺中を掃除している感心な妖怪である。
「昨晩までずっと探し物だったのですか?」
「ああ、無縁塚の方に寝泊まりしていた。失せ物探しといっても手がかりを探すことからで、以外と時間がかかるものなんだ。範囲も定まらないしね」
足元を見ると、集められた落葉は綺麗に紅く染まっていた。紅葉の神もなかなか良い仕事をする。
「ダウザーっていうお仕事も、一人で各地を回って大変なのですね」
響子の言葉に、顔を上げる。
彼女は何気なくそう言ったが、私の本当の仕事は別にある。
それは毘沙門天の代理で命蓮寺の僧、寅丸星の監視役だ。
ただ監視といっても、実際は度々上司に近況を報告するだけで済む仕事だ。別に暗殺を企てている訳でもなければ、彼女の粗を探し蹴落とすのが目的でもない。
そのため私はさほど神経質になることもなく、彼女の部下として立ち振る舞えている。そういった事からも、寺の皆を始め、響子からもダウザーという認識を受けているようだ。
「ああ、まあ、ね。それよりどうしてご主人は出張の先々で忘れ物ができるのか、私は不思議でしょうがないよ」
私は少々大げさに肩を竦めてみせる。
それに気を悪くしたわけではないだろうが、響子の顔が少し、曇った。
「その寅丸様なのですが」
箒を振る手を止め、響子は本殿の方を心配そうに見つめる。
「昨晩、あまりお眠りになられていないようです。遅くに思い詰めた表情をしているのを見てしまって」
「ほう」
響子によると、彼女は夜更けに庭をじっと見つめ、考え事をしていたらしい。それも天を仰いでため息などという、深刻そうな仕草のおまけ付きで。
確かに、普段の印象からは異なる行動だ。素直に感謝の感情を示す姿が先に出てきて、響子の話した光景を想像するのが遅れたぐらいだ。
響子につられて本殿へ向けていた目線を、目の前の彼女に戻す。
「しかし、君もどうしてそんな時間に。ご主人とお揃いで、何か悩みごとかい」
「いえ、その。迷って、厠まで遠回りをしてしまいまして」
私の心配は、どうやらお節介だったようだ。響子は「紛らわしくてすみません」と頬を掻いた。
「君もここに来てそこそこ経つだろうに」
恥ずかしげに笑う響子に、つられて笑ってしまう。入門したての彼女の初々しさ、それも早朝の私にとっては、安らぎになっているのかもしれない。
束の間の休息に満足した私は労いの言葉をかけ、命蓮寺の門をくぐる。
「あっ、でも門前と寺の外周なら任せてください! 落葉の分布もばっちりですよ!」
「それなら結構だ」
背後から飛んできた元気な声に一度振り返り、手を上げて応えてやる。頭を下げた響子はちり取りでも取りに行くのだろうか、ぱたぱたと駆け出した。
私も前へ向き直り、捜索完了の報告を頭で組み立てる。
しかし、あの人が思い詰めるとは。いったい何があった?
● □ ●
衣服の埃を落としてしっかりと手洗いうがいを済ませた後、私はご主人へ報告をするために歩を進めた。
ここ命蓮寺は聖白蓮の教えを信仰する仏教寺である。それと同時に水霊、入道使いなどの古くからの信仰者を始めとした、教えに賛同する妖怪たちの拠点でもある。
命蓮寺最大の特徴は、所有する大型の妖怪船だろう。無音で飛行し人里から妖怪の山まで、少し本気を出せば魔界にも行ける優秀な船舶である。現在は命蓮寺の裏手、人里の外れに停泊しているが、来訪者にとっては仏像に近い扱いなのか、たまに賽銭が投げ込まれている。
庭越しに見えた聖輦船を見ながらそんなことを思い返していると、目的の部屋へたどり着いた。我が主、寅丸星の部屋である。
「どんな者でも一度話を聞いてみないと分からない」
疼き出す好奇心を抑えるように、扉の前でぽつりと呟いてみる。聖のよく口にする言葉だ。
どんなに軽そうな事柄でも、その奥底には大きな闇があるかもしれない。受け止める側の我々がそれをすべてを引き出してやらねばならない。そういった聖の底知れぬ包容力には、正直舌を巻いている。
意を決して襖を開くなり、真っ先に私の目に映ったものは丸まった背中と、小さなため息だった。
「本当にため息をついているとは」
毘沙門天に似た衣に虎を彷彿とさせる柄のスカート。そして雷雲纏った背姿だけでもう見間違うことなく、私の主人、寅丸星である。
本来ならば「書を前にため息など集中したまえ」と言いたいところだが、先程響子から思い詰めている様子と話を聞いた後だ。開口一番、そう強くは当たれない。
丁度ため息と重なったか、彼女は襖が開かれた事にも気づいていないようだった。金髪のショートカットを揺らし、彼女はもう少しだけ頭を垂れた。
「どうしたご主人、ため息を吐くと幸せが逃げるぞ」
私の声に素早く振り返り、ああナズーリン。と弱気に言葉を発した。
虎の威を借る、ではなく、正真正銘虎の妖怪。そして毘沙門天の弟子。しかしながら今朝の様子はその片鱗も見せず、明らかに不調である。
金色の髪に通る芯のある黒髪は、いつもと違い自身なさげに隠れ。里の人間が話す『ありがたい後光』とやらはとても差しては見えない。本人が知らないだけで寺では少し曲がっている背中も、今日は丸み一割増しだ。
「人に見えないところでもしゃんとしなさいと聖は言うじゃないか。それを守ってきたご主人がどうした、体調でも優れないのかい」
「いえ、別に、そういう訳ではないのです」
言葉を区切ると書の書き写しをする手を止め、彼女はこちらに向き直った。手は膝に揃えられ、先程出ていた猫背はしゃんとしている。
それから整えるように一度息を吸い、決意の表情を固める。
何事かと訪ねそうになった矢先、急に彼女の背が小さくなった。
「ナズーリン、いつも苦労をかけてすみません。反省しています」
瞬きをしても、見間違いではない。顔は見えず、頭の頂点に止めた、髪飾りだけがこちらを向いている。背が縮んだのではない、こちらにぐいと頭を下げた状態だ。
予想外の行動に、言葉が詰まった。
私に謝罪した? 苦労をかけてすみません、と言ったか。
こう言ってはなんだが、失せ物探しに駆り出されるのは今に始まったことではなく、そう大きな事案ではない。普段なら反省よりも解決した喜びが先なのか「見つけてきてくれたのですね、ありがとうございます!」と私の手を握ってにこにこしている彼女が、今日はなぜびしりと頭を下げているのか。
「えっと、どうしたご主人。そんな急に」
今は私の気持ちなどさて置き、彼女の行動の真意を問わねばなるまい。
さすがに上司に頭を下げっぱなしにさせるわけにはいかない。
「ご主人、どうか顔を上げてくれ。あなたがそれでは、遣いの私は立つ瀬がない」
膝を付いて言葉をかけると、彼女は恐る恐る、といった様子でこちらを見た。不安げにこちらを見上げるその表情は、とても人前では見せられない。
「怒って、いないのですか」
「ああ、鼠達ですら慣れるような事態だ。今さら怒るものか」
そうですか。と安堵の息を吐きながら、彼女は姿勢を正した。
しかしその目にはまだ凛々しさは戻らず、眉は自信なさげに形作られている。
「最近は特に、ナズーリンには迷惑をかけてばかりな気がしまして……あなたも忙しい身であろうというのに、それを私が阻害しているように思えて」
そう言って彼女は再び目を伏せ、膝の上で握った手を見つめた。どうやらたまたまの気分などではなく、本当に思い詰めているようだ。
どうしたものか。
彼女は命蓮寺の中でも、その聖への信仰心と、持ち前の誠実な性格から日の光のように私たちを内から照らす存在となっている。その太陽が陰る事は彼女だけでなく、命蓮寺全体の問題なのだ。この事に、彼女自身は未だに気づいていない。
「ご主人、よく聞いてくれ」
指を立てながら、目の前の彼女を落ち着かせる言葉を探す。
「まずご主人は勘違いをしている。あなたの命を直々に受けられるということは、私にとっては誇りに等しい」
主は自らの手の届かないこと、あるいは手もつけられないような多忙から、部下に任務を命ずる。部下は自らが力になれることに喜び、その身をもって命に応える。上下関係とは得てしてそういうものだ。
「ご主人は聖に使命を与えられたとき、嬉しいだろう?」
「はい」
「聖の命を受けるとき、誇りに思うだろう」
「それは、もう」
「それと同じだ」
彼女が納得したかは分からないが、先程よりも十分イメージしやすくなったはずだ。
「先程多忙の身を案じると言っていたが、命ぜられることに対して私はさして不満を感じていない。たとえそれが失態から来る失せ物捜しでも、だ」
言葉を選んでから、彼女が何か言いたげに目線を上げる。
「その、毎度似たような案件でもですか?」
「似たような案件でもだ」
「怒ったりはしていないのですか?」
「ほとんど、していない」
地底に行った帰りに無くした際は、さすがに怒った記憶がある。旧地獄と言われる地へ向かう際は、自分の身と命蓮寺の今後を案じた。
「ともかくだ、私の顔色を窺う必要はない。聞いたところによると、昨夜も思い詰めて寝付けていなかったそうじゃないか」
動揺が漏れたのか、膝に乗せていた拳がぴくりと動いた。
「私だけでない。寺の者も心配している。責任を感じるなとは言わないが、私を扱うことに躊躇されるのは、私の望むところではない」
● □ ●
暫しの沈黙の後、彼女の背が少し、高くなった。
「分かりました。ナズーリン」
しっかりとこちらを見据え、顎を引いた。その目を見るに、この件に関しては大丈夫そうである。
「分かってくれたならいいんだ」
毘沙門天の代理ともあろう方が、顔色を窺い、半ば懇願する形で命ずるというのは、正直他には見せられない。
用件を考えれば慎ましく有るのが望ましいのかもしれないが、身内には少しくらい強く出てもいいのではないか。私はそう思う。
彼女はまだ何やら思うところがあるようで、しっかりとこちらを見据えて口を開いた。
「しかし、私も罪悪感に駆られてただ呆けていたわけではありません。度重なるこの失態に、考えました」
「それが、昨晩の」
「はい」
一度息をつき、言葉を続ける。
「私もまだまだ修行の身。与えられた地位や神具に頼るのみで、それに見合うだけの精神が無いのだと。宝塔が私の元を離れてしまうのも、私が認められていないが故、己の未熟さ故と考えました」
絞り出すような声は己への憤りからか、今にも消えてしまいそうである。
しかし顔を上げたときには、いつものびしっとした表情に戻っていた。
「貴女に感謝すると共に、早く毘沙門天として認められるよう、この寅丸星、より一層修行に励みます」
成る程。
本来なら施錠の確認や火の元の確認と何ら変わらない、持ち物確認程度で済む筈なのだが、そこまで発展させるとは。
生真面目なご主人らしい、ポジティヴシンキングと言えなくもない。
しかし本音を言えば、具体的な例を、特に声出し確認を一番に挙げてほしかった。
「……分かった。そのご主人の気持ちは良く伝わった」
そんな真剣な表情をされては、私はそれ以上何も言えない。これだけ真面目な目をして語る上司をさらに叱れる部下が居るのなら、是非見てみたいものだ。
「さあ、この話は終わりにしよう。今度は私から報告をさせてくれ」
私は外出用に斜め掛けした鞄から、片手サイズの巾着袋をご主人の前に差し出す。
「これが、頼まれていた物だ。確かに見つけてきたぞ」
すると先程の押し潰される寸前といった表情から一転、ねだった物を買い与えられた童のように、彼女の表情がぱっと晴れ渡った。
「わぁ! ナズーリン、ありがとうございます!」
『大切なもの』とやらが入っているという、とても軽い巾着袋。それを覗き込み、中身が確かに揃っていることを確認する。
仄かに満足げな表情をしてから、私に顔を戻す。
「実はこれ、妖怪の山で買い求めた土産物なのです」
ほう、そうなのか。
「ほう、そうなのか」
「土産物を無くしたなんて、バツが悪くて言えなかったんです」
そういうことだったのか。
「そういうことだったのか」
「ですからナズーリンに早急に探してもらえて、本当によかったです!」
今までの経験から、適切な相槌を咄嗟に返す。笑顔で礼を述べられたからには、謙遜するしかないだろう。
「この程度なら御安いご用だよ。だがまあ、気を付けてくれたまえ」
ご主人は後半を聞いていたのか聞いていなかったのか、巾着袋をごそごそとして私に何かを差し出した。
「はい、これがナズーリンの分です!」
目の前に掲げられたのは、小さな金属製のストラップだった。簡単ながらも小綺麗な作りになっており、一緒に紐に通ったプレートにはネズミらしき絵が掘ってある。
「河童の方が販売していた細工品です! 簡単ですがナズーリンを掘ってもらいました。どうです、驚きましたか?」
「私の分とは、ありがとう」
目を輝かせて土産物を渡すご主人に、出来るだけ微笑みながら礼を言った。手のひらに乗せ、さも初めて目にしたように、プレートの自分を見てみる。
嘘も方便、という言葉がある。
ご主人には誠に残念なことに、私は捜索の時に中身の確認をしてしまっている。
つまりどう足掻いても、驚きようがなかったのだ。
● ◇ ●
「あははっ! そのご主人の探し物とやらは、本当に妖怪の山で買い求めた土産物だったと!」
「そう、何か他に重要な物があるのかと思えば、本当にそれしか入っていなかった」
私は後日、頂いた休日を使って無縁塚に来ていた。そして大概そこで寝転んでいる死神の友人に、近々のご主人に関するエピソードを話していた。
早い話が、愚痴である。
「なんか前にも無かったっけ? 妖怪の山の辺りで落として中身がおかしかった話」
「魔法の森に落とした話かな。霧雨魔理沙に回収されて、再利用された袋が藍色に変色して帰ってきた」
そうだったそうだった。と腹を抱えて大笑いするのは、死神の小野塚小町。
別に仕事が一緒だったわけでも、彼女が命蓮寺に出入りするわけでもない。無縁塚の小屋で行動する内に、そこに居たから会話するようになった。きっかけはそれだけ。私にしては珍しい友人のきっかけである。
しかし友人と言っても時間を合わせてどこへ行くわけでもない。会ったときだけ、気が向いた内容をお互い話すだけ。それだけなのに、何故か馬が合った。彼女があっさりとした性格で、必要以上にベタベタしてこないというのも、気の合う要因だろう。
「虹色にしたり藍色にしたり、あの子は染め物でもしてるのかね」
小町が無縁塚の草地に手を付いて、赤い髪を揺らしながら気分良さそうに笑う。
彼女は背が高く、斜めに構えて、ようやく目線が同じ高さになる。
「そう、思い出したが、先日魔理沙が訪ねてきたな。南瓜がどうとか言っていたが」
「かぼちゃ、ねぇ。この間の祭りで使う気だったのかな」
「詳しくは知らないが、急に食べたくなった、とかではなさそうだったな」
当時の魔理沙の様子を思い返すが、連動して南瓜の煮物、それも味と匂いをしっかりと想像する。するとどうだろう、魔理沙の記憶はそれらに容易く塗りつぶされてしまった。
「煮物、食べたいな」
「いいねぇ、あたいも命蓮寺にお邪魔しようかな」
ぽつりと溢すと、小町が食いついてきた。食事の席に座るかは置いておいて、死神が寺にやってくると、果たして一体どうなるのだろう。皆目検討もつかない。
「あれ、牛乳で煮ても美味しいよな」
「え、それやったことない」
「本当か? 甘くて美味しいぞ」
宙を見上げて味を夢想する小町を眺めて、それから何となく目線を奥に移す。無縁塚の奥地に続く、雑木林が遠くに見えた。
幻想郷は巨大な博麗大結界により、外界と区切られた空間である。その中には要となる博麗神社をはじめ、人里、妖怪の山、冥界など様々な地が存在する。
中でも無縁塚は結界が緩み、少し空間が歪んでいる特殊な土地だ。普通に見る分にはただ外界からの漂流物の多い原だが、揺らぎに近い木々の中を少し歩き進めれば、途端に景色は変わり、別の空間へ歩み進んでしまう。
それは幻想郷内や、外来人の住む、いわゆる外の世界とだけには限らない。あの世の入り口として光明高い、三途の川へも通じている。
通常一人では渡れない三途の川だが、閻魔様が裁きを下す地獄は川の対岸のさらにその先にある。
そこで舟を出し、霊を対岸まで渡すのが死神の仕事の一つ。そして私の目の前にいる小野塚小町の仕事は、まさにそれ、三途の川の舟渡しだ。
死神から来る薄暗いイメージとは裏腹に、昼間の勤務もある職の筈、なのだが――
目をつむって考えていた小町が「うん」とも「うーん」ともとれる声を出し、後ろに付いていた手を戻した。
「味は今度おたくのお寺で試すとして、だ。あんたたちは何かやったのかい」
何か、とはなんだろう。まさか騒動を起こす寺と思われている訳でもあるまい。
私の頭に疑問符でも見えたのか、小町が促す。
「ハロウィンだよハロウィン。あの魔法使いもたぶんそれだったんだろ」
ああ、それか。
「流石に文化が違うかな。仏教寺だし。墓の方では死んだ墓守が何やら騒いでいたが、命蓮寺としては特に」
「騒音被害の責任を取るおつもりは」
「取らん。別団体でむしろうちは迷惑している」
茶化す小町を一蹴し、水筒の水で喉を潤した。蓋を閉めながら、先ほどやった雑木林に目線を戻す。
あの先を真っ直ぐ行くのが、経験で覚えた、三途の川まで繋がる道順だ。その道が、正確に言えばその着いた先の様子が気になる。
「なあ、本当に戻らなくていいのかい」
私自身は悪いことをしているわけではないのだが、たまらず遠慮がちに訪ねてしまう。
彼女自身、言わなくても分かるはずだ。戻るとは職場である三途の川に、である。
「ん、いいのいいの」
少し首を捻って、私と同じ方角を見る。雑木林以外に何かが見えたのか、二、三度頷いて顔を戻す。
「今日はそんなに溜まってないし、大丈夫でしょう」
そう言って小町は先ほど私がしたのと同じように、手に持ったものを傾けた。違う点は私が水筒で、彼女は徳利と御猪口であることだ。
「溜まってないなんて、見もせずによく分かるな」
「あたいを舐めちゃいけないよ。“距離を操る”あたいの手にかかれば、すぐそこの景色を見るのと同じさ」
「本当か、それ」
嘘か真か、断定できない範囲であるからたちが悪い。見極めるような私の目線をよそに、小町は「水をくれ」と手を出した。
「……まぁ、君が良いというならいいか」
彼女はこれで勤務時間中というのだから、驚きである。
● ○ ●
土産物失踪事件解決から数日、私は早めに支度を整えて寺の門前へ向かった。
秋物の服に袖を通しては来たが、この時間帯は流石に肌寒い。寒気に抵抗して無理矢理目を覚ましていると、今朝も響子は変わらぬ元気な挨拶を飛ばしてくれた。
「あっ、おはようございます!」
「やあ、おはよう」
彼女は時間帯に適した暖かい格好をしてはいるが、それにしても寒さなど微塵も感じさせない。元気印とはまさにこの事か。
「君は朝から元気だな。寒くはないのかい」
「今朝は結構冷えてますけど、ちゃんと厚着してますから、大丈夫です!」
「そうか。私なんかは特に耳が寒い」
鼠の妖怪と違い、山彦の耳は長い毛に包まれてふさふさ、あるいはもふもふといった感じだ。
これからの季節は非常に羨ましい。
「それにしてもナズーリンさん、こんな早くからどうしたんですか。お散歩ですか?」
「ああ、君に渡すものがあってね」
響子が促してくれたので、さっそくだが懐から例の土産物を取り出す。
一度振って鈴の音を鳴らし、彼女の視線を向けてから手渡してやる。
「ご主人が山に行ったときのお土産だよ。君の分だ」
自分へのお土産。そう理解したとき、彼女はぱっと目を輝かせた。
私に渡されたのと同じような、ストラップ状の細工品だ。緑色の紐を通した札には「健康祈願」と書かれていて、傍らには小さな鈴が付いている。
「わあ! いいんですか!」
「いいんですかって、ご主人からのお土産だよ。礼はあの人に言ってやってくれ」
休日を貰い友人の所へ赴いていたため、渡す日が少し開いてしまった事は黙っておこう。
そんなずるは知るよしもなく、彼女は「やっぱり付けてお礼言わなきゃね」と肩にかけている小さな鞄に結び始めた。
それが完了してから、そうそう、とこちらを向いた。
「寅丸様、元気出たみたいですね」
「うん? ああ、確かにね」
「確かに、なんて他人事みたいですね」
響子が箒を動かしながら、意外そうな声を出す。
「どういうことだ」
「てっきり何か悩みごとがあって、ナズーリンさんがそれを解決したのかと」
解決なんて。私はご主人に思うことを伝えただけだ。
「解決というほど、そう難しいことは言ってないよ。あなたはよくやってるから自信持っていい、あと私をこき遣うのに躊躇するな、とかね」
こき遣うって言い方はどうなんですか。響子がからからと笑う。
「うーん、でも確かに。あの人がびしばし指示してこき遣うのは、想像しづらいなあ」
「無理もない。当人である私だって想像できないからね」
秋にしては冷たい風が吹き、思わず首を竦めた。風の吹いていった方向を、何気なく目線で追う。
「あの人は他人に頼らないんじゃない、遠慮し過ぎてるんだ。見返りなんて求めず手を伸ばし、その癖返せるものがないからと人に助けを求めない」
まあ、私に助けを求めるのは随分と慣れた方だが。
「もしあの人があからさまに悩んでいたとしても、自分から悩みを打ち明けないのは、決して君を信用していないんじゃない。それは、分かっていてほしいな」
あの土産物だってそうだ。土産の一つ二つ、無くたって誰も気に止めはしないのに。
自分に関しては注意が足りない癖に、人の事には気を配れる、むしろ気を配りすぎなのだ。
「小遣いだってたまに菓子をくわえているのしか見ない。もう少しくらい、自分の娯楽に使っても良いだろう」
いけない、少し五月蝿くなってしまっただろうか。
「まあ、あの人の話はいいか」
鼻から息を吐いて落ち着くと、背後からくすくすと声が聞こえる。目を開けてそちらを見てみれば、響子が口に手をやり、微かに笑っていた。
「なんだ、人が話してるのに思い出し笑いか」
「いえ、違いますよう。ナズーリンさん、本当に寅丸様がお好きだなって」
お好きって。
「違う、私は直属の部下としてあの人をよく見ているだけだ。それにあの人の評価が誤解されるのは、私が動きづらいのに直結する」
「はいはい、そうですね」
「はいはいそうですねって、私にそんな言い方するかい君は」
再び掃除を再開した響子の言動がやけに素っ気ない。先程とは手のひら返しの様子ではないか。
よく見れば口元が微かに笑っている。そして追求すれば顔を背け、終いには背を向けてしまった。
「君は笑うけどな、あの人の印象が悪くなればな」
「ナズーリンさん」
震える肩を止め、ふっと息を着いてから。振り返った響子はいつもの柔らかい笑みを湛えていた。
「大丈夫です。寅丸さまが裏表の無い優しい方だと、私も、寺のみんなも知ってます」
命蓮寺の中でそんな誤解されてる方が居たら会ってみたいですよ、と響子は自分で言って笑ってから、それに、と続けた。
「それに寅丸さまが皆に好かれてるのは、本当はナズーリンさんが一番知ってるじゃないですか」
まあ。
「まあ、それはそうなんだが」
それ以上は何も言えなくて、強張っていた尻尾をへたりと脱力させた。
● ◇ ●
私が小野塚小町と出会ったのは、聖白蓮復活の少し前の事だった。
聖復活のための倉の破片と、ついでにご主人の宝塔を探して回る際、無縁塚を仮拠点としてテントに寝泊まりしていた。その布製の住まいが紆余曲折あって今も使われる小屋になるのだが、今はその経緯は置いておこう。
記憶が正しければ、たしか昼過ぎの事だった。その日の進展がどれほどだったのかは定かではないが、ひどく疲れていたことを覚えている。
簡単に昼食をとって、日が暮れるまでに別の方角を探そう。そう算段を立てながら歩いていると、地面に横になる人影が目に入った。
服が野草に擦れるのも構わない。地面に脇腹を付け、肘を着いた手で頭を支える。怪我や急病といった類いではそうはなれない、まさしく「だらしなく」を体現したような体勢でその者は寝転がっていた。
「またか」
度々現れるこの女に、私は嘆息しそうになる。
自分の土地ではないのだから私に咎める権利はないはずだが、敷物も敷かずただ寝転がっているだけというのは、警戒とまでは行かずとも、不審には思っていた。
只者ではないのだろう、というのは傍らに転がっている大きな鎌を見れば分かる。幻想郷でも鎌を持つような職は、死神か農家ぐらいのものだ。
その死神であろう人物は肘が疲れたのか背中から寝転がり、気持ち良さそうに天を仰いだ。それから視界の端の私に気づき、手を頭の後ろで組み直した。
「いい天気だね」
それが私に向けられた言葉であると気づくのに、時間がかかった。それだけ自然で、よく通る声だった。
「確かに、いい天気だ」
どうやらコミュニケーションのとれない死神ではなさそうだ。一つ警戒度合いを下げる。
「こんな所で何をしているんだい。これから誰かを迎えにでも行くのか」
まさか私のではないだろうな。言いかけて、やめる。
「暇をしている」
「ひま」
迷いのない口調に、思わず復唱してしまう。そうか、暇をしているのか。
「ああ、安心しな。別にあんたの様子を観察しに来たとかじゃないから。あたいは“これ”は使わない方だしね」
言いながら、女は傍らに投げ出した鎌を指だけで指す。
決まりなのか種族の癖なのか、死神たちは職務中、必ず鎌を持ち歩くと聞いたことがある。つまり横に転がして寝転んでいるということは、彼女は職務中に「暇をしている」ということか。
「度々見かけてはいたが、仕事は終わっているものなのだと思っていた」
本心半分、皮肉半分だった。
初対面相手にはこのぐらいの言葉の配合が、相手の性格を掴みやすいものだ。
女は特にむっとした様子もなく、答えた。
「暇はできるものじゃなくて作るものさ。肉体労働に休憩ってのは必須だからね」
どうやら仕事が辛いとかでただ逃避しているわけではないようだ。しかし堂々と言い切る辺り、なかなか図太い性格をしているか、私とは感覚がずれているらしい。
「まあいいか」
危険人物ではないが、やはり中々の変わり者。という判子を押す。
思えば死神は相手に寿命を告げた後、説得なり武力行使なりで連れて来る。霊を渡すために川の向こうまで船を漕ぐ。分業しているとはいえ、確かに結構過酷な肉体労働なのかもしれない。
くだらないことを考えてから、もう立ち去ろうと歩を進めたとき。女は私の背中に声をかけてきた。
「なああんた」
「なんだい、休憩時間を邪魔しちゃ悪いと思ったんだが」
先程まで背中をつけていた女は、肘をついて身をひねり、こちらに視線を向ける。
「肩こってないかい?」
肩?
「見たところ、あんたはその小さな肩に重荷を背負いすぎてる。尽くしすぎじゃないかね」
先程から目尻を下げるばかりの死神が、その時は私の背景を見透かすような、鋭い目をしていた。
今思えばその目付きが信用の印を押す要素になっていたのだが、それはまだ知るよしもなく。知りもしない癖にずけずけと物言う死神だな、というのが第一印象だった。
「お仕事に勤しむのは結構だが、あたしの仕事を増やすなよぉ」
そう言って再び背を向け、先程までしていたのと同じように、横になったまま杯を傾けた。
その晩三途の川近くを通りかかったとき、渡る方法が分からず岸をさ迷う亡霊が多く目についた。
それが彼女の暇に起因するものとはつゆ知らず、当時の私は「最近はそんな物騒な時期なのか」と外界の心配を少しした。
● ◇ ●
「ああ、そんなこと言ったかもねえ」
目の前に胡座をかいて座る現在の小町は、御猪口を片手に無責任に天を仰いだ。
「きっとあんたが相当くたびれて見えたんだな。あたいが声をかけるってことは」
「その日も一日捜索して帰ってきた後だったからね」
「なるほどね。労働の辛さが分かる優しい小町ちゃんは、そういう人を見ると放っておけないからなあ」
真偽を問うために目線を合わそうとするが、かわされる。
「ん、美味い。これも土産物かい」
目の前に横たわる魚の干物を、小町が箸を使って器用につまむ。
「いいや、これは信仰者からの奉納物さ。平たく言えば、お裾分けだ」
小町がつついた魚の干物を、反対側からむしって口にする。その隣には小町がさっき作った芋の素揚げと、同じく小町が持ってきた酒がある。
数刻前には捜索をしていた日というのに、どう転ぶか分からないものだ。
夜、捜索を終えて機嫌良く無縁塚に戻る道すがら、三途の川で小町の姿を見つけた。普段見慣れない時間だったので聞いてみれば、友人に代わりを頼まれ夜勤に入っているという。
思えばそこで「私は機嫌が良い。一人酒でもしてから寝ようと思っていたのだが、君が夜勤では仕方ないな」と挑発してしまったのが失敗だった。私の発言の直後、小町は目を輝かせ、夜勤の筈であるというのにあっという間に肴を用意し、宴会の仕度をしてしまったのだ。
今日は私の手元にも御猪口がある。口当たりの良いすっきりとした酒は僅かに私の頬を紅潮させ、酒気に吹かれた頭は、恐らく気まぐれであろうが、彼女と出会ったときの懐かしい記憶を思い出させた。
出会った当初から彼女は寝転び、或いは酒を片手に笑っていた。今までもこれからも、それはずっと変わらないように思える。
「誘惑しておいてなんだが、本当に仕事の方はいいのかい」
「いいのいいの。元々あたいはこの時間、誰かとこうしてるつもりだったんだから。船に悪戯されてなければ、この際何でも良い」
挙げ句、「元を正せば代わりを私に頼んだ奴が悪い」とまで言い出した。気の毒だが、それには同意せざるを得ない。
「まあ、いいか」
知らぬ友人に一つ合掌し、私は素直に美味しいお酒を頂くことにする。
塩のまぶされたさつま芋をかじっていると、小町がぽつり、「肩」と呟いた。
「肩、まだ凝ってるかい?」
何の話かと顔を上げ、こちらを見る小町と目線が合う。それから漸くして、先程の話の続きだと理解した。
「まだ、と聞かれても、あの時なんて答えたかは忘れてしまったよ。適当な事を言って立ち去った気がする」
聞いた口で何だが私も覚えていない、と小町が小さく笑う。
「まあ少し凝っているかもな。背筋伸ばして、勤労な生活サイクルをずっと続けているからな」
「そうか。お互い誠実な仕事ぶりは変わらずか」
言葉の違和感に瞬きをしている内に、再び小町は干物に目線を移した。「ああ美味い美味い」と箸を進めている。
「君は疲れてないかとよく言って、整体師にでもなった方がいいんじゃないか」
「死神は目が良いんだよ。肥えていると言ってもいい」
「確かに、職業と種族によるもの両方かもね」
死神の目が肥える要因と言えば生き物の死と生。それしかないだろう。
そんな目に疲労の烙印を押されては、それが死を暗示するものではないかと疑うのも、無理はないのではないだろうか。
「寿命は見えるのかい」
「見えるよ。言わないけど」
「死因は?」
「推測はできる。たまに賭けたりもする」
寿命間近な生者を物影から除き、ひそひそと話す死神。あまり想像したくない光景だ。
私の顔に不安そうな表情が出たのだろうか、小町が笑ってフォローする。
「見えると言っても一応だし、他人の死を物事の対象にするなんて、そうそうしないから安心していいよ」
そうそう、ということは、以前は行ったことがあるのだろうか。聞いてみると彼女は「あの頃はあたいも若かったね」とだけ溢してはぐらかした。
当時の小町の様子や賭けの結果が非常に気になるが、聞いてしまったら暫くは尾を引きそうな気がする。
そんな時期も含めて今の人格形成、というところか。
「まあ、いいか」
勝手に納得してこの件は済ませようとしたとき、まじまじとこちらを見つめる、小町の目線に気づいた。
静かになった前方を見れば、小町は箸を口に運んだ形のまま、ぴたりと動きを止めている。
何か変なことを言っただろうか。
「どうした、何か気を悪くしてしまったか」
探るように声をかけてみても回答は無い。
返答の代わりに、まるで何か閃いたかのように、くわえていた箸をこちらへぴっと向けた。
「それだ」
何を挙げているか気になるが、その様にされては集中できない。
「箸で人を指すのは感心できない」
「ああ、すまん」
慌てて箸を握り込み、小町は人差し指でこちらを指し直した。
「それ、あたいが感じてた違和感」
違和感? 何の事だろうか。
「その『まあいいか』ってやつ。あんた意識してないだろうけど、よく言ってるよ」
「え」
思わず口に手を当てた。
感情を落ち着かせるためだろうか、自分の瞬きが増えたのが分かる。
別に失言をしたわけではないのだが、自分のコントロールできてない部分を人に指摘されるのは、不思議と恥に近い感情がある。
「そんなに言っていたか」
「数えちゃいないが、あたいが気づくくらいには」
全く意識していなかった。癖というのは得てしてそういうものなのだろうが、真っ向から指摘されると気恥ずかしい。
だからといって言われたものを気にするなというのも無理な話だ。
「ああ、それだったのかもな。煮えきってなさそうな感じは」
……なんだと?
予想だにしなかった言葉が飛び込んできて、反射的に耳がぴくりと動いた。
「その煮えきらないというのは、私の事か」
他に誰がいる。と小町は眉を上げる。
「いつもとは言わないが、あんたが話をするとき、どこか納得してないように聞こえてね」
「納得していない?」
自分でも情けない相槌だとは思う。
だが話の先が私には見えないので、小町の言葉をオウム返しにするしかない。
「例えば、主の捜し物で各地を回るのは大変だけど、仕事だからまあいいか。死神に心配されても私は生きるしかないし、多少の疲労はまあいいか」
小町は要所で音色を変え、説明する。
「どっちも現状に不満不安を残していても、途中で考えをシャットアウトして先送り、って寸法だ。自分でも意識せぬ間に切り捨てた部分が溜まってく。あんまり良くない感じがする」
珍しく小町に強く断言され、思わず目を逸らした。目線を移した先の魚を、自分でもぎこちなく摘まむ。
そしてイメージする。まだ身のついた魚の骨を、急いで放る自分を。
「まあいいか」と呟く度に繰り返し、気がつけば自分の丸めた背中を越すほどに、積もり積もった身の残る魚を想像する。
「その鬱憤をどうにか処理できてるならいいんだが、あんたの場合」
小町は一度言葉を止め、私の肩辺りに目をやった。
「あんたの場合、あんまり上手くはなさそうだ」
意識しないうちに肩でも張っていたのだろうか。
居住まいを正すふりをして肩を小さく回し、一度ほぐしてみる。
「つまり、なんだ。私は何でも先送りにする性格だったのか」
「何でも、とは言わないが」
小町は酒で舌を濡らし、続ける。
「前提として、あんたは賢い。自分の思考が完全に停止して、打つ手がないからまあいいや、っていうのとはまた違う。本当はその先も考えられるが、解決するのは面倒だからまあいいや、ってパターンだ。諦めきれない不平不満が、少なからず残る」
「つまり面倒くさがりだと」
「だからそう焦るな」
意を決して唇をぎゅっと結び、小町の言葉を待つ。
「考えるなとは言わん。あんたの場合、想定外が無いよう頭を働かせる性格なんだろう。ならその分、そこで動かした頭を労ってやるべきで、ガスを抜けという話になるんだ。簡単にいえば、ストレス解消だ」
もう一度肩を上げて、落として。強張っていた肩の力を抜いてやる。なるほど私はストレスが溜まっているらしい。
確かに納得できる話だ。
そう相槌を打とうとしたが、また何か余計なことを言ってしまいそうだった。口をつぐんだまま縦に頭を振り、納得したことを示す。
「うむ、分かれば宜しい」
小町はいつになく満足げな表情をした。
「開き直ってしまうってのも一つの手だが、理由もなしに開き直れる性格してなさそうだしねえ」
続けて溢し、それからふうと息を吐く。
「しかしさ、酒の入った死神の話をこうも真面目に聞く奴が居るかね。丁寧にうんうんと頷いてさ」
恥ずかしさのあまり、すんでのところでロッドを振り回すところだった。
手に持ったものを傾け、上乗せした酒気で赤らみを誤魔化す手段を取ったのは、まだ冷静だったと思う。
● ◇ ●
続けてつまみを口にして、落ち着いてから考える。始まりは私の肩が凝っているかからだったか。
「言い方は悪いが、普段ごろごろしてる死神から見ても、私はそんなに疲れて見えるかい」
「見える。あんたは少し、生真面目すぎる」
きっぱりと、先程と似た言葉を私に放った。
何か自信があるのか、「あたいの上司ならそう言うだろう」と小町は得意気だ。
「君の上司か。会ったことはないが、苦労人だというのは想像が付く」
「確かにそうかもしれない。あたいより気の抜けない仕事だろうしね」
その職については以前に聞いたことがある。たしか閻魔の裁判長だったか。
「その閻魔様が見るまでもなく、君から見ても私は『生真面目過ぎる』わけだ」
「そう。たまには荷物を降ろして心も体も休めてやらんと、あんた早死にするよ。これは死神としての忠告だ」
酒を流しながら語る点を除けば、それはまるで専門医のような語り口だった。
死神こそ命の専門家と言われればそうなのだが、彼女は橋渡しがメインなのでなんとも言えない。
それよりも、医師に命を告げられるのと死神に命を告げられるのでは、どちらが堪えるものなのだろう。どうでも良い疑問がまた頭をよぎる。
「鼠相手にわざわざ短命と告げるなんて、君も変わった死神だね」
「しかし鼠と言っても妖怪だ」
「うむ」
「それに神の遣いでもある」
「それももっともだ」
思い返せばこの命、わりと色々なことを経験はしてきたが、これから残りの命など気にしたことがなかった。
気にしたことがなかったくせに、考え始めたら意識せずにはいられないのが妖怪の、生き物の性である。あと何度美味しいものを食べられるのだろうか。あと何度いい思いができるのだろうか。
ただ一つ言えるのは、失せ物探しに駆り出される中、気がついたらぽっくり、などというのは避けたいということだ。
「まあぶっちゃけた話をするとね」
見れば小町の杯は空いていた。瓶を持ち、酒をついでやる。
「寿命なんてのは何かとつけて変わるものなんだ。たとえあたいがズバリと告げたってその日の行いによってコロリと変わったりするし、気にしたってしょうがない。気に病んで迎えに許しを請うくらいなら、よく寝てよく食べて、健康に気を付ける方がよっぽど寿命が変わる」
特に夜更かしは駄目だね、生活リズムがずれるのは良くない。小町が最後にそう言ったものだから、現在の時刻も相まって、驚きに目を見張るしかない。
小町が失言に気づく様子はない。
諦めて再び杯を取り、小町が笑うのを眺める。一対一で顔を突き合わせて呑むなんて普段はしないものだが、たまには悪くない。
しかし小町に合わせて喉に通すとあっという間に酔ってしまうため、つられて口をつけてはいけない。
それを考える余裕はある。私はまだまだ冷静だ。
「君はさっき、息抜きをしろと言ったな。それには一つ問題がある」
塩気を求め、肴をつまむ。小町が目線で続きを促すのを見てから意見を請う。
「私は暇を潰す方法に明るくない。遣えるのが寺というのもあって、修行というのが主だった。なにか君の思う、いい暇潰しを教えてくれないか」
趣味のダウジングにも飽きは来る。幻想郷に来た頃は楽しんでやっていたのだが、最近は外の世界からの遺失物も偏りがあって実りが少ない。それに普段ご主人に駆り出されている状況と視界がダブり、一概に安息の時ともいえない。
かといって命蓮寺で意見を募れば、半数は改めて奉仕活動を提案するだろう。息をするようにそういうことをするのが聖であり、宗教というものはそれに賛同する者たちの集まりなのだ。
その点、これは絶好の機会に思えた。無所属に近く、娯楽を謳歌する彼女は絶好の教師であり、自分でもくだらない冗談だとは思うが、これも一種の神のお言葉と言えなくもない。
「そうだねえ」
小町は思考を巡らせ、ぽつぽつと呟いた。昼寝、賭け事、夢日誌。日向ぼっこ、釣り、詩を詠む。
やがて小町はこちらに向き直り、真剣な表情で提案した。
「とりあえずすぐ実行できるものとして、河原で石でも積んでみるかい」
河原にしゃがみこみ、淡々と石を選んで握る。亡者たちの好奇の視線を浴びながらも、石の塔を立てようと、顔を寄せて集中する姿。
とてもじゃないが、ストレス解消と呼べそうになかった。
「それだけは、遠慮させて貰うよ」
結局、その晩は寝転がる以外に息抜きの方法は思い付きそうになかった。だが疲労感よりも充実感の方が強いのは、不覚にもいい酒だけが原因ではないのだろう。
まあ、たまにはこういうのも悪くない。
● ○ ●
「おはよう」
「ナズーリンさん、おはようございます!」
小町と小さな宴会を開いた翌朝、目を擦りながら門前に現れた私に、響子はいつも通りの挨拶をくれた。
そして私のかけたポーチが膨らんでいるのを見て、響子が「今回は早かったですね」と笑顔で付け加えた。
「君に心配されるようでは、私たちもおしまいだな」
私たち、というのは遺失物を出すご主人とそれを探す私の事だったのだが、響子は私と同胞たち、つまり子鼠たちの事だと思ったらしい。
私が尻尾に提げている籠を覗き込み、響子が同胞たちに挨拶をする。
「ご主人の様子はどうだい、ちゃんとやってるかい」
前回はちゃんと諭したから大丈夫だと思うが、念のため確認してみる。
すると響子は耳をぴくりと動かし、頬をかきながら私に向き直る。
「ちょうどナズーリンさんが捜索に出た辺りからでしょうか、敷居につまづいたり、花瓶を割ったり」
「ああ」
焦ってばかりではないか。
「昨日には猫背が戻ってきてました」
「寒さのせいだということにしておきたいね」
症状が背中に現れる様子だと、昨日の時点で思い悩む限界が来ているようだ。
「気にせず堂々としていろと言ったろう」と声を荒げる様を想像しようとして、断念する。どうも、私はあの人に強く言える気がしない。
すると、少し遠回りでも別の切り口から促す必要がありそうだが、門前から報告までの間に、有効策は思い付きそうにない。次の相談時に話せるよう、内容を考えておこう。
一方で、ご主人への対策が先伸ばしになっているのは、こうした甘い考えが原因な気もしている。
「まあ、いいか」
言ってしまってから、口をぐっとつぐんだ。微かに目線を送ってみたが、響子は気にかけた様子はなく、掃除を再開している。
証人はここにもいるかも知れない。渋る自分に鞭を打ち、訊ねてみる。
「なあ、私がよく口にしてる、いわゆる口癖とか。思い当たるものはあるか?」
私が問うと、響子は手を止め、明らかに質問の内容に疑問を抱いていた。しかし頭上に疑問符を浮かべながらも、ちゃんと記憶を辿り、考えてくれた。
「うーん、ご主人、っていうのはカウントしませんよね? 仕方ない、とか、やれやれ、とかでしょうか」
「『まあいいか』は?」
「あ、結構言ってるかもしれません。そんなニュアンスの言葉」
ここでも口にしていたのか。
響子の前でも、知らず知らずのうちに見せてしまっていたようだ。思わず手で顔を覆う。酒はもう残っていない筈なのに頬が熱い。顔から火が出そうだ。
「もしかして気にしてるんですか?」
気にしている。答えたものの、手を顔にやっているために、もごもごとした声になった。
意を決して顔から手を外す。
「昨晩友人に指摘され、初めて気がついた。意識しない内に皆にそんな自分を見せていたのかと思うと気が気でない」
大袈裟ですねえ。と響子が微笑む。
昨晩小町が話していた内容を、全てではないが、かいつまんで説明する。響子はふむふむと相槌をうち、耳を傾けた。
「なるほど、解決を後に回すから、解消できないと後々良くないと」
しかし響子は箒を二回ほど振ってから「でも私は悪くないと思いますけどね」と続けたのだから、意外だった。
風に吹かれた髪を直すふりをしながら、指の隙間から響子を伺い見る。
「だってそれだけ寛容ってことじゃないですか。自分の苦労と分かってても構わずかかって、達成したらそれ以外は後回し。相当優しい人でないとできませんよ」
指を外し、笑顔で掃除を続ける彼女を目で追う。
「寛容、か。物は言い様かな」
「でも確かに、解消できていないのであれば気にするべきでしょうが」
その点に関しては、検討中であるためなんとも言えない。
努力するよ。と弱々しく答える。
「でもそんなによく見てるなんて、やっぱり素敵なご友人ですね」
「やっぱり? まさかとは思うが、会ったことがあるのか」
まるで初めて聞く話でないかのように響子が話すので、聞かずにはいられなかった。先日の南瓜の煮付けの話もある。小町の仕事以外に向ける行動力であれば、食卓に混じる布石と言ってやりかねない。
「会ったことはないですけど、分かりますよ」
私の心配をよそに、何を聞くのか、という表情でこちらを見てから、響子が笑って続けた。
「だってナズーリンさんの見つけたご友人ですから、素敵な方に決まってます」
恥ずかしげもなく言い切られ、再び私の顔が赤くなる。
これ以上ないほどに顔が赤らんでしまってから、冗談のような口調で話を区切った。
「君はたぶん、法師の素質があるよ」
口調こそ冗談だったが、本心からだった。
● ◇ ●
凝った肩と頭を溶かすように、音の鳴らない水面をひたすら眺める。
手は目の前の竿を掴むが、意識しすぎて肩に力を入れないようにする。何も考えず、楽なように手で台に置いた竿を支える。
三途の川といっても僅かな川の流れは確認でき、一切の音を立てずに形成される流線と波紋は、意識を散らすには最適に思えた。
「今日はお休みかい」
振り返らなくても分かる。ここで私に声をかけるのはまず一人だ。
簡易椅子に座っているため、普段以上に小町を見上げる格好になる。振り返り、挨拶と一緒に、見れば分かるようなことを説明する。
「釣りにしたよ」
「みたいだね。案外、様になってるよ」
誉め言葉であろう言葉に、とりあえず礼を言う。小町の方も自然に出た感想というような感じだった。
先日羅列された内容のうち、釣りという単語が頭の中に残っていた。唯一自分のしている姿が想像できたためだろう。
というわけで霧雨魔理沙の言葉ではないが、善は急げ。寺の倉に埋もれていた誰の物とも分からない簡単な釣り道具を引っ張り出し、静かな三途の川に道具一式を持ち込んでいた。
どうやら聖輦船の船長は釣りの経験があるらしかった。そんな彼女に一緒に来てもらい、教えを直接乞うべきなのかも知れないが、生憎今日は遠方への説法のため、船を動かす役目があるらしい。
彼女は「釣りは黙って待つのが掟」と言っていた。それが魚に気取られないためなのか、辛抱強く待つという意味なのかは分からないが、とりあえず鵜呑みにし、小町に対して魚がかからないという不平不満は口にしなかった。
そんな私の隣で、小町は釣竿を見たり川の方を見たり、振り返ったり何やらきょろきょろしていたが、やがて言いにくそうに言葉を発した。
「ちなみになんだが、三途の川で魚は釣れないよ」
え?
なんだって?
内心、吹き出して直ぐに小屋へ帰りたい気持ちだった。
顔に出さずにいられたのは、意地と根性だろう。あるいは睡魔に襲われ、小町の声を話し半分に聞いていたからだろうか。
「それなのにぼうっと釣糸垂らして、何を待っているのかねえ」
そうと分かれば水面と樹脂の棒に目を凝らす理由はもう無い。目線を切り、横に立つ小町へ椅子ごと体を向けた。
「そういうことは早く言ってくれ。というか、ならばわざわざ候補に挙げないでほしかったな」
ここまで口角を上げるだけだった小町が、ついに吹き出した。
「いやあ、まさかここでやるとは思わなかった。静かな三途の川で釣糸を垂れる妖怪ねえ。風情かもだけど、さすがの亡霊も不審がってたよ」
亡霊クラスに変な目で見られるのは、流石に堪えるな。
思わず小町の傍らの亡霊を睨み付けると、目線に怯えたのか、小町の影に隠れてしまった。
ここでふと気がついた。珍しいことに、どうやら小町は仕事中らしい。亡霊が背後を着いてきて、帳面を片手に持っている。と言うことは、これから船で“向こう側へ”連れていくのだろう。
「でもまあ糸を引くまでは待つだけだし、案外今のあんたには向いてるかもね。気が向いたなら場所を移して続けてみればいいさ」
「他に釣り場になりそうなのは、山の方か、その下流の湖か」
人里近くの川も考えたのだが、一応妖怪の身であるし、警戒させたくない。それに命蓮寺の妖怪と知っている人間には、気を使わせてしまいそうで、なるべく避けたいという結論が出ていた。
山の川は河童に怒られるし、湖の方は吸血鬼の館が近くにあるとの噂だし、どちらも近づきたくない。竿の持ち主が倉に仕舞いっきりだったのにも、頷ける。
「……あ、折角だし片付けは是非ゆっくりするといい。もしかしたら、あんたが三途の川の釣り人第一号になるかもしれないからね」
小町が妙な言葉を残し、その場を立ち去った。不審に思いながら背中を見送り、川と置物と化した竿に向き直る。
冷静になってみると、ここで水面が跳ねるのを見たことがない。それに魚が住むにも、餌が生息しているとは思えない。
確かに、他に当たるべき場所がもっとあったかもしれない。
頭をかきながら背もたれに身を預けた。しかしすぐに道具を片付けるのも癪なので、そのままぶらぶらと、昼寝でもできないかと意識を散らした。
ぼんやりとしていると、反応を見せる筈のない竿が大きく動いた。
最初は気のせいかと思ったが、急かすような滑車の音に、気を抜いていた私も竿を手に取った。
「えっ? ちょっと、ちょっと待て!」
急いで頭を上げ、糸を巻き上げるためハンドルを回す。不馴れな操作だが、これで少しずつ巻き取れているはずだ。
しかし、いったい何がかかったのだ。小町の話では魚はいないとの事だったが、やはり魚の亡霊ぐらいはかかるのだろうか?
あるいは、転落して流された亡霊だろうか。蜘蛛の糸にすがり付くように、釣り針に絡み付く亡霊を想像する。
「しかし、これは重いな」
魚にしろ亡霊にしろ、相当大物なのだろうか。それにしては、逃げる素振りを見せない。いや、そもそも亡霊に質量はあるのだろうか?
何にせよこれが何者かを確かめなければ、気になって立ち去れそうにない。
久しぶりの力仕事に、額に汗が滲んできた。巻き取り具合を見るに、もう少しの筈だ。足腰を踏ん張らせて、竿を持ち上げる。
「よいしょっ!」
ついに、獲物を水面下から引き上げる事に成功した。
成る程、辛抱と労力の後のこの達成感。趣味として成立するのも分かるかもしれない。
そう思ったのも束の間、目の前に現れたのは魚でも亡霊でもなく、大きな木材だった。予想外の獲物の姿に、初めて釣り上げた感動は、何処かへ行ってしまった。
「なんだ、これは」
何度瞬きをしても、見間違いではない。茶色い魚でも何でもない、木材だ。
よく里では「大地を釣った」などという言葉が聞こえるが、用は流木に針を取られただけである。
負け惜しみの言葉を使うことになるとは認めたくないが、しかし、私の目の前に下がるこの物体は、明らかに魚でも亡霊でもない。つまり大地に分類されるのだろう。
だが目の前の大地は流木などではないだろう。葉が一つも付いていなければ、枝の一本も見受けられなかったのだ。
「三途の川ではこんな奇妙な大地が創造されたのか?」
顔を近づけて臭いを嗅いでみれば、鼻をつく臭いが私の顔を引っ込めさせた。
予想通り、長年水に浸かって腐食した木材の臭いだ。こんな臭いを好きな者はいない。
顔を近づけた際によく見れば、何やら人工物のようにも見える。ただ変形した木の幹ではなく、人工的によって組まれた木々のようだ。
一枚の板を囲むように別の板が組み立てられ、空間ができている。空間の広さは私が一人、横になれるかといったところか。棺かと思ったが、それにしては不自然な形状だ。臭いが示すように古い物なのか、板には無惨な穴が空いている。
「あっはっは! とんだ大物が釣れたじゃないか」
川から声が聞こえてきた。首を伸ばして板を避けるように目線をやると、川の真ん中から小町がこちらに手を振り、私の注意を引いている。
「そう、おかげさまで大物が釣れたよ。君の話では釣れない予定だったの、に」
目線の先には、小町と亡霊と、それらを乗せる木材の塊。
私が釣り上げた代物は、小町の乗る舟と、全く同じ形をしていた。
「小町! これって!」
「おや、昔うっかり穴を開けられて沈めちゃった舟かなあ。あの時はひどく叱られたもんだ。それがかかったなんて、いやあ、偶然だなあ」
言い回しからするに、偶然ではなさそうだ。彼女がどうにかして針にかけさせたのだろうか。
「帰ってきたらそいつをなんとかするから、適当な岸にでも引き上げといておくれよ」
いやあ仕事が一つ片付いちゃったな。と小町は言い残して行く先に向き直り、再び舟を漕ぎ始めてしまった。
何を言うべきか言葉を探していたが、文句が纏まらない。張り上げたところで無様な台詞なだけだった。
暫し口を開けたり閉じたりした後、文句をぶつけるのは断念し、目の前の舟を眺める。第一の釣り人とはこういうことだったのかと納得する。結果的に、小町に上手く乗せられてしまった。
聞いたところ、キャッチアンドリリースという言葉もあるらしい。文字通り釣り上げた魚を川へ帰してやることで、殺生することなく魚釣りを楽しむとのことだ。
それに習って今回も獲物を水中に帰すこともできる。が、形状も形状、まるで三途の川に不法投棄をするかのようで、非常に憚られる。
さんざん悩んだ挙げ句――早い段階から自分がこうするであろう事は分かっていたのだが――私は息を吐きながら竿を傾け、記念すべき初の獲物を岸へと引き上げた。
「まあ、いいか」
敢えて口に出した言葉の後、二人が笑って指摘する顔を想像する。
口癖も、案外悪い気はしなかった。
賢将であるが故の悩み、あると思います。
文章切りすぎて忙しい感じもしますが
>関心
あと誤字っす
賞賛の意図なら「感心」ですかね?
先日求聞口授を読んでいて、
そういえば無縁塚に居る方が多いのだっけと思い出しました。
無縁塚の環境が正直曖昧だったりしますが、
この二人は会っていてもおかしくないと思うのです。
>3 名前が無い程度の能力 様
一番注力した点が好印象だったようで、大変嬉しいです。
貴重なご意見を参考に、気を付けて書きたいと思います。
誤字について……おっしゃる通りです。ご指摘感謝いたします。
>4 奇声を発する程度の能力 様
コメントありがとうございます。その一言が励みになります。
また投稿できた際は、よろしくお願いします。
>0
簡易評価を入れてくださった方もありがとうございます。
また次回(があれば)よろしくお願いします。
ナズーリンと小町、性格合わなそうだなあと思ったけど小町のあの性格を考えると誰とでも仲良くできそうですね。
場面ごとの区切り記号、登場キャラごとに変わってる? んですかね?
● ◇ ● ……小町
● □ ● ……星
● ○ ● ……響子
● ★ ● ……魔理沙
みたいな感じで。どうでもいい部分かもしれませんが、発見したのがちょっと嬉しかったので。
それぞれのキャラクターが魅力的に描かれていると感じました。なんかこう、文章にできない幸せな感じです。
・気になった点
「庭越しに見えた聖蓮船」・「星蓮船の船長」とありますが、この場合は「聖輦船」のはずですぜ。
また、「現在は命蓮寺の裏手、人里の外れに停泊しているが」とありますが、一次設定は命蓮寺=聖輦船なので、また新たに船を作ったって設定なんですかね?
……って、まあ、いいか(なんちゃって)
高く評価していただき、ありがとうございます。
小町は人によって印象が変わりそうなキャラクターですが、うちの小町はこんな感じですね。
区切り記号に関して、その通りですね。
区切りが多い分、全て同じだと味気なかったので……。
>10 名前が無い程度の能力 様
コメントありがとうございます。
山場もオチも小さい自分のお話で、
そういった感想を頂けるのは本当に嬉しいです。
星輦船の標記、言われるまで気がつきませんでした。こちらは誤字として、訂正しておきます。
命蓮寺と船の所在に関してですが、完全に別に存在しているものだと勘違いしていました!
心綺楼の背景で飛んでいるのがそれだと思っていましたが、いちいち変形していたんですね……。
私の知識不足でした。ご指摘ありがとうございます。
オチを上手く持っていかれた感がありますが、
こういったご指摘を頂けるのがありがたいです。
お二方、並びに簡易評価を入れて下さった方々、本当にありがとうございました。