今日は読書日和だ。
空はどんよりと曇り、風はなくともひんやりと涼しい。秋霖の晴れ間、というのを期待したいがさすがにそれは贅沢か。
つまるところ、今日は格好の読書日和と言える。
乾きはあまり期待できないが久し振りの雨以外だ。さっさと溜まりに溜まった洗濯物を済ませて趣味の時間と洒落込もう。
気温を考えて少し熱めにお茶を淹れ、膝かけも用意する。優雅な読書にはそれなりの下準備が必要だ。
いかに万全を期しても、時に幽雅なものになってしまうのであきらめも重要なのだが、主に白と並んだ黒や紅のせいで。
とりあえず今のところ、それらはいづれも香霖堂に現れてはいない。どうやらしばらくは落ち着いた時間を過ごすことができそうだ。
今日の読み物として俳句について書かれた本を選んだ。特に理由はない、なんにでも理由を求めたがるのは頭が膨れ上がった者の悪い癖だ。
僕もそのように選ぶこともあるが、毎度毎度ちょうどいい理由と本があるとは限らない。
それでもあえて理由を挙げるとするならば、秋の空気にあてられて、だろうか。
熱いお茶を啜りながら先人が旅情や哀愁、その他万感の思いを込めた歌を読み進めていく。
この本は俳句がメインに書かれているが、和歌についても言及されている。
正確に言えば和歌ではなく短歌なのだが、短歌以外の和歌の知名度はお世辞にも高いとは言えないので問題はないだろう。
俳句、和歌と聞いて十七音、三十一音が浮かばない者はまずいないだろう。
俳句は和歌の娯楽性を高めたものを元として成立したという、だから形式が似ているのだ。
そして和歌はその字数から三十一文字(みそひともじ)とも呼ばれる。三十一文字で構成されているから三十一文字。
と、これで終わってしまっては考察不足と言わざるを得ないだろう。
三十一というのは自身と、一以外では割り切れない数である素数だ。つまりそれ単体で完成された数字という意味である。
しかし素数はなにもこれ限りではない、だというのになぜ三十一なのか? それを考察することに意義がある。
これは俳句にも言えることだが、和歌というのもは五音と七音から成り立っている。
三十字以上も一息に言うなど、ちょっとした苦労である上に趣がない。
もし和歌がそのような形のものであったなら、今現在のような地位は決して築けなかっただろう。
和歌というのは短歌に限らず、あくまでも「歌」なのだ。
和歌を作るときに詠む、という単語を使う。この字はうたう、という読みを持っていることからして全ては歴然としている。
読む――つまり音読とは声を出して読み上げることは共通していても、ただ声を出すだけとは一線を画しているのだ。節をつけて詠いあげることに最大の意味がある。
よってじつは字余り、字足らずといったものには大した意味がない。あくまでも詠うことができるか、また詠う際に不都合がないかが何よりも優先されるのだ。
それらの前では字数など瑣末な問題である。ただ、書き記した際の見栄えを気にした作者による注意書きの一種でしかない。
……少し話が逸れた。五音と七音についてだったか。まずは五という数字に着目してみよう。
五というのはまぎれもなく素数のひとつである。つまりこれも完成された数字だ。
人間だけでなく、様々な人間以外の指の数も五本である場合が多い。これは割とどうでもいい。
魔術に親しみを持つ者にとって一番関心がある五と言えば、やはり五行思想だろう。
しかし今さら五行思想についてつらつらと書き連ねても仕方がない。知っていることを人から説明されることほど退屈なものもあるまい。
だから目先を変え、四元素説というものを少し考えてみよう。
四元素説と言っても乱暴かつ極端に言ってしまえば五行思想と大差はない。火水土空気の四要素によって全ての物質が成り立っている、というものだ。
そしてこの手のものにありがちな『どれにも分類されない要素』というものがある。
それはそうだ、全てのものが綺麗に分類されてしまっては面白みがない。分類できるかどうか? ではなく、分類できてしまってはつまらない、というのが大事なのだ。
そしてこの『四要素+ひとつ』という図式は五行思想にも通じるところがある。四季に加えて土用、四方と中央の関係あたりだ。
全ては四要素によって構成されているとした四元素説でも五という数字に行きつくのだ。
どちらかがもう片方に影響されている可能性も否定しきれない。
しかし、東洋と西洋の異なる文化が共に特殊な意味を見出していたという事実、これこそが五という数字のなんたるかを示していると言っていいだろう。
そして七である。これについてはわざわざ説明するのも億劫だ。
七とつく言葉をありったけ思い浮かべてみるといい。
七草七曜七つの大罪七福神、たとえどれほど挙げることができたとしても、おそらくそれは不十分だろう。
西洋東洋宗教問わずどこでもなんでも使われる、これほど馴染み深い数字も稀だ。
七曜という魔術的な意味合いも持ち、完成されたものと言える……というのはいささか早計だ。
古代の日本において最も尊いとされた数字は八なのである。
「対」という概念がある。男と女、この世とあの世、大人と子供に人間と妖怪など、ふたつのものをひとまとめにし、セットで考えるのを是としたのである。
そしてひと桁の数字の内、対になっている最大のものが八なのだ。
このように「大きな数である」という考えから、八は漠然と「大きい数」としても使われる。わかりやすいところでは八百万だ。
なぜ七百万でも九百万でもないかというと、こういった理由なのである。
八というのが尊く完成された数字ということで、この考え方だと必然的に七は不完全だということになる。だが、それでいい。
七には「何かひとつ足りない」「全部まであとひとつ」といった意味を持つこともある。
これは裏返せば「七のひとつ上は全部、完成、たくさん」と言っているものとも取れる。七とは数えることができる数の中では最大のものなのだ。
ひとつ上が「たくさん」なのだからその先もずっと「たくさん」が続くことだろう。
いや、「全部、完成」の先はないと考えるのが正解なのかもしれない。
とある宗教では、破滅の洪水から逃れるための船に乗った人間の数を、八人だったとしているらしい。
そして八というのは不足数――ある数字の約数全てを足して元の数字の二倍に届かないものをこう言うと本で読んだ――である。
このため「人間には何かが足りない」という説があるらしい。
ここで東洋と西洋を照らし合わせてみよう。
まず根本的に、比べる数字の立場にズレがある。
片や八を対になった完成された数字としているが、片や不足数と切って捨てている。
だが少し考えてみると西洋のエピソードの八は、東洋の七と比べるべきだということに気がつくのではないだろうか?
まず、西洋の八が不足を表しているという根拠は八が不足数であることしかない。
それなら二も三も四も五も七も九もそれから先も、それこそ限りなくある。特に素数は約数が一とその数字自体の二つしかないのだから全て不足数のはずだ。
だが、なぜ今比べるべきは七なのかというと、東洋での七が「何かひとつ足りない」を表すことがあるからに他ならない。
乗った人間の数が八人だったから「人間には何かが足りない」のなら、同じ不足数でなおかつ「何かひとつ足りない」を示す七も人間を指すと考えていいのではないだろうか?
つまり五は思想、七は人間を指すと言えるのではないだろうか。
そう考えるとなぜ三十一なのか? なぜ十七なのか? といった疑問も一気に氷解する。
太陽歴の大の月が何日間あるか思い出してほしい。そう、三十一日だ。思想と人間の組み合わせによって月日を指しているのだ。
しかしここで当然の疑問が出る。和歌の成立時期を考えれば当然太陰暦が使用されていたはずだ、なのになぜ太陽歴のひと月を? と。
だが今の僕なら昔の東洋人が頭ではなく心や魂といったもので直観的に、もしくは長年の研究で権力者たちが知るよりも遥かに早く、太陰暦があまり正しくないものだと気づいていたのだと断言できる。
そうでなければ短歌は五・七・五・七・七の三十一音ではなく、七・五・七・五・五の二十九音になってなければならないからだ。
五と七の組み合わせでは二十九が最も太陰暦のひと月に近く、かつ素数である。
では十七はと言うと、三十一の約半数ということに気づいただろう。約ひと月でワンセットが終わり、かつ中央付近が重要なものと言えば……やはり月だ。
これだけでもう十七文字の説明は終わりにしてしまってもいいのだが、さすがに味気ないのでもう少し、今度は違った側面から考えてみよう。
時計の文字板によく使われる数字、あれはローマ数字と言うのだが、これで十七を表すと「XVII」となる。
これをアナグラム――文字入れ替えのことだ。暗号の基本でもある――にすると「VIXI」となる。
これはある言語で「生きた」という意味らしい。「生きている」ではなく「生きた」であることからわかるように、これは「死んでいる」という意味だ。よってその地域では忌み嫌われる数字らしい。
死ぬことによって完結するものと言えば何かと言うと、少し悩むところだが、究極的には死んだものの生涯だろう。歌の詠み手を考えれば人生と言いかえるべきか。
ここまで来てまだ五、七、十七、三十一に疑問を持つ者がいたら逆に感心してしまう。
月日を観測するのは人であり、人にはそれぞれ人生がある。そして人生とは他人との関わり合いや思想によって構成されている。
こう示していたのだ。俳句や和歌にこういったものを題材にしたものが多いのも頷ける。
そして関係する数字の端々に魔法的な単語が見え隠れしていたことを鑑みれば、これらの歌の多くが魔法なのだという結論を出すのは容易だ。
名高い歌人の多くが、もしかしたら全てが魔法使いだったということはもはや疑い様がない。
盛んに作られた地域や紙に書き記すといった行為から推測するに、彼らの多くは式神使いだったのだろう。
もちろんこれらには簡単に魔法の全てを読み解かれぬ様に、何らかの手が加えてあるのだろう。
現に僕は和歌や俳句の芸術的な側面はわかっても、魔法的側面についてはさっぱりだ。
ただ魔導書として残すだけでなく、わからないものには芸術として見せるとは……。何とも大胆、かつ難しいことをしたものだ。
そして僕は意図されたものだと思うが、関連する数字が全て素数というのが偶然だったとしたら出来すぎだ。
思想、人間、月日……そして人生。
割り切れるものではない。
まるで僕の考察が一段落着くタイミングを見計らっていたかのように、鈴よりもだいぶ低い金属音が店内に響き渡る。
その音で我に返り、いつの間にか本の代わりに筆を執っていたことに気がついた。目の前の日記帖には字がびっしりと書き込まれている。
「ごめん下さい」
ただでさえ来客の少ない香霖堂だが、このように常識的な挨拶と共に入店してくる相手となると本当に限られてくる。
しかしこの声には馴染みがない。どこかで聞いた覚えはあるのだがどこの誰だか思い出せない。
別に声当てをしているわけではないので見てしまえばいいのだが。
「白と並んだ青、か。後は黄色で完成だな」
「何の話でしょうか?」
「髪の話です、服でもいいですけどね。さて、いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか」
「紙?」
入口に立っていたのは青毛混じりの白髪という、ちょっと見かけない頭を持つ少女だった。
幻想郷には色とりどりの髪の毛を持つ人間や人間以外がいるが、このように二色混じったものはあまり見ない。なので特定も割としやすい。
上白沢慧音、知識と歴史の半獣にして自称里の守護者である。里にいたときに少し世話になったことがある。
「今度の授業で外の世界のことに触れてみようと思いまして、何かちょうどいい物がないか伺いたいのですが」
僕が疑問に答える気がないのを悟ると彼女は用件を切り出した。歴史の学校を開いたというのは知っていたが仕事熱心なことだ。
しかし客となれば話は別だ。道具の山の中から思いつくものを適当に選んで提示する。
「まずこれは外の世界のおもちゃの一種でゲーム機という。運動不足の解決にもなるしどうでしょう」
「少し前に里でも流行りましたが、重い、硬い、形が悪いで廃れましたね。足の突き指も同時に大流行しました」
「ではこちらはいかがですか? コンピユータといって命令ひとつで情報を即座にかき集めてくれる道具です。式神の一種ですかね。
大きい方は既に客がついてしまったので、小さいものしかありませんが」
「すいません。できれば外の世界の学問に関係したものがいいのですが、そういったものはありませんか?」
申し訳なさそうな顔で追加注文をしてくる。
別にかまわないが、そういうことはもっと早く言ってほしい。学業に使うものなどというのは縁起物以上に需要がない部類だ。
売りたいものはたくさんある。もしここで普通の道具を売ってしまっていたら、またしばらく買い手がつかないままだったろう。
僕は商品群の中から道具箱と書かれた、厚紙でできた箱を引っ張り出す。
「この中には外の世界の、特に子供に向けた教材が多数保管されているんだ。
例えばこれ、なんだと思う? おはじきさ。どう見ても硝子製ではないし、透き通ってもいない、それに大きさに比べてとても軽いんだ。
だけど僕の能力は確かにこれを『おはじき』だと示している。おそらく外の世界の技術を使用しているんだろう」
彼女は「おー」だの、「なんと」だの、感嘆の声を上げる。そしておっかなびっくりといった手つきで、色とりどりのおはじきたちを手に取り、一個一個ためつすがめつ眺める。
半分白沢なだけあって彼女の知識量はかなり多い。僕からしてみれば人間に寄りすぎているように感じるが歴史の編纂もしている。
しかし、やはり白沢の能力も「知識の湧き出る泉」というわけではないらしい。
なまじ知識がある分、知らぬ物に対しては弱いのかもしれない。彼女も見た目よりずっと歳を食っているはずだが、むしろ見た目より仕草が幼い。
思ったよりも簡単に事が運びそうだ。
「気に入ってもらえたかな? あとこんなものもある。用途を見るとこんなところに入っているのが信じられないんだけど……。
『三角定規セット』だ」
「信じられないとは、一体どんな用途なんですか?」
「聞いて驚かないでほしい……。『線と角を統べる』だそうだ。こんな三角の板二枚と半円の板が一枚、たったの三枚の板でだよ」
細い喉から唾を飲み下す音が聞こえる。彼女もこの『三角定規セット』の恐ろしさが瞬時に理解できたようだ。話が早くて助かる。
この『三角定規セット』。一見すると硝子製のように見えるのだが違う。
硝子より暖かく、そしてしなる、軽いので持ち運びも容易だ。紫が言うことを信じるなら流行の品なのだろう。
こんなものを幼児期から与え、携帯させるとはなんと恐ろしい。僕も魔理沙にミニ八卦炉を与えたが、それほど外の世界は物騒なのだろうか?
慧音は半円状のものに刻まれている目盛を指でなぞっている。
そう、その目盛も謎なのだ。
直線になっている部分に付いているならわかる、なにかを測るのだろう。しかしなぜか弧の部分に付いているのだ。この用途で、なぜ弧の部分に目盛なのか。線も角も関係がない。
目盛ではないのかとも考えたが、どうやら正確にほぼ同じ間隔を開けて並んでいるようなのだ。
考えれば考えるほど不思議な道具である。
「こんなことを言っておきながら何なんですが、実はどうやっても何も起きないんですよ。
もし何かあっても『線と角を統べる』ということがどのようなことなのかわからないなら、何の害もないでしょう」
「……それも、そうですね」
余計なことを言いすぎた。慧音は少し考え込んでいたが、なんとか丸め込めたようだ。
貴重な機会をみすみす捨てるわけにはいかない。
「あ、これはなんです? 開閉する足が付いているようですけど」
少し沈んだ空気を変えようとしたのか、明るい声があがる。
彼女が持ち上げたものを見て、今度は僕が肝を潰す。
「どこに行ったかと思っていたらこんなところに入れっぱなしだったのか! 残念だけど、そればっかりは駄目だ。
まだ詳しい使い方はわかっていないけど、正確な円を自由に創造できる道具、と言えば『三角定規』とは比にならないことはわかってくれると思う」
慧音は小さく悲鳴を上げ、慌ててそれを箱に戻した。
その後もしばらく続き、結局『コンパス』を除いて道具箱ごと買い取ってもらえることになった。僕としては大成功である。
「おっと、お茶も出していませんでしたね。今淹れますから適当に掛けてください」
久し振りのまともな客に茶を渋るほど僕はケチではない。
いいものは既に霊夢に飲まれてしまっており、普通の茶葉しかないのがいささか残念だが。
僕が湯呑に茶を注ぐ間も、慧音は道具箱の中身をかわるがわる見ていた。
「気に入ってもらえたのならこちらとしても喜ばしい限りです。
実は読んでいる途中の本があるのですが、失礼してもよろしいですか?」
「どうぞ。じきに雨も降り出しそうですし、私はお茶を頂いたらすぐに帰ります。
ですが着き掛けに言っていた、紙の話とはなんなのか教えていただけませんか?
さっきからずっと気になっているんです。おまけということで、ひとつお願いできないでしょうか?」
好奇心と知識欲が旺盛なのもやはり考えものだ。好奇心は猫を殺すというが白沢は大丈夫なのだろうか。
僕は開きかけの本を閉じ、裏表紙を見せるように掲げる。
「『八雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに』。俳句ですよ。この本を読みながら五行について考えていたので、独り言が漏れてしまったのでしょう」
「『八重垣作る その八重垣を』。短歌ですか、つまらない引っかけですね。
さすがにそれがわからなかったら混ざりものとはいえ、白沢の沽券に関わります。なぜ五行なのかはちょっとわかりませんが。
……しかし、その引っかけは使う相手を選ぶべきですね。私は他意はないとわかっていますが、相手によっては禍根を残すことになりますよ」
先ほどまでと打って変わって彼女は苦笑いを浮かべている。
なぜそのような顔をされねばならないのかわからない。
『八雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣作る その八重垣を』
この歌は古事記に載っていて、最初の和歌とされている。
そして歌道のことを指す「八雲の道」の由来となった由緒ある歌でもある。
ふと詠み手のことを思い出して、彼女の真意が理解できた。この歌の詠み手はスサノオノミコトである。
彼は成長後こそさまざまなことを為した英雄であるとされているが、未熟なころはそれはひどい有様だったらしい。
天岩戸の一件のことを知らない者はいないだろう。僕の品性が疑われる。
そして彼がこの歌を詠んだタイミングだ。これは成長後の手柄のひとつである、八岐大蛇の討伐の際に詠んだものなのである。
いくら何でもこんな冗談でへそを曲げるとは狭量とは思えない。しかし万が一にでも妖怪の山にある神社に祀られている、蛇を象徴とする神の機嫌でもこじらせたら一大事だ。
今や山に住むほとんどの妖怪がその神の恩恵を受けている。
「ありがとう、僕としたことがすっかり失念していた」
「いや、まあ、気にするな。……気にしないでください」
そして彼女の指摘によってもうひとつ思い出したことがある。むしろこちらの方が重大だ。
スサノオノミコトが八岐大蛇を退治した後、その尾からある剣が見つかった。
天叢雲剣である。そして天叢雲剣とは、草薙剣のことだ。
僕は魔理沙から草薙剣を騙し取った、いや譲り受けた。
この僕がスサノオノミコトのことを失念なんてしていいわけがない。
「そういえば今の話と関係しますが、まだ身を固めないのですか?」
突然のことに思わずお茶を吹き出しそうになった。お茶が気管に入り、ひどく咳こむ。
いったい今の話のどこにそんなことが関係したのだろうか。
「何をいきなり言いだすのやら……。今のところそういう予定はないね」
「この有様では客も来づらいでしょうし、埃も溜めると家の寿命を縮めます。
貴方が掃除もできないほど忙しいというのなら、奥方とまで行かなくても従業員のひとりでも雇えばいいでしょう」
慧音は店内を見まわしながら、誰かと似たようなことを言う。
確かに僕は日々読書に追われていますが、この雰囲気を含めて香霖堂なんですよ、と答えておいた。家は悪くなってから補修してもいいのだ。
これに関する今後一切の話を無視しようと腹積りを決める。
「いざとなったら若紫に頼るという手もありますけどね」
一瞬何のことかわからなかったが、理解してもう一度むせた。
「源氏物語かい。僕がそんな下心を持っていると思われているとしたら残念な限りだね」
「何があるかわかりませんよ、あの年頃の人間の女の子は化けますからね」
不意を突かれて何やら風向きが変わってきた。彼女は湯呑を傾けながらこちらを伺っている。
これまでは主導権を握れていたのに雲行きが怪しい。
「人を化かすのは妖怪と相場が決まっているよ」
「幻想郷縁起にはこの店に相場はないと書かれていましたよ」
「まだまだ子供だ」
「子供が女になったらさぞ驚きでしょうね」
「大きなお世話だと思わないかい?」
「他人の世話を焼くのはわりと好きなんですよ」
「……嫌な天気だね」
「嫌な天気ですねえ」
慧音の澄まし顔から窓の外へと視線を逃がす。叢雲はますます大きさを増していっているようだ。
最早視界に入る空は全面雲で覆われ、地上に届く光も極端に少ない。
「女心と秋の空と言うけど、曇りと雨続きでちっとも変わり映えがしない」
「男心です」
我ながら苦し紛れにすらなっていない。どうにかしなければ、と思っていたが予想外にも食いついてきた。
このチャンスを逃す手はない。
「もちろん知ってるさ。でも外の世界では『男心と秋の空』なんて、もうほとんど使われてないらしいよ。
それどころか存在すら知らない人も多いらしい」
疑問の声が小さく上がる。無理もない。
このふたつの言葉。「女心と秋の空」と「男心と秋の空」だが、意味自体は似通ったものなのだ。
前者は女の感情は秋の天気同様変わりやすい。後者は男の女に対する愛情は秋の天気同様変わりやすい、である。
そして元の形は「男心と秋の空」の方なのである。
源氏物語の書かれた時代に限ったことではないが、妻問婚や垣間見るといった言葉があるように、昔から求愛行動は大概男側から取られてきた。
自然と浮気も男から持ちかける形となる。どれくらいの割合だったかはわからないが、別居していた分のびのびと浮気をしていた者もいたと聞く。
よって男は飽きっぽく、愛情を注ぐ相手が変わりやすいという意味の言葉ができたらしい。
しかし時の流れにしたがって、必ずしもそうというわけではなくなっていった。
男女間の駆け引きが行われる内に、男側から溜息まじりにある言葉が頻繁に使われるようになる。「女心はわからない」である。
笑っていたかと思えば泣き、泣いたかと思えばすぐさま怒る。
ころころ変わる感情と、似た意味の外来の言葉に影響を受け、「女心と秋の空」という言葉ができたと言われている。
「ああ、秋の空といえば」
黙って僕の言葉を聞いていた慧音が、突然何かを思い出したような声を上げる。
「先ほど遠まわしに注意しましたが、そろそろ雨が来ると思いますよ。白沢の天気予想は当たります。洗濯物があるなら取り込んだ方がいいですよ」
それはまずい、先ほどありったけの洗濯物を干した。雨になんて降られたら全てが台無しになってしまう。
すぐにでも取り込んでしまわなければ。多少は濡れてしまうかもしれないがまだどうにかなるだろう。
しかし客を放っておいて家事をするというのも気が引ける。
「どうやら忙しくなるようですね。他人の世話を焼くのは好きなんですが、今日は客なので邪魔にならないよう帰らせてもらいます」
どこぞの悪魔のメイドのようなことを言いつつ、慧音は風呂敷で包まれた道具箱とドアの横に立てられていた暗い青色をした傘を手に取った。
入店時を見ていなかったので気付かなかったが、どうやら持参物らしい。
「半妖と半獣、先天性と後天性の差はあれど、私も混ざりものだ。人間に遠慮する気持ちがわからないわけではない。
だがどうしても里の人間と連携を取らなければならなくなったら、遠慮なく相談してくれ。喜んで仲介役を引き受けるぞ」
「敬語を忘れてますよ。お客様」
「香霖堂店主ではなく半妖の友に言ってるんだから構わないだろう?」
本当に面倒な性格だ。それに友と言えるほど親しくなった覚えはこれっぽっちもない。
しかし里では僕よりよっぽど信頼があるはずだ。わざわざ肝煎りを買って出てくれるなら頑なに拒否することもない。
「霧雨の旦那さんの後でなら、頼らせてもらうかもしれないな」
何かを感じて窓の外に目をやると、すでに雨が振り出していた。
「ああもう、これだから女心ってやつは」
「男心の間違いだ」
「天気が妖怪なら変わらなくて楽なんだけど」
「天気は半妖だ。妖怪のように変わらないときもあれば、人間のように変わるときもある」
白と青の半獣は、歴史に月日を、子供たちの人生に他人と思想を刻み込むべく里へ帰る。
青と黒の半妖は――とりあえず、大慌てで生乾きの洗濯物たちを取り込まんと庭へ走る。
三十一文字の歌のような、お節介焼きの少女。
やや人付き合いの少ない、娯楽のような青年。
――カランカラン
了
眠る前に見つけて良かった!
ちょっと最初いらない気がしますね・・・
途中の文も文的には上手かったんですけど、
後ちょっとだけ物足りない気がしました。
霖之助の考察と薀蓄がほどよい感じ
分かってる。分かってるんだ。これが魔理沙を示してるのは……。
だけど、字面からどうしても香霖堂Verのゆかりんしか連想出来ないw
前半の薀蓄が香霖堂っぽいw
でも、定規やコンパスで驚くと言うところがちょっち気になりました。
日本の測距離や図形形成の技術は江戸時代の時点でかなり高度に完成してましたから知識人二人がその使い方を知らないと言うのは疑問です。
すでに俺がいた。
私の中でも慧音は霖之助より少し上のイメージがあるのでこういう感じ好きですね。
思わず「成る程」と納得するような感じでした。
慧音との会話も楽しく読めましたし。
三角定規とかコンパスとか。
面白いお話でした。
しかし人工衛星が無い時代に現代とほぼ変わらない地図を描いた
伊能忠敬ら天文学者を筆頭として、日本の測量技術は世界有数のもので、
そこに違和感を覚えてしまいました。
ですが文具に戦々恐々とする知識人には思わず笑ってしまいますね。
二人とも原作の雰囲気が滲み出ていて良かったです。
なんというシンクロww
しかし霖之助の薀蓄はいい感じに聴く気を削いでくれますね。
いい香霖堂でした。
つか八雲の道と若紫とかって狙ってやってるとしか思えないw
むしろあとがきの青の話しに食い付く始末。でも素敵な二人ですね。
そしてこの作品の蘊蓄は、いい感じにうだーっとさせていただきました。