深い深い夢の中、私は一人で漂い続ける。
時に明るく、時に暗く。そして時に緩やかに、時に激しく。この常に移り変わる世界は飽きることがない。
しかし、ここには私しかいない。
そう、ずっといるには少々ここは寒すぎる。
「ああ、寒い寒い。そうね、本格的に寝る前に一度帰りましょう」
夢の世界を超えて、私の意識は現へと帰っていく。
あそこは、ここより温かいから――――。
温かい場所
目を開けると見慣れた天井が見える。
閉じられた障子は、太陽の光が部屋に差し込むのを防いでいた。しかしそれでも部屋の中は随分と明るい。
今日はとてもいい天気のよう。こんな日は布団を干すといいわ。そうね、後で藍に干させるとしましょう。
先ほどからいい匂いが漂っているけど、藍が作っている朝餉かしらね。焼き魚に卵焼き、後は葱の味噌汁。それに油揚げ、といったところ。
まぁ、何はともあれ起きるとしましょうか。二度寝する気にもならないし。
それに、たまには食卓に顔を出さないと。これからしばらく顔を出せなくなるのだから。
・・・・・・うん、今日はあの娘達の傍ですごすとしましょう。
□ ◇ □ ◇
いい具合に煮詰まった味噌汁。これまたいい具合に焼けた焼き魚と卵焼き。そしてこれまたいい具合に焼けた油揚げ。
うむ、今日の朝餉も完璧だ。さっそく橙に食器を並べてもらおう。
頼むと橙はテキパキと食器を並べていく。昔は落としやしないかとヒヤヒヤしていたものだが、今はそういうことも少しだけ少なくなった。
しっかり成長している、ということなのだろう。まだまだ修行不足だが。
「あの、藍様・・・・・・」
「ん? ああ、紫様の分か?」
紫様はもう一週間も眠りっぱなしだから、食器を並べるべきかどうか悩んでいるのだろう。
あの方は今日辺りに起きてこられるだろう。そういうことで、橙に並べるように指示する。
橙は首をかしげている。どうも腑に落ちないらしい。
ふふ、まだ橙には分からないか。ま、あと100年もすればこの娘も分かるようになるだろう。
「そんな事はいいから早く並べてくれ。冷めてしまうぞ?」
慌てて3人分の食器を並べる橙。うわ、落とすなよ? やれやれ、危なっかしい。
やっぱりまだまだまだ修行が足りないな、橙は。ま、それがかわいい所でもあるのだが。
「ああ、かわいいなぁもう」
「え、何か言いました?」
「いや、別に。ちょっと精神が肉体を凌駕しただけの話さ」
またもや首をかしげる橙を置いて、並べられた食器に3人分の料理を乗せる。橙はそれをお盆に乗せて居間へ。私は少しだけ後片付け。
今日は釜に水を入れる程度にしておこう。
せっかく久しぶりに全員がそろうのだ。少しでも早く、朝食の時間を楽しみたいからね。
□ ◇ □ ◇
この頃居間は少し寒い。寒いのは苦手。
「うぅ、さぶ・・・・・・」
私はお盆を机の上に置くと、壁に張られている符を発動させる。
この符は修行の一環で私が作った「ほどよい熱を発する程度」の符。最初は調整ができなくてよく壁を燃やした。藍様にこっぴどく叱られたっけ。
四方の壁に張られたその符を発動させると、部屋の温度が少しずつ上がってくる。
そうしていると縁側から紫様が入ってきた。
・・・・・・藍様凄いよ。ほんとに起きてきた。
スキマを使わずに移動するなんて珍しい。
その紫様に朝の挨拶をする。紫様は半分寝ぼけたまま挨拶を返してくれた。
「ああ、寒い寒い。藍、藍~~」
「うお、ちょっと! 寝ぼけてますねあんた!?」
「藍の尻尾はふかふかねぇ。私の布団にしましょう。ぐぅ・・・・・・」
台所が騒がしいけど何かあったのかな? 打撃音が連続で聞こえるんだけど・・・・・・。
そのまま台所のほうを見ていると、やけに寒いことに気がついた。
・・・・・・紫様、せめて開けた障子は閉めてください。せっかく温まってきたのに。
仕方なく障子を閉めようと縁側に近寄る。
すると、そこから庭の様子が見えた。
木枯しが吹いて落ち葉が舞う。でもその落ち葉はほとんど無い。もうみんなとっくに散ってしまったから。
遠くの山はこの間まで紅葉で綺麗だったのに、その色もいつの間にかだいぶ減ってしまった。
「そっか。もう秋じゃなくて・・・・・・」
ほとんど冬になっていることに、改めて気がついた。
□ ◇ □ ◇
朝餉を済まして、縁側でボーっとお茶を啜る。
まるで霊夢みたいだけど、今日は何もする気が起きない。ここで一日日向ぼっこ、という日もいいわね。
藍は食器を洗い終えた後、洗濯物に取り掛かっている。橙は庭の掃除。あまり掃除になってはいないけれども。
そうしてボケーっとしていると、洗濯物を抱えた藍がやってきた。
彼女はテキパキと物干し竿に洗濯物を干していく。
・・・・・・藍ったら本当に似合ってるわ。お嫁に欲しくなっちゃうわね。
「紫様、今日はどのようなご予定で?」
「あら、さっき言ったわよ? 心の中で。藍ったらボケちゃったのかしら? そんなボケた藍はお嫁にいらないわ」
「独白は他人には通じないのですよ。それと寝言は寝てから言ってください」
「あらあら、酷い言い草ね。以心伝心、ってあるじゃない。ちゃんと感じ取ってくれないと」
はいはい、お嫁さんには行きません。橙をもらいます。と、軽くかわされてしまった。かわいくないわね。
最近藍はこれしきのことでは動じなくなった。昔は慌てふためいていたというのに。
そうね、次は橙に振ってみましょう。
「橙、お嫁に来ない?」
「は? え、ええ!?」
いきなり話を振られた橙は慌てふためいていた。
やっぱりこのぐらいの反応がないとつまらないわ。藍ももっとこの娘を見習うべきなのよ。修行不足は藍の方ね。
その藍はと言うと、橙に説教を始めた。ついでに私にも始めた。
あらあら、嫌だわ。藍ったらいつの間にこんなに説教臭くなっちゃったのかしら。これじゃまるでどこぞかの夜摩天みたいじゃないの。
・・・・・・でも、橙は私のものだとか橙かわいいよ橙、というのは説教に分類されるのかしら? 突っ込むべき?
「であるからにして・・・・・・って聞いてるんですか、紫様?」
「朝食はまだかしら?」
□ ◇ □ ◇
今日は本当にいい天気だ。この分だと洗濯物もよく乾くだろう。
紫様にも言われたが、布団も干さなくては。そうすれば今夜の布団はとても温かいものになるに違いない。
そうこうしているうちに、洗濯物を物干し竿にかけ終えた。さて、あとは橙に取りに行かせた布団だけだな。
肩を叩きながら振り返ると、紫様は相変わらず縁側でお茶を啜っておられる。どうも今日は一日ここでのんびりなさるつもりらしい。
・・・・・・もう本格的な冬が始まる。紫様は間もなく冬眠なさるだろう。
縁側で紫様が空を見上げている。それにつられて私も見あげる。空には何もない。ただ、緩やかに雲が流れていくだけだ。
「空、高いわね」
「そうですね」
紫様の隣に腰掛けて、そっと紫様の手に私の手を重ねた。昔から紫様が眠ってしまわれる前にはこうしている。
最初は一人になる不安から始めた事だったが、今では一種の儀式みたいなものになってしまった。それでも私はやめるつもりはない。
私達は何も言わず、ただ空を眺める。
冬眠に入られた紫様はスキマ内に完全に入ってしまわれる。そうなると冬の間はお顔を見ることもできない。もちろん、この温もりも感じることもできない。
毎年のことで少しは慣れはしたが、やはり寂しいものだ。
この温もりをくれる人が、自分の食事を食べてくれる人が、一人減ってしまうという事は。
□ ◇ □ ◇
昼食の食器が片付け終わるころ、紫様に呼ばれた。
紫様は相変わらず縁側でのんびりと過ごしている。藍様が言うには今日はひなたぼっこの日、らしい。よくわからないけど。
紫様の下へ行くと、彼女はニコリと笑って膝を叩いていた。
手には耳かきを持って。耳かき?
「えと、耳掃除してくれるんですか?」
「そうよ? ほらほら、早くなさいな」
「あ、はいっ」
おずおずと紫様の膝に頭を乗せる。
紫様に耳掃除をしてもらうなんて何年ぶりかな? ここ最近はずっと藍様にしてもらってたから。
それにしても、今日の紫様はやけに気前がいい。何かいいことでもあったみたい。鼻歌歌ってるし。
気がついたら私も気持ちよくなってて、つい。
「えへへ・・・・・・」
「あら、どうかしたのかしら?」
「紫様、あったかいなぁ、って思って」
「ふふ、そう」
午後の陽気の中、紫様は優しく私の耳を掃除してくれた。
普段してもらってる藍様のも気持ちいいけど、紫様のもとても気持ちいい。
どっちのも凄く上手だし、二人とも凄く温かいから。
だから私は、耳掃除が好き。
□ ◇ □ ◇
耳掃除が終わると、橙は案の定眠ってしまっていた。
まぁ、こんな陽気じゃ眠くならないほうがおかしいわ。私も眠たいものね。
橙の頭をなでながら、私は何をすることもなく時間を過ごす。
穏やかに流れていく時間。穏やかに変化していく景色。
あと数日中に私は本格的な眠りに入る。そうすると、この時間ともしばらくお別れ。
・・・・・・そしてこの娘達とも。
しばらく藍の働く姿が見られないのは残念。藍は昔に比べると本当に成長したわ。式神にしたころは色々と手を焼かされたっけ。
橙の元気な姿を見ることもできないのも残念ね。橙を見てると、昔の藍みたいにそそっかしくてかわいいわ。今の藍もかわいいけどね。
・・・・・・やれやれ、冬はつまらない。私は眠ってばかりだし。夢の世界も楽しいけれど、あそこは・・・・・・寒いから。
ま、どちらも温かいというのもお断りだけど。
そんな事になったら境界が分からなくなってしまうもの。
夢と現の、ね。
□ ◇ □ ◇
家の中がやけに静かだと思っていると、紫様と橙が縁側で眠っているのを見つけた。
紫様はスキマにもたれかかって眠っておられ、橙は紫様に膝枕をしてもらっている。
・・・・・・そういえば、私も昔はこのように天気のいい、ポカポカした午後に膝を貸してもらっていたっけ。
私は懐かしさと、ほんの少しの寂しさに笑う。
今は恥ずかしくてあの頃のように素直に甘えられない。
まったく、年を重ねるごとにそういうことができなくなるものだ。ほんと、ままならない。
「あら、私はいつだって歓迎よ、藍?」
「・・・・・・紫様、人の心を読まないでください。っていうか寝てらっしゃったんじゃないのですか?」
「寝たふりって言葉、知ってるかしら? ふふ、私にはあなたの心なんて手にとるように分かるのよ、藍」
「・・・・・・タオルケット持ってきます。今日は温かいとはいえ、流石に少し寒いですから」
「いえいえ、その九本尻尾で結構です~」
「本日のご利用は終了しました」
それは残念ね、とクスクス笑って見送る紫様。
まったく、この方には本当に敵わない。安心感もあるが、少し悔しいことも確かだ。
・・・・・・私ももっと精進しないとな。
この方が誇れる式神として、頼りにしてもらえる家族として、認めてもらえるように。
□ ◇ □ ◇
冷たい風が吹いて、私は目を覚ました。
見上げた空は茜色に染まっていて、鳥達が巣に戻るために夕日を横切っていく。
あ、一番星。
「お目覚めかしら、橙?」
「紫様・・・・・・? おはようございます・・・・・・」
私は目を擦りながら体を起こす。どうも思った以上に眠ってたみたい。体がだるい・・・・・・。
そうだ、紫様にお礼を言わないと。
こんなに長い間膝枕してもらってたんだし。
「ふふ、どういたしまして。ほら、藍が呼んでるわよ。行ってあげなさいな」
そっか、もう夕食の用意をしないといけない時間だ。
私は紫様に一礼して台所へ向かう。今日の夕食はなんだろう? 魚が出るといいなぁ。
・・・・・・あ、そうだ。
私は居間から縁側へと引き返した。紫様に伝えておかなきゃ。
「紫様?」
「あら、何かしら橙?」
「紫様も早くいらしてくださいね。だって、そこ」
一人でいると、とても寒くなりますから。
□ ◇ □ ◇
「一人でいると、ねぇ」
橙が去ってからしばらく経った。太陽は西にほとんど沈み、空に夜が降りてくる。
冬の夕方は綺麗ね。空気が澄んで、光を遮るものがないから。
でもそれ以上に寂しい。一日が終わる、夕日で照らされた空が茜色に染まるこの瞬間は。
綺麗だけどなにか物寂しさを感じさせるのは、寒いからかしら、ね?
夕日を眺めていると、強い風が吹いた。風の冷気が肌を刺す。
・・・・・・確かに寒くなってきたわ。まぁ熱源が無くなれば寒くなるのは当然のことだけど。
でもそれとは別に。
「・・・・・・そうね。一人は、寒いわね。ああ、寒い寒い。藍、橙~」
今日はちょっと座りすぎたわ。腰が痛いのなんの。もう年? まさか、まだまだ若いわよ。
さて、今夜の料理は何かしら? 藍の料理はおいしいからなんでもいいけれど。
さて、今夜は食器が割られないかしら? 橙はそそっかしいから。昔の藍もそうだったけどね。
・・・・・・ああ、やっぱりここはいいわねぇ。
さぁ、あの娘達が待つ場所へ向かいましょう。
この世で一番温かい、あの場所へ――――。
時に明るく、時に暗く。そして時に緩やかに、時に激しく。この常に移り変わる世界は飽きることがない。
しかし、ここには私しかいない。
そう、ずっといるには少々ここは寒すぎる。
「ああ、寒い寒い。そうね、本格的に寝る前に一度帰りましょう」
夢の世界を超えて、私の意識は現へと帰っていく。
あそこは、ここより温かいから――――。
温かい場所
目を開けると見慣れた天井が見える。
閉じられた障子は、太陽の光が部屋に差し込むのを防いでいた。しかしそれでも部屋の中は随分と明るい。
今日はとてもいい天気のよう。こんな日は布団を干すといいわ。そうね、後で藍に干させるとしましょう。
先ほどからいい匂いが漂っているけど、藍が作っている朝餉かしらね。焼き魚に卵焼き、後は葱の味噌汁。それに油揚げ、といったところ。
まぁ、何はともあれ起きるとしましょうか。二度寝する気にもならないし。
それに、たまには食卓に顔を出さないと。これからしばらく顔を出せなくなるのだから。
・・・・・・うん、今日はあの娘達の傍ですごすとしましょう。
□ ◇ □ ◇
いい具合に煮詰まった味噌汁。これまたいい具合に焼けた焼き魚と卵焼き。そしてこれまたいい具合に焼けた油揚げ。
うむ、今日の朝餉も完璧だ。さっそく橙に食器を並べてもらおう。
頼むと橙はテキパキと食器を並べていく。昔は落としやしないかとヒヤヒヤしていたものだが、今はそういうことも少しだけ少なくなった。
しっかり成長している、ということなのだろう。まだまだ修行不足だが。
「あの、藍様・・・・・・」
「ん? ああ、紫様の分か?」
紫様はもう一週間も眠りっぱなしだから、食器を並べるべきかどうか悩んでいるのだろう。
あの方は今日辺りに起きてこられるだろう。そういうことで、橙に並べるように指示する。
橙は首をかしげている。どうも腑に落ちないらしい。
ふふ、まだ橙には分からないか。ま、あと100年もすればこの娘も分かるようになるだろう。
「そんな事はいいから早く並べてくれ。冷めてしまうぞ?」
慌てて3人分の食器を並べる橙。うわ、落とすなよ? やれやれ、危なっかしい。
やっぱりまだまだまだ修行が足りないな、橙は。ま、それがかわいい所でもあるのだが。
「ああ、かわいいなぁもう」
「え、何か言いました?」
「いや、別に。ちょっと精神が肉体を凌駕しただけの話さ」
またもや首をかしげる橙を置いて、並べられた食器に3人分の料理を乗せる。橙はそれをお盆に乗せて居間へ。私は少しだけ後片付け。
今日は釜に水を入れる程度にしておこう。
せっかく久しぶりに全員がそろうのだ。少しでも早く、朝食の時間を楽しみたいからね。
□ ◇ □ ◇
この頃居間は少し寒い。寒いのは苦手。
「うぅ、さぶ・・・・・・」
私はお盆を机の上に置くと、壁に張られている符を発動させる。
この符は修行の一環で私が作った「ほどよい熱を発する程度」の符。最初は調整ができなくてよく壁を燃やした。藍様にこっぴどく叱られたっけ。
四方の壁に張られたその符を発動させると、部屋の温度が少しずつ上がってくる。
そうしていると縁側から紫様が入ってきた。
・・・・・・藍様凄いよ。ほんとに起きてきた。
スキマを使わずに移動するなんて珍しい。
その紫様に朝の挨拶をする。紫様は半分寝ぼけたまま挨拶を返してくれた。
「ああ、寒い寒い。藍、藍~~」
「うお、ちょっと! 寝ぼけてますねあんた!?」
「藍の尻尾はふかふかねぇ。私の布団にしましょう。ぐぅ・・・・・・」
台所が騒がしいけど何かあったのかな? 打撃音が連続で聞こえるんだけど・・・・・・。
そのまま台所のほうを見ていると、やけに寒いことに気がついた。
・・・・・・紫様、せめて開けた障子は閉めてください。せっかく温まってきたのに。
仕方なく障子を閉めようと縁側に近寄る。
すると、そこから庭の様子が見えた。
木枯しが吹いて落ち葉が舞う。でもその落ち葉はほとんど無い。もうみんなとっくに散ってしまったから。
遠くの山はこの間まで紅葉で綺麗だったのに、その色もいつの間にかだいぶ減ってしまった。
「そっか。もう秋じゃなくて・・・・・・」
ほとんど冬になっていることに、改めて気がついた。
□ ◇ □ ◇
朝餉を済まして、縁側でボーっとお茶を啜る。
まるで霊夢みたいだけど、今日は何もする気が起きない。ここで一日日向ぼっこ、という日もいいわね。
藍は食器を洗い終えた後、洗濯物に取り掛かっている。橙は庭の掃除。あまり掃除になってはいないけれども。
そうしてボケーっとしていると、洗濯物を抱えた藍がやってきた。
彼女はテキパキと物干し竿に洗濯物を干していく。
・・・・・・藍ったら本当に似合ってるわ。お嫁に欲しくなっちゃうわね。
「紫様、今日はどのようなご予定で?」
「あら、さっき言ったわよ? 心の中で。藍ったらボケちゃったのかしら? そんなボケた藍はお嫁にいらないわ」
「独白は他人には通じないのですよ。それと寝言は寝てから言ってください」
「あらあら、酷い言い草ね。以心伝心、ってあるじゃない。ちゃんと感じ取ってくれないと」
はいはい、お嫁さんには行きません。橙をもらいます。と、軽くかわされてしまった。かわいくないわね。
最近藍はこれしきのことでは動じなくなった。昔は慌てふためいていたというのに。
そうね、次は橙に振ってみましょう。
「橙、お嫁に来ない?」
「は? え、ええ!?」
いきなり話を振られた橙は慌てふためいていた。
やっぱりこのぐらいの反応がないとつまらないわ。藍ももっとこの娘を見習うべきなのよ。修行不足は藍の方ね。
その藍はと言うと、橙に説教を始めた。ついでに私にも始めた。
あらあら、嫌だわ。藍ったらいつの間にこんなに説教臭くなっちゃったのかしら。これじゃまるでどこぞかの夜摩天みたいじゃないの。
・・・・・・でも、橙は私のものだとか橙かわいいよ橙、というのは説教に分類されるのかしら? 突っ込むべき?
「であるからにして・・・・・・って聞いてるんですか、紫様?」
「朝食はまだかしら?」
□ ◇ □ ◇
今日は本当にいい天気だ。この分だと洗濯物もよく乾くだろう。
紫様にも言われたが、布団も干さなくては。そうすれば今夜の布団はとても温かいものになるに違いない。
そうこうしているうちに、洗濯物を物干し竿にかけ終えた。さて、あとは橙に取りに行かせた布団だけだな。
肩を叩きながら振り返ると、紫様は相変わらず縁側でお茶を啜っておられる。どうも今日は一日ここでのんびりなさるつもりらしい。
・・・・・・もう本格的な冬が始まる。紫様は間もなく冬眠なさるだろう。
縁側で紫様が空を見上げている。それにつられて私も見あげる。空には何もない。ただ、緩やかに雲が流れていくだけだ。
「空、高いわね」
「そうですね」
紫様の隣に腰掛けて、そっと紫様の手に私の手を重ねた。昔から紫様が眠ってしまわれる前にはこうしている。
最初は一人になる不安から始めた事だったが、今では一種の儀式みたいなものになってしまった。それでも私はやめるつもりはない。
私達は何も言わず、ただ空を眺める。
冬眠に入られた紫様はスキマ内に完全に入ってしまわれる。そうなると冬の間はお顔を見ることもできない。もちろん、この温もりも感じることもできない。
毎年のことで少しは慣れはしたが、やはり寂しいものだ。
この温もりをくれる人が、自分の食事を食べてくれる人が、一人減ってしまうという事は。
□ ◇ □ ◇
昼食の食器が片付け終わるころ、紫様に呼ばれた。
紫様は相変わらず縁側でのんびりと過ごしている。藍様が言うには今日はひなたぼっこの日、らしい。よくわからないけど。
紫様の下へ行くと、彼女はニコリと笑って膝を叩いていた。
手には耳かきを持って。耳かき?
「えと、耳掃除してくれるんですか?」
「そうよ? ほらほら、早くなさいな」
「あ、はいっ」
おずおずと紫様の膝に頭を乗せる。
紫様に耳掃除をしてもらうなんて何年ぶりかな? ここ最近はずっと藍様にしてもらってたから。
それにしても、今日の紫様はやけに気前がいい。何かいいことでもあったみたい。鼻歌歌ってるし。
気がついたら私も気持ちよくなってて、つい。
「えへへ・・・・・・」
「あら、どうかしたのかしら?」
「紫様、あったかいなぁ、って思って」
「ふふ、そう」
午後の陽気の中、紫様は優しく私の耳を掃除してくれた。
普段してもらってる藍様のも気持ちいいけど、紫様のもとても気持ちいい。
どっちのも凄く上手だし、二人とも凄く温かいから。
だから私は、耳掃除が好き。
□ ◇ □ ◇
耳掃除が終わると、橙は案の定眠ってしまっていた。
まぁ、こんな陽気じゃ眠くならないほうがおかしいわ。私も眠たいものね。
橙の頭をなでながら、私は何をすることもなく時間を過ごす。
穏やかに流れていく時間。穏やかに変化していく景色。
あと数日中に私は本格的な眠りに入る。そうすると、この時間ともしばらくお別れ。
・・・・・・そしてこの娘達とも。
しばらく藍の働く姿が見られないのは残念。藍は昔に比べると本当に成長したわ。式神にしたころは色々と手を焼かされたっけ。
橙の元気な姿を見ることもできないのも残念ね。橙を見てると、昔の藍みたいにそそっかしくてかわいいわ。今の藍もかわいいけどね。
・・・・・・やれやれ、冬はつまらない。私は眠ってばかりだし。夢の世界も楽しいけれど、あそこは・・・・・・寒いから。
ま、どちらも温かいというのもお断りだけど。
そんな事になったら境界が分からなくなってしまうもの。
夢と現の、ね。
□ ◇ □ ◇
家の中がやけに静かだと思っていると、紫様と橙が縁側で眠っているのを見つけた。
紫様はスキマにもたれかかって眠っておられ、橙は紫様に膝枕をしてもらっている。
・・・・・・そういえば、私も昔はこのように天気のいい、ポカポカした午後に膝を貸してもらっていたっけ。
私は懐かしさと、ほんの少しの寂しさに笑う。
今は恥ずかしくてあの頃のように素直に甘えられない。
まったく、年を重ねるごとにそういうことができなくなるものだ。ほんと、ままならない。
「あら、私はいつだって歓迎よ、藍?」
「・・・・・・紫様、人の心を読まないでください。っていうか寝てらっしゃったんじゃないのですか?」
「寝たふりって言葉、知ってるかしら? ふふ、私にはあなたの心なんて手にとるように分かるのよ、藍」
「・・・・・・タオルケット持ってきます。今日は温かいとはいえ、流石に少し寒いですから」
「いえいえ、その九本尻尾で結構です~」
「本日のご利用は終了しました」
それは残念ね、とクスクス笑って見送る紫様。
まったく、この方には本当に敵わない。安心感もあるが、少し悔しいことも確かだ。
・・・・・・私ももっと精進しないとな。
この方が誇れる式神として、頼りにしてもらえる家族として、認めてもらえるように。
□ ◇ □ ◇
冷たい風が吹いて、私は目を覚ました。
見上げた空は茜色に染まっていて、鳥達が巣に戻るために夕日を横切っていく。
あ、一番星。
「お目覚めかしら、橙?」
「紫様・・・・・・? おはようございます・・・・・・」
私は目を擦りながら体を起こす。どうも思った以上に眠ってたみたい。体がだるい・・・・・・。
そうだ、紫様にお礼を言わないと。
こんなに長い間膝枕してもらってたんだし。
「ふふ、どういたしまして。ほら、藍が呼んでるわよ。行ってあげなさいな」
そっか、もう夕食の用意をしないといけない時間だ。
私は紫様に一礼して台所へ向かう。今日の夕食はなんだろう? 魚が出るといいなぁ。
・・・・・・あ、そうだ。
私は居間から縁側へと引き返した。紫様に伝えておかなきゃ。
「紫様?」
「あら、何かしら橙?」
「紫様も早くいらしてくださいね。だって、そこ」
一人でいると、とても寒くなりますから。
□ ◇ □ ◇
「一人でいると、ねぇ」
橙が去ってからしばらく経った。太陽は西にほとんど沈み、空に夜が降りてくる。
冬の夕方は綺麗ね。空気が澄んで、光を遮るものがないから。
でもそれ以上に寂しい。一日が終わる、夕日で照らされた空が茜色に染まるこの瞬間は。
綺麗だけどなにか物寂しさを感じさせるのは、寒いからかしら、ね?
夕日を眺めていると、強い風が吹いた。風の冷気が肌を刺す。
・・・・・・確かに寒くなってきたわ。まぁ熱源が無くなれば寒くなるのは当然のことだけど。
でもそれとは別に。
「・・・・・・そうね。一人は、寒いわね。ああ、寒い寒い。藍、橙~」
今日はちょっと座りすぎたわ。腰が痛いのなんの。もう年? まさか、まだまだ若いわよ。
さて、今夜の料理は何かしら? 藍の料理はおいしいからなんでもいいけれど。
さて、今夜は食器が割られないかしら? 橙はそそっかしいから。昔の藍もそうだったけどね。
・・・・・・ああ、やっぱりここはいいわねぇ。
さぁ、あの娘達が待つ場所へ向かいましょう。
この世で一番温かい、あの場所へ――――。
めぐりめぐって、だけれどずっと変わらないあたたかさ。
優しいなぁ……もう。お見事でした。
三者三様の視点があって、それでも皆同じ暖かさを感じている。
ふとした時に何度でも読み返したくなるような、
とても穏やかな文章を堪能させていただきました。
作者様に感謝。
ふかふかの布団にくるまれた気持ちになりました。
このまま寝てしまおう。おやすみ。
紫様が家族のぬくもりをなくさぬようねがいます。
ほんものだ~
ほんものにょ~
にせもの家族にゅ。
いや待て俺こんなときに何を思い出して(弾幕結界+ビーム