Coolier - 新生・東方創想話

永遠を越えて

2005/12/24 04:27:37
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 薄い雲が流れて、星と月の明かりを和らげている。ようやく春を迎えようとする季節。
大気には次第に命の瑞々しさがみなぎっていたが、それゆえに、かすかな風の冷たさもまたいっそうであった。

 竹林の深い闇の中、その館はひっそりと建っている。
古い建物である。陽の下でじっくりと眺めたなら、ところどころにひびが走っているのにも気が付いただろう。
しかしそれでいて、この建物には何か静謐で冒しがたいものが感じられた。永い間変わることなく竹林の奥に存在するこの館を知る数少ない者達は、ここを「永遠亭」と呼んでいる。
ときおり柔らかく冷たい風が吹き、あたりの竹がざわざわと鳴っていた。

 その永遠亭の一室で一人の女が目を覚ました。まだまだ、夜は深く、そして長い。
一日を始めるにはいささか早すぎる。一日を終えるには遅すぎる。そんな時分のことである。
女はのろりとした動作で身を起こし、立ち上がった。なにも身につけていない。
腰まわりよりもさらに下へ流れる長い髪が、かすかな明かりに浮かんで見える。その白い肌よりも、一層つややかに煌めく豊かな銀色の髪だ。
闇の中でうすら白い影となった女は、一歩、また一歩と、闇夜の僅かな明かりが漏れ入ってくるその際へと歩みを進めた。

 もしも女の姿をその正面から見ている者が居たなら・・・・・・この美しい白い影の、ほおに光るものを認めただろう。
 女の瞳を見る者があれば・・・・・この女が、夢によほど悲しい思いをして目を覚ましたのだと気付いただろう。
八意永琳は一糸まとわぬ姿のまま、また涙のあとを拭おうともせずに、半ば以上が薄煙に隠れた月と、窓越しに相対した。


「・・・・どんなに、忘れようとしても。いえ・・・・」
「そう、ただ逃れようとしても。」

 誰にも聞こえまい。そんな小さなつぶやきが漏れる。その声色はひどく疲れている。
突然強くなった冷たい風が吹いて、豊かな髪をうち上げた。そこには確かな涙のあとが見られる。
乱れた髪を気にすることもなく、永琳はゆっくりと月を見上げる。

 彼女のまなざしは、まるで厳しい生活に疲れた寡婦が見せるような、暗く悲しいまなざしだった。











                      「永遠を越えて」











(一) 時間 



 森近霖之助はその日も静かに本を読んでいた。そろそろ正午をまわろうかというところだが、あいにくと空は曇りである。
彼が今日手にしている本は外の世界から流れてきたものだ。日に焼けすっかり茶色くなった本にはかすかに「~沈黙」という題が見てとれた。

 「さて、そろそろ時間なのだが・・・・」

 今日は、珍しくも「きちんと予定された」来客があるのだ。
だが、予定されていない来客が、しかも招かれざる来客が、どういうわけか絶えないのがこの香霖堂である。大切な来客の時に、何事もなければよいのだが。
本当はもう本を閉じておくべきなのだろうが、それも難しい。この短い物語の最高潮を迎えようとしているのだ。
どうやらこれは外の世界での戦争を描いたものらしい。だが戦場そのものの描写ではない・・・・占領された土地で、
民衆がいかにして占領者に反抗したかをつづった物語なのだろう。だが、彼にはもっとロマンティックな情緒が見て取れた。

 「地獄行きです。」

物語の主人公の台詞である。
このワン・センテンスを読み終えたとき、霖之助の心には何とも形容しがたい重圧と哀しみがのしかかり、耳には招かれざるいつもの来客の声が響いた。

・・・・ああ。

 「よう、香霖。今日も料理の腕をふるってやるから感謝するんだぜ?」

少女の軽口が響きわたる。可憐で良く通る声だ。

 「今日も来たのか魔理沙。食事は確かにありがたいが僕とてそんなに困ってるでもなし、無理しなくていいんだよ?」
 「ふん。ほっといたら何も喰わずに何日過ごすか知れたものじゃない。心配されてるウチが花だぜ。」

 魔理沙と呼ばれたのは魔法の森に住む黒白衣装の少女だった。
西洋のおとぎ話にある魔女を愛らしい少女に映し換えたような姿で、事実、魔理沙自身もその格好を魔女の正装と言ってはばからない。彼女らしいと思う。
霖之助はかつて魔理沙の実家に師事していた事があり、二人はその頃から馴染みの間柄なのである。
やがて霖之助は独立を志し今の店を構えたのだが、どういうわけか魔理沙もまた家を飛び出し、霖之助の店「香霖堂」からさほど遠くない森の中に一人移り住んだのだった。
 
「じゃ、台所を借りるぜ。使えるものは使わせてもらうからな。」

 問答無用である。また、何を言っても無駄だということも分かっている。彼はひとつため息をついたが、まなざしは優しかった。

「構わないがな魔理沙、何でもかんでもぶち込むのはやめてくれ。この間の鍋では大変な目にあったからな。」
「・・・・・・ ちっ」

 魔理沙は答えずに奥へと消えていった。これはまた何かやらかす気だな。今度は自然に大きなため息が出た。
まあ確かに悪い気はしないが。しかし、もう少し悪戯心を抑えて欲しいものだ。
と、まだ幼かった魔理沙の色々なエピソードを思い出し笑みが漏れる。
顔がほころんできたことに気付いた霖之助はわざとらしい咳払いをすると、読みかけの本に視線を戻した。

・・・外の世界では麦が育つほどにおびただしい血を流して戦うのだろうか。本の中の一文に寒気がする思いがする。
物語の中に出てくる少女の心の移り変わりもいい。最後の場面は胸が締め付けられるようである。
うむ、これは良い本だった。彼は満足してしばらくの余韻に浸ると、棚へ戻そうと重い腰を上げた。
と、いつの間にか魔理沙が玄関口に立っているではないか。
話し声も聞こえてくる。いかん、予定のほうの来客が来たようだ。

 「あらあら・・・。うふふ、いろいろ想像してしまうわね。」
 「ああ、あいつはなんだかんだと言いつつ、私が居ないと何も出来ないからな。おかげで私は若いのに肩がこって仕方がないんだぜ。」

魔理沙がおたまを振り回す。奥の方からはそれなりに美味そうな香りがほんのりと漂っていた。

 「・・・・それはちょっとうらやましいわ。」
 「?何がだろう」
 「それは秘密。さて、今日はお昼に来ますと言ってあったのだけれど・・・・。」

 来客は永遠亭の八意永琳である。時折、薬の原料や器具の買い付けに来るのだ。霖之助にとっては極めて貴重な収入源であり、彼の考える「知的な会話」を楽しめる数少ない女性の一人でもある。

 「ああ、いらっしゃいませ。品物は用意できてますよ。」

 二人の会話を(正確には魔理沙を)遮ろうとして微妙に出遅れたが、永琳は良識ある人である。あらぬ誤解をされるようなこともあるまい。
やはり外は寒いのだろう。永琳も厚手の長い外套を羽織っていた。いつぞや程ではないにせよ、やはり春の訪れが遅いと感じざるを得ない。
気が付けば三人ともが白い息を吐いていた。目を合わせて苦笑する。

 「では、お邪魔します。」
 「いらっしゃいませ。」

 永琳を店に招き入れ、戸口を閉める。料理の香りも外へ逃げない。にわかに濃厚に感じられた鼻孔をくすぐる心地よさに、霖之助の腹が情けない音を立てた。

 「準備はできているぜ。」

よく通る声だ。いつもとは少し調子が違うようだが。

 「もちろんあんたも食べていくんだろう?」

 横に追いやられていた魔理沙の笑いが、霖之助には少しだけとげとげしく見えた。



* * * * * * * * *



 料理は予想に反して、至ってまともなものだった。
そう、客人が相席するというのに何か仕込まれていたらたまったものではない。
どうなることかと思ったのだが、今日は本当に何もしなかったようだ。永琳を送り出してから、霖之助はほっと胸をなで下ろしたのだった。
しかし魔理沙の様子がおかしい。彼女は豪快な性格だが、それでも永琳とは相性が悪いのだろうか。まあ、確かに一度はやり合ったというのだから、別に仲良しというわけでもないのかも知れない。

 二人は並んで後片付けをしているところである。
身長差がかなりあるのだが、主人である霖之助の寸法に合わせて作られたこの店の中には、ご丁寧にも魔理沙用の踏み台が用意されているのである。
・・・・中には、商品だったにも関わらず、いつしか踏み台にされてしまっていたという物もあるのだが。

 「魔理沙、今日はごちそうさま。何かやらかすんじゃないかと思ったが、素直に礼を言っておくよ。」
 「当たり前だバカ。」

 ぴしゃりと言い放った魔理沙は吊り目を見開き、ぷいと顔を逸らしてしまう。
が、すぐに霖之助に向き直って、今度は瞳をまん丸くしてこう尋ねてきた。

 「珍しい客人だったが、あの医者はよく来るんだったか?私が知らないだけかなあ。」
 「まあ頻繁ではないがね。薬の原料であるとか、ちょっとした器具を買い付けに来る貴重なお客様だよ。」

 ここまで言って、いつものように付け加える。

 「もちろん商品をタダで持っていこうとした事は、一度も無い。」
 「私と香霖の仲じゃないか。小さいことを気にするな、男らしくないぞ。」
 「公私混同は誉められたものじゃない。店主と客人という関係と、世話になった師の娘という繋がりとは僕にとっては別々のものさ。」

 いつの間にか風が強くなってきたようだ。窓の外でビュウウと音が立った。
さすがに雪が降るようなことはないだろうが、今年の春はなかなか暖かくならない。春めいた春とは、いつになっても待ち遠しいものである。・・・さて、そろそろ片づけは終わりか。拭いてしまうのは僕がやることにしよう。

 「なんだよ、相変わらずつれないヤツだなあ。」

今度は悲しそうな声である。ああ、会話と関係の無いことを考えていたからだろうか、と霖之助は判断した。
まあいつものことであるし、気にすることはあるまい。

 「じゃあ魔理沙は茶でも飲んでいなさい。ああ、無いと思うが、お客が来たらちゃんと招き入れて僕を呼んでくれよ。」
 「店番までさせるのか」

 不思議と嫌そうな様子ではない。少女がくすりと笑う顔はやはり愛らしいものだ。
よっ、と声に出して踏み台から飛び降りると、霖之助にとってはまだまだ小さな後ろ姿が店の方へと去っていった。
 今日は久しぶりに大きな収入になった。たまにはお礼の品の一つもくれてやるべきだろうか。そんな事を考えて、しかしすぐにうち払う。
ツケを支払ってもらう方が、商売人としてはどう考えても優先であるからだ。もっとも、彼も魔理沙もツケの額を勘定したことはない。
勘定するとしても、途中でその行為の無意味さに気が付いて投げ出すのが関の山である。

 霖之助はふむ、と手を止めて、先ほどの魔理沙の後ろ姿を思い出した。そして、ずっと見てきた小さな姿の移り変わりを。

 「思えば、長いこと経ったものだな。」



* * * * * * * * *



 食事の時は永琳が珍しくもふたりの関係を色々と訊いてきた。
かつて、大手の商店を営む霧雨家で修行をしていたこと。
そんななかで魔理沙が生まれたので、彼女のことは本当に小さい頃から知っていること。
独立を決意し霧雨家を離れたこと、魔理沙もまた家を出て一人で暮らしていること・・・・・
かいつまんで話したところで、魔理沙が割って入り「私と香霖の間は、切っても切れない、切れても生えてくるような仲だからな」と、ない胸を張る。
やれやれ、と苦笑する霖之助を見た永琳が笑って言った。

 「あなたたち、まるで親子みたいじゃない。」

見た目の歳相応に艶然として、それでいて優しく柔らかい笑顔である。
一方の魔理沙は二人を交互に見て今度は膨れっ面だ。

 「それはあんまりだぜ蓬莱人。私にとっては香霖の方が子供みたいなものだぜ。何しろ昔からこいつには・・・・」
 「ああわかったわかったもうやめてくれ。」

こういう時は早々と折れてしまうに限る。ややこしい話になっては何が起こるか分からない。かように、魔理沙の扱いは難しいのである。

 「親子でなければ恋人同士? ああ、歳の差がありすぎるとちょっとよろしくないわね。世間体とか。」

ああ、なんて楽しそうにそら恐ろしいことを言うのだろう。女性というのはみんながこうなのだろうか。
今度は全力で否定しようと構えた霖之助を、魔理沙が遮った。

 「悪くはないけどな、まあどうしてもって言うなら考えないことも無いが。」

悪戯っ子そのもの、といった満面の笑みである。その視線には霖之助をおちょくらんとする強固な意志がありありと浮かんでいる。
あのなあ、と心の中で毒づく霖之助と、懲りずにない胸を張る魔理沙を、永琳の瞳はあくまで優しく見つめていたのだった。



* * * * * * * * *



 はて、魔理沙は今いくつになっているのだったか。少なくとも20になっていないのは間違いないのだが。そして自分は?
乾いた笑いがこぼれるのがわかる。そう、霖之助は魔理沙が生まれるよりもずっと前から今の姿のままで暮らしているのである。自分の年齢などとうに忘れてしまった。
そんなわけであるから、ちょっと見に親子と思われても仕方があるまい。いや、むしろそれが自然とさえ思えた。
しかし、それにしても難しい娘であるものだ。
と、霖之助はあることに思い当たった。

 「それはあんまりだぜ蓬莱人。」

 蓬莱人。不老不死の人間。永遠を生きる者、か・・・。
話には聞いていたが、それを意識することはとんと無かった。
時々話す永琳はたいへん気さくな人物であるし、時代がかった様子もなければ、かつての高貴をかざすような高慢な雰囲気などは全く見られないからだ。
だが、確かにどこか神秘的な人物ではある。月の頭脳という二つ名を持つというし。
しかし長命な自分と永遠を生きる永琳と、まだ少女である魔理沙か。第三者・・・いや第四者か?とにかく、他から見たなら、二人が親子というよりもむしろ家族の団欒のような情景だったのだろう。

 いや、と霖之助は頭を振る。
長命とは言え、自分は今を生きるだけの者に過ぎない。いつかはこの生にも終わりが来るのである。
永遠の存在である蓬莱人からは、自分や魔理沙はどのように見えていたのだろうか?
少なくとも、さげすみや冷笑が含まれていないことは永琳の微笑みから想像できた。そして、彼はまた、「そうである」と信じたかったのだ。
自分が永琳に対して考えた事を、魔理沙もきっと考えていたのだろうから。
いいや、物心付いた時からずっと姿の変わらない者がそばに居るのである。
いかに妖の跋扈する幻想郷とは言え、人間たちの中でそういう者が現れたとき、誰もが何かを思わないはずがないのだ。

 そのことはもちろん分かっていた。わざわざ人里離れた森の入り口に店を構えているのもそのためだ。
だが魔理沙とて思うことはあるだろうということに、彼はようやく思い至ったのである。

 ところで魔理沙はというと、相変わらず積み上げられた商品を好き勝手に物色していた。







(二) 蓬莱



 いつの間にか風は止んでいる。雲間からは沈みゆく太陽がのぞき、この竹林を染め上げていた。
永遠亭に帰り着いた永琳を、月の兎であり彼女の一番の弟子でもある鈴仙が出迎えている。吐く息はやはり白い。今夜も冷えるのだろう。
長身ではないが、すらりとしつつ女性らしい曲線的な体躯は美形と言っていいだろう。光の加減で紫がかって見えるまっすぐな長い髪も、よく手入れされているようだ。
もしも永遠亭を初めて訪れる者が彼女に出会ったとして、その整った身なりからも、鈴仙がただの妖怪兎でないことは容易に見て取れるだろう。
鈴仙の赤い瞳は、夕陽を受けてより爛々と輝いている。不思議な形状によれた耳がぴん、と立っていた。

 「お疲れさまです、師匠。でも、ほんとに私に言って下さってもよかったのに。」
 「いいのよ、あのお店の雰囲気は私も好きだから。でも、そうね、今度は一緒に行きましょうか。」

 鈴仙が、その整った顔に複雑な微笑を浮かべた。あの店主はなかなか好人物であると、永遠亭の面々はそう見ている。
鈴仙もまた、霖之助が持つ知的で落ち着きのある雰囲気に感じるものがないでもない。
おそらくは師匠も同じような考えなのだろうが、と彼女はそう思っているのだ。

 白く優美な手を伸ばして永琳の手荷物を持とうと歩み寄ったとき、異変が起きた。
永琳の丁寧に編み込まれた長い銀色の髪が、なめらかな曲線を描いて、自分のすぐ横を通り過ぎていく。
ほんの一瞬のことが、まるで数分間にも感じられる。鈴仙は、なんとか腕を伸ばし永琳を支えると、緊張した面もちで師の顔をのぞきこんだ。
けして苦しそうではない。肌にも異常はないし汗もかいていない。だが、整った美しい顔は、確かに顔色はすぐれないように見える。

 「師匠!?」

これは尋常な事ではない。少なくとも、永琳が倒れるなどよくある事ではない。

 「ごめんなさい。ちょっと・・・疲れているのよ。」
 「今日は早いけどもう休むことにするから、姫によろしく言っておいて。それから荷物はお願いするわね。」

 それだけ言うと、永琳は身を起こし鈴仙に荷物を預けて、ひとり館へと入っていった。
足取りがふらついているわけでもない。だがその後ろ姿がひどく小さく見えたのが鈴仙には不安だった。しかし、永琳の言葉に間違いが無いことも良く知っていた。
今は休むことが必要で重要なのだろう、と自分を納得させる。深く呼吸して大きく白い息を吐くと、彼女も館の中へと帰っていく。

 「まさか、香霖堂で何かあったのじゃないわよね・・・・。」

赤い視線が、永琳の去った方向を向く。彼女の特徴的な耳が、少しだけ垂れ下がっていた。



* * * * * * * * *



 自室に戻った永琳は、外套を脱ぎ世話役の妖怪兎を下がらせると、そのまま寝床に倒れ込んだ。西日が差している部屋はまだ適度に暖かい。
この部屋の調度品は、おおよそが月の品物、またはそれを忍ばせるような造作に作られたものである。
意外なことに研究用の器具であるとか、学問の書物などは少ない。
研究は然るべき場所で行うし、書物は改めて読むことは殆ど必要がない。故に、この部屋には永琳の人格がより素直に反映されている。
だがけして月に愛着がある訳ではない。例えば、今から月世界へ帰ろうとは彼女は思っていないのである。

 この部屋は、見る者に豪華な印象は与えない。むしろ質素で慎ましやかな印象を与えるであろう。
そして、それは永琳の本質の一面でもあった。彼女は過度に飾ることを良しとしない。それは外見もそうであるし、心も言葉もである。
自分自身を厳しく律し、鈴仙や部下達にそうした教えを説くこともある。
衣服は堅牢な作りの箪笥によく整理されて収められており、部屋の片隅には引き出しつきの白い机がある。
その上にはいつも鮮やかでみずみずしい花を差した白い花瓶が載せられている。
数枚の絵画、時計・・・すべてが、文字通り長い長い時を共にしてきたものばかりであり、よく手入れされ磨き上げられてはいるが、見方を変えればどれも古色蒼然たるものであった。

 彼女は疲れていた。蓬莱人とて、空腹にもなれば疲れを覚えることもあるのだ。だが、この疲れはけして肉体的なものではない。
いや、疲れと言ってしまうのも、本当は誤っている。
天井を見上げる彼女の瞳はすでに永遠亭にはなく、まだ昇り来ぬ月を思っていた。

 「蓬莱人か・・・・。」

 魔理沙の言葉が脳裏をよぎった。唇の端に、かすかに笑みが浮かぶのを自覚する。
うらやましいと思った。

 永琳は蓬莱人である。かつてまだ平和な月に住まっていた頃、彼女は既にして月世界の智の頂点にあった。
あらゆる学問を究めたとも言われたが、永琳の主たる興味は常に薬品にあり、事実、彼女は次々と画期的な薬を創りだし、その恩恵によって月世界は繁栄の階段を一段、また一段と昇りつめていったのだ。
およそあらゆる病は克服され、外科手術を必要とせず助かる命が飛躍的に増えた。
異常出生はほぼ殲滅され、先天的な不利を抱えるものは存在しなくなった。
不幸な事故によって肉体の欠損が起きたとき、失われた部位が使える状態なら、または移植が可能であれば、やはり永琳の薬の力によってほとんどリスクもなく、人は再び五体を揃え元通りの生活に戻ることが出来た。
そうして、月世界での人の寿命は何倍にもなった。

 愛する人との不幸な別れを望ものは誰もいない。
誰もが、血を分けた家族と、運命に惹かれて出会った伴侶と、苦楽を共にしたかけがえのない者と、出来うる限りの時間を共有したいと思っていたはずだ。
それはあらゆる人が夢見た理想郷だったはずである。そうしてそれらは限りなく実現した。
たった一つ、老いと死そのものの克服という命題を除いて。

 彼女が月で最後に挑んだものが、永く禁忌の薬とされていた、蓬莱の薬だった。老いと死を回避する秘法である。
研究は困難を究めた。いかに天才と言えど、ついに才能の臨界点かと人々は噂した。
月世界のあらゆる権力は彼女に助力を惜しまなかったが、それらいずれもが資金と環境以上のものを提供するには至らなかった。
そこに現れたのがもう一人の天才である。
だが、もう一人の天才・・・・月の姫であった輝夜と共についに蓬莱の薬をものしたとき。
八意永琳の人生は終わり、そして始まったのである。

 今の永琳に、蓬莱となった事への後悔は無い。姫に仕えることにも、故郷を捨てた事にも、永遠を生きることにも、である。

 だが。

 これまでにも、何度もこういうことはあったのだ。そして、どんなに長い時間が経ったとしてもけして無くなりはしないだろう。
これは、言うなれば、永琳が蓬莱の永遠と引き替えに背負った「業」なのである。

 「永遠を手に入れても。永遠を生きていても。無限の時間があっても。」

仰向けになって白い腕を目元に押しつけ、低い声でうわごとのように繰り返す。心配してやって来た鈴仙が部屋の前で立ち止まっていることにも、永琳は気付かない。

 「知っているのに。繰り返すのよ。 けして越えられない、永遠を・・・どうしても・・・・・。」

これは自嘲だ。自責も自嘲も無意味なものだ。犯した罪はどうすることも出来ない。ただ償い、時ともにその重さを忘れるしかない。
だが永遠という長い時間があっても、許されこそすれ、けして償う事も忘れることも出来ない罪もまた存在する。
それを彼女は知っている。知っているのに、償えず、忘れられないが故に、苦しみ、疲れ、涙するのだ。

 「私たちは、たとえどんなに生きたとしても・・・・」

やがて漏れてきた低い嗚咽に不安が衝動に変わり、鈴仙はとうとう戸を開け放った。
 
 「師匠!」

鈴仙が見たのは、敬愛する師とは似ても似つかぬ、悲しみにくれて我を失いかけた哀れな女だった。そこに、あの凛とした面影はない。
堂々たる態度も、魅惑の微笑もなく、ただ涙に濡れた顔を覆って嗚咽するだけだ。
沈みかけの太陽特有の強い橙色が、その部屋を病的に染め上げていた。
永琳の嗚咽はもう、言葉を為していない。鈴仙の姿を認めているのかも分からない。何と声をかけて良いのかも分からない。
鈴仙が取った行動は、彼女自身も予想し得なかったものだった。

 鈴仙の胸で永琳が泣いている。
誰もこの光景を想像することは出来なかったろう。あんなにも偉大なこの人が、こんなに小さく弱々しく泣いている。
永琳の柔らかい肩を抱く腕に力がこもった。

 「大丈夫です、師匠。」
 「大丈夫です。」

どうすることも出来ない。何と言えばいいのか分からない。ただ、不安と本能だけが鈴仙を動かしていた。

 「大丈夫です・・・・・。」

赤い瞳からも雫がこぼれる。陽はいつしか沈みきっていた。
久しぶりに遮るもののない月が思う存分に輝く中で、鈴仙は師を抱きしめ続けてた。





(三) 業


 「心配は要らないわよ」

永遠亭の主である蓬莱山輝夜は、あっさりとこう言いきった。だが軽い気持ちで言った訳でないことは、その表情から伺い知ることが出来る。
それだけに、いっそう判断の根拠を求めたくなるのは仕方のないことだろう。鈴仙は焦りを隠せなかった。

 「だけど姫様! 師匠の様子はただごとじゃありませんでした。私がこの永遠亭に来てから数十年、こんな事は一度だってなかったんです。」
 「確かに、姫様はもっと長く、師匠と一緒にいらっしゃいます。だから私が知らないことを知っていてもおかしくはありません。でも、なら教えて下さい!」
 「このままでは不安でたまらないんです。あんなに弱々しい師匠は・・・初めて見たんです。」

 一気にまくし立てた鈴仙を見る輝夜の瞳からは、感情をうかがい知ることが出来ない。だが、この姫は何かを知っているはずなのだ。
鈴仙は師を敬愛している。姫に対しても忠誠心を持っているが、師への敬愛ほど深いものはない。
見透かされているのか、しかし、それを気にするような器の小さい方ではないはずだ。

 「教えて下さい。」

彼女の瞳は、見る者を狂気に誘う力を持っている。だが、今この赤い瞳にあるのは真摯な願いそのものだった。鈴仙のこういう性格が、皆に愛されている理由であることは疑いない。
輝夜はひとつため息をつくと、ついに折れたのだった。しかし、無表情だったまなざしに、次に深い悲しみが浮かんだのを鈴仙は見逃せなかった。

一体。
一体、師匠の涙にはどんな理由があるというのだろうか?何が、あの姫さえもこんなに深く悲しませ、その口をつぐませているのだろうか。

 「鈴仙、あなたは」

輝夜の顔がより一層深刻な表情を浮かべる。鈴仙も、こんな主は見たことが無い。
そうして、輝夜はほとんど聞き取れないような小さな声で、ある質問をした。
鈴仙の表情が驚愕に青ざめる。言葉を失い、彼女は答えを返すことが出来なかった。時間が凍り付いたようだった。
永遠亭という名の通り、この館はあたかも時が止まっているかのようにその姿を変えず、また気が遠くなるほどの昔から存在する。
しかし今のこの時ほど、時が止まったというあり得ない感覚を実感できた瞬間は無いだろう。

 そうか。聞いてみれば、それは確かにあり得ることだった。考えが至らなかった事が不思議に思えるほどである。そして、永琳の心中を思えば・・・・
体の震えが止まらない。あふれ出る涙を抑えることは、心根の優しい鈴仙には出来なかった。

 「大丈夫よ。今までも、こんなことは何度もあったの。どうしようもないけど、2~3日あれば落ち着くから。これは、永琳の心が落ち着くより他に無いのよ。そのあとは何年も、何十年も・・・・」

鈴仙を見る輝夜の瞳はいつになく優しい。

「私も月にいた頃には全然知らなかった。地上に堕とされて、永琳達が迎えに来て、そのあとしばらくはずっと。だから最初の時はさすがに驚いたし、確かめたわ。」

小さな手が鈴仙の震える肩に添えられた。輝夜の視線は遙かな時を越えた過去に帰る。そこは、血にまみれた熾烈な逃避行の最中だ。

 「私にも実感は無かったけれど、それがどれだけ辛いことなのかは分かっていた。だけど、きっと時が癒してくれるだろうと思ったの。」
 「私たちは蓬莱、永遠の住人なのだから。だけど。」

 輝夜の瞳が静かに閉じられる。

 「どんなに生きても、人である事を越えることは出来ないのよ。ましてや、私たちは『女』だった・・・」

そう、この喪失は、人である以上、いや、命のあるものである以上、そして女である以上、けして癒すことは出来まい。忘れ去ることなど出来はしない。ましてや、それが自分自身の意志によるものであったなら。一体誰が、その重みに耐えられると言うのだろうか。
それは「人」であることを放棄したものだけだ。蓬莱「人」として、永琳と輝夜はその一線だけは越えられないことを内心では安堵し、一方で深く絶望していたのである。

 輝夜のほおを、一筋の涙が伝い、それはゆっくりと落ちていく。
 鈴仙は、力無く膝をついた・・・・・。





* * * * * * * * *





 翌日には、永琳は嘘のように復活していた。第一声は「心配かけてごめんなさいね。」というありふれた一言だったが、その言葉の端々に、表情や身振り手振りに、鈴仙は心底安堵したものである。
だが、知ってしまったことの衝撃は冷めない。偉大な師の日常の裏にはあんな秘密があったのだから。

 「あら?」

鈴仙が両腕をのばし、師を抱きしめた。
彼女は永琳より背が小さい。端から見れば抱きついているようにしか見えないが、彼女は永琳を抱きしめたかったのである。

 「あらあらウドンゲ、いけない子ね・・?」

いや。
鈴仙は自問する。思い上がりではないのか。永琳に必要なのは、抱きしめてくれる相手ではない。
顔を上げる。あからさまに困った表情の永琳がそこにいた。なぜかほおを赤らめているのが少しだけ奇妙だが・・・・
鈴仙は、今度は永琳に「抱きついた」。
永琳も、不器用な弟子の意図を察したのだろう。彼女の瞳には母性に満ちた優しさがあふれていた。

 「本当に、心配をかけてごめんなさい。」
 「・・・・・私たちはこれからもずっと一緒よ」

永琳の瞳が潤む。彼女は軽くそれを拭うと、この愛しい弟子をまた抱きしめていた。









(四) 息吹



 森近霖之助はその日も静かに本を読んでいた。正午を過ぎてそろそろ小腹が空いてくる頃だ。
今日は黒白の突風も吹くまい。
吹かないといいな。出来れば紅白も遠慮したい。

 本を伏せて窓を開き、ようやく春めいた暖かい空気を胸一杯に吸い込む。かすかな花の香り、草木のにおいが満ちていく。
今年もまた、新しい命がそこかしこで芽吹いているのだ。
ふむ、と腰を上げる。米さえ炊いてあればあとは何とでもなる。今読んでいるのもやはり外の世界の本らしいが、これもまた面白い。霖之助の心中は、もはや書物の続きを読むことに集中していた。
だがそんなときに限って腹の虫が鳴る。ええい、もう米と梅漬けでいいかと腹をくくったところで、耳に心地よい声が響いてきた。

 「ごめんください」
 「お邪魔します」

 「やあ、いらっしゃいませ」

 思わぬ来客だが、こういう客なら大歓迎だ。先日のような収入になるかはともかく、少なくとも損失は出まい。
もしかしたら、書物以上に興味深い話も聞けるかも知れない。なにしろ、今日は彼女の弟子まで一緒なのだから。

 「少しだけ、お話ししたいことがあって来たのよ。」

 軽やかに語る永琳の表情は、しかしいつになく真剣だった。




* * * * * * * * *




 「いい子よね、あの黒白の」

 意外な言葉である。
魔理沙の事だ、というのはすぐに分かるが、永琳が彼女を話題にすることが。
また、何か重大な話らしい時に、魔理沙が話題に上るとは思わなかった。
春の陽射しの下、微笑を浮かべて霖之助を見据える永琳の瞳は、深く優しい光を湛えている。さすがに、始まったばかりで話の意図が掴めずともそう訝ることもないだろう。まずは腰を据えて話を聞くことが肝要だ。

 「そうですね。僕にとっては娘のような妹のようなものですが・・・・それも、結構に迷惑な」

思わず正直に答えてしまった。照れ隠しの一言が結構に痛い。当人に聞かれていたらさぞ酷い目に遭わされただろうな。

 「ありがたいと思うこともありますがね」

きちんと笑うつもりだったが、自分でも分かるほどにどうやら苦い笑いだったらしい。横で聞いていた鈴仙も苦笑している。

 「あら、可愛いじゃない?小さい頃からずっと好きな人を追いかけてきて。」
 「・・・確かに、かわいくは思っていますよ。」

僅かの沈黙を挟んで、彼は本心を漏らした。彼女の気持ちはある程度分かっているつもりである。しかし魔理沙は、やはり娘や妹のようなものなのだ。それに・・・・。

 「生きている時間が違う?」

見透かされているな、と彼は笑った。仕方がない、相手は自分よりずっと「格」が上なのだ。だからこそ、彼女との会話は知的で趣深く、楽しいものなのだが。
彼も同じ事を考えていたのだ。
永遠を生きる永琳から見れば、自分と魔理沙は親子や兄妹のようなものだろう。自分から見れば永琳は手の届かない憧れめいた存在であり、魔理沙はやはり娘や妹のようなものだ。

 では魔理沙から見たときには?

 「生きている時間、というよりも生きていられる時間、かしらね。あなたはあの子が亡くなってもまだ生きている。私はあなた達が亡くなっても、たぶんずっと生きている。」

永琳の視線が鈴仙にも向けられる。何とも言い難い、悲しい視線だった。だが同時に、どこまでも優しい。

 「師匠・・・・・」
 「霖之助さん、あなたに私の秘密を少しだけ分けてあげるわ。」

何の事だかわからない。面食らっている霖之助に永琳が歩み寄り、唐突にくちづけた。

 「な・・・」

ほんの一瞬の事である。また、これしきのことで取り乱すほど初なわけでもない。だが、やはり驚いた。
春風が吹き、彼らを通り過ぎていく。過ぎ去ったあとで、永琳が口を開いた。

 「私にはね、子どもがいたの。」

 鈴仙が静かに目を伏せた。霖之助は眼鏡の奥の瞳を見開いていた。
確かに、永琳をそれと知らずに見れば、初対面の人間ならそう思うかも知れない。見た目には歳の頃といい、仕草や物腰に満ちた柔らかさと落ち着きといい、全くもっておかしさは無い。
だが、彼女は蓬莱人なのだ。それはつまり。

 「もうずっと、ずっと、昔の事よ・・・・。私がまだ月にいた頃。まだ蓬莱でなかった頃にね。」
 「すごく忙しい生活だった。だけど私も遅い恋をして、人並みに幸せだった事があったのよ。」

過去を懐かしむ永琳のまなざしは、日溜まりで眠る、満ち足りた余生を過ごす老婆のようである。穏やかで優しく、周囲には暖かい家族がいる。霖之助はそんな情景を幻視した。

だが。だが、それはもう「過去」なのだ。
そう、取り返しがつかないほどの。人の命も記録も遠く及ばないほどの過去のことなのだろう。

 「蓬莱は永遠を生きる。私と姫には無限の時間、終わることのない未来が続いているわ。」

永琳が、霖之助を見据えて言う。口調はあくまで穏やかで、しかし強い意志を感じさせた。

 「けれど。」
 「けれど永遠はただ続くだけ。どこまでも。もしも後ろを振り返れば」

永琳の視線が落ちる。一呼吸の間を置いて、彼女は言葉を続けた。

 「そこには永遠よりも長い、深い闇が続いているのよ」

太陽に雲がかかり、一瞬の暗がりが永琳の表情を覆い隠した。

 「私たちは『失う』ということを否定した。だけど、失ってしまったものを再び得ることは出来ないわ。」

いつの間にかそばまで来ていた鈴仙が、永琳の袖をぎゅ、と掴んだ。その耳がぴくん、ぴくん、と動いている。

 「時間が解決してくれる、そう思ったこともあったわ。だけど出来なかった。人間だもの。女だもの。母だもの。どんなに長い時が流れても・・・罪の意識は決して忘れられない。」
 「私は、たぶん何よりも大切なものを、何よりも愛していたものを、決して手の届かないところへ、自分で捨ててきてしまったのよ。でも・・・」

 「だが、あなたはそれを忘れていない。」

 霖之助が、永琳を遮って言った。言わなければいけないような気がした。
自分よりよほど賢い相手だ。見透かされているかも知れない。だが、これは自分でなければ言えない事だと、霖之助はなぜかそう確信していた。

 「あなたが愛した人と、あなたの子は、月で幸せに生を全うした。そう信じればいい。あなたの罪はきっと消えはしない。子を思う母の気持ちは僕には決してわからない。だけど!」

彼にしては珍しく、声を荒げて語る。

 「あなたもまた、けして忘れはしない。過去は、過去に生きていた人たちは・・・・まだ生きているんだ。あなたの罪の意識と共に。あなたの中で。」
 「そうである以上、あなたは胸を張って生きたらいいんです。僕にはうまく言えないが・・・・・」

一呼吸おいて、眼鏡を正す。二人の女性は、霖之助に真剣な眼差しを向けていた。

 「あなたの苦しみは、きっとあなたの子をも苦しめていただけ、なのではないですか?」

 「・・・ありがとう。霖之助さんに話して良かったわ。」

永琳が微笑んだ。
可憐なつぼみが花開くような、まぶしく美しい笑顔だった。

 「きっとこの苦しみは終わらない。私はまた泣いてしまう。それは分かるのよ。でも」
 「少しだけ気が楽になったわ。男の人の言葉は、うちでは貴重だしね。」

 「師匠、そろそろ・・・・」

鈴仙が袖を引っ張っている。永琳は「そうね」と小さく答えた。
 
 「あの子を大切にしてあげなさい。」
 「・・・・・何故に命令口調ですか」
 「命令だからよ。あなたは自分で言ったわよね?」

・・・・やられた。
 
 「あなたの中では、いつか彼女は過去になってしまうわ。けど、あなたはけして忘れない。」

 「ええ。忘れたりするものですか。あいつの気持ちに応えてやれるかどうかはともかく・・・・」
 「僕にとっても、あれは大切な家族なんです。」

 永琳は満足そうな笑みを浮かべている。鈴仙までもがニヤニヤとして、この真面目な月兎が見せる表情とは思えない。
だがここまで来たら開き直るしかあるまい。娯楽の少ない永遠亭に、夕食時の格好の話題を提供することになったわけだ。
だが、偽りを捨てた霖之助の胸中は驚くほど穏やかだった。

 「じゃあね。また会いましょう。」
 「今日はありがとうございました、霖之助さん。」

二人は揃って振り返る。そして地を蹴ると、すぐに驚くほどの高さまで浮かび上がっていった。
空中から器用にお辞儀をする鈴仙を見てほほえましく思う。魔理沙もあのくらい良くできた子なら良かったんだが。




* * * * * * * * *




 「鈴仙、あなたは」

鈴仙は、あのときの輝夜の問いを反芻していた。
 
 「あなたは、おなかを痛めて子どもを産んだ事があるかしら?」

 その痛みは経験した者にしか分かるまい。そして、その子を失う痛みも。自ら我が子を捨てるという事の痛みもまた・・・・。
この師匠でさえ、時にはその痛みと蘇る罪の意識にさいなまれ涙する事があるのだ。だけど。
それは、この師匠が本当に素晴らしい「人間」であるという事に他ならない。鈴仙は、八意永琳の弟子となったことを本当に誇りに思う。
彼女もまた、大切なものを月に置き去りにした過去を持つ。それゆえに、罪の意識からは逃れられるものではないことを、逃れてはならないということをも、彼女は知っていた。
いつのことなのかは分からないが、いつかは自分もまた永琳の「過去」になるのだろう。それまでは、私が精一杯、この素晴らしい師に尽くしていこう。

 鈴仙は思う。そうすることが、故郷を捨てた自分の贖罪なのだと。




* * * * * * * * *



 さて、思ったより長く店を空けてしまった。
霖之助は自分の店へと戻ることにした。まあ、店のすぐ裏で話していたのであるから、戻るのもすぐである。
そう言えば、ここの桜もそろそろ咲く頃だろう。今年は魔理沙の誘いにのって花見に行ってもいいかも知れない。
自分の心の中で何かが変わったのを、霖之助は感じていた。そう、やはり自分もまた、失うことを恐れていたのかも知れない。
いや、失うことは避けられないのだ。いつかは魔理沙も自分の元を去っていくかも知れないし、あるいは・・・。

 せめて。
せめて今は、永琳の言葉どおりに従うのがいいだろう。自分にとっても魔理沙は大切なのだ。それを押し隠す事も無い。
彼女の気持ちはいずれ変わっていくかもしれないが、それはそれで良い。

 戸口を開ける。ふと予感がして振り返ると、遠くに黒白の影が見えた。
そう言えば、鈴仙は兎なのだったか・・・・・笑いをこらえきれず、彼は小さく吹き出した。
まったく、見事にやってくれたものだ。

 彼はほころんだ自分の顔を自覚すると、ひとまず咳払いをした。魔理沙は速い。すぐにここに来るだろう。
だが彼女を迎え入れるのに、特別な準備は必要あるまい。
戸口を閉め、いつものように椅子に腰掛けると、先ほど伏せておいた本を手に取った。
やはり古びた、日に焼けた古本である。かすかに残った本の題は「湖畔」と読めた。


(終わり)
初めまして。普段は読者です。

読みづらい文になりましたが最後まで読んでいただけると嬉しく思います。
ああ、とりあえずこーりんは殺s

それではまた。
がっでむ
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コメント



0.2080簡易評価
5.100名前が無い程度の能力削除
ブラボー!!
言葉では言い表せない悲しみと救いを感じました
やっぱこーりんはシリアスも似合う男だ
8.70名乗らない削除
こーりんは何モノなのか。GGのセリフっぽくいうと
『さて、あなたは・・・「人」でなし、「妖」でなし、「人形」でなし・・・これは実に興味深い』

にしてもこーりんえーりんめーりんは設定や内面が話のネタに事欠きませんね。
16.80ぐい井戸・御簾田削除
こーりんが読んでた本ってなんか元ネタが…?
26.無評価がっでむ削除
ご感想ありがとうございます。とても嬉しいものですね(^^;

>ぐい井戸・御簾田 さん
元ネタというか、実在する本だったりします。
最初に出てきた本は「海の沈黙」という題で、おおよそは引用した通りの内容ですね。ドイツ軍に占領されたフランスのとある田舎を舞台にした静かな小説です。後半にうどんげを出すために戦争を暗示したかったのと、もう一つは「地獄行きです」まで読んだ所で魔理沙が来る、というのがやりたかったのです。
最後に題名だけ出た本はシュトルムというドイツの作家/詩人の作品で、邦訳では「みずうみ」になってることが多いですね。これを最後に持ってきたのは、二人があまりにもうまく行くと僕が面白くないからです(ぉ こちらは内容を引用していないので何がなにやらだったかもしれません。反省してます・・。

>名乗らないさん
GGは僕も大好きです。奇遇ですね。
PS/DCで猿のように遊んだのですが、最近はやってません。

>名前が無い程度の能力さん
まさかの100点、ありがとうございます。
3時間位で書いたものをそのまま勢いで投稿してしまいましたので、もっと時間をかけて見直せば良かったんですが・・・やばい誤字だけはなおさせていただきました。壊れたこーりんも好きです。
28.100no削除
普段はあまり意識しない霖之助の裏設定と、やはり普段はあまり書かれることのない
永琳側の「現在」の事情とがうまく結び付けられており、話に引き込まれました。
連続した同一人物の台詞は鈎括弧で括らず、もし一度閉じるのであれば口調などの
地の文章を挿入する、などの現代国語的ルールが一部ありませんでしたが、作者さんの
文体なのだろうとは思います。
ともあれ、よいお話を読ませていただきました。
真面目な霖之助のお話は正直貴重ですので、是非これからも彼をかっこよく書いていただけたらと思います。
51.80名前が無い程度の能力削除
いい話。