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― Skyblue Colored Sketch ―
賽銭箱が札束であふれかえっていた。
そんなバナナ。
顔を入念に洗い、目薬を浴びるほど差し、ついでに朝ごはんの食器を洗った。厠へいって用を足したりもしてみた。
すっきりしたところで戻ってきてみると、やはり活火山のマグマのごとく、札束たちは賽銭箱を占領して動かないときた。
これは異変じゃ、と自分で思ってわけもなく涙が出てきた。蝉しぐれがうっせえ。こちらを馬鹿にしてやがるような、そんな心持ちだ。
博麗霊夢は大幣をサムライのように大上段に振りかぶると、ためらいもなく賽銭箱へ打ち下ろした。
ぱぁんっ。
風船が割れたみたいな音とともに、札束の群れが一斉に弾け飛ぶ。
「ぬえ、いるんでしょう? 出てらっしゃい」
声は木立に吸い込まれ、小鳥の歌声と一緒に青空へと舞い上がっていった。反応ナシか、ふむ。
「……茶、お預けにするわよ」
「ちぇっ」
ぽぉんっ。
今度はポンポン菓子みたいな破裂音。
すっかりお馴染みの黒ワンピを着込んだ封獣ぬえが、屋根瓦に腰かけてにやにや笑っていやがった。初めてかち合ったときの不敵な表情はそのままに、最近じゃルビーみたいな瞳に人懐っこい輝きを宿すようになっていた。こっちの表情を窺ってきては八重歯を覗かせて、ご機嫌を取るように足をぶらぶらさせている。
「よく分かったぬぇ、霊夢」
「まったく悲しいことにね。で、どうなってんのよ、これ」
「落ち葉を詰めてタネで味付け、霊夢の目で熟成してやればこの通りよ」
悪趣味ねぇ、と鼻を鳴らして座敷に入る。黒ずくめ妖怪は赤色UFOに腰かけて、こちらを追いかけてきた。
「ちゃんと掃除しといてよ」
「もちろんだぬぇ」
ぬえがぱちんっと指を鳴らすと、絢爛豪華な札束たちは蛍火みたいに一瞬だけ輝いたかと思ったら、みるみるうちに色を失って無残な正体をさらした。盛者必衰、なんて単語が脳裏を駆け巡って、ちょっと切なくなった。ちょっとだけ。で、ビー玉みたいな光の球が次々とUFOへと帰還してゆき、落ち葉は突風に吹かれて雑木林の奥へと消えていった。
ぬえの満足そうな微笑みが風鈴の音と溶け合って、縁側にぽたぽたと染みを作る。なんか得意げに目を細めてきたけど、ただの後片付けだから褒めてやる気にもなれない。
「ぬふふ、ざっとこんなもんね」
「お疲れさん。ついでにさ、境内の方も清めてくれない?」
「あっかんぬぇー!」
この野郎。
拳骨を叩き落としてやった。
★ ★ ★
「ぬえ~ん……なにも殴らなくてもいいじゃん」
「自業自得じゃないのよ」
だって、だって。
霊夢はほんと容赦ない。この前だってせっかくムラサのキャラメルカレーを差し入れしてやったのに、あろうことか夢想天生と八方鬼縛陣の鬼畜コンボをぶちかましてきた。ナマケモノのごとく鈍感な舌でも、あのカレーは流石に受け付けなかったみたいだぬぇ。それから三日間もお茶を出してくれなくなったから、私の喉はサハラ砂漠よりもなお乾いてしまった。
食い物で霊夢をからかうのは止そう、そう誓った夏の夜である。
「よりによってまぁ、お賽銭箱にさぁ。寿命が縮むかと思ったわよ」
「へぇ。じゃあ、少しくらいは信じちゃったわけだ」
霊夢はしまった、という風に口をつぐむと、リボンをカエルみたいに跳ねさせながら背中を向けた。
「しかたないじゃない。お賽銭いっぱいいっぱい、私の夢なんだもの」
なんつー俗な夢だ。
私はUFOから飛び降りると、靴を揃えて霊夢の隣に並べ、ちゃぶ台に滑り込んだ。
「ぬっはぁ、やっぱり良いぬぇ。このひんやりした感触。落ち着くぬぁ」
のっぺりとちゃぶ台に張り付くと、とたんに眠くなってくる。汗がすぅーっと干上がっていく。
なんせ寺だ。早起きだ。十分でも寝坊すれば読経を延長、三十分で寺まわりをジョギング三周の刑、一時間やらかそうものなら朝食抜きと南無三が待っている。朝はいつだって戦場である。朝型生活にもようやく慣れてきたけど、私が起き出すのはいつだってびりっけつだ。
「あんた、またちゃぶ台に……急須おけないじゃない」
「もうちょっと寝かせて。長くはかからん」
目をうっすら開けてみると、障子によりかかった霊夢のへそが見えた。ふむふむ。
「どいて」
「ぬえんっ」
足で押しのけられた。ばったり倒れて呼吸を止めてみたけど、霊夢は私の死んだフリには慣れっこだったので、何も云わずに湯呑みを並べ始めた。背中をすらりと流れる黒髪が、波打つような光のベールに覆われている。綺麗だぬぁって思った。私の癖っ毛とは大違い。
「ぬぇぬぇ、霊夢」
「なによ」
「なんでもない」
「あー?」
寝ころんだ私の足に、霊夢は退魔針をぷすぷすと突き立ててくる。いってぇ、マジで容赦ぬぇわコイツ!
たまらずに起き上がった私の目に飛び込んできたのは、命を育み生を成す霊夢大先生の緑茶である。高い買い物だったろうに氷が入っていて、夏の日差しをまとめて跳ね返してくれそうな強い輝きを放っていた。
「うっひょう、きたきた!」
「毎日毎日、もの好きねぇ」
「おいしいんだもん、いいじゃん」
「そりゃ光栄だわ」
心地いいのは安心できるってことなんだけど、大妖怪としてこれはどうなのって思うときもある。でも、畳からほのかに漂ってくる霊夢の匂いに包まれていると、それもどうでも良くなってくる。
幸せは身近なところに転がってるって、白蓮はいつも言ってるけれど、ようやく成程って頷けるようになってきたよ。
あぁ、今日もお茶が美味しいぬぁ。
★ ★ ★
ぬえが茶をたかりに来た時にはお菓子を持ってこさせるのが暗黙の了解になっていたが、今日はどえらい予想外なものを持参してきた。
「これって、まさか」
「ぬ、菊池屋んとこのかけそば。分けてもらっちゃった」
「うわー、ぬえ愛してる」
思わず口が滑った。ダイヤモンドみたいにつやを光らせてちゃぶ台に畏まっているそれは、幻想郷で随一と名高い菊池屋謹製の代物である。
「いいの、食べちゃって?」
「どうぞどうぞ」
「またタネ、使ってるんじゃないでしょうね?」
「ぬぬっ、それは心外だぬぇ」
茹ダコみたいになっていたぬえはさっと顔を元に戻すと、てんこ盛りをひとつまみして唇を尖らせ、喉に流し込んだ。冗談じゃなく、本当にちゅるちゅるって音が座敷中に転がった。
ごくりっときた。達人は素材からこだわるものなのだ。その麺のコシは特製つゆと共に怒涛のごとく口内で喚声を上げ、一撃でゲームオーバーにしてくること請け合いである。
「ものすげえ美味しそうね……」
両手で頬を押さえて「んぅ~」とか言ってる正体不明。ついさっき朝飯を食ったばかりなのに、腹の虫がトランペット持ってがなり立ててきた。我慢できそうにないな、これは!
「さっそく食べよっか」
箸を引っ張り出したところで、ぬえの目が光った。
「ぬふふ、霊夢。食べたいんならひとつ条件があるよ」
「えっ」
「ほら、これこれ」
割り箸の先を突き付けられたと思ったら、そばを指して、またこっちへ。意味わからん。
「なによ」
「あ~んだよ、あ~ん」
「へっ――」
それって、つまり、あれか。恋人とか親子でやる、あれか。おいしかった? うん、おいしい。やっぱりお前の料理は最高だなっていう、あれか。
「じょ、冗談でしょ……?」
「いっつもさ、ムラサがしてくるんだよ甘ったるい声で。そりゃ楽しそうにさ。私もやってみたくなっちゃってぬぇ」
「だったら、あの舟幽霊にしてやればいいじゃない!」
ぬえが身を乗り出してきた。
「やーよ。霊夢の恥ずかしがる顔、見たいもん」
「みみ、みなくていいわよ!」
柄にもなく叫んでしまった。後ずさる。アンノウン少女はケラケラと笑いながら、そばの容器を片手ににじり寄ってきた。瞳が紅色に輝いてこちらの胸を射抜かんとしていて、そんで、くらっときた。ワンピースの裾が危なげにはためいている。獣みたいな唸り声が座敷を震わせた。
あぁ、これだから妖怪は嫌なんだ。ちょっと油断してると、すぐに目の色を変えてくる。文字通りに。秋の空模様みたいに。波の満ち引きのように。
どんっと衝撃。壁際に追い詰められた。
「観念しなよ、博麗霊夢。食べたいんじゃぬぇの?」
「ぐぅ……」
霊夢は袖口からパスウェイジョン・ニードルを覗かせた。とたん、ぬえの身体がびくんっと震えた。
「……私はあんたみたいな妖怪の手に堕ちるほど、やわじゃないわよ」
「ちょ――ちょっと待ってよ。そんな本気で嫌がらなくてもいいじゃんか」
妖怪が箸を引っ込めて小さくなる。部屋を覆っていた暗雲が晴れていくような。
力が抜けた。そうだった、こいつも名立たる妖怪の一角なんだなって、肌身に染みた。それだけの話だ。ちょっと平静を欠いていたかもしれない。
怯えたようにこちらを見上げるぬえ。奇天烈な羽が垂れ下がって畳にキスしていた。そんなに。そんなに私は怖い顔をしてしまったんだろうか、と霊夢は真っ赤な息を吐いて声を漏らす。
「もう、分かったわよ。一口だけなら許したげる」
「ほんとっ!?」
ぬえが言質を取ったとばかりに飛び上がった。
この野郎。
「はい、あ~ん」
「って、はやいっ!?」
目の前にたっぷりとつゆを吸ったそばが、そばが。SOBAGA!
いてもたってもいられなかった。霊夢はローストチキンを目の前にしたライオンのごとく、ぬえの差し出す伝統の味に食らいついた。そばは魔物のように唇をはいずって口内に突入してくる。わさびのぴりっと効いた特製のつゆを味わったとたん、全身に電流が走った。ほっぺが針で刺されたみたいにすぼまって、麺は歯を押し返すかのような弾力があって、もう、どうにかなってしまいそうだった。
「どう? どう、霊夢?」
ぬえが顔を紅潮させて訊いてきた。
返事ができなかった。
なんだろう、この気持ちは。
私は、ずっと前に、同じように、誰かにそばを食べさせてもらったことがある、と霊夢は思った。あたたかい。真夏の炎天下みたいな思いやりの欠片もないやつじゃなくて、もっと、例えば、雪深い森の奥の一軒家で二人、暖炉の前に寄り添っているような、そんな。
誰だったろう。誰に食べさせてもらったんだろう。思い出せない。
もやが掛かったみたいにあやふやな気持ちを、さらに覆い隠すように、真っ黒い霧が吹きこんできて、懐かしさの奔流は消えていった。
「……うん、おいしい。すごく」
祭りや宴会のあとみたいなものだろうか。
久しぶりに、寂しいなんて感じた。風鈴の泣き声に救われた。今日の空が晴れていることに感謝した。
そして。
「よっしゃ! 堪能させてもらったよ、霊夢もそんな顔するんだぬぇ」
うすっぺらい胸を張った目の前の少女が、少しだけ頼もしく見えてしまうのは、なぜだろう。
「なによ――ばか」
霊夢はトマトみたいになってしまった顔を見られたくなくて、そっと顔をそむけた。
★ ★ ★
よく思い返せば、霊夢とは会うたびに何かしら食べてきた気がする。
ムラサが焼いて持たせてくれたタルトやクッキー、里の連中から喜捨してもらったお酒、白蓮が握ってくれた雲山サイズのおにぎりまで。
それは多分、春の終わりの桜も懐かしいころ、霊夢といっしょに酒を呑み交わしたあのときから続いてきた、私たちを繋ぐ縁なんだろうぬぇ。あれから私はどんどん日和ってしまい、今じゃムラサのセクハラに怒鳴ってやることも少なくなった。早起きするようになったし、暇なときは写経だってする。ヤマビコの響子とバンドを組み、木魚と錫杖でゲリラライブしてたりもする。なのに、霊夢はずっと霊夢だった。言葉にするには難しい気持ちなんだぬぁ、これが。
強いて云うなら。
一緒に飛びたい、だろうか。
一緒に昼寝したい、だろうか。
一緒に青空を見ていたい、だろうか。
霊夢のことは何も知らない。お茶と料理とサボりがものすげえうまいってことくらいしか。霊夢が、私の歩んできた道のりの案内を請わないのと同じように、私だって霊夢がどんな風にして博麗の巫女になったかだなんて、訊くつもりはない。
知る必要がないのだ。
そんなことしなくたって、生きていける。付き合っていける。
そばを食べたときに霊夢が零した、あの真っ暗な夜空みたいな顔も、あるいは私が知らない星の一滴なんだろう。霊夢はなにも聞かせてはくれなかった。他愛もない話をしながら、そばと一緒にいろんな気持ちまで飲み下してしまった。
どうしてもってときは、遠慮なく吐き出して欲しい。まとめて受け止めてあげるくらいには、場数を踏んできたつもりだ。
だからさ。
私がいつか辛くなっちゃった時はさ、出来ればとなりで聞いていてほしいな。笑い飛ばしてくれても、いいからさ。
あんたのふわふわな笑顔ひとつで、私は何万回だって羽ばたいていけるんだ。
それから、一週間が経って。
「乾杯!」
「はい、乾杯」
真っ昼間から酒宴である。
博麗印の麦焼酎は極上品だ。醸造法はいたって普通だという。これで平凡なら、世の酒屋はまとめて乞食になるだろう。
神社、屋根の上、二人ならんで腰かけて。
この日、霊夢はどこからか酒を持ってきて、開口一番に外で呑むぞってわめいた。問答無用だった。
暴虐たる太陽が雲に隠れて、だいぶ過ごしやすくなってきた昼下がりのことだ。視界いっぱいに広がる幻想郷は新緑に包まれていて、山稜と青空の色のコントラストが綺麗だった。ときおり通りすがる小鳥の歌を真似してみたり。
「――で、ムラサが珍しく落ち込んじゃったもんだから、ちゃんとあんたの葬式も出してもらえたはずだって、そう言ってやったわけよ」
「ふうん、葬式ねぇ」
これ、およそ酒の席で話すことじゃなかったんだけど、何となく印象に残っていたから、話題の俎板に乗せたのだ。先日に命蓮寺で執り行なわれた葬式、死んだのは里の女の子だったらしい。水場で遊んでいたときに起こった、取るに足らない事故だった。けど、ムラサにとっては、少なくとも白蓮と暮らせるようになってからのムラサにとっては、あまりに突然な、苦く濃い死の臭いだった。
霊夢はすっかり出来上がった顔で青雲を眺めながら、こう云った。
「前から疑問に思ってたんだけどさ、妖怪って死んだら葬式とかすんの?」
「そんなわけぬぇじゃん。もしかして、見たことあったり?」
「いや、ちょっと気になっただけ」
霊夢はまた一杯とあおった。明らかに呑み過ぎている。
「私たち妖怪の死ぬときってのは、人間に退治されるか、忘れられて消えるか――まぁ、このどっちかかぬぁ」
私は封印で済んでラッキーだったけど、と笑って付け加えて、つまみのバタピーを口に放り込む。
「弔ってくれるやつがいないってこと?」
「そんなところだろうぬぇ」
私はふと思いついて、霊夢に酌をしながら云ってみた。
「ムラサじゃないけどさぁ、もし私が死んだら、霊夢は弔ってくれたりする?」
酔いに任せた、かなりギリギリな質問だった。
両腕を回して身体を抱きしめる。あ、鳥肌が。
「ずっと前にも云ったけどさ」
霊夢はこっちを見てくれない。
「――私は、あんたの味方じゃないから」
うわっ。
……けっこう、グサッてきた。
「そ、そうだよぬぇ」
「だから」
空色を映したありのままの瞳で、霊夢は続ける。
「退治してほしいときは、いつでも云いなさいな。全力で相手してあげる」
バタピーが、指からぽろって落っこちた。虚ろな音を響かせながら、瓦を転げ落ちていく。
「……うん」
そうだ、そうなんだ。
これだから私は、この人間に興味を持ったんだ。
どうしようもないくらいに、惹かれてしまったんだ。
「れいむ」
「ん?」
「……ありがと」
「なんでお礼を言われなきゃ、あんたどM?」
「ちがうわ!!」
飛びかかって首を絞めてやろうかと思ったが、霊夢は酔いをものともしない俊敏さで身をかわした。
「なんだったら、今からでも相手してあげるわよ」
「ぬぅ、今日はぜったい勝ってやるんだから!」
「威勢のよさだけは相変わらずねぇ」
神社の上空で二人して向かい合う。得意げに焼酎をラッパ呑みする巫女には、今日も風が味方しているようだ。
三叉に分かれた愛用の槍を掲げて黒雲を呼び、三対に生えた自慢の羽を広げて濃霧を招く。雷鳴がごうごうと神社に降り注いでは消えていく。
幾重もの結界が霊夢の身体をまとい始め、袖口から持ち主の眼光みたいに鋭い退魔針の切っ先がのぞいた。
霊夢に退治される、か。うん、それも悪くないかもしれない。
今はまだ死にたくないし、消えたくもないけど。
でも。
いつか、私を見届けてくれるようなヤツが、そばにいるってこと。
それって一妖怪、冥利に尽きるってもんじゃない?
夏空は覆われた。蝉しぐれは歌を止め、木々が一斉にざわめく。
さぁ、これで邪魔者は入ってこない。
酒瓶を放り捨てた霊夢に向けて、私はスペルカードをぶっ放した。
そこには未来もない。過去もない。ただ、私たちだけが飛んでいる。
素敵なステキなこの真っ暗な舞台が晴れ渡る、その時まで。
いっぱい遊ぼうよ、霊夢。
~ fin. ~
ぬえが大変可愛いです。
これは癖になるぬぇw
面白かったです
これは流行るッ…!