作品集21「永遠を祈る」と繋がりがあります。多分わざわざ読むほどのことでもありません。
ウドンゲは、ぼんやりと自室で時間をやり過ごしていた。やらなければいけないことも、やりたいことも特に見つからなかった。
永遠亭で暮らすということ、それはつまり恒久的な退屈と戦うということだ。
意味もなく畳の上に寝そべって、ごろごろと転がる。ごろごろ、ごろごろ。
たっぷり五分程それを繰り返して、ウドンゲはむくりと起き上がった。あまり楽しくないことに気づいたのだ。
――む、これは何か新しい回転を編み出さなければいけませんね。
考えていると、突然、女性が部屋に入ってきた。一言の断りもない。いつものことだった。
「イナバ、何か芸をやってみせて」
部屋の中にウドンゲの姿を認めるなり、彼女は畳の上に腰を下ろしてそんなことをのたまった。それもまたいつものことだった。ここ永遠亭の主、蓬莱山輝夜である。
またですか。それに何でいつも私なんですか。思っても、決して口にはしない。ウドンゲは、自分の身に降りかかる災難をできるだけ小さくする術をこの家でよくよく学んでいた。
「では皿回しを」
「飽きた」
ばっさりと斬られる。
「そ、それでは水芸でも」
「それも飽きた」
一刀のもとに。
「え、ええと、阿波踊り」
「何が楽しいの?」
慈悲も無し。
「そ、そうだ、手品、手品やります」
「うん、それはなかなか面白そうね。じゃあ、早速やってみせて」
ようやく納得の顔を見せる輝夜に、心からほっとする。
だが、それも一瞬のことだった。すぐにウドンゲの顔が真っ青に染まる。
「あ、ど、道具がありませんでした……」
「殺してしまおうかしら」
真顔でそう言いのける輝夜。ウドンゲの表情が凍りつく。
そんなウドンゲを見て、満足したように、輝夜はにっこりと笑顔を見せた。彼女はウドンゲをいじめに来たのだ。
「冗談よ」
ふぅ、と息をつく。
そうですよね、さすがに冗談ですよね。良かったです。ウドンゲの顔に温度が戻っていく。
「せいぜい煮えたぎった鍋の中に放り込むぐらい」
「死にますっ」
「ほら、生では食べたくないし」
「た、食べないでくださいっ」
師匠といい、輝夜様といい、どうしてこんなに私を食べたがるのでしょう。可愛く生まれてしまったのがいけなかったのでしょうか。そんなことを思ってみる。
お、思うぐらいなら許されるでしょう。同時に考えるあたり、ひどく涙をそそった。
「それにしても……暇ね」
目の前の彼女をいじめることにも飽きたのか、輝夜が呟く。
「暇ですねー」
輝夜にこれ以上自分をいじめる気が無いということを、ウドンゲは長年の付き合いから敏感に察知していた。ひとまずは安心です。
この場所に来てから身に付けた能力の一つだった。他人から見ればやはり涙をそそるようなこの能力も、彼女にとっては、永遠亭で平和に生きるための重要な力に違いなかった。
「永琳もどこかに行っちゃうし」
「え、そうなんですか?」
ウドンゲの師匠であるところの八意永琳。
彼女の外出は、輝夜ほどではないにしても、なかなかに稀なことだった。
「ええ。紅魔館に用があるそうよ」
「えっ」
紅魔館という言葉に反応するウドンゲ。訝しげに、輝夜が訊ねる。
「どうしたの? 何をそんなに驚いているのかしら」
「いえ、何でもありませんです」
あそこに行くということは、また咲夜さん関連でしょうか。
先日の水晶球のことを思い出す。可愛いと言ってもらえたことは確かに嬉しかったが、それにしても恥ずかしかった。恥ずかし過ぎた。
うう、すごく嫌な予感がします。思ってみても、彼女にはどうすることもできない。
「よし、分かったわ」
思いついたように、輝夜。立ち上がって、続ける。
「今から紅魔館に行ってみましょう」
「え、ええっ」
「暇つぶしにはなるでしょう。永琳もいることだし」
「そ、そうですか。で、ではいってらっしゃいませ」
ぺこりと頭を下げて言う。特徴的な長い耳が垂れた。
ぐいっ。
「は、はれ?」
ウドンゲの口から、知れず素っ頓狂な声が出てくる。
両耳を、目の前の人物に捕まれたのだ。
「何言ってるの。あなたも一緒に来るのよ」
「え、ええっ」
もちろん、拒否権が自分には与えられていないことを、ウドンゲはよく知っていた。
/
ウドンゲにとって輝夜とは、とにかくお偉いお人である。何せ、師匠のさらに主人。自分との身分差はよく理解している。絶対に粗相があってはいけません。常々そう考えている。
一方、輝夜はウドンゲのことをペットとして扱っていた。ウドンゲのことを可愛く思うし、大切にしたいと思う。
両者の認識の間には他人から見れば結構な開きがあるものの、それでも結果的には潤滑な関係を保つことができている。お互いに現在の関係を良好だと思っていることが、その一番大きな要因なのかもしれない。
/
紅魔館。門番を任された紅美鈴は退屈だった。
門番とはいっても訪問者自体が珍しいし、あったとしても大概が顔見知りである。彼女の役割といえば、実質この館を取り仕切る咲夜に、客の訪問を報告することぐらいだった。
たまにはこう、胸躍るようなことでも起きないものかしら。美鈴が思い返すのは、以前紅魔館が上を下への大騒ぎになったあの時のことだった。
相次ぐ二人の侵入者。戦う私。ああ、お嬢様。私、頑張ってます。不謹慎ながら、門番としての充足を感じていた。
あの時ぐらいのことなんて、もう起こりはしないのね。少しだけ寂しく思う。
「あ、中国さーん」
「中国言うなっ」
物思いの最中だったが、それでも美鈴は敏感に反応した。もはや条件反射といっても差異はない。
「えー、でも、みんな言ってますよ」
「駄目ったら駄目っ」
声の主は、永遠亭の兎、ウドンゲだった。
ここ最近よく訪れる彼女と美鈴は既に親しい仲となっていた。天性の弄られ同士、よく気が合ったのだ。それは少し悲しいことだったけれど。
「あら、でも、中国って呼び方あなたにぴったりだと思うわ」
「むー、でも私は名前で呼んでほしい……と、えーと、どちら様でしょうか?」
初めて見る顔だった。ウドンゲと一緒にいるということは怪しい人物ではないのだろうが、最低限、身元をはっきりさせておくことが門番としての役割であろう。
「はい、こちらは、永遠亭の主、蓬莱山輝夜様です」
「え、輝夜って言うとあの引きこ」
「何かしら?」
にこりと笑って、輝夜。
「ご、ごめんなさいごめんなさいっ。何でもございませんーっ」
自分に向けられた素敵な笑顔に、美鈴は絶対的な恐怖を感じた。機嫌を損なえば殺される。うちのお嬢様と同じタイプのお人だ。絶対に敵わない。
瞬時に巡る思考。彼女は自分が弱者であることをよく知っていた。
「中国さん?」
「は、はいっ」
裏返る声。ウドンゲの同情的な目が少し悲しい。
「ここにうちの永琳が来てると思うのだけれど」
「すぐに案内致しますっ」
「あら、いい返事」
退屈って素晴らしいものだったのですね。美鈴は半分泣きながら思った。
/
「あ、咲夜さんっ」
見つけるなり、美鈴は急いで呼び止めた。お客様を早く引き渡してしまいたかったのだ。
「あら、中国」
咲夜の声に、ウドンゲの長い耳がぴくっと反応する。
ウドンゲをいじめることに関して、永琳と並び優れた才を持つ輝夜である。そんな彼女の様子に気づかないはずもない。唇の端をいい感じに吊り上げる。
「紅・美・鈴、ですっ」
「まぁどっちでもいいけど」
咲夜の言葉に一瞬唖然とすると、美鈴はすぐにその場にうずくまって床にのの字を書き始めた。いいもんいいもん、どうせ私なんて影薄いもん。
ウドンゲは慌てて彼女に駆け寄ると、背中を撫でながら、美鈴さん美鈴さんと名前を呼ぶことで彼女を励まそうとする。
まぁ美しい友情。二人の様子を楽しそうに見守る輝夜と咲夜。割と本気でSだった。
「……で、咲夜だっけ?」
目の前の光景を堪能しながら、輝夜が切り出した。
「ええ。貴方は確か輝夜だったかしら。珍しいわね、こんなところまで出てくるなんて」
「暇だったの。永琳もお邪魔してるみたいだし」
「彼女ならお嬢様のところよ」
「そう。案内してもらえるかしら?」
「それは……どうやら必要ないようね」
咲夜の視線の先、応接間のドアが開いた。
部屋の中から出てくる二人の女性。永琳とレミリアだった。
「師匠っ」
「あら永琳、丁度良かった」
永琳は、二人の姿を認めるなり怪訝そうな顔をする。輝夜がなかなか外に出たがらないことを、誰よりもよく知っていた。
「姫? どうしてここに?」
「暇だったからちょっとね。特に用事は無かったのだけれど」
にっこりと笑って続ける。
「イナバがどうしても来たいって言うからついてきてあげたの」
「え、ええっ」
言いながら、輝夜は咲夜の方にちらりと視線を送る。
長い付き合いの輝夜と永琳である。それだけで十分だった。
「なるほど。そういうことでしたか」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよー」
未だいじけ続ける美鈴の背を撫でながら、ウドンゲが抗議の声をあげる。
もちろん、その声が受け止められるはずもない。
「まぁそれはそれとして、咲夜さん?」
「はい」
「ちょっといいかしら。時間は取らせないし、レミリアにも許可は貰ってあるわ」
突然永琳に声をかけられた咲夜は、不思議そうな顔をしながらも主であるレミリアを窺う。
「ええ、すぐに終わるそうだからちょっとお相手してきなさい」
「はい、それでは」
「申し訳ありません、姫。すぐに戻りますので」
「気にしないで。私が勝手に来たんだから」
再び応接間に消える永琳と、咲夜。
ウドンゲは、釈然としない思いを抱えてそれを見ていた。わざわざ部屋を使うということは、何か大切な話でしょうか。でも師匠と咲夜さんってそんなに関係は深くないと思うのですが。
そんなウドンゲの隣で、相変わらず床にうずくまったままのの字を書き続ける美鈴。背中を撫でるウドンゲの手も、だんだんと適当になってきている。
「中国」
「お願いだから中国って呼ばないでくださぁい……って、わ、お、お嬢様っ。も、申し訳ありませんでしたーっ」
レミリアの姿を認めるなり、美鈴はその場でぺこぺこと何度も頭を下げた。
「あなた、何をしているの?」
「え、と、永琳様に会いに来たというこちらの二人を案内致しまして」
「もう、済んだのでしょう? 今、門番の方はどうなっているのかしら」
冷たい声とは裏腹、にこにこと素晴らしい笑顔を見せるレミリア。
「ひぇ、も、申し訳ありませぇぇーんっ」
美鈴は叫びながら玄関に向かって走っていった。
レミリアと輝夜は揃ってそれを楽しそうに眺めていた。
「ふふ。レミリアだっけ? あなたもなかなかいい趣味をしているのね」
「あら、私は主として当たり前のことをしただけよ?」
「そう。そうね。奴隷、ああ違った、部下のいびり、じゃなかった指導は、上に立つ者として当然のことですものね」
「うふ、あなた分かってるじゃない」
さ、最凶コンビです。助けてくださいー。
ちょっとだけ、この場から去っていった美鈴を恨む。一人だけ残していくなんて酷いです。
横で楽しそうに会話する二人に、ウドンゲの背筋は順調に冷えていった。
永琳と咲夜が部屋から出てくるまでにそう時間はかからなかった。
出てくるなり、永琳は言う。
「姫、もうしばらくお邪魔していきませんか?」
ちらりとウドンゲの方に目をやる。
「あら、それはとても素敵な提案ね」
同じく、ちらりとウドンゲを見る。
はて、どういうことでしょうか。ウドンゲは考える。お二人とも、どうして私の方を見るのでしょう。
「大丈夫かしら?」
永琳がレミリアに目を注ぐ。レミリアは、目を合わせてから数秒、頷いて答えた。
「ええ。話したいこともまだあったし、丁度良いわ。咲夜、彼女たちは私の部屋に招待するから、そこの子をよろしくね」
「はい、お嬢様」
「え、ええっ」
つい、声をあげてしまう。ど、どんな展開ですかこれはっ。
「あら、何か問題でもあるのかしら?」
輝夜がにやりと笑う。
「い、いいえ」
あぅ、やっぱりこの方々には敵いません。ウドンゲは改めて思った。
/
「紅茶で良かったかしら?」
「は、はい。問題ありませんですっ」
「そんなに固くならないでいいのよ」
くすりと笑う咲夜。
む、無理です……。椅子に座ったウドンゲはその身をいっそう縮こまらせながら思う。
咲夜の部屋に入るのはこれが始めてだった。さらにその中で二人きりという現在の状況は、ウドンゲの決して強くない心臓をドクンドクンと大きく高鳴らせる。
「あ、あの、さっき師匠と何を話されてたんですか?」
永琳が咲夜に声をかけた時から、ずっと気になっていたことだった。
「……よく分からないわ。今幸せか、とか、生きてるか、とか聞かれたのだけれど」
「へ?」
てっきり、自分をからかうために咲夜に何かを吹き込んでいるのだと、そうウドンゲは考えていた。予想外の、それも意図すら掴めない永琳の言葉に疑問を抱く。
だが、永琳の行動に何も意味がなかったとは思えない。そんなことをする人ではないと、ウドンゲはよく分かっていた。困惑する。一体師匠はどういうつもりだったのでしょう。
「あ、あと、貴方のことをよろしく、と言われたわ」
「え、ええっ」
永琳の意図について考えていたところ、突然の爆撃にウドンゲはその顔を赤く染めた。な、何てこと言うんですか師匠。あたふたと、繕いの言葉を探す。
「そ、それは、あの」
「最初から、自分たちはお嬢様の所に行くつもりだったみたいね」
「え、あ、あは、はい、そうみたいですね」
冷静に言う咲夜に、ウドンゲはやっと自分ひとりが踊らされていたことに気づいた。
恐らくここまで計算していたのだろう。ここにいない永琳に、ウドンゲは心の中で恨み言を並べる。心の中でなら許されるでしょう、なんて思いながら。
「それにしても……」
はい、ウドンゲの前に紅茶の入ったカップを置いて、咲夜は続ける。
「お互い、主人が少しばかりわがまま、いえ、自由過ぎて大変ね」
笑いながら、わざとらしく言い直した。
「はい。毎日振り回されっぱなしです」
ウドンゲが答える。話している内に多少緊張が解けたのか、その顔には軽い笑みも浮かんでいた。
カップを持って、紅茶を一口。
「あ、美味しいです」
「そ。ありがとう」
咲夜も同じように紅茶を含む。その味に満足したように微笑んで、口を開いた。
「貴方、あの二人に相当いじめられてるでしょう?」
「あぅ。ええと、はい、その通りかもしれません」
あはは、と苦笑い。
「分かるわ、二人の気持ち。貴方を見ていると、つい可愛がりたくなるのよ」
「え、ええっ。やめてくださいよー」
可愛がるという言葉に、ウドンゲは顔が火照るのを感じた。
わわ、少しいけないことを考えてしまいました。さらに、頬が熱くなる。
取り繕うように、カップに手を伸ばす。
「ふふ、でもやめておくわ。下手なことしたらあの二人に怒られそうだもの」
「怒る?」
どうして永琳と輝夜が怒るのか、ウドンゲにはよく分からなかった。
「ええ。貴方のことがすごく大切みたいね」
「大切、ですか?」
「そう。あの時の満月だって、結局はあなたのためにやったことだったんでしょう?」
「それは……はい、あの、そうみたいです」
照れながら答えるウドンゲに、咲夜は再び微笑みを見せる。
「その時のこと、聞いてもいいかしら?」
「ええと、あんまり面白くないですよ?」
「いいわ。私が、聞きたいの」
「……はい、それでは」
咲夜の淹れてくれた紅茶を口にする。
ふぅ。一息ついてから、ウドンゲは話し始めた。
/
私には特別な力があった。人よりもさらに赤い瞳。
母が亡くなって、私は知らない人たちに引き取られた。そこで私は力の使い方を教わった。人の狂わせ方を、教わった。
しばらくの後。私は戦場へ連れて行かれた。私は教えられた通りに力を使った。気がついた時、辺りは真っ赤になっていた。
私は、逃げ出した。
逃亡の末、私は幻想郷に辿り着いた。ぼろぼろだった。何よりも精神的に疲弊し切っていた。
そんな私を抱きとめてくれる人たちがいた。永遠亭の蓬莱山輝夜と、八意永琳。彼女たちも、私と同じく月を捨てて地上で生きる民だったのだ。
――丁度良かった。
事情を説明する私に、輝夜様は、笑いかけた。
――ペットが欲しいと思っていたところだったの。
――え?
――だから、今日からあなた、ここに住みなさい。私のペットとして。
一瞬呆然として、それからすぐに笑いがこみ上げてきた。
――あは、私、ペットですか。酷いですよぉ。
ああ。笑ったのなんていつ以来だろう。母を失ってから、私は一度も笑った記憶がない。
――あはは、あは……
笑いながら、今度は涙が出てきた。優しさが、嬉しくて。嬉しくて。
溢れて、止まらなくなった。
数十年が経った。
それは、とても退屈で平凡で、泣き出したくなるぐらいに幸せな日々だった。
ある満月の夜。
私は語りかけてくる声を見つけた。どれだけ離れていようと、月の兎同士は会話ができた。
その声は言う。
――もうすぐ月で地上人との最後の全面戦争が始まる。誇り高き我々と一緒に戦ってはくれないか。
声は、更に続ける。
――ともに暮らしているであろう地上人にも伝えてくれ。次の満月の夜にレイセンを迎えに行く。抵抗しても無駄だ。
彼らにとって、私は今でも重要な駒だった。兵器だった。逃げ出してから数十年が経っても、その事実は変わることがなかったのだ。
ずっと恐れていたことだった。いつか自分は月に連れ戻されるのだと、頭の奥の方で理解していた。でも、ずっと考えないようにしていた。今の生活があまりにも幸せだったから。
終わったんだ。とうとう、ここでの暮らしも終わってしまうんだ。
考えたら、涙が出てきた。師匠に抱きしめられて泣いたこと。輝夜様の優しさに泣いたこと。何でもない毎日の中、二人にいじめられて泣いたこと。悪夢にうなされて泣いたこと。目を開けたらいつも通りの幸せがあって、やっぱり少し泣いたこと。
ここに来てから、思えば泣いてばかりだった。でも、悪い気持ちでは、決してなかった。
幸せだった。幸せだったのだ。
どうしようもないくらい、幸せだったのだ。
だけど、それももう――
二人のもとへ挨拶に向かう。
――そろそろ月に帰らなければいけません。
涙が出ないよう、必死に我慢した。二人に心配をかけたまま最後を迎えたくなかった。
出会った時から泣いてばかりだったから。最後ぐらい、笑って、さよならしたかった。
笑って、上手にさよならが言えたら、きっと私は、初めて私を誉めてあげられる。頑張る。頑張るんだ。
事情を説明する私に、輝夜様は問う。
――それで、あなたはどうしたいの。
――月で、仲間たちと一緒に戦いたいと思います。
感情は理性で殺す。
――そういうことじゃなくて。あなた自身の意思を、私は聞いているの。
――それは……でもっ
言いたくない。でも、必死に続けた。
――私、もう、一度月を裏切ったんですよ。仲間を見捨てて、逃げたんですよ。これ以上、私はっ……
抑えていた感情が溢れ出しそうになる。
駄目だ、泣いたら駄目。泣かない。そう決めたじゃないか。
――私と姫も、月を裏切ってここにいるのよ。月を捨てたの。でも、それを後悔はしていない。
輝夜様が続く。
――だから今さら月なんてどうなろうと、私には関係ないわ。私は、私の仲間が、家族が幸せであれば、それでいい。
染み込む。
仲間。家族。輝夜様はそんな風に思ってくれていたのだろうか。
そうだとしたら、それは何て幸せなことで……
――イナバ、もう一度聞く。
輝夜様が私を見つめる。
――あなたの意思は、どこにある?
決まってる。
そんなの、最初から決まってる。
――……ずっとここで暮らしたいです。輝夜様と師匠と、ここに住むみんなで、ずっと一緒にいたいです。
――じゃあそうすればいいじゃない。簡単なことよ。
あっけらかんと、輝夜様はそう言ってのける。
ああ。
泣かないって、そう決めてたのに。どうして、どうしてこんなにもこの方たちは……
――……でも、私、今までずっとお世話になって、今さら、迷惑はかけられない、です。
これまで散々お世話になってきた二人に迷惑をかけるなんて、絶対に許されないこと。
――迷惑かどうかはこっちが決めることよ。
――で、でもっ。
――それにね、イナバ。
――は、はい。
輝夜様が微笑む。
――言ったでしょう。あなたは私のペットなの。勝手に出て行くことなんて、この私が許さないわ。
優しさに、声をあげて泣いた。
/
「輝夜様の言葉、私、本当に嬉しくて、いっぱい泣いちゃいました」
思い出してまた涙が出てきたのか、ウドンゲは目尻を拭った。
「ごめんなさい、やっぱりつまらかったですよね」
あはは、と苦笑い。
そんなウドンゲに咲夜は言う。
「いえ、そんなことないわ。すごく素敵な話だった」
「そうですか? そうだったら嬉しいです」
微笑むウドンゲ。
咲夜は、突然、ウドンゲの頭を撫で始めた。ウドンゲはぴくっと長い耳を反応させて、でもされるがまま、気持ちよさそうに目を瞑った。
「やっぱり貴方は、すごく大切にされてるみたいね」
「そうなん……でしょうか?」
「ええ。それなのに、私たち、その術を破ってしまったのね。申し訳ないことをしたわ」
「い、いえ、いいんです。結局術がなくても大丈夫だったみたいですし」
「そう言ってもらえるとこっちも楽になるわ」
紅茶を飲もうとして、咲夜は既に中身が空であることに気づいた。
「お茶、私のはなくなってしまったみたい。あなたももう一杯、飲んでもらえるかしら?」
「あ、はい、お願いします」
ウドンゲが差し出したカップを咲夜が受け取る。
「これを淹れたら」
「はい?」
言い出す咲夜に、ウドンゲが反応する。
「今度は、私の話を聞いてもらえるかしら?」
微笑を浮かべて続ける。
「お嬢様と私が出会ったときの話。あまり面白くはないかもしれないけれど」
「は、はいっ。是非聞きたいです」
興味津々。机に乗り出す勢いで頷くウドンゲ。
そんな様子に咲夜はくすりと笑うと、新しいお茶を淹れるために立ち上がった。
ときました。最近のてるよはカリスマに溢れているな…