竹林に人知れずある家屋には、屋根が無い。そこらの木を寄せ集めてなんとか家の形を模した物なので、元より確りとしたものでは無かった。加えて、年月による風化で壁は剥がれ、中には風が吹きすさぶ。床も、もはや床と呼べるものではなく、土が剥き出しになっていた。家主である妹紅は、地面に胡坐をかき、家の中にも関わらず手で風を防ぎながら煙草に火を点ける。吸い込んだ直後、夜に小さく煙草の先端が赤く揺らめいた。一息に煙を吐く。白く濁った煙は、生き物のように床を這い、或いは空気を漂い、ゆっくりと消えた。甘い、そして苦いような味がする。それを鼻だけで深く吸い込んだ。安物の煙草だ。良い臭いではなかった。だが、妹紅は、あえてその臭いを嗅いだ。それがもはや習慣の様になっていた。肌寒さを覚える。張詰めた温度だけが、夜の純粋な空気を伝える。
妹紅は、未だ漂う煙を見つめた。月明かりが弱弱しい。未練がましく自身にまとわりつく煙を払いもせず、手だけを口元へ持っていき、また一息吸った。先端からの煙は遮られるものが無く、空へ伸びて行く。それは、月まで届く事なく風に吹かれた。脳を満たす混在した香りは、しかし意識を鮮明にした。こう思った。『私も、私もまっとうに生きて、そうして人間として暮らしていたら、そうしたらやはりまっとうに死ぬ事が出来たのではあるまいか』 こうした考えは一服のたびに無意識により浮かび、浮かぶだけで満足し、煙のように次々と消えた。
竹の葉が鳴る。風になびいて、雄大な音を出す。それはもはや、一つの巨大な生物であった。自分は今、竹林と言う、巨大な生物の中に居る。一つの、体内の器官として存在している。つらつらとそんな事を思う。『器官なら、このまま、何も考える必要も無いのではないか』 灰が落ちる。ぼやけた赤が、また鮮明になる。葉のざわめきは遠くから徐々に速度を増すように聞こえる。それに混じる足音に気が付いた。妹紅は、落ち着き払った様子で立ち上がる。
戸口に立った。戸口と言いつつ、そこは単に、壁で遮られていないだけである。外をうかがう。夜の黒しか見えなかった。『こんな時だけ、人間の名残を意識させられる。何故、私の目は人間のままなんだ』 妹紅は、自身をもはや妖怪と認識していた。それには半分ほどの自虐も混じっている。その身体における強度の慢心、不死の呪いとも言える性質により、今の様な未知の存在に対して慎重にこそなるが、恐怖する事は無くなった。妹紅は、恐怖を昔に忘れていた。
「妹紅」
夜の向こうから声がした。墨で染めたような黒は、平面にしか見えず距離を掴めない。しかしその声だけで、妹紅は相手を認識した。その声は慧音であった。安堵すると同時に、妹紅は、今度は煙草の始末に困った。慧音は、口に出しはしないが煙草を良く思っていない。生真面目な性格を知っていたので、わざわざ目の前で吸う事は無かったが、今のように不意に尋ねられた時などは、微かに眉をひそめる仕草を見せる。咄嗟に吸いかけの煙草を握りつぶし、そのあたりの地面に捨てた。
「慧音。どうしたの? こんな時間に」
姿を見せた慧音は、言葉を濁した。目を伏せ、そうして、思い出したようにこの家屋の欠陥について小言を言った。妹紅は適当に受け答えながら、その仕草の不自然さを思った。間が合った。妹紅は煙草についての小言に備えて、慧音は何かを言いあぐねていた。慧音が妹紅を見た。
「今日は、ここで寝かせてくれないか」
ぽつりと、そこに言葉を置くように、慧音は言った。だが、それは頼み事と言うよりもう決まったことの様に言った。妹紅は、どうして、と理由を問いつつ、慧音が決して本音を漏らさない事を知っていた。これを受けてどう出るか、それを探るため聞いた。予想通り、慧音は不自然に語尾を曖昧にさせた。いい訳じみたその言葉は、口の中で段々と小さくなり、やがて完全に消えた。慧音は口を結び、拗ねたような困ったような表情で下を向く。沈黙に耐え切れず、妹紅が了承した。
―――まるで、子供じみている。妹紅はそう思った。『さっきの態度。あれは、甘え方を知らない子供だ。迷惑をかけるのを、自分自身が願っているのにも関わらず、それを決して許す事が出来ないんだ』 慧音はその場から動こうとはしなかった。絶えかねて妹紅が促した。それを待っていたかのように、やはり慧音は口を閉ざしたまま従った。
剥き出しの地面を見て、妹紅は慧音の為に申し訳程度の布を敷いた。妹紅が横たわると、慧音もそれに習う。普段は立膝で浅い眠りに就くが、どうにも気を使わせるような気がして、久しぶりに横になる事にした。慧音が仰向けになった為、妹紅は壁側を向いた。ポケットの、煙草の箱が潰れる。思い出したように、真っ暗な空気に煙草が香った。
お互いに黙った。それは、これから眠ろうとしているのでは無く、単なる沈黙である。つまり、お互いに起きている事を了承しつつ、それでいて何も会話の無い状態が続いていた。妹紅は意地でも眠る事を心に決めた。ここで、下手に話しかけでもしたら、それでいて返答を誤ったら。そんな事ばかり思えて仕方が無かった。妹紅は硬く目を閉じた。何も見えなくなると、今度は音が気になった。慧音の呼吸に対してでは無い。風にざわめく葉の音の中に、ほんの少しも、慧音の呼吸が聞こえなかったためである。それに気が付いた瞬間、さっき自分で眠る事を心に決めたはずなのに、知らぬ間に慧音に翻弄されている気になった。意識してはいけないと思ったら、余計に意識されるのである。慧音は、ほんの少しの距離に、手の届く距離に居るのにも関わらず、ひっそりと息を潜めていた。沈黙を破るように、妹紅はわざと大きな欠伸をした。結局、耐え切れなかった。自分の心臓の音が気になる。今度は、辺りに漂う臭いが気になる。どうにも、様々な事が気になってしょうがない。妹紅は、奥歯をかんだ。
―――煙草が吸いたい。辺りの臭いを嗅いで、妹紅はそう思った。しかし、傍らには慧音がいる。眠っている訳でもなく、息を潜めている。今、吸ったら慧音はなんと言うか。起き上がり、健康に悪いと説教をするか。それとも、このまま沈黙を続けるか。目を開けた。暗闇に目が慣れていた。壁の木目が見える。
説教か、沈黙。どちらにしても悪い。しかしながら妹紅は、心の奥で説教を望んだ。今だってずっと、眠ろうとする裏腹に声をかけられるのを待っていたのに、何も無い。すぐ傍の慧音は何も言い出さない。こんな深夜に、突然尋ねて、明らかに様子がおかしいのに―――。
妹紅は、自分の事を棚に上げて、慧音に怒りを覚えた。そもそも、ここに来た時から、今だって、煙草が香っているではないか。それに、さっきの欠伸にも何も反応しなかった。何故、何も言わない。妹紅は、今ここで煙草を吸う決心をした。『無視をするなら、すれば良い。私は、ただ煙草が吸いたいんだ。慧音には説教される義理もないし、そんなのは私の勝手だ』 妹紅は、心の中でこう自分に言い訳をし、ゆっくりと起き上がった。慧音は反応しなかった。
煙草を咥える。指先で火を点けた。一瞬、辺りが照らされる。壁を向き、大きく吸い込んだ。
「……妹紅」
慧音が呟いた。その、消え入りそうな声も、妹紅にははっきりと聞こえた。振り向かない。もったいぶって、なに、と答えた。
「私も、煙草、吸いたい」
口から漏らすように、途切れ途切れに、慧音は言った。目を開けているかは分からなかった。妹紅は振り向いた。そこには、横たわっているとばかり思っていた慧音が、その場に座ってこちらを向いていた。妹紅は慧音を見つめた。目を伏せている。表情は窺えない。自分の服を握り締めている。小さな手だ。皺になる。そんな事を思った。
「……一本だけだ」
妹紅は、空いたほうの手でポケットを器用にまさぐった。潰れた箱に指が触れる。その隙に慧音は妹紅の手首を掴む。煙草を持っている手を、その手ごと、慧音は口元に引き寄せた。
「おい、慧音」
吸いかけを、そのままくわえた。妹紅は慧音の手を意識した。その手は小さく震えていた。ぎゅっと、怯えるように目を閉じて、一生懸命に煙を吸い込もうとしている。すぼめた唇が仄かに赤い。顔が近かった。妹紅は、引き剥がすでもなく突き飛ばすでもなく、ただされるがままだった。唇が、指に触れる。
たっぷりの間が合って、それを打ち破るように慧音は咳き込んだ、寒い冬のように、はく息が白い。煙は辺りに漂い、妹紅はそれを嗅いだ。甘さと苦さの混じった、安物の臭い。ひとしきり咳き込んだ慧音は一言だけ、不味い、とだけ言って、また横たわった。今度は慧音が壁を向いた。
「妹紅」
慧音が呼んだ。
「行くなよ」
「居なくならないで」
妹紅は、仰向けに横たわった。月が見える。
―――居なくなるのは、そっちだ。いつも、そうだ。残される辛さを、知らないんだ。
妹紅は沈黙で答えた。さっきとは逆だ、と思った。
「妹紅」
指で挟んだ煙草から、煙が上がる。それは月まで届くことなく、風に吹かれた。
「妹紅」
唇の感触を思い出したら、また煙草が香った。
妹紅は、未だ漂う煙を見つめた。月明かりが弱弱しい。未練がましく自身にまとわりつく煙を払いもせず、手だけを口元へ持っていき、また一息吸った。先端からの煙は遮られるものが無く、空へ伸びて行く。それは、月まで届く事なく風に吹かれた。脳を満たす混在した香りは、しかし意識を鮮明にした。こう思った。『私も、私もまっとうに生きて、そうして人間として暮らしていたら、そうしたらやはりまっとうに死ぬ事が出来たのではあるまいか』 こうした考えは一服のたびに無意識により浮かび、浮かぶだけで満足し、煙のように次々と消えた。
竹の葉が鳴る。風になびいて、雄大な音を出す。それはもはや、一つの巨大な生物であった。自分は今、竹林と言う、巨大な生物の中に居る。一つの、体内の器官として存在している。つらつらとそんな事を思う。『器官なら、このまま、何も考える必要も無いのではないか』 灰が落ちる。ぼやけた赤が、また鮮明になる。葉のざわめきは遠くから徐々に速度を増すように聞こえる。それに混じる足音に気が付いた。妹紅は、落ち着き払った様子で立ち上がる。
戸口に立った。戸口と言いつつ、そこは単に、壁で遮られていないだけである。外をうかがう。夜の黒しか見えなかった。『こんな時だけ、人間の名残を意識させられる。何故、私の目は人間のままなんだ』 妹紅は、自身をもはや妖怪と認識していた。それには半分ほどの自虐も混じっている。その身体における強度の慢心、不死の呪いとも言える性質により、今の様な未知の存在に対して慎重にこそなるが、恐怖する事は無くなった。妹紅は、恐怖を昔に忘れていた。
「妹紅」
夜の向こうから声がした。墨で染めたような黒は、平面にしか見えず距離を掴めない。しかしその声だけで、妹紅は相手を認識した。その声は慧音であった。安堵すると同時に、妹紅は、今度は煙草の始末に困った。慧音は、口に出しはしないが煙草を良く思っていない。生真面目な性格を知っていたので、わざわざ目の前で吸う事は無かったが、今のように不意に尋ねられた時などは、微かに眉をひそめる仕草を見せる。咄嗟に吸いかけの煙草を握りつぶし、そのあたりの地面に捨てた。
「慧音。どうしたの? こんな時間に」
姿を見せた慧音は、言葉を濁した。目を伏せ、そうして、思い出したようにこの家屋の欠陥について小言を言った。妹紅は適当に受け答えながら、その仕草の不自然さを思った。間が合った。妹紅は煙草についての小言に備えて、慧音は何かを言いあぐねていた。慧音が妹紅を見た。
「今日は、ここで寝かせてくれないか」
ぽつりと、そこに言葉を置くように、慧音は言った。だが、それは頼み事と言うよりもう決まったことの様に言った。妹紅は、どうして、と理由を問いつつ、慧音が決して本音を漏らさない事を知っていた。これを受けてどう出るか、それを探るため聞いた。予想通り、慧音は不自然に語尾を曖昧にさせた。いい訳じみたその言葉は、口の中で段々と小さくなり、やがて完全に消えた。慧音は口を結び、拗ねたような困ったような表情で下を向く。沈黙に耐え切れず、妹紅が了承した。
―――まるで、子供じみている。妹紅はそう思った。『さっきの態度。あれは、甘え方を知らない子供だ。迷惑をかけるのを、自分自身が願っているのにも関わらず、それを決して許す事が出来ないんだ』 慧音はその場から動こうとはしなかった。絶えかねて妹紅が促した。それを待っていたかのように、やはり慧音は口を閉ざしたまま従った。
剥き出しの地面を見て、妹紅は慧音の為に申し訳程度の布を敷いた。妹紅が横たわると、慧音もそれに習う。普段は立膝で浅い眠りに就くが、どうにも気を使わせるような気がして、久しぶりに横になる事にした。慧音が仰向けになった為、妹紅は壁側を向いた。ポケットの、煙草の箱が潰れる。思い出したように、真っ暗な空気に煙草が香った。
お互いに黙った。それは、これから眠ろうとしているのでは無く、単なる沈黙である。つまり、お互いに起きている事を了承しつつ、それでいて何も会話の無い状態が続いていた。妹紅は意地でも眠る事を心に決めた。ここで、下手に話しかけでもしたら、それでいて返答を誤ったら。そんな事ばかり思えて仕方が無かった。妹紅は硬く目を閉じた。何も見えなくなると、今度は音が気になった。慧音の呼吸に対してでは無い。風にざわめく葉の音の中に、ほんの少しも、慧音の呼吸が聞こえなかったためである。それに気が付いた瞬間、さっき自分で眠る事を心に決めたはずなのに、知らぬ間に慧音に翻弄されている気になった。意識してはいけないと思ったら、余計に意識されるのである。慧音は、ほんの少しの距離に、手の届く距離に居るのにも関わらず、ひっそりと息を潜めていた。沈黙を破るように、妹紅はわざと大きな欠伸をした。結局、耐え切れなかった。自分の心臓の音が気になる。今度は、辺りに漂う臭いが気になる。どうにも、様々な事が気になってしょうがない。妹紅は、奥歯をかんだ。
―――煙草が吸いたい。辺りの臭いを嗅いで、妹紅はそう思った。しかし、傍らには慧音がいる。眠っている訳でもなく、息を潜めている。今、吸ったら慧音はなんと言うか。起き上がり、健康に悪いと説教をするか。それとも、このまま沈黙を続けるか。目を開けた。暗闇に目が慣れていた。壁の木目が見える。
説教か、沈黙。どちらにしても悪い。しかしながら妹紅は、心の奥で説教を望んだ。今だってずっと、眠ろうとする裏腹に声をかけられるのを待っていたのに、何も無い。すぐ傍の慧音は何も言い出さない。こんな深夜に、突然尋ねて、明らかに様子がおかしいのに―――。
妹紅は、自分の事を棚に上げて、慧音に怒りを覚えた。そもそも、ここに来た時から、今だって、煙草が香っているではないか。それに、さっきの欠伸にも何も反応しなかった。何故、何も言わない。妹紅は、今ここで煙草を吸う決心をした。『無視をするなら、すれば良い。私は、ただ煙草が吸いたいんだ。慧音には説教される義理もないし、そんなのは私の勝手だ』 妹紅は、心の中でこう自分に言い訳をし、ゆっくりと起き上がった。慧音は反応しなかった。
煙草を咥える。指先で火を点けた。一瞬、辺りが照らされる。壁を向き、大きく吸い込んだ。
「……妹紅」
慧音が呟いた。その、消え入りそうな声も、妹紅にははっきりと聞こえた。振り向かない。もったいぶって、なに、と答えた。
「私も、煙草、吸いたい」
口から漏らすように、途切れ途切れに、慧音は言った。目を開けているかは分からなかった。妹紅は振り向いた。そこには、横たわっているとばかり思っていた慧音が、その場に座ってこちらを向いていた。妹紅は慧音を見つめた。目を伏せている。表情は窺えない。自分の服を握り締めている。小さな手だ。皺になる。そんな事を思った。
「……一本だけだ」
妹紅は、空いたほうの手でポケットを器用にまさぐった。潰れた箱に指が触れる。その隙に慧音は妹紅の手首を掴む。煙草を持っている手を、その手ごと、慧音は口元に引き寄せた。
「おい、慧音」
吸いかけを、そのままくわえた。妹紅は慧音の手を意識した。その手は小さく震えていた。ぎゅっと、怯えるように目を閉じて、一生懸命に煙を吸い込もうとしている。すぼめた唇が仄かに赤い。顔が近かった。妹紅は、引き剥がすでもなく突き飛ばすでもなく、ただされるがままだった。唇が、指に触れる。
たっぷりの間が合って、それを打ち破るように慧音は咳き込んだ、寒い冬のように、はく息が白い。煙は辺りに漂い、妹紅はそれを嗅いだ。甘さと苦さの混じった、安物の臭い。ひとしきり咳き込んだ慧音は一言だけ、不味い、とだけ言って、また横たわった。今度は慧音が壁を向いた。
「妹紅」
慧音が呼んだ。
「行くなよ」
「居なくならないで」
妹紅は、仰向けに横たわった。月が見える。
―――居なくなるのは、そっちだ。いつも、そうだ。残される辛さを、知らないんだ。
妹紅は沈黙で答えた。さっきとは逆だ、と思った。
「妹紅」
指で挟んだ煙草から、煙が上がる。それは月まで届くことなく、風に吹かれた。
「妹紅」
唇の感触を思い出したら、また煙草が香った。
内容は上手く言葉にできないけど なにか染みこんで来るモノがあります
名前、何とかならんのか -20点
ただ名前がなぁ。
名前は、いい意味で裏切られるのでこのままでもいいかなと思います。
面白かったです。
もっと作品ちょうだい。
すごい
それだけに惜しく思いつつも、それでなくてはこの雰囲気を味わえなかったかも知れないとも思い。罪作りですわー。
短いですが作品の虜になりました。
おちんちん氏の作品は繊細な心理描写を圧倒的な文章力でかく、どのそそわ作家にも無い魅力があると思います。
もう新しい作品を見れないのがとても悲しいです