「あ、いたいた。なぁ、厄神様だろ?」
ひょこ、っと木々の合間から顔を出しざまに少年の放った一言に、鍵山雛は目を丸くした。
その日、雛は人里へ降りて厄を集めたばかりだった。人々の生活圏には極力踏み込まないよう、時間をかけて里を回った。
薄く雪が降り積もり、熱と音が奪われた野外に、姿を見せている人はほとんどいない。雛は苦にしないような寒さも、人間の身には堪えるのだろう。引き締まるような寒さ自体もそうだが、人目に付きづらいという点で、雛はこの季節を気に入っていた。
やがて、拾い集めた厄を従え、雛は人里を後にした。黒々と凝り固まった厄と新雪の真白さ、そして雛の纏う真紅の衣装の対比は、その不吉さとは対照的に鮮やかに映える。
彼女の向かう先は妖怪の山だ。ブーツの刻んだ足跡を残し、雛は人間から最も縁遠い場所へと歩を進めた。
よもや、それを追う者がいるなどとは夢にも思わずに。
■ ■ ■
「つまり、里から私をつけてきたわけね」
「そーいうこと」
呆れ顔で唸る雛の顔色など知った風でもなく、少年は物珍しそうにあたりを見回しながら頷いた。
今二人がいるのは、山を流れる川の下流だ。浅く流れの穏やかな川の淵に立ち、淀んだ厄をさらに下流へと流す雛を除き、全てが白と黒の無彩色で描かれる景色。確かに人里では、ここまで静謐な風景は拝めないだろう。
目を輝かせて景色に魅入る少年の身なりは、お世辞にも綺麗とは言い難い。薄汚れた着物にぼさぼさの髪は、恵まれた家庭で育ったようには見えなかった。だが、人懐っこい笑みに不思議と陰惨な影はない。
だからこそ、そんな彼がこうしてここに居る理由が、雛にはまるで見当がつかなかった。他方、頭を捻る雛に向けて屈託のない笑顔を向けると、少年は暢気に語り出す。
「里の人達が言ってたんだ。厄神様は有り難い神様だけど、絶対に近づくな。じゃないと、せっかく集めてくれた不幸の素を受け取っちまう、って」
「それを知っててここに? どうして?」
内心抱いた驚きを表にせず、雛は静かに問いかける。が、彼女の言葉の何が可笑しかったのか、少年は失笑を漏らしながら、
「何でって、決まってるだろ。不幸になりにきたんだよ」
「わざわざ?」
疑問を重ねる形で雛が言い募ると、少年は目を瞬かせた。不可解なことでもあったのかと思う雛だったが、どうやら彼はここに至って、彼女が疑問に思う理由に気づいたらしい。後ろ髪を掻きながら、彼は声のトーンを落として答えた。
「ああ、何て言うか……オイラ、実は幸せってどういうものなのか、よく分からなくってさ。だから不幸になるってのも当然分からないし。けどさ、不幸になるってのがどういうことか分かれば、そうじゃないのが幸せってことだろ?」
今度は雛が目を丸くする番だった。言葉を失い自分を凝視する彼女を、少年はどう感じただろうか、少なくとも表情に変化はない。
どういう反応を示すべきか思案した結果、雛は苦笑とともに改めて少年を見やった。
「幸せになりたいの?」
「んー……まぁ、それが良いもんなら」
曖昧に――ただし、決して何かを偽るわけではなく答えてから、彼は思い出したように付け加えた。
「って言うか、そもそも今幸せじゃないかも分からないし。ほら、みんなが有り難がるようなものを、そうと知らずに持ってるのはなんか、もったいないじゃん?」
その言葉が遅れた理由も含め、雛はじっと沈黙を噛み締めた。
人間の、それも身を守る術も持たない子供が迷い込んだとあれば、雛が傍に居続けるわけにはいかない。すぐにも里に送り返すべきだ。だが、厄神たる彼女の使命は、厄を回収することで人間を災厄から、不幸から守ること。つまりは人間の幸福を守ることだ。
故に、雛はため息を漏らしながら、小さく頷き言った。
「ま、いいでしょう。話にでも付き合ってくれるなら、一緒にいても構わないわ」
「よっしゃ。あんがとな、厄神様」
手を打ち合わせ、少年は深々と頭を下げた。今さらながらに拝んでいるのだろうか、或いは単なる感謝の表れのようにも見える。
が、不意に顔を上げると、彼は小首を傾げながら、
「けど、話っていってもオイラ、誰かとロクに話したこともないし。どういうこと言やいいんだ?」
そんなことを言ってのける。雛はそれに苦笑ともとれる吐息を零してから、まるでそれを察していたかのように口を開いた。
「なら、まずは幾つか質問させて貰うから、それに答えてくれればいいわ。まず、貴方の両親はご健在?」
「ケンザイ? ああ、会ったことないよ」
単語の意味は分からなくとも、ニュアンスは伝わったらしい。あっけらかんと答える彼を、やはり雛は静かな瞳で見つめた。
少年は雛の視線に己の視線を合わせながら、軽い足取りで彼女の隣まで進む。重苦しく堆積した厄の塊には目もくれない。彼の意識はあくまでも雛と、雪山の風景にしか向けられていない。
「そう。なら里ではどうやって暮らしているの?」
「寝床は稲藁とか飼葉を集めるのが基本かな。家に入らなくても、雨風はどうにかできるんだ。飯はこっそり貰ってる」
「盗んでる、でしょう。それはわざと? それとも言葉を知らないの?」
さすがに咎める雛だったが、言われた少年はきょとんとして目を瞬いた。それから彼は腕を組んで大きく首を捻る。眉根を寄せた表情は、彼が極めて難解な問題を突きつけられているかのようだった。
「んん、そういやその二つって、何が違うんだろうな? 厄神様、分かる?」
返ってきた問いかけに、雛が再び苦笑する。もっとも、皮肉に歪んだ唇の隙間からは「やっぱり……」という呟きが漏れていた。
雛は少年にそうと分かるように大きく溜息をついてから、
「先にもう二つ聞かせて。言葉はどこで覚えたの?」
自分の問いを無視されたことは、さほど気にならなかったらしい。彼は思い起こすように視線を上向けつつ、顎に手を当てる。
「うーん、初めがどこかはちょっと分かんないけど……まぁ大体は里の寺子屋かな。窓の傍にいれば授業聞けるから」
「生徒として授業を受けているわけではないのね」
「おう。他にも、里の人が話してるのを聞いたりしても覚えたけどな」
妙に力強く頷いて、少年が応える。雛は何度目になるかも分からない溜息をつき、それから僅かに両眼を眇めた。
鋭さを増した眼光にしかし、やはり少年はたじろがない。
「それじゃあ、あと一つ。貴方の名前は?」
前置き、雛はその問いを放つ。
返ってきた答えは、極めて簡潔だった。
「ないよ」
■ ■ ■
「あれ、珍しい。雛にお客さん?」
人里の様子やそこでの暮らし、雛の仕事や山の自然について、問答という形で雛と少年が会話に興じていた最中だった。突如、川面を割って一人の少女が現れた。
水色の厚手の上着と同色の髪、緑の帽子と大きなバッグが特徴的な少女だ。見知った姿に向き直る雛を余所に、傍らの少年はぎくりと身を硬直させた。彼の反応に雛たちが訝る間もなく、彼は幾度か口を震わせてから、
「ぅ……うわぁぁ!?」
「ひゅいっ!?」
頓狂な悲鳴を上げ、木の幹にしがみつくように身を隠す少年と、その声に驚いて仰け反る少女。少年は怯えた眼差しで少女と雛を交互に見やり、か細い声を絞り出した。
「よ、ようかい……?」
縮こまる彼の姿をきょとんと見つめて、少女は尋ねるような目を雛に向けた。彼女はただ小さく肩を竦めるのみだ。
少女は困ったように頬を掻きながら、その視線を少年へと戻して応える。
「この山で、そんなことに驚かれてもなぁ……まぁ、うん。私はそうだよ」
「オイラのこと、食べる……?」
「私が? 君を? まさかぁ!」
びくつきながら問いかける少年だったが、対する少女は手をひらひら振りながら笑って応える。彼の問いがそれほど面白かったか、少女は手で腹を押さえてけらけら笑いつつ、言葉を継いだ。
「私は河童だよ。低能で悪食な妖獣の類ならいざ知らず、まさか――」
くしゅっ
と、控えめなくしゃみが少女の言葉を遮った。思わず口を閉じた少女に、元凶である雛はばつの悪そうな苦笑を浮かべて、
「御免なさいね、にとり」
「厄神様が風邪でも引いたの? 驚かせるなぁ」
わざとらしい溜息を添えて零す、にとりと呼ばれた少女に、雛はもう一度「御免ね」と呟いた。にとりもまたそれ以上追及することはなく、なおも怯えた様子の少年に向き直る。
「自己紹介が遅れたね。私は河城にとり、さっき言った通り河童だよ。雛の数少ない友達だね」
そう気さくに声を掛けると、幾分少年の緊張が緩む。にとりに合わせるようにして、雛は敢えて不機嫌そうに頬を膨らませながら彼女を睨んだ。
「少ない、は余計でしょう」
「雛が心を許してくれる相手がほとんどいないからでしょ。雛の友達ってだけでも結構すごいと私は思うな」
「自分で言うかしら、それ?」
クスクスと笑いながら言う雛の姿に、ようやく少年は警戒を解いた。彼の雛への懐きぶりを見て取り、にとりは表情を変えずに感嘆した。
彼が落ち着いたのを機に、雛は改めてにとりに向き直って尋ねる。
「それで、今日はどうしたの?」
「ん? あぁ、新しく育ててた品種を収穫してきたんでね。差し入れがてら感想を聞こうと思って」
そう答えたにとりは、背負っていたバッグを開いて中を漁り始めた。収穫、という単語には似つかわしくない金属音が時折聞こえるが、雛はそれを黙殺する。
ようやく顔を上げたにとりは、手にした胡瓜を掲げて示した。
「ほら、これこれ。大きいでしょ」
自慢げに鼻を鳴らすにとり。雛も感嘆の吐息とともに目を瞠る。
「あら本当。貰っていいの?」
「勿論。いくよ、ほい」
雛に快く頷いたにとりは、タイミングを合わせて手にした胡瓜を放った。宙に大きく緑色の放物線を描いた胡瓜は、狙い過たず雛の手に収まった。
彼女は白魚のような指で、真ん中から胡瓜を割り折る。小気味よい音を立てて二つに分かれたそれに、少年の物欲しげな視線が注がれていた。気づいたにとりが口を開くより早く、雛が微笑みつつ彼に向き直る。
「貴方も食べる?」
「いいの!?」
「ええ。どうぞ」
目を輝かせる少年に、雛はそう言って、半分に折れた胡瓜の片割れを差し出した。彼は飛びつくようにして雛の元まで駆け寄り、その手から直に胡瓜を受け取った。にとりが僅かに表情を強張らせる。
そんな反応など露知らず、少年は躊躇いなく胡瓜にかぶりついた。途端、彼は満面の笑みでにとりに振り返り、
「すげぇ! 美味しい!!」
ぼりぼりと咀嚼しながら叫ぶ彼を、にとりは毒気を抜かれた思いで見つめた。あっという間に食べ尽くした彼は、恍惚とした表情で何処とも知れぬ虚空に視線を泳がせる。
大げさな、と胸中でぼやきつつ、にとりは少年に声を掛けた。
「もう一本、いる?」
途端、茫洋としていた少年の表情が、再びぱっと輝いてにとりを捉えた。言葉より如実な反応に、にとりは新たな胡瓜を投げ渡す。危なげなく受け止めた少年は、雛と同じようにそれを真ん中で折って齧りついた。
「やっぱり美味しいな、これ。里じゃあこんな良い野菜は置いてねぇや」
「ホントに美味しそうに食べるねぇ、君。同族だってそこまで顔に出さないよ。育てた身としちゃ嬉しい限りだね」
またもや一息に食べきって満足げに呟く少年へと、にとりが笑いかける。すると彼は、思いだしたように表情を改めて、まじまじとにとりの顔を覗き込む。
「もう一回聞くけど、河童様は妖怪なんだよな? 妖怪は人間を食っちまうって、人里じゃみんな言ってたけど、違うのか?」
「河童様て……」
初めて聞く呼称に思わず苦笑しつつも、にとりはその目に僅かばかりの憐みを過らせる。ちらりと脇を見ると、雛が何を言うでもなく微笑みかけていた。
結局、にとりは小さく肩を竦め、
「私たち河童にとっちゃ、人間は盟友だからね」
そう短く答えるに留まった。「メイユウ?」と首を傾げる少年だったが、話の流れから険悪な間柄を指すわけではないことを悟ったのだろう、曖昧に頷いて笑った。
そんな彼に、にとりは目を細め口の端を吊り上げ、わざとらしく不気味に笑んで見せながら告げる。
「とはいえ、この山に人間の天敵のような妖怪がわんさか棲んでる、っていうのはあながち間違いじゃないけどねぇ」
「え、えぇっ?」
低く這うような声音が、いかにも不吉な響きで少年の心を捉えた。先までの爛漫な様子はどこへやら、露骨に怯えだす彼に追い打ちをかけるようににとりは続ける。
「気をつけた方がいいよ~? 食われるだけならいざ知らず、突然羽の生えたおっかない化物に連れ去られたりでもした日には、どうなることやら――」
「おやおやぁ? 人のいないところで陰口とは感心しませんねえ」
どぼん
割って入った新たな声に、にとりが反射的に川へと飛び込む。恐ろしく滑らかで自然なモーションは、それを成さしめた空恐ろしいほどの危機感すら包み隠すに十分なものだった。
もっとも、胸の内を知る雛には、余計に滑稽に見えているのだが。
「びっくりさせないでよ、文。人が悪いなぁ」
「いえいえ。にとりさんがやましいことなど言っていなければ、そんなに驚くこともないでしょう」
「やましいことって何さ。後ろから急に話しかけられたら誰だって驚くって」
「ふむ。ではそういうことにしておきましょう」
水面から顔を出したにとりが、何食わぬ顔で背後の影にぼやいた。おどけた調子で返す新たな人物に言い募るにとりだったが、文と呼ばれた少女は納得したような口調とは裏腹に、その眼光を剃刀の如く細めた。
白のシャツと黒のスカート、頭に頂いた朱の烏帽子が一点のアクセントとなっている。が、それよりなお特徴的なのは、背に負った漆黒の翼。ばさりと風を薙いだそれが、彼女の素性を何よりも如実に示している。
「さて……」
と、にとりに向けられていた文の視線が、ゆるりと少年へ向く。彼女の登場と同時に再び木の幹の裏に隠れていた彼の肩が、戦慄に跳ね上がった。
批難を乗せた雛の視線に片手を上げて応えつつ、文はにこやかな表情で少年に一礼する。
「貴方も驚かせてしまいましたね。ですがご安心を。にとりさんに何を吹き込まれたかは存じませんが、私は貴方に危害を加えるつもりはありませんから」
快活に言ってのける文だったが、対する少年の疑心が晴れる様子はない。問いかけるように雛に目を向けた文に、雛は先の文よろしく無言で片手を掲げるのみだ。彼女に代わり、水に浸かったままのにとりが囁きかける。
「その子、どういうわけか雛に随分と懐いてるみたいでね。警戒を解いてくれるかは、あの娘次第じゃないかな」
「ほほう」
そう相槌を打って、文は一時にとりに向けていた目を雛に戻す。だが雛はまるで二人のやり取りが聞こえていたかの如く、
「それで、今日は一体何の用です?」
「ご無体な……ま、その子が本題というわけではないので、別にいいんですが」
極めて硬質な口調で喋りかける雛の姿を見た少年が、一層身を縮めて木の裏に隠れる。大仰に肩を落とした文だったが、すぐに気を取り直して雛に向き直った。
幾つか腰に吊るしていた布袋を一つ取ると、彼女は袋の口を開けて見せながら言う。
「鹿肉を干しまして。身内で消化するのもつまらないですし、折角ですからおすそ分けに、と参ったのですよ。如何です?」
文の問いに対しても、やはり雛は疑いを残した、乾いた笑みを浮かべたまま、
「あら、そうなんです、か……」
すげなく言おうとしたところで、背後の視線に気がついた。振り返ってみれば、少年が熱の籠った眼差しを文に――その手元に注いでいる。
思わず文の顔を見るが、彼女も少年の反応は些か意外だったらしい。きょとんと目を瞬かせたかと思えば、雛に目だけで疑問を呈してきた。無論、雛がそれに答えを持つはずもない。
結局、文は困惑を表情から排し、雛に差し出した袋を示しながら問うた。
「あの、よろしければ差し上げましょうか?」
「くれるの!?」
「ええ、どうぞ」
遅滞のない返答に、傍観する雛やにとりは唖然と口を開けるばかりだ。文とて内心は似たようなものだったが、難儀しつつも微笑を浮かべることに徹しながら干し肉の袋を放り渡す。
少年はあろうことか、文に駆け寄りながらそれを受け止めた。直前までの警戒心など、最早微塵も見受けられない。
「うん、美味しい。妖怪の飯ってのは何でも人間のより美味しいもんなのかな?」
無邪気に干し肉を齧る少年を見つめながら、文は「さて、どうだか」と呟いた。言いつつ少年を見下ろす眼差しが、僅かな好奇心にスッと据わる。
そしてその瞳は、色合いを変えないまま雛の方へと横滑りした。無言で応じる雛へと何を囁くでもなく、文は再び少年を見、口を開く。
「しかし、この山に分け入る酔狂な子供がいるとは思いましたが、それが雛さんの縁者だったとは。予想外なこともあるものですね」
「んぇ? 鴉様はオイラのこと知ってたの?」
「天狗です、天狗」
さすがに訂正を加えたものの、文はすぐに言葉を継いだ。
「ええ。実は貴方が山に入るところを、たまたま目にしまして。その時には所用もありましたし大して気に留めなかったのですが、まさか、こういう形で会うことになるとは」
「文」
ごく短く、雛が発した。
彼女が名を呼ぶのに呼応したかのように、木々の間を寒風が駆け抜ける。風を浴びた少年やにとりが、背筋を走った寒気に身を震わせる。
そんな中、文は手の代わりに小さく翼を振るって、苦笑を漏らしつつ応じた。
「やだなぁ。手なんか出していませんよ。でなきゃ、貴女と一緒にいるこの子の前に、姿なんか現せませんって」
「文」
「嘘はつきませんよ、私は」
氷塊を思わせる、硬質で冷たい雛の声。だが、文は怖じる様子もなく片目を瞑ってそう嘯いた。半開きのまま怪しく輝きを放つもう一方の眼を凝視し、しばし雛は無言を貫く。
膠着を破ったものは、一体なんだったのか。やがて雛は、重たい息を吐き出して文から目を逸らした。
「厄神様?」
ある意味一番の当事者のはずの少年は、二人のやり取りが理解できた様子もなく、首を傾げて疑問符を浮かべる。雛は彼に目を向け、それからふと、手の中の感触に気づいた。
「……いいえ、何も」
いつの間にか、干し肉の袋を握らされていた。彼女はそこから一切れ摘み上げ、少年の口に放り込む。
美味しそうに干し肉を味わう少年を見下ろす瞳に過った哀愁に、彼が気づくことはなかった。
■ ■ ■
にとりと文が加わったことで、会話は大いに盛り上がった。
河童のコミュニティーのこと、天狗社会のしがらみ、また山の外の出来事にしてみても、少年の知識の範疇にないことは山ほどあった。神社に集まる妖怪たちと巫女の話や、吸血鬼の館で窃盗を繰り返す魔法使い、死後の世界の住人にも関わらず、常軌を逸した大食いの姫君など。その全てに、少年は目を輝かせて続きをねだった。
だがそれも、永遠には続かない。
「――さて、日も傾いてきましたし、私はそろそろお暇させていただきましょうか」
ちょうど話を一つ終えたところで、文が伸びをしながらそう切り出した。彼女が見やった先には、次第に茜色に染まり始めた空があった。
「天狗様、帰っちまうのか?」
「ええ。そろそろ新聞の準備にかからないといけませんし」
「そっかぁ」
少年は名残惜しそうなものの、引き留めるような言葉は口にしなかった。彼に笑いかけつつ、文は明るい口調のまま、
「機会があればまた……と言いたいところですが、ここはあまり貴方が長居する場所ではないとは思いますね」
「ま、私も帰ろうかな。今日は楽しかったよ」
肩を竦める文の言葉に被せるように、にとりが言う。手を振る彼女に、少年も同じように手を振り返した。
にとりが川に沈み、その姿が消える。文はばさりと音を立てて翼を広げてから、横目で少年を見た。
「ところで、貴方はどうします? よろしければ、途中まで運びましょうか?」
「オイラ? ううん、いいよ。浚われそうだし」
「あやや、意外に警戒されてたんですね……」
「干し肉、美味しかった。ありがとな、天狗様」
初めのうちの怯えきった様子とは違う、ほんの一歩だけ距離を置いた気安い感謝に、文は楽しげに鼻を鳴らしながら肩を竦めた。それから膝を小さく撓め、今しも飛び立とうとしたそこへ、雛が短く言葉をかける。
「場所は分かるかしら?」
前後の繋がりなど一切感じさせない、短い問いかけ。それでも文は、まるでそれを予想していたかのようにあっさりと答えを返した。
「貴女の帰り道を真っ直ぐ行けば、それで」
「そう。ありがとう」
「お構いなく。気が向いたときに返していただきますから」
「高くつくわね」
苦笑も濃くぼやく雛を満足そうに見やって、文は今度こそ飛び去った。瞬く間に豆粒大となる影を見送って、少年はその視線を下ろして雛を見つめる。彼女もまた、彼をそっと見下ろしていた。
少しだけ迷うように口ごもってから、彼は静かに告げる。
「オイラも、そろそろ帰るよ。何となくだけど、知りたかったことも分かったような気がするから」
少年の宣言にしかし、雛は相槌を打つことはなかった。何も言わず、黙して自分を見下ろす厄神の姿を、少年は怪訝そうに見つめた。
彼女の背後に盛り上がるように蟠る厄の塊を、少年の足元を舐めて這い回る厄の塊を、彼はまるで目に映らないかのように気にも留めない。ただただ、雛の意図が読めないという疑念だけで彼女を見上げる少年の目を、彼女は無言で見つめ続けた。
「……送りましょう」
ぽつりと零した声とともに、雛が片手を差し出した。端的過ぎるほどに短い言葉だったが、少年はその意味をすぐに理解し、破顔した。
「一緒に帰ってくれるの!?」
「ええ。貴方一人では危ないから。途中までだけれどね」
そう言って頷く雛の手に、少年は自分のそれを重ねた。握り返されるのを確認して、雛は彼を引いて歩き出す。
彼が元いた人里の方角へと向けて、二人は雪を踏みしめて進んでいった。
空はすっかり茜色に染まり、鮮やかな橙色の日差しが木々を照らす。
足元に広がる白雪もまた、注がれた陽の光を煌びやかに照り返す。
まるで世の総てを祝福するような、あまりに眩い光景。
だからこそ、二人が視線を注ぐ先の赤は、決して夕陽が作りだしたものではなかった。
「…………」
引き裂かれた襤褸は、恐らく着物。ところどころに散在する棒切れは骨。肉片は臓物か、皮膚や筋だろう。
少年の眼前に広がる、酸鼻を極める光景。その中に、もう一つ目立つ物が在る。胴体と泣き別れた時点で下手人の興味から外れたのか、無造作に転がった頭部だけは、ほとんど傷もなく残されていた。
そこに張り付いた、己の身に起きた異変に気付いた風もない無表情。その面差しは、それを見つめる少年のそれと瓜二つだった。
少年の亡骸が、そこにあった。
「……なんだ」
自分の顔と見つめ合いながら、少年は幼さを感じさせない、酷く平坦な声で呟く。握ったままだった雛の手からそっと指を解き、何の感触も返さない虚空を掻いた。
雛は無言で彼の傍らに佇む。少年はもう一度まじまじと、雪上に転がる自分の顔を見、次いで無残にぶち撒けられた自分の身体を見た。それから、何かに納得したかのように一つ息をついて、雛の顔を見上げた。
「オイラ、もう死んでたんだな」
何に縋ることもない、縋るということを知らないが故に透徹し切った冷たい眼光が、雛の意識に突き刺さる。その時雛が味わった衝撃と悪寒は、これまでの長い歩みの中で一度たりとも経験したことのないものだった。
たかが人間の子供、それと変わらない意識しか持たないはずの存在に、これほどのおぞましさを見出したことなど、あるはずがない。
「ええ」
内心をひた隠し、雛は静かに首肯する。そっか、と零して俯く少年の表情には、やはり一切の落胆もない。それでも、彼自身には確かな変化が起きていた。
彼の身体の輪郭が、波打つように薄らいだ。自らの死に気づかぬが故に亡霊化していた魂が、本来の姿へと戻ろうとしているのだろう。
「厄神様。最後に一つだけ、聞いてもいい?」
ぴくり、と雛の眉が揺れる。
最後、と言うからには、恐らく消えかかっている自分自身に気づいているのだろう。だが彼の表情に浮かぶのは、初めて彼が姿を見せたときに浮かべたような、純然たる好奇心、あるいは知識欲から来る微笑だった。
「人間が厄神様に近づき過ぎれば不幸になるって、里の人達は言ってた。でもオイラは? もう死んじまってるオイラはどうなんだ?」
返事を待たずに少年が放った問いに、雛は無言で目を瞠った。
「厄神様に会って、河童様や天狗様と話をしてて、オイラ、変な感じがしてたんだ。頭の奥が痒いような、じっとしてるのが辛いような、そんな感じ。いつもと違った――生きてた頃には、感じたことない感じだったんだ」
言葉の途中で、少年の像が激しく乱れる。それでも、一瞬の後には元の姿を取り戻していた。きっとこの疑問こそが、最後に彼を繋ぎ止めているものなのだろう。
「教えてよ、厄神様。オイラは、厄神様といて、ちゃんと不幸になれてたのか?」
一言一言を噛みしめるように、突きつけるように、少年は再度問いかけた。
少年の静かな眼光を、雛が無言で睥睨する。その光景を、もし傍観した者がいたならば、一体どんな感想を抱いただろうか。彫像のように微動だにせず向かい合う二人の間を、時間だけがゆっくりと通り過ぎていく。
ふう、と雛が吐いた息が、白い帯となって消えていく。両の目を一度閉じると、雛はそれをゆっくりと見開き、意を決したように口を開いた。
「……私が集める厄は、あらゆる不幸と災厄の源。それは誰にとっても同じこと。人にとっても、妖怪にとっても。当然、亡霊である貴方にとっても」
謳うような答えを、少年はしばし、何も言わずに噛みしめた。雛の言葉を得る前と変わらずに、彼はただ、雛の瞳を覗き続ける。
次の瞬間、これまでになく大きく、彼の姿がブレた。
「そっか」
同時に、少年は淡い微笑とともに囁く。
それはどこか口惜しそうな、もどかしそうな笑みだった。
「ありがとな。やっと分かったよ、幸せも、不幸も。けどオイラ、不幸ってのの感じも、嫌いじゃなかったなぁ」
ゆっくりと語りながら、その姿が足先から消えていく。それでも彼は穏やかな声で言葉を継ぐ。
「みんなが嫌がる理由は分からないけど、それでもこれを良いものって思うのが普通じゃないなら……うん」
腰が消える。腹が、胸が、腕がゆっくりと消えていく。少年はその姿を霞ませながら、最後に残った顔だけで、雛と向き合った。
雛は何も言わない。ただ柔らかな笑みを浮かべ、彼に続きを促した。
言葉はなくとも、その意図は伝わった。少年は雛に感謝するように、満面の笑みを見せながら、
「だからオイラは、みんなと同じにはなれなかったんだな――」
そして、少年の姿が完全に消えた。
代わってその場に残されたのは、薄ぼんやりと光る不定形の塊だ。亡霊としての未練を失い、幽霊へと変じた少年は、ふわりと空へ舞い上がる。あとは放っておいても幽界へ向かうだろう。
「……さて、と」
それを見送って、雛は億劫そうに零した。空を見上げていた視線を地上へと戻すと、もう一つ、そこに影がある。
一見すれば、それは文字通りの意味で影のようだった。少年ほどの背丈の人間が作り出す影のように。だが、それは決して、そんな無害な代物ではない。
あの少年に影として付き従ってきたそれは、濃密な厄の塊だ。彼が生涯をかけて集め、その身に溜めこんだそれは、瘴気と呼べるほどに禍々しい。
「改めて見ると、凄まじいわね」
ただ苦笑と言うには些か苦渋の濃い、歪んだ笑みを口元に張り付けて、雛は手を差し出した。まるでそれに惹かれるように、黒々とした厄が雪の上を這いずって雛の足元まで辿り着く。
それまでよりも数段大気が冷え、同時に鉛のように重たくなったような錯覚が雛を襲った。これだけの量の厄を一度に集めたのは初めてかもしれない。
「……これは、どう受け取ればいいのかしらね」
口にした響きには自嘲を交えつつ、それ以上の嘲りを湛えた雛の眼光が、人里の方角へと伸びた。
どこまで人の意図が絡んでいるのかは分からない。ともすれば、ほとんどが偶然ということもあるかもしれない。それでも、人間が己たちだけで厄を一所に集め、それを自らの生活圏から放逐することができたという事実を軽んじるつもりは、彼女にはなかった。
もう人間は、彼女の庇護がなくとも暮らしていけるのかもしれない。
そこまで考えて、彼女は口元の笑みをふっと消す。
「なんて、少し考え過ぎかしら。まあどちらにせよ、これを消化し切るまで、当面は里まで出向く暇もないでしょうけど」
感情を押し殺した瞳で、雛はもう一度人里の方角を見た。それ以上は独り言つこともなく、彼女はゆっくりと森の奥へ引き返して行く。
独りで立ち去る彼女の背を、生首の無表情だけが、いつまでも見つめていた。
ひょこ、っと木々の合間から顔を出しざまに少年の放った一言に、鍵山雛は目を丸くした。
その日、雛は人里へ降りて厄を集めたばかりだった。人々の生活圏には極力踏み込まないよう、時間をかけて里を回った。
薄く雪が降り積もり、熱と音が奪われた野外に、姿を見せている人はほとんどいない。雛は苦にしないような寒さも、人間の身には堪えるのだろう。引き締まるような寒さ自体もそうだが、人目に付きづらいという点で、雛はこの季節を気に入っていた。
やがて、拾い集めた厄を従え、雛は人里を後にした。黒々と凝り固まった厄と新雪の真白さ、そして雛の纏う真紅の衣装の対比は、その不吉さとは対照的に鮮やかに映える。
彼女の向かう先は妖怪の山だ。ブーツの刻んだ足跡を残し、雛は人間から最も縁遠い場所へと歩を進めた。
よもや、それを追う者がいるなどとは夢にも思わずに。
■ ■ ■
「つまり、里から私をつけてきたわけね」
「そーいうこと」
呆れ顔で唸る雛の顔色など知った風でもなく、少年は物珍しそうにあたりを見回しながら頷いた。
今二人がいるのは、山を流れる川の下流だ。浅く流れの穏やかな川の淵に立ち、淀んだ厄をさらに下流へと流す雛を除き、全てが白と黒の無彩色で描かれる景色。確かに人里では、ここまで静謐な風景は拝めないだろう。
目を輝かせて景色に魅入る少年の身なりは、お世辞にも綺麗とは言い難い。薄汚れた着物にぼさぼさの髪は、恵まれた家庭で育ったようには見えなかった。だが、人懐っこい笑みに不思議と陰惨な影はない。
だからこそ、そんな彼がこうしてここに居る理由が、雛にはまるで見当がつかなかった。他方、頭を捻る雛に向けて屈託のない笑顔を向けると、少年は暢気に語り出す。
「里の人達が言ってたんだ。厄神様は有り難い神様だけど、絶対に近づくな。じゃないと、せっかく集めてくれた不幸の素を受け取っちまう、って」
「それを知っててここに? どうして?」
内心抱いた驚きを表にせず、雛は静かに問いかける。が、彼女の言葉の何が可笑しかったのか、少年は失笑を漏らしながら、
「何でって、決まってるだろ。不幸になりにきたんだよ」
「わざわざ?」
疑問を重ねる形で雛が言い募ると、少年は目を瞬かせた。不可解なことでもあったのかと思う雛だったが、どうやら彼はここに至って、彼女が疑問に思う理由に気づいたらしい。後ろ髪を掻きながら、彼は声のトーンを落として答えた。
「ああ、何て言うか……オイラ、実は幸せってどういうものなのか、よく分からなくってさ。だから不幸になるってのも当然分からないし。けどさ、不幸になるってのがどういうことか分かれば、そうじゃないのが幸せってことだろ?」
今度は雛が目を丸くする番だった。言葉を失い自分を凝視する彼女を、少年はどう感じただろうか、少なくとも表情に変化はない。
どういう反応を示すべきか思案した結果、雛は苦笑とともに改めて少年を見やった。
「幸せになりたいの?」
「んー……まぁ、それが良いもんなら」
曖昧に――ただし、決して何かを偽るわけではなく答えてから、彼は思い出したように付け加えた。
「って言うか、そもそも今幸せじゃないかも分からないし。ほら、みんなが有り難がるようなものを、そうと知らずに持ってるのはなんか、もったいないじゃん?」
その言葉が遅れた理由も含め、雛はじっと沈黙を噛み締めた。
人間の、それも身を守る術も持たない子供が迷い込んだとあれば、雛が傍に居続けるわけにはいかない。すぐにも里に送り返すべきだ。だが、厄神たる彼女の使命は、厄を回収することで人間を災厄から、不幸から守ること。つまりは人間の幸福を守ることだ。
故に、雛はため息を漏らしながら、小さく頷き言った。
「ま、いいでしょう。話にでも付き合ってくれるなら、一緒にいても構わないわ」
「よっしゃ。あんがとな、厄神様」
手を打ち合わせ、少年は深々と頭を下げた。今さらながらに拝んでいるのだろうか、或いは単なる感謝の表れのようにも見える。
が、不意に顔を上げると、彼は小首を傾げながら、
「けど、話っていってもオイラ、誰かとロクに話したこともないし。どういうこと言やいいんだ?」
そんなことを言ってのける。雛はそれに苦笑ともとれる吐息を零してから、まるでそれを察していたかのように口を開いた。
「なら、まずは幾つか質問させて貰うから、それに答えてくれればいいわ。まず、貴方の両親はご健在?」
「ケンザイ? ああ、会ったことないよ」
単語の意味は分からなくとも、ニュアンスは伝わったらしい。あっけらかんと答える彼を、やはり雛は静かな瞳で見つめた。
少年は雛の視線に己の視線を合わせながら、軽い足取りで彼女の隣まで進む。重苦しく堆積した厄の塊には目もくれない。彼の意識はあくまでも雛と、雪山の風景にしか向けられていない。
「そう。なら里ではどうやって暮らしているの?」
「寝床は稲藁とか飼葉を集めるのが基本かな。家に入らなくても、雨風はどうにかできるんだ。飯はこっそり貰ってる」
「盗んでる、でしょう。それはわざと? それとも言葉を知らないの?」
さすがに咎める雛だったが、言われた少年はきょとんとして目を瞬いた。それから彼は腕を組んで大きく首を捻る。眉根を寄せた表情は、彼が極めて難解な問題を突きつけられているかのようだった。
「んん、そういやその二つって、何が違うんだろうな? 厄神様、分かる?」
返ってきた問いかけに、雛が再び苦笑する。もっとも、皮肉に歪んだ唇の隙間からは「やっぱり……」という呟きが漏れていた。
雛は少年にそうと分かるように大きく溜息をついてから、
「先にもう二つ聞かせて。言葉はどこで覚えたの?」
自分の問いを無視されたことは、さほど気にならなかったらしい。彼は思い起こすように視線を上向けつつ、顎に手を当てる。
「うーん、初めがどこかはちょっと分かんないけど……まぁ大体は里の寺子屋かな。窓の傍にいれば授業聞けるから」
「生徒として授業を受けているわけではないのね」
「おう。他にも、里の人が話してるのを聞いたりしても覚えたけどな」
妙に力強く頷いて、少年が応える。雛は何度目になるかも分からない溜息をつき、それから僅かに両眼を眇めた。
鋭さを増した眼光にしかし、やはり少年はたじろがない。
「それじゃあ、あと一つ。貴方の名前は?」
前置き、雛はその問いを放つ。
返ってきた答えは、極めて簡潔だった。
「ないよ」
■ ■ ■
「あれ、珍しい。雛にお客さん?」
人里の様子やそこでの暮らし、雛の仕事や山の自然について、問答という形で雛と少年が会話に興じていた最中だった。突如、川面を割って一人の少女が現れた。
水色の厚手の上着と同色の髪、緑の帽子と大きなバッグが特徴的な少女だ。見知った姿に向き直る雛を余所に、傍らの少年はぎくりと身を硬直させた。彼の反応に雛たちが訝る間もなく、彼は幾度か口を震わせてから、
「ぅ……うわぁぁ!?」
「ひゅいっ!?」
頓狂な悲鳴を上げ、木の幹にしがみつくように身を隠す少年と、その声に驚いて仰け反る少女。少年は怯えた眼差しで少女と雛を交互に見やり、か細い声を絞り出した。
「よ、ようかい……?」
縮こまる彼の姿をきょとんと見つめて、少女は尋ねるような目を雛に向けた。彼女はただ小さく肩を竦めるのみだ。
少女は困ったように頬を掻きながら、その視線を少年へと戻して応える。
「この山で、そんなことに驚かれてもなぁ……まぁ、うん。私はそうだよ」
「オイラのこと、食べる……?」
「私が? 君を? まさかぁ!」
びくつきながら問いかける少年だったが、対する少女は手をひらひら振りながら笑って応える。彼の問いがそれほど面白かったか、少女は手で腹を押さえてけらけら笑いつつ、言葉を継いだ。
「私は河童だよ。低能で悪食な妖獣の類ならいざ知らず、まさか――」
くしゅっ
と、控えめなくしゃみが少女の言葉を遮った。思わず口を閉じた少女に、元凶である雛はばつの悪そうな苦笑を浮かべて、
「御免なさいね、にとり」
「厄神様が風邪でも引いたの? 驚かせるなぁ」
わざとらしい溜息を添えて零す、にとりと呼ばれた少女に、雛はもう一度「御免ね」と呟いた。にとりもまたそれ以上追及することはなく、なおも怯えた様子の少年に向き直る。
「自己紹介が遅れたね。私は河城にとり、さっき言った通り河童だよ。雛の数少ない友達だね」
そう気さくに声を掛けると、幾分少年の緊張が緩む。にとりに合わせるようにして、雛は敢えて不機嫌そうに頬を膨らませながら彼女を睨んだ。
「少ない、は余計でしょう」
「雛が心を許してくれる相手がほとんどいないからでしょ。雛の友達ってだけでも結構すごいと私は思うな」
「自分で言うかしら、それ?」
クスクスと笑いながら言う雛の姿に、ようやく少年は警戒を解いた。彼の雛への懐きぶりを見て取り、にとりは表情を変えずに感嘆した。
彼が落ち着いたのを機に、雛は改めてにとりに向き直って尋ねる。
「それで、今日はどうしたの?」
「ん? あぁ、新しく育ててた品種を収穫してきたんでね。差し入れがてら感想を聞こうと思って」
そう答えたにとりは、背負っていたバッグを開いて中を漁り始めた。収穫、という単語には似つかわしくない金属音が時折聞こえるが、雛はそれを黙殺する。
ようやく顔を上げたにとりは、手にした胡瓜を掲げて示した。
「ほら、これこれ。大きいでしょ」
自慢げに鼻を鳴らすにとり。雛も感嘆の吐息とともに目を瞠る。
「あら本当。貰っていいの?」
「勿論。いくよ、ほい」
雛に快く頷いたにとりは、タイミングを合わせて手にした胡瓜を放った。宙に大きく緑色の放物線を描いた胡瓜は、狙い過たず雛の手に収まった。
彼女は白魚のような指で、真ん中から胡瓜を割り折る。小気味よい音を立てて二つに分かれたそれに、少年の物欲しげな視線が注がれていた。気づいたにとりが口を開くより早く、雛が微笑みつつ彼に向き直る。
「貴方も食べる?」
「いいの!?」
「ええ。どうぞ」
目を輝かせる少年に、雛はそう言って、半分に折れた胡瓜の片割れを差し出した。彼は飛びつくようにして雛の元まで駆け寄り、その手から直に胡瓜を受け取った。にとりが僅かに表情を強張らせる。
そんな反応など露知らず、少年は躊躇いなく胡瓜にかぶりついた。途端、彼は満面の笑みでにとりに振り返り、
「すげぇ! 美味しい!!」
ぼりぼりと咀嚼しながら叫ぶ彼を、にとりは毒気を抜かれた思いで見つめた。あっという間に食べ尽くした彼は、恍惚とした表情で何処とも知れぬ虚空に視線を泳がせる。
大げさな、と胸中でぼやきつつ、にとりは少年に声を掛けた。
「もう一本、いる?」
途端、茫洋としていた少年の表情が、再びぱっと輝いてにとりを捉えた。言葉より如実な反応に、にとりは新たな胡瓜を投げ渡す。危なげなく受け止めた少年は、雛と同じようにそれを真ん中で折って齧りついた。
「やっぱり美味しいな、これ。里じゃあこんな良い野菜は置いてねぇや」
「ホントに美味しそうに食べるねぇ、君。同族だってそこまで顔に出さないよ。育てた身としちゃ嬉しい限りだね」
またもや一息に食べきって満足げに呟く少年へと、にとりが笑いかける。すると彼は、思いだしたように表情を改めて、まじまじとにとりの顔を覗き込む。
「もう一回聞くけど、河童様は妖怪なんだよな? 妖怪は人間を食っちまうって、人里じゃみんな言ってたけど、違うのか?」
「河童様て……」
初めて聞く呼称に思わず苦笑しつつも、にとりはその目に僅かばかりの憐みを過らせる。ちらりと脇を見ると、雛が何を言うでもなく微笑みかけていた。
結局、にとりは小さく肩を竦め、
「私たち河童にとっちゃ、人間は盟友だからね」
そう短く答えるに留まった。「メイユウ?」と首を傾げる少年だったが、話の流れから険悪な間柄を指すわけではないことを悟ったのだろう、曖昧に頷いて笑った。
そんな彼に、にとりは目を細め口の端を吊り上げ、わざとらしく不気味に笑んで見せながら告げる。
「とはいえ、この山に人間の天敵のような妖怪がわんさか棲んでる、っていうのはあながち間違いじゃないけどねぇ」
「え、えぇっ?」
低く這うような声音が、いかにも不吉な響きで少年の心を捉えた。先までの爛漫な様子はどこへやら、露骨に怯えだす彼に追い打ちをかけるようににとりは続ける。
「気をつけた方がいいよ~? 食われるだけならいざ知らず、突然羽の生えたおっかない化物に連れ去られたりでもした日には、どうなることやら――」
「おやおやぁ? 人のいないところで陰口とは感心しませんねえ」
どぼん
割って入った新たな声に、にとりが反射的に川へと飛び込む。恐ろしく滑らかで自然なモーションは、それを成さしめた空恐ろしいほどの危機感すら包み隠すに十分なものだった。
もっとも、胸の内を知る雛には、余計に滑稽に見えているのだが。
「びっくりさせないでよ、文。人が悪いなぁ」
「いえいえ。にとりさんがやましいことなど言っていなければ、そんなに驚くこともないでしょう」
「やましいことって何さ。後ろから急に話しかけられたら誰だって驚くって」
「ふむ。ではそういうことにしておきましょう」
水面から顔を出したにとりが、何食わぬ顔で背後の影にぼやいた。おどけた調子で返す新たな人物に言い募るにとりだったが、文と呼ばれた少女は納得したような口調とは裏腹に、その眼光を剃刀の如く細めた。
白のシャツと黒のスカート、頭に頂いた朱の烏帽子が一点のアクセントとなっている。が、それよりなお特徴的なのは、背に負った漆黒の翼。ばさりと風を薙いだそれが、彼女の素性を何よりも如実に示している。
「さて……」
と、にとりに向けられていた文の視線が、ゆるりと少年へ向く。彼女の登場と同時に再び木の幹の裏に隠れていた彼の肩が、戦慄に跳ね上がった。
批難を乗せた雛の視線に片手を上げて応えつつ、文はにこやかな表情で少年に一礼する。
「貴方も驚かせてしまいましたね。ですがご安心を。にとりさんに何を吹き込まれたかは存じませんが、私は貴方に危害を加えるつもりはありませんから」
快活に言ってのける文だったが、対する少年の疑心が晴れる様子はない。問いかけるように雛に目を向けた文に、雛は先の文よろしく無言で片手を掲げるのみだ。彼女に代わり、水に浸かったままのにとりが囁きかける。
「その子、どういうわけか雛に随分と懐いてるみたいでね。警戒を解いてくれるかは、あの娘次第じゃないかな」
「ほほう」
そう相槌を打って、文は一時にとりに向けていた目を雛に戻す。だが雛はまるで二人のやり取りが聞こえていたかの如く、
「それで、今日は一体何の用です?」
「ご無体な……ま、その子が本題というわけではないので、別にいいんですが」
極めて硬質な口調で喋りかける雛の姿を見た少年が、一層身を縮めて木の裏に隠れる。大仰に肩を落とした文だったが、すぐに気を取り直して雛に向き直った。
幾つか腰に吊るしていた布袋を一つ取ると、彼女は袋の口を開けて見せながら言う。
「鹿肉を干しまして。身内で消化するのもつまらないですし、折角ですからおすそ分けに、と参ったのですよ。如何です?」
文の問いに対しても、やはり雛は疑いを残した、乾いた笑みを浮かべたまま、
「あら、そうなんです、か……」
すげなく言おうとしたところで、背後の視線に気がついた。振り返ってみれば、少年が熱の籠った眼差しを文に――その手元に注いでいる。
思わず文の顔を見るが、彼女も少年の反応は些か意外だったらしい。きょとんと目を瞬かせたかと思えば、雛に目だけで疑問を呈してきた。無論、雛がそれに答えを持つはずもない。
結局、文は困惑を表情から排し、雛に差し出した袋を示しながら問うた。
「あの、よろしければ差し上げましょうか?」
「くれるの!?」
「ええ、どうぞ」
遅滞のない返答に、傍観する雛やにとりは唖然と口を開けるばかりだ。文とて内心は似たようなものだったが、難儀しつつも微笑を浮かべることに徹しながら干し肉の袋を放り渡す。
少年はあろうことか、文に駆け寄りながらそれを受け止めた。直前までの警戒心など、最早微塵も見受けられない。
「うん、美味しい。妖怪の飯ってのは何でも人間のより美味しいもんなのかな?」
無邪気に干し肉を齧る少年を見つめながら、文は「さて、どうだか」と呟いた。言いつつ少年を見下ろす眼差しが、僅かな好奇心にスッと据わる。
そしてその瞳は、色合いを変えないまま雛の方へと横滑りした。無言で応じる雛へと何を囁くでもなく、文は再び少年を見、口を開く。
「しかし、この山に分け入る酔狂な子供がいるとは思いましたが、それが雛さんの縁者だったとは。予想外なこともあるものですね」
「んぇ? 鴉様はオイラのこと知ってたの?」
「天狗です、天狗」
さすがに訂正を加えたものの、文はすぐに言葉を継いだ。
「ええ。実は貴方が山に入るところを、たまたま目にしまして。その時には所用もありましたし大して気に留めなかったのですが、まさか、こういう形で会うことになるとは」
「文」
ごく短く、雛が発した。
彼女が名を呼ぶのに呼応したかのように、木々の間を寒風が駆け抜ける。風を浴びた少年やにとりが、背筋を走った寒気に身を震わせる。
そんな中、文は手の代わりに小さく翼を振るって、苦笑を漏らしつつ応じた。
「やだなぁ。手なんか出していませんよ。でなきゃ、貴女と一緒にいるこの子の前に、姿なんか現せませんって」
「文」
「嘘はつきませんよ、私は」
氷塊を思わせる、硬質で冷たい雛の声。だが、文は怖じる様子もなく片目を瞑ってそう嘯いた。半開きのまま怪しく輝きを放つもう一方の眼を凝視し、しばし雛は無言を貫く。
膠着を破ったものは、一体なんだったのか。やがて雛は、重たい息を吐き出して文から目を逸らした。
「厄神様?」
ある意味一番の当事者のはずの少年は、二人のやり取りが理解できた様子もなく、首を傾げて疑問符を浮かべる。雛は彼に目を向け、それからふと、手の中の感触に気づいた。
「……いいえ、何も」
いつの間にか、干し肉の袋を握らされていた。彼女はそこから一切れ摘み上げ、少年の口に放り込む。
美味しそうに干し肉を味わう少年を見下ろす瞳に過った哀愁に、彼が気づくことはなかった。
■ ■ ■
にとりと文が加わったことで、会話は大いに盛り上がった。
河童のコミュニティーのこと、天狗社会のしがらみ、また山の外の出来事にしてみても、少年の知識の範疇にないことは山ほどあった。神社に集まる妖怪たちと巫女の話や、吸血鬼の館で窃盗を繰り返す魔法使い、死後の世界の住人にも関わらず、常軌を逸した大食いの姫君など。その全てに、少年は目を輝かせて続きをねだった。
だがそれも、永遠には続かない。
「――さて、日も傾いてきましたし、私はそろそろお暇させていただきましょうか」
ちょうど話を一つ終えたところで、文が伸びをしながらそう切り出した。彼女が見やった先には、次第に茜色に染まり始めた空があった。
「天狗様、帰っちまうのか?」
「ええ。そろそろ新聞の準備にかからないといけませんし」
「そっかぁ」
少年は名残惜しそうなものの、引き留めるような言葉は口にしなかった。彼に笑いかけつつ、文は明るい口調のまま、
「機会があればまた……と言いたいところですが、ここはあまり貴方が長居する場所ではないとは思いますね」
「ま、私も帰ろうかな。今日は楽しかったよ」
肩を竦める文の言葉に被せるように、にとりが言う。手を振る彼女に、少年も同じように手を振り返した。
にとりが川に沈み、その姿が消える。文はばさりと音を立てて翼を広げてから、横目で少年を見た。
「ところで、貴方はどうします? よろしければ、途中まで運びましょうか?」
「オイラ? ううん、いいよ。浚われそうだし」
「あやや、意外に警戒されてたんですね……」
「干し肉、美味しかった。ありがとな、天狗様」
初めのうちの怯えきった様子とは違う、ほんの一歩だけ距離を置いた気安い感謝に、文は楽しげに鼻を鳴らしながら肩を竦めた。それから膝を小さく撓め、今しも飛び立とうとしたそこへ、雛が短く言葉をかける。
「場所は分かるかしら?」
前後の繋がりなど一切感じさせない、短い問いかけ。それでも文は、まるでそれを予想していたかのようにあっさりと答えを返した。
「貴女の帰り道を真っ直ぐ行けば、それで」
「そう。ありがとう」
「お構いなく。気が向いたときに返していただきますから」
「高くつくわね」
苦笑も濃くぼやく雛を満足そうに見やって、文は今度こそ飛び去った。瞬く間に豆粒大となる影を見送って、少年はその視線を下ろして雛を見つめる。彼女もまた、彼をそっと見下ろしていた。
少しだけ迷うように口ごもってから、彼は静かに告げる。
「オイラも、そろそろ帰るよ。何となくだけど、知りたかったことも分かったような気がするから」
少年の宣言にしかし、雛は相槌を打つことはなかった。何も言わず、黙して自分を見下ろす厄神の姿を、少年は怪訝そうに見つめた。
彼女の背後に盛り上がるように蟠る厄の塊を、少年の足元を舐めて這い回る厄の塊を、彼はまるで目に映らないかのように気にも留めない。ただただ、雛の意図が読めないという疑念だけで彼女を見上げる少年の目を、彼女は無言で見つめ続けた。
「……送りましょう」
ぽつりと零した声とともに、雛が片手を差し出した。端的過ぎるほどに短い言葉だったが、少年はその意味をすぐに理解し、破顔した。
「一緒に帰ってくれるの!?」
「ええ。貴方一人では危ないから。途中までだけれどね」
そう言って頷く雛の手に、少年は自分のそれを重ねた。握り返されるのを確認して、雛は彼を引いて歩き出す。
彼が元いた人里の方角へと向けて、二人は雪を踏みしめて進んでいった。
空はすっかり茜色に染まり、鮮やかな橙色の日差しが木々を照らす。
足元に広がる白雪もまた、注がれた陽の光を煌びやかに照り返す。
まるで世の総てを祝福するような、あまりに眩い光景。
だからこそ、二人が視線を注ぐ先の赤は、決して夕陽が作りだしたものではなかった。
「…………」
引き裂かれた襤褸は、恐らく着物。ところどころに散在する棒切れは骨。肉片は臓物か、皮膚や筋だろう。
少年の眼前に広がる、酸鼻を極める光景。その中に、もう一つ目立つ物が在る。胴体と泣き別れた時点で下手人の興味から外れたのか、無造作に転がった頭部だけは、ほとんど傷もなく残されていた。
そこに張り付いた、己の身に起きた異変に気付いた風もない無表情。その面差しは、それを見つめる少年のそれと瓜二つだった。
少年の亡骸が、そこにあった。
「……なんだ」
自分の顔と見つめ合いながら、少年は幼さを感じさせない、酷く平坦な声で呟く。握ったままだった雛の手からそっと指を解き、何の感触も返さない虚空を掻いた。
雛は無言で彼の傍らに佇む。少年はもう一度まじまじと、雪上に転がる自分の顔を見、次いで無残にぶち撒けられた自分の身体を見た。それから、何かに納得したかのように一つ息をついて、雛の顔を見上げた。
「オイラ、もう死んでたんだな」
何に縋ることもない、縋るということを知らないが故に透徹し切った冷たい眼光が、雛の意識に突き刺さる。その時雛が味わった衝撃と悪寒は、これまでの長い歩みの中で一度たりとも経験したことのないものだった。
たかが人間の子供、それと変わらない意識しか持たないはずの存在に、これほどのおぞましさを見出したことなど、あるはずがない。
「ええ」
内心をひた隠し、雛は静かに首肯する。そっか、と零して俯く少年の表情には、やはり一切の落胆もない。それでも、彼自身には確かな変化が起きていた。
彼の身体の輪郭が、波打つように薄らいだ。自らの死に気づかぬが故に亡霊化していた魂が、本来の姿へと戻ろうとしているのだろう。
「厄神様。最後に一つだけ、聞いてもいい?」
ぴくり、と雛の眉が揺れる。
最後、と言うからには、恐らく消えかかっている自分自身に気づいているのだろう。だが彼の表情に浮かぶのは、初めて彼が姿を見せたときに浮かべたような、純然たる好奇心、あるいは知識欲から来る微笑だった。
「人間が厄神様に近づき過ぎれば不幸になるって、里の人達は言ってた。でもオイラは? もう死んじまってるオイラはどうなんだ?」
返事を待たずに少年が放った問いに、雛は無言で目を瞠った。
「厄神様に会って、河童様や天狗様と話をしてて、オイラ、変な感じがしてたんだ。頭の奥が痒いような、じっとしてるのが辛いような、そんな感じ。いつもと違った――生きてた頃には、感じたことない感じだったんだ」
言葉の途中で、少年の像が激しく乱れる。それでも、一瞬の後には元の姿を取り戻していた。きっとこの疑問こそが、最後に彼を繋ぎ止めているものなのだろう。
「教えてよ、厄神様。オイラは、厄神様といて、ちゃんと不幸になれてたのか?」
一言一言を噛みしめるように、突きつけるように、少年は再度問いかけた。
少年の静かな眼光を、雛が無言で睥睨する。その光景を、もし傍観した者がいたならば、一体どんな感想を抱いただろうか。彫像のように微動だにせず向かい合う二人の間を、時間だけがゆっくりと通り過ぎていく。
ふう、と雛が吐いた息が、白い帯となって消えていく。両の目を一度閉じると、雛はそれをゆっくりと見開き、意を決したように口を開いた。
「……私が集める厄は、あらゆる不幸と災厄の源。それは誰にとっても同じこと。人にとっても、妖怪にとっても。当然、亡霊である貴方にとっても」
謳うような答えを、少年はしばし、何も言わずに噛みしめた。雛の言葉を得る前と変わらずに、彼はただ、雛の瞳を覗き続ける。
次の瞬間、これまでになく大きく、彼の姿がブレた。
「そっか」
同時に、少年は淡い微笑とともに囁く。
それはどこか口惜しそうな、もどかしそうな笑みだった。
「ありがとな。やっと分かったよ、幸せも、不幸も。けどオイラ、不幸ってのの感じも、嫌いじゃなかったなぁ」
ゆっくりと語りながら、その姿が足先から消えていく。それでも彼は穏やかな声で言葉を継ぐ。
「みんなが嫌がる理由は分からないけど、それでもこれを良いものって思うのが普通じゃないなら……うん」
腰が消える。腹が、胸が、腕がゆっくりと消えていく。少年はその姿を霞ませながら、最後に残った顔だけで、雛と向き合った。
雛は何も言わない。ただ柔らかな笑みを浮かべ、彼に続きを促した。
言葉はなくとも、その意図は伝わった。少年は雛に感謝するように、満面の笑みを見せながら、
「だからオイラは、みんなと同じにはなれなかったんだな――」
そして、少年の姿が完全に消えた。
代わってその場に残されたのは、薄ぼんやりと光る不定形の塊だ。亡霊としての未練を失い、幽霊へと変じた少年は、ふわりと空へ舞い上がる。あとは放っておいても幽界へ向かうだろう。
「……さて、と」
それを見送って、雛は億劫そうに零した。空を見上げていた視線を地上へと戻すと、もう一つ、そこに影がある。
一見すれば、それは文字通りの意味で影のようだった。少年ほどの背丈の人間が作り出す影のように。だが、それは決して、そんな無害な代物ではない。
あの少年に影として付き従ってきたそれは、濃密な厄の塊だ。彼が生涯をかけて集め、その身に溜めこんだそれは、瘴気と呼べるほどに禍々しい。
「改めて見ると、凄まじいわね」
ただ苦笑と言うには些か苦渋の濃い、歪んだ笑みを口元に張り付けて、雛は手を差し出した。まるでそれに惹かれるように、黒々とした厄が雪の上を這いずって雛の足元まで辿り着く。
それまでよりも数段大気が冷え、同時に鉛のように重たくなったような錯覚が雛を襲った。これだけの量の厄を一度に集めたのは初めてかもしれない。
「……これは、どう受け取ればいいのかしらね」
口にした響きには自嘲を交えつつ、それ以上の嘲りを湛えた雛の眼光が、人里の方角へと伸びた。
どこまで人の意図が絡んでいるのかは分からない。ともすれば、ほとんどが偶然ということもあるかもしれない。それでも、人間が己たちだけで厄を一所に集め、それを自らの生活圏から放逐することができたという事実を軽んじるつもりは、彼女にはなかった。
もう人間は、彼女の庇護がなくとも暮らしていけるのかもしれない。
そこまで考えて、彼女は口元の笑みをふっと消す。
「なんて、少し考え過ぎかしら。まあどちらにせよ、これを消化し切るまで、当面は里まで出向く暇もないでしょうけど」
感情を押し殺した瞳で、雛はもう一度人里の方角を見た。それ以上は独り言つこともなく、彼女はゆっくりと森の奥へ引き返して行く。
独りで立ち去る彼女の背を、生首の無表情だけが、いつまでも見つめていた。
楽しげな雰囲気がよかったです
オチ、ぞっとしました
そう目新しい手ではないけれど
だからこそ文の上手さが出るものなのでしょう
素晴らしい作品をありがとうございました
次も期待しています
面白かったです
素晴らしかったです
ぞわぞわする反面、込み上げて来るように自然な優しさが感じられます。
面白かったです。