***
小さい頃から、見えていたのだ。
周りのひとはわからなかったようだけど、私を見て微笑んでくださった。
そこは、素敵な遊び場。怖い感じはしなかったけれど、お話をする勇気は、なかなか持てなくて。
ある日、意を決して。あなたはだぁれ、と聞いてみたら。
『我こそは、八坂神奈子。神様である』
そう、威厳たっぷりに答えが返ってきた。
神様だったのか。
けれどその顔はどこか穏やかで、安心できたから。
思わず、笑ってしまった。
***
1.幻想郷の風景
本殿を出て、私は空を見ていた。
どんよりとした、厚い雲。空は、もう少しで泣きはじめる。
私達が奇跡を起こすとき、まさに風雨は吹き荒れん。
「八坂さま、準備が整いました」
「ありがとう」
八坂さまは、鳥居を過ぎて直ぐ、石階段の前にいらっしゃった。
長い長い階段。これをこの先のぼってくる者は、きっともう居ないかもしれない。
見慣れた景色。
それなりに、親しんだ景色。
でも私に、最早未練などないと。
そう、思っていた。
「私達が向こうに辿り着いたなら、あなたは手紙を書きなさい」
「手紙」
「そう。ひとは弱く、早々に未練を拭いきれるものではない。あなたは必要ないと言うかもしれないけどね、そうした方が、きっと良いわ」
「……」
「ある日、なんでもない時間の中で。堰を切るように、あなたは思い出すのかもしれない。その流れがあんまりにも膨大すぎると、壊れてしまう。思い出が、一度にたくさん入らないのと同じように。一度に引き出す量が多すぎても、いけないの。
そうならないように。ゆっくりとその思いを、文字というかたちに乗せるのよ。息をするように、少しずつ吐き出していくと良い」
「……私は、弱いでしょうか」
じっと、八坂さまは私の眼を見つめながら、おっしゃった。
「ええ。現人神とは呼ばれども。あなたは紛れもなく、ひとの子であるから」
ぽつり、ぽつりと、空がつめたい涙を零しはじめていた。
「弱きは、恥にあらずよ。向こうで、あなたはいずれ思い出す。この世での出来事を。そうして、涙することもあるかもしれない。泣きたいときは、存分に泣けばいい。良いの、それで。
あなたには、私が、私達がついている。だから傍に居てちょうだい、早苗」
ゆっくりと、八坂さまは本殿へ向かって歩き出す。
「もう見納めになる、しっかりと眼に焼き付けておきなさい。向こうは、ここと異なる場所。
……さようならと、言っては駄目よ? この景色、そして私達もまた、幻になれど。違う世界で、私達は顔を合わせる。
それじゃあ、また」
八坂さまのお姿が見えなくなってから、直ぐにそれを追おうと思った。
でも、その前に。一度だけ、振り返った。
決して、都会とは呼べずとも。遠くの方には小さく、トタン造りの屋根が。電飾のひかりが。もう今は辞めてしまった、私の学校が。
そんななんでもない風景を、心に刻む。
深く、礼をした。そして、言残す。
「……ありがとう。早苗は、いきます」
辿り着いた先。
はじめに私が思ったのは、どこかで見たことがある景色だな、ということだった。
妖怪の山と呼ばれるらしい、その頂から。一望して広がるは、溢れんばかりの紅の樹々。あの中には、己を脅かすような妖の類がひしめいているのだろうか。
もうこの場所からは大分細く見える河らしい筋が、広い湖へと流れ込んでいる。
そうか、湖も一緒にこちらへやってきたのか。
でも、それ以外の面影は、もう残っていない。
秋。
静かな秋が、眼の前に広がっていた。
紅葉の色が、どこか花の色に似ているような気がした。
この、紅。そういえば今の時期は、紅色の花が咲き誇る頃合であると思った。
原風景。
それは多分、いつか自分がかえるような、なつかしく思える景色のこと。
「ここで私達は、生きるの」
八坂さまはおっしゃった。
はい、と一言。私はそう、返していた。
――
雨。
雨の日はすきじゃない。
これは私が降らせた雨ではないから、だとか。そういう理由ではない、多分。
冬の雨は、これでもかというほどつめたい。風が吹くなんかよりも、余程。
こんなとき、胸が「くぅ」と締め付けられる感じがする。苦しいのと、ちょっと似てる気がする。私が雨がすきじゃない理由は、これなのではないかと曖昧に考える。
確かに奇跡を使って風や雨を起こすことは、すごいことだったのだろうと思う。
けれど、そもそも奇跡を起こすことには私には容易いことで、厳しい教えも淡々とこなしていた。
周りのひとに褒められることもあった。それを嬉しいと感じたことも。そんな「周りのひと」がほんの少々、本当に一握りでしかなかったことに気付いたのは、いつだったか。現人神と呼ばれたところで、それは何の意味もないことで。
『奇跡の世界へ行くのよ、早苗』
八坂さまは私を誘ってくださった。
思い出というのは、何故こうも私の心に残るのだろう。
今だってそうだ。夢に出てくるなんて、余程のことだと思う。もうあの日から、二度目の冬を迎えて、尚。
一枚の画に似ている。でもその画は静止なんかしていない。動き、音を発し、匂い立つ。
それが時々、私の胸を震わせる。その時抱いた感情は、画を見るだけで伝わるものだ。
ここへ旅立ってくる前。その日の画はとてもはっきりと残っていた。綺麗に、描かれている。
今の私はあの日の私ではないのだから、描かれた画を少し離れた処から眺める。それが、思い出すということ。夢を見るような、という風に言うと少し聞こえは妙だが、そんな感じだと思う。
眼を瞑り、静かに、静かに息をした。
なんだか胸が一杯で、訳もわからなくなる。小さく、細く、泣き声が聴こえる。
思い出しながら感じるのは、やっぱりこの画は特別なものなのだろうということ。思い出の中の私は、涙を流しているようだった。
私は私の力を存分に振るうことが出来ると息巻いていながら、けれどこの場所は私の想像を超えるような奇跡に満ち満ちていた。
結局、ここでも現人神と呼ばれることはやっぱりなかったから、その言葉はまたしても意味のないものになった。
でも同じように意味がなくなるのならば、今の方が余程良い。そう思う。
あめ。
言葉が、雫と一緒に地面へ吸い込まれていくようだった。
我が身勝手に雨を悪く言ったところで、別段誰に怒られる訳ではない。「奇跡で風雨を起こしながら、罰当たりな」なんて言われない。
でも、その言葉を発するとあのお方は何だかかなしい顔をする。それを見るのがいやで、私は雨の日がすきじゃないということを、滅多やたらに口にすることはしない。
水の匂い立つ朝だった。冬の雨は夏のそれと違って、草の匂いが混ざることがない。空気がぴぃんと張り詰める最中、一層水が際立つような気がする。雪では多分、今みたいな感じはしないのだろう。
神社の朝が早いのが一般的なのかどうかは、しらない。
外の世界に巫女は結構居る、らしいが。とりもあえず、神社に住まう巫女としての私の朝は早いのだろうと思う。麓の神社に住んでいる巫女、霊夢さんの朝は、意外にもそれなりに早いと訊いていたから、巫女の朝が早いのは、この場所において十割正しいことになる。
自分と暮らしを供にする神様達はというと、普段の寝起きは良くも悪くもない。ただ、今みたいに寒い季節には、寝覚めは悪い方へ傾くようだった。そのまま冬眠してしまわれたらどうしようと、少々心配したりもする。
つい先ほどから、庭を望む縁側で、はたと足を止めたままでいる。
住まいは丁度、ちょっとした回廊造りになっていて、ここは東側の庭に面する場所。いつも朝はこの廊下を通って、表の境内へと向かう。晴れの気を纏うような朝ならば、爽やかな心地でここを歩くことが出来るというのに。
とうに陽は昇っている筈の刻、お天道様はうすぼんやりとした灰色の雲に覆われて、その姿を拝むことすら出来なかった。
『ずっと続く晴れなんてないよ、いつかは雨が降る。それもその内やむ。繰り返し、繰り返し。
晴れの気ばっかり続いたら、からからに干からびちゃうってば。雨が降りすぎるのも良くない。なんでも真ん中くらいが丁度いい。
寒かったり暑かったりぽかぽか陽気に包まれたりさあ、そういう巡りで成り立ってるんだって。そういうもんだよ、早苗』
一度、雨の日がすきではないと零したとき、ちょっとかなしそうな顔をしてから、諏訪子さまは曖昧に笑いながらおっしゃった。そのお言葉にはなんの間違いも無かった訳で、受けた私はといえば、すんなりと頷いたのだと思う。
けれど、こうやって雨を目の当たりにする度、確かに染み込んだ筈の言葉が、薄く、目の細かい網が張られたようになる。確かに、確かに在る筈なのだ。私の心の中に、日々の暮らしで感じること、思い出という名前のついた画は、確かに。それらが、網に覆われてしまって見え辛くなる。
また、胸が締め付けられる気がする。
やめよう。
こんなのを何時までも見続けているから駄目なのだ。
やまぬ雨はなかろうとて、今は待っても仕方ない。
今朝は境内のお掃除は見送り。ご飯を作るお仕事から取り掛かることにする。
「早苗のお煮しめはいつ食べても絶品! ほっぺた落ちちゃうったらもう」
「ほんと美味しいわよねえ……取るな。私の里芋だけ狙って取るな諏訪子。椎茸だけ寄越さないでよ! きゅって締めるわよ、きゅって! いい感じの声で啼かすわよ!?」
「ほほう? 昨晩、そのいい感じとやらで啼いてたのはどちら様なの」
「そんなことあるか馬鹿!」
「おふたりとも、お食事中は行儀よくなさってください……」
「まあまあ。だんまりしながら食べたって、折角のお食事に華が咲かないじゃないのさあ」
諏訪子さまはいつもの調子で笑いながらおっしゃるので、「まったくもう」と言いながら、私も意図せず笑みを零していた。穏やかな会話の向こう側で、かちゃんかちゃんと音を鳴らしながら凄まじい箸のやりとりが繰り広げられているのには、ちょっと眼を瞑ることにして。
こんな、お食事の風景。賑やかなのは勿論嫌いではないし、美味しいと言って頂けたなら嬉しいに違いないと私は思う。
「はぁ……まあ。そうよ、朝から堅っ苦しくなることもないったら。ああ、早苗の玉子焼き甘くていいわよねえ、うんうん。教育の賜物よねえ」
「なにおう。私のはちゃあんと塩の効いたお味なのよ。こっちのが絶対いいってば。早苗これ美味しいよ、私の技をしっかり受け継いだみたいだね! あーあ、神奈子ってば味覚がお子ちゃまなのよねえ、酒呑みの癖に」
「何だと! 酒呑みが甘いの喰うなと誰が言った、誰が言ったというのか諏訪子! 日本酒に饅頭合わせて喰うのとは時代が違うのよ!?」
「ええと……落ち着いてください……次は里芋もっといっぱい入れますから」
おふたりはこんな塩梅で大変仲が良いわけだけれど、味の好み所々で異なる様子だった。
八坂さまは諏訪子さまに指摘されていたように、お酒は大層好んで呑まれる。
ただ、玉子焼きだけは甘いのがお好き、らしい。それについては私と一緒だった。
対する諏訪子さまはと言えば、お味は濃い目、しょっぱいものをよく口にされる。普段のおやつも、お団子のような甘味よりはお煎餅を好む。
お掃除洗濯などの役割はほぼ私が担っているが、お料理だけは当番制になっていて、今日は私が担当。明日は八坂さま、明後日は諏訪子さま。
私が作るときには、おふたりの好みに合わせて味をある程度変えられるからいい。元々食事を作るのはすきで、手間をかけるのは億劫にならない。今朝だって境内のお掃除をする時間をまるまる割くことが出来たので、ちょっとしたお煮しめを作る余裕があった。
「でもさあ早苗、これさ、やっぱり椎茸入れるのやめようよ」
「あ、私も出来れば」
「駄目です」
きっぱりと言い切る。味の好みはそれぞれあったとしても、こと具材に関してお譲りするつもりはさらさらない。
おふたりが何やらしゅんとしてしまったようなのでちょっと申し訳ない気分になったが、何だかんだで私の作ったものをお残ししたところを見たことがなかった。作り手冥利と言えば確かに大袈裟。でもそれもまた、嬉しいことのひとつ。
「んー、次は何教えようかなあ。豪快に肉料理かな、やっぱり」
「諏訪子は昔っから雑多な料理ばっかりねえ。大体焼いてばっかりじゃないの」
「獲物とったら焼くでしょ! 神奈子の方があれなのよ、何で煮物とか得意なのよ」
「煮るのも焼くのも思いのまま。わたくし、女の神なれば」
「何だその喋り方! くそう、私だって早苗にもっと乙女っぽい料理教えたいのに。それにずるい、神奈子の方が早苗に教えてる時間、長いんだもの」
「そりゃ、元の世界で引き篭もりだった諏訪子が悪い。大体あれは何、初めて早苗と話したときの喋り方は」
いつからだったろうか。
元居た世界で。私は諏訪子さまのお姿を、おぼろげに捉えていたような気がする。
この、幻想郷にて。八坂さまと共に、諏訪子さまは本殿から出てこられたのだ。
『我こそは、洩矢諏訪子。神様であるぞー』
えへん、と胸を張りながら。開口一番、幼い外見とは裏腹の、仰々しい物言い。私は、少々呆気にとられた。
その後、諏訪子さまはぽかりと頭を叩かれて、涙眼になっていた。
今思い返しても、吹き出しそうになる。
「うあー、笑うな早苗! 神様ってばああいう話し方するもんでしょ!?」
「いやいや。何よ『神様であるぞ』ってのは。いきなりそういうの言って通じるのなんて子供くらいよ、馬鹿ねえ。それに最近じゃあ、神様も友達感覚の方が良いんだってば。ねえ? 早苗」
「はい、私もそう思います」
「それにねえ、引き篭もりってのもほんと良くない。たまには外に出なさいよ、外に」
「別にいいでしょ! 神様が外を出歩かなくってもねえ、世の中はどうにでも、なるようになってるもんなの。事なかれよ」
「ほんと、変わんないわねえ……私も早苗も、外には出てるわよ。気分良くなるわよねえ? 早苗」
「まあ、そうですねぇ」
私が外に出るのは、大概買出しのときか、御遣いのときだったが。
どんな季節でも、空を飛ぶのは、割とすきだった。
「うう……結局私だけ仲間はずれ……ひどいよ」
「ほんとに馬鹿になりたいか諏訪子。あなたは私達と一緒に居るのよ。冗談でもそんなこと言うんじゃないの」
途中、しおしおと萎んでいた諏訪子さまは。困り顔の八坂さまの言葉を受けて、表情にぱっと明るく花を咲かせた。
おふたりは本当に仲がよろしいのだなあと、しみじみ感じる。
諏訪子さまとお話をするときは、八坂さまの場合とはまた違った安心感がある。
からからと笑って、お茶を啜るときはしっとりと。たまにぷりぷり怒って、さめざめ泣く。見ていて凡そ飽きの来ることがなく、その見た目の愛らしさも相まって、何だか癒される心地になる。
「神奈子と早苗のときはどうだったのさ。初めて会ったとき、普通に話してたの」
「さあ、どうだったかしら」
……どうだったろうか? 思い出そうとする。
けれど心の中にある画は、とてもぼんやりとしていた。
「ふんだ、とぼけるんならそれでもいいよ。時の差が何だ、お料理はこれから一杯教えられるんだから。それにしても早苗、ほんと上手になったよ」
「そうよねえ、元々の筋が良いのかもね」
「いえ、そんな」
八坂さまには此処にくる前から、諏訪子さまにはこの幻想郷へやってきてから、料理の手解きを受けていた。おふたりとも本当に腕が立って、私などは逆立ちしたって敵う所の話ではない。
この神社の食材は、半分は私が人里へ降りて買い付けてくるもので、残りは奉納される貢物で成り立っている。
先日はまるまる一匹の猪が捧げられて、どう対応したら良いのかわからない私を余所に、諏訪子さまはおっしゃったのだった。
『捌くよ早苗! 今夜は焼肉だから!』
お台所を覗いてみれば、鉄が神具を用い、舞いながら見事に猪を捌きまくる諏訪子さまのお姿があった。
「私も諏訪子に負けないくらい捌くの上手いわよ」と、自信満々に八坂さまはおっしゃっていた訳で、流石山の神様であると嘆息したものだ。今夜は先日の残りを牡丹鍋にしようと考えている。寒い季節は保存が利くから都合がいい。
「そうだ。今日は宴会あるって言ってたっけ」
「麓の巫女のとこ?」
ああ、そうだったか。
宴会は、しょっちゅう開かれる。ほとんどが山の中で、山に棲むものたちで繰り広げられるものだが、たまにそれ以外からもお声がかかることがある。
霊夢さんの神社は人妖関わらず集まりが良い。あの有様で、博麗の下に信仰が集まっていないというのは俄かに信じ難い。祀る神よりも、巫女そのものに人望があると言うならば、霊夢さんこそ現人神の名に相応しかろう思ってしまう。
元々楽しいことがお好みらしいおふたりにとっては、己が神であるなどということは特に拘りを持っていないようだった。私はその後ろを、ひっそりお供するという形になる。
「あ、それなら今日のお夕飯は準備の必要ないでしょうか」
「んー、昨日の肉持っていこっか、鍋にしようよ鍋。牡丹鍋だよ。たまには煮るのもいいね、その辺は早苗に任せた! こってりお出汁であっさりお味の肉を食べよう。精がつくよ」
「精つけて何するつもり、諏訪子」
「んんー? 精ってのは元気ってことでしょ? やーらしい、何か変なこと想像したの、か、な、こ?」
「違うっての……違うって!」
わぁわぁと繰り広げられる大騒ぎを、ふたたび「まったくもう」と呟きながら眺めている。でもそんなにいやな心地でもなく、今の私の顔は、困った風に笑っているに違いない。
「ごちそうさまー」
「ご馳走様でした」
「はい、お粗末さまでした」
何事も平和なのがいちばん。
それを実感させることは、こういう何気ない日常の最中に転がっている。
空になった食器をお台所へ運ぶ。
冬の水場は手にやさしくない。外がこれほど寒い上に、汲み置き水のつめたさは容赦なく肌をつきさしてくる。
思わず両の手に息を吹き付けたくなってもくるが、それはしない。益々水のつめたさを際立たせるだけだから。こういうときは少しの間我慢して、感覚が麻痺するのを待つことにしている。
慣れたものだな、と思う。こういうときにお湯が出ればいいなあなんて、近頃では感じなくなった。贅沢品とまでは言わないけれど、それでも火をおこして沸かそうとするなら、お湯ひとつ準備するのだって手間はかかる。
「お鍋くらいは気軽に食べたいよねえ」という諏訪子さまのお言葉により、カセットコンロは常備されていたりする。珍しいものを色々置いている、古道具屋さんから買い付けてきたものだった。お鍋自体は、諏訪子さまがお作りになることはないわけだけれど。お鍋と煮物は違うものではないかな、ということを、私が諏訪子さまにお伝えすることはなかった。
洗い物をするのに、私がこれを使ってお湯を沸かしたことはない。でも日常における用途は、勿論そういうことだけの話ではなく。
「早苗ー、おつかれさまあ」
「諏訪子さま。どうされました?」
「ああ、食後の一服でもと思って。お茶っ葉、まだ残ってたよね?」
「そんな。言ってくだされば私が準備しましたのに」
「いいのいいの、早苗は今お仕事中だから。終わったら一緒に飲もうよ」
やかんをカセットコンロの上に載せ、鼻歌まじりにスイッチを捻る。
「やあ、なんとも便利なものだねえ。こんな道具ひとつとったってさ。特別な力がなくても、元になるものがあれば火がつくんだ。奇跡だよね、もうほんと」
奇跡、か。
幻想郷は、奇跡に溢れた世界。溢れすぎているから、いくら己が特別な力を持っていたとして、もう殆どのことは普通に見えてしまう。
ただ、こと日常においては。外の世界にあった道具が眼の前にあるだけで、奇跡になり得る。
「私がお湯を沸かせる奇跡を起こせればよいのですが……あ、すみません」
思わず手で口を塞ぐ。でも、一度飛び出た言葉が元に戻ることもない。
「早苗、だめだよう。早苗の力は凄いんだから。代々受け継いできたものでしょ、もっと自信もつのが吉よ」
「はい……」
「そうそう。お湯なんてこんなの使えば直ぐなんだからさあ」
それぎり、暫しの無言。諏訪子さまが何かおっしゃる訳でもなく、私が他の話題の口火を切るでもなく。ただ、食器を洗う音だけが響く。
私が、小さい頃。奇跡と秘術を教わっていた頃の画が、浮かび始めていた。
儀式の最中、それを見て学ぶ者は、微動だにすることを許されない。
ただ、紡がれる祝詞と、秘術毎に異なる複雑な舞いを、じっと見ていた。
「お、そろそろいいかな」
ぴぃぃ、と、やかんのお湯が沸き立つ音。
私の洗い物も一先ず、かたがついた。
「よし、しょうがないから神奈子にも淹れてやるか」
「お茶請けご用意しますね」
「ん、ありがと。醤油のお煎餅、まだあったかなあ」
湯飲みを準備して、諏訪子さまはお茶の準備にとりかかろうとする。
「あー!」
「ど、どうしましたか?」
「うう、早苗……これ、欠けてる」
「あ」
私が以前諏訪子さまにさしあげた、筆で描かれた蛙が踊っている湯のみ。
その口元のあたりが、ほんのちょっとだけ欠けていた。よくよく見てみると、欠け口からぴしりと大きく皹が入っている様子。こんなものに熱いお茶を注ぐのは、危ないだろう。
「あーうー、お気に入りだったのにい」
「何処かにぶつけてしまったのでしょうかね」
「わかんないけど……折角貰ったのに。ごめんね、早苗ごめんね」
「どうかお気になさらないで、諏訪子さま。また人里に下りたとき、探してみますから。さあ、口の欠けた湯飲みなど縁起が悪いですよ。寄せておきましょう。もう自室に戻りますから、私のものをお使いください」
「え、え、そんなあ。代わりになるものとか……あ、そうだ。蔵にならあるかなあ」
「裏の土蔵ですか?」
「そうそう。あーでも、鍵がどこにあるかわかんないか」
「八坂さまが持ってらっしゃいますよ。でも、いけません諏訪子さま。あすこはみだりに足を踏み入れてはならないと、言いつけられていますから」
「神奈子の言いつけ? だったら私だってここの神様なんだぞう、いいじゃないちょっとくらい」
「あ、いえ。母からの」
「母? ああ、早苗のお母さん……」
諏訪子さまは急に口をつぐむ。
どうしたのだろうか。
母なら母で、ここにおわす神に仕える身であった訳で、諏訪子さまこそ、自身が神様であるという理由をもっと振りかざしていい。
それにしても、いつまでもこうして水場に立っていては、諏訪子さまのお身体も冷えてしまうし、塩梅がよくない。
「お茶請けです。お煎餅と、あと酢昆布も。たまに食べたくなりますよね、これ」
「え、う、うん」
何だか諏訪子さまはきょとんとしている様子だったけれど、とりもあえず私は自室へ向かって歩き出す。
ぱたぱたと屋根を打ちつける水の音。
雨は、まだやんでいない。
障子を開けて、自室へと入り込む。
真っ先に眼に飛び込んできたのは、寝起きのままほったらかしになっている自分の布団だった。
「寝ぼけてたのかなあ……よっこら、せ」
とりもあえず、布団を畳む。そんなに気合が要る作業でもないというのに、思わず「よっこらせ」と言ってしまうのは何故なのだろう。おばさんくさいだろうか、とはあまり思いたくない。もっとも、誰に聞かれている訳でもないのだけれど。
はぁ、と一息ついて、マッチを擦り火鉢に火を入れる。
炭が燃えて、その表面に緋が走る。暖かい。部屋全体があたたまることはないとして、部屋での私の行動範囲は限られているのだから、火鉢の直ぐ傍に居れば済むことだった。
座布団を引いて、机の前に座る。机はもちろんかつて使っていたような学習机なのではなくて、昔読んだ小説にあった書生が使っているような、高さのないもの。造りはそれなりにしっかりしていて、ちゃんと収納も備えられている。
引き出しの二段目。そこは私の大事なものをしまっておく場所。
全部で三段ある引き出しの中で、一番上は大事なものをしまっておくにはあまり都合がよろしくない。手をつけやすいし、しょっちゅう中身が入れ替わる。一番上だけが鍵のかかる引き出しだったけれど、そもそも私は鍵をかけたこともなかった。見られて困るものは、特に入っていない。つもり。
三段目は底が深く、色々なものが入るけれど、それだけに「手にとりたい」と思ったとき、直ぐ取り出せるような性質を持ち合わせていない、と考えている。
これは私が元の世界に居たときの癖であり、今それを当てはめるのはどうなのだろう。でも、まあいいかと思いながら、いつものように二段目の引き出しに手をかける。
中には、薄い緑色をした便箋が入っている。
便箋と言ったら、手紙を書くためのもの。
誰に向けて?
私が私に問いかける。
手紙を誰に向けるのかといわれれば。
いつだってここに居ないひとへ、に決まってる。
『あなたは手紙を書きなさい』
誰に向けて書くのかは、自由にして良いから。そう八坂さまはおっしゃった。
また、思い出している。ぼんやりと、心の中に画が浮かび上がる。
きれいな画だ、とても。
私は、続けている。毎日ではないけれど、たまにこうやって、したためる。
ことり、と。口の欠けた湯飲みを机に置いた。
その場で捨て置いてしまうのも躊躇われたので、そのまま持ってきてしまったものだ。
つん、と、湯飲みの表面で踊っている蛙をつつく。蛙はもちろん、何の反応も見せない。
その身体の真ん中には、大きく皹が入っている。痛そうだ。
母に、手紙を書こう。
向こうの世界に、もう母は居ないけれど。
届けるのが目的ではないから、良いだろう。そう思って、今まで手紙の宛名には、全て母の名が記されている。
躾には、厳しかった。でも、大方はやさしかったその姿が浮かぶ。
母も一緒にこちらへ来れていたなら、どんなに良かっただろう。そんな思いは、もうこの一年で、手紙に書きつくしたような気がする。
弱音にも似たそれを、文字にすることで。かえって胸が締め付けられたこともあったけれど、手紙を書き終えた後は、いつも落ち着いた気分になれた。八坂さまのお言葉に、きっと間違いはなかったのだろうと思う。
父のことは、その面影がほとんど消えてしまっているせいで、よく思い出すことが出来ないでいた。随分と幼い頃に、生き別れていたから。母も、今は。父と供に、居るのだろうか。
便箋とペンを手に取るのだけど、頭にもやがかかってきたように、眠気が襲いくる。
巫女の朝がいくら早けれども、少々それが過ぎたのかもしれない。
朝食を食べて、一息間をおいて。今はお腹に血をとられているのかもしれない。ふらふらする。
そういえば、夜は宴会だったと聞いた。帰りは遅くなるだろうか。
どうだろう、
……
***
『お料理、得意?』
そう、訊いた。
すると八坂さまは胸を張っておっしゃる。
『得意も得意。海の幸は無理であるが、山のものならなんでも来い。煮るも焼くも、思いのまま』
『じゃあじゃあ、茸を使ったお料理教えて。椎茸、沢山もらったんだって。お母さん言ってた』
そう言うと、八坂さまはちょっと難しい顔をなさった。
『椎茸ねえ……あれはどうも……』
困った風な表情を浮かべる八坂さまを見て、私はきょとんとしていたのだった。
抜けるように青い秋空の下。私達はふたりして、石階段の一番上に腰掛けていた。
静かに、穏やかな風が吹く。ふわりと、髪が流される感触。
『親、か。父と母とは、仲良くしているのか』
不意におっしゃったので、少し驚いた。
『お父さんもお母さんも、きびしい。あんまりすきじゃない』
厳しいという言葉は、嘘じゃなかった。
教えられたことは大体うまくやれたけど、ちょっと失敗するともの凄く怒られる。
お前が継がずして、東風谷はどうなると。そう言われると、もう涙が止まらなかった。
躾だって、やたらに厳しかった。
お食事中、ちょっと話をしたかっただけ。でもそれをしたら、行儀が悪いと怒られた。
他にも、色々と。
お説教ですんだらまだましだったけれど、裏の土蔵に暫く閉じ込められたときのことが、ありありと蘇る。
両親は、私を愛してなどいないのではないか。
父も、また母にも見えていないらしい、私の横で腰を下ろしている神様に向けて。私は心の裡を、とうとうと語った。
しばらくして。
『まさに伝えんとするは、一子相伝のものなれば。幾ら厳しくしたとして、過ぎることなどなし』
静かな声で、語りかけられる。
でもその調子とは違って、もの凄く怒っているのがわかった。
思わず、ひっ、と声を漏らして。
それぎり、何も言うことが出来なかった。
『子を愛さない親など、居らぬ。安心せよ』
そしてまた、穏やかな言葉。
はじめてお話をしたときの、あのやさしい顔だった。
『ひとの子とは、真に弱い。それを守る為の親である』
よわい、という言葉に、私はちょっとだけむっとして、言い返した。
『よわくなんか、ない』
それを受けた神様は、眼を丸くされていた。
『随分と自信家なのだな。良い、弱きは恥にあらず。それを見つめ、精進するが良し』
からからと神様はお笑いになる。
あんまり納得いかなかったけれど、それはそれで良いかと思った。
親のことを、ちょっとでも「すきではない」と言ってしまった自分に、少しの恥ずかしさを覚えながら。
母にお料理を教わろうかと。そんなことを考えていた。
『お料理、作ったら食べさせてあげる。椎茸てんこもりにするから』
私が言うと、ぐむ、と呻きながら、神様はまた渋い顔をなさる。
『や、だから椎茸はなあ。匂いとか、食感とか、ほら色々と』
『すききらいは、よくないんだって。これはね、お父さんが言ってた』
『……ほれ、見たか。何の気にも止めていないなら、親は左様なことなど言わぬ』
そんな、他愛ないやりとり。
遠い日、穏やかな秋空の下。
私達は、笑っていた。
***
2.酒と華のある風景
酒宴。
酣、という言葉をいつ迎えるのかわからない宴は、大いに盛り上がりを見せていた。
「……わかったいいから呑め!」
「その切り替えしはどうなのーって思うわけよね、霊夢。こちとら呑んだくれ、好きなだけもう呑んでんだからさあ」
「あー? だったらもう溺れるくらい呑みゃいいでしょ。私だって呑んでるわよ、ほら」
ぐぃ、と一気に手持ちの盃を煽る霊夢さんだった。
おおー、という言葉と共に、賞賛の拍手が送られる。
「そこな鬼。あんまり霊夢をいじめないでくれるかしら? 私の霊夢を」
「んん? なんだスキマ妖怪。いつから霊夢はお前のものになった、ああん?」
「野暮ったいのはいただけませんわ。霊夢はこれからお寝んねなの、私が添い寝してあげるの。あなたが絡むなら、あとは私が引き継ぎましてよ」
「ほーう、言ったな? 弾幕が華とも言うが、ここじゃあお前の言うように野暮にもなるか。いやはや、まっこと酒宴とは面白きもの。人と妖、果ては神も入り乱れ、やりたい放題。酒は旨いし、肉も上等。猪なんて久しぶりに喰ったねえ。さあ紫、霊夢を賭けて勝負といこうじゃないか。勝った方が霊夢を攫おう」
「乗った」
「一寸待て! そいつは聞き捨てならんぜ。親友の危機だ、私が参加しない訳にはいかないな」
「あやややや。魔理沙さん、あなたが待ってください。知り合ってからの月日こそ浅けれど。魅力的なスクープを提供してくれる霊夢さんは、わたくし射命丸文こそが、真のパートナーと成り得るのです!」
「あー、あー。何だっての。何で私が賭けの対象になってるのかしら。とりあえず落ち着け。いいから呑め」
ごくごく、平和な光景だった。
霊夢さんは相変わらず、もてるなあと思う。今まさに渦中に居る筈の当人は、のほほんとしているが。こんなにひとや妖怪に好かれていながら、それでもこの神社に信仰が足りないと眼に見えてわかるのは、一体何故なのだろうと心底考えてしまう。
八坂さまも諏訪子さまも他の方とお話をしている様子で、私はそこから少し離れた位置で、ぽつんと独りで居る。おふたりに不埒を働く輩が居たら、即座に大奇跡を起こしてぶっ飛ばしてやろうと眼を光らせながら。準備なしでやれる自信があると、宴に来る度に思う。
博麗神社、本殿を貸しきっての宴会。
牡丹鍋の方はわりかし好評で、あっという間に売り切れてしまった。
まあ、いつも通りの風景。
ちみりちみりとお酒に口をつけながら、ほぅ、と息を吐く。
そんな折だった。妙に明るい声で、話しかけられたのは。
「なんだいなんだい、独り酒かい? 宴だってのに寂しいねえ」
「へっ?」
陽気な笑顔で近付いてきたそのひとは、なんでもないことのように盃に口をつけながら言う。
「あはは、とは言え、あたいも独り酒なんだよねえ。上司は今日は仕事が多くて来れないって言ってさあ、あたいは寂しいもんだ。独りよりは二人が良いって言うよ、それ以上はまあ……時と場合によりけりかなあ! とりもあえず、付き合ってれるかい?」
「それはいいんですけど、あ、ええと、私あんまりお酒強くないんです」
「いいのいいの。あたいはあたいで呑むからさあ。けど、なぁんかほら。話相手って、いつだって欲しいもんだよねぇ」
「はあ……」
「自己紹介が遅れたね。あたいは小町。小野塚小町ってんだ。しがない死神さあ、三途の川の、舟渡しをやらせて貰ってるんだよ」
「小町さんですね、わかりました。私は東風谷早苗と申します」
「東風谷?」
「え? はい。そうですけど……」
じぃっ、とこちらの眼を見つめてくる。
私はその視線を、外すことが出来ないでいた。
ぞわり、と。背筋に震えが、走る。
死神、という言葉に、生理的な反応を示したのかもしれない。
「ああ、そうそう! 元気そうで何よりだ」
「え、え?」
山で開かれる以外の宴会に呼ばれた数は確かに、周りの方々に比べれば多くない。それでも、その数度に渡る宴において、小町さんとお話したことはなかった筈。
なのに、小町さんは赤ら顔でばんばんと私の肩を叩きながら、笑っているのだ。
「あら、お知り合いなのかしら? おふたりとも」
「おお? どうした、霊夢争奪戦はカタがついたの?」
「サシの勝負で勝ち上がり形式だそうよ。今はほら、向こうで一回戦。私の出番は次」
紫さんだった。
その視線の先を追ってみると、がばがばと盃を空けまくる鬼と人間の姿が見える。萃香さんのお酒のタガが外れているのは既に周知の事実なのだけれど、それに対する魔理沙さんも一歩も引かない。どんな執念なのだろう。が、如何せん無謀すぎる。大丈夫だろうか、と本気で心配になってくる。
「大丈夫よ。ひとの身体は、容易く死を受け入れないように出来ている。ああ、心はわからないわね、気概というものはたびたび理を越えるらしいから」
それは全然大丈夫ではない気がした。
「あの普通の魔法使いは頑張るけれど、それによって己が死ぬことは良くないことであることを知っている。そうね、これはお遊びだもの。死を覚悟することが、常に勇気とは言いませんわ。生きる身なれば、生きてこそ。既に死んでしまっているならば、その形を。そうやって己を保つことで、世界は成り立つのだから」
「なんか大仰なこと言ってるけど、単に酒呑んでる上の話なんだよね」
「あら、酒は良いじゃないの。酒には浪漫があるじゃない? しっとりとした語らいも良し。熱く胸の裡をぶつけあって、怒ったり笑ったり、涙したりするも良し」
「あぁ。ま、そういうのも悪くないか。あたいも酒はすきだもの。でも呑みすぎると、仕事に響くんだよねー」
そのやりとりを、私はぼんやりと聞いている。
ほろ酔い加減だった。
「早苗さん」
「はい?」
紫さんに声をかけられる。深い、深い色をした瞳に、見据えられる。
失礼だ、とは思った。
けれどこうやって見つめられて、背筋に走る悪寒を、感じたのだった。
「あなたは今この場所に、ちゃんと受け入れられているわ。いつか言おうと思っていたけど、一年越しになるなんてねえ。
ようこそ、幻想郷へ」
静かで、淡々とした言葉。
「あ、ありがとうございます……」
胸が、締め付けられる。なんだろうか、この気持ちは。
苦しい、酷く苦しい、
「ああ、ようこそ幻想郷だねえ。ううむ、それにしたって、もう覚えてないかあ。そうだ、明日遊びにきなよ。あー、あたいの仕事場はあれか……来れるっちゃ来れるが。そうだ、再思の道だ。あの入り口辺りで落ち合おう。色々お話しようよ」
「あなたは単に仕事をサボりたいだけじゃないの?」
「あたいが仕事しなくていいのは、むしろ喜ばしいことなんだって。運ぶのは死んじまったやつだけだ。あたいが忙しかったら、それだけ死んだ奴が多いってことでしょ?
ほら、あたいは運ぶ量より質、一回一回の舟渡しで、じっくり会話を楽しむのがすきなんだ。生きてる輩と話をするのも、悪くないじゃない」
「はあ、まあ。物は言い様ってやつかしら。閻魔さまに怒られないようにね……さて、そろそろ出番のようね、魔法使いはやっぱり潰れたか……あら、萃香も駄目みたいね。まあ、元々呑みすぎてたし。随分粘ったみたいじゃない。じゃあ私は、天狗を蹴散らしてあげないと」
あいつ強いのよねえ、と。溜息混じりに言う紫さんの顔は、あくまで真剣。
ちなみに、霊夢さんはごろんと床に転がって、既に眠っているようだ。
「告げ口は勘弁して欲しいもんだ……そんじゃあたいも、切り上げようかな。また明日ね、待ってるから」
「え、は、はい」
あれよあれよと言う間におふたりは私の元を離れ、また独りになってしまう。
小町さん。不思議な方だ。
私の記憶は曖昧だけれど、小町さんは私のことを知っている。
何処で。何処で会ったのか?
くぅ、と。胸を締め付けられる感じは、一向に収まる気配がない。
小町さんが別れの挨拶を他の方々に残している間、去り際の紫さんは一言残していった。
「居るべき者が居て。我が愛する幻想郷は、今日も平和ね」
平和。それは穏やかな響きをした、言葉。それがいちばんだと、知っている。
でもその言葉を受けた私はと言うと、何時の間にか袂に手をやり、ぎゅうとそれを握り締めていた。
「早苗、大丈夫?」
「あ、……八坂さま」
どっかりと私の横に腰を下ろし、片膝を立てられる。座るときは一番この姿勢が楽なのよ、という言葉を、常日頃聞いていた。
「あいつに、何か言われたの?」
「え……?」
八坂さまの目線の先には、喝采を受けながら天狗と飲み比べをしている、紫さんの姿があった。ものすごい勢いだった。
あんな調子じゃあ、いつ潰れてしまってもおかしくない。そんなことを思う。
「まだ早いわ」
ぽつりと、八坂さまはおっしゃった。
「え、ああ、すみません」
「うん? 何で謝るの……まあ良いわ、私達も呑みましょうか。ああでも、あなたは呑み過ぎたら駄目よ」
「はい、大丈夫ですよ。それほど呑めないと、自覚しておりますから」
「それがたまに、厄介なことになるんだって」
八坂さまの盃に、とくとくとお酒を注ぐ。さて、私の分は自分で、と思ったが、八坂さまに止められた。両の手に盃を持ち、ほんのちょっぴりだけ、注いでいただいたのだった。
「早苗、今日はお出かけ?」
いそいそと出かける準備をしている最中、諏訪子さまにお声をかけられる。
「はい、お昼までには戻ってきますから」
「ん、了解。早苗、お酒残ってない? 私もう、頭痛くって。神奈子がね、情けないなあ、ってさあ。あいつに言われたくないったら」
こめかみに手を添えながら、諏訪子さまはおっしゃった。
あんまりお酒に強くない塩梅は私とよく似ていて、共感も覚えるところは多々ある。
私はというと、先日の宴会では、それほど呑み過ぎることはなかったから、普通に今朝も眼を覚ますことが出来た。
本日のお食事担当である八坂さまの朝食には、具沢山の、お味濃い目のお味噌汁が出されていた。
「二日酔いにはこれが効くんだって」というお言葉の元、私も以前お世話になったことがある。
なんだかんだと言いつつも、八坂さまはお酒に弱い私達を、気にして下さっているのだろう。
「大丈夫ですか、諏訪子さま。それも暫くしたら、落ち着きますから。今はそうですね、熱いお茶など飲まれると良いですよ。湯飲みは……また私のを使ってください」
「わかった、甘えることにするよ。そんじゃ早苗、気をつけてね」
「はい、いってきます」
地を蹴って、空へ飛び立つ。
空は先日の雨を引きずっているのか、今日もどんよりと曇っていた。
再思の道。
そんな名前で呼ばれている、どこか裏寂しい感じの場所に、私は降り立った。
もう萎れてしまったらしいたくさんの花が、道脇にて頭を垂れている。
彼岸花であるな、と思った。今のような冬ではない、相応しい季節に。それらは紅い、紅い花をつける。単純に、うつくしい花であるなと私は思う。
その花は、毒を持つらしい。
誰かが食べようとしたのかどうかはわからないけれど、とりもあえず、「毒」を持つ故のうつくしさがあるのかもしれないと、曖昧に考えていた。
「おお、来たねえ。こっちこっち」
「あ、小町さん。おはようございます」
「おはようさん。時間は決めてなかったけど、朝っぱらから来るとはねえ。ま、あたいは気にしないよ。こうやって会えたってことは、それだけ頃合が良かったってもんだね」
言いながら、小町さんはからからと笑った。道端に、ふたりして腰を下ろす。
「はあ、ここも今の時期だと寂しいもんだねえ。秋頃には、彼岸花がいっぱい咲いてさ、そりゃあ綺麗だよ」
周りを見渡しながら、小町さんは言う。
彼岸花、自体の縁起はそれほど良いものではないのかもしれない。でもこの道一杯にそれらが咲いたなら、なるほど確かに綺麗だろう、と思う。
朝は仕事始まりなのに、どうしてここに居るのでしょうかと。そんな類の突っ込みは一旦引っ込めることにした。私は私で、お昼くらいまではこの場で待とうとしていたのだ。お腹を空かせていたら一緒に食べようかと思って、ちょっとしたおにぎりなんかを差し入れとして携えてきたくらいだった。
そんな私を尻目に、小町さんは続ける。
「大丈夫大丈夫、時間はたっぷりあるってば」
時間は兎も角、自信はたっぷりである。何処に根拠があるかは、しらない。
私はと言えば、今日は境内の掃き掃除は終わらせたものの、何だかお天気がよろしくない塩梅だったので、お洗濯についてはまた明日に見送っていた。だから、本日午前中のお役目は、終了したことになっている。お食事は、八坂さまが担当であるし。
「おお? なんだこいつ、時違いだ」
「え?」
「ほら。花、咲いてる」
小町さんが指差す先に、紅の彼岸花が一輪、ひっそりと咲いていた。
「こんな場所じゃあ、時間もよくわからないってか。周りに合わせて咲けば良いものを」
言いながら、小町さんはその花を、やさしげな手つきで手折る。
「あげるよ」
「え、え?」
「何、この花は放って置いても、さみしく枯れるだけだから。あんたのとこで、活けてやってよ。あたいがやってもいいんだけど、そういうの柄じゃないからさあ」
「はい……ありがとうございます」
「いえいえ。とりもあえず、一旦お近づきの印ね。色々お話したかったのよ。東風谷早苗、あんたとさ。あれからどうしたのかなあ、とか」
まただ。
やはり、小町さんはどこかで私と、会ったことがあるようだ。
「すみません、お気に触ったら本当に申し訳ないですけれど」
何処で、
「何処かで」
いつ、
「もっと前に、お会いしたことがあったでしょうか」
真面目な問い掛けだった。
自分でわからないと思ったことは、きっと幾ら考えたとて、わからない。
ならば、訊いた方が早いに違いない。
そう、思った。
「うーん、そうかあ。やっぱり忘れちまってるんだねえ。うん、それはそれで良いことかもしれないけど。今こうして、話が出来るんならさ。あの日、追い返されて良かったんだ」
あの日。
あの日とは。
どの日のことを、言っている。
眼の前が、暗くなるような心地。
このまま尋ねても良いことなのか?
だめだ。やっぱり訊かないほうが良い。
私が、私に叫んでいる。
この「私」は、一体誰だ。
「……小町さん、朝ご飯、食べましたか? ほんとは、お昼用に持ってきたんですけど、……おにぎり、もってきたんですよ」
「うわ、ありがとう! あたい朝飯抜きでさ、お腹ぺこぺこだったんだ。ありがたく頂くよ、死神でも腹が減るって変だよねえ、ほんと」
死神。
このひ方は、その名の通り、死の神である。
そして。
もうこれ以上暗くなることはあるまいと思っていた、私の心の中。
それを更に塗り潰してくるのは、この場に現れた、新たなる声の主だった。
眼の前の空間が裂けて。
私は声をあげることも、出来ない。
「本当に、朝っぱらからサボってるのねえ。告げ口するつもりはないけど、もっと働いた方が良いのではないかしら?」
「げ。その辺についちゃ、もう昨日言ったつもりだったんだけどね。いいんだよ、あたいは霊を運ぶ。ぎっこらぎっこら、舟を漕いでさ。今日はまず、生きてる輩とお話するって決めたんだ。今だよ、今決めた。余計な口出しは野暮ってもんだ」
「はあ。じゃあこれも昨日言ったけど、物は言い様っていうのを地でいくのね、あなたは」
裂け目から、上半身だけを覗かせながら、紫さんは言う。
どうして。
どうしてまたここに、紫さんが居るのか。
また? 「また」ここに?
「どうもねえ、やっぱり忘れてるみたいなんだよねえ」
「そうね、忘れているみたいよね」
小町さんは、あくまで気楽に。
紫さんは、どこか含みを持たせた様子で、言う。
「説教する気にもならなかったよ、まあ、あたいもサボってたから、会えたクチなんだけどさ」
「居るべきでない者は、なるべく追い返すようにしていますわ。眼が届かない場合もあるけれど」
「そうしてくれると、助かるね」
たすかる。
なにが、助かるのですか、
「東風谷早苗。あなたはそろそろ、思い出すべきよ。あの気さくな山の神は、まだ早いと言った。そして、あなたは弱いと。でも、私はそうは思わないわ。
あなたはこの幻想郷に来て、もう大分時が経った。一年なる時は、ひとにとっては、それなりに長い期間なのでしょう? ただでさえ、あなた達には寿命がある。でもそれすら、例えば私にとっては、酷く短いものよ。私は、もっともっと途方もない程の時を、過ごしてきた。その一瞬で交わる縁。一瞬だからこそ、大切にしなければならない。そう思いますわ。
あなたは、かつてここへ来た。何故やって来たのかという理由に、向き合いなさい。
あなたの記憶。あなたの思い出は、きっと形として残っている。大事な場所に、残っている」
眼の前の空間に、裂け目が入る。
「さあ。全ては、この先に」
逆らうことなど、出来なかった。
「大丈夫だよ」と。小町さんが私に笑いかけたのを見たが最後。
裂け目の中に吸い込まれ、視界は、暗転する。
***
『どうして、そういう話し方をされるのですか。なんでしょう、仰々しいと言いますか』
またある日、言ってみた。
もう、この神様。八坂さまとお話するようになって、随分時が経った。
言葉を交わす度に思っていたのは、その厳かな塩梅の口調と、穏やかな顔の表情が合っていないということだった。
『神様とは、こういう話し方をするものだろう?』
ぐぃ、と盃を傾けて。
ほんのりと頬を紅く染められていた八坂さまは、お困りのようだった。
『いえいえ。もっとこう、親しみを込めた方が良いと思います。私の八坂さまに対するお話の仕方は、変えようがありませんけれど』
『童のころは、結構気さくな言い方だった気がするなあ。あれはあれで、嫌いじゃなかった』
どこか懐かしむように、八坂さまはおっしゃった。
『……とんだご無礼を。ええと、兎も角ですね、これから信仰を増やしていこうとお考えならば、お話がしやすい塩梅に越したことはありません。八坂さまは女の神なのですから、それに合った話し方をされては如何でしょう』
ふむ、と、ひとしきり考えた様子で、八坂さまは何度も頷いていた。
『そうか、……いや、うん。そうね。普通に話す方が、言う方も聞く方も、楽ってもの。
ありがとう』
そうして、八坂さまはにっこりと微笑まれた。
『神も、変わっていく時代なのね』
その視線は、遠く彼方に光る月を、見つめていた。
秋の香りに包まれた、静かな夜。
酒が呑みたい、という八坂さまのお言葉を受けて、私はその用意をしていた。
虫の音が響く、夜の縁側。私達は語らいながら、盃を傾けている。
八坂さまが呑まれる量は、大層多い。
『この酒、美味いわねえ。ほら、もう一献』
『はい、いただきます』
ちみりちみりと、舐めるように口をつける。確かにそれは美味しいと感じていて、少しずつではあったけれど、もう大分、ほろ酔い加減だった。八坂さまに、口調云々について語ることが出来たのも、多少この勢いを借りたもの。
『そういえば。あれはどうしたんだっけ? あの許婚』
『え? はあ……まあ。いずれ、結ばれると思いますよ』
仰々しい口調がなくなったと思えば、話題も途端に俗っぽくなったような気がした。
私には、親が既に決めていた、許婚が居た。それを私に言付けた両親は、もう。
この場所に、この世に、居なかった。
『ははぁ。でも良いの? 親の取り決めでしょう。他にすきなひと、居ないの』
『謀が如く、既に決められていたこと……それが遺言ともなれば、更にその重みも増しましょう。けれど良いのです、八坂さま。私はあのお方を、……そうですね、ええと……
好いて、おりますから』
顔が紅くなるのが、自分でよくわかった。勿論、それは酔いのせい等ではなく。
『言うじゃないの! にくいねえ、酒のつまみには、まさにこういう話が華よねえ。ほらほら、私はもう呑んだわよ?』
『からかわないでください! ああもう、私にもください、お酒』
『あげるあげる、幾らでも』
ひたすら陽気に、呑んでいたのだと思った。
普段思っていたことを、ここぞとばかりに、八坂さまにぶちまけたことは、ぼんやりと覚えていて。
その次の日、八坂さまにお顔を合わせると。
『はあ……参るわね。もう、呑ませすぎないようにするわ』
何処かげっそりとした表情を、浮かべておられたのだった。
***
3.夢と現の風景
ここは、何処なのか。
眼の前は、本当に暗く。
果てしない場所という訳でもなさそうで、手を伸ばせば、壁のようなものに触れることが出来た。
部屋? ……としても、窓も備え付けられていないらしく、僅かな光もない。
埃っぽい空気に、何度かむせてしまう。
すん、と匂いをかいでみると、なんだか懐かしい場所のように思えた。
「土蔵の……中」
確信に近いものを得る。今私が居る場所は、境内の裏にある、土蔵の中だった。
紫さんも、小町さんも、ここには居ない。私が吸い込まれた裂け目も、もうない。
幼い頃の記憶が、蘇る。
何をしたのだったか。
私は母に言われ、ここに閉じ込められたことがあった。
この暗さだけは、鮮明に思い出せるというのに。その理由がどうしても思い出せない。 ただ一度だけだったけれど、私はただ独り、ひっそりとここに佇んでいたのだ。
そうだ。
しばらくこの場所に居て、その日も雨が降っていて、土蔵の屋根をぱたぱたと雫が打ち付けていたじゃないか。
今の、ように。
がちゃり、という重い音と共に。扉を開け、私を迎えた母。
なんでもなかった、と応えた私。
その時泣いていたのは、母ではなかったか。
それ以来。母は私に、この土蔵へみだりに足を踏み入れてはならない、と言った。
「……」
眼が暗闇に慣れてきて、ぼんやりと周りのかたちを捉え始める。
そこかしこに転がっているのは、祭具。
山の神様を祀るためのそれらが、ひっそりと佇んでいる。
「あ」
どくん、と。鼓動が一際高く、打つ。
祭具の中に紛れて。
布に覆いかぶさっている、それは。
私がかつて使っていた、机。
元の世界に未練が残ってはいけないと。
もう殆どのものは、私が捨てた筈だった。
何故それが、ここにある。何故こうして、残っている。
「う、ああ」
深い暗闇の中にあった、画。
心の中にあった画に、皹が入る。
ぴしり、ぴしりと音を立てながら。
硝子が砕けるように、それは粉々になった。
真っ暗な向こう側に。
新しい何かが、浮かび上がり始める。
いやだ。
みたくない……
きれいだった画は、もう見えない。
そう、その画。
今の今まで、私のものだと思っていた記憶は。
あまりにもきれいで、私にとって鮮明すぎた。
まるで、私ではない誰かが、描いたもののように。
机に向かう。
かつて使っていた、引き出し。
私は、大事なものをしまっていた。
その引き出しの、二段目に。
「あ、あああ!」
手紙があった。
二通、あった。
誰に向けて、書いたものか。
手紙を書くのは。いつだって、自分と遠く離れた、誰かのために。
暗闇に浮かぶ文字。
封筒の表面。
ひとつには、何も書かれていない。
もうひとつには、「早苗へ」と。
そう、記されている。
暗い。
これ以上の闇が、あるというのか。
その暗がりの中で、白いひかりが、ちかちかと星のように輝いた気がした。
身体中から、力が抜ける。
私は思い出す。夢を見るように思い出す、
――
私は、いつもそうしていたように、学校へ通っていた。
視線は、随分と懐かしい風景を映し出している。
でも私はそんな景色を見ているだけで、声をあげようとしても、それが口から出ることはない。
それもそうだ、と思った。
この画の中の私は、今の私ではないのだから。
母は、重い病に臥していた。
学校なんて休んでもいい、と私は言った。でも頑として母はそれを許さなかった。
何でもないように歩き回って、私に笑顔で話しかける。
はじめは、ちゃんと入院していたのだけれど。
母はその意志を以て、自分の暮らす場所に戻ることを望んだのだった。
お食事は、時々は私が作り。
けれど中々うまくいかないのが、もどかしかった。
母にお料理を教わったことなど、なかったから。
仕方ないわね、という言葉を受けて、私はお料理の手解きを受けていた。
それでも、中々上手になった気がしなかったのだ。
そんな日々が、しばらく続いて。
そう、私が母からお料理を教わった時間は、本当に短かったと思う。
雨。
夏が終わり、そろそろ秋が顔を覗かせようとしていた時分、確かに雨が降っていた。
いつものように、急ぎ足で家路を急ぐ私が居た。
帰りが、随分と遅くなってしまった。その日は元々お天道様の姿を見ることは出来なかったけれど、夜になれば一層闇は深くなる。
『みたくない』
私は叫ぶけれど、その日の私の足は、やっぱり止まることなどない。
「ただいま」
脱いだ靴をきちんと揃え、母の元へ向かう。
「お母さん?」
母がいつも寝ている部屋の障子を開けるが、姿が見えなかった。
「……お母さん?」
不安だった。どうしようもなく、不安だった。
とりあえず、屋内をあらかた探し回ってみたけれど、その姿を見つけることは出来ず。
本殿にも居ない。
残り、探していない場所は、……
まさか、それはあるまいと。
そう思いながら私は、裏の土蔵へと、足を向ける。
ざぁざぁと振り来る雨の中、私は傘もささずに駆けて、土蔵へと辿りつく。
いつもかけられて居た筈の鍵が、外されていた。
この中に、母が?
その扉に、私は手をかける。
少しだけ、開いたところで。
私は、はたとその手に力を込めるのをやめた。
声が、聴こえた。
雨の音に混ざっていても、確かにそうだとわかった。
「天罰、でしょうか」
母は、そう、言っていた。
***
『天罰、でしょうか』
そう、言った。
思えば、自分が娘に対し、良き母であったのかどうか、わからない。
私が受け継いだ、一子相伝の秘術。
それを伝えようとした時。あの娘は私以上に筋が良くて、幼い頃からほとんどのことを理解してしまっていた。
私と八坂さまが、初めてお話をした、この土蔵。
神と縁のある祭具が、沢山おさめられている、この場所。
思えば、私の人生は、八坂さまと共にあった。
『……病に臥すのが、天命だったとして。その罰は、誰が下したというの』
かなしそうな声で、八坂さまはおっしゃった。
『早苗は私が授かった、最愛の娘。でも、八坂さまのお姿をはっきりと見ることは、出来ておりません。元々神に対する信仰が足りないのかどうかは、わかりませんけれど。あの子は、根が真面目です。そして何処か、冷めている。己の常識から外れたものに、眼を向けようとする心は、ないのかもしれません。
私が八坂さまと出会った、この場所。ここならばと思い、放り込んだこともありましたが、駄目でした。ですから。あなたのことを伝えられなかった、罰があたったのかと』
『我は左様なことで、罰を下したりなどせぬ!』
本当にお怒りになった様子だった。
そのお姿は、光が少ないせいもあったが、とてもおぼろげに見えた。
『ふふ。また、口調が戻っておられますよ』
『ん、……』
私はもう、死ぬだろう。それだけは、どうしようもなく、わかっていたことだった。
死に対する悲しみはほとんどないと言うのに。
娘のことだけは、どうしても気にかかる。
残された娘は、たった独りで、どう生きる?
『八坂さま』
『……うん?』
『信仰は、儚きひとのために。そう申しますが……神もまた、その信仰なくしては、姿を保つことが出来ないのでしょう?』
「そうね、……今が時勢、神を祀る心は、ほとんど失われたと言っていい。私もいずれは、それこそ儚く消えるだろうね』
八坂さまは、さみしそうな声でおっしゃる。
けれど。今、そうやって居なくなってしまわれては、いけない。
せめて。
せめて娘も私のように、八坂さまに。
いや。八坂さまたちに触れ、お話をすることが、出来たなら。
『私とて、お話をすることはついに叶いませんでしたが。ここにはもう一方、神様がいらっしゃいますね』
『……居る。私の友人だよ、大切な。けれどあいつは、色々と気にしない性質だからね、本殿から出ることなんてありゃしない。信仰が儚くなるならば、それはそれであると。いつ消えても良いと思っている口だ。楽しいことはすきらしいが、大体のことは、事なかれであると考える。そういう奴だよ』
『そうですか。そのお姿を拝見することが出来なかったのは、残念ですが。それは娘に託すことにいたします。
私の。私の生涯をかけた信仰を、あなたがたに捧げます。されば、娘もおふたりの姿を、捉えることが出来ましょう。
もう、娘に言葉は遺しました。東風谷が秘術、とくとご覧あれ』
我が奇跡を起こすとき。まさに風雨は吹き荒れん。
思えば。
己が奇跡を起こすことが出来たのは、ここにおわす神様の力を、借りてこそ。
その力を、今こそ返すべきだと。
残り短き、我が命。神様と共にあった、我が人生の軌跡。その全てを、かけて。
娘は、その身で起こしていた奇跡を、全て自らの力に拠るものと思っている。
見ているのでしょう、早苗。
しかとその眼に、焼き付けなさい。
あなたの力は。神様がお傍に、居てこその……
『八坂さま。あの娘は、私に似て弱いのです。どうか、どうか……早苗を、よろしくお願い致します』
***
母が祝詞と共に舞い、その身体から光を放っていた最中。
私は、微動だに出来なかった。
それは、私が教わったことのないもの。
ひとつも、ただのひとつも見逃さず、聞き逃すまい。
そう思いながら、じっと、見守っていた。
稲光が、走る。
びくり、と震え。
ついに動かすことの出来た身体を、その光の方へ、向ける。
ぶ厚い雲は、全く消えていない。
私はその光を、星であると思った。
時は夜であるというのに。
昇り行く星は、あまりにも明るすぎた。
その光が、消える頃。確かに聴こえていた声は、途切れた。
その時、私にはわかってしまった。
母はもう、この世界から、居なくなったのだと。
『早く、早くその扉を、開けて!』
叫ぶ、私は、私の中で、叫ぶ。けれど、記憶の中の私は、ついにそれをしない。
「……」
雨にずぶ濡れながら。
私はふらふらと、土蔵を離れていく。
自室。
使い慣れた私の机の上には。
私宛の封筒が、置かれていた。
私はそれに、眼を通すこともしない。
だって。
私はこれから。
母の元へ、直ぐにでも追いつくのだと、思っていたから。
「待ってて、お母さん」
言葉を遺す。
遺したところで、誰に読んで貰えるのか。
気にするのも、馬鹿馬鹿しいと思っていた。
私は、私の遺書を、したためて。
母の遺書とともに、引き出しの二番目の奥へ、しまいこんだ。
どうせ、誰も読まない。
そのまま、また外へ出る。
雨は容赦なく、身体を冷やしてくる。
冬にはまだ届かぬとて、秋の入り口の空気に、がたがたと身体を震わせていた。
でも、それで良いと。
そう思っていた私の足は、止まらない。
一瞬。
強い光の後直ぐ、激しい音が響き渡る。
落ちた雷は、随分と近いものだったらしい。
そして、私は見たのだ。
山道の最中。地面に、闇よりも暗く、大きな穴が開いていた。暗く、深く、真っ黒に。
それは確かに、雷鳴とともに浮かび上がっていた。
『駄目!』
再びの落雷の元、私の声は掻き消される。
ここにしよう。
そう思ったあの日の私は、穴に向かって、身を投げ出す。
そうだ、私は。
そうやって、死のうとした。
そこからはもう、画はぼんやりとしか見えない。
無作法に打ち立てられていた、墓のような石の数々。
幽鬼の如く彷徨い歩き。辿り着いた先で見たのは、紅く紅く咲き誇る、彼岸花。
そこで私は、出会った。
彼岸花と同じ様に、紅い色の髪をした、誰か。
そして。
空間を割るようにして現れた、誰か。
『あなたはまだ、ここに来るべき者ではない』
その声が、大きく響いて、
――
『早苗』
声。
『早苗……』
私を呼ぶ、声。
「あなたは……誰ですか」
『……我こそは、八坂神奈子。神様である』
降りしきる雨の中。
抱きかかえられていた私の身体は、その温もりを感じていた。
『早苗、あなたは弱い』
本当だ。
全く以て間違いのないことだ。
そう思う。
『……私があなたの母の代わりになるなど、おこがましいかもしれない。けれど、確かに託されたのよ』
『あなたにとって、きっと重過ぎたのね。ひとの心は、一度に多くのことを取り入れすぎると、壊れてしまう。今は一度、あなたがしたことは忘れなさい。そしてゆっくりと、いつか思い出せばいい』
『ねえ、早苗。私達は、いつもあなたの傍に、居るのだから』
『早苗……』
そんな声が、
……
4.風景、まぼろしになる
声が、……
「早苗!」
声が、聴こえる。
「ん、……八坂、さま? ……諏訪子さまも……」
暗闇の中、眼の前に居るお姿は、捉えることが出来た。
抱きかかえられているようだった。身体うまく、力が入らない。
「馬鹿! 早苗の馬鹿! お昼前には帰ってくるっていったじゃない! 私も神奈子も、幻想郷中探し回ったんだから!」
「早苗。今はもう夜よ。大丈夫? 身体、どこも痛くない?」
「……」
何を。
何を返せば良いか、わからない。
私は、思い出した。
己がかつて、何をしたのか。
どうやって、八坂さまと、出会ったのか。
「早苗、あなたは思い出したのね」
「……わたしは」
「うん?」
「私は、弱いです」
まざまざと、実感する他、なかった。
私は、世の全てから逃げようとしていたのだから。
「……何度も言ったじゃないの。あなたは弱い、神と呼ばれ、実にあなたは神になれども、早苗は母から生まれしひとの子。でも、今の早苗は、あの日の早苗ではない。あなたはまた少し、強くなったのかしら。
こうも、言ったでしょう。いつもあなたの傍に、私達は居るからと。
だから早苗も、私達と共に在って欲しい」
その言葉を聞いてから。私は、泣きに泣いた。八坂さまの胸に顔を埋め、子供のように泣き喚いた。ごめんなさい、ごめんなさいと、叫びながら。
八坂さまも、諏訪子さまも。私と同じように涙を流されていた。
そうやって、ひとしきり泣いたあと。
私は両の足で、しっかりと地を踏みしめる。
「すみません、ちょっとここで、待っていてください」
「え……どうしたの?」
「直ぐに済みますから」
自室へと、駆ける。とってこなければならない物が、あったから。
雨は、もうやんでいた。
「これを……」
息を切らしながら、私は土蔵へと戻る。
手にしていたのは、私が今までしたためた、母への手紙。普段火鉢に火を入れるために使っていた、マッチ。そして、口の欠けてしまった湯飲みに、水を注いだもの。
「早苗?」
「私は、かつて逃げたのです。私はあの日、母の亡骸を抱え、その死を見つめなければならなかった。それを出来なかったのは、私の弱さ故。
……今なら、大丈夫です」
懐から、花を取り出す。小町さんが手折ってくれた、彼岸花。
茎が少し長すぎたから、もう少しだけ折った。それを、水の満ちた諏訪子さまの湯飲みに挿し、机の上に置く。
手向けとしては、随分と遅い。母の亡骸は、ここにはもう、無いけれど。
こうするより他は、なかった。
静かに、手を合わせる。
そして。次に私のすべきことは。
「それで良いの? 後悔はない?」
「後悔は、この先もすることがありましょう。私は、弱い人間なのです。でも……」
でも。
「こうすれば、きっと。母の元に、私の言葉は届きます」
今までしたためてきた、沢山の手紙。
土蔵の外に出て、私はそれらを燃やす。
母の遺した言葉に、眼を通してから。かつての私の遺書も共に、炎の中へ投げ入れる。
一度は止まった筈の涙が、また溢れ出していた。
でも、安心してお母さん。
私はこうして生きている。神様であるおふたりと共に、生きているからと。
そう、思いながら。
ちら、ちら、と。
火の粉を上げ、紙は燃える。
あの日見た、星のように。
その光は強くなけれども、確かに空へと昇っていく。
曇天は消え去り。
見上げれば、満天に瞬く星がある。
私は昇りゆく火の粉を、まるでたましいのようであるな、と思う。
だから。きっと母の元に、届く。
そうやって。
冬空の下、ずっとずっと、その様子を見続けていた。
いずれ私も、そこへ行きます。
今直ぐでは、ありません。
でも、いつか来るその日まで。
どうか、待っていて。
お母さん、
……
***
『行くのですか』
そう、私は言った。
八坂さまは何処か神妙な顔をされてから、静かに頷く。
秋風が吹く頃。今にも雨が降ってきそうな空の下。もうこの身に、その風を感じることは出来ない。
己の全てを捧げた信仰も、壮大な世の中の流れでは、微々たるものであったことを思い知る。
でも、それでも良い。私の娘は、ここにおわす神と向き合い、お話が出来るようになった。
『幻想郷へ、行くわ』
『幻想郷』
『そう。あすこは、この現代で失われつつある神への信仰が、流れ込んでいるに違いない。そこで上手くやれれば、私達は姿を保つことが出来る筈だから。
今、消えてしまう訳にはいかない。早苗も、それに納得してくれた。第一、曲がりなりにも、あの娘は神と呼ばれたのだもの。この世界で信仰が消え果ててしまったら、早苗自身がどうなるか、わからない』
『……』
そうかもしれない、と思う。この山の神に対する信仰が消え、風雨を起こす奇跡に対する信仰が消え。娘は、その時どうなってしまうのだろう。
『そういえば、諏訪子さまはどうされました』
『あいつ? 多分寝てるんじゃないの、本殿で。結局、あいつは隠れてばっかりだった。外に出る気なんて、ないんだよ。そもそも、何にも気にしてないし。だから今日のことも、何にも教えてない。向こうに行ってから引っ張り出して、早苗には紹介しとくから』
『そうですか、……』
この神社にいらっしゃった、もうひとりの神様。
実の身体を無くしてから、一度だけお話をしたけれど、随分幼い印象で、驚いてしまった。娘は、どう思うだろう。
『幻想郷……私も、行きたかったですねえ』
『ついて来れるんじゃないの?』
『そろそろ、引っ張らてれるような気がしているのですよ。これが、あの世の力というものなのでしょうかね。もう、長くは留まれません。だから多分、このままついて行くことは、出来ないと思います。
でも。きっと命果て行き着く先は、その幻想郷と、この世界と。変わることはないでしょう』
『そんなものか。全く、神だというのに、そういう処はほとほとわからない。ああでも、幻想郷という奴は、死後の世界と繋がっているらしいわよ?』
『……そうですか。娘とも、いずれ会う日が来ます。それまで、どうかよろしくお願いいたしますね。あの娘は、弱いですから』
『そうね、あなたに似て』
八坂さまは苦笑いをされながら、おっしゃる。
『本当に、似てるわ。早苗が私に気付いてからのやりとりは、あなたの若い頃との会話を思い出す。そうねえ、ほんと瓜二つよね、今のあなたと』
私の魂は。
身体が朽ちてしまって尚、この場所に留まっている。
今の自分の姿は、一番力が強かったと思えた頃のかたちを、為していた。
『そうですか?』
『そうそう。私に料理作ってくれるんだけどさ、何で椎茸使った料理なんて教えたのよ。あれ、苦手だって言ったことなかったっけ?』
『好き嫌いは、良くないのです。父の言いつけでしたから』
『父ねえ。ま、玉子焼きの味付けが甘いのは、良かったね。ああ、あと。酒はあんまり呑ませすぎないようにするよ……弱い弱いって言いながら、美味けりゃかぱかぱ呑むってのは、本当に厄介なんだ。あんなに絡まれたのは、多分初めてだったってば。また繰り返したくないから』
そうして、私達はまた笑って。
ふと、父、という言葉に、夫の姿を思い浮かべる。
娘にとっての父は、ほとんど記憶に残ってはいないのだろうな、と思った。
『ありがとうございます、私の亡骸を、夫と供にしていただいて』
もう随分前に、私と娘の元を去った夫は、山の麓の墓地に埋められていた。
今、かつての私のものであった、身体。
その骨は、夫と供にある。
『……あの娘には、幸せな恋をして欲しいですね』
『恋』
『私は、幸せでしたよ。でも、それも短かった。妻と幼い子をおいて先立ってしまうようなのは、いけません』
今在る私が、過去に向かって言葉を投げても、届かない。
死なないで、と幾ら叫んだところで、事実は変わらない。
でも。未来に向けてなら、それも許されるだろう。
女手ひとつで、娘を育ててきた。
厳しく接しすぎたことも、あったかもしれない。
『八坂さま』
『うん?』
『私は、……早苗にとって、良き母であったでしょうか』
八坂さまが、私の眼をじっと見つめる。
私もその視線を、逸らさない。
初めてお話をした時のような、穏やかなその眼を。
『早苗は、ちゃんと愛しているよ。あなたが娘に向けて思うのと、同じ様に』
その言葉を。
他の誰でもなく、私はこの方に、言って欲しかったのかも知れなかった。
『……ありがとうございます。それにしても、死の際ではなくとも、走馬灯とは見えるものなのですね』
『走馬灯』
『ええ。もう命なきこの身なれど、私は思い出していましたよ。八坂さまと初めて出会った頃のことから。色々なことが、ありましたね。何処か、一枚の画に似ているのです。でも、額縁におさめられたそれのように、静かに留まっているのではありません。動き、音を発し、匂い立つ。ぱらぱらと流れ行くそんな画を、私は、見ていました』
私の描く画は、これ以上増えることはない。
いずれ掻き消えるそれらは、まぼろしにも、似ていた。
八坂さまとのやりとりの最中。
本殿より、娘が駆けてやってくる。
その瞳に、私の姿が映ることはなかろう。
「八坂さま、準備が整いました」
「ありがとう」
娘と八坂さまのやりとりを、私は眺める。
私の命が尽きた日。
娘もまた、命を絶とうとした。
でも、今こうして、声を発している。
言いたいことは色々あるけれど、もう今、それを伝えることは出来ないから。
いつか娘が私の元にやってきた時、さんざんお説教してあげることに決めた。
それから、抱きしめよう。強く、強く抱きしめよう。
そうして、八坂さまは言葉を残し、本殿へと戻った。
さようなら、そう言ってはいけないと。
それじゃあ、また、と。
だから私も、さようならとは、言わないことにする。
また会える日のことを、待つことにする。
娘がこの場に、立っている。
遠くの景色を、見つめる娘。
何を思っているのかは、わからない。
ただ娘は、黙っていた。
もう、私が暮らしてきたこの神社は、違う世界に行ってしまう。
我が魂、儚くなり。神様と娘は、まぼろしになる。
早苗。あなたは私の元へ来るのは、まだ早い。
本殿へ戻ろうとする娘へ向けて。
私は一言だけ、遺す。
待っているから。
だから、いつか来る、その日まで。
『生きなさい、早苗』
最初はよく分からなかったんですが、読んでいく内にそりゃもうぐいぐいと。
実家を離れて早幾年、明日母に電話してきます。
それがゆっくりと染み入るように伝わってくるのが気持ちいいです。
素晴らしかったです
ありがとうございました。
最初長え!と思いつつも読み始めたのですが気がついたら読み終わってました。
素晴らしい。