夢と現実を同列に考える。その考え方が、私を私たらしめる。私が私を肯定する。私の主観で、私を私と感じる。
だからこそ、私は夢を虚構を全てをひっくるめた現実を、受け入れざるを得ないのよ。
未来も過去も全ては並んでいる。らしい。現在とは何か。過去と未来の狭間の今。
しかし、今と知覚した瞬間、それは過去となり、今と知覚しようとすれば、それは未来となる。現在とは何か。結局のところ、私には分からない。
結界の境目は、いつも私に問いかける。結界の境目を見ると、私が私に問いかける。
私と世界の境目を見てるような、そんな気持ちは、きっと蓮子には分からない。
蓮子にはきっと『現在』が分かるのだろう。だから彼女は客観を重んじる。自分を必死で肯定しなくとも、世界が自分を構築しているのだと感じる事ができる。
目に見えるのだ。きっとそうだ。そうに違いない。
彼女の目が羨ましい。彼女の目が欲しい。彼女に私の気持ちを感じて欲しい。
そんなことをおくびにも出さずに、私は今日も怯え、嘆き、そして、自己を肯定する。自分で必死に作り上げた虚像にすぎなくとも。
夢と現実は同列だ。
だから、虚像と実像もまた同列だ。
私の虚像は実像となり、私となり、私を私たらしめる。
ふと、空を見上げると、まん丸なお月様が笑顔でこちらに手を振っていた。
私は、それに対して手を振り返した。お月様の手が更に大きな孤を描き、ブンブンと音を立てているのが分かった。彼――彼女か? どちらでもいいか。――も必死なのだ。だから、私もそれに報いるために本気を出した。本気を出して手を振った。まだ私が小学生で可憐で純情で無垢で野に咲く花のような存在だった頃、転校していくミッちゃんの軽トラに向かって振りまわしたあの腕と同じように。
「うぎぃ」
しかし、今の私は非常に勤勉な文化的大学生になっていて、小学生の頃のような体力も筋力もなくなっていた。
お月様が必死だったのが悪いのか、調子をこいた私が悪いのか、それともその日すっかり空になってしまったいいちこが悪いのか。たぶん、あのあまり美味しいとは言えない安物の麦焼酎が主犯格だろうと思う。私は悪くない。酔わせた酒が悪いのだ。
私の右肩は脱臼した。
わざわざお見舞いと称して蓮子が私の部屋に来るのはもはや必然だった。
ニヤニヤと笑う蓮子の口から私を心配する言葉が出てきたところで、私は全くもって信じることは出来ないし、実際にそれは虚言であると誰でも想像がつく。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないわ」
「痛々しいわね」
私の怪我に対する言葉とも、私の行動に対する言葉とも受け止めることが出来る。
何故怪我したのか、その経緯を恥じらいながらも彼女には話した。お月様が私に向かってすごい勢いでブンブンと手を振るから負けじと本気で手を振り返したら脱臼した。まとめてみると本当に間抜けで、そして痛々しい。
「そんなに酔っ払うほど酒を飲んでたのなら、私も呼んで欲しかったわ」
そして横で虚空に向かって手を振るメリーを生暖かく見守っていたかった、と付け加えたので動く右腕でペシペシと彼女の頭を叩いた。
「それにしても珍しいわね」
「何が?」
「酔っ払いメリー」
とんでもない黒歴史が出来てしまったものだ。溜息をついて、窓の外を見る。お日様がギラギラと照っていた。彼――彼女だろうか? どうでもいいか。――の光を受け手その身を輝かせるお月様。私の怪我は、取り様によっては太陽のせいにもなるのかもしれない。馬鹿馬鹿しいことを考えて、それからもう一度蓮子の頭をペシペシと叩いた。痛い痛い、とニヤニヤと笑う蓮子が恨めしい。
恨めしい、と思う私が恨めしい。その目も。
グラリと自分が揺らぐ音がして、私は首を振った。ブンブンと振っていると、「今度は首の骨を折るつもり?」と蓮子に問いかけられて、ハッとした。
自分を取り戻して、私は顔が真っ赤になるのを感じた。
「脱臼するほど飲み過ぎたって聞いて何か悩みがあるのは分かったわ」
空気の入れ換え、と窓を開けた蓮子が私を見ないで言った。
「まあ、気が向いたら話して頂戴」
私は言葉で答えずに、首をコクンとすることで応えた。蓮子は私を見ていなかったけど、伝わった気がした。
「いや、なんか言ってよ」
伝わってなかった。
「十六時二十六分三十二秒」
「いや、別に時間とか聞いてないから」
「あらそう」
それは残念、と全然残念そうな顔をしないで、じゃあねぇ、と手を振って部屋を出て行った。
一人きりの部屋で、私は天井を見上げた。点々とあるシミが星に見えた。なんてことはなくて、うわ、汚いっ! と思っただけ。今度、蓮子に肩車をして天井掃除を敢行することが決まった。
結界の境界を見ることが出来る目を私は持っている。それはなんて曖昧なものなのだろう。
星を見て時刻を感じ取り、月を見て居場所が分かる。私にもそんな私を肯定してくれるような目があれば良かった。
私は怯えている。気を緩めれば、ガクガクと膝が震える。きっと今の私の顔は、世界一醜い顔をしているだろう。
見せてあげようか、蓮子。
いやだ?
見たくない?
見てよ。
見て!
私を見て!
二日酔いと痛みに耐えた昨日を乗り越えて始まった今日という日はとても残酷な一日だった。
まずはチャームポイントであるネクタイがうまく巻けないことから始まった。必死でこねくり回して、なんとか形にはなった。人間やれば出来る。
達成感も一入に、さあ学校へ。
怪我をした箇所が肩だったので、まあ文字は書けるでしょう、と気楽に授業を受けてみた。いざ始まってみると、文字を書こうとするたびに走る激痛に涙目。割と好きな授業の内容をまったくノートが取れなかったことに涙目。と、授業の間ずっと涙目で過ごすことになった。
対策として、次の授業には電子メモ帳なる文明の利器を駆使して対応してみたのだけれど、アナログ派の私にはなんだか味気なくてやる気も無くなって不貞寝してしまった。
次の授業はサボることにした。一人でボーっとするのも寂しい。だからと言って、授業には出る気がしない。そこで登場していただいたのが親友の蓮子で。
「私の右腕こと蓮子さん」
「なんでしょう」
二人でホットコーヒーをすする。私はミルクに砂糖を一匙。蓮子はブラックで大人ぶっている。
「お願いがあります」
「言ってごらんなさい」
「次の授業で文字通り私の右腕の代わりにノートを取ってもらえないでしょうか」
「いや、無理」
即効で断られた。
「なんでよ!」
「他の人に頼んで」
苦いな、と砂糖を結局入れる蓮子。
「親友にしか頼めないことなの」
「うん、親友と言われるのは嬉しいんだけど、そもそも専攻が違うというかなんというか興味ないというかどうでもいいというかめんどうくさいというかめんどうくさいの」
「めんどうくさいのね」
「めんどうくさいの」
親友のピンチに対してめんどうくさいと言う。付き合い方を考える必要があるのかもしれない。
「同じ授業受けている友達に後でノートを貸してもらうとか、色々方法はあるでしょう?」
まだ苦いわね、と更に砂糖を入れる蓮子。
「いないわ」
「なにが?」
「友達が」
「え、いないの?」
苦いわね。うるさい。
「自慢じゃないけどいないわ」
「本当に自慢じゃないわね」
コーヒーを放ったらかしにして水を飲む蓮子。砂糖を入れすぎて今度は甘くなってしまったようだ。私のコーヒーと交換してあげると、ありがとう、と笑顔を返してくれた。蓮子のコーヒーをスプーンで混ぜてみると、カップの底でジャリジャリという音がした。入れすぎだ。水を飲むことにした。
「お願い」
「はあ」
溜息をついて、コーヒーに砂糖を入れる蓮子。
「いいわ」
「本当?」
「親友の頼みだから」
「ありがとう親友」
こうして、自分には友達がいないことを再確認させられた。
二人で水を飲みほして、喫茶店を出た。
本日最後の授業は、退屈なものだった。
わざわざ蓮子にノートを取ってもらう必要はまったくもって無かったようだ。
授業を進める教授の声がまるで子守唄のように聞こえてきて、いつしか私は眠りに落ちた。眠りに落ちるとその先には夢が待っている。
夢の世界はとても心地良い。
夢の世界にいる時、私は笑顔で野を駆け、山を駆け、林を駆け、そして月で踊る。海で泳ぎ、川で泳ぎ、花を愛でる。
私の精神は夢の中ではしゃいでいた。じゃあ、私の肉体は今どうしているのだろう。きっと眠っている。それだけははっきりと分かった。
眠る私と夢の世界で遊ぶ私。二人の私が存在している。
私は私であり、私ではないのかもしれない。私という存在を主観で考えるならば、どちらが本当の私となるのだろう。
眠る私? それとも、知らない誰かと笑う私?
どちらが私で、主観はどこにある。分からない。全然分からないわ。
主観が揺らげば自己も揺らぐ。
私は誰だ。
そんな陳腐な問いかけを誰にしているの。私にしているの。
私は誰だ。
蓮子、あなたにならその答えが分かる?
目が覚めると、不思議なことに朝になっていた。
家に帰ってきているし、服装も寝間着になっている。頭にはガンガンと激痛が走る。
記憶にない。私の記憶は授業で止まっている。夢遊病にでもなったのだろうか。少し怖くなった。
しかし、コロコロと転がるいいちこの空き瓶二本を見て、その横でグースカと眠る蓮子を見て、すぐに呆れて安心した。
なんのことはない。また飲み過ぎたのだ。
窓枠に腰掛けて、間抜け面で眠る蓮子を見て、最近の自分を思い返す。お酒に逃げて何になる。解決の道なんて見えない。
私は実在するのか。
答えのない疑問。現実と虚構が入り乱れた世界で、自分をしっかり保てない。
自分の目を抉り取ってしまいたい。でも、この目がなければ蓮子を見ることが出来ない。蓮子の欲しい物を与えることが出来ない。
私が私であるために蓮子は必要なのだ。蓮子を見ることが必要だ。蓮子と一緒にいることが不可欠になった。
客観に頼るなんて一世紀前の考え方だ。そんなものは通用しない。
ヴァーチャルとリアルが混同された今の常識の中では一笑に付すような考え方だ。
可愛くて間抜けな蓮子の寝顔。やんわりと閉じられた瞼の向こう側には、自己と他者をつなぐしっかりとしたパイプラインが備わっている。
私は本当にそれが羨ましてく恨めしい。
星が教えてくれる。月が存在を示してくれる。誰のものでもないはずの星と月が、蓮子にだけは自分を定めるX軸で、Y軸たりうる。
私の主観なんて、それはとても曖昧なもの。どうして皆、何も考えずに生きてられるのだろう。
怖くないの?
消えてなくなっても、誰も気づかないかもしれない。結界が示すものは、世界の揺らぎ。世界の裂け目。世界の隙間で。
自然と見えてしまうの。見たくなくても、そこにあれば見えてしまう。
「あのさ」
寝たままで、蓮子が口を開いた。
「メリーは難しく考えすぎなのよ」
「起きてたの?」
「今起きたの」
あてて、と頭をさすって、よっこいしょ、と身を起こす。背中で潰していた帽子をパンパンと埃を落とした後に被る。そして一言。
「この帽子が私」
「え、そうなの!?」
「比喩よ。まともに受け取らないで」
わざとに決まってるじゃない、と言っても長い付き合いだ。一瞬本当に信じていたことはバッチリと蓮子には伝わっていたようだ。
「この帽子は私のチャームポイントなの」
「自分で言うなんて滑稽だわ」
「茶々入れないでよ……」
「ごめん……」
「まあ、これも私を構成するものの一つなの」
「そうね」
「そして、端正な顔立ち」
「自分で言っていて恥ずかしくない?」
「恥ずかしいわよ……」
「ごめん……」
「そして、ネクタイやらロングスカートやら、全部ひっくるめて私なのよ」
きっと昨晩、私は全部告白したのだろう。しかし、私には記憶がない。
「でも、帽子も服も全部脱いでもそれでも私は私」
「うん」
「私は私だって胸を張って言える」
「それは、蓮子だけよ」
私の知る限りでは。
「むしろ、メリーのほうがマイノリティなのよ。こんな世界で自分がいるかどうか悩むなんてアホらしいと思わない?」
呆れた顔で問いかける蓮子に、私はほんのり憤りを感じた。
「私には、昨日の記憶がないの」
「え、無いの!?」
「いや、お酒を飲んでたって言うね」
「ああ、うん、そうだよね」
すごい飲んでたもんねアハハハ。うるさい。
「それすらも今の私には怖いことなの。きっと全部話したんだろうね。昨日の私は。でも、今の私はそのことを知らない。憶えていないんじゃない。知らないのよ。それってとても怖いことだわ。結界なんて見えなくていい。見たくない。あれはまるで世界の揺らぎみたいなの。不安定でぐちゃぐちゃとして」
私の存在も不安定で揺らいでいる。
「あのさ」
まるで、会話をリセットしたいかのように、最初と同じ発音で。帽子を脱いで、頭をポリポリと掻いて続けた。
「今が分からなくなったら私のところに来ればいい。居場所が分からなくなったら私のところに来ればいい」
ニコリと笑って、
「私が教えてあげるから」
ギュッと私を抱きしめて、
「メリーはここにいるよって」
蓮子はここにいる。だから、私もここにいる。それでいいのかな。答えは分からない。納得もできない。
「納得いかないわ」
だから、反論する。私は思考する生物で、思想する生物だから。
「頑固ね」
「そういう質なのよ」
「学者向きだわ」
「目指してるもの」
蓮子の温もりが私に伝わる。伝わって、それから私の中に溶けていく。
「いつも迷うの。今も迷ってる。さ迷ってる。出口の無い迷宮って感じ。しょうがないもの。私はそういう人間だから」
「知ってる」
「でも、今は、たった一人の友達の言葉に免じて、少し休憩することにするわ」
身がもたないものね。あと、右肩がめちゃくちゃ痛いからそろそろ離して欲しい。
「うん……あれ?」
「どうし、きゃっ!」
「また胸が大きくなってるわね」
「ちょっと、やめない!」
「昨日はあんなに私の胸を揉みしだいたというのに」
「知らない! 憶えてない!」
あと右肩がめちゃくちゃ痛い!
「えーい、しらばっくれるな」
それから小一時間胸を揉まれた。
痛さすら感じる。右肩もめちゃくちゃ痛い。
蓮子から与えられた痛みが温もりが、今は、私の存在を肯定した。
客観もバカに出来ない。
あと、蓮子はアホだ。
似たようなテーマ(と勝手に私が思っているだけですが)ながら、また違った素敵な秘封が読めて私は幸せです。
これからも頑張ってください