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「紫様は西行妖が咲かない理由を知っているのではないのですか?」
今年の春も、西行妖は満開に至らなかった。例の異変以来、その寸前、七、八分くらいには咲くようにはなったが、あの妖怪桜の大きさからして、まだまだ足りないのだろう。
結局、春を集めるだけでは咲かなかった。私のやっていたことは無意味だった。幽々子様も今では興味が失せてしまったようだ。
納得がいかなかった。ただの我が儘であることは解っていたが、私とて魂魄の人間だ。先代である師匠が満開の西行妖を見たのなら、私にだって見る権利はある。…否、西行妖が咲かない理由を知る義務がある。
そういう訳で私は今、白玉楼の客間で紫様を問い詰めている。
「さあねぇ。栄養不足なんじゃないかしら?屋敷の主人は栄養過多だけど」
「惚けても駄目です。紫様が狸だということは皆の常識です」
「言うようになったわねぇ、あなたも」
「幽々子様のお相手をしていれば誰だってこうなります。あの方はいつも惚けたふりですから」
「あらやだわ、私幽々子に似てきちゃったのかしら」
「お二人とも根からの狸でしょうに」
正直解りきっていたことだが、紫様が私の質問に素直に答えることは無かった。扇で口元を隠し、笑っているのか怒っているのか相手に覚らせないその仕草が、少し腹立たしかった。
「陽も落ちてきたわね。時期に、魑魅魍魎が歌い騒ぐ明るい夜が降りてくる」
紫様は視線を白玉楼自慢の広大な庭へと移した。これ以上私の話に付き合うつもりは無いという意思表示だと受け取り、諦めて私もそちらを見遣った。空は何時の間にか鮮やかな橙色に変わり、これから暗い夜が来ることを告げていた。
「夕焼けの空が眩しいわね。でもすぐに薄暗くなる、黄昏時が来るわ」
「そうですね。私にとってはそろそろ庭仕事に戻って終わらせなければならない時刻です」
「黄色に昏いと書いてたそがれと読むけど、これは当て字であって、本来はこうこんと読むのよ。ご存知?」
「はあ」
「…妖夢、私からも質問を一ついいかしら」
パチン、と扇子を閉じ、その先端を私に向けて言った。
「例えば黄昏時に遠くにいる誰かを見つけたとして、そのダレかが自分に向かって手を振ってきたら、あなたはどうするかしら?」
紫様にしては珍しく、捻りのない単純な質問だと思った。普段なら難解で奇天烈な質問をして、私が答えられず困惑する様子を見て楽しまれるが、今回は私の行動に回答が委ねられている。質問が奇天烈なのは変わらないが。
「どうすると言われましても、手を振ってきたということは相手がこちら側を見知った人物だと判断したから手を振ったのだろうから、こちらも手を振ってそれに応え、必要に応じてはこちらから近づいて会合するのが正しいと思うのですが」
「ふぅん、そうなの。あなたはそうするのね」
紫様がそう言った直後、突然現れた空間の切れ目に紫様の体が徐々に飲み込まれていった。
「それでは私は帰るわ。幽々子によろしくね」
悪戯な表情を浮かべながら隙間に消える紫様を、私はただ「はあ」と一言返して見送った。見慣れた光景だが、先ほどの質問に一体何の意味があったのだろうか。それに、何故黄昏をたそがれと読ませたのか。妙に気に掛かった。
「あら、紫はもう帰っちゃったの?」
背後から暢気な声が聞こえた。言わずもがな、幽々子様だった。
「幽々子様、どちらに居らしたのですか?紫様なら先ほどお帰りになられましたよ」
「どちらって、お茶の用意が出来たって料理番が言ってたからお台所へ。毒見も兼ねて」
そう言って幽々子様は持っていたお盆を卓に置いた。そこには二人分のお茶菓子、今日は白玉餡蜜のようだ。
「…つまみ食いの間違いではないのですか?」
「失礼ねぇ。あ、そうそう、妖夢の分は無いわよ。とても恐ろしい毒が入っていたから」
「……それは一体どのような毒なのですか?」
「餡蜜がとっても甘くて美味しくなる毒」
「………」
結局、紫様の分は私が食べることになった。幽々子様曰く、「今はお腹いっぱい」とのことだった。
白玉楼の庭は幅200由旬あると幽々子様は言う。勿論誇張なのだが、実際にその庭の手入れを任されている私には、それ以上にも思えてくる。
私は焦っていた。先程まで紫様との無駄な時間を過ごしていたため、どうあがいても本来の終了時刻に間に合いそうになかった。多少手入れを誤魔化すことも考えたが、それでは先代に顔向け出来ない。なにより屋敷の主人である幽々子様の折檻が怖い。兎に角、今は頭よりも手を働かせなければならなかった。
陽もほぼ沈み、空は橙から藍に変わりつつあった。遠くのものがよく見えない程に暗くなり、私は益々焦燥感に駆られた。残すは西行妖とその近辺のみとなったが、終了時刻、即ち夕食の時間までほとんど時間が無かった。私が最も恐れていることは、幽々子様が私の分の食事まで平らげてしまうかもしれないということだ。一仕事終えた後の食事で半分生きてる実感が湧くのに、食事抜きでひもじい思いなんてした時には、私は完全に死んでしまう。己の食事は何が何でも確保しなければならない。白玉楼の食料事情はなかなか厳しいのだ。
作業をしながら、徐々に西行妖に近づいていった。見上げれば視界全体にちょうど良く西行妖が収まる所まで来たとき。
ゾゾッ
突然、背筋が凍りつくような感覚を覚えた。敵と対峙した時に感じる殺気とは違った、もっとおぞましい感覚。私は咄嗟に辺りを見回したが、特に変わったところも無く、ただ私が手入れをしたばかりの庭が広がるだけであった。気のせいか、疲れているだけかと思い、作業に戻ろうとした時、私の目はそれを捉えた。
西行妖の根元に何か黒い、影のような物体が居た。それは少し揺らいでいたため辛うじて認識できたが、辺りの薄暗さに溶け込み、それが一体何なのかははっきりとは解らなかった。
「…侵入者か?」
そうであってもなくても、手っ取り早く斬ってしまえば解るはずだ。第一私には時間が無い。一刻も早く済ませなくてはと、私は楼観剣を構え、第一歩を踏んだ。
「えっ」
次の瞬間、私は西行妖の根元に居た。おかしい、私はまだ『一歩目』しか踏み出していない。私が歩を踏み出した場所からここまで、明らかに距離はあった。一歩で到達するなんて不可能だ。
私は思わず後退りし、辺りを見回した。真横には西行妖がそびえ立っている。影の姿はどこにも無かった。混乱する頭をなんとか落ち着かせようと呼吸を整えうつむいた時、異変に気づいた。
西行妖の根元の地面、その一箇所が、掘り返されたかのように少し盛り上がっていた。何故か、影が立っていた場所のように思えた。
私はまるでそこに吸い込まれるかのように近づいていった。傍まで来るとしゃがみ込み、盛り上がった土に触れてみた。
柔らかかった。そのまま柔らかくなった地面を掘っていった。頭の中は真っ白。何も考えていなかった。
ざっざっ
そんな音が聞こえた。反面指先に感じていた土の冷たさは、徐々に薄れていった。
ざっざっざっざっ
ざっざっざっ
がり
ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ
バキッ ガチ
「 」
後ろから声が聞こえた。私は振り向いた。黒く大きな影がそこにあり、私の視界から一切の光が遮られた。
「何をしているのいるのかしら?」
聞き慣れた声だった。少しずつ頭が覚め、目が慣れていき、この声と姿の主が誰であるか、少し時間が掛かったが明白になった。
「…幽々子様?」
「もう、呼び掛けても全く返事しないんだから」
私の目には、不機嫌な幽々子様が映っていた。
「まったく、庭師のあなたが逆に庭を荒らしてどうするの。そこ、ちゃんと綺麗にしておきなさい」
「も、申し訳ございません」
「指がそんなになるまで掘るなんて、私に見せたくない物でも埋めようとしてたのかしら?」
「へっ」
私は言われて初めて自分の両手を見た。見事なまでにボロボロだった。ほとんどの爪が割れ、捲れて下の肉が見えていた。両手は零れ落ちる血とこびり付く土に塗れていた。以前紅魔館の吸血鬼が言っていた西洋の妖怪、『ぞんび』とやらを連想させた。そんなことを考えていると、突然痛覚が働きだした。
「痛っ痛い!いたたたたぁっ」
あまりの激痛に涙が零れた。加えて血と土の臭いが同時に鼻をつき、軽く咽た。
「しょうがないわねぇ。手当てしてあげるから、早くこっちにいらっしゃい。夕飯はその後にしましょう。『今日は』残してあるから」
「ま、待ってください…」
『今日は』という言葉が気になったが、すぐに激痛によって掻き消された。なんとか痛みに耐え、幽々子様の後を追おうとした時、痛みを紛らわすために強く握った右手の中に、何かあることに気がついた。先程、一度両手を開いたはずだった。
開いてみると、それは小さな白色の欠片だった。硬質なそれは、何かの一部のように思えた。
「黄昏は何故たそがれと読むのかについてだけど、この時刻は薄暗くて遠くに居る誰かを見つけても、暗くてはそれが一体誰なのか、判断がつかないわよね。そこで、『あれは誰だ』という意味から、昔は誰そ彼(たそかれ)と呼ばれていたの。また、その時間帯は霊や妖怪が出没しやすいことから、逢魔ヶ時とも呼ばれているわね。故に、昔から誰そ彼は危険な時刻と言い伝えられてきたのよ。そんな時に、手を振ってこちらの注意を引こうとする奴のすることなんて、何も知らない阿呆でない限り、一つしかないわよねぇ」
「そういうことはあの時ちゃんと言ってください」
翌日、紫様が再び尋ねてきたので、私は起こった出来事の一切を話した。紫様のことだから、最初からこうなることは分かっていたのだろう。あの時ちゃんと説明してくれれば、こんなことにはならなかったはずなのにと、包帯が巻かれた両手を見つめた。
「後先考えずに行動するからそうなる。自業自得でしょう?そいつが手を振った後、退治する自信があってならまだしも、その前に斬りかかるなんて前代未聞よ。その斬れば解るって考え、いい加減改めたらどうかしら」
ぐうの音も出ないとは正にこのことか。紫様に反論することなく、私は頭を垂らし続けた。
「で、あなたが拾ってきたこれなんだけど」
そう言って、紫様は卓上に置かれた白色の欠片を摘み上げ、私に突きつけた。
「これ、何だと思う?」
あんなことがあってからでは、恐ろしい想像しかできない。正直考えたくもないのだが。
「…あまり想像したくないのですが、骨の一部ではないかと」
「誰の?」
「いえ、そこまでは…」
「そう、私にはただの石ころに見えるわ」
そう言い終えた直後、何も無いはずの空間に隙間が現れ、そこに欠片が放り込まれた。
「はい、ただの石ころはスキマにボッシュート」
「ちょっ!何するんですか!」
「あんなのとっておいたって何の役にも立たないでしょう。それとも何かしら、あの石ころに徳川の埋蔵金程の価値があるとでも御思いで?」
「その例えはどうかと思いますけど…。それに私は先程骨だと言いましたよね?」
「徳川何代目の将軍の?」
「徳川から離れましょうよ」
その後も私と紫様は、このような不毛な言い争いを続けていたが、後から部屋に入って来た幽々子様の「紫、栗羊羹と芋羊羹だったらどちらがいいかしら?」の一言により終結した。
今日の仕事は予定通りに終わるはずだった。事実、手がこのような状態では箒を持つことさえ満足にできないため、今日は庭を見回るだけのつもりだった。しかし、西行妖に近づこうとする度に、あの時のことを思い出してしまい、足が竦んでしまう。無理することもないだろうと思い、私は遠くから西行妖を眺めた。まだ陽は高かった。
私は地面を掘っていた時、何を見ていた?
確かに何かがあったはずだ。しかしそれが思い出せない。靄が掛かったような曖昧さではなく、その部分の記憶が、まるで元から無かったかのように、すっぽりと抜け落ちていた。その代わりに、あの時に聞いた音は鮮明に記憶に残っていた。始めはざっざっという土を掻き分ける音だったが、それがガリガリという何かを削る音に変わった。割れた爪と欠片から察するに、あの時私は何か白く硬いモノを引っ掻いていたということは明らかだ。やはり骨としか考えられない。それでは一体何の生物の骨なのだろうか。
「あれ?」
私は違和感を覚えた。今私はあの欠片が『何の』骨であるかを考えた。しかし、あの時紫様は『誰の』骨であるかを私に尋ねてきた。『誰の』なんて聞いてくるからには、あの骨が『ヒト』の骨であることが前提になる。私は骨としか言っていない。あの場面で『誰の』と聞いてくる必要性は無いはずだ。しかし紫様は…。
まさか、動揺していた?
ゾゾッ
また、あの時と同じ感覚がした。背筋が凍る感覚。ハッとして顔を上げた時、映ってしまった。目を逸らすことができなかった。
あれがいる。以前と全く同じ、西行妖の根元に。何時の間にか陽が傾き、誰そ彼時を迎えていた。
私は大切なことを思い出し、後悔した。私はまだ、肝心なことを紫様から聞き出していない。
あれが手を振ってきた時、『どうすれば』よいのか、私は未だ知らない。
影が大きく揺らいだ。
それはまるで、こちらに向かって手を振って、呼びかけているようだった。
「 」
あの時と同じ声が聞こえた。あの時と全く同じ、聞き慣れた声だった。
「紫様は西行妖が咲かない理由を知っているのではないのですか?」
今年の春も、西行妖は満開に至らなかった。例の異変以来、その寸前、七、八分くらいには咲くようにはなったが、あの妖怪桜の大きさからして、まだまだ足りないのだろう。
結局、春を集めるだけでは咲かなかった。私のやっていたことは無意味だった。幽々子様も今では興味が失せてしまったようだ。
納得がいかなかった。ただの我が儘であることは解っていたが、私とて魂魄の人間だ。先代である師匠が満開の西行妖を見たのなら、私にだって見る権利はある。…否、西行妖が咲かない理由を知る義務がある。
そういう訳で私は今、白玉楼の客間で紫様を問い詰めている。
「さあねぇ。栄養不足なんじゃないかしら?屋敷の主人は栄養過多だけど」
「惚けても駄目です。紫様が狸だということは皆の常識です」
「言うようになったわねぇ、あなたも」
「幽々子様のお相手をしていれば誰だってこうなります。あの方はいつも惚けたふりですから」
「あらやだわ、私幽々子に似てきちゃったのかしら」
「お二人とも根からの狸でしょうに」
正直解りきっていたことだが、紫様が私の質問に素直に答えることは無かった。扇で口元を隠し、笑っているのか怒っているのか相手に覚らせないその仕草が、少し腹立たしかった。
「陽も落ちてきたわね。時期に、魑魅魍魎が歌い騒ぐ明るい夜が降りてくる」
紫様は視線を白玉楼自慢の広大な庭へと移した。これ以上私の話に付き合うつもりは無いという意思表示だと受け取り、諦めて私もそちらを見遣った。空は何時の間にか鮮やかな橙色に変わり、これから暗い夜が来ることを告げていた。
「夕焼けの空が眩しいわね。でもすぐに薄暗くなる、黄昏時が来るわ」
「そうですね。私にとってはそろそろ庭仕事に戻って終わらせなければならない時刻です」
「黄色に昏いと書いてたそがれと読むけど、これは当て字であって、本来はこうこんと読むのよ。ご存知?」
「はあ」
「…妖夢、私からも質問を一ついいかしら」
パチン、と扇子を閉じ、その先端を私に向けて言った。
「例えば黄昏時に遠くにいる誰かを見つけたとして、そのダレかが自分に向かって手を振ってきたら、あなたはどうするかしら?」
紫様にしては珍しく、捻りのない単純な質問だと思った。普段なら難解で奇天烈な質問をして、私が答えられず困惑する様子を見て楽しまれるが、今回は私の行動に回答が委ねられている。質問が奇天烈なのは変わらないが。
「どうすると言われましても、手を振ってきたということは相手がこちら側を見知った人物だと判断したから手を振ったのだろうから、こちらも手を振ってそれに応え、必要に応じてはこちらから近づいて会合するのが正しいと思うのですが」
「ふぅん、そうなの。あなたはそうするのね」
紫様がそう言った直後、突然現れた空間の切れ目に紫様の体が徐々に飲み込まれていった。
「それでは私は帰るわ。幽々子によろしくね」
悪戯な表情を浮かべながら隙間に消える紫様を、私はただ「はあ」と一言返して見送った。見慣れた光景だが、先ほどの質問に一体何の意味があったのだろうか。それに、何故黄昏をたそがれと読ませたのか。妙に気に掛かった。
「あら、紫はもう帰っちゃったの?」
背後から暢気な声が聞こえた。言わずもがな、幽々子様だった。
「幽々子様、どちらに居らしたのですか?紫様なら先ほどお帰りになられましたよ」
「どちらって、お茶の用意が出来たって料理番が言ってたからお台所へ。毒見も兼ねて」
そう言って幽々子様は持っていたお盆を卓に置いた。そこには二人分のお茶菓子、今日は白玉餡蜜のようだ。
「…つまみ食いの間違いではないのですか?」
「失礼ねぇ。あ、そうそう、妖夢の分は無いわよ。とても恐ろしい毒が入っていたから」
「……それは一体どのような毒なのですか?」
「餡蜜がとっても甘くて美味しくなる毒」
「………」
結局、紫様の分は私が食べることになった。幽々子様曰く、「今はお腹いっぱい」とのことだった。
白玉楼の庭は幅200由旬あると幽々子様は言う。勿論誇張なのだが、実際にその庭の手入れを任されている私には、それ以上にも思えてくる。
私は焦っていた。先程まで紫様との無駄な時間を過ごしていたため、どうあがいても本来の終了時刻に間に合いそうになかった。多少手入れを誤魔化すことも考えたが、それでは先代に顔向け出来ない。なにより屋敷の主人である幽々子様の折檻が怖い。兎に角、今は頭よりも手を働かせなければならなかった。
陽もほぼ沈み、空は橙から藍に変わりつつあった。遠くのものがよく見えない程に暗くなり、私は益々焦燥感に駆られた。残すは西行妖とその近辺のみとなったが、終了時刻、即ち夕食の時間までほとんど時間が無かった。私が最も恐れていることは、幽々子様が私の分の食事まで平らげてしまうかもしれないということだ。一仕事終えた後の食事で半分生きてる実感が湧くのに、食事抜きでひもじい思いなんてした時には、私は完全に死んでしまう。己の食事は何が何でも確保しなければならない。白玉楼の食料事情はなかなか厳しいのだ。
作業をしながら、徐々に西行妖に近づいていった。見上げれば視界全体にちょうど良く西行妖が収まる所まで来たとき。
ゾゾッ
突然、背筋が凍りつくような感覚を覚えた。敵と対峙した時に感じる殺気とは違った、もっとおぞましい感覚。私は咄嗟に辺りを見回したが、特に変わったところも無く、ただ私が手入れをしたばかりの庭が広がるだけであった。気のせいか、疲れているだけかと思い、作業に戻ろうとした時、私の目はそれを捉えた。
西行妖の根元に何か黒い、影のような物体が居た。それは少し揺らいでいたため辛うじて認識できたが、辺りの薄暗さに溶け込み、それが一体何なのかははっきりとは解らなかった。
「…侵入者か?」
そうであってもなくても、手っ取り早く斬ってしまえば解るはずだ。第一私には時間が無い。一刻も早く済ませなくてはと、私は楼観剣を構え、第一歩を踏んだ。
「えっ」
次の瞬間、私は西行妖の根元に居た。おかしい、私はまだ『一歩目』しか踏み出していない。私が歩を踏み出した場所からここまで、明らかに距離はあった。一歩で到達するなんて不可能だ。
私は思わず後退りし、辺りを見回した。真横には西行妖がそびえ立っている。影の姿はどこにも無かった。混乱する頭をなんとか落ち着かせようと呼吸を整えうつむいた時、異変に気づいた。
西行妖の根元の地面、その一箇所が、掘り返されたかのように少し盛り上がっていた。何故か、影が立っていた場所のように思えた。
私はまるでそこに吸い込まれるかのように近づいていった。傍まで来るとしゃがみ込み、盛り上がった土に触れてみた。
柔らかかった。そのまま柔らかくなった地面を掘っていった。頭の中は真っ白。何も考えていなかった。
ざっざっ
そんな音が聞こえた。反面指先に感じていた土の冷たさは、徐々に薄れていった。
ざっざっざっざっ
ざっざっざっ
がり
ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ
バキッ ガチ
「 」
後ろから声が聞こえた。私は振り向いた。黒く大きな影がそこにあり、私の視界から一切の光が遮られた。
「何をしているのいるのかしら?」
聞き慣れた声だった。少しずつ頭が覚め、目が慣れていき、この声と姿の主が誰であるか、少し時間が掛かったが明白になった。
「…幽々子様?」
「もう、呼び掛けても全く返事しないんだから」
私の目には、不機嫌な幽々子様が映っていた。
「まったく、庭師のあなたが逆に庭を荒らしてどうするの。そこ、ちゃんと綺麗にしておきなさい」
「も、申し訳ございません」
「指がそんなになるまで掘るなんて、私に見せたくない物でも埋めようとしてたのかしら?」
「へっ」
私は言われて初めて自分の両手を見た。見事なまでにボロボロだった。ほとんどの爪が割れ、捲れて下の肉が見えていた。両手は零れ落ちる血とこびり付く土に塗れていた。以前紅魔館の吸血鬼が言っていた西洋の妖怪、『ぞんび』とやらを連想させた。そんなことを考えていると、突然痛覚が働きだした。
「痛っ痛い!いたたたたぁっ」
あまりの激痛に涙が零れた。加えて血と土の臭いが同時に鼻をつき、軽く咽た。
「しょうがないわねぇ。手当てしてあげるから、早くこっちにいらっしゃい。夕飯はその後にしましょう。『今日は』残してあるから」
「ま、待ってください…」
『今日は』という言葉が気になったが、すぐに激痛によって掻き消された。なんとか痛みに耐え、幽々子様の後を追おうとした時、痛みを紛らわすために強く握った右手の中に、何かあることに気がついた。先程、一度両手を開いたはずだった。
開いてみると、それは小さな白色の欠片だった。硬質なそれは、何かの一部のように思えた。
「黄昏は何故たそがれと読むのかについてだけど、この時刻は薄暗くて遠くに居る誰かを見つけても、暗くてはそれが一体誰なのか、判断がつかないわよね。そこで、『あれは誰だ』という意味から、昔は誰そ彼(たそかれ)と呼ばれていたの。また、その時間帯は霊や妖怪が出没しやすいことから、逢魔ヶ時とも呼ばれているわね。故に、昔から誰そ彼は危険な時刻と言い伝えられてきたのよ。そんな時に、手を振ってこちらの注意を引こうとする奴のすることなんて、何も知らない阿呆でない限り、一つしかないわよねぇ」
「そういうことはあの時ちゃんと言ってください」
翌日、紫様が再び尋ねてきたので、私は起こった出来事の一切を話した。紫様のことだから、最初からこうなることは分かっていたのだろう。あの時ちゃんと説明してくれれば、こんなことにはならなかったはずなのにと、包帯が巻かれた両手を見つめた。
「後先考えずに行動するからそうなる。自業自得でしょう?そいつが手を振った後、退治する自信があってならまだしも、その前に斬りかかるなんて前代未聞よ。その斬れば解るって考え、いい加減改めたらどうかしら」
ぐうの音も出ないとは正にこのことか。紫様に反論することなく、私は頭を垂らし続けた。
「で、あなたが拾ってきたこれなんだけど」
そう言って、紫様は卓上に置かれた白色の欠片を摘み上げ、私に突きつけた。
「これ、何だと思う?」
あんなことがあってからでは、恐ろしい想像しかできない。正直考えたくもないのだが。
「…あまり想像したくないのですが、骨の一部ではないかと」
「誰の?」
「いえ、そこまでは…」
「そう、私にはただの石ころに見えるわ」
そう言い終えた直後、何も無いはずの空間に隙間が現れ、そこに欠片が放り込まれた。
「はい、ただの石ころはスキマにボッシュート」
「ちょっ!何するんですか!」
「あんなのとっておいたって何の役にも立たないでしょう。それとも何かしら、あの石ころに徳川の埋蔵金程の価値があるとでも御思いで?」
「その例えはどうかと思いますけど…。それに私は先程骨だと言いましたよね?」
「徳川何代目の将軍の?」
「徳川から離れましょうよ」
その後も私と紫様は、このような不毛な言い争いを続けていたが、後から部屋に入って来た幽々子様の「紫、栗羊羹と芋羊羹だったらどちらがいいかしら?」の一言により終結した。
今日の仕事は予定通りに終わるはずだった。事実、手がこのような状態では箒を持つことさえ満足にできないため、今日は庭を見回るだけのつもりだった。しかし、西行妖に近づこうとする度に、あの時のことを思い出してしまい、足が竦んでしまう。無理することもないだろうと思い、私は遠くから西行妖を眺めた。まだ陽は高かった。
私は地面を掘っていた時、何を見ていた?
確かに何かがあったはずだ。しかしそれが思い出せない。靄が掛かったような曖昧さではなく、その部分の記憶が、まるで元から無かったかのように、すっぽりと抜け落ちていた。その代わりに、あの時に聞いた音は鮮明に記憶に残っていた。始めはざっざっという土を掻き分ける音だったが、それがガリガリという何かを削る音に変わった。割れた爪と欠片から察するに、あの時私は何か白く硬いモノを引っ掻いていたということは明らかだ。やはり骨としか考えられない。それでは一体何の生物の骨なのだろうか。
「あれ?」
私は違和感を覚えた。今私はあの欠片が『何の』骨であるかを考えた。しかし、あの時紫様は『誰の』骨であるかを私に尋ねてきた。『誰の』なんて聞いてくるからには、あの骨が『ヒト』の骨であることが前提になる。私は骨としか言っていない。あの場面で『誰の』と聞いてくる必要性は無いはずだ。しかし紫様は…。
まさか、動揺していた?
ゾゾッ
また、あの時と同じ感覚がした。背筋が凍る感覚。ハッとして顔を上げた時、映ってしまった。目を逸らすことができなかった。
あれがいる。以前と全く同じ、西行妖の根元に。何時の間にか陽が傾き、誰そ彼時を迎えていた。
私は大切なことを思い出し、後悔した。私はまだ、肝心なことを紫様から聞き出していない。
あれが手を振ってきた時、『どうすれば』よいのか、私は未だ知らない。
影が大きく揺らいだ。
それはまるで、こちらに向かって手を振って、呼びかけているようだった。
「 」
あの時と同じ声が聞こえた。あの時と全く同じ、聞き慣れた声だった。
黄昏を題材に使ったホラーを読みたいと思ってました、ありがとう御座います
正体が明かされないところがくねくねを髣髴とさせる読後感でイイ!
ところで、こうこんを小うんこと読んでしまった私めを殴ってください
当たってるんだかどうだか
ざっと考えてもこんなに思い付く、空が橙(チェンじゃないよ)色に染まる時間
一日の内で朝と夕の二回訪れる光の世界と闇の世界のスキマに名前を与えてロマンを詰め込んだ先人とホラー系SSに飢えていたこんなSSを書いてくれた貴方に乾杯!
やっぱ正体のわからないものって言い知れぬ不安感があるんだよねぇ…
あと本筋と全然関係無いけど、
-空が橙から藍に~-の下りでなぜか式2人(?)が空を飛んでる様を想像して吹いた
こわがりの妖夢と胡散臭い紫、存在そのものが怪談(?)の幽々子の三人
ときたら、これはもう定番ですねえ。