上白沢慧音がその相談を受けたのは、曇り空の印象的な初夏のことだった。
「夜な夜な、墓にやってくる妖怪がいるだと?」
はい、と。年老いた夫婦は深刻そうにうなずいた。
顔には年齢以上に深いしわがいくつも刻み込まれている。
この夫婦は先日、何にも代えられぬ大切な一人息子を亡くしたばかりである。
朝、釣りをしてくると言い残して出かけた彼は夕方、なかなか帰ってこないことを不審に思った夫婦と里人たちによって、川辺に散乱している形で発見された。
散乱。比喩ではない。
彼は白骨死体となって、文字通りばらばらに散らばっていたのだ。
引き裂かれた衣服と装飾品が付近になければ、例え親とてそれが実の息子だとは分からなかっただろう。
葬儀を終え、埋葬が完了したのが数日前。
突然の不幸に見舞われた夫婦に追い打ちをかけるように、さらなる恐怖が彼らを襲った、という形だ。
「して、なぜそのようなことに気づいたのでしょうか?」
「きっかけは埋葬を終えた次の日のことです。墓参りに向かった私どもは、墓前に供えた覚えのない花が一輪、ポツンと置いてあるのを見つけたのです」
本来ならば、他の誰かが供えたのだと喜ぶところだが、二人はその花から気味悪さしか感じなかった。
なぜならその花は、彼らの長い生涯でさえ一度も目にしたことのないものだったからだ。
恐る恐る持ち帰り草木に詳しいものに訊くと、日の届きにくい鬱蒼とした森の中にしか自生しないものだと判明。
いよいよもって気味が悪くなった夫婦は、しかし万が一息子の墓を誰かに荒らされては困ると、恐怖心を必死にこらえ、張り込みを決意。
「そしてその夜、私どもは見てしまったのです。息子の墓の前に立つ化け物の姿を!」
ああ、おそろしや、おそろしや。
今まさにその化け物を見たかのように、老いた二人は震え上がった。
無理もない。彼らの息子は状況から見て、人食い妖怪に襲われたとしか思えないものだった。
もしやあいつが息子を喰らったのではないか。
息子の肉だけでは飽き足らず、よもや骨までむさぼりつくそうとしているのではないか。
そのようなことを考えて恐れを抱かない人間などいない。
今の二人には目撃した妖怪が天狗よりも鬼よりも恐ろしく映っていることだろう。
夫婦の震えが収まるのは、それからしばらく後のことだった。
ことの真相もそうだが、里の共同墓地に妖怪が現れるとあっては無視するわけにいかない。
老夫婦の頼みもあったことだし、と、慧音は同じ日の夜に墓場へと足を運んだ。
二人の証言によると、件の妖怪は黄金のような髪に血に染まったと思うほどの紅い瞳、闇のように深い黒を身にまとっているという。
とはいえ自らも妖怪の端くれである。
人に味方するとはいえできれば無駄に同族の血を流したくはない。
もし穏便に立ち去ってもらえるのなら、それに越したことはない。
などと考えながらも、懐に忍ばせた呪符からは決して手を離さず、物陰で静かにその時を待ち続けた。
張り込みを開始してからしばらく経った頃、奥から人影が一つ、見えてきた。
金髪に紅い瞳、黒い服をまとった人間のような童女。
片方の手には人間の使う提灯、もう片方の手には老夫婦から見せられた一輪の花。
強くはないが、妖力もしっかりと感じる。
奴が件の妖怪で間違いない、と慧音は結論づける。
ドクドクと加速する鼓動に耐えつつ、妖怪の様子をうかがう。
いったい何が目的で墓場へとやってくるのかを確かめて、理由を絶ちつつ追い払わなければ、またやってくるかもしれない。
そして妖怪は、ついに例の墓の前で立ち止まった。
つ、と。慧音の顔を汗が伝う。
少しの間立ち惚けた妖怪は、墓前に花を供えるとおもむろに、
(……な、に?)
目を閉じ、静かに手を合わせた。
まるで男の冥福を祈るかのように。
慧音は唖然とした。
確かに人を喰らったあと、粗末ながらに人間の墓を作る妖怪もごく少数だが存在した。
けれどそれまで。墓を作りはしても定期的に墓前に花を供え、手を合わせる妖怪なぞ聞いたこともない。
そのため彼女は、妖怪が墓から離れようとするまで動くことができなかった。
「…っ!止まれ、そこの妖怪!」
慌てて物陰から跳び出て、妖怪を呼び止める。
前方に掲げた手には、大量の呪符。
ピタリと、声に反応した妖怪はこちらへ振り向いた。
「…何?」
見た目とたがわぬ高い声。
不思議そうな声音で、彼女はこちらを見つめている。
濁りやよどみのない、綺麗に澄んだ紅の瞳が、こちらを見据える。
「な、何が目的だ!お前は何のために食らった人間の墓前をわざわざ訪ねる!?」
「…?」
「早く答えろ!目的はなんだ!」
決して構えを崩さず、油断することなく慧音は叫ぶ。
彼女は怯んでいた。
妖怪自体にではない。
その妖怪が行った、まるで死を悼む人間のような行動に怯んでいた。
しばしの硬直。
向こうが動かなければ、慧音も動けない。
息の詰まるような時間を必死に耐え続けた。
「…わからないの」
「なに?」
唐突に妖怪は口を開いた。
こぼれるようなか細い声、しかしその言葉は慧音の耳へしっかりと届いた。
「いったい、何がわからないというのだ!?」
「…わからないの」
再び彼女は、本当に不思議そうに、ぽつりと漏らす。
「おなかはいっぱいなのに、どうして、物足りないのか」
己が内に宿る、初めての感覚を。
彼女はおなかがすくと、いつも人を喰らっていた。
別に人間しか食べられないわけではない。
どうしても困ったときは、野草や木の実、動物などで飢えをしのいでいた。
ただ人間を食べたときは、他のものを食べたときなどくらべものにならないほど大きな満足感に浸ることができた。
彼女は妖怪である。
ゆえにそのことに疑問を抱くことはなく、例えるなら人間が野兎を仕留めて食べるような感覚で、同じように人間を仕留めて食べ続けた。
そのときもおなかがすいていた彼女は、きょろきょろと人間を探しながら川辺を飛んでいた。
そろそろ暑くなり始めたころだ、避暑がてらに川釣りに出かける人間が増える時期である。
彼女はそんな理屈など知らなかったが、経験からこの頃は川に行けばよく人間を見つけられると知っていた。
だから彼女は岸に横たわる青年を見つけたときは大層喜んだのだった。
足を滑らせて川に流されたのだろう。
青年の体は余すところなくびしょ濡れであった。
細められた目とかすかに上下する胸を見る限り、かろうじて生きているようだが、それも時間の問題だ。
後頭部からは血があふれ、唇は真っ青。いつ死んでもおかしくない状態だった。
活きのいい人間じゃないけど、まあいいや。殺してしまえばおんなじだし。
そう考えた妖怪は、あふれ出る涎を抑えもせずに青年の横へと降り立った。
じろじろと人間の体を眺めると、不意に青年と目があった。
数瞬、お互い見つめ合った後。
青年が息も絶え絶えな口を動かした。
―――腹が減ってるのか。童。
川の流れる音にすらかき消されそうなか細い声。
それでも妖怪には確かに聴こえていた。
「うん」
聞かれたからには返事をしなくちゃいけない、と彼女は肯いた。
「食べてもいい?」
訪ねられた青年は数瞬迷い、
―――ああ。好きにしろ。
それだけを言い残し、二度と覚めることのない眠りについた。
後に残された妖怪は、ぺちぺちと青年の顔を叩いてみた。
反応が帰ってこないことに納得した彼女は、
「いただきます」
骸の首に噛みついた。
大の大人一人を食べたのだ。
いつもならおなかは一杯になるし、現に腹は膨れている。
だが、腹は膨れても、彼女の胸はどこか物足りなさを感じていた。
初めて経験する事態に妖怪はひどく戸惑った。
あまりに戸惑ったので、青年を残らず食い散らかした後も川辺に座り込みうんうんと考え続けた。
それはもう、あれほど高かった日が、気が付けば西に傾いているくらいに。
ふと、背後から大勢の人間の気配を感じた。
おなかがすくのも嫌だが、痛いのはもっと嫌だ。
急いで木陰に身を隠すと、少しして7~8人ほどの人間が姿を現す。
声を聴くかぎりではもっといるようだ。
そのうちの一人が自分の食い散らかした跡に気が付くと、腹の底から湧き出るような悲鳴が聞こえた。
悲鳴に気づいた他の人間が次々と駆けつけ、一人残らず悲鳴を上げた。
最後に駆けつけた男女の老人に至っては叫んだ後に骸骨を抱きしめてわんわんと泣き続けた。
そんな光景の一部始終を見た妖怪は、ふと。
自分の胸の物足りなさが、少しだけ消えていることに気が付いた。
そして思ったのだ。
あの人間たちについていけば、この物足りなさも晴れるんじゃないかと。
そこから先のことはよく覚えていないらしい。
ただ断片的な証言から、こっそりと後をつけ里に忍び込み、葬式から埋葬まで見てきたということはわかった。
「それで、最後に人間がこの石に花を置いて、前で手を合わせているのが不思議だったの」
だから、真似をすればその不思議も、私の胸のもやもやもわかるかなって思ったの。
そう、妖怪は締めくくった。
一部始終を聞き届けた慧音は、しばらく口を開くことができなかった。
その後、墓場に妖怪が訪れることはなくなった。
なぜその日を最後に妖怪が墓を訪れなくなったのか、また、その後妖怪はどうなったのか。
今となっては顛末を知る老夫婦も亡くなり、慧音も頑なに口を閉ざし続けている。
ただ、その日を境に里の雰囲気は変わることとなる。
人々は、ある覚悟を持たないものを里の外に出すようなことはなくなった。
慧音もまた寺子屋を開き、子供たちを集め、幻想郷のことや人間と妖怪の関係のことなどを教えるようになったという。
引き込まれそうな文章とダークさが相まって、読んでて楽しかったです。
考えさせられるお話でした
とてもいいSSだと思いました