氷精も溶けかける真夏の幻想郷。
燦々とした太陽の下、青の青、どこまでも涼しげに見える湖。その中心の孤島に、紅魔館は在った。
どこまでも深い青空に遮るものは何もなく、容赦ない煌きに鮮やかな真紅が際立つ。
「ちょうど館の影になってるのは嬉しいけど……。暑いのはどうしようもないわね」
その館の裏庭。如雨露を片手に、花に水遣りをしているのは館のメイド長、十六夜咲夜だった。
その背後に、怪しげな影がもう一つ。
「そこの略奪者」
咲夜のよく知るこの常習犯には、振り向かずともどこの誰かは特定できた。
略奪者は、おおっと、と驚いた振りをしながらその場に停止した。自称普通の魔法使い、霧雨魔理沙だ。
「やあ、メイドじゃないか。今日はいい天気だ、花も喜ぶな」
「白々しいわよ。もう正直者はやめたのかしら?」
少し前から魔理沙は、堂々と館に正門から入るようになっていた。
咲夜の皮肉は、「正門から入れば嘘を吐いたことにはならないだろう?」という魔理沙の理解し難い屁理屈へと宛てられたものだった。何故に嘘を控えるようになったのかは定かではないが。
「いや、だってなぁ……。あの門番を毎回毎回ぶっ飛ばしていくのは、さすがに可哀想だぜ」
罰が悪そうに頬を掻く。
館の門番である紅美鈴。来るたびに彼女を言葉通り「ぶっ飛ばして」通っていくのは、さしもの魔理沙も気が引けるのだろう。珍しいこともあるものだ。
「相手してあげなさいよ。あなたにぶっ飛ばされるために毎日頑張ってるんだから」
「え。やっぱり、マゾなのか? あいつは」
「……言い方が悪かったわね。あなたを倒すために精進してるってこと」
「ふーん」
せめて勝算があって戦っていると思って欲しいものだ、と咲夜は思った。
「しかし、今から正門に戻るってのも面倒だ」
飄々としていた魔理沙の表情が、鋭利なものへと切り替わる。口調はそのままだが、狙い済ましたような視線が咲夜を射抜く。
「もうここから通ってもいいだろう?」
「通すとでも思っているのかしら?」
「だよなぁ」
咲夜も同様に。持っていたはずの如雨露はいつの間にか、魔法のように銀のナイフへ替わっていた。
「最近マンネリだったんだよな。たまにはお前と弾幕るのも楽しそうだ」
「そうね、私も最近仕事が忙しくて。ストレス発散に良さそうだわ」
一触即発。互いの研ぎ澄まされた集中力が交差しようとしたとき、
「馬鹿言わないの」
と横合いから別の声が割り込んできた。
「よう、パチュリー」
「あらパチュリー様、ご機嫌麗しゅう」
何事もなかったかのように挨拶する二人。銀のナイフもまた如雨露へ戻っていた。
窓から顔を覗かせている魔女は、図書館の主であり、裏庭の花の所有者であるパチュリー・ノーレッジだ。
「白々しいわよ。こんなとこで遊んだりして、花の一つでも潰したら容赦しないんだから」
「止むを得ない正当防衛ですわ」
「だとしても。ほら、パチュリー様は大人しく通せって言ってるぜ?」
「……はぁ。まぁ、いいんだけどね」
花を潰すなということは、つまりそういうことだと二人は理解した。
そもそも今さら、常連である魔理沙を通すも通さないもない。咲夜がノリに付き合ったのも、ほとんど冗談でのことだった。
しかし、
「別に通すなんて言ってないわよ」
咲夜が横に退けたところで、またパチュリーの声が遮るのだった。
「どういうことだよ」
魔理沙が機嫌の悪そうに問う。とはいえ、通さないと言っても通るから今さらの話。
「霧雨魔法店に仕事の依頼よ。咲夜と一緒に、あのタチの悪いパパラッチに今まで割った窓ガラス代を請求してきて欲しいのよ」
「文のことか? 何だ、被害を受けてるのは香霖のとこだけじゃないんだな」
新聞記者、射命丸文。彼女は、しばしば書いた新聞を窓ガラスに向かって投函することがある。今まで、というからには、紅魔館も結構な被害を被っているのだろう。
「別にこの黒いのに依頼なんかしなくても、私だけで十分ですけれど」
「天狗を侮ってはいけないわ咲夜。あなた達二人でも慎重過ぎるということはない」
「私だって一人で十分だが、仕事の依頼とあれば従うぜ。当然報酬が出るんだろう?」
「もちろん。報酬はこのチケットよ」
「チケット?」
ぴらん、とパチュリーは長方形の紙切れを取り出し、二人に見せた。
『さくや1日貸し出し券』
と可愛らしい字ででかでかと書かれている。おまけにその隣には、これまた可愛らしい、咲夜を模しているのだろう落書きが描かれていた。
魔理沙の隣で、びきびき、と音が鳴った気がした。
「……パチュリー様?」
「笑顔で青筋を立てないで咲夜。ちなみに本気で言ってるのよ?」
「本気って。大体、そんなのじゃこいつだって」
「わはははは! そりゃいいや! 喜んで引き受けるぜ」
「ちょっと、魔理沙……」
咲夜は怪訝且つ意外そうな顔を向けるが、こいつは考えたな、と魔理沙は思うのだった。
咲夜一人では危ない、魔理沙一人では危ない上に報酬も高く付くだろう。しかし二人でなら危険度と報酬、この2つの問題をクリアできる。
その上でこのネタである。仕事の話と言っても魔理沙なので、それくらいのシャレは利く。
「ほら、あなたも従者なら大人しく従いなさい。別に大したこと言ってないでしょう?」
「こいつに貸し出しなんかされたら、一日中家内の掃除をさせられるに決まってます」
「うわ、何で分かったんだ?」
「『大したこと』どころか生きて帰って来られる補償がありませんわ」
「酷いぜ」
咲夜は以前の月へ行く計画の際、必要だった八掛炉を盗み……もとい、借りるために、主人であるレミリアの命で魔理沙の家へ忍び込んだことがあった。
しかし魔理沙邸はどこもかしこも蒐集物で溢れ返っていて、ちょっとした弾みでそれが雪崩になってしまい、危うく生き埋めになるところだったのである。魔理沙に見つかってしまったのも、一重にそれが原因だった。
「それでも私はあなたを信じてるわ、咲夜」
便利な言葉だな、と咲夜は思った。
「……はぁ。分かりました。行って来ればいいんでしょう」
「素直が一番だ」
「あなたに一番言われたくない台詞ね」
「失礼だな、私は幻想郷一素直だぜ? 主に自分に」
仲良いなこいつら、とパチュリーは思いつつ。
「決まりね。刻限は……日が沈むまででいいわ。のんびりやってきなさい」
ぶー垂れる咲夜と楽しげな魔理沙。二人の影が遠ざかり、パチュリーは窓を閉めた。
テーブルに戻って椅子に腰掛け、冷めかかった紅茶を一口飲む。
「あなたが気を利かせるなんて。珍しいこともあるものね、パチェ」
対面に、館の主は座っていた。パチュリーをこの愛称で呼ぶのは、レミリア・スカーレットだ。
「何のこと?」
「少なくとも、あの子達がここに来るまでは考えられなかった」
「何のことか分からないけど。……そうね、人間ってのは、分からない生き物だわ」
パチュリーは、一つ溜め息をついた。
「あなたのせいよ? レミィ。変な奴ばかり連れてくるんだから」
「それは、悪かったわね」
一人は招かれざる客だったのだが、原因はやはり自分にあるので素直に謝る。と言っても、まったく悪びれた様子は無い。
「それにしても。パチェの方こそ、人の従者を勝手に遊びに行かせないでくれるかしら」
「それは、悪かったわね」
こちらもまったく悪びれた様子はない。それもそう、「馬鹿言わないの」からこっち、最初から聞いていたレミリアは一つも口出ししなかったのだから。
「暇になってしまったわ。もちろん今日は、存分にパチェが相手になってくれるんでしょ?」
「レミィは甘えんぼさんねぇ」
仲良いなあの人達、と扉の外で司書は思うのだった。
平和を嘆く罰当たりは、何も暇を持て余している者ばかりではない。
「うふふふ~。事件ですよー。事件でーすーよ~」
射命丸文は手帳に何かを書き留めていた。事件とやらの詳細だろう。
「ふぅん。<『奪うのはあなたの大切なもの』新たな強盗現る>……か」
「何だそりゃ。そこはかとなく淫猥な響きだぜ」
「うわわわ、何処から湧いて出たんですか、あなた達は」
「失礼だな。人を神社の巫女みたいに」
「いや、湧いて出ないから」
背後の声に、文は慌てて飛びずさる。
魔理沙と咲夜が、遮るもののない上空で不気味な笑いを零している天狗を見つけるのは、そう大変なことではなかった。
「大体、『新たな』って何だよ。この平和極まりない幻想郷で、強盗なんて存在を聞いたのはこれが初めてだぜ」
「最も代表的な強盗犯が何を言ってるんですか」
「借りてるだけだぜ。その記事の場合は強盗犯じゃなくて強姦魔じゃないのか?」
「返ってきた覚えはないけどね。大体その記事だって魔理沙のことなんじゃないの? あなた、うちの人に何てことしてくれてるのよ」
「待て、盛大な誤解だ。ナイフで取り囲むな」
「そんな生易しいものじゃないですよー。っと、確かにそういう風に取られても仕方ないかも。見出しには一考の余地がありますか」
文は隠すように腕で囲っていた手帳を再度開き、何かを書き足した。
「何だそれ。ホントに物騒な話なのか?」
「おっと、教えませんよ? まだ記事にしていませんから」
でもまぁ強盗なので、あなた達も気を付けた方がいいですよ。と気を利かせつつ手帳を仕舞う。
「それにしても珍しい組み合わせですね。一体何の用ですか」
「そうそう、用があって来たんだったわね。これよ」
ぴらん、と咲夜は長方形の紙切れを取り出し、文に見せた。
『窓ガラス代請求書』
文は目をぱちくりさせて数瞬。零が四つ程度並んでいることを確認し、
「それでは、私は湧いて出る巫女の取材をしなければいけませんのでー!」
一目散に逃げ出すのだった。
「あ、待てコラ! 私も混ぜろ!」
「あなた何しに来たのよ」
魔理沙がズレた静止の声をかける間にも、幻想郷一の飛行速度で天狗の影は遠ざかる。
……と、思われた瞬間。
「私から逃げられると思って?」
「……ホントに人間ですか、あなた達は」
突っ込みを入れていたはずの咲夜が、いつの間にか文を羽交い絞めにしているのだった。時間を止める能力を使ったのだろう。
文の目から、一筋の涙が零れた。
「出かしたメイド! ほら、大人しく金出しな」
「物凄く楽しそうね」
「(それほど)持ってませんよぅ」
「ふーん。それじゃあ、ジャンプしてみ?」
「カツアゲですか。宙にいるのに、ジャンプもK点もありませんよぅ」
「仕方ないな。それじゃあ、警備員よろしくボディチェックと行きますか」
物凄く楽しそうに、わきわきと両手を蠢かしながら接近する。
「ってそれ、明らかにボディチェックの手つきじゃないんですけどー!?」
「ちょっと、魔理沙」
「なっ……ちょ、どこ触ってっ……! やめ……ぅあ」
「おいコラ」
「冗談だぜ。ほら」
魔理沙が右手を掲げる。猥褻なボディチェックが終わったと思ったら、その手には既に文の財布が握られているのだった。
「何でー!?」
「へっへっへ、ちゃんと持ってんじゃねぇか。ひぃふぅみぃ……ちっ、これだけかよ。天狗のくせに時化てやがんなぁ」
「ベタベタね。でも、ちゃんと足りることは足りるじゃない。もう空っぽだけど」
「鬼ー!! 悪魔ー!!」
「人間様だぜ。確かに窓ガラス代、返して貰った」
札を手にしてご機嫌な魔理沙が投げて返した財布を、漸く拘束の解けた文は慌てて受け取る。本当に中身は空っぽだった。
「ま、ほとんど自業自得だし。これに懲りたら紅魔館の窓に投函するのはやめることね」
「香霖堂なら別に構わないぜ」
「あううぅ……」
「っくしゅん! ……ああ、失礼」
「霖之助さん、風邪でも引いた?」
「霊夢だってさっき2回ほどしていたじゃないか、くしゃみ」
「誰か噂でもしているのかしらね」
「ふむ。……ところで霊夢、ガラスに結界を仕込む、というのはどうかな。名付けて強化ガラス」
「まんまのネーミングね。どうしたの? 急に」
「いや、ふと不安になってね」
二つの影が、紅魔館の方角に向かって飛んでいた。
「刻限は日没だってのに、まだ真っ昼間だ。もうちょい手こずると思ってたのにな」
「……そうね」
文句を言いながらも、任務を完遂した魔理沙はすこぶる上機嫌だった。
しかし、それに反して咲夜は、何処か納得のいかない様子でいた。
「っと。おい、どうした?」
二つの影はいつの間にか離れていた。魔理沙が振り返る。
後ろで咲夜が、腕を組みながら顔だけ魔理沙の向いている方に対して直角――明後日の方を見ながら静止していた。
「遊びに行きましょう」
「――――はい?」
まったく予想だにしなかった咲夜の一言に、さしもの魔理沙も敬語で聞き返さざるを得なかった。
「そう、まだ真っ昼間よ。時間が勿体ないの」
「はぁ」
「私の時間は無限にあると言っても、この時間はこの時間にしか使えない。有効に使わなければいけないわよね」
「はぁ」
「故に遊ぶのよ。そしてあなたも時間は有効に使うべき」
「はぁ」
「勘違いしないで。別にあなたと遊びたいって言ってるわけじゃないの。でもあなた一人で紅魔館に戻らせるわけにはいかない。告げ口されないように、という監視の意味があるのよ」
「はぁ」
「そういうわけで、一緒に来てくれるわよね?」
「はぁ」
魔理沙がこれまで認識していた、「完全で瀟洒な従者」という十六夜咲夜像がひび割れる。自慢の二枚舌も、要領を得ない返事を繰り返すばかりだった。
「ちゃんと聞いてるの?」
「――え。あ、あぁ、そうだな。時間は有効に使わなければいけないな」
事態を把握し、止まっていた思考は、漸く回転を始めるのだった。
調子を戻した魔理沙が、はは、と笑いを零しつつ。
「どうせ暇だし、付き合うぜ。して、どこへ遊びに行くんだ?」
「――――あ」
遊びに行くと言い出したまではいいが、そこまで考えていなかったのだろう。稀にこういう抜けているところがあるのは、彼女の愛嬌だ。
「わははは! 何となくそうなる気がしたぜ」
「悪かったわね。こういう機会なんて今まで無かったんだもの」
頬を膨らませて拗ねる様子が、普段の立ち振る舞いからのギャップと相まって無駄に可愛らしい。
魔理沙は、それならば、と箒の先端の方に寄り、咲夜側に背を向けた。
「だったら、場所は私に選ばせてもらうぜ。ほら、乗れよ」
「え?」
「時間を無駄にしたくないんだろ? 幻想郷随一のスピードを見せてやるよ。鴉天狗なんかにゃ負けないぜ」
「……」
咲夜は、ぽり、と頬を掻いて一瞬躊躇した後、おずおずと魔理沙の後ろに、横向きに座った。
「ちゃんと掴まってろよ」
「分かったわよ」
ぎゅー。
「って、ちょ、掴まりすぎ。苦しい、苦しいって」
「あ、あら、ごめんなさい」
「まったく……」
胴に回されていた手の拘束が緩み、息を一つつくと、箒の先を僅かに下げる。
方角確認
視界良好
魔力充填
発進準備
5
4
3
2
1
「行っくぜー!!!」
「……っ!!」
それは速く。ただひたすらに速く。
流れ流れ行く景色を見ながら、咲夜は呟いた。
「これが、魔理沙の世界……」
「あー? 何か言ったかー?」
「何でもないわ」
時間が止まったように平穏な幻想郷の空を、亜高速の彗星が駆けて行く。
燦々とした太陽の下、青の青、どこまでも涼しげに見える湖。その中心の孤島に、紅魔館は在った。
どこまでも深い青空に遮るものは何もなく、容赦ない煌きに鮮やかな真紅が際立つ。
「ちょうど館の影になってるのは嬉しいけど……。暑いのはどうしようもないわね」
その館の裏庭。如雨露を片手に、花に水遣りをしているのは館のメイド長、十六夜咲夜だった。
その背後に、怪しげな影がもう一つ。
「そこの略奪者」
咲夜のよく知るこの常習犯には、振り向かずともどこの誰かは特定できた。
略奪者は、おおっと、と驚いた振りをしながらその場に停止した。自称普通の魔法使い、霧雨魔理沙だ。
「やあ、メイドじゃないか。今日はいい天気だ、花も喜ぶな」
「白々しいわよ。もう正直者はやめたのかしら?」
少し前から魔理沙は、堂々と館に正門から入るようになっていた。
咲夜の皮肉は、「正門から入れば嘘を吐いたことにはならないだろう?」という魔理沙の理解し難い屁理屈へと宛てられたものだった。何故に嘘を控えるようになったのかは定かではないが。
「いや、だってなぁ……。あの門番を毎回毎回ぶっ飛ばしていくのは、さすがに可哀想だぜ」
罰が悪そうに頬を掻く。
館の門番である紅美鈴。来るたびに彼女を言葉通り「ぶっ飛ばして」通っていくのは、さしもの魔理沙も気が引けるのだろう。珍しいこともあるものだ。
「相手してあげなさいよ。あなたにぶっ飛ばされるために毎日頑張ってるんだから」
「え。やっぱり、マゾなのか? あいつは」
「……言い方が悪かったわね。あなたを倒すために精進してるってこと」
「ふーん」
せめて勝算があって戦っていると思って欲しいものだ、と咲夜は思った。
「しかし、今から正門に戻るってのも面倒だ」
飄々としていた魔理沙の表情が、鋭利なものへと切り替わる。口調はそのままだが、狙い済ましたような視線が咲夜を射抜く。
「もうここから通ってもいいだろう?」
「通すとでも思っているのかしら?」
「だよなぁ」
咲夜も同様に。持っていたはずの如雨露はいつの間にか、魔法のように銀のナイフへ替わっていた。
「最近マンネリだったんだよな。たまにはお前と弾幕るのも楽しそうだ」
「そうね、私も最近仕事が忙しくて。ストレス発散に良さそうだわ」
一触即発。互いの研ぎ澄まされた集中力が交差しようとしたとき、
「馬鹿言わないの」
と横合いから別の声が割り込んできた。
「よう、パチュリー」
「あらパチュリー様、ご機嫌麗しゅう」
何事もなかったかのように挨拶する二人。銀のナイフもまた如雨露へ戻っていた。
窓から顔を覗かせている魔女は、図書館の主であり、裏庭の花の所有者であるパチュリー・ノーレッジだ。
「白々しいわよ。こんなとこで遊んだりして、花の一つでも潰したら容赦しないんだから」
「止むを得ない正当防衛ですわ」
「だとしても。ほら、パチュリー様は大人しく通せって言ってるぜ?」
「……はぁ。まぁ、いいんだけどね」
花を潰すなということは、つまりそういうことだと二人は理解した。
そもそも今さら、常連である魔理沙を通すも通さないもない。咲夜がノリに付き合ったのも、ほとんど冗談でのことだった。
しかし、
「別に通すなんて言ってないわよ」
咲夜が横に退けたところで、またパチュリーの声が遮るのだった。
「どういうことだよ」
魔理沙が機嫌の悪そうに問う。とはいえ、通さないと言っても通るから今さらの話。
「霧雨魔法店に仕事の依頼よ。咲夜と一緒に、あのタチの悪いパパラッチに今まで割った窓ガラス代を請求してきて欲しいのよ」
「文のことか? 何だ、被害を受けてるのは香霖のとこだけじゃないんだな」
新聞記者、射命丸文。彼女は、しばしば書いた新聞を窓ガラスに向かって投函することがある。今まで、というからには、紅魔館も結構な被害を被っているのだろう。
「別にこの黒いのに依頼なんかしなくても、私だけで十分ですけれど」
「天狗を侮ってはいけないわ咲夜。あなた達二人でも慎重過ぎるということはない」
「私だって一人で十分だが、仕事の依頼とあれば従うぜ。当然報酬が出るんだろう?」
「もちろん。報酬はこのチケットよ」
「チケット?」
ぴらん、とパチュリーは長方形の紙切れを取り出し、二人に見せた。
『さくや1日貸し出し券』
と可愛らしい字ででかでかと書かれている。おまけにその隣には、これまた可愛らしい、咲夜を模しているのだろう落書きが描かれていた。
魔理沙の隣で、びきびき、と音が鳴った気がした。
「……パチュリー様?」
「笑顔で青筋を立てないで咲夜。ちなみに本気で言ってるのよ?」
「本気って。大体、そんなのじゃこいつだって」
「わはははは! そりゃいいや! 喜んで引き受けるぜ」
「ちょっと、魔理沙……」
咲夜は怪訝且つ意外そうな顔を向けるが、こいつは考えたな、と魔理沙は思うのだった。
咲夜一人では危ない、魔理沙一人では危ない上に報酬も高く付くだろう。しかし二人でなら危険度と報酬、この2つの問題をクリアできる。
その上でこのネタである。仕事の話と言っても魔理沙なので、それくらいのシャレは利く。
「ほら、あなたも従者なら大人しく従いなさい。別に大したこと言ってないでしょう?」
「こいつに貸し出しなんかされたら、一日中家内の掃除をさせられるに決まってます」
「うわ、何で分かったんだ?」
「『大したこと』どころか生きて帰って来られる補償がありませんわ」
「酷いぜ」
咲夜は以前の月へ行く計画の際、必要だった八掛炉を盗み……もとい、借りるために、主人であるレミリアの命で魔理沙の家へ忍び込んだことがあった。
しかし魔理沙邸はどこもかしこも蒐集物で溢れ返っていて、ちょっとした弾みでそれが雪崩になってしまい、危うく生き埋めになるところだったのである。魔理沙に見つかってしまったのも、一重にそれが原因だった。
「それでも私はあなたを信じてるわ、咲夜」
便利な言葉だな、と咲夜は思った。
「……はぁ。分かりました。行って来ればいいんでしょう」
「素直が一番だ」
「あなたに一番言われたくない台詞ね」
「失礼だな、私は幻想郷一素直だぜ? 主に自分に」
仲良いなこいつら、とパチュリーは思いつつ。
「決まりね。刻限は……日が沈むまででいいわ。のんびりやってきなさい」
ぶー垂れる咲夜と楽しげな魔理沙。二人の影が遠ざかり、パチュリーは窓を閉めた。
テーブルに戻って椅子に腰掛け、冷めかかった紅茶を一口飲む。
「あなたが気を利かせるなんて。珍しいこともあるものね、パチェ」
対面に、館の主は座っていた。パチュリーをこの愛称で呼ぶのは、レミリア・スカーレットだ。
「何のこと?」
「少なくとも、あの子達がここに来るまでは考えられなかった」
「何のことか分からないけど。……そうね、人間ってのは、分からない生き物だわ」
パチュリーは、一つ溜め息をついた。
「あなたのせいよ? レミィ。変な奴ばかり連れてくるんだから」
「それは、悪かったわね」
一人は招かれざる客だったのだが、原因はやはり自分にあるので素直に謝る。と言っても、まったく悪びれた様子は無い。
「それにしても。パチェの方こそ、人の従者を勝手に遊びに行かせないでくれるかしら」
「それは、悪かったわね」
こちらもまったく悪びれた様子はない。それもそう、「馬鹿言わないの」からこっち、最初から聞いていたレミリアは一つも口出ししなかったのだから。
「暇になってしまったわ。もちろん今日は、存分にパチェが相手になってくれるんでしょ?」
「レミィは甘えんぼさんねぇ」
仲良いなあの人達、と扉の外で司書は思うのだった。
平和を嘆く罰当たりは、何も暇を持て余している者ばかりではない。
「うふふふ~。事件ですよー。事件でーすーよ~」
射命丸文は手帳に何かを書き留めていた。事件とやらの詳細だろう。
「ふぅん。<『奪うのはあなたの大切なもの』新たな強盗現る>……か」
「何だそりゃ。そこはかとなく淫猥な響きだぜ」
「うわわわ、何処から湧いて出たんですか、あなた達は」
「失礼だな。人を神社の巫女みたいに」
「いや、湧いて出ないから」
背後の声に、文は慌てて飛びずさる。
魔理沙と咲夜が、遮るもののない上空で不気味な笑いを零している天狗を見つけるのは、そう大変なことではなかった。
「大体、『新たな』って何だよ。この平和極まりない幻想郷で、強盗なんて存在を聞いたのはこれが初めてだぜ」
「最も代表的な強盗犯が何を言ってるんですか」
「借りてるだけだぜ。その記事の場合は強盗犯じゃなくて強姦魔じゃないのか?」
「返ってきた覚えはないけどね。大体その記事だって魔理沙のことなんじゃないの? あなた、うちの人に何てことしてくれてるのよ」
「待て、盛大な誤解だ。ナイフで取り囲むな」
「そんな生易しいものじゃないですよー。っと、確かにそういう風に取られても仕方ないかも。見出しには一考の余地がありますか」
文は隠すように腕で囲っていた手帳を再度開き、何かを書き足した。
「何だそれ。ホントに物騒な話なのか?」
「おっと、教えませんよ? まだ記事にしていませんから」
でもまぁ強盗なので、あなた達も気を付けた方がいいですよ。と気を利かせつつ手帳を仕舞う。
「それにしても珍しい組み合わせですね。一体何の用ですか」
「そうそう、用があって来たんだったわね。これよ」
ぴらん、と咲夜は長方形の紙切れを取り出し、文に見せた。
『窓ガラス代請求書』
文は目をぱちくりさせて数瞬。零が四つ程度並んでいることを確認し、
「それでは、私は湧いて出る巫女の取材をしなければいけませんのでー!」
一目散に逃げ出すのだった。
「あ、待てコラ! 私も混ぜろ!」
「あなた何しに来たのよ」
魔理沙がズレた静止の声をかける間にも、幻想郷一の飛行速度で天狗の影は遠ざかる。
……と、思われた瞬間。
「私から逃げられると思って?」
「……ホントに人間ですか、あなた達は」
突っ込みを入れていたはずの咲夜が、いつの間にか文を羽交い絞めにしているのだった。時間を止める能力を使ったのだろう。
文の目から、一筋の涙が零れた。
「出かしたメイド! ほら、大人しく金出しな」
「物凄く楽しそうね」
「(それほど)持ってませんよぅ」
「ふーん。それじゃあ、ジャンプしてみ?」
「カツアゲですか。宙にいるのに、ジャンプもK点もありませんよぅ」
「仕方ないな。それじゃあ、警備員よろしくボディチェックと行きますか」
物凄く楽しそうに、わきわきと両手を蠢かしながら接近する。
「ってそれ、明らかにボディチェックの手つきじゃないんですけどー!?」
「ちょっと、魔理沙」
「なっ……ちょ、どこ触ってっ……! やめ……ぅあ」
「おいコラ」
「冗談だぜ。ほら」
魔理沙が右手を掲げる。猥褻なボディチェックが終わったと思ったら、その手には既に文の財布が握られているのだった。
「何でー!?」
「へっへっへ、ちゃんと持ってんじゃねぇか。ひぃふぅみぃ……ちっ、これだけかよ。天狗のくせに時化てやがんなぁ」
「ベタベタね。でも、ちゃんと足りることは足りるじゃない。もう空っぽだけど」
「鬼ー!! 悪魔ー!!」
「人間様だぜ。確かに窓ガラス代、返して貰った」
札を手にしてご機嫌な魔理沙が投げて返した財布を、漸く拘束の解けた文は慌てて受け取る。本当に中身は空っぽだった。
「ま、ほとんど自業自得だし。これに懲りたら紅魔館の窓に投函するのはやめることね」
「香霖堂なら別に構わないぜ」
「あううぅ……」
「っくしゅん! ……ああ、失礼」
「霖之助さん、風邪でも引いた?」
「霊夢だってさっき2回ほどしていたじゃないか、くしゃみ」
「誰か噂でもしているのかしらね」
「ふむ。……ところで霊夢、ガラスに結界を仕込む、というのはどうかな。名付けて強化ガラス」
「まんまのネーミングね。どうしたの? 急に」
「いや、ふと不安になってね」
二つの影が、紅魔館の方角に向かって飛んでいた。
「刻限は日没だってのに、まだ真っ昼間だ。もうちょい手こずると思ってたのにな」
「……そうね」
文句を言いながらも、任務を完遂した魔理沙はすこぶる上機嫌だった。
しかし、それに反して咲夜は、何処か納得のいかない様子でいた。
「っと。おい、どうした?」
二つの影はいつの間にか離れていた。魔理沙が振り返る。
後ろで咲夜が、腕を組みながら顔だけ魔理沙の向いている方に対して直角――明後日の方を見ながら静止していた。
「遊びに行きましょう」
「――――はい?」
まったく予想だにしなかった咲夜の一言に、さしもの魔理沙も敬語で聞き返さざるを得なかった。
「そう、まだ真っ昼間よ。時間が勿体ないの」
「はぁ」
「私の時間は無限にあると言っても、この時間はこの時間にしか使えない。有効に使わなければいけないわよね」
「はぁ」
「故に遊ぶのよ。そしてあなたも時間は有効に使うべき」
「はぁ」
「勘違いしないで。別にあなたと遊びたいって言ってるわけじゃないの。でもあなた一人で紅魔館に戻らせるわけにはいかない。告げ口されないように、という監視の意味があるのよ」
「はぁ」
「そういうわけで、一緒に来てくれるわよね?」
「はぁ」
魔理沙がこれまで認識していた、「完全で瀟洒な従者」という十六夜咲夜像がひび割れる。自慢の二枚舌も、要領を得ない返事を繰り返すばかりだった。
「ちゃんと聞いてるの?」
「――え。あ、あぁ、そうだな。時間は有効に使わなければいけないな」
事態を把握し、止まっていた思考は、漸く回転を始めるのだった。
調子を戻した魔理沙が、はは、と笑いを零しつつ。
「どうせ暇だし、付き合うぜ。して、どこへ遊びに行くんだ?」
「――――あ」
遊びに行くと言い出したまではいいが、そこまで考えていなかったのだろう。稀にこういう抜けているところがあるのは、彼女の愛嬌だ。
「わははは! 何となくそうなる気がしたぜ」
「悪かったわね。こういう機会なんて今まで無かったんだもの」
頬を膨らませて拗ねる様子が、普段の立ち振る舞いからのギャップと相まって無駄に可愛らしい。
魔理沙は、それならば、と箒の先端の方に寄り、咲夜側に背を向けた。
「だったら、場所は私に選ばせてもらうぜ。ほら、乗れよ」
「え?」
「時間を無駄にしたくないんだろ? 幻想郷随一のスピードを見せてやるよ。鴉天狗なんかにゃ負けないぜ」
「……」
咲夜は、ぽり、と頬を掻いて一瞬躊躇した後、おずおずと魔理沙の後ろに、横向きに座った。
「ちゃんと掴まってろよ」
「分かったわよ」
ぎゅー。
「って、ちょ、掴まりすぎ。苦しい、苦しいって」
「あ、あら、ごめんなさい」
「まったく……」
胴に回されていた手の拘束が緩み、息を一つつくと、箒の先を僅かに下げる。
方角確認
視界良好
魔力充填
発進準備
5
4
3
2
1
「行っくぜー!!!」
「……っ!!」
それは速く。ただひたすらに速く。
流れ流れ行く景色を見ながら、咲夜は呟いた。
「これが、魔理沙の世界……」
「あー? 何か言ったかー?」
「何でもないわ」
時間が止まったように平穏な幻想郷の空を、亜高速の彗星が駆けて行く。
今後にやたらめったら期待します がんばってドゴッとがんばってくださいw
次回、次々回があることをとても楽しみにしています
幻想郷の中で人と人としての付き合いをしている咲夜が見てみたいですから
魔理沙と咲夜って本編でも、「仲いいな、こいつら」って絶対思いますよね!
ああ、私もこういうのを待っていました!
文字通り新しい世界が見えるなぁ、最高でした。
まだまだ序盤のようですが人間同士の気ままな遊びの旅、期待させていただきます~