朝日が窓から差す前に、寝所から這い出る。
私が猫又になり、式を打たれて人の姿を取るようになってから数年が経った。
猫の姿をしていた時とは色々と勝手が違うことに戸惑うこともあったけれど、ようやく日常生活に慣れてきたと感じる。
欠伸をひとつ。加えて、伸びをする。この背骨が矯正される感覚は、猫の時と同じだ。
起きてすぐに尿意をもよおして厠へ行きたくなるのも一緒。人の姿だからといって、生理的なものまで変わるというわけでは無いようだ。以前からの癖も、偶に無意識の内に行なってしまう事がある。毛皮がないのに、身体を舐めたりしてしまうのがそれだ。
「あ……」
今も、丁度その癖で腕を舐めようとしてしまった。幸い、舌を出した所で止まったけれどそろそろこの癖は直したい。
私の主、八雲 藍様は元々力の強い妖狐であったそうだが、その立居振舞には獣らしさが無いというか……人間らしい?と言うのだろうか。とにかく、きちんとしている。
私も、そのような方に見初められたからには期待に応えたくなる、そういう風になりたいと切に願っている。だから、このマヨヒガの管理を任された時はとても嬉しく思った。
マヨヒガは、私が寝床として住んでいる他に主の藍様はもちろん、本来の持ち主である紫様も来訪される事がある。だから、管理に気が抜けるはずは無い。いつ訪れても大丈夫なように、家の中を整え、台所に火を入れ、手が加わっているという雰囲気を保っている。
家は住人がいなくなるとその役割を失い、一気に生気を失って存在感が無くなってしまう。
そうならないように、私はしっかりとこのマヨヒガを管理し、番をしなくてはならない。
だが、毎日の仕事の中にも苦手な事はある。
炊事、洗濯、掃除。
それらは、私の嫌う水を使う仕事である。
元々、水は式にとって苦手なものであるが、それに加えて私は元々猫である。手のひらまでなら大丈夫だが、顔などにかかった時は思わず飛び退いてしまう。顔に埃が付いた時でさえ、洗うというよりは濡らす程度にしか水を受け付ける事が出来ない程だ。
「ええと、ご飯の用意をしなくちゃ……」
猫の時は飯の事など殆ど考えもしなかった。自分で狩ったものをそのまま食したり、或いは面倒見の良い人間から上手くもらったりすればそれで良かったからだ。だが、人の姿を取るからには人と同じ様に過ごすようにしなくてはならない。藍様がそう仰っているので、渋々ながらその言うとおりにする。
井戸から水を汲み上げる。かまどに火が入ると、台所だけではなく家全体にまで活気が満ちてくる気がした。意を決すて水を張り、袖を巻くって米を研ぐ。せめて、手首から上には水がかからないように慎重に米を掬っては擦り、張った水を白く濁らせていく。
研ぎ終わった米を釜に入れて火にかけ、濡れた手を火のそばで乾かす。
まだ些か慣れない手つきで包丁を握り、材料を切っていく。マヨヒガは普段外界と遮断されているが、裏庭には畑や果実を実らせる木が植えてあり、四季の境界が無いマヨヒガでは天候に悩まされる事もなく、多少手を加えるだけでほぼ自給自足が出来るようになっている。少し前までは牛や鶏などの家畜まで飼っていたらしいが、維持費の方がかかるという理由で今はもう居ないらしい。正直、鶏を見て追い掛け回さないという確証が持てない私にとってはありがたい事だ。
「でも、久しぶりに狩りもしたいなあ」
マヨヒガの近くには山林があり、そこには雉や小動物がいる。それらを見かけると、どうしても身体が飛び掛かってしまいそうになる。
そんな事を呟きながら、切った野菜を煮えた湯の中へと入れていく。出汁を取り終わった煮干しは、もう私のお腹の中だ。幻想郷には海が無いがマヨヒガの中には出汁用の海産物がひと通り揃っている。猫の私にとっては、嬉しい限りだ。
その時、戸を開ける音がした。外の方から、家の戸口へと慣れた足取りで近づいてくる音がする。慌てて調理用具を置くと玄関の方へと向かい、扉を叩く音に応える。
「はい、今開けます」
扉を開けると、私の主がいた。道士服から金色の尾を9本揺らし、優しい笑みを私に向ける。
「おはよう、橙。しっかり番をしているようだね」
「おはよう御座います、藍様」
「ああ。朝餉を作っている途中だったか」
調理の音が聞こえたか、或いは来る途中に外へと出て行く煙が
「あの、食べて行かれます?」
「丁度良かった。昨日の夜までずっと仕事が立て込んでいて、まだ何も食べていないんだ」
「それは随分大変なお仕事でしたね」
「結界に綻びがいくつか出来ていてな……ん?鍋を見に行かなくていいのか」
「あ、はい。それでは、食卓でお待ちを」
再び台所へと戻る。いい具合に煮えた鍋の中に味噌を溶いて入れる。それから、吹きこぼれないように火を見張る。
「よし、出来た」
釜の中の飯をお櫃の中に移し替え、茶碗に盛る。
火にかけていたお味噌汁を器によそい、二人分をお盆に乗せて食卓へと運んでいく。
「お持ちしました」
「ありがとう。ん、美味しそうだ」
まず、見た目は大丈夫だったようだ。藍様の評価に思わず私は期待する。
席に座り、手を合わせて食事の挨拶をする。箸をとり、ほのかに湯気が立つ味噌汁を藍様がすする。私の視線に気がついたのか、お味噌汁を飲んで藍様は評価を下す。
「ん、美味しい」
「良かった」
安堵の声が漏れて出た。もしそう言われなければ私の喉に食物は通らなかっただろう。
「でも欲を言えば、もう少し……」
「もう少し?」
「いや、別に。まあ、疲れた時にはしょっぱいものが欲しくなるということだ。けれど、味はしょっぱ過ぎないものがいい」
何やら、禅問答のような事を言われている気がする。しょっぱいのに、味はしょっぱ過ぎないもの……そう言われて、私は頭を悩ませた。
「ええと、お味噌を多く入れた方が良かったのですか?」
「いや、そうすると味がどうなるかは予想がつくだろう?まあ、これもひとつの宿題とするとしよう」
味噌を多く入れすぎれば、味噌と出汁の調和が取れなくなって味がおかしな事になってしまう。では、どうすればしょっぱいのに味がしょっぱくないお味噌汁というものは作れるのであろうか?
「今は食べることに集中しなさい」
そんな私を見通して、藍様は助言をくださる。多分、私は恵まれているのだろうな。
このように機知に富み、力もある大妖に指南を受けられるということは、きっと滅多に無いことだろう。
私は返事をして、まずは自分が作ったものを口の中に入れることにした。
自分としては、ご飯が少し硬かったのが惜しいところだと思った。
食後に少し休んだ後、藍様から修行を受ける。
私が受ける修行と言うのは、私の内側にある力の回路を開いていくという修行らしい。
らしい、と言うのは私がまだその効果を実感できていないからだ。
「藍様はどのような修行をされていたのですか?」
「私の場合は力が強すぎたからそれを抑えるための修行だったよ。どちらかと言えば精神的な修行が中心だったかな」
「精神的な修行ってどういうものですか?」
「簡単に言えば、死にかけることかな。人間だったら、首を吊ったり心臓を一時的に止めたり……私の場合は紫様によく生と死の境界を操られてもだえ苦しんだよ」
聞いて、私は血の気が引いていくのが自分でもよくわかった。
「橙の場合はまず肉体的な修行からだな。回路を開いてもそれに耐えうる土台が無いとすぐに倒れてしまうから」
それを聞いて少しだけ安心したが、やはり不安が残る。いつかはそういう修行をしなくてはならないのかと、やはり甘いものではないのだなと思う。
「今はなんとかなりますけれど、将来のそんな苦しそうな修行に耐えられる自信がありません」
「修行に耐えられるように修行をするのさ。さて、もう一度印を組んでみなさい」
返事をして、陰陽道の基本に則った術を手で組んでいく。これを、数時間で何度も繰り返す。少しでも飽きたりして術に乱れが出れば、直ぐ様お叱りを受ける。……叱られると言っても、せいぜい尻尾でくすぐられるくらいだが。
「そういえば、少し聞きたいことがあるのだが」
「なんでしょうか?」
「いや、何も無ければ別に構わないのだが……最近身体に何か不調などはあったりはしないか?」
「いえ、特に何も」
そう答えると、「そうか」と藍様が頷いて話が終わる。言葉とは裏腹に、心配そうな顔をされていたのが少し印象に残った。
一段落して、肉体の鍛錬に移る。藍様の動きに遅れないように山を駆ける。
マヨヒガは元々廃村となっていた場所を空間の境界を別つ事で紫様たちの拠点の一つとしたらしい。裏山の山林は元々その村で生きていた人々の生活を支えていたのであろう場所だ。それ故にかなりの広さがあり、修行場所にはもってこいの場所となっていた。
「ほら、捕まえてみろ。その程度の動きでは日が沈むまでに私を捕まえる事は出来ないぞ」
後ろを向いて飛んだまま藍様は私に声をかける。目で見なくとも藍様には周りの景色が見えているらしい。やっていることは単なる追いかけっこであるが、その場所が木の連なる山中となるとそれは一気に難度が変わる。
木々の間を縫うように飛ぶ。本気を出されれば、一瞬で山を越える程の速さはあるのだろう。捕まえられそうになると、瞬時に速度を上げてかわされる。まるで、じゃらされているかのようにも感じる。猫のままであったならば、同じようにかわされ続けて捕まえられなかっただろうが、今は考えられるだけの頭を持っている。瞬時に速度をあげる瞬間を見極め、動く方向を見極める。耳を立たせ、辺りの空気を全身で感じ取る。
飛びつく。避けられる。空を何度も蹴って藍様の動きに追いつこうとする。一際大きく、飛び込むように空を蹴った。その瞬間、藍様は動きを更に加えて避けようとする。目の前には大木。
―――――今だっ。
動きが変わるその一瞬に、木を蹴って身体の向きを反転させ、その動きに付いて行く。飛び込むように藍様を捕まえたが、いなすように受け止められた。
「よし、いい動きだった」
どうやら、まだ私は藍様の足元にも及ばないらしい。分かってはいても一矢くらい報いたいものだと思い、難しい顔をして尻尾を力強く振る。それにお気づきになったのか、藍様は困ったようにお笑いになった。
「それじゃあ、また何日かしたら様子を見に来るから。それまでしっかり修行の復習をしておくこと」
「はい。分かりました」
日が暮れる頃、藍様は再びご自身の仕事へと向かわれた。
見送りをして、私は留守中にしなければならない事を思い浮かべる。一口にマヨヒガの管理とは言っても、やらなくてはならないことがたくさんだ。忙しくなければ藍様にも手伝っていただけるのだが、今はそうはいかない。
「さてと、私も頑張らなきゃ」
覚悟を決めて、屋内へと戻る。まずは藍様へとお出ししたお茶などを片付ける。
それから掃除。一人で暮らすにはこのマヨヒガは広すぎるので、掃除も一苦労だ。一日ですべての箇所を回ろうとすると確実に掃除以外の事に時間を割く余裕が無くなる。だが、それも修行だと言われているので私はその通りに出来るだけやってみる。
前のように藍様に指摘されることの無いように注意深く隅々の埃を掃く。
隅や隙間を見つけては、髭が無いのに頬がむずつく。猫の身体であれば間違い無く潜り込んでいた居心地のよさそうな場所の誘惑に耐える。
……頭を強く打った。当然である。今の人型の姿でこんな狭い場所に入れる訳がない。まだまだ私は修行が足りないと思う。
掃除を終わらせ、洗濯にとりかかる。式になってから日が浅いが、猫又になったのもそれほど昔の話ではない。数十年、一般的な妖怪の感覚からすればついこの前とでも言うのだろう。二足歩行すら完全には出来なかった私を拾ってくださった藍様には感謝してもしきれない。
「私なんかで、本当にいいのだろうか」
私なんかよりも、もっと式となるのにふさわしい者がいたのではないのかと、前に藍様にお聞きしたことがある。しかし、藍様は他の者など考えられなかったと言う。
藍様は私からすれば妖力も、知力も、全て遥か格上の存在だ。そのようなお方の考えなど、やはり私ごときには分からないのかもしれないと溜息をつく。
「あれ?」
壁に目をやった時である。廊下の壁の下部に穴が開いていた。穴といっても後から何者かによって開けられたようには見えず、まるでこの家が作られた当初から意図して作られていたかのような綺麗な円を描いた穴であった。
思い直してみると、穴があることぐらいは別にそこまで驚くような事ではない。元々、マヨヒガはあの大妖怪である八雲 紫様の所有物であり、何か不思議な事が起こったとしても(ああ、そういうものなのか)と思わなければ気が持たない程に、この家の中には不思議なことが多い。
ただ、その穴自体には興味があった。ちょうど上手く入れば子供が一人入れそうな大きさ。つまり、自分でも入れそうな穴である。猫である私が、興味をそそられない訳がない。
先ほど頭を打ったことも忘れて、私はその穴をまず覗き込む。瞳孔が開いて目が丸くなるのが自分でも分かる。中は、空間が広がっていた。思わず耳がぴくぴくと動く。尻尾も小刻みに動いているかもしれない。
この壁の向こうは、ちょうど部屋と部屋の合間になっているはずである。もしかすると、隠し部屋かもしれない。そんな好奇心が、私をさらに穴の中へと引き入れる。
頭が入り口を抜ける。その状態で首を回して辺りを見る。予想以上に中は広かった。高さは家の天井と同じくらいの高さまで吹き抜けており、窓は無いが何故か中は明るく、真っ白な空間に、鮮やかな色彩の紙風船や鞠が転がっていた。
「この部屋、なんだろう?」
しばらく、顔だけを中に入れて部屋の中を見渡していた。そのまま身体も入ろうとしたが、何かに引っ掛かっているように感じて入ることが出来なかった。変に思ったが、どうやってもそれ以上中に入ることは出来ない。仕方なく、中をじっと見る。爽やかな風が吹き、転がっていた紙ふうせんが浮き上がる。中で遊べたら楽しいだろうなと私は思った。
しかし、何時まで経っても中にはどうやっても入れなかった。仕方なく、私はその穴を諦めて顔を穴から離す。やらなければならない仕事を思い出して台所へと小走りに向かう。振り返って壁を見た時、その穴は影も形もなくなっていた。無くなっていたことに、私は何故か興奮を覚えた。これは、もしかすると私だけの知る発見なのではないかと期待を抱く。
「まあ、そんなはずは無いか」
自分が知っているものを、藍様が知らないはずはないだろう。そう思って、私はその場を後にした。
それから数日間は特におかしな事もないまま過ぎていった。それよりも私は、日々の日常生活に慣れることをまずは念頭に置かなければならない。
「どうやら修行は怠っていなかったようだな。動きが良くなっているぞ」
「はい。ありがとうございます」
数日ぶりにいらっしゃった藍様に修行をつけてもらい、お褒めの言葉をもらう。
何故かその時、頭の中に家の壁に浮かんだ、あの丸い穴のことが浮かんだ。あれの事を藍様がご存知でいらっしゃるのか、気になった。だが、穴のことをどのように説明して言えばいいのか分からない。言い方を変えて、それとなく尋ねることにした。
「藍様、お聞きしたいことがあるのですがよろしいでしょうか」
「なんだい?」
「マヨヒガの廊下の壁の内側に隠し部屋のようなものがあるという話は聞いておりますか?」
「隠し部屋?……はて、なんのことだかよく分からないが」
「では、廊下でなくともそういうのがあるという話は?」
「いや、私が知るかぎりではそんなものは無かったな。どうしてそんな事を?」
「ああ、いえ。そんなものがあったら面白いなあと」
藍様が見たことの無いものが、私にだけ見えるなどということがあるのだろうか?実際、前に見た時以来、私がその穴を見る事はなかった。意識して見ることが出来ないものなのか、それとも本当にただの見間違いだったのだろうか。
そんな事を考えていたからということもあって、私はその事について詳しく藍様に話してみようとは思わなかった。
それに何日か経ってしまうと、もはや私もあまりその穴のことを気にしなくなっていた。幻想郷では、不思議なことなど日常茶飯事である。その穴も、そんなありふれた出来事の一つとして私の中で消化されつつあった。
「今日は藍様のお仕事がようやく終わるから、腕によりをかけて料理を作らないと」
式であるもののまだ力が弱いために主の仕事を手伝えないことを私は歯痒く思っていた。早く主を手伝えるほどの力を持ちたい、その為にはマヨヒガの管理などもはや自分にとって試練ではないと証明して見せたい。そう意気込んでいた時である。
「あ」
台所の壁と床の間に穴が空いていた。前と少し違うのは円形ではなく、長方形に切り取られたように穴が空いているということ。驚きはしたが、興味が湧いて堪らないというわけではない。だが、無視をするという考えは浮かばなかった。前に見たあの不思議な部屋のことが忘れられなかったからかもしれない。
長方形の、前よりも広い穴の中を覗きこむ。穴の中には何も映らなかった。疑問に思って這いずるようにして穴の中へ入ろうとする。まず、前と同じように顔だけが中へと入る。
穴の中は前と同じように光が差し込まないはずなのに白く明るい部屋だった。
だが、前と違う部分もあった。色とりどりの鞠や、紙風船が見当たらなかった。それだけで、なにやらこの真っ白な部屋が薄気味悪いものに思えてくる。不意に、全身の毛が逆立つような、肌が震えるような感覚がする。外側から、内側から、何やら怖いものが近づいてくるような気がした。
「出よう」
そう呟いて、頭を中から出そうとする。これ以上中を見ていると何かおかしなことになる。
だが、なかなか外に出ることが出来ない。顔が引っかかる程に穴が小さくなっている。床に頭を擦り付けるようにして中から出ようとするがまだ引っかかる。焦りを感じた。このまま頭を抜き出すことが出来ないままになってしまうかもしれない。自分から入って、抜け出せなくなるなんて、何て間抜けなのだろうか。猫の時でさえ、自分がそんな事をした覚えはない。仲間がそうなったのを見たことはあったが。自分の習性を呪う。危険なものかどうかも分からずに手を出してしまう自分の思慮の浅はかさを憎く思った。手に力を込める。勢いをつける。早く、早く、この穴から抜けださなければ。
「おーい、橙。いるのか?」
帰ってきた藍様の私を呼ぶ声が聞こえた。助けてもらえると思ったのも束の間、もし今の姿を見られたらどうなるか、と思い直す。不甲斐ない式だと愛想を尽かされるかもしれない。尻尾がぎゅっと身体に巻かれる。怖さを身体が感じ取っていた。
しかし、それと同時に穴が少しだけ広がる。瞬時に頭を抜き出した私は廊下を走って、藍様の元へと向かう。玄関から上がったばかりの藍様を見つけて、私は安堵の溜息を漏らす。
「どうしたんだ、橙。そんなに慌てて」
「あ、その……」
どう説明したらよいものか迷った。穴に引っかかっていましたなどとは、とてもじゃないが言えない。適当な事を言って藍様にあれを見てもらえば良いのだろうか。藍様は私より様々な事についての知識がおありだ。
それなのに私は、そんな風に思うことは無礼であるはずなのに、なんとなくではあるが藍様があれを見ても何なのかが分からないような気がした。
「お、お帰りなさいませ。今、夕飯をお作りいたしますので、少しお待ちを」
「二人分ではなく、三人分ね」
藍様の後ろから声が聞こえた。そこには、藍様の主がいらっしゃった。
「あ……ご無沙汰しております、紫様」
「紫様。まだ中の用事が」
「いいじゃない。橙に何も起きてないのなら」
藍様はあまり良くなさそうな顔をして、紫様と一緒にマヨヒガへとお上がりになられる。
紫様は勝手知ったる我が家であるので、玄関に卍傘を立てかけると靴を脱いで先に居間の方へと向かう。
「ええと、中の用事とは?」
私は歩きながら藍様に問うた。
「ああ、実はまだ仕事が片付いていないんだ」
「仕事というのは、結界の修復のことですよね。どうしてマヨヒガに……?」
「大結界の方は終わったのだが、ここの結界もだいぶガタが来ている事が分かったのでな」
この幻想郷と外の世界を隔てる結界のように大規模では無いが、このマヨヒガにも一種の隠形の為に結界が貼られている。このマヨヒガは紫様の私有地だが、その中で好き勝手に世の中の理とは反した季節を無視した景観や外界の技術を用いた暮らし(私には修行の為、それらの技術を使わせていただくことは出来ないが)が営めるのもその結界で外界と隔たれているからだ……と、前に藍様は教えてくださった。
「あ、居た。ちょっと橙、聞きたい事があるのだけれど」
先に居間へと向かわれたはずの紫様がこちらに向かいながら私に声をおかけになる。
「私ですか?はい、何でしょうか」
「最近、このマヨヒガの中で何かおかしな事は起きていなかったかしら?」
そう言われて、あの白い部屋のことを真っ先に思い出す。先程までの事を思い出し、ゾクリと背筋に走るものがあった。しかし、あれが紫様のおっしゃる、『おかしな事』に含まれるのかどうかは分からない為、話すべきか悩んだ。私の態度に気がついたのか、藍様が心配そうな目を私に向けてくださっていた。そして、だから私は藍様に話そうとしなかったのだなと一人で納得する。
「……はい、ありました」
「どこで、かしら」
『何が』では無く、『どこで』と聞かれた。つまり、私の考えていた事は紫様の意図されていた事だったのだと理解する。すぐに穴が出来ていた場所へと案内をした。まずはその場から近い廊下にお連れしたが、そこに前あったはずの穴はやはり影も形も無かった。
「確かにここに穴があったのですが……」
紫様は思案顔になって頷く。おそらく、実際に見た私よりも正確に事態を把握しているのだろうと思った。それから、先程抜け出すのに難儀した台所の方へも向かう。そちらも、あったはずの穴は見当たらなかった。
「ふうん。なるほど、やっぱり」
しかし、紫様にとってはこれで十分なのであろう。分からないままというのも何だか居心地が悪いので、恥を承知で紫様にお伺いする。
「何が起こったのか、これだけでお分かりになられたのですか?」
「いや、全然。分かるはずが無いわ」
私は、「え?」と自分でも少し驚くくらいの声を上げた。
しかし、紫様はそんな事には気を留めずに台所の壁をコンコンと叩き、何かを調べていた。
「あ、ここね」
そう言うと、その壁から少し離れた空間に対して手を上から振り下ろす。すると、大きな裂け目が現れる。紫様の『境界を操る程度の能力』でスキマを作ったのだ。
「少し離れていなさい。危ないから」
そう言われて、私は藍様に手を引かれて後ろに下げられる。紫様はもう一度、今度は穴が見えた壁に対して行い、袖を捲った腕を中に手を入れて何かを探すような仕草をした。
一瞬、動きが止まった後に紫様は手を抜いてスキマの正面から離れる。すると、スキマの中からもやのような物が勢いを持って飛び出し、そのままもう一つのスキマの中へと吸い込まれるように消えていった。
「これでいいわ」
「あの、今のは?」
恐る恐る私は尋ねた。すると、紫様は意地悪そうな顔をして私に言う。
「あなたは実際に見たのでしょう。なら、聞くまでもないと思うのだけれど?」
「……紫様、お戯れを」
言葉に詰まりそうになった私の前に、藍様が助け舟を出してくださった。紫様の視線はそちらへと移ったが、それを聞いても紫様は別に機嫌を悪くなされたような事は無かったので、きっとこういうやりとりはいつもの事なのだろうと思った。ふう、とわざとらしいため息の後に紫様は再び私に視線を向けなさる。
「多分、あなたはあれを見たことを藍には伝えていないのでしょう?」
図星である。何故分かるのだろうと思ったが、判断する材料はいくらかあったと自分でも気付いて頭が下がる。たぶん、非があるのは私のほうだ。
「だから、私は教えない。あなたが藍に対して言うのが無駄だと思ったように、私もあなたにあれを理解させるのは無理だと思うから」
藍様が戸惑いを見せる。失礼な事をしたと私は今になって感じた。しかし、と同時に思う。
私は、あれを何と言って説明すればよかったのだろうか。
「でも、あなたが言わなかった理由もおおよそ想像できるわ」
私は顔を上げる。紫様の表情は怒っていらっしゃるわけではなかった。
「本質を知らずに名前だけを知って分かったようになるのは愚かなことでしか無い。だから今は、あれはこういう物なのだと覚えておきなさい」
私は頷いて返事をする。紫様たちと私の間に、理解できることの差があるのは当然のことだ。一仕事が終わったとでも言うかのように紫様は伸びをする。
「あの、廊下の方は?」
「そっちは別にいいわ……あれ、ちょっと橙。こっち向きなさい」
「え、はい」
突然呼び止められ、紫様に顔を見られる。そして、紫様はふう、と息を吸ってから持っている卍傘を意味ありげに肩に担ぎ、視線を藍様に向ける。
「ゆ、紫様?どうかなされましたか……」
藍様は何かに怯えているようであった。私はその何かが分からず、たじろいで後退る藍様と詰め寄る紫様を不思議そうに見ていた。
「ねえ、藍」
「は、はい」
「そこになおりなさい」
「え、な、何故ですか!?理由を」
「いいから」
主の命令に対して、式である私たちは素直に従うしか無い。
藍様は静かに座りながら懇願するように紫様を見る。玄関に立てかけていたはずの卍傘をいつの間にかスキマから取り出して持っていた。
「……せめて、橙の居ない所で」
「いいえ。これは橙にも関わりのあることだから」
そう言うや否や、振り上げた傘をしならせて藍様の脳天を叩く。紫様の傘は特殊な材質で出来ていて、妖力を込める事で材質の硬さや布の鋭利さを自由に変える事のできる性質がある。普通の傘を紫様の持つ力で振るえば、二度も振れずに壊れてしまうだろう。
正座した藍様は叩かれた瞬間、全身を震わせて痛みに耐えた。私の前ということもあるのかもしれないが、苦痛の声を出さずに主の仕置に耐える姿は見ていてこちらが涙ぐましくなる。
「あの……紫様。どうして、藍様が叩かれているのですか?」
「ああ、そうね。この不出来な式にも分かるようにちゃんと説明してあげないといけないわね」
傘の先端で藍様の後頭部をぐりぐりと痛めつけながら紫様は私の方に顔を向けて答えてくださった。
「まず、私達がしていた結界の修復だけれど。それって具体的にどんなことをするのかは聞いているかしら?」
「ええと、修復というのですから……やはり結界を貼り直したりするのではないでしょうか」
「それだと半分。結界が弱まる原因となるものを排除してからでないと意味がないでしょう」
「ええと、じゃあこのマヨヒガの結界を貼り直すためには……その原因をまず探さないといけないということですか」
「その通りよ。ああいう風に気脈が乱れていたり陰の気が溜まっていたりするとそれが結界を弱まらせる原因になるの。場合によっては、そこが異世界の入り口と通じる事もあるし、悪いものをこちらの世に引き寄せることもあるわ。なかなか察しが良くて助かるわ、どこかの誰かさんと違って」
私の答えが合っていたのに喜ばれているのは私としても嬉しいのだが、そのお陰で拍子を打つために藍様の頭が小気味良い音で叩かれたということを思うと、素直に喜べない。
私が見たものは、別世界の入り口だったのだろうか。あの真っ白で不気味な部屋を思い出して少し不安になる。
「それで、どうしてあなたがそれを見ることが出来たのかという理由は、この子の怠慢のせい」
もう一度、大きく振りかぶって藍様の頭を叩く。とうとう、短い悲鳴を上げて藍様の姿勢が崩れて前のめりに倒れた。ため息をついて紫様はそれを見下す。
「あのね、妖力の回路を開くと今までに見えないものが見えるようになったり、異なる世界と繋がりやすくなったりするって教えなかったかしら?」
「そ、それは分かっておりましたが……」
藍様は、頭だけでなく耳まで垂れて反省の色を示していた。正直、式である身としては主のそのような姿を見るのは些か心苦しい。
「あなたの言いたい事は分かるわよ。『自分がやってきた修行と正反対の事をしているから勝手が分からなかった』と。そんな甘い考えで式を扱えるとでも思っているのかしら」
「あの、紫様」
私は恐れ多い行為であることを理解して、紫様を呼び止めた。思った通り鋭い視線を向けられたが、意を決して言う。
「藍様がそのことにお気づきにならなかったのは、私のせいでもあります。私が、藍様にきちんと説明をしていれば紫様の手を煩わせる事など無く……」
「あら?きっとあなたはこう思ったのではないかしら。『上手く説明できるかどうか分からない。それに、説明してもどうせ分からないだろう』と」
「それは……」
そう言われて、私はその時の自分の考えを思い出す。紫様に言われた通りの事を考えていた。なぜ、そんな風にあの時思ったのか自分でも理解が出来なかった。
「安心しなさいな。あれを見たものはみんな、そういう風に思うものだから」
紫様は意地悪な笑みを浮かべた。私は、どんな反応をしていいのか分からず手を組み合わせては解いたり、痒いわけでもない頬を掻いたりしていた。
「藍にも困ったものね。式である事と主である事は両立が難しいというのに話を聞かないからこうなるのよ」
「式である事と主である事?」
「ええ。あなたもそうだけれど、式というものは主に命じられた通りのことだけをすれば良いの。そうすれば、力を最大限に活かすことが出来るから。でも、その主は森羅万象に対し臨機応変な対応できる能力が必要」
「ええと、どちらかをやろうとするとどちらかが失敗するということですか?」
「いいえ。どちらもこなせるように考えなくては駄目ということよ」
なんだか、難しい話になってしまった気がする。やはり、私では藍様や紫様とまともな会話をすることは出来ないのかと自信を少し失う。私は、何か別の話題は無いかと、口を開いた。
「あの……もしまたあれと同じものを見た時は、どうすればよろしいのでしょうか」
「ん?何もしなくていいわよ。あれはそこにあるだけで、それ自体は何の害でも無いから。まあ、その原因となるものを貯めこまないようにはしなきゃいけないのだけれど」
そう言われて、私は少し困った。もう一度あれを見て私は何もせずにいられるのだろうか。
あの穴の事をよく知ろうとしないだろうか。向こう側に何があるのかをもう一度見たいと思わないだろうか。そんな不安がよぎる中、紫様は藍様の方へと歩みを進める。気づいた藍様は垂れた頭を上げる。
「藍」
「……はい、紫様」
紫様は藍様の顔を見て、少し考える表情をした。そして、ため息を一つ吐いてから藍様をじっと見据える。
「今回はまだあなたが自分の式の扱いに慣れていないことも考えて、これ以上のお咎めはしません。だけど、もしまた何か不備があった場合にはあなたの主としての資格を剥奪させてもらうわ」
紫様は私の方にも視線を向ける。そこで、私は自分の不備は、藍様の不備と同じ事なのだと理解する。藍様が返事をすると共に、私も大きな声で返事をした。
「さて、と。お仕事も終わったし。夕飯をいただいていこうかしら」
見ると、外はもう日が暮れかかっていた。私は、慌てて夕飯の支度を始める。
「あの、何かご希望の品はございますか?」
「そうね……疲れに効くような塩っ気があるものがいいわね。例えば、お味噌をたくさん入れたお味噌汁とか」
「でもそれだと味がぼやけてしまうのでは?」
「そしたら、お酢をちょちょっと入れるのよ。そうすれば味が整うわ」
私は、あっけに取られて目を見開く。藍様の方へ顔をやると藍様は苦笑いをしていた。
しばし、硬直していたのが紫様にとっては不審に思われたのであろう。声をかけられる。
「どうかしたのかしら?」
「あ、いいえ。ただ……」
「ただ?」
「世の中の物事というものは、全く関係の無さそうなふとした拍子に理解出来ることもあるのだなあと」
思ったことをそのまま口に出した。私の予想通り、鼻で笑われた。深く考えもせずに発する言葉に意味がある事は殆ど無い。それは、藍様にもよく言われていた。私は少し自分で反省をしながら蔵に材料を取りに行く。
「それが分かっているのなら問題ないわ」
そんな事を言われた気がした。振り向いて紫様の方を向いたが、視線はこちらに向いていなかった。もしかしたら、空耳だったのかもしれない。首をかしげながら、台所を出て廊下を通る。
「あ」
思わず、声が出た。また例の床と壁の合間に出来た長方形の穴を見つけた。戻って紫様に相談しようかと考えたが、直後にこの穴自体には害はないと言われた事を思い出す。一瞬だけ目をやる。穴の奥に何か空間が広がっているようにも見えた。歩き出す。足は止まらずに廊下を通り抜ける。
「ええと、具材は何にしようかな。油揚げは残っていないし……」
そのまま、蔵まで辿り着く。先ほどまであれ程気にしないだろうかと心配であったのに自分でも驚くほどすんなりと側を横切ることができた。食材を取りに行った帰りにまた廊下を通ったが、もうその穴は見えなかった。
それどころか、その得体の知れない丸形や長方形の穴が私の目の前に現れることはもう無かった。
今では、記憶の片隅に残るその朧気な夢のような記憶をたまに思い出しては藍様や紫様と語り合い、ただ懐かしむばかりである。
私が猫又になり、式を打たれて人の姿を取るようになってから数年が経った。
猫の姿をしていた時とは色々と勝手が違うことに戸惑うこともあったけれど、ようやく日常生活に慣れてきたと感じる。
欠伸をひとつ。加えて、伸びをする。この背骨が矯正される感覚は、猫の時と同じだ。
起きてすぐに尿意をもよおして厠へ行きたくなるのも一緒。人の姿だからといって、生理的なものまで変わるというわけでは無いようだ。以前からの癖も、偶に無意識の内に行なってしまう事がある。毛皮がないのに、身体を舐めたりしてしまうのがそれだ。
「あ……」
今も、丁度その癖で腕を舐めようとしてしまった。幸い、舌を出した所で止まったけれどそろそろこの癖は直したい。
私の主、八雲 藍様は元々力の強い妖狐であったそうだが、その立居振舞には獣らしさが無いというか……人間らしい?と言うのだろうか。とにかく、きちんとしている。
私も、そのような方に見初められたからには期待に応えたくなる、そういう風になりたいと切に願っている。だから、このマヨヒガの管理を任された時はとても嬉しく思った。
マヨヒガは、私が寝床として住んでいる他に主の藍様はもちろん、本来の持ち主である紫様も来訪される事がある。だから、管理に気が抜けるはずは無い。いつ訪れても大丈夫なように、家の中を整え、台所に火を入れ、手が加わっているという雰囲気を保っている。
家は住人がいなくなるとその役割を失い、一気に生気を失って存在感が無くなってしまう。
そうならないように、私はしっかりとこのマヨヒガを管理し、番をしなくてはならない。
だが、毎日の仕事の中にも苦手な事はある。
炊事、洗濯、掃除。
それらは、私の嫌う水を使う仕事である。
元々、水は式にとって苦手なものであるが、それに加えて私は元々猫である。手のひらまでなら大丈夫だが、顔などにかかった時は思わず飛び退いてしまう。顔に埃が付いた時でさえ、洗うというよりは濡らす程度にしか水を受け付ける事が出来ない程だ。
「ええと、ご飯の用意をしなくちゃ……」
猫の時は飯の事など殆ど考えもしなかった。自分で狩ったものをそのまま食したり、或いは面倒見の良い人間から上手くもらったりすればそれで良かったからだ。だが、人の姿を取るからには人と同じ様に過ごすようにしなくてはならない。藍様がそう仰っているので、渋々ながらその言うとおりにする。
井戸から水を汲み上げる。かまどに火が入ると、台所だけではなく家全体にまで活気が満ちてくる気がした。意を決すて水を張り、袖を巻くって米を研ぐ。せめて、手首から上には水がかからないように慎重に米を掬っては擦り、張った水を白く濁らせていく。
研ぎ終わった米を釜に入れて火にかけ、濡れた手を火のそばで乾かす。
まだ些か慣れない手つきで包丁を握り、材料を切っていく。マヨヒガは普段外界と遮断されているが、裏庭には畑や果実を実らせる木が植えてあり、四季の境界が無いマヨヒガでは天候に悩まされる事もなく、多少手を加えるだけでほぼ自給自足が出来るようになっている。少し前までは牛や鶏などの家畜まで飼っていたらしいが、維持費の方がかかるという理由で今はもう居ないらしい。正直、鶏を見て追い掛け回さないという確証が持てない私にとってはありがたい事だ。
「でも、久しぶりに狩りもしたいなあ」
マヨヒガの近くには山林があり、そこには雉や小動物がいる。それらを見かけると、どうしても身体が飛び掛かってしまいそうになる。
そんな事を呟きながら、切った野菜を煮えた湯の中へと入れていく。出汁を取り終わった煮干しは、もう私のお腹の中だ。幻想郷には海が無いがマヨヒガの中には出汁用の海産物がひと通り揃っている。猫の私にとっては、嬉しい限りだ。
その時、戸を開ける音がした。外の方から、家の戸口へと慣れた足取りで近づいてくる音がする。慌てて調理用具を置くと玄関の方へと向かい、扉を叩く音に応える。
「はい、今開けます」
扉を開けると、私の主がいた。道士服から金色の尾を9本揺らし、優しい笑みを私に向ける。
「おはよう、橙。しっかり番をしているようだね」
「おはよう御座います、藍様」
「ああ。朝餉を作っている途中だったか」
調理の音が聞こえたか、或いは来る途中に外へと出て行く煙が
「あの、食べて行かれます?」
「丁度良かった。昨日の夜までずっと仕事が立て込んでいて、まだ何も食べていないんだ」
「それは随分大変なお仕事でしたね」
「結界に綻びがいくつか出来ていてな……ん?鍋を見に行かなくていいのか」
「あ、はい。それでは、食卓でお待ちを」
再び台所へと戻る。いい具合に煮えた鍋の中に味噌を溶いて入れる。それから、吹きこぼれないように火を見張る。
「よし、出来た」
釜の中の飯をお櫃の中に移し替え、茶碗に盛る。
火にかけていたお味噌汁を器によそい、二人分をお盆に乗せて食卓へと運んでいく。
「お持ちしました」
「ありがとう。ん、美味しそうだ」
まず、見た目は大丈夫だったようだ。藍様の評価に思わず私は期待する。
席に座り、手を合わせて食事の挨拶をする。箸をとり、ほのかに湯気が立つ味噌汁を藍様がすする。私の視線に気がついたのか、お味噌汁を飲んで藍様は評価を下す。
「ん、美味しい」
「良かった」
安堵の声が漏れて出た。もしそう言われなければ私の喉に食物は通らなかっただろう。
「でも欲を言えば、もう少し……」
「もう少し?」
「いや、別に。まあ、疲れた時にはしょっぱいものが欲しくなるということだ。けれど、味はしょっぱ過ぎないものがいい」
何やら、禅問答のような事を言われている気がする。しょっぱいのに、味はしょっぱ過ぎないもの……そう言われて、私は頭を悩ませた。
「ええと、お味噌を多く入れた方が良かったのですか?」
「いや、そうすると味がどうなるかは予想がつくだろう?まあ、これもひとつの宿題とするとしよう」
味噌を多く入れすぎれば、味噌と出汁の調和が取れなくなって味がおかしな事になってしまう。では、どうすればしょっぱいのに味がしょっぱくないお味噌汁というものは作れるのであろうか?
「今は食べることに集中しなさい」
そんな私を見通して、藍様は助言をくださる。多分、私は恵まれているのだろうな。
このように機知に富み、力もある大妖に指南を受けられるということは、きっと滅多に無いことだろう。
私は返事をして、まずは自分が作ったものを口の中に入れることにした。
自分としては、ご飯が少し硬かったのが惜しいところだと思った。
食後に少し休んだ後、藍様から修行を受ける。
私が受ける修行と言うのは、私の内側にある力の回路を開いていくという修行らしい。
らしい、と言うのは私がまだその効果を実感できていないからだ。
「藍様はどのような修行をされていたのですか?」
「私の場合は力が強すぎたからそれを抑えるための修行だったよ。どちらかと言えば精神的な修行が中心だったかな」
「精神的な修行ってどういうものですか?」
「簡単に言えば、死にかけることかな。人間だったら、首を吊ったり心臓を一時的に止めたり……私の場合は紫様によく生と死の境界を操られてもだえ苦しんだよ」
聞いて、私は血の気が引いていくのが自分でもよくわかった。
「橙の場合はまず肉体的な修行からだな。回路を開いてもそれに耐えうる土台が無いとすぐに倒れてしまうから」
それを聞いて少しだけ安心したが、やはり不安が残る。いつかはそういう修行をしなくてはならないのかと、やはり甘いものではないのだなと思う。
「今はなんとかなりますけれど、将来のそんな苦しそうな修行に耐えられる自信がありません」
「修行に耐えられるように修行をするのさ。さて、もう一度印を組んでみなさい」
返事をして、陰陽道の基本に則った術を手で組んでいく。これを、数時間で何度も繰り返す。少しでも飽きたりして術に乱れが出れば、直ぐ様お叱りを受ける。……叱られると言っても、せいぜい尻尾でくすぐられるくらいだが。
「そういえば、少し聞きたいことがあるのだが」
「なんでしょうか?」
「いや、何も無ければ別に構わないのだが……最近身体に何か不調などはあったりはしないか?」
「いえ、特に何も」
そう答えると、「そうか」と藍様が頷いて話が終わる。言葉とは裏腹に、心配そうな顔をされていたのが少し印象に残った。
一段落して、肉体の鍛錬に移る。藍様の動きに遅れないように山を駆ける。
マヨヒガは元々廃村となっていた場所を空間の境界を別つ事で紫様たちの拠点の一つとしたらしい。裏山の山林は元々その村で生きていた人々の生活を支えていたのであろう場所だ。それ故にかなりの広さがあり、修行場所にはもってこいの場所となっていた。
「ほら、捕まえてみろ。その程度の動きでは日が沈むまでに私を捕まえる事は出来ないぞ」
後ろを向いて飛んだまま藍様は私に声をかける。目で見なくとも藍様には周りの景色が見えているらしい。やっていることは単なる追いかけっこであるが、その場所が木の連なる山中となるとそれは一気に難度が変わる。
木々の間を縫うように飛ぶ。本気を出されれば、一瞬で山を越える程の速さはあるのだろう。捕まえられそうになると、瞬時に速度を上げてかわされる。まるで、じゃらされているかのようにも感じる。猫のままであったならば、同じようにかわされ続けて捕まえられなかっただろうが、今は考えられるだけの頭を持っている。瞬時に速度をあげる瞬間を見極め、動く方向を見極める。耳を立たせ、辺りの空気を全身で感じ取る。
飛びつく。避けられる。空を何度も蹴って藍様の動きに追いつこうとする。一際大きく、飛び込むように空を蹴った。その瞬間、藍様は動きを更に加えて避けようとする。目の前には大木。
―――――今だっ。
動きが変わるその一瞬に、木を蹴って身体の向きを反転させ、その動きに付いて行く。飛び込むように藍様を捕まえたが、いなすように受け止められた。
「よし、いい動きだった」
どうやら、まだ私は藍様の足元にも及ばないらしい。分かってはいても一矢くらい報いたいものだと思い、難しい顔をして尻尾を力強く振る。それにお気づきになったのか、藍様は困ったようにお笑いになった。
「それじゃあ、また何日かしたら様子を見に来るから。それまでしっかり修行の復習をしておくこと」
「はい。分かりました」
日が暮れる頃、藍様は再びご自身の仕事へと向かわれた。
見送りをして、私は留守中にしなければならない事を思い浮かべる。一口にマヨヒガの管理とは言っても、やらなくてはならないことがたくさんだ。忙しくなければ藍様にも手伝っていただけるのだが、今はそうはいかない。
「さてと、私も頑張らなきゃ」
覚悟を決めて、屋内へと戻る。まずは藍様へとお出ししたお茶などを片付ける。
それから掃除。一人で暮らすにはこのマヨヒガは広すぎるので、掃除も一苦労だ。一日ですべての箇所を回ろうとすると確実に掃除以外の事に時間を割く余裕が無くなる。だが、それも修行だと言われているので私はその通りに出来るだけやってみる。
前のように藍様に指摘されることの無いように注意深く隅々の埃を掃く。
隅や隙間を見つけては、髭が無いのに頬がむずつく。猫の身体であれば間違い無く潜り込んでいた居心地のよさそうな場所の誘惑に耐える。
……頭を強く打った。当然である。今の人型の姿でこんな狭い場所に入れる訳がない。まだまだ私は修行が足りないと思う。
掃除を終わらせ、洗濯にとりかかる。式になってから日が浅いが、猫又になったのもそれほど昔の話ではない。数十年、一般的な妖怪の感覚からすればついこの前とでも言うのだろう。二足歩行すら完全には出来なかった私を拾ってくださった藍様には感謝してもしきれない。
「私なんかで、本当にいいのだろうか」
私なんかよりも、もっと式となるのにふさわしい者がいたのではないのかと、前に藍様にお聞きしたことがある。しかし、藍様は他の者など考えられなかったと言う。
藍様は私からすれば妖力も、知力も、全て遥か格上の存在だ。そのようなお方の考えなど、やはり私ごときには分からないのかもしれないと溜息をつく。
「あれ?」
壁に目をやった時である。廊下の壁の下部に穴が開いていた。穴といっても後から何者かによって開けられたようには見えず、まるでこの家が作られた当初から意図して作られていたかのような綺麗な円を描いた穴であった。
思い直してみると、穴があることぐらいは別にそこまで驚くような事ではない。元々、マヨヒガはあの大妖怪である八雲 紫様の所有物であり、何か不思議な事が起こったとしても(ああ、そういうものなのか)と思わなければ気が持たない程に、この家の中には不思議なことが多い。
ただ、その穴自体には興味があった。ちょうど上手く入れば子供が一人入れそうな大きさ。つまり、自分でも入れそうな穴である。猫である私が、興味をそそられない訳がない。
先ほど頭を打ったことも忘れて、私はその穴をまず覗き込む。瞳孔が開いて目が丸くなるのが自分でも分かる。中は、空間が広がっていた。思わず耳がぴくぴくと動く。尻尾も小刻みに動いているかもしれない。
この壁の向こうは、ちょうど部屋と部屋の合間になっているはずである。もしかすると、隠し部屋かもしれない。そんな好奇心が、私をさらに穴の中へと引き入れる。
頭が入り口を抜ける。その状態で首を回して辺りを見る。予想以上に中は広かった。高さは家の天井と同じくらいの高さまで吹き抜けており、窓は無いが何故か中は明るく、真っ白な空間に、鮮やかな色彩の紙風船や鞠が転がっていた。
「この部屋、なんだろう?」
しばらく、顔だけを中に入れて部屋の中を見渡していた。そのまま身体も入ろうとしたが、何かに引っ掛かっているように感じて入ることが出来なかった。変に思ったが、どうやってもそれ以上中に入ることは出来ない。仕方なく、中をじっと見る。爽やかな風が吹き、転がっていた紙ふうせんが浮き上がる。中で遊べたら楽しいだろうなと私は思った。
しかし、何時まで経っても中にはどうやっても入れなかった。仕方なく、私はその穴を諦めて顔を穴から離す。やらなければならない仕事を思い出して台所へと小走りに向かう。振り返って壁を見た時、その穴は影も形もなくなっていた。無くなっていたことに、私は何故か興奮を覚えた。これは、もしかすると私だけの知る発見なのではないかと期待を抱く。
「まあ、そんなはずは無いか」
自分が知っているものを、藍様が知らないはずはないだろう。そう思って、私はその場を後にした。
それから数日間は特におかしな事もないまま過ぎていった。それよりも私は、日々の日常生活に慣れることをまずは念頭に置かなければならない。
「どうやら修行は怠っていなかったようだな。動きが良くなっているぞ」
「はい。ありがとうございます」
数日ぶりにいらっしゃった藍様に修行をつけてもらい、お褒めの言葉をもらう。
何故かその時、頭の中に家の壁に浮かんだ、あの丸い穴のことが浮かんだ。あれの事を藍様がご存知でいらっしゃるのか、気になった。だが、穴のことをどのように説明して言えばいいのか分からない。言い方を変えて、それとなく尋ねることにした。
「藍様、お聞きしたいことがあるのですがよろしいでしょうか」
「なんだい?」
「マヨヒガの廊下の壁の内側に隠し部屋のようなものがあるという話は聞いておりますか?」
「隠し部屋?……はて、なんのことだかよく分からないが」
「では、廊下でなくともそういうのがあるという話は?」
「いや、私が知るかぎりではそんなものは無かったな。どうしてそんな事を?」
「ああ、いえ。そんなものがあったら面白いなあと」
藍様が見たことの無いものが、私にだけ見えるなどということがあるのだろうか?実際、前に見た時以来、私がその穴を見る事はなかった。意識して見ることが出来ないものなのか、それとも本当にただの見間違いだったのだろうか。
そんな事を考えていたからということもあって、私はその事について詳しく藍様に話してみようとは思わなかった。
それに何日か経ってしまうと、もはや私もあまりその穴のことを気にしなくなっていた。幻想郷では、不思議なことなど日常茶飯事である。その穴も、そんなありふれた出来事の一つとして私の中で消化されつつあった。
「今日は藍様のお仕事がようやく終わるから、腕によりをかけて料理を作らないと」
式であるもののまだ力が弱いために主の仕事を手伝えないことを私は歯痒く思っていた。早く主を手伝えるほどの力を持ちたい、その為にはマヨヒガの管理などもはや自分にとって試練ではないと証明して見せたい。そう意気込んでいた時である。
「あ」
台所の壁と床の間に穴が空いていた。前と少し違うのは円形ではなく、長方形に切り取られたように穴が空いているということ。驚きはしたが、興味が湧いて堪らないというわけではない。だが、無視をするという考えは浮かばなかった。前に見たあの不思議な部屋のことが忘れられなかったからかもしれない。
長方形の、前よりも広い穴の中を覗きこむ。穴の中には何も映らなかった。疑問に思って這いずるようにして穴の中へ入ろうとする。まず、前と同じように顔だけが中へと入る。
穴の中は前と同じように光が差し込まないはずなのに白く明るい部屋だった。
だが、前と違う部分もあった。色とりどりの鞠や、紙風船が見当たらなかった。それだけで、なにやらこの真っ白な部屋が薄気味悪いものに思えてくる。不意に、全身の毛が逆立つような、肌が震えるような感覚がする。外側から、内側から、何やら怖いものが近づいてくるような気がした。
「出よう」
そう呟いて、頭を中から出そうとする。これ以上中を見ていると何かおかしなことになる。
だが、なかなか外に出ることが出来ない。顔が引っかかる程に穴が小さくなっている。床に頭を擦り付けるようにして中から出ようとするがまだ引っかかる。焦りを感じた。このまま頭を抜き出すことが出来ないままになってしまうかもしれない。自分から入って、抜け出せなくなるなんて、何て間抜けなのだろうか。猫の時でさえ、自分がそんな事をした覚えはない。仲間がそうなったのを見たことはあったが。自分の習性を呪う。危険なものかどうかも分からずに手を出してしまう自分の思慮の浅はかさを憎く思った。手に力を込める。勢いをつける。早く、早く、この穴から抜けださなければ。
「おーい、橙。いるのか?」
帰ってきた藍様の私を呼ぶ声が聞こえた。助けてもらえると思ったのも束の間、もし今の姿を見られたらどうなるか、と思い直す。不甲斐ない式だと愛想を尽かされるかもしれない。尻尾がぎゅっと身体に巻かれる。怖さを身体が感じ取っていた。
しかし、それと同時に穴が少しだけ広がる。瞬時に頭を抜き出した私は廊下を走って、藍様の元へと向かう。玄関から上がったばかりの藍様を見つけて、私は安堵の溜息を漏らす。
「どうしたんだ、橙。そんなに慌てて」
「あ、その……」
どう説明したらよいものか迷った。穴に引っかかっていましたなどとは、とてもじゃないが言えない。適当な事を言って藍様にあれを見てもらえば良いのだろうか。藍様は私より様々な事についての知識がおありだ。
それなのに私は、そんな風に思うことは無礼であるはずなのに、なんとなくではあるが藍様があれを見ても何なのかが分からないような気がした。
「お、お帰りなさいませ。今、夕飯をお作りいたしますので、少しお待ちを」
「二人分ではなく、三人分ね」
藍様の後ろから声が聞こえた。そこには、藍様の主がいらっしゃった。
「あ……ご無沙汰しております、紫様」
「紫様。まだ中の用事が」
「いいじゃない。橙に何も起きてないのなら」
藍様はあまり良くなさそうな顔をして、紫様と一緒にマヨヒガへとお上がりになられる。
紫様は勝手知ったる我が家であるので、玄関に卍傘を立てかけると靴を脱いで先に居間の方へと向かう。
「ええと、中の用事とは?」
私は歩きながら藍様に問うた。
「ああ、実はまだ仕事が片付いていないんだ」
「仕事というのは、結界の修復のことですよね。どうしてマヨヒガに……?」
「大結界の方は終わったのだが、ここの結界もだいぶガタが来ている事が分かったのでな」
この幻想郷と外の世界を隔てる結界のように大規模では無いが、このマヨヒガにも一種の隠形の為に結界が貼られている。このマヨヒガは紫様の私有地だが、その中で好き勝手に世の中の理とは反した季節を無視した景観や外界の技術を用いた暮らし(私には修行の為、それらの技術を使わせていただくことは出来ないが)が営めるのもその結界で外界と隔たれているからだ……と、前に藍様は教えてくださった。
「あ、居た。ちょっと橙、聞きたい事があるのだけれど」
先に居間へと向かわれたはずの紫様がこちらに向かいながら私に声をおかけになる。
「私ですか?はい、何でしょうか」
「最近、このマヨヒガの中で何かおかしな事は起きていなかったかしら?」
そう言われて、あの白い部屋のことを真っ先に思い出す。先程までの事を思い出し、ゾクリと背筋に走るものがあった。しかし、あれが紫様のおっしゃる、『おかしな事』に含まれるのかどうかは分からない為、話すべきか悩んだ。私の態度に気がついたのか、藍様が心配そうな目を私に向けてくださっていた。そして、だから私は藍様に話そうとしなかったのだなと一人で納得する。
「……はい、ありました」
「どこで、かしら」
『何が』では無く、『どこで』と聞かれた。つまり、私の考えていた事は紫様の意図されていた事だったのだと理解する。すぐに穴が出来ていた場所へと案内をした。まずはその場から近い廊下にお連れしたが、そこに前あったはずの穴はやはり影も形も無かった。
「確かにここに穴があったのですが……」
紫様は思案顔になって頷く。おそらく、実際に見た私よりも正確に事態を把握しているのだろうと思った。それから、先程抜け出すのに難儀した台所の方へも向かう。そちらも、あったはずの穴は見当たらなかった。
「ふうん。なるほど、やっぱり」
しかし、紫様にとってはこれで十分なのであろう。分からないままというのも何だか居心地が悪いので、恥を承知で紫様にお伺いする。
「何が起こったのか、これだけでお分かりになられたのですか?」
「いや、全然。分かるはずが無いわ」
私は、「え?」と自分でも少し驚くくらいの声を上げた。
しかし、紫様はそんな事には気を留めずに台所の壁をコンコンと叩き、何かを調べていた。
「あ、ここね」
そう言うと、その壁から少し離れた空間に対して手を上から振り下ろす。すると、大きな裂け目が現れる。紫様の『境界を操る程度の能力』でスキマを作ったのだ。
「少し離れていなさい。危ないから」
そう言われて、私は藍様に手を引かれて後ろに下げられる。紫様はもう一度、今度は穴が見えた壁に対して行い、袖を捲った腕を中に手を入れて何かを探すような仕草をした。
一瞬、動きが止まった後に紫様は手を抜いてスキマの正面から離れる。すると、スキマの中からもやのような物が勢いを持って飛び出し、そのままもう一つのスキマの中へと吸い込まれるように消えていった。
「これでいいわ」
「あの、今のは?」
恐る恐る私は尋ねた。すると、紫様は意地悪そうな顔をして私に言う。
「あなたは実際に見たのでしょう。なら、聞くまでもないと思うのだけれど?」
「……紫様、お戯れを」
言葉に詰まりそうになった私の前に、藍様が助け舟を出してくださった。紫様の視線はそちらへと移ったが、それを聞いても紫様は別に機嫌を悪くなされたような事は無かったので、きっとこういうやりとりはいつもの事なのだろうと思った。ふう、とわざとらしいため息の後に紫様は再び私に視線を向けなさる。
「多分、あなたはあれを見たことを藍には伝えていないのでしょう?」
図星である。何故分かるのだろうと思ったが、判断する材料はいくらかあったと自分でも気付いて頭が下がる。たぶん、非があるのは私のほうだ。
「だから、私は教えない。あなたが藍に対して言うのが無駄だと思ったように、私もあなたにあれを理解させるのは無理だと思うから」
藍様が戸惑いを見せる。失礼な事をしたと私は今になって感じた。しかし、と同時に思う。
私は、あれを何と言って説明すればよかったのだろうか。
「でも、あなたが言わなかった理由もおおよそ想像できるわ」
私は顔を上げる。紫様の表情は怒っていらっしゃるわけではなかった。
「本質を知らずに名前だけを知って分かったようになるのは愚かなことでしか無い。だから今は、あれはこういう物なのだと覚えておきなさい」
私は頷いて返事をする。紫様たちと私の間に、理解できることの差があるのは当然のことだ。一仕事が終わったとでも言うかのように紫様は伸びをする。
「あの、廊下の方は?」
「そっちは別にいいわ……あれ、ちょっと橙。こっち向きなさい」
「え、はい」
突然呼び止められ、紫様に顔を見られる。そして、紫様はふう、と息を吸ってから持っている卍傘を意味ありげに肩に担ぎ、視線を藍様に向ける。
「ゆ、紫様?どうかなされましたか……」
藍様は何かに怯えているようであった。私はその何かが分からず、たじろいで後退る藍様と詰め寄る紫様を不思議そうに見ていた。
「ねえ、藍」
「は、はい」
「そこになおりなさい」
「え、な、何故ですか!?理由を」
「いいから」
主の命令に対して、式である私たちは素直に従うしか無い。
藍様は静かに座りながら懇願するように紫様を見る。玄関に立てかけていたはずの卍傘をいつの間にかスキマから取り出して持っていた。
「……せめて、橙の居ない所で」
「いいえ。これは橙にも関わりのあることだから」
そう言うや否や、振り上げた傘をしならせて藍様の脳天を叩く。紫様の傘は特殊な材質で出来ていて、妖力を込める事で材質の硬さや布の鋭利さを自由に変える事のできる性質がある。普通の傘を紫様の持つ力で振るえば、二度も振れずに壊れてしまうだろう。
正座した藍様は叩かれた瞬間、全身を震わせて痛みに耐えた。私の前ということもあるのかもしれないが、苦痛の声を出さずに主の仕置に耐える姿は見ていてこちらが涙ぐましくなる。
「あの……紫様。どうして、藍様が叩かれているのですか?」
「ああ、そうね。この不出来な式にも分かるようにちゃんと説明してあげないといけないわね」
傘の先端で藍様の後頭部をぐりぐりと痛めつけながら紫様は私の方に顔を向けて答えてくださった。
「まず、私達がしていた結界の修復だけれど。それって具体的にどんなことをするのかは聞いているかしら?」
「ええと、修復というのですから……やはり結界を貼り直したりするのではないでしょうか」
「それだと半分。結界が弱まる原因となるものを排除してからでないと意味がないでしょう」
「ええと、じゃあこのマヨヒガの結界を貼り直すためには……その原因をまず探さないといけないということですか」
「その通りよ。ああいう風に気脈が乱れていたり陰の気が溜まっていたりするとそれが結界を弱まらせる原因になるの。場合によっては、そこが異世界の入り口と通じる事もあるし、悪いものをこちらの世に引き寄せることもあるわ。なかなか察しが良くて助かるわ、どこかの誰かさんと違って」
私の答えが合っていたのに喜ばれているのは私としても嬉しいのだが、そのお陰で拍子を打つために藍様の頭が小気味良い音で叩かれたということを思うと、素直に喜べない。
私が見たものは、別世界の入り口だったのだろうか。あの真っ白で不気味な部屋を思い出して少し不安になる。
「それで、どうしてあなたがそれを見ることが出来たのかという理由は、この子の怠慢のせい」
もう一度、大きく振りかぶって藍様の頭を叩く。とうとう、短い悲鳴を上げて藍様の姿勢が崩れて前のめりに倒れた。ため息をついて紫様はそれを見下す。
「あのね、妖力の回路を開くと今までに見えないものが見えるようになったり、異なる世界と繋がりやすくなったりするって教えなかったかしら?」
「そ、それは分かっておりましたが……」
藍様は、頭だけでなく耳まで垂れて反省の色を示していた。正直、式である身としては主のそのような姿を見るのは些か心苦しい。
「あなたの言いたい事は分かるわよ。『自分がやってきた修行と正反対の事をしているから勝手が分からなかった』と。そんな甘い考えで式を扱えるとでも思っているのかしら」
「あの、紫様」
私は恐れ多い行為であることを理解して、紫様を呼び止めた。思った通り鋭い視線を向けられたが、意を決して言う。
「藍様がそのことにお気づきにならなかったのは、私のせいでもあります。私が、藍様にきちんと説明をしていれば紫様の手を煩わせる事など無く……」
「あら?きっとあなたはこう思ったのではないかしら。『上手く説明できるかどうか分からない。それに、説明してもどうせ分からないだろう』と」
「それは……」
そう言われて、私はその時の自分の考えを思い出す。紫様に言われた通りの事を考えていた。なぜ、そんな風にあの時思ったのか自分でも理解が出来なかった。
「安心しなさいな。あれを見たものはみんな、そういう風に思うものだから」
紫様は意地悪な笑みを浮かべた。私は、どんな反応をしていいのか分からず手を組み合わせては解いたり、痒いわけでもない頬を掻いたりしていた。
「藍にも困ったものね。式である事と主である事は両立が難しいというのに話を聞かないからこうなるのよ」
「式である事と主である事?」
「ええ。あなたもそうだけれど、式というものは主に命じられた通りのことだけをすれば良いの。そうすれば、力を最大限に活かすことが出来るから。でも、その主は森羅万象に対し臨機応変な対応できる能力が必要」
「ええと、どちらかをやろうとするとどちらかが失敗するということですか?」
「いいえ。どちらもこなせるように考えなくては駄目ということよ」
なんだか、難しい話になってしまった気がする。やはり、私では藍様や紫様とまともな会話をすることは出来ないのかと自信を少し失う。私は、何か別の話題は無いかと、口を開いた。
「あの……もしまたあれと同じものを見た時は、どうすればよろしいのでしょうか」
「ん?何もしなくていいわよ。あれはそこにあるだけで、それ自体は何の害でも無いから。まあ、その原因となるものを貯めこまないようにはしなきゃいけないのだけれど」
そう言われて、私は少し困った。もう一度あれを見て私は何もせずにいられるのだろうか。
あの穴の事をよく知ろうとしないだろうか。向こう側に何があるのかをもう一度見たいと思わないだろうか。そんな不安がよぎる中、紫様は藍様の方へと歩みを進める。気づいた藍様は垂れた頭を上げる。
「藍」
「……はい、紫様」
紫様は藍様の顔を見て、少し考える表情をした。そして、ため息を一つ吐いてから藍様をじっと見据える。
「今回はまだあなたが自分の式の扱いに慣れていないことも考えて、これ以上のお咎めはしません。だけど、もしまた何か不備があった場合にはあなたの主としての資格を剥奪させてもらうわ」
紫様は私の方にも視線を向ける。そこで、私は自分の不備は、藍様の不備と同じ事なのだと理解する。藍様が返事をすると共に、私も大きな声で返事をした。
「さて、と。お仕事も終わったし。夕飯をいただいていこうかしら」
見ると、外はもう日が暮れかかっていた。私は、慌てて夕飯の支度を始める。
「あの、何かご希望の品はございますか?」
「そうね……疲れに効くような塩っ気があるものがいいわね。例えば、お味噌をたくさん入れたお味噌汁とか」
「でもそれだと味がぼやけてしまうのでは?」
「そしたら、お酢をちょちょっと入れるのよ。そうすれば味が整うわ」
私は、あっけに取られて目を見開く。藍様の方へ顔をやると藍様は苦笑いをしていた。
しばし、硬直していたのが紫様にとっては不審に思われたのであろう。声をかけられる。
「どうかしたのかしら?」
「あ、いいえ。ただ……」
「ただ?」
「世の中の物事というものは、全く関係の無さそうなふとした拍子に理解出来ることもあるのだなあと」
思ったことをそのまま口に出した。私の予想通り、鼻で笑われた。深く考えもせずに発する言葉に意味がある事は殆ど無い。それは、藍様にもよく言われていた。私は少し自分で反省をしながら蔵に材料を取りに行く。
「それが分かっているのなら問題ないわ」
そんな事を言われた気がした。振り向いて紫様の方を向いたが、視線はこちらに向いていなかった。もしかしたら、空耳だったのかもしれない。首をかしげながら、台所を出て廊下を通る。
「あ」
思わず、声が出た。また例の床と壁の合間に出来た長方形の穴を見つけた。戻って紫様に相談しようかと考えたが、直後にこの穴自体には害はないと言われた事を思い出す。一瞬だけ目をやる。穴の奥に何か空間が広がっているようにも見えた。歩き出す。足は止まらずに廊下を通り抜ける。
「ええと、具材は何にしようかな。油揚げは残っていないし……」
そのまま、蔵まで辿り着く。先ほどまであれ程気にしないだろうかと心配であったのに自分でも驚くほどすんなりと側を横切ることができた。食材を取りに行った帰りにまた廊下を通ったが、もうその穴は見えなかった。
それどころか、その得体の知れない丸形や長方形の穴が私の目の前に現れることはもう無かった。
今では、記憶の片隅に残るその朧気な夢のような記憶をたまに思い出しては藍様や紫様と語り合い、ただ懐かしむばかりである。
何かモヤモヤした物が残りましたが、きっと自分の無知故のことなのでしょう。
ところで卍傘はすでに通称の域なのか……(技名でしかないと思ってた私)
こういう話あまり見たことないな。
なので新鮮な気持ちで読ませていただきました。
誤字報告 橙が紫に穴の説明をしている辺りで、紫の名前が「縁」になってました。変換ミスですかね。
橙がとても可愛らしく見えました。
良い作品でした。
>「そしてら、お酢をちょちょっと入れるのよ。そうすれば味が整うわ」
そしたら、ですかね?違ってたらすみません
「八雲一家」ってこういう作品にぴったりの名称なんですねぇ。
誤用なのかは微妙なのですが、
「お咎めはしない」という表現が少し引っかかりました。私の勘違いでしたら「無知め」と蔑んでおいて下さい(笑)
……なんていいつつも、原作ではこのくらいの扱いだったかなーと思ったり。