今日は五感がたぶらかされている。
風が悪さをしているせいに違いない。
彼らはとにかくやかましく、人を苛立たせることに長けている。こちらの耳の奥底にすべりこみ、そこで唸りをあげるのだ。
だから、こんな風の強い日はよく聞き違いをしてしまう。
「おめえ、知ってるかい。なんでも博麗のババァが今度は地底に向かったって話だ。あんな体でさぁ、よくやるもんだよ」
まただ。
また聞き違い。これで何度目だろう。いっそ、里にいる間は耳をふさいでおこうか。
しかし、そうなると両手にぶらさがる荷物が邪魔になる。捨ててしまえば、連日の宴会で使い込んだ食料の代理を誰がつとめるというのだろう。
そうでなくとも、我が家にはよく働く胃袋を持った二柱がいるのだ。
常識を投げ捨てても叱られたことなどなかったが、食材をそこらにぶちまければおそらく私の臓物も飛散することになる。
それだけはごめんだ。そんな露出癖など、年頃の乙女が持ち合わせているはずもない。
それに往来で無様な真似はできない。里の住人にどう思われるか、信仰にどの程度の打撃を与えるか、それぐらいの想像はつく。
守矢神社のお嬢さんは流行に気を使っているんですね春を先取りですか、とでも言われ、頭のあたたかな子だと思われるに決まっている。
そうなれば、私は自分の舌の歯ごたえを楽しみたくなる衝動に駆られるだろう。
ああ、嫌だ。嫌な風だ。
「なに、あの婆さんも? いやさ、霧雨さんのところのお嬢さんも行ったらしい」
「あの娘っ子もか。まだずいぶんとちっこいなりだってのになぁ。いくつになったんだか」
「たしか五つだ。危なっかしくて見ちゃいられないよ」
じわりと視界がゆらぐ。私はあわてて、まばたきを意識する。
まとわりつく風はしめった眼球をすっかり舐めつくしていた。
本当に、嫌な風だ。風祝とはいえ、こんな風はどうにも好きにはなれない。私の好む、下から強烈に吹き上げひらひらした布地を食らうような品のある風とは大違いだ。
このような……熱をうばおうと躍起になっておそうだけが能の、ただ不快さだけを残していく下劣な風などとは!
そのとき、私が毒づいたのを聞いていたかのように、風は突如としてとどろき、吼えたけった。
冷気が鼻先に噛みつき、思うように呼吸ができなくなる。
鼻をすんすんと何度か鳴らすと、ひんやりとした空気が肺いっぱいに満たされる。心臓からは熱狂が消え、刺すような痛みはゆっくりとやわらいでいった。
大丈夫、もう大丈夫だ。泣いてなんかいない。風祝は強い子。
風祝が涙を流していいのは、玉ねぎを切ったときと、目を突かれたときだけなのだ。神奈子様の仰ることに間違いはない。
そうだ、神奈子様だ。
ふと、昔のことを思い出した。
頼りになる年長の女性はときにババァと呼ばれるらしい。嫉妬と羨望のまざりあった気持ちがそうさせるそうだ。そして、霊夢さんもその例のうちなのだ。
そうだ。そうに違いない。
彼女はたしかに少女ではある。しかし、どこか浮世離れした物言いが達観した印象を与えているのだろう。同じ少女である私としても、彼女が自分と同じただの女の子だとは思えない。
霊夢さんはババァと呼ばれるに足る魅力を持ち合わせている。実際に、皺くちゃの枯れ枝のようなお婆さんになってしまったわけではない。
少し考えればわかりそうなことじゃないか。どうかしていた。一体どうして、もっと早くこの考えにたどりつかなかったのだろう。
もちろん、冷静さを取り戻した私の頭脳はすでにその答えもすっかり用意していた。
たとえば、整えられた美しい花園があったとしよう。さて、その優れた感覚と長年の経験の重なりが自分のものでなかったとしても、ただの一つの汚点でもそこに居座ることを許せるだろうか。それが微細なものであっても、その美しさを踏みにじることは決して許せないと誰もが思うだろう。
私の焦燥の正体もまた同様だ。私は霊夢さんに憧れていて、そこに一点の曇りもないことを願っていたのだ。
この尊敬に近い感情も、あるいは恋と言えるのかもしれない。そして、誰だって恋していた相手が突然、その姿をすっかり変えてしまえば驚くものだ。
まだまだ私も常識にとらわれていたということか。
情けなく思うと同時に安堵の胸をなでおろす。
「そういや、博麗の婆さんはいくつになったんだ?」
「あのババァは……そうだな、百にでも手が届いてんじゃないか」
「まさか」
「言い切れるか」
「むずかしいな」
今度こそ、風はなかった。
心臓の不安定な鼓動がやけにうるさく感じた。
風の仕業ではない。聞き違いでもない。私を陥れようとしているのだろうか。この男たちが。違う。私が偶然聞き耳を立てていただけ。知り合いでもない。だとすれば。本当に。馬鹿な。そんな。そんなことが。
そんなことがあっていいはずが……。
寒さとは別のなにかによって、手がわなわなと震え出した。
乾いた眼球から涙をしぼり出そうとしたが、出てくるのは半開きになった口の隙間から這い出るあえぎ声だけだった。
気づけば男たちは消えていた。
そう、まるで……幻のように! はじめからいなかったかのように!
すべては私の目蓋の裏の出来事だったのではないか。男たちも、不穏な霊夢さんの形容も。
こうも寒いと陰鬱になるというものだ。精神の疲労が悪夢をそれらしく見せた、そういうことも十分に考えられ……いや、よそう。こんな、情けない逃避は。
事実は私がおぼえていないだけで、男たちは話を続けながらどこかへ行ってしまったのだろう。
それに問題は霊夢さんだけではない。魔理沙さんのことも話していた。こちらは逆に幼いらしいが、私を混乱させるには十分の威力を持っている。
はたして、私一人がおかしくなってしまったのだろうか。
体の芯からさっと血の気が引くように感じた。おそろしく冷たい孤独感が胸のうちに付着する。
私はやわらかな雪で覆われた地面をじっと見つめる。そこに、この事態を解決する手段があるわけではない。
だが、今はただ足元だけをじっと見つめていたかった。そうしておかなければ、地面がぽっかりと口を開き、吐き気をもよおすような速度で私を奈落の底へと引きずり込むように思えた。
「どうしたの、早苗。気分が悪そうよ。朝食でも抜いたの?」
こみ上げる怖気と必死で闘っていた私の耳に突然、よく響く磨きのかかった、耳ざわりのよい声が入ってきた。
その美声の内容が私をおそう苦悩や恐怖からまるでずれていたからか、自分がどこかやわらかな雰囲気に包まれるように感じた。
「あ……咲夜さん」
視線をあげると、そこにはわずかに不安そうな表情でこちらを見つめる咲夜さんがいた。
彼女とは知り合ってからそれなりの交友を深めた間柄である。はじめこそ、少女というよりは女性という響きが似合う容貌と、なかなか見慣れない給仕服が気後れを生み出したが、家事という共通の命題が私たちの間に友情を咲かせたのだった。
嬉しかった。
同じ人間の、それも年頃の少女の話し相手がいることは、私の心の支えとなっている。そして、その敬愛すべき友人の不安をかき消すことこそ、今の私にできる最善であることは間違いない。
「す、すいません、大丈夫です。え、と……咲夜さんはお買い物ですか?」
「ええ、ご覧の通りよ」
大量の食材で膨らんだ茶色の紙袋を抱えながら、彼女は言った。
「それで」
「はい?」
「どうしたの、さっきは」
ときに私たちは話の中で他愛ない駆け引きを行うことがある。
私は咲夜さんに勝ったことが一度としてない。もちろん、今もまたその例にもれず、私はすばらしい友人にこの難解な事態の解決をすべて任せる心苦しさを味わうことになった。
だが、これは絶好の機会だとも言えるのではないか。
私よりも、咲夜さんの方が霊夢さんや魔理沙さんとの付き合いが長いのだ。私がなにかおそろしい勘違いをしているだけで、本当はもっと単純な出来事だったのかもしれない。
私は一人で解けもしない問題とにらみ合うよりも、彼女の好意を素直に受け止めた方がずっと賢いように思えた。
「実は、その、先ほど里の方々がよくわからないことを、言っていたんです」
「わからないこと?」
「はい。霊夢さんのことを……その、お婆さんだって」
私の言葉に、彼女はなにか置き忘れてしまったものがどこにあるのか探るように、視線を宙に浮かべたまま黙った。
やがて、喧騒に耳を傾けることにも飽きてきた頃、彼女は言った。
「……それは霊夢のことだけなの?」
「いえ、魔理沙さんのことも。ですけど、子どもだと言っていました」
咲夜さんは少しばかり神経質なところがある。おそらく彼女は答えらしい事実を知っているのだろう。それが彼女の中で確信に変わるまで、私は辛抱強く待たなければならない。
咲夜さんはまた唇を引き結んだ。その動作が私の期待をぐんと高めた。
たまらず、私は彼女に先をうながそうとした。
「あの、咲夜さん?」
「ああ、そういえば今、異変が起こっているそうね。地底だったかしら」
何気なく、適当に頭に浮かんだことをそのまま口に出したような口調で咲夜さんは答えた。
あまりに唐突であったため、私は一瞬、自分たちがなにを話していたのかを忘れてしまった。そして、すぐに相手の言葉に見合った言葉を考え、それから言った。
「え、はい、そうらしいですね」
「あなたも巫女なんだから、妖怪を退治したりするんでしょうね」
「はあ……まあ、いずれは」
咲夜さんはなにが言いたいのだろう。
彼女は美しいのと同じくらいに賢い。その優れた頭脳が今、ひどく遠回りなことを仕出かそうとしている。
「ねえ、早苗。どんなことにも手順があるのよ。美味しいローストチキンを振舞うために、お肉をあらかじめヨーグルトに漬けておくようにね。妖怪退治や異変の解決も同じ。その手順をあなたは知っておいた方がいいわ。稗田の屋敷に行きなさい」
「稗田?」
「ええ、そうすればあなたの悩みもなくなるわ。別の悩みができるかもしれないけれどね」
淡々と咲夜さんは言った。
私はどういうことかと聞こうとしたが、すぐに下唇を噛んだ。
彼女の声からは、悲観を胸に抱えたような重苦しさが感じ取れたのだ。
「私も異変の解決を何度かしてきたわ。けれど、私は自分の時間を大切な人のためだけに費やしたいの。異変解決の手順に付き合っている暇なんてどこにもないし、従者にふさわしくない姿を見せられて喜ぶ主人もいない……ごめんなさいね。私、あまり説明するのが上手くなくて」
そう言って彼女は頭をふり、上品な小さいため息をひとつした。
「ただ、勘違いしないでほしいの。あなたと話すのは楽しいけれど、ここで無理に説明してもあなたをただ混乱させるだけだと思うから」
「はい、ありがとうございました。咲夜さん」
「気をつけてね」
言って、私たちは別れた。
稗田の屋敷に向かいながら、考える。咲夜さんは結局、なにが言いたかったのだろう。
答えは出ない。
相手の正体を見きわめようとして、ついにつきとめられなかったもどかしさが、私を苛立たせた。
「異変解決をするものは人間である場合がほとんどです。これは異変を起こすものが人間ではないから、ということもありますが、それよりも人間が妖怪よりはるかに短命であることが理由にあげられます」
阿求さんとの面会を許された私は、自己紹介もそこそこに済ませ、異変の解決についてたずねた。
彼女はにっこりと微笑みながら、異変の解決の詳細をとうとうと話し始めた。
「長い長い時間を過ごす妖怪は、自分の経験を絶対だと考えます。対して、人間は短い時間をどのように生きるか考え、経験よりもその場での思いつきを繰り返すものです。思いつきと言えば聞こえが悪いものかもしれませんね。天啓、第六感、直感。まあ、お好きな言葉をあてはめてください」
話しがいのある聞き手を相手にしたときのように、阿求さんは相槌を打たせてやるための一呼吸の間を空けてから、ふたたび舌を躍らせた。
「さて、異変解決をする者を私たちはジキと呼んでいます」
「ジキ?」
「ええ、ジキです。スペルカードルールが制定されたとき、同時にこの名称が使われ始めました。このジキとは誰彼がやると決められるわけではありません。先ほど言った、思いつきのできるものがジキになるのです。」
「その、思いつきってどういったことを思いつくんですか」
「私は異変解決をしたことがありませんので本人たちからの言葉を信じるしかないのですが、いわく四種類の文字の羅列が浮かぶそうです」
「文字……」
「ええ、いーじーだの、るなてぃっくだのと言ったものだそうですが」
英語なのだろうか。
だが、外の世界ではまだまだ使われている言語だ。こちらに伝わっているということは考えられない。
「なにか、気になることでも?」
「あ、いえ、続きをお願いします」
確かに気になることだ。しかし、目的を忘れてはいけない。
私は霊夢さんが愛らしい少女ではなく、枯れたお婆さん呼ばわりされる謎の答えを探しに来たのだ。
焦燥感が唾液となって口内にじわりと押し寄せてくる。二度、三度、ごくりと飲み込み、彼女の話の続きを待った。
「その文字の羅列は、異変解決の難易度を示すと考えられています」
「難易度、ですか?」
「ええ、ですが、すでに起こった異変をなにかしら変えることはできません。それは、あなたならよくご存知のはずです。そういえば、前回の異変ではお二人とも普通でしたね。それではあなたがジキに関してよくわかっていないのも無理はありません」
「はあ……」
「話がそれてしまいましたね、失礼。さて、変わるのはジキの方です。ジキの年齢が」
「へっ?」
「年齢ですよ、ジキの。いーじーというものでは、幼少の姿になり、るなてぃっくであれば、老いた姿になるのです」
彼女の話が、妙なところに着地しようとする予感が私の脳裏を通った。
「えぇと、年齢が変わったらどうして異変解決が難しくなったり、簡単になったりするんでしょうか」
「わかりませんか。幼少ともなれば肉体は活発に動きますし、妖怪だって可愛らしいものを愛でようとする心くらいは持っているものです。逆に老いれば老躯の不便さが大きな障害になります。それに妖怪は血気盛んですからね。自分たちの力を思い知っているはずの人間が、それも年老いたものが真っ向から立ち向かってくれば、よほどの手練か、相当の腕っ節だと考えるのが自然でしょう」
「で、でも、老人だけそんな……敬老の精神はないんですか」
「さあ、わかりませんね。あるいは妖怪の中にもいるかもしれませんが」
つまり、真実はいたってシンプルだ。
霊夢さんは異変の解決に向かっていたという、ただそれだけの。
それだけ? 本当にそれだけなのだろうか。
「しかし、異変解決についてお聞きになるなんて、あなたはジキになる心構えがあるのですね。そういえば、山の巫女でしたか。巫女といえば妖怪退治ですからねぇ、少なくともここでは」
待て。待て、待て、待て。
それは、どういうことだ。
ジキに? 私が? ただの思いつきで? 不幸にも、皺くちゃで、つやのない、色あせた老婆に成り果てる? 少女が? 年頃の乙女が?
室内だというのにどこからかやってくる冷気は、私の体の髄まで染み渡り、痛みを催させた。
顔が、汗でびっしょり濡れている。見る間にそれは凝集し、しずくとなって滴り落ち、畳の上でぱぁんと弾けた。
「あなたが羨ましくもあります。私は御阿礼の子。妖怪よりも短命な人間よりもさらに短命。老いることもできないのです。知識はありますが、培った経験などないも同然です。私はあなた方のように老いというものを味わいたい。老いすら楽しめずに転生するのですから……あら、お帰りですか?」
異変解決の真相を知ってから、幾月が経過していた。
風がざわつき、背筋に怖気が取り付く。
先ほど、神奈子様と諏訪子様から異変の解決を命じられた。どうも空に大きな船が浮かんでいるらしく、その船の内部を探れとのことだった。
もはや、逃げ場などありはしなかった。ただ、私はこのまま突き進むか、そうでなければこの場に取り残されるだけなのだ。
天啓、第六感、直感。そのような類の思いつきとでも言える予感が、私の脳裏を漂っている。それはふわふわと上へ下へ動き回り、そして今、ようやく答えを出そうとしている。
私は、胸にあごを押し付けるように深く頭を垂れた。あのときと同じように震えていた、かたく握られた拳は徐々に落ち着きを取り戻した。喉の荒々しくあえぐ呼吸は止んだ。
ああ、そうだ。自分はジキなのだ。このおそるべき異変をすみやかに解決しなければならない。
地を蹴り上げ、宙に浮かぶ。
同時にふと、単語が思い浮かんだ。
LUNATIC MODE
なにか、意味のある言葉なのだろうか。
今はわからない。だが、いずれわかるときが来る。
確信めいた予感を抱きながら、私はどこか重い体を引きずり、船へと向かった。
あとは文章をどうにかすれば満点だとおもいます
この設定のままゲームのリプレイ物に突っ走って欲しい気も。