私、恋しちゃったみたいなの――。
眼の前で脱いだ帽子のつばを弄る自己愛の塊のような少女からよもやそんな言葉を聞こうとは夢にも思わず、私は暫し声を失くした。
天界が誇るお騒がせ娘の口から飛び出る言葉に常識を期待してはいけないと常日頃から己に言い聞かせてきた私だが、そうして鍛えに鍛えた天子マスタリースキルをもってしても、今し方の彼女の発言は到底すんなりと受け入れられるものではなかった。
天子が恋をした――数にしてたった七文字の内に有り得ない要素がみっしりと詰まっている。それは死神が勤勉になった、伊吹鬼が酒をやめた、図書館の魔女が肉体言語に目覚めた、そんなものを遥かに超えた圧倒的な矛盾、自家撞着、論理破綻であり、瓢箪から飛び出した馬が投げた豆腐の角に頭を強か打ち付けたとしても到底足りるはずもない異常事態である。故に、黙考に黙考を重ねた私の返答が次のようになったとしても、それは謂わば至極当然の論理的帰結だった。
「頭は大丈夫ですか?」
「いきなり何!? 大丈夫に決まってるでしょ!」
「失礼しました。脳は正常に働いていますか?」
「何で二回聞くの!? 大丈夫だって言ってんでしょーが!」
怒られてしまった。
他人の恋愛相談ほどストレスの溜まるものがこの世にあるだろうか。そんなものの相手になるくらいなら、天井から下がる紐を相手に日がな一日シャドーボクシングでもしていた方が余程有意義である。
いい天気だからと昼食後の散歩に出掛けたのが運の尽き、私は通り掛った総領娘様に問答無用で捕らえられ、比那名居邸の彼女の自室へ無理矢理に引っ張り込まれて今に至る。私は精一杯の拒絶オーラで無言の抵抗を試みたが、気付いているやらいないやら、歩く大迷惑を地で行く我らが総領娘様はそんな空気などどこ吹く風で聞いてもいない事を朗々と語り始めた。空気読めなどと言ってみた所で、例え書き順から教え込もうが彼女がその意味を理解する事などありはしないのではなかろうか。
「そう、あれは三日前の事だったわ。下界に降りた人気者の私はいつものようにあちこちから引っ張りだこで――」
「ダウト」
「シャラップ! 人が話してる時に余計な口挟まないでくれる? これだから衣玖は空気が読めてないのよ」
「……どうもすいませんねぇ……」
比那名居家の綺麗に磨き上げられた木卓の下で羽衣を引き千切れんばかりに捻り上げて、私は辛うじて要石の代わりに今すぐ彼女を地中深くにブチ込みたい衝動を抑えた。流石は人を怒らせる事にかけては右に出る者のいない総領娘様である。今私は笑っているのではなく笑みの形で怒りに顔が引きつっているだけなのだと勿論気付く訳もなく、彼女は上機嫌に話を進める。
「とにかく、その日私は巫女や白黒をはべらせて人里を視察に訪れていたわ。全く、地上は美味し――じゃない、人を堕落させるものに満ちてるわね。市場西の八百屋前の饅頭屋は特にけしからんのでまた査察に行く予定。――で! その人里で、私は運命の出逢いをしたのよ! 里の人間と店の軒先で会話をしていた妖怪に私は一目で心を奪われたわ。英語で言うとマイハートブレイク! 理知的な言動、洗練された立ち振る舞い、時折見せる愁いを帯びた瞳――彼女の全てが私を捉えて離さなかったわ」
だったら私のこれでもかというくらいに愁いを帯びた瞳にも気付けと思ったが、言うだけ無駄なので黙っておく。色々と突っ込み所があった気もするが、それよりもその妖怪とやらの事である。人里の妖怪といえば――上白沢慧音だろうか。正確には半妖だが、相手が彼女だというのであれば少しぐらい相談に乗ってもいいかも知れない。このお騒がせ娘のお騒がせ異変の後、私も以前より地上へ降りる事が多くなったので、幻想郷の有力者ならばそれなりに名は知っている。直接話した事はないが、何せ彼女は教師で、幻想郷の実力者達には珍しい常識人だという。このどうしようもない不良脳筋天人を僅かでも更生させてくれるのであれば、多少の労力は惜しくない。
「で、その方の名前は何と?」
「風見幽香」
時がぴしりと音を立てて止まった。
寒い季節に飲む温かい緑茶はとても良いものだ。冷えた両手に湯呑みのぬくもりを感じながら、喉から身体の芯へと拡がるじんわりとした暖かさを味わう。美味しいとか不味いではなく――ただ優しいと思う。母の胸にそっと抱かれるような暖かさに、私の心も少し優しくなれるのだ。
尤も、総領娘様がそんな気の利いたものを出してくれるはずもないので、私の眼の前に投げやりに置かれているのはこの真冬でキンキンに冷え切った井戸水である。ご丁寧に清涼感溢れる硝子のグラスに入れて頂いたそれにはサービスのつもりなのか砕いた氷塊が浮かんでいる。片手で掴んで一息に飲み干し、ついでに氷をばりばりと噛み砕いて、何ら予想を裏切らぬ味と冷たさに良い感じに冷え切った心で私は静かに言葉を吐いた。
「頭は大丈夫ですか?」
「大丈夫だっつってんだろ!! 何度聞くのよあんたは!」
「そうですか、それは良かった。それでは私はこれで」
「ちょっとぉぉ! どこ行くのよこら、話はまだ途中なのよ!」
「いや、ちょっとシャドーボクシングの途中だった事を思い出しまして」
「どこでも出来るでしょ――ていうかどうでもいいでしょ!? 戻りなさいよこの白ウナギっ!」
「ちょっ、羽衣に触らないで下さいよ。手垢が付くでしょう。解った、解りましたよ」
クリーニング代も馬鹿にならないのである。私はしぶしぶ席に戻った。
「で、結局何なんですか。私に何をせよと?」
「まあ聞きなさいよ。この三日間、私は風見幽香に何度もアプローチをかけたわ。だけど彼女は全然振り向いてくれないの。そこで――」
「総領娘様」
「……何よ」
話を中断されて不満げな顔を浮かべる総領娘様に、私は敢えて溜息を隠さず言った。
「風見幽香がどんな妖怪なのか――知らぬ訳ではないでしょう」
「まあ、噂は聞いてるわよ」
紅白と白黒からね――と彼女は答える。
「でしたら私の言いたい事もお解かりになるのではないですか? 風見幽香は危険です。あの妖怪の悪辣非道な噂には枚挙に暇がありません。総領娘様がどんなアプローチとやらをかけているのかは存じませんが、それで彼女が心を動かすとは到底思えません。彼女が気分を害する前に――」
そこまで言った瞬間横殴りの衝撃が私の右頬を襲い、私はそのまま吹き飛ばされて襖を突き破った。
「衣玖の馬鹿っ! 幽香の事なんて何にも知らないくせに!」
「もう恋人気取り!? ていうか凄く痛い!」
本当に痛い。下膨れの平安美人になってしまったら責任取って貰いますからね。
「知らないわよそんなの。いい、衣玖。噂だけで人を判断するなんて最低だわ! 心無い人の流した根も葉もない噂で、私は何度も傷ついて来た……きっと幽香も同じなのよ! 周りの悪意に振り回されている哀れな犠牲者なの!」
「いやいや、貴女の場合は大体自業自得で――」
「衣玖の馬鹿っ!」
「物凄く痛い!」
今度は左頬にビンタ。これでますます平安美人に近付いてしまった。龍神様、衣玖は何か悪い事をしたんでしょうか。
総領娘様が右手をすっと差し出す。空気を読んでそれに掴まり、私はふらふらと立ち上がった。いくら落ちこぼれでも天人は天人、ナイフも通さぬ頑健な肉体による一撃は全身に浸透し、意に反して腰には力が入らず足はがくがくと震える。総領娘様は掴んだ右手を離さずに、真っ直ぐに私を見て続けた。
「お願い衣玖、幽香の心を開くには貴女の力が必要なの。一生のお願いよ、私と一緒に下界へ来て!」
やれやれ――そこまで言われては仕方がない。私は総領娘様へ向き直り、にこりと微笑んで言った。
「お断りします」
「うおーい! 空気を読みなさいよ空気をよォォ!」
「嫌な予感しかしないんですよこの乱痴気娘! 私は帰らせて貰います!」
「フハハハハ、馬鹿め、そうはいかないわ! 貴女の右手をよく見なさい!」
「し、しまった、掴まれたままっ!? てっきりなんかよくある友情系のシーンかと思ってスルーしていたっ!」
がっちり右手をホールドしたまま総領娘様は私を引きずって走り出す。もがこうがよじろうが指一本外れやしない、どうなってるんだこの脳筋娘。
「このまま地上まで連行してやるわ! 擦り傷だらけになりたくなかったら足を動かす事ね!」
「嫌ァァァ! この人病気です誰か止めてェェー!!」
比那名居邸にひしめく天人達をモーゼのように左右に割りながら馬鹿娘が駆ける。誰一人こちらに眼を合わせようとしないまま、為すすべなく引き摺られてゆく私の脳裏で、ドナドナがいつまでも寂しくリフレインを続けていた。
* * * * *
「うー……ヤバい、緊張してきた……」
突き抜けた雲海の下に太陽の畑が見えて来た頃に、総領娘様がぽつりと呟いた。漸く拘束を解かれて、私は総領娘様の前を飛んでいる。勿論私の意志ではない。「逃げ出したらあんたの衣服という衣服を肥溜めに漬け込んでやるからね」などと脅されては、たとえ龍神様でも従わざるを得ないだろう。勘違いしないで頂きたいが、私は総領娘様に負けたのではなく、彼女の瞳に燃えるやると言ったらやるというスゴ味に負けたのである。
それなら帰りますかと言うと、馬鹿じゃないのと怒鳴られた。ところで話は変わるのだが、人を怒らせる最も簡単な方法は馬鹿が他人を馬鹿呼ばわりする事ではないかと思う。そういう意味では、総領娘様は人を怒らせる事にかけては生まれ付いての才能があると言えよう。
「何か言った?」
「いえ、何も」
言わぬが花である。とすれば、思いつく端から要らぬ事ばかり並べ立てる彼女は何だろうか――などと思う傍から、彼女は「あ」と何かを閃いたような声を上げている。
「今度は何ですか」
「今度はって何よ。まあいいわ、衣玖、貴女ちょっと幽香の真似しなさいよ」
そら来た。
「そら来た」
「は?」
おっと、モノローグが声に出てしまった。危ない危ない。
「いえいえ何も。で、その無茶振りは何のおつもりですか? 物真似ネタは私よりも総領娘様のような三枚目がやった方が面白いと思いますが」
「どういう意味よっ! そんなアホな理由じゃないわよ。本物に会う前にちょっと予行演習をしておきたいだけ」
「そう仰いましても」
私は困惑を隠さず言った。「私は実際の風見幽香を知りませんし。それに彼女と私ではちょっと美人のベクトルが違う気が」
「さっきから美人美人って図々しいな! 何!? ちょっとファンクラブがあるからって調子に乗ってるんじゃないの!? 何がキャーイクサーンよ、私だってキャーテンサーンて呼ばれてみたいわ!」
「きゃー天さーん、ボクの超能力が効かない!」
「そんな同情みたいな声援いらんわ――そっちの天さんかよ!!」
ぴいぴいとやかましく囀る総領娘様。全てはその破壊的な性格のせいだろうと思いつつ、これ以上訳の解らない事を言い出されないよう、私は目的地へ向かう速度を上げた。
――そして。
私と総領娘様は今、冬だというのに一面に咲き誇る向日葵の畑の中に這い蹲り、じっと身を潜めている。
「……あの、総領娘様」
「シッ! 気付かれちゃうでしょ、空気を読みなさいよね」
「イラッ」
「声に出すな!」
今日は厄日だと私は思った。花も恥らう乙女が二人して、何が悲しくて土まみれのスニーキングミッションに勤しまねばならないのだろうか。トレードマークの羽衣も土埃で汚れ切っており、最早手垢どころの騒ぎではない。私は出し抜けに立ち上がって「天子はここにいるぞ! であえであえー!」と叫びたい衝動に駆られたが、その後に起こるであろう楽しからざる事態の数々を思い、ぐっとこらえた。
そもそも、私達は風見幽香に会いに来たのであって、決して天狗の窃視趣味の体験実習に来たのではないはずだ。隣を見ると、総領娘様はいたって真剣な表情でずりずりと匍匐前進を続けている。当事者でさえなければいい物笑いの種になっただろうが、それを強制されている私は笑うどころではない。
「総領娘様」
「……」
「総領娘様」
「……」
「……青フナムシ様」
「誰が甲殻綱等脚目の節足動物よ!」
「聞こえてるじゃないですか。呼ばれたら返事をしなさいとご母堂に教わりませんでしたか?」
「やかましいわっ! あんたねぇ、静かにしろって言ってるのが――」
「そこに居るのは誰かしら?」
深く静かな、涼やかな声。持ち主の美しさを想像させる優雅な声に、総領娘様は私の胸倉を掴んだまま固まった。
がさがさと大きな葉を鳴らしながら、向日葵の海が一斉に左右に割れてゆく。そうして出来た道の向こうで、白い日傘がこちらに背を向けていた。一瞬、私はどこか異世界へ迷い込んだのではないかと錯覚した。一面の向日葵の中に浮かぶ白い太陽は、この幻想郷にあって尚幻想的な光景だった。その太陽が――ゆっくりと反転する。風見幽香は私達を、否、総領娘様を見て――ひどくうんざりした顔になった。
「……また貴女? 一応訊くけど、何の用かしら」
総領娘様は土だらけのまますっくと立ち上がり――胸倉を掴まれたままなので私も必然引っ張り上げられる事になる――花妖怪にびしりと指を突き付けた。
「知れた事! 今日こそ貴女をギッタギタのけちょんけちょんにしてやりに来たのよ!」
「はぁッ!?」
声を上げたのは、幽香――ではなくこの私だった。
いつまでも胸元を締め上げ続ける右手に羽衣の一撃をくれてから、私は手早く衣服の乱れを直して言った。
「ちょっと、話が違うじゃないですか! アプローチどころか思いっ切り宣戦布告ですよね今の!」
何考えてるのこの駄目天人。肩を引っ掴んでがくがくと揺らすと、彼女は少し頬を染めて答えた。
「バ、バカ衣玖っ! 声が大きいわよ……!」
「今の発言のどこに顔を赤らめる要素が!? 総領娘様が何処の誰とタマの取り合いを繰り広げようと一向に構いませんが、とりあえずさっきの言葉は取り消してくださいよ! あれではまるで私が助っ人に来たみたいじゃないですか!」
「みたいじゃなくてそうなのよ! タイマンじゃいつもあと一歩及ばないけど、二対一ならイケるわ! 大丈夫、ルールには抵触してないわ、霊夢も三人がかりで相手を袋叩きにした事があるって言ってたし」
「だから何!? 知りませんよそんな外道なエピソード。また勝手な事ばかり言って――とにかく、私は戦いませんからね」
「何よ、私の言う事が聞けないって言うの?」
「聞けません。いいですか総領娘様、貴女をこうして手伝っているのはあくまで私の好意であって――」
「ごめん、衣玖の気持ちは嬉しいけど私心に決めた人がいるから……」
「好意ってそういう意味じゃないから頬を染めるなしなを作るな! クッ、何この敗北感!? とにかく、戦うなら勝手にやって下さいよ! 私は巻き添えなんて真っ平ごめんで――あれ、ちょっ、光が迫っウボァー!」
「ウボァー!」
突如起こった光の洪水は林立する向日葵にはかする事すらせず、私と総領娘様だけを舐めるように焼いて空へと消えた。
「長い」
幽香は抑揚なくそう言うと、炭化寸前の私達に向けて閉じた日傘を突き出した。それだけの理由で焼き払われるこちらの身にもなって頂きたい。
長話の度にこんがり焼かれては命がいくつあっても足りやしない。それ見た事か、矢張り噂通りの人物ではないですか――嫌味の一つも言ってやろうと振り向いた先で、私と同じく小麦色の2Pカラーと化した総領娘様は要石のビットをひゅんひゅんと振り回して闘る気満々のご様子だった。
どうやら本当にやり合うつもりらしい。真っ直ぐに幽香を見つめる彼女の耳には、「もしもし、総領娘様」という私の声などまるで入っていないようだ。血なのだろうか、こんな破天荒娘でも黙って真面目な顔をしていれば相応の威厳というか、みだりに侵し難い雰囲気のようなものが滲み出る。それに少し見惚れてしまったのが悪かった。
総領娘様の両腕がタクトのようにしなる。右の一振りで右肩に浮かんだ要石が飛ぶ。左の一振りで左方のそれが弾丸と化す。再び右手で最後の要石を飛ばすと、総領娘様はそのまま流れるような動きで私を掴み、
「は?」
「龍魚ミサイル!!」
「待っ、貴女何考えてェェェ!?」
私の抗議は終わりを待たず悲鳴に変わった。訳も解らぬまま友軍の要石達と共に幽香へ向けて彗星の如く空を裂く私(不可抗力)。
「そのまま幽香に張り付いて爆発しなさい!」
出来るか!
そんな能力があったらいの一番にあんたに張り付いて爆発してますよ、などとささやかな反撃すらも出来ない内に、幽香が踊るように薙いだ日傘によって要石が次々と粉々にされてゆく。あれが頭蓋に直撃したら――思わず死を覚悟した私に問答無用で日傘が振るわれる。まるでパスタをフォークで絡め取るようにそれは私の羽衣を器用に巻き上げ、
「え?」
「悪いけど、魚はあんまり好きじゃないわ」
幽香は自身の周りを一周させて、そのまま総領娘様へと私を倍の速度で投げ返した。
「なッ――!?」
この展開は予想していなかったと見える、総領娘様は焦りも露わに更に数個の要石を周囲に――ってそれ私にぶつけて止める気か馬鹿娘! 彼我の距離がみるみる縮まる、要石が発射される――私は怒りと殺意と死んでも死に切れぬという思いのままに力の限り羽衣を伸ばした。それは蜘蛛の糸に縋る亡者のように総領娘様に絡み付き、彼女をこちらへぐんと引き寄せた。それに合わせて、私は右脚を思いっきり突き出した。瞬間、天人と花妖怪の力が合わさった音速の蹴り――衣玖電光キックと命名しよう――が総領娘様の顔面を見事にブチ抜き、そのまま彼女を向日葵の海の遥か彼方へと吹っ飛ばした。
* * * * *
「……はあ」
助かった――と言って良いものか。あっと言う間に地平線の向こうへ退場した主役に思いを馳せていると、もう一人の主役の声が背中に投げ掛けられた。
「何なのよ、アレは」
振り向くと風見幽香はいつの間にかすぐ傍に居た。脳筋天人よりは話の出来そうな相手だと思ったのだろうか、彼女は既に戦闘の構えを解いており、にょきにょきと生やした蔓草で即席の椅子を作り上げるとそこに座って息を吐いた。私の分も用意してあるあたり、そこまで悪い妖怪でもないというのはあながち総領娘様の妄言でもないのかも知れない。
「何なのかと言われても困りますが……天人です」
勧めのままに座って言うと、「知ってるわよそのくらい」と無愛想な返事が戻って来た。
「全く……言うんじゃなかったわ、あんな事」
「あんな事?」
私が問うと、彼女は聞いていなかったのかと言わんばかりに訝しげに柳眉を歪めた。
「いやまあ……私は無理矢理拉致されて来たようなものでして」
「……ご愁傷様ね。ところで今更だけど、貴女は誰かしら」
そう言われて、私は漸く挨拶もまだだった事に思い至った。私の自己紹介に聞いているんだかいないんだか解らないような相槌を返して、花妖怪は「それで」と言った。
「話を戻すけれど、約束してしまったのよ。私に勝てたら何でも一つ言う事を聞いてやるわって」
「ああ……」
漸く得心がいった。あのいつも以上になりふり構わない暴れっぷりには相応の事情があったという事か――いつもいつもやりたい放題好き放題に暴れている癖に、こんな所だけ歪んだ方向に奥手とは。どんな汚い手段を使ってでも、勝ってしまえばこちらのものという訳だ。約束を盾に一生一緒に居てくれやとでも迫るつもりなのだろう。いやらしい。
緋想の剣は既に没収されているし、一対一では確かに分が悪いだろう。だからといって人を強引に連れ出してあまつさえミサイル代わりにブン投げるような非道を許せる訳はないけれど。
「数日前にいきなりやって来て賭けを持ちかけてきたのよ。一度叩きのめしてやってそれで終わりかと思えば――」
「なるほど。諦めの悪さと性根の悪さは一級品ですからね。おまけに空気も読めてないですし。周りの迷惑も考えませんし。人の顔と名前もロクに覚えませんし。何もしない癖に文句は言うし、好き嫌いは多いし、口は悪いし、頭も悪いし、大体」
「……言いたい事は大体解ったからその辺りにして貰えるかしら」
「おっと失礼。……ちなみに、貴女は毎回勝ってるんですよね」
「当然」
「ふむ。それで、貴女は総領娘様――天子様にどんなペナルティーを?」
一日一戦したならば、総領娘様は既に三回ほどは敗北を喫しているはずだ。どんなダメージを受けても大体翌日にはけろっとしている彼女の事だから、ダメージ面に関しては別段心配していないが、無茶な命令で天界の品位を落とされるような事になっていてはよろしくない。
「別に、大した事はさせてないわ。この畑の世話を一人でさせたり、畑に使う肥料を人里から運搬させたり」
「うわぁ……」
さらっと言うがこの広大な畑だ。一体人里を何往復させられたのだろうかと考えるとぞくぞく――もとい、身の毛のよだつ思いがする。花妖怪の妖力で摂理を歪めて咲かせているのだろうから、そもそも肥料など要らないだろうに。
「貴女という人は――」
「何よ」
「実に素晴らしいです。望めば簡単に手に入るものばかりではないという事をあの放蕩娘にたっぷりと教え込んで差し上げて下さい」
「……私が言うのも何だけど、貴女結構酷いわね」
「いえいえお代官様ほどでは。――ところで」
お気に入りの帽子を被り直して、私はふと気になった事を尋ねてみた。
「この見事な向日葵畑――これ程の向日葵を妖力で維持するのは、さぞかし大変でしょうね。貴女の出来る行動にも、色々と制限がかかるのではないですか? 例えば――そう、貴女はここを長く離れる事は出来ないはずです。そんな不自由を負ってまで、貴女がこの畑に拘るのは何故なのですか?」
「……愚問ね」
彼女はあからさまに軽蔑したような眼で私を見た。「私は独りで居たいだけ。ここだろうがどこだろうが同じ事よ。この向日葵達は私のテリトリーの証。花畑の中に私が居るんじゃない、私の周りに花畑があるの。無名の丘でも無縁塚でもなくここを選んだ理由は、鈴蘭や彼岸花よりは向日葵の方が好みだというだけの事」
「強者は群れないと。なるほど、説得力のある理由ですね」
確かに、人里では会話をしても、この畑まで入ってこようと思う人間など居りはしないだろう。
「何か引っ掛かる物言いね……まあいいわ。で」
幽香は裏側まで射抜くような眼で私を見た。
「結局、その放蕩娘の望むものっていうのは何なのよ」
突如として放たれた、急所を貫くような一言。
「……それは――存じ上げません」
「嘘ね」
「……」
「随分と人間じみた事をするわね、妖怪のくせに。急に口調が強張ったわよ。あの天人を庇うつもり?」
「まさか」
「だったら言いなさい。それとも無理矢理吐かされる方がお好みかしら?」
「……残念ですが、たとえ何をされようが私が口を割る事は有りませんよ」
私の拒絶に、彼女は少し驚いた顔をした。それを隠すように一層大きな妖力が無言の圧力となって私を包んだが、私は眉一つ動かしはしない――いや、動かせない。
「……随分な忠犬っぷりね」
「忠義ではありません。貴女には――解らないでしょうね」
そうだ。何があろうとも、喋る訳にはいかない。
「解らないですって?」
「お気に入りの衣服という衣服を肥溜めに漬け込まれる恐怖ですよ」
「……は?」
眼が点になる瞬間というものを、私は初めて目撃した。ざわざわと向日葵を揺らしていた妖力が一瞬の内にしぼんで消える。
「私が何事かを貴女に洩らした事があの方に伝われば、私のあらゆる衣類はもはや二度と日の目を見る事叶わぬ姿にされてしまうでしょう。大事な人からの贈り物も、苦楽を共にした思い出の服も、フィーバータイムには欠かせないあの服も、全てが一瞬にして醜悪な破壊兵器へと変じる恐怖。あの方の事ですから、漬け込みの仕上げには勿論要石で厳重に蓋をするはずです。或いは私ごと纏めてブチ込まれる可能性すらある。これがどれほど恐ろしい事か解りますか? 断言します、服は女性の命です。魂です。レゾンデートルです。つまりフリルです。偉い人は言いました、ノーフリルノーライフ。全ての道はフリルに通ず。板垣死すともフリルは死なず。それを蹂躙されるぐらいなら、私は甘んじてここで貴女の向日葵の栄養になりましょう。大体何なんですか貴女、そんな小粋にスマートな服を着て、大人の余裕のつもりですか。仮にもフラワーマスターを名乗るなら、フリルの海で溺れ殺すぐらいの意気込みを見せたらどうなんです。ちょっと、聞いていますか?」
「……よ、よく解らないけどごめんなさい……」
何だか知らないが謝られたので許す事にした。
強く吹いた風に、風見幽香は静かに髪を掻きあげた。太陽はそろそろ西へ傾いでいる。
そもそもですよ――彼女を見つめて私は言った。
「天子様と関わりたくないのであれば、そう命令すればいいだけの話ではないですか。『二度と勝負を挑むな』と言ってしまえばそれで仕舞いです。簡単な話でしょう」
「……ああ、なるほど」
彼女はそれは妙案だと言わんばかりに声を上げた。「そういえばそうね――何で気付かなかったのかしら」
それは恐らく総領娘様から放たれる抗い難いいじめてオーラの仕業ではなかろうか。ならば気持ちは解る。私とて彼女に好きな命令を下せるとなれば、一体どうやってその半泣き顔を愉しむかという考えで頭が一杯になるに違いない。
まあ、それはともかく――これならば私は要らぬ戦いに巻き込まれずとも済むし、総領娘様も何らかのリアクションを起こさざるを得なくなる。それが玉砕であれ逃避であれ、正直な所、こんな脅迫紛いの方法よりも余程マシではないかと思う。
「ちょっとあんた達っ!」
聞き慣れた声が突如として上空から――文字通りの上空から降って来た。続いて巨大な岩塊が地面に突き刺さり、最後にそこから飛び降りて、何が誇らしいものか総領娘様は薄い胸を張ってふんぞり返った。
「この私を差し置いて密談とはいい度胸じゃない。迎えの一つぐらい寄越しなさいよね」
「これはこれは、お早いお帰りで」
「お陰様でね」
美少女然とした笑みが私を刺すが、怒って然るべきなのは私の方なのだから怖気づく理由はない。笑顔のままでバチバチと火花を散らし始めた私達に呆れた溜息を吐いて、幽香は蔓草の椅子をもう一脚こしらえた。
「まあまあ、座りなさいよ」
「あら、気が利いてるじゃない」
私の事など記憶から消し去ったかのような変わり身で、総領娘様は動きも軽く深緑の椅子に腰掛けた。その瞬間、椅子はゴムのようにたわみ、その反動で総領娘様は天高く打ち上げられて雲の彼方に消えた。
「何するのよっ!!」
十分かけて地上に戻って来るなり、総領娘様は吼えた。
「ほんのジョークじゃない」
「ほんのジョークで窒息死するとこだったわよ!」
どこまで飛んだのだろうか。
「さて」
幽香はおもむろに立ち上がって言った。それに倣って立ち上がった私の椅子に素早く総領娘様が座ろうとするが、一瞬早く幽香がついと傘の先端を振り、しゅるしゅるとほどけて枯れた蔓草に尻餅をついて彼女は「きゃん」とどこぞの死神のような声を上げた。
「そろそろ再開しましょうか、天人娘」
「あたたた……の、望む所よ」
幽香を中心に半径数間の範囲に林立する向日葵達が、あっと言う間に枯れ果て風化して土に還る。ものの数十秒で即席のバトルフィールドが出来上がった。ふわりと宙を歩くようにして、幽香が数間向こうに着地した。その人形のような顔に浮かんでいた柔和な笑みは、既に嗜虐的なそれへと変じている。対して毫末ほども怯まぬ辺り、総領娘様も流石の一言である。
「やるわよ、衣玖!」
「お断りします」
「ふん、そう言うと思っ――きゃあっ!?」
先手必勝。言うが早いか私は羽衣で総領娘様を縛り上げ、幽香目掛けて投擲した。彼女は迎撃するでもなくついと身を躱し、その向こうに開けた大地へと総領娘様は盛大に突っ込んだ。
「ぷあっ! いきなり何するのよっ!」
「人を投げるのって何か変な快感がありますね」
「聞いてないわよ馬鹿衣玖っ!」
ぴいぴいと囀る総領娘様。何と言われようと、私はこんな事で寿命を削る気はさらさらないのである。尚も文句を言おうとする彼女の頭上を、地面ごと抉るような風圧を伴う一撃が走り抜けた。
「な――」
「死んだ後もそうして騒ぐつもりかしら?」
白い剣と見紛う日傘を片手に花妖怪が笑う。戦いは――既に始まっている。
「くッ……!」
ボロボロの身体で、総領娘様は悔しげに呻いた。
幽香に初手から持って行かれたペースを遂に取り戻せないまま、彼女はあれよという間にチェックメイト寸前にまで追い詰められた。どうにか劣勢を巻き返そうと大技を乱発するが、そんな苦し紛れの攻撃では幽香の影すら捉える事は出来ない。
「つまらないわね」
総領娘様が地面から跳ね上げた巨大な岩塊を事も無げに片手でいなし、幽香は剃刀の如く鋭い呟きを漏らした。その周囲を――いつの間にか無数の花びらが舞っている。彼女がそのひとひらに「ふっ」と息を吹きかけると、色とりどりの花びらは一つの渦となり竜巻となって総領娘様を包み込んだ。赤色、青色、或いは黄色、或いは白色。それらが渾然一体となって吹き荒れる――七色の嵐。幻惑的な花々の毒に当てられたかのように、総領娘様が「あ――」と惚けた声を上げたその直後、花弁の洪水は一斉に光を放って弾け飛んだ。
辺りを覆う白煙が晴れ上がったその後には――地べたにへたり込んだ彼女と、その額に日傘を突き付けるフラワーマスターの姿があった。
「まだやるかしら?」
表情と裏腹に、全く無感動な声で幽香が言う。その裏には、「もういいだろう」という無言の強制力があった。
「……私の負けよ」
「負け?」
違うでしょう――そう言いながら幽香は敗者の頭を日傘で小突いた。
「ま……参り、ました」
「よろしい」
屈辱からか恐怖からか、ぎりぎりとスカートを握り締める総領娘様を見下ろして、彼女は漸く元の柔らかな――正確には一見柔らかな――微笑を浮かべた。常日頃から天罰が下ればいいのにと考えているとは言え、総領娘様のこんな姿を見るのは流石に少し胸が痛む。
「さて――」
幽香は向日葵の陰で傍観していた私にちらりと一瞥を向けた。私の提案通りに、総領娘様に引導を渡すつもりなのだろう。
「命令だけど」
顔を俯かせたまま、総領娘様はびくりと肩を跳ねさせた。
不器用な人だと思う。そこまで彼女の命令を恐れているのに、自分の想いを告げるのはもっと恐ろしいのだろう。
「これから先、二度と私に――……」
そこまで言って、幽香は喉に何かが詰まったように言葉を止めた。
おや、と思ったのは私だけではないらしい――その端正な顔に僅か浮かんだ逡巡の意味を、彼女自身が量りかねているようだった。
不思議そうに自身を見上げる総領娘様に気付き、幽香は強引に咳払いをした。
「……今のは、無し。改めて言うから良く聞きなさい」
意味も無くロングスカートの皺を直してから、幽香は今度こそ命令を下した。
「――貴女の目的を答えて貰うわ。どうしてこんな賭けを吹っ掛けて来たのか、私に何をさせたいのか、全て包み隠さずね」
「え」
「あ」
総領娘様と私は、ほとんど同時に声を発した。それは――総領娘様にとって、ある意味で最強最悪の命令。
「あ、う……そ、」
それは。――それは。
総領娘様は見ているこちらが恥ずかしくなるほど真っ赤に縮こまって、「あう」とか「えう」とか言葉にならない声を上げた。雁字搦めに王手をかけてしまった事に本人だけが一向気付かぬまま、様子のおかしい総領娘様に「何よその反応は」などと無邪気な追い討ちを放っている。
ひたすら俯いたまま、幽香が何を言おうと総領娘様は小さな声で唸る事しか出来ない。それも仕方のない事だろう。そうでなければ、初めから打ち負かして言う事を聞かせるなどという迂遠極まりない手段を採るはずもない。彼女は今、その頭の中で様々な感情を戦わせているのだろうが――そうとは知らない幽香は、いつまで経っても答えない総領娘様に次第に苛立ちを募らせつつあるようだった。
「……差し出口ですが」
こんな状態では話にならない。私はやむなく援護に回る事にして、片手を挙げると向日葵の陰から静かに歩み出た。
「もっと有意義な命令があるのでは? 総領娘様はまだ体力には余裕があるようですし、日が沈むまでスクワットをさせるなり、紅魔館まで本を百冊取りに行かせるなり、マヨヒガを探して何かを持ち帰らせるなり、何でもさせられると思いますが」
「何よ。これなら貴女にダメージはないでしょう。わざわざ配慮してあげたんだから感謝して貰いたい所だわ」
「いや、まあ……そうなのですが」
尚も粘ろうとしたが、彼女は最早話は終わったと言わんばかりに私から視線を外して総領娘様に向き直った。――援護射撃失敗。頑張って下さい総領娘様、衣玖は精々ここで生温かく見守る事にします。
「さあ、答えなさい」
有無を言わさぬ威圧を孕んだ声で幽香が迫る。
「安心しなさい、どんなに下らない目的でも消し炭にしたりはしないわ。死ぬよりつらい目には遭って貰うかも知れないけれど」
「ち、違うの」
「何が違うのよ」
「ゆ、ゆうか――幽香が、その」
「私が?」
「すっ……すっ……う、ううう……!」
後一歩という所で、総領娘様の喉はまるで魔法にかかったように、そこから先を音にする事を頑なに拒絶する。酸素は足りているのかと心配になるほどに、彼女は俯いたまま声の乗らない息を吐き続ける。これは不味いかも知れない――そう思って視線を移すと、幽香は案の定我慢の限界のようだった。彼女は日傘を地面に突き立てると、出し抜けに総領娘様の両肩を掴み、その顔を無理矢理自分に向けさせた。
「貴女、私を馬鹿にしてるの? いい加減にしない、と――」
花妖怪の怒声は、突如勢いを失って霧散した。その理由は簡単だ。見てしまったのだろう――総領娘様の、瞳の端に光る雫を。
「ちょ、ちょっと。何、泣いて――」
「――ッ!!」
その言葉が引き金になったのかどうか。総領娘様は弾かれるように起き上がり、片腕で顔を乱暴にこすりながら闇雲に駆け出した。
「あっ……ま、待ちなさい!」
「追わないで!」
声を張り上げたのは私だった。「追わないで下さい――今は」
「お、追わないでって――あ」
私の身長より高い草丈の向日葵に隠れて、総領娘様の姿はあっと言う間に見えなくなった。
「……一体何だって言うのよ」
訳が解らないわ――幽香は怒りよりも途方に暮れた声を上げた。
「勝手に黙って、勝手に泣いて、挙句勝手に逃げ出して――まるで私が悪者ね。下らない……そこまでして隠す目的って一体何なのよ」
「貴女は悪くありませんよ」
長く伸びた二人の影を視線でなぞりながら私は繰り返した。「貴女は悪くありません。ですがあの方の事もどうか責めないで頂きたい。あの方はあの方なりに、貴女に応えようとしていたのです」
幽香は鼻で笑った。
「ムシのいい話ね。頑張ったからミスも逃避も笑って見逃せって?」
「そうは言いません。ただ――あの方は既に罰を受けています。きっと、それこそ心を押し潰されるほどに重い罰を」
「……」
真冬の尖った風に、夕陽の色に染まった私の羽衣がばさりとはためいた。
「――明日。あの方がここに来れば、恐らく貴女の命令は果たされるでしょう。ですがもし来なければ――幽香、貴女に総領娘様が会いに来る事は、もう二度とないかも知れません」
「……へぇ」
「尤も、貴女は後者の方がお望みなのかも知れませんが」
「ええ。これで二度とあの我侭娘の姿を見なくて済むというのなら」
幽香は地面に突き立ったままの日傘を引き抜き、ばっと白い太陽を咲かせて私に背を向けた。
「――せいせいするわ。実にね」
清々しい感情とはかけ離れた不機嫌な声で、彼女はそう言った。
* * * * *
翌朝。
総領娘様の部屋で、私は彼女の背中を見つめながら一人思案していた。昨日の事が余程堪えているのだろう、部屋の隅で古典的に膝を抱える彼女の背中はいつもより更に小さく感じられた。先ほどから何度も呼び掛けているのだが、彼女からはついぞ返事がないままだ。龍魚界のスーパースターであるさしもの私も、相手が対話に応じてくれなくてはお手上げである。いっそ羽衣を巻き付けて文字通りのショック療法でも試してみようかと思った時、総領娘様はぽつりと口を開いた。
「……何しに来たの」
聞いているこちらまで気が沈みそうな声だった。
「解りませんか?」
私は敢えていつも通りに言葉を返した。無理に明るく振舞った所で総領娘様が元気を取り戻してくれる訳もなかろうし、そんな道化を演じる事も願い下げである。
「……余計なお世話よ」
益々に背中を丸めて総領娘様は言う。
「情けない女だと思ってるんでしょ? 笑いなさいよ」
「まあ、思ってますが笑いませんよ。というか笑えませんよ。部屋の隅で膝を抱えて落ち込んでる人を指差して爆笑出来るような生き物は幻想郷広しと言えど総領娘様ぐらいのものです」
「……そりゃ悪かったわね」
少しだけ口調が軽くなった気がして、私は僅かに気が楽になった。
「行かないわよ」
私が何か言う前に、総領娘様は先手を打った。
「何故です?」
「……さっきの貴女の台詞、そのまま返すわ」
私は肩をすくめたが、壁と睨めっこを続けている総領娘様には無論見えない。
「もういいよ。私の恋はこれにて終了。馬鹿みたいだわ、一人で盛り上がって盛り下がって」
「……総領娘様」
「これで良かったのよ。地べたを這い回る妖怪なんかに手を出さずに済んで」
「……」
「だって、私が声を掛ければ落ちない奴なんて居ないものね。あははははは、は……」
「……そうやって自分を誤魔化そうとしたって、虚しいだけですよ」
「――何よ」
総領娘様は――漸くこちらを振り返った。目元こそ濡れてはいないものの、その瞳は真っ赤に充血している。
知ったような事を言わないでよ――私をなじる彼女は、半ば涙声だった。
「衣玖には解らないわよ。誰からも好かれる貴女なんかには。そうやっていつも超然として、全て解ってるような顔をして。……私は違うわ。私は衣玖じゃない、衣玖みたいにはなれない! 放っておいてよ、どうせ嫌々ここに来たんでしょ!? 知ってるわよ、自分が嫌われ者だって事ぐらい! ……私を知らない妖怪なら一から関係を築けるかもって思った。だけど無駄だった。結局私は幽香まで怒らせてしまった……! もういいわよ、全てどうでもいい! 私は、私はぁ……!」
一度漏らした言葉は、そのまま堰を切って私になだれかかる。総領娘様は私を力なく叩きながら、止まず弱音を吐き続ける――止まる事を知らず溢れる涙と共に。
――好きだったのかも知れないな、と私は思った。
ああ――好きなのかも知れない。
憧れや恋愛感情ではないけれど。どれだけ痛い目に遭わされても、どんな無理難題を押し付けられても、結局の所、私は彼女の破天荒な姿を見ているのが好きなのだ。私は彼女の従者でも何でもないから、無論怒りもすれば叱りもする。けれども、何だかんだ言っても、やっぱり私は彼女を嫌いにはなれないのだ。
私は自嘲を気取られぬように溜息を吐くと、そっと総領娘様の手を取った。
「……気は済みましたか」
「え……?」
「私も、ありますよ」
「な、何が――」
「私も、貴女のようになりたいと思った事があります」
「……」
「だけどなれなかった。当然ですよね。どこまでいっても私は私で、総領娘様は総領娘様なんですから」
彼女の涙は止まっていた。濡れた頬を羽衣で拭って、私は静かに言った。
「私になんてならなくていいですよ。貴女は貴女のままでいい。いつもみたいに後先も考えずに突っ走って、相手の迷惑も考えずに大暴れして、たまにこっ酷く叱られて――それが総領娘様でしょう。振られたらどうしようとか、嫌われたらどうしようとか、そんな事はそうなってから考えればいいじゃないですか。嫌われ者でもいいでしょう。あなたがどれだけ嫌われたって、少なくともここに一人は、貴女を嫌いになれない妖怪がいるんですから」
「……衣玖……」
「さあ、行きましょう。風見幽香もきっと待ってますよ」
「……うん」
特別な事を言ったつもりはない。それでも、総領娘様にはきっと伝わってくれるはずだと思った。
私の羽衣をあてがって、彼女はごしごしと顔を拭いた。羽衣をはらりと落とした時、そこにあるのはいつものお騒がせ娘の顔だった。
「――全く、下らない事に頭を使っちゃったわ。……行くわよ、衣玖! 今日こそ決着をつけてやるわ!」
言うが早いか総領娘様は自室を飛び出した。どたばたという足音があっと言う間にに遠ざかる。それに続いて、何かがぶつかる音と「あ痛っ!」という悲鳴――そしてまた走り始める音。
少し焚き付けすぎたかな――どろどろに濡れた羽衣を見つめて、私は頭を掻いた。
* * * * *
太陽の畑は、今日も快晴だった。
吹き荒れる寒風に負けじと、太陽は燦々たる光を地上に注ぐ。それを浴びながら、二人は十年来の宿敵同士のように向かい合っていた。
「――結局、また来たのね」
「ええ、また来たわ」
風見幽香が溜息を吐くのと反対に、総領娘様はふんぞり返って言った。花妖怪の視線は総領娘様に、それからその後方に控える私に注がれる。
「それで? 一体私は後どれだけ貴女を叩きのめせばいいのかしら」
「あら、後なんてないわ。今日で決着、これで最後。私が見事に貴女を打ち負かしてね」
「……へぇ」
幽香は僅か驚いたような顔を見せた。
「地に這い蹲る度にみっともなく言い訳を吐いてた小娘の言葉とは思えないわね」
「ふふん、常に未来を生きるこの私に過去の汚点など意味をなさないわ」
「未来人には論理も道理も通用しないのです」
「衣玖は黙る!」
「はい」
総領娘様はおもむろに腰に佩いた太刀に手を掛けた。人里の店からタダ同然の値段で買い上げたそれはどこからどう見ても紛う事なき竹光だが、腐っても未来人でも剣の扱いには慣れた総領娘様である。すらりと抜き放って構えれば、矢張り磨き上げたような貫禄がある。
「……行くわよ」
幽香は答えず、閉じた日傘で挑発するように地面を数度叩いた。それを合図と見做して――総領娘様が跳ぶ。彼我の距離が一瞬にして零になる。上段に振り上げた太刀を、一切の容赦なく叩き下ろした。常人ならば瞬きの間に昏倒するほどの速度だが、無論幽香には全て視えている。総領娘様の霊力が流れる太刀は、竹光であろうとも鋼鉄並の強度と化す。その総領娘様の両腕による一撃を、幽香は右手一本で掬い上げるように振るった日傘で易々と受け止め――弾き返した。その反動は太刀を弾くにとどまらず、総領娘様自身をも宙に吹き飛ばす。しかし幽香の攻撃はそこで終わらない。振り上げきった日傘をそのまま袈裟斬りに打ち下ろすとその軌跡にはいくつもの光弾が生じ、それらは次々に総領娘様へと襲い掛かった。
「ちッ!」
馬手の太刀で光弾をあしらいながら、かざした弓手の先に要石を生成する。押し出すように放つと、要石は光弾を次々にかき消しながら幽香に迫った。――が、幽香の姿は既にそこにはない。勘であろうか、総領娘様は気付くと同時に無理矢理背面へと身を捻った。正面から消えた幽香の姿は、正にそこにあった。同時に襲い来る烈風の如き一撃――片手を太刀の峰に添えて十字の形に受け止め、そのまま互いに弾きあって二人は再び地面で相対した。
そのまま、今度は息吐く間もなく突進し、総領娘様は幽香に真っ向勝負を挑んだ。二合、三合と暴風のように打ち合うが――矢張り分が悪いのは総領娘様だ。下手な妖怪などより余程身体能力の高い総領娘様だが、相手は音に聞こえる大妖怪である。高い霊力で守られているはずの竹光が、早くもぎしぎしと悲鳴を上げ始めている。私の眼に解る事を、当事者の二人が気付いていない訳がない。太刀をヘシ折らんばかりの一撃を幽香が放つと、総領娘様は身を屈めてそれを躱し、同時に太刀を大地へ突き刺した。途端に大地が爆ぜる。隆起した岩盤が、幽香に一撃をお見舞いした。
「く……」
腹部を押し上げる衝撃に敢えて逆らわず、幽香は上空へと跳ぶ事でダメージを逃がした。太刀を確と握り直して、今が好機と総領娘様もまた空へと跳ぶ。
私は一人、この奇妙な決闘の行方を眺めていた。総領娘様には、どうしても譲れぬ想いがある。それが何であるかは解らずとも、今や風見幽香にも、彼女がただの伊達や酔狂で勝負を挑みに来ている訳ではない事ぐらい気がついているだろう。ならば――幽香はどうか。目的も意識もなく、ただ雨が降ったから傘を差すように、纏わりつく火の粉を振り払っているだけなのだろうか。
そうではない――ような気がした。
「あぐっ……!」
地面に深く叩き付けられて、総領娘様がたまらず声を上げた。
矢張り厳として力の差はあった。後一歩で埋められない差――と、傍目にはそう見えたが、実際の所幽香はまだ全力を出してはいないように思えた。いずれにせよ、決着はついた――そう思ったのだろう、地面に降りた幽香は纏っていた殺気を消して地面に倒れる総領娘様へと近づいた。
「――!」
突如飛来した二発の要石を、幽香は間一髪で回避した。瞬間、眼の前の地面が亀裂を生じ、そこから無数の岩礫が飛び出した。バランスを崩した幽香は散弾の如く射出された岩に対応し切れず、受け損ねた礫が腰に、肩口に衝突する。
「ッ――」
「ああああああぁぁぁッ!」
いつの間にか起き上がっていた総領娘様が、間髪入れず突っ込む。飛び掛かりざまの一刀は見事な動きだったが、風見幽香は矢張り並の妖怪ではない。当たったと思った瞬間、彼女は片脚を軸に半身を後方にずらしてそれを躱していた。そのまま回転する力を利用して伸ばされた手が総領娘様の胸元を掴む。ゴミを捨てるように肩越しに無造作に投げ捨てられた総領娘様は数間を飛び、片手で地面を引っ掻くようにして何とか体勢を立て直した。
「ふん……今日は随分と粘るじゃない」
「はぁ、はぁ……ッ。言ったでしょう――今日は、私が勝つって」
不意を突いて一撃与えたとは言え、総領娘様が追い込まれている事に些かも変わりはない。しかし、それでも彼女は不敵に笑うとスペルカードを一枚投げ捨てた。途端、紅い雷光が総領娘様の身体に走る。あれは――。
「――気符、『無念無想の境地』」
呟くように宣言して、太刀を引き摺るように構えると総領娘様は地を蹴った。
無念無想の境地――私の記憶が確かならば、それは身体能力、殊に防御力を強化するスペル。ただ単に気合で我慢しているだけという噂もあるが――その真偽はともかく、現状ではやせ我慢の上にやせ我慢を重ねる程度の効果しかないのではないだろうか。
私の心配など無論知る由もなく、総領娘様は疾駆する。対して幽香は極めて冷静に、空中に日傘でくるりと円を描いた。その軌道上に次々と花が咲き――咲いた傍からはらはらと散って、それらは吸い寄せられるように総領娘様へと飛来した。袖に当たり、スカートに当たり、腕に当たり、花びらは次々と白い光と化して爆ぜるが、総領娘様はまるで気にも留めずに駆け抜ける。
無茶な――私は思わず呟いた。たとえ今はダメージを感じずとも、スペルの効力が切れれば蓄積された負荷が一気に身体に襲い掛かるはずだ。それとも、そうなる前に倒す勝算でもあるのか――そう考えた時、私の眼に構えたままの彼女の竹光が飛び込んだ。スペルによって生じた紅い雷光が、総領娘様だけでなく、竹光にまで及んでいる。だとすれば――元から彼女の霊力を受けているあの太刀には、今膨大なエネルギーが集まっているはずだ。あれを叩き込む事さえ出来れば、如何に風見幽香と言えどただでは済むまい。たとえあの日傘で受け止めたとしても、それごとヘシ折るほどの威力すらあるはずだ。
花びらが額に着弾して、帽子が空高く吹き飛んだ。それでも総領娘様は止まらない。その意図に遂に花妖怪も気付いたようだった。そうして彼女が顔に浮かべたのは、笑み。まさか――嫌な予感が私の脳裏を過ぎった。
日傘を横薙ぎの形に軽く構えると、幽香は何を思ったか眼を閉じた。直後――巨大な妖力が日傘に集まり始める。その意味する所は一つしかない。
真っ向からの打ち合い。集まり続ける甚大な妖力と、状況をむしろ愉しむかのような花妖怪の笑みに、総領娘様の顔が初めて焦りに歪んだ。こうなった以上、一瞬でも早く一撃を叩き込まなければ勝機はない。
「幽香ぁぁぁぁぁぁああッ!!」
総領娘様は更に速度を増して駆ける。ばら撒かれた花弾など、最早視界に映ってはいないのだろう。白い爆炎を突き抜けながら、加速し加速し加速する。そして遂に踏み込む――必殺の間合い。
めりめりと大気の裂ける音すら聞こえてきそうな爆発力で、総領娘様の太刀が閃く。幽香が数瞬遅れて日傘を振るったのは――恐らく、余裕の表れだったのだろう。
それは、長物同士のぶつかり合いと言うよりは――巨大なエネルギー同士の衝突。
白い光が爆ぜる。
耳をつんざく轟音が響く。
何もかもを吹き飛ばすほどの衝撃波が拡がる。
打ち負けたのは――。
「総領娘様……!」
濛々と立ち込める煙幕が晴れ上がった時、総領娘様は随分と離れた所にいたはずの私の程近くまで吹き飛ばされていた。
「っく、う……」
ボロボロになった全身で、総領娘様は尚も立ち上がろうとする。だが、彼女の負ったダメージはどう見ても既に限界を超えていた。スペルの効果もとうに切れており、裏返った負荷の為か正常な呼吸すらもままならぬようだった。身を起こした傍から崩れ落ち、総領娘様はしかしそれでも立ち上がろうともがく。
「いい加減に負けを認めなさい」
冷たい声が降りかかる。気付けば風見幽香がすぐ傍まで来ていた。
「お断り、よ……」
息も絶え絶えに答える総領娘様に、幽香は苛立たしげに溜息を吐いた。
「死ぬわよ、貴女」
「……ざ、残念だけどね……そう簡単には死なないよ、天人は……」
軽口を叩きながらも、総領娘様はがくがくと震える腕で上半身を起こす。
私は――何も言えなかった。
「……もういいわ」
花妖怪は吐き捨てるように言った。「意識がある限り戦うと言うのなら――寝てなさい」
幽香が、その手をゆらりと動かした。そこから先は――殆ど無意識だった。
幽香の胴に羽衣を巻き付けて、私は彼女ごと宙へ舞い上がった。
「な――」
私という存在が既に彼女の思考の埒外にあった為か、幽香は数瞬事態を認識出来ずにいた。その隙に上空へと場所を移し、私はそこへ彼女を投げ捨てるように開放した。
「……何の、つもりかしら」
花妖怪は怒りを隠さずに言った。
「――正直言いまして、私にも解りません。今の今まで、傍観に徹するつもりだったのですが」
私は偽らざる所を答えた。「ただ、まあ――こういう時は、素直に直感に従う事にしていまして」
スペルカードを一枚投げ捨てる。
羽衣――「羽衣は空の如く」。
「貴女――」
「陽が落ちるには早いでしょう。私とも少し遊んで頂けませんか?」
* * * * *
五分か、十分か。或いはそれとも、まだほんの数分も経ってはいないのか――。緊張に張り詰めた世界の中では、時間感覚などまともに機能しない。狂ったように撃ち出される弾幕を、或いは颶風と化して襲い来る日傘の一撃一撃を、私は小石の上に小石を積み上げてゆくような慎重さで避け続ける。
「ちッ……意外とやるじゃない、貴女ッ!」
白い剣が私の右肩を掠めて後ろへ突き抜ける。間髪居れず、光弾の群れが私目掛けて飛来する。
「縁の下の力持ちが身上でしてね」
羽衣を独楽を回すように振り抜けば、弾幕を反射する風の鏡が出来上がる。跳ね返って自身へ戻る光弾を小虫を掃うように消し飛ばして、幽香は私から僅かに距離を取った。
「一発ぐらい当たりなさいよ。苛々するわ」
「私はいつ当たるかと冷や冷やしてますよ」
「ふん――あの馬鹿天人が現れてからこっち、私は苛々し通しだわ。大した疫病神ね、貴女達は」
「私まで一緒にされるのは心外ですが――本当にそれだけですか?」
「何ですって?」
その綺麗な瞳で、幽香は刺すように私を見た。おお怖い、総領娘様が無事でさえあれば、彼女を生贄にしてスタコラ逃げ帰っている所だ。だがまあ、こうなってしまったものは仕方がない。こんな時はいっそ開き直ってしまうのが永江流の処世術だ。幽香の突きを流しながら私は口を開いた。
「――寂しいんじゃないんですか?」
「は?」
幽香の攻撃が止んだ。その隙を逃さず距離を取る。
「独りが好きだからここに居るのだと言いましたね。確かに、それは嘘ではないのでしょう。今この幻想郷で向日葵畑の大妖怪を知らないものは、精々が能天気な妖精達程度――貴女の目論見通りです。貴女は念願の孤独を手に入れた。ですが、同時に寂しさも知ってしまった」
「……何を馬鹿な――」
「でなければ、どうして騒霊のライブをさせるがままにしておくのですか? 向日葵の陰で走り回る妖精達を追い出さないのは何故? 摂理に反してまで周囲に向日葵を溢れさせる本当の理由は? 総領娘様に『二度と来るな』と言えなかったのは――」
巨大な光の奔流が、私の脇を掠めて遥か彼方の雲を吹き飛ばした。
「黙りなさい」
幽香の顔が歪む。怒り――いや、これは。
面白くなって来たかもしれない。ならば尚の事――。
「黙りません」
端が無惨に焼き切れた羽衣を手繰り寄せて、私はきっぱりと言った。問答無用と悟ったか、幽香は実力で沈黙させる事を選んだらしい。日傘を構えて突っ込んで来る幽香に対し、私は高度を下げながら後退する。
「どうやら自分でも気付いていないようですから言って差し上げましょうか」
「うるさいわね」
「貴女があの時、どうして躊躇ったのか」
「うるさいと言って――」
「衣玖ッ!!」
――ああ、奇跡的イカサマ的ご都合主義的に良いタイミングです総領娘様。矢張り主役はこうでなくては。
「天人娘、回復を――」
幽香の言葉を遮り雷撃弾を放つ。二発、四発、八発。牽制にはこれくらいで十分だろう。
蜘蛛の糸のように羽衣を後方へと垂らす。期待通り、直ぐに感じた重み――その源を確かめぬまま、私自身と入れ替えるようにしてそれを引き上げた。私を追い越した所で羽衣を手放し、総領娘様は幽香へ向けて一直線に突っ込んだ。
「幽香ぁっ!」
「しつこいわねッ!」
最後に残った雷撃弾を斬り伏せて、幽香は一部の隙もなく迎撃の構えを取った。その距離をみるみる縮めながら、総領娘様は吼える。
「教えてあげるわ! 私がこんな勝負を持ちかけたのはねぇっ!」
「何を――」
「貴女に恋しちゃったからよっ!!」
「――は、はぁあっ!?」
ああ、これは駄目だな――と私は思った。
殺気が揺らいだ。
力がブレた。
視線が泳いだ。
構えが崩れた。
そんなざまでは――ほら。
バキン、という音が青空に響き渡って――幽香の日傘は眼下の向日葵畑へと落ちていった。
数秒の間、何が起こったかを理解出来てないかのように、幽香は日傘を弾かれた格好のままで硬直していた。
総領娘様は、ぼろぼろの太刀を静かに鞘へと収める。その擦過音に我を取り戻したか、幽香は漸く顔を上げたと思うと、わなわなと拳を震わせた。
「ひ……卑怯よ! あんな出鱈目で動揺を誘うなんて――」
「嘘じゃないわ」
「え」
ずい、と総領娘様が前に出る。その顔は笑えるぐらい真っ赤になっていたが、幽香の顔も同じ程度には赤く染まっていたので、見た目としては釣り合いが取れているなと私は自分でも良く解らない事を考えた。
「だ、だから……命令よ」
「め、命令って」
「私と!」
幽香の胸元に人差し指を突き付けて、総領娘様は宣言した。
「……と、友達から始めて下さい……」
誰が泣こうが笑おうが、太陽はただ厳しく、ただ優しく全てを照らし続ける。片手で作ったひさしの下で眼を細めながら彼を見上げ、私はしみじみと呟いた。
「ヘタレはどこまでいってもヘタレですねぇ」
「衣玖は黙るっ!」
「はいはい」
* * * * *
向日葵に囲まれて、二人はぎこちなく立ち尽くしている。総領娘様は僅かに顔を俯けて、一方風見幽香はあからさまに何もない空を見上げて。流れ行く雲を眺める振りでもしているつもりなのだろうが、その実何も眼に留まっていないのが滑稽なほどにバレバレである。いじめ甲斐という点において、総領娘様は正に打てば響くような逸材だが、こうしていると幽香も何かこう、私をうずうずさせるような雰囲気を放っている。
「もしもし、幽香さん」
「は、はいっ!?」
「呼んでみただけです」
殴られてしまった。ほんの冗談だったのだが。
私の提案の結果、とりあえず二人で人里に遊びにでも行こうという事になった。ヘタレ極まりない命令ではあったが、命令は命令であるので、幽香に端から拒否権はない。彼女が拒絶じみた事を言わなかったのは、総領娘様が彼女の気持ちを問い質さなかったのは、その故であるものか――或いはそういう事にしておきたいのか。まあ、藪を突付いて誰が幸せになれる訳でもないだろうから――私としては、とりあえずは含み笑いで見守る事にしようと思う。
ともあれ、これで私は漸くこのお騒がせ娘から開放されるという訳だ。
とにかく、疲れた。家に帰る前に、私も人里に寄って葡萄酒の一本でも買って行こうか。今日はそれと、後は総領娘様からねぎらいの一つも貰えれば、実に良い気分で眠れそうだ。そんな事を考えていると、私の心を読んだように総領娘様がこちらを見た。
「……衣玖」
彼女は笑った。雨が上がった後の晴天のような、晴れ渡った笑顔だった。
「それじゃ、もう帰っていいわよ!」
人に本気でドリルを叩き込んだのは、生まれて初めての事だった。
了
長さを感じずに一気に読めました。面白かったですw
読む人にやさしい日本語で読みやすかったです。
素敵です
合うような合わないような
仕込まれてたネタも話を読みやすくしていましたし良かったと思います。
衣玖さんがドSなのには激しく同意
コミカルな小ネタが面白かったです
友達からかあ、天子の恋の行方が気になる。
もう、なんだよぉ!猪突猛進って良いな!
一気に読むにはちょい長めでしたが、先が気になる展開ばかりで、全然きにならなかった。
天子とゆうかりん……いい。