(注:この話はニャング!の続きに当たります。よろしければそちらもご覧ください)
チェンは森の中を疾走していた。
全身きり傷だらけの、酷い有様だった。だがチェンは出せるだけの全力で木を蹴り大地を蹴り走る。痛みに身を震わせ空中で身を捩るチェンの耳朶に、遠く背後からこんな叫び声が届いていた。
「……くそっ、速すぎる! 追え、追うんだ!」
笑って、空中で体を捻り木の上に着地、すぐさま飛翔する。手負いとはいえ、追いつけるはずはない。私の速さは伊達じゃないのよ。体を軋ませながらチェンは足を前へ進める。
チェンがこんな手負いを負ったのは、とある町辻で魚を盗って銜えて歩いていた時だった。この辺りは自分たちのシマだ、という化け猫の集団によって襲われたのである。チェンは全力で逃走しようとしたが、相手は集団である。上手く隙を見て逃げ出す前に相当のダメージを被ってしまった。
群れる連中は袋叩きしてくるから始末に終えないわ、と思う。遮二無二逃げだしたから良かったものの、逃げ出せる力のない奴だったら今頃死んでいたかもしれない。一人だけの化け猫にとって、シマ、なんてことも関係のない話だ。
私なら、絶対弱い奴を袋叩きにするような真似しないのに。そう思った瞬間、空中を走り抜けた橙の視界がさっと開いた。とん、と軽い音で着地したチェンはそんな軽い衝撃で全身を走る痛みにしゃがみ込んだ。視界には、一軒人里のような人家の群れが見えた。しかしすぐに人里でないことは分かった。人間の姿が一つも見えないからだ。
廃屋の街ってところかしら。
丁度いいと痛んだ体を抱えて適当な廃屋に入る。扉を閉めると、静寂から来る耳鳴りがきんと大きなチェンの耳を突いた。様々な家具が雑然と転がっている中を避けて歩いて、休めるスペースを探す。
転がっていた椅子を見つけ、埃塗れのそれにそのままとすっと座ったチェンは、長く息を吐いた。ここならしばらくは凌げるだろう。どうせなら流れの身である、ここに腰を落ち着けてもいいかもしれない。そう思いながら椅子の背に体重を傾けた、そのときだった。
「おい、お前誰だよ」
びくり、と椅子を蹴ってチェンが立ち上がる。警戒するチェンに、声の主は積み上げられた家具の奥から体を出すと、敵対する気がないことを示して両手を上げた。筋骨隆々のその男は、化け猫のようだった。そのいかめしい顔に不釣合いな耳をぴこぴことさせながら、チェンに近づく。
「お前も誰かにやられてここに来たのか?」
「お前も、って言うことはあんたも同じクチ?」
「ああ、恥ずかしながらな」ガリガリと、頭を掻きながら彼は言う。「俺はリュウ。良かったら奥にベッドがあるぜ。休むならそっちを使うといい」
結構よ、と言おうとしたチェンの体に痛みが走る。体を押さえたチェンは複雑そうな顔をした後、同じようにカリカリと頭を掻いて答えた。
「私はチェン。……人に迷惑かけるのはあんまり好きじゃないけど、お言葉に甘えるわ」
ベッドの柔らかい毛布の上にどさりと体を投げ出したチェンに、チェンの座っていた椅子を引き摺ってきたリュウは、それに逆向きに腰掛けつつ笑う。
「しかし、お前も災難だな。ここに逃げ込んできた奴が来たなんて初めてだぜ」
「人里で一悶着あってね」チェンは毛布の上を転がって頬杖をつく。「あんたも似たようなもんなんでしょ? 群れてる感じしないもん」
「ああその通りだ。人里周辺は色々煩いんで、ここを根城にしてるのさ。里からちょっと距離のあるここなら奴らもよってこない」
「……じゃあ早めに出てかないとね」
「あん? なんでだ。気の済むまでいても構わないぜ?」
「ちょっと追われてるからね、私」
チェンはそう言って自分の巻き込まれた話の顛末をリュウに語った。椅子の背に腕を乗せて話を聞いていたリュウは、聞き終わると唐突に笑い始めた。訝しげに睨むチェン。口を尖らせて言う。
「悪かったわね。笑うほどかっこ悪い話で」
「いや違う違う」笑いながら手を振る。「そこまで俺と全く一緒とは思わなかったんでな。思わず笑っちまった。気を悪くしないでくれ。追われてるっていや俺も同じだよ」
言うと、リュウもここまでたどり着いた顛末を話し始める。
聞くと、リュウ自身ここについたのはつい数週間前くらいらしい。人里でチェンと同じくどこかのシマを荒らしてしまったらしいリュウは、戦ったものの一人では敵わず傷ついた体でなんとかここにたどり着いたらしい。その時のやられっぷりで言ったら俺の方が酷かったぜ、とリュウは笑んだ。
リュウは服の懐をごそごそと漁ると、一本の枝をチェンに差し向けた。首を傾げるチェンに言う。
「マタタビさ。痛みが多少はマシになるぜ」
「……いい。それ酔うからあんまり好きじゃないの」
「そうかい?」
言って、リュウはそのマタタビを口に銜えると少し酔った様な表情に変わる。
そんなリュウの様子を見て、嘆息。チェンは毛布を体に巻き付ける様に包まると、リュウの方を見ずに話した。
「しばらく寝るから。……寝てる間になんかしたら承知しないからね?」
「俺も流石に傷だらけの奴に手を出すほど落ちぶれちゃいねぇさ。……と、もう寝てやがんのか」
リュウが言葉を言い終わる頃には、既にチェンは小さな寝息を立てていた。よほど疲れていたのだろう。リュウはしばらくその姿を眺めていたが、ふと立ち上がって後ろの雑然と積み上がった家具の方を向いた。良く考えたらベッドは一つしかない。彼女に占領されていたら寝られないではないか。
リュウががらがらと家具を漁っている間も、チェンはただひたすら眠っていた。久々の安心できる寝床に、ゆっくりと体を預けながら。
***
それから、チェンの傷が癒えるまでの奇妙な生活が始まった。
例え身体能力において人間を遥かに上回る妖獣であっても、受けた傷の回復は流石に時間がかかる。自分でロクに食い物も調達できないチェンは、不承不承、リュウの調達してくる物を受け取るしかなかった。意外と人里に近いのか、リュウの調達してくるものはまだ暖かい人間の食事とか新鮮な魚とかで、食うには困らなかった。
ベッドを占拠しているのであんたどこで寝てるのと聞いたら、隣の廃屋にベッドがあった、とリュウは嘯いた。律儀な奴。
それから数日経ってようやく、チェンの体は元の調子まで戻ってきた。ただチェンは食料などは自分で調達するようになったが出て行こうとはしなかった。リュウと同じく、他の猫に襲われる心配のないこの場所が気に入ったのである。リュウもそれを察して、何も言わずにチェンを受け入れた。
だが、そんな生活もある日突然扉が弾ける様な音と共に終わりを告げた。
丁度ベッドの周りで会話をしていたチェンとリュウは、その物音を聞いて警戒の視線を互いに交し合う。そこに、一声の声が邸内に響き渡った。
「おい野良猫、ここにいるんだろ! 探したぜ……ここで手前もオシマイだ」
その声にチェンは聞き覚えがあった。確か自分を襲ってきた奴らの首領をやっていた奴の声である。すまないことをした、と思ってリュウの方を見ると同じような表情をしていた。リュウは自分の追っ手が来たものだと思っているらしい。
この際、どっちの追っ手かはどうでもいい。リュウがベッド脇の窓に向かって顎を振る。そこから逃げよう、と言っているのだろう。しかしチェンはここまで来て逃げるつもりにはなれなかった。どの道こんなところまで追ってきているのである。どこに逃げても結末は同じだろう。チェンはリュウの驚愕する視線の先で、積み上がった家具の上に立った。
リュウも仕方なく追って家具の上に昇る。するとそこには10名くらいの化け猫の集団が、こちらを見上げる形で立っていた。先頭にいた一つ抜けて背の大きい首領らしい男が、叫ぶ。
「なんだなんだ、どっちかがここにいると聞いてきたんだが、二人ともいたとはな。……負け猫同士仲良くやってたって訳だ」
その言葉を聞いてチェンとリュウは顔を見合わせ、笑った。どうやら追っ手まで一緒だったらしい。なら奇妙なこの出会いも頷けるものである。一方その笑いを自分に対するものだと思ったその化け猫は、尻尾を尖らせて声を荒げる。
「何がおかしい!」
「いや、こっちの話だ」答えたのはリュウだ。「それより手下をぞろぞろ引き連れてまで俺たちを探すとは、ご苦労なこったな」
「シマを野良に荒らされたとなったら、こっちは沽券に関わるんだよ! ……お前ら、今回は生きて逃げられると思うなよ?」
「逃げる気ならとっくに逃げてるわよ」
次に答えたのはチェン。彼女はリュウに視線を送ると、彼は確かに首肯を返した。頷いて、チェンは家具の山の上で高らかに言う。
「あんたらこそ、そんだけ首並べて野良猫二人にやり返された時の台詞は、考えてあるんでしょうね?」
「……野良猫がほざきやがって……。おい、テメェら! 今回は前みたいに逃げられたら承知しねぇぞ! 殺れ!」
「やるのはこっちの方よ!」
化け猫たちと、二人が飛び出したのはほぼ同時だった。家具の山の上で衝突する瞬間、チェンは一人の顔面を飛び降りるまま蹴り飛ばしリュウは一人の顔面を殴りつけた。一瞬でやられた味方は意に介さず、他の猫たちは二人に殺到する。
素早い動きでその突撃をかわしたチェンだったが、リュウは逆にその突撃を受けてしまっていた。いや、あえて受けたと言った方がいいのかもしれない。数人に打撃を受けながらもリュウは隙を見て殴り返していたからだ。そんな戦い方するから手酷くやられるのよとチェンは思いつつ、すぐさまリュウを助けるべく家具の上から跳ぶ。
家具を握ってリュウを後ろから殴ろうとしていた化け猫に、直線軌道で蹴りを一発。がら空きの腹に蹴りをぶち込まれた猫は吹っ飛ばされて廃屋の壁に突き刺さる。着地してそのまま、リュウの横にいた猫に一発足をお見舞いした。勢いをつけていない今回は吹き飛ぶまでには至らないが、確実にダメージは入ったようで腹を押さえながら後ろに下がる。
ふふん、と笑うチェンに、リュウはしかし鋭い声で叫んだ。
「危ねぇ!」
チェンの頭の上を掠めてリュウの拳が飛ぶ。油断したチェンを背後から攻撃しようとしていた化け猫はその拳を顔面に食らってよろよろと倒れた。
集まった二人に向かってまた突撃する猫たちであったが、今度は少し人数が減っていた。リュウの拳が飛び、チェンはするりと突撃を避けて背後から蹴りを見舞う。次々に手痛い反撃を受けて家具の山の上から落とされていく手下たちに、首領は焦ったような声を出した。
「おいお前ら野良猫二人に何やってやがる!」
「い、言ってもこの二人強すぎ」
言いかけた化け猫はリュウの拳を受けて首領の前に転がった。他の手下たちも周りで体を起こすが、それぞれ既に満身創痍である。
一方、まるで何もなかったかのようにほとんど無傷なチェンとリュウは、家具の上から下りると焦燥した首領の前に立った。チェンが言う。
「このまま全滅するより大人しく帰った方が身の為だと思うけど? 首領さん?」
「なめんじゃねーぞこの雌猫がっ! 『疾風怒濤』の名は伊達じゃねーんだよ!」
そう言って、首領は手を振り被ってチェンに向かって殴りつける動きをとる。それに対してチェンは宙を舞うように跳び、リュウはその相手の握りこんだ拳に向かって手の平を向ける。首領の振るったその拳はリュウの手の平に受け止められ、身動きがとれなくなったところでチェンが空中から落下するままに両足で頭の天辺を踏みつける。チェンがリュウの横に着地したのと、首領がばたりと邸宅の床に転がったのは同じ瞬間だった。
這うような姿勢で首領に近づいた手下達が、気絶した首領や仲間を抱えて一目散に邸宅から飛び出していく。その様を楽しそうに眺めながら、リュウは横に立つチェンにニッと笑う。
「追わないのか? この間の仕返しをするチャンスだぜ?」
「あんたこそ、追っかける様子も見せてないじゃない」
手負いを追いかけるのは趣味じゃない、と二人が言ったのはほぼ同時だった。リュウが手の平を広げると、チェンはその意図を察して同じく手の平を広げて二人の頭の上でそれを打ち鳴らした。勝利宣言。じんとしたその手の平の痛みに、二人は勝利を噛み締めるように笑った。
ひとしきり笑った後、チェンがふと思い立ったように口を開く。
「ねぇ、私たち二人が組んだら、大体の化け猫には勝てると思わない?」
「ああまあそう思うが」リュウは渋い顔をして答える。「群れになって襲い掛かるような真似はいやだぞ俺は」
「私だってそうよ」
「だったら」
「だから、私たちで群れにやられそうになってる野良猫を助けない? 徒党を組んで他を苛めるなんてしない。アイツらが手下なら、私達は仲間よ。そしてあんたが仲間なら、人里で野良やってる猫全部助けられそうな気がする」
「おいおい、そりゃまた壮大な目標だな。野良猫集めて一大グループを組もうってのか。他のグループが黙っちゃいないぜ」
「別に他の連中のシマを争うわけじゃないの。ただ私達は自分らが平和に生きるために、ほんの少し場所を譲ってもらうだけ。勿論さっきの連中みたいに人を襲ったりとかしないし、野良にシマが荒らされたとかでガタガタ言わない。どう?」
「……」リュウは少しだけ黙考すると、破顔して言った。「俺も野良猫の居場所のなさには辟易してたんだ。お前がそう言うなら、いっちょ腕を貸すぜ」
「決まりね」
そう言って、チェンはすっと片手を高く掲げた。リュウはふっと笑んで、その手を叩く。再び邸内に鳴り響くその打ち鳴らされた手の音が、後に『鳳凰展翅』と呼ばれるようになるグループが生まれた、その鐘声だった。
***
その日、八雲邸の庭を掃除していた藍は、門前でこう叫ぶ声をその長い耳で聞きとめた。
「八雲藍! いるんでしょ! いるなら返事してよ!」
「そう叫ばなくても聞こえているぞ」
言って、掃除する手を止めて門を開ける。そこには不遜な笑みを浮かべ、両手を組んだチェンが立っていた。藍は笑う。やっぱり来たか、という内心の声を表情で示すように。
チェンは藍に近づくと、まず一言礼を述べた。
「この間はありがと、お姉さん。まさかお姉さんがあの八雲紫の式だなんて知らなかった」
「私も治療の甲斐があったようで、ほっとしているよ。……で、今日は何用かな? 礼を述べに来ただけ?」
「そんなわけないでしょ!」チェンはばっと距離を取り、身構えて言う。「お礼参りって奴よ! 『鳳凰展翅』のチェンが恩を受けておいて何も返さないってのは私が気に入らないから! 今度は本気で勝負してよね!」
高らかにそう叫ぶチェンに藍は深く笑みを浮かべると、さっと指を指して言った。
「そう言うことだろうとは思っていた。……付いて来い。相手になる」
八雲邸の側にある開けた場所までチェンをつれて歩いている間、藍はここしばらくの出来事を思い返していた。
***
八雲藍は、今日も溜息をつきながら両手を動かしていた。
超高速で動く両手の前には、二匹の妖怪。猿と熊のその二匹の妖怪は、息も絶え絶えに両手足使って打撃を藍に放っていた。超高速で動いている手は、それらの打撃を抑える為のものだ。2本の腕対8本の手足。どっちが不利か言うのも馬鹿らしい状況を、藍の更に馬鹿らしくなるほどの高速の腕が破壊している。
そんな状況が、数分続いただろうか。息の切れた猿の妖怪が、一歩引くように飛ぶ。その後ろに生えている3本の尻尾は疲れ果てたためかしなびたように力ない。ぜいぜい、という息の間に叫ぶ。
「こいつは、ヤバい。……逃げんぞ、逃げんぞおい!」
猿の妖怪がそう言って文字通り尻尾を巻いて逃げると、それまで抵抗していた熊の妖怪も同じように逃げだした。藍は足元の買い物袋を拾い上げると、もう一度溜息をつく。
さっきの二人の妖怪は、この辺りでも名の知れた妖怪だった。人、妖怪構わず襲っては食っているという話を聞いて、わざわざ狙われやすいように荷物まで持ってきたのだが、どうやら藍の想像していたほどたいした妖怪ではなかったらしい。
「式探しというのも大変ですね、紫様」
荷物を持って人里へ向かって藍は歩き始めた。今晩の食事を買わなければならない。
先日の会話を思い出しながら藍は買い物を続ける。買い物をする妖怪の姿は、この人里ではさして珍しい光景ではない。だから藍も別に人に化けるでもなくそのままの格好で買物をしていた。
そういえば、紫様も乗り気ではなかったな、と思う。
「式探し? 私の式の貴女が?」
「ええ。ようやく結界関連の仕事もこなせる様になりましたし、この辺りで一つ雑事を任せる式を一人、と」
「……まあ、藍がいいなら構いはしないけれど」
幻想郷の重鎮たる八雲紫と藍がそう話していたのは、八雲邸の縁側だった。縁側に腰掛け少し不機嫌そうな紫に対して、藍は庭に立って、説得するように言う。
「確かに、結界に関しては私と紫様がいるので事足りるのは分かります。しかし、私自身幻想郷の各地で起こる雑事までこなすのは大変です。それに、自分自身の力を試してみたい感もあるのです」
「説明は要らないわよ、言いたいことは分かるから」紫は、しかし乗り気でなさそうな雰囲気で続ける。「……ただ、貴女の式ということは、私の式の式に当たるわけ。その意味は分かる?」
「八雲の名に恥じない、そんな式である必要があるというわけですか」
「そういうことよ。小間使いならいくらでも調達できる。ただ式の式として、八雲の名を連ねて名乗るのなら、相応のもので無ければならないわ」
「……その上で、式になり得る者であれば、式としても構わないわけですね」
「藍がいいなら別に構いはしないわ」紫は繰り返す。「ただ、私の前に見せる時自分を恥じるような者を連れてこないことね」
それだけ言うと、紫は隙間を開いてどこかへ消えた。話したくもない、ということか。藍は、何故自分が式を持つことに対してそんなに紫が乗り気でないか理解できなかった。
しかし、と藍は思う。今から思えば彼女が抱えているこの苦悩を読んだ上でそういう反応だったのかもしれない、と。
式探しは、難航していた。これはと思うような力を持つ妖怪は大概群れないもので、式の話をすれば当然断ってきた。仕方なく将来良い式に育ちそうな妖怪を、ということで人里で名の通った妖怪に色々と会ってみたが、結果は散々だった。
誰も彼も自分の力ばかり誇示して、他人を押さえつけるばかりの小物ばかり。八雲の名に相応しいのは力ばかり優れているのではない、心の面でも優れていなければならない。それでなければ、八雲の名を使って乱行を重ねて名を貶めることにもなりかねないからだ。従って、力に将来があり精神面でも優れている妖怪が必要なわけだ。
そんな妖怪が巷でそう見つかるわけがない。結果的に藍は結界の修復と日常雑事に加えて、あとどもない式探しまで仕事の一つに加えたわけだ。紫が良い顔をしないのも頷ける。
式探しなど諦めて、大人しく紫様の下で働いている方がよいかもしれない。食料で一杯になった買い物袋を提げ藍が通りに出たときであった。
初めは、風が通りぬけたのかと思った。
しかし藍の目には確かに人影がその中に見えた。振り向くと、路上に倒れ伏した、猫の妖獣が一匹。全身ボロボロで酷い姿をした妖獣は、しかし何とか動こうともがいているように見えた。
……あの傷であれだけ速く移動していたのか?
近づく。周りの人間たちは恐れているのか面倒がっているのか遠巻きに見ているだけだった。側に寄れば、なおさら
その傷の酷さに驚いた。どんな妖怪と戦ったのか、泥塗れで特に腹の辺りは服が裂けるほど打撃を受けている。白い腹は鬱血して青い。しかしそれでもなお、手を伸ばして何とか動こうとしている。
まあ式には相応しくないかもしれないが、手負いの同類を見過ごせるほど藍は非情ではなかった。その伸ばした手をとるように、藍は手を伸ばす。が、次の瞬間藍は電光を受けるようにその認識を改めた。
藍が伸ばした手を、彼女はそのよれよれの手で助けは要らないとでも言うように弾いたのである。
別に、その弾かれた衝撃が痛いわけでもなかった。それでも藍はさっと手を引いて思わず手を確かめる。そうしている間に、その妖獣は意識を失って顔を地面に突っ伏していた。
面白い。
藍は笑うと、その妖獣を片手で背負って家路を急いだ。
***
夜。
初めは素直に治療を受け付けなかったその妖獣だが、しばらく相手をしていると次第に敵わないことを悟ったのだろうか、大人しく治療を受けるようになっていた。治療道具を片付け藍は一息つくと、柱を背に腰掛けた。妖獣は布団の中にちんまりと納まっている。
藍は、判断がつきかねていた。この妖獣に十分力が付きそうな素質があるのは、治療している間脱出しようとしていた動きからも、出会った時のことからも、分かった。そして彼女のような逸材が、誰の手にも掛からずにいて式に出来る機会などこれきりであることも。
ただ彼女が八雲の名に恥じないような、そんな存在なのか、それだけが懸念だった。式の式となれば、困難もある。挫折も知る。そしてその力を誇示したい欲求にも駆られる。それに耐えうる逸材なのかどうか。それは彼女と対話しなければ理解できないことだろう。
そこまで黙考して、ふと思いついたかのように自然に、藍は口を開いた。
「ところで、何故お前はあんなところで倒れていたんだ?」
「……どうしても言わないとダメ?」
「治療してやったんだ、それくらい聞いても構わないだろう」
妖獣はしばらく黙り込んだあと、意を決したように話始める。
「私のグループ、『鳳凰展翅』っていうんだけど、その仲間の一人が別のグループに襲われて。彼のために薬を取ってこようとして、途中にそのグループの首領と会ったの。初めは無視しようとしたけど、挑発されて、倒されて。で、今ここ」
藍が少しばかり驚いたのも無理はない。なにしろ今、タイミングのいいことに彼女は挫折と困難の真っ只中にいるのだから。しかもあの傷の受け振りから考えても、それは相当なものであったはずだろう。
それであって、泣きつくでもなく嘆くでもなく、ましてや逃げるでもなく、それを乗り越えるために見ず知らずの者の手当てを受けるなどという恥辱を甘受してでもそこにいるのである。これまで藍が式探しとして戦ってきた妖怪たちを思い出す。その誰もが、敵わないと知ると逃げるか、あるいは死を覚悟して向こう見ずに突っ込むばかりであった。
妖獣と言わず妖怪全般において、その容姿はその者の精神年齢を指しているとも言われている。それを認めるならば、彼女は今だ年端もいかない子供であるはずであった。
「お前は、そのグループの下っ端か何かなのか」
「そんな訳ないじゃない。首領よ首領」
「そうか、じゃあ手下はわんさかいるんだろうなぁ、おそらく」
「手下じゃないわ! 仲間よ仲間!」激しい剣幕で食いつく妖獣。「私はただ、野良化け猫でも人里でやってけるようにするために戦ってるのよ。その辺の手下抱えてふんぞり返ってるような妖怪なんかと一緒にしないで!」
「いや、別に馬鹿にしたわけじゃないんだ。気を悪くさせたらすまない」
そう藍が言ってもまだ怒り心頭、と言った風なその妖獣に、呆れ笑いを浮かべながらも内心舌を巻いた。
なんなんだ。それが藍の内心を示すのに一番いい表現だった。見かけも心も力も、まだ幼い。なのに何故か、この妖獣からは一部の強力な妖怪にしか持たないような、そんな強い印象を受ける。それも一人で生きる妖怪とは違う、仲間のために走り傷付く事の出来るだけの強い意志が、彼女の中にはあるのだ。
黙っている藍に、妖獣は溜息を一つ吐くと怒気を収め、呟くように言った。
「私にもっと力があれば、化け猫、ううん妖怪も人間も皆、平和に暮らせるように出来るかもしれないのに。
……もし、私がそうなったら、きっとあんたのことも守ってあげるよ」
藍の心の中で、何かが落ちる音が響いた。
***
「まあ、この辺りならばいいだろう」
そう言って藍が案内したのは、八雲邸からすぐそこの、少し森の開いた空間だった。風に流されてざわざわと囁く木の葉の音が響く中で、チェンは軽くステップを踏みながら構えを取る。早くも臨戦態勢だ。そんな気の急いたチェンに応ずるように、藍も構える。
「いつでもかかってこい。八雲藍、お相手する」
「『鳳凰展翅』首領、チェン。全力で挑ませて貰うわ」
いつでもと藍が言ったにも関わらず、名乗りを上げるチェン。そんなチェンの堂々とした態度に藍が笑んだ瞬間、チェンの姿が一瞬掻き消えた。次の瞬間には防御していた右腕に強い衝撃。ちっ、という舌打ちと共に一旦距離を取るチェンに、藍は誘うように軽く手招きをした。
挑発に乗ったわけではないが、チェンは全力で突っ込む。全力で突撃しながら気付かれない程度に速度を落とし、肉薄する瞬間に速度を上げて反対に回って蹴りを放った。が、それもまた藍の事前に配置していたような手捌きで返される。投げ飛ばされたチェンは、悔しがるどころか更に意志を強くした表情で再度突撃を敢行する。
接近して右から左へ体を揺らし、更にそこから跳躍して引っ掛けるような蹴り。それが防御され掴まれると、まさに猫のような体裁きで素早くその手をもう一方の手を蹴り自由を得る。落下しつつ、空中で前転し着地そのまま地を這うような蹴撃。跳躍し回避した藍に、チェンは追いかけるように跳躍して貫き手の一撃を放つ。
しかしそこまでは藍の読みの範疇。抜き手は左手に遮られ藍の体までは届かない。
だが、それはチェンにしても同じだ。抜き手を広げ左手を掴む格好にすると、左手を支点に引き絞るような両足蹴りをぶち込む。直前の攻防で浮いた右手は防御に間に合わず、左手は掴んでいる。結果がら空きになっている腹にチェンの全体重を乗せた蹴りが炸裂した。手を離し着地するチェンに対して、吹き飛ばされ地面と衝突する藍。
ゆっくりと立ち上がる藍に、しかしチェンは戦闘の表情を崩さないままに叫ぶ。
「手加減してくれなくても結構よ!」
「これでも他の妖怪相手では十分だったんだが」
チェンの攻撃は他の妖怪と比べても速過ぎる。藍は服に付いた塵を払うと、今度こそ本気を出すとばかりに表情を変えた。
「……飛翔役小角。弾幕は無用だ。だが、この速度についてこれるか」
言った瞬間、チェンの目には消えたようにしか見えなかった。が、高速で動いていることは察しがついた。周囲の木々から明らかに物が衝突する音が響いていたからである。さながら轟風のように自分の周囲を舞う藍に、チェンは地面に足をつけてそれが突撃してくる瞬間を狙う構えを取る。目を凝らせば次第に残像を残すほどの勢いで飛翔している藍が見えてくる。
しかし攻撃は、あらぬ方向から飛んできた。背後から蹴りが一撃。倒れる間も無く右から、左から、前から連続して打撃が来る。見える、見えているのに防御するのがなんとか精一杯である。それでもなお強情にカウンターを仕掛ける構えを解かないチェンの背中に、藍はもう一度打撃を叩き込んだ。
今度は着地する側と地面を転がる側が入れ替わった形で一旦結果が出る。立ち上がったチェンは、藍が物を言う前に飛翔を開始する。周囲を弾ける様に飛び回っているチェンに、藍は飛び立ちながら口から言葉を零す。
「速度勝負で私に敵うと思うな!」
チェンと同じ地点を蹴りながら跳躍する藍。同じ箇所を蹴っているはずなのに、いつの間にかチェンを抜き去ると、チェンが着地する予定だった場所から反転飛翔し、対面攻撃。さすがに初撃放った蹴りは防御されたが、素早く撃った追撃の肘撃ちはチェンの背中を打つ。撃墜され再び地面に叩きつけられたチェンに、藍は回転飛翔を続けながら叫ぶ。
「移動速度差での詐術など私には通用せん! 全速で来い!」
返答をよこさず飛翔したチェンを、藍は再び抜いていく。自ら攻撃を出せないほどの全速で移動していたチェンが焦燥する隙を突いて再度空中で打撃。今度ばかりは受身も取れず落下する。身を打つ落下の衝撃に、チェンから軽く息が漏れる、がすぐさま復帰すると再び飛翔して追いすがる。
飛翔、撃墜。飛翔、撃墜。
何度目の撃墜からチェンが復帰した辺りだろうか、藍が変化を感じ取ったのは。
速度が落ちているわけではない。撃墜されるのもそのままだ。しかし。
全速力のチェンを抜き去った藍はもう何度繰り返したか分からない反転攻撃をかける。初弾蹴りは防御、追撃の肘撃ちが蹴りを受けた勢いで反転したチェンの体に当たらず空を切り、前転めいたかかとでの攻撃が離れ行こうとするチェンになんとか追いついて撃墜する。が、チェンは受身を取って地上に着地すると、一息大きく吸って跳ねる。
加速している。それに、全速を出しても防御の受け答えが出来るようになっている。だがそれでもまだだ。もう一歩足りない。
ふと、チェンと藍が壮絶な高速戦を行っているその渦中に一本の線が浮かんだ。口を開ける様に広がったその空間から一人の妖怪が姿を現した。言うまでもない。八雲藍が主人、八雲紫その人である。
紫は日傘を掲げ、常人の目には旋風にしか見えないその戦闘を見て、おー、とまるでそぐわない感嘆の声を上げた。半分は藍の速度に追いつきつつある例の幼い妖獣に、もう半分は主人である自分の登場に気付かないほど戦闘に集中している藍に向けてのものだ。
もはや、チェンは撃墜を被る段階を超えていた。高速で動く藍と完全な等速移動で、その動きについていく。諸所放たれる攻撃に確かな防御を返しながら、撃墜されるどころかむしろ加速しながら藍を追う。
その光景を見つつ、紫は扇子を口元に当てて笑う。
「藍、その子を挑発するのだけは止めておきなさい」
「どうした! 化け猫たちの首領というのはその程度なのか!」
「……折角言ったのに、全くもう」
天狗にも匹敵するような高速移動の中、藍は確かにさっきの叫びでチェンの目に火が灯るのを見た。藍は更に加速し、自身も攻撃できないほどの速さでチェンを置き去りにしていく。
チェンは藍を追いかけながら、さっき言われた言葉で化け猫たちのことを思い浮かべた。
紫が二人に呼びかけるでもなく呟く。
「藍、気をつけなさい。
私達は幻想郷の守護者。平和の守り手。だけどね」
チェンの意識の中に複数の顔が浮かぶ。死闘を演じた狼の妖怪、セイ。かつての仇敵にして現在は心強い仲間であるコウ。報告役をしていた自分に憧れる化け猫の子。その他多くの化け猫たちの顔が一つ一つ浮かんでは消えていく。
チェンの限界に近い足に、さらに無理矢理込めるような強い力が宿った。蹴る。
「彼女もまた化け猫たちの平和を担おうとした存在なのよ」
藍は更に加速してきたチェンが自分と肩を並べるのに驚愕した。神速、とでも言うべき速度で共に地面を、木を、宙を蹴る二人の足はまるで揃えた様に同じ。
「大きさこそ違えど、担うものは同じ」
チェンの脳裏に最初の仲間であるリュウの姿が浮かんだ。自分の大それた目標に付き合ってくれる大事な仲間。初めて共に戦った仲間。その時の高揚を思い出す。あの時はもっと速くなかったか。もっと疾くなかったか。踏み込む木々が悲鳴を上げる。
「まだ器の大きさこそ足りないかもしれないけれど」
藍は全力を出していた。確かに自分の考えうる限りの全力を出していた。なのに、それでもなお、チェンの飛翔が藍の肩を抜き始める。まるで藍のことなど目に入らないように前へ。ひたむきに加速していく。
「その背に担うものを意識した時、本当の実力が垣間見える」
紫の呟きが終わったのと同じ瞬間に、チェンと藍が同時に蹴りだした木が破裂した。
全速で飛翔する藍を、チェンは完全に抜き去る。中空に置いていかれた藍に戻るように、チェンは木を圧し折るほどの踏み込みで反転し藍に相対した。明らかに動揺している藍の顔面を見、チェンが笑みを返すより速く、チェンの蹴りが藍の体に激突する。
快音。
空中で蹴り飛ばされた藍はその自身とチェンの勢いを加えた速度で地面に肩から激突する。一方、藍を蹴り飛ばしたチェンは空中高く中天の太陽にこれでもかと近づいて確かな握り拳を作ると、まだ地面に居残っている藍に向かって落下した。
砂塵と木の葉が舞い散る。紫が心配そうな視線でその中心を見る中、晴れた埃の向こうからはチェンを抱きかかえた、しかし満身創痍の藍がいた。藍は何とか、と言った風にチェンを抱きかかえたまま立ち上がると、チェンに気付けを打つ。はっと気を取り戻したチェンに安心したように溜息を付いて視線を上げ、そこでようやく自分の方を見て微笑む紫の姿に気付いた。思わずチェンを取り落としつつ紫に対して居住まいを正す藍。
放り出されたチェンは、訳が分からないという表情をしながらもどうにか立ち上がる。チェンもそこでようやく目の前に微笑む人物を見、藍の様子を見て状況を察した。
「あんたが、八雲紫?」
「そうよ。そこの藍の主人。……藍、この子の口振りなんとかならないの?」
チェンは一旦紫から目を離すと、藍の方を見た。姿勢を正している藍の、その各所が耐えられないように震えているのを見ると、チェンは歯を見せて笑った。
「なんとか、私の勝ちっぽいね!」
「そうね、私が見る限り貴女の勝ち……」
「馬鹿を言え。気絶して落ちてきたのは誰だ。精々五分五分だよ」
やせ我慢しちゃって、という主人の声を、藍は無視した。藍はチェンの両肩を掴み、自分の前に差し出す。
そうされているチェンは目を白黒させているが、紫は構わずその顔に向かって顔を近づけた。混乱した風な埃塗れのチェンの顔に、しかし紫は微笑んで返す。チェンは紫と藍の顔を交互に見るばかりだ。
藍が言う。
「彼女が、これから私の式となります、チェンと言います。是非とも宜しくお願いします」
「え? 私が、あんたの式? なんで?」
「堂々とした顔で言っちゃって。この子混乱してるじゃない」
紫は言いながら、更に混乱させるようなことを、屈み込んでチェンと同じ視線に立って言う。
「よろしくね、チェン。これから貴女は私の式の式よ。……あー、貴女の名前に当てる漢字を考えないといけないわねー」
「え? え? どういうこと?」
「つまりはだ」藍がチェンに笑いかけ、諭すように言う。「お前はこれから私たちの家族だ、ってことだ」
チェンは目をぱちくりさせ、しばらく停止する。
と、藍と紫が驚くような大声で叫んだ。
「なんで!?」
……当然続きますよね?
やっぱり文章が丁寧だなぁ
戦闘シーンのスピード感は目を見張るものがありますねっ!
続き……期待して宜しいのでしょうか!?
てか藍と張り合えるとかチェンさんパネェっす
にゃんぐふぁみりあですね
続きは…あるといいなぁ。
さぁ式となってこれからどうなっていくのか、楽しみですw
前作で、次回作への期待を込めて100点を入れました。
……と思ったらまた今回も100点入れるしかないじゃないですかー!(笑)
すごく面白かったです!
ごめんなさい ごめんなさい orz でも、そう感じてしまったんじゃ~~
続き期待しています。
最後のやりとりがまたいいですなぁ
チェンさん、パネェっす!!
前作の過去、別視点、そして続き、それぞれ楽しませて頂きました!
紫と藍の主従を結ぶ話は数あれど、藍と橙の主従を結ぶ話は滅多にありません。
それをこのような独創的な形で描いたのはホント面白かったです!
ところでタイトルで某中古ゲームソフト店を思い浮かべてしm(ry
続編というよりも、「ニャング!」の補完的ストーリーなイメージですが、
あの世界観やキャラクター観が好きだったので今作も充分に楽しめました。
確かにこの終わり方だと、どう続いていくのか気になって仕方がない……けど、作者さんが書くつもりがないなら、しょうがないですねえ。
しょうがないから、勝手にどうやってこの破天荒な橙が今の橙になったのか想像してにやにやしたいと思います。
にやにや……あ、橙さんチーッス!