地熱の滾る薄暗がりの中、起きるとも眠るともつかない倦怠感と不快感。
時折強く感じる同類の声に纏わり付かれながら、しかし応じることもなく、ただ空気のようにひっそりとその目を閉じないことだけを至上に定めて虚空を睨む。
声の出し方さえ忘れ、さて、幾年月が経ったのか、四方に封魔の刻印が記された洞窟の中ではわかるはずもない。星はもう見えない。
己が本性は一種の死霊である。主に海難に突出した呪いを持ち、水中に引きずり込んで食らった人間は百を裕に越え、比類なき人外の一角を自負するだけの矜持を持ち合わせた掛け値なしの化物である。
手足を焼けた鉄の鎖で繋がれ、飲まず食わず知らされず、気の狂った同類の悪霊どもの怨嗟を聞きながら肌を焼く炎熱とむせ返る水蒸気に身を浸す、封印という名の拷問の日々。かつての矜持も忘れて泣き叫びたくなるような境遇に絶えられるのも、内包した力の巨大さに起因する。
彼女は思う。僥倖である、と。
己を狂わせ殺そうとする人間が、狂わず自身を保つ力である事実、なんという皮肉。だがそれでいい。
今ではもはや感覚の薄い頬と呼んだ部分が浅く引きつるのを感じながら、「だが」と彼女は思う。
それだけではない。
そんなものだけでは形を失した亡霊ごとき、この仕打ちに堪えられるはずがない。朦々と身を包む獄炎の残り火、火葬場がごとき憤怒の滾りが退屈と苦痛と恐怖に澱んだ自身を煮沸する。
彼女は憎んでいる。
自身をこうして釘付け、苦痛を与え、退屈を与え、恐怖を与えた脆弱な人間ども、ではない。
「聖・・・・・・」
彼女を失した。彼女の教えを破った。彼女を追い込んだ。
己が憎い。
村紗水蜜は自身の愚かさが憎くてしかたがなかった。何より、「こいつ」は彼女に再び逢い、許されることを知っていて救われたがっているのだ。
なんと愚かしい。
そう生理的な嫌悪を催しながら、しかし結局亡霊とはその程度なのかもしれないと、村紗は考えてもいた。
我々は、霊と呼ぶべき怪異は、報われぬ妄執が、未練が、体を作り、自己を形成する。非物質が物質を創造する狂った理念の根底にあるのは暗く澱んだ欲望と渇望である。愛もまた、しかり。
ゆえに単純な私はこの願いが一旦成就さえしてしまえば、怨嗟に塗れた封印生活も、そこで考えた自身への憎しみさえも綺麗に抜け、忘れさってしまうだろう。
こればかりはどうにもならない。自分は間違いなく愚かで、亡霊なので怖ましく、質量的にも薄っぺらい。
だから、ギチギチと焼けた杭で自身を抉るように刺し傷をこね回し、その苦痛の中で戒める。己の罪を思い出す。
彼女との出会いを、和やかな会話を、笑顔を、・・・罪を。
自身の愚かさを憎しみを忘れぬように。
そして幾度となく繰り返す。戒めという名の記憶の遡行を。
◆
時は、いつだったか。少なくとも私にとって船というものは、陸を離れる行為としての移動ではなく、狩猟であって、戦であったように思う。
夜の海。人里の煙と火の届かぬ暗黒の異界。太陽の下、青々と流れる波と潮の匂いは遠く、言って見れば実に魔的であった。
王権が属さず、法もなく、夜になればただ飲み込まれるような黒に満ちる、偽りのコールタールの杯。その水平線に子供らしい未知への恐怖心が芽生えたのを覚えている。
当時、まだ亡霊として半端ものだった私の生前の記憶として印象に残っていたのはそれくらいだった。
何せそれでも亡霊時代が長かった。それなりにトラブルの多い人生・・・いや人外生のインパクトに押されたのか、はたまたそう「できていた」のか、生前の記憶というのは無いに等しかったのだ。
水面に移る自身の顔はまだ幼さの残るせいぜい十五、六の小娘といった風情。つまり当時の私にしてもその数倍の年月を人外として過ごしていた訳である。そんな自身にとって、生前とは起源ではあっても生きる原因ではなかった。
出来ればもう少し大人っぽく、顔つきも体つきもこう・・・なんというか、不満もあるが不可抗力でもあった。
今もしっかり記憶に残る、船の篝火越し、水面に映る生前の顔、それはこの確かに顔で、体であったことを覚えている。このナリが生前のものならば変えようとして変えられるものではないだろうし、生きていた頃に私に申し訳が立たない気がしたのである。
加えて言うならば、在家である海域で、自身の顔も体も思い出せず、自己形成に失敗して靄のような存在となった無数に蔓延る怨霊達。この存在に尽きる。
彼等を目撃するたび沸き起こる、「ああなることへの恐怖」と「ああならなかったことへの安堵」、とでも言えばわかりやすいだろうか。
もちろん、彼らのように消えず、人に「個」として認識されることには必ずしも有益があるばかりではない。
見える、ということは「見られる」ことに他ならないからだ。
曰く、彼の海域には女の亡霊がいる。
見物客、学者、霊媒師、退魔師、祈祷師、果てはどこぞの教団の教祖までが自身との邂逅を望んだ。
その結果として、時に尊崇されることもあるにはあった。しかし大抵はこの有様に怯え、人から窮鼠へと自身で身を堕とし、存在しない「猫」を噛みに来る始末。
一度人に認識された以上、未練さえ思い出せない彼の亡霊には強くなる必要が出来たのである。
幸か不幸か自身は海流や海水を使役し、海難事故を誘発する術に優れていた。そして人は当時こそ海難に著しく脆く弱かった。
生きるための最低限の捕食行為は不安に覚えるほど順調であった。
それは最低限の戒律として自身との敵対、それに準じた思念を持つもののみを食らう、という慎ましいものであったが、大半の来訪者が期せずして窮鼠に順じてしまう以上術もなく、食らい食らって数百人。気がつけば妖怪、とそう呼ばれるまでの存在に自身を押し上げていた。
その時の気持ちはよく覚えている。
己が力に溺れぬ程度に、それでもやはり陶酔しながら、ある一つのことに興味を持ち始めた。
自分は何者なのか、ということである。
有体に言えば自分探しであった。今に思えばその行為は、自身を把握できない恐れの具現であったし、興味でもあっただろう。何より、この元亡霊はどのような未練を持っていたのか。どのような生活を送ってきたのか。それを知ることで、「もっと強くなれるのではないか」、と。
欲しいのは情報であった。時に脅かし、時に人として近づき、何故か離れられない海域で食べることよりも人の話に耳を傾けることが日課となっていた。
やれ、どこの徳高い坊さんが死んだ、山の妖怪が暴れ始めた、それが退治された、どこそこの誰は今にも自殺してしまいそうだ、今年の海は魚が少ない、この海域には凶悪な妖怪が住んでいるらしい。
彼らの話は基本的にこちらの望むものではなかったが、一箇所に留まらざるを得ない私(念縛霊というらしい)には知識を蓄えること、退屈を紛らわせる方向には限りない恩恵であったことは間違いなかった。
しかし、それは同時、自身が生きるために行なったかつての「捕食行為」その先鞭としての船の転覆。経緯はどうあれ、あれが「悪い」行いである、との認識に客観的に到ってしまった原因であった。
食べなければ、死ぬ。死ねない体としても、殺される。
亡霊とまで化した自分の妄執、死ねない理由と、殺されたくない理由を持たない自分が、果たして他者を害することを是とするのか、否か。
己はこのまま有り続けるべきか。
この一点に凝縮された自己愛と自己防衛への不審は、より一層の情報を求めさせ、一層の拒食を加速させた。
◆
そうして更に年月は流れ、人を食らわず、怪異としての格と人々の恐怖も薄れ、全盛期など見るべくもないほどに弱りきった彼女の前に、遂に一つの有益な情報が浮上したのだ。当初こそ安易に喜びはしたが、それは自傷のように誓った拒食の危機であり、当時望みに望んだ、最早生きるに足るための情報。
姉の姿を象った悪しき妖怪の討伐を望む。
齢にして既に五十か六十か、一見して存在感の薄い影絵のようなその男は、一見して衰えた容姿に似合わぬ強い、――明確な怒気を孕んだ目をらんらんと冷やし、語る。
この界隈で船を襲って人を食う妖怪は、幼き時分の姉と瓜二つである。数十年前に共に狩猟船に乗り、嵐で座礁した甲板から投げ出された後、行方を眩ませていた。もしも彼女が私の姉であるならば、その暴挙を止めねばならぬ、と。
奇しくも、捕食を止め自身の姿が地元の人民に伝わったが故に、そのもしかしたならば弟とも呼べる老人との邂逅が果たせることになった訳である。
私はこの話に、彼の老人との邂逅の目処に、奇跡や幾許かの希望を見ていた。ようやく長年望んだものが得られる日が来たのだと。
問題はその後も無邪気に喜べるほどに自身が単純でなくなってしまったことか。
彼の老人は幼少期に姉を失うという一件で仏門を志し、最近亡くなった有名な僧侶の下で修行した怪異を専門とする生粋の僧侶なのだという。
彼とは逢おう、で、逢ってどうするというのか。
この体が彼の男の姉だとして、今の私は何か。生粋の化物である。妖怪である。出会えばきっと消されてしまう。
では力を蓄えるために再び船を転覆させて人をこの歯牙に掛けるのか、自身が何者なのかも知らない、この半端者が。
どれほど悩んだものかわからぬほどに悩んだ。
その結果として結論など出せず、強力な妖怪ではなく原初の弱った亡霊として、自棄の心のまま、何の対策もせぬままに、夜半に訪れた、老人が一人乗る船の前に姿を現す結果となってしまった。この機会に逃げることも考えた。場に縛られるとはいえ、それなりの広さはあった。問題は逢うべき男が老人であり、幾許の猶予も無く命の火が燃え尽きることを直感的に理解していたからなのかもしれない。
今に思えばこれは一種の自傷願望だったのだろうか。それとも「殺されぬ算段」でもあったのか。
男は突如海面に現われた女に、なぜか不思議なことに驚かず動きもしなかった。
私にとっては話す機会があるだけ良く、手っ取り早く、この何もかもお見通しであるかのような男に、気だるく、本当にそのまま亡霊のような擦れた声で、問う。
「私が貴方の死んだ姉に似ていると聞きました」
「はい、とてもよく似ております」
「では貴方は私の弟なのですね?」
男はその時、私という存在に間違いなく動揺などしなかった。恐れもしなかった。自身の怨念さえ忘れた亡霊に怯えるはずもなかったのだ。
以前に垣間見た、拙いまでの怒りに燃えた瞳が私を映し、天上、夜の冷えた月が重なって、そうして本当に男は冷えてしまったのだろうか。
「・・・いいえ。貴方は私の姉ではありません」
本当に小さく、どちらが亡霊なのかもわからなくなるほどにしわがれた声でポツリとそう呟いた。
男の目にもう光はない。
止めるつもりも、止められる策も力もあるわけがなかった。
老人はあっけなく、まるで海面の私に飛び掛るようにして、甲板の縁へ上がり、入水した。
そうしてそのままコールタールのごとき黒の海に沈み、二度と上がってくることはない。
何が彼をそうさせたのか、たぶん私は知っていたのだと思う。
「・・・・・・」
彼の死に様、それを見つめるこの顔は傍から見れば能面のように見えただろうか。
しかし内心私はひどく動揺していた。どうしようもなく、過剰に。
彼の死などどうでも良かった。
罰当たり。そう、罰当たりなことに私はやっぱり私にしか興味はなかった。それだけのことである。
問題はこの光景。
この真っ黒なコールタールのような海面、船で焚かれる篝火、船から落ちた人、・・・・・・・・・・それを眺める自分。
そうして私は真実に到った。
思い当たる節は山ほど。そのどれもが狙ったかのように矛盾しているではないか。どうして気付かないのか、己でもわからないほどに。
真っ黒なコールタールのような海面。・・・自分の顔が映る。映るわけがない。海面は黒いのだ。波だってある。それなのに見えたのか、あんなにはっきりと自分の顔が? 後ろで焚かれる篝火。後ろなのか、上ではなく、後ろなのか。明るいから海面に自分の顔が見えるのか、見えるわけが無い、見えるのはより明るい炎と、自分の真っ黒な影だけだろう。人が落ちた、それを見ている。誰が。私がだ。落ちたのは自分じゃないのか。違う。私はこんなにも他人行儀ではないか。あの時私が見た、「私」は、私の顔は・・・いったい誰の顔か。
「村紗」だ。
数十年前。そう、確か私が丁度亡霊になった頃。一人の少女がこの海で死んだ。
殺されたのだ、私に。
時折強く感じる同類の声に纏わり付かれながら、しかし応じることもなく、ただ空気のようにひっそりとその目を閉じないことだけを至上に定めて虚空を睨む。
声の出し方さえ忘れ、さて、幾年月が経ったのか、四方に封魔の刻印が記された洞窟の中ではわかるはずもない。星はもう見えない。
己が本性は一種の死霊である。主に海難に突出した呪いを持ち、水中に引きずり込んで食らった人間は百を裕に越え、比類なき人外の一角を自負するだけの矜持を持ち合わせた掛け値なしの化物である。
手足を焼けた鉄の鎖で繋がれ、飲まず食わず知らされず、気の狂った同類の悪霊どもの怨嗟を聞きながら肌を焼く炎熱とむせ返る水蒸気に身を浸す、封印という名の拷問の日々。かつての矜持も忘れて泣き叫びたくなるような境遇に絶えられるのも、内包した力の巨大さに起因する。
彼女は思う。僥倖である、と。
己を狂わせ殺そうとする人間が、狂わず自身を保つ力である事実、なんという皮肉。だがそれでいい。
今ではもはや感覚の薄い頬と呼んだ部分が浅く引きつるのを感じながら、「だが」と彼女は思う。
それだけではない。
そんなものだけでは形を失した亡霊ごとき、この仕打ちに堪えられるはずがない。朦々と身を包む獄炎の残り火、火葬場がごとき憤怒の滾りが退屈と苦痛と恐怖に澱んだ自身を煮沸する。
彼女は憎んでいる。
自身をこうして釘付け、苦痛を与え、退屈を与え、恐怖を与えた脆弱な人間ども、ではない。
「聖・・・・・・」
彼女を失した。彼女の教えを破った。彼女を追い込んだ。
己が憎い。
村紗水蜜は自身の愚かさが憎くてしかたがなかった。何より、「こいつ」は彼女に再び逢い、許されることを知っていて救われたがっているのだ。
なんと愚かしい。
そう生理的な嫌悪を催しながら、しかし結局亡霊とはその程度なのかもしれないと、村紗は考えてもいた。
我々は、霊と呼ぶべき怪異は、報われぬ妄執が、未練が、体を作り、自己を形成する。非物質が物質を創造する狂った理念の根底にあるのは暗く澱んだ欲望と渇望である。愛もまた、しかり。
ゆえに単純な私はこの願いが一旦成就さえしてしまえば、怨嗟に塗れた封印生活も、そこで考えた自身への憎しみさえも綺麗に抜け、忘れさってしまうだろう。
こればかりはどうにもならない。自分は間違いなく愚かで、亡霊なので怖ましく、質量的にも薄っぺらい。
だから、ギチギチと焼けた杭で自身を抉るように刺し傷をこね回し、その苦痛の中で戒める。己の罪を思い出す。
彼女との出会いを、和やかな会話を、笑顔を、・・・罪を。
自身の愚かさを憎しみを忘れぬように。
そして幾度となく繰り返す。戒めという名の記憶の遡行を。
◆
時は、いつだったか。少なくとも私にとって船というものは、陸を離れる行為としての移動ではなく、狩猟であって、戦であったように思う。
夜の海。人里の煙と火の届かぬ暗黒の異界。太陽の下、青々と流れる波と潮の匂いは遠く、言って見れば実に魔的であった。
王権が属さず、法もなく、夜になればただ飲み込まれるような黒に満ちる、偽りのコールタールの杯。その水平線に子供らしい未知への恐怖心が芽生えたのを覚えている。
当時、まだ亡霊として半端ものだった私の生前の記憶として印象に残っていたのはそれくらいだった。
何せそれでも亡霊時代が長かった。それなりにトラブルの多い人生・・・いや人外生のインパクトに押されたのか、はたまたそう「できていた」のか、生前の記憶というのは無いに等しかったのだ。
水面に移る自身の顔はまだ幼さの残るせいぜい十五、六の小娘といった風情。つまり当時の私にしてもその数倍の年月を人外として過ごしていた訳である。そんな自身にとって、生前とは起源ではあっても生きる原因ではなかった。
出来ればもう少し大人っぽく、顔つきも体つきもこう・・・なんというか、不満もあるが不可抗力でもあった。
今もしっかり記憶に残る、船の篝火越し、水面に映る生前の顔、それはこの確かに顔で、体であったことを覚えている。このナリが生前のものならば変えようとして変えられるものではないだろうし、生きていた頃に私に申し訳が立たない気がしたのである。
加えて言うならば、在家である海域で、自身の顔も体も思い出せず、自己形成に失敗して靄のような存在となった無数に蔓延る怨霊達。この存在に尽きる。
彼等を目撃するたび沸き起こる、「ああなることへの恐怖」と「ああならなかったことへの安堵」、とでも言えばわかりやすいだろうか。
もちろん、彼らのように消えず、人に「個」として認識されることには必ずしも有益があるばかりではない。
見える、ということは「見られる」ことに他ならないからだ。
曰く、彼の海域には女の亡霊がいる。
見物客、学者、霊媒師、退魔師、祈祷師、果てはどこぞの教団の教祖までが自身との邂逅を望んだ。
その結果として、時に尊崇されることもあるにはあった。しかし大抵はこの有様に怯え、人から窮鼠へと自身で身を堕とし、存在しない「猫」を噛みに来る始末。
一度人に認識された以上、未練さえ思い出せない彼の亡霊には強くなる必要が出来たのである。
幸か不幸か自身は海流や海水を使役し、海難事故を誘発する術に優れていた。そして人は当時こそ海難に著しく脆く弱かった。
生きるための最低限の捕食行為は不安に覚えるほど順調であった。
それは最低限の戒律として自身との敵対、それに準じた思念を持つもののみを食らう、という慎ましいものであったが、大半の来訪者が期せずして窮鼠に順じてしまう以上術もなく、食らい食らって数百人。気がつけば妖怪、とそう呼ばれるまでの存在に自身を押し上げていた。
その時の気持ちはよく覚えている。
己が力に溺れぬ程度に、それでもやはり陶酔しながら、ある一つのことに興味を持ち始めた。
自分は何者なのか、ということである。
有体に言えば自分探しであった。今に思えばその行為は、自身を把握できない恐れの具現であったし、興味でもあっただろう。何より、この元亡霊はどのような未練を持っていたのか。どのような生活を送ってきたのか。それを知ることで、「もっと強くなれるのではないか」、と。
欲しいのは情報であった。時に脅かし、時に人として近づき、何故か離れられない海域で食べることよりも人の話に耳を傾けることが日課となっていた。
やれ、どこの徳高い坊さんが死んだ、山の妖怪が暴れ始めた、それが退治された、どこそこの誰は今にも自殺してしまいそうだ、今年の海は魚が少ない、この海域には凶悪な妖怪が住んでいるらしい。
彼らの話は基本的にこちらの望むものではなかったが、一箇所に留まらざるを得ない私(念縛霊というらしい)には知識を蓄えること、退屈を紛らわせる方向には限りない恩恵であったことは間違いなかった。
しかし、それは同時、自身が生きるために行なったかつての「捕食行為」その先鞭としての船の転覆。経緯はどうあれ、あれが「悪い」行いである、との認識に客観的に到ってしまった原因であった。
食べなければ、死ぬ。死ねない体としても、殺される。
亡霊とまで化した自分の妄執、死ねない理由と、殺されたくない理由を持たない自分が、果たして他者を害することを是とするのか、否か。
己はこのまま有り続けるべきか。
この一点に凝縮された自己愛と自己防衛への不審は、より一層の情報を求めさせ、一層の拒食を加速させた。
◆
そうして更に年月は流れ、人を食らわず、怪異としての格と人々の恐怖も薄れ、全盛期など見るべくもないほどに弱りきった彼女の前に、遂に一つの有益な情報が浮上したのだ。当初こそ安易に喜びはしたが、それは自傷のように誓った拒食の危機であり、当時望みに望んだ、最早生きるに足るための情報。
姉の姿を象った悪しき妖怪の討伐を望む。
齢にして既に五十か六十か、一見して存在感の薄い影絵のようなその男は、一見して衰えた容姿に似合わぬ強い、――明確な怒気を孕んだ目をらんらんと冷やし、語る。
この界隈で船を襲って人を食う妖怪は、幼き時分の姉と瓜二つである。数十年前に共に狩猟船に乗り、嵐で座礁した甲板から投げ出された後、行方を眩ませていた。もしも彼女が私の姉であるならば、その暴挙を止めねばならぬ、と。
奇しくも、捕食を止め自身の姿が地元の人民に伝わったが故に、そのもしかしたならば弟とも呼べる老人との邂逅が果たせることになった訳である。
私はこの話に、彼の老人との邂逅の目処に、奇跡や幾許かの希望を見ていた。ようやく長年望んだものが得られる日が来たのだと。
問題はその後も無邪気に喜べるほどに自身が単純でなくなってしまったことか。
彼の老人は幼少期に姉を失うという一件で仏門を志し、最近亡くなった有名な僧侶の下で修行した怪異を専門とする生粋の僧侶なのだという。
彼とは逢おう、で、逢ってどうするというのか。
この体が彼の男の姉だとして、今の私は何か。生粋の化物である。妖怪である。出会えばきっと消されてしまう。
では力を蓄えるために再び船を転覆させて人をこの歯牙に掛けるのか、自身が何者なのかも知らない、この半端者が。
どれほど悩んだものかわからぬほどに悩んだ。
その結果として結論など出せず、強力な妖怪ではなく原初の弱った亡霊として、自棄の心のまま、何の対策もせぬままに、夜半に訪れた、老人が一人乗る船の前に姿を現す結果となってしまった。この機会に逃げることも考えた。場に縛られるとはいえ、それなりの広さはあった。問題は逢うべき男が老人であり、幾許の猶予も無く命の火が燃え尽きることを直感的に理解していたからなのかもしれない。
今に思えばこれは一種の自傷願望だったのだろうか。それとも「殺されぬ算段」でもあったのか。
男は突如海面に現われた女に、なぜか不思議なことに驚かず動きもしなかった。
私にとっては話す機会があるだけ良く、手っ取り早く、この何もかもお見通しであるかのような男に、気だるく、本当にそのまま亡霊のような擦れた声で、問う。
「私が貴方の死んだ姉に似ていると聞きました」
「はい、とてもよく似ております」
「では貴方は私の弟なのですね?」
男はその時、私という存在に間違いなく動揺などしなかった。恐れもしなかった。自身の怨念さえ忘れた亡霊に怯えるはずもなかったのだ。
以前に垣間見た、拙いまでの怒りに燃えた瞳が私を映し、天上、夜の冷えた月が重なって、そうして本当に男は冷えてしまったのだろうか。
「・・・いいえ。貴方は私の姉ではありません」
本当に小さく、どちらが亡霊なのかもわからなくなるほどにしわがれた声でポツリとそう呟いた。
男の目にもう光はない。
止めるつもりも、止められる策も力もあるわけがなかった。
老人はあっけなく、まるで海面の私に飛び掛るようにして、甲板の縁へ上がり、入水した。
そうしてそのままコールタールのごとき黒の海に沈み、二度と上がってくることはない。
何が彼をそうさせたのか、たぶん私は知っていたのだと思う。
「・・・・・・」
彼の死に様、それを見つめるこの顔は傍から見れば能面のように見えただろうか。
しかし内心私はひどく動揺していた。どうしようもなく、過剰に。
彼の死などどうでも良かった。
罰当たり。そう、罰当たりなことに私はやっぱり私にしか興味はなかった。それだけのことである。
問題はこの光景。
この真っ黒なコールタールのような海面、船で焚かれる篝火、船から落ちた人、・・・・・・・・・・それを眺める自分。
そうして私は真実に到った。
思い当たる節は山ほど。そのどれもが狙ったかのように矛盾しているではないか。どうして気付かないのか、己でもわからないほどに。
真っ黒なコールタールのような海面。・・・自分の顔が映る。映るわけがない。海面は黒いのだ。波だってある。それなのに見えたのか、あんなにはっきりと自分の顔が? 後ろで焚かれる篝火。後ろなのか、上ではなく、後ろなのか。明るいから海面に自分の顔が見えるのか、見えるわけが無い、見えるのはより明るい炎と、自分の真っ黒な影だけだろう。人が落ちた、それを見ている。誰が。私がだ。落ちたのは自分じゃないのか。違う。私はこんなにも他人行儀ではないか。あの時私が見た、「私」は、私の顔は・・・いったい誰の顔か。
「村紗」だ。
数十年前。そう、確か私が丁度亡霊になった頃。一人の少女がこの海で死んだ。
殺されたのだ、私に。
続きを座して待っております。
ってけーねが言ってた
これがムラサの妖怪の由来となる村紗水蜜のエピソードですか
今のところ完結していないようですので終わり次第また読みにきます