※死ネタ、原作の設定との時系列的な矛盾等を含みます
※ちょっと特殊な現代入りです
* * *
――やっぱり、人間って使えないわね。
* * *
「冗談じゃないわよ!」
不満を声に出して叫び、まばたきをした次の瞬間、そこはすでに見知らぬ世界だった。
憤怒に顔を染めた少女は首を巡らし、今まで口論をしていた相手を探す。
だがすでに相手の姿は影も形もスキマもない。
代わって広がるのは灰色の景観。
幻想郷とは似ても似つかぬその場所は、明らかに外の世界、いや――スキマ女の言を借りるなら、外の世界ですらない"別の"世界だ。
「まったく、なんでこの私がこんなトコロに」
「いえあの、それはこちらの台詞なんですが……。」
聞き慣れた声に少女……レミリア・スカーレットが振り返ると、そこには自身の従者、十六夜咲夜がどこか戸惑ったような表情で佇んでいた。
「咲夜? 貴女まであのスキマ女に飛ばされてたの?」
「え、隙間……? いえ、それより貴女はどうして私の名前を――」
「咲夜! ちょっとアンタ仕事中に何やってんのよ!?」
「連中、顔真っ赤にしてお怒りだぜ! つーかどこにあんな大量の武器隠し持ってたんだ!?」
「いやお怒りなのは魔理沙さんが無闇に挑発するからじゃないですかー!」
「HAHAHA、それじゃまるでわたしが悪いみたいだぜ? 美鈴」
「……ごめんなさい、悪いのは全部私です。後生ですから冗談でもその危険物こっちに向けないでください」
「安心しろ、わたしは本気だぜ☆」
「ぎゃー! 霊夢さん咲夜さん助けてーッ!」
レミリアと咲夜のいる場所に、なにかに追われるような勢いで二人の人間と一匹の妖怪が転がりこんで来た。
どれも見知った顔である。
博麗霊夢、霧雨魔理沙、そして紅美鈴。
「貴女たちまで……それにしても何なの? その格好」
四人の服装は、皆一様にいつもとは異なっていた。
全員が丈の短いプリーツスカートと、外来人の男が着るような――確か背広といっただろうか――上着に似たものを身にまとっている。
「ん? 誰よこのガキ。咲夜、あんたの隠し子?」
「そんなわけないでしょう。私もいま見つけて困っていたところです」
「ていうか、こんな修羅場にそんなフリフリの服で来てる場違いなお子様に格好をとやかく言われたくないぜ」
「いや、制服でこんなとこにいる私たちも十分場違いだと思いますけど……。」
仮にも紅魔館の主をガキ、お子様呼ばわりした上、レミリアの声でようやくその存在に気づいたという態度は彼女の矜持を傷つけるのに十分すぎた。
額に青筋を浮かべたレミリアはスペルカードを宣言しようと掌を掲げ―― そこで初めて異変に気づく。
スペルカードがない。
またあのスキマ女の仕業かと激情の矛先を戻しかけたところで、
「どこ行きやがった!?」
「探せ! あんなガキ共に親父が殺られたなんてよそに知れたら組が終わるぞ!」
「つーかあの金髪なめた口ばっか利きやがってッ! ブチ殺す!」
鬼気迫る様子の男達の声が周囲に響いた。
改めて見回すと、周りは妙に背の高い灰色の建物に囲まれている。
「げ。もう追って来たわよ」
「まったく。しつこい男は嫌われるぜ」
「いやだからその一因を担っているのは魔理沙さ――すいませんなんでもないです銃口向けないで」
「とにかくこんな小さい子を巻き込むわけにはいきません。なんとか逃げないと――ってちょっと貴女!?」
建物の陰から身を乗り出す四人の視線の先と会話の内容から状況はだいたい理解できた。
レミリアは悠々と建物の陰から外へ歩み出す。
スペルカードがなくとも自分は吸血鬼。
そしてスペルカードがないということは、ここでは幻想郷でのルールなど律儀に守る必要もない。
「要するにあの連中を黙らせればいいんでしょう?
貴女たちにも色々訊きたいことはあるけれど、すぐ終わらせるから少し待ってなさいな」
背中越しに振り向いて、男達のいる方向へと駆け出す。
咲夜が制止する声を発していたようだが心配は無用。
幸いにして空には夜の帳が降りている。
人間風情が何人束になったところで、古参妖怪を除けば幻想郷最強の種族である吸血鬼の膂力があれば十全に――、
「――って、なによこの速度!?」
地を踏む一歩の弱々しさに自ら愕然とする。
確かに地面を踏み抜かない程度に加減はしたが、あまりにも速度がない。
そもそも一足で人間の数倍の距離を駆け抜けるのが吸血鬼。
だというのにその一足が、これではまるで脆弱な人間ではないか。
「いたぞ!」
視線を自身の足元から、男の声が上がった前方に移す。
そしてやはり違和感。
男達の姿がはっきりとは確認できない。
月明かりもあるというのに、吸血種としての夜目が利いていないのだ。
男達が手元でガチャリとなにかを持ち上げる。
敵が弾幕を放つ時に近い気配を直感的に感じ、翼を広げ飛翔しようとしたところで、今度はその翼がないことに気づく。
「危ないッ!」
咲夜の声と、横からの衝撃。
突き飛ばされたと理解すると同時、レミリアは地面に頭部を打ちつけ意識を手放した。
* * *
「危ないッ!」
何を思ってか武装したヤクザの群れ目掛けて駆け出した少女を、咲夜は咄嗟に追いかけ火線上からそらすべく突き飛ばした。
直後に襲うサブマシンガンによる弾幕を自身も地面に身を転がすことで避けつつ、少女の身体を抱え体勢を整える。
距離からして命中は難しいと理解しながらも、低い姿勢のまま投擲用のナイフを腿のホルスターから抜き数本同時に敵目掛けて放った。
素人同然のヤクザの射撃など普段の咲夜であればいくらでもやりすごせるが、十歳前後の少女とはいえ意識を失った人間を抱えたままでは普段の機動力は望めない。
やはり命中はしなかったが飛来するナイフに敵は怯んでくれたようで、その隙に別の路地へと身を隠す。
『咲夜! 無事!?』
現状の打開策に思案を巡らせたところで、背後から銃声、耳にはめたインカムの無線機からは霊夢の声が届いた。
銃声の種類は三つ。
正確無比な短連射で効率的に敵を穿つのは霊夢のサブマシンガン、FN・P90TR。
でたらめかつ非常識な二丁拳銃で、数撃ちゃ当たるという品性の欠片もない暴力的な銃声は魔理沙の50口径デザートイーグル。
霊夢ほど正確でも迅速でもないがそれでも三発に一発は敵を仕留めている控えめな銃声は、美鈴のコルト・ガバメントM1991A1コンパクトのものだろう。
「私は無事です。ただ、女の子が気を失ってしまって。合流は難しそうですね」
無線に応えつつヒップホルスターからサプレッサー(減音器)付きのグロック30を抜き出し薬莢内の装弾を確認する。
先ほどは直接月光を反射して目視できるナイフの方が威嚇には得策と判断したが、この局面では流石に自分も拳銃を使わないわけにはいかない。
美鈴ほどではないにしろ、自分もあまり射撃が得意な方ではないのだが。
『いま霖之助さん呼んだから、それまでなんとか持ちこたえるわよ』
「了解」
雑居ビルの角から身を乗り出し、グロックの銃口を敵の胴体に照準して発砲。
この距離で得物が短銃身の拳銃では、ヘッドショットの命中はまず望めない。
三人撃ち倒したところで反撃が来る。
彼我の距離は30メートルほど。
敵は組事務所が入っている雑居ビル前の通りに、見える範囲だけでも三十人近くが陣取っている。
銃の扱いについて素人には違いないが、武闘派を謳うだけあって装備は充実しているようだ。
貫通力の強い霊夢の5.7mm弾や魔理沙のマグナム弾で撃たれた敵はともかく、防弾ベストで胴体を守っているのか美鈴や咲夜の.45ACP弾で撃たれた敵はしばらくすると起き上がって前線に戻ってくる。
それでも肋骨や内臓へのダメージで動きが鈍っているようで、幾分狙いやすくはあるものの、これではキリがない。
周囲は中小企業のオフィスが入っている雑居ビルだけとはいえ、流石にもう一般人に通報されている頃だろう。
多勢に無勢でも負ける気はしないが、グロック30の装弾数は薬莢内に装填していたものを含めても十発、予備のマガジンも二本だけ。
他の面子も似たようなものだろう。
早期決着は望めない。
霖之助の到着が先か、警察が先か。
『お待たせ。相変わらず派手にやってくれてるね』
最後の一本のマガジンをグロックに差し込んだ頃、霖之助から通信が入った。
同時に表通りからアスファルトを擦るブレーキ音。
建物から身を乗り出すと、見慣れた黒いワンボックスカーが二車線道路を占領するようにこちらへ車体側面を向け停車したところだった。
車はちょうど敵とこちらの火線を遮るように停まっている。
この隙にと少女を抱え、敵に威嚇射撃を行いつつ車内へ転がり込んだ。
「遅えよこーりん!」
「いやすまない。誤情報を警察にリークしたり警邏のパトカーを巻いたりで忙しかったんだよ」
続いて霊夢たち三人も乗り込んでくる。
扉が閉まるのを確認すると、霖之助はすぐさまハンドルを切り車を急発進させた。
車体は敵の弾幕にさらされ続けているが、この車は窓やボディはもちろん、その重量を運ぶエンジンに至るまで特注の防弾仕様。
拳銃弾を使用するサブマシンガンごときでは塗装を剥ぐのがせいぜいだ。
剥げた塗装の下のボディも黒の上、ナンバーも擬装用に数種類揃えている。
夜中の運用なら警察の目につくこともまずないと言って良いだろう。
敵の移動手段はあらかじめ魔理沙が潰していたので追手もなかった。
「とりあえずお疲れ様」
霖之助の労いに生返事で応えつつ全員が息をつく。
いつものことながらトラブルは多かったが、なんとか仕事は完了だ。
「ところで……そのお嬢さんはどちら様?」
バックミラー越しに、霖之助の視線が咲夜の膝の上で眠る少女へ向かう。
彼の疑問は車内の全員に共通のものだ。
今夜の仕事は片づいたが、どうやらまた新たなトラブルの火種を拾ってしまった気がしてならない。
経験上この手の嫌な予感は外れたことがないのだが、なぜだろう。
咲夜は膝の上で穏やかな寝息を立て始めた少女の髪を優しく撫でていた。
それが妙に落ち着く。
これほど穏やかな気持ちになったのはいつぶりだろうか。
ここ最近の疲れもあったのだろう、咲夜も我知らず、うとうとと夢見の世界へ誘われていった。
* * *
気がつくとレミリアは見覚えのある空間に浮かんでいた。
目玉や人間の手足、外の世界のものと思われる妙な物体などが浮遊するここは、八雲紫のスキマから垣間見える場所に相違ない。
「これはなんの真似かしら? スキマ女」
「あら。ここに招待されるなんて誰にでも許されることじゃないのだから、もう少し光栄に思いなさいな」
わざとらしく溜息を吐き、スキマ女が姿を現す。
今の今までレミリアは館の中庭で優雅にティータイムの最中だった。
それが突然こんな場所に連れ込まれ、加えて下手人が八雲紫。
レミリアでなくとも、彼女の性格を知っている者でこの状況を喜ぶ物好きなど幻想郷にはいない。
「私としても別に本意ではないのよ。
ただ、今回の貴女はやりすぎたってとこかしらね」
いま幻想郷を覆っている紅い霧のことを言っているのだろうか。
そういえば先日その件で巫女と魔法使いをそれぞれ手ずから追い払ってやったばかりだ。
とするとスキマ女の用件も見えてくる。
「貴女が異変解決のために現れるなんて、ずいぶん柄にもないことをしたものね。
日光が遮られたところで、一日中寝てばかりの貴女には無関係でしょうに。
で、何? 決闘になら今すぐ応じてあげるけれど?」
「だから本意ではないと言っているでしょう。
……どこかの閻魔様がお怒りでね。
私は半ば無理やりこんな面倒な役目を仰せつかったってわけ」
「それはお気の毒。
それならさっさとその面倒なお役目から解放してあげるからかかってらっしゃいな」
「人の話は最後まで聞きなさい。
閻魔のご希望は貴女を倒すことではないわ。
私の力で貴女を外の世界、いいえ"別の"世界へ飛ばすことよ」
「別の世界?」
「そう。基本的には外の世界と変わらないけれど、そこで貴女はその"世界の常識"に縛られることになるから注意なさいな。
まあ、閻魔も貴女の態度次第では猶予をあげると言っていたわよ?」
つまり今すぐ霧を消せということだ。
ただ生憎と、日傘もなしに散歩に出れるこの環境をレミリアはとても気に入っている。
「閻魔曰く、日光がなくては農作物は育たない。
農作物がなくては里の人々は飢えて死んでしまう」
「だから何? 吸血鬼である私が"たかが"人間のために易々と言いなりになれとでも?」
先日の一件で、それなりに使える従者だと思っていた人間がしょせん肝心な時には使えないと理解したばかりだ。
そんな種族のために高貴な吸血鬼である自身の矜持を傷つけられるなどもっての他である。
「……まったく。その人間の血を啜って生きてる妖怪の台詞とは思えないわね」
「生憎だけど、易々と貴女や閻魔の言いなりになるほど安い矜持は持ち合わせていないの。
人間だって農作物が駄目なら里の外で獣でもなんでも狩るでしょう。
まあ、里を出れば逆に狩られる側になる人間も増えるでしょうけど知ったことではないわね。
よしんば人間がいなくなっても、その時はツェペシュの末裔の名にかけて潔く死を選ばせていただくわ」
「つまり、決闘で敗北したわけでもないのに相手の言いなりになるくらいなら死を選ぶ、と?」
「ええ」
レミリアは毅然と首肯する。
「なら実力行使ね。幻想郷のルールにいささか反する気もするけど閻魔が白と言うのなら白でしょう。
ちょうどいいから別の世界で命の尊さでも学んでらっしゃいな」
「え。ちょっと、待ちなさ――」
「ちなみに貴女が戻れるかどうかも閻魔次第だからそのつもりでね」
片目を瞑り、微笑を浮かべた八雲紫の輪郭がぼやけていく。
その表情は、不本意だなんだと言いつつも明らかにこの状況を楽しんでいる。
そもそもいくら苦手としているとはいえ、その気になれば彼女の能力があれば閻魔からでも逃げきれるはずだ。
つまり彼女は、少なからず積極的に閻魔の命に従っていることになる。
それも恐らくは単純に彼女自身の娯楽のために。
同意もなしに幻想郷の外へ飛ばされる上、それがスキマ女の娯楽になるなど、
「冗談じゃないわよ!」
*
「――嬢さ――起きてください、お嬢さ――」
「んん……咲夜……?」
従者の声が近くから聞こえた。
随分と嫌な夢を見た気がする。
スキマ女に飛ばされた見知らぬ世界で、見知った顔がいて、しかしその見知った顔は明らかに自分を知らない風で。
挙句に吸血鬼としての能力を失い、無様にも地面に頭を打って――、
「あの、お嬢さん。いい加減に起きてくれないと……私も学校があるんですが」
「ッ!」
聞き慣れた従者の、聞き慣れぬ態度で意識が現実に引き戻される。
跳ね起きて周囲を見回す。
白や灰色ばかり目立つ随分と殺風景な部屋だ。
机や本棚、薬品の瓶らしきものが並ぶガラス棚、今まで寝かされていたらしいベッドも銀色の棒を組み上げただけの簡素なものだった。
風格や瀟洒といった単語とはほど遠い調度の数々に加え、中には何に使うのかすら理解できない器具もある。
ここはやはり見知らぬ世界。
夢などではなかった。
認識と同時に、意識を失う前の自らの醜態が脳裏を襲った。
レミリアは片手で顔を覆って呻き声を上げる。
「え、お嬢さん。ひょっとして吐き気とかありますか?
コブもできてたし大丈夫だと永琳さんは言ってたんですけど――」
「レミリア」
「はい?」
「レミリア・スカーレット。私の名前。どうやら貴女は私の知ってる咲夜じゃないみたいだけど、
そのお嬢さん呼ばわりはなんだか子供扱いされているようで不快よ」
横目でじろりとうかがうと咲夜は一瞬たじろぐような戸惑うような表情を見せる。
スキマ女は自分がこの"世界の常識"に縛られると言っていた。
吸血鬼としての能力が発揮できなかったことから察するに、この世界の常識上、吸血鬼は実在しないのだろう。
外の世界でも吸血鬼の実在は信じられていないと聞くし、あながち外した推論でもないはずだ。
レミリアの外見は明らかに人間の子供、それも翼がないのだから尚更だ。
その子供に子供扱いが不快と言われては咲夜の戸惑いも致し方ないとしたものだろう。
「えーと、じゃあその、レミリアさん。とりあえず社長室まで来てもらえますか?」
「シャチョウ……? 悪いけど咲夜、私はあまりこの世界について詳しくないの。
さっきの発言と矛盾するようだけど、できるだけ子供にも理解できるように話してくれる?」
「は、はあ。ええと、要するにここで一番偉い人のお部屋まで一緒に来てもらいたいんです。
そこでなんであの場所にいたのかとか、
貴女の言うその"この世界"の意味についてとか聞かせて下さい」
「いいわ。私としてもこの世界について色々と聞きたいことがあるし」
かけられていた白いシーツを剥いで、ベッドの下に置かれていた靴に足を入れる。
そこでふと思い至った。
咲夜に霊夢、魔理沙、美鈴に加え、咲夜が言った「エイリンさん」とは輝夜のところの医者のことではないか。
昨夜の男達以外だと、遭遇する面子は外見と名前だけならことごとく幻想郷の住人と一致している。
ならこれから会うであろうここで一番偉い人、というのも同様である可能性は十分高い。
今の自分は人間の子供同然の体力しかないようだし、業腹だが場合によってはその人物に従う必要に迫られることもあるだろう。
せめて気品ある振る舞いを忘れぬため、あらかじめその人物の名を知っておくことが得策だ。
好奇心もあり、無機質な廊下を先行する咲夜へ率直に疑問をぶつける。
「社長の名前ですか? 職業柄、本名かどうかはわかりませんが」
「別に偽名でも構わないから教えて頂戴。こっちにも心構えが必要なのよ」
「心構え? まあ勿体ぶるものでもないから構いませんけど」
従うにしてもできればそれなりに高貴な妖怪の名であって欲しいと願いつつ咲夜の回答を待つ。
そしてその返答の内容は、
「社長は八雲紫さんとおっしゃいます」
考え得る限り現状で最も悪辣なものだった。
* * *
午前六時。
株式会社『八雲総合警備保障』の社長室には、十人もの人間が集まっていた。
件の少女と昨夜の戦闘に参加していた四人に加え、森近霖之助、八意永琳、社長秘書の八雲藍、その弟子の橙。
そして社長である八雲紫。
情報処理担当で滅多に自室兼執務室を出ないパチュリー・ノーレッジを除けば、この会社の裏側に所属する人間が半数近く揃っていることになる。
これだけの人数が集っても窮屈さは感じない。
業界最大手とまではいかないまでも、東証一部に上場している企業だけあって社長室もかなりの広さがあるのだ。
「で、貴女はその別の世界……幻想郷といったかしら。
そこからこの世界に飛ばされて昨夜の戦闘に遭遇した、と」
パソコンや書類の乗ったデスクに肘をつきながら紫が確認すると、少女……レミリアは不愉快そうに頷くだけでその言葉を肯定した。
咲夜が社長の名前を口にしてから彼女の態度はずっとこの調子だ。
いや、紫の姿を目にした時などは殺意すら孕む形相で、警戒する藍と無謀にもそれを真っ向から睨むレミリアを執り成すのに苦労させられたから多少マシにはなっているのだが。
「話は変わるけど、最近どうも不穏な情報が文の方から入って来てるのよね」
文とは社命丸文、フリーの情報屋のことだ。
潜入などではなく伝聞で得る情報が主なので確度はそれほど高くないが、その分フットワークが軽く広範囲、多岐に渡る情報網を持っているので使い勝手は良い。
その不穏な情報についてはレミリア以外この場の全員に周知されている。
一人その内容を知らないレミリアだけが怪訝そうに眉を顰めた。
「本当に話が変わったわね。私の現状とどう関わりがあるのかしら?」
「情報の内容が問題なのよ。どうやらウチを狙っているどこかの組織の若い殺し屋がいる、ってね」
紫の言う"ウチ"とは『八雲総合警備保障』のことではない。
その裏の顔。いや、元々この会社の母体はこちらなのだから本来の顔と言うべきか。
犯罪組織『イマジネイティブホーム』。
世界各国に支部を持つ犯罪シンジケートだ。
支部とはいってもどこかに本部があるわけではなく、トップに立つボスもいない。
それぞれの支部は基本的に対等で、毎年行われる予算編成も各国の支部長同士の民主主義的な会議に拠る。
扱う商品は臓器、人身、麻薬に兵器、はては殺し屋の斡旋など多岐に渡っており、ここ日本支部では国柄もあり臓器や麻薬の密売が中心。
よそに比べれば新興の組織だが、華僑やユダヤが証明する通り、横の繋がりというのは裏稼業を営む上で実に有益だ。
咲夜たちに支給される武器弾薬なども、在日米軍を始めとする海外の軍に警察、場合によっては各兵器の製造元からの横流し品でかなり充実している。
『八雲総合警備保障』は日本支部のトップで、商い自体はいつでも切り捨てられる下部組織に任せてある。
直接ここに所属している咲夜たちの仕事は邪魔な組織の排除、下部組織の不穏な動きの監視が主だ。
「若い殺し屋? それが私だとでも?」
「可能性としては低くないわね」
紫の言う通り、状況から見て可能性は低くない。
子供だからそんなはずは、などという道理は裏の世界で通用するものではないのだ。
中東の少年兵の例を挙げるまでもなく、子供とて拳銃が一丁あれば簡単に大人一人殺害できる。
むしろ子供である分、暗殺の際などは標的を油断させやすい。
殺し屋稼業が一般的でない上、古い先入観が根づいている暴力団の多い日本でなら尚更だ。
事実、暗殺業の主力である咲夜たち四人もまだ現役の高校生。
小学生の橙ですら、すでに幾つか仕事を経験している。
レミリアを紫を狙ったヒットマンと見なすのも無理からぬことだ。
だが、
「待って下さい。昨夜の彼女の行動は我々の目を欺くための演技と呼ぶにはあまりにリスクが高すぎました」
咲夜は異論を挟み咄嗟にレミリアをかばった。
反射的に飛び出した言葉に自分でも驚くが、間違ってはいないはずだ。
実際、丸腰で武装したヤクザに立ち向かうなど、彼女が本来持っていたという力の存在がなければ自殺行為。
身のこなしも完全に素人のそれだった。
仮に咲夜が助けに入らなかったなら確実に蜂の巣にされていただろう。
下っ端の分際で社長に異を唱える咲夜を藍は睨むが、紫はそれを目線で制し視線を寄越した。
「仮にこのお嬢さんを殺し屋とするなら、
貴女はもちろんこの場の全員の顔と名前を知っていたことにも説明がつくわ。
貴女の性格を事前に知っていて助けに入るのを見越していたとか、
昨日の組と繋がっていて狙いは外される予定だったとか、
あるいは素人同然の子供だから場合によっては死んでも構わないという敵の意向があった。
そちらの方がこの娘の妄言を信じるよりいくらか現実味があると思わない?」
「そ、れは、確かにそうかもしれませんが……。」
反論を先んじてすべて封じる紫の論法は覆せたためしがない。
咲夜が目線を伏せて押し黙ると、紫は突然くつくつと喉の奥で笑い出した。
「冗談よ。ウチの内部情報なんてそうそう手に入るものじゃないわ。
あの情報屋ですら全容は把握してないくらいだもの。
ましてや一人一人の性格なんて掴めるわけがない。
昨日のヤクザもわざとお嬢さんを狙いから外すなんて器用な真似ができる練度じゃなかったんでしょう?
このお嬢さんの容姿からして、
私を殺すのに使い捨てるよりはマニアに売り飛ばした方がよっぽど良い値段になるでしょうし。
使い捨てにしたって、こちらの警戒を強めるだけだから敵にとっては不利益の方が多いわ。
だいたい、子供に吹き込むにしても設定が非現実的すぎるわよ」
レミリア・スカーレットというこの世界では明らかな偽名。
幻想郷、まるで『イマジネイティブホーム』を無理に日本語訳したかのような世界。
五百年以上生きている吸血鬼。
それもツェペシュの末裔だと本人は豪語する。
ツェペシュとはブラム・ストーカーの小説の主人公、ドラキュラのモデルになった人物のことだろう。
ご丁寧に衣服の背中の一部には翼が生えていたかのような裂け目が入れてある。
組織の内部情報まで掴む慎重な敵ならもう少しマシな口実を吹き込みそうなものだ。
仮に本気で敵がこの口実を自分たちが信じると思ったのなら、設定を考えた人間は舞台の脚本家にでもなった方がいいと紫は続けた。
「とりあえずはお嬢さんの言うことを信じてあげましょう。
まあ、念には念を入れて当然監視はつけさせてもらうけれど。
というわけで、頼んだわよ咲夜?」
最後の一言で、はめられたと咲夜は悟った。
要するにこの結論に着地したかったのだ、紫は。
厄介事を押しつけられた不満が顔に出たのか、
「いいじゃない。話を聞く限り幻想郷の貴女は彼女に仕える瀟洒なメイドだったそうだし。
適当な理由をつけて手配するから学校にも連れて行ってあげなさいな。
必要ならメイド服も用意しましょうか?」
「いえ、結構です……。」
紫の声は完全に遊びに入っている。
誰か助け舟を出してはくれまいかと室内を見回すも、霖之助や永琳は我関せず。
藍などは日頃から社長に振り回されている同情からか気の毒そうな顔を見せてくれていたが、霊夢、魔理沙、美鈴に至ってはニヤニヤとこちらを眺めていた。
無言でナイフを三本投げつけるも全員がひらりと身をかわす。
せめてナイフの突き刺さった壁の修繕費くらいは難癖つけて払わせてやると咲夜が内心誓っていると、渦中の人物であるにも関わらず話から置いていかれていたレミリアがすぐそばまで歩み寄っていた。
「なぁに咲夜。私と一緒じゃ不満があるのかしら?」
「い、いえ。別にそういうわけじゃ……。」
こちらを下から見上げているにも関わらず、レミリアの態度は見事なまでに倣岸不遜。
なぜだか有無を言わせぬ迫力に咲夜の方がたじろいでしまう。
別世界の自分が彼女の従者であるというのも、あながち嘘ではないようだった。
*
「どうしたの咲夜? ずいぶんとお疲れみたいだけど」
「ほっといてください……。」
尋ねてくる霊夢の口調は明らかに楽しんでいる。
緊急時に備えて袖に仕込んだ折り畳み式のナイフで一閃してやりたいところだが、生憎と咲夜のライフは気持ちの上ではゼロに近い。
午前の授業を終えて昼休み。
いつもの面子にレミリアを加えた五人は私立東方高等学校の屋上でランチタイムの最中だ。
屋上は本来なら生徒の立ち入りは禁止されているのだが、魔理沙が「借りてきた」と言い張る教員室の鍵(それもいつまでもバレないことから考えて勝手に作った合鍵なのは確実)を使って四人はいつもここで昼食を取る。
まあ、一般の生徒や教師に聞かれるとまずい話をすることもままあるので好都合ではあるのだが。
秋とはいえ、日光に晒された屋上の気温は衣替えが終わったばかりの冬服だと暑いくらいで、全員がブレザーを脱いでいた。
「で、実際どうだったんだ美鈴? 教室での様子は」
いつも通り美鈴を購買まで走らせて買った惣菜パンを頬張りつつ、すでに自分の分を食べ終えて昼寝の態勢に入っていた当の美鈴を蹴りつけながら魔理沙が尋ねる。
相変わらずの暴君ぶりだが、この中では一番の新入りである美鈴の脳からはもはや不平を漏らすという選択肢すら消えているのかもそもそと起き上がった。
「ほぇ? どうかしましたか魔理沙さん?」
ものの数秒で熟睡に至っていたのか起き上がった顔は完全に寝ぼけている。
咲夜の記憶が確かなら午前の授業もすべて机に突っ伏して過ごしていたはずだ。
最初の頃はまだ効果的な仮眠の取り方を知らないだけかと思ったものだが、どうやら彼女のこれは単に体質らしい。
「だから、レミリア連れた咲夜が教室でどうだったかって話よ」
霊夢と魔理沙は咲夜と美鈴とはクラスが違うので純粋に気になるのだろう、霊夢が重ねて問いかける。
ちなみに彼女の齧っているパンも美鈴が買ってきたものだ。
咲夜もついでということで買って来てもらってはいるが、二人と決定的に違うのは代金を美鈴の分も含めて払っているという点だった。
ほとんど中学生のイジメと変わらない扱いだが、霊夢は「仕事でフォローしてやってる代金」、魔理沙は「借りてるだけだ」とやはり言い張る。
哀れにもそんな扱いに完全に馴染んでしまっている美鈴は素直に答えた。
「ええと、クラスメイトにレミリアさんについて『親戚だって?』とか『とみせかけて実は隠し子?』と散々いじり回された挙句、
それを律儀に否定しつつキレたレミリアさんを抑えたりと、かなり苦労してた気がします」
なんで貴女は休み時間だけ微妙に起きているのかと突っ込みたいところだが、美鈴の言う苦労のおかげでその気力も湧かない。
朝のHRで担任に咲夜の遠縁でこう見えて高校生、という無理のある紹介をされたレミリアは咲夜の隣に席を用意され、休み時間の度に「お菓子あげよっか?」だの「大人しく授業受けて偉いねぇ」だの「うちの子にならないか?」だのと散々クラスメイトに子供扱いされたレミリアは今にも噛みつきかねない勢いで、それを制するのにはかなり苦労させられた。
とりあえず「うちの子にならないか」発言の男子は将来の予想顧客対象として組織に個人情報をあらいざらい報告しておこうと思う。
それなりに偏差値の高い学校なので、うっかり彼が政治家にでもなれば強請りの種にもなるだろうし。
そして当のレミリアはといえば、小食なのかサンドイッチをひとつとトマトジュースを飲んだだけで食事を終え、今は物珍しそうに頭上の太陽を直視している。
「目を痛めますよ」
「……そうね。けど、日傘もないのに目を痛める程度で済むなんて不思議な感覚なのよ」
そう呟いた横顔は、本当に日光が珍しいと物語っている。
今朝も会社のオフィスビルを出る時に太陽の存在を認めて咄嗟に日陰に隠れていたし、仮にどこかの組織が彼女に「吸血鬼」の設定を吹き込んだのだとしたらそれはもう洗脳の域に達していると見て良いだろう。
レミリアの服装は例のドレスのようなものではなく、咲夜たちと同じこの高校の制服だ。
流石にどう贔屓めに見ても小学生の体格の彼女に合う制服はなく、一番小さなサイズでもブレザーの袖を折らなくてはならなかった。
それでも服に着られているという印象を受けないのは、彼女の言う「高貴な一族の血」の成せる業か。
しかし咲夜の瞳には彼女の姿はどこか弱々しく、儚げに映った。
この気持ちを表現する語彙を咲夜は持たない。
まさか噂に聞く恋心というやつだろうか。
だとすれば同性愛かつロリコンではないかと自身の性癖に咲夜が危惧を抱き始めた頃、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
我に返ると霊夢が美鈴の頭を蹴りつけ、魔理沙は自分の出したゴミをちゃっかり美鈴のブレザーのポケットに押し込んでいるところだ。
「ほら起きなさい美鈴。寝るなら教室戻ってからにして」
「んー、ふぁい」
「んじゃ午後の授業も頑張るんだぜ? 咲夜」
……午前の苦境を思い返し、目の前でニヤニヤと笑うこいつらを刺し殺しても閻魔様は許してくれるんじゃないかと咲夜は思った。
* * *
幻想郷でいうところの寺子屋を年齢や頭の出来ごとに建物と部屋を変えて区別した「学校」という場所から解放され、レミリアは咲夜に連れられ今朝出てきた建物とはまた異なる場所にやって来ていた。
この世界ではどこもそうなのか、周囲に並ぶのはやはり無機質かつ無骨な灰色の建物だ。
咲夜に聞くとビルと呼ばれる建物らしい。
ビルとは言ってもこの辺りにあるのは「雑居ビル」ばかり、ビルの中でもかなり小さいものだとも付け加えられた。
一体どこから湧いたのかという数の人波が往来する大きな道から逸れた、狭い道の一角。
複雑に入りくんだ汚らしい石の道は、両脇に林立する似たような背丈のビルを壁代わりにして象られた迷路のようだった。
実際、レミリアの視線の高さからすると周囲のビルは入り口や看板があることを除けば壁とたいして変わらない。
そのうえ歩を進めるごとに道が狭まっていくので壁が迫って来ているような錯覚すら覚える。
道というよりビルの群の間にある隙間だなと呆れたような感想を抱いて、思い浮かべた「隙間」という単語に今朝の苛立ちが再燃する。
「ここです」
立ち止まった咲夜が示したビルの入り口には『香霖堂古書店』というみすぼらしい看板が掲げられていた。
「自動ドア」という目の前に立つだけで勝手に開く扉は今朝の建物を出る時に経験済だ。
中に入ると古本ばかり集めたらしい本棚が息が詰まるほど詰め込まれた店の奥、「レジ」とかいう機械の乗った机の前まで案内される。
案の定というべきか、机の向こうにいるのは森近霖之助だ。
二人の来訪に気づいた霖之助は読んでいた本から軽く顔を上げ、咲夜と軽い挨拶をかわしつつ鍵束を手渡した。
壁際にある本棚を咲夜がずらすと、扉がひとつ現れる。
咲夜は慣れた手つきで鍵束から一本を選び、扉を開錠。今度は地下に続く階段が現れた。
たどり着いた地下は上の店と比べると相当に広い空間だった。
「ちょっと待ってて下さいね」
言われるまましばらく待つ。
目の前には等間隔に天井まで届く板で区切られた長い机と、その向こうにはやけに広いが何もない空間が広がっていた。
机の正面に立って一番奥の壁には区切られたスペースの数だけ白い紙が見える。
紙には黒で人影のようなものが描かれているのが遠目にもわかった。
やがて咲夜がいくつかの箱を抱えて奥の部屋から戻ってくる。
咲夜は箱のひとつから油紙の包みを取り出し、包みを解いて中身を手渡してきた。
「これは?」
「拳銃です」
「拳銃? 私の知っているのと随分違うけど」
幻想郷に行き着く以前はヴァンパイアハンターに狙われることも多く、彼らは銀の弾丸をこめたライフルや拳銃なる武器をよく使っていた。
しかし彼らの使っていた拳銃はどれも細長い筒とレンコンのような円筒形の部品を組み合わせたような形状だったと記憶している。
手渡された拳銃は弾の出る穴の大きさや引き金がある点はそれらと同じだが、シルエットは長方形の箱を二つ合わせたような形だ。
「ああ、それはリボルバー。回転式の弾倉を使うタイプの拳銃ですね。
これはオートマチック。この世界ではこっちの方が主流なんです」
英語はレミリアにとっては日本語より馴染み深い。
オートチックは自動的という意味だが、何が自動なのだろう。
まさか銃が自動で敵を狙い撃ってくれるのだろうか。
「ふふ、それなら楽で良いんですけどね。
オートマチックは排莢や次弾の装填が自動って意味です。
引き金を引き続けてる限り弾切れまで自動的に撃ち続けられる仕組みの銃をフルオートって呼びますから、
拳銃だと一部を除けばほとんどはセミオートマチックって呼ぶのが霖之助さん曰く正確らしいですけど。
あ、排莢っていうのは――」
咲夜はレミリアの知らない点について噛み砕いて、時には銃を分解して内部構造を見せつつわかりやすく説明してくれた。
弾丸は薬莢と弾頭とで構成されていること。
薬莢内の火薬が爆発する時に発生するエネルギーで弾頭が撃ち出されること。
オートマチックの拳銃では同時に発生するガスの圧力でスライドが後退し、空薬莢が排出されると同時に中のスプリングの力でスライドが戻るのを利用して次弾が装填されることなどなど。
「学校」も周囲の人間が鬱陶しくはあったが教師の話が純粋に興味深かったおかげで退屈はしなかったレミリアである。
新たな知識の獲得は長く生きているともはや娯楽のようなものだ。咲夜の講義にも真剣に耳を傾ける。
ちなみにこの拳銃はグロック26というらしい。
咲夜の使っているグロック30とは使用する弾薬が異なるだけで構造もほとんど一緒だそうだ。
比べてみると、確かに咲夜のものの方が銃身が若干長いだけで外見もほぼ同じだった。
装弾数は口径の関係上、咲夜のものより一発多く十発。あらかじめ薬室に一発装填しておけば十一発だ。
ちなみに基本的にサイレントキリング、音を立てない殺人を得意とする咲夜が拳銃を使う場面というのはあくまで緊急時で、口径が違うのは初速が亜音速ゆえに空気の壁との衝突音、つまり衝撃波が発生しないおかげでサプレッサーと相性の良い.45ACP弾を使うためだとか。亜音速とはいえ口径が大きい分、殺傷力は9mmパラベラムと大差はないらしい。また、咄嗟に使う場面が多いため安全装置がトリガーセリフティという引き金を絞る時に解除されるグロックは都合が良いとも。
「ブローニングとかあれば良かったんですけど、流石にもう骨董品だからなかなか手に入らないんですよね……。
レミリアさんの手の大きさに合う小型の拳銃でそれなりに装弾数も多いものだと後はこれくらいしかなくて。
まあ、9mmショートよりは9mmパラベラムの方が殺傷力もありますし、広く流通してるから好都合と言えなくもないですけど」
「ふぅん。で、なんで私にこれを? 確か、ここの法だと人を殺すことやこういう武器の所持は禁止されているんでしょう?」
咲夜の顔がきょとんと固まり、ややあって「ああそうだ肝心なこと話してませんでしたね」と呟いた。
どうやら学校にいる間に紫から連絡があり、レミリアに殺し屋としてのノウハウを仕込む役を仰せつかったらしい。
一応は自分を狙っている殺し屋として疑いをかけている上でそんなものを仕込む意図は理解しかねるが、咲夜によればそれだけ自分や自分の護衛に自信がある証左だとか。
それでも午前中のうちにレミリアの外見に該当する人物がどこかの組織に属していないか、目撃情報はないかなど情報網をフルに使って調べ上げた末の結論であるというから、本当にどこまでも食えない女だ。
「働かざるもの食うべからず」という組織の方針もあるようだが。
「専門はナイフ格闘術ですけど、私でも銃の取扱いくらいは教えられますし。
徒手での体術も一般的な軍隊格闘技ですから、美鈴の中国武術ほど身につけるのに時間はかからないでしょう」
「まあ、今の私は完全に人間の子供のようだし、力をつけられるならむしろ好都合だけれど。
咲夜に役目を押しつけた他の三人はどうしてるの?」
「たぶん仕事だと思いますよ。あの三人なら私がいなくても、というか単身でも簡単な仕事はこなせますし。
霊夢や美鈴にとってはむしろ、毎回無駄に騒ぎを大きくする魔理沙がいない方がやりやすいくらいじゃないですかね」
知らない言葉の意味を逐一尋ねつつ、それでも特に迷惑がるわけでもなく説明してくれた咲夜の話を整理すると、魔理沙はあれでも腕利きの狙撃手らしい。対物ライフルという無闇に強力な火器を使いたがる悪癖が致命傷寸前の欠点だが、それでも組織が捨てようとはしない優秀な人材。
霊夢は銃撃戦に長けていて、榴弾やトラップを交えた緻密で堅実な攻撃の組み立てでは右に出る者はいない。魔理沙とは逆に牽制以外で無駄弾を撃つことを極端に嫌う。それは明らかな浪費による弾薬の代金は組織の経費で落ちないことに起因するとか。幻想郷の霊夢同様、随分な守銭奴だ。
「まあ、メインで使うP90もサブのFN・Five-seveNも強力な代わりに値段の張る拳銃弾を共用してますから、無理もないとは思いますけど」
とは咲夜のフォローだ。実際、魔理沙の報酬の大半は無駄撃ちした弾の代金に消え、自宅も持たず他の三人のマンションやパチュリーの部屋に転がり込むことが多い。挙句に目を離すと「借りる」と称して家財道具を盗んでいくというから、こちらも幻想郷の魔理沙同様タチが悪い。
美鈴は八極拳と劈掛拳を中心とした中国武術の達人。暗器の扱いにも長けているので咲夜同様サイレントキリングを得手とする。銃の扱いに関してはプロとしてはギリギリで及第点。藍の元で英才教育を受けている小学生の橙と互角かそれ以下。
「それでも直に殺り合えば、橙が完全武装でも間違いなく丸腰の美鈴が勝つでしょうね」
などと咲夜が断言するほどだから、近接戦闘における人間離れした強さは推して知るべしである。
幻想郷では人間離れしているどころか本当に人間ではないのだが。
ついでに他の面子の専門も尋ねてみると、紫については企業や組織の運営者として優秀なこと以外よくわからないとか。こちらの紫もやはり胡散臭い。
藍は戸籍上、紫の妹ということになっているが直接血の繋がりはなく、殺しの腕は超一流。
狙撃も銃撃戦も近接戦闘もそつなくこなし、常に相手の苦手な分野に勝負を持ち込むので咲夜の知る限りでは組織内最強。
他に後方支援役として三人。
霖之助は武器弾薬の整備や管理、現場でのバックアップを担当。
永琳は戦場で軍医の経験もある凄腕の医者……といえば聞こえはいいが、実際は拷問の担当も多い。
パチュリーは組織の経理にデータ管理や情報操作、ハッキング、クラッキングといった情報処理担当で引きこもり。
どうも人間性については全員幻想郷の住民と変わらないようだ。
他は雑用係の下っ端や表の顔の企業運営に携わる構成員で、名前を聞いてもレミリアは知らない連中だった。
今のレミリアの立場は、橙と同じく修行中の殺し屋見習いといったところだ。
「で、貴女はどうなの咲夜? 仮にも私の師になるくらいだからそれなりに立場は上なの?
あの三人のまとめ役もこなしているようだし」
「いえ、まあ確かに成り行きというか三人に比べて組織では古株ですし、一応は状況判断力が一番的確ってことでまとめ役にはなってますけど……。」
他の三人の我が強すぎるのでその手綱を握らされている、というのが実際のところらしい。
そこでふと気になった。
組織では古株で、一応とはいえ咲夜はまとめ役、つまりリーダーを任されている。
今の今まで幻想郷の咲夜がそうなので気に留めていなかったが、
「なんで貴女、敬語なの? それも、仮にも弟子になる私の前でまで」
自身の従者と同じ顔をした者が霊夢や魔理沙にまで敬語なのは気に入らないが、この世界での関係がそうであるのならまだ許せる。
だがこの世界での関係というのなら、レミリアと咲夜は主人と従者どころか弟子と師匠だ。
咲夜が急に砕けた口調を使って来たならそれはそれで気に入らないが、しかしやはりどこか引っ掛かるのだ。
目の前の咲夜は、完全で瀟洒な従者である幻想郷の咲夜とは根本的に何かが違う。
詰るのに近い口調でのレミリアの問いに、咲夜は困ったような、苦った笑いを浮かべる。
その笑みがまた何かを取り繕うようで気に食わない。
「敬語は子供の頃から組織にいるせいかその、習い性というか。
一応、他の三人とは対等に話してるつもりなんですが」
「それでも子供の私にまでそのへりくだったような態度はおかしいでしょう?」
「それはその、レミリアさんの迫力に押されてというか……。」
いくら迫力があろうと、咲夜から見れば自分は力のない子供のはずだ。
仮にも一流の暗殺者であるという咲夜がたじろぐほどの気品や迫力が残っているというのなら嬉しい事実だが、学校にいた一般人の連中すらレミリアを子供扱いしたのだ。そんな事実はないはずだ。
苛立ちが募り、レミリアは核心をつく。
「なんでここの貴女はそんなに自信がなさそうなのよ」
図星を突かれたのか咲夜の表情がまた苦る。
ああ別にこんな顔をさせたかったわけじゃないのにと、レミリアの苛立ちは更に募った。
気がつくと、幻想郷の十六夜咲夜を引き合いに出して眼前の彼女を詰っている。
高貴な吸血鬼である自身に仕えるに相応しく、誇り高き完全で瀟洒な従者。
人の身でありながら「時間を操る程度の能力」を持ち、紅魔館の一切を取り仕切る従者の長。
人間風情の侵入を二度も阻めなかったことは瑕疵ではあるが、彼女は自身の不甲斐なさを恥じ、自害すら申し出た。
だがそれは目の前の咲夜が持つような弱気から来た申し出ではない。
レミリア・スカーレットに仕える者としての誇り、彼女の矜持がそうさせたのだ。
それを汲み取ったからこそレミリアは彼女の自害を止めた。
仮に彼女が目の前の咲夜と同じような内面を持つのならレミリアは止めなかっただろう。
いや、そもそも紅魔館に身を置くことすら許さなかったはずだ。
レミリアは幻想郷に置いて十六夜咲夜を少なからず認めている。
だからこそ十五夜の次の夜と"昨夜"という言葉を合わせ、「満月」を意味する今の名を与えたのだ。
「貴女には、吸血鬼である私を最も輝かせる『満月』を名乗る資格なんてないわ!」
畳み掛けるように投げかけたレミリアの言葉に、咲夜はざっくりと傷ついた顔を見せる。
その顔にまた苛立つ。
そんな顔をさせてしまった自身に苛立つ。
同時に、なぜ自分が人間如きのためにこれほど苛立っているのかと、更に苛立ちは増す。
咲夜は顔を伏せ、一言も反駁しないまま、消え入りそうな声で呟いた。
「ごめんなさい」
貴女が折れて謝る道理がどこにある、と一喝しかけ、謝罪を引き出した張本人としての自覚が辛うじてそれを呑み込ませる。
現実問題、レミリアは今この気に入らない咲夜の庇護下にあるのだという事実もブレーキになった。
それでも謝罪に対し謝罪で応える気にはなれず、結局「もういいわ」と我ながら不遜な口調で呟いて拳銃を手に取った。
結局この日はレミリアの機嫌が直ることはなく、拳銃の基礎的な扱いを事務的に教わり、マガジン三本分を撃ち尽くしただけで帰路につくこととなった。
* * *
熱湯の雫を頭から受けていた咲夜は、髪についた泡などとっくに洗い流されていることに気づいて蛇口をひねり流水をせき止めた。
意識がどこかへ飛んでいたようだ。
シャワーの雑音が消えた途端、浴室には静寂が満ちる。
足下のタイルを打つ雫の音すらやけに鮮明に聞こえた。
湯船には流水を浴びることには心理的にどうしても抵抗があるというレミリアに配慮して湯が張ってあるが、なんとなく彼女が浸かった後のそれを使うことは気が引けて、そのまま脱衣所へ出る。
着替えて寝室に向かうと、セミダブルのベッドではすでにレミリアが穏やかな寝息を立てていた。
そっとベッドの傍らに腰掛けて寝顔を見ると、やはり見た目だけならただの西洋人の無垢な子供だ。
意識せず絹のようなその髪に手を伸ばしかけ、
「……咲、夜……。」
測ったようなタイミングで彼女の口から漏れた名前に制される。
十六夜咲夜。
子供の頃に辞書をひもときながらつけた自身の名前。
本名ではないが、そもそも本名など覚えていないし、本名があったかどうかすら定かではないので今はこれが彼女自身を指す唯一の記号だ。
意味は「満月」。
決して日の下では生きられない自らの人生を自嘲してつけた名前でもある。
しかし、レミリアが寝言で呟いたそれは自分のことではないのだろう。
幻想郷。
そこに暮らす自分は彼女の従者で、どうやら自分とは顔と名前が同じだけでまったくの別人らしい。
『貴女には、吸血鬼である私を最も輝かせる「満月」を名乗る資格なんてないわ!』
レミリアを最も輝かせる「満月」。
それが彼女にとっての十六夜咲夜だ。
対して自分はどうか。
誇りなどない。
自分を誇れるはずがない。
よく血の臭いは錆びた鉄のようだと比喩されるが、咲夜にとっては逆だった。
壊れた銃の錆びた鉄の部品。その臭いを血に似ていると思った。
最初に知ったのが血の臭いなのだから、それは当然の帰結だ。
人生で最初の記憶は、顔にかかった血の臭いと味、そして手にした刃物越しに伝わる柔らかいものを貫き抉った生々しい感触だった。
大人の男を正面から突き刺し、内臓をぐちゃぐちゃに引き裂いて、吐かれた血を浴びたのだ。
物心ついた頃、咲夜はアフリカの紛争地域にいた。
自身の出自はよくわからない。
肌の色からして東洋人の血が混じっていることはわかるし、虹彩の色が青みがかっているのでおそらくは西洋人との混血だろう。
その程度だ。
なにしろ両親の存在が最初からなかったどころか、物心ついてからの手並みを思い返すに、それ以前からすでに何人もの大人を斬殺していたのだから。
当時はまだ髪の色は黒かった。それはハッキリ覚えている。同時に、今のような灰色の髪になった契機も。
咲夜は一人だった。
内乱で荒れ放題の国に子供が一人。
よく人買いや無法者に捕まらなかったものだと自分でも感心する。
しかし子供が一人ということは、当然食べるものにまず困った。
おそらく最初の頃は露店の商品をくすねていたのだろうが、やがてそれは店主を殺して背負えるだけの量を後から詰めるという簡単な方法に流れた。
戦火に飛び込めば火事場泥棒など容易かったし、兵士の死体から食糧や武器をくすねることもできた。
飢えがあまりにひどい時など、死体を解体して焼いて食べたことすらある。
戦場を転々とし、正確な年齢はわからないが十歳くらいの頃には、咲夜は立派な殺人鬼に育っていた。
人を殺すことと自分が生きることは同義で、自然で、なにひとつ疑問を抱いたことはない。
その頃にはより弱い人間から搾取する方が簡単だということも理解していた。
必定、狙うのは戦場などという危険な場所ではなく、まだ平和な町の民家などに移ろっていった。
銃という武器は反動が大きくて扱いづらい上、音がうるさくて人目を集めやすい。しかも弾の持ち運びがかさ張って仕方がない。拳銃以外は持たず、得物はやはり刃物を好んだ。
細い針金を二本使ってピッキングの真似事くらいはできたので、深夜に民家に忍び込み、まず抵抗されると厄介なその家の主人を殺す。
隣にはたいてい夫人が寝ていることが多いので、悲鳴を上げられる前に喉笛を掻き切った。
子供がいれば全員まとめて大ぶりのブッシュナイフで首を抉り、一家を皆殺しにした後でゆっくりと食糧や金目のものを漁る。
たいてい強盗に入った後は町全体の防犯意識が高まり、どうしても容姿が目立つ咲夜は疑いの目を向けられた。
だから一晩で二、三軒も襲った後は夜明け前にまた別の町へ向かう。
そうしたことの繰り返しだった。
出会いはある比較的大きな町の、比較的裕福な屋敷でのことだった。
リスクは高いが、すでにある程度の自信をつけていた咲夜は腕試しのつもりで普段は避けるようなその家を狙った。
そろそろ研ぎ減らして強度が落ちたナイフを新調したいという経済的な欲求もあった。
見るからに軍人上がりの屈強な警備員の巡回の隙をつき、人目のない路地に面した屋敷の外壁からはみ出した樹の枝に近くの酒屋から持ち出した木箱を足がかりに跳び移り、侵入。
裕福とはいってもあくまでその地域でのレベルの話、先進国から見れば二束三文の給料で済む人件費はともかく、輸入品で高価な上に維持費もかかる防犯カメラなどは設置されていなかった。
物音も立てず樹の幹から滑り降り、軍用犬の鼻を誤魔化すため風下を選んで中庭を横切った。
屋敷の窓に軍人からせしめた応急処置キットの中の医療用テープを貼り、ナイフの柄で叩き割ればたいした物音もなく、後は空いた隙間から開錠するだけで屋敷への侵入も容易だった。
異変が起きたのは咲夜が慎重に屋敷内部を奥へと進んでいた時だ。
表門の方で爆音が轟いた。
想定外の事態に咲夜は混乱した。
見咎められて背後から銃声が響くというならまだ理解できるが、外からの爆音など意味がわからない。
加えて爆音は断続的に続き、堂々と表門から正面玄関、そして屋敷内部へとまるで巨大な怪物の足音のように響き続けていたのだ。
音からして手榴弾。手榴弾はあくまで対人用なので屋敷を吹き飛ばす威力こそないが、それでも爆音の度に屋敷が揺れる。
咄嗟に侵入経路を逆に辿っての脱出が得策と判断したが、運悪く屋敷内部の警備員が慌てた様子で駆けて来て進路を塞いだ。
軍人上がりの警備員なら当然銃器で武装している。
複数人相手に拳銃とナイフでは部が悪い。
警備員を避けるように移動を続けると、逃走経路から外れ爆音の方に近づいてしまった。
と、駆ける通路の先に武装もしていない小太りの男が見えた。
屋敷の主人かと咲夜が判断して駆け出すと、その男の身体が爆ぜた。
爆発物を武器にする敵に対し距離を取るのは逆効果。
そんな計算から身を低くしつつも駆けながら爆風と破片をやりすごすし目をこらすと、舞い上がった細かな瓦礫と煙の中から小さなシルエットが現れた。
煙が晴れて現れたのは咲夜より少し年下かという一人の少女。
金色の髪に紅い瞳を持った白い肌の、それが太陽のような顔で笑うフランとの初対面だった。
「ああ、そっか」
昔のことに思いを馳せて、ようやくそのことに思い至った。
傍らで眠るレミリアというこの少女と、フランはどこか似ていた。
髪の色こそ違うが、瞳の色は同じ紅。
フランは先天性色素欠乏症、アルビノだった。
レミリアも全体的に色素が薄い。
吸血鬼の特徴と言われて特に追及しなかったが、それは過去の記憶が無意識にフランの存在の連想を拒んだのかもしれない。
一度思い至ると様々なことに納得がいった。
自分がレミリアになぜか逆らえない理由。―― それは罪悪感の裏返し。
レミリアに対し不思議とこみあげる愛おしさ。―― それは失った過去への感傷。
咲夜の瞳に映るレミリアの儚さ。―― それは実際に、彼女が儚かった事実を刻まれているから。
そんな彼女を見て自分が抱いた感情の正体。―― それは……。
「……ッ」
認めることを咄嗟に拒んだ。
彼女はフランではない。
それはもう、自分が二度と抱いて良い感情ではない。
溢れかける感情をせき止める。
これ以上レミリアの寝顔を見ていると自分自身が壊れる気がした。
常に死線を潜り抜けてきた咲夜にとって、精神的な死は肉体の死への恐怖に勝る。
今の自分がどんな顔をしているのかすら知るのが怖く、目を伏せて鏡台の前を横切って寝室を後にする。
そうだ、昼間あんなに機嫌を損ねてしまったのだから朝目覚めて自分が傍にいたら不快だろう。
言い訳のように意識へ蓋をして、咲夜はリビングのソファに横たわる。
これから見る夢すらもどこか恐ろしく、寝つけたのは結局明け方近くになってからだった。
* * *
周囲は血の海だった。
昼間の日光に照らされ、いっそ鮮烈なほどの赤が輝いていた。
血の海のそこかしこに、原型を留めていない肉片が転がっている。
紅い虹彩の眼球が転がっている。
肉片も眼球も、血の海すらも、ぶすぶすと音を立てて煙を上げていた。
同じように煙を上げじりじりと焦げていく腕の中では、金色の髪をした女の子が泣いていた。
泣きながら、笑っていた。
「アハハ、姉さま。おかしいんだよ姉さま。
フランがね、ぎゅってしたらね、どかんって音が鳴ってね、お父さまとお母さまがね、バラバラになっちゃったの。
アハ、ハハハ、ハハハハハ、おかしいよね、ねえおかしいでしょ?
どうしたの姉さま、おかしくない? アハハ、フランね、お父さまもお母さまもね、大好きだったの。
お姉さまと同じくらい、本当に本当に大好きだったの。アハハハハハッ!
けどね、フランがね、フランがね、アハハハ、ハ、あ、あぁ、あぁぁぁあああああああああああああッ」
レミリアはそっと、しかし恐ろしい速度で妹の首筋を打った。
途端にくたりとその身体が弛緩し、重みが腕にのしかかる。
「この子を屋敷の中へ」
「は、はい。しかしお嬢様も早く――」
「二度は言わないわよ」
「っ、か、かしこまりました」
使用人が日傘を差してフランを屋敷へ連れて行くのを見届ける。
日陰に入ったおかげか、フランの焼け焦げた肌はみるみる元の白磁へと戻っていった。
自身の肉が焦げる音を聞き、臭いをかぎながら、レミリアはもう一度、内側から弾け飛んだ両親の遺骸へ目を向けた。
すでに血の海はなく、そこには燃え猛る炎があるだけだった。
これは、事故だ。
両親が幼い妹を連れて中庭の散歩の誘いにレミリアの自室を訪れたのはほんの半時間前。
読書中だったレミリアはもうすぐ読み終わるからと、先に三人を送り出した。
その間に起きた、これは事故。
フランの能力をこの目にするまで両親も自分も知らなかったがゆえの、ただの不幸な事故なのだ。
レミリアが日傘を差して中庭に出て、三人の姿を見つけた瞬間、それは起こった。
フランが自分の両の掌を不思議そうに見つめ、両親にそれを見せようと掲げ、しかし両親にも自分にもそこには何も見えず、両親の反応にうな垂れたフランが掌を閉じた瞬間、両親は肉片に変わった。
それでもこれは事故なのだ。
レミリアが日傘を投げ捨て駆け寄った時には、フランは大粒の涙をぼろぼろ零しながら壊れた人形のように笑い続けていた。
可哀想なフラン。可愛いフラン。愛しいフラン。
貴女は何も悪くない。
だってこれは事故なのだから。
フランは悪くないのだから、あんなに可愛くて愛しい妹を責める理由なんてどこにもない。
では、どうしよう。
この胸の奥で煮えたぎる感情はどこにぶつければいいのだろう。
ああ、そうだ。
思い至って、レミリアは青空を仰いだ。
燦々と照りつける太陽をきつく睨んだ。
お父さまとお母さまの葬儀すら邪魔するなんて、なんと無慈悲で非道なのだろう。
お前のせいだ。お前が悪い。
八つ当たりだと理解しつつも、我が物顔で空に浮かぶ灼熱を恨まないことには、この気持ちはどうにもならなかった。
レミリアは睨み続ける。
顔の皮膚が焦げ、眼球内の水分が沸騰し、四肢が炎に包まれ始めてもなお、激痛を忘却したように睨み続ける。
使用人の慌てた声が駆け寄り、意識が完全に途切れるまで、レミリアは憎悪をこめて睨み続けた。
それはもう、数百年前の出来事だった。
自覚は薄いものの、レミリアが人間嫌いになったのはそれ以来のことだ。
元々捕食者と被捕食という種族的な関係もあって人間を軽んじてはいたが、そもそも"嫌い"という感情は実は相手を対等か上に見ていなければ出てこないものだろう。
直截に言って、レミリアは人間を妬んでいるのだ。
太陽の光は吸血鬼にとってなんの比喩でもなく暴力的で破滅的で、そんな太陽の下を喜び、あまつさえその恩恵に預かって文明を維持しているという事実がまた恨めしい。
おそらくは難しかったと理解しつつも、あの"事故"の現場が太陽の下でなければ両親は吸血鬼の再生力で助かったかもしれない。
両親が助かって「気にすることはない」と慰めてくれたなら、フランの気がふれて地下に閉じ込めるような真似はしなくて済んだ。
多少気がふれていても、フランは両親の死が自分のせいで、だから罰として地下へ幽閉されることは当然だと認められる程度の思考力は保っている。保ってしまっている。不服ならそもそもその能力で地下室を破壊している。
「気にすることはない」「貴女は悪くない」「幽閉は私の力不足で貴女を制御しきれないのが悪いだけなの」
レミリアが何度言い聞かせても、"事故"の"被害者"ではない自身の言葉は自分でもわかるほどに空々しく、フランは力なく笑うだけだった。
もう二度とフランの無邪気な笑顔を見ることは叶わないのだ。
レミリアが大好きだったあの、太陽のような笑顔を。
これほどに焦がれている太陽を、しかし憎むことなしでは両親の死を処理できなかった。
焦がれているからこそ、太陽の光を謳歌する人間が妬ましい。
そんなレミリアの内面はきっとどこかが致命的にねじれている。
そして数百年の時を経てどこまでも固くねじれ曲がった糸は、自分ではもうほどくどころか直視することさえできなかった。
人間を妬んでいる自分。その理由を考えることが、認めることが恐ろしい。
だからこそレミリアは殊更に吸血鬼の種族的優位をひけらかし、どこまでも人間を見下す。
見下すほかに、己でも気づかぬほど頑なにねじれ曲がった内面を御する術をレミリアは知らない。
* * *
「で、私としてはなんでアンタたちがお互い意識し合ってる小学生みたいになってるか気になるわけだけど?」
ま。アンタはどうみても小学生だから相応だけどね。
毒舌を混ぜて霊夢がレミリアにそう尋ねたのは、彼女の登校三日目の昼休み。
例によって日の照りつける屋上である。
「べ、つに意識してなんかないわよ」
応えるレミリアの声は頑なで、それだけで自分の指摘は的を射ていると霊夢は確信できた。
そもそも子供扱いをやたらと嫌う彼女が小学生扱いではなくこちらに噛みついてくること自体がその証左だ。毒舌を混ぜたのもさりげないベイトだった。レミリアが確実なはずの餌に食いつかなかったことが霊夢の確信を裏づける。
図書室で借りた辞書を読み込んだ成果か、三日目にして彼女は日本の常識的な単語や概念について理解を深めている。小学生の意味がわからなかったなどという言い訳は通用しない。
辞書を借りたのは昨日のことで、「いちいち咲夜に訊くのもわずらわしいから」と付け加えた口調は言い訳であるのが透けて見えた。
「そうですね、そうしてもらえると私も助かります」と、咲夜の取り成しもフォローのつもりで実は墓穴だ。レミリアのことは面倒ではあっても迷惑とは思っていない。
暗殺業種の人間のくせにクラスメイトに押し切られて委員長など任されるのが咲夜の性格。
普段の彼女なら「気にしなくても良いんですよ」とレミリアを気遣う場面だったろう。
一晩で広辞苑を丸々一冊読みきり理解する知能と記憶力はたいしたものだが、人間関係の機微については霊夢に一日の長がある。
「まあいいけどね、私には関係ないし。で、咲夜は風邪だって?」
気になっていたことを確認できたのでそれ以上は深く踏み込まず、本日不在の一方の体調について話をシフトする。
昨日の二人の距離感は初日に比べて妙だった。近づいたようなむしろ遠ざかったような。
しかし仕事上の仲間ではあっても友人ではない咲夜の内面も、この吸血鬼様(未だに霊夢は半信半疑、正確には三信七疑といったところだが)の内面も、当然二人の間に何があったかなども霊夢の預かり知るところではない。
状況次第で精神面が戦局を大きく左右することも多い。咲夜に対する現場での処置を考え事務的に確認しただけのことだ。
命を預けることもある仲間でありながら友人ではないとは我ながら一般的な価値基準とかけ離れているなとは思うが、それが霊夢の他人との距離の取り方なのだから仕方ない。信用と信頼は別物だ。
「本人はそう言っていたし風邪気味みたいなのは本当だけど。ただ、顔色からして生理じゃないかしら。隠してたけど痛みもあるみたいだったし」
「へえ」
単に年齢の平均よりも早いだけか、それとも彼女の言う「幻想郷」の咲夜も人間らしいので知っているだけなのか(そもそも吸血鬼に月経があるのかどうかなど真面目に考える気にもなれない)は判断できないが、どちらにしてもそこに気づけるとはたいしたものだと内心で舌を巻く。
生理か風邪かなど見た目で判断するのは難しいものなのだが、「風邪」と釈明された上で顔色からそれを疑えるなら十分に敏い。咲夜が隠した痛みなど、霊夢でも疑いを持ってかからねば気づくのは難しい。
「あれ、レミリア来ちゃったのか? なら今夜は日本の伝統的にお赤飯だぜ」
まあ、小学生男子じみた下世話な思考回路を持つ馬鹿がいるこの場で「生理」と言葉も濁さず口に出してしまう辺り、社交性の稚拙さが垣間見えるが。
霊夢は小学生男子こと魔理沙にせいぜい侮蔑しきった顔を作って「違うわよ」と言い捨てる。
ちなみに美鈴はまたぞろ昼寝の真っ最中だ。魔理沙にさんざん遊ばれて、顔の落書きが年頃の乙女としては悲惨なものになっている。
「咲夜のこと」
「ん? アイツのってまだ先じゃなかったか?」
女所帯であることと職業柄もあってお互いの月経周期はだいたい把握している。
確かにいつもの周期なら咲夜のそれはまだ先のはずだ。
まあ、精神的なものが影響することもあるので一概には言えないが。
しかしこれまで咲夜が精神的な何かで周期を乱したことはないはずだ。
口では何と言いつつも子守り程度のストレスで体調に異変をきたすようなタマでもないだろう。
仮に目の前の自称吸血鬼が咲夜が体調に異変をきたすほどの精神的揺さぶりをかける原因とするならやはりもう少し踏み込んでおくべきかと逡巡し、結局はやめておく。
子供のわがまま程度で咲夜が体調を崩すはずもないし、だとすれば踏み込む範囲は咲夜の過去とかそういう次元になってくる。そこまで踏み込む権利は自分にはないし、立場を置き換え仮に自分が踏み込まれたとしたら霊夢は拒絶する。他人にされて嫌なことは自分もしない、程度の良識は仲間の間でくらいなら働かせてやるのが人情としたものだろう。
「しっかし咲夜が周期乱すなんて初めてだぜ。
なんだレミリア、咲夜の弱味でも握ったのか? だったら教えてくれ」
……本物の小学生男子にその程度の良識を期待しても、この馬鹿よりは応えてくれるんじゃなかろうか。
辟易しつつ、魔理沙の頭を割と容赦なく殴りつけてやる。肘で。
「ってぇー! おま、流石に後頭部はひどくね!?」
「ああごめん、それ以上脳細胞減ったらいよいよ仕事の邪魔になるもんね。次からは生爪にする」
「怖ッ! 真顔な上に生爪くらい幾らでも剥いだ経験ありそうだから余計に怖ッ!」
「いや、再起不能にした方がむしろこっちの仕事が楽になるか……?」
「やめろー! 真剣な顔で再起不能か生爪かを吟味すんなー!」
涙目で振り返った魔理沙を適当にあしらっていると、魔理沙の肩越しにレミリアと視線が合う。
レミリアは見ようによっては会釈に見えなくもないような角度で浅く顎を引いた。
どうやら彼女としてもあまり深く踏み込んで欲しくない話題だったらしい。
高飛車なだけかと思ったけど礼儀は知ってんのね、と霊夢は意地悪く思う。美鈴が学校では使い物にならない、魔理沙に至っては論外ということで咲夜の代わりに今日の彼女の面倒は自分が見る羽目になった八つ当たり気味の感想だ。仕事中の負傷等で咲夜が出席できない事態は当初から想定されていた。レミリアの表向きの紹介は留学生、幅広く日本の学生と付き合ってもらうために咲夜とは幼馴染という設定を持つ霊夢が面倒を見ることもあるという事情も含んでいたので覚悟はしていたが、理事に組織が絡んでいるこの高校はこうした時に便利というか厄介というか。
まあ、表情から不本意さを隠し切れてない辺りは逆に子供らしい可愛げがあってよしとして八つ当たりは口には出さない。
代わりに軽く片目をつぶって気にするなと応じてやる。
レミリアはもう一度、さっきよりもう少しだけ深い角度で顎を引いた。
* * *
突如現れた金髪の少女は、にこりと笑うと無造作に手の中に握っていたものを咲夜へ放った。
手榴弾が二つ。パイナップル状のそれは闇市場や戦場に出向けばいくらでも手に入る。
ほとんど反射的な判断でナイフを捨て、廊下を少女に向けて駆けながら放られたそれらを中空で掴んだ。
掴んだというよりは空中で触れて投擲速度を加速させたという方が正確かもしれない。
背後に飛んだ榴弾が炸裂し、爆風で飛来した破片が背中に刺さる。
手榴弾はあくまで対人用、爆発の威力は直近で受けなければ致命には至らない。
むしろ爆発より破片の殺傷力の方が高いくらいだ。
背中には戦利品を入れるための厚い布地の背嚢を背負っていたのでその破片の威力も半減できた。すぐ取り出せる外側のポケットに予備のナイフが入っていたことも功を奏したと言える。
もちろん瞬時にそこまで計算したわけではなく、単に戦場で培った経験が為せる判断だった。
一瞬呆気に取られていた少女が引きずっていた布袋から新たに手榴弾を取り出そうとするが、元々距離を詰めるつもりで廊下を駆けていた咲夜の方が速い。
榴弾を掴み出した手とピンを抜こうと伸びた手を、両方手首をねじ上げて封じる。
その姿勢のまま足を払って床に押し倒す。マウントを取り、しかし両手は自分も塞がっているので頚動脈でも喰い千切るかと首筋に顔をよせた咲夜の動きを、少女の声が急停止させた。
「すごい! すごいすごいすごい!」
「え、ちょっとアンタ――」
「お姉さん名前は!? わたしはフラン。すごい、こんなすごい人はじめて見た!」
命乞いの時間稼ぎでもなんでもなく、純粋に驚きを嬉々として声に出す少女に流石の咲夜も呆気に取られた。
「死ぬ前に教えてよー! なーまーえ! ねえ、せめて名前!」
どうやら咲夜が完全に殺す気でいたことにも気づいている。
だというのにこの嬉しそうな表情は何だ。
困惑しつつも、屋敷の主人を殺したということはこの少女は直接咲夜と対立する立場にはないことに考えが至る。
「……ないわよ。名前なんて」
念のため手榴弾と彼女が引きずっていた布袋を奪ってから、ぶっきらぼうに答えつつ解放してやる。
盗品の売り渡しの際など必要に応じて偽名などは使い分けていたが、少女が求めているような名前をこの時点での咲夜は持っていない。
フランは露骨にがっかりした顔を見せたが、「それじゃあ」とまた表情を太陽のように輝かせる。
ころころと表情のよく変わる子だ。当時の咲夜は彼女の笑顔にその程度の感想しか持たなかった。
「なんでお姉さんわたしのこと見逃してくれるの?」
「別に。私はこの屋敷の住人じゃないし、単に盗みに入っただけだもん」
「あ、じゃあわたしと一緒だ。わたしもこのお家に色々もらいに来たの」
仲間を見つけたといわんばかり更に表情を輝かせる。
玄関先から手榴弾で問答無用に障害物も人も吹き飛ばしておいて「もらいに来た」とは随分と穏当に言い換えたものだ。
「色々」の中に人間の命も含まれているのだが、はたしてこの能天気な子供がそんなことに理解が及んでいるかどうか。
咲夜は当時から子供にしては長身だったので、自然と外見も中身も幼い彼女を自分より年下に見ていた。
いま思えばそれほど年齢に差はなかったのだろうが、そもそも比較対象になる子供にまともに出会ったのもフランが初めてだ。
と、廊下から複数の大人の足音が近づいて来ていた。
咲夜は表情を引き締め、フランに布袋を返した。
フランはそれを手に取っていいものかどうか迷うような素振りを見せたが、
「この騒ぎじゃたぶん警察も来てる。私一人じゃ苦しい」
皆まで言わせるなという苛立ち混じりの声を聞くとまた表情を輝かせ、布袋を受け取った。
慣れた手つきで手榴弾を両手に掴み、口でピンを抜いて安全レバーだけ握り締めている。器用にも片手には布袋の端も保持されていた。
咲夜も背嚢から破片のダメージを受けていない予備のナイフを抜き、先行する形で足音の方向へ駆け出した。
その夜以来、やたらと懐いてくるフランを振り切りきれず、なし崩し的に仕事を共にするようになった。
フランが手榴弾で敵を陽動し、その隙に咲夜が家人を襲うという方法は存外に効率的で、狙える家もかなりグレードが上がっていった。
外見や精神面はともかく、それまで一人で咲夜と似たような生活を送っていたフランの殺しの腕に稚拙さは一切ない。
手榴弾を敵が投げ返す余裕のないタイミングで的確に投擲する腕もさることながら、爆発物全体の取り扱い自体に慣れているようだった。
「どうしてアンタ、そんなに爆薬の扱いに慣れてるの?」
不意に以前から気になっていた疑問が口をついて出たのは、フランがダミーの手榴弾で敵を怯ませ、その隙に咲夜が全員斬り伏せるというコンビネーションも板についてきた頃だった。
その日のねぐらに選んだ投棄されたトラックの中。
珍しいものが手に入ったとC4プラスチック爆薬の雷管を夢中でいじっていたフランは、その質問で視線を宙に向けて昔を思い出す仕草を見せた。
話によるとフランも孤児で、物心ついた頃には武装ゲリラに養われていたらしい。
ゲリラは他国の傀儡となっている政府への反逆を企てる、たいそうなお題目を声高に掲げて実態はただの山賊と変わらない集団とは一線を画す組織だった。
戦火に巻き込まれて孤児となった明らかに人種の異なるフランやその姉を保護し、特に暴行も受けていなかったというからには、そこそこ誇り高い人間が集団を纏めていたと見える。
玩具といえば壊れた銃器や兵器の類。
銃の単純な構造にはすぐに飽きてしまい、フランの興味は薬品の調合、分量の調整や雷管の構造などが複雑怪奇で面白い爆薬の方へ自然と流れていったのだという。
生来の天才か、戦火に巻き込まれていたというからにはフランの親が他国の軍事関係者でその下地ができていたのか。
どちらにせよ武装ゲリラがフランと、彼女同様射撃について目を見張る才能を見せていた姉へ向ける目は保護すべき子供から、前線で役立てるべき逸材に変わっていった。
それを不幸と取るか幸運と取るかは微妙なところだ。
そのゲリラは最終的に姉を含めて政府軍の手で鎮圧、要するに虐殺され、フランを残して全滅した。
幼い二人は最後まで仲間の手によって逃がすために動かされ、しかし最期は姉がフランの盾となる形で彼女は一人になった。
フランや彼女の姉に軍事的な才能がなければ前線に出てそんな最期を迎えることはなかったとも言えるし、逆に才能なしでは幼い子供二人は庇護者をなくして野垂れ死んでいたことだろう。
「どうして泣いてるの?」
「え……?」
フランに指摘されて初めて、咲夜は自分の視界が滲んでいることに気がついた。
頬に触れたフランの指先が雫を拭う。
自分でも戸惑った。
飢餓や怪我の苦痛で涙をこぼしたことはあっても、他人の境遇に涙する自分が自分でも理解できなかった。
理解できないながらも、気づくと力一杯フランを抱きしめていた。
代わりに自分のこれまでのことを話すと、フランもやはり泣きながら咲夜の背中に華奢な腕を回した。
――この子を守りたい。
それは咲夜が生まれて初めて抱く、生存本能以外の感情だった。
その夜はお互いに泣きはらし、身を寄せ合って同じ毛布の中で眠った。
*
目が覚めて枕もとの目覚まし時計を見ると、もう正午を過ぎていた。
薬のおかげか、頭痛や腹痛はほとんどない。
起き上がるとしかし、まだ腰の辺りに鈍い痛みがわだかまっている。
初日から二日目にかけては特にきつい。
風邪がなければ登校くらいは可能だが、それでも毎月この二日間ほどは紫に休みを貰っている。
日本にいなければ初潮を迎えた段階で死ぬことになっていたかもしれないなと、直前に見ていた夢のせいか自嘲的に考えた。
夢で見た太陽のような笑顔を思い出す。
フラン。
名前があるのは、姉が覚えていてくれたおかげだと言っていた。
呼び合うときに不便なので、フランは咲夜のことを「レミィ」と呼んだ。
彼女の姉の名前だったらしく、それはつまり姉と同格に懐かれているということなので面映い想いもしたが、いま思えば正式には「レミリア」なのではないかと考えが及ぶ。
レミリアはこの世界で出会う人々がことごとく「幻想郷」の住人と同じ名前と顔を持っていると言った。
「幻想郷」がSF小説で言うところのパラレルワールドであるのなら、この世界にかつてレミリア自身が存在していたとしても不思議はない。
それを考えると罪悪感がますます重くなった。
この世界のレミリアが命を賭して守り抜いた存在を、自分は――。
またぞろ考えがネガティブな方向へループしかけた時、枕もとに置いてあった携帯が着信を告げた。
デフォルト設定のままの味気ない着信音は電話のそれだ。
表示を見ると「博麗霊夢」。
学校で何かあったかと怪訝に思いながら通話ボタンを押すと、相手はしばらく無言だった。
色々と不穏な可能性を危惧し、警戒しつつもこちらから声を出す。
「もしもし」
『あ……咲夜?』
その声で、一瞬息が詰まる。
一昨日からお互いぎこちないのに、今まさに彼女のことを考えていたところとなれば尚更だ。
「はい、レミリアさん。学校でなにかありましたか?」
なんとか取り繕って平静な声を出すが、うまく取り繕えているかは我ながら微妙なところだった。
レミリアは逡巡するような間を残してから、振り絞るように言った。
『体調は大丈夫? あとその、何か欲しいものとかない?
帰りに買って帰るから。あ、えっと、お金は霊夢が貸してくれるって言うし。
この携帯電話? だっけ、これも霊夢に借りたんだけど、その』
「いえ、特には大丈夫ですが……。」
『そ、そっか。なら良いんだけど。あの、』
電話の向こうからはぎゃーぎゃー喚く魔理沙らしき声が遠ざかっていくのが聞こえる。
どうやら霊夢と美鈴の羽交い締めで野次馬を阻止されているらしい。
この電話もおそらくは霊夢からかけさせたのだろう。
頑なな線引きをしつつも意外と仲間想いの彼女らしい。
『えっと、体調乱れたのってやっぱり私のせいだろうし。
だからその、それだと寝覚めが悪いって言うか……。』
風邪ではなく体調の乱れ、と言葉を選んだのは、おそらく体調不良の原因が風邪だけではないと見抜かれている。
意外と目敏いなと苦笑しつつ、自然に口元がほころんだ。
レミリアなりに責任を感じてくれているのだろう。
「ああそうだ。それじゃあ、ケーキかなにか買って来てもらえますか?
ちょっと甘いものが食べたい気分なので。二つほど」
『わかった、任せて! それじゃ、ええと、霊夢! これってどうやって切るの?』
沈んだ口調が花が咲くように一転した。
風邪は二日続けてリビングで寝た自分の体調管理の甘さのせいだが、周期の乱れは責任はともかく確かに彼女の来訪の影響なのが事実だ。
それを感じ取って彼女が落ち込んでいるのならここは甘えておくのが得策としたものだろう。
二つ頼んだのはもちろんレミリアの分だ。
魔理沙を美鈴に任せたのか、霊夢が駆け寄ってきてレミリアから電話を取り上げるのが気配でわかる。
『咲夜? アンタ勘弁してよね。この高飛車お嬢様の面倒まともに見れるのなんてアンタくらいなんだから。
ま、二日くらいは我慢してやるわ。訓練も射撃ならあんたよりがっつりスパルタで鍛えてやれるし』
「ええ、ごめんなさい。お願いしますね。それと……ありがとう」
率直に滑り出た謝罪の言葉だったが、霊夢は一瞬戸惑うような気配を見せた。
すぐに取り直したのか、続く呆れたような声はいつも通りの憎まれ口だ。
『お礼なら言葉より現ナマで頼むわよ。
あ、立て替えたお金も当然利子付きで取り立てるからそのつもりで。それじゃね』
一方的に告げて通話は切れた。
後半が声を潜めての発言だったのはレミリアに配慮したものらしい。
素直でないことにかけてはレミリアも大概だが、霊夢のそれも筋金入りだ。
苦笑しつつ電話を置いて、寝溜めのつもりでもう一眠りしようと布団に潜る。
電話の直前まで気分は沈み、自身へ向けてささくれていたはずなのに、不思議と次の眠りに落ちるまでは早かった。
* * *
「……アンタ、ほんとに例の若い殺し屋じゃないんでしょうね?」
感嘆したような声で呟いたのは霊夢だ。
視線の20m先にはターゲットの中心に重なり合うような穴の空いた紙がある。
「失礼ね。慣れるの結構苦労したんだから。グリップが太くて握りづらいし。
それに、特に標的が動くわけでもないんだからこれくらい当然じゃないの?」
「つったって、初めて銃に触って三日も経たずにこれは……。」
ただごとじゃないわ、と霊夢は呟いた。
一昨日、昨日に引き続いての射撃訓練の最中だった。
その前の近接戦闘の訓練でも昨日咲夜に教わった、それほど力の要らない関節技や投げ技を使うと霊夢は感心していたが、彼女の専門だけに射撃に関してはその度合いも大きいらしい。
射撃というのは要するに派手さも華麗さも無視し、ただ道具を使って標的に弾を当てることに特化した「弾幕ごっこ」のようなものだ。
特に拳銃は連続で弾を放つわけでもなし、反動をうまく抑えるコツさえ掴めばたいしたことではないと思うのだが。
「まあいいわ。次」
メニューはその後、サブマシンガン、アサルトライフルと続いた。
サブマシンガンは精度に定評のあるMP5シリーズの中でも特に小型のH&K・MP5K-PDW。
アサルトライフルではM16の短銃身モデルであるM4A2カービンをそれぞれ用いた。
背が十分に届いていないので木箱に乗って標的狙わなければならないのは少し格好がつかないが、どちらもニキロそこそこの重さなのでレミリアでもなんとか扱えた。
MP5はグロックと同じ拳銃弾である9mmパラベラムを使うので反動の制御も容易だが、M4はライフル弾なので流石に難しい。
それでも扱うのが二日目ということもあり、膝を曲げて全身で反動を制御するコツを掴んでからは持て余すほどではない。
「スピア・ザ・グングニル」などは威力の分、吸血鬼にとっても大きな反動があるのでそれを思えばまだ楽なほどだった。
フルオートで短連射を繰り返したが、これもほとんどターゲットの中心近くに着弾を集中させることができた。
それを見て霊夢が絶句している。
どうやら人間の子供としては破格の成績らしいことは流石にわかる。
そういえば昨日、似たように絶句した咲夜に永琳のところで視力検査とやらを受けさせられたが、そこでも二人はやはり絶句していた。
吸血鬼としてはおそろしく視力が下がっているつもりなのだが、それでも人間にとってはありえなくはないが滅多にないレベル、程度にはこの世界の常識も配慮してくれたのか。
「ちょっと武道場で待ってて」
「? いいけど」
しばらく思案げにしていた霊夢は例の「携帯電話」を取り出し、地上へと出て行った。
待つ間が手持ちぶさたなので、言われた通り畳の敷かれた武道場で昨日咲夜に教わった動きを相手を思い浮かべながら繰り返す。
服装は昨日「ユニクロ」という店で買ったTシャツと短パンなので汗を流す分には問題ない。
そういえば流石に打撃は弱いと言われていたか。
思い出してオープンフィンガーグローブをつけ天井から吊るされたサンドバッグを頭の中で人間に置き換え、教えられた急所になる部分へ的確に打撃を叩き込む。
汗でシャツが湿り始めた頃になって霊夢が戻ってきた。
「これから出るわよ。服はとりあえず制服でいいわ。サイズは橙ので間に合うだろうし」
発言の意味はよくわからなかったが、とりあえずレミリアは急かされるまま制服に着替え直した。
*
サイズというのは防弾ベストや服のことだったらしい。
制服から手渡された黒いシャツにベルト付の長ズボンに着替え、訓練場から持参したスニーカーをはいた。
その上から防弾ベストを身につけタクティカルベストを羽織り、ベストのポーチにはペイント弾の詰まった予備マガジン、刃がゴムになっているナイフを入れた。
ベルトに提げたヒップホルスターにはグロックを挿し、肩からはスリングでMP5を吊っている。
目元はゴーグルで覆い、手には革製の、指が露出した手袋。
広い空間の向かいには同じ装備の橙がやや困惑気味に佇んでいる。
コンクリートで構成された空間は学校の体育館ほどの広さがあり、そこかしこに自動車やトラックといった障害物が無作為に配置されていた。
霊夢に連れられ「電車」なる乗り物を乗り継いでやって来たのは、また別の建物だった。
表向きは永琳の勤める病院らしいが、隠し通路を通って辿り着いたのはやはり地下だ。
『それじゃ、ルールの確認ね。胴体や脚に被弾した場合は十秒間、身を伏せる以外の行動は禁止。
脚に被弾した場合はプラスして上半身のバネで転がる、伏射姿勢での射撃はありだけど。
腕に被弾した場合はその腕は使用不可。頚部や頭部への被弾、ナイフで心臓や動脈抉られたら死亡。ゲームセットよ。
ちなみに巧く肋骨の隙間へナイフを突き立てられたかどうかはこっちで判断するからそのつもりで。
車は一般的なやつだから側面に隠れるのは反則、ただし相手の視界から消えるために一時的に隠れるなら可。
車両をバリケードとして使って良いのはフロントやバック、つまり相手の射線に対して縦に使う場合のみ』
天井から降る紫の声が先ほどの説明を繰り返す。
要するにこれは実戦を想定した訓練らしい。この世界なりの弾幕「ごっこ」というわけだ。
胴体に被弾した場合の十秒間の行動規制は、防弾ベストがあっても二人がつけている軽量な部類のものでは9mmパラベラムで撃たれると貫通はなくとも衝撃で肋骨や内臓にダメージがあるため。
逆に防弾ベストがあるのに心臓を抉られた場合に死亡扱いなのは、防弾ベストのケブラー繊維は細い刃物による刺突は防げないため。
車の側面に隠れるのを禁止するのは、拳銃弾でも扉や窓程度は簡単に貫通してしまうためだと咲夜から説明された。
この場にはいないが、別室には初日に会った全員が揃っている。
その中にはなぜか朝よりも青ざめた顔色をした咲夜の姿もあった。
広い空間のあちこちに備えつけられた「監視カメラ」とやらでここの様子は別室から確認できるようだ。
『じゃあいくわよ。始めッ!』
紫の合図と同時に橙の気配が尖るのがわかった。
同時に弾幕が放たれる時によく似た殺気。
察知するのと初動は同時だ。
レミリアは一番近くにあったトラックの後ろに駆け込み、自分もMP5のセイフティを解除する。
発砲音と同時に今までレミリアが立っていた床がペイントで汚れる。
霊夢にアドバイスされた通り、発砲音から相手が何発撃ったか把握しておく。
フルオートの射撃なので聞き分けづらくはあるが、今ので五発。
橙の装備はレミリアと同じだ。(正確にはレミリアと体格がほぼ同じ橙を基準に自分の装備が決められたらしいが)
お互い得物はMP5とグロック26、そして片刃の軍用ナイフ。
予備マガジンはそれぞれ一本ずつ。
マガジンの装弾数はMP5が十五、グロックが十発。
初弾は装填した状態で装備しているのでプラス各一発、合計で五十二発の9mmパラベラム弾を支給されている想定だ。
橙の残弾数は四十七発という計算になる。
得物で分けるなら橙のMP5の残弾はマガジンと薬室内のものを含めて十一発だ。
一瞬でそこまで計算しつつ、レミリアもトラックの陰から短連射で合計七発撃ち返した。
移動標的であることと十分に反動を抑制できる体勢が維持できないことから流石に命中はしない。
橙が車両を縦にバリケードとしたのを確認してから足音を忍ばせトラックの側面を走り抜ける。
うまく気づかれなかったようで、車の陰からレミリアの先ほどの位置を覗っていた橙に奇襲気味に三発。
視線が違う場所を向いていたとはいえまだ距離は30mほど離れている。
視界の端にレミリアが現れたのを察知してか別の車両の陰へ駆けてかわされた。
この距離では当てるのは難しいと判断してあえて追撃せず、逆に自分も別の車両へ向かって走り橙に撃たせる。
レミリアを素人と侮ったか弾切れまで撃ち尽くしてくれたが、橙も走っていたことと、緩急交えた走り方のおかげで被弾はない。
橙がマガジンを交換している隙にと車両の死角にうまく隠れて距離を詰める。しかし途中で見つかり車両の陰に隠れる。
車両を縦に利用しても背中越しに着弾の衝撃が轟いた。威嚇のつもりかこれは一発。
これで彼我の距離は直線で15mほどか。
いくら霊夢が絶句するほどとは言ってもそれはあくまで習熟にかかった期間の話。未熟な自分の腕では確実性に欠けるが、一応は移動標的に対する拳銃の有効射程圏内だ。
橙は三十五、自分が――これで三十八。
威嚇気味に四発撃ちながら残弾を数えることも忘れない。
橙が撃ち返して来る不自然にならないタイミングでバリケードに引っ込む。
そして素早くマグチェンジ。
薬室に一発、マガジンにも一発残っているが換えられる隙に換えておけというのもやはり霊夢のアドバイスだ。
特に相手が得物に十四発、自分は二発という状況ではそれが最善だということは実践しつつ実感できた。
そしてこれは経験値で遥かに橙を下回るレミリアが弄した策のひとつ。
手探りでマグチェンジを行いながら橙がこちらを見ている気配がないことを確認し、マグチェンジのかたわらグロックで一発適当に撃つ。
MP5もグロックも同じ弾薬なので発砲音から気づかれる心配はない。
そしてそこに勝機がある。
レミリアが次に身を乗り出すと、橙は一気に勝負を決めるつもりかバリケードから駆け出して来ていた。
応じるように踊り出て短く連射すると橙の表情が驚愕に染まっている。
グロックで誤魔化したおかげでマグチェンジに気づかなかったのだろう。
こちらの得物の残弾が残り二発であることを見越しての突撃だろうが、その正確な判断力と行動力がこの場合は仇になった。
お互いの距離はもう10mまで詰まっている。
しばらくはバリケードもない正面切っての撃ち合いが続く。
策にはまってくれたとはいえ流石に地力が違う。
橙は自分と同じ人間の子供とは思えない俊敏さで動き、的が小さいこともあってレミリアでは当てられない。
レミリアにあるのはこの世界の人間から見れば突出した才能、自分の過去を俯瞰すれば五百年以上を経て築き上げた吸血鬼としての戦闘経験とこの世界とは根本からルールの異なる「決闘」における駆け引き能力だけだ。
残弾では優位にあったはずが気づくとMP5の弾切れは同時。
お互いにグロックを抜いて拳銃での撃ち合いに移行する。
だが今の撃ち合いでこの世界の「弾幕ごっこ」における駆け引きのコツは完全に掴めた。
要は狩りと同じだ。
吸血鬼であるレミリアにとっての狩りの獲物は人間。
そして人間をより優雅に狩るコツは獲物の思考を先んじて読むことにある。
撃った先の相手の回避移動地点を予測し、タイミングを合わせてそこを撃つ。
とはいえ流石に組織内最強と言われる殺し屋の弟子だけあって橙もぬるくはなかった。
同様のコツは彼女の反射神経に刻み込まれているらしく、レミリアも回避に思考を割かねばならない。
狩る側であると同時に狩られる側でもあるという状況は同族の相手以外では経験がない。
結果、先の撃ち合いから比べれば残弾が一発少なかったレミリアがわずかに上を行った証ではあるが、拳銃がホールドオープン、予備マガジンを含め残弾が尽きたことを知らせる状態になったのはまたも同時だった。
経験値と身体能力ではやはり訓練を重ねた橙に分がある。
一瞬で間合いを詰められ、橙の斬撃をグロックの銃身でさばきつつ咄嗟にナイフを抜いたが劣勢を強いられた。
どこか焦燥感のある橙の表情を見れば三日前までただの素人だった自分が劣勢とはいえ彼女の攻勢を凌いでいること自体がありえないことなのだろうが、レミリアとしてはむしろ十年そこそこしか生きていない小娘に負けることの方が屈辱だ。
彼女の焦りだろう、一瞬生まれた隙をレミリアは見逃さなかった。
ナイフを振りぬいた懐がガラ空きになった。
斬り返しが来る前に全力で踏み出し、橙の胸に肩から全体重をこめたタックルを決める。
これは幻想郷で戯れに美鈴から習った技だ。確か「テツザンコウ」といったか。
攻撃直後、それも重心の崩れた間隙を突かれて流石の橙も後方へ吹き飛んだ。
が、吹き飛びつつも地面を転がって5mは距離を取り、レミリアに追撃は許さなかった。
慣れない大技を放った後だけあって、レミリアにもその余裕はない。
橙が立てばそこから仕切り直し。もはやスタミナが限界のレミリアに勝機はない――誰もがそう思う局面だろう、本来なら。
「私の勝ちね」
「え?」
勝利宣言しつつ、素早く右手に握ったままのグロックのマガジンキャッチを押し、ナイフを捨てた左手は、ポーチに残してあったMP5のマガジンから最後の一発を抜き出す。
これこそレミリアが弄していた策のもうひとつ。
見咎めた橙が血相を変えて立ち上がり距離を詰めようとするが遅い。
グロックのマガジンにその一発を装填、グリップに挿し込みスライドストップを解除。これで初弾装填。
この一瞬で2mまで距離を詰めている橙は敬意を表すに相応しいが、状況的にその行動はむしろ無謀だ。
レミリアは情け容赦なく獲物の鼻先に銃口を突きつけ、引き金を絞った。
*
「いや、才能あるわとは思ってたけどまさか橙に勝つなんてねー」
「すげえじゃんレミリア。わたしだってお前くらいの年の頃はあんなにはできなかったぜ」
「ほんとすごいですよ。……すごすぎて、若干私の立場がないくらい」
「大丈夫よ美鈴」
「そうだぜ美鈴、気にすんな」
「れ、霊夢さん、魔理沙さん……!」
「「アンタ(お前)の立場なんて最初からないから」」
ひどい……!と美鈴が泣き崩れているのは、無数のモニターとかいう、写真の映った板が並んだ件の別室である。
実際に映っている先ほどの空間は写真ではなく映像というらしいが。
辞書の通りなら幻想郷にも最近流れ着いているTVの薄型みたいなもののようだ。
レミリアは高校生組の三人囲まれ、やたらと持ち上げられている。
この面子に手放しで賞賛されるというのは面映いが、悪い気はしなかった。
悪い気はしないので、柄にもなく美鈴にフォローを入れてやる。
「最後に私が使った『テツザンコウ』?
あれは幻想郷の貴女に習ったものだから、半分くらい貴女のおかげよ」
「ほんとですか!? じゃあ幻想郷の私も八極拳士なんですね!」
「ま。あくまで幻想郷の貴女だから、貴女自身の手柄じゃないけど」
すぐさま元気を取り戻す単純さが鬱陶しかったので、持ち上げておいてやっぱり突き落としておく。
再び消沈した美鈴は放っておいて室内を見回してみた。
部屋の端では「すみませんすみません」と落ち込んだ様子の橙を、目元以外真っ赤に顔面を染めた塗料を拭ってやりつつ藍が慰めている。
「あれは確かに人外」「私がお前の頃だってあれほどの化け物じゃなかった」と盛れ聞こえてくる言葉は悪気なく失礼な気もするが、本来のレミリアが人外の化け物なのは事実なので黙殺してやる。
また別角では咲夜を含めた他の面子が紫を中心になにやら話し込んでいるようだが、
「反対ですッ!」
思いがけず響いた咲夜の大声で室内の全員の注意がそちらに向いた。
咲夜は周囲の注目など目に入らない様子で、初日とは比べ物にならない勢いで紫に向けて何かを訴えている。
「まだ子供なんですよ!?」
「そんなものが逸材を弾く理由にならないのは貴女もよく知っているでしょう。
彼女にはすでに単身の仕事を経験したことのある橙を負かす実力があることもたったいま証明された。
事業が拡大するにつれて人手不足は深刻化してるからね、即戦力は願ったり叶ったりよ」
「橙に勝てたのは橙の油断や彼女の才能が左右した部分も多いはずです!
実際、体力的には明らかに劣勢を強いられていたじゃないですか!」
「……言葉がすぎるぞ、咲夜」
「藍さんは黙っていて下さい!」
弟子を慰めている最中に彼女を責める要素を含んだ発言。
社長に逆らっているからという事情以上に黙っていられなかったらしい藍をすら黙らせる凄絶さで咲夜は怒鳴った。
邪魔をするなら今にでもナイフを抜きかねない勢いだ。
流石に他の面子もその剣幕にはたじろぐしかない。
涼しい顔をしているのはその剣幕で迫られている紫だけだ。
「貴女の言うことにも一理あるわ。
確かに橙は油断していたし、才覚はともかく体力面においてはまだ実戦に不安がないレベルとは言えない」
「だったら……ッ!」
「けど橙の油断を予想した上で彼女が攻撃を組み立てていたのは明白。
その機転や判断力はそうそう誰もが持っているものじゃない。
実戦を経験すればそれに更に磨きがかかるでしょうね。
体力面についても訓練で補えば一ヶ月もあれば、橙と同等とまではいかなくとも、
少なくとも現場の即戦力になるレベルには仕上がるでしょう?」
「けど、それでも……!」
「いい加減にしてくれないかしら咲夜?
私にも我慢の限界ってものがあってね。
結論が覆らないのは貴女にもわかっているでしょう?
はっきりと言わせてもらえば、彼女は将来性を含んだ長期的観点から見てこの場の誰よりも期待が持てる逸材よ。
どの程度の期待かといえば、人手不足を甘んじても貴女の方を切り捨てたって良いくらい」
「……ッ」
「貴女の気持ちはわかるけどね。
私が公私混同を許すような経営者かどうか、貴女なら知っているわよね?」
「……なら、せめて、せめて彼女がプロと呼べるレベルになるまでは私に彼女を任せてください。
公私混同はしません。彼女が藍さん以上の人材になれる下地を私が全力で作ります」
苦渋に満ちた表情で搾り出した咲夜の声は震えていて、なぜだかレミリアの方が胸を締めつけられる想いだった。
紫は子供のわがままに対するような溜息をひとつ吐き、頷いた。
「いいでしょう。ただし三ヶ月以内よ。
それまでに彼女が実戦で使えるレベルになっていなかったら、
……そうね、射撃のセンスから言って霊夢に任せようかしら。
霊夢はすぐに彼女の可能性に気づけていたようだし」
言外に、昨日の時点でレミリアの可能性に気づきながら報告をしなかった咲夜への皮肉を混ぜている。
咲夜はしかし幻想郷の彼女を含めても見たことがないような頑なな表情で一礼し、無言で歩み寄ってきてレミリアの手を掴んだ。
誰にも何も言わず、そのままレミリアを引きずるように退室する。
その瞬間だ。
ぞくりと背後で殺気にも似た視線を感じた。
咄嗟に肩越しに振り返るが、すでに消え失せたそれは誰が放ったものなのか判断できない。
咲夜に引かれるまま通路を歩きつつも、レミリアは確信していた。
あれは嫉妬や羨望といった生易しい視線ではない。
明確にレミリアを「排除すべき要因」と考えた、鮮明な殺意の塊だった。
* * *
フランが死んだ。
すべては咲夜のミスが原因だった。
それは簡単な、よくあるミスで、それだけに言い訳の余地もない。
簡単がゆえに残酷なミスだった。
咲夜は近接戦闘を得手とする。
必然、銃を持った相手と対峙する時はその弾幕をかいくぐるスキルが必要だ。
銃弾をよけるなど、決して容易いことではない。
だが決して不可能なことでもない。
第一に必要なのはまず相手の射撃を一度は見ること。
その一度で相手の射撃の腕、癖などを一瞬で見抜く。
銃口の向きと敵の筋肉の緊張の度合いから引き金を絞るタイミングを計るだけではまだ足りない。
銃口は一流のプロでもない限り、実戦の場では多かれ少なかれ発砲時に跳ね上がりやブレが生じる。
その跳ね上がり、ブレも考慮に入れ、弾丸が飛来する可能性の高い範囲を予測、その範囲内から脱出すればおおむね銃撃をかわすことはできるのだ。
予測範囲は敵の銃口から三次元的な放射線状に広がる。
ゆえに敵から距離を取れば取るほど、逆に予測範囲は広がり回避の判断は難しくなってくる。
一般人とは逆に、プロにとっては敵との距離が詰まった方が敵の照準が正確になることもあって予測範囲の精度は上がるのだ。
フルオート射撃や敵が複数いる場合などは当然のことながらこれに時間軸を考慮した、四次元的な予測活動が必要となる。
しかし咲夜にはそれが意識せずとも培った経験から可能だった。
無論、敵が集団戦のプロで連携が巧く取れていれば予測範囲は隙なく埋まり、物理的に回避は不可能になる。
とはいえプロに行き会うことなど滅多にあることではないし、敵の連携を崩す手段も存在した。
ある程度広いフィールドであれば予測範囲を時間軸を含め完全に埋めることは不可能。
そこにフランの爆撃によるバックアップが加われば、ネックである予測範囲を絞りこめる距離まで間合いを詰めることも容易となった。
だからそれは、純然たる咲夜のミス。
「レミィ!」
咄嗟に撃ち慣れない拳銃で敵を牽制しながら、焦燥に満ちたフランの声を背中で聞いた。
咲夜は地面に倒れていた。
右の太腿からはドクドクと血が溢れ出している。
致命的なほど深くはないが、決して浅くもない出血量。
敵はサブマシンガンで武装した男が十人。
銃の扱いに関して素人ではないがプロでもない、そんなレベルの連中だった。
正体はこの夜に狙った屋敷の警備員。
逃走の過程、二人がかりで半分以上は始末したが、まだ十人を残していた。
フィールドは狙った屋敷からだいぶ離れた、他にも邸宅ばかり並んだ大通りの一角。
けして広くはないが、敵の弾幕をかいくぐれないほど狭くもなかった。
流石に大人と子供の走力では追いつかれるのは時間の問題で、咲夜はフランを先に行かせて迎え打つことにした。
フランが威嚇に投じた手榴弾で連携も統率も失った無作為な弾幕をさけることは容易だった。
だから敵を軽んじた。つまりは油断した。
大通りとはいえ両脇には邸宅の外壁がある。
迂闊にもそれを失念し、敵の弾幕をかいくぐりながら順調に距離を詰めているつもりだった。
外壁があるということは当然――跳弾の可能性も考慮しなければならなかったというのに。
敵がロクな照準もなく自らが振るう銃の反動に振り回され、外壁に跳ねた一発。
それが咲夜の太腿を抉った弾丸の正体だった。
運が悪かった。単なる偶然。
言い訳なら幾らでも並べることができた。
しかしその後の記憶が、咲夜から言い訳の言葉を根こそぎ奪った。
フランはダミーの手榴弾で敵を怯ませつつ、咲夜に駆け寄って助け起こした。
「なに、やってんの……逃げなさい……。」
「やだッ! ぜったいにやだッ!」
失血で意識が朦朧とし始めた咲夜の声を、フランはかつて聞いたこともないような頑なな反駁で固辞した。
敵は十人が未だ健在。
小さな身体で咲夜を引きずりながらの爆撃では威嚇にしかならない。
敵を直接手榴弾で屠るには距離が近づきすぎていた。
実際、威嚇の爆撃も敵の遥か後方に向けてのものだった。
爆風に乗った破片で多少の手傷は与えられているが、それだけだ。
どう考えても追いつかれる。
二人とも助かる選択肢など残っていない。
自分を置いて貴女だけ逃げるなら確実。
咲夜の囁くような声が聞こえているのかいないのか、フランはけして首を縦には振らなかった。
「ごめんね。もうやなんだ。ひとりになるの。
……私のためにレミィが死んじゃうなんて、もうやなの。
だからごめんね。これはわたしのわがまま」
なんとか通りの角に辿り着き、フランはほとんど投げ飛ばすように咲夜を地面に捨てた。
咲夜は捨てられた。捨てることで助けられた。
フランは背嚢からひとつの爆薬と、無線の点火装置を取り出していた。
それは咲夜にも見覚えがある――あの日のC4プラスチック爆薬だった。
量は少なく見積もっても一キロ以上。
三キロあれば二十センチの鉄筋でも消し飛ばすことのできるそれは威力が高すぎて、これまで使う機会は一度もなかった。
すでに敵の足音はすぐそばまで迫っている。
フランが何をするつもりかは察しがついた。
「それじゃあ、バイバイ」
フランは笑った。
あの太陽のような笑顔で、笑った。
制止の声は間に合わなかった。間に合ったとして彼女を止めることなどできなかった。
くるりと背を向け、角を曲がって来た道を戻るフランの足取りは、まるでどこかへお使いに行く子供のように軽快なものだった。
フランの姿が通りの角に消えた瞬間、銃声と、生々しく肉を穿つ音。
そして、無音。
爆音があまりに大きすぎて、耳を聾するそれは却って無音にしか思えなかった。
地面、いや地盤が揺れ、暴力的なまでの衝撃が胃の腑に轟いた。
視界には周囲の酸素を根こそぎ喰らい尽くした白い灼熱の閃光。
通りの角の外壁が砕け吹き飛び、すぐ耳の脇をおそろしい速度で通り過ぎていった。
咲夜が這いずって通りの角からようやく顔を出すと、そこには煙が満ちていた。
煙が晴れると、そこには何もなかった。
ただ地面がクレーターのようにえぐれ、通りの遥か先に人間の残骸に見えなくもない肉片が見えるだけだった。
フランの姿はどこにもない。
まるで最初から存在しなかったかのように、フランの痕跡は消え去っていた。
残ったのは、脳裏に焼きついたあの太陽のような笑顔だけだった。
咲夜は吼えた。
悲鳴も怒声も通り越し、ただ野性の獣が狂ったような咆哮を、声の限りに叫び続けた。
それからの記憶はふつりと途切れている。
手当てをした記憶もないのに、すでに右脚の傷は塞がりかけていた。
咲夜は片手に金属としての輝きを失うほどまんべんなく血に濡れたナイフを持って、ふらふらと闇の中を徘徊し続けていた。
喉が渇いて地面の水溜りにうずくまった時、そこでようやく自分の髪が変色していることに気がついた。
だが、特になんの感想も浮かびはしなかった。
「これはまた、随分とまあ可愛いジャック・ザ・リッパ―がいたものね」
不意にかかった声に顔を上げると、見知らぬ女性が立っていた。
何の意思も意味もなく距離を詰めてナイフを振り上げると、傍らにいたらしい別の女性にねじ伏せられた。
地面に顔を打った痛みすらどうでもよく、ただジロリと最初の女性を眼球だけで見つめた。
「……アンタ、誰?」
「敬語を使え」
背中に乗った女性に腕をねじ上げられて、そこでようやく自分が日本語を使っていることに気づいた。
自身のルーツに興味を持って、以前に入った家でたまたま見つけた日本語の辞書のおかげで発音は怪しいがすでに日本語は使えた。
フランとは英語で話していた。英語の文法に敬語はない。
相手が日本語を使うから機械的に同じ言語が滑り出ていたらしい。
「あなたは、誰ですか?」
ねじ上げられた腕の痛みはどうでもよかったが、自分にはもう誰かに逆らう権利などないような気がして、言われるままうろ覚えの敬語を使った。
「八雲紫。ちょっとした用事でこっちに来てるんだけどね、現代の切り裂きジャックの噂を聞いてスカウトに来たのよ」
そこからは自分の意思など存在しなかった。
流されるまま組織に所属し、命じられるまま人を殺した。
理性は取り戻したが、あの時に藍が命じた敬語は呪いのように癖づいていた。
後輩として霊夢や魔理沙、美鈴が入ってきたが、やはり敬語は取れなかった。
やりたいことなどなく、ただ生きるために人を殺した。
場所が変わっただけで、やっていることはフランと出会う前と変わらない。
フランを守りたかった。守れなかった。
自分の人生に誇りを持てている瞬間があったとしたら、それはフランを守ろうと必死だったあの刹那のようなひと時だけだ。
フランを守れなかった自分に自信などない。
誇りなど持てようはずがない。
「今の一瞬で貴女は三回死んでいます。
銃もそうですが、凶器はあくまで道具にすぎないんです。
自身の腕の延長と呼べるほど自在に使いこなすことと同時に、
状況次第で道具を道具と割り切って捨てる判断力がなければ、死にます。
場合によっては腕の一本や二本すら犠牲にして自身の命を守る。
その覚悟がなければ実戦では通用しません」
レミリアを武道場の畳へ叩きつけ、咲夜は容赦のない叱責を浴びせていた。
それでもレミリアは従順に咲夜の叱責を的確な指摘として受け取っている。
きっと彼女にも伝わってしまっているのだろう。
――この子を守りたい。
二度と抱くまいと思っていた感情を、自分はレミリアに抱いてしまっている。
それはもう疑いようのない事実だ。
彼女はフランとは違う。
フランの姉とすら、たとえ自分の仮説が事実だとしてもまったくの別人だ。
それでも守りたかった。
ただ守りたくて、必死だった。
フランの時と違うのは、守ろうと必死な自分に誇りなど持てていないことだろう。
所詮が罪悪感の裏返しだ。
紫は彼女が組織を狙う殺し屋だった場合の仮説のひとつに「貴女の性格を事前に知っていて助けに入るのを見越していた」と挙げていたが、実際の咲夜はあれがレミリアでなければ特に助けに入ることはしなかったろう。
フランを失ってからの自分は、ただフランの救ってくれたこの身以外に守るべきものを持たなかった。
仮に仲間が死にかけているとして、それが自身の生存率を下げるなら容赦なく切り捨てるだろう。
自信のなさから来る周囲の視線を気にする性分と、無駄な波風を立てたくない臆病から来る柔らかい物腰に周囲は騙されているだけで、それが咲夜の本質だ。
それでもレミリアは守りたい。
この子だけは、どんな手段を使ってでも守りたい。
組織に逆らえば彼女の立場はむしろ危うい。
彼女が殺し屋として前線に出向かなければならないのなら、少しでも生存率を上げる術を教え込まなければならない。
だから必死だった。
冷やかしだろう、魔理沙などは訓練の様子を見に来たが、咲夜の形相に引いたのかそそくさと帰ってしまったほどだ。
それほどに厳しい訓練に、しかしレミリアはついてきてくれる。
応えようとしてくれる。
彼女に才能があるのは事実だ。
けれど、彼女には帰るべき場所がある。
幻想郷。
そこにいる「十六夜咲夜」の元へ無事に帰すためにこそ、自分が代わってレミリアを守らねばならない。
それが咲夜のすべてだった。
それだけがもう、咲夜に残された唯一の願望だった。
* * *
「そう。残念だけど、それなら彼女も対象から外すわけにはいかないわね。
それじゃ、引き続き頼んだわよ」
霞が関。
警視庁組織犯罪対策部、組織犯罪対策第一課の応接室。
ソファに腰かけたスーツ姿の女性は、公用、私用とはまた別に分けて使用している携帯の通話を切って溜息を吐いた。
「どうしました? 西行寺警視」
声をかけられ、女性……西行寺警視は顔を上げる。
一律昇進が基本のキャリア組としても異例の速さの昇進で、現在課長職にある彼女を階級で呼ぶ人間は部下にはいない。
応接用の机の向かいには、高校の制服姿の少女がいた。
彼女は西行寺の部下でも、それ以前に警察官ですらないのだから警視と呼称する必要はないと何度も言ってあるのだが、生真面目な彼女はその呼び方を変えようとはしない。
「ちょっとね。例の女の子、殺し屋としての才能はやっぱりずば抜けているみたい。
人間を殺すことに関しても、欠片の躊躇すらないらしいわ。
報告通りなら殺人に対してむしろ能動的なくらいね。
加えて、どうも組織に馴染みすぎてしまっている。対象からは外せないわ」
「そうですか……。」
目に見えて対面の彼女がうな垂れる。
『イマジネイティブホーム』に突如転がり込んできた少女に関しては、外事課や地方、時には他国の警察組織にまで及ぶ西行寺の人脈と情報収集力を以ってしても情報が皆無だった。
事態を慎重に捉え、彼女の保護を前提に静観を決めたのだが―― そのすば抜けた殺人の才能は、見過ごすには危険すぎる。彼女が組織の構成員にかなりの親しみを感じているというのも、これは静観を決めたことが仇となったと言える。
犯罪組織『イマジネイティブホーム』。
その活動は世界をまたぎ、非合法な商いも薬物など序の口、臓器や人身売買といった非人道的なものはもちろん、どこかの国の役人が防衛機密を漏らし設計データをコピーしたのだろう、現役を退いた軍事兵器のレプリカにまで及んでいる。
実際の商業活動を行う下部組織は無数に存在し、下部組織の構成員では彼らが従属している組織の名称すら知らない状態で、いくら検挙してもトカゲの尻尾切りである。
暗殺なども巧妙に情報を撹乱して他の組織の仕業に見せかけており、裏社会のパワーバランスは『イマジネイティブホーム』が牛耳っていると言っても過言ではない。
身内の恥を徹底して秘匿したがる暴力団の体質などもあり、十年ほど前の警視庁のマルボウではその存在は半ば都市伝説と化していたほどだという。
長い時間をかけて蓄積されてきた情報の断片を繋ぎ合わせて纏め上げ、自身の命をかける決断をしたかつての上司や同志の努力がなければ未だにその実態は闇の中だったろう。
西行寺は持ち前の人脈で世界各国との協力体制を作りあげ、ようやく組織を潰せる位置にまで状況を運べたが、彼らの尊い犠牲の上にようやく作り上げられたのがこの状況だ。
運悪く組織に迷い込んだだけとも言える少女を哀れには思うが、容赦はできない。
「そういえば、今日も持ち歩いているの?」
忸怩たる想いは汚れ役を担わせてしまった目の前の彼女の方にこそ圧し掛かっているだろう。
目線の下がった彼女の気を紛らわせるつもりで話題を換える。
少女は目的語を欠いた質問に「はい」とあっさり答え、ソファの後ろへさっと両手を回した。
戻された両手には、それぞれに短刀と長刀、二振りの日本刀が手品のように現れている。
「……流石ね」
彼女を直接本庁に呼んだのは初めてだ。
古来の達人は誰にも得物の存在を気取られないよう振舞えたというし、実際に西行寺自身も丸腰だった少女の両手に突然日本刀が現れるという現象は目にしたことがある。
原理的には相手の死角やなにげない視線誘導を利用しているのだろうが、警視庁のエントランスを行き交う警察官と防犯カメラを相手にそれができるのは少なくとも現代では彼女くらいだろう。
「それで、用事というのは?」
「決行日時が決まったわ」
西行寺の言葉に少女の表情が引き締まる。
相手の死角や視線誘導の利用で彼女が隠せるのは得物だけではない。
犯罪者ばかりを狙って辻斬りを繰り返していた彼女は、悲鳴を聞きつけすぐに駆けつけた警察官の視覚や付近の防犯カメラから自身の姿すら消していた。
人間を斬り殺す実体はあるはずなのに一向にその姿を捕えられず、当時の捜査員やマスコミの間でついた二つ名が"半霊"。
警察官自らが法を犯してでも失敗の許されないこの作戦には、彼女の力が不可欠だった。
* * *
咲夜による訓練は、初日と二日目がなんだったのかというほど容赦がなく、熾烈だった。
筋肉の回復期間を取らないのは逆に効率が悪くなるという理由で、足腰が立たなくなるまで行われる格闘術の訓練、ミドルレンジでの模擬戦、永琳によって医学的に裏打ちされた効率的かつ厳しいウェイトトレーニングなどは一日置き。
置いた一日は座学、固定・移動標的の射撃訓練に使われる。そういった体力的な疲労が少ない日でも、心肺機能を養うための走り込みは欠かさない。
紫に期限とされた三ヶ月は咲夜も学校を休み、一日中訓練だ。
射撃や狙撃、無手での格闘術には他の三人が教官役として召喚されるが、教え方が甘いとなれば咲夜から容赦ない檄が飛ぶ。
週に一度は休みを入れるが、それもあくまでレミリアが体調を崩さないための合理的判断によるものだった。
他の六日は毎日が訓練。「生かさず殺さずって感じね」とは霊夢の感想だ。
正直に言って体力的にも精神的にもレミリアにはきつかったが、同時にどこか嬉しくもあった。
咲夜の訓練には目的がある。
絶対にレミリアを実戦で死なせないという明白な目的が。
言葉には出さないまでもそれが汲み取れるからこそレミリアも弱音を吐かずについて行くことが出来た。
レミリアも咲夜に応えようと必死になれた。
そしてやはりレミリアには才能があったのか、この二ヶ月ほどで狙撃以外は十二分に実戦で通用するレベルに仕上がっているらしい。
銃撃戦では橙を圧倒。けして素人ではない下部組織構成員を複数同時に相手にしても座学で学んだ戦術や持ち前の状況判断力で勝つことができた。
近接戦闘でも一対一なら格闘技をかじった程度の標準体型の成人男性を攻防の組み立て次第で素手で絞め殺すか、硬い地面に投げつけ頭部を踏みつけ続ければ脳挫傷で殺せるレベル。
刃物を持てば流石に咲夜直々の指導のおかげで藍を相手に、互角とまではいかないまでもそれなりに渡り合えた。実戦なら銃を持ったヤクザでも皆殺しにできるだろう。
生身の人間を躊躇なく実際に殺せるかという試験に近い訓練では、素性も知らされずに中年の西洋人の男が連れてこられた。
西洋人なのはレミリアが日本人に対し潜在的な差別を持っている場合を想定してのことらしいが、差別というならレミリアはそもそも人間全体を下級の種族として差別どころか区別している。日本語、英語で命乞いをする素人の男を素手で殺すのにも一切躊躇は不要だった。
咲夜としては狙撃が十分でないのがまだまだ不満らしいが(というより、咲夜の目的からして比較的安全な狙撃こそ最も鍛えたかったのだろう)、長距離狙撃は弾道の計算に風向きや風速、空気の粘性抵抗、重力、距離によっては地球の自転まで考慮する必要があり、特に風の読み方については経験が物を言うものなので仕方がないと魔理沙は言っていた。
しかし、結果としてレミリアが訓練を役立てて仕事を経験することは一度もなかった。
その原因は三ヶ月の期限を目前にしたある日。
突然かかってきた電話に応じた咲夜の顔色が変わった夜のことだった。
* * *
レミリア・スカーレットが外部組織の暗殺者であると疑うに足る証拠が見つかった。
その一報を受け、反射的に声を荒げかけた自分を咲夜が自制できたのは奇跡に近い。
すぐそばにレミリアがいなければ自制など到底無理だった。
彼女が本当に暗殺者ならばその疑いが強まったことを悟らせるのはまずい、などというごく当たり前の計算は脳裏をよぎりもしなかった。
代わりに脳裏をよぎったのは逃走の算段である。
が、それもすでに藍がマンションまで迎えの車を出していると告げる声に遮られることになった。
咲夜の思考など完全に読まれている。
霖之助ではなく藍を迎えによこしたのがその証拠だ。
緊急時に備え自宅には銃器や弾薬もある程度揃っているが、二人がかりでも藍が相手では返り討ちが目に見えている。
こうなれば大人しく従い、レミリアの嫌疑を晴らす以外に方法はない。
「召集です。本社へ行きます。……貴女が他組織の暗殺者であると疑える証拠が出たそうです」
あえてレミリアに召集の理由を告げた声は平静を装えていただろうか。
知らず、彼女の反応にすがるような視線を送ってしまう。
レミリアは多少意表をつかれた、という驚きを示しはしたが、結局は大人しく咲夜の指示に従った。
そこには逃走への算段も咲夜への敵対行動の意思も一切読み取ることはできなかった。
心証でしかないが、ひとまずそのことに安堵しつつ、レミリアを伴ってマンションを出る。
「それで、証拠というのは?」
本社へ向かう車両の中で藍に問いかける。
運転は咲夜が任され、レミリアは助手席、藍は後部座席に座っている。
武器は乗車前のボディチェックで取り上げられているが、藍の運転の隙にこちらが何もできないようにという措置だ。
当然、咲夜やレミリアが前部座席で不審な動きをすれば簡単に見咎められる配置でもある。
「その質問は彼女に抗弁の猶予を与えるためのもの?」
「そこまで自制を失っているつもりはありません。
レミリアさんが暗殺者であるにせよ、ないにせよ、いきなり証拠を突きつけられたのでは動揺します。
紫さんはともかく、他の面子全員にその動揺が嫌疑をかけられたこと自体に対するものか、
それとも動かぬ証拠を突きつけられた結果なのか見抜く眼力はないと私は考えます」
すでに本社の社長室には、この場の三人以外の全員が初日には不在だったパチュリーを含めて揃っている。
『イマジネイティブホーム』日本支部の基本的な組織運営は責任者である紫に委ねられているが、重要な懸案に対しては合議制を取るのが常だ。
小学生の橙にすら正式メンバーとして発言権が与えられている。
無論、単純な多数決というわけではなく、それぞれの多角的な視点に立った意見を汲んだ上で長である紫が最終決定を下す。
それは大胆さと慎重さを併せ持ち、なにより合理性を重んじる紫らしいやり方と言えた。
「それに、本社到着までのあと十分弱でレミリアさんが抗弁の内容を考えても無理が出るでしょうし。
無理のない抗弁の内容が出るようでしたらその証拠を敵が意図的に明るみにしたと判断する目もあります。
……第一、私にこんなことを喋らせているということは、紫さんは証拠の内容をここで話すのを禁じてはいないんじゃないですか?」
バックミラー越しに厳しい表情を崩さなかった藍の口元がほころぶ。
「流石に茶番がすぎたか」とその口が呟く。
そもそも藍は紫の指示に忠実だ。それは言外の指示であろうと同様に。
仮に紫が証拠について言及することを禁じているとすれば、咲夜の問いなどにべもなく却下しただろう。
黙って咲夜の喋るに任せていたのも、おそらくは冷静さを量られていただけだ。
そして合議制が取られる事態ということは、証拠の内容が決定的とは言えないものであるか、レミリアが敵であったことは瞭然でも今後の彼女への処遇について話し合う必要があるということだ。
でなければ藍は問答無用でレミリアを拘束、あるいは殺害している。
「音声データだ」
「音声?」
「今日の午前六時頃、社内のシステムを一部乗っ取ろうとする外部からのハッキングがあった」
その時間といえば、咲夜とレミリアが訓練の経過報告のため社長室を訪れていた頃だ。
ハッキングは当然パチュリーによって防がれたが、相手の技術はそれなりに高度だったらしい。
そして問題は、相手が乗っ取ろうとしたシステムにあった。
ハッキングを仕掛けて来た相手は社内放送用のシステムを乗っ取り、ある音声データを流そうとしたという。
データはパチュリーによって解析されたが、単なる電子音の羅列だった。
「念のため人体に害があるものかどうか、永琳のツテで大脳生理学の研究者に回された。
そこで判明したことだが、その音声は一般の人間にとっては単なる電子音。
しかし当然それだけのものではなく――ある種の催眠を強制的に解く効果があるらしい」
催眠。
その単語だけで嫌疑の理由と今の処遇に納得がいった。
これまでのレミリアの言動を見るに、彼女が咲夜たちを欺いていたとは考えにくい。
少なくとも自身を吸血鬼だと信じ込んでいるのは無意識の挙動からも明らかだ。
だとすれば彼女があくまで"この世界の人間"とするなら、それは洗脳、催眠の類を使っているとしか思えない。
あまりに現実離れした自己認識については、年柄から察するにそうしたフィクションを刷り込みやすかったか、あるいはこちらの油断を誘うためか。
殺しの才能についても、もともと持っていた技能が訓練を経て蘇ったか、才能ある少女を狙って送り込んできたと考えることはできる。
最初から優秀なレベルの殺し屋として育った段階で催眠を解き、紫を暗殺させる計画だった。
現実的に考えるなら確かに、こうした仮説の方がレミリアの話よりよほど信用に足る。
「しかし、組織の情報網を使っても彼女の素性は割り出せなかったんですよね?」
単純な人脈だけでも情報網は世界規模だ。
加えてパチュリーが法務省入国管理局のデータまでかなり遡って洗っている。
密入国なども、こちらはむしろ裏の情報だけに手に入れやすいほどだった。
それだけ洗ってもレミリアの素性は明らかにならなかった。
そしてその事実が彼女の主張を半信半疑ながら組織に認めさせる結果に繋がっていたのだ。
「確かにね。ただ、盲点があったと言わざるを得ないのもまた確か。
社にハッキングをかけてきた相手、いくつも他人のPCや海外サーバを経由してて辿るのは困難だったらしいけど、
パチュリーの報告を信じるなら――敵は警視庁」
「つまり国家権力、ですか」
それは確かに盲点だった。
『イマジネイティブホーム』ほどの組織なら国家権力が非合法な手段を用いてでも排除すべきと考えても不思議はない。
それなら入管のデータがないのも納得できる話だ。
基本的に各省庁はセクショナリズム、要は縄張り意識が強いと聞くが、それでも官僚のほとんどは東大法学部の出身。
学生時代からの同期同格であれば、治安組織である警察を中心に省庁をまたいだ連携を見せることも不可能ではないだろう。
「それでも釈然としないものは残ります」
「ええ。だからこそ久々に合議制を取るべき事態と判断された」
そもそも『八雲総合警備保障』の正体を一体どんな手段で見抜いたのか。
見抜いてレミリアを送り込んだとして、この計画が成功していても殺せたのは社長の紫一人がせいぜいだ。
紫の穴を埋める程度の仕事は藍にもできるし、警察がそれを理解できないほど愚かだとは考えにくい。
いくら相手が犯罪組織とはいえこれだけの違法行為が明るみに出れば世論も黙ってはいない。
それだけのリスクを負ってまで実行する価値のある計画ではないはずだ。
「加えて、パチュリーが困難とはいえ警視庁まで足跡を辿れたのが引っ掛かる。
流石に警視庁から直接回線繋ぐようなわざとらしい迂闊は踏んでいないけど、
それでも回線の持ち主が警視庁の職員だってことは即日中に判明した。
国家権力ならその職員の記録を一時的にせよ抹消するくらいはやってのけるでしょう。
その辺りにどうも、我々の認識を誤らせる何かが仕掛けられている気配がする」
敵が国家権力とするなら詰めが甘い、そうでないとしても入管データを改竄し、『八雲総合警備保障』の情報を得る権力を持っている組織になど見当がつかない。
いずれにせよ不確定な要因が多すぎる。
紫ですら判断に迷って当然の事態だ。
そこでふと気になった。
仮に、敵が組織の内部情報を何らかの手段で得ているとしたら。
仮に、敵がこうした事態において紫が合議制を取ることを知っているなら。
こちらの認識を誤らせる何か。
その"何か"の存在を臭わすことが敵の狙いだとしたら。
すなわちその目的は、――本社に組織の主要な人員を集めることにこそあるのではないか。
咲夜がその可能性に気がつき、藍に向かって口を開きかけたところで、車内無線が入電を告げた。
『こちらパチュリー! 藍、今どこにいる!?』
「こちら藍。咲夜とレミリアを連れてもう社の近くだけど、どうした」
『早く戻って! 敵襲、ただし敵の人数、装備、その他は一切不明!』
ミラー越しに藍と視線を交わす。
敵襲自体は咲夜の気がついた可能性を裏づけるものだった。
しかし警備システムの張り巡らされた社内で敵に関する情報が一切掴めていないなど、これは明らかな異常事態だ。
本社まではすぐだ。
唇を引き結び、咲夜はアクセルを強く踏み込んだ。
* * *
咲夜は会社の建物から数百メートルの位置の裏通りに車を停めた。
車は黒いワゴンで、ライフル弾の掃射にも数分は耐え得る防弾仕様だと聞いている。
「いいの?」
装備を受け取りながら、レミリアは後部座席で自分の装備を確認する藍の顔を窺った。
話から察するに自分は警察の送り込んだ暗殺者として疑われているはずだ。
渡された装備は無線機に防弾ベスト、グロックとMP5、シースナイフという屋内戦闘におけるフル装備だった。
敵の暗殺者にこの状況でみすみす武器を渡して良いのだろうか、とは当然の疑問のはずだ。
「構わない。現時点だと君を暗殺者とは断定できないし、仮に暗殺者だとしても例の音声データを聞かせなければ問題ない。
社の警備システムを以ってしても正体不明の相手だ。なら戦力は多いに越したことはないだろう?」
と、藍の返答はあくまで淡白かつ合理的だった。
そもそも妙な真似をすれば仮に咲夜の助太刀があったとしても殺されるのは確実かとレミリアも納得し、高校の制服の上から装備を手早く見につける。
隣では咲夜も制服に実戦用の装備を仕込んでいた。
防刃素材のブレザーの下に防弾ベスト、ベルトのホルスターに拳銃と予備マガジン二本、トランシーバーに繋がるマイクとイヤホンが一体になったインカムの無線機、手には射撃用グローブという装備まではレミリアと同じだ。
咲夜は更にブレザーの内側にはSMGの予備マガジンに代わって予備のナイフを複数挿し、太腿に巻きつけたホルスターに投擲用ナイフ、左手に片刃、右手には両刃のシースナイフを抜き身で握った。
「屋外に包囲の気配はありませんね。
パチュリー、屋内の戦況はどうなってますか?」
『エレベーターは停止済。
魔理沙と美鈴、霊夢と橙がそれぞれツーマンセルで屋内階段、非常階段使って一階層ずつダブルチェックで見て回ってる。
敵がこっちの裏をかくみたいに動いてるおかげで警備カメラは80%近くが破壊されたわ。
無線の周波数は予備のチャンネルに切り替える指示出してある』
「了解。こっちも応援に出る」
藍の先行に追随する形でレミリアと咲夜も会社のエントランスに横づけた車の外に出る。
警察の機動隊やSATによる包囲の気配はないが、オフィスビル街だけあって周囲は背の高い建物だらけだ。
一応は狙撃を警戒して素早く屋内へ。
エントランスは敵襲があったとは思えないほど不気味に静まり返っている。
異常といえばエントランスの四隅に仕掛けられた半球形の警備カメラがどれも砕かれている点か。
とにかく具体的な戦況が掴めなくては動きようがない。
藍の指示で無線の周波数を予備チャンネルへ切り替える。
『美鈴ッ!?』
瞬間、耳に飛び込んできたのは魔理沙の悲鳴と銃声、人体が力なく床に叩きつけられるような音だった。
ノイズがあるので聞き分けづらいが、銃声は9パラのそれだと判別できた。
応戦しているのか、魔理沙のデザートイーグルの銃声が数発聞こえ、止むと同時に舌打ち。
『くそっ、美鈴が殺られた!
至近で応射したけど相手の腕かすめただけだ、落としてった敵の得物はSIG・SAUER P226!』
『……ッ、こっちもいきなり現れた日本刀二本持った女と交戦中!
なんでこの距離で当たらないのよ!?』
魔理沙の報告に被せるように入ったのは悲鳴のような霊夢の声だ。
インカムの送受信切り替えスイッチを押す余裕もないのか、以降は沈黙。
敵を追ってか魔理沙の方からは階段を駆ける足音と息遣いが聞こえる。
「こちら藍。いま社に到着した。各自現在位置を報告しろ」
藍が手早く必要な情報を引き出し、咲夜とレミリアに手振りで二手に分かれる旨を伝えてきた。
指示に従い、咲夜に続いて屋内階段へと向かう。
「私が魔理沙、咲夜とレミリアが霊夢と橙に合流する。
魔理沙は私が行くまで無茶をするな。敵はまだいるかもしれない。
霊夢と橙はできる限り敵を引きつけろ」
背中でその声を聞きながら慎重、かつ迅速に階段を駆け上る。
本社は八階建てのビルで、エントランスの一階以外のフロアは廊下が一本、両脇に各部署のオフィスが連なっている構造だ。
廊下の両端に屋内階段と非常階段、中央にはエレベーターが二基並んでいる。
もうすぐ霊夢と橙のいる五階に辿り着くというところで、通信が入った。
『こちら霊夢、敵は屋内階段で下に逃走、こっちも追いかけてる』
「了解。今ちょうど三階と四階の間の踊り場です。階段で落ち合いましょう」
上からは二人分の足音が降りてくる。
敵の足音は聞こえなかった。
霊夢がいきなり現れたというほどだけあって、相当に気配を絶つのが巧い敵らしい。
「あ、咲夜。敵は?」
「いえ、下には来ていません。このフロアですね」
霊夢と橙に合流し、四階の廊下を窺うと、エレベーターホールの前に美鈴がうつ伏せに倒れているのが見えた。
四人で周囲を警戒しつつ近づくと、美鈴は後頭部に弾丸を撃ち込まれている。
頭部を中心に赤い血溜まりが広がり、即死なのは明らかだった。
「美鈴……。」
心臓が不快な脈動を刻み、レミリアは我知らず死体から目を逸らす。
こちらに頭を向ける形で倒れている美鈴の後方、廊下の先には拳銃が落ちているのが見えた。
魔理沙の言っていたSIG・SAUER P226だろう。
奥の非常階段の扉には魔理沙の銃撃によるものらしい大口径の弾痕が刻まれている。
すぐ脇のエレベーターの扉には無理やりこじ開けられた痕跡があった。
霊夢たちが追っていた敵の方はこれで更に下へ逃げたか。
他に敵の痕跡は見受けられない。
見受けられないことに、レミリアは違和感を覚えた。
『魔理沙、五階へ着いた。どこだ?』
『敵追い詰めた。法務部のオフィスだ』
『了解。敵の得物が拳銃だけとは限らない。私が行くまでドンパチは控えろ』
違和感の正体が掴めないまま、しかし受信したその会話の内容に危機感を抱く。
敵の拳銃がここに落ちているのは魔理沙の報告通りだ。
ではなぜ落ちているのか。魔理沙が敵の腕を撃ったからだ。
拳銃から非常階段まではそれなりに距離がある。
にも関わらず――血の一滴すら落ちていないのはどういうことだ?
『魔理沙、どこだ?』
「藍! ダメよッ!」
可能性に思い至りマイクに声を張るのと、ビルの外から砲声が轟くのはほぼ同時だった。
* * *
砲声には聞き覚えがあった。
ダネルNTWアンチマテリアルライフル――魔理沙が好んで使う対物ライフルのものだ。
霊夢はまさか、と考えを振り払おうとしたが、もう一発の砲声が意識を凍らせた。
砲声に続いた破砕音はビルの下、ちょうど咲夜が防弾車を停めた辺りから木霊する。
ダネルNTWの口径は二十ミリ、化け物じみた威力を誇る。
防弾車は一般的な対物ライフルの銃撃すら一発程度なら防ぎきれる仕様だが、ダネルNTWが相手では分が悪い。
今の一撃でエンジンを破壊されたとみなして良いだろう。
ビル内とはいえ騒ぎが外に漏れていないはずはない。
しかし警察が到着する気配は一切なく、おそらくは意図的に通報を無視している。
相手が国家権力であることはこの時点で確定だ。
そして同時に認めざるをえない現実が襲い掛かる。
ダネルNTWは南アフリカのアエロテクCSIR社が開発した銃だ。
日本警察が対物ライフルを用意するとすれば防衛省や外務省を通したとしてもバレットM82が妥当なはず。
防弾車の強度の限界から言って、ダネルNTWをわざわざ用意する必要はないだろう。
「魔理沙が、内通者……?」
知らず呟いた声に、咲夜も顔色を変えた。
傍らでは橙が必死に藍へ呼びかけているが、応答はない。
藍が入った法務部のオフィスの窓は外の通りに面している。
魔理沙に誘導され、最初の砲声と同時に原型も留めず吹き飛ばされたのだろう。
彼女が内通者であるなら、様々なことに筋が通る。
レミリアが言う敵の血が残っていないことに関する違和感。
美鈴を撃った銃声は上階にいた霊夢たちの耳にも聞こえていた。
得物を落としたわけでもない敵が魔理沙の銃撃に応戦しないのは不自然だ。
だが下手に銃撃戦を演じようとすれば自分たちが違和感を覚える。
その場しのぎだけなら魔理沙の口上が最も効率的と言えるだろう。
実際、彼女を信じきっていた自分たちは今この瞬間まで魔理沙を疑うことをしなかった。
その証拠に、疑えたのは付き合いの浅いレミリア一人。
そして魔理沙が内通者なら、自分たちが追っていた日本刀の女がまるで内部情報に通じているかのように的確に警備カメラの死角を突いていたことにも、無線の周波数を切り替えた後もこちらの裏をかき続けたことにも説明が通る。敵はイヤホンを挿していたが、あれはこちらの無線を傍聴していたのだ。
思い返せば疑わしい点は今までにいくらでもあった。
紫を怒らせない程度とはいえ、仕事の妨害に近い魔理沙の暴走の数々。
自宅を持たず、誰かのマンションやパチュリーの所に転がり込んでいた理由。
あわよくば仕事中に誰かが命を落とすことを見越し、金欠を装ってこちらの内部情報を探る腹だったならすべて納得がいく。
レミリアの成績が狙撃だけ伸び悩んでいたのも、おそらく敵に力をつけさせるのを渋ったのだ。
組織に入るとき一体どんな方法で紫を出し抜いたのかは不明だが、間違いない。
魔理沙は内通者だ。
「咲夜、アンタは下に降りて日本刀の女を追って。
近接戦に持ち込まれたら私じゃ勝ち目がないわ。
私は橙と外の狙撃手を殺る」
「わかりました。気をつけて」
橙を連れて階段を駆け上る。
と、外からは砲声よりは控えめな銃声が聞こえた。
対物ライフル。これはバレットM82か。
なぜ得物を持ち替えたのかを思慮するより早く、パチュリーから通信が入った。
『火災発生。火元は六階、資料室。スプリンクラーは物理的にシステム断線させられてるらしくて作動しないわ』
バレットM82はRaufossMk211という焼夷、徹甲、炸裂弾の効果を併せ持つ弾薬を使用できる。
火災で炙り出し、外に逃げれば全員狙撃で射殺する気か。
ヘリを呼んでも対物ライフルが相手では良い的だ。
裏に逃げようとすればおそらく機動隊かさっきの日本刀女が待ち構えている。
「ったく、こっちは狙撃は専門外だってのに」
完全に敵の策に嵌まっている状況に歯噛みしつつ、霊夢は武器庫から狙撃ライフルを取り出して屋上へと駆けた。
* * *
無防備に背中を晒す美鈴の頭部を撃ち抜く時、迷いが一切なかったと言えば嘘になる。
それでも魔理沙は引き金を絞った。
魔理沙には彼女を殺さなければならない理由が、信念があった。
魔理沙の父は警官で、警視庁特殊急襲部隊、SATの狙撃支援班の班長だった。
多忙であまり構ってもらえた記憶はなかったが、暇があると父の田舎で狩猟を一緒に楽しんだ。
物心ついた頃にはライフルの撃ち方は自然に身体が覚えていたし、そのうち父がいなくても祖父に連れられて狩猟へ出かけるようになった。
母が当時機動隊に属していた父を逆恨みした暴徒に殺されたのは魔理沙が小学生の頃だ。
犯罪者への憎悪は自然、日ましに強くなった。
家を空けることが以前よりも増えた父がなにかを決意するような表情で話を持ってきたのは四年前。
『イマジネイティブホーム』という、母を殺した暴徒が所属していた組織の上部組織への潜入という話を、魔理沙は一もニもなく承諾した。
しかし組織に潜り込むのは容易いことではなかった。
組織が欲しがるほどの才能を見せなければ潜入は為せない。
その才能と組織の信用を得るため、魔理沙は本人に求められるまま父とその部下数人を殺した。
シナリオは単純だった。
未成年の連続殺人犯、SATの隊員を射殺して逃走。
実際に被害に遭ったのはSATの隊員だけで、他の被害者は実在せず、ただ魔理沙同様に国が戸籍や経歴を改竄することで作り出された虚構の被害者だった。
どこで見ていたのかはわからない。
ただ現実に、SATの隊員の包囲を突破し逃げ果せることで八雲紫は接触してきた。
シナリオ通りの経歴を話し、魔理沙はそのまま組織への潜入を果たした。
目の前で警官を殺しただけあって、魔理沙が疑われることはほとんどなかった。
四年間組織に潜み、情報を横流しながら時を待った。
四年というのは仕事の仲間に情が移るには十分な長すぎる時間で、父やその部下の血で濡れた自身の手を忘れるには短すぎる時間だった。
だから魔理沙は迷いはしても、揺らぐことはない。
西行寺の働きで今、世界中の『イマジネイティブホーム』の支部を潰す算段が同時進行している。
犯罪者が若い殺し屋を使うのなら、それを取り締まる側が若い警官を使って何が悪い。
組織の撒き散らす災厄は無視できない規模だ。
それを今日、消すことができる。
「なら、いくらでもこの手を汚してやる」
決意を口に出し、魔理沙はライフルを構え直す。
スコープ越しに、屋上へ躍り出す昨日までの仲間、霊夢の姿が見えた。
* * *
咲夜が下の階へ辿り着くのと、視界の端に鈍い輝きを認めるのとはほぼ同時だった。
左に逆手で握ったナイフを頭上へ掲げ咄嗟に、脳天を割る刃の軌道を逸らす。
敵は間髪入れず踏み込むと共に左手の短刀で突きを放った。
こちらも右手で順手に握ったナイフで軌道は逸らしたが、続けざまにジャブのような引きの速さで短刀による突きが連続して繰り出され後退を余儀なくされる。
「咲夜!」
背後から銃声。
咲夜と敵のわずかに開いた隙間を更に広げるようなレミリアの援護射撃だ。
が、レミリアは実際には威嚇ではなく敵の身体を狙っている。
敵の回避行動があまりに素早いために隙間を広げたように見えただけのことだ。
身のこなしは咲夜と同レベル、いや、得物の重量を考えれば一応はまだこちらに分があるか。
そこで改めて敵の姿を確かめる。
咲夜たちとはまた違う高校の制服姿、耳にはこちらの通信を傍受するためだろう、イヤホンが嵌まっている。
どんな手品か、今まで握っていたはずの二振りの日本刀が消えている。
だが今の攻防で敵の得物とその間合いは把握できた。
長刀と短刀の二刀流。どちらも間合いは咲夜のナイフより広い。
霊夢たちと戦ったばかりだというのに息ひとつ乱していない。スタミナもかなりのものだ。
警備カメラの死角を突き、今も得物の存在を悟らせないことから考えて恐らくこちらの視界を完全に把握している。
その得物と能力で、咲夜には思い出すものがあった。
「半霊……。」
咲夜の出した通り名を聞いても少女は無言で、不気味なほどの静謐さを纏って佇んでいる。
半霊。
かつて世間を騒がせた未成年の殺人鬼。
以前に紫が惜しいと言っていた人材だ。
それでもスカウトに出向かなかったのは、彼女の手にかかった被害者が全員犯罪者だったから。
表向きはまだ服役中のはずだが、それが外に出ているということはやはり警察の手駒だろう。
「貴女、警察から送られてきた人材ですよね?
ならひとつ相談があります。魔理沙から聞いているかもしれませんが、
私の後ろにいる女の子は組織とは本来無関係です。
彼女は見逃してもらえませんか?」
「ちょっと、咲夜――」
「残念だけど」
咲夜の申し出に、少女は初めて口を開いた。
抑揚を欠いた、意識して感情を押し殺した声だった。
「その娘はもう見逃せる人材ではなくなった。
あまりに殺人技能が卓越しているし、内通者の報告では貴女に特に懐いてしまっている。
貴女が死ねば私や警察、ひいては社会に牙を剥くでしょう。
だからこのビルにいる人間は例外なく、消す」
「そうですか……。」
レミリアを殺すことに関する不本意さは言葉の端々から感じ取ることができた。
そんな彼女が見逃せないと言うのなら、食い下がっても意味はない。
咲夜は改めて瞳に殺意をたぎらせ、ナイフを握り直す。
「それなら、貴女は確実に殺します」
紫電のような初動で一息に距離を詰める。
右手で喉笛を狙いナイフの切っ先を突き出す。
半霊は立ち位置を変え、紙一重でそれをかわした。
咲夜は反撃の余裕を与えず、突き出した両刃のナイフを横薙ぎに振るう。
が、これも上体を沈めることでかわされた。
ナイフで中空を薙いだ勢いのまま右の膝蹴りを放つ。捉えたかに見えたが、手応えなし。
こちらの蹴りと同方向へ跳んで威力を完全に殺したらしい。
なるほど、半霊とは言い得て妙だ。
眼前に姿はあるのに手応えを一切得られない。
(だったら……ッ!)
膝蹴りを繰り出した脚が接地するのを待たず、左足で床を強く踏み抜く。
半霊はまだ後方へ跳んで着地した姿勢から体勢を整えられていない。
接地した右足で加速しながらそこへ肉迫し、右手のナイフで正面からの突き、左で逆手に握ったナイフの切っ先を半霊の背後から首を抉る軌道で振り下ろす。
獣の牙のような上下からの挟撃。
今度こそ捉えたと確信したが、次の瞬間にはその確信を裏切られる。
半霊はいつの間に握り直したのか、二刀を以って左右のナイフを同時に受け止めていた。
二刀はまるで両手の延長であるかのように精密な動きで咲夜の斬撃を弾き、両脇から首を挟み込むような軌道で生き物の如く迫る。
しかし、この距離ならまだナイフの間合いだ。
咲夜も負けじと弾かれた両手を引き寄せ、死角から突然現れた半霊の斬撃を受け止める。
円の動きでは得物の長い自分が不利と判断してか、半霊は左の短刀で突きを放ってくる。
だがこれは先にも見た。
咲夜は半身を切ることで切っ先を紙一重で避け、カウンターのタイミングで左の斬撃を頚動脈向けて放つ。
殺った。
今度こそ確信は本物だった。
事実、そのまま攻撃に集中していれば間違いなく半霊を屠れただろう。
しかし状況がそうはさせなかった。
半霊は突き出した左の短刀を引かず、勢いのまま――咲夜の後方へ飛ばしたのだ。
「危ないッ!」
判断に思考が紛れ込む余地はなかった。
咲夜は振り向きざま右のナイフを短刀を追う形で投擲し、
「咲夜ッ!」
こちらの斬撃をかわした半霊に背後から斬りつけられ、自身の左腕が宙を飛ぶ光景を見た。
* * *
短刀の切っ先は矢のような、それこそブレザーの防刃素材ごとレミリアを刺し穿つに十分な速度で飛来した。
悪夢のような光景だった。
狭い廊下で、なんとか咲夜の援護をしようと戦況を窺っていたレミリアにとってその短刀は完全な不意打ち。
こちらでも半霊と呼ばれる庭師の特殊技能でもあるのだろう、咲夜の身体の陰になっていた短刀はレミリアの死角からの飛来だった。
咲夜が振り向いて投擲したナイフに柄尻を打たれて軌道が逸れなければあやまたずレミリアを殺していただろう。
そして敵を眼前にして背後を振り向く愚を犯してしまった咲夜の一瞬の隙は、あまりにも絶望的な一瞬だった。
向き直った咲夜の目の前には長刀の切っ先。
咄嗟にかざしたのであろうナイフを避けるように軌道を変えた斬撃は、咲夜の左の前腕ごとその身体をえぐった。
咲夜は膝をつき、それでもなんとか立ち上がろうと左手を突こうとして、肘から先を失った左腕は虚しく空を掻き、そのまま床に倒れた。
それでも震える右手をレミリアに向けて伸ばし、しかしやがて力を失ったその身体は弛緩し、完全に床に伏した。
クリーム色のリノリウムの床に赤い血溜まりを広げるその姿が、記憶の中の美鈴や――両親と重なる。
「少し姑息な手を使わせてもらったけど、私にはまだ仕事が残っているので」
わずかな痙攣すらなくなった咲夜の屍を大股で乗り越え、半霊が歩み寄って来る。
その手には咲夜の血を滴らせた長刀。
レミリアは恐怖した。
「あ、ああ、ああああああああッ!」
ガチガチと震える指でロクな照準もないままMP5の引き金を絞る。
絞る瞬間、足元で何かが爆発したのかというような速度で肉迫した半霊の一太刀の下にMP5を破壊された。
正確にはレミリア自身を狙った切っ先を、本能がもたらす反射で後ろに跳んだ結果、破壊されたのが運良く得物で済んだだけだ。
着地など考えていなかったステップのせいで勢いのまま床に尻餅をつく。
半霊は無言でこちらを見下ろし、長刀の切っ先を振り上げる。
振り上がった拍子に血の雫がレミリアの顔にかかった。
口内に入ったそれは味わい慣れた紛れもない血の味で、同時に差し迫る死の味だった。
音声が消失する。
ただただ鈍く光る死を纏った長刀に視線が釘づけになる。
―― その時はツェペシュの末裔の名にかけて潔く死を選ばせていただくわ。
そう言い放った時、自分は本当にその意味を理解していたのか。
今となってはどんな気分であんなことを言ったのかまったく思い出せない。
――やっぱり、人間って使えないわね。
あの時に抱いた感想もそうだ。
本当に使えないのは誰なのか。
種族的優位をひけらかし、死から目を背け続けた自分。
そんな弱い自分は、人間に、咲夜に守ってもらわなくては眼前の死を直視することすらできないではないか。
「ハ」
知らず笑みが漏れた。
自嘲の笑みだ。
死の寸前で様々なことを省みているかのような自身の思考が滑稽で、もう笑うしかない。
省みたところでもう何も変わりはしないのに。
それでも省みずにいられない自分自身が滑稽で、哀れだった。
半霊はそんなレミリアの変化など気にも留めず、長刀を振り下ろした。
落ちてくる長刀の切っ先がスローモーションに見える。
咲夜に座学で教わった緊急時における人間の極限の集中というやつの影響だろうか。
否。
「……え?」
事実、落ちてくる長刀は遅かった。
なぜなら長刀は半霊の手を離れ、自然落下しているだけだからだ。
認識すると同時に音声が戻ってくる。
聞こえたのは銃声。
銃声に呼応するかのように、半霊の身体が跳ねる。
防弾ベストを着込んでいるのか、何発も銃弾を受けて手から血をこぼしながらも半霊は驚愕の表情で背後を見た。
振り返ったその身体が一際強く痙攣し、傾いだかと思うとそのままレミリアの傍らに倒れた。
その喉からは、投擲用のナイフが生えている。
ヒューヒューと喉から異様な呼吸音を漏らしながらも、その口は「なぜ」と動いていた。
「咲、夜……?」
ドサリと、今度こそ力尽きた風情で廊下の先で膝立ちになっていた咲夜が仰向けに倒れる。
その足元には弾切れになったグロックと、取りこぼしたのか投擲用のナイフも数本。
もはや正確に投げることもできなかったのか、レミリアの背後には短刀と共に同じナイフが何本も落ちていた。
「咲夜ぁ!」
状況を理解するよりも早く、レミリアは無我夢中で咲夜の元へと駆け寄っていた。
* * *
視界はもう暗転していた。
ただすぐそばにレミリアの声を聞いている。
「無、事、です、か……?」
「無事よ、貴女が守ってくれたから、貴女のおかげで……ッ」
頬に当たる雫は涙だろうか。
レミリアは自分のために泣いてくれているのだろうか。
悲しませるつもりはなかったのに。
自分が死ぬことで彼女が悲しむなら、それは少し心残りだなと咲夜は他人事のように思う。
実際、他に心残りなことはない。
さっき起き上がれたのはほとんど奇跡だった。
半霊の太刀は間違いなく致命傷を刻んでいたのだ。
起き上がり、あまつさえレミリアを助けられたのはすでに痛覚が機能していなかったのと、自分の意思というよりは何かの義務感に突き動かされるように機械的に半霊を狙ったおかげで彼女がこちらの殺気に気づかなかったおかげだろう。
義務感。正確には深層心理に刻まれた願望か。
ただレミリアを守りたい一心だった。
フランの二の舞にはしたくなかった。
あの時のような無念は二度とごめんだった。
「咲夜、貴女……フランを知っているの……?」
我知らず思考が口に出ていたらしく、レミリアからそんな問いが降る。
咲夜はポツリポツリと、フランのことを語った。
あの太陽のような笑顔を守りたいと思ったこと。
そして結局は守れず、逆に彼女に守られる形で今ここにいること。
誇りなどあの時に失った。
フランを死なせた自分に価値など見出せなかった。
惰性で生き続けてきたが、最期にレミリアを、フランが守りたがっていた彼女の姉を守れたなら自分はきっとそのために生きていたのだ。
図々しいかもしれないが、そんな自分に今なら少しは誇りを持てる。
「もっと、誇っていいわ。貴女はやっぱり、吸血鬼を最も輝かせる存在を名乗るに相応しい、のよ……っ」
右手を伸ばす。
わずかに残った指先の感触が、レミリアの柔らかな頬に、絹のような髪に触れるのがわかった。
やはり、指を伝うこの雫だけが心残りだ。
フランの笑顔は守れなかった。
だからせめてレミリアの笑顔は守りたかったと今更ながらに想うのは贅沢だろうか。
けれど、レミリアが「満月」を名乗るに相応しいと認めてくれたことは素直に嬉しい。
自分を誇りながら逝けるのなら、きっと自分は幸せだった。
そういえば、あとひとつ。
「頼ん、でた、ケーキ……食べ損ね、ちゃいました、ね……。」
レミリアの不器用な気遣いを思い出して、あの時のように口元がほころぶ。
そうして、そのまま。
微笑を浮かべたままで、咲夜の意識は深い場所へと沈んでいった。
* * *
「咲夜……? ねえ、咲夜? 咲、夜ぁ……っ」
安らかで満足そうな微笑みを浮かべたまま、咲夜はレミリアの腕の中で事切れた。
弱々しい、それでも確かに今までそこにあった脈動は、完全に途絶えてしまった。
咲夜の身体をゆっくりと横たえる。
そこで、不快な雑音を聞いた。
「……ヒュッ、ヒュー、ヒュー……。」
見れば、半霊が息も絶え絶えになりながら階段の方へ這っている。
逃げるのか。
咲夜を殺しておきながら。
咲夜を奪っておきながら。
怒りで頭の中が真っ白になった。
霊夢のことも、魔理沙のことも最早どうでも良かった。
咲夜は死んだ。
この女に殺された。
その事実だけが脳裏を埋め尽くす。
顔の筋肉が極端に強張るのを感じる。
レミリアは立ち上がり、腰からグロックを抜いた。
半霊の頭部に照準して、引き金を絞る。立て続けに絞る。
カチッ、カチッと引き金から手応えが途切れるまで夢中で撃ち尽くした。
「……、ヒュー、ヒュッ……。」
しかし、半霊はまだ生きていた。
レミリアには撃てなかった。
引き金を絞るごとに余計なことが頭をよぎった。
彼女にも大切な誰かがいるのだろうか。
彼女を奪うと自分のような想いを味わう誰かがいるのだろうかと。
人間は重い。
その一生を背負うには、人間になった今の自分の背中は小さすぎる。
今は咲夜一人を背負うので精一杯だ。
「……ッ」
後はただ、この拳銃が悪いのだ。
グリップが太くて握りづらい。
咲夜の言っていたもっと別の拳銃の方が、きっと自分には合っているのだ。
癇癪を起こしたように、レミリアは拳銃を投げ捨てた。
投げ捨てた瞬間、視界は黒く塗り潰された。
*
「――嬢さ――起きてください、お嬢さ――」
「んん……咲夜……?」
咲夜の声が近くから聞こえた。
今しがた自身の腕の中で事切れた、咲夜の声が。
「お嬢様! 起きてくださいお嬢さ――」
「咲夜!?」
弾かれるように起き上がると、目の前には涙で濡れた従者の顔があった。
十六夜咲夜。
幻想郷の、十六夜咲夜だ。
「お嬢様! 良かった……っ!」
そのまま抱きすくめられる。
周囲を見回すと、紅魔館の中庭だ。
見上げると紅い霧に天蓋が覆われている。
ああ、帰ってきたんだと実感する。
「私……どうしてたの?」
「急に倒れられたから心配したんですよっ!
なかなかお目覚めにならないし、本当に……っ」
つまり、あの世界での出来事はほんの一瞬の、胡蝶の夢だったのか。
だとすればなんてひどい悪夢だ。
新鮮で、楽しくて、辛くて、悲しい。
しかし夢ならむしろ好都合だ。
これは別に、閻魔やスキマ女の言いなりになるというわけはないのだから。
「咲夜、霧を消すわ」
「え。どうされたんですか急に……?」
「それから、フランも地下から出してあげましょう。
出たがらないかもしれないけれど、無理やりにでも引っ張ってくるわ」
「しかし、それは……。」
「大丈夫よ。
第一、考えてみれば簡単なことよね」
そう、簡単なことだった。
十六夜咲夜は、満月は吸血鬼である自身を最も輝かせる存在。
しかし。
「太陽がなくては、満月も輝けないんだものね」
* * *
彼女には名前がなかった。
ただ物心ついた頃から、銀のナイフを握って吸血鬼を狩っていた。
「時を操る程度の能力」を生まれ持ち、何かに突き動かされるように吸血鬼を狩り続けた。
それはまるで、誰かを探し、探した相手が別人だったことに腹を立てて目の前の吸血鬼に八つ当たりをしているかのようでもあった。
一体何年そんな徘徊じみた吸血鬼狩りを続けただろうか。
ある日、彼女は紅い館に住む幼い吸血鬼と対面した。
対面することで、それまでの自分の人生の意味を知った。
正確に言えば、思い出した。
全力を以って襲い掛かった彼女のことを、館の主であるその幼い吸血鬼は気に入ってくれたらしい。
「人間にしては見所があるわね。貴女に名前をあげましょう。
そうね、十六夜咲夜なんてどうかしら?
私を最も輝かせる『満月』を意味する名前よ。光栄に思いなさい」
そうして彼女は紅魔館で働き始めた。
高貴な吸血鬼の従者として恥じのない働きぶりで、やがて館を取り仕切る立場になった。
彼女の目的は常にひとつだった。
レミリア・スカーレットとフランドール・スカーレット。
二人の姉妹を命を賭して守り抜くことだけ。
そうすることで、彼女は自身に誇りを持てた。
以前、今わの際に胸に抱いたあの誇りを。
*
紅い霧のなくなった幻想郷。
館の中庭で、彼女の主はパラソルで陽射しをよけながら午後のティータイムの最中だった。
彼女は意を決して、そのテーブルの上にケーキを二つ置いた。
主は少し不思議そうに彼女を見上げた。
「二つ……?」
ひょっとして、と考えたのだ。
主はティータイムの最中に突然倒れたあの日以来、どこか変わった。
紅い霧を消し、妹を地下から出したこともそうだが、挙動に無駄がなくなった。
それでも直截に聞くのは気が引けた。
ひょっとして"あの世界"に行って来たのではないですか、などと。
だからケーキを二つ出してみた。
もしかしたらあの日の、自分の最期の心残りを覚えていてくれるのではないかと期待を篭めて。
「咲夜、流石に二つは食べられないわよ?
それにちょっと、今日はこのケーキは食べられないかも」
「あ……失礼しました」
主の怪訝そうな顔を見て、彼女は内心で落胆する。
やはり目の前の主とあの時の少女は別人だったか、と。
そんな彼女をしり目に、主は何かを思いついたように立ち上がった。
「お嬢様……?」
「ちょっと散歩に出ましょう。ついでにお買い物も。
私、射撃を趣味にしようと思うのよ。
ブローニング、だったかしら? あれが良いわ。グロックはグリップが太くて握りづらいのよ。
骨董品なら香霖堂に流れ着いているかもしれないし」
言うなり日傘を差して館へ戻る主を、彼女は呆気に取られたように見つめた。
主は振り返り、悪戯っぽい笑みを浮かべてさらに言った。
「それから、帰りに里でケーキも買いましょう。
二つと言わず三つ。それで、フランも呼んで改めてお茶にしましょうよ。
さ。そうと決まれば行くわよ咲夜」
再び背を向けて館へ戻る主に、彼女は久方ぶりの呼称を使った。
「それじゃあ私もすぐに支度をしますね、レミリアさん」
呼びかけるとレミリアは泣き笑いの、少女の顔で抱きついてきた。
咲夜はぎゅっと、それを受け止める。
もう絶対に、離さない。
Fin.
※ちょっと特殊な現代入りです
* * *
――やっぱり、人間って使えないわね。
* * *
「冗談じゃないわよ!」
不満を声に出して叫び、まばたきをした次の瞬間、そこはすでに見知らぬ世界だった。
憤怒に顔を染めた少女は首を巡らし、今まで口論をしていた相手を探す。
だがすでに相手の姿は影も形もスキマもない。
代わって広がるのは灰色の景観。
幻想郷とは似ても似つかぬその場所は、明らかに外の世界、いや――スキマ女の言を借りるなら、外の世界ですらない"別の"世界だ。
「まったく、なんでこの私がこんなトコロに」
「いえあの、それはこちらの台詞なんですが……。」
聞き慣れた声に少女……レミリア・スカーレットが振り返ると、そこには自身の従者、十六夜咲夜がどこか戸惑ったような表情で佇んでいた。
「咲夜? 貴女まであのスキマ女に飛ばされてたの?」
「え、隙間……? いえ、それより貴女はどうして私の名前を――」
「咲夜! ちょっとアンタ仕事中に何やってんのよ!?」
「連中、顔真っ赤にしてお怒りだぜ! つーかどこにあんな大量の武器隠し持ってたんだ!?」
「いやお怒りなのは魔理沙さんが無闇に挑発するからじゃないですかー!」
「HAHAHA、それじゃまるでわたしが悪いみたいだぜ? 美鈴」
「……ごめんなさい、悪いのは全部私です。後生ですから冗談でもその危険物こっちに向けないでください」
「安心しろ、わたしは本気だぜ☆」
「ぎゃー! 霊夢さん咲夜さん助けてーッ!」
レミリアと咲夜のいる場所に、なにかに追われるような勢いで二人の人間と一匹の妖怪が転がりこんで来た。
どれも見知った顔である。
博麗霊夢、霧雨魔理沙、そして紅美鈴。
「貴女たちまで……それにしても何なの? その格好」
四人の服装は、皆一様にいつもとは異なっていた。
全員が丈の短いプリーツスカートと、外来人の男が着るような――確か背広といっただろうか――上着に似たものを身にまとっている。
「ん? 誰よこのガキ。咲夜、あんたの隠し子?」
「そんなわけないでしょう。私もいま見つけて困っていたところです」
「ていうか、こんな修羅場にそんなフリフリの服で来てる場違いなお子様に格好をとやかく言われたくないぜ」
「いや、制服でこんなとこにいる私たちも十分場違いだと思いますけど……。」
仮にも紅魔館の主をガキ、お子様呼ばわりした上、レミリアの声でようやくその存在に気づいたという態度は彼女の矜持を傷つけるのに十分すぎた。
額に青筋を浮かべたレミリアはスペルカードを宣言しようと掌を掲げ―― そこで初めて異変に気づく。
スペルカードがない。
またあのスキマ女の仕業かと激情の矛先を戻しかけたところで、
「どこ行きやがった!?」
「探せ! あんなガキ共に親父が殺られたなんてよそに知れたら組が終わるぞ!」
「つーかあの金髪なめた口ばっか利きやがってッ! ブチ殺す!」
鬼気迫る様子の男達の声が周囲に響いた。
改めて見回すと、周りは妙に背の高い灰色の建物に囲まれている。
「げ。もう追って来たわよ」
「まったく。しつこい男は嫌われるぜ」
「いやだからその一因を担っているのは魔理沙さ――すいませんなんでもないです銃口向けないで」
「とにかくこんな小さい子を巻き込むわけにはいきません。なんとか逃げないと――ってちょっと貴女!?」
建物の陰から身を乗り出す四人の視線の先と会話の内容から状況はだいたい理解できた。
レミリアは悠々と建物の陰から外へ歩み出す。
スペルカードがなくとも自分は吸血鬼。
そしてスペルカードがないということは、ここでは幻想郷でのルールなど律儀に守る必要もない。
「要するにあの連中を黙らせればいいんでしょう?
貴女たちにも色々訊きたいことはあるけれど、すぐ終わらせるから少し待ってなさいな」
背中越しに振り向いて、男達のいる方向へと駆け出す。
咲夜が制止する声を発していたようだが心配は無用。
幸いにして空には夜の帳が降りている。
人間風情が何人束になったところで、古参妖怪を除けば幻想郷最強の種族である吸血鬼の膂力があれば十全に――、
「――って、なによこの速度!?」
地を踏む一歩の弱々しさに自ら愕然とする。
確かに地面を踏み抜かない程度に加減はしたが、あまりにも速度がない。
そもそも一足で人間の数倍の距離を駆け抜けるのが吸血鬼。
だというのにその一足が、これではまるで脆弱な人間ではないか。
「いたぞ!」
視線を自身の足元から、男の声が上がった前方に移す。
そしてやはり違和感。
男達の姿がはっきりとは確認できない。
月明かりもあるというのに、吸血種としての夜目が利いていないのだ。
男達が手元でガチャリとなにかを持ち上げる。
敵が弾幕を放つ時に近い気配を直感的に感じ、翼を広げ飛翔しようとしたところで、今度はその翼がないことに気づく。
「危ないッ!」
咲夜の声と、横からの衝撃。
突き飛ばされたと理解すると同時、レミリアは地面に頭部を打ちつけ意識を手放した。
* * *
「危ないッ!」
何を思ってか武装したヤクザの群れ目掛けて駆け出した少女を、咲夜は咄嗟に追いかけ火線上からそらすべく突き飛ばした。
直後に襲うサブマシンガンによる弾幕を自身も地面に身を転がすことで避けつつ、少女の身体を抱え体勢を整える。
距離からして命中は難しいと理解しながらも、低い姿勢のまま投擲用のナイフを腿のホルスターから抜き数本同時に敵目掛けて放った。
素人同然のヤクザの射撃など普段の咲夜であればいくらでもやりすごせるが、十歳前後の少女とはいえ意識を失った人間を抱えたままでは普段の機動力は望めない。
やはり命中はしなかったが飛来するナイフに敵は怯んでくれたようで、その隙に別の路地へと身を隠す。
『咲夜! 無事!?』
現状の打開策に思案を巡らせたところで、背後から銃声、耳にはめたインカムの無線機からは霊夢の声が届いた。
銃声の種類は三つ。
正確無比な短連射で効率的に敵を穿つのは霊夢のサブマシンガン、FN・P90TR。
でたらめかつ非常識な二丁拳銃で、数撃ちゃ当たるという品性の欠片もない暴力的な銃声は魔理沙の50口径デザートイーグル。
霊夢ほど正確でも迅速でもないがそれでも三発に一発は敵を仕留めている控えめな銃声は、美鈴のコルト・ガバメントM1991A1コンパクトのものだろう。
「私は無事です。ただ、女の子が気を失ってしまって。合流は難しそうですね」
無線に応えつつヒップホルスターからサプレッサー(減音器)付きのグロック30を抜き出し薬莢内の装弾を確認する。
先ほどは直接月光を反射して目視できるナイフの方が威嚇には得策と判断したが、この局面では流石に自分も拳銃を使わないわけにはいかない。
美鈴ほどではないにしろ、自分もあまり射撃が得意な方ではないのだが。
『いま霖之助さん呼んだから、それまでなんとか持ちこたえるわよ』
「了解」
雑居ビルの角から身を乗り出し、グロックの銃口を敵の胴体に照準して発砲。
この距離で得物が短銃身の拳銃では、ヘッドショットの命中はまず望めない。
三人撃ち倒したところで反撃が来る。
彼我の距離は30メートルほど。
敵は組事務所が入っている雑居ビル前の通りに、見える範囲だけでも三十人近くが陣取っている。
銃の扱いについて素人には違いないが、武闘派を謳うだけあって装備は充実しているようだ。
貫通力の強い霊夢の5.7mm弾や魔理沙のマグナム弾で撃たれた敵はともかく、防弾ベストで胴体を守っているのか美鈴や咲夜の.45ACP弾で撃たれた敵はしばらくすると起き上がって前線に戻ってくる。
それでも肋骨や内臓へのダメージで動きが鈍っているようで、幾分狙いやすくはあるものの、これではキリがない。
周囲は中小企業のオフィスが入っている雑居ビルだけとはいえ、流石にもう一般人に通報されている頃だろう。
多勢に無勢でも負ける気はしないが、グロック30の装弾数は薬莢内に装填していたものを含めても十発、予備のマガジンも二本だけ。
他の面子も似たようなものだろう。
早期決着は望めない。
霖之助の到着が先か、警察が先か。
『お待たせ。相変わらず派手にやってくれてるね』
最後の一本のマガジンをグロックに差し込んだ頃、霖之助から通信が入った。
同時に表通りからアスファルトを擦るブレーキ音。
建物から身を乗り出すと、見慣れた黒いワンボックスカーが二車線道路を占領するようにこちらへ車体側面を向け停車したところだった。
車はちょうど敵とこちらの火線を遮るように停まっている。
この隙にと少女を抱え、敵に威嚇射撃を行いつつ車内へ転がり込んだ。
「遅えよこーりん!」
「いやすまない。誤情報を警察にリークしたり警邏のパトカーを巻いたりで忙しかったんだよ」
続いて霊夢たち三人も乗り込んでくる。
扉が閉まるのを確認すると、霖之助はすぐさまハンドルを切り車を急発進させた。
車体は敵の弾幕にさらされ続けているが、この車は窓やボディはもちろん、その重量を運ぶエンジンに至るまで特注の防弾仕様。
拳銃弾を使用するサブマシンガンごときでは塗装を剥ぐのがせいぜいだ。
剥げた塗装の下のボディも黒の上、ナンバーも擬装用に数種類揃えている。
夜中の運用なら警察の目につくこともまずないと言って良いだろう。
敵の移動手段はあらかじめ魔理沙が潰していたので追手もなかった。
「とりあえずお疲れ様」
霖之助の労いに生返事で応えつつ全員が息をつく。
いつものことながらトラブルは多かったが、なんとか仕事は完了だ。
「ところで……そのお嬢さんはどちら様?」
バックミラー越しに、霖之助の視線が咲夜の膝の上で眠る少女へ向かう。
彼の疑問は車内の全員に共通のものだ。
今夜の仕事は片づいたが、どうやらまた新たなトラブルの火種を拾ってしまった気がしてならない。
経験上この手の嫌な予感は外れたことがないのだが、なぜだろう。
咲夜は膝の上で穏やかな寝息を立て始めた少女の髪を優しく撫でていた。
それが妙に落ち着く。
これほど穏やかな気持ちになったのはいつぶりだろうか。
ここ最近の疲れもあったのだろう、咲夜も我知らず、うとうとと夢見の世界へ誘われていった。
* * *
気がつくとレミリアは見覚えのある空間に浮かんでいた。
目玉や人間の手足、外の世界のものと思われる妙な物体などが浮遊するここは、八雲紫のスキマから垣間見える場所に相違ない。
「これはなんの真似かしら? スキマ女」
「あら。ここに招待されるなんて誰にでも許されることじゃないのだから、もう少し光栄に思いなさいな」
わざとらしく溜息を吐き、スキマ女が姿を現す。
今の今までレミリアは館の中庭で優雅にティータイムの最中だった。
それが突然こんな場所に連れ込まれ、加えて下手人が八雲紫。
レミリアでなくとも、彼女の性格を知っている者でこの状況を喜ぶ物好きなど幻想郷にはいない。
「私としても別に本意ではないのよ。
ただ、今回の貴女はやりすぎたってとこかしらね」
いま幻想郷を覆っている紅い霧のことを言っているのだろうか。
そういえば先日その件で巫女と魔法使いをそれぞれ手ずから追い払ってやったばかりだ。
とするとスキマ女の用件も見えてくる。
「貴女が異変解決のために現れるなんて、ずいぶん柄にもないことをしたものね。
日光が遮られたところで、一日中寝てばかりの貴女には無関係でしょうに。
で、何? 決闘になら今すぐ応じてあげるけれど?」
「だから本意ではないと言っているでしょう。
……どこかの閻魔様がお怒りでね。
私は半ば無理やりこんな面倒な役目を仰せつかったってわけ」
「それはお気の毒。
それならさっさとその面倒なお役目から解放してあげるからかかってらっしゃいな」
「人の話は最後まで聞きなさい。
閻魔のご希望は貴女を倒すことではないわ。
私の力で貴女を外の世界、いいえ"別の"世界へ飛ばすことよ」
「別の世界?」
「そう。基本的には外の世界と変わらないけれど、そこで貴女はその"世界の常識"に縛られることになるから注意なさいな。
まあ、閻魔も貴女の態度次第では猶予をあげると言っていたわよ?」
つまり今すぐ霧を消せということだ。
ただ生憎と、日傘もなしに散歩に出れるこの環境をレミリアはとても気に入っている。
「閻魔曰く、日光がなくては農作物は育たない。
農作物がなくては里の人々は飢えて死んでしまう」
「だから何? 吸血鬼である私が"たかが"人間のために易々と言いなりになれとでも?」
先日の一件で、それなりに使える従者だと思っていた人間がしょせん肝心な時には使えないと理解したばかりだ。
そんな種族のために高貴な吸血鬼である自身の矜持を傷つけられるなどもっての他である。
「……まったく。その人間の血を啜って生きてる妖怪の台詞とは思えないわね」
「生憎だけど、易々と貴女や閻魔の言いなりになるほど安い矜持は持ち合わせていないの。
人間だって農作物が駄目なら里の外で獣でもなんでも狩るでしょう。
まあ、里を出れば逆に狩られる側になる人間も増えるでしょうけど知ったことではないわね。
よしんば人間がいなくなっても、その時はツェペシュの末裔の名にかけて潔く死を選ばせていただくわ」
「つまり、決闘で敗北したわけでもないのに相手の言いなりになるくらいなら死を選ぶ、と?」
「ええ」
レミリアは毅然と首肯する。
「なら実力行使ね。幻想郷のルールにいささか反する気もするけど閻魔が白と言うのなら白でしょう。
ちょうどいいから別の世界で命の尊さでも学んでらっしゃいな」
「え。ちょっと、待ちなさ――」
「ちなみに貴女が戻れるかどうかも閻魔次第だからそのつもりでね」
片目を瞑り、微笑を浮かべた八雲紫の輪郭がぼやけていく。
その表情は、不本意だなんだと言いつつも明らかにこの状況を楽しんでいる。
そもそもいくら苦手としているとはいえ、その気になれば彼女の能力があれば閻魔からでも逃げきれるはずだ。
つまり彼女は、少なからず積極的に閻魔の命に従っていることになる。
それも恐らくは単純に彼女自身の娯楽のために。
同意もなしに幻想郷の外へ飛ばされる上、それがスキマ女の娯楽になるなど、
「冗談じゃないわよ!」
*
「――嬢さ――起きてください、お嬢さ――」
「んん……咲夜……?」
従者の声が近くから聞こえた。
随分と嫌な夢を見た気がする。
スキマ女に飛ばされた見知らぬ世界で、見知った顔がいて、しかしその見知った顔は明らかに自分を知らない風で。
挙句に吸血鬼としての能力を失い、無様にも地面に頭を打って――、
「あの、お嬢さん。いい加減に起きてくれないと……私も学校があるんですが」
「ッ!」
聞き慣れた従者の、聞き慣れぬ態度で意識が現実に引き戻される。
跳ね起きて周囲を見回す。
白や灰色ばかり目立つ随分と殺風景な部屋だ。
机や本棚、薬品の瓶らしきものが並ぶガラス棚、今まで寝かされていたらしいベッドも銀色の棒を組み上げただけの簡素なものだった。
風格や瀟洒といった単語とはほど遠い調度の数々に加え、中には何に使うのかすら理解できない器具もある。
ここはやはり見知らぬ世界。
夢などではなかった。
認識と同時に、意識を失う前の自らの醜態が脳裏を襲った。
レミリアは片手で顔を覆って呻き声を上げる。
「え、お嬢さん。ひょっとして吐き気とかありますか?
コブもできてたし大丈夫だと永琳さんは言ってたんですけど――」
「レミリア」
「はい?」
「レミリア・スカーレット。私の名前。どうやら貴女は私の知ってる咲夜じゃないみたいだけど、
そのお嬢さん呼ばわりはなんだか子供扱いされているようで不快よ」
横目でじろりとうかがうと咲夜は一瞬たじろぐような戸惑うような表情を見せる。
スキマ女は自分がこの"世界の常識"に縛られると言っていた。
吸血鬼としての能力が発揮できなかったことから察するに、この世界の常識上、吸血鬼は実在しないのだろう。
外の世界でも吸血鬼の実在は信じられていないと聞くし、あながち外した推論でもないはずだ。
レミリアの外見は明らかに人間の子供、それも翼がないのだから尚更だ。
その子供に子供扱いが不快と言われては咲夜の戸惑いも致し方ないとしたものだろう。
「えーと、じゃあその、レミリアさん。とりあえず社長室まで来てもらえますか?」
「シャチョウ……? 悪いけど咲夜、私はあまりこの世界について詳しくないの。
さっきの発言と矛盾するようだけど、できるだけ子供にも理解できるように話してくれる?」
「は、はあ。ええと、要するにここで一番偉い人のお部屋まで一緒に来てもらいたいんです。
そこでなんであの場所にいたのかとか、
貴女の言うその"この世界"の意味についてとか聞かせて下さい」
「いいわ。私としてもこの世界について色々と聞きたいことがあるし」
かけられていた白いシーツを剥いで、ベッドの下に置かれていた靴に足を入れる。
そこでふと思い至った。
咲夜に霊夢、魔理沙、美鈴に加え、咲夜が言った「エイリンさん」とは輝夜のところの医者のことではないか。
昨夜の男達以外だと、遭遇する面子は外見と名前だけならことごとく幻想郷の住人と一致している。
ならこれから会うであろうここで一番偉い人、というのも同様である可能性は十分高い。
今の自分は人間の子供同然の体力しかないようだし、業腹だが場合によってはその人物に従う必要に迫られることもあるだろう。
せめて気品ある振る舞いを忘れぬため、あらかじめその人物の名を知っておくことが得策だ。
好奇心もあり、無機質な廊下を先行する咲夜へ率直に疑問をぶつける。
「社長の名前ですか? 職業柄、本名かどうかはわかりませんが」
「別に偽名でも構わないから教えて頂戴。こっちにも心構えが必要なのよ」
「心構え? まあ勿体ぶるものでもないから構いませんけど」
従うにしてもできればそれなりに高貴な妖怪の名であって欲しいと願いつつ咲夜の回答を待つ。
そしてその返答の内容は、
「社長は八雲紫さんとおっしゃいます」
考え得る限り現状で最も悪辣なものだった。
* * *
午前六時。
株式会社『八雲総合警備保障』の社長室には、十人もの人間が集まっていた。
件の少女と昨夜の戦闘に参加していた四人に加え、森近霖之助、八意永琳、社長秘書の八雲藍、その弟子の橙。
そして社長である八雲紫。
情報処理担当で滅多に自室兼執務室を出ないパチュリー・ノーレッジを除けば、この会社の裏側に所属する人間が半数近く揃っていることになる。
これだけの人数が集っても窮屈さは感じない。
業界最大手とまではいかないまでも、東証一部に上場している企業だけあって社長室もかなりの広さがあるのだ。
「で、貴女はその別の世界……幻想郷といったかしら。
そこからこの世界に飛ばされて昨夜の戦闘に遭遇した、と」
パソコンや書類の乗ったデスクに肘をつきながら紫が確認すると、少女……レミリアは不愉快そうに頷くだけでその言葉を肯定した。
咲夜が社長の名前を口にしてから彼女の態度はずっとこの調子だ。
いや、紫の姿を目にした時などは殺意すら孕む形相で、警戒する藍と無謀にもそれを真っ向から睨むレミリアを執り成すのに苦労させられたから多少マシにはなっているのだが。
「話は変わるけど、最近どうも不穏な情報が文の方から入って来てるのよね」
文とは社命丸文、フリーの情報屋のことだ。
潜入などではなく伝聞で得る情報が主なので確度はそれほど高くないが、その分フットワークが軽く広範囲、多岐に渡る情報網を持っているので使い勝手は良い。
その不穏な情報についてはレミリア以外この場の全員に周知されている。
一人その内容を知らないレミリアだけが怪訝そうに眉を顰めた。
「本当に話が変わったわね。私の現状とどう関わりがあるのかしら?」
「情報の内容が問題なのよ。どうやらウチを狙っているどこかの組織の若い殺し屋がいる、ってね」
紫の言う"ウチ"とは『八雲総合警備保障』のことではない。
その裏の顔。いや、元々この会社の母体はこちらなのだから本来の顔と言うべきか。
犯罪組織『イマジネイティブホーム』。
世界各国に支部を持つ犯罪シンジケートだ。
支部とはいってもどこかに本部があるわけではなく、トップに立つボスもいない。
それぞれの支部は基本的に対等で、毎年行われる予算編成も各国の支部長同士の民主主義的な会議に拠る。
扱う商品は臓器、人身、麻薬に兵器、はては殺し屋の斡旋など多岐に渡っており、ここ日本支部では国柄もあり臓器や麻薬の密売が中心。
よそに比べれば新興の組織だが、華僑やユダヤが証明する通り、横の繋がりというのは裏稼業を営む上で実に有益だ。
咲夜たちに支給される武器弾薬なども、在日米軍を始めとする海外の軍に警察、場合によっては各兵器の製造元からの横流し品でかなり充実している。
『八雲総合警備保障』は日本支部のトップで、商い自体はいつでも切り捨てられる下部組織に任せてある。
直接ここに所属している咲夜たちの仕事は邪魔な組織の排除、下部組織の不穏な動きの監視が主だ。
「若い殺し屋? それが私だとでも?」
「可能性としては低くないわね」
紫の言う通り、状況から見て可能性は低くない。
子供だからそんなはずは、などという道理は裏の世界で通用するものではないのだ。
中東の少年兵の例を挙げるまでもなく、子供とて拳銃が一丁あれば簡単に大人一人殺害できる。
むしろ子供である分、暗殺の際などは標的を油断させやすい。
殺し屋稼業が一般的でない上、古い先入観が根づいている暴力団の多い日本でなら尚更だ。
事実、暗殺業の主力である咲夜たち四人もまだ現役の高校生。
小学生の橙ですら、すでに幾つか仕事を経験している。
レミリアを紫を狙ったヒットマンと見なすのも無理からぬことだ。
だが、
「待って下さい。昨夜の彼女の行動は我々の目を欺くための演技と呼ぶにはあまりにリスクが高すぎました」
咲夜は異論を挟み咄嗟にレミリアをかばった。
反射的に飛び出した言葉に自分でも驚くが、間違ってはいないはずだ。
実際、丸腰で武装したヤクザに立ち向かうなど、彼女が本来持っていたという力の存在がなければ自殺行為。
身のこなしも完全に素人のそれだった。
仮に咲夜が助けに入らなかったなら確実に蜂の巣にされていただろう。
下っ端の分際で社長に異を唱える咲夜を藍は睨むが、紫はそれを目線で制し視線を寄越した。
「仮にこのお嬢さんを殺し屋とするなら、
貴女はもちろんこの場の全員の顔と名前を知っていたことにも説明がつくわ。
貴女の性格を事前に知っていて助けに入るのを見越していたとか、
昨日の組と繋がっていて狙いは外される予定だったとか、
あるいは素人同然の子供だから場合によっては死んでも構わないという敵の意向があった。
そちらの方がこの娘の妄言を信じるよりいくらか現実味があると思わない?」
「そ、れは、確かにそうかもしれませんが……。」
反論を先んじてすべて封じる紫の論法は覆せたためしがない。
咲夜が目線を伏せて押し黙ると、紫は突然くつくつと喉の奥で笑い出した。
「冗談よ。ウチの内部情報なんてそうそう手に入るものじゃないわ。
あの情報屋ですら全容は把握してないくらいだもの。
ましてや一人一人の性格なんて掴めるわけがない。
昨日のヤクザもわざとお嬢さんを狙いから外すなんて器用な真似ができる練度じゃなかったんでしょう?
このお嬢さんの容姿からして、
私を殺すのに使い捨てるよりはマニアに売り飛ばした方がよっぽど良い値段になるでしょうし。
使い捨てにしたって、こちらの警戒を強めるだけだから敵にとっては不利益の方が多いわ。
だいたい、子供に吹き込むにしても設定が非現実的すぎるわよ」
レミリア・スカーレットというこの世界では明らかな偽名。
幻想郷、まるで『イマジネイティブホーム』を無理に日本語訳したかのような世界。
五百年以上生きている吸血鬼。
それもツェペシュの末裔だと本人は豪語する。
ツェペシュとはブラム・ストーカーの小説の主人公、ドラキュラのモデルになった人物のことだろう。
ご丁寧に衣服の背中の一部には翼が生えていたかのような裂け目が入れてある。
組織の内部情報まで掴む慎重な敵ならもう少しマシな口実を吹き込みそうなものだ。
仮に本気で敵がこの口実を自分たちが信じると思ったのなら、設定を考えた人間は舞台の脚本家にでもなった方がいいと紫は続けた。
「とりあえずはお嬢さんの言うことを信じてあげましょう。
まあ、念には念を入れて当然監視はつけさせてもらうけれど。
というわけで、頼んだわよ咲夜?」
最後の一言で、はめられたと咲夜は悟った。
要するにこの結論に着地したかったのだ、紫は。
厄介事を押しつけられた不満が顔に出たのか、
「いいじゃない。話を聞く限り幻想郷の貴女は彼女に仕える瀟洒なメイドだったそうだし。
適当な理由をつけて手配するから学校にも連れて行ってあげなさいな。
必要ならメイド服も用意しましょうか?」
「いえ、結構です……。」
紫の声は完全に遊びに入っている。
誰か助け舟を出してはくれまいかと室内を見回すも、霖之助や永琳は我関せず。
藍などは日頃から社長に振り回されている同情からか気の毒そうな顔を見せてくれていたが、霊夢、魔理沙、美鈴に至ってはニヤニヤとこちらを眺めていた。
無言でナイフを三本投げつけるも全員がひらりと身をかわす。
せめてナイフの突き刺さった壁の修繕費くらいは難癖つけて払わせてやると咲夜が内心誓っていると、渦中の人物であるにも関わらず話から置いていかれていたレミリアがすぐそばまで歩み寄っていた。
「なぁに咲夜。私と一緒じゃ不満があるのかしら?」
「い、いえ。別にそういうわけじゃ……。」
こちらを下から見上げているにも関わらず、レミリアの態度は見事なまでに倣岸不遜。
なぜだか有無を言わせぬ迫力に咲夜の方がたじろいでしまう。
別世界の自分が彼女の従者であるというのも、あながち嘘ではないようだった。
*
「どうしたの咲夜? ずいぶんとお疲れみたいだけど」
「ほっといてください……。」
尋ねてくる霊夢の口調は明らかに楽しんでいる。
緊急時に備えて袖に仕込んだ折り畳み式のナイフで一閃してやりたいところだが、生憎と咲夜のライフは気持ちの上ではゼロに近い。
午前の授業を終えて昼休み。
いつもの面子にレミリアを加えた五人は私立東方高等学校の屋上でランチタイムの最中だ。
屋上は本来なら生徒の立ち入りは禁止されているのだが、魔理沙が「借りてきた」と言い張る教員室の鍵(それもいつまでもバレないことから考えて勝手に作った合鍵なのは確実)を使って四人はいつもここで昼食を取る。
まあ、一般の生徒や教師に聞かれるとまずい話をすることもままあるので好都合ではあるのだが。
秋とはいえ、日光に晒された屋上の気温は衣替えが終わったばかりの冬服だと暑いくらいで、全員がブレザーを脱いでいた。
「で、実際どうだったんだ美鈴? 教室での様子は」
いつも通り美鈴を購買まで走らせて買った惣菜パンを頬張りつつ、すでに自分の分を食べ終えて昼寝の態勢に入っていた当の美鈴を蹴りつけながら魔理沙が尋ねる。
相変わらずの暴君ぶりだが、この中では一番の新入りである美鈴の脳からはもはや不平を漏らすという選択肢すら消えているのかもそもそと起き上がった。
「ほぇ? どうかしましたか魔理沙さん?」
ものの数秒で熟睡に至っていたのか起き上がった顔は完全に寝ぼけている。
咲夜の記憶が確かなら午前の授業もすべて机に突っ伏して過ごしていたはずだ。
最初の頃はまだ効果的な仮眠の取り方を知らないだけかと思ったものだが、どうやら彼女のこれは単に体質らしい。
「だから、レミリア連れた咲夜が教室でどうだったかって話よ」
霊夢と魔理沙は咲夜と美鈴とはクラスが違うので純粋に気になるのだろう、霊夢が重ねて問いかける。
ちなみに彼女の齧っているパンも美鈴が買ってきたものだ。
咲夜もついでということで買って来てもらってはいるが、二人と決定的に違うのは代金を美鈴の分も含めて払っているという点だった。
ほとんど中学生のイジメと変わらない扱いだが、霊夢は「仕事でフォローしてやってる代金」、魔理沙は「借りてるだけだ」とやはり言い張る。
哀れにもそんな扱いに完全に馴染んでしまっている美鈴は素直に答えた。
「ええと、クラスメイトにレミリアさんについて『親戚だって?』とか『とみせかけて実は隠し子?』と散々いじり回された挙句、
それを律儀に否定しつつキレたレミリアさんを抑えたりと、かなり苦労してた気がします」
なんで貴女は休み時間だけ微妙に起きているのかと突っ込みたいところだが、美鈴の言う苦労のおかげでその気力も湧かない。
朝のHRで担任に咲夜の遠縁でこう見えて高校生、という無理のある紹介をされたレミリアは咲夜の隣に席を用意され、休み時間の度に「お菓子あげよっか?」だの「大人しく授業受けて偉いねぇ」だの「うちの子にならないか?」だのと散々クラスメイトに子供扱いされたレミリアは今にも噛みつきかねない勢いで、それを制するのにはかなり苦労させられた。
とりあえず「うちの子にならないか」発言の男子は将来の予想顧客対象として組織に個人情報をあらいざらい報告しておこうと思う。
それなりに偏差値の高い学校なので、うっかり彼が政治家にでもなれば強請りの種にもなるだろうし。
そして当のレミリアはといえば、小食なのかサンドイッチをひとつとトマトジュースを飲んだだけで食事を終え、今は物珍しそうに頭上の太陽を直視している。
「目を痛めますよ」
「……そうね。けど、日傘もないのに目を痛める程度で済むなんて不思議な感覚なのよ」
そう呟いた横顔は、本当に日光が珍しいと物語っている。
今朝も会社のオフィスビルを出る時に太陽の存在を認めて咄嗟に日陰に隠れていたし、仮にどこかの組織が彼女に「吸血鬼」の設定を吹き込んだのだとしたらそれはもう洗脳の域に達していると見て良いだろう。
レミリアの服装は例のドレスのようなものではなく、咲夜たちと同じこの高校の制服だ。
流石にどう贔屓めに見ても小学生の体格の彼女に合う制服はなく、一番小さなサイズでもブレザーの袖を折らなくてはならなかった。
それでも服に着られているという印象を受けないのは、彼女の言う「高貴な一族の血」の成せる業か。
しかし咲夜の瞳には彼女の姿はどこか弱々しく、儚げに映った。
この気持ちを表現する語彙を咲夜は持たない。
まさか噂に聞く恋心というやつだろうか。
だとすれば同性愛かつロリコンではないかと自身の性癖に咲夜が危惧を抱き始めた頃、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
我に返ると霊夢が美鈴の頭を蹴りつけ、魔理沙は自分の出したゴミをちゃっかり美鈴のブレザーのポケットに押し込んでいるところだ。
「ほら起きなさい美鈴。寝るなら教室戻ってからにして」
「んー、ふぁい」
「んじゃ午後の授業も頑張るんだぜ? 咲夜」
……午前の苦境を思い返し、目の前でニヤニヤと笑うこいつらを刺し殺しても閻魔様は許してくれるんじゃないかと咲夜は思った。
* * *
幻想郷でいうところの寺子屋を年齢や頭の出来ごとに建物と部屋を変えて区別した「学校」という場所から解放され、レミリアは咲夜に連れられ今朝出てきた建物とはまた異なる場所にやって来ていた。
この世界ではどこもそうなのか、周囲に並ぶのはやはり無機質かつ無骨な灰色の建物だ。
咲夜に聞くとビルと呼ばれる建物らしい。
ビルとは言ってもこの辺りにあるのは「雑居ビル」ばかり、ビルの中でもかなり小さいものだとも付け加えられた。
一体どこから湧いたのかという数の人波が往来する大きな道から逸れた、狭い道の一角。
複雑に入りくんだ汚らしい石の道は、両脇に林立する似たような背丈のビルを壁代わりにして象られた迷路のようだった。
実際、レミリアの視線の高さからすると周囲のビルは入り口や看板があることを除けば壁とたいして変わらない。
そのうえ歩を進めるごとに道が狭まっていくので壁が迫って来ているような錯覚すら覚える。
道というよりビルの群の間にある隙間だなと呆れたような感想を抱いて、思い浮かべた「隙間」という単語に今朝の苛立ちが再燃する。
「ここです」
立ち止まった咲夜が示したビルの入り口には『香霖堂古書店』というみすぼらしい看板が掲げられていた。
「自動ドア」という目の前に立つだけで勝手に開く扉は今朝の建物を出る時に経験済だ。
中に入ると古本ばかり集めたらしい本棚が息が詰まるほど詰め込まれた店の奥、「レジ」とかいう機械の乗った机の前まで案内される。
案の定というべきか、机の向こうにいるのは森近霖之助だ。
二人の来訪に気づいた霖之助は読んでいた本から軽く顔を上げ、咲夜と軽い挨拶をかわしつつ鍵束を手渡した。
壁際にある本棚を咲夜がずらすと、扉がひとつ現れる。
咲夜は慣れた手つきで鍵束から一本を選び、扉を開錠。今度は地下に続く階段が現れた。
たどり着いた地下は上の店と比べると相当に広い空間だった。
「ちょっと待ってて下さいね」
言われるまましばらく待つ。
目の前には等間隔に天井まで届く板で区切られた長い机と、その向こうにはやけに広いが何もない空間が広がっていた。
机の正面に立って一番奥の壁には区切られたスペースの数だけ白い紙が見える。
紙には黒で人影のようなものが描かれているのが遠目にもわかった。
やがて咲夜がいくつかの箱を抱えて奥の部屋から戻ってくる。
咲夜は箱のひとつから油紙の包みを取り出し、包みを解いて中身を手渡してきた。
「これは?」
「拳銃です」
「拳銃? 私の知っているのと随分違うけど」
幻想郷に行き着く以前はヴァンパイアハンターに狙われることも多く、彼らは銀の弾丸をこめたライフルや拳銃なる武器をよく使っていた。
しかし彼らの使っていた拳銃はどれも細長い筒とレンコンのような円筒形の部品を組み合わせたような形状だったと記憶している。
手渡された拳銃は弾の出る穴の大きさや引き金がある点はそれらと同じだが、シルエットは長方形の箱を二つ合わせたような形だ。
「ああ、それはリボルバー。回転式の弾倉を使うタイプの拳銃ですね。
これはオートマチック。この世界ではこっちの方が主流なんです」
英語はレミリアにとっては日本語より馴染み深い。
オートチックは自動的という意味だが、何が自動なのだろう。
まさか銃が自動で敵を狙い撃ってくれるのだろうか。
「ふふ、それなら楽で良いんですけどね。
オートマチックは排莢や次弾の装填が自動って意味です。
引き金を引き続けてる限り弾切れまで自動的に撃ち続けられる仕組みの銃をフルオートって呼びますから、
拳銃だと一部を除けばほとんどはセミオートマチックって呼ぶのが霖之助さん曰く正確らしいですけど。
あ、排莢っていうのは――」
咲夜はレミリアの知らない点について噛み砕いて、時には銃を分解して内部構造を見せつつわかりやすく説明してくれた。
弾丸は薬莢と弾頭とで構成されていること。
薬莢内の火薬が爆発する時に発生するエネルギーで弾頭が撃ち出されること。
オートマチックの拳銃では同時に発生するガスの圧力でスライドが後退し、空薬莢が排出されると同時に中のスプリングの力でスライドが戻るのを利用して次弾が装填されることなどなど。
「学校」も周囲の人間が鬱陶しくはあったが教師の話が純粋に興味深かったおかげで退屈はしなかったレミリアである。
新たな知識の獲得は長く生きているともはや娯楽のようなものだ。咲夜の講義にも真剣に耳を傾ける。
ちなみにこの拳銃はグロック26というらしい。
咲夜の使っているグロック30とは使用する弾薬が異なるだけで構造もほとんど一緒だそうだ。
比べてみると、確かに咲夜のものの方が銃身が若干長いだけで外見もほぼ同じだった。
装弾数は口径の関係上、咲夜のものより一発多く十発。あらかじめ薬室に一発装填しておけば十一発だ。
ちなみに基本的にサイレントキリング、音を立てない殺人を得意とする咲夜が拳銃を使う場面というのはあくまで緊急時で、口径が違うのは初速が亜音速ゆえに空気の壁との衝突音、つまり衝撃波が発生しないおかげでサプレッサーと相性の良い.45ACP弾を使うためだとか。亜音速とはいえ口径が大きい分、殺傷力は9mmパラベラムと大差はないらしい。また、咄嗟に使う場面が多いため安全装置がトリガーセリフティという引き金を絞る時に解除されるグロックは都合が良いとも。
「ブローニングとかあれば良かったんですけど、流石にもう骨董品だからなかなか手に入らないんですよね……。
レミリアさんの手の大きさに合う小型の拳銃でそれなりに装弾数も多いものだと後はこれくらいしかなくて。
まあ、9mmショートよりは9mmパラベラムの方が殺傷力もありますし、広く流通してるから好都合と言えなくもないですけど」
「ふぅん。で、なんで私にこれを? 確か、ここの法だと人を殺すことやこういう武器の所持は禁止されているんでしょう?」
咲夜の顔がきょとんと固まり、ややあって「ああそうだ肝心なこと話してませんでしたね」と呟いた。
どうやら学校にいる間に紫から連絡があり、レミリアに殺し屋としてのノウハウを仕込む役を仰せつかったらしい。
一応は自分を狙っている殺し屋として疑いをかけている上でそんなものを仕込む意図は理解しかねるが、咲夜によればそれだけ自分や自分の護衛に自信がある証左だとか。
それでも午前中のうちにレミリアの外見に該当する人物がどこかの組織に属していないか、目撃情報はないかなど情報網をフルに使って調べ上げた末の結論であるというから、本当にどこまでも食えない女だ。
「働かざるもの食うべからず」という組織の方針もあるようだが。
「専門はナイフ格闘術ですけど、私でも銃の取扱いくらいは教えられますし。
徒手での体術も一般的な軍隊格闘技ですから、美鈴の中国武術ほど身につけるのに時間はかからないでしょう」
「まあ、今の私は完全に人間の子供のようだし、力をつけられるならむしろ好都合だけれど。
咲夜に役目を押しつけた他の三人はどうしてるの?」
「たぶん仕事だと思いますよ。あの三人なら私がいなくても、というか単身でも簡単な仕事はこなせますし。
霊夢や美鈴にとってはむしろ、毎回無駄に騒ぎを大きくする魔理沙がいない方がやりやすいくらいじゃないですかね」
知らない言葉の意味を逐一尋ねつつ、それでも特に迷惑がるわけでもなく説明してくれた咲夜の話を整理すると、魔理沙はあれでも腕利きの狙撃手らしい。対物ライフルという無闇に強力な火器を使いたがる悪癖が致命傷寸前の欠点だが、それでも組織が捨てようとはしない優秀な人材。
霊夢は銃撃戦に長けていて、榴弾やトラップを交えた緻密で堅実な攻撃の組み立てでは右に出る者はいない。魔理沙とは逆に牽制以外で無駄弾を撃つことを極端に嫌う。それは明らかな浪費による弾薬の代金は組織の経費で落ちないことに起因するとか。幻想郷の霊夢同様、随分な守銭奴だ。
「まあ、メインで使うP90もサブのFN・Five-seveNも強力な代わりに値段の張る拳銃弾を共用してますから、無理もないとは思いますけど」
とは咲夜のフォローだ。実際、魔理沙の報酬の大半は無駄撃ちした弾の代金に消え、自宅も持たず他の三人のマンションやパチュリーの部屋に転がり込むことが多い。挙句に目を離すと「借りる」と称して家財道具を盗んでいくというから、こちらも幻想郷の魔理沙同様タチが悪い。
美鈴は八極拳と劈掛拳を中心とした中国武術の達人。暗器の扱いにも長けているので咲夜同様サイレントキリングを得手とする。銃の扱いに関してはプロとしてはギリギリで及第点。藍の元で英才教育を受けている小学生の橙と互角かそれ以下。
「それでも直に殺り合えば、橙が完全武装でも間違いなく丸腰の美鈴が勝つでしょうね」
などと咲夜が断言するほどだから、近接戦闘における人間離れした強さは推して知るべしである。
幻想郷では人間離れしているどころか本当に人間ではないのだが。
ついでに他の面子の専門も尋ねてみると、紫については企業や組織の運営者として優秀なこと以外よくわからないとか。こちらの紫もやはり胡散臭い。
藍は戸籍上、紫の妹ということになっているが直接血の繋がりはなく、殺しの腕は超一流。
狙撃も銃撃戦も近接戦闘もそつなくこなし、常に相手の苦手な分野に勝負を持ち込むので咲夜の知る限りでは組織内最強。
他に後方支援役として三人。
霖之助は武器弾薬の整備や管理、現場でのバックアップを担当。
永琳は戦場で軍医の経験もある凄腕の医者……といえば聞こえはいいが、実際は拷問の担当も多い。
パチュリーは組織の経理にデータ管理や情報操作、ハッキング、クラッキングといった情報処理担当で引きこもり。
どうも人間性については全員幻想郷の住民と変わらないようだ。
他は雑用係の下っ端や表の顔の企業運営に携わる構成員で、名前を聞いてもレミリアは知らない連中だった。
今のレミリアの立場は、橙と同じく修行中の殺し屋見習いといったところだ。
「で、貴女はどうなの咲夜? 仮にも私の師になるくらいだからそれなりに立場は上なの?
あの三人のまとめ役もこなしているようだし」
「いえ、まあ確かに成り行きというか三人に比べて組織では古株ですし、一応は状況判断力が一番的確ってことでまとめ役にはなってますけど……。」
他の三人の我が強すぎるのでその手綱を握らされている、というのが実際のところらしい。
そこでふと気になった。
組織では古株で、一応とはいえ咲夜はまとめ役、つまりリーダーを任されている。
今の今まで幻想郷の咲夜がそうなので気に留めていなかったが、
「なんで貴女、敬語なの? それも、仮にも弟子になる私の前でまで」
自身の従者と同じ顔をした者が霊夢や魔理沙にまで敬語なのは気に入らないが、この世界での関係がそうであるのならまだ許せる。
だがこの世界での関係というのなら、レミリアと咲夜は主人と従者どころか弟子と師匠だ。
咲夜が急に砕けた口調を使って来たならそれはそれで気に入らないが、しかしやはりどこか引っ掛かるのだ。
目の前の咲夜は、完全で瀟洒な従者である幻想郷の咲夜とは根本的に何かが違う。
詰るのに近い口調でのレミリアの問いに、咲夜は困ったような、苦った笑いを浮かべる。
その笑みがまた何かを取り繕うようで気に食わない。
「敬語は子供の頃から組織にいるせいかその、習い性というか。
一応、他の三人とは対等に話してるつもりなんですが」
「それでも子供の私にまでそのへりくだったような態度はおかしいでしょう?」
「それはその、レミリアさんの迫力に押されてというか……。」
いくら迫力があろうと、咲夜から見れば自分は力のない子供のはずだ。
仮にも一流の暗殺者であるという咲夜がたじろぐほどの気品や迫力が残っているというのなら嬉しい事実だが、学校にいた一般人の連中すらレミリアを子供扱いしたのだ。そんな事実はないはずだ。
苛立ちが募り、レミリアは核心をつく。
「なんでここの貴女はそんなに自信がなさそうなのよ」
図星を突かれたのか咲夜の表情がまた苦る。
ああ別にこんな顔をさせたかったわけじゃないのにと、レミリアの苛立ちは更に募った。
気がつくと、幻想郷の十六夜咲夜を引き合いに出して眼前の彼女を詰っている。
高貴な吸血鬼である自身に仕えるに相応しく、誇り高き完全で瀟洒な従者。
人の身でありながら「時間を操る程度の能力」を持ち、紅魔館の一切を取り仕切る従者の長。
人間風情の侵入を二度も阻めなかったことは瑕疵ではあるが、彼女は自身の不甲斐なさを恥じ、自害すら申し出た。
だがそれは目の前の咲夜が持つような弱気から来た申し出ではない。
レミリア・スカーレットに仕える者としての誇り、彼女の矜持がそうさせたのだ。
それを汲み取ったからこそレミリアは彼女の自害を止めた。
仮に彼女が目の前の咲夜と同じような内面を持つのならレミリアは止めなかっただろう。
いや、そもそも紅魔館に身を置くことすら許さなかったはずだ。
レミリアは幻想郷に置いて十六夜咲夜を少なからず認めている。
だからこそ十五夜の次の夜と"昨夜"という言葉を合わせ、「満月」を意味する今の名を与えたのだ。
「貴女には、吸血鬼である私を最も輝かせる『満月』を名乗る資格なんてないわ!」
畳み掛けるように投げかけたレミリアの言葉に、咲夜はざっくりと傷ついた顔を見せる。
その顔にまた苛立つ。
そんな顔をさせてしまった自身に苛立つ。
同時に、なぜ自分が人間如きのためにこれほど苛立っているのかと、更に苛立ちは増す。
咲夜は顔を伏せ、一言も反駁しないまま、消え入りそうな声で呟いた。
「ごめんなさい」
貴女が折れて謝る道理がどこにある、と一喝しかけ、謝罪を引き出した張本人としての自覚が辛うじてそれを呑み込ませる。
現実問題、レミリアは今この気に入らない咲夜の庇護下にあるのだという事実もブレーキになった。
それでも謝罪に対し謝罪で応える気にはなれず、結局「もういいわ」と我ながら不遜な口調で呟いて拳銃を手に取った。
結局この日はレミリアの機嫌が直ることはなく、拳銃の基礎的な扱いを事務的に教わり、マガジン三本分を撃ち尽くしただけで帰路につくこととなった。
* * *
熱湯の雫を頭から受けていた咲夜は、髪についた泡などとっくに洗い流されていることに気づいて蛇口をひねり流水をせき止めた。
意識がどこかへ飛んでいたようだ。
シャワーの雑音が消えた途端、浴室には静寂が満ちる。
足下のタイルを打つ雫の音すらやけに鮮明に聞こえた。
湯船には流水を浴びることには心理的にどうしても抵抗があるというレミリアに配慮して湯が張ってあるが、なんとなく彼女が浸かった後のそれを使うことは気が引けて、そのまま脱衣所へ出る。
着替えて寝室に向かうと、セミダブルのベッドではすでにレミリアが穏やかな寝息を立てていた。
そっとベッドの傍らに腰掛けて寝顔を見ると、やはり見た目だけならただの西洋人の無垢な子供だ。
意識せず絹のようなその髪に手を伸ばしかけ、
「……咲、夜……。」
測ったようなタイミングで彼女の口から漏れた名前に制される。
十六夜咲夜。
子供の頃に辞書をひもときながらつけた自身の名前。
本名ではないが、そもそも本名など覚えていないし、本名があったかどうかすら定かではないので今はこれが彼女自身を指す唯一の記号だ。
意味は「満月」。
決して日の下では生きられない自らの人生を自嘲してつけた名前でもある。
しかし、レミリアが寝言で呟いたそれは自分のことではないのだろう。
幻想郷。
そこに暮らす自分は彼女の従者で、どうやら自分とは顔と名前が同じだけでまったくの別人らしい。
『貴女には、吸血鬼である私を最も輝かせる「満月」を名乗る資格なんてないわ!』
レミリアを最も輝かせる「満月」。
それが彼女にとっての十六夜咲夜だ。
対して自分はどうか。
誇りなどない。
自分を誇れるはずがない。
よく血の臭いは錆びた鉄のようだと比喩されるが、咲夜にとっては逆だった。
壊れた銃の錆びた鉄の部品。その臭いを血に似ていると思った。
最初に知ったのが血の臭いなのだから、それは当然の帰結だ。
人生で最初の記憶は、顔にかかった血の臭いと味、そして手にした刃物越しに伝わる柔らかいものを貫き抉った生々しい感触だった。
大人の男を正面から突き刺し、内臓をぐちゃぐちゃに引き裂いて、吐かれた血を浴びたのだ。
物心ついた頃、咲夜はアフリカの紛争地域にいた。
自身の出自はよくわからない。
肌の色からして東洋人の血が混じっていることはわかるし、虹彩の色が青みがかっているのでおそらくは西洋人との混血だろう。
その程度だ。
なにしろ両親の存在が最初からなかったどころか、物心ついてからの手並みを思い返すに、それ以前からすでに何人もの大人を斬殺していたのだから。
当時はまだ髪の色は黒かった。それはハッキリ覚えている。同時に、今のような灰色の髪になった契機も。
咲夜は一人だった。
内乱で荒れ放題の国に子供が一人。
よく人買いや無法者に捕まらなかったものだと自分でも感心する。
しかし子供が一人ということは、当然食べるものにまず困った。
おそらく最初の頃は露店の商品をくすねていたのだろうが、やがてそれは店主を殺して背負えるだけの量を後から詰めるという簡単な方法に流れた。
戦火に飛び込めば火事場泥棒など容易かったし、兵士の死体から食糧や武器をくすねることもできた。
飢えがあまりにひどい時など、死体を解体して焼いて食べたことすらある。
戦場を転々とし、正確な年齢はわからないが十歳くらいの頃には、咲夜は立派な殺人鬼に育っていた。
人を殺すことと自分が生きることは同義で、自然で、なにひとつ疑問を抱いたことはない。
その頃にはより弱い人間から搾取する方が簡単だということも理解していた。
必定、狙うのは戦場などという危険な場所ではなく、まだ平和な町の民家などに移ろっていった。
銃という武器は反動が大きくて扱いづらい上、音がうるさくて人目を集めやすい。しかも弾の持ち運びがかさ張って仕方がない。拳銃以外は持たず、得物はやはり刃物を好んだ。
細い針金を二本使ってピッキングの真似事くらいはできたので、深夜に民家に忍び込み、まず抵抗されると厄介なその家の主人を殺す。
隣にはたいてい夫人が寝ていることが多いので、悲鳴を上げられる前に喉笛を掻き切った。
子供がいれば全員まとめて大ぶりのブッシュナイフで首を抉り、一家を皆殺しにした後でゆっくりと食糧や金目のものを漁る。
たいてい強盗に入った後は町全体の防犯意識が高まり、どうしても容姿が目立つ咲夜は疑いの目を向けられた。
だから一晩で二、三軒も襲った後は夜明け前にまた別の町へ向かう。
そうしたことの繰り返しだった。
出会いはある比較的大きな町の、比較的裕福な屋敷でのことだった。
リスクは高いが、すでにある程度の自信をつけていた咲夜は腕試しのつもりで普段は避けるようなその家を狙った。
そろそろ研ぎ減らして強度が落ちたナイフを新調したいという経済的な欲求もあった。
見るからに軍人上がりの屈強な警備員の巡回の隙をつき、人目のない路地に面した屋敷の外壁からはみ出した樹の枝に近くの酒屋から持ち出した木箱を足がかりに跳び移り、侵入。
裕福とはいってもあくまでその地域でのレベルの話、先進国から見れば二束三文の給料で済む人件費はともかく、輸入品で高価な上に維持費もかかる防犯カメラなどは設置されていなかった。
物音も立てず樹の幹から滑り降り、軍用犬の鼻を誤魔化すため風下を選んで中庭を横切った。
屋敷の窓に軍人からせしめた応急処置キットの中の医療用テープを貼り、ナイフの柄で叩き割ればたいした物音もなく、後は空いた隙間から開錠するだけで屋敷への侵入も容易だった。
異変が起きたのは咲夜が慎重に屋敷内部を奥へと進んでいた時だ。
表門の方で爆音が轟いた。
想定外の事態に咲夜は混乱した。
見咎められて背後から銃声が響くというならまだ理解できるが、外からの爆音など意味がわからない。
加えて爆音は断続的に続き、堂々と表門から正面玄関、そして屋敷内部へとまるで巨大な怪物の足音のように響き続けていたのだ。
音からして手榴弾。手榴弾はあくまで対人用なので屋敷を吹き飛ばす威力こそないが、それでも爆音の度に屋敷が揺れる。
咄嗟に侵入経路を逆に辿っての脱出が得策と判断したが、運悪く屋敷内部の警備員が慌てた様子で駆けて来て進路を塞いだ。
軍人上がりの警備員なら当然銃器で武装している。
複数人相手に拳銃とナイフでは部が悪い。
警備員を避けるように移動を続けると、逃走経路から外れ爆音の方に近づいてしまった。
と、駆ける通路の先に武装もしていない小太りの男が見えた。
屋敷の主人かと咲夜が判断して駆け出すと、その男の身体が爆ぜた。
爆発物を武器にする敵に対し距離を取るのは逆効果。
そんな計算から身を低くしつつも駆けながら爆風と破片をやりすごすし目をこらすと、舞い上がった細かな瓦礫と煙の中から小さなシルエットが現れた。
煙が晴れて現れたのは咲夜より少し年下かという一人の少女。
金色の髪に紅い瞳を持った白い肌の、それが太陽のような顔で笑うフランとの初対面だった。
「ああ、そっか」
昔のことに思いを馳せて、ようやくそのことに思い至った。
傍らで眠るレミリアというこの少女と、フランはどこか似ていた。
髪の色こそ違うが、瞳の色は同じ紅。
フランは先天性色素欠乏症、アルビノだった。
レミリアも全体的に色素が薄い。
吸血鬼の特徴と言われて特に追及しなかったが、それは過去の記憶が無意識にフランの存在の連想を拒んだのかもしれない。
一度思い至ると様々なことに納得がいった。
自分がレミリアになぜか逆らえない理由。―― それは罪悪感の裏返し。
レミリアに対し不思議とこみあげる愛おしさ。―― それは失った過去への感傷。
咲夜の瞳に映るレミリアの儚さ。―― それは実際に、彼女が儚かった事実を刻まれているから。
そんな彼女を見て自分が抱いた感情の正体。―― それは……。
「……ッ」
認めることを咄嗟に拒んだ。
彼女はフランではない。
それはもう、自分が二度と抱いて良い感情ではない。
溢れかける感情をせき止める。
これ以上レミリアの寝顔を見ていると自分自身が壊れる気がした。
常に死線を潜り抜けてきた咲夜にとって、精神的な死は肉体の死への恐怖に勝る。
今の自分がどんな顔をしているのかすら知るのが怖く、目を伏せて鏡台の前を横切って寝室を後にする。
そうだ、昼間あんなに機嫌を損ねてしまったのだから朝目覚めて自分が傍にいたら不快だろう。
言い訳のように意識へ蓋をして、咲夜はリビングのソファに横たわる。
これから見る夢すらもどこか恐ろしく、寝つけたのは結局明け方近くになってからだった。
* * *
周囲は血の海だった。
昼間の日光に照らされ、いっそ鮮烈なほどの赤が輝いていた。
血の海のそこかしこに、原型を留めていない肉片が転がっている。
紅い虹彩の眼球が転がっている。
肉片も眼球も、血の海すらも、ぶすぶすと音を立てて煙を上げていた。
同じように煙を上げじりじりと焦げていく腕の中では、金色の髪をした女の子が泣いていた。
泣きながら、笑っていた。
「アハハ、姉さま。おかしいんだよ姉さま。
フランがね、ぎゅってしたらね、どかんって音が鳴ってね、お父さまとお母さまがね、バラバラになっちゃったの。
アハ、ハハハ、ハハハハハ、おかしいよね、ねえおかしいでしょ?
どうしたの姉さま、おかしくない? アハハ、フランね、お父さまもお母さまもね、大好きだったの。
お姉さまと同じくらい、本当に本当に大好きだったの。アハハハハハッ!
けどね、フランがね、フランがね、アハハハ、ハ、あ、あぁ、あぁぁぁあああああああああああああッ」
レミリアはそっと、しかし恐ろしい速度で妹の首筋を打った。
途端にくたりとその身体が弛緩し、重みが腕にのしかかる。
「この子を屋敷の中へ」
「は、はい。しかしお嬢様も早く――」
「二度は言わないわよ」
「っ、か、かしこまりました」
使用人が日傘を差してフランを屋敷へ連れて行くのを見届ける。
日陰に入ったおかげか、フランの焼け焦げた肌はみるみる元の白磁へと戻っていった。
自身の肉が焦げる音を聞き、臭いをかぎながら、レミリアはもう一度、内側から弾け飛んだ両親の遺骸へ目を向けた。
すでに血の海はなく、そこには燃え猛る炎があるだけだった。
これは、事故だ。
両親が幼い妹を連れて中庭の散歩の誘いにレミリアの自室を訪れたのはほんの半時間前。
読書中だったレミリアはもうすぐ読み終わるからと、先に三人を送り出した。
その間に起きた、これは事故。
フランの能力をこの目にするまで両親も自分も知らなかったがゆえの、ただの不幸な事故なのだ。
レミリアが日傘を差して中庭に出て、三人の姿を見つけた瞬間、それは起こった。
フランが自分の両の掌を不思議そうに見つめ、両親にそれを見せようと掲げ、しかし両親にも自分にもそこには何も見えず、両親の反応にうな垂れたフランが掌を閉じた瞬間、両親は肉片に変わった。
それでもこれは事故なのだ。
レミリアが日傘を投げ捨て駆け寄った時には、フランは大粒の涙をぼろぼろ零しながら壊れた人形のように笑い続けていた。
可哀想なフラン。可愛いフラン。愛しいフラン。
貴女は何も悪くない。
だってこれは事故なのだから。
フランは悪くないのだから、あんなに可愛くて愛しい妹を責める理由なんてどこにもない。
では、どうしよう。
この胸の奥で煮えたぎる感情はどこにぶつければいいのだろう。
ああ、そうだ。
思い至って、レミリアは青空を仰いだ。
燦々と照りつける太陽をきつく睨んだ。
お父さまとお母さまの葬儀すら邪魔するなんて、なんと無慈悲で非道なのだろう。
お前のせいだ。お前が悪い。
八つ当たりだと理解しつつも、我が物顔で空に浮かぶ灼熱を恨まないことには、この気持ちはどうにもならなかった。
レミリアは睨み続ける。
顔の皮膚が焦げ、眼球内の水分が沸騰し、四肢が炎に包まれ始めてもなお、激痛を忘却したように睨み続ける。
使用人の慌てた声が駆け寄り、意識が完全に途切れるまで、レミリアは憎悪をこめて睨み続けた。
それはもう、数百年前の出来事だった。
自覚は薄いものの、レミリアが人間嫌いになったのはそれ以来のことだ。
元々捕食者と被捕食という種族的な関係もあって人間を軽んじてはいたが、そもそも"嫌い"という感情は実は相手を対等か上に見ていなければ出てこないものだろう。
直截に言って、レミリアは人間を妬んでいるのだ。
太陽の光は吸血鬼にとってなんの比喩でもなく暴力的で破滅的で、そんな太陽の下を喜び、あまつさえその恩恵に預かって文明を維持しているという事実がまた恨めしい。
おそらくは難しかったと理解しつつも、あの"事故"の現場が太陽の下でなければ両親は吸血鬼の再生力で助かったかもしれない。
両親が助かって「気にすることはない」と慰めてくれたなら、フランの気がふれて地下に閉じ込めるような真似はしなくて済んだ。
多少気がふれていても、フランは両親の死が自分のせいで、だから罰として地下へ幽閉されることは当然だと認められる程度の思考力は保っている。保ってしまっている。不服ならそもそもその能力で地下室を破壊している。
「気にすることはない」「貴女は悪くない」「幽閉は私の力不足で貴女を制御しきれないのが悪いだけなの」
レミリアが何度言い聞かせても、"事故"の"被害者"ではない自身の言葉は自分でもわかるほどに空々しく、フランは力なく笑うだけだった。
もう二度とフランの無邪気な笑顔を見ることは叶わないのだ。
レミリアが大好きだったあの、太陽のような笑顔を。
これほどに焦がれている太陽を、しかし憎むことなしでは両親の死を処理できなかった。
焦がれているからこそ、太陽の光を謳歌する人間が妬ましい。
そんなレミリアの内面はきっとどこかが致命的にねじれている。
そして数百年の時を経てどこまでも固くねじれ曲がった糸は、自分ではもうほどくどころか直視することさえできなかった。
人間を妬んでいる自分。その理由を考えることが、認めることが恐ろしい。
だからこそレミリアは殊更に吸血鬼の種族的優位をひけらかし、どこまでも人間を見下す。
見下すほかに、己でも気づかぬほど頑なにねじれ曲がった内面を御する術をレミリアは知らない。
* * *
「で、私としてはなんでアンタたちがお互い意識し合ってる小学生みたいになってるか気になるわけだけど?」
ま。アンタはどうみても小学生だから相応だけどね。
毒舌を混ぜて霊夢がレミリアにそう尋ねたのは、彼女の登校三日目の昼休み。
例によって日の照りつける屋上である。
「べ、つに意識してなんかないわよ」
応えるレミリアの声は頑なで、それだけで自分の指摘は的を射ていると霊夢は確信できた。
そもそも子供扱いをやたらと嫌う彼女が小学生扱いではなくこちらに噛みついてくること自体がその証左だ。毒舌を混ぜたのもさりげないベイトだった。レミリアが確実なはずの餌に食いつかなかったことが霊夢の確信を裏づける。
図書室で借りた辞書を読み込んだ成果か、三日目にして彼女は日本の常識的な単語や概念について理解を深めている。小学生の意味がわからなかったなどという言い訳は通用しない。
辞書を借りたのは昨日のことで、「いちいち咲夜に訊くのもわずらわしいから」と付け加えた口調は言い訳であるのが透けて見えた。
「そうですね、そうしてもらえると私も助かります」と、咲夜の取り成しもフォローのつもりで実は墓穴だ。レミリアのことは面倒ではあっても迷惑とは思っていない。
暗殺業種の人間のくせにクラスメイトに押し切られて委員長など任されるのが咲夜の性格。
普段の彼女なら「気にしなくても良いんですよ」とレミリアを気遣う場面だったろう。
一晩で広辞苑を丸々一冊読みきり理解する知能と記憶力はたいしたものだが、人間関係の機微については霊夢に一日の長がある。
「まあいいけどね、私には関係ないし。で、咲夜は風邪だって?」
気になっていたことを確認できたのでそれ以上は深く踏み込まず、本日不在の一方の体調について話をシフトする。
昨日の二人の距離感は初日に比べて妙だった。近づいたようなむしろ遠ざかったような。
しかし仕事上の仲間ではあっても友人ではない咲夜の内面も、この吸血鬼様(未だに霊夢は半信半疑、正確には三信七疑といったところだが)の内面も、当然二人の間に何があったかなども霊夢の預かり知るところではない。
状況次第で精神面が戦局を大きく左右することも多い。咲夜に対する現場での処置を考え事務的に確認しただけのことだ。
命を預けることもある仲間でありながら友人ではないとは我ながら一般的な価値基準とかけ離れているなとは思うが、それが霊夢の他人との距離の取り方なのだから仕方ない。信用と信頼は別物だ。
「本人はそう言っていたし風邪気味みたいなのは本当だけど。ただ、顔色からして生理じゃないかしら。隠してたけど痛みもあるみたいだったし」
「へえ」
単に年齢の平均よりも早いだけか、それとも彼女の言う「幻想郷」の咲夜も人間らしいので知っているだけなのか(そもそも吸血鬼に月経があるのかどうかなど真面目に考える気にもなれない)は判断できないが、どちらにしてもそこに気づけるとはたいしたものだと内心で舌を巻く。
生理か風邪かなど見た目で判断するのは難しいものなのだが、「風邪」と釈明された上で顔色からそれを疑えるなら十分に敏い。咲夜が隠した痛みなど、霊夢でも疑いを持ってかからねば気づくのは難しい。
「あれ、レミリア来ちゃったのか? なら今夜は日本の伝統的にお赤飯だぜ」
まあ、小学生男子じみた下世話な思考回路を持つ馬鹿がいるこの場で「生理」と言葉も濁さず口に出してしまう辺り、社交性の稚拙さが垣間見えるが。
霊夢は小学生男子こと魔理沙にせいぜい侮蔑しきった顔を作って「違うわよ」と言い捨てる。
ちなみに美鈴はまたぞろ昼寝の真っ最中だ。魔理沙にさんざん遊ばれて、顔の落書きが年頃の乙女としては悲惨なものになっている。
「咲夜のこと」
「ん? アイツのってまだ先じゃなかったか?」
女所帯であることと職業柄もあってお互いの月経周期はだいたい把握している。
確かにいつもの周期なら咲夜のそれはまだ先のはずだ。
まあ、精神的なものが影響することもあるので一概には言えないが。
しかしこれまで咲夜が精神的な何かで周期を乱したことはないはずだ。
口では何と言いつつも子守り程度のストレスで体調に異変をきたすようなタマでもないだろう。
仮に目の前の自称吸血鬼が咲夜が体調に異変をきたすほどの精神的揺さぶりをかける原因とするならやはりもう少し踏み込んでおくべきかと逡巡し、結局はやめておく。
子供のわがまま程度で咲夜が体調を崩すはずもないし、だとすれば踏み込む範囲は咲夜の過去とかそういう次元になってくる。そこまで踏み込む権利は自分にはないし、立場を置き換え仮に自分が踏み込まれたとしたら霊夢は拒絶する。他人にされて嫌なことは自分もしない、程度の良識は仲間の間でくらいなら働かせてやるのが人情としたものだろう。
「しっかし咲夜が周期乱すなんて初めてだぜ。
なんだレミリア、咲夜の弱味でも握ったのか? だったら教えてくれ」
……本物の小学生男子にその程度の良識を期待しても、この馬鹿よりは応えてくれるんじゃなかろうか。
辟易しつつ、魔理沙の頭を割と容赦なく殴りつけてやる。肘で。
「ってぇー! おま、流石に後頭部はひどくね!?」
「ああごめん、それ以上脳細胞減ったらいよいよ仕事の邪魔になるもんね。次からは生爪にする」
「怖ッ! 真顔な上に生爪くらい幾らでも剥いだ経験ありそうだから余計に怖ッ!」
「いや、再起不能にした方がむしろこっちの仕事が楽になるか……?」
「やめろー! 真剣な顔で再起不能か生爪かを吟味すんなー!」
涙目で振り返った魔理沙を適当にあしらっていると、魔理沙の肩越しにレミリアと視線が合う。
レミリアは見ようによっては会釈に見えなくもないような角度で浅く顎を引いた。
どうやら彼女としてもあまり深く踏み込んで欲しくない話題だったらしい。
高飛車なだけかと思ったけど礼儀は知ってんのね、と霊夢は意地悪く思う。美鈴が学校では使い物にならない、魔理沙に至っては論外ということで咲夜の代わりに今日の彼女の面倒は自分が見る羽目になった八つ当たり気味の感想だ。仕事中の負傷等で咲夜が出席できない事態は当初から想定されていた。レミリアの表向きの紹介は留学生、幅広く日本の学生と付き合ってもらうために咲夜とは幼馴染という設定を持つ霊夢が面倒を見ることもあるという事情も含んでいたので覚悟はしていたが、理事に組織が絡んでいるこの高校はこうした時に便利というか厄介というか。
まあ、表情から不本意さを隠し切れてない辺りは逆に子供らしい可愛げがあってよしとして八つ当たりは口には出さない。
代わりに軽く片目をつぶって気にするなと応じてやる。
レミリアはもう一度、さっきよりもう少しだけ深い角度で顎を引いた。
* * *
突如現れた金髪の少女は、にこりと笑うと無造作に手の中に握っていたものを咲夜へ放った。
手榴弾が二つ。パイナップル状のそれは闇市場や戦場に出向けばいくらでも手に入る。
ほとんど反射的な判断でナイフを捨て、廊下を少女に向けて駆けながら放られたそれらを中空で掴んだ。
掴んだというよりは空中で触れて投擲速度を加速させたという方が正確かもしれない。
背後に飛んだ榴弾が炸裂し、爆風で飛来した破片が背中に刺さる。
手榴弾はあくまで対人用、爆発の威力は直近で受けなければ致命には至らない。
むしろ爆発より破片の殺傷力の方が高いくらいだ。
背中には戦利品を入れるための厚い布地の背嚢を背負っていたのでその破片の威力も半減できた。すぐ取り出せる外側のポケットに予備のナイフが入っていたことも功を奏したと言える。
もちろん瞬時にそこまで計算したわけではなく、単に戦場で培った経験が為せる判断だった。
一瞬呆気に取られていた少女が引きずっていた布袋から新たに手榴弾を取り出そうとするが、元々距離を詰めるつもりで廊下を駆けていた咲夜の方が速い。
榴弾を掴み出した手とピンを抜こうと伸びた手を、両方手首をねじ上げて封じる。
その姿勢のまま足を払って床に押し倒す。マウントを取り、しかし両手は自分も塞がっているので頚動脈でも喰い千切るかと首筋に顔をよせた咲夜の動きを、少女の声が急停止させた。
「すごい! すごいすごいすごい!」
「え、ちょっとアンタ――」
「お姉さん名前は!? わたしはフラン。すごい、こんなすごい人はじめて見た!」
命乞いの時間稼ぎでもなんでもなく、純粋に驚きを嬉々として声に出す少女に流石の咲夜も呆気に取られた。
「死ぬ前に教えてよー! なーまーえ! ねえ、せめて名前!」
どうやら咲夜が完全に殺す気でいたことにも気づいている。
だというのにこの嬉しそうな表情は何だ。
困惑しつつも、屋敷の主人を殺したということはこの少女は直接咲夜と対立する立場にはないことに考えが至る。
「……ないわよ。名前なんて」
念のため手榴弾と彼女が引きずっていた布袋を奪ってから、ぶっきらぼうに答えつつ解放してやる。
盗品の売り渡しの際など必要に応じて偽名などは使い分けていたが、少女が求めているような名前をこの時点での咲夜は持っていない。
フランは露骨にがっかりした顔を見せたが、「それじゃあ」とまた表情を太陽のように輝かせる。
ころころと表情のよく変わる子だ。当時の咲夜は彼女の笑顔にその程度の感想しか持たなかった。
「なんでお姉さんわたしのこと見逃してくれるの?」
「別に。私はこの屋敷の住人じゃないし、単に盗みに入っただけだもん」
「あ、じゃあわたしと一緒だ。わたしもこのお家に色々もらいに来たの」
仲間を見つけたといわんばかり更に表情を輝かせる。
玄関先から手榴弾で問答無用に障害物も人も吹き飛ばしておいて「もらいに来た」とは随分と穏当に言い換えたものだ。
「色々」の中に人間の命も含まれているのだが、はたしてこの能天気な子供がそんなことに理解が及んでいるかどうか。
咲夜は当時から子供にしては長身だったので、自然と外見も中身も幼い彼女を自分より年下に見ていた。
いま思えばそれほど年齢に差はなかったのだろうが、そもそも比較対象になる子供にまともに出会ったのもフランが初めてだ。
と、廊下から複数の大人の足音が近づいて来ていた。
咲夜は表情を引き締め、フランに布袋を返した。
フランはそれを手に取っていいものかどうか迷うような素振りを見せたが、
「この騒ぎじゃたぶん警察も来てる。私一人じゃ苦しい」
皆まで言わせるなという苛立ち混じりの声を聞くとまた表情を輝かせ、布袋を受け取った。
慣れた手つきで手榴弾を両手に掴み、口でピンを抜いて安全レバーだけ握り締めている。器用にも片手には布袋の端も保持されていた。
咲夜も背嚢から破片のダメージを受けていない予備のナイフを抜き、先行する形で足音の方向へ駆け出した。
その夜以来、やたらと懐いてくるフランを振り切りきれず、なし崩し的に仕事を共にするようになった。
フランが手榴弾で敵を陽動し、その隙に咲夜が家人を襲うという方法は存外に効率的で、狙える家もかなりグレードが上がっていった。
外見や精神面はともかく、それまで一人で咲夜と似たような生活を送っていたフランの殺しの腕に稚拙さは一切ない。
手榴弾を敵が投げ返す余裕のないタイミングで的確に投擲する腕もさることながら、爆発物全体の取り扱い自体に慣れているようだった。
「どうしてアンタ、そんなに爆薬の扱いに慣れてるの?」
不意に以前から気になっていた疑問が口をついて出たのは、フランがダミーの手榴弾で敵を怯ませ、その隙に咲夜が全員斬り伏せるというコンビネーションも板についてきた頃だった。
その日のねぐらに選んだ投棄されたトラックの中。
珍しいものが手に入ったとC4プラスチック爆薬の雷管を夢中でいじっていたフランは、その質問で視線を宙に向けて昔を思い出す仕草を見せた。
話によるとフランも孤児で、物心ついた頃には武装ゲリラに養われていたらしい。
ゲリラは他国の傀儡となっている政府への反逆を企てる、たいそうなお題目を声高に掲げて実態はただの山賊と変わらない集団とは一線を画す組織だった。
戦火に巻き込まれて孤児となった明らかに人種の異なるフランやその姉を保護し、特に暴行も受けていなかったというからには、そこそこ誇り高い人間が集団を纏めていたと見える。
玩具といえば壊れた銃器や兵器の類。
銃の単純な構造にはすぐに飽きてしまい、フランの興味は薬品の調合、分量の調整や雷管の構造などが複雑怪奇で面白い爆薬の方へ自然と流れていったのだという。
生来の天才か、戦火に巻き込まれていたというからにはフランの親が他国の軍事関係者でその下地ができていたのか。
どちらにせよ武装ゲリラがフランと、彼女同様射撃について目を見張る才能を見せていた姉へ向ける目は保護すべき子供から、前線で役立てるべき逸材に変わっていった。
それを不幸と取るか幸運と取るかは微妙なところだ。
そのゲリラは最終的に姉を含めて政府軍の手で鎮圧、要するに虐殺され、フランを残して全滅した。
幼い二人は最後まで仲間の手によって逃がすために動かされ、しかし最期は姉がフランの盾となる形で彼女は一人になった。
フランや彼女の姉に軍事的な才能がなければ前線に出てそんな最期を迎えることはなかったとも言えるし、逆に才能なしでは幼い子供二人は庇護者をなくして野垂れ死んでいたことだろう。
「どうして泣いてるの?」
「え……?」
フランに指摘されて初めて、咲夜は自分の視界が滲んでいることに気がついた。
頬に触れたフランの指先が雫を拭う。
自分でも戸惑った。
飢餓や怪我の苦痛で涙をこぼしたことはあっても、他人の境遇に涙する自分が自分でも理解できなかった。
理解できないながらも、気づくと力一杯フランを抱きしめていた。
代わりに自分のこれまでのことを話すと、フランもやはり泣きながら咲夜の背中に華奢な腕を回した。
――この子を守りたい。
それは咲夜が生まれて初めて抱く、生存本能以外の感情だった。
その夜はお互いに泣きはらし、身を寄せ合って同じ毛布の中で眠った。
*
目が覚めて枕もとの目覚まし時計を見ると、もう正午を過ぎていた。
薬のおかげか、頭痛や腹痛はほとんどない。
起き上がるとしかし、まだ腰の辺りに鈍い痛みがわだかまっている。
初日から二日目にかけては特にきつい。
風邪がなければ登校くらいは可能だが、それでも毎月この二日間ほどは紫に休みを貰っている。
日本にいなければ初潮を迎えた段階で死ぬことになっていたかもしれないなと、直前に見ていた夢のせいか自嘲的に考えた。
夢で見た太陽のような笑顔を思い出す。
フラン。
名前があるのは、姉が覚えていてくれたおかげだと言っていた。
呼び合うときに不便なので、フランは咲夜のことを「レミィ」と呼んだ。
彼女の姉の名前だったらしく、それはつまり姉と同格に懐かれているということなので面映い想いもしたが、いま思えば正式には「レミリア」なのではないかと考えが及ぶ。
レミリアはこの世界で出会う人々がことごとく「幻想郷」の住人と同じ名前と顔を持っていると言った。
「幻想郷」がSF小説で言うところのパラレルワールドであるのなら、この世界にかつてレミリア自身が存在していたとしても不思議はない。
それを考えると罪悪感がますます重くなった。
この世界のレミリアが命を賭して守り抜いた存在を、自分は――。
またぞろ考えがネガティブな方向へループしかけた時、枕もとに置いてあった携帯が着信を告げた。
デフォルト設定のままの味気ない着信音は電話のそれだ。
表示を見ると「博麗霊夢」。
学校で何かあったかと怪訝に思いながら通話ボタンを押すと、相手はしばらく無言だった。
色々と不穏な可能性を危惧し、警戒しつつもこちらから声を出す。
「もしもし」
『あ……咲夜?』
その声で、一瞬息が詰まる。
一昨日からお互いぎこちないのに、今まさに彼女のことを考えていたところとなれば尚更だ。
「はい、レミリアさん。学校でなにかありましたか?」
なんとか取り繕って平静な声を出すが、うまく取り繕えているかは我ながら微妙なところだった。
レミリアは逡巡するような間を残してから、振り絞るように言った。
『体調は大丈夫? あとその、何か欲しいものとかない?
帰りに買って帰るから。あ、えっと、お金は霊夢が貸してくれるって言うし。
この携帯電話? だっけ、これも霊夢に借りたんだけど、その』
「いえ、特には大丈夫ですが……。」
『そ、そっか。なら良いんだけど。あの、』
電話の向こうからはぎゃーぎゃー喚く魔理沙らしき声が遠ざかっていくのが聞こえる。
どうやら霊夢と美鈴の羽交い締めで野次馬を阻止されているらしい。
この電話もおそらくは霊夢からかけさせたのだろう。
頑なな線引きをしつつも意外と仲間想いの彼女らしい。
『えっと、体調乱れたのってやっぱり私のせいだろうし。
だからその、それだと寝覚めが悪いって言うか……。』
風邪ではなく体調の乱れ、と言葉を選んだのは、おそらく体調不良の原因が風邪だけではないと見抜かれている。
意外と目敏いなと苦笑しつつ、自然に口元がほころんだ。
レミリアなりに責任を感じてくれているのだろう。
「ああそうだ。それじゃあ、ケーキかなにか買って来てもらえますか?
ちょっと甘いものが食べたい気分なので。二つほど」
『わかった、任せて! それじゃ、ええと、霊夢! これってどうやって切るの?』
沈んだ口調が花が咲くように一転した。
風邪は二日続けてリビングで寝た自分の体調管理の甘さのせいだが、周期の乱れは責任はともかく確かに彼女の来訪の影響なのが事実だ。
それを感じ取って彼女が落ち込んでいるのならここは甘えておくのが得策としたものだろう。
二つ頼んだのはもちろんレミリアの分だ。
魔理沙を美鈴に任せたのか、霊夢が駆け寄ってきてレミリアから電話を取り上げるのが気配でわかる。
『咲夜? アンタ勘弁してよね。この高飛車お嬢様の面倒まともに見れるのなんてアンタくらいなんだから。
ま、二日くらいは我慢してやるわ。訓練も射撃ならあんたよりがっつりスパルタで鍛えてやれるし』
「ええ、ごめんなさい。お願いしますね。それと……ありがとう」
率直に滑り出た謝罪の言葉だったが、霊夢は一瞬戸惑うような気配を見せた。
すぐに取り直したのか、続く呆れたような声はいつも通りの憎まれ口だ。
『お礼なら言葉より現ナマで頼むわよ。
あ、立て替えたお金も当然利子付きで取り立てるからそのつもりで。それじゃね』
一方的に告げて通話は切れた。
後半が声を潜めての発言だったのはレミリアに配慮したものらしい。
素直でないことにかけてはレミリアも大概だが、霊夢のそれも筋金入りだ。
苦笑しつつ電話を置いて、寝溜めのつもりでもう一眠りしようと布団に潜る。
電話の直前まで気分は沈み、自身へ向けてささくれていたはずなのに、不思議と次の眠りに落ちるまでは早かった。
* * *
「……アンタ、ほんとに例の若い殺し屋じゃないんでしょうね?」
感嘆したような声で呟いたのは霊夢だ。
視線の20m先にはターゲットの中心に重なり合うような穴の空いた紙がある。
「失礼ね。慣れるの結構苦労したんだから。グリップが太くて握りづらいし。
それに、特に標的が動くわけでもないんだからこれくらい当然じゃないの?」
「つったって、初めて銃に触って三日も経たずにこれは……。」
ただごとじゃないわ、と霊夢は呟いた。
一昨日、昨日に引き続いての射撃訓練の最中だった。
その前の近接戦闘の訓練でも昨日咲夜に教わった、それほど力の要らない関節技や投げ技を使うと霊夢は感心していたが、彼女の専門だけに射撃に関してはその度合いも大きいらしい。
射撃というのは要するに派手さも華麗さも無視し、ただ道具を使って標的に弾を当てることに特化した「弾幕ごっこ」のようなものだ。
特に拳銃は連続で弾を放つわけでもなし、反動をうまく抑えるコツさえ掴めばたいしたことではないと思うのだが。
「まあいいわ。次」
メニューはその後、サブマシンガン、アサルトライフルと続いた。
サブマシンガンは精度に定評のあるMP5シリーズの中でも特に小型のH&K・MP5K-PDW。
アサルトライフルではM16の短銃身モデルであるM4A2カービンをそれぞれ用いた。
背が十分に届いていないので木箱に乗って標的狙わなければならないのは少し格好がつかないが、どちらもニキロそこそこの重さなのでレミリアでもなんとか扱えた。
MP5はグロックと同じ拳銃弾である9mmパラベラムを使うので反動の制御も容易だが、M4はライフル弾なので流石に難しい。
それでも扱うのが二日目ということもあり、膝を曲げて全身で反動を制御するコツを掴んでからは持て余すほどではない。
「スピア・ザ・グングニル」などは威力の分、吸血鬼にとっても大きな反動があるのでそれを思えばまだ楽なほどだった。
フルオートで短連射を繰り返したが、これもほとんどターゲットの中心近くに着弾を集中させることができた。
それを見て霊夢が絶句している。
どうやら人間の子供としては破格の成績らしいことは流石にわかる。
そういえば昨日、似たように絶句した咲夜に永琳のところで視力検査とやらを受けさせられたが、そこでも二人はやはり絶句していた。
吸血鬼としてはおそろしく視力が下がっているつもりなのだが、それでも人間にとってはありえなくはないが滅多にないレベル、程度にはこの世界の常識も配慮してくれたのか。
「ちょっと武道場で待ってて」
「? いいけど」
しばらく思案げにしていた霊夢は例の「携帯電話」を取り出し、地上へと出て行った。
待つ間が手持ちぶさたなので、言われた通り畳の敷かれた武道場で昨日咲夜に教わった動きを相手を思い浮かべながら繰り返す。
服装は昨日「ユニクロ」という店で買ったTシャツと短パンなので汗を流す分には問題ない。
そういえば流石に打撃は弱いと言われていたか。
思い出してオープンフィンガーグローブをつけ天井から吊るされたサンドバッグを頭の中で人間に置き換え、教えられた急所になる部分へ的確に打撃を叩き込む。
汗でシャツが湿り始めた頃になって霊夢が戻ってきた。
「これから出るわよ。服はとりあえず制服でいいわ。サイズは橙ので間に合うだろうし」
発言の意味はよくわからなかったが、とりあえずレミリアは急かされるまま制服に着替え直した。
*
サイズというのは防弾ベストや服のことだったらしい。
制服から手渡された黒いシャツにベルト付の長ズボンに着替え、訓練場から持参したスニーカーをはいた。
その上から防弾ベストを身につけタクティカルベストを羽織り、ベストのポーチにはペイント弾の詰まった予備マガジン、刃がゴムになっているナイフを入れた。
ベルトに提げたヒップホルスターにはグロックを挿し、肩からはスリングでMP5を吊っている。
目元はゴーグルで覆い、手には革製の、指が露出した手袋。
広い空間の向かいには同じ装備の橙がやや困惑気味に佇んでいる。
コンクリートで構成された空間は学校の体育館ほどの広さがあり、そこかしこに自動車やトラックといった障害物が無作為に配置されていた。
霊夢に連れられ「電車」なる乗り物を乗り継いでやって来たのは、また別の建物だった。
表向きは永琳の勤める病院らしいが、隠し通路を通って辿り着いたのはやはり地下だ。
『それじゃ、ルールの確認ね。胴体や脚に被弾した場合は十秒間、身を伏せる以外の行動は禁止。
脚に被弾した場合はプラスして上半身のバネで転がる、伏射姿勢での射撃はありだけど。
腕に被弾した場合はその腕は使用不可。頚部や頭部への被弾、ナイフで心臓や動脈抉られたら死亡。ゲームセットよ。
ちなみに巧く肋骨の隙間へナイフを突き立てられたかどうかはこっちで判断するからそのつもりで。
車は一般的なやつだから側面に隠れるのは反則、ただし相手の視界から消えるために一時的に隠れるなら可。
車両をバリケードとして使って良いのはフロントやバック、つまり相手の射線に対して縦に使う場合のみ』
天井から降る紫の声が先ほどの説明を繰り返す。
要するにこれは実戦を想定した訓練らしい。この世界なりの弾幕「ごっこ」というわけだ。
胴体に被弾した場合の十秒間の行動規制は、防弾ベストがあっても二人がつけている軽量な部類のものでは9mmパラベラムで撃たれると貫通はなくとも衝撃で肋骨や内臓にダメージがあるため。
逆に防弾ベストがあるのに心臓を抉られた場合に死亡扱いなのは、防弾ベストのケブラー繊維は細い刃物による刺突は防げないため。
車の側面に隠れるのを禁止するのは、拳銃弾でも扉や窓程度は簡単に貫通してしまうためだと咲夜から説明された。
この場にはいないが、別室には初日に会った全員が揃っている。
その中にはなぜか朝よりも青ざめた顔色をした咲夜の姿もあった。
広い空間のあちこちに備えつけられた「監視カメラ」とやらでここの様子は別室から確認できるようだ。
『じゃあいくわよ。始めッ!』
紫の合図と同時に橙の気配が尖るのがわかった。
同時に弾幕が放たれる時によく似た殺気。
察知するのと初動は同時だ。
レミリアは一番近くにあったトラックの後ろに駆け込み、自分もMP5のセイフティを解除する。
発砲音と同時に今までレミリアが立っていた床がペイントで汚れる。
霊夢にアドバイスされた通り、発砲音から相手が何発撃ったか把握しておく。
フルオートの射撃なので聞き分けづらくはあるが、今ので五発。
橙の装備はレミリアと同じだ。(正確にはレミリアと体格がほぼ同じ橙を基準に自分の装備が決められたらしいが)
お互い得物はMP5とグロック26、そして片刃の軍用ナイフ。
予備マガジンはそれぞれ一本ずつ。
マガジンの装弾数はMP5が十五、グロックが十発。
初弾は装填した状態で装備しているのでプラス各一発、合計で五十二発の9mmパラベラム弾を支給されている想定だ。
橙の残弾数は四十七発という計算になる。
得物で分けるなら橙のMP5の残弾はマガジンと薬室内のものを含めて十一発だ。
一瞬でそこまで計算しつつ、レミリアもトラックの陰から短連射で合計七発撃ち返した。
移動標的であることと十分に反動を抑制できる体勢が維持できないことから流石に命中はしない。
橙が車両を縦にバリケードとしたのを確認してから足音を忍ばせトラックの側面を走り抜ける。
うまく気づかれなかったようで、車の陰からレミリアの先ほどの位置を覗っていた橙に奇襲気味に三発。
視線が違う場所を向いていたとはいえまだ距離は30mほど離れている。
視界の端にレミリアが現れたのを察知してか別の車両の陰へ駆けてかわされた。
この距離では当てるのは難しいと判断してあえて追撃せず、逆に自分も別の車両へ向かって走り橙に撃たせる。
レミリアを素人と侮ったか弾切れまで撃ち尽くしてくれたが、橙も走っていたことと、緩急交えた走り方のおかげで被弾はない。
橙がマガジンを交換している隙にと車両の死角にうまく隠れて距離を詰める。しかし途中で見つかり車両の陰に隠れる。
車両を縦に利用しても背中越しに着弾の衝撃が轟いた。威嚇のつもりかこれは一発。
これで彼我の距離は直線で15mほどか。
いくら霊夢が絶句するほどとは言ってもそれはあくまで習熟にかかった期間の話。未熟な自分の腕では確実性に欠けるが、一応は移動標的に対する拳銃の有効射程圏内だ。
橙は三十五、自分が――これで三十八。
威嚇気味に四発撃ちながら残弾を数えることも忘れない。
橙が撃ち返して来る不自然にならないタイミングでバリケードに引っ込む。
そして素早くマグチェンジ。
薬室に一発、マガジンにも一発残っているが換えられる隙に換えておけというのもやはり霊夢のアドバイスだ。
特に相手が得物に十四発、自分は二発という状況ではそれが最善だということは実践しつつ実感できた。
そしてこれは経験値で遥かに橙を下回るレミリアが弄した策のひとつ。
手探りでマグチェンジを行いながら橙がこちらを見ている気配がないことを確認し、マグチェンジのかたわらグロックで一発適当に撃つ。
MP5もグロックも同じ弾薬なので発砲音から気づかれる心配はない。
そしてそこに勝機がある。
レミリアが次に身を乗り出すと、橙は一気に勝負を決めるつもりかバリケードから駆け出して来ていた。
応じるように踊り出て短く連射すると橙の表情が驚愕に染まっている。
グロックで誤魔化したおかげでマグチェンジに気づかなかったのだろう。
こちらの得物の残弾が残り二発であることを見越しての突撃だろうが、その正確な判断力と行動力がこの場合は仇になった。
お互いの距離はもう10mまで詰まっている。
しばらくはバリケードもない正面切っての撃ち合いが続く。
策にはまってくれたとはいえ流石に地力が違う。
橙は自分と同じ人間の子供とは思えない俊敏さで動き、的が小さいこともあってレミリアでは当てられない。
レミリアにあるのはこの世界の人間から見れば突出した才能、自分の過去を俯瞰すれば五百年以上を経て築き上げた吸血鬼としての戦闘経験とこの世界とは根本からルールの異なる「決闘」における駆け引き能力だけだ。
残弾では優位にあったはずが気づくとMP5の弾切れは同時。
お互いにグロックを抜いて拳銃での撃ち合いに移行する。
だが今の撃ち合いでこの世界の「弾幕ごっこ」における駆け引きのコツは完全に掴めた。
要は狩りと同じだ。
吸血鬼であるレミリアにとっての狩りの獲物は人間。
そして人間をより優雅に狩るコツは獲物の思考を先んじて読むことにある。
撃った先の相手の回避移動地点を予測し、タイミングを合わせてそこを撃つ。
とはいえ流石に組織内最強と言われる殺し屋の弟子だけあって橙もぬるくはなかった。
同様のコツは彼女の反射神経に刻み込まれているらしく、レミリアも回避に思考を割かねばならない。
狩る側であると同時に狩られる側でもあるという状況は同族の相手以外では経験がない。
結果、先の撃ち合いから比べれば残弾が一発少なかったレミリアがわずかに上を行った証ではあるが、拳銃がホールドオープン、予備マガジンを含め残弾が尽きたことを知らせる状態になったのはまたも同時だった。
経験値と身体能力ではやはり訓練を重ねた橙に分がある。
一瞬で間合いを詰められ、橙の斬撃をグロックの銃身でさばきつつ咄嗟にナイフを抜いたが劣勢を強いられた。
どこか焦燥感のある橙の表情を見れば三日前までただの素人だった自分が劣勢とはいえ彼女の攻勢を凌いでいること自体がありえないことなのだろうが、レミリアとしてはむしろ十年そこそこしか生きていない小娘に負けることの方が屈辱だ。
彼女の焦りだろう、一瞬生まれた隙をレミリアは見逃さなかった。
ナイフを振りぬいた懐がガラ空きになった。
斬り返しが来る前に全力で踏み出し、橙の胸に肩から全体重をこめたタックルを決める。
これは幻想郷で戯れに美鈴から習った技だ。確か「テツザンコウ」といったか。
攻撃直後、それも重心の崩れた間隙を突かれて流石の橙も後方へ吹き飛んだ。
が、吹き飛びつつも地面を転がって5mは距離を取り、レミリアに追撃は許さなかった。
慣れない大技を放った後だけあって、レミリアにもその余裕はない。
橙が立てばそこから仕切り直し。もはやスタミナが限界のレミリアに勝機はない――誰もがそう思う局面だろう、本来なら。
「私の勝ちね」
「え?」
勝利宣言しつつ、素早く右手に握ったままのグロックのマガジンキャッチを押し、ナイフを捨てた左手は、ポーチに残してあったMP5のマガジンから最後の一発を抜き出す。
これこそレミリアが弄していた策のもうひとつ。
見咎めた橙が血相を変えて立ち上がり距離を詰めようとするが遅い。
グロックのマガジンにその一発を装填、グリップに挿し込みスライドストップを解除。これで初弾装填。
この一瞬で2mまで距離を詰めている橙は敬意を表すに相応しいが、状況的にその行動はむしろ無謀だ。
レミリアは情け容赦なく獲物の鼻先に銃口を突きつけ、引き金を絞った。
*
「いや、才能あるわとは思ってたけどまさか橙に勝つなんてねー」
「すげえじゃんレミリア。わたしだってお前くらいの年の頃はあんなにはできなかったぜ」
「ほんとすごいですよ。……すごすぎて、若干私の立場がないくらい」
「大丈夫よ美鈴」
「そうだぜ美鈴、気にすんな」
「れ、霊夢さん、魔理沙さん……!」
「「アンタ(お前)の立場なんて最初からないから」」
ひどい……!と美鈴が泣き崩れているのは、無数のモニターとかいう、写真の映った板が並んだ件の別室である。
実際に映っている先ほどの空間は写真ではなく映像というらしいが。
辞書の通りなら幻想郷にも最近流れ着いているTVの薄型みたいなもののようだ。
レミリアは高校生組の三人囲まれ、やたらと持ち上げられている。
この面子に手放しで賞賛されるというのは面映いが、悪い気はしなかった。
悪い気はしないので、柄にもなく美鈴にフォローを入れてやる。
「最後に私が使った『テツザンコウ』?
あれは幻想郷の貴女に習ったものだから、半分くらい貴女のおかげよ」
「ほんとですか!? じゃあ幻想郷の私も八極拳士なんですね!」
「ま。あくまで幻想郷の貴女だから、貴女自身の手柄じゃないけど」
すぐさま元気を取り戻す単純さが鬱陶しかったので、持ち上げておいてやっぱり突き落としておく。
再び消沈した美鈴は放っておいて室内を見回してみた。
部屋の端では「すみませんすみません」と落ち込んだ様子の橙を、目元以外真っ赤に顔面を染めた塗料を拭ってやりつつ藍が慰めている。
「あれは確かに人外」「私がお前の頃だってあれほどの化け物じゃなかった」と盛れ聞こえてくる言葉は悪気なく失礼な気もするが、本来のレミリアが人外の化け物なのは事実なので黙殺してやる。
また別角では咲夜を含めた他の面子が紫を中心になにやら話し込んでいるようだが、
「反対ですッ!」
思いがけず響いた咲夜の大声で室内の全員の注意がそちらに向いた。
咲夜は周囲の注目など目に入らない様子で、初日とは比べ物にならない勢いで紫に向けて何かを訴えている。
「まだ子供なんですよ!?」
「そんなものが逸材を弾く理由にならないのは貴女もよく知っているでしょう。
彼女にはすでに単身の仕事を経験したことのある橙を負かす実力があることもたったいま証明された。
事業が拡大するにつれて人手不足は深刻化してるからね、即戦力は願ったり叶ったりよ」
「橙に勝てたのは橙の油断や彼女の才能が左右した部分も多いはずです!
実際、体力的には明らかに劣勢を強いられていたじゃないですか!」
「……言葉がすぎるぞ、咲夜」
「藍さんは黙っていて下さい!」
弟子を慰めている最中に彼女を責める要素を含んだ発言。
社長に逆らっているからという事情以上に黙っていられなかったらしい藍をすら黙らせる凄絶さで咲夜は怒鳴った。
邪魔をするなら今にでもナイフを抜きかねない勢いだ。
流石に他の面子もその剣幕にはたじろぐしかない。
涼しい顔をしているのはその剣幕で迫られている紫だけだ。
「貴女の言うことにも一理あるわ。
確かに橙は油断していたし、才覚はともかく体力面においてはまだ実戦に不安がないレベルとは言えない」
「だったら……ッ!」
「けど橙の油断を予想した上で彼女が攻撃を組み立てていたのは明白。
その機転や判断力はそうそう誰もが持っているものじゃない。
実戦を経験すればそれに更に磨きがかかるでしょうね。
体力面についても訓練で補えば一ヶ月もあれば、橙と同等とまではいかなくとも、
少なくとも現場の即戦力になるレベルには仕上がるでしょう?」
「けど、それでも……!」
「いい加減にしてくれないかしら咲夜?
私にも我慢の限界ってものがあってね。
結論が覆らないのは貴女にもわかっているでしょう?
はっきりと言わせてもらえば、彼女は将来性を含んだ長期的観点から見てこの場の誰よりも期待が持てる逸材よ。
どの程度の期待かといえば、人手不足を甘んじても貴女の方を切り捨てたって良いくらい」
「……ッ」
「貴女の気持ちはわかるけどね。
私が公私混同を許すような経営者かどうか、貴女なら知っているわよね?」
「……なら、せめて、せめて彼女がプロと呼べるレベルになるまでは私に彼女を任せてください。
公私混同はしません。彼女が藍さん以上の人材になれる下地を私が全力で作ります」
苦渋に満ちた表情で搾り出した咲夜の声は震えていて、なぜだかレミリアの方が胸を締めつけられる想いだった。
紫は子供のわがままに対するような溜息をひとつ吐き、頷いた。
「いいでしょう。ただし三ヶ月以内よ。
それまでに彼女が実戦で使えるレベルになっていなかったら、
……そうね、射撃のセンスから言って霊夢に任せようかしら。
霊夢はすぐに彼女の可能性に気づけていたようだし」
言外に、昨日の時点でレミリアの可能性に気づきながら報告をしなかった咲夜への皮肉を混ぜている。
咲夜はしかし幻想郷の彼女を含めても見たことがないような頑なな表情で一礼し、無言で歩み寄ってきてレミリアの手を掴んだ。
誰にも何も言わず、そのままレミリアを引きずるように退室する。
その瞬間だ。
ぞくりと背後で殺気にも似た視線を感じた。
咄嗟に肩越しに振り返るが、すでに消え失せたそれは誰が放ったものなのか判断できない。
咲夜に引かれるまま通路を歩きつつも、レミリアは確信していた。
あれは嫉妬や羨望といった生易しい視線ではない。
明確にレミリアを「排除すべき要因」と考えた、鮮明な殺意の塊だった。
* * *
フランが死んだ。
すべては咲夜のミスが原因だった。
それは簡単な、よくあるミスで、それだけに言い訳の余地もない。
簡単がゆえに残酷なミスだった。
咲夜は近接戦闘を得手とする。
必然、銃を持った相手と対峙する時はその弾幕をかいくぐるスキルが必要だ。
銃弾をよけるなど、決して容易いことではない。
だが決して不可能なことでもない。
第一に必要なのはまず相手の射撃を一度は見ること。
その一度で相手の射撃の腕、癖などを一瞬で見抜く。
銃口の向きと敵の筋肉の緊張の度合いから引き金を絞るタイミングを計るだけではまだ足りない。
銃口は一流のプロでもない限り、実戦の場では多かれ少なかれ発砲時に跳ね上がりやブレが生じる。
その跳ね上がり、ブレも考慮に入れ、弾丸が飛来する可能性の高い範囲を予測、その範囲内から脱出すればおおむね銃撃をかわすことはできるのだ。
予測範囲は敵の銃口から三次元的な放射線状に広がる。
ゆえに敵から距離を取れば取るほど、逆に予測範囲は広がり回避の判断は難しくなってくる。
一般人とは逆に、プロにとっては敵との距離が詰まった方が敵の照準が正確になることもあって予測範囲の精度は上がるのだ。
フルオート射撃や敵が複数いる場合などは当然のことながらこれに時間軸を考慮した、四次元的な予測活動が必要となる。
しかし咲夜にはそれが意識せずとも培った経験から可能だった。
無論、敵が集団戦のプロで連携が巧く取れていれば予測範囲は隙なく埋まり、物理的に回避は不可能になる。
とはいえプロに行き会うことなど滅多にあることではないし、敵の連携を崩す手段も存在した。
ある程度広いフィールドであれば予測範囲を時間軸を含め完全に埋めることは不可能。
そこにフランの爆撃によるバックアップが加われば、ネックである予測範囲を絞りこめる距離まで間合いを詰めることも容易となった。
だからそれは、純然たる咲夜のミス。
「レミィ!」
咄嗟に撃ち慣れない拳銃で敵を牽制しながら、焦燥に満ちたフランの声を背中で聞いた。
咲夜は地面に倒れていた。
右の太腿からはドクドクと血が溢れ出している。
致命的なほど深くはないが、決して浅くもない出血量。
敵はサブマシンガンで武装した男が十人。
銃の扱いに関して素人ではないがプロでもない、そんなレベルの連中だった。
正体はこの夜に狙った屋敷の警備員。
逃走の過程、二人がかりで半分以上は始末したが、まだ十人を残していた。
フィールドは狙った屋敷からだいぶ離れた、他にも邸宅ばかり並んだ大通りの一角。
けして広くはないが、敵の弾幕をかいくぐれないほど狭くもなかった。
流石に大人と子供の走力では追いつかれるのは時間の問題で、咲夜はフランを先に行かせて迎え打つことにした。
フランが威嚇に投じた手榴弾で連携も統率も失った無作為な弾幕をさけることは容易だった。
だから敵を軽んじた。つまりは油断した。
大通りとはいえ両脇には邸宅の外壁がある。
迂闊にもそれを失念し、敵の弾幕をかいくぐりながら順調に距離を詰めているつもりだった。
外壁があるということは当然――跳弾の可能性も考慮しなければならなかったというのに。
敵がロクな照準もなく自らが振るう銃の反動に振り回され、外壁に跳ねた一発。
それが咲夜の太腿を抉った弾丸の正体だった。
運が悪かった。単なる偶然。
言い訳なら幾らでも並べることができた。
しかしその後の記憶が、咲夜から言い訳の言葉を根こそぎ奪った。
フランはダミーの手榴弾で敵を怯ませつつ、咲夜に駆け寄って助け起こした。
「なに、やってんの……逃げなさい……。」
「やだッ! ぜったいにやだッ!」
失血で意識が朦朧とし始めた咲夜の声を、フランはかつて聞いたこともないような頑なな反駁で固辞した。
敵は十人が未だ健在。
小さな身体で咲夜を引きずりながらの爆撃では威嚇にしかならない。
敵を直接手榴弾で屠るには距離が近づきすぎていた。
実際、威嚇の爆撃も敵の遥か後方に向けてのものだった。
爆風に乗った破片で多少の手傷は与えられているが、それだけだ。
どう考えても追いつかれる。
二人とも助かる選択肢など残っていない。
自分を置いて貴女だけ逃げるなら確実。
咲夜の囁くような声が聞こえているのかいないのか、フランはけして首を縦には振らなかった。
「ごめんね。もうやなんだ。ひとりになるの。
……私のためにレミィが死んじゃうなんて、もうやなの。
だからごめんね。これはわたしのわがまま」
なんとか通りの角に辿り着き、フランはほとんど投げ飛ばすように咲夜を地面に捨てた。
咲夜は捨てられた。捨てることで助けられた。
フランは背嚢からひとつの爆薬と、無線の点火装置を取り出していた。
それは咲夜にも見覚えがある――あの日のC4プラスチック爆薬だった。
量は少なく見積もっても一キロ以上。
三キロあれば二十センチの鉄筋でも消し飛ばすことのできるそれは威力が高すぎて、これまで使う機会は一度もなかった。
すでに敵の足音はすぐそばまで迫っている。
フランが何をするつもりかは察しがついた。
「それじゃあ、バイバイ」
フランは笑った。
あの太陽のような笑顔で、笑った。
制止の声は間に合わなかった。間に合ったとして彼女を止めることなどできなかった。
くるりと背を向け、角を曲がって来た道を戻るフランの足取りは、まるでどこかへお使いに行く子供のように軽快なものだった。
フランの姿が通りの角に消えた瞬間、銃声と、生々しく肉を穿つ音。
そして、無音。
爆音があまりに大きすぎて、耳を聾するそれは却って無音にしか思えなかった。
地面、いや地盤が揺れ、暴力的なまでの衝撃が胃の腑に轟いた。
視界には周囲の酸素を根こそぎ喰らい尽くした白い灼熱の閃光。
通りの角の外壁が砕け吹き飛び、すぐ耳の脇をおそろしい速度で通り過ぎていった。
咲夜が這いずって通りの角からようやく顔を出すと、そこには煙が満ちていた。
煙が晴れると、そこには何もなかった。
ただ地面がクレーターのようにえぐれ、通りの遥か先に人間の残骸に見えなくもない肉片が見えるだけだった。
フランの姿はどこにもない。
まるで最初から存在しなかったかのように、フランの痕跡は消え去っていた。
残ったのは、脳裏に焼きついたあの太陽のような笑顔だけだった。
咲夜は吼えた。
悲鳴も怒声も通り越し、ただ野性の獣が狂ったような咆哮を、声の限りに叫び続けた。
それからの記憶はふつりと途切れている。
手当てをした記憶もないのに、すでに右脚の傷は塞がりかけていた。
咲夜は片手に金属としての輝きを失うほどまんべんなく血に濡れたナイフを持って、ふらふらと闇の中を徘徊し続けていた。
喉が渇いて地面の水溜りにうずくまった時、そこでようやく自分の髪が変色していることに気がついた。
だが、特になんの感想も浮かびはしなかった。
「これはまた、随分とまあ可愛いジャック・ザ・リッパ―がいたものね」
不意にかかった声に顔を上げると、見知らぬ女性が立っていた。
何の意思も意味もなく距離を詰めてナイフを振り上げると、傍らにいたらしい別の女性にねじ伏せられた。
地面に顔を打った痛みすらどうでもよく、ただジロリと最初の女性を眼球だけで見つめた。
「……アンタ、誰?」
「敬語を使え」
背中に乗った女性に腕をねじ上げられて、そこでようやく自分が日本語を使っていることに気づいた。
自身のルーツに興味を持って、以前に入った家でたまたま見つけた日本語の辞書のおかげで発音は怪しいがすでに日本語は使えた。
フランとは英語で話していた。英語の文法に敬語はない。
相手が日本語を使うから機械的に同じ言語が滑り出ていたらしい。
「あなたは、誰ですか?」
ねじ上げられた腕の痛みはどうでもよかったが、自分にはもう誰かに逆らう権利などないような気がして、言われるままうろ覚えの敬語を使った。
「八雲紫。ちょっとした用事でこっちに来てるんだけどね、現代の切り裂きジャックの噂を聞いてスカウトに来たのよ」
そこからは自分の意思など存在しなかった。
流されるまま組織に所属し、命じられるまま人を殺した。
理性は取り戻したが、あの時に藍が命じた敬語は呪いのように癖づいていた。
後輩として霊夢や魔理沙、美鈴が入ってきたが、やはり敬語は取れなかった。
やりたいことなどなく、ただ生きるために人を殺した。
場所が変わっただけで、やっていることはフランと出会う前と変わらない。
フランを守りたかった。守れなかった。
自分の人生に誇りを持てている瞬間があったとしたら、それはフランを守ろうと必死だったあの刹那のようなひと時だけだ。
フランを守れなかった自分に自信などない。
誇りなど持てようはずがない。
「今の一瞬で貴女は三回死んでいます。
銃もそうですが、凶器はあくまで道具にすぎないんです。
自身の腕の延長と呼べるほど自在に使いこなすことと同時に、
状況次第で道具を道具と割り切って捨てる判断力がなければ、死にます。
場合によっては腕の一本や二本すら犠牲にして自身の命を守る。
その覚悟がなければ実戦では通用しません」
レミリアを武道場の畳へ叩きつけ、咲夜は容赦のない叱責を浴びせていた。
それでもレミリアは従順に咲夜の叱責を的確な指摘として受け取っている。
きっと彼女にも伝わってしまっているのだろう。
――この子を守りたい。
二度と抱くまいと思っていた感情を、自分はレミリアに抱いてしまっている。
それはもう疑いようのない事実だ。
彼女はフランとは違う。
フランの姉とすら、たとえ自分の仮説が事実だとしてもまったくの別人だ。
それでも守りたかった。
ただ守りたくて、必死だった。
フランの時と違うのは、守ろうと必死な自分に誇りなど持てていないことだろう。
所詮が罪悪感の裏返しだ。
紫は彼女が組織を狙う殺し屋だった場合の仮説のひとつに「貴女の性格を事前に知っていて助けに入るのを見越していた」と挙げていたが、実際の咲夜はあれがレミリアでなければ特に助けに入ることはしなかったろう。
フランを失ってからの自分は、ただフランの救ってくれたこの身以外に守るべきものを持たなかった。
仮に仲間が死にかけているとして、それが自身の生存率を下げるなら容赦なく切り捨てるだろう。
自信のなさから来る周囲の視線を気にする性分と、無駄な波風を立てたくない臆病から来る柔らかい物腰に周囲は騙されているだけで、それが咲夜の本質だ。
それでもレミリアは守りたい。
この子だけは、どんな手段を使ってでも守りたい。
組織に逆らえば彼女の立場はむしろ危うい。
彼女が殺し屋として前線に出向かなければならないのなら、少しでも生存率を上げる術を教え込まなければならない。
だから必死だった。
冷やかしだろう、魔理沙などは訓練の様子を見に来たが、咲夜の形相に引いたのかそそくさと帰ってしまったほどだ。
それほどに厳しい訓練に、しかしレミリアはついてきてくれる。
応えようとしてくれる。
彼女に才能があるのは事実だ。
けれど、彼女には帰るべき場所がある。
幻想郷。
そこにいる「十六夜咲夜」の元へ無事に帰すためにこそ、自分が代わってレミリアを守らねばならない。
それが咲夜のすべてだった。
それだけがもう、咲夜に残された唯一の願望だった。
* * *
「そう。残念だけど、それなら彼女も対象から外すわけにはいかないわね。
それじゃ、引き続き頼んだわよ」
霞が関。
警視庁組織犯罪対策部、組織犯罪対策第一課の応接室。
ソファに腰かけたスーツ姿の女性は、公用、私用とはまた別に分けて使用している携帯の通話を切って溜息を吐いた。
「どうしました? 西行寺警視」
声をかけられ、女性……西行寺警視は顔を上げる。
一律昇進が基本のキャリア組としても異例の速さの昇進で、現在課長職にある彼女を階級で呼ぶ人間は部下にはいない。
応接用の机の向かいには、高校の制服姿の少女がいた。
彼女は西行寺の部下でも、それ以前に警察官ですらないのだから警視と呼称する必要はないと何度も言ってあるのだが、生真面目な彼女はその呼び方を変えようとはしない。
「ちょっとね。例の女の子、殺し屋としての才能はやっぱりずば抜けているみたい。
人間を殺すことに関しても、欠片の躊躇すらないらしいわ。
報告通りなら殺人に対してむしろ能動的なくらいね。
加えて、どうも組織に馴染みすぎてしまっている。対象からは外せないわ」
「そうですか……。」
目に見えて対面の彼女がうな垂れる。
『イマジネイティブホーム』に突如転がり込んできた少女に関しては、外事課や地方、時には他国の警察組織にまで及ぶ西行寺の人脈と情報収集力を以ってしても情報が皆無だった。
事態を慎重に捉え、彼女の保護を前提に静観を決めたのだが―― そのすば抜けた殺人の才能は、見過ごすには危険すぎる。彼女が組織の構成員にかなりの親しみを感じているというのも、これは静観を決めたことが仇となったと言える。
犯罪組織『イマジネイティブホーム』。
その活動は世界をまたぎ、非合法な商いも薬物など序の口、臓器や人身売買といった非人道的なものはもちろん、どこかの国の役人が防衛機密を漏らし設計データをコピーしたのだろう、現役を退いた軍事兵器のレプリカにまで及んでいる。
実際の商業活動を行う下部組織は無数に存在し、下部組織の構成員では彼らが従属している組織の名称すら知らない状態で、いくら検挙してもトカゲの尻尾切りである。
暗殺なども巧妙に情報を撹乱して他の組織の仕業に見せかけており、裏社会のパワーバランスは『イマジネイティブホーム』が牛耳っていると言っても過言ではない。
身内の恥を徹底して秘匿したがる暴力団の体質などもあり、十年ほど前の警視庁のマルボウではその存在は半ば都市伝説と化していたほどだという。
長い時間をかけて蓄積されてきた情報の断片を繋ぎ合わせて纏め上げ、自身の命をかける決断をしたかつての上司や同志の努力がなければ未だにその実態は闇の中だったろう。
西行寺は持ち前の人脈で世界各国との協力体制を作りあげ、ようやく組織を潰せる位置にまで状況を運べたが、彼らの尊い犠牲の上にようやく作り上げられたのがこの状況だ。
運悪く組織に迷い込んだだけとも言える少女を哀れには思うが、容赦はできない。
「そういえば、今日も持ち歩いているの?」
忸怩たる想いは汚れ役を担わせてしまった目の前の彼女の方にこそ圧し掛かっているだろう。
目線の下がった彼女の気を紛らわせるつもりで話題を換える。
少女は目的語を欠いた質問に「はい」とあっさり答え、ソファの後ろへさっと両手を回した。
戻された両手には、それぞれに短刀と長刀、二振りの日本刀が手品のように現れている。
「……流石ね」
彼女を直接本庁に呼んだのは初めてだ。
古来の達人は誰にも得物の存在を気取られないよう振舞えたというし、実際に西行寺自身も丸腰だった少女の両手に突然日本刀が現れるという現象は目にしたことがある。
原理的には相手の死角やなにげない視線誘導を利用しているのだろうが、警視庁のエントランスを行き交う警察官と防犯カメラを相手にそれができるのは少なくとも現代では彼女くらいだろう。
「それで、用事というのは?」
「決行日時が決まったわ」
西行寺の言葉に少女の表情が引き締まる。
相手の死角や視線誘導の利用で彼女が隠せるのは得物だけではない。
犯罪者ばかりを狙って辻斬りを繰り返していた彼女は、悲鳴を聞きつけすぐに駆けつけた警察官の視覚や付近の防犯カメラから自身の姿すら消していた。
人間を斬り殺す実体はあるはずなのに一向にその姿を捕えられず、当時の捜査員やマスコミの間でついた二つ名が"半霊"。
警察官自らが法を犯してでも失敗の許されないこの作戦には、彼女の力が不可欠だった。
* * *
咲夜による訓練は、初日と二日目がなんだったのかというほど容赦がなく、熾烈だった。
筋肉の回復期間を取らないのは逆に効率が悪くなるという理由で、足腰が立たなくなるまで行われる格闘術の訓練、ミドルレンジでの模擬戦、永琳によって医学的に裏打ちされた効率的かつ厳しいウェイトトレーニングなどは一日置き。
置いた一日は座学、固定・移動標的の射撃訓練に使われる。そういった体力的な疲労が少ない日でも、心肺機能を養うための走り込みは欠かさない。
紫に期限とされた三ヶ月は咲夜も学校を休み、一日中訓練だ。
射撃や狙撃、無手での格闘術には他の三人が教官役として召喚されるが、教え方が甘いとなれば咲夜から容赦ない檄が飛ぶ。
週に一度は休みを入れるが、それもあくまでレミリアが体調を崩さないための合理的判断によるものだった。
他の六日は毎日が訓練。「生かさず殺さずって感じね」とは霊夢の感想だ。
正直に言って体力的にも精神的にもレミリアにはきつかったが、同時にどこか嬉しくもあった。
咲夜の訓練には目的がある。
絶対にレミリアを実戦で死なせないという明白な目的が。
言葉には出さないまでもそれが汲み取れるからこそレミリアも弱音を吐かずについて行くことが出来た。
レミリアも咲夜に応えようと必死になれた。
そしてやはりレミリアには才能があったのか、この二ヶ月ほどで狙撃以外は十二分に実戦で通用するレベルに仕上がっているらしい。
銃撃戦では橙を圧倒。けして素人ではない下部組織構成員を複数同時に相手にしても座学で学んだ戦術や持ち前の状況判断力で勝つことができた。
近接戦闘でも一対一なら格闘技をかじった程度の標準体型の成人男性を攻防の組み立て次第で素手で絞め殺すか、硬い地面に投げつけ頭部を踏みつけ続ければ脳挫傷で殺せるレベル。
刃物を持てば流石に咲夜直々の指導のおかげで藍を相手に、互角とまではいかないまでもそれなりに渡り合えた。実戦なら銃を持ったヤクザでも皆殺しにできるだろう。
生身の人間を躊躇なく実際に殺せるかという試験に近い訓練では、素性も知らされずに中年の西洋人の男が連れてこられた。
西洋人なのはレミリアが日本人に対し潜在的な差別を持っている場合を想定してのことらしいが、差別というならレミリアはそもそも人間全体を下級の種族として差別どころか区別している。日本語、英語で命乞いをする素人の男を素手で殺すのにも一切躊躇は不要だった。
咲夜としては狙撃が十分でないのがまだまだ不満らしいが(というより、咲夜の目的からして比較的安全な狙撃こそ最も鍛えたかったのだろう)、長距離狙撃は弾道の計算に風向きや風速、空気の粘性抵抗、重力、距離によっては地球の自転まで考慮する必要があり、特に風の読み方については経験が物を言うものなので仕方がないと魔理沙は言っていた。
しかし、結果としてレミリアが訓練を役立てて仕事を経験することは一度もなかった。
その原因は三ヶ月の期限を目前にしたある日。
突然かかってきた電話に応じた咲夜の顔色が変わった夜のことだった。
* * *
レミリア・スカーレットが外部組織の暗殺者であると疑うに足る証拠が見つかった。
その一報を受け、反射的に声を荒げかけた自分を咲夜が自制できたのは奇跡に近い。
すぐそばにレミリアがいなければ自制など到底無理だった。
彼女が本当に暗殺者ならばその疑いが強まったことを悟らせるのはまずい、などというごく当たり前の計算は脳裏をよぎりもしなかった。
代わりに脳裏をよぎったのは逃走の算段である。
が、それもすでに藍がマンションまで迎えの車を出していると告げる声に遮られることになった。
咲夜の思考など完全に読まれている。
霖之助ではなく藍を迎えによこしたのがその証拠だ。
緊急時に備え自宅には銃器や弾薬もある程度揃っているが、二人がかりでも藍が相手では返り討ちが目に見えている。
こうなれば大人しく従い、レミリアの嫌疑を晴らす以外に方法はない。
「召集です。本社へ行きます。……貴女が他組織の暗殺者であると疑える証拠が出たそうです」
あえてレミリアに召集の理由を告げた声は平静を装えていただろうか。
知らず、彼女の反応にすがるような視線を送ってしまう。
レミリアは多少意表をつかれた、という驚きを示しはしたが、結局は大人しく咲夜の指示に従った。
そこには逃走への算段も咲夜への敵対行動の意思も一切読み取ることはできなかった。
心証でしかないが、ひとまずそのことに安堵しつつ、レミリアを伴ってマンションを出る。
「それで、証拠というのは?」
本社へ向かう車両の中で藍に問いかける。
運転は咲夜が任され、レミリアは助手席、藍は後部座席に座っている。
武器は乗車前のボディチェックで取り上げられているが、藍の運転の隙にこちらが何もできないようにという措置だ。
当然、咲夜やレミリアが前部座席で不審な動きをすれば簡単に見咎められる配置でもある。
「その質問は彼女に抗弁の猶予を与えるためのもの?」
「そこまで自制を失っているつもりはありません。
レミリアさんが暗殺者であるにせよ、ないにせよ、いきなり証拠を突きつけられたのでは動揺します。
紫さんはともかく、他の面子全員にその動揺が嫌疑をかけられたこと自体に対するものか、
それとも動かぬ証拠を突きつけられた結果なのか見抜く眼力はないと私は考えます」
すでに本社の社長室には、この場の三人以外の全員が初日には不在だったパチュリーを含めて揃っている。
『イマジネイティブホーム』日本支部の基本的な組織運営は責任者である紫に委ねられているが、重要な懸案に対しては合議制を取るのが常だ。
小学生の橙にすら正式メンバーとして発言権が与えられている。
無論、単純な多数決というわけではなく、それぞれの多角的な視点に立った意見を汲んだ上で長である紫が最終決定を下す。
それは大胆さと慎重さを併せ持ち、なにより合理性を重んじる紫らしいやり方と言えた。
「それに、本社到着までのあと十分弱でレミリアさんが抗弁の内容を考えても無理が出るでしょうし。
無理のない抗弁の内容が出るようでしたらその証拠を敵が意図的に明るみにしたと判断する目もあります。
……第一、私にこんなことを喋らせているということは、紫さんは証拠の内容をここで話すのを禁じてはいないんじゃないですか?」
バックミラー越しに厳しい表情を崩さなかった藍の口元がほころぶ。
「流石に茶番がすぎたか」とその口が呟く。
そもそも藍は紫の指示に忠実だ。それは言外の指示であろうと同様に。
仮に紫が証拠について言及することを禁じているとすれば、咲夜の問いなどにべもなく却下しただろう。
黙って咲夜の喋るに任せていたのも、おそらくは冷静さを量られていただけだ。
そして合議制が取られる事態ということは、証拠の内容が決定的とは言えないものであるか、レミリアが敵であったことは瞭然でも今後の彼女への処遇について話し合う必要があるということだ。
でなければ藍は問答無用でレミリアを拘束、あるいは殺害している。
「音声データだ」
「音声?」
「今日の午前六時頃、社内のシステムを一部乗っ取ろうとする外部からのハッキングがあった」
その時間といえば、咲夜とレミリアが訓練の経過報告のため社長室を訪れていた頃だ。
ハッキングは当然パチュリーによって防がれたが、相手の技術はそれなりに高度だったらしい。
そして問題は、相手が乗っ取ろうとしたシステムにあった。
ハッキングを仕掛けて来た相手は社内放送用のシステムを乗っ取り、ある音声データを流そうとしたという。
データはパチュリーによって解析されたが、単なる電子音の羅列だった。
「念のため人体に害があるものかどうか、永琳のツテで大脳生理学の研究者に回された。
そこで判明したことだが、その音声は一般の人間にとっては単なる電子音。
しかし当然それだけのものではなく――ある種の催眠を強制的に解く効果があるらしい」
催眠。
その単語だけで嫌疑の理由と今の処遇に納得がいった。
これまでのレミリアの言動を見るに、彼女が咲夜たちを欺いていたとは考えにくい。
少なくとも自身を吸血鬼だと信じ込んでいるのは無意識の挙動からも明らかだ。
だとすれば彼女があくまで"この世界の人間"とするなら、それは洗脳、催眠の類を使っているとしか思えない。
あまりに現実離れした自己認識については、年柄から察するにそうしたフィクションを刷り込みやすかったか、あるいはこちらの油断を誘うためか。
殺しの才能についても、もともと持っていた技能が訓練を経て蘇ったか、才能ある少女を狙って送り込んできたと考えることはできる。
最初から優秀なレベルの殺し屋として育った段階で催眠を解き、紫を暗殺させる計画だった。
現実的に考えるなら確かに、こうした仮説の方がレミリアの話よりよほど信用に足る。
「しかし、組織の情報網を使っても彼女の素性は割り出せなかったんですよね?」
単純な人脈だけでも情報網は世界規模だ。
加えてパチュリーが法務省入国管理局のデータまでかなり遡って洗っている。
密入国なども、こちらはむしろ裏の情報だけに手に入れやすいほどだった。
それだけ洗ってもレミリアの素性は明らかにならなかった。
そしてその事実が彼女の主張を半信半疑ながら組織に認めさせる結果に繋がっていたのだ。
「確かにね。ただ、盲点があったと言わざるを得ないのもまた確か。
社にハッキングをかけてきた相手、いくつも他人のPCや海外サーバを経由してて辿るのは困難だったらしいけど、
パチュリーの報告を信じるなら――敵は警視庁」
「つまり国家権力、ですか」
それは確かに盲点だった。
『イマジネイティブホーム』ほどの組織なら国家権力が非合法な手段を用いてでも排除すべきと考えても不思議はない。
それなら入管のデータがないのも納得できる話だ。
基本的に各省庁はセクショナリズム、要は縄張り意識が強いと聞くが、それでも官僚のほとんどは東大法学部の出身。
学生時代からの同期同格であれば、治安組織である警察を中心に省庁をまたいだ連携を見せることも不可能ではないだろう。
「それでも釈然としないものは残ります」
「ええ。だからこそ久々に合議制を取るべき事態と判断された」
そもそも『八雲総合警備保障』の正体を一体どんな手段で見抜いたのか。
見抜いてレミリアを送り込んだとして、この計画が成功していても殺せたのは社長の紫一人がせいぜいだ。
紫の穴を埋める程度の仕事は藍にもできるし、警察がそれを理解できないほど愚かだとは考えにくい。
いくら相手が犯罪組織とはいえこれだけの違法行為が明るみに出れば世論も黙ってはいない。
それだけのリスクを負ってまで実行する価値のある計画ではないはずだ。
「加えて、パチュリーが困難とはいえ警視庁まで足跡を辿れたのが引っ掛かる。
流石に警視庁から直接回線繋ぐようなわざとらしい迂闊は踏んでいないけど、
それでも回線の持ち主が警視庁の職員だってことは即日中に判明した。
国家権力ならその職員の記録を一時的にせよ抹消するくらいはやってのけるでしょう。
その辺りにどうも、我々の認識を誤らせる何かが仕掛けられている気配がする」
敵が国家権力とするなら詰めが甘い、そうでないとしても入管データを改竄し、『八雲総合警備保障』の情報を得る権力を持っている組織になど見当がつかない。
いずれにせよ不確定な要因が多すぎる。
紫ですら判断に迷って当然の事態だ。
そこでふと気になった。
仮に、敵が組織の内部情報を何らかの手段で得ているとしたら。
仮に、敵がこうした事態において紫が合議制を取ることを知っているなら。
こちらの認識を誤らせる何か。
その"何か"の存在を臭わすことが敵の狙いだとしたら。
すなわちその目的は、――本社に組織の主要な人員を集めることにこそあるのではないか。
咲夜がその可能性に気がつき、藍に向かって口を開きかけたところで、車内無線が入電を告げた。
『こちらパチュリー! 藍、今どこにいる!?』
「こちら藍。咲夜とレミリアを連れてもう社の近くだけど、どうした」
『早く戻って! 敵襲、ただし敵の人数、装備、その他は一切不明!』
ミラー越しに藍と視線を交わす。
敵襲自体は咲夜の気がついた可能性を裏づけるものだった。
しかし警備システムの張り巡らされた社内で敵に関する情報が一切掴めていないなど、これは明らかな異常事態だ。
本社まではすぐだ。
唇を引き結び、咲夜はアクセルを強く踏み込んだ。
* * *
咲夜は会社の建物から数百メートルの位置の裏通りに車を停めた。
車は黒いワゴンで、ライフル弾の掃射にも数分は耐え得る防弾仕様だと聞いている。
「いいの?」
装備を受け取りながら、レミリアは後部座席で自分の装備を確認する藍の顔を窺った。
話から察するに自分は警察の送り込んだ暗殺者として疑われているはずだ。
渡された装備は無線機に防弾ベスト、グロックとMP5、シースナイフという屋内戦闘におけるフル装備だった。
敵の暗殺者にこの状況でみすみす武器を渡して良いのだろうか、とは当然の疑問のはずだ。
「構わない。現時点だと君を暗殺者とは断定できないし、仮に暗殺者だとしても例の音声データを聞かせなければ問題ない。
社の警備システムを以ってしても正体不明の相手だ。なら戦力は多いに越したことはないだろう?」
と、藍の返答はあくまで淡白かつ合理的だった。
そもそも妙な真似をすれば仮に咲夜の助太刀があったとしても殺されるのは確実かとレミリアも納得し、高校の制服の上から装備を手早く見につける。
隣では咲夜も制服に実戦用の装備を仕込んでいた。
防刃素材のブレザーの下に防弾ベスト、ベルトのホルスターに拳銃と予備マガジン二本、トランシーバーに繋がるマイクとイヤホンが一体になったインカムの無線機、手には射撃用グローブという装備まではレミリアと同じだ。
咲夜は更にブレザーの内側にはSMGの予備マガジンに代わって予備のナイフを複数挿し、太腿に巻きつけたホルスターに投擲用ナイフ、左手に片刃、右手には両刃のシースナイフを抜き身で握った。
「屋外に包囲の気配はありませんね。
パチュリー、屋内の戦況はどうなってますか?」
『エレベーターは停止済。
魔理沙と美鈴、霊夢と橙がそれぞれツーマンセルで屋内階段、非常階段使って一階層ずつダブルチェックで見て回ってる。
敵がこっちの裏をかくみたいに動いてるおかげで警備カメラは80%近くが破壊されたわ。
無線の周波数は予備のチャンネルに切り替える指示出してある』
「了解。こっちも応援に出る」
藍の先行に追随する形でレミリアと咲夜も会社のエントランスに横づけた車の外に出る。
警察の機動隊やSATによる包囲の気配はないが、オフィスビル街だけあって周囲は背の高い建物だらけだ。
一応は狙撃を警戒して素早く屋内へ。
エントランスは敵襲があったとは思えないほど不気味に静まり返っている。
異常といえばエントランスの四隅に仕掛けられた半球形の警備カメラがどれも砕かれている点か。
とにかく具体的な戦況が掴めなくては動きようがない。
藍の指示で無線の周波数を予備チャンネルへ切り替える。
『美鈴ッ!?』
瞬間、耳に飛び込んできたのは魔理沙の悲鳴と銃声、人体が力なく床に叩きつけられるような音だった。
ノイズがあるので聞き分けづらいが、銃声は9パラのそれだと判別できた。
応戦しているのか、魔理沙のデザートイーグルの銃声が数発聞こえ、止むと同時に舌打ち。
『くそっ、美鈴が殺られた!
至近で応射したけど相手の腕かすめただけだ、落としてった敵の得物はSIG・SAUER P226!』
『……ッ、こっちもいきなり現れた日本刀二本持った女と交戦中!
なんでこの距離で当たらないのよ!?』
魔理沙の報告に被せるように入ったのは悲鳴のような霊夢の声だ。
インカムの送受信切り替えスイッチを押す余裕もないのか、以降は沈黙。
敵を追ってか魔理沙の方からは階段を駆ける足音と息遣いが聞こえる。
「こちら藍。いま社に到着した。各自現在位置を報告しろ」
藍が手早く必要な情報を引き出し、咲夜とレミリアに手振りで二手に分かれる旨を伝えてきた。
指示に従い、咲夜に続いて屋内階段へと向かう。
「私が魔理沙、咲夜とレミリアが霊夢と橙に合流する。
魔理沙は私が行くまで無茶をするな。敵はまだいるかもしれない。
霊夢と橙はできる限り敵を引きつけろ」
背中でその声を聞きながら慎重、かつ迅速に階段を駆け上る。
本社は八階建てのビルで、エントランスの一階以外のフロアは廊下が一本、両脇に各部署のオフィスが連なっている構造だ。
廊下の両端に屋内階段と非常階段、中央にはエレベーターが二基並んでいる。
もうすぐ霊夢と橙のいる五階に辿り着くというところで、通信が入った。
『こちら霊夢、敵は屋内階段で下に逃走、こっちも追いかけてる』
「了解。今ちょうど三階と四階の間の踊り場です。階段で落ち合いましょう」
上からは二人分の足音が降りてくる。
敵の足音は聞こえなかった。
霊夢がいきなり現れたというほどだけあって、相当に気配を絶つのが巧い敵らしい。
「あ、咲夜。敵は?」
「いえ、下には来ていません。このフロアですね」
霊夢と橙に合流し、四階の廊下を窺うと、エレベーターホールの前に美鈴がうつ伏せに倒れているのが見えた。
四人で周囲を警戒しつつ近づくと、美鈴は後頭部に弾丸を撃ち込まれている。
頭部を中心に赤い血溜まりが広がり、即死なのは明らかだった。
「美鈴……。」
心臓が不快な脈動を刻み、レミリアは我知らず死体から目を逸らす。
こちらに頭を向ける形で倒れている美鈴の後方、廊下の先には拳銃が落ちているのが見えた。
魔理沙の言っていたSIG・SAUER P226だろう。
奥の非常階段の扉には魔理沙の銃撃によるものらしい大口径の弾痕が刻まれている。
すぐ脇のエレベーターの扉には無理やりこじ開けられた痕跡があった。
霊夢たちが追っていた敵の方はこれで更に下へ逃げたか。
他に敵の痕跡は見受けられない。
見受けられないことに、レミリアは違和感を覚えた。
『魔理沙、五階へ着いた。どこだ?』
『敵追い詰めた。法務部のオフィスだ』
『了解。敵の得物が拳銃だけとは限らない。私が行くまでドンパチは控えろ』
違和感の正体が掴めないまま、しかし受信したその会話の内容に危機感を抱く。
敵の拳銃がここに落ちているのは魔理沙の報告通りだ。
ではなぜ落ちているのか。魔理沙が敵の腕を撃ったからだ。
拳銃から非常階段まではそれなりに距離がある。
にも関わらず――血の一滴すら落ちていないのはどういうことだ?
『魔理沙、どこだ?』
「藍! ダメよッ!」
可能性に思い至りマイクに声を張るのと、ビルの外から砲声が轟くのはほぼ同時だった。
* * *
砲声には聞き覚えがあった。
ダネルNTWアンチマテリアルライフル――魔理沙が好んで使う対物ライフルのものだ。
霊夢はまさか、と考えを振り払おうとしたが、もう一発の砲声が意識を凍らせた。
砲声に続いた破砕音はビルの下、ちょうど咲夜が防弾車を停めた辺りから木霊する。
ダネルNTWの口径は二十ミリ、化け物じみた威力を誇る。
防弾車は一般的な対物ライフルの銃撃すら一発程度なら防ぎきれる仕様だが、ダネルNTWが相手では分が悪い。
今の一撃でエンジンを破壊されたとみなして良いだろう。
ビル内とはいえ騒ぎが外に漏れていないはずはない。
しかし警察が到着する気配は一切なく、おそらくは意図的に通報を無視している。
相手が国家権力であることはこの時点で確定だ。
そして同時に認めざるをえない現実が襲い掛かる。
ダネルNTWは南アフリカのアエロテクCSIR社が開発した銃だ。
日本警察が対物ライフルを用意するとすれば防衛省や外務省を通したとしてもバレットM82が妥当なはず。
防弾車の強度の限界から言って、ダネルNTWをわざわざ用意する必要はないだろう。
「魔理沙が、内通者……?」
知らず呟いた声に、咲夜も顔色を変えた。
傍らでは橙が必死に藍へ呼びかけているが、応答はない。
藍が入った法務部のオフィスの窓は外の通りに面している。
魔理沙に誘導され、最初の砲声と同時に原型も留めず吹き飛ばされたのだろう。
彼女が内通者であるなら、様々なことに筋が通る。
レミリアが言う敵の血が残っていないことに関する違和感。
美鈴を撃った銃声は上階にいた霊夢たちの耳にも聞こえていた。
得物を落としたわけでもない敵が魔理沙の銃撃に応戦しないのは不自然だ。
だが下手に銃撃戦を演じようとすれば自分たちが違和感を覚える。
その場しのぎだけなら魔理沙の口上が最も効率的と言えるだろう。
実際、彼女を信じきっていた自分たちは今この瞬間まで魔理沙を疑うことをしなかった。
その証拠に、疑えたのは付き合いの浅いレミリア一人。
そして魔理沙が内通者なら、自分たちが追っていた日本刀の女がまるで内部情報に通じているかのように的確に警備カメラの死角を突いていたことにも、無線の周波数を切り替えた後もこちらの裏をかき続けたことにも説明が通る。敵はイヤホンを挿していたが、あれはこちらの無線を傍聴していたのだ。
思い返せば疑わしい点は今までにいくらでもあった。
紫を怒らせない程度とはいえ、仕事の妨害に近い魔理沙の暴走の数々。
自宅を持たず、誰かのマンションやパチュリーの所に転がり込んでいた理由。
あわよくば仕事中に誰かが命を落とすことを見越し、金欠を装ってこちらの内部情報を探る腹だったならすべて納得がいく。
レミリアの成績が狙撃だけ伸び悩んでいたのも、おそらく敵に力をつけさせるのを渋ったのだ。
組織に入るとき一体どんな方法で紫を出し抜いたのかは不明だが、間違いない。
魔理沙は内通者だ。
「咲夜、アンタは下に降りて日本刀の女を追って。
近接戦に持ち込まれたら私じゃ勝ち目がないわ。
私は橙と外の狙撃手を殺る」
「わかりました。気をつけて」
橙を連れて階段を駆け上る。
と、外からは砲声よりは控えめな銃声が聞こえた。
対物ライフル。これはバレットM82か。
なぜ得物を持ち替えたのかを思慮するより早く、パチュリーから通信が入った。
『火災発生。火元は六階、資料室。スプリンクラーは物理的にシステム断線させられてるらしくて作動しないわ』
バレットM82はRaufossMk211という焼夷、徹甲、炸裂弾の効果を併せ持つ弾薬を使用できる。
火災で炙り出し、外に逃げれば全員狙撃で射殺する気か。
ヘリを呼んでも対物ライフルが相手では良い的だ。
裏に逃げようとすればおそらく機動隊かさっきの日本刀女が待ち構えている。
「ったく、こっちは狙撃は専門外だってのに」
完全に敵の策に嵌まっている状況に歯噛みしつつ、霊夢は武器庫から狙撃ライフルを取り出して屋上へと駆けた。
* * *
無防備に背中を晒す美鈴の頭部を撃ち抜く時、迷いが一切なかったと言えば嘘になる。
それでも魔理沙は引き金を絞った。
魔理沙には彼女を殺さなければならない理由が、信念があった。
魔理沙の父は警官で、警視庁特殊急襲部隊、SATの狙撃支援班の班長だった。
多忙であまり構ってもらえた記憶はなかったが、暇があると父の田舎で狩猟を一緒に楽しんだ。
物心ついた頃にはライフルの撃ち方は自然に身体が覚えていたし、そのうち父がいなくても祖父に連れられて狩猟へ出かけるようになった。
母が当時機動隊に属していた父を逆恨みした暴徒に殺されたのは魔理沙が小学生の頃だ。
犯罪者への憎悪は自然、日ましに強くなった。
家を空けることが以前よりも増えた父がなにかを決意するような表情で話を持ってきたのは四年前。
『イマジネイティブホーム』という、母を殺した暴徒が所属していた組織の上部組織への潜入という話を、魔理沙は一もニもなく承諾した。
しかし組織に潜り込むのは容易いことではなかった。
組織が欲しがるほどの才能を見せなければ潜入は為せない。
その才能と組織の信用を得るため、魔理沙は本人に求められるまま父とその部下数人を殺した。
シナリオは単純だった。
未成年の連続殺人犯、SATの隊員を射殺して逃走。
実際に被害に遭ったのはSATの隊員だけで、他の被害者は実在せず、ただ魔理沙同様に国が戸籍や経歴を改竄することで作り出された虚構の被害者だった。
どこで見ていたのかはわからない。
ただ現実に、SATの隊員の包囲を突破し逃げ果せることで八雲紫は接触してきた。
シナリオ通りの経歴を話し、魔理沙はそのまま組織への潜入を果たした。
目の前で警官を殺しただけあって、魔理沙が疑われることはほとんどなかった。
四年間組織に潜み、情報を横流しながら時を待った。
四年というのは仕事の仲間に情が移るには十分な長すぎる時間で、父やその部下の血で濡れた自身の手を忘れるには短すぎる時間だった。
だから魔理沙は迷いはしても、揺らぐことはない。
西行寺の働きで今、世界中の『イマジネイティブホーム』の支部を潰す算段が同時進行している。
犯罪者が若い殺し屋を使うのなら、それを取り締まる側が若い警官を使って何が悪い。
組織の撒き散らす災厄は無視できない規模だ。
それを今日、消すことができる。
「なら、いくらでもこの手を汚してやる」
決意を口に出し、魔理沙はライフルを構え直す。
スコープ越しに、屋上へ躍り出す昨日までの仲間、霊夢の姿が見えた。
* * *
咲夜が下の階へ辿り着くのと、視界の端に鈍い輝きを認めるのとはほぼ同時だった。
左に逆手で握ったナイフを頭上へ掲げ咄嗟に、脳天を割る刃の軌道を逸らす。
敵は間髪入れず踏み込むと共に左手の短刀で突きを放った。
こちらも右手で順手に握ったナイフで軌道は逸らしたが、続けざまにジャブのような引きの速さで短刀による突きが連続して繰り出され後退を余儀なくされる。
「咲夜!」
背後から銃声。
咲夜と敵のわずかに開いた隙間を更に広げるようなレミリアの援護射撃だ。
が、レミリアは実際には威嚇ではなく敵の身体を狙っている。
敵の回避行動があまりに素早いために隙間を広げたように見えただけのことだ。
身のこなしは咲夜と同レベル、いや、得物の重量を考えれば一応はまだこちらに分があるか。
そこで改めて敵の姿を確かめる。
咲夜たちとはまた違う高校の制服姿、耳にはこちらの通信を傍受するためだろう、イヤホンが嵌まっている。
どんな手品か、今まで握っていたはずの二振りの日本刀が消えている。
だが今の攻防で敵の得物とその間合いは把握できた。
長刀と短刀の二刀流。どちらも間合いは咲夜のナイフより広い。
霊夢たちと戦ったばかりだというのに息ひとつ乱していない。スタミナもかなりのものだ。
警備カメラの死角を突き、今も得物の存在を悟らせないことから考えて恐らくこちらの視界を完全に把握している。
その得物と能力で、咲夜には思い出すものがあった。
「半霊……。」
咲夜の出した通り名を聞いても少女は無言で、不気味なほどの静謐さを纏って佇んでいる。
半霊。
かつて世間を騒がせた未成年の殺人鬼。
以前に紫が惜しいと言っていた人材だ。
それでもスカウトに出向かなかったのは、彼女の手にかかった被害者が全員犯罪者だったから。
表向きはまだ服役中のはずだが、それが外に出ているということはやはり警察の手駒だろう。
「貴女、警察から送られてきた人材ですよね?
ならひとつ相談があります。魔理沙から聞いているかもしれませんが、
私の後ろにいる女の子は組織とは本来無関係です。
彼女は見逃してもらえませんか?」
「ちょっと、咲夜――」
「残念だけど」
咲夜の申し出に、少女は初めて口を開いた。
抑揚を欠いた、意識して感情を押し殺した声だった。
「その娘はもう見逃せる人材ではなくなった。
あまりに殺人技能が卓越しているし、内通者の報告では貴女に特に懐いてしまっている。
貴女が死ねば私や警察、ひいては社会に牙を剥くでしょう。
だからこのビルにいる人間は例外なく、消す」
「そうですか……。」
レミリアを殺すことに関する不本意さは言葉の端々から感じ取ることができた。
そんな彼女が見逃せないと言うのなら、食い下がっても意味はない。
咲夜は改めて瞳に殺意をたぎらせ、ナイフを握り直す。
「それなら、貴女は確実に殺します」
紫電のような初動で一息に距離を詰める。
右手で喉笛を狙いナイフの切っ先を突き出す。
半霊は立ち位置を変え、紙一重でそれをかわした。
咲夜は反撃の余裕を与えず、突き出した両刃のナイフを横薙ぎに振るう。
が、これも上体を沈めることでかわされた。
ナイフで中空を薙いだ勢いのまま右の膝蹴りを放つ。捉えたかに見えたが、手応えなし。
こちらの蹴りと同方向へ跳んで威力を完全に殺したらしい。
なるほど、半霊とは言い得て妙だ。
眼前に姿はあるのに手応えを一切得られない。
(だったら……ッ!)
膝蹴りを繰り出した脚が接地するのを待たず、左足で床を強く踏み抜く。
半霊はまだ後方へ跳んで着地した姿勢から体勢を整えられていない。
接地した右足で加速しながらそこへ肉迫し、右手のナイフで正面からの突き、左で逆手に握ったナイフの切っ先を半霊の背後から首を抉る軌道で振り下ろす。
獣の牙のような上下からの挟撃。
今度こそ捉えたと確信したが、次の瞬間にはその確信を裏切られる。
半霊はいつの間に握り直したのか、二刀を以って左右のナイフを同時に受け止めていた。
二刀はまるで両手の延長であるかのように精密な動きで咲夜の斬撃を弾き、両脇から首を挟み込むような軌道で生き物の如く迫る。
しかし、この距離ならまだナイフの間合いだ。
咲夜も負けじと弾かれた両手を引き寄せ、死角から突然現れた半霊の斬撃を受け止める。
円の動きでは得物の長い自分が不利と判断してか、半霊は左の短刀で突きを放ってくる。
だがこれは先にも見た。
咲夜は半身を切ることで切っ先を紙一重で避け、カウンターのタイミングで左の斬撃を頚動脈向けて放つ。
殺った。
今度こそ確信は本物だった。
事実、そのまま攻撃に集中していれば間違いなく半霊を屠れただろう。
しかし状況がそうはさせなかった。
半霊は突き出した左の短刀を引かず、勢いのまま――咲夜の後方へ飛ばしたのだ。
「危ないッ!」
判断に思考が紛れ込む余地はなかった。
咲夜は振り向きざま右のナイフを短刀を追う形で投擲し、
「咲夜ッ!」
こちらの斬撃をかわした半霊に背後から斬りつけられ、自身の左腕が宙を飛ぶ光景を見た。
* * *
短刀の切っ先は矢のような、それこそブレザーの防刃素材ごとレミリアを刺し穿つに十分な速度で飛来した。
悪夢のような光景だった。
狭い廊下で、なんとか咲夜の援護をしようと戦況を窺っていたレミリアにとってその短刀は完全な不意打ち。
こちらでも半霊と呼ばれる庭師の特殊技能でもあるのだろう、咲夜の身体の陰になっていた短刀はレミリアの死角からの飛来だった。
咲夜が振り向いて投擲したナイフに柄尻を打たれて軌道が逸れなければあやまたずレミリアを殺していただろう。
そして敵を眼前にして背後を振り向く愚を犯してしまった咲夜の一瞬の隙は、あまりにも絶望的な一瞬だった。
向き直った咲夜の目の前には長刀の切っ先。
咄嗟にかざしたのであろうナイフを避けるように軌道を変えた斬撃は、咲夜の左の前腕ごとその身体をえぐった。
咲夜は膝をつき、それでもなんとか立ち上がろうと左手を突こうとして、肘から先を失った左腕は虚しく空を掻き、そのまま床に倒れた。
それでも震える右手をレミリアに向けて伸ばし、しかしやがて力を失ったその身体は弛緩し、完全に床に伏した。
クリーム色のリノリウムの床に赤い血溜まりを広げるその姿が、記憶の中の美鈴や――両親と重なる。
「少し姑息な手を使わせてもらったけど、私にはまだ仕事が残っているので」
わずかな痙攣すらなくなった咲夜の屍を大股で乗り越え、半霊が歩み寄って来る。
その手には咲夜の血を滴らせた長刀。
レミリアは恐怖した。
「あ、ああ、ああああああああッ!」
ガチガチと震える指でロクな照準もないままMP5の引き金を絞る。
絞る瞬間、足元で何かが爆発したのかというような速度で肉迫した半霊の一太刀の下にMP5を破壊された。
正確にはレミリア自身を狙った切っ先を、本能がもたらす反射で後ろに跳んだ結果、破壊されたのが運良く得物で済んだだけだ。
着地など考えていなかったステップのせいで勢いのまま床に尻餅をつく。
半霊は無言でこちらを見下ろし、長刀の切っ先を振り上げる。
振り上がった拍子に血の雫がレミリアの顔にかかった。
口内に入ったそれは味わい慣れた紛れもない血の味で、同時に差し迫る死の味だった。
音声が消失する。
ただただ鈍く光る死を纏った長刀に視線が釘づけになる。
―― その時はツェペシュの末裔の名にかけて潔く死を選ばせていただくわ。
そう言い放った時、自分は本当にその意味を理解していたのか。
今となってはどんな気分であんなことを言ったのかまったく思い出せない。
――やっぱり、人間って使えないわね。
あの時に抱いた感想もそうだ。
本当に使えないのは誰なのか。
種族的優位をひけらかし、死から目を背け続けた自分。
そんな弱い自分は、人間に、咲夜に守ってもらわなくては眼前の死を直視することすらできないではないか。
「ハ」
知らず笑みが漏れた。
自嘲の笑みだ。
死の寸前で様々なことを省みているかのような自身の思考が滑稽で、もう笑うしかない。
省みたところでもう何も変わりはしないのに。
それでも省みずにいられない自分自身が滑稽で、哀れだった。
半霊はそんなレミリアの変化など気にも留めず、長刀を振り下ろした。
落ちてくる長刀の切っ先がスローモーションに見える。
咲夜に座学で教わった緊急時における人間の極限の集中というやつの影響だろうか。
否。
「……え?」
事実、落ちてくる長刀は遅かった。
なぜなら長刀は半霊の手を離れ、自然落下しているだけだからだ。
認識すると同時に音声が戻ってくる。
聞こえたのは銃声。
銃声に呼応するかのように、半霊の身体が跳ねる。
防弾ベストを着込んでいるのか、何発も銃弾を受けて手から血をこぼしながらも半霊は驚愕の表情で背後を見た。
振り返ったその身体が一際強く痙攣し、傾いだかと思うとそのままレミリアの傍らに倒れた。
その喉からは、投擲用のナイフが生えている。
ヒューヒューと喉から異様な呼吸音を漏らしながらも、その口は「なぜ」と動いていた。
「咲、夜……?」
ドサリと、今度こそ力尽きた風情で廊下の先で膝立ちになっていた咲夜が仰向けに倒れる。
その足元には弾切れになったグロックと、取りこぼしたのか投擲用のナイフも数本。
もはや正確に投げることもできなかったのか、レミリアの背後には短刀と共に同じナイフが何本も落ちていた。
「咲夜ぁ!」
状況を理解するよりも早く、レミリアは無我夢中で咲夜の元へと駆け寄っていた。
* * *
視界はもう暗転していた。
ただすぐそばにレミリアの声を聞いている。
「無、事、です、か……?」
「無事よ、貴女が守ってくれたから、貴女のおかげで……ッ」
頬に当たる雫は涙だろうか。
レミリアは自分のために泣いてくれているのだろうか。
悲しませるつもりはなかったのに。
自分が死ぬことで彼女が悲しむなら、それは少し心残りだなと咲夜は他人事のように思う。
実際、他に心残りなことはない。
さっき起き上がれたのはほとんど奇跡だった。
半霊の太刀は間違いなく致命傷を刻んでいたのだ。
起き上がり、あまつさえレミリアを助けられたのはすでに痛覚が機能していなかったのと、自分の意思というよりは何かの義務感に突き動かされるように機械的に半霊を狙ったおかげで彼女がこちらの殺気に気づかなかったおかげだろう。
義務感。正確には深層心理に刻まれた願望か。
ただレミリアを守りたい一心だった。
フランの二の舞にはしたくなかった。
あの時のような無念は二度とごめんだった。
「咲夜、貴女……フランを知っているの……?」
我知らず思考が口に出ていたらしく、レミリアからそんな問いが降る。
咲夜はポツリポツリと、フランのことを語った。
あの太陽のような笑顔を守りたいと思ったこと。
そして結局は守れず、逆に彼女に守られる形で今ここにいること。
誇りなどあの時に失った。
フランを死なせた自分に価値など見出せなかった。
惰性で生き続けてきたが、最期にレミリアを、フランが守りたがっていた彼女の姉を守れたなら自分はきっとそのために生きていたのだ。
図々しいかもしれないが、そんな自分に今なら少しは誇りを持てる。
「もっと、誇っていいわ。貴女はやっぱり、吸血鬼を最も輝かせる存在を名乗るに相応しい、のよ……っ」
右手を伸ばす。
わずかに残った指先の感触が、レミリアの柔らかな頬に、絹のような髪に触れるのがわかった。
やはり、指を伝うこの雫だけが心残りだ。
フランの笑顔は守れなかった。
だからせめてレミリアの笑顔は守りたかったと今更ながらに想うのは贅沢だろうか。
けれど、レミリアが「満月」を名乗るに相応しいと認めてくれたことは素直に嬉しい。
自分を誇りながら逝けるのなら、きっと自分は幸せだった。
そういえば、あとひとつ。
「頼ん、でた、ケーキ……食べ損ね、ちゃいました、ね……。」
レミリアの不器用な気遣いを思い出して、あの時のように口元がほころぶ。
そうして、そのまま。
微笑を浮かべたままで、咲夜の意識は深い場所へと沈んでいった。
* * *
「咲夜……? ねえ、咲夜? 咲、夜ぁ……っ」
安らかで満足そうな微笑みを浮かべたまま、咲夜はレミリアの腕の中で事切れた。
弱々しい、それでも確かに今までそこにあった脈動は、完全に途絶えてしまった。
咲夜の身体をゆっくりと横たえる。
そこで、不快な雑音を聞いた。
「……ヒュッ、ヒュー、ヒュー……。」
見れば、半霊が息も絶え絶えになりながら階段の方へ這っている。
逃げるのか。
咲夜を殺しておきながら。
咲夜を奪っておきながら。
怒りで頭の中が真っ白になった。
霊夢のことも、魔理沙のことも最早どうでも良かった。
咲夜は死んだ。
この女に殺された。
その事実だけが脳裏を埋め尽くす。
顔の筋肉が極端に強張るのを感じる。
レミリアは立ち上がり、腰からグロックを抜いた。
半霊の頭部に照準して、引き金を絞る。立て続けに絞る。
カチッ、カチッと引き金から手応えが途切れるまで夢中で撃ち尽くした。
「……、ヒュー、ヒュッ……。」
しかし、半霊はまだ生きていた。
レミリアには撃てなかった。
引き金を絞るごとに余計なことが頭をよぎった。
彼女にも大切な誰かがいるのだろうか。
彼女を奪うと自分のような想いを味わう誰かがいるのだろうかと。
人間は重い。
その一生を背負うには、人間になった今の自分の背中は小さすぎる。
今は咲夜一人を背負うので精一杯だ。
「……ッ」
後はただ、この拳銃が悪いのだ。
グリップが太くて握りづらい。
咲夜の言っていたもっと別の拳銃の方が、きっと自分には合っているのだ。
癇癪を起こしたように、レミリアは拳銃を投げ捨てた。
投げ捨てた瞬間、視界は黒く塗り潰された。
*
「――嬢さ――起きてください、お嬢さ――」
「んん……咲夜……?」
咲夜の声が近くから聞こえた。
今しがた自身の腕の中で事切れた、咲夜の声が。
「お嬢様! 起きてくださいお嬢さ――」
「咲夜!?」
弾かれるように起き上がると、目の前には涙で濡れた従者の顔があった。
十六夜咲夜。
幻想郷の、十六夜咲夜だ。
「お嬢様! 良かった……っ!」
そのまま抱きすくめられる。
周囲を見回すと、紅魔館の中庭だ。
見上げると紅い霧に天蓋が覆われている。
ああ、帰ってきたんだと実感する。
「私……どうしてたの?」
「急に倒れられたから心配したんですよっ!
なかなかお目覚めにならないし、本当に……っ」
つまり、あの世界での出来事はほんの一瞬の、胡蝶の夢だったのか。
だとすればなんてひどい悪夢だ。
新鮮で、楽しくて、辛くて、悲しい。
しかし夢ならむしろ好都合だ。
これは別に、閻魔やスキマ女の言いなりになるというわけはないのだから。
「咲夜、霧を消すわ」
「え。どうされたんですか急に……?」
「それから、フランも地下から出してあげましょう。
出たがらないかもしれないけれど、無理やりにでも引っ張ってくるわ」
「しかし、それは……。」
「大丈夫よ。
第一、考えてみれば簡単なことよね」
そう、簡単なことだった。
十六夜咲夜は、満月は吸血鬼である自身を最も輝かせる存在。
しかし。
「太陽がなくては、満月も輝けないんだものね」
* * *
彼女には名前がなかった。
ただ物心ついた頃から、銀のナイフを握って吸血鬼を狩っていた。
「時を操る程度の能力」を生まれ持ち、何かに突き動かされるように吸血鬼を狩り続けた。
それはまるで、誰かを探し、探した相手が別人だったことに腹を立てて目の前の吸血鬼に八つ当たりをしているかのようでもあった。
一体何年そんな徘徊じみた吸血鬼狩りを続けただろうか。
ある日、彼女は紅い館に住む幼い吸血鬼と対面した。
対面することで、それまでの自分の人生の意味を知った。
正確に言えば、思い出した。
全力を以って襲い掛かった彼女のことを、館の主であるその幼い吸血鬼は気に入ってくれたらしい。
「人間にしては見所があるわね。貴女に名前をあげましょう。
そうね、十六夜咲夜なんてどうかしら?
私を最も輝かせる『満月』を意味する名前よ。光栄に思いなさい」
そうして彼女は紅魔館で働き始めた。
高貴な吸血鬼の従者として恥じのない働きぶりで、やがて館を取り仕切る立場になった。
彼女の目的は常にひとつだった。
レミリア・スカーレットとフランドール・スカーレット。
二人の姉妹を命を賭して守り抜くことだけ。
そうすることで、彼女は自身に誇りを持てた。
以前、今わの際に胸に抱いたあの誇りを。
*
紅い霧のなくなった幻想郷。
館の中庭で、彼女の主はパラソルで陽射しをよけながら午後のティータイムの最中だった。
彼女は意を決して、そのテーブルの上にケーキを二つ置いた。
主は少し不思議そうに彼女を見上げた。
「二つ……?」
ひょっとして、と考えたのだ。
主はティータイムの最中に突然倒れたあの日以来、どこか変わった。
紅い霧を消し、妹を地下から出したこともそうだが、挙動に無駄がなくなった。
それでも直截に聞くのは気が引けた。
ひょっとして"あの世界"に行って来たのではないですか、などと。
だからケーキを二つ出してみた。
もしかしたらあの日の、自分の最期の心残りを覚えていてくれるのではないかと期待を篭めて。
「咲夜、流石に二つは食べられないわよ?
それにちょっと、今日はこのケーキは食べられないかも」
「あ……失礼しました」
主の怪訝そうな顔を見て、彼女は内心で落胆する。
やはり目の前の主とあの時の少女は別人だったか、と。
そんな彼女をしり目に、主は何かを思いついたように立ち上がった。
「お嬢様……?」
「ちょっと散歩に出ましょう。ついでにお買い物も。
私、射撃を趣味にしようと思うのよ。
ブローニング、だったかしら? あれが良いわ。グロックはグリップが太くて握りづらいのよ。
骨董品なら香霖堂に流れ着いているかもしれないし」
言うなり日傘を差して館へ戻る主を、彼女は呆気に取られたように見つめた。
主は振り返り、悪戯っぽい笑みを浮かべてさらに言った。
「それから、帰りに里でケーキも買いましょう。
二つと言わず三つ。それで、フランも呼んで改めてお茶にしましょうよ。
さ。そうと決まれば行くわよ咲夜」
再び背を向けて館へ戻る主に、彼女は久方ぶりの呼称を使った。
「それじゃあ私もすぐに支度をしますね、レミリアさん」
呼びかけるとレミリアは泣き笑いの、少女の顔で抱きついてきた。
咲夜はぎゅっと、それを受け止める。
もう絶対に、離さない。
Fin.
それを忘れるくらい面白かったです。
格闘描写はすごい。もうこれしか言えない。
パラレルワールド型の二次創作でこのお話が一番気に入りました!!!
設定もめったに無いタイプのもので新鮮でした。でも、終盤の魔理沙は予想できなかった……。
パラレル世界でのフランとレミィの話の方もちょっと気になります。
初投稿との事ですが、これからも期待しています。頑張ってください!
見事です。時間を忘れて読み進めてしまいました。
銃撃戦などの緊迫感も上手に表現できていたと思います。
ただ、みんな殺人鬼だったのがこええ……
パラレル世界での結末も少々気になりますね。
これで本当に初投稿かと思うぐらい面白かったです
>以前、今わの際に胸に抱いたあの誇りを。
今際の際
かと
それに初投稿でこれは凄いですね・・・!
いい話を読ませてもらいましたw
ありがとうございますw
ただ別世界に飛ばされる理由とレミリアの紅い霧をのかさない理由が不自然すぎる、まぁそれは別に話の中身にはあまり関係はないこじつけ的な部分だからかまわないとも思うけれど。
そこを何とかできれば話にもっとのめり込めると思う。
にしても面白いね、この話。
難しいとされる戦闘シーンは非常に上手で読み応えがありました。
ただ、美鈴の扱い方がなぁ。主要メンバーの筈なのに、他のメンバーからいい様に扱われ、虐められ(しか
も学校で現実にある様な虐め)これと言った見せ場も無く、殺されて御仕舞い?他のメンバーに虐められる
ためだけに登場させた感じです。しかも、レミリアが咲夜とフランに対しては何か感じるものが合ったのに、
美鈴には、何にも感じるものが無いと言うのはどういうこと?レミリアにとって美鈴は、従者として如何で
もよいということですか?
美鈴というキャラクターは東方二次作品が出来た当初から、たいした意味も無く虐められたり悲惨な目に遭
ったりするのは一部の人から見ると、いい加減にして欲しいほど使われて来ましたから不愉快と反感を食ら
う事に成るので注意が必要です。
あと、パラレル世界の事をあそこまで盛り上げといて突然終わるのは、如何しても中途半端のような感じが
します。
以上の点と今後に期待して、この得点で
そして別の世界感、別の立場、別の過去を歩ませつつも
なおキャラクターを生かしきる技量。感服です。
そして、絶対に夢ではない何かーー
夢だとしても、それは所謂普通名詞の夢ではなく
現世でも幻想でもないどこかの平行世界の呼称でしょうーー
その世界で確実に起こった出来事。
そして時空を越え世界を越え、幻想の郷に再び集った者達。
例えそれが、あの世界の者達が抱いた幻想によるものであってもーー
いや、そうであればこそ、今のこの世をすばらしく生きるのですね。
百点では絶対に足りない、私の中に永久に残る物語を、ありがとうございました。
明日…いや、今日学校なのに。
戦闘描写の表現も凄く分かりやすく、銃器等の専門用語も不自然にならない程度に解説をしてくれていたのは読みやすい要因の一つでした。
我が儘を言うと、やはり飛ばされる理由をもう少し作り込んだ方が良かった事、戦闘描写で所々テンポが悪いと思われる所があったので、それを改善して欲しい。
それらは他の作品を書いている内にすぐ改善されるでしょう。
その文才が羨ましい。
次回作も楽しみにしてます。
頑張って下さい。
裏切り者は美鈴辺りだと思ってたのに、最後までいいところが無かった事にも絶望したw
戦闘描写にもう少し疾走感が欲しかったところですけど、
リスペクト作品としては十二分な出来かと。
美鈴の扱いが残念なので90点w
あえて失礼を承知で言えば、設定には全く現実味が感じられませんでした。一部上場企業が世界的犯罪シンジケートの支部――のような事、そもそも少女たちが銃器を用いて殺し合いと言うこと自体が、自分には全く持ってリアリティが感じられません。少なくとも、自分が敬遠する類のことではあります。
ですが、そんな私が一気に読み進めるだけのストーリーがこの作品にありました。文章も読みやすく、途中で止める気が無くなるほどでした。そしてラストもまた素晴らしいもので、読んだ後本気で余韻に浸りました。
この作品も少なくない時間をかけて書いたことでしょうし、すぐに、とは行かないかもしれませんが、次回作も期待しております。
・・・んー、面白いって言うのも少し語弊が。
でも、とにかく引き込まれるような作品でした。
かっこいい雰囲気にして、ストーリーは二の次というありがちな失敗作の可能性を危惧していたのですが
とんでもない!
ストーリーとして上手く、内面に関する描写もよかったと思います。
戦闘シーンがあってテンポが悪くならないという作品は珍しいのでは。
ほかでは見たことのないタイプの設定で斬新だしいい試みだと思います。
惜しむらくはレミリアと咲夜の関係性に主軸を絞り込んだために周りのキャラが若干投げっぱなしになった印象がありますが
そのぶん主軸は最後までブレなかった。
今後の作品にも期待させていただきます。
読解力なくてそのあたりが分からなかった
あと美鈴の扱いがもはや異常。蛇足ではないか?
気に入ったとことしては、魔理沙へのフォローをちゃんとしてて良かった
ただ、パラレルのレイマリがあのあとどうなったか見たかったきもする
総合的には、主軸がぶれなくて読みごたえがありよかった。
次作も期待
吸血鬼としての力が無くても見事に適応するおぜうのカリスマには惚れ込みました。
序盤は「うーん?」という感じでしたが、それを補って余りある程の後半の熱い展開。
少しずつ変わっていくレミリアの心も細かく伝わってきました。
そして最後に一気に血圧を跳ね上げるオチ!――素晴らしかったです
あと、「十六夜咲夜」の名前の意味が俺と同じ説で、ちょっと興奮しちゃいましたw
じんわりきました
最後の「もう絶対に、離さない」がめっちゃ尊い......。