0 決闘
二人の妖怪がいた。
蒸し暑い草はらだった。
周囲を森に閉ざされた中央で、互いに向き合い、絵画のごとく動かず、静かに睨み合っている。
空は曇り。風はない。が、地上は竜巻が通過したかのように、ちぎれた草の葉や、地面をえぐられた痕跡が残っていた。
戦闘の形跡である。見物をする第三者は、人も妖怪も見あたらない。
「……汝を幻想郷における危険分子と見なす。したがって、この場で天誅を下す。もはや容赦はせん」
一方の妖怪から、凄まじい『力』が、ほとばしった。
妖気が燎原の火のごとく野面を渡り、瞬時に広場を覆い尽くす。
草花がおののき、砂礫が目覚め、生者の多くが平伏するであろう高み。
神々しさと禍々しさが同居した、大妖怪の示威だった。
だが、もう一方の妖怪は、強烈な妖気を浴びても、清々しい笑みを浮かべていた。
瞳に浮かんだ好戦的な炎は、まぎれもなく妖怪のそれである。
親指を口に含み、小さく噛み切る。血の珠を、一滴二滴、マントに垂らす。
「……弾幕ごっこでも、戦闘でも、勝つのは私です。まだカードは一枚残っています」
取り出した符に血の印を描き、妖怪は対峙する相手にそれを向けた。
「誰も知らないもう一人の私、蟲の妖怪の業を、貴方に教えてあげます」
そして彼女は、生まれて初めての力をもって、最後の戦に挑んだ。
自ら道を切り開き、蟲の王としての誇りを胸に、
掛け替えのない親友を、未来から取り戻すために。
~揺れる尻尾を追いかけて~
1 葛藤
絶対に間違えない、とは言い切れないものの、
(……………………来た)
命を預けるに足る正確さを誇る、秘かな自慢の能力。
(…………ひぃ、ふぅ、みぃ。残っているのは私を入れて二人、か)
天気の予報から賽の目まで、ばっちりお任せ。
(………………あ、遠ざかってる。これはきっと長くなっちゃうわね。仕方ないか)
それが蟲の知らせ。リグル・ナイトバグを今日まで生かした、蟲の勘である。
「みんなー、ここよー!」
朽ち木の下から這いだして、リグルは手を振った。
林の中、自分を捜していた友人達が、こちらに気づき、すぐに飛んでくる。
先頭の夜雀が、まず近くに羽ばたき降りてきて、
「リグル、ここにいたんだ。さすがね~、全然気がつかなかった」
「でも、私たちはまだ見つけてなかったから、出てこなくてもよかったよー」
「ごめん。なんか放って行っちゃわれると、寂しくなったというか」
リグルは頬をかいて、宙に浮く黒い球体に弁解した。
鬼役に置き去りにされた経験は過去に何度もあるが、隠れている方も意外に根気がいるものなのである。
長引くようなら適度なところで切り上げて姿を見せるのが、隠れん坊を楽しむコツだと思っていた。
と、リグルは自分を探しに来た友人の顔ぶれに、違和感を覚える。
黒い球体を解いて現れた、金髪に赤いリボンの妖怪。鬼役のルーミア。
赤紅の羽の多い体を、小豆色の帽子と服で包んだ夜雀の妖怪。ミスティア・ローレライ。
そして最後の一人、今も忙しく林の中を飛び回っているのは、氷の妖精であるチルノだった。
ということは残っているのは、
「橙はまだ捕まってないの?」
ここにいない、最後の一人であろう化け猫について、リグルは聞いた。
8の字に飛んでいた氷精が、地上まで降りてきて怒鳴る。
「そうよ! どっかから尻尾がはみ出てないか、さっきから捜してんのよ!」
「へー、珍しい。てっきりチルノが最後なんだと思ってた」
「うぅ……隠れん坊なら……橙には絶対に負けない自信があったのにぃいいい」
相当悔しかったらしく、チルノは金属的な唸り声を上げて、握り拳を上下に振っていた。
その脇にいたミスティアが、肩をすくめて言う。
「リグルも捜すの手伝って。私たちだけじゃ、今回の橙は強敵みたい」
「もちろん。橙がどんなとこに隠れたのか、楽しみだもの。……よし、と。じゃ、行きましょう」
マントについていた枯れ葉を払い、リグルも三人と一緒に、残った橙の捜索へと飛び立った。
妖怪の山にあるブナ林の中、合流した四人は手分けして橙を捜す。
適度に離れた位置で、声を掛け合いながら、怪しい場所を見つけては確かめに行く。
特に三人は――意地っ張りのチルノも含めて――リグルの勘を当てにしていた。
そして期待されている本人も、橙をすぐに見つけられる自信があった。
リグルは隠れん坊が得意である。
どこに隠れるべきか、仲間達がどこに隠れているのか、意識せずとも蟲の勘が冴えるのだ。
食べ物の在処や、その場所の危険等、自分の命に関わるほど、正解率は高くなる。
この能力は遊びの場でも有効でもあり、もっぱら隠れん坊では有効に働いていた。
得意なだけじゃなく、隠れん坊は好きだった。
よく他人から大人しい性格だと言われるリグルは、確かにあまり荒っぽいことは好きではない。
鬼ごっこならまだしも、妖怪の間で一番人気の遊びである弾幕ごっこですら、こちらから誘うことは、あまりなかった。
変わり者と噂されることもあるようだが、逆にリグルとしては、何であんな乱暴な競技に皆が熱中するのかが不思議である。
それより、お互いに見えず離れていても通じ合っていることを確認できる、隠れん坊の楽しみを主張したかった。
隠れている間、四季に応じた季節の音を味わったり、知らなかった景色を発見できるのも、この遊びならではである。
そんな隠れん坊だが、仲間内で一番隠れるのが下手なのが、今捜している橙だった。
元来活発な化け猫の妖怪である彼女は、じっとしていられない性格である。
隠れ場から飛び出してきたり、笑い声を漏らしてしまったり、ちゃんと姿を隠したつもりで尻尾が二つはみ出て動いていたりと、毎回のように失敗していた。
本人は「絶対そのうち見返してやるんだから!」と豪語していたが、その強がりを最初に聞いたのはずっと昔の話である。
そんな橙が今回、最後まで子役として残っているというのは、確かにちょっとした異変だった。
黄色い落ち葉の山を足で探りながら、ミスティアがぼやく。
「ここにもいないわね。私達に黙って、帰っちゃったんじゃない?」
「そんなことないよー。橙はずるをしないよー」
ルーミアはブナの木を行ったり来たりしながら、橙の弁護をする。
リグルもそれに同意した。
「私も橙はちゃんと隠れてると思うけど……でも本当にみつからないわね」
経験的にも直感的にも、橙はまだ約束通り、このブナ林一帯に潜んでいる気がする。
改めて、リグルはしっかり光景を眺めてみた。
夏は緑の濃かったブナ林は、秋には黄色から橙色に色づき、冬に入った今でもなお、妖怪の山を鮮やかに染め上げている。
雪はまだ降っていないが、快晴の空の下、林に日の光が十分に届いているため、隠れることのできる場所は限られていた。
木の幹の影、倒木の下、落ち葉の中、黒い岩の裏側、等々。どれも橙の長い尻尾を二つ隠すには、頼りない隠れ場だらけである。
しかし見つからない。怪しそうな場所はほとんど探したのだけれど……
「もー、どこ行ったのよー」
散々飛び回ったチルノはくたびれたらしく、黒い岩の上に腰を下ろして、一息つき始めた。
「…………あれ?」
リグルはその光景が、何か引っかかった。
「そう言えば、その岩、昼間ここに来た時もあったっけ」
「あったんじゃないー?」
ルーミアが間延びした声で返事する。
しかしリグルは、氷精が今も座っているその岩から、目が離せなかった。
やっぱり怪しい。記憶が正しければ、昼間はここにこんな大きな岩なかったはずだ。
落ち葉が貼りついていないし、土で汚れてもいないので、短時間に山から転がり下りてきたわけでもない。
この場に急に出現したということは……。
リグルは近づいて、その岩肌を触ってみた。
いかにも硬そうだった表面は、なんと生き物のように柔らかく、くすぐるとぷるぷる震えた。
そこで推理は確信に変わる。
「やっぱり! これが橙よ! 見つけた!」
「はぁ? リグル、バカになったんじゃじゃないの」
呆れて眉をひそめるチルノの下で、岩がぽかんと破裂した。
四人は驚いて悲鳴をあげ、一斉にそこから飛び退く。
どろろん。
「じゃーん!」
煙がおさまった後には、少女が一人が立っていた。
赤い洋服に二又の尻尾。ピアスのついた猫耳と、つぶれた緑の帽子。
その容姿は、まさに捜していた最後の一人、式の式である化け猫、橙だった。
彼女は腰に手を当て、得意げに言う。
「えへへ、みんな! びっくりしたでしょ!」
「い、岩が橙になった! なんで!?」
今までそこに座っていたチルノは、動転して地面に尻餅をついていた。
その隣のミスティアも、目を丸くしていたものの、彼女はすぐに状況を理解したらしい。
「なるほど、変身術! そう言えば橙はそれが使えるようになったのよね」
「うん! さっき思いついたの! 岩に変身して、尻尾を抱えてじっとしていれば、絶対気づかれな……ふぇ、ふぇっくしょん!」
話の途中で、橙は大きなくしゃみをした。
自分の体を抱きかかえ、両足で小刻みに跳びながら、
「リ、リグルがすぐに見つけてくれたよかった~! チルノのお尻すっごく冷たいんだもん! 風邪ひいちゃうよ!」
「あはは、ずっと我慢していたんだ。リグルの勘でもすぐにわかんなかったんだから、凄いわよ橙。ね、リグル」
「あ、うん。びっくりしたわ橙」
「本当!? やったー!」
リグルが素直に驚きを伝えると、橙は思いっきりばんざいして、滅多にない勝利に、ご満悦の表情になった。
一方、上に座っていながら見つけられなかったということで、さらに面白くなさげな顔をしていたチルノは、やがて不敵な笑みを浮かべ、
「まぁいいわ。橙が隠れん坊で強敵になるんなら、すごく面白いからね」
「うん! これでチルノと競えるよ! すごいでしょ、私の変身術!」
「よくわかんなかったけど! 怪しいものを見つけたらすぐに橙だと思って凍らせれば、あたいが勝てるってことよね!」
「いい!? そんなのあり!?」
チルノの極端な対抗策に、橙が唖然として顔を引きつらせ、見ていた三人が吹きだした。
そしていつも通り、五色の笑い声が、冬のブナ林に響いた。
それから五人は、夕暮れまで妖怪の山で遊んだ。
なんと言っても、橙が変身術という新たな武器を手にしたため、隠れん坊はかつてない盛り上がりを見せていた。
一番可笑しかったのは、リグルに化けた橙がわざと鬼役のチルノに見つかるという悪戯を仕掛けたことである。
つまり、隠れん坊が終わった時には、リグルが二人になっていたのだ。その時のチルノの混乱は、推して知るべし。
「あはは、あー、面白かった。私、店があるからもう帰らなくちゃ」
三度目の隠れん坊、最後の一人が見つかってから、ミスティアが言った。
リグルも西の空に浮かんだ宵の明星を見ながら、
「そっか。じゃあ隠れん坊の続きはまた明日ね」
「今度は山の裏側でやりたいなー」
「じゃあそれ! とりあえず、明日の昼から、またこの場所に集合!」
「おー!」
チルノの号令に、皆は拳を突き上げる。
だがしかし、賛成の声は揃わなかった。
それまではしゃいでいた橙が、急に申し訳なさそうに言ったのだ。
「……ごめん、みんな。明日は遊べないの」
「えー! なんで!?」
明日以降の主役になるはずだった化け猫の、予期せぬ不参加表明である。
皆は信じられない思いで、不平を唱和した。
それを受けて、彼女は俯く。手を後ろに組み、尻尾をぷらぷら揺らしつつ、
「……大事な修行があるの。ごめんね」
修行と聞いて、場に妙な沈黙が生まれた。橙を囲む互いの顔を、一瞬だけ、確認し合う。
それまで煌々とついていた興奮の明かりが、急に布地に覆い隠されてしまったようだった。
まず、チルノがうろたえたように聞く。
「で、でも、一昨日も修業があったじゃない!」
「……そのちょっと前も二日連続で修行だよね」
「先週もだったっけ」
「先々週もずっとよ!」
氷精の疑問を口切りに、子供達は式の式に問いつめた。
そうなのだ。今日は久しぶりに五人が揃って遊べる日だったのだ。
だから皆はいつも以上に遊びに熱中することで、橙との再会を喜んでいたのである。
「少しサボっちゃだめなのー?」
「だ、だめだよ。今度の修行は今までと違って、凄く大事だって言われてるんだもん。藍様に怒られちゃう……」
「そーなのかー……」
ルーミアも珍しく、肩を落としてがっかりした。
チルノは口をへの字にして橙を見てるし、ミスティアはあらぬ方向の地面に目をやっている。
リグル自身も、気づかれない程度に嘆息して、橙の不在を残念に思った。
暗くなった五人の空気を払ったのは、当事者である橙だった。
「みんな、心配しないで。きっとこの修行が終わったら、また遊べる時間が増えると思うから」
「本当にー?」
「うん、きっと本当!」
「また面白い術を教えてもらったら、私たちにも見せてね」
「うん、もちろん!」
橙の声に張りが戻った。
一番の元気星である彼女に、皆の表情も明るく戻る。
「それじゃあ、またねー!」
化け猫の姿をした式の式は別れを告げ、手をぶんぶん振り、東の八雲のお屋敷に向かって、元気よく飛んでいった。
橙が去った後でも、残った四人はスムーズに解散というわけにはいかなかった。
まずチルノが、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「なんか、しっくりこないわ」
その発言は四人の気持を代弁していたものの、いささか険悪な調子だった。
「この前も修行、その前も修行。今日だって藍様が言うから仕方がないだって。次いつ遊べるかもわからないし、その時も『明日は修行があるから』って言い訳するわけ?」
不平を並べ立てることで、チルノの気分はおさまるどころか、憤懣が増しているようだった。
ルーミアが彼女をなだめるように言う。
「でも橙だって辛そうだったよー」
「だったら修行なんて抜け出してくればいいじゃない」
「それは……やっぱり橙はご主人様に逆らえないから……」
「しっくりこないっていうのはそこよ。橙はご主人様とあたい達と、どっちが大切なの」
「チルノ!」
リグルは悲鳴をあげ、慌てて自分たち以外に誰もいないか、周囲を見渡した。
「そんなこと、絶対橙に聞いちゃだめだからね」
「なんで」
「橙が悲しむから。去年レティにも言われてたでしょ!」
「そうだ! 冬になったら、レティが帰ってくるのよね!」
冬妖怪との再会を思い出したことで、チルノの機嫌が急に元に戻った。
スペルカードをサッと取り出し、
「よーし、あたいの新しい必殺技を見せてあげるわ! 凍符『スーパーパーフェクトフリーズ』!」
「わはー」
橙のことなど忘れてしまったかのように、必殺技とやらをルーミアに熱心に実演している。
リグルはミスティアと顔を見合わせ、揃ってため息をついた。
とりあえず、一番腹を立てていたチルノの鬱憤が無くなったので、今日はそれ以上この場で橙のことについてあーだこーだ言うのは止めになった。
ただし、次の遊びは橙の予定が空いてから、あるいは雪が降ってレティが現れてからにしようということで、意見が一致し、四人はその場で別れた。
○
リグルの家路は、途中まで夜雀と一緒だった。
山から下りた所にある、麓の林を行く。針葉樹の群れは棘の葉で空を隠し、夕暮れのうす明かりをさらに弱めている。
人気の無い暗い森は、妖怪にとってさほど苦にはならない。そうでなくても、背中のマントはぼんやり発光しているし、すぐ側では陽気な歌が流れている。
しかし、リグルの気分はあまり優れなかった。
乾いた森には無口な蟲が棲むというが、道中一言も喋ってないのは、杉のせいでも暗所のせいでもない。もちろん夜雀の歌が原因でもない。
「……ねぇ、ミスチー」
リグルはようやく、隣で歌いながら飛ぶ友人に話しかけた。
「最近、橙の修行って、本当多くなったよね」
「ラ~♪ そうかもね~♪」
歌の続きに合わせて、ミスティアは返事した。
ふぅん、と顎に指を当て、思い出すように遠くを見ながら、
「次は何を覚えてくるのかしら。先週見せてくれた火の術とかは便利だったし。今度仕事手伝ってもらおうかな~」
仕事というのは、八目鰻を調理することである。ミスティアは住み処に自分の屋台を持ち、串焼き屋を営んでいるのだ。
彼女は橙の修行に関して、別段悪く思ってはいないらしかった。
リグルはまた意見を求める。
「それだけじゃなくってさ。最近、橙って少し変わったような気がしない?」
「うん、変わった変わった」
「やっぱり気づいてた……」
「それは当然よ。きっとルーミアも気づいているし、チルノも薄々勘づいてるんじゃないかしら」
「そうよね。最近は二人が意地張り合って喧嘩することも少なくなったし。チルノが分別を覚えたというよりは、橙が一歩譲るようになったんだと思う」
「まぁ猫舌は変わってないみたいだけどね……ぷっ」
「ふふっ」
ミスティアの思い出し笑いにつられ、リグルも顔をほころばせた。
ひと月前のことだった。五人で遊んでいるところに秋の神様がやってきて、里で収穫されたお芋をお裾分けしてもらった。
どうやって食べようか、というときに、橙が覚えたての火術を披露したことで、河原の側で焼き芋にしようということになったのである。
火の番をしたのは扱いに慣れたミスティアだったが、それを頼んだのは橙だったし、火が苦手なチルノやリグルを焚き火から遠ざけたりと、細かく指示していた。
彼女が焼けたお芋で舌を火傷しそうになって涙目になるまで、リグルは、本当にこれがあの橙なんだろうか、と感心していた。
いや、感心していただけではない。それまで味わったことのない、もやもやした感情を抱いていることも自覚した。
そして今日もまた、隠れん坊の最中に、同じ感情がぶり返してきたのだ。
寂しいような、焦るような、哀しいような、そんな複雑な感情が。
どうしてこんな思いを抱くのか。
巡り続けていた思考の途中で、歌の横やりが入る。
「……秋は過ぎ去り~夏はまだ遠し~♪ 可愛い蛍のあの子は~ちょっぴりセンチメンタル~♪」
「ちょっと。からかわないでよ」
「あ、怒った? ごめんごめん。まぁ、私だって少しは辛いけどさ……」
「うん……」
「でも、しょうがないんじゃない? 橙はそういう妖怪だから」
トーンは脳天気なようで、その台詞は核心をついていた。
思わず彼女の顔をまじまじと見つめれば、夜雀はどこか悟ったような面持ちで、前を向いている。
浮かべた笑顔が、今はどことなく寂しげだった。
「だから、今の内に遊べるだけ遊ぶしかないって、私は思ってるのよね……」
「そっか……」
リグルは反省して、下を向いた。
ミスティアはすでに、彼女なりの答えを出していたのだ。きっと、自分が悩むもっと以前から。
会話をしている内に、目印の一本杉が見えてきた。ここで彼女とは帰る方向が別になる。
「じゃあ、おやすみ。気が向いたら、店にも顔を出してね」
「うん。おやすみ」
リグルは手を振って、夜雀の友人と別れた。
「しょうがない……か」
ねぐらへと帰る道、独り言が出た。
そう。確かに、今さら言われるまでもなく、わかっていたことである。
橙は自分たちとは違う。
妖怪は二種類に分けられる。
時を経てもほとんど変わらない妖怪と、外見も含めて大きく成長する妖怪に。
両者を決定するのは先天的なものではない。長年同じ姿をしていた妖怪が、何かのきっかけによって変わったりすることもあって、その過程も様々である。
リグルは過去に何度か転生したことはあるが、今の姿になる前のことは覚えていないし、自我が芽生えてから心身に変わりはない。
ミスティアもチルノもルーミアも、出会った頃と今とで、あまり見た目や性格が変化した様子はなかった。
しかし橙だけは違う。
橙は間違いなく、最初に出会った頃よりも成長して、今も先へと進んでいた。
元が動物の妖怪は子供から大人へと変わっていくことが多いと聞いたが、橙の場合特に最近、これまでよりずっと速いスピードで、子どもから脱皮しつつある気がする。性格も外見も、妖怪としての実力も。
その原因は彼女の式神としての本分にあった。
橙は幻想郷を管理している八雲一家の一員であり、八雲の苗字を賜るという目標に向かって邁進しているのだ。
今でこそ、彼女の苦手な隠れん坊とか、ハンデをつけることでごまかしているが、そのうちレベルの差に、付き合えなくなる時がきっと来る。
これまで通りの関係を続けたければ、自分たち四人が先へ進むか、橙に思いとどまってもらうしかない。
けれども、他の友人達に成長を促すというのは、無謀な話に思えた。
妖精のチルノは言うまでもなく、ミスティアも既に追いかけることを諦めているし、ルーミアに到ってはあれで性格が完成されている気がする。
レティは橙と付き合うことができるかもしれないが、これまで過ごした空気をそのまま続けることはできないだろう。
そういう自分だって自信はない。今日まで蟲の妖怪として生きてきて、さらに大きく成長しようとか、そんなこと考えたことすらなかった。
逆の道を狙うのも論外だった。
橙は絶対に、彼女の主を追いかけることを、止めはしないだろう。
チルノに選択を迫られれば――どれほど悩むことがあっても――きっと最後には家族の方を選ぶことになる。
彼女が日頃からどれだけ主のことを大切に思っているのか、知らない者なんていないのだ。
――でも私は……橙とずっと、今みたいな友達でいたいよ。
決して本人には言えない思いを、心の内で呟く。
さっきチルノが発した不満は、リグルの中で葛藤となって、ここ数ヶ月ずっと残っていた。
一緒の時間はあとどれくらい残されているのか。未来には闇ばっかりが広がっていて、その先がどうなっているのか見当もつかない。
だから最近は、橙と遊ぶ度に、言いようのない虚しさを覚えてしまうのである。
ふと、頭の触覚が反応し、リグルは顔を上げた。
一匹の蝶が羽ばたいて、古いクヌギの幹の周りを舞っている。
「久しぶりね」
声をかけると、『彼女』はこちらに飛んで近づいてきた。
瑠璃色の筋の入った黒い羽を持つお嬢様、昨年からの知り合いである。
リグルは指を出してそこに乗せ、彼女の声を聞いた。
「そっか、今年はもう……よかった。卵は残せたんだ……うん、ちゃんと見守ってあげる」
蝶は用件を伝え終えると、すぐに幹に戻っていった。
リグルは振り返らず、また歩を進める。来年の春には、もうあの蝶を見ることはないだろう。
まだ初雪は降らないが、森にも冬の匂いが漂っている。明日からまた一段と寒くなる予感があった。
「あ、そうだ。明日の内に、雪前の見回りを終わらせておこう」
わざと声に出して、やる気を引き出す。橙のことについて、とりあえず考えることは止めた。
その日がすぐに来ると決まったわけではないし……それに、
橙が幻想郷からいなくなるわけじゃないんだから。
●
温かい闇の中にいる。
卵の中にいるような気分。外の刺激を知らず、ただこの体が世界を構築している、一番優しい記憶。
何かを恐れる必要も、何かを選ぶ必要もなく、ただただ自分に与えられた時が満ちるのを待っている。
しかし妙だった。自分の意識は柔らかな外殻の中で回転することなく、どこかへと漂うように進んでいた。
果ての見えない広大な闇の中で、確かに自分はどこかへ向かおうとしている。
ここは一体、どんな世界なのか。行く先に何があるのか。
疑問を抱くうちに、急に世界が眩しくなった。
唐突に場面が変わり、気がつけば、自分は走っていた。
それまで無目的に動いていた空っぽの肉体に、魂となって入り込んだような、奇妙な覚醒だった。
だがとにかく、走っていたのだ。しかしその理由を覚えていなかったので、足を止めて、周囲を見ることにした。
鬱蒼とした林が続き、山から下ってくる清水の音がする。そして何より、至る場所から、活発な蟲の気配がした。
見覚えのある光景である。妖怪の山の麓だと、おなじみの遊び場だとわかった。
それも自分が一番好きな、夏の季節だ。
そこで今度は、なぜ走っていたのか、それまで何をしていたかを思い出した。
単純ながら熱中できる遊びの一つ、弾幕を混ぜた鬼ごっこだ。自分は今逃げる役で、鬼に追っかけられていたのである。
早速、向こうで誰かが捕まった声がした。歌声にも似た悲鳴は、夜雀の声。
彼女を捕まえた鬼が、こちらに気づいて向かってくるのが、木々の狭間から見えた。涼しげな銀白の羽は氷精の証拠である。
逃げる、逃げる。
一生懸命走って、跳んで、飛び回って、いきなり障害物に阻まれた。
真っ黒な球体と衝突し、互いに下へと落ちていく。地面に倒れ、顔を上げると、目の前で頭を押さえているのは、宵闇の妖怪だった。
すかさず、後ろから氷精と夜雀が飛びかかってきて、二人は地面に押さえつけられ、転げ回った。
全身で笑う。笑い声を重ねることで、喜びは増幅し、この時間に無性に感謝したくなる。
いつものみんなだ。忘れるはずがない。
ミスティア、チルノ、ルーミア。冬にはここにレティが加わる。
毎年変わらず四季を過ごす、おなじみの仲間だ。
また鬼ごっこが始まった。今度の鬼は自分だった。
チルノが氷の弾幕を放って、こちらを遠ざけようとする。
涼しい風を切るように隙間を縫って移動し、小さな背中にタッチすれば、彼女はふざけて、逆さまに落ちていく。
次の目標はルーミアだった。ふらふら飛ぶ黒い球体を、先回りして待ち伏せる。
鬼ごっこでも隠れん坊でも、昼間の彼女は弱いけど、逃げ切れても捕まっても、いつだって楽しそうなのだ。
残ったミスティアは強敵だった。鳥だけあって、飛行は上手。だけど自分も蛍の妖怪、飛ぶのに負けてはいられない。
小細工抜きでまっすぐ追いかけ、他の二人で挟み撃ち。三人で協力して狙えば、捕まるのは時間の問題だった。
これで捕まえられないとすれば、それはもうとんでもなく速い妖怪だろう。
天狗だろうか、いやいや、地上では天狗だって、逃げる彼女には追いつけな……。
――『彼女』?
その幻影はほんの一瞬だった。けれども、遊びを中断するには十分な衝撃があった。
晴れた青空に大穴が開いたような、寒気を感じるほど、耐え難い喪失感が襲ってくる。
遊びから冷めたリグルは、もう一度真剣に、眼前の光景を見定めた。
お転婆な妖精チルノ、いつも朗らかな宵闇の妖怪ルーミア、剽軽で目敏い夜雀のミスティア……いつもの……仲間……。
いや、違う。一人足りない。
ここにいるべき、彼女の姿が無い。
夏の緑に映える、鮮明な赤い影。黒い尻尾をくねらせて、木から木へと飛び移り、張りのある元気な声で、常に皆を引っ張っていく。
今日みたいな鬼ごっこの時には、いつだって、誰よりも速く、誰よりもはしゃいでいた。
彼女の名前は、なんといったか。思い出そうとしても、思い出せない。
焦って皆に聞いてみたが、誰もが首を振っている。そんな子なんて知らない、気のせいではないか、と答えが返ってきた。
安堵するどころか、その事態が、ますます恐ろしくなってきた。
天気の良い空も、肌に馴染んだ森の感触も、居並ぶ友人の表情も、全てが怖くなっていく。
どうして、どうして思い出せないの。
そう思った瞬間、自分が『自分』じゃなくなった。
魂が再び抜け出したように、『自分』を含めた、四人の光景が遠ざかっていく。
向こう側で、相変わらず笑っている『自分』がいた。みんなと手を繋ぎ、何事もなかったかのように遊びを再開している。
しかし、こちらに飛ばされた自分は、いまだに欠けた一人を捜していた。
みんな忘れちゃだめ、思い出して! と音にならない声で、必死に訴えた。
それなのに光景はさらに遠ざかり、自分は暗闇に取り残されてしまった。
そこで背後に、新しい気配が出現した。
荒れ狂う火炎を、背中に浴びせかけられたような気がした。
本能的にそこから飛び退き、腕で顔をかばって振りむく。
身を焦がすような闘気と、息苦しくなるような覇気。イメージのあまりの強大さに、目がくらんだ。
炎が止んだ後、一人の妖怪が立っていて、こちらを見下ろしていた。
彼女と視線が合い、リグルの思考が一瞬止まる。
背の高い女性だった。
伸ばした髪を一房後ろで結び、くせのある茶色い前髪を風に揺らしている。
金茶色の帯をつけた白い道服姿で、両手に奇妙な形をした短い刃物を携えていた。
美しく整った顔立ちだが、鋭い眼光も、口元から一瞬見えた犬歯も、平穏とは無縁の様相である。
全身をまとう生命力に満ちあふれた妖気は、妖怪の姿を借りた戦女神かと思うほどだった。
――誰。
問いかけても、彼女は返事をしない。
オニキスのような黒い瞳で、自分を見つめ続けている。
その背後に、とてつもない世界が広がっていることに、リグルは気がついた。
それは、地獄だった。
地獄としか表現できないような冷たい世界に、妖怪が、どこかで見たような顔から、異形の怪物まで、うようよと大群をなしていた。
それらは、先ほどまで自分がいた世界に手を伸ばし、食らおうとするものの、何か見えない沼に足を取られているかのように、上手く進めずにいる。
リグルは一刻も早く、その地獄と化け物共から遠ざかりたかった。
なのに、目の前に立つ彼女は、こちらに背を向け、臆さずその地獄へと駈けて行く。
その後姿に、二つの黒い尻尾が揺れているのを見て、リグルはさらに切迫した思いに駆られた。
何とかその思いを、声にしようとした。
――待って、おいていかないで。
手を伸ばす自分の肩を、何者かが掴んだ。
見れば、さっきの友人達が、無邪気な笑顔で自分を誘っている。
――離して。あの人を連れて帰らなきゃ。
友人達はみな笑顔の仮面をつけ、痛いほどの力で腕を引っ張る。
リグルはその力に抗いながら、地獄へと目を向けた。
あの人を、知らないはずのあの妖怪を呼び続ける。しかし彼女は振り返ろうとせず、地獄の中で戦い続けている。
血まみれになっても、腕が折れても、どれほど傷つこうとも、剣を振るうことを止めようとしない。
リグルはもう一度叫んだ。
戦い続ける彼女が、ついに一度こちらを見た。手を貸してほしい、そう言っている気がした。
その視界を三人の友人達が塞ごうとする。早く戻ろうよと、自分を連れて帰ろうとしている。
のどかな笑い声と、地獄の轟きが、重なり合い、混ざり合い、ふくれあがっていく。
世界が二分されたまま、途方もなく巨大な圧力が、自分に容赦なく押しつけられていく。
――やめて! やめて!
耐えきれずに、二つに分かれたその境界の上で、リグルは頭を抱え込んだ。
しばらく、そのまま、何も聞こえなくなるまで、じっとしていた。
目を開くと、それぞれの世界が、幻だったかのように消え失せている。
だが、
頭の奥に、何かがそっと語りかけてきた。
(さて、貴方はどちらを選ぶのかしら?)
●
「…………はーっ! はぁ! はぁっ!?」
息を大きく吸い込んで、リグルは飛び起きた。
暴れていた鼓動が落ち着いてから、ようやく夢にうなされていたということに気づく。
今いる場所は、古い大木に出来た洞であり、自分一人だった。中は朽ち葉が積もっていて温かいので、長年寝床としている。
外を見ると、綺麗な夜空が広がっていた。満月には遠いのに、活動を夜に移したくなるくらいの星の数である。
だが、リグルは冷や汗まみれの顔を引っ込め、十分に暖まっていたはずの身体を抱きしめた。奥歯が細かく鳴っている。
「何……? 今の夢……」
悪夢だった。しばらく眠る気も失せるほどの。
しかしただの夢とも思えなかった。
夏の光景だけならまだわかる。だがあの世界は、匂いも音も、この住み処とは全く異なっていたのだ。
本当に未来を覗いてきたかのような、強い現実感があった。
他にも、夢に出た友人達に掴まれた手首、指の痕は無かったものの、まだひりひりしている感じがして気味が悪い。
ハッとして、周囲の状況を探った。もしかしたら、何か夢を見せる妖怪の悪戯を受けたのかもしれないと思ったのだ。
だが、大木の周辺には、気配も姿も感じられなかった。
なのに、まだ頭の中に、あの声が残っていて、消えてくれない。
(さて、貴方はどちらを……)
「……どっちかなんて、選べるわけないよ」
リグルは震える声で言って、顔を覆った。
なんて夢だろう。どっちを選んだって、意味がないことを教えられてしまったんだから。
○
次の日の昼下がり、山の麓の森は、いつにも増して静かな雰囲気だった。
師走に入って、蟲の声はとうに止み、かわりに寒さに浸した北風が、枝を低い音で鳴らしている。
空を覆う鉛色の雲も、雪を降らす機を窺っているのか、じっと動かずに浮かんでいた。
曇天の下、リグルは一人黙々と、蟲の妖怪としての仕事をこなしていた。
厚手の服に身を包み、マントを木枯らしになびかせながら、落ち葉を手でかき分けたり、木の皮に手を当てたりすることを続ける。
一つ一つ蟲の声を聞き、来年の春に再会するであろう命と、もう会えなくなる命について知る。
脈々と受け継がれてきた血が途絶えたことを悟れば、蟲の王にふさわしく、その生き様をマントに刻む。
一年でもっとも自分が蟲の妖怪であると自覚を促される時間である。
ふぅ、と白い息を吐いた。
もうすぐ、冬が本格的にやってくる。レティやチルノには悪いが、リグルは冬が苦手だった。
夏のようにブラウスとハーフパンツの動きやすい姿から、みの虫のような格好にならなければいけないから。それだけではない。
蟲が死ぬ。たくさん死ぬ。自分は死なず、独りその流れを見定めなくてはならない。
死に憧れたことなど無かったが、この役目をありがたいと思ったことだって無かった。
しかも、今日の足取りは、例年に増して重い。理由は昨夜に見た夢が、まだ頭の奥にこびりついているからである。
――あの妖怪は……一体誰なんだろう。
倒木に産み付けられた卵を確認する傍ら、リグルは心中で呟いた。
夢の中。焔に出会った蟲のように、あの時自分は彼女に惹かれ、それ以上に恐れた。
身の毛もよだつ魑魅魍魎へと、ためらうことなく飛び込み、冷徹に命を狩り続けていた、あの妖怪を。
彼女は一度だけ、こちらを向いた。その双眸は、可愛らしい稚気とは無縁の、殺気を帯びた光を宿していた。
思い出すだけで、樹皮に伸ばした腕の肌が泡立つような気がする。
まさか、あれが成長した『友人』だとは、絶対に信じられなかった。
このことについて、誰かに相談したかった。でも誰に相談したらいいのか。
橙本人に話したって分かってくれないだろうし、他の友人達だってそうだろうし。
それにこれは、行き着くところ、自分の我が儘でもあることに気づくのだ。
「……困っちゃった」
悩み続ける内に、リグルは自分の縄張りにあたる、最後の森へとやってきた。
昨日隠れん坊をしたブナ林と似た林相で、カエデやナラの木も多い混交林である。
蟲や動物の住み処として、四季を通して賑わう場所であるが、正直今日のリグルは、あまりここに来たくなかった。
季節こそ違うものの、そこは昨晩の夢に出てきた遊び場だったからだ。
まだ影が脳裏で踊っている。橙を忘れて遊びふけっていた自分達四人の幻影が。
しかし、雪が降る前に、きちんと蟲達を見回っておかなくてはいけない。意を決し、境界の向こうへと足を踏み出して……
「……あれ?」
と疑問が声になり、リグルは足を止めた。
先客がその森にいることに気がついたのである。しかもここらで感じたことのない妖怪の気配だ。
不思議に思って、森の奥へと向かった。小さな池の側までやってきて、その妖怪の後ろ姿が見える。
後ろ姿だけで十分だった。
リグルは侵入者の正体に気づき、ぽかんと口を開けた。
黄色い大きな尻尾を揺らして、こちらを向いたのは、全く予想外な人物だったから。
「……ん? ああ、これはこれは。おじゃましています」
九尾の式、八雲藍は、狐目を細めて挨拶した。
2 邂逅
リグルはすぐに、彼女に挨拶を返すことはできなかった。
目の前の八雲藍、つまり橙の主には過去に何度か会ったことはあるものの、その時は橙はもちろんチルノ達も一緒だったし、時間も短かった。
それになんといっても、今はその橙に関することで悩んでいる最中だったのである。
まさかこんなタイミングで会うことになるとは想像していなかったので、これまたたちの悪い夢なんじゃないかと、自分の頬をつねりたくなった。
藍は「おや」と首をかしげ、
「忘れられてしまったか。ではあらためて。私は橙の主である……」
「……いえ、覚えてます。八雲藍さん。去年の冬の時はありがとうございました」
「どういたしまして。リグルだったね。こちらこそ、橙がお世話になってます」
丁寧に腰を折る九尾に、リグルもかしこまって礼を返す。
そして、当然気にすべき質問をした。
「ここで何をしているんですか?」
「結界の修復をしている。ここは半年前に見回って以来だったので、多少綻びが出てきているんだ」
「じゃあ、橙はどうしてるんです?」
「橙?」
藍は意外そうに瞬きを一つして、聞き返してきた。
リグルは事情を説明する。
「昨日橙から、今日は修行があるから遊べないって聞いてたんです。だからてっきり、貴方と一緒にいるものだと……」
「ああ。それは間違っていない。橙は現在も修行中だ」
「じゃあ……」
「今日は私ではなく、紫様が稽古をつけてくれている」
とんでもない名前が出てきた。
「紫様って……貴方の主の?」
「うむ。そろそろ冬眠をお迎えになる時期なのだが、その前に一度、橙を鍛えるという話になったのでね。あの子も張り切っていたよ」
今度は絶句する。
リグルは、橙の主の主である八雲紫とも、過去に面識が無いわけではない。ある晩巫女に戦いを挑んだ時に、後ろに控えて様子を見ていたのが彼女だった。
関わりといえばそれくらいで、その存在について詳しくはないものの、鬼と比肩しうる大妖怪であるという噂は度々耳にしている。
その大妖怪から直接修行を受けているということは、すでに橙の実力がそこまで認められているということであり、リグルたち並の妖怪と大きな距離が出来ているということに違いなかった。
残り時間はあとわずかだ。そう宣告された気がして、どんよりした気分が肩にのしかかってくる。
藍はこちらの様子を、違う意味で受け取ったらしく、
「もしかして、遊ぶ約束をしていたのかな? ならば悪いことをした。主に代わって謝らせていただく」
「い、いえ、とんでもありません。大事な修行だって分かってますし、私達は遊ぶだけですから」
「ご理解いただければ何よりだ。修行は夜には終わるだろうから、その時にそちらに遣わせよう。よろしいかな」
「……ありがとうございます」
式の友人を相手にしても、あくまで慇懃な彼女の態度に、リグルも同調して頭を下げていた。
それから藍は、先ほどの続き――結界の修復を始めた。
リグルも当初の予定通り、冬眠前の蟲達の様子を確認していたが、ついつい彼女の方を見てしまう。
方角か何かを確かめているのか、藍は半歩ずつ移動しながら、手元の小さな時計のような道具と周囲の光景を見比べていた。
やがてある場所にたどり着くと、懐から御札を数枚取り出し、宙に浮かせて、八角形の陣の形に並べ出す。
その陣に、今度は念を込めている。瞼を閉じて呪文を呟く横顔は、どこか祈りを捧げているようにも見えた。
こちらの仕事が終わってからも、結局リグルはそこを離れることはできなかった。
邪魔にならないよう、少し離れた場所から、九尾の狐の働く様を見学することにした。
八雲藍。橙のご主人様であり、同じく八雲一家の一員だというのだが、こうして見ると、受ける印象はだいぶ異なる。
白帽子に隠れた動物の耳や、尻尾が生えているところなどは、橙と似てなくもない。
が、片や黙っている時間の少ない元気娘なのに対し、こちらは物静かで職務に忠実、とても真面目な女性に見えた。
リグル達は半ば暗黙の了解として、橙にこの主について聞かないようにしている。
語らせてしまえば止まらない。式である彼女は目にお星様を浮かべて、
(藍様はねー、とっても強くて、すっごく優しくて、私とは段違いに頭が良くて、足も速くて、戦う時は格好良くて、私よりずっと偉くて、物凄く美人で、毎日ご飯が美味しくて、怒ると怖いけどそれは私が悪いことをしたからで、叩いたりせずにちゃんと言い聞かせてくれて、修行の時は厳しいけどちゃんと私に教えてくれて、気配りが上手くて、尻尾が柔らかくて九本もあって……)
とまあ、こんな感じである。
そしてチルノやミスティアあたりが、『そんな完璧な妖怪本当にいるの? 何か欠点があるんじゃないの?』と突っ込もうものなら、雪崩のごとく反論が返ってきて、根負けして褒めるまでは不機嫌でいるという厄介な名詞なのである。
それだけ橙にとって絶対的な、憧れの主なのだ。彼女がいるからこそ、橙は八雲の名前を受け継ぐことを熱望しているのだろう。
いつか、あんな風に立派な妖怪になることを夢見て……。
とそこで、手際よく働く九尾の狐に、大きくなった橙の姿が重なり、リグルはぶんぶんと頭を振った。
一瞬浮かんだイメージは、そうでもしなければ消えてもらえなかった。
「……よし。これでいい」
小さく呟き、八雲藍は空中に並べた御札を、手早く回収した。
そして、リグルの方を向き、軽く片手を上げる。
「それではまた。後で、橙によろしく伝えておこう」
「あ、あの!」
焦った声で、リグルは飛び立ちかけた藍を引き留めた。
「このあとまだお仕事が残っていますか!?」
「……? 残っているけど」
「……そうですか」
「…………」
「じゃあ……いいです」
リグルは諦めて引き下がった。
しかし彼女は去ろうとせず、逆にこっちに歩み寄ってきた。
「私に何か話が?」
「い、いえ……その……」
リグルは言いよどむ。
話したいことはある。それこそ、山ほどある。
しかし、それが何なのか、自分でも整理できていない。
はたして何と説明していいやら、と迷っていると、藍はくすりと微笑した。
「なら、残りの仕事がてら、お話を伺おう。一緒に来ないかい?」
「え……?」
聞き返したリグルに、彼女が引き上げて見せたのは、藁編みの買い物籠だった。
○
人里が妖怪を受け入れるようになったのは、人間にとってもそう古くなく、妖怪にしてみればついこの間の事のように感じられる。
しかし今でも、妖怪にとって人間を襲えない掟がある人里は、住み処に比べてそれほど楽しい場所ではない。
そういった理由で、ここを頻繁に利用する妖怪は限られており、リグルも過去に興味本位で二度ほど、夜中に足を運んだことがあるだけだった。
だが、同行した九尾の妖怪は珍しいことに、里の雰囲気に馴染んでいるようで……
「こんにちは」
「あら~、いらっしゃいませ。今日は尻尾が九つなんですねぇ」
「はは、二つの方がちゃんと買い物ができていたか心配だ」
「元気でお行儀がよくて可愛いお嬢さんでしたよ。今日は何になさいます? 朝にとれたカブが入ってますよ」
「よかった。今日はもう店頭に並んでいるのではと予想していたんだ。これで献立を変えずにすんだよ」
――本当に馴染んでる……。
八百屋のおばちゃんと世間話をしている藍を見ながら、リグルはそんな感想を抱いた。
店の人間だけではなく、奥の部屋からよちよち歩いてきた人間の子まで、彼女のことを警戒していないようだった。
野菜をいくつか手に入れた藍は、きちんと代金を払って、その赤子と小さく握手してから、店を出てくる。
「やあ待たせて悪かった。もうちょっとだけ付き合ってほしい」
「飛んで行かないんですか?」
「うん。必要以上に、人間を刺激しないようにね。次は冬茹か……」
二人は徒歩で移動し、里の中央を通る一番大きい通りに出た。
東の神社分社から、西の雑木林へと一直線に続いており、里を一つの生き物とするならば、これは大動脈といえよう。
空は曇りでも、左右に並んだ大小様々な店は活気づいており、出入りする人の姿も夜に比べてずっと多い。
固い土の道だ、とリグルは歩きながら思った。人間が長い年月をかけて歩くことで、踏み固められたのだろう。
そして今日も道行く人間は、ほとんどが藍のことを知っているらしく、通り過ぎる度に頭を下げたり、声をかけたりしている。
中には手を合わせている老人もいて、リグルは多少面食らった。
藍の方も一々礼を返して歩き、途中で入った乾物屋でまた軽く世間話をし、無事目当ての品を手に入れたらしかった。
「さて、これで買い物は済んだ」
「え。でも、あれ……?」
「ん?」
「豆腐屋さんがまだですよ」
「なんと!?」
彼女は急所をつかれたかのように、目をくわっと開いた。
今日出会ってから始めての大きな反応である。
びっくりしたリグルは、反射的に謝ってしまった。
「ご、ごめんなさい!」
「いやぁ驚いた。橙から聞いていたのね。私が油揚げが好きなことを」
「はい……聞いてました」
それだけではなく、藍のお使いで人里にお使いに行ったことがある、という話を覚えていたのだ。
当の九尾の狐は気を悪くしたわけではないようで、照れ臭そうに帽子に手をやっている。
そして、内緒話でもするかのように声をひそめ、それまでと違ってくだけた口調で、
「……実はね。家にある巨大な冷蔵庫に、百年分ストックされているんだ」
「百年分!!」
「そう。いつこの世から油揚げが消えたとしても、後悔をしないようにね……」
「す、すごい」
どこからそんな情熱が湧いてくるのだろうか。
「こらこら信じないでくれ。いくら私でも、そこまで狂っちゃいない。実は昨日から、『僻穀』を始めているの」
「へきこく?」
リグルが聞き返すと、藍は道を歩きながら、指を立てて説明を始めた。
「僻穀の行。元は仙道の行なんだけど、簡単に言えば五穀や生臭ものを避けて体内の気を浄化する修行でね。本来妖怪には向かない食事法だけど、私の場合冬は仕事が多いし主が冬眠で不在だし。普段よりも高い気を身につけるために、色々と準備が必要なんだ。当然油揚げも禁止。この買い物も主の晩餐に費やされることになる。私に与えられた『式』が最大限の効力を発揮するためには、本体である妖獣としての私の性能が追いつかなければいけない。色々と試してみたけど、この食事法は有効ということで……ああ、ごめんなさい。こんな話はつまらないかな」
「いえ、とても興味深いで……まさか橙もそれやってるんですか!?」
お世辞の途中でリグルは気がつき、驚愕した。橙は日頃から、お魚大好きと公言してはばからない妖怪である。
その主は、悪戯っぽいを通り越して、小悪魔じみた笑みを浮かべた。
「あいつは成長期だからまだ早い。でもいずれは、実践してもらうかもしれないわね。このことはまだ教えないでくれたまえ。始めに伝えたとき、どんな顔をするか楽しみだから、ふっふっふ」
「………………」
リグルの頭の中に、ご馳走を横目によだれを我慢しながら、涙目で薬草をはむ友人の姿が浮かんだ。
さすがに可哀想だと思う。後でこっそり教えてあげようかと思わないでもない。そうしたら八雲の名を継ぐことを、橙は考え直すかもしれないし。
……と、そこまで考え、自分の案がいかにも卑怯な手段に思えて、リグルは軽い自己嫌悪に陥った。
「ふふ、そんな深刻に考えてくれなくてもいい。辛いのは最初の二、三日だけなんだから」
「ああ、よかった。脅かさないでください」
「失敬失敬。そういえば、話があるのはそちらだった。立ち話も何なので、どこか茶店に入ろう。おや……」
藍が進行方向に目を向け、リグルもそちらを向いた。
今まで歩いていた大きな通りが、里の中心でもう一つの通りと十字に交錯している。
その広場に、龍をかたどった大きな像が鎮座しており、下に人間の子ども達が群がっているのが見えた。
その集団の中でもひときわ目立つのは、中央にいる四角い帽子をかぶった女性である。子供達はその女性から、龍神像について説明を受けているらしい。
リグルは彼女を見たことがあった。
二人が集団に近づいて行くと、子どもの一人がこちらを見て、歓声を上げた。
「あ、狐さんだ!」
「ほら先生! 狐さんが来たよ!」
先生と呼ばれた凛々しい顔立ちの女性に、藍は軽く頭を下げた。
「こんにちは、慧音殿」
「こんにちは、藍殿。みんなもちゃんと挨拶をしなさい」
上白沢慧音が促すと、「こーんにちはー!!」と大きな合唱が起こる。
リグルはさりげなく一歩引いて、九尾の後ろに隠れた。
慧音は二人の様子を見てから、藍の持つ籠に目を止め、
「藍殿は買い物ですか」
「ええ、あらかた回ったところです。そちらは寺子屋の授業のようですね」
「はい、里の歴史を学ぶのが目的なのですが、どうも年少組の生徒は机から離れるとじっとしてられな……こらそこ! 失礼をするな!」
早速尻尾に触ろうとしていた生徒を、慧音がたしなめた。
だが子供達は動かない龍神像よりも、生きた狐の妖怪に興味津々の様であった。
「こんなに尻尾が多くて、疲れないんですかー?」
「小さい頃から背負っているからね。慣れているんだ」
「触ってもいいー?」
「いいとも。ただし、毛をむしったりしちゃ駄目だよ。痛いから」
藍の許しを得て、早速子供達は、おそるおそる尻尾に指で触れたり、手に持って感心したりしている。
そしてリグルの方はといえば、こちらも子供に囲まれていた。
「わー、かっけーマント。ちょっと貸してくれない? 頭の飾りでもいいから」
「これは飾りじゃなくて触角! 触んないで!」
「あなたは何の妖怪なの? 虫なの?」
「ゴキブリの妖怪じゃないかな」
「ホ・タ・ル!!」
おっかない顔をして追い払っても、どうにも迫力が足りないらしく、子供達はきゃーきゃー楽しそうに逃げ回るだけで怖がってくれない。
妖怪としての蟲の威光が墜落して久しいが、いまだ復権には遠いようである。
ちなみにお隣の妖怪は、リグルより子供の扱いに長けていた。
「そこの君。あまり触っていると、顔が狐に変わっていくぞ?」
「うわぁ!」
なかなか尻尾から離れずにいた子供が、藍が軽く脅かすと、青い顔で先生の元に退散した。
慧音は生徒達全員を見渡し、
「みんなちゃんと礼を言ったな? 里に来るのは、彼女のような優しい妖怪ばかりではない。それに、この御方も大妖怪の一人だ。くれぐれも失礼のないように」
「慧音先生も、帽子触らせてくれないもんねー。妹紅姉ちゃんも言ってたもん」
「馬鹿者! それとはこれとは話が別だ!」
「ふふふ。ところで慧音殿、この近くでおすすめの茶店を教えてもらえないか。もちろん、妖怪向けの方がありがたい」
「ふむ。すぐそこに評判の団子を食べさせる店があるが……それとも藍殿は、洋菓子の方が好みで?」
「どうかな」
と藍がいきなり話を振ってきたので、リグルは慌てて答える。
「わ、私は、どっちでもいいです」
「ならば今日は和菓子の方にしてもらいましょう」
「では、ここから二つ目の通りを左に曲がった所です。蕨屋と言います。小さな看板が目印ですから」
「ありがとう。じゃあ行こうか、リグル」
「さようならー!!」
手を振ってお別れする集団に、藍もちゃんと手を振りかえしている。
その横を行くリグルは、振り向きもせず、ふくれっ面で歩いた。
「人間なんて大嫌い。本当は蟲だってすごいのに、今じゃ小さい子供にまでバカにされてるし……いやんなっちゃう」
「子供に限って言えば、人間は虫が好きな者も多いよ。実際、蛍と聞いて喜んでいた子供もいたじゃない」
「そうかもしれませんけど……藍さんの尻尾の方が人気でしたから」
「……リグルも触ってみたかったかい?」
「えっ!? いや……えと……その……少し興味が……わわっ!」
しゅるり、とリグルの首に尻尾が一つ、マフラーのように巻かれた。
「わぁ……あったかい」
リグルは遠慮がちに尾を抱いてみる。
毛の一つ一つが柔らかくて、吸い付くように滑らかな肌触りである。
くすぐったさに慣れると、尾に通っている血から、温もりがじんわりと顔まで上ってくる。
「ほわぁ……」
たまらず、締まりのない息が漏れた。
寒がり仲間の橙が、とっても気持ちいいんだよー、と自慢していた時から、秘かに憧れていたのだが、想像以上の快楽だった。
なんだか、もっと大きな生き物というか体温を通じて九尾の一部になったようで、足元がふわふわして……。
そんな風にリグルはしばし恍惚としていたが、なんだか通りの人間からじろじろ見られているような気がして、耳の先まで熱くなった。
「す、すみません。もういいです。ちょっと恥ずかしい」
「ではこっちの道から行こうか」
「いや人目につかないからとかじゃなくて……ちょ、ちょっと待ってくださいって!」
尻尾と藍の体に挟まれ、無理矢理連れられて、リグルはもがいた。
彼女はすたすたと、こちらの重さを全く苦にしない様子で、リグルを運搬するように裏通りに移動する。
そこで、あっぷあっぷしていたリグルを下ろし、歩調をゆるめながら、
「なかなかあったかいでしょ? 普段は滅多に他人に触らせたりしないから、今のうちに味わっておいたほうがいい」
「え、そうなんですか」
「そうなんです。まぁ、さっきの子供達は特別。これがばれると、『ずるいー! 私の毛布なのにー!』って、やきもちを焼かれて大変なのよ」
「あはっ、橙にですね?」
「いや、紫様に」
真顔で即答する九尾の式に、リグルはずっこけた。
○
裏路地を通って、角をいくつか曲がると、すぐに小さな看板を立てた茶店が目に入った。漢字で蕨屋と書かれているらしい。
建物自体は古かったが、店の中は綺麗にされている。杉のそれに混じって、ぷぅんと漂っている嗅いだことのない匂いは、抹茶の香りであると見当がつく。
裏庭にある池の側には、和傘を立てた赤い長椅子も用意されている。二人が選んだ席は、その池が見える奥側の畳だった。
どれもリグルにとっては物珍しかったが、店を営む老夫婦は妖怪のお客にも慣れているようであり、愛想良く接してくれた。
「さて、話というのは何かな」
二人分の湯飲み茶碗が運ばれてきてから、藍は温和な声で聞いてくる。
リグルは座布団の上で、慣れない正座となり、深呼吸してから質問した。
「えっと……橙のことです」
「うん」
「橙は……なんていっていいか……その……」
「その?」
「……どうして、貴方の式なんですか?」
「どうして、と。それはつまり、私が橙を式にした経緯を知りたいのかな?」
「ええ、まぁそういうことです」
本当はもっと微妙な意味合いがあったが、リグルはあえて訂正しなかった。
ふむ、と藍はお茶を口に運び、遠くを見て語り始めた。
「そうね……初めて出会ったのは、先ほど君と出会ったように、結界の点検をしている時だった。だがその時の橙は、まだ『橙』じゃなかったし、別の者の持ち物だった」
「そ、そうなんですか? 最初から貴方の式なんだと思ってました」
「元々、その人物から預かった化け猫の仔だったの。彼女はいい人間であり、私の友人だった。もうとっくに死んでしまったけどね」
「じゃあ橙は化け猫になる前はその人の飼い猫だったんですね」
「それも違う。橙は生まれながらの化け猫だ。尾は初めから分かれていた」
「えっ? ならどうして人間に飼われて……」
「その事情は語ることはできない。……いや、君だからというわけではなく、橙自身も覚えてないんだ。彼女がもっと大きくなって、知りたくなった時に話してあげようと思っている。その時に直接橙から聞いてほしい」
藍の表情が、ほんのわずかに陰ったようだった。
言外で、これはうかつにリグルが聞いてはいけない話だと告げている。
橙に話せないというのも、おそらくそれが決して楽しい過去ではないからに違いない。
ひとまず、そのあたりの事情は受け入れて、リグルは続きを促した。
「……だから会ったのは本当に偶然で、初めは全く式にするなどと考えていなかった。しかし、どういうわけかその友人――といってもその時に知り合いになったんだけど――彼女には懐かなくてね。仕方なく妖怪の私が引き取り、八雲の実家で預かることにした。忘れ形見というわけではないが……橙もあまりその人間のことは覚えていないんじゃないかな」
「……………………」
「私が橙を式にしたのは、それから数年経ってから。気に入ったからということでもあるし、紫様の許可が下りたからでもあるけど。というより、紫様は最初からその未来を知っているようだった。まあ、あの御方の考えることなど分からないし、今でも不思議だけどね。……けれども、あいつを式にして本当によかったと思っている。主に拾ってもらえたことが式としての最大の幸運なら、橙と出会えたことが主として最高の幸福だ」
一片の偽りもない、正直な気持ちなのだろう。そう信じてしまうくらい、九尾の狐の台詞には、ためらいがなかった。
主と向き合いながら、橙が聞いたら喜ぶだろうな、とリグルはここにいない式に伝えてあげたくなった。
だが逆に、友人としては、穏やかではない気持ちになるのも、やはり事実だった。
自らの葛藤を他所に、今度は別の質問をしてみる。
「橙はお家で、私たちのことを話したりしていますか?」
「ええ、もちろん。リグル、チルノ、ミスチー、ルーミア、あと冬にはレティ。食卓ではよく話題にするから、名前も特徴も頭に入っている」
「へぇ……」
「ああ、そうそう」
そこで藍は、ふと思い出したように、口の端で微笑んだ。
「リグルとは滅多に喧嘩しないとも言っていたわね。友達思いで、他のお友達と険悪な空気になった時も、いつもフォローしてくれるだって。それは立派だから見習わなくちゃいけないよ、とも言っておいた」
「は、はぁ。橙がそんなことを……」
まさか主にそんなことまで話しているとは思わず、そして今主本人からも直接褒められてしまい、何だか体がむずがゆくなった。
両手を足で挟み、首をすくめ、藍の顔から視線を下げる。
「た、確かに橙とは、始めて出会ったときから、喧嘩することはほとんど無いですけど、私はそんな立派じゃないです。……でも、橙がそう思ってくれるのは、すごく嬉しいです」
テーブルを見ながら、ぼそりぼそりと、リグルは言葉を紡いだ。
「それに、喧嘩したことはないかもしれませんけど、始めて橙に会ったときは、泣かせちゃったんです。せっかく私を助けてくれたのに」
「ん? 助けた? 橙が君をかい?」
「はい。もうずっと前のことですけど……」
どれほど時間が経っても、自分と橙の友情がこれからも続く限り、忘れることはないだろうが。
「ふむふむ。ならば、私からも聞いていいかな。いつから二人は友達になったのか。ぜひ知りたい」
「はい、え、ええと……」
リグルはにこにこと笑みを浮かべる藍の前で、当時のことを思い出し始めた。
「夏の満月の晩に、私はちょっとしたことで、意地悪な妖怪達に追いかけられていたんです。それにはある理由があって……」
後編に行ってきまするぅ!
早速続きも読ませて頂きますよv
ところで原作からして思ってたことですが、やっぱりチルノって結構頭良いですよね。
IQ的なもんは多分俺より高い筈。
では早速後編へ
一気に引き込まれました。続けて後編も読ませていただきます。