拝啓―― 八雲 紫 様
寒さの残る毎日でございますが、お変わりありませんでしょうか。いきなりこのようなことを伝ええてもご迷惑に成るとは思うのですが、地霊殿では現在少々問題が発生しておりまして、情けない話なのですが私では対処のしようがございません。是非ともご助力をお願いいたします。
失礼なのは重々承知しております。しかし急を要する事態のため無礼をお許しください。
私はどうなってもかまいません、それでも妹だけは助けたのです……
どうか……どうかよろしくお願いします。
古明地 さとり 敬具
また異変か。
彼女はそう思った。冬眠中の主から全権を任されているため、冬だけなら紫宛ての書面でも自由に開封できる。だから特に躊躇うこともなく地霊殿の使いが持ってきた書面を開き、内容を確信した瞬間、あの地獄烏の起こした事件が頭の中をよぎったのである。
内容が内容なので、一応紫に報告するべき。
そう判断した藍は冬眠中の主人の部屋に行き、熟睡中の主人を何とか起こして内容を説明してみると。
『らぁん、おねがぁいやっといてぇ』
猫撫で声で甘えられてしまった。
重い息を吐きながら結界の見回り業務の時間変更を行い、しぶしぶ橙と遊ぶ時間も削る。とりあえず話だけでも聞いて、本当に厄介事だったら主に動いてもらおう。そう心に決めた藍は素早く身支度を整えると、紫に使用を許されている個人用のスキマを開き、地霊殿へと向かった。
しかし――
「特に異常はないように思えるが……」
うっすらと明かりが灯った地下世界。
忌み嫌われた妖怪の巣窟というレッテルは未だ健在のため、何の目的もなしに来る人は少ない。結界に与える影響が少なそうにみえる世界なので、藍もあまり足を運ばないのではないか。そう思われがちだが、実はかなりの常連客。その理由が、地上との交流をはかるために開店した温泉のため。実は藍の主人である紫が大の温泉好きであるため、彼女に連れられて訪れたことはもう数知れず。おそらく100日はゆうに越えているだろう。そのためこの地下世界がマヨヒガと同じように、自分のテリトリーのように錯覚してしまうほど。
だからだろうか。いくら感覚を張り巡らせても地下世界にはなんの異常もないように思える。ゾンビフェアリーや怨霊の数もいつもと変わらないように見えるし、入り口で見かけたつるべ落としや蜘蛛の妖怪も、呑気なものだった。だから何か異常があったとは到底考えられなかった。
それでも、もしもという可能性があるので、何が起きているのかをさとりと会って確かめないといけない。藍は一度大きく地を蹴ると、地霊殿へ向かって速度を上げた。
どうせ何もないだろう、そうタカを括りながら。
だが――
その希望的観測はあっという間に砕かれる。
藍は見つけてしまう。
二本の角を生やした、見たこともない妖怪の後姿を。外套で体を覆っているせいで体型や服装がわからず種族の特定まではできないが、身長だけで言うなら藍よりは大分小さい。一瞬旧地獄の鬼が来ているのかと思ったが、鬼が自分の姿を隠したり偽ったりするのは種族的にありえない。ましてや地上の妖怪や人間たちの中にも、あんな姿を好んでする者がいるなんてことは聞いたことがない。
藍は慌てて岩陰に隠れ、身を低くしてその妖怪の動きを監察し続ける。彼女の視界の中、その獣の骨を被ったような妖怪は、落ち着きなく地霊殿の入り口を動き回っていた。いくら待っても中に入る素振りはなく、ただ周囲をキョロキョロと見回し、過剰なほど警戒しているようだ。
なるほど、そういうことか。
藍は、やっと理解した。
この異常な状況と、地霊殿に訪れている危機を。
きっと地霊殿は、あの妙な妖怪とその仲間の襲撃を受けて機能していないか。すでに占領されてしまった状態にあるのだろう。しかもそれを外部に漏らさないように、入り口も固められている。その監視の隙を突いてさとりが助けを求めたのが、紫だったというわけだ。
ただ、あの手紙の内容ではどこまで危険な状態かはわからない。
時間があるのなら、旧地獄に協力を要請するべきだろう。
ただ、文面で判断するのなら、あまり余裕があるようには感じられなかった。一刻を争う状況であれば、すぐ行動を起こさなければ手遅れになりかねない。だが、無策で飛び込めば、藍自身の命だけでなく、さとりたちの命の危険度もより一層濃くなるだろう。
時間がない。
情報がない。
手駒もない。
そうなってくると……危険な賭けではあるのだが。
門番らしきあの二つ角の妖怪を捕獲して、情報聞き出す。
藍は今、紫の命令を受けているから、短時間であれば紫の能力のである『スキマ』の使用も許されている。冬はこの能力の使用許可を得ていないと、結界の管理などできないのだから。ただし、あくまで借り物の力なので、長時間空間を固定することもできないし、開ける面積も紫と比べれば雲泥の差。意識せず、とっさに開いて攻撃回避、なんて高等技術は夢のまた夢。それでも意識を集中させればある程度の精度は維持でき、数名を運び出すことくらいそんな難しいことではない。
つまり敵の布陣さえわかれば、スキマを使った救出作戦を実行できるというわけだ。そして救出した後に旧都の鬼たちと協力して、敵勢力を一掃してやればいいだろう。藍は物陰に潜んだまま、相手の動きを監察し指先に意識を集中させた。
次に行われるはずの動作を予測し、絶対の一瞬を探る。
そうだ。
相手が足を止めている間に、しとめる。
藍は目を細め門番の足元目掛けて、すっ、と空間を指でなぞった直後。
妖怪の全身が消える。
人間では信じられないことなのだが……
目の前の妖怪が立っている地面が文字どおり口を開き、吸い込んだのである。
妖怪は何をされたかすらわからなかったかもしれない。いきなり足元の地面が無くなるなんて、誰も思うはずがないのだから。ほとんど反応すらできずに、スキマへ送り込まれた妖怪は。
「!?」
藍の近くに開けられた出口から吐き出されると、転んで頭を打ち付け、うつ伏せに倒れた。
その拍子に。妖怪が身に付けている骨兜からピシリ、という音がして、縦にまっすぐ亀裂が走る。どうやらその頭を覆った兜は妖怪の体の一部でも、頑丈なものでもなかったらしい。
小さな崩壊を繰り返す兜はそれだけでは止まらず。
その妖怪が体を起こそうとしたとき。
カラン…… カラカラン……
そのわずかな振動だけで真っ二つに分かれた骨兜が、地面に落ちる。
乾いた音が空間を支配する中で、藍はまったく動くことができなかった。
「……説明を、要求してもいいだろうか?」
仁王立ちしながら、藍はいきなり現れた人物を見下ろす。声音は冷静そのものであったが、揺れ動く瞳がその内心の動揺をうかがわせた。何故なら、割れた骨兜の下。
そこから現れたのが、予想もつかない人物だったから。
てっきり新種の凶暴な妖怪だと思っていた藍は、正直度肝を抜かれていた。取り乱さなかったのは、紫の代理でここにいるという使命感があったからかもしれない。
「仕方のない…… ことだったんです」
藍の足元で地面に両手をつき、腰を下ろしていたのは薄い紫色の髪をした少女。
藍が救おうとしていたさとり本人だったのだから。
彼女は俯いた顔を弱々しく左右に振り、顔を手で覆った。
こんな姿の私を見ないで、そう訴えるかのように。
「妹を守るためには、もうこれしか……」
そして外套の中から、髑髏の首飾りを取り出すと。
それを胸に抱きながら声を震わせたのだった。
悲劇の始まりは、何の変哲もない日常。
ちょうど半日ほど前のことだった。
その頃、さとりはいつものように地霊殿の廊下を歩いていた。温泉の仕事が終わり、自分の部屋で一休みするつもりだったが、明日の予約客のことを考えると歩きな がらでも指を折って計算を繰り返してしまう。
これではいけない、休むときは休まなければ。
そう自分に言い聞かせ自分の部屋の前に立つと、ゆっくりドアを開ける。
その途端。
パン! パァン!
いきなり高い破裂音がした。
鮮やかな紙のテープが宙を舞い、それに送れてヒラヒラと極彩の紙吹雪が、さとりの頭の上に降ってきた。あまりのことに叫ぶことすら忘れ。肩や頭の上に小さく刻まれた紙を載せながら唖然としていると。入り口の視覚、ドアのすぐ近くの壁に張り付いていた、大小二つの影が軽いステップを踏みながら彼女の前に踊り出る。
そして、大袈裟にさとりを迎えるようにお辞儀をして。
『せ~のっ! さとり様、地霊の湯、開店一周年おめでとうございます!』
パーティー用のクラッカーを持ったお燐とお空は、笑みを浮かべてさとりを部屋の中へと招き入れる。見慣れたはずのさとりの部屋は、紙で作った輪を繋げたチェーンのようなものが所狭しとぶら下げられ、お祝いムード一色だ。ベッドの横に置かれた丸いテーブルの上には料理が置かれており、食卓を目でも楽しめるよう薔薇の花も飾られている。
いきなり何が起きたか理解できず、入り口で立ち尽くしていると、そんな戸惑いを見せる彼女を二人のペットは背中を押して中へ案内し。
『お姫様、お席へどうぞ』とお燐が椅子を引き、席に付かせた。
「あの、これは……」
いつも温泉から帰れば、自分で料理を作らなければいけないのに。
目の前にあるのは、サラダに湯気を上げるスープ。そして料理の横には優雅に咲き誇る薔薇。さらに顔を上げるとお燐とお空が手を胸の前に合わせて立っていた。笑顔を浮かべているが緊張した面持ちでさとりを見つめており、その手には包帯が何重にも巻かれている。薔薇の棘で怪我をしたのか、それとも料理で失敗したのかはわからない。
けれど……
一周年なんて、忙しくて全然わからなかったというのに、二人はしっかりとそれを記憶していて。あまつさえ手に怪我をしてまで料理と薔薇を準備してくれた。
心を読むまでもない。その部屋の様子を見るだけで、二人の気持ちが伝わってきて。
さとりは、テーブルに肘を付いたまま、口元を両手で覆った。
そうやって抑えようとしたのに。
耐え切れなくなった涙が頬を伝い、白いテーブルクロスに染みをつける。
「え、あ、あの、さとり様!? なんで?」
さとりの泣き顔見て、動揺するお燐は相棒のお空を見上げる。けれど、お空は不機嫌そうに腕を組みお燐からぷいっと顔を背けてしまう。
「ほらー、お燐。やっぱりご飯が少ないんだよ! だから言ったのに。夕食で野菜とスープだけって苛めだし」
「い、いや、ほらだって! この前地底に落ちてた外の世界の本に、おいしい料理を楽しんでもらうために、料理は出来たてを順番に出すのがいいって書いてあったから…… ご、ごめんなさい。さとり様、その、ちゃんとお肉とかお魚とかも厨房で準備してありますので」
さとりの前で相方に責められたお燐は、耳を力なく倒し、尻尾もだらりと下げた。自分の配慮が足りずさとりを悲しませたことに責任を感じているのだろう。今にも泣きそうな顔で頭を下げる。そんな意地らしいペットを見つめ、さとりは自然と笑みを浮かべていた。
「ふ、ふふふ…… もう、二人はどうしようもないわね。私が泣いたのは、ご飯が少なすぎるからじゃないのよ。私はお空と違って食い意地が張ってないから」
きょとんっとした顔のお空の横で、嘘吐きというようにお燐が肘で軽く腰あたりを小突いていた。そんないつもどおりの二人を見ているだけで、あとからあとから笑いが込み上げてくる。
「ありがとう、二人とも、とても……とても嬉しいわ……」
それを素直に表現すると。また目尻から涙が溢れてきて、それを指で拭う。
そうやって主人に誉められた二人のペットは、表情を輝かせて抱きしめ合った。その後パンっと一回ハイタッチをしてから、お燐が悟りの前に一歩出て料理に手を向けた。
「さあ、どうぞお召し上がりください。でも、あんまりやったことないんで、パルスィさんに手伝ってもらったんですけどね」
「祝ってもらえるなんて、妬ましい…… ってうるさかったけど」
「……実にあの人らしいですね」
その話を聞いているだけで、調理中の光景が浮かんできそうだ。
包丁を振るいながら『妬ましい』、とつぶやきつつ料理を教えるその姿が。
「ですから、見た目はちょっと気になるところがあるかもしれませんが、味は……大丈夫だと思うので」
「そうですね、スープの具材が少しいびつではありますが……」
心配そうに、ゴクリっと喉を鳴らしながら見つめるペットの前で、さとりはスープを口に含むと。少し眉を潜めるという意地悪をしてから。
「とても美味しいですよ」
幸せそうに微笑んだ。
そんなさとりの表情を見て安心したのか、お空がお燐の横にやってきて。
「これ、この野菜私切った!」
「うふふ、上手に切れたわね。これなら将来は期待できるかもしれないわ」
「えへへ~、やったー!」
掛け値なしに美味しい料理と、ペットの喜ぶ顔を楽しむ。
そんな至福の一時を過ごせる幸運を実感しつつ、最後のデザートを口に運び終えたとき。また二人の動きが慌しくなる。
お空が一度コソコソと廊下へ出たかと思うと、両手で抱えられるくらいの箱を持って戻って来たのだ。
そしてさとりに見えないように箱を部屋の隅に置き、お燐を呼び寄せた。その後、二人が再びさとりの前に立ったとき。
その両手は後ろに回されており、明らかに何かを隠している様子である。
期待するのはいやらしいとわかっていながらも、さとりの胸はときめいてしまって……
「あら、何を隠しているのかしら」
わざとらしく、尋ねてしまう。
すると、二人は顔を見合わせてからリボンが結ばれた箱を前に持ってきて。さとり様へのプレゼントと声を弾ませて答えた。そしてさとりの後ろへ回り込んだお燐が目を閉じてくださいと、つぶやいた。仕方なくさとりは目を閉じ、そしてお空も一緒に目を閉じる。
すると紙のすれる音と共に、何かがさとりの胸の前に触れてきて……次に感じたのは首にかかるしっかりとした重さ。
「ネックレス?」
「ええ、さとり様に似合うように一生懸命選びました」
「そうなの? じゃあ目を開けていい?」
「はい、どうぞ!」
選んだ、というのに少々疑問が残るが。
ネックレスにそうそうハズレがあるはずがない。大体は強度の高い紐にキラキラ光る何かを通したり、固定したりすれば完成するのだから。選んだということは、灼熱地獄の中の鉱物でも取り付けたのかもしれない。そんなことを思いながら瞼を開き、胸元を見ると。
「おおおー、さとり様素敵~!」
興奮したお空の声と共に、その白い固形物が目に飛び込んできた。
というか、目が合った。
綺麗に、綺麗に飾りつけられた。
三つの髑髏、と。
「え、えと、あの、あれ? お、おりん? これは……」
何の冗談?
そう聞こうとした。
いくらなんでも、ありえない。
確かに、目の周りとか無駄に綺麗な鉱物が埋め込まれたりして、若干見易くなっているものの。人間の頭蓋骨をネックレスにして送る風習なんて聴いたことがない。
だから、冗談はやめなさいね、と気軽に返すつもりだった。
けれど第三の目は、彼女の心をしっかりと覗き込んでいて。
単純な結論を教えてくれた。
掛け値なしに、疑う余地もなく。
本気だ、と。
いや、さすがに本気でもこれは注意したほうがいいだろう。
さとりは一度咳払いをし、意を決してお燐へと振り返り、ガツンっと。
「あ、あの、どうです? どうですか? さとり様ぁ♪」
「……う、うん、あ、ありぃがとぉ……」
笑顔に負けた……完敗だった。
っていうかそうやって上目遣いで、心配そうに微笑んだりするのは反則である。そんなことをされたらもう、『はい』か『イエス』しか選択肢がない。
そうやって頬を引きつらせながら笑顔を返すと、お燐は嬉しそうにお空の傍へと戻っていき、ふふんっと自慢顔。けれどお空もかなり自信があるようで、自分のプレゼントを持って、ズカズカとさとりの前に前進しテーブルの上に箱を置いた。
「私からはね、素敵な帽子をプレゼントなんだよ! ほら二人とも早く目を閉じて」
「帽子ですか、確かにあまりつけていませんからね」
帽子なら、妙なことはないだろう。
まさか二連続だなんて。
さとりはそうやって、悪い予感を振り払おうとする。お燐であの認識であれば、お空の場合もっと危険な物体になりそうな気がしたからだ。
いくらなんでも、人間の頭蓋骨を帽子代わりなんていわないだろうし。
最低でも布地の何かに違いない。それ以外は考えられな――
ゴト……
(ゴト?)
お空が慌てて箱から零したのだろうか、何かの音が聞こえてくる。
けれど、その効果音は決して布地からは発せられないもの。
明らかに硬い物質から生み出される音である。慌てて静止を掛けようと目を開くが。
「はい、できたー♪」
それより早く、スポっとお空がその物体を被せてくる。
これは、なんと表現すればいいんだろう。
「あー、お空、それはずるいよ!」
「ずるくないもんね~! どう? さとり様。灼熱地獄の中に埋もれていた角の生えた大きな動物の骨。それを削り取って、お洒落に仕上げてみました!」
「いいなぁ、かっこいいねぇ」
お洒落、ああ、そうかお洒落でカッコいいんだこれ。
確かに視界は開いているけれど、顔をすっぽりと覆う白い骨。そしてその動物の骨の左右から伸びる角らしきもの。
うん、お空。
これ、『帽子』じゃなくて『兜』だ。
そんな心の叫びすら口にすることができず。
「あり……がとう、二人とも……」
喜んでいいのか悲しんでいいのかわからない、そんな複雑な心境のまま。
はしゃぎ続けるペットに感謝の言葉を伝えることしかできなかったという。
だって、自分ひとりが我慢すればいい。ペットがこんな嬉しそうにしている姿を見れるのなら安いモノ――
「よーし、さとり様にこれだけ喜んでいただけるなら、今度はこいし様にもプレゼント準備するよ♪」
「お~! 頑張ろうね、お燐」
「まって、二人ともまってぇぇぇ!!」
被害者を増やすわけにはいかない。
妹と巻き込むわけには行かない。
そんな使命感におわれたさとりは、次の日、温泉が開店するまで必死で二人を足止めしたという。奇妙な骨の装備品を身につけたまま。
その甲斐があって、なんとか今日は妹を犠牲にすることはなかった。
けれど時間を稼いだだけでは、いずれ……
しかしあれだけ嬉しそうにしている二人を叱るのも……
そうやって心を悩ませたさとりは、別な手を打つことにしたのだった。
「……」
さとりが説明を終える頃には、何故か藍はさとりから視線を逸らしていた。いつもは前で組んでいる手を解き、左腕を腰に、右手を口元に持っていき咳払いをしながら。
「あー、こほん、つまり、そのナニか? まさかとは思うんだが、私にそのお空とかお燐とかいうやつのお守りとか教育係をして欲しい。なんてことはないな? あの意味深な手紙も奇妙な格好も、最初からこのためだったとかそういうことはないな?」
そして外していた視線を、ゆっくり地面の上で腰を下ろしたままのさとりに向けると。
「……てへ♪」
無邪気な笑みを返された。
しかも頬に両手の人差し指を当てるというポーズ付で。
釣られるように藍も静かな笑みを返してから、つま先をさとりと逆方向へと向けた。
「……帰る」
「ま、待ってください。心の中を『面倒臭い』一色にしないでください、ね? 頼れるのはあなたのような立派な妖獣、八雲家を支える藍さんだけなんです。本当にお願いします。私ではどうしても、あんな嬉しそうな二人を叱ることなんてできないんです」
「い~や~だ。ペットの教育は専門外だ。それに私はこれから昼までに幻想郷中の結界に綻びがないか調べないといけないからね。その後は夜が更けるまでに橙と一緒に遊ぶという大事な仕事がある」
往生際悪く尻尾にしがみついてくるさとりを引き離そうと、ぶんぶん尻尾を振り回したり他の尻尾でどかそうとするが、しっかり毛を捕まれているので中々外せない。と、そんな中じっと藍の背中を見ていたさとりが何故か頷き始める。
「なるほど。これが噂の色情狂ならぬ、『式』情狂…… ああ、ごめんなさいっ。『絶対、許さない』とかそんなこと思わないでください。ついつい本音が出てしまっただけじゃありませんか」
「本音なら余計に腹が立つんだが? そもそも、あなたが甘やかした結果がこの事態を生んだ、それは。ちゃんと責任取らないといけない」
正論を浴びせられのが堪えたのか、さとりは力なく藍の尻尾を離し。そのっま棒立ちになってしまう。また何か狙っているのかと訝しげに藍が見守る中、彼女はわなわなと肩を震わせ始めた。
「あ、甘やかすことの、何が悪いというのです? そんなの、仕方ないじゃありませんか」
「仕方ないとは言うが、程度を知るのはとても大事なことでは……」
「一度も、あの想いを。地上を追われるという悲しみを味わったことのないあなたに、そんなことを言われる筋合いはありません。一人では癒しきれない傷、それを他の者と舐め合わなければ耐えられない。そんな苦しみなんて、あなたは知らないでしょう? 私には見えるんですよ、あの子たちの負の感情が、あの子達の声にならない悲鳴が。だから私はあの子たちを抱きしめた…… 身を寄せ合っていなければ、心が凍えてしまいそうだったから。支えてあげなければ、折れてしまいそうだったから」
「……すまない、あなたたちに言ってはいけない言葉だったか。それは素直に謝っ」
「あ、でも、そうやって抱きしめあってると。お空の羽とかふかふかで気持ちいいんですよ。お燐なんてあの照れてる仕草が可愛くてぇ~、あ、鼻血が……」
「くそぅっ! 台無しだよ! ちょっとでも感心したこの悔しさをどうしてくれる!」
泣いた。
藍は、泣いた。
一瞬でも心を動かされそうになった自分の未熟さと、やりきれない怒りで泣いた。
「その悔しさをバネにして、お燐とお空の教育をしていただけるというわけですね」
「断固拒否する」
「わかります、口ではそう言っていても。心はそれを望んでいる。いやよいやよも好きのうちという。もう、このツンデレ狐さん」
「人の心や性格を勝手に捏造しないでくれないか…… あなたが言うと洒落にならない」
どうやらさとりはどうしてもお燐とお空に一般教養を学ばせたいらしく、藍のペースを執拗に掻き乱そうとしているようだ。その流れの中で投げやりになった藍から『わかった』という言葉を誘い出そうとしているのだろう。
しかし、騙しにかけては狐の方が本家。
多少の揺さぶりなど、単なる娯楽でしかない。表面上は感情の起伏が激しいように見えても、心のどこかでは冷静に現状を分析している。それが見えるからこそ、さとりは焦り、様々な策を仕掛けてくるというわけだ。
「プレゼントの選び方というか。そういう知識だけでもいいですから教えてあげてはくれませんか? 早くしないと、こいしまで犠牲になってしまう。悪意がないのに、悪意としか受け取れないプレゼントの餌食になってしまうのです」
「心が篭もっていれば、それが一番素敵なプレゼントだよ。例えどんなものでもね。だから素直に諦めなさい」
あっさりと切捨てられ、さとりは、くっと口惜しそうに呻き声を上げる。
けれど、あきらめるわけにはいかない。
あんな、あんな微妙な想いをするのは自分一人でいい。
プレゼントの箱かと思って、中身をあけたら実はビックリ箱で。でもびっくりさせるはずの人形のバネが壊れており、箱に入ったまま出てこない。そんな人形と目が合ったときの割り切れなさ、納得いかない気まずさを味わうのは自分一人でいいのだ。
「そうですか、ふふ、この手段だけは。この手段だけは使いたくなかったのですが……
あなたが、悪いんですからね。何度言っても言う事を聞いてくれないあなたがっ!」
なんだか悪人のような台詞をつぶやき、さとりは街頭の中をごそごそと探る。スペルカードでも取り出すつもりかと藍は身構えるが。
さとりは、何故か引き止めたいはずの藍へと背を向けた。理由はわからないが、これは藍にとって最大のチャンス。このまま帰ってしまおう、と。藍が地面から飛び上がった。
そのとき……
「えぐ……うぁぁ……っぐ……」
いきなりさとりが泣き声を上げ始めたのである。
「……いまさら、涙で同情を誘おうとしても無駄だぞ」
そうやって、冷たく言い放っても。さとりはやめない。
さっきの様子からして、明らかに演技とわかるのに止めようとしない。
「酷い、『こんな可愛らしい帽子』になんてことを……酷すぎる!」
「いや、可愛くないだろう? それ」
「そ、そんな! こんなフワフワな綿毛の、触り心地も天に昇るほどの柔らかさ。それをあなたは! ボロ雑巾のようだと言うのですか。そうやって心の中で残酷に笑うなんて!」
「死んだ冷たさしか感じないんだが? って、また誤解を招くようなことを……」
「お空が! あの子がプレゼントしてくれたものを、ここまでバラバラにして、よくそんなことが言えますね!」
なんだろう、このテンション。
彼女の意図がまるで掴めないまま、藍はただ冷静にさとりの声を受け止め続ける。
「まあ、確かに私がそれを壊す原因になったのは確かだ。しかし知らなかったのだから仕方ないだろう。説明無しにそんな怪しいものをかぶっている方が悪いと思うが?」
「そ、そんな! 壊しておいて自分に罪はないというのね! それどころか私の愛しいペットが、心を込めて送ったものを『怪しいもの』ですって?」
「ああ、もう…… そうだ、すべて私が悪い。これで満足か?」
「そう、認めるのね! 許さない、絶対に許さないわ……」
何の意図があってそんな行動を取るのか。
もしかしたら近くにお空がいて、断った腹いせに襲わせようとしているのか。けれど周囲には妖怪の気配以前に物音一つしない。それなのに彼女は何故、こんな不可思議な行動を取る。
言葉とは裏腹に、怒気すら纏わないさとりの不自然さ。
それを気持ち悪く感じ始めたとき。
さとりが、何かを背中越しに放り投げた。
それが丁度藍の目へと落下してきて、思わずそれを掴んでしまう。黒と白の勾玉をくっつけたような見覚えのあるデザインの陰陽玉を。
そうだ。これは地上と連絡を取るために藍の主人である紫が作り出したもの。それによく似ている。
「こんなものいきなり投げつけてどうするつもりだ」
「どうもこうもしないわ、あなたには聞いてもらうだけ…… 悲しみの声を、ね」
さとりの演技ならもう十分聞いた。
うんざりとした顔で答えを返そうとしたとき。
陰陽球から声が聞こえてくる。
それは、とても。
とてもよく聞き覚えがある声。
『……心を込めたプレゼントを、壊すなんて』
大好きな、大切な、家族。
橙の涙声が、その陰陽玉から聞こえてきた。
『藍しゃま! 最低です! 大ッ嫌いです!!』
え、あれ、なに、どういうこと……
いや、ちょまっ!
プツッ ツー ツー
「え、ちょ、いや、ごかっ! 誤解だよ、橙! ちぇぇぇえええ~~~ん!!」
地霊殿を揺さぶるほどの大声で叫んでも、すでに地上へのチャンネルは切れた後。
何度こちら側から繋ごうとしても、相手に拒否される。
それはもう……
絶交だ。
と、橙から宣言されているのと同意。
「え、なんで? 橙がなんでこんなものを……ちゃんと橙の持ち物は寝ている間に部屋の中から服の中までしっかりチェックしているのに、何故……」
「あなたも大概なものですね」
「……! まさか……」
「ふふ、そうですよ。私が地上に持って生かせたのは、手紙だけだと思いましたか。こんなこともあろうかと切り札を準備させていただきました。あなたなら気付いてもよかったと思うのですがね。さて、それでは私の要求を呑んでいただきましょうか?」
最後の手札を切って勝ち誇ったように微笑む。
さとりは、泣き真似を始める前にこっそり陰陽玉を橙に預けたものと繋ぎ、誤解をするように聞かせたというわけだ。
けれど、それは諸刃の剣。
最高の手を使うために、最悪の妖獣の逆鱗に触れることになったのだから。
さとりの目の前で、爆発的な妖力が解き放たれ、九尾が逆立つ。
本来不可視であるはずの、力の奔流は輝く光の粒子となって立ち上り。
瞳は輝く満月のように、金色に染まっている。
それが示すのは、底知れぬ怒り。
それは自分の大切な縄張りを荒らされた激情か、内なる本能の雄叫びか。
剥き出しの感情を生で感じ取ったさとりの首筋には、一筋の汗が流れていた。心を読みなれているはずなのに、気を抜けば心が押しつぶされてしまいそうなほど。そんな、破壊衝動に捕らわれたような藍は一足飛びで間合いを詰めると、胸倉を掴んでさとりを引き寄せた。
そうして肉体の欲求に従うまま。
「あーーーっ! もう、なんてことをしてくれた! 橙が、これが原因でグレたり。ストレスで病気になったりしたら。ど・う・し・て・く・れ・る・ん・だ!!」
「え、あの……藍さん、く、くるしっ」
ガクガクガク と、持ち上げた体を揺らす。
目に涙を浮かべたまま、全力を持ってさとりの体を前後に降り始めたのだった。
いつもの知的なイメージなど、どこにも残っていない。
「いや、病気とか言う前に。そうだ、きっと今日から口を聞いてくれないんだ…… ご飯でご機嫌を取ろうとしても、『こんなご飯が食べられるかー!』とか言いながら、机をひっくり返すんだ!」
「……あの、わ、私は、地面の方へ、と、帰していただきたぃっのですがぁ」
さとりが暗に手を離してほしいと要求するが、すっかり興奮してしまっている藍は止まらない。
むしろガクガクと揺らす手を加速させていく。
「そうやって、家庭内暴力の快楽を覚えた橙は段々と行為をエスカレートさせていき、きっと八雲家を恐怖のどん底に陥れるんだ! きっとすべての障子に穴が空けられたり、柱に爪の後をつけたり! ああ、なんて阿鼻叫喚の地獄絵図……」
「あの、ら、らららら、藍さん……止めっ……」
どうやら八雲家の地獄の深さは、子供でも足の付く程度らしい。
さすが、高齢者も子供もいるバリアフリー設計。
なんて冷静に考えている場合ではない。さとりの意識は朦朧としてきて……
「そしていつか家庭の中だけでは収まらず、不良グループに入り幻想郷中で悪さを始めて、ついには家にも帰らなくなって! 数年後に出会った時はもう、極道の妻になって姐さんとか呼ばれたりしてぇぇ、そ、そんな男など私は認めないぞ、え? 何、子供がいる、お腹に……?
ちぇぇぇええええええええん!」
別な世界へトリップして、帰ってこない。
これはもういろんな意味でお終いかなと思い始めた頃。
叫び声を上げた表紙に、藍が両手をさとりの胸倉から離した。
ドサリっ
急に離されたことと意識がはっきりしなかったせいで、着地に失敗して尻餅もついてしまったが、なんとか大事に至らずに済んだ。大きく息を吸い込んでなんとか咳を押さえ込み、妄想の中で未だワナワナ震えている藍へと顔を向けると。
どうやら、藍の中では今、夫と死に別れ未亡人となった橙が、不良天人と一緒に世界を掌握しようとしているようだ。暴力団に入ってから一分もたっていないうちに何があったというのか。このままでは半刻も経たないうちに宇宙を橙に支配されてしまうかもしれない。
「あ、橙さんが、服をはだけさせながら、あなたの名前を呼んでいる」
「な、何! ち、橙、なんて可愛……じゃない! はしたない格好を! って、あれ、ここは……」
どうやら、あちらの世界を救うことに成功したようだ。
トリップ空間ではきっと、勇者さとりの名が永遠と語り継がれることだろう。
「く、まさか相手の揺さ振りで幻影を見せられるとは、妖狐として一生の不覚……」
「こちらとしては、幻術なんて使った記憶すらないのですが」
橙が好きだからそれを使うのは効果的というのは、外部の情報で知っていた。けれどここまで激しい反応をするなんて予想外。さとりは精神的な疲労感を味わいながら、気を取り直して交渉を続ける。
「さて、話を元に戻させていただきます。私の策略のせいで橙さんはあなたを一時的に嫌っている状態にあります。けれど、あなたが最低限。つまりお燐とお空に、せめて相手に喜ばれるようなプレゼントができるような教育を与えてくだされば、私が誤解を解き。従来どおり、いえ、それ以上の仲になれるようご助力差し上げます」
「ふん、橙を抑えられた時点で私が首を横に振ることはない。そう確信している癖に、面倒な手段を取るものだ」
「いえ、あなたに首を縦に振らせる手段と言っても、さすがにここまでするのは罪悪感がありますからね第三の目を使ってしっかりと後処理はさせていただきます」
最初から負け戦になることが決定付けられていた交渉。
けれど、藍の怒りという感情はあまり湧いてこない。いや、正確に言えばさとりに対しての怒りの感情というべきか。確かに橙に手を出された、と意識したときはイラっとしたのが正直なところではあるが、それ以上に――
相手を化かす狐にありながら、すっかりペテンにかけられた自分自身への憤り。そして何の策もなく、冬眠中の主人と橙をマヨヒガに残した迂闊さ。
さとりを恨むというより、騙された自分の不甲斐なさ、甘さに対して怒りが爆発したというわけだ。
「……はぁ、わかったよ。ただし、預かるのは今日一日だけ。それと少し乱暴な教育になるかもしれないぞ?」
「ええ、お燐とお空には、そのように伝えておきます」
藍は肩を落とし、ふさふさの尻尾を力なく下げた。
それは騙し合いで妖狐が負けたと判断したときに、よく行う仕草だ。
「一応、確認しておくが。相手をよろこばせるような贈り物とその方法、でいいんだな?」
「ええ、余裕があれば一般常識も少し」
「はいはい、わかったわかった。余裕があったら詰め込んでみよう。そのかわりお空とお燐の二人を預かったら橙をそちらに送る。丸一日面倒を見ることができないからね、そっちの人型じゃないペットたちと遊ばせてやってくれると助かる。それとついでに誤解も解いておいて欲しい」
「わかりました、手配しましょう」
その後、お燐とお空は藍につれられマヨヒガへ。橙はスキマで地霊殿へと送られた。その際、橙はこんな紙を手に持っていたという。
「誓約書――
私、八雲 藍は、お燐、お空の両名に相手をよろこばせる贈り物に関する知識を与えることを誓います。私なりのやり方で実施するので、そちらの教育方針とは異なる場合もあります。その際は詳細な指示をお願いいたします。
八雲 藍」
丁寧な字体を見ているだけで、几帳面な性格が想像できる。
これを持たせた意味は二つ。
『教育は必ず実施するという誓い』と『そちら約束事を守れという意思表示』
「謹んでお受けいたしましょう」
さとりはほっとした顔でつぶやくと、少しだけ不安そうに見上げる橙を連れて温泉へと出かけたのだった。
さとりはその小さな紙を見て、微笑んでいた。
くすくす、と息を漏らし、心から幸せそうに。
別に面白いことが書いてあるわけでも、為になる用語が書かれているわけでもない。ただその片手で簡単に隠せてしまう長方形の中には、不器用な文字でこう書いてあった。
『さとりさませんよー、まっさぁじけん』
ところどころ平仮名が間違えているし、漢字が使われていないせいで後ろ半分が奇妙な事件の名前のようになってしまっている。そんな紙が10枚ずつ二束、自室のテーブルの上に置かれていた。手書きのせいで一枚一枚に特徴があり、中には間違った文字を使っているものもある。
酷い物になると、『さとし』さませんよー、というよくわからない名前が記載されているものも。おそらくこいし用と一緒に作ったせいで多少混乱してしまったのだろう。
「まったく、あの子らしいわね……」
そうやって、不器用ながら一生懸命それを書いている姿を想像するだけでまた笑みが零れてくる。そんな表の個性的な文字を堪能してから裏面を見ると、表とは対照的な安定した字が記載されていた。
『いつもお仕事が忙しいさとり様へ せめてもの恩返しを』
藍の文字よりは幾分か劣るものの、整った温かみのある文字だ。
怨霊の数を報告する書類の中で何度も見たことのある文字だったけれど、それを見た瞬間さとりの目頭が自然と熱くなってしまった。年齢を重ねたせいで涙もろくなってしまったのだろうか。別の一枚を束の中から取り出して、テーブルの上に並べて置いただけでもう、限界だった。溢れてしまった一粒をハンカチで拭き取り、天井を見上げながらその感動の余韻に浸る。
「藍さんには、改めてお礼をいうべきかもしれませんね」
断ることのできない状態で無理やり押し付けられた余計な仕事、それなのに藍はさとりの想像以上の結果を示してくれた。きっとこれが彼女なりのプレゼントの基本。他人から見ればこれは汚い字の書いてある紙の切れ端程度でしかないかもしれないけれど。さとりとして、これは宝物。
あのとき藍が言っていた言葉をやっと理解できた気がする。
『心が篭もっていれば、それが一番素敵なプレゼントだよ。例えどんなものでもね』
そうだ、あの奇妙な骨だって、この『まっさぁじけん』と同じくらいの感情が篭っていたはずなのだ。でもそれが異質であるため伝わりにくかった。ただそれだけだった。だから藍はその表現方法を二人に教えただけ。目で見て伝わるように、相手に分かりやすいように、たったそれだけの工夫でここまで心を揺さぶられるものなのか。
まったく、相手の心がわかる悟り妖怪だというのに、感情というものを他の妖怪に教えられるとは。
「ふふ、見事にお返しされてしまいましたか」
狐を化かした悟り妖怪が。
心というものを狐に教えられる。
少しくらい悔しい気持ちがあってもいいはずなのに、心がまるで波立たない。むしろ負けを認めてしまっている自分がそこにいた。
「なぁ~に? お姉ちゃん、なんで一人でにこにこしてるの?」
「いえ、心が見えない妖怪からご教授いただいていたところですよ。心の大切さをね。って、こいしっ!? 勝手に私の部屋に入ってくるなんて、ちゃんとノックをしないと駄目って注意したでしょう?」
神出鬼没な妹がテーブルの横に立っていて、さとりは慌てて机の上のものを隠そうとし。手を動かそうとしたところで、こいしも同じものを貰っていることに思い出した。
「何してるの?」
「あ、ああ、椅子に座ったままできる体操をやろうとしていたところなのよ」
「なるほど、それで変な格好をしているのね。いつまでもテーブルの上に券を置いてニコニコしているのがばれたかと思って、慌ててそれを隠そうとしているのかと思ったわ」
「……いつから見てたの?」
「お空とお燐がお姉ちゃんの部屋にやってきてから、ずっと♪ 一緒に後ろから入ったもの」
「……ああもう、良い性格の妹を持ったわ。泣きたくなるくらい」
無意識を操るこいしは、誰にも気づかれずいろんな場所に潜伏できる。
昔はその無意識レベルが極端に深かったので、気がついたら自分でもわからない場所にいた、ということが多々あった。けれど巫女が異変を解決しにここにやってきてからは外の世界へと目を向けるようになり、力をコントロールできるようになってきた。それは喜ばしいことなのだが。
自分の意識を残したまま、周囲の人たちに認識させずに移動する方法という厄介なものを覚えてしまい。こっそり部屋へと入り込むといういたずらを何度も繰り返すのが困りもの。
「ねえ、せっかくだから一枚くらい使ってみましょうよ」
「えぇっ、で、でも、せっかくもらったものをすぐ使うなんて」
「でもお姉ちゃん。このままだったらそれ絶対一枚も使わないと思うし」
「そんなことはありませんよ、お姉ちゃんだって疲れているときはきっと……きっと……」
「使う?」
「使えないわね…… たぶん」
嬉し過ぎて、使えない。
コレを見ているだけで、きっと明日も頑張るぞという気分になるから。じっと眺めて満足して終わり。だから手に届くところにあっても、減ることはないだろう。
「私は使ったけどね、もう♪」
「え、早っ! 感慨もなにもないのね、こいしは」
「有用かどうか試しただけ。現実主義と言いたまへ~」
「ああ、また妙な口調を覚えてきて…… んー、そう、こいしは使ったのね」
感情とは不思議なもので、別な人が使ったと聞くと急に興味が湧いてくる。
さっきまでは使わない一択だったというのに。
一枚を束から取って、手のひらの上で遊ばせているとこいしが背中から覆いかぶさるように圧し掛かってきた。
「ほらー、気になってるんなら使っちゃおうよ~。上手だったよ二人とも、疲れが吹き飛んじゃう感じ」
「え、そうなの? そんなに気持ちよかった?」
「うん、お金払っても良いくらい」
昔、どうしても肩が痛いときがあって揉んでもらった事もあった。しかしお空は力加減が極端だし、お燐は上手なんだけど慎重過ぎる部分があって、楽にはなったが満足するまでは至らなかったはず。それが改善されているということは、藍が仕込んだということか。券づくりだけでなく、そこまで拘るとは……
九尾の狐、侮りがたし
「そう、か、じゃあ私も一枚だけ使ってみようかな」
「わかった、お姉ちゃんはベッドで休んでてよ。呼んでくるから」
「そう? 悪いわね、少し休ませてもらうわ」
そういえば、昨日は元気な橙と遊んで、今まで眠っていない。そんなことを思い出した途端、程よい眠気が襲い掛かってきた。そんな睡魔の誘惑に逆らうことなく、さとりは全身をベッドの上に預けた。全身を包み込むような柔らかな温もりに意識を吸い取られるように、枕に顔を埋めゆっくりと瞳を閉じた。直後、さとりは浅い眠りの世界へと落ちて行くのだった。
トントンっと、肩を叩かれてまどろみの世界から呼び戻されたさとりは、ベッドの上でもぞもぞと上半身を動かしながら顔を後ろへと向ける。そこにはマッサージをしにやってきたはずのお燐とお空、それと二人を連れてきたこいしがいるはず。
そうやってしばらく、叩かれた右肩の方を見上げて。
再度、無言で顔を枕に押し付けた。
うん、間違いない。
夢だこれ。
目覚めたと思っていたのに。どうやらまだ幻想の中のようだ。
「あのー、さとり様ぁ~、ただいま参りました」
「私もがんばるよー」
確かに背中のほうから声が降って来る。けれど違う、そんなはずはない。
「ほらほら、お姉ちゃん早く起きて」
こいしに似た声が聞こえてくるがきっと、これも幻聴。夢の続きでしかない。だってそうでなければ納得できない。
確かに、三人とも見た目はいつもと変わらない。
が、さっき、ふとお空とお燐の心を覗いたとき、見えてしまったのだ。
いまから二人がやろうとしている、内容が。
「ゆめ…… コレハユメ、コレハユメ、コレハユメ……」
こいしの心を読むことができれば、きっと二人を呼ぶことはなかっただろう。だって普通マッサージといったら疲れたところをほぐすだけのもののはず。なのに、ペット二人が想像しているのはもう。さとりの言葉では決して言い表しきれない、体勢というか、動きというか。
言葉に出す以前に、考えるだけでもう、顔から火が出てしまいそうになるものばかり。
つまり、なんというか健全ではないというか……
「お姉ちゃん、せっかく二人を呼んできたんだから、丸まってないで体を楽にしないと」
「ちょ、ちょっと、待ちなさい。こいし! 私はそんな行為など求めては――」
と、待て。
そういえばこいしは、試したといっていた。
先に、二人のマッサージを体験したと。
さとりは、ベッドで体を横にして丸まったまま恐る恐る妹を見上げる。
「あ、あの。正直に答えなさい、こいし。あなた本当にアレを体験したわけ?」
「アレって、何?」
「あ、アレは、アレよ。ほらっ! 今そこの二人がやろうとしているような。頭の中に思い描いていることよ」
「ああ、なるほどね。ん~っと」
いい意味でも悪い意味でも無邪気な妹、そんな彼女が指を唇に当て、頬を薄紅色に染めて片目を閉じる。その仕草は姉であるさとりでもドキリとしてしまうほど妖艶で。
「……ふふ、あのお空のふさふさの羽とぉ、お燐のざらざらの舌はぁ、本気でヤバイよ?」
わかった、大体わかった。
わかりたくないけど、理解した。
だって、その二つの要素は、通常のマッサージではまったく必要のない要素だから。
でも、おかしい。
もちろんさとりは、二人に魅惑的な大人の階段を上らせたことなどない。となると、間違いなく昨日のうちに藍がやったことだとは思うのだが、さとりはそんなことを望んでなんていなかった。ただ純粋に相手を喜ばせる贈り物という知識とか一般常識を与えて欲しいと言っただけ。『私なりのやり方で実施する』と誓約書には書いてあったが、九尾の教育方針にそんな馬鹿げた物が含まれるはずがない。
そうだ、『よろこばせる贈り物』という文字もあったし――
まてよ。
九尾なりのやり方で、よろこばせる。
よろこば、せる……?
えーっと、確か九尾という種族で有名なのは、その美貌と魅力で相手を虜にし国を傾かせるとあった。ならば九尾の常識の中で、よろこばせるという行為は。
喜ばせる、ではなく。
悦ばせる、ではないか。
なるほどわかってみれば簡単なこと。納得――
――できるわけがない。
「う、ふふ、なるほど何か裏があるとは思いましたが。これが橙に手を出したということの報復、ですか。
いいでしょう、この挑戦、地霊殿の主たるこの私が謹んでお受けいたしま――っ!?
こ、こら、お空、くすぐったいからやめなさっ! お燐まで! 悪ふざけも度が過ぎると怒りますよ! 本気で怒りますか、らぁっ! こ、こいしまで!?」
「はーい、お姉ちゃんもゆっくりたのしまないとね♪ ゆっくりね~♪」
その日、地霊殿へと続く地下への入り口には。
『私用のため、今日より二日間温泉は休業致します。 古明地さとり
代筆 古明地こいし』
そんな張り紙がいつの間にか張られていた。
それを知らず地霊殿へとやってきたお客は、口々に『若い女性の悲鳴のようなものが聞こえた』と話していたという。
「……将を射んと欲すればまず馬を射よ」
「藍様? それはどういう意味の言葉なのですか?」
「ん、そうだねぇ。何かやりたいことがあったら直接それを目指すのではなく、足元を固めた方がいいということかな」
「へ~、この前教えてくれた、急がば回れ、みたいなものですか?」
「はは、それはちょっと違うかなぁ」
橙との憩いの時間を過ごしていた藍がポツリとつぶやいたその言葉。
それにどれほどの意味があるのかわからないまま、橙は藍を尊敬の眼差しで見つめる。この前のように冷たい言葉を投げかけることも無い。
「さて、あの二人に貼り付けた式はしっかりと機能しているかな。もし動作しているのならお仕置き程度にはなるかもしれないが」
「あぁ~藍様! また誰か困らせたりしたんですか? 駄目ですよ!」
「はははっ違うよ、橙。どちらかというと、私が困ったり悩んだりした方なのだから、だから相手には少しだけ反省してもらおうと思ってね。少し昔を思い出していたずらをしただけさ」
「酷いことしたら、また嫌いになっちゃいますから」
「ああ、なんてことはない。二匹の可愛らしいペットに『ある特性が盛んになる程度の式』を三日間限定で仕掛けただけだからね。その期間が終われば元に戻るし、その間のこともすっかりと忘れてしまう。昔の私からしてみれば、子供のようないたずらでしかないけれど。ふふふ」
首を傾げる橙を置き去りにして、『元』傾国の九尾は楽しそうに笑ったのだった。
さとりと藍の会話なども面白かったです。
こんな時間に誰か来たようだ
それはそうと、こいしちゃんヤバイ
想像しただけでもげそう
つまりあの後さとりは……!?
いけない藍様w
よかったよかった
あと一箇所さとりの名前自体が悟りになっていました。
「あのお空のふさふさの羽とぉ、お燐のざらざらの舌はぁ本気でヤバイよ?」
橙にも二本の尻尾とざらざらの舌がある。
そして、「その期間が終われば元に戻るし、その間のこともすっかりと忘れてしまう。」
つまり、藍様は寂しくなるたびに橙にその仕掛けを……!!!!!!!
粘膜を舐められると別の意味でヤバいです
さとりは加害者であり被害者的な立ち位置になりましたねww