Coolier - 新生・東方創想話

サンジェルマンの忠告。

2010/01/26 13:54:09
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 とある舞踏会で、私は彼の従者に尋ねてみた。
「で、彼は本当にそんな何千年も生きているというの」
 するとその従者は恥ずかしげにこう答えた。
「分かりません。実は私が彼に仕え始めてまだ300年ほどなのです」



 サンジェルマンの忠告。




 気が付くと顔の目の前に宝石が飛来してきていた。しゃがめ、という命令が肉体を伝わる前に、真紅の宝石は射光を一面に噴出する。激しい明滅に彼女の眼が暗転した瞬間、その体を激しく突き飛ばす衝撃が身を襲った。

「っ!」

 目が利かないながらも体を起こそうとする彼女の耳に、かちり、という剣が鳴らす涼やかな音が首筋の辺りで響いた。薄ら寒い冷たい剣の感触が、空気一枚挟んで肌を粟立たせる。

「これで私の勝ち、かな。藤原妹紅君」

 流暢な日本語でそう告げられ、妹紅はふっと体から力を抜いて地面に倒れ伏した。ようやく復活し始めた視界に飛び込んでくるのは妹紅の喉元を指すようにまっすぐに伸びた剣と、その奥で柔和な笑みを浮かべる一人の男性の姿。

「従者の薦めで最初極東まで足を運んだ時は何故こんな辺境の地へと思ったものだが……よい収穫があったね。素晴らしい」

 そう言って手の剣を空へ消すその男性は、この極東の地においてあまりに奇異な格好をしていた。全身を華美な宝石で包み、透ける様に白い衣装はまるで死装束を思わせる。彼は腕輪と指輪で一杯の手をちゃりちゃり鳴らしながら、妹紅の方へ手を伸ばした。
 不承不承、という体でその手を取る妹紅に、彼は満面の笑みでこう言った。

「では君が私に勝つ日までよろしく、妹紅君。私はサンジェルマン伯爵。伯爵と呼んでくれるといい」


***


 月日は、数日前まで遡る。
 その日、妹紅は久々に町まで下りて買い物に勤しんでいた。手に持っているのは動物の肉に毛皮、あとは山菜や野草の類。これを売って路銀を得るのが目的だった。
 その頃の妹紅は妖怪退治にも飽き、のちに「300年間暇していた」と述懐する時期にさしかかっていた。山の奥に小さな小屋を建てそこで夜露を凌ぎながら、時折こうやって獣や山菜の類を集めては町に出かけてそれを売り路銀を作り、酒やら何やらを買って帰るのだ。そんな自堕落ながらも平穏とした生活を、妹紅は謳歌していた。
 元々、目立つ見た目である。青白い髪に年を食わない若いままのその姿から、妖怪だの神の化身だのなんのかんの町では言われていたが、逆にそれゆえ妹紅の住まいに入り込んでくる人間もいないし、また勘定が妥当であれば取引を拒む商人もいなかった。妹紅の持ってくるそれは人間では到底仕留められないような獣だったり、前人未到の山奥でしか手に入らない薬草だったりで、町人としてもそういうものを持ち込んでくれる妹紅は貴重な存在であった。触れ合わず、かといって離れもせず、と言った関係が、もう数十年もこの町と妹紅との間で成立していた。
 手持ちを売りつくし、妹紅の手に残ったのはそこそこの量の金。これで酒を買えば数ヶ月は持つだろう。やる気のない表情でそう思った妹紅は、酒屋のある町の中心地まで繰り出した。
 商店の並ぶそこは、今日もそこそこの人間が闊歩していて盛況だった。歩いていると時折妹紅の方を眺める男集がいたりするが、妹紅が一にらみ返すと触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに足を速めて歩き去っていく。ふん、と鼻から息を一息。とりあえず酒屋へ向かおうとする妹紅の前に、一つ目に入るものがあった。

「そうそう、お目が高いねお嬢さん。こんな所に置いておくのがもったいないくらいだ。これは遠く西方の地、バビロニアの国王と謁見した時に頂いた品でね……」

 そう高らかに明朗な声が響いていたのは、酒屋の前に出来ていた人だかり。よくよく見てみると、酒屋の番頭までがその群集に加わってほうほうと眺めては頷いている。
 こんな商人前はいただろうか、と思いつつ一町人がそうするように妹紅もその群集に加わる。刺激のない生活はとことん平穏ではあったが、とはいえ刺激がほしくないわけではなかった。おそらく南蛮渡来の品でも売っている商人が口上をあげているのだろう、何か一つよければ買っていってもいいかな、と思って群集を掻き分けて前へ出る。
 するとそこには、まるで商人には見えない、南蛮人そのものの姿があった。
 身の丈は妹紅より頭3つは上の長身。体は薄い絹のような素材に豪華な意匠をあしらった高級そうな衣類。そして全身には色とりどりの装飾品と宝石に身を包んだ、南蛮貴族そのものの居住まいをした人間。彼は自分の身に付けている装飾品を一つ一つ手にとっては、遠く西方の物語を懐かしむように語っている。時折その装飾品を町娘に下げさせてみては、黄色い歓声を上げさせていた。

(妖怪か……いや)

 あまりに異様な風体に妖怪か一瞬疑った妹紅であったが、妖気の類が一かけらも感じられないためそれは否定した。おそらく奇特な南蛮の貴族の一人なのだろう。彼らから言わせればまだ文化的に未熟な日本の人間をからかって楽しむ下種な輩だ。
 面白くもない。そう思って立ち去ろうとした妹紅であった。が、立ち去る前にその男に声をかけられてしまった。自分の目立ち具合を忘れて群集に混ざった妹紅の失策だ。

「おお、そこにいるのは中々珍しい格好をしたお人だね。そんな姿をした人を見かけるのは1600年前くらいのイスラーム以来だろうか……。おいおい、待ちたまえよ、是非君にも話があるんだ」
「私は興味ないね」

 そう言って背を向け立ち去ろうとする妹紅の脳内に、ふっと声が忍び入った。

(……まあそう言わないでおくれよ、不死の少女。今日は君のうわさを聞いてここまでやってきたんだから)

 ばっ、と男の方に妹紅は振り向いた。男はその妹紅の表情を見てにっと笑顔を見せた後、集まった聴衆の皆々に声をかけた。

「いやいや、今日は私なんかの話を聞いてくれてありがとう。この町の人は本当に気の良い方ばかりだな。では、私はこの後彼女と少し話があるからこれで失礼するよ」

 まだ聞きたい、と言わんばかりの聴衆が群集を崩さないので、彼は仕方ないなとばかりに息をついた。そして首から下げたペンダントを一つ外すと、町民の見る前でくるくると回し始める。ぐるぐる、ぐるぐる。しばらくの間町民たちはそれを眺めていたが、ふっと彼がその回転を止めた瞬間、町民たちは一斉に元の生活に戻る足取りで彼の元を離れていった。ただ一人、険しい表情で彼を睨む妹紅を除いて。
 仕事に戻った酒屋の番台の威勢のいい掛け声が響き始めたところで妹紅は口を開いた。

「お前、妖怪か何かか」

 なら退治すると言わんばかりに身構える妹紅に、その男はへらへらとした笑みを浮かべながら怖い怖いと両手を振った。

「違う違う。妖怪というのが何かは知らないが、まあ要は化け物の類だろう。そんなのとは全く違う。私はただの人間だよ。さっきやったのは催眠術って奴の応用でね。人払いをするのには丁度いい技の一つなのさ」
「南蛮貴族が、こんな片田舎暮らしの私にどんな用事があるって言うんだ」
「まあそれは追々話していこう。……さて、いくらさっきの連中に催眠術をかけたとはいえ私たちの格好は少々目立つ。どこかいい隠れ場所はないかね? 君なら知っていそうだと思うが」
「……付いて来い」

 妹紅がそう言って一人歩き始めると、その男は溜息を一つつくと立ち上がってその背中を追った。



 道中に彼が話したことを要約すると、つまりはこういうことらしい。
 東方への旅でチベットまで来た彼は、従者の意見で極東、ジパングを目指すことにした。中国経由で日本についた彼は幕府の要人と接触しようとしたが断られ、仕方なしにさっきの話をすることで路銀を稼ぎ、帰る準備をしていた。しかしそこである噂を聞きつけて、帰る日程を延ばしてここまで来た。
 飄々と語る彼に、妹紅は叫んだ。

「んな話信じられるか! そもそも私の噂がそんな幕府の近くまで流れているわけがないだろう」
「君、人の噂を舐めてはいけないよ。不死の少女がある町の片隅にいる、なんてそんな面白そうな話は、すぐに広がってしまうものさ。しかも君の場合自分から町に下りてくるからなおさら信憑性が高い。
おそらく、町では軽い見世物みたいな扱いになっていたんじゃないかな」
「だから私をやたらとちらちら見てはごそごそ喋る人間がいた訳だな、畜生」すぐに住処を変えてやる、と心に決める妹紅。「……で? あんたが物好きで変態な金持ちの貴族ってことは分かったけど、さっきの催眠術とやらといい私に口を使わず声をかけたことといい、一体何者なんだ?」

 既に回りは森に近い、人などいない場所になっていた。家もなく、森から木を切り出す小屋がいくつかある程度の静かな場所。夕暮れの光が赤く射しているその風景の中で、彼は胸から取り出した杖を地面に突き刺して、その上に腰掛、言った。

「いや何、私も実は不死の人間でね。出来れば不死仲間として君を連れて行きたい、そう思ったのさ」

 寒風が二人の間を流れた。木々が擦れ合ってさざ波のような音が辺りを満たす。

「不死、だと?」初めは驚愕した妹紅だったが、すぐに鼻で笑うように言った。「はん、不死の人間がそう簡単にいてたまるか。どんな呪術を使ってるか知らないが、不死になるためには蓬莱の薬ってのが必要なんだよ。あんたには聞いたことも見たこともない代物だろうけどな!」
「まあ確かに蓬莱の薬とかいう代物については何も知らないね。」しかし、と彼は不敵な笑みを浮かべたまま言葉を続けた。「ただ東方のことだけで全てを知っているつもりになってもらっては困る。西方には賢者の石というものがあってね、これを使う者はどんな願望でも叶えられるという代物がある。そして私は独学で賢者の石を作り出し、不死になったというわけだ」

 自信に溢れたその言い草は、彼のその大言壮語とも言える発言を暗に本当のことだと証明しているようだった。風が二人を包むように吹く。しかし、彼のその高雅な衣装は揺らぎさえしなかった。典雅に、ただ杖の上に腰掛けて笑む彼の表情に曇りはない。
 妹紅はしかし、気圧される事もなく口を開く。

「……まあ、あんたが不死かどうかは私にとってはどうでもいい。しかし仲間として連れて行きたいってとこについては、私にはそんな気はないね。私はなんだかんだ言ってもここの平穏な暮らしが気に入ってるんだ。それを邪魔する人間には容赦はしない」
「例え見世物扱いされていると知ってもかい」
「そうだ。こっちは幕府の連中が来ようが何しようが勝てるくらいの技量はあるんでね。邪魔しようってんなら、せめて私を倒して無理矢理連れて行くんだな。ま、無理だろうけど」

 強弁する妹紅に、彼はふむ、と一言頷くと杖の上から腰を上げた。杖は胸に仕舞う。どうみても懐に杖が入るようなスペースはないようだったが、妹紅は気に留めなかった。その程度なら呪術を使う人間なら出来てもおかしくはない。
 立ち上がった彼を見て、やる気か、と思った妹紅は身構える。が、彼は両手を開いて妹紅に見せた。妹紅は首を傾げる。彼は笑って、こう呟いた。

「そうか、そんなにここの生活が気に入っているというなら、しばらく時間をおこう。数日のうちに君の家にうかがわせて貰うから、その時にまた今回の返事を聞くこととしよう」
「だから! 私はここを動かないって言ってるだろう!」
「君は自分を倒せば連れて行ってもいいといったね。
ではこうしよう、君は私にいつでも勝てば、君がここに帰るためにあらゆる手段を取ることを約束しよう。その代わり、君に私が勝ち続ける限り君には私の側で従者をやってもらう。こういうことでどうかな?」
「上等だ!」
「……うん、そういう勝気な女性というのも中々素晴らしいものだね。
では、数日中に伺うよ。その時までに藤原妹紅君。君の気持ちが変わっているといいのだが……」
「くどい!」

 そう言って妹紅が符を投げつけると、そこには既に彼の姿はなかった。どこかに消えたのか、相当な使い手であることは確からしい。が、妹紅は上等とばかりに両手を胸の前で打った。

「あんななよなよした動きづらそうな服着た人間に、私が遅れを取るはずがない」

 さて、妙な奴にあって時間を取られた。酒を買って早くうちに帰るとしよう。
 酒屋へと足を向ける途中、妹紅はあることに気付いてふと足を止めた。

「そういえば、何故奴は私の名前を知っていたんだろう」


***


 数日の後に、本当に彼は妹紅の家を訪ねてきた。人間の足では普通に来ることは不可能に近いような場所である。そもそも、山中に居を構える妹紅の家を知っている人間は、誰一人としていないはずだった。

「こんにちは、妹紅君。中々険しい道のりでね、流石の私も少し参ってしまったよ」

 暗中模索とばかりに山狩りをしてたどり着いたわけでもあるまい、と妹紅は思う。
現にかかと笑う彼の衣類には泥汚れどころか木の葉一枚たりとも張り付いていなかった。どうやって追跡してきたのかは置いておいても、妹紅ですら自分の家に戻るのにそこまで完全な状態で戻ることは難しい。
 と、彼は微笑みながら例の件について単刀直入に尋ねてきた。

「で、私と共に来てくれること、了承してくれるかな?」
「いいとも、とでも答えると思ったのかこの野郎!」

 言うが早いか、妹紅は彼に向かって突撃した。相手は良く分からない呪術を使ってくる相手である。変に距離を取って戦うのは不味い。まずは肉弾戦。見ると、腰に剣らしき得物を佩いてはいたがまだ鞘に収まったままである。それならば肉弾戦で細身の人間に負ける道理はない。
 肩から体をぶつけ、衝撃に相手がよろめいた所で蹴りを一発。腹に直撃した蹴りは確かに柔らかい肉体に衝突した。蹴りが来るのは分かりきっているだろうに腹に力も入っていない。どうやら格闘は得手としていない様だ。
 彼はよろめきつつ、笑いながら一人呟いた。

「あくまで倒してから連れて行け、ということだね。いいだろう。相手になるよ」
「相手になればいいけどな!」

 さきほどの蹴りで少し背を曲げた彼に、妹紅は低い姿勢から連続して蹴りをぶち込む。蹴り上げるように放ったそれは、つま先が腹にめり込み確実に急所を打ち抜いていた。が、妹紅は舌打ちする。蹴り込んだその部分に、先ほどまではなかった硬い感触が宿っていたからだ。
 鎧を現出させただけだ、とまだ一人で呟いている彼に妹紅は止まらず攻撃を放つ。鎧を仕込んでいるなら足ではなく手。衝撃を内に流し込む掌底を叩きこむだけ。立ちっ放しの男の後ろに素早く回りこむと、全力の踏み込みと共に掌底を放った。彼はうめき声をあげつつ吹き飛ばされる。
 口ほどにもない。妹紅は向こうで背をさすりながら立ち上がる男を一瞥した。

「妹紅君、いくら不死と言っても痛いものは痛いのだよ!」
「文句は喧嘩を売った自分自身に言いな」
「仕方ない……」

 呟きを待たずに、妹紅は彼に肉薄する。が、その突進は彼にぶつかる寸前で止まり、妹紅は素早く後ろへと身を引いた。彼の全身に纏う装飾具が不気味に輝き始めたからだ。いたた、と背中を押さえながら、彼はしかし不敵に呟いた。

「戦うと金がかかって仕方がないのだがね。まあ仲間を連れて行くためだ。必要経費と割り切ろう」
「まだ本気じゃないって訳か。……上等だ、ぶっ飛ばしてやるよ!」

 叫びと同時、再び接敵する。全速で助走をつけての体を投げ出し気味に放つ大蹴りだ。目標は相手の首根っこ。
 並みの人間なら死にかねないその攻撃を、しかし彼は片手でその足を掴んで止めた。先ほどまでとはうって変わった力振りである。妹紅は足を握られている手に蹴りをかまし自由を得ると、手を地面について両足そろえて相手の顔面目掛けて体を射出した。が、彼の腕がその蹴りを撃墜する。
 しかし妹紅も諦めない。撃墜される足が地面に付くと同時、素早く反転して肘を相手の顔面へと叩き込んだ。腕の防御も間に合わない至近弾。しかし、相手の顔は鉄面皮というにも憚られる固さで、肘をぶち込んでもびくともしない。
 畜生、と思いつつ距離を取る妹紅に、彼は腕についた泥を払いながら不敵に笑った。ぶちり、と妹紅の中で何かが切れる音が聞こえた。

「私の攻撃が打撃だけだと思うなよこのっ!」

 振りかぶって放ったのは火球。しかも三つだ。驚愕の表情を浮かべる彼の顔面に、火球が直撃、炸裂する。破裂した火球は彼の全身に火を放った。立ちながら燃える人間というのも中々変な光景だが、しかしこの攻撃は確実に相手に効いただろう。
 とはいえ、何をしてくるのか分からない相手だ。そのまま妹紅が次の火球を放とうとした、その瞬間だった。妹紅の目の前に一個の赤い宝石が飛来してきたのは。しゃがめ、という命令が肉体を伝わる前に、真紅の宝石は射光を一面に噴出する。激しい明滅に彼女の眼が暗転した瞬間、その体を激しく突き飛ばす衝撃が身を襲った。

「っ!」

 目が利かないながらも体を起こそうとする彼女の耳に、かちり、という剣が鳴らす涼やかな音が首筋の辺りで響いた。薄ら寒い冷たい剣の感触が、空気一枚挟んで肌を粟立たせる。

「これで私の勝ち、かな。藤原妹紅君」

 流暢な日本語でそう告げられ、妹紅はふっと体から力を抜いて地面に倒れ伏した。ようやく復活し始めた視界に飛び込んでくるのは妹紅の喉元を指すようにまっすぐに伸びた剣と、その奥で柔和な笑みを浮かべる一人の男性の姿。

「従者の薦めで最初極東まで足を運んだ時は何故こんな辺境の地へと思ったものだが……よい収穫があったね。素晴らしい」

 そう言って手の剣を空へ消すその男性は、この極東の地においてあまりに奇異な格好をしていた。全身を華美な宝石で包み、透ける様に白い衣装はまるで死装束を思わせる。彼は腕輪と指輪で一杯の手をちゃりちゃり鳴らしながら、妹紅の方へ手を伸ばした。
 不承不承、という体でその手を取る妹紅に、彼は満面の笑みでこう言った。

「では君が私に勝つ日までよろしく、妹紅君。私はサンジェルマン伯爵。伯爵と呼んでくれるといい」

こうして、妹紅はしばらくの間サンジェルマンと共に行動することになってしまったのだった。


***


「おいサンジェルマン。私は確かに負けたら一緒に行ってもいいとは言った。言ったが」
「なんだね。……というか妹紅君、呼び捨てで呼ぶのは止めないかね」
「なんで行くところがフランスなんだよぅ!」
「何故って私の邸宅があるから当然なのだが」

 そう妹紅が叫んで、サンジェルマンの声も聞かずしゃがみ込んだ。目に入るのはこちらを奇異の視線で見る長身で白い肌をした人、人、人。大きな青い瞳が一瞥をくれて、歩き去っていく。その向こうには、石造りの町並み。まるで日本とは違う風景。どこをどうみても外国である。足は確かに地面を踏んでいるはずなのに、どことなくふらつくような気がするのは妹紅の錯覚だろうか。
 落ち込んぶつぶつと呟きながら地面を見る妹紅に、サンジェルマンが慰めるように肩をぽんぽんと叩いた。そのサンジェルマンが身をのけぞるほど一瞬妹紅は睨みつけ、しかし頼れる人間が彼しかいないことを考えて手を上げられない自分がいて余計に無力感がせきあがる。
 妹紅がフランスに行くのだと知らなかったのも無理のない話である。というのも、船や地続きで移動したのではなく、サンジェルマンの使う魔法(魔法、という名前はサンジェルマンから聞いた。フランスという地名も)により空間転移で移動してきたからだ。
 途中何度か経由地を挟んだのだが、サンジェルマンにつれてこられることを拒んでいた妹紅は愚痴を垂れるばかりで周りを歩いてみたりすることをせず、中国、チベット、トルコを経由して今現在フランスにたどり着くまでの間妹紅は全く海外へ移動していることを知らなかったのだ。実際妹紅本人は、日本国内を移動しているものだと信じて疑っていなかった。
 考えてみればサンジェルマンは南蛮人なのだから連れて行くと言えば海外だろうことは想像に難くなかったはずなのだが、敗北の余韻が抜けきらない妹紅にはそこまで頭が回らなかったのだろう。
 落ち込む妹紅に、サンジェルマンはとりなすようにまぁまぁと慰めの言葉をかけた。

「もうすぐ従者に頼んでおいた馬車が来る。それがくれば奇異の視線に曝される事もあるまい」
「……畜生、なんで私はこんな奴に負けたんだ。負けてなきゃこんなことにはならなかっただろうに……」
「そうだな、妹紅君、その辺りに一つ忠告がある」
「……忠告?」
「ああ、君の体術、魔法は私に十分勝っていた。ただ、君は不死であるために余りに身を投げる攻撃をしすぎだ。あれでは隙が大きい。命を取るのが目的でない者に負けて当然だよ」
「ふん、打撃にはボロボロになってた癖に」
「だから体術は勝っていたといっているだろう。相手の目的に合わせた戦い方が出来ないようでは私には勝てんな。
……と、馬車が付いたようだ。来たまえ」

 いやいやをするようにごねる妹紅を引き摺り、サンジェルマンは街中に現れた二頭立ての馬車の前に立った。御者が馬車を降りると、帽子を取りサンジェルマンに向けて深々と礼をする。

「長旅お疲れ様でした、伯爵。……で、そちらの方は、お連れ様で?」
「ああ、極東のジパングに寄った際出会った不死の少女、藤原妹紅君だ。縁を感じたのでつれてきた次第だ、客として扱ってくれたまえ。……ほら妹紅君、挨拶位したらどうだね」
「……妹紅だ」

 しゃがみこんだままぼそぼそと喋る妹紅は日本語で、従者は意味を理解しなかったがとりあえず挨拶のようなので頭は下げておいた。
 サンジェルマンは抵抗する妹紅を馬車に詰め込み、従者に声をかける。

「邸宅まで連れて行ってくれ。あと、いつもの服を」
「畏まりました」

 そう言って馬車に乗り込むサンジェルマンに従者は礼をもう一度すると、馬に鞭を打って馬車を発進させた。
 馬車の狭い窓から見える風景は、完全に異国情緒溢れるものだった。日本らしいものは何一つない。沈みかけた夕日に照らされている無数の家々と教会の尖塔。馬車の下から伝わる衝撃は明らかに石畳を走るそれ。どう考えても異国である。ほんの少しこれが実はサンジェルマンの盛大な引っ掛けであることに期待していた妹紅は、その線さえ断たれていよいよしょげ返った。
 あまりに酷いその反応にサンジェルマンはとりなす様に言う。

「まあ江戸に比べれば悪いかもしれないが、パリも中々にいい都市だ。折角ここまで来たのだし少しは楽しんではどうかね」
「まあ確かに異国に渡る経験ってのも中々いいものだとは思うが……」溜息「……突然、自分の意思以外で来るとなるとな」
「つれてきてもいいと言ったのは君ではないかね」
「外国までつれてこられるとは思わなかったんだよ!」叫ぶ。落ち込む。「……精々日本の名所とかそういうの案内して終わりだと思ってたのに……どっからおかしくなったんだ一体……」
「帰りも私に勝てたら保障するし、船に長々揺られて話す相手もいないよりはいいと思うが」

 しかしまた馬車の椅子に沈み込むように落ち込む妹紅。あの戦いでの元気はどこに行ったのか……、とサンジェルマンは頭を掻き、不死仲間などと言って無理に連れて来たのが間違いだったかと思案する。
 そもそもよく考えればサンジェルマンはある程度自由に移動できるのであるから、会おうと思えばいつでも会えるのだ。できれば不死の孤独を癒す仲間がいればと思いはしないでもないが、向こうで暮らそうとも思わないし、彼女のこの様子を見る限り、こちらに腰を落ち着けさせるのも容易ではなさそうだった。
 溜息。

「……仕方ない。では妹紅君に仕事を任せるから、それが終わったら日本に帰してあげてもいい」
「いいのか!」喜色満面になる妹紅にサンジェルマンはげんなりする。「いつだ! 明日か? それとも1刻後か?」
「仕事が終わったらだと言ったろう、全く」
「なんだ、じゃあすぐには帰れないのか」

 言いつつも帰るための目的がはっきりした妹紅は、さきほどまでの落ち込みとはうって変わっていつもの不遜な態度に戻る。はぁ、とサンジェルマンが息をついたのも仕方がないだろう。それで、と妹紅は再び口を開く。

「私に任せられる仕事って、一体なんだ。人体実験とかなら全力で抵抗するからな、私」
「研究室を燃やされるような真似はせんよ私は」そう言って、サンジェルマンは窓の外を覗いた。「今、実は私の偽者が暗躍しているらしいのだ」
「偽者? ただでさえ胡散臭いのに偽者がいるって一体どういうことなんだ」
「胡散臭いは余計だ。……どうやら、私が国王と懇意にしていることを良く思わない人間がいるらしくてな。サロン――貴族の会合にたびたび現れては、私についてあることないこと色々と吹聴しているらしい」
「まあ元があれだからそういうのは簡単そうだな」
「……ともかく、その偽者を捕まえてくれれば君を日本へ帰そう。主犯については私が調べるからそこまでは要求せん。偽者を捕まえるだけでいい」
「偽者を捕まえるったって、私にどうしろというんだよ」
「まあその辺については考えがある。その辺については追々話していくつもりだが……おっと、着いた様だ。その話はまあ晩餐の時にでもしよう。まずは降りたまえ」
「はいはい、もう好きにしてください……」

 サンジェルマンが馬車から降りると、妹紅に向かって手を伸ばした。その手に従いおっかなびっくり馬車を降りると、目の前には巨大な庭園と、豪奢な屋敷がその姿を現した。丁寧に手入れされた庭には何人かの庭師がおり、サンジェルマンを見ると深々と頭を下げてくる。
 サンジェルマンがそれに答えて手を上げて作業を続けるように命じている間に、妹紅はぐるぐると回って夕日に照らされる庭園と邸宅を見比べた。西洋のそれには当然のことながら無知な妹紅であったが、それらが恐ろしく豪華なものであることは想像がついた。よくよく見てみれば、馬車もかなり豪華な作りで内装も華美なまでに金をあしらったものであった。はぁー、と妹紅から感嘆の声が上がる。野山暮らしが普通である妹紅にとって、想像も出来ないような世界観であった。
 そんな様子をニヤニヤと眺めていたサンジェルマンに気付くと、妹紅はさっと顔を赤らめて声を荒げた。

「で、家まで連れてきてどうしようっていうんだ」
「とりあえずその格好は目立ちすぎるからな。こちら風の衣装に着替えてもらおう。……いや、その前に体を洗ってもらおうか。まあいい。ともかく家の中に入ろう。久々の我が家だ、盛大に迎えよう!」

 そう言ってサンジェルマンに手を引かれるまま、妹紅はサンジェルマンの邸宅の中に入っていった。



 久々の我が家に、サンジェルマンがくつろいで葉巻を燻らせていた最中に、叫び声が邸内から聞こえた。こんな騒がしい声をあげるのは言語云々以前に一人きりである。妹紅だ。
 かつかつと階段を昇ってくる音が聞こえ、そのうち「歩きにくい!」という声と共に足音がどたどたに変わり、サンジェルマンが葉巻を吸い終わる頃になってようやく、彼の部屋の扉が盛大な音と共に開いた。

「どういうことだこれは!」
「君は騒がしいね本当に。東方の人間は全員こうなのかね? 全く。……で、何がどういうことなんだね」
「見たら分かるだろ! 服装だよ服装!」
「おお、拵えて置いた服に着替えたのだね。こうしてみると中々に美人じゃないか」

 顔を真っ赤にしている妹紅の顔はさせおいて、その衣装は和服から西洋のものへと見事に差し替えられていた。ワインレッドの薔薇のようなふわりとしたドレスに、丈の短いスカートが繋がる。妹紅の透き通るような長い蒼白の髪にはアクセントにリボンが巻かれている。足は黒いニーソックスを履いているが、その先に履かれているはずだったピンヒールは、妹紅の手の先で所在なさげに揺れていた。
 ニーソックスのまま絨毯の上を歩き、妹紅はサンジェルマンに詰め寄った。その乱暴な態度に少しサンジェルマンは眉をひそめるが、妹紅は意に介さない。

「なんなんだよ、この服は! なんか風呂でも人が勝手に洗いに来るし、なんかよく分からん腹を締め付ける鎧まで付けさせられて……言葉が通じないから我慢してたら気がついたらこの格好だ! 元の服に着替えさせろ!」
「残念ながらコルセットもドレスも一人では脱ぎ着できん。ついでに言うと君の服はメイドが洗濯中だ。我慢したまえ」
「鼻の下を伸ばしながら言うな!」
「いや何、極東の人間は背が低いと聞いていたから子供向けのドレスを拵えさせて置いたらあまりに見事だったものでな。これはメイドたちに褒美を与えねばならんなぁ」
「何が『与えねばならんなぁ』だよ変態の癖して……」
「あと靴は履いておきたまえ。日本では屋内では靴を脱ぐのがルールらしいが、こちらでは基本的にそういう風にはなっていない」
「こんな歩きにくい靴はいてられるか!」
「まあそういうな」半ば呆れ口調でサンジェルマンが言う。「それはこれからの仕事にも関わる。履きなれろ」

 珍しいサンジェルマンの命令口調に、妹紅は文句を言う声を止めて仕方なしに靴を履いた。満足そうに頷くサンジェルマン。それを無視して、妹紅はサンジェルマンの着いていたテーブルの対面に座ると足を組んでいきなり切り出した。

「で? 仕事はどうするんだ」
「仕事の話は晩餐の時にと言ったのに……。あ、あと妹紅君。その丈の短さで足を組むと下着が見えるから気をつけるんだな」

 ばふん、と柔らかいスカートを押さえつけて足を縮める妹紅。真っ赤になって睨む妹紅を尻目に、サンジェルマンは落ち着いた口調で言った。

「まあいい。私も疲れたから少しばかり早いが晩餐としようか」



 晩餐は、非常に静かに行われた。
 というのも、初めからサンジェルマンが妹紅向けに箸を用意させていたからである。用意させていなければ金属音の鳴りあう戦場のような食卓になっていたことだろう。メイド達が慌てふためく様を予見したサンジェルマンの先見の明が光っていた。
 子牛のソテーを箸で頬張りながら、妹紅が初めに口を開いた。

「……で、そのサンジェルマンが考えてた策ってのは一体どういうものだ」
「それは……」ナプキンで口を拭いた後、サンジェルマンは口を開いた。「君の存在だよ。君の存在が偽者を見破る手段になる」
「私の存在?」
「そう。下手人は変装の達人で、声色まで真似て私の名誉を損なおうとしているようなのだ。一度や二度会っただけの貴族連中が見抜けないのはさておいて、親しい友人までもが彼に騙されていてな。そういう意味ではかなりの熟練者だ」
「そこでどうして私の存在が見破る手段になるんだ? 言っておくが私は南蛮人の顔なんて全く見分けられないぞ」

 既にメイドの区別がつかないからな、と自信満々に言う妹紅。何か間違った自信の付け方をさせてしまっているなと思いつつ、サンジェルマンは言葉を続ける。

「別に妹紅君に見分けてもらおうと思っているわけではない。ただ、偽者がどれだけ情報を仕入れていたとしても、君の件だけはまだ誰にも知られていない秘密だ。
 そこで、君がまずサロンに入り込んで、偽者に近づく。それで君を知らなければ確実に偽者だ。そこに何らかの合図を貰って私がそこに入れば……」
「片がつく、というわけか」手を打って頷く。「確かにそれなら偽者にも対応できないな。例え本物が東洋人を連れていると知ったとしても、代わりの東洋人を連れているほうが偽者だ」
「そういうことだ」

 確かにその方法であれば、偽者を探し出すのはそれほど難しい話ではないだろう。意表さえ突ければ偽者と鉢合わせするのもたやすい。
 しかし、その策には明らかな問題点が一つあった。

「でも、それじゃあんたや私は偽者だと見破れても、他人は分からないんじゃないか」
「それについては問題ない」

 そういうと、サンジェルマンはテーブルにおいてあったナイフを手にとって指先を切りつけた。零れる数滴の血液。メイドにナイフを交換させた後、その指をナプキンで拭うと、そこにはすでに切りつけた後は残っていなかった。
 なるほどね、と妹紅は感嘆の声をもらした。不死を生かしたある種大胆な作戦と言える。

「偽者にゃ絶対出来ない芸当だな。そりゃ確実だ」
「ただ、問題がない訳ではない」
「なんでだ?」妹紅が首を傾げる。ドレスになれていないせいか傾げ方が奇妙だが。「偽者さえ探し出せばそれですんだろ?」
「まずは、その時に私が暗殺されることだ。下手人はあくまでも下手人。偽者を操っているのは他の人間だ。ならば、本物が現れればこれ幸いと暗殺される可能性がある」
「そんなの、あんたを暗殺できる奴なんていないじゃないか。私を倒したのに、暗殺は防げないなんて道理があるか。というか、その前にあんた不死じゃないか」

 そう強弁する妹紅に、分かってないなとばかりにサンジェルマンは首を振った。

「貴族方の手前で暗殺者と私が取っ組み合いをしてみろ。そんなもの起きた時点で十分な醜聞だ。『暗殺者を殺せるような輩が国王と懇意にするなど許されん』などと圧力がかかるに決まっているさ」
「じゃあどうすんだよ」
「君に護衛してもらう」
「……冗談だろ?」
「冗談ではない!」立ち上がってサンジェルマンは言った。「私は真剣に言っているのだよ。君に暗殺者を捕らえてもらえれば、私の口車でなんとかなる。その方法で切り抜けるしか手立てはないのだ」
「ま、まぁまぁ、落ち着けよ」

 サンジェルマンの剣幕に押されて思わずそう口にした妹紅に自分が怒りをあらわしていたことに気付いたサンジェルマンは、再び席について息をついた。訳がわからないことに巻き込まれつつあるな、と妹紅はうんざりした気持ちでそれを眺める。
 サンジェルマンが落ち着いたところで、妹紅が口を開く。

「まあ護衛の件はいいよ。どうせやらなきゃいけないんだし、やるしかないんだろ?
 良く分からないのは、なんであんたがそんなに国王との関係に意固地になったり、妨害したりする人間がいるのかなんだ」
「……私は、王国の施設を借りて研究を行っているのだよ。当然、莫大な予算もある程度王国持ちだ。私は研究を続けたいが、金を私の研究に使われているのが気に食わない連中もいる。詐欺師が、などと言ってね」
「……そういうこと」

 そういうことについては、妹紅も知らないではなかった。要は権力闘争の類なのだろう。妹紅の父が妹紅を疎んじ、隠していたのも権力闘争の上で醜聞を恐れたからだった。そして父が凋落したのもまた、輝夜に相手にされなかったという醜聞からだった。
 別にサンジェルマンに父の影を見たわけではない。が、それでも父と同じく権力闘争などに巻き込まれて凋落するのを黙ってみていられるほど、妹紅は他人行儀でもなかった。
 妹紅が協力するのにやぶさかではなさそうな態度に気付いたのか、ここぞとばかりにサンジェルマンは言葉を続けた。

「まあそれ以外にも、あと二つほど問題がある」
「何、あと二つだと? ……これ以上偽者とやらを捕まえるのに何が問題だっていうんだ」
「まず第一。君の戦い方を護衛向きに修練させる必要がある。不死とはいえ、過剰にダメージを受けると色々と差支えがあるからな。
それともう一つ、君のテーブルマナーだ」
「……第一のはまあいいとして、テーブルマナーがどうして必要なんだ。箸でいいだろ箸で」

 サンジェルマンが溜息を吐きながら笑った首を振る。妹紅はいい加減その馬鹿にするような態度に耐え切れず一瞬切れそうになったが、その怒りが爆発する前にサンジェルマンが言葉を継いだ。

「いくら東方の客人といえ、貴族のサロンで箸なんか使ってみろ。貴族方はすぐに帰ってしまうぞ。なるべく証人は多いことにこした事はないのだ。
……そういうことで、君にはしばらくの間護衛とテーブルマナーの訓練をしてもらう。ああ勿論、途中で私を倒してくれても構わないぞ」
「……さすがに乗りかかった船でそんなことはしないよ」
「それはありがたい」

 止むを得ん、とばかりに不機嫌にそういう妹紅に、サンジェルマンは優しい微笑でそう返した。席から立ち上がり、妹紅に向かって手を伸ばす。妹紅は少し嫌そうにしながらも、確かにその手を握り返した。
 こうして、妹紅とサンジェルマンの奇妙な特訓の日々が幕を開けた。


***


 その日の翌日から、早速妹紅の訓練が開始された。
 まず朝食でスープを掬うために1時間ほど格闘したあと、妹紅とサンジェルマンは庭園に出た。妹紅の顔がどことなく疲れた感じなのは先ほどのスープの件があっただろうか。ちなみに、今彼女の着ているのは黒のシンプルなドレスである。やはりミニスカートとニーソックスであるのは、サンジェルマンの趣味なのだろうか。サンジェルマンはいつもと変わらない装飾品の多い衣装だ。
 庭園の中でも芝を植えていない、砂の広がったところに彼らは移動した。と、そこには庭園には全く似合わないものが地面に突き立っていた。妹紅が端的に言う。

「丸太?」
「丸太だ。君には、私の攻撃からその丸太を守ってもらう練習をしてもらう。要するに、棒立ちになっている私が丸太というわけだな」
「蹴ってもいいか?」
「では私が攻撃するので、君は全力でその丸太を守ってもらおう」妹紅の発言は無視してサンジェルマンは構える。「いくぞ……!」

 そう言うと、サンジェルマンの柔和な表情が一変し険しいものになる。全身の装飾品が一気呵成と鳴り散らし煌々と輝くと、無数の紅い光球が一斉に放たれた。連続して放出される弾体は、帯状の火線となって妹紅に肉薄する。

「いきなりかよっ!」

 妹紅は突然放たれた弾幕に、横に回転しながら回避した。しかし継続して連射される弾幕は妹紅を逃さず、追尾するような動きで滑らかに波打ち妹紅の逃げ場を奪う。バックステップ、鼻先を弾体がかすめ火線が遠ざかる、がすぐさま次の波が轟音と共に肉薄してきた。
 妹紅は全力で前に向かって飛び出した。波と波との間、火線の連続しないその一点を狙って体を安全地帯へ押し込むように飛ぶ。背筋に熱量が這うように伝わる。回避。結果として妹紅のドレスに傷ひとつ入っていないのは彼女の身体能力と見切りの良さによるものだろう。
 が、サンジェルマンは嘆息しつつ首を振った。

「妹紅君、前に忠告しただろう、目的に合致した戦闘をしなければならないと。確かに君の回避の上手さは私を認めよう。しかし」指差す。「丸太があの惨状では私はローストされているじゃないか。護衛としては失格だよ」
「うるせぇ! そんな攻撃してくる奴なんてそうそういてたまるか! こっちだって自分が避けるのに精一杯だったんだぞ」

 サンジェルマンの放ったそれは明らかに人知の範疇を超えたそれである。妹紅が相叫んだのも無理はない。しかしサンジェルマンはちっちっ、と指を振ってどんな攻撃も想定置かなくてははな、と挑発するように言った。

「あと、そんな君にもう一つ忠告だ。君は元々人間だった頃の癖が抜け切っていないらしいね。もっと自分の能力の使い方を学んだほうが良い。
 ではもう一回だ。次はどのようにするのか楽しみにするよ」

 再び紅い波が妹紅の方へと迫る。唸りと陽炎を纏って接近する弾幕を前に、妹紅は考える。自分の能力を生かす。護衛を全うする。サンジェルマンの言うことは鼻にかかるが大抵は妥当なことを言っている。ではどうすればよいか。初弾の激突まであと数瞬。
 そして、妹紅は素早く丸太の前に移動するとドレスの袖を大きく捲くった。
 弾ける。
 連続衝突していく弾幕で発生した爆風が収まる頃には、黒焦げの手を抱えて口角を吊り上げる妹紅の姿があった。

「……こういうことか?」
「違う違う!」彼には珍しい強い剣幕で怒ったように言った。「いくら不死といえ私にレディを傷付けさせるとはなんて真似をするのだね君は!」

 怒られた。体まで張ったのにそう言われてすこししょんぼりする妹紅。ケロイド状になって無残な姿になった腕は、猛烈なかゆみと共に再生していた。サンジェルマンはそれを意に介さず続ける。

「君は火を使えるんだろう? わざわざ体で受けずとも火球で相殺すればすむことではないかね。そうやって相手の目をひきつけて、回避するように見せて護衛対象から相手の意識を逸らすのだ。
今まで一人で生活してきた君に、そう言った動きは覚えがないかも知れんが、この際だ。身に付けて帰りたまえ。
 ……腕の修復も終わったようだね。では次だ」

サンジェルマンと妹紅の弾幕の打ち合いは、昼過ぎまで続いた。



 遅めの昼食。サラダにフォークを突き刺してパクついていた妹紅に、サンジェルマンが少し疲れた表情で零すように言った。

「しかし君の学習能力の高さには驚かされるね。全力ではないといえ、あれだけの弾幕をいなせるようになるのにたった半日とは。いやはや、恐れ入る」
「大した事はないさ」サンジェルマンの顔を見ずに、トマトを口に放り込む。「要は格闘術と同じだった。初弾をいなしてどう誘導するか。後は標的が自分でなくて他人だってことに慣れるのに時間がかかっただけさ」

 簡単そうに妹紅は言うが、実際の所そんな単純なものではない。要所の弾体だけ相殺し、残りの弾幕が護衛対象に行かないよう自身の動きでフェイントをかける。よほど戦い、しかも普通の人間相手でなく妖怪相手に戦ってきた妹紅だからこそ出来るテクニックだ。まいったね。サンジェルマンは微笑みながら椅子に深く背を預けた。

「しかも私はてっきりあの火の魔法で相殺してくると思ったが……符、と言ったかな。あれなら爆発する前に消されてしまう。これではそこらの魔術師風情では手が出んな」
「途中から全力で打ち込んできた癖によく言う。結局丸太は炭になってたじゃないか」
「いや、原型を留めていただけ上出来というものだよ。妹紅君自身には結局傷一つ付けられなかったしね。伯爵も形無しだ」
「ドレスは使い物にならなくなったけどな」まだ髪には煤けた匂いが残っている。「……で、実際サロンに行くのはいつぐらいになるんだ。まあまだ私はこれの使い方に慣れてないから若干遅いくらいの方がいいけど」

 ナイフで肉を突き刺す妹紅。横からサンジェルマンの従者が忠告してくるが、無視した。
 その従者は、サロンで妹紅の通訳を務める予定の従者だ。見た目は壮年の老紳士と言ったところであったが、昨日の馬車の御者を務めていた時には明らかに日本語を理解していなかったのに昨日の今日で習得している辺り、見た目どおりの年齢かかなり怪しい。妹紅も今朝その従者から日本語で話しかけられた時には驚いたものだった。
サンジェルマンからは「ほら、日本語を解せるのが私だけというのも不便だろう」と嘯かれたが、恐らく弟子か何かなのだろうな、と妹紅は勝手に解釈していた。
 無作法な妹紅のそれに気を害することなく、サンジェルマンは答える。

「そうだな、後三日後と言ったところだろうか。今晩サロンに出かけても構わないのだが、どうせなら偽者の動きを探りたいとも思うしね。それに、三日後には伯爵級の貴族方が大勢集まるサロンが王宮近くで開かれる。そこになら確実に偽者と鉢合わせできるだろう」
「じゃあそれまでに何とかこれに慣れておかなくちゃな」くるくる、とナイフを回す。「個人的には護衛よりこっちの方がよほど面倒だ。文化の違いって奴は大きいな」

 そう言いながら、再三従者に指摘されつつも楽しげに料理を平らげていく妹紅に、サンジェルマンはどうしても拭いきれない違和感を覚えずにはいられなかった。どうもなぜ彼女がそうまで積極的なのか、理解できなかったからだ。
 完全に一方的な要求であったし、なにより元々勝手に連れて来て勝手に言い始めたことなのだ。確かにこちらには頼れる人間など他にいないだろうが、サンジェルマン自身仕事が終わるまで散々に愚痴でも言われるだろうと予想していた。むしろ寝首をかかれてもおかしくはない、とまで思っていたほどだ。しかし妹紅についていた従者が言うにはそんな気配は微塵もなかったらしい。訳が分からない。
 知識人を自称する人間として、また不死の人間同士として興味は尽きなかったが、サンジェルマンはそれを問うことは止めておいた。折角乗り気になっているのだ。変に腰を折る必要もないし、それにそんなことを尋ねるのも下種の勘繰りというものだろう。多少謎めいていた方が面白かろう、というのが最終的な結論だ。
微笑む。

「では、私はちょっと先に失礼させていただこう」
「他人が食事を続けている間に席を立つのはマナー違反じゃなかったのか?」
「確かにそうなのだが」悪戯めいて言う妹紅に苦笑を返す。「さきほどの模擬戦でかなりのアミュレットを消費したからな。午後に向けて宝石を錬成しなければならないのでね」
「げっ。あれまだやるのかよ」
「まあ丸太に一発も当たらなくなるまでは、やってもらおう。
 ではすまないが先に失礼する。君、妹紅君の食事が済んだら私を呼んでくれたまえ」

 分かりました、と従者が頭を垂れたところでサンジェルマンは席を立って部屋を出た。そこでようやく、ふつふつと笑いがこみ上げてきてサンジェルマンは向こうの部屋に聞こえない程度に哄笑をあげた。

「例え模擬とはいえ全力を全て躱されたのだ。これは久しぶりに本気で戦う準備が必要なようだ」

 くつくつと、まだ笑い声を上げながらサンジェルマンは自分の研究室へ進む足を速めた。不死の魔法使いに比肩するものなどそういない。いや、彼自身の見立てが正しければ既に少なくとも戦闘においては彼女はサンジェルマンをはるかに凌駕している。でなければ反撃なしであそこまで回避などできるはずもない。つまり彼にとって、ここ数百年ぶりに彼の全能力を駆使して戦うべき相手が現れたということだ。魔法使いとして、これほど楽しいことなどあるはずがない。笑みも自然に浮かんでくるというものだ。
 ……精々、挑戦させてもらおうとしようかな。
 彼は彼女が去るまでの間、精一杯全力で彼自身の力を試すことにした。


***


 そして三日後。

「どうしたサンジェルマン。それで終わりか?」

 堂々と腕を組み、仁王立ちする妹紅。その背後にある丸太は、焦げ一つつかず完全に無傷のままである。一方、ぜいぜいと少し辛そうな息を吐いているサンジェルマンはなんとか、と言った様子で言葉を紡いだ。

「アミュレットが尽きた。……見事だ妹紅君。もうこれであの程度の攻撃では丸太には掠りもしないだろうね」
「……達成しておいてなんだが、日に日に弾幕が強力になっていたような気がするのは気のせいか?」
「些細なことだ、気にするな。……テーブルマナーも一応見れるようにはなったようだし、後は今晩の本番で上手く行くかだな」

 それを聞いて、妹紅がはぁーと息を吐いて両膝に腕をついた。

「これでようやく日本に帰れるんだな……良かった……」
「安心するのはせめて仕事が終わってからにしてくれるかね? 間違いないとは思うが、偽者が来ない可能性もあるのだからな」

 そっか、と納得したように頷く妹紅をよそに、サンジェルマン自身は今日のサロンに確実に偽者が現れるであろうことを予見していた。妹紅を連れて来て三日、彼の調べた限り偽者はサンジェルマンが帰郷したことに気がついた様子はなく、その間もかなりのサロンに出入りしていたようだった。ならば、今晩のそれに出てこない理由はない。
 後は妹紅君の役者ぶりに期待するしかないな。そう思いながらサンジェルマンは妹紅に近づくと、首を傾げている彼女の前に一個のペンダントを差し出した。

「これは……」目を見開く。「あの時使ってたペンダントじゃないか。一体何に使うんだ?」
「合図のためだよ。これには私の魔力が大量に込められている。偽者が来たら、それを破壊してくれ。私の魔力が放出されれば、それを合図に私が出て行く」
「なるほどね」笑って、もぎ取るように妹紅はペンダントを受け取った。「じゃあいよいよ本番って訳だ」
「ああ、君の日本への帰還がかかっている。期待しているよ」
「あんたの名誉の回復のための間違いだろ?」

 妹紅は笑って、もう随分と前に思えるいつかのようにそのペンダントをくるくると回した。サンジェルマンは一瞬呆けたような表情になって、すぐに笑い声を上げると妹紅の肩に手を置いた。

「そうだな、その通りだ。私のためにお願いする。宜しく頼む」
「任せとけ」

 パチン、と両手を打ちつけて自信満々の笑みを浮かべる妹紅に、サンジェルマンは同じく笑みを返した。
 丁度時分は夕暮れに入る前。二人は早速サロンに向かうための準備をするために邸宅へと戻っていった。



 夜。王宮の近くのとある大邸宅に、一台の二頭立て馬車が嘶きと共に訪れた。御者は邸宅の前で警備をしているらしい衛兵といくつか言葉を交わすと、丁寧に礼をして馬車の扉を開けた。御者の手に引かれてしずしずと下りてきたのは、ワインレッドのドレスに身を包んだ、蒼白の髪をした一人の少女だった。衛兵から感嘆の声が上がる。
 少女は従者に先導されるようにして、邸宅の中へと入っていった。勿論、その時の衛兵が最敬礼だったのは言うまでもない。

「まずは第一段階達成、ってとこかな」
「問題はここからですよ、妹紅様。下手人が来るまで貴族方に何を言われようとお気になさらないように」
「分かってるよ従者さん。手筈通り、しっかりこなしてみせるさ」
「宜しくお願いします。では、入りますよ」



 サロンでは、既に多くの貴族達が各々席について様々な話を飛び交わせていた。他の貴族の醜聞、王国や平民への不満、互いの自慢話、そして、今晩ここに訪れるらしいと噂のある人間についてだ。
 ある貴族が言う。あの方は本当になんでも詳しいお方だ。彼以上の逸材がこの王国にいるだろうか。
 それに別の貴族が答える。なにを言う。彼は自分は不死の錬金術師などと言って国王を惑わしているのだぞ。今すぐにでもこの国から追放するべきだ。
 いや彼は本物の魔法使いなのだ。いや彼はただの詐欺師さ。口々にそう言う言葉が貴族たちから溢れてくるが、その大半が彼の名誉を貶めるような内容ばかりだった。大言壮語ばかり吐く大嘘つき、と言って誰も憚らない。そのような言葉の中で、ふとサロンで最も上等な席に座ったその邸宅の主である老人が呆れた様な口振りで言った。

「まあまあ、皆様方。色々と噂されるのは良いが、それに惑わされているような気がするのは私だけですかな。噂通りであるなら彼はここに来るのですから、その時彼に直接聞けばよろしかろう」

 重々しい雰囲気を纏った老人の、しかしその優しささえある発言に、貴族たちは一度押し黙り、その通りだなと言ってまた別の話を始めた。
 やれやれ、と小さく呟いたのはその老人である。伯爵である彼は、さきほどのようなことを言いながら実のところ最も彼のそれを疑っている人間だった。王家とも縁のある老人は、そのような怪しげな人間が王国をうろつくのを一番に憂いていた。
もし彼が本当に不死の錬金術師ならば、誰かが言ったように確かに手放すべきでない逸材である。しかしそれが嘘であるなら、速やかに王国から追放すべきであると彼は考えていた。またその手筈も既に整えてあった。同様の憂いを抱いていた重臣の一人がそのように便宜を図ってくれていたのだった。
 ……何はともあれ、今日この場でその真偽が問われるだろう。
 老人がそう思ったとき、重いノックの音がサロンに響き渡った。



 貴族たちの会話が止まり、一斉に視線が扉の方へ集中した。ついに件の人間か来たのか、そんな期待感がサロンの中に満ちるのが誰しもに分かった。
 重い扉が開かれ、まずは従者らしき老紳士が現れて頭を下げる。そののち、扉の向こうから手を引かれるようにして現れたのは、件の男とは全く違う、一人の少女だった。しかし貴族たちの反応は目覚しかった。というのも、その少女がなんとも美しい東洋人だったからだ。
 東洋人か? チャイナ辺りの客人だろうか? 貴族たちの問いに答えるように、少女の横に立った従者が声を上げる。

「お初にお目にかかります、各々方。私はサンジェルマン伯爵の従者でございます。今日は伯爵の到着が遅れるということで、先に伯爵が皆様に紹介したいと申しておりました客人をお連れしました。
 彼女は藤原妹紅、東方の最果てジパングからの客人でございます」

 従者がそういい終わると、妹紅は一歩前に出て、スカートの両端を少し握って静かに頭を下げた。頭を上げると、貴族たちから歓声にも似た様々な声が沸きあがる。ジパングからの客人を連れてくるとはサンジェルマンの人脈はどうなっているのだ。いやそんなことよりも何より東洋人はこちらの人間と違ってまた美しい。一人の貴族が椅子から立ち上がり妹紅に薦めると、妹紅は軽く礼をした後その椅子に静かに座った。ちょうど、先ほどの老人のすぐ側の席である。
 騒ぎにも似た喧騒の中で、老人もまた一人感嘆の息を吐いた。こちらの人間とは違った東洋人らしいアルカイックな笑み、そして上質な絹のように美しい蒼白の髪。何より老人が驚いたのは。
 ……この空気の中で、動揺するどころか笑みさえ浮かべて佇んでいる。
 言葉が解せないのか、何か言い寄ろうとする貴族には全て従者が答えていた。とはいえ、周りに自分の言葉を解さない人間ばかりの状況で、こうも落ち着いていられるだろうか。老人はまず間違いなく彼女はジパングでも高貴な生まれの人間であろうと察した。
 一方、妹紅は言われたとおり微笑みながら周りのざわざわした空気に内心しかめっ面をしていた。

(向こうでも同じような扱いとはいえ……よくそんなに騒げるもんだ。どうせ気持ち悪いとか何とか思われてるんだろうな、ったく……)
(改めて言っておきますが)従者の小声が妹紅の耳に届く。(どう騒がれても決して何もしないように。彼らは騒ぐのが仕事のようなものですから)
(分かってるよ。笑って食べて、偽者が来たら合図。終わりが分かってたら我慢できるさ)
(左様ですか。……付け加えますと、彼らはどうやら貴方が大層美人だと騒いでいるようです。一つ微笑みかけて差し上げると分かると思いますが)

 言われて、妹紅の方に熱烈な視線を送る貴族たちのほうに一つ微笑みを送ってみた。歓声。なんだかなぁ、と思いつつ妹紅は口を噤む。
 一時の騒ぎが収まりを見せ始めたところで、サロンの扉が開き台車と共にメイドと軽食らしき食事が運び込まれてきた。貴族達が口々に話しながら適当に食事を取る一方で、妹紅はあくまで作法に則った食事の仕方に終始する。その丁寧な作法を見て、また貴族からは感嘆の声が聞こえた。
 もう一度、妹紅から人知れず溜息が漏れたのは言うまでもない。



 しかし、時間が経つにつれて次第に空気が変質し始める。いつまで経ってもサンジェルマン、その偽者が現れないのである。初めは珍しい客人に明るくなっていたサロンの中の空気だが、すこしづつ焦れるような空気が現れ始めた。
こういう声も飛び交う。客人だけ先に送り込んで自分が来ないとは何事だ。まさかサンジェルマンはスパイに彼女を送り込んできたのではあるまいな。
 また、焦れているのは妹紅もまた一緒だった。周りは自分の理解できない言葉を話す人間ばかり。しかも状況が状況だけに散々に注目を受ける。一刻も早く脱したいそんな空気の中で平静を装うのは、想像以上の苦痛だった。早く来い、早く来い、と念じつつ、手の中に例のペンダントを握りこむ。客人らしい振る舞いをし続けるのもいい加減限界だった。
 と、隣にいて黙ったままであった老人が妹紅に突然話しかけた。

「君、一つ聞きたいのだが、サンジェルマンは本当にここに現れるのかね?」

 従者が翻訳して妹紅に伝え、妹紅は自信を込めた声に聞こえるよう気をつけながら、薄い微笑みを浮かべこう答えた。

「来るにきまってる。でないと私がここにいる意味がないだろうが。いいから黙って待ってろじいさん」

 従者が苦笑しつつ丁寧な内容に翻訳して伝えると、老人は満足したように椅子の背に体を沈めた。少し気が楽になった妹紅が、しかし遅いなとそう思った瞬間だった。
 ノックもなしにバン! と大きな物音を立てて、サンジェルマンがサロンの中に入ってきたのは。

「やあやあ遅れてすまないね皆さん! ちょっとエジプトの文献を紐解いていたらこんな時間でね! お待たせしてしまったかな」

 ついにサンジェルマンが現れた。サロンの中の空気は無言のまま沸騰した。
ただ一人サンジェルマンその人自身がまるで独り言のように貴族の各々方に向けて話している以外、誰一人として口を開かない。押し黙ってしまった貴族たちにべたべたと触れながら、サンジェルマンは意気揚々と喋り続ける。その周りを省みない態度に、貴族たちの中からは明らかに侮蔑の視線が彼に向かって飛び始めていた。
 その中で、妹紅だけが冷静に判断をしようとしていた。確かに見かけはもう全く偽者か否か判断できない。喋り口調も大仰な態度も、サンジェルマンらしいといえばそうらしく見える。後は、妹紅を見てどういう反応をするかだ。妹紅に視線で合図でも送れば本人、一瞬でもうろたえれば偽者だ。

(気付け! 私に早く気付け! お前の正体を見せろ!)

 と、サンジェルマンが一通り貴族方に話しかけた後、ふと気がついたかのように妹紅に視線を向けた。
 口を開く。

「……んん、これはまた今日は珍しい客人が来ているようだね! 君は東洋人かな? 美しい顔立ちをしている。是非私の妻の一人になってほしいくらいだ」
「あ、あの伯爵……?」おずおず、と言った風な様子で一人の貴族が呟いた。「彼女は伯爵が招いた客人だと聞いていたのですが、違うのですか……?」
「え……?」

 訝しげな目でこちらを見るサンジェルマンを見て、妹紅は何を言っているのか分からないながらも察した。

(妹紅様!)
(ああ! こいつは間違いなく偽者だ!)

 手中のペンダントが強く握りこまれた手で弾けた。
からからとペンダントが転がる音は、偽のサンジェルマンの上げる誤魔化しの声で遮られ誰にも聞こえなかった。大仰な手振りでまるで今思い出したかのように彼は言う。

「そういえばそうだった! いやぁ世界の方々から様々な客人を招いているものだからすっかり忘れてしまっていたよ! すまないね君。お待たせした」

 そう言って偽のサンジェルマンが妹紅の肩に手を置こうとしたのを、妹紅は鋭い視線と共に素早く弾いた。パン、と乾いた音がサロンの中に響く。
 突然の出来事に、偽のサンジェルマン含め誰も何も言えない。ただ妹紅だけが凛とした視線で睨みつけると立ち上がり、従者と共に扉のほうへ歩いていくと、こう言い放った。従者も合わせるように翻訳する。

「そいつはサンジェルマンの振りをして彼を貶めようとしている偽者だ! なぜなら……」

 その瞬間、偽サンジェルマンが開けっ放しだった扉から一人の男が現れた。

「こっちの男こそがサンジェルマン本人だからだっ!」
「やぁやぁ、お騒がせしてすまないね、皆々様。今日は私の振りをして狼藉を働く愚か者を捕らえるために一芝居打たせて貰った。気を悪くされるのなら」指差す、驚愕の表情のもう一人のサンジェルマンを。「下手な芝居を演じた彼に言ってくれたまえ!」

 どよめき。貴族たちはにらみ合う二人のサンジェルマンを見つつ、ただ動揺して口々に疑問を呈するばかりだ。老人は、突然の展開に驚きつつも何が起こっているのか理解しようと静観しているように見える。妹紅はそれらの風景を見てふんと鼻で笑いながら、偽サンジェルマンの方を睨んだ。何はどうあれ、相当慌てふためいているだろうと踏んだ妹紅であったが、実際には違った。
 妹紅が睨んでいるその先には、落ち着き払って笑っている偽サンジェルマンの姿があった。何がおかしい。いぶかしんでいると先に偽サンジェルマンの方から口を開いた。

「おやおや、あまりの私の人気から偽者が現れたようだね。わざわざ見知らぬ東洋人まで連れて来て猿真似をするとは滑稽な。……伯爵、彼らをサロンから追い出してもらえませんかね。ああいう輩がいると私の名誉に関わる」
「そう言いたいのはこちらの方だな」次に口を開いたのは本物のサンジェルマンだ。「ここ数ヶ月私は東洋を旅するためにパリを空けていたのだよ。人の留守をいいことに猿芝居で私の名誉を貶めようとするのは、いささか虫が良すぎたな」
「黙れ偽者風情が! 各々方も君の下手な演技には辟易している。早く帰りたまえ!」
「そうかな、私にはどちらが本物か分かったいらっしゃるように見えるが? 逃げ出すなら今のうちだよ、君」
「どちらとも黙りたまえ!」

 二人の罵りあいを止める一声。全員の視線が声の主のほうへと向かう。そこには椅子から立ち上がり二人のサンジェルマン両者を睨む老人の姿があった。老人はメイドに衛兵を呼ぶように言うと、二人のサンジェルマンに対してこう言い放った。

「どちらが本物か、など私は興味ない。ただ私はサンジェルマンその人自身が本当に不死の錬金術師、稀なる才能であるかどうか激しく疑いを感じている。今の件でその疑念は更に深まった!」

 メイドに呼ばれ、武装した衛兵達が扉の前に整列した。貴族たちが叫び、次々に席を立っては衛兵たちからなるべく距離を取ろうと遠巻きに見守るような状態になる。敬礼する衛兵たちに首肯を返すと、老人は一息つき、二人のサンジェルマンに告げた。

「不死の人間などそうはいない。それを証明できれば自ずとその才能が稀有であることの証明となるだろう。二人が自分を不死の人間だと主張するのなら、そこでその証明をするといい」

 言って、二人のサンジェルマンが挟むテーブルの上に懐からナイフを投げつけた。テーブルの上に丁度直立するよう突き立ったナイフは、宝石や金銀で意匠があしらわれた豪華なものだ。これは私の私物だ、仕掛けはない、と老人は続ける。

「それで証を立ててみろ。偽者探しがしたいのならそれでも構わん。ただどちらにせよ、ナイフ傷も治らぬというようならそこの衛兵たちにすぐさま取り押さえてもらう。いかがかな?」
「伯爵のご配慮、感謝いたします」先にそう口火を切ったのは妹紅のいる側、つまり本物のサンジェルマンだ。「では私から証を立てさせてもらおう。構わないかな、偽者君」
「好きにしたまえ」

 ん? と妹紅は疑問を感じた。
話の流れこそサンジェルマンの最初引いていた通りの展開になっている。その点については不安はない。偽者にサンジェルマン同様の証明が出来るとも思えない。しかし。
 テーブルに突き立ったナイフを引き抜くサンジェルマンの向こうで、偽者は全く動じないばかりか笑みさえ浮かべてそれを見ている。これは一体どういうことなのか。サンジェルマン本人も不死ではないとたかを括っているのか、それとも何か秘策でもあるのか。
 疑いの念は晴れないものの、だからと言って今の状況で妹紅が出来る役割など既にない。あとはサンジェルマンの動向に任せるのみだ。サンジェルマンは妹紅の懸念をよそに、大仰な素振りでナイフを構え、皆に見えるよう両手を高く掲げた。

「では不死の証として、とくとご覧あれ」

 掲げた左手を、右手に握ったナイフで突き刺した。ぎゃっ、という痛ましげな叫び声が貴族からも、衛兵からもあがる。老人はただ黙して眺めるのみだ。妹紅はちょっとやりすぎじゃないか、と滴る血液を見ながら思うが、何も言わない。サンジェルマンは突き刺した血まみれのナイフを引き抜き再びテーブルに突き立てると、ハンカチを取り出して血を拭った。
 おお、と歓声が上がる。ハンカチで拭った後の手には、傷一つ残されていなかったからだ。サンジェルマンなら当然だ、と思う妹紅と従者は何も言わないままただそれを眺める。
サンジェルマンは血まみれになり使い物にならなくなったハンカチを大げさな素振りで投げ捨てながら、せせら笑う様に偽者に言った。

「さて、これで私の不死の証明は終わったと思うのだが、君はまだ演技を続けるかね? 痛い目に会いたくなければ今の内に早く正体を明かした方が懸命だと思うが?」

 しかしそのサンジェルマンの啖呵を受けても、偽者は余裕があるばかりかむしろ嘲笑するように笑いながら言った。

「いやぁさすが偽者。見事な手品だがそれで不死と証明するというには少しばかり足りんな。私ならこうしよう。多少血なまぐさいが皆様よくご覧あれ」

 ナイフを取る。すると彼はサンジェルマンがナイフを掲げ持ったのと反対にテーブルの上で握りこんだ。そして自分の左手をテーブルの上にさらけ出すと、親指の付け根にナイフを当てた。
 押し込む。ぶちぶちという繊維の切れる音に続いて血がテーブルの上を満たし、滴り落ち始める。彼はそこから更に力を込め、ごりっという身の毛がよだつ様な音と共に親指を切り落とした。先ほどの倍以上の悲鳴が各所から上がる。静観していた老人までもが脂汗を浮かべ息を飲んだ。
 本物のサンジェルマンが偽者のそんな不遜な態度に初めて疑念を抱いた時、偽者はハンカチを取り出して親指と手とを覆い隠した。そして血を拭いハンカチを投げ捨てる。
 そこには、確かに親指が無事で見事に五指とも動く手が存在した。

「馬鹿な! ありえん、ありえんぞそんなこと! 貴様どんな魔術を使った!」
「いや何、不死の魔術を使ったまでのことだよ。何を慌てているのだね」そしてちらりと、目を白黒させている伯爵の方を見た。「これで私が本物のサンジェルマンとご納得いただけたと思うのですが、どうですか伯爵」
「う……ぬ。両名とも確かに不死の証明がなされたと私は認めよう。しかし本物のサンジェルマンは一人のはず……」理解不能な状況ながらも、老人は平静を何とか保ちつつ言った。「なれば、ここは双方を捕らえ、尋問した上で結論を出す他あるまい……衛兵!」
「お待ちください伯爵!」声を荒げたのは本物のサンジェルマンの方だ。「彼の体を調べてください! 必ず何か仕込みを使っているはずです!」
「どうして慌てているのかな、サンジェルマン伯爵?」あえてそう言ったのは偽者。「何か尋問されれば不都合でもあるのかね」
「そんなことあるわけがなかろう!」
「ではお互い潔癖の証明として大人しく尋問を受けるべきだとは思わんか? 君にどうしてもそうしたくない理由があるのならまた話は別だが」

 ここまで来て、ようやくサンジェルマンと妹紅は相手が何を狙っているかに気がついた。
 偽のサンジェルマンが仕込みを使っているのは明らかだから、尋問され体を検められれば確実にばれる。しかしそもそもサンジェルマンにとっては、そのような尋問を受けること自体醜聞である。それに例え潔白であるとして放免されたとしても、不死の証明を他の人間もなせるとすればサンジェルマン自体の信用はがた落ちだろう。どちらにせよサンジェルマンは王国とのつながりを失うことになる。
 用意周到な偽者の不敵な笑みに、サンジェルマンは歯噛みした。
 妹紅も、ただ黙ってみているわけにはいかない。サンジェルマンがどこかに連れて行かれてしまえば、自分だって日本に帰る手段を失ってしまうのだ。
 しかしサンジェルマンの連れだと分かっている以上、自分の発言も信頼されはしないだろう。どこか、相手の発言でつける隙はないのか。思い返しながら妹紅は必死になって考える。思考して、思考して、サンジェルマンが憲兵に肩を掴まれた瞬間にようやく、

(……あ)

 光明が見えた。

(上手く行くかは分からない。分からないが、これで試してみる以外に方法はない!)

 サンジェルマンを取り押さえようとする憲兵たちに、妹紅は叫んだ。

「待て!」

 言語は分からないながらも言葉の意図はつかめたのだろう。憲兵たちの動きが一瞬止まる。妹紅が声を荒げたことに疑念を呈する二人のサンジェルマンの視線をよそに、その間に従者に自分の発言を翻訳するよう命令した。

「偽サンジェルマン! お前、私のことは知らないと言ったな!」
「ああ言ったとも。だが、それがなんだというのだね? 君はそこの偽者の手下だと言うことは既に皆様ご承知だ。君がなにを言おうとそれで潔白の証明になるとは思わんが?」
「確かに知らないと言ったな?」偽者の言葉に取り合わず、ただ妹紅はにやりと笑った。「おいサンジェルマン、お前は私のことを知っているな!」
「あ、ああ。君はジパングから連れてきた藤原妹紅君だ。確かに私が連れてきた」

 サンジェルマンのその発言を聞いて、偽者は哄笑を上げた。そして吐き捨てるように言う。

「まさか、君を連れていることで潔白の証明とでも言うのかね? 東洋人などどこにでもいる。そもそも君がジパングの人間かどうかすら怪しいのに、なんの証拠になるんだ、馬鹿らしい」
「それは私が“ただの東洋人”だったらの話だろう? 私がサンジェルマン本人でなければ連れてこられない理由が、ここにある! 伯爵!」
「な、なんだね……?」
「憲兵を一人お貸し願いたい」指を指されたサンジェルマンを押さえている憲兵は目を白黒させる。「それでこの、今取り押さえられている人物こそが、本物のサンジェルマン伯爵その人であると証明して見せます!」

 伯爵は一瞬思慮した後、顔を引き締めて答えた。

「いいだろう。何をするのか知らんが……君、彼女の言う通りに従いなさい」

 槍を握った憲兵が、妹紅の前に緊張した面持ちで立つ。そこで妹紅は今まで厳しかった表情をふっと和らげると、優しげな口調でこう呟いた。全てを受け入れるように、両手を開いて。

「私を刺せ」
「は? 今なんと……」
「私をその槍で刺せと言ったんだ。何処でもいいから早く刺せ」
「いやしかし……」

伯爵の顔を見る憲兵。しかし妹紅は激昂したように大声で叫んだ。

「刺せ!」
「……ああもう、畜生! 神よお許しを!」

 叫んで、憲兵は無防備な妹紅の腹を思い切り突き刺した。鋭い切っ先は妹紅の柔らかい服、皮膚、そしてはらわたを貫いて完全に貫通した。がくり、と自分腹を貫く槍にもたれかかるようにして倒れる。憲兵はわけも分からないままに、その槍を引き抜いた。ぞるぞると内臓がひっかかる嫌な感触と共に、血塗れの槍を投げ捨てる。背後からは、あまりの血臭に耐え切れなくなって窓から嘔吐する貴族もいた。その場にいた全ての人間が凍りつく。サンジェルマンその人と痙攣する妹紅を除いて。
 床に血を垂れ流して倒れ付した妹紅に、偽サンジェルマンは惨状に顔を引きつらせながらも強い口調で言葉を紡いだ。

「……ま、全く東洋の人間は何がしたいのか分からんな! 伯爵、早くその死体を片付けて私たちを尋問にかけてください! それでどちらが本物かはっきりするでしょう」
「あ、ああ……」
「待ちたまえ」

 弱弱しい伯爵の声に重ねて強い口調で静止の声をかけたのは他でもない、サンジェルマンだ。サンジェルマンは床に横たわる妹紅を一瞥すると、微動だにできない周りの人間たちに高らかに言う。

「そういえば、彼女のことについて説明するのを忘れておりましたね」
「今更死人の説明をしてどうなると……」
「黙れ!」

 偽者の発言を遮ってサンジェルマンは叫ぶ。気を取り直して、とでも言うように一つ咳払いをすると、さきほどまで狼狽していたのが嘘の様に、朗々とした声で続けた。

「彼女は東方の更に端、ジパングから私が連れてきましたある特別な人間。
そう、東方の賢者の石たる蓬莱の薬なるものを用いて私と同じ者になった」

瞬間、妹紅が飛び上がるようにして立ち上がった。

「不死の少女です」

 ガタン、と激しい物音を立てたのは、立ち上がった妹紅を見て思わず足を滑らせた偽サンジェルマンだった。妹紅はいてて……と呟きながら、皆が驚愕の視線で注目する中さっきまで食事が広がっていたテーブルからナプキンを取ると腹の血を全て拭った。
 当然そこにはもはや傷一つない、綺麗な肌があるだけだ。
 妹紅はさきほど自分を突き刺した、完全に混乱している憲兵にいい突きだったと一言言って、呆然とする伯爵に言った。

「ただの東洋人なら誰にでも集められるだろうが、不死の人間を連れてこれるのは他でもない、同じく不死の人間であるサンジェルマンただ一人」そして向き直り、偽サンジェルマンに言う。「まさか、偽者が偶然連れてきた女が不死だっただけだ、なんて見苦しい強がりを言ったりはしないよな?」
「馬鹿な……ありえん、腹を貫かれても生きていられるはずが……」
「それが不死というものだ」サンジェルマンが言う。「それとも私たちも同じく腹を貫かれてみるかね? 私は一向に構わんが?」
「……化け物がっ!」

 飛び跳ねた偽サンジェルマンはテーブルの上のナイフを掴むと、全力でサンジェルマンへ切掛ろうとした。が、しかし素早く回り込んだ妹紅がその偽者の背中を蹴り飛ばし地面を舐めさせる。足で偽者を踏みつけつつ、妹紅が不敵に笑う。

「護衛の練習は、どうやら必要なかったみたいだな」

 妹紅の笑みに首肯を返し、足の下でいまだあがこうとする偽者を見て嘆息したサンジェルマンは、深々と頭を伯爵に下げた。

「このような騒ぎを起こしてしまい、申し訳なく思っております。まさかこれほどの騒ぎになるとは思わなかったもので……伯爵には、大変なご迷惑をおかけしました」
「……いや、別に構わん」自失していた伯爵は我を取り戻すと、重々とした声でそう答えた。「最初に疑って試したのは私のほうだ。責任は私にある。君は謝らんでいい」
「寛大な判断を頂き、大変ありがたいです」
「しかしあの彼女といい」ちらり、と妹紅の方を見る。「君の才能、人脈が稀有であることは確かなようだ。……今日は流石に無理だが、これから私の開くサロンには、ぜひとも顔を見せてくれたまえ」
「ありがたくそのお言葉頂戴いたします」

 そうしてサンジェルマンが頭を上げると、伯爵は短く憲兵、とだけいい、妹紅の足元で暴れる偽サンジェルマンを連れて行かせた。そして、ただ呆然と変化していく状況を見ていくだけだった貴族たちに声をかけた。

「皆さん、今日は騒ぎも会ったことですしこれでお開きとしましょう。私の邸宅で起きたこの事件ついては、サンジェルマン伯爵の名誉のためにも、ぜひともご内密をお願いしたい。
 ……加えて言えば、これから先私の開くサロンに彼は来てくれるとのことです。是非今度は、彼の話に耳を傾けましょう」

 伯爵の言葉でようやく自分を取り戻し始めた貴族たちは、口々に色々言いながらもようやく息をついた。居残っていた憲兵たちも、次々と引き上げていく。ただ周りで固まっていたメイドたちは、血やらなにやらでぐちゃぐちゃになった部屋を素早い動きで片付け始めた。
ざわつきながら次第に去っていく貴族たちのなかで、妹紅とサンジェルマンは一瞬目と目を見合わせ、二人ともようやく仕事が終わったことを噛み締めるように、歯を見せて笑った。


***


 それから数日後。
 妹紅とサンジェルマンはほんの数日前に対峙した妹紅の家の前にいた。サンジェルマンはいつもの華美な服装、妹紅は久しぶりの和服である。
 二人並んで山野から見下ろせる町並みを眺めていたが、やがて妹紅が口を開いた。

「結局、あいつが指を切っても大丈夫だった仕掛けはなんだったんだ?」
「種が割れれば大した事はなかった」サンジェルマンはあの時狼狽していたのを恥じ入るように言う。「彼はゴウという名の道化師でね。人体切断のショーに使う仮の腕を先に腕に仕込んでいたのさ。そして皆の目の前でそれを切り、ハンカチで覆い隠したら自分の腕を伸ばしてハンカチと共に偽の手を仕舞う。彼にすればいつものショーと同じだったというわけだ。
 まああれだけの人前で堂々とそれをやってのけたのは、中々の胆力だとは思うがね」

 お前も焦ってたしなと妹紅が悪戯気に言うと、面目ない、と笑いながら軽く頭を下げた。そんなサンジェルマンの殊勝な態度を見て、妹紅は腹を抱えて笑う。
そんな妹紅の仕草を見てなんともいえない表情をしていたサンジェルマンは、ふと真剣な顔に戻って切り出した。

「本当に、私と一緒には来られないのかね」
「まあ色々あった楽しかったけどな」妹紅は遠くを見たまま言う。「やっぱり一人の方が今は気楽だ。お前についていくのは止めとくよ」

 それに、お前はいつでもこっちに来れるわけだしな、と笑った。サンジェルマンは苦笑しつつ、一個のボストンバッグを妹紅の方に放り投げた。首を傾げながら受け取る。餞別だ、と彼は妹紅と目を合わさず言った。

「中には服やら宝石やらが入っている。身に付けるなり売るなり好きにするといい。かなりの額にはなるはずだ」

 別に私はこんなのがほしかったわけじゃないけどな。そう言いながら妹紅は足元にボストンバッグを置いた。なんだかんだ言いながら受け取るではないか、とサンジェルマンが笑って言うと、そりゃもらえるものはもらうさ、と笑って返した。
 ひとしきり笑い合うと、妹紅が言った。

「さて、後はもう一つの約束を果たすだけだな」
「ん? なんのことだね?」

 何のことか分からない、と言った表情をしたサンジェルマンに、しかし妹紅は、先ほどまでとは違う攻撃的な笑みで返答する。思わず、サンジェルマンの肌が粟立った。意図を察してサンジェルマンがすっと妹紅と距離を取るのを見て歯を見せて笑いつつ、妹紅は続ける。

「あんたに勝てば日本に帰ってもいいって約束。まだあんたには勝ってはいないからな」
「仕事も果たしたし、あの弾幕を避けきられた時点で勝負はついていると思うがね」
「そうじゃないだろ?」

 飄々としたサンジェルマンの物言い。しかし、妹紅はニヤリと笑った。足元を見る。距離を取った彼のその足元は、既に身構えるように一歩足を踏み出している。
 彼の身に付けた宝石が、ぼんやりと輝き始めているのを妹紅は確かに見た。

「そういうこと関係なく、もう一辺戦ってみたいっていうのは」構え。「あんたも同じだろうってな!」
「……やはり、君はぜひとも連れて行きたいものだな。予定は変更だ。フランスに戻るぞ妹紅君!」
「勝ってから言いな!」

 二人とも笑いながら、片方は全身の宝石を一気呵成に鳴動させ紅く、もう一方は炎を噴き上げ激情そのままに赤く、互いの体を染めた。周囲を満たす戦闘の空気と朱の脈動を切り裂くように、同時に踏み出す。
 全身全霊で衝突した朱の奔流は、高く空に激しい音を響かせた。


***


「やたらとすがすがしい顔でお帰りになられたと思ったら、そういうことでしたか」
「ああ、手も足も出んとはあのことだな」
「伯爵も適わないとは、妹紅様も流石ですね。……ところで疑問なのですが、結局彼の不死の仕組みはどういうものだったのですか?」
「あれかね? なんのことはない。テーブルの上についていた手は初めから偽物で、それを切り落として見せただけさ。手品の古典的なものに引っかかってしまったのは自分としても見苦しかったな」
「左様ですか。それを聞いてスッキリしました。
 あと今更ですが妹紅様がずっとお気にされていたことが一つ。」
「なんだね」
「初めてであったとき何故いきなり名前を知っていたのか、聞きたかったそうなのですが」
「ああ、あれか。どうせなら直接尋ねればよかろうに。……まあ、彼女も純粋すぎるということだなぁ、あれは」
「……? どういうことです?」
「別に何かしでかしたわけでもない、ただの不死の人間の怪しげな噂がわたしの言ったように広まることはない、ということだ。直接、誰かから聞いたのでもなければな」
はじめまして、みつきと申します。ここまで読んでくださってありがとうございます。
3万字超の長い作品となってしまいましたが、最後まで楽しんでいただけていましたら幸いです。


妹紅のスペルカードで良く疑問が呈される、貴人「サンジェルマンの忠告」。もしサンジェルマンと妹紅が実際にあってスペルカードを思いついたとするなら、という想像で書いてみました。
途中妹紅に着せられた服など多少時代に合わないものが現れたと思いますが、その辺りはサンジェルマンの先見の妙、ということで。きっとあのサスペンダーも最後のボストンバッグの中に紛れ込んでいたのを使っている、などと妄想すると、面白いかなと思います。



それでは、ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。
みつき
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コメント



0.1960簡易評価
22.100名前が無い程度の能力削除
この発想はありませんでした。
サンジェルマンの紳士っぷりと妹紅の可愛らしさで
終始面白おかしく読ませていただきました
24.100名前が無い程度の能力削除
最後の名前を知っていた理由は輝夜にあったということなのだろうか?
28.100マンキョウ削除
ブラボー! おもしろい!
賢者の石とはまた面白い事を。成程と声を上げてしまいました。妹紅の社交界ってのもまたいいですね。
次を楽しみにしてます!
33.100名前が無い程度の能力削除
ドレスアップして、微笑むもこたんとな!
肝の据わりかたが尋常じゃない
そこが妹紅らしくて、とても良かったです
34.100名前が無い程度の能力削除
法螺吹きの山師と有名なサンジェルマンをここまで格好良く魅せるとは……脱帽です。いや、本当に面白かった!
偽物が指を落とすシーンでサンジェルマン本人がかなり焦っていましたが、彼が妹紅のように腹を切らなかったのは、きっと痛いのが嫌な所為なんだろうなーと思いました。
微妙な小物っぷりが良かったです。
作者様には惜しみない拍手を送りたい気持ちだ。
36.100図書屋he-suke削除
コレはいい構成
こういった幻想郷に囚われない東方小説はもっとあっていいと思いますね
37.100名前が無い程度の能力削除
面白い作品でした。時代も舞台も違うけれど、ちゃんと妹紅してましたね。
39.100ずわいがに削除
ウギグ、この作品は俺には少々難し過ぎたようです、頭がプスプスする……
知識の無さから、まずは「サンジェルマン伯爵」をググる作業から入らなければなりませんでしたが、いやなかなかに魅力的な人物でしたね。
こういう発想は全くありませんでした。これだから創想話は止められませんねぇ。
47.100名前が無い程度の能力削除
妹紅は和装も洋装も似合うからなぁ・・・あと、彼女の持ち味の気の強さが語られていてよかった
50.100名前が無い程度の能力削除
輝針城3面は竹林が舞台なのだから、出来れば妹紅や慧音、輝夜たちもどこかで絡んで欲しいものです

しかし面白かった