「居酒屋に行きましょうよ」
本日のサークル活動も、彼女のそんな一言から始まった。
彼女――宇佐見蓮子は、突拍子のないことを目を輝かせながら言う。
いつものことだった。
「イザカヤって……バーのことでしょ? そんなのいつも行ってるじゃない」
一応の抵抗はしてみせる。夜は余り出歩きたくない。夜は境界が緩みやすいのだ。人間の領域が侵されるっていうのかな? 何か不気味なのよ。
まあ、蓮子がこうしようと言ったら、それは確定事項で、私がどんな意見を出してもそれが覆ることなんてないのだけど……。
「そんな小洒落たもんじゃないわよ。もっと狭くて汚いところよ」
「何が悲しくて、わざわざ狭くて汚いところに行かなくちゃいけないのよ」
「私の、ちょっとした知り合いが経営しているのよ」
「蓮子の『一度会ったら友達で』理論からすると、知らない人でも知り合いになりそうね」
蓮子は明るい。それも底抜けに。彼女は誰とでも話すし、打ち解ける。
それはいいことなのかもしれないが、今回の場合は勝手が違う。見知らぬ人間が経営している、狭くて汚いイザカヤとやらに行くのは、さすがに抵抗があるのだ。
そんな、私の渋ったような表情に気付いたのか、蓮子は私を安心させるように言った。
「大丈夫大丈夫。全然怪しいとこじゃないよ」
率先して霊能者サークルを引っ張っていく人間の『怪しくない』ほど怪しいものはない。
「安くしてくれるって言ってるし、行ってみましょうよ。まっと驚くような料理が出てくるかもよ?」
「それを言うなら、あっと驚くような。というか、蓮子の中では、もう行くことは確定してるんでしょ?」
「わかってるじゃない。さすがメリー」
「嫌でもね」
だっていつものことだもの。
その言葉は、いつものようにスルーされた。
大学が終わると、私と蓮子は後ほど駅で待ち合わせる約束をし、各々の帰路に就いた。
そのイザカヤの経営者は、昼はまともな仕事をしているらしく、本業が終わるまで店は開けられないらしい。店が開くまで待つ必要があったのだ。
「遅い……」
先に駅に着いた私は、もはや恒例となっているセリフを口にした。
蓮子の遅刻癖は今に始まったことではない。今に始まったことではないのだが、慣れるということもない。やはり待つのは退屈なのだ。
駅から出てくる仕事帰りのおじさん達の波を眺めるのも、もう何度目になるんだろう。
生気を失くしたような顔をした、まるで亡霊の集団の中から、無駄に目を輝かせた蓮子が、無駄に元気に駅から走り出てきた。
「ごめん! 遅くなった!」
「十二分三四秒の遅刻」
「ごめんって。去年の日捲りカレンダーを捲ってたら時間がかかっちゃって」
「……それ、やる意味あるの?」
「やらなきゃ気持ち悪いじゃない」
「なら去年の内にやっておきなさいよ」
「何、今日の酒の肴はタイムスリップ理論? いいわよ。クリストファー・ロイドもびっくりの超理論で時空間旅行の計画でも立てましょう」
わけがわからないわ。私はそれを無視して、話を切り出した。
「で、その店はどこにあるの?」
「結構近いよ? やっぱり本業があるからさ、駅の近くにしたみたい」
「何やら執念を感じるわ」
駅の裏手に回り、市街から遠ざかる。
しかし、行動派の蓮子が言う『結構近い』は当てにならず、歩けど歩けど店は見えてこない。いい加減疲れてきた。
「ちょっと蓮子、どれだけ歩かせるのよ」
「んー、もうちょっと」
「全然近くないじゃない」
「月までの距離に比べたら、なんてことないわ」
「比較対象がおかしいでしょ……」
せめて地球の中で、ものを言ってほしい。
「あ、ほら、あれよ」
しばらく歩いた末、蓮子が前方を指す。
疲れて俯きがちだった顔を上げて、蓮子の指す方を見る。視界に入ってきたのは寂れたテナントの一室だった。少し入りづらい。
いや、それよりも気になるのは――
「さ、入るよ」
蓮子は、そんなこと微塵も感じていないようで、軽快に店内へ入ろうとする。
「ちょ、ちょっと待って、蓮子」
思わず蓮子を引き止めた。
「ん? どうしたの? メリー」
「あ……なんでもない」
蓮子は「おかしなメリー」と言いながら店内へ滑り込んでいった。
危なかった。また突発的にサークル活動が始まるとこだった。そうなったら、面倒になること請け合いだ。
蓮子に続いて店の中へ入る。
そこで私は、思いがけない光景を目にした。
特徴的な帽子、柔和な表情、そして四角い眼鏡――
「太田先生!?」
「あ、どうも。太田です」
「先生、こんばんはー」
そう、カウンターの奥にいるのは、私達の大学の教師をしている太田先生だった。太田先生は民俗学が専門で、私達も先生の授業を履修している。
お酒好きという噂は聞いていたけど、まさか自分で経営するほどとはね。
そういえば蓮子と先生が、なにやら授業の後、話をしているのを見たことがあるけど、このことだったのね。てっきり質問か何かしてるのだと思ってたけど、考えてみれば蓮子が真面目に質問してるはずがなかったわね。
「あ、こ、こんばんは。太田先生。びっくりしちゃって」
先生に軽く挨拶をする。先生と大学以外で会うのって、なんだか不思議な感じがするわ。
「学生が二人で居酒屋に来るって、どうなんですかね」
「教師が居酒屋経営ってどうなんですかね」
「いいんですよ。好きなんだから」
「こっちもそうですよ。好きだから来たんです。私、こういうレトロな感じの雰囲気が大好きなんですよ」
「蓮子、さっき狭くて汚いって言ってなかった?」
「それ今言う?」
恨みがましい視線を投げつけてくる蓮子を無視して、周りを見渡す。
四人掛けの赤いテーブルとビニールの丸椅子のセットが二つ。それに木製のカウンターに五席分。
確かに、狭くて汚い。テーブルなんか、碌に拭かれていないのだろう、油でテカテカ光っている。
それに、何か……この場所は――
「先生、ここ儲かってるんですか?」
蓮子が不躾な質問をする。少しは弁えなさいよ。それに、質問という形式を取っている割には、答えを確信しているような響きを含んでいて、大変失礼に聞こえる。
「伊達や酔狂でやっているだけですから、儲けなんかは余り気にしてませんねえ」
(蓮子、先生ってちょっと変よね)
(いい人だよ? 変だけど)
二分の二。変な人は確定されたわ。先生ごめんなさい。
「まあ、とにかく何か頼もうよ。私、お腹空いちゃった」
「それもそうね。先生、ここは何がお勧めなんですか?」
カウンター席に腰を下ろし、訊ねる。
普段、店員にお勧めを聞いたりなんかしない私だけど、見知っている人間だということもあって気軽に聞くことができた。
「全部お勧めです。うちで使ってる食材は全部天然ものですから」
「嘘!?」
蓮子が驚愕の声を上げる。無理もない、私だって声も出ないくらい驚いた。
人類が天然の植物や動物を食さなくなって随分経つ。今では、本来の十分の一の時間で植物を栽培できる強制促栽や、培養生産が人類に於ける食の主流となっている。
我々は、倫理観と引き換えに永劫の食生活を約束された。
「ててて天然の食材使ってる店で飲み食いできるほど、お金持ってませんよ!」
とはいえ、天然の食物がまるでなくなったかといえば、そうではなく、一部のセレブや著名人だけが食べることを許される嗜好品として高値で取引されている。一食分で私たちの何か月分のお小遣いが吹っ飛ぶくらいの値段で。
「いやまあ、お金はいいですよ。せっかく教え子が来てくれたのだからご馳走します」
「本当ですか!? やったー!」
蓮子は一も二もなく、その言葉に歓喜したが、私は手放しに喜ぶことはできなかった。
「でも、それじゃ先生が大赤字になってしまうんじゃないですか?」
「まあ、伊達や酔狂ですし。大丈夫ですよ」
とは言うが、とてもじゃないけど、はいそうですか、とは言えない。私は変人だから、あなたに金塊を上げます、と言われたようなものだ。怖すぎる。
そんな私の不安顔に気付いたのか、先生は安心させるように言ってきた。
「実は、食材の仕入れにお金はかかってないんですよ。私にはちょっとした裏ルートがありましてね。――と言っても非合法なものではないので、安心していいですよ。警察なんて来ません」
蓮子が、いいじゃんいいじゃん。ご馳走になっちゃおうよ、とせっついてくる。
私は、しばらく悩んだが、ここまで来て何も食べずに帰るというのも失礼な話だ。内心ビクビクしながらも先生のご厚意に甘えることにした。
「そ、それじゃあ……ご馳走になっちゃってもいいですか?」
「ええ、もちろん」
「あと、メニューは先生が適当に選んでくれますか? ご馳走になってもらっちゃう上にリクエストなんて、恐れ多くて……蓮子もそれでいいよね?」
「えー私は自分で選び――」
「いいよね?」
「――ハイ」
「というわけで、先生お願いします」
「わかりました。少し時間がかかるかもしれませんので、桜もちでも食べてお待ちください」
「え? いや、これから食事なんで」
「この先、三千秒――」
そう言って、先生はキッチンへと消えた。
「……なんていうか、本当に不思議な先生だよね」
「……そうね」
「ていうか、五十分も待たされるの?」
「さあ……」
兎にも角にも、私と蓮子は、その場で待ち続ける以外にはなかった。
どれだけ待たされても文句は言えない、と覚悟を決めていた私と蓮子だったが、意外にも料理は早く仕上り、私達の下に届けられた。
「概ね、召し上がってください」
「はあ……(妙な言い回しをする人だわ)」
並べられた料理を見る。
お通しとして置かれた筍の煮びたし、鶏の唐揚げ、エビチリ、鮪の刺身。なんてことはない。いつも私達が頼んでいるものと変わらない、ごく普通の料理だった。
「そして、これを忘れちゃいけない」
とんとん、と私達の前に、お銚子とお猪口が二つずつ置かれる。
「いいんですか?」
「飲みに来たんでしょう?」
「そうですけど。教師として」
「まあまあいいじゃないの、メリー。先生がいいっていってるんだからさ」
ぐい、と私のお猪口にお酒を注ぐ蓮子。二対一。まあ飲むつもりだったけどさ。
「じゃあ、かんぱーい!」
「はいはい、乾杯」
こつん、とお猪口を合わせ、くっ、とそれを口に含む。
ふわり、とお米特有の甘みが口の中に広がる。しかしそれは決してしつこくない。その後味は、まるで淡雪のように、さっと消えていった。
「わ、おいしいこれ!」
蓮子が感嘆の声を上げる。
「これ、なんていうお酒ですか?」
「これは、久保田の萬寿という日本酒です。口当たりがいいので、女性でも飲みやすいんですよ」
「へー。甘くて飲みやすいですね」
「筍♪ 筍♪」
蓮子は、よほどお腹が空いていたのだろうか、さっそく料理に手を伸ばしている。
私も、まずは、お通しの筍を掴む。つゆの滴る金色の筍が食欲を掻き立てた。
「じゃあ、いただきます」
一口サイズにされた筍は、しかし、私の口にはまだ大きい。半分に噛み切ろうと歯を通す。
「――!?」
その瞬間、私の中の筍観が崩壊した。
「か、かはい!」
筍は想像以上に硬かった。
私の前歯が「もうアカン」と悲鳴を上げている。なんで関西弁?
見ると、蓮子も必死になって筍を咀嚼している。蓮子は一口で口に含んだらしい。片方のほっぺを膨らませて、一生懸命もごもごしている様は、言ったら怒るだろうけど、かわいい。
なんて、人の心配をしている場合ではない。別に心配はしていないけど。
なんとか筍を分断し、噛み砕く作業に入る。
ごりごりと、およそ食べ物を食べているとは思えない音を出しながら、少しずつ少しずつ砕いていく。
私と蓮子は、何分くらいそうしていたのだろうか、やっとのことで筍を飲みこんだ。
「うあー、あごが疲れたー」
蓮子は、ほっぺを押さえながら、ぶちぶちと文句を言う。
「でも――」
にや、と笑い、蓮子は言う。
「おいしいね」
「ええ、そうね」
そう、おいしいのだ。どうしようもなくおいしい。
普段、私達が食べている筍に比べると、すごく硬いし、なんだか土臭い。だけど、とても力強い味がする。噛めば噛むほど、太陽と雨が育てた、雄大な大地の味が口の中に広がるのだ。
「本当は、もっと柔らかくておいしい筍もあったんですけどね、あなたたちには、これがいいと思いまして」
「なんでですか?」
もっとおいしい筍があることにも驚いたが、それよりも先生の言ったことが気になった。
先生は、気恥ずかしそうに、それと、少し寂しそうな目をして言った。
「本当の筍を知ってほしかったんですよ。今の子供は『食材』を噛むことを知らない。もったいないと思いましてね」
「先生……」
「なぁにしんみりしてんのよ。せっかくおいしい料理が並んでるんだから、楽しく食べようよ」
蓮子は明るく言い放つ。時に疲れる事もあるけど、この笑顔に救われたことは少なくない。
私も、それに応える。
「そうね、食べましょう」
鶏の唐揚げを一つ掴む。箸越しにも、その、カラッ、とした表面を感じることができる。
これも私の口には大きいので、半分に噛み千切る。カリッ、とした表面が割れると中から、ジュワッ、とおいしい油が出てきた。噛み千切った半分の唐揚げを見ると、中から真っ白の、ぷりぷりとした肉が姿を現した。あぐあぐとそれを咀嚼する。その身は培養品とは比べ物にならないほど張りがあって、肉汁と見事に絡み合う。先程の筍同様、噛めば噛むほど味が出てくる。この鶏の、広い敷地で元気に飛び回って育った光景が、ありありと浮かんでくる。
――おいしい。
その言葉しか出てこないけど、その言葉が出てこない。そんな暇があるのなら噛んでいたいのだ。
「んまーい!」
蓮子は、もうゴックンしたようで、添えてあるレモンに手を伸ばし、ぎゅっ、とそれを握り締め、豪快に唐揚げにかけた。
いるよね、こういうやつ。周りに確認を取ってからかけるのがマナーだと思うわ。私は平気だから別にいいけど。
「メリーメリー。レモンかけたら、もっとおいしくなったよ!」
「今、食べるって」
もう半分の唐揚げも急いで食べて、レモンのかかった唐揚げを食べる。そのままでもおいしかった唐揚げだが、レモンがかかることによって油っこさが見事に中和されている。こってりおいしい唐揚げは、あっさりおいしい唐揚げにもなることを知った。
横を見ると、蓮子は既にエビチリに手を出している。ちょ、ちょっと待ってよ。
一尾を箸で摘み、パクリと口に入れる。――瞬間、お酢? とケチャップの酸味と、なんだかわからない辛味が舌を刺激し、鼻から抜ける。でも、決して不快じゃない。私、この味好きだわ。ソースから主役に意識を移す。歯を通すと、ぷつ、と千切れ、弾ける。奥歯で噛むたびに、その身が踊る。
「――――」
――臭い。
喉の奥から鼻にかけて、その匂いが抜ける。
生臭い。磯臭い。食べ物で、こんなに妙な風味をするものがあるとは思わなかった。
――だけど、それが堪らなく、おいしい。
酸味と辛味が、海の香りと絡まって、絶妙な味わい深さを演出している。
いつも食べているエビは、一癖も二癖もある、このエビとは違い、臭くない。だけど、私はこっちのエビの方が好き。生臭いのが好きなんて不思議だけど、本当にそう思えるのだ。
蓮子も同じことを思ったようで、顔がほころんでいる。人がおいしいものを食べたときに見せる、優しげで嬉しい表情だった。
「本物のエビは臭いでしょう」
太田先生は、嬉しそうに聞いてきた。
「ええ、とっても臭いです」
私も笑顔で返した。
「あはははは! 臭い臭い!」
蓮子にいたっては爆笑している。
臭い臭い言いながら、ものを食べる風景は、端から見たら異様なのだろうけど、今ここには『端』なんてない。存分に食事を楽しむことができた。
最後に、鮪に手をつける。醤油皿に醤油を入れ、山葵を溶かしたところで、蓮子に笑われた。
「メリー、山葵は溶かないで、お刺身に乗っけて食べるのが通なのよ」
「そうなの?」
「そうなのよ。こうやってちょちょいと乗せて――」
「あ、それは乗せすぎじゃ――」
私が止める前に、蓮子は、それに醤油をつけ、ひょい、と口に放り込んでしまった。
来るぞ来るぞ。
「――ッ!?」
ほら来た。
「んー! んー!」
「先生すみません、お水をもらえますか?」
「この先、三千秒――」
「んんーッ!!」
蓮子は顔を真っ赤にして声にならない声を上げる。目からは涙が溢れていた。
「先生」
「冗談です」
こと、と先生が蓮子の前に水を置くと、蓮子は一気にそれを流し込んだ。
ごくごくごく、と小気味良い音が聞こえる。
「ぷはー。死ぬかと思った……」
「さすがは蓮子。大した通っぷりね」
ちょっとした反撃をしてみる。
「先生、いじめが発生しています。なんとかしてください」
「今は居酒屋の親父なんで」
「孤立無援とは、このことね。ガリレオの気持ちが理解できたわ」
窓の方を向き「あー、星がキレイねえ」と黄昏る蓮子。相手にするのも面倒なので、こういう時は無視するに限る。
意識を蓮子からお刺身に向ける。
蓮子の二の舞を演じるつもりはない。私はそのまま、ちょっとだけ山葵を溶かした醤油で食べることにした。
醤油が垂れないように、そっと口に運ぶ。
「んっ――」
ツン、と痛烈な辛味が鼻を襲う。さすがは天然ものの山葵だ。辛さの純度が違う。舌に刺激を与えるより先に、鼻にきた。眉間にまできた。
山葵の刺激に耐え、鮪本体に集中する。鮪は噛む前から舌の上で既に溶け始めている。脂の乗っている、いい魚の証拠だった。柔らかいキャンディを舐め溶かすように鮪を味わう。じわり、と肉の脂とは、また一味違う脂の旨みが口の中に広がる。これもエビ同様、生臭い――が、山葵が上手くそれを打ち消し、鮪の旨みだけが舌に残るよう、いい仕事をしてくれた。
こくん、とそれを飲み込む。飲み込んだ後に浮かんだのは、広大なる海のイメージ。そして、その海を優雅に泳ぐ鮪の、確かな生命力だった。おいしい、オイシイ、美味しい。
――ああ、今日は素晴らしい日だ。
「先生、どれもこれも本当においしいです。明日から普通の料理が食べられなくなっちゃいそう」
「それは良かった……んですかね?」
「はい。良かったんです」
心からの笑顔で、私はそう言った。
先生は嬉しそうに微笑み、それから少し悲しそうな顔をして語り始めた。
「培養生産という技術を手に入れて、人は食物連鎖の輪から外れました。おかげで、この世界に飢餓はなくなり、多くの人々は救われた。食べることによる罪も背負わなくなった。しかし、本当にそれでよかったのでしょうか。私には、どちらの道が正解なんてわかりませんけど、人は、何か大切なものを失ってしまった。そう思わないではいられないんです」
「先生……」
「だから、私は食べ続けますよ。罪を背負っても。人としての何かを失わないために」
悲しげな決意を語る先生に、私は何も言えなかった。
重たい空気が流れる。
「……と、すみません。暗くなってしまいましたね。どうぞ食べてください。足りなければまだ作りますし」
「そ、そうね! 食べよう食べよう! あ、メリーその鮪、食べないんならもらっちゃうぞ!」
「あ、ちょっと! そっちにもまだあるでしょ。自分のから食べなさいよ」
こうして、夜は更けていった。
「それでは先生、今日はどうもご馳走さまでした」
「ご馳走様でしたー。また来ますね!」
「ちょっと蓮子、図々しい」
「構いませんよ。いつでも来てください」
ぺこり、と頭を下げ、私達は店を後にした。
「おいしかったねー」
「そうね」
「ここまでの差があるなんて思わなかったね」
「そうねぇ」
「んー?」
にゅ、と蓮子が私の顔を覗き込んできた。
「わ、何?」
「……なんだか上の空ね。さっきの話、まだ気になってるの?」
「ううん、そういうわけじゃないけど……」
そう、それよりも気になったのは、あの場所には――
「結界の綻びが多すぎた?」
「――ッ!?」
心臓が止まるかと思った。
「な、なんで……」
驚いて上手く口が回らない私を見て蓮子は、何でもないことだと笑う。
「そりゃあわかるよ。メリーは表情に出るから、わかりやすいもん。付き合いも長いしね。店に入る前に引き止めたじゃん。それに、入ってから中を見渡した時も変な顔してたし」
「そ、そんなにわかりやすいかな……」
能天気そうに見えて、よく観てるんだなと感心した。
「――と、いうのは半分」
「――え?」
「メリー。私の能力」
「えっと、星を見ただけで今の時間が分かり、月を見ただけで今居る場所が分かる。――時間は日本標準時間のみ」
「そう。メリーの様子が気になって、窓から外を見たのよ」
「あ――」
あの時か。蓮子も役者だわ。
蓮子は真剣な声色で言った。
「そしたら、時間も場所も、わからなかった」
「え――」
真面目な表情をしていた蓮子の顔に、徐々に笑みが浮かぶ。
「メリー。これがどういうことだか、わかる?」
「そ、それって……」
蓮子は、ワクワクが止まらない、というような笑みで続けた。
「そう、つまり、あの場所は『今の日本じゃなかった』のよ」
振り返ったその先には、先生の小さな店。
遠くに見える先生の店は、まるで夏の陽炎のように不確かに、ゆらゆら、ゆらゆら、と淡い明かりを灯していた。
――この時、秘封倶楽部は大きな分岐点を迎えたことに、私達はまだ気付いていなかった。
続く
本日のサークル活動も、彼女のそんな一言から始まった。
彼女――宇佐見蓮子は、突拍子のないことを目を輝かせながら言う。
いつものことだった。
「イザカヤって……バーのことでしょ? そんなのいつも行ってるじゃない」
一応の抵抗はしてみせる。夜は余り出歩きたくない。夜は境界が緩みやすいのだ。人間の領域が侵されるっていうのかな? 何か不気味なのよ。
まあ、蓮子がこうしようと言ったら、それは確定事項で、私がどんな意見を出してもそれが覆ることなんてないのだけど……。
「そんな小洒落たもんじゃないわよ。もっと狭くて汚いところよ」
「何が悲しくて、わざわざ狭くて汚いところに行かなくちゃいけないのよ」
「私の、ちょっとした知り合いが経営しているのよ」
「蓮子の『一度会ったら友達で』理論からすると、知らない人でも知り合いになりそうね」
蓮子は明るい。それも底抜けに。彼女は誰とでも話すし、打ち解ける。
それはいいことなのかもしれないが、今回の場合は勝手が違う。見知らぬ人間が経営している、狭くて汚いイザカヤとやらに行くのは、さすがに抵抗があるのだ。
そんな、私の渋ったような表情に気付いたのか、蓮子は私を安心させるように言った。
「大丈夫大丈夫。全然怪しいとこじゃないよ」
率先して霊能者サークルを引っ張っていく人間の『怪しくない』ほど怪しいものはない。
「安くしてくれるって言ってるし、行ってみましょうよ。まっと驚くような料理が出てくるかもよ?」
「それを言うなら、あっと驚くような。というか、蓮子の中では、もう行くことは確定してるんでしょ?」
「わかってるじゃない。さすがメリー」
「嫌でもね」
だっていつものことだもの。
その言葉は、いつものようにスルーされた。
大学が終わると、私と蓮子は後ほど駅で待ち合わせる約束をし、各々の帰路に就いた。
そのイザカヤの経営者は、昼はまともな仕事をしているらしく、本業が終わるまで店は開けられないらしい。店が開くまで待つ必要があったのだ。
「遅い……」
先に駅に着いた私は、もはや恒例となっているセリフを口にした。
蓮子の遅刻癖は今に始まったことではない。今に始まったことではないのだが、慣れるということもない。やはり待つのは退屈なのだ。
駅から出てくる仕事帰りのおじさん達の波を眺めるのも、もう何度目になるんだろう。
生気を失くしたような顔をした、まるで亡霊の集団の中から、無駄に目を輝かせた蓮子が、無駄に元気に駅から走り出てきた。
「ごめん! 遅くなった!」
「十二分三四秒の遅刻」
「ごめんって。去年の日捲りカレンダーを捲ってたら時間がかかっちゃって」
「……それ、やる意味あるの?」
「やらなきゃ気持ち悪いじゃない」
「なら去年の内にやっておきなさいよ」
「何、今日の酒の肴はタイムスリップ理論? いいわよ。クリストファー・ロイドもびっくりの超理論で時空間旅行の計画でも立てましょう」
わけがわからないわ。私はそれを無視して、話を切り出した。
「で、その店はどこにあるの?」
「結構近いよ? やっぱり本業があるからさ、駅の近くにしたみたい」
「何やら執念を感じるわ」
駅の裏手に回り、市街から遠ざかる。
しかし、行動派の蓮子が言う『結構近い』は当てにならず、歩けど歩けど店は見えてこない。いい加減疲れてきた。
「ちょっと蓮子、どれだけ歩かせるのよ」
「んー、もうちょっと」
「全然近くないじゃない」
「月までの距離に比べたら、なんてことないわ」
「比較対象がおかしいでしょ……」
せめて地球の中で、ものを言ってほしい。
「あ、ほら、あれよ」
しばらく歩いた末、蓮子が前方を指す。
疲れて俯きがちだった顔を上げて、蓮子の指す方を見る。視界に入ってきたのは寂れたテナントの一室だった。少し入りづらい。
いや、それよりも気になるのは――
「さ、入るよ」
蓮子は、そんなこと微塵も感じていないようで、軽快に店内へ入ろうとする。
「ちょ、ちょっと待って、蓮子」
思わず蓮子を引き止めた。
「ん? どうしたの? メリー」
「あ……なんでもない」
蓮子は「おかしなメリー」と言いながら店内へ滑り込んでいった。
危なかった。また突発的にサークル活動が始まるとこだった。そうなったら、面倒になること請け合いだ。
蓮子に続いて店の中へ入る。
そこで私は、思いがけない光景を目にした。
特徴的な帽子、柔和な表情、そして四角い眼鏡――
「太田先生!?」
「あ、どうも。太田です」
「先生、こんばんはー」
そう、カウンターの奥にいるのは、私達の大学の教師をしている太田先生だった。太田先生は民俗学が専門で、私達も先生の授業を履修している。
お酒好きという噂は聞いていたけど、まさか自分で経営するほどとはね。
そういえば蓮子と先生が、なにやら授業の後、話をしているのを見たことがあるけど、このことだったのね。てっきり質問か何かしてるのだと思ってたけど、考えてみれば蓮子が真面目に質問してるはずがなかったわね。
「あ、こ、こんばんは。太田先生。びっくりしちゃって」
先生に軽く挨拶をする。先生と大学以外で会うのって、なんだか不思議な感じがするわ。
「学生が二人で居酒屋に来るって、どうなんですかね」
「教師が居酒屋経営ってどうなんですかね」
「いいんですよ。好きなんだから」
「こっちもそうですよ。好きだから来たんです。私、こういうレトロな感じの雰囲気が大好きなんですよ」
「蓮子、さっき狭くて汚いって言ってなかった?」
「それ今言う?」
恨みがましい視線を投げつけてくる蓮子を無視して、周りを見渡す。
四人掛けの赤いテーブルとビニールの丸椅子のセットが二つ。それに木製のカウンターに五席分。
確かに、狭くて汚い。テーブルなんか、碌に拭かれていないのだろう、油でテカテカ光っている。
それに、何か……この場所は――
「先生、ここ儲かってるんですか?」
蓮子が不躾な質問をする。少しは弁えなさいよ。それに、質問という形式を取っている割には、答えを確信しているような響きを含んでいて、大変失礼に聞こえる。
「伊達や酔狂でやっているだけですから、儲けなんかは余り気にしてませんねえ」
(蓮子、先生ってちょっと変よね)
(いい人だよ? 変だけど)
二分の二。変な人は確定されたわ。先生ごめんなさい。
「まあ、とにかく何か頼もうよ。私、お腹空いちゃった」
「それもそうね。先生、ここは何がお勧めなんですか?」
カウンター席に腰を下ろし、訊ねる。
普段、店員にお勧めを聞いたりなんかしない私だけど、見知っている人間だということもあって気軽に聞くことができた。
「全部お勧めです。うちで使ってる食材は全部天然ものですから」
「嘘!?」
蓮子が驚愕の声を上げる。無理もない、私だって声も出ないくらい驚いた。
人類が天然の植物や動物を食さなくなって随分経つ。今では、本来の十分の一の時間で植物を栽培できる強制促栽や、培養生産が人類に於ける食の主流となっている。
我々は、倫理観と引き換えに永劫の食生活を約束された。
「ててて天然の食材使ってる店で飲み食いできるほど、お金持ってませんよ!」
とはいえ、天然の食物がまるでなくなったかといえば、そうではなく、一部のセレブや著名人だけが食べることを許される嗜好品として高値で取引されている。一食分で私たちの何か月分のお小遣いが吹っ飛ぶくらいの値段で。
「いやまあ、お金はいいですよ。せっかく教え子が来てくれたのだからご馳走します」
「本当ですか!? やったー!」
蓮子は一も二もなく、その言葉に歓喜したが、私は手放しに喜ぶことはできなかった。
「でも、それじゃ先生が大赤字になってしまうんじゃないですか?」
「まあ、伊達や酔狂ですし。大丈夫ですよ」
とは言うが、とてもじゃないけど、はいそうですか、とは言えない。私は変人だから、あなたに金塊を上げます、と言われたようなものだ。怖すぎる。
そんな私の不安顔に気付いたのか、先生は安心させるように言ってきた。
「実は、食材の仕入れにお金はかかってないんですよ。私にはちょっとした裏ルートがありましてね。――と言っても非合法なものではないので、安心していいですよ。警察なんて来ません」
蓮子が、いいじゃんいいじゃん。ご馳走になっちゃおうよ、とせっついてくる。
私は、しばらく悩んだが、ここまで来て何も食べずに帰るというのも失礼な話だ。内心ビクビクしながらも先生のご厚意に甘えることにした。
「そ、それじゃあ……ご馳走になっちゃってもいいですか?」
「ええ、もちろん」
「あと、メニューは先生が適当に選んでくれますか? ご馳走になってもらっちゃう上にリクエストなんて、恐れ多くて……蓮子もそれでいいよね?」
「えー私は自分で選び――」
「いいよね?」
「――ハイ」
「というわけで、先生お願いします」
「わかりました。少し時間がかかるかもしれませんので、桜もちでも食べてお待ちください」
「え? いや、これから食事なんで」
「この先、三千秒――」
そう言って、先生はキッチンへと消えた。
「……なんていうか、本当に不思議な先生だよね」
「……そうね」
「ていうか、五十分も待たされるの?」
「さあ……」
兎にも角にも、私と蓮子は、その場で待ち続ける以外にはなかった。
どれだけ待たされても文句は言えない、と覚悟を決めていた私と蓮子だったが、意外にも料理は早く仕上り、私達の下に届けられた。
「概ね、召し上がってください」
「はあ……(妙な言い回しをする人だわ)」
並べられた料理を見る。
お通しとして置かれた筍の煮びたし、鶏の唐揚げ、エビチリ、鮪の刺身。なんてことはない。いつも私達が頼んでいるものと変わらない、ごく普通の料理だった。
「そして、これを忘れちゃいけない」
とんとん、と私達の前に、お銚子とお猪口が二つずつ置かれる。
「いいんですか?」
「飲みに来たんでしょう?」
「そうですけど。教師として」
「まあまあいいじゃないの、メリー。先生がいいっていってるんだからさ」
ぐい、と私のお猪口にお酒を注ぐ蓮子。二対一。まあ飲むつもりだったけどさ。
「じゃあ、かんぱーい!」
「はいはい、乾杯」
こつん、とお猪口を合わせ、くっ、とそれを口に含む。
ふわり、とお米特有の甘みが口の中に広がる。しかしそれは決してしつこくない。その後味は、まるで淡雪のように、さっと消えていった。
「わ、おいしいこれ!」
蓮子が感嘆の声を上げる。
「これ、なんていうお酒ですか?」
「これは、久保田の萬寿という日本酒です。口当たりがいいので、女性でも飲みやすいんですよ」
「へー。甘くて飲みやすいですね」
「筍♪ 筍♪」
蓮子は、よほどお腹が空いていたのだろうか、さっそく料理に手を伸ばしている。
私も、まずは、お通しの筍を掴む。つゆの滴る金色の筍が食欲を掻き立てた。
「じゃあ、いただきます」
一口サイズにされた筍は、しかし、私の口にはまだ大きい。半分に噛み切ろうと歯を通す。
「――!?」
その瞬間、私の中の筍観が崩壊した。
「か、かはい!」
筍は想像以上に硬かった。
私の前歯が「もうアカン」と悲鳴を上げている。なんで関西弁?
見ると、蓮子も必死になって筍を咀嚼している。蓮子は一口で口に含んだらしい。片方のほっぺを膨らませて、一生懸命もごもごしている様は、言ったら怒るだろうけど、かわいい。
なんて、人の心配をしている場合ではない。別に心配はしていないけど。
なんとか筍を分断し、噛み砕く作業に入る。
ごりごりと、およそ食べ物を食べているとは思えない音を出しながら、少しずつ少しずつ砕いていく。
私と蓮子は、何分くらいそうしていたのだろうか、やっとのことで筍を飲みこんだ。
「うあー、あごが疲れたー」
蓮子は、ほっぺを押さえながら、ぶちぶちと文句を言う。
「でも――」
にや、と笑い、蓮子は言う。
「おいしいね」
「ええ、そうね」
そう、おいしいのだ。どうしようもなくおいしい。
普段、私達が食べている筍に比べると、すごく硬いし、なんだか土臭い。だけど、とても力強い味がする。噛めば噛むほど、太陽と雨が育てた、雄大な大地の味が口の中に広がるのだ。
「本当は、もっと柔らかくておいしい筍もあったんですけどね、あなたたちには、これがいいと思いまして」
「なんでですか?」
もっとおいしい筍があることにも驚いたが、それよりも先生の言ったことが気になった。
先生は、気恥ずかしそうに、それと、少し寂しそうな目をして言った。
「本当の筍を知ってほしかったんですよ。今の子供は『食材』を噛むことを知らない。もったいないと思いましてね」
「先生……」
「なぁにしんみりしてんのよ。せっかくおいしい料理が並んでるんだから、楽しく食べようよ」
蓮子は明るく言い放つ。時に疲れる事もあるけど、この笑顔に救われたことは少なくない。
私も、それに応える。
「そうね、食べましょう」
鶏の唐揚げを一つ掴む。箸越しにも、その、カラッ、とした表面を感じることができる。
これも私の口には大きいので、半分に噛み千切る。カリッ、とした表面が割れると中から、ジュワッ、とおいしい油が出てきた。噛み千切った半分の唐揚げを見ると、中から真っ白の、ぷりぷりとした肉が姿を現した。あぐあぐとそれを咀嚼する。その身は培養品とは比べ物にならないほど張りがあって、肉汁と見事に絡み合う。先程の筍同様、噛めば噛むほど味が出てくる。この鶏の、広い敷地で元気に飛び回って育った光景が、ありありと浮かんでくる。
――おいしい。
その言葉しか出てこないけど、その言葉が出てこない。そんな暇があるのなら噛んでいたいのだ。
「んまーい!」
蓮子は、もうゴックンしたようで、添えてあるレモンに手を伸ばし、ぎゅっ、とそれを握り締め、豪快に唐揚げにかけた。
いるよね、こういうやつ。周りに確認を取ってからかけるのがマナーだと思うわ。私は平気だから別にいいけど。
「メリーメリー。レモンかけたら、もっとおいしくなったよ!」
「今、食べるって」
もう半分の唐揚げも急いで食べて、レモンのかかった唐揚げを食べる。そのままでもおいしかった唐揚げだが、レモンがかかることによって油っこさが見事に中和されている。こってりおいしい唐揚げは、あっさりおいしい唐揚げにもなることを知った。
横を見ると、蓮子は既にエビチリに手を出している。ちょ、ちょっと待ってよ。
一尾を箸で摘み、パクリと口に入れる。――瞬間、お酢? とケチャップの酸味と、なんだかわからない辛味が舌を刺激し、鼻から抜ける。でも、決して不快じゃない。私、この味好きだわ。ソースから主役に意識を移す。歯を通すと、ぷつ、と千切れ、弾ける。奥歯で噛むたびに、その身が踊る。
「――――」
――臭い。
喉の奥から鼻にかけて、その匂いが抜ける。
生臭い。磯臭い。食べ物で、こんなに妙な風味をするものがあるとは思わなかった。
――だけど、それが堪らなく、おいしい。
酸味と辛味が、海の香りと絡まって、絶妙な味わい深さを演出している。
いつも食べているエビは、一癖も二癖もある、このエビとは違い、臭くない。だけど、私はこっちのエビの方が好き。生臭いのが好きなんて不思議だけど、本当にそう思えるのだ。
蓮子も同じことを思ったようで、顔がほころんでいる。人がおいしいものを食べたときに見せる、優しげで嬉しい表情だった。
「本物のエビは臭いでしょう」
太田先生は、嬉しそうに聞いてきた。
「ええ、とっても臭いです」
私も笑顔で返した。
「あはははは! 臭い臭い!」
蓮子にいたっては爆笑している。
臭い臭い言いながら、ものを食べる風景は、端から見たら異様なのだろうけど、今ここには『端』なんてない。存分に食事を楽しむことができた。
最後に、鮪に手をつける。醤油皿に醤油を入れ、山葵を溶かしたところで、蓮子に笑われた。
「メリー、山葵は溶かないで、お刺身に乗っけて食べるのが通なのよ」
「そうなの?」
「そうなのよ。こうやってちょちょいと乗せて――」
「あ、それは乗せすぎじゃ――」
私が止める前に、蓮子は、それに醤油をつけ、ひょい、と口に放り込んでしまった。
来るぞ来るぞ。
「――ッ!?」
ほら来た。
「んー! んー!」
「先生すみません、お水をもらえますか?」
「この先、三千秒――」
「んんーッ!!」
蓮子は顔を真っ赤にして声にならない声を上げる。目からは涙が溢れていた。
「先生」
「冗談です」
こと、と先生が蓮子の前に水を置くと、蓮子は一気にそれを流し込んだ。
ごくごくごく、と小気味良い音が聞こえる。
「ぷはー。死ぬかと思った……」
「さすがは蓮子。大した通っぷりね」
ちょっとした反撃をしてみる。
「先生、いじめが発生しています。なんとかしてください」
「今は居酒屋の親父なんで」
「孤立無援とは、このことね。ガリレオの気持ちが理解できたわ」
窓の方を向き「あー、星がキレイねえ」と黄昏る蓮子。相手にするのも面倒なので、こういう時は無視するに限る。
意識を蓮子からお刺身に向ける。
蓮子の二の舞を演じるつもりはない。私はそのまま、ちょっとだけ山葵を溶かした醤油で食べることにした。
醤油が垂れないように、そっと口に運ぶ。
「んっ――」
ツン、と痛烈な辛味が鼻を襲う。さすがは天然ものの山葵だ。辛さの純度が違う。舌に刺激を与えるより先に、鼻にきた。眉間にまできた。
山葵の刺激に耐え、鮪本体に集中する。鮪は噛む前から舌の上で既に溶け始めている。脂の乗っている、いい魚の証拠だった。柔らかいキャンディを舐め溶かすように鮪を味わう。じわり、と肉の脂とは、また一味違う脂の旨みが口の中に広がる。これもエビ同様、生臭い――が、山葵が上手くそれを打ち消し、鮪の旨みだけが舌に残るよう、いい仕事をしてくれた。
こくん、とそれを飲み込む。飲み込んだ後に浮かんだのは、広大なる海のイメージ。そして、その海を優雅に泳ぐ鮪の、確かな生命力だった。おいしい、オイシイ、美味しい。
――ああ、今日は素晴らしい日だ。
「先生、どれもこれも本当においしいです。明日から普通の料理が食べられなくなっちゃいそう」
「それは良かった……んですかね?」
「はい。良かったんです」
心からの笑顔で、私はそう言った。
先生は嬉しそうに微笑み、それから少し悲しそうな顔をして語り始めた。
「培養生産という技術を手に入れて、人は食物連鎖の輪から外れました。おかげで、この世界に飢餓はなくなり、多くの人々は救われた。食べることによる罪も背負わなくなった。しかし、本当にそれでよかったのでしょうか。私には、どちらの道が正解なんてわかりませんけど、人は、何か大切なものを失ってしまった。そう思わないではいられないんです」
「先生……」
「だから、私は食べ続けますよ。罪を背負っても。人としての何かを失わないために」
悲しげな決意を語る先生に、私は何も言えなかった。
重たい空気が流れる。
「……と、すみません。暗くなってしまいましたね。どうぞ食べてください。足りなければまだ作りますし」
「そ、そうね! 食べよう食べよう! あ、メリーその鮪、食べないんならもらっちゃうぞ!」
「あ、ちょっと! そっちにもまだあるでしょ。自分のから食べなさいよ」
こうして、夜は更けていった。
「それでは先生、今日はどうもご馳走さまでした」
「ご馳走様でしたー。また来ますね!」
「ちょっと蓮子、図々しい」
「構いませんよ。いつでも来てください」
ぺこり、と頭を下げ、私達は店を後にした。
「おいしかったねー」
「そうね」
「ここまでの差があるなんて思わなかったね」
「そうねぇ」
「んー?」
にゅ、と蓮子が私の顔を覗き込んできた。
「わ、何?」
「……なんだか上の空ね。さっきの話、まだ気になってるの?」
「ううん、そういうわけじゃないけど……」
そう、それよりも気になったのは、あの場所には――
「結界の綻びが多すぎた?」
「――ッ!?」
心臓が止まるかと思った。
「な、なんで……」
驚いて上手く口が回らない私を見て蓮子は、何でもないことだと笑う。
「そりゃあわかるよ。メリーは表情に出るから、わかりやすいもん。付き合いも長いしね。店に入る前に引き止めたじゃん。それに、入ってから中を見渡した時も変な顔してたし」
「そ、そんなにわかりやすいかな……」
能天気そうに見えて、よく観てるんだなと感心した。
「――と、いうのは半分」
「――え?」
「メリー。私の能力」
「えっと、星を見ただけで今の時間が分かり、月を見ただけで今居る場所が分かる。――時間は日本標準時間のみ」
「そう。メリーの様子が気になって、窓から外を見たのよ」
「あ――」
あの時か。蓮子も役者だわ。
蓮子は真剣な声色で言った。
「そしたら、時間も場所も、わからなかった」
「え――」
真面目な表情をしていた蓮子の顔に、徐々に笑みが浮かぶ。
「メリー。これがどういうことだか、わかる?」
「そ、それって……」
蓮子は、ワクワクが止まらない、というような笑みで続けた。
「そう、つまり、あの場所は『今の日本じゃなかった』のよ」
振り返ったその先には、先生の小さな店。
遠くに見える先生の店は、まるで夏の陽炎のように不確かに、ゆらゆら、ゆらゆら、と淡い明かりを灯していた。
――この時、秘封倶楽部は大きな分岐点を迎えたことに、私達はまだ気付いていなかった。
続く
ほのぼのとした雰囲気や食べたくなるような唐揚げの表現とか良かったですし、何かがあると匂わせる
終わり方や、あとがきでの会話とかも面白かったです。
続きに期待してしまいます。まさかの後書きが一層興味を引き立てました。頑張ってください。
ふむ……眼鏡、帽子、酒好き、表情、桜餅、この先三千……
……ところで太田先生の下の名前はひょっとしtうわまてなにをすr
続き物となると気になりますね!
「儲けなんかは余り気にしてませんねえ」そもそも自分で飲むのに問屋価格で仕入れるために店を開いてるんじゃないのか……
「概ね、召し上がってください」で腹痛くなったwww
『合成』ではないなあ
腹減ってきた…鳥から食いてえ。
ぐぐってもわからんかった・・・
『酒の妖怪』でググれば幸せ
続き物らしいので得点は完結編までとっときます
実に、続きが気になる終わり方で、上手いと思いました。
楽しみに待たせて頂きます。
続編も超期待してます
などの伝説がありそうな先生ですねw
続きを楽しみにしてます。
これは続きがうまそう……いや、楽しみで。
話も面白かった。酒の肴にさせていただきました、ごちそうさまです。
続きにも超期待です。
あなたの食べ物SSを読むと、毎回お腹をすいてきますねぇ。
ありがとうございます!
なるべく早く続きも書ければなあと思います。
>8
最終回はいつになるんでしょうねえ。
自分でもわかってませんw
>冬。さん
ありがとうございますー。
まさかの人物も、これからたくさん使っていきたいですねー。
>14
はい、j(ry
>17
忘れられないうちに投稿したいと思います!
>ぺ・四潤さん
実は、それに関しても少し考えがあったりしてw
あの方らしさを醸し出すのに苦労しましたけど、そう言ってもらえるのなら苦労した甲斐がありました。
>25
ンフフ
>31
乞うご期待!
>32
まさかここまで太田先生が反響を呼ぶとは思いませんでしたw
>34
なにその大学行きたい。
>35
ありがとうございます!
たぶん秘封シリーズは、これからずっと苦労していくことになりそうですw
>37
ほ、ほら、強制促栽する過程で色々混ぜたり……うん、その、ね?
ごめんなさい、本家での合成という言葉を見落としていましたorz
スクリーンとかだけではないんですねー。
まあ、自分設定でもいいじゃない、という自己弁護をしてみます。
>38
ファミチキとかLチキとかで代用!
>45
神様です。
>48
初めて知りましたこれw
>49
完結は考えていなかったりするんですよね、実は。
というのは、今回秘封に踏み切ったのは、『なんでもない日常』を書く力を身につけたいと思ったからです。
それができれば、いくらでもシリーズは続けられるなーと。
とはいえ、スタートから『非日常』になってしまっていますがw
とりあえず、今考えているプロットだけでも10作品は投稿できるかなーと思っています。
>53
太田先生の授業、受けてみたいですねー。
>54
そして、それを飲み干す程度の能力もですね。
>夜イ加景さん
ありがとうございましたー。
たぶんちょこちょこ別の作品をはさむとは思いますが、がんばりたいと思います。
>57
ンフッフー。酒さえあれば無敵になれるので、兼業なんかしちゃったんですねー。
>60
きりーつ。れーい。かんぱーい!
みたいなノリで授業を始め、終わりそうですねw
>61
死ぬ気ですか? ついていったら確実に急性アルコール中毒に……っ!
>63
たけのこの刺身とか、食べたいですねー。
>65
お粗末さまでした。少しくらい私に分けてくれてもいいものをー。
>66
あはーん最高のほめ言葉ですw
これからも腕を磨いていきたいです。
もう我慢できない
ちょっと酒買ってきます
最高のほめ言葉いただきましたー。
いってらっしゃいませ!
こじんまりとした小さい店と旨そうな料理と馬鹿やれる仲間と・・・いいなあ腹減ったー
伏線も楽しみ
早く続きを書かなくては……orz
ありがとうございました!
実家の小浜の刺身が食いたいよおおお!
やっぱ天然食材は他の命をいただくわけですから、生臭くて当たり前なんだろうな。
人工食はそれこそ豆腐ぐらいの方さのカロリーメイトなんだろうか……。
ニヤニヤしてしまいました
続き楽しみにしてます
秘封っぽいとは、最大の褒め言葉!
ありがとうございます。
>93
楽しみにしてくれている……!
書かなきゃなー。