※鈴の鳴る夜、昼間の月、別つ目、所詮第三者と繋がっております。
先にそちらからどうぞ。
その時は、ある日唐突に訪れた。
門番に知られることもなく、咲夜がひとりぼっちでいる時に。
それは唐突に訪れた。
■ ■ ■ ■
寒い朝だった。その日咲夜は朝から体調が悪かった。
新年を向かえ、庭一面に雪が積もった。外は曇りの日が多く続き、お嬢様とその妹君は大層大喜びで庭中を駆けずり回ったようだ。
駆けずり回るのは犬の役目だとばかり思っていた咲夜は、吸血鬼も駆けずり回るのだと自分の脳内辞書を書き換えることにした。
はて、咲夜の大型犬といえば、日がな一日中門前でぼーっとしている門番のことであったが、最近とんと口をきいていない。
最後に話をしたのはいつだろうかと指折り数えかけて、やめた。無意味なことだ。咲夜はいまだに、どこか門番のことを勘違いしたままであった。
今までずっと愛された記憶がない咲夜であったから、いざ愛をそそいでくれる相手が現れてしまえば脆いものであった。自分でも笑ってしまうほどに。
相手の一挙手一投足が気になって気になって、食事も喉を通らない。なまじ顔を合わせないものだから、余計に気になって仕方ない。だというのに、こちらからは一方的に窓から相手を目撃することができるのだ。
咲夜はいつしか、紅魔館の数少ない窓を全て把握しきってしまっていた。
あの窓からは常に門番の背中が見える。お昼を過ぎて少しした時は、花壇の手入れをしている門番があちらの窓から。詰め所にいる間は見えたり見えなかったりだが、あそこの窓からだったら比較的に見えやすい。
必然的に窓は綺麗になったし、窓のある場所は咲夜が何度も通るものだから塵一つ落ちていやしなかった。
メイド長は呆れ顔でいたが、特に何を言ってくることもない。
咲夜はもう、メイド長の後ろをついて回るような新人メイドではなくなっていたから。
門番の下を離れて一年と三ヶ月あまり。
咲夜はメイド長直々の厳しい指導を見事に受けきり、他のメイドと同じように館の一部を掃除分担……平たく言えば縄張りとして授かった。これからそこをどう綺麗にしていこうが、どんな調度品を置こうが、全て咲夜の責任によるものだった。
お褒めをいただけるのも、お叱りをうけるのも、全て咲夜個人のこと。今までのように守られる立場ではない。
それが、いまだ幼さの残る咲夜にとっては多少なりとも重圧ではあったが、大人の一人と同じように数えてもらえることは、とても嬉しいことだった。
これでやっと、門番に並べた気がしたのだ。
誰にも守られぬ、一人のメイドとして立たせてもらえたことで、少しは門番に恩を返せたような気が。
それは当然ただの自己満足でしかないけれど、どうしようもなく子供な自分が、これ以上彼女に迷惑をかけなくてすむのだと思うと少しばかりほっとした。
見習いを外された咲夜は、一度は門番のところに報告に行こうかと思ったが、こんな些細なことを一々報告に行くと迷惑かな、とも考えた。
再三言おう。
咲夜は未だ、門番のことを勘違いしたままであった。
あの時の別つ目が、咲夜に今でも暗い影を落としている。
一度は理解したはずだった。だというのに、今、一人ぼっちだった自分が問いかけてくるのだ。愛されなかった可哀想な自分が、泣きながら問いかけてくるのだ。
めいりんは、ほんとうに、わたしのこと、すきでいてくれたのかな
そんなの、わかるわけないじゃない。
立ち竦むメイドの咲夜は、そう答えてボロ雑巾の咲夜の口を強く塞いだ。
くすんだ灰色のばさばさした髪の間から、淀んだ青い瞳が見つめてくる。
その視線から逃れるように下を向いて、咲夜は「だって」と言い募った。
「美鈴、言ってたじゃない。分相応、って。言ってたじゃない、私のことを嫌いなわけじゃないって」
返してしまってから、この答えでは駄目だと気づいた。もう遅いけれど。
ボロ雑巾でガリガリの咲夜は、メイドで血色のいい咲夜のうろたえる様を見て悲痛の色をより濃くした。
でもそれって、けっきょくは、じゃまってことでしょ
「ちがう」
もんばんやるにはむかないから、でてけ、ってことでしょ
「美鈴はそんな人じゃない」
つかえない子だ、って、ことでしょ
「やめて!!」
怒鳴ったら、ボロ雑巾の咲夜が泣き喚いた。
顔を腫らせたボロ雑巾の咲夜が、ごめんなさい、と言って。
やめてよ。
メイドの咲夜は耳を塞いだ。
まるで私が悪いみたいじゃない。やめて。
ごめんなさい、ごめんなさい。
いい子にするからおいていかないで。ひとりにしないで。
どうして、どうして、どうして。
言われた通りにしたよ、頑張ったよ。ちょっと失敗しちゃったけど、でも、でも。
ねぇ、次はもっと頑張るから、次はもっと長く時間を止めていられるようにするから。
人を殺すのだってもう嫌がらないから、だから怒らないで、一人にしないで、そんな目で私のことをみないで。そんなふうに。
「つかえない子、なんて、言わないで」
ボロ雑巾の咲夜が、泣きながら歩いている。
今でもまだ、この屋敷の中を、ボロ雑巾の咲夜が裸足で歩き回っている。
寒いよ、怖いよ、痛いよ。
温もりを求めて、まだ。
「……っ」
愛された記憶のない咲夜は、今でも偽りの愛に縋っている。
何かと引き換えにされない愛が、未だ信じられずにいる。
美鈴は抱きしめてくれたけれど、結局咲夜を追い出した。彼女の求めた結果を出せなかった自分が全て悪いのだ。それでも。
「めいりん……」
それからずっと、会いに来てくれることもない。美鈴、美鈴、美鈴。
結局、嘘だったのだ。彼女が囁いた全てが嘘だった。彼女もたくさんの母や父や兄や姉と変わらなかった。
友達になりましょうと言ってくれた。一緒に門番をしますかと言ってくれた。内と外で、それでも一緒に館を守ろうと言ってくれた。また会いに行きますと言ってくれた。
抱きしめてくれた、キスしてくれた、何度もこの背をさすってくれた、一緒に寝て、ご飯を食べて、微笑んで、微笑んで、わらって、めいりんが。
そうだ、めいりんが。
笑ってくれた。
さくや、と名前を呼んで、笑ってくれた。
「…う、あ…っ…」
急に下腹部が痛んで、咲夜はうずくまった。
涙が止まらない、悲しいのか痛いのか、もう何がなんだかわからない。
顔を上げたところに窓があって、その窓からはいつも門番の後姿が見えるのだと思ったら、もう止まらなかった。
涙がぼろぼろとこぼれて、掠れた嗚咽が喉を痛めた。
めいりん、めいりん、めいりん。
何度も彼女を呼んだら空しいばかりで、裏切られたと思っているのに、彼女を恨む気持ちなど微塵もない自分が、ただただ可哀想でならなかった。
信じていたのだ。心のどこか片隅で、ずっと、ずーっと、信じていた。
美鈴が自分を裏切るはずがないと、今までのおとうさんやおかあさんやおにいちゃんやおねえちゃんとは違うのだと。
ずっと、ずーっと、ずぅーっと。
心の奥底の四角い箱の、その中のちっぽけな丸い場所で。
唯一捨てずに取っておいた、擦り切れて小さくなってしまった「心」と呼ばれる場所で。
信じていた。きっと会いに来てくれると。また、あの時みたいに微笑んで、抱きしめて、額にキスしてくれるのだと。
「めいりぃん…っ、うっぇ、うぁ、ああ…うわぁ、ぁあああぁあぁん、あああぁあぁ」
けれど、結局はそれも、独りよがりの片思い。相手のいない、空しい独り相撲だった。
期待して、捨てられた。ただ、それだけ。
いつもと何も変わらないのに、今回は耐えられそうになかった。何回目かの母に捨てられた時封印した箱の中で、みみっちい可哀想なつぶっころが、わんわんと泣きながら、自らの涙に浮かんでいる。
いっそ難破してしまえばいい。もう咲夜自身にすら見つけられないような深みに、そっと沈みこんでしまえばいい。
そうすればもう二度と、門番の姿を見ても泣かないだろう。もう二度と、無様に隠れたりしないだろう。魔女の前で、急に涙がこらえられなくなったりしないだろう。
でも、それが無理だとも、どこかでわかっていた。
それをしてしまえない自分がいることもわかっていた。
苦しい。
苦しいから、いっそのこと息の根を止めてしまいたくなった。彼女ではなく、自分の。
美鈴を疑い、それでも信じて、未だどちらにもつけずにいる。美鈴はそんな自分をきっと迷惑に思うだろう。だから。
やがて、咲夜はふらりと立ち上がった。腹が痛い。そういえば朝から体調が悪かったと、今になり思い出した。
仕事はもうないから、今日は休もう。ゆっくりと、何も考えず。深みにはまっていくように。ずるずるずるずると、ただ眠れればいい。それでいい。
今しがた自分が綺麗にしたばかりの窓に触れたら、掠れた白い手の痕がついた。その中に門番の背が見えて、咲夜は微笑む。
亡羊とした、およそ年齢にふさわしくない微笑みだった。
■ ■ ■ ■
魔女が危惧していたことは、形になりつつあった。
上辺だけの優しさを振りまくことで、誰かを傷つけることを恐れた門番。二度と傷つけたくないと言って、咲夜から離れた。それを知らない咲夜は、全てに絶望しはじめている。
だから魔女は言ったのだ。
―いつまでも暗い郷愁に囚われ続けているならば、誰も幸せにはなれないわ。
だから魔女が言ったのに。
美鈴は臆病すぎて、咲夜はまだ子供だった。
お互いの物差しは、あまりにも長さが違いすぎたのだ。そしてそれに気付くものは第三者だけ。
歪な歯車は、徐々に音を立てて軋み、泣き声を上げるかのように狂い始めていた。
もう少しで戻れないところまで来てしまう。
早く、早く。どうか気付いて。
魔女は祈ったけれど、祈った相手は悪魔だった。
悪魔は戯れに口元を歪め、その尖った指先を伸ばすか否か、誰にもわからない。
それでも魔女は祈らずにいられなかった。
「いらっしゃい。来る頃だと思っていたわ」
そうでもしていないと見ていられなかったのだ。
真っ青な咲夜も、力ない美鈴も。
咲夜を取り巻く微かな血の匂いに、パチュリーは目を細める。
その時は、この日唐突に訪れた。
門番に知られることもなく、咲夜がひとりぼっちでいる時に。
魔女には差し伸べてやれる手がなかった。両手はすでに塞がっていた。本と、悪魔で。
それでも、一時的に本を置くことならできたから、空いた手を、咲夜を抱きしめる為に使ってはやれた。そこに門番が咲夜へと傾けるような愛はなかったけれど、それでも泣き崩れる場所くらいなら作ってやれた。
静かに泣き出した咲夜を抱きしめながら、パチュリーは思う。祈る。
この館が平和であってほしい。静かに本が読めるようになって欲しい。咲夜の淹れてくれる紅茶を飲みながら、時々門番に悪戯をして、何の心配も不安もなく。
そうして自分は更なる知識を得ていきたい。それだけが自分の生きがいなのだ。生きる意味なのだ。そのために人としての生を捨てたのに。
だのに、平和でなければ、静かにしてくれなければ、本など読めないではないか。
パチュリーはそう思いながら、悪魔に向けて十字を切った。悪魔は少し迷惑そうにしてから、やがて肩をすくめたのだ。
―今は見守ってやろう。すぐに運命は動き出すよ。
すぐっていつ?魔女は聞いたが、悪魔は答えなかった。ただ少しだけ寂しそうに微笑んだだけ。だから魔女は祈る。これ以上求める事は叶わぬと知ったから、祈るだけにした。
「咲夜」
ただせめて、門番の代わりに咲夜の名前を呼んでやった。血の匂いを漂わせる咲夜を、一度だけ強く抱いてやった。
それで咲夜が泣き止むとは思わなかったけれど、そうするのがきっと正しいことだから。
―本来なら貴女の役目なのよ、紅美鈴。
心の中で思いながら、今だけは静かに……目を閉じた。
・
パッチュお母さーん!
……でぇぇい!ヘタレ中国!咲夜さんが泣いてるぞ!!根性見せろ!!
実にLOVEいねぇ。
これは必要な過程なのですね
ここのパッチュさんがすごく好き。惚れるわ