『お姉ちゃん、お姉ちゃん』
安楽椅子で本を読んでいると、妹はよく自分の膝にじゃれついてきた。
可愛い妹。たったひとりの大切な妹。
『なあに? こいし』
栞を挟んで本を閉じ、駆け寄ってきた妹に向き直る。
妹はどこか照れくさそうに、もじもじと私の顔を見上げた。
『あのね、お姉ちゃん――』
※ ※ ※
瞼を開ければ、見えるのは妹の顔ではなく、ただ自室の天井だけだった。
うたた寝をしてしまっていたらしい。私は小さく首を振って、安楽椅子から身を起こす。
いつの間にか、身体には毛布がかけてあった。お燐がかけてくれたのかもしれない。それならお礼を言っておこう、と私は立ち上がった。
「……こいし」
扉に手をかけたところで、ふと私は部屋の中を振り返る。
もちろんそこには誰も居ない。ただ見慣れた自分の部屋の光景があるだけだ。
――夢に見た、過去の光景が今の景色と重なる。
あの安楽椅子にもたれて、妹と他愛ない話をしていた。どんな話をしていたのかなど、もう記憶にないけれど、ただ言葉を交わしているだけで楽しかった。
私がこいしが好きで、こいしも私を好きでいてくれた。
ただそれだけの、甘やかな日々。
――今はもう、遠い残影でしかない。
目を伏せ、私は扉を開けた。あの頃とはもう違うのだ。違ってしまっているのだ。
こいしはもう、あんな風に私のそばに駆け寄っては来ない。
こいしの姿はもう――私には、見つけられなくなってしまったから。
お姉ちゃん、と無垢に私を呼んでくれた幼い笑顔。
あんな妹の笑顔は、もう私には見られないのだ。
お燐はよく、地底のあちこちを歩き回っている。最近は地上にも顔を出しているようだ。
なので、留守かもしれないと思ったが――すぐにその気配は見つかった。灼熱地獄へと通じる中庭に、一匹と一羽の姿が見えている。
一羽の方は確かめるまでもない。霊烏路空だ。
中庭を覗けば、ふたりは仲睦まじく肩を寄せ合って、何かをもぐもぐと頬張っている。地上の神社から貰ってきたゆで卵だろう。最近の空のお気に入りだ。
「んにゅ、んぐ」
「ほら、そんな焦らなくてもまだあるって」
丸飲みしかねない勢いで、口いっぱいにゆで卵を頬張る空に、お燐は甲斐甲斐しくお茶を差し出している。空の面倒を見るのはお燐の生き甲斐のようなものだが、先日の騒動を経てその甲斐甲斐しさはますます顕著になってきた。
ふたりは幸せそうだ。お邪魔しない方がいいかもしれない。
「ほら、今剥いてあげるからさ」
「うにゅ、ありがと、お燐」
福々とした空の笑顔に、ゆで卵を剥くお燐の頬はだらしなく緩んでいた。
――なんとなく、その緩みきった幸福そうな笑顔が癇に障った。
「お燐も、はい、はんぶんこ」
「ああ、ありがと、おくう」
ゆで卵を半分に割って、仲良く口にするペット二匹。――ええい、主の前ではばかりもなくいちゃいちゃしおって。
「《ああもう可愛いなあおくうってば、そんな顔されたら辛抱たまらんってば。あたいのこと誘ってるのかい? 誘ってるんだよね? 押し倒しちゃうよ? ていうかあたいが食べたいのはゆで卵じゃなくておくう――》」
「さ、さささっ、さとり様!?」
思わず、第三の目で読んだお燐の内心を読み上げてしまった。
お燐は耳と尻尾を逆立てて、びくりとこちらを振り返る。隣で空は「うにゅ?」と不思議そうに首を傾げていた。
「あ、さとり様ー、さとり様もゆで卵食べます?」
「ありがとう、空。――楽しそうね、お燐」
空からゆで卵を受け取って、それからお燐に向き直る。お燐はものすごく気まずそうな顔で私と空の顔を見比べた。
「さ、さとり様、あ、いえ別に仕事サボってるわけじゃありませんよ?」
「ええ、それは解っていますよ」
「あ、あのですね? ていうかそのあたいの内心そんな赤裸々にぶっちゃけ――」
「《おくう可愛いよおくう、むぎゅってさせてよ、抱きしめさせてよ、おくうに頬ずりしてそのやーらかいほっぺたすりすりしたいよむぎゅむぎゅしたいよはむはむしたいよ――》」
「あにゃあああああああ!? やめてくださいさとり様ー!?」
真っ赤になって悲鳴をあげる猫一匹。もっと凄まじい妄想まで見えていたけれど、これ以上はさすがにこっちも口に出すのも恥ずかしい。
「うにゅ?」
そして、意味のよく解っていない鴉が約一羽。
「お、おおお、おくう、な、なななななっ、なんでもないからねっ!?」
「お燐? うにゅ、そんなほめられると照れるよー」
「あ、いや、褒めてるわけじゃ……」
照れくさそうに頬をかく空に、毒気を抜かれたような調子でお燐は首を振り、
「えいっ」
「あにゃー!?」
次の瞬間、空に抱きつかれて歓喜に満ちた悲鳴をあげていた。
「えへへー、お燐、むぎゅむぎゅー」
「お、おくう、や、やめ、やめなくていいや、えへへへへ……」
空に頬ずりされて、だらしなく緩みきった顔でお燐は芝生の上に転がる。
主の目の前でくんずほぐれつなペット一匹と一羽。明らかにもうこっちは視界に入っていない。いたたまれなくなって、私は踵を返した。
おかしい、ペットをからかって遊ぶつもりだったのに、どうして自分がダメージを受けねばならないのか。
灼熱地獄爆発しろ。私は本気で念じた。
※ ※ ※
『ええとね――これ』
と、妹は後ろ手からそれを差し出した。一冊の本。その表紙には見覚えがあった。
『お姉ちゃんが読んでくれた、ご本』
『ああ――そうね』
先日、寝物語に読んで聞かせた本だった。
ベッドの上、私が読む物語に目を輝かせ、やがて眠りに落ちる妹の顔。
それを見守るのは、この穏やかな日々の中の幸福のひとかけら。
『また読んでほしいの?』
『ううん』
妹はふるふると首を振って、それからひとつ首を傾げる。
『ねえ、お姉ちゃん。わたし、このおはなしでふしぎなことがあるの』
『なあに?』
私が問い返すと、妹は期待に目を輝かせて口を開いた。
『あのね――』
※ ※ ※
地霊殿は広いが、暮らしている者の数は多くない。
私と、ペットたちと――そして、妹のこいし。それだけだ。
とは言っても、妹はいつもどこかをふらふらと歩き回っている。
無意識に身を任せて、――私には見えない姿になって。
もうどれほどの間、妹の顔をちゃんと見ていないだろう。
心を閉ざし、無意識に身を置いた妹の姿は、私の第三の目にも映らない。
こいしの姿は、どこにも見つけられない――。
「……こいし?」
コトリ、と物音がして、私は振り返る。
けれどそこにいたのは、お燐とは別の火焔猫だった。私は息をついてその子を抱き上げる。
心を読む力がゆえに、私は言葉を持たない獣には好かれる。
けれどその力がゆえに、言葉を持つ人や妖怪からは嫌われた。
――妹もそうだ。
私は受け入れた。けれど、こいしは受け入れられなかった。嫌われることが。
だからこいしは心を閉ざして、私からも姿を見えなくして――。
どうしてだっただろう。
どうして、こいしは私からも隠れてしまったのだろう。
あんなに私はこいしのことが好きで、
こいしも私を好きでいてくれたはずだったのに――。
思い出す。こいしと一緒に過ごした時間のことを。
睦まじく、ふたりで触れ合い、言葉を交わした時間のことを。
寝物語に、妹に本を読んで聞かせた。
その物語に目を輝かせる妹の顔が、何よりの宝物だった。
そんな時間を過ごしていたのに、私たちはどうして――。
ふらりと、私の足はその部屋の前へと向かっていた。
その扉に掛けられたボードには、ハートマークと一緒に『こいし』の文字。
妹の部屋にも、もうどれほど足を踏み入れてないだろうか。
あの頃は、いつも一緒に遊んでいたのに。
「……こいし、いる?」
返事など無いと解っていて、私は軽く数回扉をノックする。
もちろん、返事は無かった。躊躇を断ち切るように、私は扉に手を掛ける。
「……入るわよ」
断りの言葉は、ただ繕うだけのものだ。それでも、罪悪感を押し殺して私は扉を開けた。
久しぶりに見た妹の部屋は、ひどく殺風景で、生きるものの気配など無く、がらんとして。
私はその入り口で立ちつくした。
――この殺風景な部屋は、そのまま古明地こいしという存在の表象のようだった。
妹は、こんながらんどうの孤独の中にいるのだろうか。
心を閉ざして、無意識に身を置いて、誰にも気付かれずに時間を過ごす。
それはいったい、どれほどの孤独だろう。
私はそんな妹を、ずっと見つけられないままで――。
足元に、何かが落ちていた。
私はそれを拾い上げる。色褪せた表紙の、本だった。
ページを捲れば、子供向けの平易な言葉で、物語が記されている。
――その文字を目で追って、私は。
『お姉ちゃん、あのね――』
妹の言葉が、笑顔が、唐突に脳裏に甦った。
雷に打たれたように、私は息を飲んだ。手から本がこぼれて、床に硬い音をたてた。
思い出した。
この本――この本だ。あのとき、こいしが私に差し出した本。
そしてこいしは、私に問いかけたのだ。
その問いに――私は。
私は、答えることが出来なくて――。
震える。両足が、両手が、身体全体が震えた。
自分の身体を抱きしめるようにして、私はその場に膝をついた。
「こいし――」
思い出した。思い出してしまった。
こいしが心を閉ざした理由。私がこいしを見つけられなくなった理由。
こいしは、嫌われることを恐れて、心を閉ざした。
――こいしを嫌ったのは、こいしを拒絶したのは、誰だ?
それは私だ。私が、こいしを拒絶したのだ。
こいしに心を読まれることを、恐れて、――こいしの言葉を拒絶して、
だからこいしは、私の拒絶に傷ついて、心を閉ざして――。
「こいし――ッ」
悲鳴のように叫んで、私は立ち上がった。
何をしていたのだ、古明地さとり。私は今まで何をしていたのだ。
こいしが心を閉ざしてしまたのは。こいしが孤独に身を置く事になったのは。全て私がその原因だったというのに。――そんなことも忘れて、私は。
こいしが見つからないことを諦めて。
こいしが心を閉ざしたことを諦めて。
諦観めいた言い訳を、己に言い聞かせて――こいしを見捨てていた。
私が捨てられたのではない。
私がこいしを捨てていたのだ。
「こいし、こいし、こいし――ッ」
私は立ち上がった。走りだした。
今から、今からでも間に合うだろうか。
私は今からでも、こいしを見つけられるだろうか。
拒絶した私を、こいしは見つけさせてくれるだろうか。
私は――こいしに、赦してもらえるのだろうか。
あのとき、こいしの言葉を、問いかけを拒んだことを――。
「さとり様? どうなさったんで――ちょ、さとり様!?」
お燐の声がしたが、構ってなどいられなかった。
私は地霊殿を飛び出して、仄暗い地底を駆けた。ただ、あの姿を探し求めて。
こいし。私の妹。恋しい恋しい、大切な、たったひとりの妹――。
「ごめんなさい――ごめんなさい、こいし――」
謝らなければいけない。抱きしめてあげなければいけない。
無意識の孤独を彷徨っている、大切な妹を。
そして、伝えなければいけない。
あなたのことを嫌ってなんかいないのだと。
私は今でも、これからもずっと、貴方を恋しく思っているのだと――。
仄暗い地底の闇の中、私はただ走り続けた。
第三の目で、あの子の心を、閉ざされた心を見つける為に。
※ ※ ※
『あのね、お姉ちゃん――』
『うん、なに?』
『――赤ちゃんって、どうやったらできるの?』
『……え?』
『ねーねー、お話の中でも赤ちゃん出てきたよね。どうやったら赤ちゃんできるの?』
『そ、それはね……え、ええと、その?』
『ふえ?』
『す、好き合った人同士が……そ、そのね? ええと――』
『? お姉ちゃん……××××ってなに?』
『――――!?』
『??? ×××××を×××に? なんでそんなことするの?』
『こ、こいし、駄目――』
『おねえちゃん、それなに? どういうこと? ××××って――』
『駄目、心を読んじゃ駄目――ッ!!』
私は爆発した。
こ れ は ひ ど い (色々な意味で)。
イイハナシダナー
俺も爆発すべき
オチで爆発した
作者は爆発オチの新たな可能性を切り開いたと思う
自爆するさとりんと純真無垢なこいし…
お姉ちゃんしかっりww
おもしろかったですwww
豪華客船に乗ってたらいきなりナイアガラにダイブしたみたいな気分ですwww
こいし・・・不憫な子・・・
無意識の存在にでもなったのかなあ
バカヤロウwwwww
このオチは予想外すぎましたw