私は人形である。
心はまだ無い。
私は今日も、テーブルの上から主の姿を見つめている。
同じ人形の仲間たちと、びいどろの瞳で主を見守る。
眠りはない。心のない人形に睡眠という概念はない。
私たちはいつも、そのびいどろに主と、主の部屋の景色を映している。
主が目を覚ます。
寝台から身体を起こした主は、その柔らかな金色の髪に寝癖の跡を残したまま、私たちのもとへ歩み寄る。
そして私を抱き上げて、何かを囁く。
言葉は聞こえない。私たちに聴覚はない。
けれどそれが、主が私にかけてくれるあたたかなものであると、私は知っている。
主の手が、私のナイロンの髪を梳く。
抱き上げられた私は、主の顔をびいどろの瞳で見上げている。
主は人形師であり、魔法使い。
人形を作り、人形を売ることで日々の糧を得ながら、魔法の研究を続けている。
私も、そんな主に作り出された人形の一体である。
主は人形師であるが、商人ではない。
人形を売るのは、生活と研究に必要なだけの収入のため。
だから気に入った人形は、自分の部屋に飾っている。
私はその、お気に入りの一体。
主が私の髪を撫でる手は、いつも優しい。
主の指先が縫い上げる色とりどりの服が、私の身体を着飾る。それを見つめる主の眼差しはいつも楽しげ。
私は主の人形。主の傍らにあり、主を楽しませ、安らがせるもの。
私はそれを知っている。
私はそのためにここにある。
ある時、主は安楽椅子に腰を下ろし、静かに本を読みふけっている。
私は主の膝の上に抱かれ、主の顔を見上げている。
主にとって心安らかな一時に、主の傍らにあれる。
それが私である。
またある時、主は私を連れて外へ出る。
森を抜け、人里へ出ると、そこで主は、糸に繋がれた私の身体をその指で操る。
両手両足を滑稽に踊らせる私の姿に、通りすがる子供が、大人が足を止める。
これもまた主の生業。人形劇で人を楽しませること。それもまた、主の収入源である。
私はときに陽気に踊り、ときに呆然と立ちつくし、またときに飾りの刃物を手にして勇敢に戦う。そうして、主の紡ぐ物語を演じる。
主を取り囲む視線は、その手元で踊る私に注がれる。
私は糸に操られながら、その視線をびいどろの瞳で受け止めている。
やがて主の指は止まり、私の動作も止まる。
主がぺこりと一礼すると、拍手があがり、足元の籠に小銭が投げ込まれる。
それが、主の人形劇に人々が満足した証であることを、私は知っている。
子供のひとりが、私に手を伸ばす。
主は器用に糸を引いて、私を抱き寄せる。
不満げな顔の子供に、主は微笑んで何かを言い聞かせている。
そして鞄から別の小さな人形を取り出し、子供に差し出す。
貰われていく私のきょうだいを、私はびいどろの瞳で見送る。
ああして、いくつものきょうだいたちが売られていった。
けれど私は、主の腕の中にある。
私は主とともにある。
されど、ここのところ。
主が私に触れる時間が、少しずつ減っていることを、私は知っている。
今も、主は私をテーブルの上に置いたまま、椅子の上で本を読んでいる。
けれど主の目は、本の上の文字を追っていないことを、私は知っている。
主はそわそわと待ちわびている。何を待ちわびているのか、私は知っている。
私はそれを黙って見つめている。
ほどなく、主が顔を上げる。その顔が一瞬、幸せそうな笑みを浮かべる。
けれど主はすぐに、何でもないような顔を取り繕って、立ち上がる。
主が扉を開ける。扉の向こうから、別の人影が現れる。
それは黒い帽子に黒い服、主と同じ金色の髪をした人間。
主は迷惑そうな顔をして、その人間を出迎えている。
人間は図々しい笑みを浮かべて、私の置かれたテーブルの傍らの椅子に腰を下ろす。
そして人間は、私の額を突いてみたりする。
すると主は、私を抱き上げて人間を睨んでみせる。
肩を竦めて苦笑する人間と、私を抱き上げ髪を撫でる主。
されど私は解っている。
主の目は、私ではなく、その人間を見ているのだと。
その人間は、毎日のように主の元に現れる。
主はその度に、迷惑そうな顔をして出迎える。
しかし主は、その人間に背を向けるとき、幸せそうな微笑みを浮かべている。
私はそれを見つめている。
テーブルの上から、幸せそうな主を見つめている。
あの人間は客ではない。
主の人形を買い求めるわけでもなく、人形劇を見物するわけでもない。
おそらくは魔法使い仲間であろう。主と同じ、魔法を研究する者。
だが、主の幸せそうな笑みの理由は、それだけであろうか。
主の笑みはただ、同好の志といるという理由だけであろうか。
主は――あの笑みを、あの人間のために浮かべている。
私のためではなく。
また、私はテーブルの上。
主の膝の上に抱かれることは、最近めっきり減っている。
主は今、泣いている。
静かにはらはらと、肩を震わせて泣いている。
その肩を抱いているのは、あの黒い服の人間。
私ではない。
私はテーブルの上から、それを見つめている。
私はびいどろの瞳で、それを見つめている。
主の肩を抱く人間の姿を。
肩を抱かれ、人間の胸に頬を寄せてすがりつく主の姿を。
私は。
私は、主に触れられない。
私は主の肩を抱けない。
私は主に抱かれるだけの人形。
私は主に操られるだけの人形。
私は――主に。
主に、――
主は幸せそうに、黒い人間を出迎える。
私はテーブルの上で、それを見つめている。
私の服は、もう幾月も同じものを着せられたまま。
私の身体には、うっすらと埃が積もっている。
されど私は動かない。
私は動けない。
私は主を見つめている。
黒い人間と抱き合う主を、見つめている。
主は私をもう見ない。
主は私をもう抱かない。
主は私をもう、愛おしんではくれない。
私はもう、主の特別なものではない。
私はもう、主の大切なお人形ではない。
主の心には、私ではなく、あの人間がいる。
あの黒い服の人間が。
私は主を見つめている。
私は主を見つめている。
私は、――主を、――……。
その日、主は私を抱き上げる。
私の身体は埃をかぶり、服は色褪せ、びいどろの瞳は曇っている。
主はそんな私を抱き上げ、小さく微笑む。
私はそれを、曇ったびいどろの瞳で見上げる。
主は私を抱いたまま、静かに家を出る。
森を抜け、人里を歩く。
されど、人形劇は始まらない。
私の身体に、糸は繋がっていない。
人里を通り抜け、主はさらに歩く。
私は主に抱かれ、その道程をただ見つめている。
やがて主は、その場所にたどり着き、足を止める。
私のびいどろの瞳が、その景色を映し出す。
一面の鈴蘭畑が、広がっている。
主は私を、差し出すように両手で胸から離し。
次に主の両手が、私の身体から離れた。
支えを失った私は、鈴蘭畑の中に沈む。
身体が地面に打ち据えられて、手足が変な方向へ折れ曲がる。
主はそれを、黙って見下ろしている。
そして主は、くるりと踵を返す。
私を拾い上げないまま、主は歩き去っていく。
私はそれを見送っている。
びいどろの瞳で、見送っている。
私は人形。
主の人形。
では、私はなぜここにいる?
なぜ主は、私をこんなところへ置いていく?
日が照る。
主は私を拾い上げには来ない。
雨が降る。
主は私を拾い上げには来ない。
風が吹く。
主は私を拾い上げには来ない。
雪が積もる。
主は――。
繰り返す。
鈴蘭の花に囲まれて、幾度も幾度もそれを繰り返す。
日が照り、雨が降り、風が吹き、雪が積もる。
私はただそこにある。
鈴蘭の毒に埋もれて、びいどろの瞳でそれを見つめている。
主は来ない。
主は私を拾い上げてくれない。
主は私を抱いてはくれない。
主は――。
私は、
私は人形である。
心はまだ無い。
心は、まだ、無い。
でもなかなか面白かったです、はい。
そうか、メディさんの制作者か。
うーん、アリスの人形はやはり使い捨てかなぁ
人形を人に見立てる必要はない以上、人形はあくまでも人形として扱うのが使い方なんでしょう。
人形を大事にしろって言う魔理沙の考え方が、女の子らしくてちょっと可愛いですね。
窓の向こうにはなんと…元気に走り回るゴリアテの姿が!
アリスの話じゃ無いんだ!!>11さんのおかげで分かったw
メディを作った人も色々大変だったんだろうなぁ。
短いながらも面白かったですね。
こういう話は正直好みです。
実は爆薬じゃなくて魔力を全放出して動けなくなるだけとか?
まぁ、いちいち人形を壊すよりそっちの方が(私の心情的に)いい気がする。
せつないなぁ。しかしあとがきで落ち込んだ雰囲気のフォローも忘れないのは流石です。
そうか、アリスじゃなかったのかこれ
恋に生きるために人形を捨てた魔法使い、悲しいですね。
黒い人間と抱き合うところで、「マリアリひゃっほう!」とか思った僕は汚れているよ。