「………………………………………………………寒い」
彼女は布団にくるまって座り込み、ガタガタと震えていた。歯の根はカチカチと鳴り、目は虚ろに床を眺めているだけである。
かなり情けない姿であるが、こう見えて彼女は妖精である。
妖精とは大自然の力が人間のカタチに具象化したもの。彼女の場合は、春。木や水や火などの自然個体の妖精とは違い、現象そのものの力が姿をもった妖精。
春の訪れはつまり、彼女の訪れ。春の目覚めはつまり、彼女の目覚め。彼女が春を告げることで、この世に生きるすべてのものは春を知る。冬眠していた動物たちは目を覚まし、草木は花めき、人間たちは活力を得る。
彼女は春告精、リリー・ホワイト。この世界に生きとし生けるもの全てに春の訪れを告げる妖精。
そんな彼女は今、春を告げることもなく、家の中で丸くなっていた。頭から毛布をすっぽりと被り、小刻みに震えながら、虚ろな眼差しのままブツブツ言っている。大自然の力の顕現である威光は、今の彼女から感じることができない。残念ながら。
「…………………………寒い…………寒すぎる…………………………………は、春ではないんですかー?」
屋内とは言え、その寒さは筋金入りだった。吐く息は白く、布団から出ている顔を容赦なく冷気が刺す。鼻の頭は赤くなり、次第に痛みを伴いだしてきていた。屋内ですらこれなのだから、外はまさに冬の様相を呈していることだろう。もちろん、こんな状況の中、進んで外に出るようなことは断固としてするつもりはないだろうが。
そんな時――不意に部屋の中を、ギギギィという鈍い音が響いた。建てつけの悪い家のドアが開く音が聞こえる。リリーはその音を聞き、咄嗟に身構えた。実際は身構えるというほどの動作をしたわけではなく、開かれたドアの方を睨みつけるだけだったのだが。無論、毛布もそのまま被りっぱなしで。
明かりを付けなかった部屋に、光が飛び込んでくる。リリーはどうにか渾身の力を込めて、不埒な侵入者の方を睨みつけていた。妖精を襲うという不届きな輩かもしれない。巷の妖精たちが考え無しに悪戯三昧してくれているせいで、妖精という種族は人間たちの一部に酷く不評を買っていることは彼女も知っていた。力の弱っている今、何か意趣返しをされるとすると、彼女にはなす術が無い。彼女は悪戯をする方ではないので、意趣返しなどされてもとばっちりもいいところなのに。
闖入者はドアを完全に開け放ち、彼女の姿を目に留めると、予想外の台詞を吐いた。
「……………………え――――っと…何をやってるのかな?ここ……私の家なんだけど…?」
この家の真の家主――藤原妹紅は、目の前の少女を見て唖然としていた。
妙な沈黙が流れる。
リリーは沈黙に耐えかねるように、満面の笑みを作って口を開いた。
「…………………………………………は…………春ですよ?」
冷たく凍った空気が、暖かくなることは無かった。
※
「――まぁなんとなく事情はわかった。あんたは春告精で、普段ねぐらにしている場所が寒かったためにそこを飛び出して、フラフラと彷徨った結果、誰のか知らない家を見つけて、さらにはそこの家主が不在なのをいいことに勝手にご厄介になっていた、と」
「いえ、正確には“誰のか知らないこのあばら家に”です」
ゴッと鈍い音を立て、彼女の頭の上に拳が降ってきた。
「おぅっ!おぉぉぉぉぉぉぉぉ……」
「さっき説明した時もハッキリ言いやがって…聞こえてるっての!」
彼女は頭を押さえながら低く唸り声を上げた。大声を上げて飛び上がるような瞬間的な痛みではなく、重く頭に残るような痛みに思わず身悶える。
人間に手を上げられたのは初めてだった。悪戯することもなく、真面目に春の訪れを告げる彼女は、感謝されこそすれ怒られたことはない。
だから今回もなにが悪かったのかサッパリわかっていなかった。
畳敷きの一間に二人。部屋の真ん中に向かい合うようにして座っていた。
胡坐をかき腕を組んで鼻をならす、この家の主、藤原妹紅と、
腕と頭以外、すっぽりと布団にくるまり、布団の妖精と化していた春の妖精、リリー・ホワイトがいた。
「っていうか、春告精なんだよね?」
「そうですよぅ~」
何度も言ってるじゃないですか……、とブチブチ文句を言いながらリリーは答えていた。
「……来るの遅くない?もう三月も末だよ。立春なんかとうに過ぎちゃったんだけど」
「うそぉ!?まだ大寒じゃないんですか!?」
「なにをアホなことを……もう春分すら迎えたよ」
完全に予想外の状況だったが、人間相手にオタオタしている姿は見せられない――そう思い、リリーはコホンとひとつ咳払いをして、
「――あなたにいい歌を教えましょう。『年のうちに 春は来にけり 一年(いちねん)を去年(きょねん)とやいはむ 今年とやいはむ』という歌です――ふふっ、あなたにはちょっと難しかったですかね?」
などとしたり顔で言ってやっていた。春を告げる妖精様をグーで殴るという不作法者に歌で説明してやるなんて――なんて典雅な私!もう妖精は頭が弱いとか言わせない!
みるみると鼻が高くしているのが傍目にもわかった。ふふん、と胸を張り、自慢げに人差し指を立てている。
「在原元方か……よくそんなの知ってるね。ちなみに“一年(ひととし)を去年(こぞ)とや”だよ」
一言であっけなく叩き折られる鼻。
「――よ、よくご存じで……」
「昔取った杵柄でね。和歌読むのは好きなんだ。勅撰集全部読めたのは実は最近なんだけどね」
「い、意味はですね……」
「年内立春の歌でしょ?っていうか立春がどうのっていう前に、今の暦で言えばそろそろ四月なんだって」
妹紅は腕を組ながら憮然として言い放った。
リリーは黙ってうつむき、しばらく黙ったかと思いきや、何かを決意したように顔を上げ、口を開いた。
「――……私には……まだ春が感じられないんです」
ここまでの掛け合いとは違う空気が流れていることを感じ取り、妹紅もひとまずは話を聞く体勢に入った。
リリーはポツリポツリと語りだす。
「私はなにも暦を見て春を告げているわけじゃないんです。春告精である私は、自然界に現れる微細な変化……春の息吹のようなものを感じ取って、それを告げているだけです。――そりゃ私が春を告げて周った後には春が来ますが……それも厳密には私の力という訳ではありません。私は皆が気付いていない春の息吹を気付きやすいように告げて周っているだけ。私の通ったあとは、全てのものが春に気づき、春めいていくだけなんです。だから――えーっと、例えば私が真冬にどこを飛んでいても、その後に桜が咲くなんてことはあり得ません。冬には“春”は一切ありませんから」
ひとまずそこまでを一息に語り切ると、
「――なるほどね。とりあえず、あんたが無差別に春を撒き散らしてるんじゃないことはわかった」
「そうなんです……結局は自然の方が春の息吹を見せてくれないと、私は春を告げることができません。――どうやら今年の春は遅いみたいです」
あぁ確かに、と妹紅は窓の外を見やった。外では風が強く吹いており、彼女たちのいる家をもガタガタと揺らしていた。
今年は確かに春が遅い。というより異常に冬が長い。三月も末まで来たこの時期、桜吹雪が舞っていてもおかしくはないのだが、今外では、普通の吹雪が舞っていた。
幻想郷ではまだ冬が続いているのである。
今日もそんな日。さきほどまで外に出ていた妹紅も、まだ耳を真っ赤にしていた。
「――ん?っていうか最近にもそんなことなかった?」
「はい。“春雪異変”ですね」
春雪異変――それはかつて亡霊の姫君・西行寺幽々子が首謀した異変。その通称である。
幽々子は白玉楼にある妖樹・西行妖を満開にするために幻想郷全土の春を人為的にかき集め、その結果、幻想郷には超長期的冬季が続いたのだ。
状況としては、かなり現在のものに近い。春の訪れるべき時季にもかかわらず降る雪。今回のこの寒さも、再び起こった異変であると考えた方が説明がつく。
だが、
「――今回のコレは、残念ながら違います」
そう、これは誰かの起こした“異変”ではない。
「確かにちょっと異常な事態ではありますが、これはあくまで自然現象みたいです。前の春雪異変の時のように、誰かが意図的に春を集めているというのならば、私にはその場所がわかります。前回と違い、春という季節を封印などで押さえているとしても同じです。たとえ大妖怪でも、神様でも、自然の巡りを完全にコントロールすることは不可能です。自然の力の発現である私たち妖精にはその違和感を感じることができます。――でも……今回のこの寒さにはそれらの兆候は見られません」
「――つまり?」
「これはただの異常気象みたいです……」
三月に降る雪。それはただの自然の気まぐれに過ぎなかった。
例年よりも一ヶ月以上も長い冬。それが誰のせいでもなくただの自然現象だというのなら、幻想郷に生きる誰にもそれを変えることはできない。
自然の力というのは、それほどに絶対的なものである。
「じゃあ、あなたも私もお手上げね。黙って春が来るのを待つしかないか……」
妹紅は適当な相槌を打って話を締めた。よく出入りしている人間の里でもこの寒さに上がる悲鳴は後を絶たないことを彼女は知っていたため、自分にできることがあるなら手を貸してやりたいという気持ちがあったのだが――相手が大自然なら、自分にできることはない。別に寒いからって死ぬわけではないし諦めよう、という彼女の本音もあった。
「ダメです!!このまま冬が続いたら死んじゃいます!私が!」
里の人間たちの代わりに、部屋の真ん中で布団が悲痛な叫びを上げていた。
「いやいや……妖精でしょ?死なないじゃない」
「そりゃ肉体的には死にませんけど……なんかこう……メンタル的に死んじゃう!だって寒いの苦手なんですよ~っ!」
「そりゃ春の妖精だろうからね」
「寒い冬も苦手だし、暑い夏もダメです!秋は……比較的近いけど……なんか違くてヤです!」
「ただのワガママかっ!」
布団から出ている頭に厳しいツッコミが炸裂する。妹紅本人も狙ったわけではなかったが、寸分違わず同じ場所に。おぉぉぉぉぉぉぉぉ――………という低い悲鳴もそのまま同じ。
「ボコスカ殴るな!!妖精ですよ!大事にしないとバチ当たりますよ!アホ!変人!」
「あんだとぅ……」
売り拳に買い言葉を送ったが、完全に火に油でしかなかったようだ。妹紅の纏う空気が変わるのを感じとり、リリーは咄嗟に布団の中に頭まで埋めた。文字通り手も足も出ていなかったのだが、ついに頭まで出なくなった。これで彼女は名実ともに布団の精霊だった。
そんなみっともない妖精を前に、妹紅は出しかけていた拳を仕舞い、溜息を一つ吐いた。
「――で?あなたは自分の家にいつ帰るのかな?」
目の前の布団が喋りだす。
「あ、それなんですけど」
「いいからまず布団から出てこい」
リリーはチッと一つ舌打ちをしてもそもそと億劫そうに布団から頭を出した。布団の中での悪態だったので聞こえていないと思ったのだろうが、狭い部屋の中では筒抜けだった。妹紅が仕舞ったはずの拳を再び振りかざしてやろうとして、どうにか押し留まった。殴りたいのは山々だが、それでは一向に話が進まない。
「それなんですけどね。せっかくだから春が来るまでここに住まわせてもらおうかなー、って思ってます」
布団から出した頭が妹紅を見る。柔らかな笑顔の中で、くりんとした可愛らしい瞳が煌く。その瞳は綺麗に澄み切っていて、妖精の純真さを表すかのようだった。美しく潤むその二つの瞳を、妹紅も真っ直ぐに見つめ、そして――
「えー……ヤだ」
一撃で粉砕した。
「ちょっと!!そこは黙って頷くとこじゃないですか!あなたのあばら家に妖精が住むんですよ!?ファンシーじゃないですか!まぁ幻想的!!」
「自分で言ってりゃ世話ないっての!っていうかまたあばら家とか言いやがったな!住まわせてもらおうって態度がなってねぇ!」
「もうちょっとでいいから……お願いします!断ったらこの家の周りだけ春呼びませんよ!?」
「今度は脅迫かよ!いいから布団置いて出てけよ!」
「ヤだーっ!もうこれ私の布団だもん!布団も私の方がイイって言ってますよ!」
「そんなわけあるか!!」
侃々諤々、喧々囂々、二人の言い合いは尽きることがなかった。議論は完全に平行線。というか最初から完全に噛み合わないまま延々と続いていた。
そして数刻の後――
「あ、妹紅さん。みかん取ってください」
「自分で取りなよ」
「えーそれくらいいいじゃないですかー。いい奥さんになれませんよー?」
「余計なお世話だっ!」
「おふっ!!」
リリーの顔面にみかんが投げつけられた。綺麗にピッチングされたみかんは狙い済ましたかのようにリリーの眉間にヒットし、仰け反る彼女の目の前を真っ直ぐに宙に浮かんでいた。
妹紅宅のまた別の部屋。投げつけた妹紅と額を赤くしたリリーは、いまや同じ炬燵に足を突っ込んで向かい合っていた。天板の上にはみかんの山。リリーは涙目になりながらブツブツと文句を言っている。妹紅は大きな溜息を一つ吐く。
「くっそぅ……どうしてこんなことに……」
長きに渡る議論――もとい口論の末、結局は妹紅が折れたのだ。おかげで妙な同居人を抱えて春を待つことになってしまった。冬の備えはまだある。居候の一人くらい住まわす甲斐性もある。だが、それにしても妖精を住まわすとは思っていなかった。前途の多難さに彼女は痛い頭を抱えて溜息を吐く。こんなに春の訪れを恋しく思ったことはないだろう。
そんな家主の心情など気にもせず、リリーは炬燵に足を突っ込み、背中には妹紅の袢纏を羽織り、みかんの皮を嬉しそうに剥いていた。
こうして春を告げる妖精と、竹林に住む人間の奇妙な共同生活が始まった。
ある日、
「あんたも炬燵入ってダラダラしてるだけじゃなくてなんかしなよ」
「水仕事は寒いからヤです。炊事と洗濯以外でしたらやりますよ」
「えー。どれだけ偉そうな居候だよ……じゃあ仕方ない。とりあえず掃除でもしてよ」
「炬燵の周りだけでいいですよね」
「炬燵から出ろっつーの!」
またある日、
「そういえば、私の家をあばら家とか言ってくれやがったけど、あんたは普段どんな所に住んでんのさ?」
「そうですね……春を告げるという雅な私に相応しい……そう、あなたにもわかるような例だと、平等院鳳凰堂のように華美な――」
「嘘つけ」
「洞窟です」
「人の家馬鹿にできる住処じゃないだろ!」
「だから寒いんですよぉ~。我ながらよくあそこで毎年冬を越してたもんですよ……」
「そりゃ……そうだろうね……」
ふとした日には、
「妹紅。最近里で見ないが生きてる……か……」
「あ、どうもこんにちは」
「あぁ慧音。里で見なくても私は死んでない……ってどうしたの?」
「こっちの台詞だ。妖精と向かい合って炬燵に入ってるとは思わなかったからな。春告精がこんな所で何を?」
「妹紅さんの所に嫁ぎました♪」
「ぶふぉっ!!!」
「そうか……それは知らなかったな。ついに嫁を貰ったのか。これはこれは、ご挨拶遅れて申し訳ない」
「いえいえ、こちらこそ。ウチの妹紅がお世話になっているそうで」
「ええ、彼女は竹林での人間の護衛をしてくれる傍らで私の寺子屋も手伝ってくれていまして、お世話になっているのはむしろ私の方……よい旦那さんに見初められましたね」
「いやだ、恥ずかしいですわ」
「二人して普通に挨拶すんなっ!!慧音!真に受けて里で言いふらすなよ!!これ嘘だから!」
「そんなに照れることもないだろう?」
「そうですわ、ア・ナ・タ」
「頬を染めるなっ!アナタとか言うなっ!!っていうか私も女だぁぁぁぁぁぁ―――っ!!」
その数日後、
「もこーっ!!聞いたわよ~!!嫁貰ったんですって!?ププッ、そんな面白いこと私に言わないとかぁ~どういう了見よ~!」
「げっ輝夜!?おまえがどういう了見だよ!とっとと永遠亭に帰れっ!」
「え~せっかく慧音に聞いて飛んで来たってのにツレないわねぇ」
「慧音……人事だと思って面白半分でいるな……」
「あ、こちらが奥様の妖精さんでしたっけ?こんなプーとご結婚とは思い切りましたね」
「えぇ、この人はダメ人間ですから。私がどうにかしようと思いまして」
「あらまぁ、出来た妖精さんで。良かったわね、妹紅」
「おまえら二人して……出てけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ――――――――っ!!」
そこからまた幾日か経ち、
「お邪魔します。妹紅さんはご在宅でしょうか」
「はいはい……って阿求か。珍しいね。何かご用事?」
「こんにちは。こちらに妖精が住み着いていると聞いたものですから」
「――結婚はしてないよ?」
「はい?――なんの話かは知りませんが、ちょっとそちらの妖精を見に来た次第でして」
「ん?私?」
「はい。春告精のリリー・ホワイトですね。ちょっとお話聞かせて貰ってもいいですか?求聞史紀の編纂の資料にしたいんです」
「取材!?光栄です~。なんでも聞いてください」
「えぇ、ではまず……寒いのが嫌いだと聞いたので、ちょっと外に出てください」
「嫌いだって知っててなんでわざわざ――」
「そうしたら次は乾布摩擦してもらって、そこに冷水をぶっかけます。その極限状態で妖精が正気を保っていられるか実験したいと思います」
「ちょ……えーっと………はい?」
「阿求……おーい、阿求、さん?……目怖いですよ……?」
「ふふ、ふふふふふふふふふふ。冗談ですよ?いくら私が妖精嫌いでも、そんなことするわけないじゃないですか…ふふふ、ふふふふふふふふふふふふふふ」
「も、妹紅―――っ!!この人怖い!!」
「あ、阿求!?とりあえず……ね?落ち着こう!?まずはその水の入ったバケツをそこに置いてからでも遅くはないと思うな!?」
「ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
ドタドタと、バタバタと、リリーと妹紅の日々は過ぎていった。
寒さもだんだんと鳴りを潜めてきている。もう春の訪れも近いのかもしれないということが感じられ始めていた。
春が来ればリリーは本来の仕事へと戻ってゆく。それはつまり、この家から出てゆくということ。期間限定のルームシェアの終了は、あれよあれよという間に、もうそこまで来ていた。
二人はそんなことなど気にもせず、いつものように炬燵に潜りこんでダラダラしていた。もはや万年床と化しつつある炬燵で寝起きすることすら、彼女たちには珍しくない日常だ。
朝になり、妹紅は不意に眠りから覚めた。どうやら今日も炬燵に下半身を突っ込んだまま横になって寝てしまっていたようだった。ふと目を覚ました時には、喉はカラカラに渇き、水分を失った口腔がベタベタと粘ついていた。
「ん……ノド渇いた……リリー起きろー……朝だぞー……」
妹紅は起き上がり、半分閉じた自分の目を擦っていた。いつ寝たのか覚えていないが、やはり炬燵で寝るのは良くない。いまひとつ寝足りない。最近炬燵が続いていたから、そろそろ布団で寝て生活を戻さなきゃ……などと考えながら、まだ半分寝たままの頭で世界をぼーっと眺めていて――気づいた。
狭い炬燵の中にもう二本あるはずの足、その感触が無いことに。
それに気づいた妹紅は、飛び起きるように立ち上がり、向かい合わせの席を見る。炬燵を挟んで反対側の場所――そこは奇妙な同居人の特等席。いつものようにだらしなく寝ているはずのその場所に――しかし、彼女はいなかった。
一瞬茫然とした妹紅の目に飛び込んだもの。
それはいなくなった妖精の代わりに、そっと置かれた一輪の花。
「福寿草……か――」
その黄色い花は、小さく、可憐に咲き誇っている。
まるでいなくなったあの少女のように。
その花をそっと手に取り、目の前まで翳す。そこに、柔らかな風が通り抜けた。
いつの間にか空いていた窓から暖かい風が吹き込む。その風は温かく、命の匂いに満ちていた。
導かれるように窓まで近づき、外を見る。
空は青く晴れ渡り、地面は草花で色めいて、竹の葉の緑は美しく映し出されている。モノクロの世界は鳴りを潜め、世界が華やかに色彩で溢れていた。
動物も、植物も、人間も、妖怪も、空や、空気でさえ、全てが活気に満ちた、始まりの季節。
世界に、春が訪れていた。
「――そうか……もう行ったんだな……」
窓の外を眺め、手にした福寿草を指で捏ねるようにしてもて遊ぶ。回転する茎と連動して黄色い花がクルクルと回っていた。
「福寿草か……慧音に花言葉でも聞いてみるかな」
うーん、と一つ大きく伸びをして、彼女は開け放たれた窓から踵を返す。
福寿草――キンポウゲ科の多年草。季節は2~5月。花の色は、黄。
花言葉は――「幸福を招く」、「回想」、「思い出」、そして――「永久の幸福」
春――全ての命に活気が宿る始まりの季節――そして、別れの季節。
小さな出会いと、小さな別れ。
妹紅は水を汲みに行くついでに、小さなビンを手に取り、福寿草を差して窓際に置いてやった。
春のような少女の残した、春の香りが部屋に広がるようだった。
「みなさーん、春ですよー!!」
そうして彼女は青空の下、春を告げて周る。彼女の通った後は、木々が色めき、動物は目を覚まし、人々からは感嘆の溜息が漏れる。
世界は喜びに満ちていた。春を告げる彼女も、春を告げられる世界も、誰もが喜び、楽しみ、豊かな気分になっている。
そう、信じていた。
「あ、そこのあなた!春ですよー!!」
ふと立ち寄った小山の上、植えられた桜は彼女の訪れで満開になった。それまで蕾のまま春の訪れを待っていた木々が、一斉に色を放ちだす。
そんな木々の中にいる一人の人間。彼女も他の多くのように、咲き誇る花を見て、わぁっ、と驚嘆の声を――
「おっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっそい!!!!」
上げなかった。
彼女はリリーの存在を目に留めるや否や、人間とは思えないほどの速度で飛翔し、そのまま流れるような動きで、彼女の首根っこを掴んでいた。
「ちょ……え………なにっ!?」
何がなんだかわからない内に、彼女は境内まで真っ逆さまに連れ去られていた。そして何がなんだかわからない内に、神社のど真ん中で正座させられる彼女。未だに頭にはハテナマークが盛大に浮かんでいる。
目の前のお目出度い配色の巫女は腕を組み、ふんっ、と鼻を鳴らしながら何か叫んでいた。
「遅いわよっ!!今何月だと思ってるの!?もう5月も末じゃない!!ほっときゃ夏だって来るわ!!」
博麗霊夢は大幣を振りかざし、リリーに突きつけながらも息を巻いていた。
「あぁー……そうですねー…確かに例年より大分遅れましたけど……これにはふか~い訳があってですねぇ……っていうか私のせいじゃないっていうかですねぇ……」
「問答無用っ!!大方あんたがサボってたんでしょう!!――春が来ないせいで……寒さの為の備えも底をつき……異変かと思ってこのクソ寒い中冥界まで行ったのに……肩透かしで余計寒かったし……最も困ったのは花見の延期……この時期花見スポットの我が神社は花見のショバ代の収入と宴会のご飯が命なのにっ!!」
「えぇ~…知りませんよ……っていうか私のせいじゃなくて、あくまで自然現象でして……」
「問答無用って言ったでしょ!!仮にあんたのせいじゃなくても……この憤り……あんたで晴らしてやるわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「ちょ!!きゃっ……えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ―――――っ!!!」
「――という訳で、戻ってきました☆」
「はやっ!!」
リリーがいなくなって丸一日とちょっと――妹紅は久しぶりに人間の里に赴き、そこで世間話がてら、春めいた世界を歩いて周った。一月ぶりの一人歩きを、悠々自適に楽しんでいた。いなくなった居候を懐かしむよりも、まだ久々の一人の時間を楽しむことの方が大きかったのだ。
そうして春に彩られた世界を一人で楽しむこと二日目の夕方――いなくなったはずの件の妖精が再び家にいた。片付け忘れていた炬燵に足を突っ込み、彼女は特等席で微笑んでいた。
「私がいなくて寂しくなかったですか?」
「寂しいもなにも……まだ三日と経ってないんだけど……」
「まったまた~そんなこと言ってぇ~。私のために炬燵出しっぱなしにしててくれたんですよね~」
「うわぁうぜぇ……それはただのしまい忘れ。暖かくなったんだから炬燵に入るな。っていうか――なにまた人の家に上がりこんでくれてるの?」
「もう春告げも終わりましたからねぇ~。あ、そうそう!それより聞いて下さいよ!博麗の巫女がですね!酷いんですよ!」
「――あぁ、もう。………はいはい。で、どうしたって?」
溜息を吐き、頭を掻き、諦めたように大人しく、季節はずれの炬燵に潜り込んだ。
春――全ての命に活気が宿る始まりの季節。
別れの季節――そして同じだけの出会いの季節。
小さな出会いと、小さな別れ。
小さな別れは終わり、再び小さな出会い。
そうして日々は巡る。
藤原邸に、まだしばらく炬燵が出ていることになりそうだった。
※引用:古今和歌集より
“年のうちに 春は來にけり 一年(ひととせ)を去年(こぞ)とやいはむ 今年とやいはむ”
在原元方
意訳:年が明けないうちに立春が来てしまった。年が明けてからは、同じ一年のうちである立春から大晦日までの間を去年(こぞ)と言おうか、今年と言おう
旧暦では暦の性質上、立春が12月になってしまうこともあった。それを年内立春という。
彼女は布団にくるまって座り込み、ガタガタと震えていた。歯の根はカチカチと鳴り、目は虚ろに床を眺めているだけである。
かなり情けない姿であるが、こう見えて彼女は妖精である。
妖精とは大自然の力が人間のカタチに具象化したもの。彼女の場合は、春。木や水や火などの自然個体の妖精とは違い、現象そのものの力が姿をもった妖精。
春の訪れはつまり、彼女の訪れ。春の目覚めはつまり、彼女の目覚め。彼女が春を告げることで、この世に生きるすべてのものは春を知る。冬眠していた動物たちは目を覚まし、草木は花めき、人間たちは活力を得る。
彼女は春告精、リリー・ホワイト。この世界に生きとし生けるもの全てに春の訪れを告げる妖精。
そんな彼女は今、春を告げることもなく、家の中で丸くなっていた。頭から毛布をすっぽりと被り、小刻みに震えながら、虚ろな眼差しのままブツブツ言っている。大自然の力の顕現である威光は、今の彼女から感じることができない。残念ながら。
「…………………………寒い…………寒すぎる…………………………………は、春ではないんですかー?」
屋内とは言え、その寒さは筋金入りだった。吐く息は白く、布団から出ている顔を容赦なく冷気が刺す。鼻の頭は赤くなり、次第に痛みを伴いだしてきていた。屋内ですらこれなのだから、外はまさに冬の様相を呈していることだろう。もちろん、こんな状況の中、進んで外に出るようなことは断固としてするつもりはないだろうが。
そんな時――不意に部屋の中を、ギギギィという鈍い音が響いた。建てつけの悪い家のドアが開く音が聞こえる。リリーはその音を聞き、咄嗟に身構えた。実際は身構えるというほどの動作をしたわけではなく、開かれたドアの方を睨みつけるだけだったのだが。無論、毛布もそのまま被りっぱなしで。
明かりを付けなかった部屋に、光が飛び込んでくる。リリーはどうにか渾身の力を込めて、不埒な侵入者の方を睨みつけていた。妖精を襲うという不届きな輩かもしれない。巷の妖精たちが考え無しに悪戯三昧してくれているせいで、妖精という種族は人間たちの一部に酷く不評を買っていることは彼女も知っていた。力の弱っている今、何か意趣返しをされるとすると、彼女にはなす術が無い。彼女は悪戯をする方ではないので、意趣返しなどされてもとばっちりもいいところなのに。
闖入者はドアを完全に開け放ち、彼女の姿を目に留めると、予想外の台詞を吐いた。
「……………………え――――っと…何をやってるのかな?ここ……私の家なんだけど…?」
この家の真の家主――藤原妹紅は、目の前の少女を見て唖然としていた。
妙な沈黙が流れる。
リリーは沈黙に耐えかねるように、満面の笑みを作って口を開いた。
「…………………………………………は…………春ですよ?」
冷たく凍った空気が、暖かくなることは無かった。
※
「――まぁなんとなく事情はわかった。あんたは春告精で、普段ねぐらにしている場所が寒かったためにそこを飛び出して、フラフラと彷徨った結果、誰のか知らない家を見つけて、さらにはそこの家主が不在なのをいいことに勝手にご厄介になっていた、と」
「いえ、正確には“誰のか知らないこのあばら家に”です」
ゴッと鈍い音を立て、彼女の頭の上に拳が降ってきた。
「おぅっ!おぉぉぉぉぉぉぉぉ……」
「さっき説明した時もハッキリ言いやがって…聞こえてるっての!」
彼女は頭を押さえながら低く唸り声を上げた。大声を上げて飛び上がるような瞬間的な痛みではなく、重く頭に残るような痛みに思わず身悶える。
人間に手を上げられたのは初めてだった。悪戯することもなく、真面目に春の訪れを告げる彼女は、感謝されこそすれ怒られたことはない。
だから今回もなにが悪かったのかサッパリわかっていなかった。
畳敷きの一間に二人。部屋の真ん中に向かい合うようにして座っていた。
胡坐をかき腕を組んで鼻をならす、この家の主、藤原妹紅と、
腕と頭以外、すっぽりと布団にくるまり、布団の妖精と化していた春の妖精、リリー・ホワイトがいた。
「っていうか、春告精なんだよね?」
「そうですよぅ~」
何度も言ってるじゃないですか……、とブチブチ文句を言いながらリリーは答えていた。
「……来るの遅くない?もう三月も末だよ。立春なんかとうに過ぎちゃったんだけど」
「うそぉ!?まだ大寒じゃないんですか!?」
「なにをアホなことを……もう春分すら迎えたよ」
完全に予想外の状況だったが、人間相手にオタオタしている姿は見せられない――そう思い、リリーはコホンとひとつ咳払いをして、
「――あなたにいい歌を教えましょう。『年のうちに 春は来にけり 一年(いちねん)を去年(きょねん)とやいはむ 今年とやいはむ』という歌です――ふふっ、あなたにはちょっと難しかったですかね?」
などとしたり顔で言ってやっていた。春を告げる妖精様をグーで殴るという不作法者に歌で説明してやるなんて――なんて典雅な私!もう妖精は頭が弱いとか言わせない!
みるみると鼻が高くしているのが傍目にもわかった。ふふん、と胸を張り、自慢げに人差し指を立てている。
「在原元方か……よくそんなの知ってるね。ちなみに“一年(ひととし)を去年(こぞ)とや”だよ」
一言であっけなく叩き折られる鼻。
「――よ、よくご存じで……」
「昔取った杵柄でね。和歌読むのは好きなんだ。勅撰集全部読めたのは実は最近なんだけどね」
「い、意味はですね……」
「年内立春の歌でしょ?っていうか立春がどうのっていう前に、今の暦で言えばそろそろ四月なんだって」
妹紅は腕を組ながら憮然として言い放った。
リリーは黙ってうつむき、しばらく黙ったかと思いきや、何かを決意したように顔を上げ、口を開いた。
「――……私には……まだ春が感じられないんです」
ここまでの掛け合いとは違う空気が流れていることを感じ取り、妹紅もひとまずは話を聞く体勢に入った。
リリーはポツリポツリと語りだす。
「私はなにも暦を見て春を告げているわけじゃないんです。春告精である私は、自然界に現れる微細な変化……春の息吹のようなものを感じ取って、それを告げているだけです。――そりゃ私が春を告げて周った後には春が来ますが……それも厳密には私の力という訳ではありません。私は皆が気付いていない春の息吹を気付きやすいように告げて周っているだけ。私の通ったあとは、全てのものが春に気づき、春めいていくだけなんです。だから――えーっと、例えば私が真冬にどこを飛んでいても、その後に桜が咲くなんてことはあり得ません。冬には“春”は一切ありませんから」
ひとまずそこまでを一息に語り切ると、
「――なるほどね。とりあえず、あんたが無差別に春を撒き散らしてるんじゃないことはわかった」
「そうなんです……結局は自然の方が春の息吹を見せてくれないと、私は春を告げることができません。――どうやら今年の春は遅いみたいです」
あぁ確かに、と妹紅は窓の外を見やった。外では風が強く吹いており、彼女たちのいる家をもガタガタと揺らしていた。
今年は確かに春が遅い。というより異常に冬が長い。三月も末まで来たこの時期、桜吹雪が舞っていてもおかしくはないのだが、今外では、普通の吹雪が舞っていた。
幻想郷ではまだ冬が続いているのである。
今日もそんな日。さきほどまで外に出ていた妹紅も、まだ耳を真っ赤にしていた。
「――ん?っていうか最近にもそんなことなかった?」
「はい。“春雪異変”ですね」
春雪異変――それはかつて亡霊の姫君・西行寺幽々子が首謀した異変。その通称である。
幽々子は白玉楼にある妖樹・西行妖を満開にするために幻想郷全土の春を人為的にかき集め、その結果、幻想郷には超長期的冬季が続いたのだ。
状況としては、かなり現在のものに近い。春の訪れるべき時季にもかかわらず降る雪。今回のこの寒さも、再び起こった異変であると考えた方が説明がつく。
だが、
「――今回のコレは、残念ながら違います」
そう、これは誰かの起こした“異変”ではない。
「確かにちょっと異常な事態ではありますが、これはあくまで自然現象みたいです。前の春雪異変の時のように、誰かが意図的に春を集めているというのならば、私にはその場所がわかります。前回と違い、春という季節を封印などで押さえているとしても同じです。たとえ大妖怪でも、神様でも、自然の巡りを完全にコントロールすることは不可能です。自然の力の発現である私たち妖精にはその違和感を感じることができます。――でも……今回のこの寒さにはそれらの兆候は見られません」
「――つまり?」
「これはただの異常気象みたいです……」
三月に降る雪。それはただの自然の気まぐれに過ぎなかった。
例年よりも一ヶ月以上も長い冬。それが誰のせいでもなくただの自然現象だというのなら、幻想郷に生きる誰にもそれを変えることはできない。
自然の力というのは、それほどに絶対的なものである。
「じゃあ、あなたも私もお手上げね。黙って春が来るのを待つしかないか……」
妹紅は適当な相槌を打って話を締めた。よく出入りしている人間の里でもこの寒さに上がる悲鳴は後を絶たないことを彼女は知っていたため、自分にできることがあるなら手を貸してやりたいという気持ちがあったのだが――相手が大自然なら、自分にできることはない。別に寒いからって死ぬわけではないし諦めよう、という彼女の本音もあった。
「ダメです!!このまま冬が続いたら死んじゃいます!私が!」
里の人間たちの代わりに、部屋の真ん中で布団が悲痛な叫びを上げていた。
「いやいや……妖精でしょ?死なないじゃない」
「そりゃ肉体的には死にませんけど……なんかこう……メンタル的に死んじゃう!だって寒いの苦手なんですよ~っ!」
「そりゃ春の妖精だろうからね」
「寒い冬も苦手だし、暑い夏もダメです!秋は……比較的近いけど……なんか違くてヤです!」
「ただのワガママかっ!」
布団から出ている頭に厳しいツッコミが炸裂する。妹紅本人も狙ったわけではなかったが、寸分違わず同じ場所に。おぉぉぉぉぉぉぉぉ――………という低い悲鳴もそのまま同じ。
「ボコスカ殴るな!!妖精ですよ!大事にしないとバチ当たりますよ!アホ!変人!」
「あんだとぅ……」
売り拳に買い言葉を送ったが、完全に火に油でしかなかったようだ。妹紅の纏う空気が変わるのを感じとり、リリーは咄嗟に布団の中に頭まで埋めた。文字通り手も足も出ていなかったのだが、ついに頭まで出なくなった。これで彼女は名実ともに布団の精霊だった。
そんなみっともない妖精を前に、妹紅は出しかけていた拳を仕舞い、溜息を一つ吐いた。
「――で?あなたは自分の家にいつ帰るのかな?」
目の前の布団が喋りだす。
「あ、それなんですけど」
「いいからまず布団から出てこい」
リリーはチッと一つ舌打ちをしてもそもそと億劫そうに布団から頭を出した。布団の中での悪態だったので聞こえていないと思ったのだろうが、狭い部屋の中では筒抜けだった。妹紅が仕舞ったはずの拳を再び振りかざしてやろうとして、どうにか押し留まった。殴りたいのは山々だが、それでは一向に話が進まない。
「それなんですけどね。せっかくだから春が来るまでここに住まわせてもらおうかなー、って思ってます」
布団から出した頭が妹紅を見る。柔らかな笑顔の中で、くりんとした可愛らしい瞳が煌く。その瞳は綺麗に澄み切っていて、妖精の純真さを表すかのようだった。美しく潤むその二つの瞳を、妹紅も真っ直ぐに見つめ、そして――
「えー……ヤだ」
一撃で粉砕した。
「ちょっと!!そこは黙って頷くとこじゃないですか!あなたのあばら家に妖精が住むんですよ!?ファンシーじゃないですか!まぁ幻想的!!」
「自分で言ってりゃ世話ないっての!っていうかまたあばら家とか言いやがったな!住まわせてもらおうって態度がなってねぇ!」
「もうちょっとでいいから……お願いします!断ったらこの家の周りだけ春呼びませんよ!?」
「今度は脅迫かよ!いいから布団置いて出てけよ!」
「ヤだーっ!もうこれ私の布団だもん!布団も私の方がイイって言ってますよ!」
「そんなわけあるか!!」
侃々諤々、喧々囂々、二人の言い合いは尽きることがなかった。議論は完全に平行線。というか最初から完全に噛み合わないまま延々と続いていた。
そして数刻の後――
「あ、妹紅さん。みかん取ってください」
「自分で取りなよ」
「えーそれくらいいいじゃないですかー。いい奥さんになれませんよー?」
「余計なお世話だっ!」
「おふっ!!」
リリーの顔面にみかんが投げつけられた。綺麗にピッチングされたみかんは狙い済ましたかのようにリリーの眉間にヒットし、仰け反る彼女の目の前を真っ直ぐに宙に浮かんでいた。
妹紅宅のまた別の部屋。投げつけた妹紅と額を赤くしたリリーは、いまや同じ炬燵に足を突っ込んで向かい合っていた。天板の上にはみかんの山。リリーは涙目になりながらブツブツと文句を言っている。妹紅は大きな溜息を一つ吐く。
「くっそぅ……どうしてこんなことに……」
長きに渡る議論――もとい口論の末、結局は妹紅が折れたのだ。おかげで妙な同居人を抱えて春を待つことになってしまった。冬の備えはまだある。居候の一人くらい住まわす甲斐性もある。だが、それにしても妖精を住まわすとは思っていなかった。前途の多難さに彼女は痛い頭を抱えて溜息を吐く。こんなに春の訪れを恋しく思ったことはないだろう。
そんな家主の心情など気にもせず、リリーは炬燵に足を突っ込み、背中には妹紅の袢纏を羽織り、みかんの皮を嬉しそうに剥いていた。
こうして春を告げる妖精と、竹林に住む人間の奇妙な共同生活が始まった。
ある日、
「あんたも炬燵入ってダラダラしてるだけじゃなくてなんかしなよ」
「水仕事は寒いからヤです。炊事と洗濯以外でしたらやりますよ」
「えー。どれだけ偉そうな居候だよ……じゃあ仕方ない。とりあえず掃除でもしてよ」
「炬燵の周りだけでいいですよね」
「炬燵から出ろっつーの!」
またある日、
「そういえば、私の家をあばら家とか言ってくれやがったけど、あんたは普段どんな所に住んでんのさ?」
「そうですね……春を告げるという雅な私に相応しい……そう、あなたにもわかるような例だと、平等院鳳凰堂のように華美な――」
「嘘つけ」
「洞窟です」
「人の家馬鹿にできる住処じゃないだろ!」
「だから寒いんですよぉ~。我ながらよくあそこで毎年冬を越してたもんですよ……」
「そりゃ……そうだろうね……」
ふとした日には、
「妹紅。最近里で見ないが生きてる……か……」
「あ、どうもこんにちは」
「あぁ慧音。里で見なくても私は死んでない……ってどうしたの?」
「こっちの台詞だ。妖精と向かい合って炬燵に入ってるとは思わなかったからな。春告精がこんな所で何を?」
「妹紅さんの所に嫁ぎました♪」
「ぶふぉっ!!!」
「そうか……それは知らなかったな。ついに嫁を貰ったのか。これはこれは、ご挨拶遅れて申し訳ない」
「いえいえ、こちらこそ。ウチの妹紅がお世話になっているそうで」
「ええ、彼女は竹林での人間の護衛をしてくれる傍らで私の寺子屋も手伝ってくれていまして、お世話になっているのはむしろ私の方……よい旦那さんに見初められましたね」
「いやだ、恥ずかしいですわ」
「二人して普通に挨拶すんなっ!!慧音!真に受けて里で言いふらすなよ!!これ嘘だから!」
「そんなに照れることもないだろう?」
「そうですわ、ア・ナ・タ」
「頬を染めるなっ!アナタとか言うなっ!!っていうか私も女だぁぁぁぁぁぁ―――っ!!」
その数日後、
「もこーっ!!聞いたわよ~!!嫁貰ったんですって!?ププッ、そんな面白いこと私に言わないとかぁ~どういう了見よ~!」
「げっ輝夜!?おまえがどういう了見だよ!とっとと永遠亭に帰れっ!」
「え~せっかく慧音に聞いて飛んで来たってのにツレないわねぇ」
「慧音……人事だと思って面白半分でいるな……」
「あ、こちらが奥様の妖精さんでしたっけ?こんなプーとご結婚とは思い切りましたね」
「えぇ、この人はダメ人間ですから。私がどうにかしようと思いまして」
「あらまぁ、出来た妖精さんで。良かったわね、妹紅」
「おまえら二人して……出てけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ――――――――っ!!」
そこからまた幾日か経ち、
「お邪魔します。妹紅さんはご在宅でしょうか」
「はいはい……って阿求か。珍しいね。何かご用事?」
「こんにちは。こちらに妖精が住み着いていると聞いたものですから」
「――結婚はしてないよ?」
「はい?――なんの話かは知りませんが、ちょっとそちらの妖精を見に来た次第でして」
「ん?私?」
「はい。春告精のリリー・ホワイトですね。ちょっとお話聞かせて貰ってもいいですか?求聞史紀の編纂の資料にしたいんです」
「取材!?光栄です~。なんでも聞いてください」
「えぇ、ではまず……寒いのが嫌いだと聞いたので、ちょっと外に出てください」
「嫌いだって知っててなんでわざわざ――」
「そうしたら次は乾布摩擦してもらって、そこに冷水をぶっかけます。その極限状態で妖精が正気を保っていられるか実験したいと思います」
「ちょ……えーっと………はい?」
「阿求……おーい、阿求、さん?……目怖いですよ……?」
「ふふ、ふふふふふふふふふふ。冗談ですよ?いくら私が妖精嫌いでも、そんなことするわけないじゃないですか…ふふふ、ふふふふふふふふふふふふふふ」
「も、妹紅―――っ!!この人怖い!!」
「あ、阿求!?とりあえず……ね?落ち着こう!?まずはその水の入ったバケツをそこに置いてからでも遅くはないと思うな!?」
「ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
ドタドタと、バタバタと、リリーと妹紅の日々は過ぎていった。
寒さもだんだんと鳴りを潜めてきている。もう春の訪れも近いのかもしれないということが感じられ始めていた。
春が来ればリリーは本来の仕事へと戻ってゆく。それはつまり、この家から出てゆくということ。期間限定のルームシェアの終了は、あれよあれよという間に、もうそこまで来ていた。
二人はそんなことなど気にもせず、いつものように炬燵に潜りこんでダラダラしていた。もはや万年床と化しつつある炬燵で寝起きすることすら、彼女たちには珍しくない日常だ。
朝になり、妹紅は不意に眠りから覚めた。どうやら今日も炬燵に下半身を突っ込んだまま横になって寝てしまっていたようだった。ふと目を覚ました時には、喉はカラカラに渇き、水分を失った口腔がベタベタと粘ついていた。
「ん……ノド渇いた……リリー起きろー……朝だぞー……」
妹紅は起き上がり、半分閉じた自分の目を擦っていた。いつ寝たのか覚えていないが、やはり炬燵で寝るのは良くない。いまひとつ寝足りない。最近炬燵が続いていたから、そろそろ布団で寝て生活を戻さなきゃ……などと考えながら、まだ半分寝たままの頭で世界をぼーっと眺めていて――気づいた。
狭い炬燵の中にもう二本あるはずの足、その感触が無いことに。
それに気づいた妹紅は、飛び起きるように立ち上がり、向かい合わせの席を見る。炬燵を挟んで反対側の場所――そこは奇妙な同居人の特等席。いつものようにだらしなく寝ているはずのその場所に――しかし、彼女はいなかった。
一瞬茫然とした妹紅の目に飛び込んだもの。
それはいなくなった妖精の代わりに、そっと置かれた一輪の花。
「福寿草……か――」
その黄色い花は、小さく、可憐に咲き誇っている。
まるでいなくなったあの少女のように。
その花をそっと手に取り、目の前まで翳す。そこに、柔らかな風が通り抜けた。
いつの間にか空いていた窓から暖かい風が吹き込む。その風は温かく、命の匂いに満ちていた。
導かれるように窓まで近づき、外を見る。
空は青く晴れ渡り、地面は草花で色めいて、竹の葉の緑は美しく映し出されている。モノクロの世界は鳴りを潜め、世界が華やかに色彩で溢れていた。
動物も、植物も、人間も、妖怪も、空や、空気でさえ、全てが活気に満ちた、始まりの季節。
世界に、春が訪れていた。
「――そうか……もう行ったんだな……」
窓の外を眺め、手にした福寿草を指で捏ねるようにしてもて遊ぶ。回転する茎と連動して黄色い花がクルクルと回っていた。
「福寿草か……慧音に花言葉でも聞いてみるかな」
うーん、と一つ大きく伸びをして、彼女は開け放たれた窓から踵を返す。
福寿草――キンポウゲ科の多年草。季節は2~5月。花の色は、黄。
花言葉は――「幸福を招く」、「回想」、「思い出」、そして――「永久の幸福」
春――全ての命に活気が宿る始まりの季節――そして、別れの季節。
小さな出会いと、小さな別れ。
妹紅は水を汲みに行くついでに、小さなビンを手に取り、福寿草を差して窓際に置いてやった。
春のような少女の残した、春の香りが部屋に広がるようだった。
「みなさーん、春ですよー!!」
そうして彼女は青空の下、春を告げて周る。彼女の通った後は、木々が色めき、動物は目を覚まし、人々からは感嘆の溜息が漏れる。
世界は喜びに満ちていた。春を告げる彼女も、春を告げられる世界も、誰もが喜び、楽しみ、豊かな気分になっている。
そう、信じていた。
「あ、そこのあなた!春ですよー!!」
ふと立ち寄った小山の上、植えられた桜は彼女の訪れで満開になった。それまで蕾のまま春の訪れを待っていた木々が、一斉に色を放ちだす。
そんな木々の中にいる一人の人間。彼女も他の多くのように、咲き誇る花を見て、わぁっ、と驚嘆の声を――
「おっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっそい!!!!」
上げなかった。
彼女はリリーの存在を目に留めるや否や、人間とは思えないほどの速度で飛翔し、そのまま流れるような動きで、彼女の首根っこを掴んでいた。
「ちょ……え………なにっ!?」
何がなんだかわからない内に、彼女は境内まで真っ逆さまに連れ去られていた。そして何がなんだかわからない内に、神社のど真ん中で正座させられる彼女。未だに頭にはハテナマークが盛大に浮かんでいる。
目の前のお目出度い配色の巫女は腕を組み、ふんっ、と鼻を鳴らしながら何か叫んでいた。
「遅いわよっ!!今何月だと思ってるの!?もう5月も末じゃない!!ほっときゃ夏だって来るわ!!」
博麗霊夢は大幣を振りかざし、リリーに突きつけながらも息を巻いていた。
「あぁー……そうですねー…確かに例年より大分遅れましたけど……これにはふか~い訳があってですねぇ……っていうか私のせいじゃないっていうかですねぇ……」
「問答無用っ!!大方あんたがサボってたんでしょう!!――春が来ないせいで……寒さの為の備えも底をつき……異変かと思ってこのクソ寒い中冥界まで行ったのに……肩透かしで余計寒かったし……最も困ったのは花見の延期……この時期花見スポットの我が神社は花見のショバ代の収入と宴会のご飯が命なのにっ!!」
「えぇ~…知りませんよ……っていうか私のせいじゃなくて、あくまで自然現象でして……」
「問答無用って言ったでしょ!!仮にあんたのせいじゃなくても……この憤り……あんたで晴らしてやるわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「ちょ!!きゃっ……えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ―――――っ!!!」
「――という訳で、戻ってきました☆」
「はやっ!!」
リリーがいなくなって丸一日とちょっと――妹紅は久しぶりに人間の里に赴き、そこで世間話がてら、春めいた世界を歩いて周った。一月ぶりの一人歩きを、悠々自適に楽しんでいた。いなくなった居候を懐かしむよりも、まだ久々の一人の時間を楽しむことの方が大きかったのだ。
そうして春に彩られた世界を一人で楽しむこと二日目の夕方――いなくなったはずの件の妖精が再び家にいた。片付け忘れていた炬燵に足を突っ込み、彼女は特等席で微笑んでいた。
「私がいなくて寂しくなかったですか?」
「寂しいもなにも……まだ三日と経ってないんだけど……」
「まったまた~そんなこと言ってぇ~。私のために炬燵出しっぱなしにしててくれたんですよね~」
「うわぁうぜぇ……それはただのしまい忘れ。暖かくなったんだから炬燵に入るな。っていうか――なにまた人の家に上がりこんでくれてるの?」
「もう春告げも終わりましたからねぇ~。あ、そうそう!それより聞いて下さいよ!博麗の巫女がですね!酷いんですよ!」
「――あぁ、もう。………はいはい。で、どうしたって?」
溜息を吐き、頭を掻き、諦めたように大人しく、季節はずれの炬燵に潜り込んだ。
春――全ての命に活気が宿る始まりの季節。
別れの季節――そして同じだけの出会いの季節。
小さな出会いと、小さな別れ。
小さな別れは終わり、再び小さな出会い。
そうして日々は巡る。
藤原邸に、まだしばらく炬燵が出ていることになりそうだった。
※引用:古今和歌集より
“年のうちに 春は來にけり 一年(ひととせ)を去年(こぞ)とやいはむ 今年とやいはむ”
在原元方
意訳:年が明けないうちに立春が来てしまった。年が明けてからは、同じ一年のうちである立春から大晦日までの間を去年(こぞ)と言おうか、今年と言おう
旧暦では暦の性質上、立春が12月になってしまうこともあった。それを年内立春という。
ただの自然現象ってあたりがほのぼのを引き立ててもうなんとも。
ごちそうさまでした
これが、春告精の神髄…!
作者は天才パイオニアだな!
もこたんかわいいよ、もこたん
しかし2人ともだらけてるな・・・でも雪国じゃ実際、
敷布団と炬燵を連結して、炬燵に足つっこんで寝てました。
そして、さすが妹紅。貴族の娘だけに蘊蓄も深い。
ちゃっかりしてるリリーに、春告精をべしべし叩くもこ。
こんなコンビは新鮮なのにすごく自然だ。
リリーかわいいよ。
それはともかく、冒頭が怖すぎる。
ぐもんしきじゃギャグみたいなもんだったが、妖精も大変なんやな…。
罪滅ぼしに次をお願いします 楽しみにまってます
あと・・・霊夢怖いよ、霊夢