「……ねえ、どうしたらいい?」
最初に気づいたのは、彼女だった。
特に親しい間柄でもないし。
好意を寄せているわけでもない。
ただ仲間として一緒にいる。
でも、彼女が感じる違和感は月日を追うごとに積み重なり。
ここ半年で確信に変わった。
「……どうしたら、いいのかな?」
そして、彼女も気づいていた。
自分のことを目の前の彼女に知られていることを。
だから、問い掛ける。
おぼろげな月明かりの下、うっすらと浮かび上がる影に瞳を落としながら。
ただ儚げに笑う。
二つの小さな人影しかない丘で、悲しげに笑う。
だから、もう一人が尋ねる。
本当に笑っているのか、それとも泣いているのか、と。
その問いかけに、彼女はまっすぐ視線を向けてこう答えた。
「笑っているように見えるなら、笑っているんだろうね。
泣いているように見えるなら、泣いているんだろうね。
さあ、あなたはどちらに見える?」
彼女らしい。
実に彼女らしい答え。
「泣いているように見える」
その問い掛けに驚くこともなく、もう一人の少女は素直に答えた。
笑顔という仮面の下に、大粒の涙を流す姿が見えた気がしたから。
過去にも、そんな仮面を被った人を見たことがあるから。
自分の思いを隠そうとせず、そう答えた。
彼女はまた困ったように笑う。
泣いているような顔で笑う。
誰にも泣いているように思われたくなかったから。
顔をしかめて笑う。
「それでも誰も涙を流さないようには、できるかな?」
「ぬえ! ぬえはどこです! もう我慢なりません!」
寅丸星は怒っていた。
今日という今日は許せない。そんな怒りのオーラを背中に背負い、命蓮寺の庭に面した長い廊下を歩く。大声を張り上げながら進むその姿から察するに大分頭に血が上っているのは明らか。ドンドンっと地響きがしそうなほど力を込めて振り下ろされる足は、酷く乱暴に見える。
だがその声に一番早く気付き、反対側の廊下からやってきたのはぬえではなく、うんざりとした表情のナズーリン。清々しい春の日差しの中で朝食後の日向ぼっこを楽しんでいたら、不機嫌な声でその幸せな時間を邪魔されてしまった。その不満が全身から溢れ出ているようだった。
「朝から何だというんだい、ご主人様」
「ああ、ナズーリン! ぬえを見かけませんでしたか?」
「いいや、廊下でうたた寝していたからよくわからないな。ご主人様の声で起こされたけど」
「そうですか、ナズーリンも見ていない。困りましたね」
星は望む答えを聞くことができず、眉を吊り上げたまま腕を組む。
軽く部下の愚痴をスルーして。
別にわざと無視している訳ではなく、これが星という人物の特徴なのだから仕方ない。無意識に少しずれた行動をとったり、今のように軽く受け流したり。俗にいう天然というやつなのだから。しかももう一つ厄介な属性を持っており。そのせいでぬえのいたずらの標的にもなりやすく、その数は他の住人の二倍以上。
「聞いてくださいよ、ぬえが私の大事なものを使っていたずらをしたんです!」
「今度は何が標的になったんだい? 宝塔? それとも頭の髪飾り?」
「違います、槍ですよ。毘沙門天様から預かった大切な、大切な槍です! そんな私の宝物にっ! あの不届き者は正体不明の種を仕込んで、あろうことか物干し竿にしたんです!」
それは彼女が昔、信仰を受けるとき少しでも見栄えがよいようにと、毘沙門天から直々に手渡された大事な槍なのである。
想像して欲しい、そんな思い出深い大切なものに。
ヒラヒラと舞う。生乾きの洗濯物がかけられている姿を。それを直接見せ付けられたため、ここまで激昂しているのだろう。
確かに、ここまでの話を聞けば非があるのはぬえのように思えてくるが、優秀な部下であるナズーリンは自分の主の特徴のことを忘れない。前髪を指先でいじりながら、念のため、例の如く再度尋ねてみる。
彼女の場合、妙なところで落とし穴があるのだから。
「槍にいたずらをされたのは間違いないね?」
「ええ、一輪も見ていますからね。間違いありませんよ。ちょうど物干し竿から槍に戻る瞬間を。なんだったら彼女を呼んできましょうか」
「あの、私が何か?」
その声が聞こえたのだろうか。袖を肘まで捲り上げたままの一輪が、雲山を連れて庭のほうから飛んでくる。その捲り上げた腕と、雲山が空の大きな桶を持っていることから、洗濯物を干し終えたばかりというのが伺える。
「一輪、ちょうどいいところに。さきほどのぬえのいたずらについて、ナズーリンに説明してもらえませんか?」
「はい、構いませんが……
いつもどおり、信じ込んでいたものが別のものに変わる。そのような現象が起きただけですから、ねえ、雲山?」
すぐ横を飛ぶ雲山を見れば、雲でできた手で桶を抱えながら大きな頭を上下に振っていた。その落ち着いた様子から見ると、二人は特に怒ってもおらず、気にしているというわけでもない。けれど星は水を得た魚のように、活き活きと表情を輝かせていた。裏付けを得た虎、というべきか。
「ほら、ぬえが悪事をはたらいたのは紛いなき事実。正義は我に有り!」
「あの星さん。可愛げのあるいたずらですからそんなに目くじらを立てず……」
「む、いいですか一輪、こういう小さな悪を許していけば、いつか取り返しのつかないことになるかもしれないんです。言うなればこれはぬえのためにもなるのですよ!」
「そう……なのですか?」
「私に聞かないでくれないか……」
それほど槍を汚されたのが悔しいのか、一輪が説得を試みるけれどまるで収まらない。まあ悪事には厳しい一面を持っているので、それも仕方ないかとは思うナズーリンだったが。今の話で、そんなことよりもっと気になる部分があった。
「一輪、目の前で物が変わるといったね?」
「はい、言いましたけど」
「ではどちらに変わったのかな? 槍から物干し竿に? それとも物干し竿から槍に?」
「物干し竿から、槍です。洗濯物を掛けている途中に驚いたのは覚えているので」
やはりそうか。
これでナズーリンの仮説は真実味を帯びてきた。
星が見たときは物干し竿から槍に変わるところ。
一輪が見たのも物干し竿から槍に変わるところ。
ということは。
ナズーリンは、額を手の平を当てて大きく息を吐き、自身満々のご主人様をまっすぐ見つめる。
「ご主人様、槍、無くしてただろう?」
「――え゛!?」
その一言がすべてを物語っていた。
驚愕した様子で身を引き、声を裏返らせる。白か黒かと聞かれれば、間違いなく黒。
「い、いやだなぁ、ナズーリン君。私がそうそう大事なものを無くす訳がないじゃないか。何を根拠にそんな……」
「朝食で居間に集まったとき、いつもは肌身離さず持ち歩く槍を背中にを背負っていなかった。さらに食事中も周囲を見渡す挙動不審ぶり」
「はぅ!?」
「昨日の夕食のときも、思い返せば同じ様子だった」
「ひぃ!?」
「昨日の昼食のときも――」
「ううぅぅぅぅ、認めます。無くしたのを認めますからもう許してください……」
星の調子がおかしかったのは、正確には一昨日の夕方から。もしそのときに槍を無くしていたとするなら、その期間はほぼ二日間にもなる。いつも何かを無くしたら「少々お話が……」とか言いながら迫ってくるので、すぐわかるのだが。今回はそれがなかったので油断していたらコレである。
そうやってなくした槍をぬえが見つけて、正体不明の種を植え付け物干し竿にして見せた。といったところだろうか。
「ほほう、では、何かねご主人様。正義の毘沙門天の弟子が、そんな事実を隠匿して。すべてをぬえに押し付けようとしたというわけか。ある意味槍を見つけてくれた恩人であるというのに」
「い、いや、でも。いたずらをしたのは変わりないわけですから……」
「では、ご主人様も槍を無くした罰を受ける。そう考えてもいいのかな?」
「……無罪放免とします」
ナズーリンに小言をぶつけられる度、どんどんその身を小さくしていく
それだけ見ていると主人と従者が逆になってしまったようだった。
お寺のために活動したり経理を行ったりするときは有能極まりないと言うのに、日常生活が穴だらけという。ドジというか、うっかりというか。その特性さえなければナズーリンも安心して従者として活動できると言うのに。
「まあまあ、二人とも。星さんの忘れ癖はいつもの事ではありませんか」
「ああ、一番肝心なところで宝塔も無くすしね」
「慰めると見せかけて追い込むのは止めて欲しいのですが……」
けれど、有能すぎる上司というのも息が詰まると言うもの。ダウジングという自分の能力が存分に発揮できる現在の立ち位置は、正直悪くないとナズーリンは思っている。ドジッ虎である彼女がいるからこそ、自分も引き立つし、命蓮寺の中もほがらかな空気が満ちる。
それがわかっているからこそ、ぬえも星にいたずらを多く続けるのかもしれない。言い方が悪いかもしれないが、自分がここの一員だと自己主張する。そのために聖に次ぐ影響力のある星をターゲットにしている。
何故、一番影響力のある聖にしないかと言えば、理由は簡単。
命蓮寺で暮らすようになってから、ぬえ自身がかなり懐いてしまっているから。
「あ、ほら、そうです。二人とも。そろそろいつもの朝の打ち合わせの時間ではありませんか? 急がないと聖に怒られてしまいますよ!」
「聖が怒る? その程度で? ふふ、ご主人様。話を反らすのが世辞にも巧いとは言えないね」
「うー、なずぅぅりぃん!」
「はは、コワイコワイ。さて、では怒り狂うご主人様に噛み付かれる前に行くとしようかな、一輪もこのまま直接行くのかい?」
「はい、桶は雲山が片付けてくれるそうなので、私はこのまま」
上げたままだった袖を下ろし、草履を脱いで廊下へと上がる。そして星から逃げるように早足で歩くナズーリンの横に並び、含み笑いを浮かべた。別に、星のことで笑ったわけではない。この日常がとても微笑ましかったので、ついつい表情に出てしまっただけ。
「あー、一輪まで私を笑いものにしようと言うのですか! いいでしょう。ええ、わかりましたとも! 今日は私の仕事振りを見て、毘沙門天の一番弟子たる実力を思い出させてあげようではありませんか!」
それでも、今までのやり取りから自分のことで笑ったと勘違いした星は、むっと頬を膨らませながら二人を追い抜いていく。肩を怒らせ、ずんずん進んでいく様子は、ムキになった子供にしか見えず。ナズーリンと一輪は思わず顔を見合わせて苦笑い。
そうやって先を進む星は、二人より先に聖の部屋の前へと移動し。
「失礼します」
廊下に正座をしてから、静かに告げた。その後片側ずつ入り口の襖を手を掛け、十分人が通れる広さまで開く。そして座ったまま丁寧に一礼して、にこやかに聖に一言を――
「!!」
言おうとした体勢のまま、石像のように固まる。何事かと不思議に思った二人が星の後ろから部屋の中の様子を伺うと。
なんのことはない。
柔らかい物腰の聖が、正座した状態で三人を迎えているだけ。
「ああ~~~っ!!」
ただ、その正座した膝の上に異物を発見した星は、思わず叫び声を上げていた。
それもそのはず。
正座した聖の膝に頭を乗せ、無防備に畳の上に転がった正体不明の少女。そうやって幸せそうに寝息を立てていたのは、さきほどまで星が探していたぬえに他ならない。もやもやした感情が一気に湧き上がって声を抑えられなかったという訳だ。
「星、静かになさい。起きてしまうじゃないの」
ぬえの頭を優しく撫でていた手を止めて、唇に人差し指を当てる。確かに最近の彼女は聖に甘えることが多くなってはいたが、ここまではっきり見せ付けられると言い表し切れない感情が星の中で首をもたげてくる。独占欲にも似た恋慕、親友を奪われた孤独感、そんな感情が彼女の中で複雑に入り混じり、じっとしていられない。
けれど、聖は星に音を立てるなと注意した。
だから星は言葉で表すのではなく、静かな行動で示すことにする。
悔しそうにぬえを見ていた瞳を閉じて、いきなり立ち上がると。
何を思ったのかぬえの寝ている反対側から無言で聖に近づいていき、そのまま畳の上に横になった。
「あらあら、まぁまぁ……大きい猫だこと」
ぬえが良いなら私も。
そう無言で訴えるように、太ももの空いたスペースに頭を置くとじっと聖の顔を見つめる。そんな意地っ張りな旧友の頭を、聖は笑みを浮かべながら撫でた。すると自分がトラの妖怪であることを思い出すように、ゴロゴロ、と気持ちよさそうに喉を鳴らした。
包み込むような大きな優しさに抱かれ、ぬえと星が幸せそうに表情を綻ばせ。その春の日差しにも似た暖かな光景は、聖の大きな存在感を示していて……
「はあ、ご主人様は馬鹿か?
実力を示すと言った矢先にそれとは、まったく。
毘沙門天の弟子の名が泣くぞ」
「星さんらしいと言えば、らしいですけどねぇ……」
本来の目的を忘れて寝息を立て始める主人を見下ろし、ナズーリンはお手上げと言うように手の平を上に向け肩を竦めた。
呆れるナズーリンに、苦笑する一輪、そして、膝の上の猫と鵺。それを順番に見回して。
聖は何か良い事を思いついたようにぽんっと手を叩いた。
「来客の予定もないですし、午前中は皆さんで日向ぼっこ。なんていかがです? 庭の桜も見頃できっと楽しいですよ」
「ははははは、はぁ…… いいけどさ、別に」
「相変わらずですね、聖様は。では私は村紗へそのように伝えてきます」
「はい、お願いしますね」
笑顔でそんな暢気なことを提案してくる聖に、ナズーリンは諦めたように肩を落とした。さすが星が慕う人間だけあって、器が広いというか、星以上の天然というか。
本来であれば、毘沙門天の使いとして。弛んでいるとか注意するべきなのかもしれないが。
悪くない、そう思っている自分がいることをナズーリンは自覚している。
「……毒されてしまったかな、私も」
やる気のない態度とは裏腹に。
聖の私室から出た後、敷き藁と茣蓙の準備を逸早く始めた自分を自嘲気味に笑う。笑いながらも、心地よい風を身に受けながら桜の木を見上げて。
「お前は散るからこそ美しいとは言われるが。散らないことも時に必要。
そうは思わないかい?」
自分の手の上にヒラヒラと舞い降りてきた薄い桃色の花びらを掲げながら、小さな知将は目を細めた。季節が変わっても、この生活が変わらないことを願って。
◇ ◇ ◇
私が、いまのように仲間との絆を強く思い始めたのはいつからだったか。毘沙門天様に仕えていたときからか。それとも星の従者として働くようになってからか。
いや、私の記憶が確かならそれは、聖が封印されてからではなかったか。
毘沙門天様の弟子として格を得たご主人様、それを当時の私は立派だと思っていた。人間だけでなく、妖怪からの信仰も厚く。最初は疑っていた毘沙門天様すら彼女に信用を置くようになっていたから。それでもそのときからうっかり癖があったせいで、無くした物を探しに、何度も何度も周囲の山を歩き回ったのは覚えている。
ただ、そんな日常の中にあっても、私はどこか事務的に仕事をこなしているだけ。
命令があれば、すぐ毘沙門天様のところに戻っていただろう。
だが、そんなとき。
星が慕う聖に、人間たちが疑惑の視線を向け始めた。
妖怪を擁護していることが知られてしまったのだ。
人間たちにとって悪である聖白蓮を封じろ、という声が高くなり。
その封印の助力をして欲しい、と。人間たちはとある人物へと依頼を出す。
そのとき、私は運命というものの残酷さを知ったよ。
悪を討つのは、やはり正しき者。
人間たちの依頼を受けたのは、正義を謳っていた毘沙門天の弟子、寅丸星、ご主人様だった。私はそのときの彼女の顔をいまでも鮮明に覚えている。本当に仮面のような微笑を浮かべ。星の前で頭を下げる人間たちに対して穏やかな声音で返していたあの姿を。
本当は泣き叫びたいのを我慢して、必死に耐えるその姿を。
「お受けいたしましょう」
そんな承諾の言葉を返したときの、手の震えすら瞼を閉じれば浮かんでくるほど。
聖の部下というより親友のように付き合ってきた彼女にとってその返答がどれほど、重いものであったか。しかし毘沙門天として人間に信仰を受けている以上、優先すべきは聖のことではない。あくまでも毘沙門天としてあるべき職務を第一としなければならない。
けれど、有能であったご主人様は許される範囲内で、封印へと干渉する。
確実に解除できるような仕組みを、そこに施したのである。
初めは抵抗する素振りを見せていた聖だったが、星が施した術式を見て。穏やかな顔でこう言った。
「いつまでも、待っているから」
封じられる直前だというのに、満面の笑みを浮かべて。はっきりと言い切った。
たった一つの術式を見ただけで、必ず救ってくれると信じた聖。
そして彼女が信じたとおり、その日から聖を救う手段を準備し始めたご主人様。姿も見えない、言葉すら届かない場所に離れながら、それでも確実に繋がる絆。それを身近で体験してから、私の心は変わっていったのだろうね。
だから、私はここにいる。
御人好しの聖と共に、信じる仲間たちといる。
ぬえ、という予想外の住人も増えてしまったが、彼女もまた仲間の一人として欠かせない存在になった。ときに、混乱や騒動を巻き起こしてくれるが、それは生活のアクセント。鮮やかな色を添えてくれるものに間違いない。そんな退屈しない日々が続いてくれたおかげで、時が経つのは驚くほど早かった。
気が付けば、命蓮寺で見る桜も、すでに二回目。
一年以上ここで過ごしたことになるだろう。
ここに住むようになってから、ご主人様は皆をまとめるのに尽力し、人里からも大分信仰を集めることができた。それで人間的に、いや、妖怪的に一回り大きくなって欲しい物なのだが。
「ぬえ! あなたという人は! なんてことをするのですか!」
「何を言ってるの? 残しているのが悪いんじゃない」
「な、何を白々しい! 私の皿の上で大事に取ってあった聖特製の卵焼きを、桜の花びらに見せて奪った。そのネタはもうあがってるんですよ!」
日向ぼっこから派生した花見の場で、いつものような争いを二人が繰り広げている。それを周囲の観客たちが囃し立て。それに乗せられた二人が立ち上がる。取っ組み合いのケンカが始まる、そう思った矢先。
ひょいっと。
二人の目の前からご馳走の取り皿が奪い取られていた。
「ご飯を食べるときに乱暴をする人には、もう何もあげませんから」
「……」
「……」
皿を隠したのは、二人のすぐ側にいた聖だった。
ぷいっと二人から顔を背けながら皿を背中に隠し、何かを訴えるように二人の様子をチラチラと見る。返してほしかったらなんて言うの? と子供が親に諭すように。
それでもしばらくいがみ合っていた二人だったが、とうとう聖の視線に負けて。
『……ごめんなさい』
二人同時に頭を下げる。
それを一輪と雲山が慰めるように近づいていった。
「まったく、仲が良いのか悪いのか」
昼からチーズにワインという贅沢をしていた私は、ほろ酔い気分のままそんな光景を眺めていた。すると隣にいた村紗が私を覗き込むようにして、声を掛けてくる。
「仲が良くなかったら、お互い正面には座らないでしょうね」
「はは、違いない。あれで認め合っているんだから面白い話だよ」
「でも、ぬえがあんな顔するなんて正直しんじられない。相手が嫌がるいたずらをして、意地悪そうに笑うところしか見たことなかったから」
「人も妖怪も変わる、そういうことでいいじゃないか」
この中でも唯一過去のぬえを知る彼女は、最近の変化をどう考えているのか。喜ばしいことと考えているのか、それとも少し寂しく思っているのか。私としてはできれば前者であって欲しいのだが、村紗は遠い物を見るようにして彼女を見つめていた。
「そうね。いたずらも小規模になったようだし、それだけここが気に入ったのかな」
異変のときから見れば最近のいたずらは本当に子供染みたもので、怒るというより微笑ましくなるものばかり。構って欲しいからわざとやっているだけにしか見えないところがある。
最初にここに来た時とは大違いだ。
あの頃はまだ何をしても許されると思っていた節があり、雲山を敷布団に見せたり、村紗の錨を傘に見せたり、宝塔をランプに見せて廊下に吊り下げたり、聖の聖典を桂剥きした大根に見せたり、私のダウジングロッドすら畑のカカシにされたり等々、見境なかった。しかもそのいたずらで誰かが怪我をしても、ニコニコと楽しそうに笑っていたくらいなのだから。
「随分まるくなったというか、大人しくなったようには見えるか。それが成長と言うべきものならいいんだが」
そのころに比べれば、もう。
実に可愛らしいものじゃないか。
私はそんな微笑ましい光景と、濃厚なチーズを肴に。ワインの味を楽しんだ。何も心配することはない、私たちの日常はずっとこんな風に続いていく。そう思い込んでいた。
けれど……
小さな、ほんの小さな矛盾は、確実に私たちの日常を犯し始めていたのだった。
◇ ◇ ◇
桜が散り。
若葉が芽生え。
灰色の雲が天を覆うことが多くなるこの季節。重そうな雲を見ているだけで気持ちまで沈んでしまいそうな空の下、変化は突然訪れた。
ぬえが、よく眠るようになったのだ。
「寝る子は育つというから、きっとぬえちゃんは成長期なのよ」
と、聖が穏やかな口調で言うけれど、妖怪にとってはそんな簡単な話ではない。眠る妖怪というのは確かにいる。けれど妖怪のほとんどはそうそう長い睡眠を必要とはしないからだ。それなのに、ぬえは太陽が昇ってからしばらくすると眠りにつき、日が沈んだ後で起きるという奇妙な行動を繰り返し始める。以前は眠ったとしても数時間程度だったというのに、ほぼ半日近い時間を睡眠に費やしていた。
しかもそれだけ眠ったというのに、起きてしばらくの間は欠伸を何度も繰り返し、ぼーっとすることが多い。いたずらも控えめで、何もしないこともあった。
それが続いた十日間目の朝。
私は部下のネズミを永遠亭に走らせた。
自分が表立って動けば、またあのご主人様が大袈裟に騒ぎ出すのが目に見えていたから、こっそりと。そうやって妖怪ネズミから妖怪ウサギへ、そして妖怪ウサギから因幡てゐへ、最終的に八意永琳へと伝わるように。不安要素はいたずら好きな兎がわざと解釈を歪めたりしないかだけ。
けれどそんな私の心配など無用の長物。
日が落ち、ぬえが行動を始める頃に彼女は足を運んでくれた。
「人里に来たついでに寄ってみたのですが。何かお困りなことはありませんか?」
ありがたい。
私の意思はしっかりと彼女に伝わったようだ。
自然な流れで、命蓮寺まで足を運んでほしい。それが一つ目の伝言だったから。
そんな私の狙いどおり、ご主人様はぬえのことを相談すると、命蓮寺の中に医者を連れて行く。それを見送った後、私はゆっくりとその場を離れた。彼女がここに来てくれたということは、もう一つの約束事も守られている可能性が高かったから。
きっと今ごろ医者の言葉に一喜一憂しているのだろう。
その様子を頭の中に浮かべつつ、私はゆっくりと夜空へと飛び上がる。
名の無い、月明かりに照らされた丘に向かって。
この季節では珍しい、星が夜空一杯に広がる景色。
昔の人はこういう風景のことを星降る夜、と言ったそうだが。なるほど確かに。小高い丘の上にいるせいで、体全体を星に覆われているようなそんな錯覚を覚える。こういう静かで、澄んだ世界に囲まれていると、思考まで冴え渡るかのようだ。
丁度いい。
こうやって澄み切った頭でなければ。
冷静でなければいけない。
「空と言うものは不思議だな、コロコロと表情を変える。感情など持たない。そんな自然の事象のはずなのに」
「もしかしたら、私以外のぬえが空に正体不明の種を植え付けた。それで気紛れに天気を変えているのかもしれないよ? 本当は認識できないだけで土砂降りの天気かも」
「それは困るな、今日は代えの服を持ってきていないんだ」
「濡れネズミと言葉もあるから、そうそう悪くもないんじゃない」
その声。その口振り。
姿を見なくてもわかる。
「相変わらず、よくわからない羽だね。どうやって飛んでいるのやら」
「ネズミが空を飛ぶというのが常識なら、世も末だけど」
「はは、違いない。でも努力したものが空をつかむと言う意味ではおもしろいじゃないか」
「別に、つまらないとおもうよ。それより、あの医者に伝言を残して私を呼び出すなんてどういうつもり?」
「いや、久しぶりに二人きりで話をしようと思ってね。誘ったわけだよ」
ナズーリンが永琳へと要求したもう一つ。『診療が終わったら、命蓮寺の南西の小高い丘に来るようにこっそりと伝えて欲しい』それがしっかり彼女に伝わったようだ。
皮肉言い合いながら振り返れば、闇に溶け込んでしまうような黒い衣服を着たぬえが、腰に手を当てて立っていた。いつものように少しだけ人を見下すような、軽く背を逸らした体勢で。まあ、どうしても私の身長が低いからそう見えてしまうのは仕方ないのだが。
「ああ、そうそう、誘われた女性は「待った?」っと小首を傾げて、頬を赤らめながら聞くというのが基本らしいよ。どうだい、やり直してみるかい?」
「相手が魅力的な男性ならそうする。待ってたのがチンチクリンな幼児体型じゃねぇ」
「おや? そうかな、同じ種族の中では結構大人っぽいと有名なのだが」
「ネズミと鵺は違うのよ。むしろ餌としかみないかも。あまりふざけたことを言ってると、頭から噛り付いてやろうか?」
夜が更け、もうすぐ日付も変わる。
起床してから大分時間が経過したせいで、しっかり思考も働いているようだ。棘のある冗談で返してくれる。寝惚けられていてはこちらも呼び出した意味がないのだから、多少の戯言は喜ばしいことだ。中々本題に入らない私を見て、苛立ちを覚えているようで。
また今度つまらないことを言えば力づくで黙らせる。そんな意志が私に伝わってくる。
「そうだね。あまりふざけていると、私のような小さな存在なら鵺に食べられてしまうかもしれない。でも今の君では無理だ」
「へえ、面白いことを言うじゃないの」
ぬえは笑みを零し、片手を私に向けてくる。
金属なのか、それとも別の何かなのか。
よくわからない六本の羽も同時に動かし、私を威嚇しながら。
「もう一度。正体不明の弾幕でも受けてみる?」
私は一度彼女と戦ったことがある。
命蓮寺に来てから、初めて、ご主人様が怪我をするいたずらを仕掛けられたとき。私はつい、かっとなって彼女に弾幕勝負を挑んだ。
宝塔を持ち出して、本気でね。その結果がどうなったかといえば。
まあ、恥ずかしい話惨敗だ。
いたずらを旨く仕掛けるということは、相手を引っ掛けるのが上手いということ。頭に血が上っていたということもあったんだろうね。あっさり相手の戦略に嵌って負けてしまった。だからこの場に立っている私は、本来なら彼女を多少なりとも警戒するべきなのだろう。
「そう、君は強い。技術で言うなら私のご主人様の比ではないだろう。
正体不明の弾幕と言うように。
君は正体不明の妖怪。それが君自身、君の特徴、存在意義だ。なのに――」
けれど、そんな彼女の態度を見ても……
私はなんの恐怖も、畏怖という感情すら湧き上がってこなかった。
心の中で生まれたのは、微かな寂寥感。
だってそうだろう、あのとき、最初に正面に立ったときはあんなにも大きく見えた姿が。
「……君は馬鹿か。
命蓮寺で暮らし始めてから自分でもわかっていたんだろう?
あそこで暮らすことが、君自身の存在する意味を。正体不明を削り取っていることに」
あれだけ威圧感を与えてきていた姿は見る影もなく。
私には単なる、年相応の少女にしか見えなかった。
「何を訳のわからないことを言っているの? 私が馬鹿? 言うようになったのね」
「ああ、そうだよ。私は昔からおしゃべりでね。君がわかるまで何度も説明しようじゃないか。君が日常の半分を布団の中で過ごすのは、それだけ力が弱まったからだ。睡眠を必要とするほど、君自身の肉体が疲弊している」
彼女が大人しくなったのは、確かに仲良くなったという要素もあっただろう。しかしもっと大きい要素があったことを理解してしまった。
長時間眠る、弱ったぬえを見て。
「しかし妖怪に肉体的疲労が長時間蓄積するのは稀なこと。それが何日も継続するなど不自然すぎる。命蓮寺も博麗神社までとは行かないが名が知られているし、幻想郷で忘れ去られて消えるということは考えられない。そうだ、普通の妖怪なら消える要素なんてない。
でも、ぬえ。君は違う。
正体不明の妖怪である君は、誰かに知られる度に力を弱めてしまうんだよ。だから君は月日を追うごとに弱ってしまった。その兆候は出ていたと言うのに、私も気がつけなかった」
何故、最近のいたずらものが、小手先でできるようなものばかりだったか。
小さいものや、似た形のものを変化させるとという簡単なものばかりだったか。
それは――
やらなかったのではなく。
できなかったから。
そんな私の仮定を肯定するかのように、ぬえは途中から何も言い返さず、立ち尽くしたまま右手で左腕をぎゅっと掴む。彼女もわかっていたのだろう、自分の体の異変を。
それでも、それを無視しても。
変わらぬ日常を送ろうとした結果がこれだ。
「どうして、そうなるまで何もしなかったか。私はそれを責めるつもりはない。過去のことよりも先のことが大事だからね。だから君の見解を聞かせて欲しい」
いつもの、何の異常もないぬえなら私の言葉など突っぱねて、この場を立ち去ったかもしれない。しかし彼女は、うつむいたまま。
力いっぱい自分のスカートを掴んで、強く噛んでいた唇を震わせながら動かした。
「どうすればいいのよ……」
丘の上で、悔しそうにつぶやく。
その後も『どうしたらいい?』と何度も私に問いかけてくるぬえを宥めながら、私は彼女が落ち着くようにゆっくりを会話を続けた。いつもと違う、おどおどと会話を続けるぬえは、迷子になった子供のように脆弱に見えた。おそらく彼女はその特性ゆえに、親身になって相談できる『誰か』がいなかったのかもしれない。村紗ですら、彼女の表面しかみたことがなかったのだから。
自分の異常を知りながら日常を繰り返したかったのは。
そうやって、自分の本心を仮面で隠したのは何故か。
「それでも誰も涙を流さないようには、できるかな?」
悲しそうに笑う彼女が言った、この言葉が全てを物語っていた。
自分が弱っていけば、誰かが悲しむかもしれない。
誰かが涙を零すかもしれない、と。
だからそれだけは防ぎたい。
それは『鵺』という妖怪の中で初めて芽生えた深い仲間意識だった。
仲間意識が生まれたからこそ。
彼女もそれを失いたくない、そう考えてしまったのだろう。
だから彼女が唯一救われる道を、自分で閉ざしてしまった。けれど、私はその可能性をぬえに伝えた。彼女にとってそれは残酷な事実だったけれど。
仲間として、彼女が弱っていく姿を見たくなかったから。
「……種族としての力を取り戻すまで、自分に正体不明の種を使うんだ、ぬえ。そうすれば鵺という妖怪がいたという事実だけが残り、どんな姿をしていたかどうかという認識が薄まるかもしれない。本来の正体不明に戻れるかもしれない」
「……でも、それは」
ぬえが命蓮寺を出る。
私が伝えたのは、一番簡単で。
彼女が一番選びたくないはずの道。
「すぐじゃなくていい。気持ちの整理がついてからでいい。でも、私は君という存在が幻想郷で生きてくれることを心から望んでいる。それだけは、わかって欲しい」
困ったな。
やはり私は、聖の真似事なんてできないようだ。
彼女ならもう少し上手く言えるはずなのに、ぬえがこんな悲しそうな顔をしないような言い回しができたかもしれないのに。
「ねえ、ナズーリン。もし、もし私が命蓮寺から別なところへ旅立つとき。
あなただけは笑って見送ってくれないかな?」
「……誰に物を言ってるんだ? 私は小さな大将だよ? それぐらいお手の物さ」
涙を溜めるぬえを、上手く慰めることもできず。
ただ偉そうに頷くことしかできない。
言いたいことは別にあったはずなのに、口にすることもできない。
こんな大事な場面でも素直な声を口にできない、馬鹿な私。
それを見下ろすように、
おぼろげな月がやけにはっきり空に浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
肉体的な健康に異常はないが。
精神的な、妖怪の根底の部分で何か問題があるかもしれない。
それが後日、永遠亭から伝えられた、診療の内容だった。
奇しくも私の予想通りの内容で、無意識に鼻で笑ってしまう。それを聞いたご主人様は大分動揺していたようだったが。
ぬえの表情がそんなに暗いものではなかったので安心したのか。しばらくするといつもの態度に戻り、命蓮寺の中を元気に動き回っていた。けれど、聖だけは何かに気付いたのかもしれない。ぬえが眠っている布団の横に座り、彼女の頭を撫でることが多くなった。
でも、もうすぐ別れが来る。
彼女が鵺としていき続けるために、そうしなければいけないのだから。
あの夜、二人で話し合ったことだけは誰にも伝えず。
私はその日を待つ。
けれど――
梅雨が終わり。
夏が来ても。
ぬえは、まだ命蓮寺にいた。
秋が来て、豊穣を祝う祭りが始まり。
人里が活気付いていた頃も。
ぬえは、まだ命蓮寺にいた。
睡眠時間はドンドン長くなり、丸一日眠りっぱなしのこともあった。
それでもぬえは、ぎりぎりまでここに残りたいのだろうと、そう思って。
私は何も言わずに、見守り続けた。
大丈夫、大丈夫。
胸の奥に生まれ始めた不安を押し隠すために、ただそうやって。呪文のように繰り返す。
そして、空から白い欠片が舞い降りる頃。
夕日に照らされた命蓮寺の廊下にも、不思議な欠片が落ちていた。
雪なら触れば消えるはずなのに、それは消えない。
そもそも、欠片が白くなかったのだから。
それを見つけたのは、ご主人様で。
始めは誰かの湯飲みの破片かと思ったそうだ。
けれど、その色があまりにも鮮やかな色だったので、すぐ違うとわかったらしい。
じゃあこの欠片はなんだろうか。
見たところ廊下の所々に散らばっており、向こう側の曲がり角の先まで続いているようだった。
破片の色は赤と青。
不定期な感覚で散らばってはいるが、繋ぎ合わせればかなりの大きな物体になるはず。
さて、こんな鮮やかな色の陶器なんてあっただろうか。
そんなことを考えながら破片を追っていき、廊下を曲がった先。
何気なく覗いたその先。
「――!?」
それを見たご主人様は、声を失ったそうだ。
そこに、ぬえがいたから。
うつ伏せのまま、倒れていたが何かおかしい。いつもと何かが違う。
違和感を感じながら、ご主人様は慌てて駆け寄り、ぬえを助け起こした。
そのときに、ぬえの背中に残っていた何かが廊下に零れ落ちた。
それは、赤と青の破片。
さっき散らばっていたものとよく似た、色鮮やかな破片だった。
それが零れる落ちて廊下にぶつかり――
カンッ
と高い音を奏でた、そのとき。
ご主人様はやっと違和感に気付いた。
「おい、おい、ぬえ! しっかりしないか!」
ぬえの背中のあの特徴的な突起物。
あの物質が、背中から消えていることを。
そしてそれが今どこにあるかも理解してしまう。知ってしまったから、息をするだけでやっとに見えるぬえを抱え、その名を呼び続ける。
砕け散った赤と青、正体不明の物質が散らばる廊下の上で。
「……私たち鵺という種族は、その正体を知られたら力を失い……そこを人間に退治されてきた。そして退治されるたびに、別な形となって蘇るらしいのよ。だからさ、そんな心配そうな顔しなくてもいいんだよ」
私は、部下のネズミたちを総動員し、永遠亭を中心として幻想郷のすべてに走らせた。
永琳を連れて来い、と。
どこにいても、何をしていても構わないから、なんとかしてここへ連れて来い、と。
「私が消えても、また新しい鵺として生まれ変わるから……きっと」
まさかこんなことになるなんて思わなかった?
こんな状態になるまで、ぬえが力を使わないなんて予想していなかった?
嘘をつくな。
何を都合のことをいいことを捏造しているんだ、私は。
この結末だって予想できたはずなのに、私はまた希望的観測に浸った。
きっと大丈夫だという、自分の甘えに従った。
私の過ちが、こんな結果を生んでしまった。
いままでにない、血の通っていないような顔色で横になる、ぬえ。
聖はその頭の横で、暖かい付近を頭に乗せてやり、星は正座をしながら布団を直していた。一輪と村紗は星の反対側で心配そうにぬえの顔を覗き込み、雲山も天井からその様子を見守っていた。それなのに私は、入り口のところで立ったまま、現実を受け入れられないでいた。
「ナズーリン…… 使いのネズミは?」
「ああ、放ったよ。きっとすぐ永琳を見つけて連れて来てくれるはずさ。例え外出していたとしてもね」
「ありがとう、ナズーリン。あなたもこちらにきて、ぬえの顔を……」
ご主人様が聖との間に場所を開け、顔の側に来るように言う。
そのとき、不注意で掛け布団に乗せていた手を強く押し込んでしまったのだろう。
「コホッ…… ごめん、少し重い……」
「あ、ああ、すみません。つい、うっかりしてしまって」
ぬえが苦しそうに咳をした。
ご主人様は慌てて手をどかそうとするが慌ててバランス崩し、今度は逆の手を余計に近い場所へと置いてしまうことになる。こんなときまでドジを踏むのは実にご主人様らしいのだが、私はそれをほほえましく思える余裕なんてなかった。
彼女がこうなる可能性を予想しながら、結局何も出来なかった自分を責めることしかできなかったから。
「ぬえ、気分はどうだい?」
「うん、聖に布巾を被せてもらってるから気持ちいい……」
そんなはずがない。
こんなに肩を上下させ、汗だくで必死に呼吸をしているのに気持ちいはずがないじゃないか。
「ぬえ、こんなときにいう話ではないのかもしれないが……」
だから私は、今からでも正体不明の種を使わせようとした。
彼女を見ていられなかったから。
どうしても元気な姿になって欲しかったから。
「ううん、いいのよ。ナズーリン。もう、そのことはいい。だって私、自分に種を使ったんだもの」
「ば、馬鹿な! 種を使ったのならどうしてこんなっ!」
「誰にも何も言わずにね、ここを去るつもりだった。夏の暑い日、そう決心したの。
うん、決心したつもりだったんだけどなぁ……こほっ……」
一度体を軽く曲げて咳をしてから、ぬえは私を微笑みながら見上げた。
「でもね、全然、姿が変わらなかったんだ…… その後、村紗と出会ったら普通にどこいくの? って声をかけられたしね。それでわかったんだよ。私自身がここの人たちの正体不明になりたくないと、心の底から思ってしまっているから。忘れて欲しくないって思ったから、能力が発動しなかったんだってね」
誰かの嗚咽が聞こえた気がした。
顔を少し上げれば村紗が顔を背け、畳に置いた手を力一杯握り締めている。でも悔しがってもどうしようもないことなのだろう。
私の作戦は、前提で間違ってしまっていたようだ。
ぬえが、私たちを仲間だと思ったのなら。
最後まで彼女の好きにやらせてあげるべきだった。無理に私の意見を押し付けて、実行させることなんてなかった。
「生まれ変われたら、いいなぁ――」
確証のない妄想にすがり、それでもみんなと一緒にいたいという。そんな彼女の意志を最初から尊重することができれば、もっと思い出を作れたはずだ。いや、いまからでも遅くない。
明日はもう大晦日、一年が終わる最後の日。
それをみんなで送るんだ。
そうやって一年何があったか、そんなくだらないことをぬえと一緒に話をして――
「星、そんなに布団押さえないでよ、苦しいから……」
ああもう、こんなときにまたご主人様は。
私は同じミスを犯したことを注意しようと顔を向けるが。
「え?」
その言葉に一番驚いたのは、ご主人様だった。
目を丸くして、信じられないものを見るように、ぬえを凝視する。
だって布団を押さえているはずのその手は、ずっと彼女自身の膝の上に乗せられたままだったのだから。なのに……
「こほっ! 早く、胸のところの手、どかしてってば……こほっ……かはっ!」
ぬえは、言う。
胸に置いた手を、どかせと言う。
苦しそうに咳き込みながら、訴えてくる。
何を言っているんだろう?
この状況が見えていれば、すぐわかるのに。
混乱し、座った状態で動けずにいる私の前を。
ふと、聖の手が通り過ぎて。
すっ
ぬえの胸の辺りの掛け布団を少し浮かせてやる。
すると――
「ありがとう、楽になったよ。星」
そんなことを言いながら、小さく息を吐いた。
さきほどよりも、穏やかになってきているその表情。症状が軽くなった、そう見えるのに。
とくん、とくん、と。
私の心臓は早く脈打ち、まるで全身の毛穴という毛穴が開いてしまったかのような。
そんな寒気が襲い掛かってきた。
「そう、ですか。楽になったのなら、よかった……」
「私が動けないからって、いたずらの仕返ししないでよね」
君は……
君は、何を言っているんだ。
布団の上に誰も手なんて乗せていないだろう。
それに、布団少し持ち上げて呼吸をしやすくしたのは、お前に一番近い場所に居る聖じゃないか。
はは、冗談が過ぎる。
冗談が過ぎるぞ、ぬえよ。
それじゃあ、まるで……
まるで……
目が見えていない、みたいじゃないか。
「い、医者を、医者を連れてくる! 少しだけ待っていてくれ!」
私は、慌てて体を起こそうとした。
この状況を理解したくなくて、それを打開できる人物を求めた。
けれど、その私を止めるように。
とさっ
ぬえが左手を伸ばし、私の近くの畳に触れさせていた。
弱々しく畳の上に乗せられた手は、何かを探すように左右に動かされ。私の膝に触れた瞬間、彼女の表情が笑顔になる。
「今日は、どこにも行かなくていいから…… 一緒に居て、ね?」
「ああ、わかった、わかったよ。ぬえ、ちゃんといるから」
「ふふふ、あったかいなぁ」
私は、ずいぶんと冷たくなったその左手を、両手で包み込んでやる。冬の寒さでぬえの手が冷えないように、握り返してやる。
その光景を見た一輪の頬を、一筋の涙が伝った。
「あ、そうだ、ナズーリン、この前の約束も守ってもらおうかなぁ」
「約束?」
「うん、笑って」
「な、何を言ってるんだ。そんな約束なんて」
ははっ
ははははっ
馬鹿だな君は。
「ねえ、お願いだから笑って……」
あれは、こんなときのためにした約束じゃないだろう。
君が、未来ある明日に旅立つとき、そのときのための約束じゃないか。
「もっと近くで、見せて……」
君は本当に馬鹿だな。
それじゃあまるで、もうお別れだと言っているみたいじゃないか。
そんないたずらなんて、誰も喜ばないと言うのに。
こんな幼い顔を間近で見ても誰も得しないと言うのに。
「ねえ、笑って……」
君は、本当に、救いようのない馬鹿だな……
「はは、ははははは……」
笑えるわけが、ないじゃないか。
声で笑って見せるのが、やっとだよ。
口元だけでも笑っているように見せたくても、頬が引きつって言うことを聞いてくれないんだよ。
近づけた顔から、瞳から流れ落ちそうになる涙を。
君の頬に零さないようにするだけで、精一杯なのに――
君がそうやって、何も映らないはずの目で見つめてくるから。
ぽたっ
君の頬に零れ落ちてしまったじゃないか。
笑っていると、ずっと笑っていると思わせたかったのに。
「……泣いて、るの?」
「……」
言い返せ、ここで言い返さないと、絶対後悔する。
笑っているって、元気のいい声で返すんだ。
たった少しの言葉だと言うのに。
その言葉で彼女が救われるというのに。
口を開こうとすると嗚咽がこぼれそうで。
ただ必死に涙を耐えることしかできない。
「ぬえ、ナズーリンは笑っているでしょう。星も、一輪も、村紗も、雲山も、当然、私も。あなたのことを見て微笑んでいるわ」
「でも、温かい水が、私の顔に落ちてきたから」
「それはね、さっきまでナズーリンが外を掃除していたからよ。頭の上に乗ったままの雪が解けてしまったのね」
何も言えず、ただ口を閉じることしかできない。そんな私の言葉を代弁するかのように。聖は嘘をついた。
「……うん」
幸せそうに笑う、その可愛らしい笑顔。
それが一瞬輝いて見えて。
次の瞬間、握っていたはずの手が、すっと私の手を通り過ぎた。
その存在自体が幻だったかのように。
いや、手だけじゃない。
薄く、透明になっていく。
ぬえの存在が、大事な仲間の色が。
淡く、淡く、淡く、失われていく。
深遠の奥底に引き込まれるように、彼女を構成する因子が消えていく。
仲間が、私の仲間たちが必死に名を呼ぶのに。
それでも彼女は、唇を動かして。
「……わたしを、忘れ……ないで……ね」
たったそれだけを残して。
私の、小さな手の中で結晶となって、消えた。
雪がしんしんと降り続ける夜。
舞い散る雪が静かにその姿を失うように。
粉雪のようなほんの小さな願いを残し。
一人の妖怪が姿を消した。
そんな静寂が訪れた夜に。
虎の雄叫びが、大きく響き渡っていた。
その夜、永琳はやってきた。
間に合わなかったけれど、やってきた。ご主人様は彼女の首を掴むと、今までにない形相で睨みつけていたよ。そのまま食い殺してしまうんじゃないかと思うほどね。
ご主人様が望んだのは、蓬莱の薬。
不老不死、変化を否定するその薬の効果でなら、ぬえが助かったはずだと。そう詰め寄ったのだ。けれど冷静な、全てを見通したような永琳は、動揺すら見せず冷静に意見を述べた。
「蓬莱の薬は、飲んだときの身体的特徴等を維持する。それが不老不死に繋がっているの。それなのにあなたは、布団に寝込み、四肢すらまともに動かせない状況のまま苦しみ続ける者の『現在』を固定しようとしたのかしら? そうやって苦しみながら、周囲で楽しそうに暮らす人たちを眺め続けるの。そしていつしか親しい人が滅びる姿を見ることもなる。そんな地獄を見るためだけに生かされているような、馬鹿げた生命体にしたかったのかしら?」
永琳が伝えた冷徹な言葉は、こう語っていた。
蓬莱の薬を使うことは『エゴ』でしかないと。それは周囲の、ご主人様や私たちが満足するための手段であって、ぬえが求める目的ではない。
近いけれど、決して重ならない、大きな壁がある。
永琳はそれをよく知っているからこそ、きつく言ったのだろう。
彼女の服を掴み、崩れ落ちるご主人様。
そのまま喚き散らす姿を見ていれば、わかる。
どうしようもない感情を、ぶつけたかっただけだったということが。ご主人様は、私より有能なのだ。蓬莱の薬の副作用など、理解しているはず。それでも永琳に効果的な薬の名前を持ち出し、少しでも整理できない感情を振り払いたかっただけなのだろう。
「――――ン」
その後は、どうなったんだったかな?
あまり記憶にない。
だって君の死というものがとても大きかったからね。生活にぽっかりと穴が開いてしまったようだったよ。日々を暮らすだけで、精一杯だった気がするし。
「―――リン!」
それでも君を忘れることはなかった。
君の体は消えてしまったけれど、君の羽の一部は残ったからね。私はそれを首飾りにさせてもらっているんだ。こうしておけば、いつでも君といられるような気がしたからね。正体不明のかけら越しに、感じられるような、そんな錯覚をしたかったのかもしれない。そんな陳腐に見えることを続けて、またこの季節が来てしまった。
「ナズーリン!」
「ん? なんだ、ご主人様か」
「なんだ、とはどういうことですか。主人に向かって」
また春が来た。
蕾が開き始めた桜を見上げ、季節の移り変わりを感慨深く思っていると、ご主人様が不機嫌そうに私に声を掛けてきた。最近、妙な事件の相談が多くて、頭を悩ませているらしいからいつも難しそうな顔をしていた。
「まあまあ、落ち着きなよ。ところで例の妖精の集団は見つかったかい?」
「いいや、まだですよ。手掛かりなんてほとんどないんですから。全ての事件の唯一の共通点は妖精の群れを見たことくらいですし、見つけないと何も始まりません。犯行もそうそう酷いものではないですから、そこまで急ぐ必要もないかもしれませんが……」
「だから私にその妖精の群れを探す手伝いをしろと?」
「話が早くて助かります。あなたの力なら難しくもないでしょう?」
そう、最近人里周辺で目撃される光の渦のような、妖精の群れ。
それを見たものは道に迷わされたり、大事なものをなくしたり、幻を見たり。様々な影響を受けてしまうそうだ。きっと妖精の気まぐれに違いない、最初はその程度の認識だったがさすがに何日も続くので何とかして欲しいと言う依頼がここまで持ち上がったというわけだ。
しかしそんなおもしろそうな情報を私が集めていないわけがない、
「そうか、しかし残念だ。もうすでにネズミたちはその事件解決に動いていてね。そろそろ深層が見えてくると思うよ?」
「……そんな情報を集めておきながら、何故私に報告しないのですか、ナズーリンは!」
「いやいや、不確定な情報を渡すなど、私のプライドが許さない。それだけのことだよ」
春はいろいろな事件が起こると言うが、本当に驚かされる。
だから暇つぶしの情報収集がこれほど楽しいと思う季節は他にない。
誰もが浮かれていて足元を掬われやすい季節、だから不思議なことが勝手に起きて。それを人々は笑い話にする。
今頃は妖精の群れの「いたずら」ですら笑い話にしているだろう。
そうだ、いたずらなんだよ。
わからないのかい?
ご主人様。
ごぉぅっ!
「また、風が強くなってきましたか。これはまた荒れそうですね、ナズーリン」
私は、仮説を立てた。
それはあまりに子供地味た希望、願望でしかないものだったが。
私の胸に輝く、赤と青の破片。
それがまだ幻想郷に存在するということが、大きな意味を持っている気がしたから。
「ナズーリン?」
その種族が、正体不明であるなら。
本当に彼女が言った言葉を信じてもいいんじゃないか。
例え可能性が低くても。
仮に無かったとしても。
信じる価値はあるんじゃないか。
だから私は、幻想郷の中の情報をまとめ、数ヶ月の間に整理した。
その情報とは、異変とも呼べない小さな事件。
不思議を、「いたずら」を集めた。
そしてそれを数値化して、発生件数を調べたところも面白いことがわかった。ここ一週間のうちに幻想郷の対象数が倍以上に膨れ上がったのである。
これが何を意味するか。
「ナズ――」
ご主人様の言葉が止まる。
私と同じ、風が吹いてきた方向へと顔向けて、それ以上動かなくなる。
だってそうだろう?
「あなたの心の中に、正体不明はまだ残っているかしら?」
そこに、手を伸ばしても届かないはずの。
遠い場所へ旅立った仲間が、平然と立っていたのだから。
羽も元に戻った、元気そうな『ぬえ』が、恥ずかしそうに微笑んでいたのだから。
「ごめんね、まさか本当に転生できるなんて……だからあんな別れ方をした後。
どんな顔をして会いにいけばいいか、わからなくて……」
いたずらの数が急激に増えたのは、彼女が自分の居場所を知らせるため。
妖精の群れなどという、奇妙な群れを見せたのも彼女の能力を使えば容易いこと。そうやって、誰かが気付くのを待っていたのだ。
そして私のネズミが彼女を見つけて、ここへと導いた。
なんて馬鹿馬鹿しい話だろう。
当事者も、その関係者も、死んでしまったと思い込んでいたのに。
次の季節にあっさり復活して見せたのだから。
拍子抜けもいいところだ。
「君は、どうしようもない。本当に救いようのない馬鹿だな……」
大事なことを忘れている。
そんな旧友に、私は笑顔を見せた。
あの時見せられなかった新しい生活へと踏み出すための、約束の笑顔を。
「帰ってきたら、一言だけでいいんだよ。忘れたかい?」
「……うん、そうだった。そうだったね!」
理屈なんてその後でゆっくり聞かせてもらえればいい。
そんなものより、私は彼女のその一言が聞きたかった。
「……ただいま」
「……おかえり、ぬえ」
おそらくキャラ強さの格差のせいか
キャラ強い子は同じ作品内で組み合わす相手探す必要ないものね・・・
こういう、登場人物全員を好きになれる話って良いなぁ
どの子も魅力的でした
いや、いい話でした。
感動しました。
鵺消滅時の描き方がとてもよかったです。
衰弱し、また消滅して転生するの繰り返しになるのでは?
コメ返しの方はあとがきでお願いしたいと思います
ただ、これから話の正念場ってところで不覚にも笑ってしまった。>星は星座をしながら
あと、毘沙門天なら神社よりも仏閣だと思うんです。
推敲 Please!
妖怪が己の存在意義を否定しちゃお終いですね。
でも当人が後悔しなければそれで良いんですよね。居場所が大事だよ。
そんな矛盾を孕んだ鵺という種族であるぬえが「仲間」を得られたことは、彼女にとってどれほど嬉しかったことでしょう。
素晴らしいハッピーエンドでした。ありがとうございます。
感動しました。
雰囲気も話の内容も構成も、全部大好きな作品です