小話を一つ。
幻想郷の人里のはずれの方に、とても仲の良い夫婦が住んでいた。
夫は猟師で、山に入っては山菜や獣をとって日々の糧を得ていた。しかし此処は幻想郷。山は魑魅魍魎で溢れており、ただの人の身では命がいくらあっても足りはしない。
そういうわけで、女は猟師の嫁になることを避けることが多く、幻想郷の猟師は独り身が多かった。その点、この里のはずれに住む猟師は例外中の例外だったと言えよう。なにせ妻の方が夫に“ぞっこん”だったのだ。寡黙で人当たりのいい人間というわけではなかった夫に、どうしてそこまで惚れ込んだのか。当時は猟師仲間の間で二人の馴れ初めが話題になったものだった。もっとも、それは未だに謎のままなのだが。
妻は……なんと言うのか、人一倍感情的だった。楽しいときや悲しいときはまるで童女のように笑ったり泣いたりする。だが一度怒ると手に負えなかった。女の中でも小柄な部類に入るであろう妻は瞳に涙をたえながら精一杯睨んでくる。その様は全く恐ろしくはなく、むしろ愛らしいくらいなのだが、気のすむまで絶対にそれを止めない。妻の強情さには夫を含めたどんな男でも最後には折れるという。
妻はどうしても一緒にいたいと夫と両親に訴え続けた。夫は最初こそ妻の思いに戸惑っていたものの、その戸惑いが恋慕に変わるまでそう時間は掛からなかった。
まっすぐに自分の思いを伝えた女と、そんな愛を不器用ながらも返した男。二人ともまだ若く見ていてはらはらする場面もあったが、仲睦まじく寄り添う二人を誰もが祝福した。まだ子供は居なかったが、いつ産まれてもいいようにと、夫は人一倍仕事に精を出しているという。
さて、話はこの少し風変わりな夫婦の、あるの一夜の出来事である。
この妻はとにかく酒に弱かった。お猪口一杯で顔は真っ赤になり、二杯では呂律が回らなくなる。三杯ともなればもう意識は乱れに乱れて、そのままこてりと寝入ってしまうのが常だった。
そんな妻が珍しく夫と酒を呑んでいたのは、その日が二人が結婚して丁度一年目となる日だったからである。夫は無理して飲まなくてもいいと言ったのだが「御義父様からの貰い物なのですから、口をつけずに居られません」と杯を煽った。そうして案の定、泥酔の態と相成ったのだった。
夫は仕方ないなと布団を持ってきて、横になっている妻に掛けた。外から枯葉を散らす風の音が聞こえた。初秋とはいえ、最近の夜は随分と冷え込む。ちゃんと布団を敷いて寝かせた方が良いかと夫が立ち上がると、しくしくとすすり泣く声が聞こえた。
何事かと眼を向けると、妻が涙で布団を濡らしながら、嗚咽を堪えていた。
「どうした。体の具合が悪いのか」
夫が問いかけても妻は首を左右に振るだけだった。
普段から明朗快活で通っている妻がこんな風に泣いているのは見たことがなかった。喋れないほどに悪いのか。ならばこのまま妻を負ぶってお医者まで行こうかと思ったところ、ようやく少し落ち着いたと見える妻が言った。
「ごめんなさい、あなた。違うのです。何でもありません。何でも……」
「何でもだと。そんなさめざめ泣いて、何でも無いなんてことがあろうか。何があったのだ。どうか話してくれ」
意気込む夫に妻はしばらく何も言わなかったが、夫は辛抱強く妻の言葉を待った。
そうして、草木も眠る時刻となった頃だったろうか。
「あなた、厄神さまをご存知? 翠の髪をした……」
と妻が訊いてきた。
まさかここで厄神様が出てくるとは露とも思っていなかった夫は些か面喰らったものの、
「ああ知っている。もっとも、あのお方の周りには厄が集まっているから、遠目にそのお姿を見かけた程度だが」
と妻に答えた。それを聞いた妻は「ああ……」と呟くと顔を深く布団に埋めてしまった。いよいよ夫の混乱は極みに達し、何と声を掛ければよいのかわからなくなってしまった。
また少し時間が経ってから、妻は口を開いた。
「私、厄神さまにお会いしたことがあるの」
「厄神様に? では、お前はその厄に当てられて……」
「ああ、違います。違うのです。“あの人”がそんなことをするはずがありません」
妻は仰向けになって泣きはらした面を夫に向け、ぽつぽつと語り始めた。
それは途切れ途切れに、ぴんと張り詰めた糸のような声音で――
「昔のことです。厄神さまのことを、思い出して……」
――聞く者が聞けば、正しく懺悔であったとわかるような話だった。
昔。私がまだ小さかった頃のこと、一人で山に入ったのです。近所のおじさんか誰かが言っていたことを真に受けてのことだったと思います。山にそれはそれは綺麗な泉があって、その水を飲むとその一年はどんな病にもかからないという、何処にでもある眉唾な噂でありました。
ですが、私はあの頃から無鉄砲でしたから――母の誕生日のお祝いにはもってこいだと出かけてしまったのです。幸か不幸か、それを止めてくれる大人は誰も居ませんでした。
ただの農家の娘だった私に山の勝手がわかるはずがありません。水筒片手に森を当ても無く歩くことしかできませんでした。
あゝ、本当に。
よく妖怪に出くわさなかったものだと思います。妖怪から見れば、山を歩く一人きりの子供なんて、鴨が葱を背負っているようなものでしょうから。もしかしたら、お日さまが空のてっぺんに居るような時刻だったのがよかったのかもしれません。
はじめは意気揚々と進んでいた私でしたが、所詮子供の体力、一刻も歩いたところで疲れてしまって、その場に座り込んでしまいました。顔を見上げると周りの木々の高さが否応無く感じられて、ようやく自分が如何に無謀なことをしているのかわかったのです。そうなるともう風が木の葉を揺らす音ですら怖くなって、居ても立ってもいられなくなってしまったのです。
私は棒になった足を引きずるようにまた歩きはじめました。もうどこをどのように進んだのかなど思慮の外でした。ただどこか安心できる所に辿り着きたい一心で……ええ、それが本当に残念でなりません。もし覚えていたなら、もう一度あすこへ行くことができたやもしれませんのに。
私は泉に辿りつきました。小さな崖に、洞のような……いえ、あれはただの窪みというのでしょうね。一際大きな窪みに水が溜まっていて、そこから糸のような水流が音も無く流れていました。ああいうのを岩清水と言うのでしょうか。緑も何も無い殺風景でしたが、それが逆に泉の荘重を際立たせていたように思います。
その場の厳かな雰囲気に、子供心にも神聖さを感じていたのでしょう。縋る様に――私にそれ以外何が出来たでしょうか――私は泉の淵まで走っていました。
今でもはっきりとあの光景を覚えています。思ったよりもずっと深かったのに水中は何処までも透けていて、ゆらゆらと水面に合わせて揺れる様は蜃気楼のように儚げでした。
――私はそれを、初めは夢だと思ったのです。
水底に、一糸纏わぬ女の人が横たわっていました。眠っているだけのようでした。夢を見ることもなく安らかに、ただ澄み切った静けさの中で、美しい翠の髪だけが揺蕩っていて……。
その唇は固く閉じられて、水泡が上ることはありませんでした。けれど、その人が水死体であるなどとは微塵も思いつかなかったのです。あの時の思いはとても言葉では語り尽くせません。私にはその人が“生きている”ということは間違いようの無いことだったのです。
私は一も二も無く泉に飛び込んでいました。
大きな水音を聞き遂げたと同時、冷たい水の感触が体を包みました。眼を開けると、目前にあの人の顔がありました。水の中でしたのでぼんやりとでしたが、その人が少し驚いたように眼を見開いていたのはわかりました。
やはりこの人は“生きている”のだとわかって――嬉しくて、私は笑いました。
妻は一度話を切って、夫に笑いかけた。どうやら話しているうちにだいぶ落ち着いたらしい。恐らく妻の話の頃と全く同じままであろうその笑顔を見て、夫は内心でほっと息をついた。
「本当に水は痛いくらいに冷たくて、心臓の止まる思いだったんですよ。でも」
こんなことを言うとまた貴方を心配させてしまうでしょうけれど。そう前置きして妻は言った。
「あの時迷い無く飛び込んだ昔の私を、私は誇らしく思うんです。もしまた同じ場面に出くわしたとしても、私は――」
嫌な流れだと、夫は――
「やめてくれ」
――夫は、思わず妻の言葉を遮っていた。夫には妻の話の行き先に見当がついてしまったのだ。
夫は妻を見る。小柄な体。肩の辺りで切り揃えられた黒い髪。薄紅色に染まる頬。茶色がかった大きな瞳。
そして稚気の残る清冽な心。
最愛の人。
「……あなた?」
妻は……なんと言うか、人一倍感情的だった。
人一倍感情的に人を慈しむ女だったのだ。
夫にとってそれが妻の最大の魅力であり、同時に最大の気がかりであったのだ。
「……いや、なんでもない。すまなかった。続けてくれ」
夫の懸念が顔に出ていたのだろうか。
さっきまでの穏やかだった妻の顔がまた曇っていく。
「ごめんなさい、あなた」
「謝ることなんて何も無いんだ。さあ、続きを聞かせておくれ」
「……はい、わかりました」
妻の唇はまた話を紡ぎ始めた。たまに途切れそうになりながら、しかし決して止まることなく。
夜明けまでには已むだろうかという考えが夫の頭に浮かんだが、すぐに泡となって消えた。
その人は沈む私を抱きとめて、そのまま水面まで浮かび上がりました。
「どうしたの、あなた。こんなところで」
私は何も返すことが出来ませんでした。だって、本当に何も考えずに飛び込んだんですもの。咄嗟に出せる言葉なんて用意できているはずがありません。
あの人はそのまま私を抱きかかえて泉から出ました。着の身着のままで飛び込んだ私の体に、水を吸った服が重たく張り付いていました。
「ずぶ濡れね。寒くない?」
髪を後ろに梳き流しながら言うあの人の言葉で、ようやく体が気付いたように震えだしました。季節は真夏でしたが、泉の水が冷たすぎたのです。
「脱いだほうがいいわ。そこの岩はお日様でぽかぽかだから、広げていればすぐに乾くわよ」
まだ子供だったとはいえ、露天で裸を晒すのには抵抗がありましたが、「このままでは風邪を引くわ」というあの人の言葉には逆らえませんでした。それでも恥ずかしさから出来る限り体を隠そうと、ぎゅっと膝を抱き寄せていましたけれど。
「落ち着いたかしら?」
あの人は私の隣に腰を下ろして、水中と変わらぬ微笑で、私を見ていました。
改めて向かい合うと、本当に美しい方なのだとわかりました。たわわに豊かな翠の髪。小さな顔に整った目鼻は人形のよう。豊麗な乳房に、細い腰。すらりと伸びた肢体の滑らかな曲線を雫が滴っていく様は、女の――といってもまだ子供でしたが――私でもどきりとしてしまうほどでした。
「大丈夫?」と言われてようやく自分が見惚れていたことに気付いたのです。
大丈夫ですと答えると、あの人は目を細めて「良かった。貴方もお人形さんかと思った」と笑いました。
「それにしても、びっくりしたわ。大きな音がしたと思ったら、女の子が目の前にいるんですもの」
私は身を縮ませました。眠っていたのを起こしてしまったと思ったのです
「気にしないで。眠っていたわけじゃないから。ここに居たのは身を清めるためで、沈んでいたのは水の中にいると落ち着くから」
「貴方はどう? そう思ったりする?」と訊かれて、私は頷いていました。丁度その前の日に川で遊んだことがありましたから、その気持ちはわかったのです。水の中にいると、水面から先の世界がとても遠く感じるのです。でも、それを寂しいと感じることは無くて。水色の空の模様を見ながら、あの独特の浮遊感に身を委ねるのが心地好いのです。
思ったことをうまく伝えられないのはもどかしいことだと強く思ったのはこのときが初めてかもしれません。拙い言葉遣いで話す私に、あの人は笑顔のままで相槌を打っていました。そうして他愛の無い話をいくつか交わしたあと、私はようやくあの人がずっと何も着ていないことに気がつきました。
お姉ちゃん――あの人のことを私はそう呼んでいました――の服は何処。こんなにきれいなんだから、そのお召し物もきっときれいに違いないわ。
そう尋ねると、あの人は初めて、少し困った風に目を逸らして、
「私の服はね、洗濯中なの」
と答えました。
この人は本当に生まれたままの姿で、あの山の泉に居たと言うのです。他の服は無かったのと私が訊いても「ええ、何も持ってないの。私が持っている服はたった一つ、あのドレスだけ」と言うだけでした。
興奮した私は思わず立ち上がっていました。あの人があられもない姿でいなければならないことが許せなかったのです。
――そんなのってひどい。
――お姉ちゃんはこんなにきれいなのに、あんまりだ。
確か、そんなようなことを言ったのだと思います。
あの人は私を眩しそうに見上げながら、私の手を取って言いました。あの泉の水のように、冷んやりとした手でした。
「ありがとう。でも仕方の無いことなのよ。私は厄神だから」
厄神、という言葉をすぐには理解できませんでした。
「やっぱり、貴方は知らなかったみたいね。私は厄神なの。みんなの厄を集めて、山の神様に届けるのが私の務め」
厄神さま。その存在だけは知っていました。母に連れられて流し雛を流しにいったときに教わったのです。
厄神さま。厄を持っていってくれる神さま。その身の周りには常に集めた厄が渦巻いている……。
「大丈夫よ。今の私は厄を溜め込んでいないから」
見透かしたようなその言葉で、私の頭は真っ白になりました。あの人に触れられていることを恐ろしく思ったからではありません。私はあのときから今まで、一瞬でもあの人のことを恐ろしいと思ったことはありません。その言葉がそのまま、触れ合う私とあの人の距離であったことがわかってしまって、私はあの人の手を握り返すことも出来なかったのです。
笑顔を、工芸品めいた笑顔を、寸分も崩さぬままで私の手を握り続けていた力強さに、あの人は気付いていたのでしょうか。
「私はいつも厄を身に纏うから、服も特別製なの。今はその特別製を、洗濯に出しているところ。もうじき届く手筈なのだけれど」
でもね、と呟いて、あの人は。
「その頃にはもう日が暮れてしまうでしょう。人間の貴方は、お家に帰らなくてはいけないわ」
そんな残酷な言葉を口にして。
それでもう私達の間の何もかもが、夢から放り出されたようになってしまいました。日は茜色に色付きだした時分で、私の服はすっかり乾いていました。あれだけ神秘的だった岩清水は、ひたすらに寂しい行き止まりでした。
私はあの人に抱きついていました。寂しかったからです。悲しかったからです。そして同じくらい悔しかったからです。何にそう思っていたのか、当時の私にはわかりませんでしたけれど。でも、この人を離してはいけないということだけは、はっきりと決めていたのです。
あの人は私を拒みませんでした。ただ、胸に顔を埋めた私の頭を優しく手で撫でてくれました。
私は泣いていました。一緒に帰ろうよという言葉は、もうほとんど言葉になっていませんでした。
「それは出来ないの。私の服はあの一着だけ。裸では貴方の家まで行けないわ」
なら私のをあげる。少しぼろっちくて小さいかもだけど、ねえ、それならいいでしょ。そんな私の我が儘にもならない我が儘を、あの人は黙って受け止めていました。
きっと、そうする他にはもうどうすることも出来なかったのでしょう。
あの人も……そして私も。
「それじゃ貴方がはだかん坊になってしまうわ。女の子がそんな格好のままでは、恥ずかしいでしょう?」
そんなことを言われても、羞恥心など芽生えませんでした。その時はあの人のことしか考えられませんでしたし、なにより意地でも服を着るものかと思っていたのです。
私が服を着れば、あの人も厄神さまのドレスを着てしまいそうで――二人触れ合う時間を、私は一秒でも長く引き伸ばしたかったのです。
――厄神さまにならないで。
――ずっと近くに居てよぅ。
言葉の代わりに、叶わない願いを一心に、神さまに願いました。
厄神さまではない神さまに、願いました。
「……風、少し冷たいね」
そう言ったあの人の表情は、どんなものだったのでしょう。私にはわかりません。顔を上げることが出来なかったのです。
ただ、抱きしめる腕の柔らかさが、あの人の心情の全てであるようでした。
「私は今厄神じゃないから、貴方を抱いていましょう。人形のこの身は人肌のように温かくないけれど、風除けくらいなら」
腕を私の背まで広げて、包み込むように。
愛しむような抱擁でした。
惜しむような抱擁ではありませんでした。
「貴方のために。貴方のためだけに。今このときだけは、私は貴方だけの人形よ」
私は、そんなことを、望んでいたのではありませんでした。
でも、言葉は何も浮かばなくて。
留処なく溢れる涙はあの人の冷たい胸元を濡らすばかりで。
ただ泣きじゃくる私を、あの人は抱きしめて。
きっと、そうする他にはもうどうすることも出来なかったのです――
そこで、妻の話は終わりだった。それ以上は話にならなかった。夫に出来たことは、泣き崩れた妻の背をぎこちない手つきでさすることくらいだった。
「あの人は人形なんかじゃありません。人形があんな嬉しそうな顔をするはずがありません。人形があんな寂しそうな顔をするはずがありません」
妻はどんな理不尽でも、何かを呪うような女ではなかった。
ただ、嘆くだけだ。涙を流しながら、弱々しい声で。
「でもあの人は、きっと美しい厄神さまのドレスをお召しになっているのでしょう。今もお一人で、山にいらっしゃるのでしょう」
妻の悪い癖だと、夫は認識していた。
妻はいろいろなことにその感情を注いでいた。その多くは慈愛の精神であり、眩しいほどに尊いものであった。
だが、何かに愛を注いだだけ、妻の心はその何かに切り分けられているのだ。その何かが妻から離れていくたびに、妻の心は何処かへ喪われていくのだ。
「どうして、あの人が厄神さまなのでしょう。どうして、生まれたままの姿では居られないのでしょう。あの人はただの人なのに。いつも誰かのために、独りで……」
感情が昂りすぎて疲れたのだろう。うとうとしだした妻の声は、次第に小さくなっていって。
――どうしてあの人は独りなのに、私は独りではないの。
その言葉を最後に、夫婦の間にあるのは静かな寝息だけになった。夫は妻を起こさぬよう慎重に抱え、布団に寝かせつけた。妻の濡れた目元を拭いながら、今宵の眠りが夢も見ないような深いものであることを願った。
夫は残ったままの酒と杯を手に、縁側に出た。夜の闇はだいぶ薄くなっていた。日が昇るにはまだ猶予があったが、眠る気は起きなかった。
なみなみと杯に酒を注ぎ、一気に煽る。喉を抜けていく酒精の熱を感じながら、夫は厄神様のことを思った。
夫はあえて遮らなかったが、妻の想い入れは全く見当違いだった。あの厄神様はもともとは流し雛だったと聞く。そうであるなら“作られた”ときから服を着ていたのだろう。つまり、あの方の生まれたままの姿とは服を着込んでいる姿であり、妻と一緒に居たときの姿こそが異常だったのだ。
夫は神でもなければ僧侶でもない。ただの猟師だ。だからそのことについては『儘ならないな』と思うことしか出来ない……否、そうする他にどうすることもないのだ。夫には、厄神様を必要としている人間があの厄神様の心中について思い煩うのがむしろ非道な行いに思えた。厄神様が居なくなった世界のことを考えるのは夫には難しいことだったが、もしもそれが妻が傷ついた世界であるのなら……夫は迷いも嘆きも無く厄神様を崇めるだろう。たとえ今この瞬間、厄神様が寂しさから人恋しく思っているのだとしても、それは変わらない。
人形は残酷な人間のために。
厄神様に会った妻は、きっと風邪を引くこともなく無事に家に帰れたのだろう。
酒を一人で飲み干した夫は、結局寝ることにした。今日も仲間と猟の準備がある。本格的に秋になれば、山に入る者は皆いよいよ忙しくなる。いつか――願わくばそう遠くない未来に――生まれる子供のためにも、この秋の内に稼いでおきたかった。
ふと、妻を連れて山に入ることを夢想した。
麓を越えて、紅葉の木々の下に見つけたあの方の通り道の先の先。厄に塗れた厄神様の色鮮やかなドレスを、妻に一目でも見せられたなら――
妻を、妻を、純心な妻を――心から愛する夫が、危険な山に妻を連れて行くことなどありえない。しかし、そのありえない情景を想うと、夫は、妻が感じたであろう悲痛を胸に感じるのだった。
この先も貴方の作品を読んでみたいと思いました、是非次作を!
そのとき、はじめて真に平等となり、接する相手を自分のことのように考えられる。作中の妻もそうなったのだと思う。だが、雛の言葉もまた裸であったからこそだと思う。
人に生かされる神様は当然、人ではない。極端に言えば、妻の悲愁は動物が可哀相だから肉を食べたくないというものだ。人間の無自覚な悪意もこのお話から垣間見た。
と、あれこれ考えることができる、良いお話を読ませていただきました。すてきです。
有望な新人さんがまた一人
綺麗にお話が一つにまとまっているようにおもう。
作者様の狙いは的中です。
>>だが、何かに愛を注いだだけ、妻の心はその何かに切り分けられているのだ。その何かが妻から離れていくたびに、妻の心は何処かへ喪われていくのだ。
フフフ、二次元の女の子に恋をする男も、いつだって哀しいですよね……
良かったです。
一つは満ち足りた美しさ、一つはがらんどうの美しさ。
前者は慈愛、後者は憧憬の念を覚えます。
さて、このふたりのなんと美しいことか。
これが初投稿とかすごくパルパルしいのです。
何事に関しても丁寧さを感じられるのはのは見てて気持ちいいものです。
まあ、能動性に疵のある私にはこの「妻」の人間臭はちと刺激として痛いです。
またの投稿お待ちしています。
誰かが想ってくれている。それだけで雛の心は救われるんじゃないでしょうかね。