鵼は深山にすめる化鳥なり。
源三位頼政、頭は猿、足手は虎、尾はくちはなのごとき異物を射おとせしに、なく声の鵼に似たればとて、ぬえと名づけしならん。
――鳥山石燕「今昔画図続百鬼」より
「――なあ、いい加減にそろそろ教えてくれたっていいんじゃないか?」
命蓮寺の座敷、その中心に陣取ったちゃぶ台を挟んで二人の少女が座っている。
一方は黒い三角帽子に黒い服とこれ以上ない位に魔女らしい格好をした金髪の少女だ。
その金髪の少女――霧雨魔理沙がもう一人の少女へと語りかける。
「別に能力の秘密が知りたいとか、そういうわけじゃないんだぜ?」
「それじゃあ、一体何が知りたいって言うの?」
もう一方の少女――ぬえが少し面倒くさそうに応えた。
こちらは魔理沙以上の黒ずくめである。二人の他には人の姿もなく、その二人が揃って黒ずくめなため、ぱっと見だとまるで葬式のようだ。
「だからさ、封印される前は一体どんなことをしていたのか――だぜ」
――そう言われてもなー。
何でも、ここのところスペルカードを使用した決闘で、あの紅白の巫女――博麗霊夢に連敗が続いているらしいのだ。
普段の勝率も決して高いとは言えないらしいが、最近はそれがさらに輪をかけてひどいようだ。霧雨魔理沙、現在連敗記録を更新中とのことである。
その現状を打開すべく、新たな魔法を開発しようとこうしてヒントを求めて色々な場所を訪ねて回っているらしい。
それで先程のような質問をされたわけだが、ぬえ本人からしてみれば、自分の能力を存分に活用して人々を脅かしていただけの話である。何をしていたかなどと聞かれても、それ以外には答えようがない。
しかし、ぬえが正直にそう言っても
「たったそれだけで伝説になるわけがないだろ。他に何か、人の心に残るような重大な要素があるはずだぜ」
と、一向に納得してくれないのだ。
迷惑な話である。
しいていえば、「正体不明」であることそれ自体が魔理沙が言う所の「要素」なのではないかと思うのだが、そう魔理沙に告げてもやはり納得がいかないようだ。
曰く、
「妖怪なんて、昔の人にとっちゃどれも正体不明みたいなもんじゃないか。鵺だけが特別ってわけじゃないだろ?」
と、いうことらしい。
失礼な話である。
しかし、それも仕方のないことかもしれない。
そう、きっと彼女はまだ知らないのだ。
「正体不明」であることの恐ろしさを。
真の暗闇の――恐怖を。
ぬえは思い出す。
夜の空が妖怪達の物だった頃、まだ外の世界が幻想郷と同じ暗闇に包まれていた頃のこと。
それは人間にとっては気が遠くなるほど昔のこと、妖怪にとっても最近とは言い難い――遠い昔のことである。
◇◇◇
平安時代末期、近衛天皇の代のことである。
天皇の住む清涼殿に奇怪な事件が起こった。
毎晩、丑刻(午前二時)頃になると、西北にある森の方から、黒雲が沸き立ち、
ヒューッ……ヒューッ……ヒューッ……
と、鵺のような不気味な鳴き声が辺りに響き渡るというのだ。
その鳴き声が聞こえると、天皇はすっかり怯えてしまい、最後には気絶してしまったという。
霊験あらたかな高僧を何人も呼び寄せて、秘法を行いこれを祓おうとしたがまったく効き目は現れなかった。
自分がその化物を退治をしてやろうという勇敢な者もいたが、どこを探しても化物の姿はなく、ただ不気味な鳴き声が響き渡るだけだったという。
しばらくすると、その姿を見たという者も現れたが、
曰く「猿のような顔をしていた」、
曰く「いや、手足は虎のようだった」、
曰く「蛇のような尻尾を見た」
――と、各々で言っている事がてんでばらばらで、まったく要領を得ない。
そうやって手をこまねいている間に天皇は病にかかってしまい、どんな薬や祈祷をもってしてもその病が鎮まることはなかった。
そして――今夜も鵺の鳴き声が空に響き渡る。
ヒューッ……ヒューッ……ヒューッ……
さて、そんな風に地上で人々が右往左往している姿をはるか遠くの上空から眺めている少女がいた。
「ふふっ、本当に人間って面白いわね」
そう一人呟いてけらけらと笑う。
彼女こそがこの怪事件を起こしている張本人である。
見た目はまるで人間の少女のようにも見えるが、背中には赤と青の奇妙な形をした翼が生えており、人間でないことは瞭然である。
彼女はここしばらくの間、殆ど毎日のように天皇の御所に通い、ひたすらに悪戯を繰り返していた。
その内容はと言えば実に他愛もないもので、黒煙を纏って清涼殿の上空まで行き、鳴き声を上げ続けるだけである。
本当にただそれだけだ。
稀に「正体不明のタネ」を使って驚かすこともあったが、それは本当に数えるばかりのことで、後はただ上空から慌てふためく人々の姿を眺めて楽しんでいた。
ただの鳴き声に怯える者。
何も無い暗闇に向かって名乗りを上げて突っ込んで行く者。
まるで見当違いの方向に向かって矢を放つ者。
誰もいない空に対して一心に祈祷する僧侶。
そんな人々の姿を思い出すだけで笑いがこみ上げてくる。彼らは暗闇の中に一体何を見たというのだろうか。
そう、事件の張本人とは言っても彼女は大したことはしていない。
ただちょっと、鳴き声を上げて自分の存在を示しただけだ。
ここに妖怪がいることを。
得体の知れない何者かがいることを。
正体不明の飛行物体が存在することを。
それを人間達が勝手に想像し、勝手に怯え、勝手に慌てふためき、勝手に病気になったというだけの話である。
「――煙が立ったからといって、火があるとは限らないのにねー」
◇◇◇
さて――時を同じくして、けらけらと楽しげに笑っている少女とは反対に、眉間に皺を寄せて厄介な問題に頭を悩ませている男がいた。
その名を源頼政という。
「――一体どうすれば良いのだ」
彼の悩みは本日、朝廷からの使いによってもたらされた。
「まさか、化物退治を命じられるとは!」
そう、彼は近頃御所を騒がせているという化鳥の退治を命じられてしまったのだ。
源義家が弓を鳴らして怪異を収めたという前例にならって、弓の名手であった頼政が推薦されたということらしい。
しかし、未だ姿も確認できない――存在するかどうかすら疑わしい化物の退治を命じるなど前代未聞である。
頼政も、
「武士とは謀反を企てるものを討ち、勅命に背く者を滅ぼすためにお仕えてしているのです。目にも見えない化物を討てなどというご命令はこれまでに前例もありません」
と、体裁を保ちつつ必死の抵抗を試みたが、勅命ということで、どうしても引き受けざるを得なかったのである。納得はいかないものの、自分で言った手前、ごねることも出来ない。
とりあえず、山鳥の尾で作った矢を二本用意するように家来の猪早太に命じたが、それも本当に役立つかどうかはわからない。
何しろ相手は姿も見えぬ怪物である。
頼政の先祖である源頼光はあの酒呑童子を退治したというが、それだって姿形のある化物だ。
一応の目撃証言も聞いてはいるのだが、それらを統合するとこうだ。
『頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をした怪物』――である。
「一体どこに『鳥』の要素があるというのだっ!?」
まったくもって意味がわからない。
鳥らしいところといえば、鳴き声くらいのものだ。それとも、上空から現れるから鳥に決まっている――とでも言うのだろうか。
せめて目に見える化物ならば、敵わないまでも挑むことは出来るだろう。
しかし、姿も無い、形も無い、そんな相手に――、
「どうやって挑めというのか……」
頼政は、すっかり途方に暮れてしまった。
その翌日、日が沈み、辺りがすっかり暗くなった頃、頼政は狩衣に身を包み、先祖・源頼光より伝わる弓を持ち、矢を持たせた猪早太と共に神明神社へ参詣を行った。
結局、一晩考えても良案が思いつくことはなかったのだ。
後はもう神に頼む他は無い、というわけである。
頼政は目を閉じ、一心不乱に神へ祈った。
どうか化鳥を無事に討つことが出来るように――と。
日が沈んだ後であるからか、怪事が続いているからか、辺りはしんと静まり返っている。音といえば、木々が風に揺れて擦れ合い、カサカサと音を立てるくらいのものだ。
そんな中で目を瞑って祈っていると、
がしゃんっ!
唐突に後方から金属がぶつかり合ったような、甲高い音が聞こえてきた。
「な、何事だ!?」
突然の出来事に驚き、後ろで控えていた筈の猪早太に確認をする。
「す、すいません。その……」
頼政の言葉に猪早太が申し訳なさそうに応える。
よくよく見れば、猪早太に持たせていた矢が神社の石畳の上に散らばっている。
どうやら先程の音は、持っていた矢筒を猪早太が落とした音だったらしい。
そうとわかると、
「まったく、何をやっているんだ。今はご命令を遂行するための大切な祈願中だというのに」
と、うろたえた姿を家来に見られたことを恥ずかしく思いながらも猪早太を嗜めた。
しかし、いくら祈りに集中していたからといって、たかが音にこうもうろたえてしまう自分も情けないと頼政は思う。
そう、たかが音に――。
「音……に……?」
『不気味な鳴き声が辺りに響き渡るという』
『鳥らしいところといえば、鳴き声くらいのもの』
「まさか、そんな馬鹿なことが……、いや」
――そういう、ことなのか。
「あの、頼政様……?」
いきなり独り言をぶつぶつと言い始めた頼政を心配したのか、猪早太が声を掛ける。
「――ああ、すまないな。ちょっと考え事をしていた」
「そうですか……。それよりも先程は本当に申し訳ございませんでした」
祈りを邪魔してしまったことを余程気にしているのか、心底申し訳なさそうに猪早太が言った。
「いや、そのことはもう良いのだ。むしろ、感謝をしたい位だ」
天啓とは、まさにこのことかもしれない。
「……?」
猪早太はまったく得心の行かない様子だ。
それもそうだろう。
しかし、頼政はそんな家来に対して何の説明もせず、こう続けた。
「それよりも、大至急用意して欲しいものがあるのだ――」
◇◇◇
そして、今日も丑刻――妖怪達の時間がやってきた。
怪事件の原因である少女は、いつものように黒煙を纏い、昼の間に隠れていた森を飛び立った。
そうして目指す先は、これもまたいつもの通り、天皇の住む御所――清涼殿だ。
「さてさて、今日はどんな面白い光景が見られるのかな」
彼女の悪戯に慌てふためく人々の滑稽な姿を思い浮かべながら、ゆっくりと空を進んで行く。
そうして漸く清涼殿のそばまで来ると、彼女は地上の様子がおかしい事に気がついた。
地上には一つの明かりも灯っておらず、人々の声もまったくしないのだ。
これはおかしい。
いつもなら彼女が来る時間になると、人々は明かりを付け、空を警戒し、大騒ぎを始めるというのに。
だというのに、今日のこの様子は一体どういうことだろうか。
「むー……?まさか、みんな寝ちゃったのかな?」
もしそうだとすると、それは詰まり、人々がもう彼女のことを恐れていないということになる。
それはちょっと、頂けない。
妖怪としての威信に関わることである。
「ふふ、もし本当に寝ちゃってるって言うなら――今まで以上の恐怖でたたき起こしてあげるわ!」
と、彼女が意気込んだちょうどその時である。
ばびゅんっ!
空気を引き裂くような鋭い音が彼女の耳を襲った。
反射的にからだがびくんと跳ねる。
「な、なに?これは――弓の音?」
確かにそれは矢を放つときに聞こえる、弓の弦が発する音だった。
しかし、回りを見渡してもそれらしい姿もなく、一向に矢が飛んでくる様子も無い。
「……虚仮威しね。そんなもので私が逃げ帰るとでも思っているのかしら」
勿論、そんなつもりは微塵も無い。
しかし、これではっきりしたことがある。
「ふーん、どうやら私を退治しようって人間がいるみたいね」
地上に人の姿は見えないが、まず間違いないだろう。
いつもと地上の様子が違うというのもこれで合点がいく。
「そっちがその気なら、相手をしてあげるわ」
彼女は地上に、姿の見えない敵に向かって叫んだ。
「暗闇に潜む愚かな人間よ!正体不明の飛行物体に怯えて死ね!!」
◇◇◇
ヒューッ……ヒューッ……ヒューッ……
いつものように、不気味な声が夜の京に響き渡る。
その鳴き声が聞こえ始めた時、頼政は御所の傍に身を潜めていた。
――来たか。
鳴き声を確認すると、頼政は黒煙に向かって弓を構えた。
だが構えた弓に、矢は番えられてはいない。
頼政はそのまま大きく弓を引き――弦を鳴らした。
ばびゅんっ!
これには二つの理由がある。
一つは源義家の前例にも見える通り、鳴弦には邪を祓う効果があると言われていたためだ。
もう一つの理由は――この音である。
今回のこの怪事件では、虎だ蛇だ猿だと、様々な目撃証言がされているが、そのどれもが明瞭なものではない。見たという人間もごく小数である。
しかし、ただ一つだけ、共通して言えることがある――今も聞こえるこの不気味な鳴き声である。
この鳴き声については、誰もが確かに聞いたと証言をしている。
化物がどんな姿をしているか、そこにはこの怪異の実体は無い。
人々の噂する化物など、ただのまやかしに過ぎないのだ。
鳴き声――音の中にこそ、この怪異の本質はある。
頼政はそう結論付けた。
多くの人々が、ただの音に怯え、居もしない化物の姿を想像し、恐れ、慌てふためき、右往左往していたのである――神社で祈祷をしていた頼政のように。
そして、頼政はこの『音の怪異』に、『音』で対抗しようと考えたのだ。
目には目を、歯には歯を、音には音を――である。
一度目の鳴弦を終えると、頼政は弓を抱えて暗闇の中を移動する。音も無く、出来るだけ素早く。
移動を終えると、再び弓を構え、大きく引き鳴らす。
ばびゅんっ!
夜の闇に、鳴弦の音が響き渡る。
頼政が耳を澄ますと、
ヒューッ……ヒューッ……ヒューッ……
という鳴き声がはっきりと聞こえる。
しかし、つい先程まではまるで四方から聞こえるかのようだった鳴き声が、今はある一定の方向からしか聞こえてこない。
――効いているのか?
鳴き声を確認すると、再び頼政は移動を始める。
そうして、移動を終えると――、
ばびゅんっ!
三度目の鳴弦を行った。
そして、もう一度耳を澄ます。
ヒューッ……ヒューッ……ヒューッ……
今度は先程よりもはっきりと、音の発せられている場所がわかる。
鳴き声は、上空を覆う黒煙の中、まさにその中心から発せられていた。
それを確認すると頼政は夜の闇の中を走った、出来るだけ目的のポイントを狙いやすい場所へと。
そして、最後の移動を終え、走り回って乱れた呼吸を抑えながらも弓を構える。
ただし今度は手に矢が握られ、しっかりと弦に番えられている。
しかし、正確な場所がわかっているわけではない。
何しろ音は黒煙の中から聞こえるのだ。標的が何処にいるかなど、正確に把握できる筈も無い。
だが、これ以上に場所を絞り込むことも、ましてや黒煙を打ち払うことなど出来るわけもない。
――ここでやるしかない。
覚悟を決めると構えた弓を強く引き、
――南無八幡大菩薩
そう念じながら、黒煙に向かって矢を放った――。
◇◇◇
「くぅっ……!」
彼女は焦っていた。
勢いよく啖呵をきったはいいものの、相手がどこにいるかまるでわからないのだ。
先程の音がした方向を必死に探すが、人の姿など何処にも見当たらない。
そうこうしている間に、
ばびゅんっ!
二度目の音が響き渡る。
「ひゃうっ!」
音に反応して体がびくんと震える。
相手に自分の場所がわかる筈もないのだから、矢が飛んでくるわけが無い。
頭ではそう考えていても、体が勝手に反応してしまう。
それに加えて相手の姿が見えないため、下手に動き回ることも出来ない。
自然、彼女の動きは小さくなっていく。
ばびゅんっ!
三度目の音が鳴った。
しかし、今度も矢張り――矢は飛んでこない。
「ほ、ほら、やっぱりね!」
確かに矢は飛んで来なかったが、相手の場所もわからない。
状況は少しも良くなっていないのだ、むしろ何も出来ずにいる分、彼女の方は不利といえるかもしれない。
――今日は出直した方がいいかも
そんな風に考え始めた時、
ばびゅんっ!
再び鳴弦の音が彼女の耳を襲った。
「どうせまた音だけに決まってるわ――って、え?」
しかし、聞こえたのは弓の音だけではなかった。
ビョウゥゥゥゥゥゥッ!
まるで、甲高い笛のような音が夜の暗闇の中を、彼女へ向かって突き進んでくるのだ。
「え、な――なんなのこの音?」
まさか、相手の攻撃なんだろうか。
そんな考えが頭を過ぎるが、すぐさまに否定する。
「そんなこと、あるわけないわ」
そう、自分の場所もわからないのに攻撃なんて出来るはずがない。
これもきっと、先程までと同じ、ただの虚仮威しに違いない――彼女はそう思った。
ビョウゥゥゥゥゥゥッ!
しかし、音はどんどんこちらへと近づいてくる。
音はすれども、この暗闇、そして自分自身の黒煙のせいで一体何が飛んできているのか、さっぱりわからない。
何が飛んできているのかはわからないが、音がするのだから何かが飛んできているのは間違いないだろうと思う――いや、
――煙が立ったからといって、火があるとは限らない
「――そうよ。大体、今までは全部ただの虚仮威しだったんだから、今度もそうに違いないわ!」
そう言っている間にも音は彼女へと近づいてくる。
ビョウゥゥゥゥゥゥッ!
だが、彼女は既に落ち着きを取り戻していた。
自分に攻撃が届くはずがないと、そう決め込んだのだ。
けれど、彼女は大事なことを一つ、見逃している。
確かに煙が立ったからといって、火があるとは限らない。ありもしない火に怯えるのは、何とも馬鹿馬鹿しいことである。
だがしかし――、
「きゃあっ!?」
だからといって、煙が立つ所に火が無い――そんな理屈が正しいはずも無いのである。
彼女は矢の直撃を受け、傷みに耐え切れず地上へと落下していった――。
◇◇◇
ビョウゥゥゥゥ……
頼政の放った矢の鳴らす音が途切れた。
「――的中だ」
その頼政の声を聞くと同時に、猪早太が矢を放った方向へと駆け出す。
必死に走っていると、視線の先、池の畔に黒く蠢くものが見えた。
あれこそが化物に違いないと確信し、刀を抜き放ち、一気に距離をつめる。
そして、その黒い影を取り押さえ、振りかぶった刀を振り下ろす――が、
「……え?」
猪早太の手がぴたりと止まる。
「化鳥は見つかったか?」
少し遅れて頼政も到着する。
「……一体どうしたのだ?」
頼政が、訝しげに猪早太に訊ねる。
彼が不思議に思うのも無理はない。猪早太は刀を頭上に振りかぶったまま、呆然とした表情でじっと固まったように動かないのだから。
「そ、それが――」
猪早太が困ったように手元を見つめる。
その視線を追っていくと、そこには――
「うぅっ……、ま、まさか、人間なんかにやられるなんて……」
全身黒尽くめの、可愛らしい少女がいた。
「まさか、この娘が――人々の恐れた化鳥だというのか?」
頼政が疑わしげに言う。
「いたた……、一体何だったのよぅ」
そう呟く少女の背中からは奇妙な羽が生えており、腕には蛇のようなものも見える。人間でないことは明らかだ。
「おい、娘よ」
目の前の少女に呼びかける。
「な、なに?」
びくっとして少女が応える。
「毎晩御所の上空に現れ、人々を恐れさせていたという化物は……お前なのか?」
「そ、そうよ!」
途端に気力を取り戻し、水を得た魚のように勢いよく喋る。
「私こそが、この都を恐怖に陥れた正体不明の――いたっ!?」
台詞の途中で、ぽかんと弓で頭を軽く打ち、黙らせる。
「うぅー……」
台詞を邪魔された彼女は、そのまま両手で頭を押さえて蹲った。
思いの外に痛そうだ。
――間違い、ないようだ。
しかし、困ったのは頼政だ。
一体どんな不気味な化物が出てくるのかと不安にすら感じていたのに、蓋を開けてみればこの結果である。話に聞いた通りの姿形をしているとは考えていなかったものの、流石にこんな幼い少女が出てくるとは思ってもいなかった。まったく予想外だ。
――さて、どうしたものか。
そんなことを考えていると、
「ねえ、あの音を立てて飛んできたものは何なの?」
まだ痛むのか、頭を抑えながら彼女が問う。
「ああ、あれか――あれは鏑矢という音を鳴らす矢だ」
鏑とは中身が空洞になっている木製の武具である。これを矢の先端に取り付けたものを鏑矢という。笛のような音を鳴らし飛んでいくが、木製であるために殺傷能力は著しく低い。
これが、頼政が猪早太に急遽用意させた今回の切り札だ。
そう、目には目を、歯には歯を、音には音を――である。
「それがどうしたのだ?」
「……別に、ただ正体不明の妖怪が、正体不明の飛行物体に落とされたなんて笑い話にもならないわ。だからその正体を知っておきたかっただけ」
「……なるほどな」
妖怪にも妖怪なりのプライドがあるらしい。
勿論、頼政には理解できないが。
「それで、私をどうするの?やっぱり退治されちゃうの?」
「いや……」
それを今考えていたのである。
「えっ、無罪放免!?」
「それはない」
「ああん」
当然のことながら、彼女をこのまま放置することは出来ない。多くの人々が彼女のために混乱し、天皇は病にまでかかってしまったのだから。
「時に、名は何という?」
「そういう時は、自分から名乗るものじゃないの?」
生意気な少女である。
「……私は、源頼政という」
「そう、私に名前はないわ――って、いたっ!?何で叩くのー」
理由は無い。
何となく腹が立ったからである。
こほん、と咳払いを一つして仕切りなおす。
「では、これからは――『封獣ぬえ』と名乗るといい」
「ほうじゅう、ぬえ……?」
彼女が呆然と呟く。
「そうだ。人々の間で、お前の鳴き声は鵺によく似ていると噂になっていたのでな」
姿形は様々に言われていたが、鳴き声に関しては皆口をそろえてそう言われていた。
「ふーん、ほうじゅうっていうのはどういう意味なの?」
「それはな、読んで字の如し、封じられし獣――という意味だ」
「え、私は封印なんてされてないじゃん!」
憤然と彼女――ぬえが叫ぶ。
「それならば心配は無い――」
そう言いながら懐から御札を取り出す。
「――これから、封印されるのだからな。猪早太、しっかりと抑えておけ」
その言葉と同時に、猪早太ががっしりと少女の体を押さえ込む。
「え、ちょっ、ちょっと待って!」
うろたえる彼女を無視して頼政が続ける。
「この御札はさる高名な術者から頂いたものだ。これでお前をこの池の底へと封じてやろう。何でも池の底は死の国――地底の国へと通じているらしいぞ?」
「そんな暗そうな所いやよー!」
必死に抵抗する彼女だが、矢で受けたダメージが残っており、猪早太を振りほどく程の力が出ない。
「悪いが、このまま逃がすわけにもいかないのでな」
「きゃー!この鬼ー!」
そうして暴れる彼女の頭上に御札を掲げると、御札は眩しい程の光を放ち、彼女を包み込んだ。
すると、光は更に輝きを増し、空中へ飛び上がり、そのまま池の底へと沈んでいった――。
「……よろしかったのですか?」
猪早太が不安そうに尋ねる。
「あの娘を殺さなかったことか?」
「はい、折角退治したというのに、そのしるし(首級、首のこと)も持ち帰れないではないですか。それに、何故あのような化物に名など……」
確かに、頼政の先祖である頼光も、酒呑童子を退治した際にはその首を持ち帰り、平等院の宝蔵に納めたという。
しかし――、
「だがな、猪早太よ。仮に私が彼女の首を持ち帰ったとして、人々を恐れさせた化物の正体が、あのような少女だと誰が信じるだろうか?」
「……たしかに」
最悪の場合、化鳥退治が無理だから、偽者の死体を用意したのではないか――などと要らぬ疑いを持たれる可能性すらもある。
何より、化物を退治した際に首を持ち帰るというのは、その首をもって朝廷の権威を強めるためでもあるのだ。このような化物ですら朝廷には及ばないのだと――そう知らしめるために。
だというのに、あのような少女の首を持ち帰っては、権威を強めるどころか、逆に朝廷の権威を失墜させることにもなりかねないのである。
「それに、名は……報告する際に、倒した妖怪の名前が無いと不便だろう?噂どおりに頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をした言葉では言い表せないほどの不気味な怪物だった――とでも報告しよう」
「しかし、死体も無いのは些か不自然なのでは?」
心配性な男である。
「まあ、余りに不気味で住民達が怖がるため、鴨川に流した――とでも言うさ」
まったくもって出鱈目ばかりである。
しかし、頼政はこうすることが正しいと確信していた。
彼は、今回のことで学んだのだ。
――目に見えることが全てではない。
重要なのは事実ではない、人々の心にどう映るか、である。
それこそが肝要なのだ。
事実を詳らかにするよりも大切なことがある。
きっと、化物に怯えていた人々も、明日からはゆっくりと眠ることが出来るはずだ。
空を見上げると、既に夜空は白み始めていた。
◇◇◇
「――おい、ぬえ!聞いてるかー?」
「……ん、何ー?」
どうやら少しの間ぼうっとしていた様だ。
「私はそろそろ帰るとするぜ」
そう言って魔理沙が立ち上がる。
「ん?要素がどうとかはもういいの?」
「ああ、それはもういいんだ」
どうしたのだろうか。
先刻まではあんなにしつこく問い詰めてきたたと言うのに。
「いやだってさ、やっぱり正体不明って言うからには姿を隠さなきゃならないだろ?それって物凄く地味じゃないか。やっぱり魔法は派手じゃないとな!」
「……それは、暗に私が地味だって言っているの?」
悪い悪い、と軽快に笑いながら魔理沙が応える。
「単純に私のスタイルには合わないってだけだぜ。それに――実はさっき、新しい魔法のアイデアを思いついてさ。……悪いな、散々聞いておいてさ」
まったくだ――とは言っても、ぬえ自身も特には何もしていないのだけれど。
「それより、もう少し待てば白蓮達も帰ってくると思うけど、会っていかなくて良いの?」
「ああ、早く家に帰って研究を始めたいんだ。そんなわけで、私はそろそろ行くぜ。あ、今日のお詫びに、新作の魔法が完成したら一番に見せてやるぜ――もちろん、弾幕ごっこでな!」
そう言って別れを告げると、魔理沙は大急ぎで座敷を飛び出していった。
本当に慌しい娘だ。
――しかし、それにしても
「……一番に見せるって、それって実験体にするってことじゃないの?」
人々は成長し、知恵を身につけることで、この世界に存在する暗闇を切り開いてきた。
現代においては、夜の間も明かりが灯り、街には暗闇など存在しないようにも見える。
それでは、現代には最早妖怪の潜む暗闇は、妖怪が入り込む余地はまったく存在しないのだろうか。
勿論、そんなことはない。
瞼を閉じれば視界は暗闇に染まるが、目を開けばその闇は消える。
しかし、目を開けば明るい世界とともに、また新たな暗闇もその目には映るはずだ。
進歩し、新たな領域に踏み込んでいけば、その先にはまた新たな暗闇が広がっているのである。
それは昔に比べればほんの僅か、ほんの少しの隙間だけれども。
そんな隙間の中には――新たな「正体不明」の妖怪が潜んでいるのかもしれない。
そんな中、このSSとの出会いは運命だったと思います。愉しませて頂きました。有意義な時間をありがとうございました。
正体がばれると案外弱いぬえが正体不明の強さをよく表してますね。
しかしぬえに名前を付けれるなんて羨ましい。