本来、妖怪とは概念的であり個としては成り立たないものだと言われていた。
だがある一方的な力により、妖怪たちは不定形な自我を持った。それは幻想郷が成り立つ以前にまで遡る。さらに弾幕ごっこが幻想郷のルールのひとつになったことにより、個としての存在が確定的なものとなった。
(※一方的な力とは神さえも跋扈している幻想郷において、それ以上の神――いや、より上の階層の神というべきだろうか――の力である)
さらには多方面からの強力な念により、自我は確立し強固なものとなった。
(※その念とは、希望や願望といったものが中心となっていると言われているが定かではない)
いわゆる人間化の原因のひとつである。
(※人間化とは、かの八雲紫が著書『退化を続ける妖怪たち』で定義した言葉である。主に、妖怪が人間のように振る舞うこと、あるいは精神面において人間に近付くことを指す。著書にこんな例文がある――異性のまえに出るため、化粧をしている妖怪Aを見た妖怪Bが「おまえ人間化してるな」と言ったとする。さて、妖怪Aは本当に人間化しているのだろうか? その答えとしては妖怪AもBも両者とも人間化している、が適切である。何故ならば人間化を指摘していることこそ、より人間化をしているからだ――余談だが、著者のこういった自虐的な皮肉はいくつもの著書に見受けられる)
人間化を続けることにより、妖怪たちは、妖怪としての本来の己の欲望以外の欲望、つまりは人間としての欲望を誇示するようになった。主として衣食住が際立っているが、なかでも多くの妖怪らが欲したものがある。
娯楽であった。
幻想郷においてはあらゆる意味で自給自足をしている者がほとんどであったが、娯楽だけは個だけではどうにもならないことが多い。元来、幻想郷には弾幕ごっこや、宝具や珍品等を扱った観覧会といった独自の娯楽がある。将棋や新聞といった普遍的なものもある。だが、人間の欲望とは果てのないものである。急速に人間化を続ける妖怪たちに、娯楽の発展は追いつかなかった。
それ故、現在最高とされる娯楽はいつでも誰にでも求められた。娯楽の供給先は、妖怪たちのものさしとなる自然の摂理、すなわち格の上下や実力には影響されない。ではいったいなにが強い力を持つのか。
それは通貨である。
(※使用されている通貨も人間と同様のものである)
妖怪たちは根本的には自然に住まう者たちであるからして、物を得る方法としては物々交換が主流であると言われている。しかし異常な人間化を遂げた妖怪たちは通貨の効率と、そして価値を覚えた。ここでは味を占めた、といったほうが正しいかもしれない。先にあらゆる意味で自給自足をしている物が多いと述べたが、これらは淘汰されてゆき通貨が主流となっていったのである。その流れは今現在も顕著に現れている。衣類を得るために通貨、肉を得るためにも通貨、住む場所にも、そして娯楽にふけるためにも通貨、である。ここまで来るとほとんど人間と変わらない。
最も欲されるものが娯楽であり、従って、その影として通貨が力を得ているのである。
実力のあるものが影響を及ぼす幻想郷の時代は終わった。
今では権力、いや、財力の時代であった。
妖怪たちが自我をもった故、性格を植えつけられたが故の、あるいは悲劇なのである。
また、「暇」が「娯楽」を求めた結果、通貨が価値を生んだのだが、通貨が利用されるに従い面倒事も個人レベルで激減した。金があればなんだってできるのである。そしてここで面倒事が減るために「通貨」が「暇」を生む。「暇」はさらなる「通貨」を求める。退屈極まりないルーチンワークのように悪循環が繰り返されていた。
その「暇」について八雲紫はこう語ったことがあると言われている。
『暇こそが、地獄の閻魔にさえも裁けない究極の大罪である』
さらに著書『退化を続ける妖怪たち』にはこうも記されている。
『暇とは、いまでは妖怪さえも殺す』
金銭が絡むと人間はもめ事を起こす。それは人間化が進んだ妖怪にとっても同じことである。金銭の価値が異常に発達したこの幻想郷では多くの金銭が絡んだ事件があった。だが、ここでは先に何度か紹介した八雲紫の話をしようと思う。何匹……いや、何人もの妖怪たちの事件があった。だが、ここでのスポットライトは八雲紫を照らそうと思う。
八雲紫――彼女は人間化をしている妖怪のなかで、最たる者といって差し支えがなかった。それは彼女が残した著書を読めば顕著に表れている。また、財力がすべてとなった幻想郷で、最も実力を有し、そして誇示していたのも彼女である。特有の能力を使い、ありとあらゆる場所から金銭と成り得るものをかき集めたのである。果たしてそれは罪であったのか? いいやそんなことはない。なにしろ彼女は誰のものでもない物品ばかりを集めたからである。ありとあらゆる場所――つまりはありとあらゆる世界から。それらを金銭とし、己の財力を増大させていった。
八雲紫が無限に金銭の供給を続けたため、幻想郷の金銭に関する価値観が落ちたかと思われた。だが実際には物に対する金銭の量が増えただけであった。結局は一部の者が金銭を多く所有する形となっただけであり、貧しい身分のものが現れる結果となったのだ。
やがて多くの者が八雲紫に従うようになった。
館や屋敷の維持費が苦しいため、衣食住を整えることが困難なため、今日という日を生きるのにさえ精一杯なため……
いくつもの派閥はあったが、無尽蔵に金銭を増やす八雲一派が強大となっていた。
その頃になって八雲紫はようやく現状の改善を考慮し始めた。
『我ら妖怪は金銭などではなく自然に頼ってしかるべきである』
八雲紫は姿をくらました。
急速な金銭の供給をストップさせれば、多少の混乱は生じても自然と元に戻るであろうと考えてのことであった。
しかしなにも変わらなかった。
遅すぎたのである。
妖怪たちは娯楽を欲した。
金銭を欲した。
狭い幻想郷である。その中で発達した、人間化の極みまで達した妖怪らの扱う通貨の渦の力は膨大であった。
傷害、暴行が頻繁に起こるようになった。
身売りや殺人は当たり前となった。
そして、結界を破り、幻想郷を飛び出す妖怪らが増大した。
終焉。
八雲紫はその幻想郷を見捨てた。
それは初めてのことではなかった。境界を操る能力を使いさえすれば、別の世界、別の物語へと己を移動させることは容易なのである。
今まで、幾つもの幻想郷の崩壊を見てきた。
多くが人間化のせいであった。
金銭とは別の欲にまみれた幻想郷を見、また別の幻想郷では同様のことが起こらないよう努力をした。だが、人間化の進んだ妖怪たちの欲は収まることなどなかった。どの幻想郷でも決まって人間化が起こるのだ。
幻想郷 = 人間化に影響された妖怪らの住む世界
人間化の起こる原因を叩き、人間化それ自体を止めなければならない。その方法を八雲紫は知っていたが、そうすることで己の存在、いや、幻想郷そのものが危ういものとなることも知っていた。
八雲紫は幻想郷を愛している。
だが、幻想郷それ自体が人間化の蔓延る原因のひとつといっても差し支えがない。
幻想郷は何度も崩壊する。
崩壊を止めれば、幻想郷それ自体の存在が消える。
妖怪は幻想郷と共にあるべきか。
それとも妖怪として生きるべきか。
八雲紫は我々を見上げた。
了
だがある一方的な力により、妖怪たちは不定形な自我を持った。それは幻想郷が成り立つ以前にまで遡る。さらに弾幕ごっこが幻想郷のルールのひとつになったことにより、個としての存在が確定的なものとなった。
(※一方的な力とは神さえも跋扈している幻想郷において、それ以上の神――いや、より上の階層の神というべきだろうか――の力である)
さらには多方面からの強力な念により、自我は確立し強固なものとなった。
(※その念とは、希望や願望といったものが中心となっていると言われているが定かではない)
いわゆる人間化の原因のひとつである。
(※人間化とは、かの八雲紫が著書『退化を続ける妖怪たち』で定義した言葉である。主に、妖怪が人間のように振る舞うこと、あるいは精神面において人間に近付くことを指す。著書にこんな例文がある――異性のまえに出るため、化粧をしている妖怪Aを見た妖怪Bが「おまえ人間化してるな」と言ったとする。さて、妖怪Aは本当に人間化しているのだろうか? その答えとしては妖怪AもBも両者とも人間化している、が適切である。何故ならば人間化を指摘していることこそ、より人間化をしているからだ――余談だが、著者のこういった自虐的な皮肉はいくつもの著書に見受けられる)
人間化を続けることにより、妖怪たちは、妖怪としての本来の己の欲望以外の欲望、つまりは人間としての欲望を誇示するようになった。主として衣食住が際立っているが、なかでも多くの妖怪らが欲したものがある。
娯楽であった。
幻想郷においてはあらゆる意味で自給自足をしている者がほとんどであったが、娯楽だけは個だけではどうにもならないことが多い。元来、幻想郷には弾幕ごっこや、宝具や珍品等を扱った観覧会といった独自の娯楽がある。将棋や新聞といった普遍的なものもある。だが、人間の欲望とは果てのないものである。急速に人間化を続ける妖怪たちに、娯楽の発展は追いつかなかった。
それ故、現在最高とされる娯楽はいつでも誰にでも求められた。娯楽の供給先は、妖怪たちのものさしとなる自然の摂理、すなわち格の上下や実力には影響されない。ではいったいなにが強い力を持つのか。
それは通貨である。
(※使用されている通貨も人間と同様のものである)
妖怪たちは根本的には自然に住まう者たちであるからして、物を得る方法としては物々交換が主流であると言われている。しかし異常な人間化を遂げた妖怪たちは通貨の効率と、そして価値を覚えた。ここでは味を占めた、といったほうが正しいかもしれない。先にあらゆる意味で自給自足をしている物が多いと述べたが、これらは淘汰されてゆき通貨が主流となっていったのである。その流れは今現在も顕著に現れている。衣類を得るために通貨、肉を得るためにも通貨、住む場所にも、そして娯楽にふけるためにも通貨、である。ここまで来るとほとんど人間と変わらない。
最も欲されるものが娯楽であり、従って、その影として通貨が力を得ているのである。
実力のあるものが影響を及ぼす幻想郷の時代は終わった。
今では権力、いや、財力の時代であった。
妖怪たちが自我をもった故、性格を植えつけられたが故の、あるいは悲劇なのである。
また、「暇」が「娯楽」を求めた結果、通貨が価値を生んだのだが、通貨が利用されるに従い面倒事も個人レベルで激減した。金があればなんだってできるのである。そしてここで面倒事が減るために「通貨」が「暇」を生む。「暇」はさらなる「通貨」を求める。退屈極まりないルーチンワークのように悪循環が繰り返されていた。
その「暇」について八雲紫はこう語ったことがあると言われている。
『暇こそが、地獄の閻魔にさえも裁けない究極の大罪である』
さらに著書『退化を続ける妖怪たち』にはこうも記されている。
『暇とは、いまでは妖怪さえも殺す』
金銭が絡むと人間はもめ事を起こす。それは人間化が進んだ妖怪にとっても同じことである。金銭の価値が異常に発達したこの幻想郷では多くの金銭が絡んだ事件があった。だが、ここでは先に何度か紹介した八雲紫の話をしようと思う。何匹……いや、何人もの妖怪たちの事件があった。だが、ここでのスポットライトは八雲紫を照らそうと思う。
八雲紫――彼女は人間化をしている妖怪のなかで、最たる者といって差し支えがなかった。それは彼女が残した著書を読めば顕著に表れている。また、財力がすべてとなった幻想郷で、最も実力を有し、そして誇示していたのも彼女である。特有の能力を使い、ありとあらゆる場所から金銭と成り得るものをかき集めたのである。果たしてそれは罪であったのか? いいやそんなことはない。なにしろ彼女は誰のものでもない物品ばかりを集めたからである。ありとあらゆる場所――つまりはありとあらゆる世界から。それらを金銭とし、己の財力を増大させていった。
八雲紫が無限に金銭の供給を続けたため、幻想郷の金銭に関する価値観が落ちたかと思われた。だが実際には物に対する金銭の量が増えただけであった。結局は一部の者が金銭を多く所有する形となっただけであり、貧しい身分のものが現れる結果となったのだ。
やがて多くの者が八雲紫に従うようになった。
館や屋敷の維持費が苦しいため、衣食住を整えることが困難なため、今日という日を生きるのにさえ精一杯なため……
いくつもの派閥はあったが、無尽蔵に金銭を増やす八雲一派が強大となっていた。
その頃になって八雲紫はようやく現状の改善を考慮し始めた。
『我ら妖怪は金銭などではなく自然に頼ってしかるべきである』
八雲紫は姿をくらました。
急速な金銭の供給をストップさせれば、多少の混乱は生じても自然と元に戻るであろうと考えてのことであった。
しかしなにも変わらなかった。
遅すぎたのである。
妖怪たちは娯楽を欲した。
金銭を欲した。
狭い幻想郷である。その中で発達した、人間化の極みまで達した妖怪らの扱う通貨の渦の力は膨大であった。
傷害、暴行が頻繁に起こるようになった。
身売りや殺人は当たり前となった。
そして、結界を破り、幻想郷を飛び出す妖怪らが増大した。
終焉。
八雲紫はその幻想郷を見捨てた。
それは初めてのことではなかった。境界を操る能力を使いさえすれば、別の世界、別の物語へと己を移動させることは容易なのである。
今まで、幾つもの幻想郷の崩壊を見てきた。
多くが人間化のせいであった。
金銭とは別の欲にまみれた幻想郷を見、また別の幻想郷では同様のことが起こらないよう努力をした。だが、人間化の進んだ妖怪たちの欲は収まることなどなかった。どの幻想郷でも決まって人間化が起こるのだ。
幻想郷 = 人間化に影響された妖怪らの住む世界
人間化の起こる原因を叩き、人間化それ自体を止めなければならない。その方法を八雲紫は知っていたが、そうすることで己の存在、いや、幻想郷そのものが危ういものとなることも知っていた。
八雲紫は幻想郷を愛している。
だが、幻想郷それ自体が人間化の蔓延る原因のひとつといっても差し支えがない。
幻想郷は何度も崩壊する。
崩壊を止めれば、幻想郷それ自体の存在が消える。
妖怪は幻想郷と共にあるべきか。
それとも妖怪として生きるべきか。
八雲紫は我々を見上げた。
了