――前略、毘沙門天様。よくもこんな面倒な仕事を押し付けてくれましたね。私の日頃の行いはそんなに悪いですか。つまみ食いも蔵漁りもしていませんよ? それとも、私を信頼しての依頼ですか。そこいらの妖怪に、尊い貴方の代理が務まるとは思えません。粗を見つけ次第、即刻報告に戻らせていただきます。
その寺は、やや急な山の斜面に建っていた。師走の鈍い月光に、こぢんまりとした姿が浮かび上がる。山門から寺の本堂まで、左右に石灯籠のある道が続いていた。薄淡い光が、雪の中で信者に道を示していた。
もう夜更けだというのに、数珠を手にした人間の列が絶えない。老若男女問わず、賑やかに歩いている。特別な法事の日でもないのに。彼らは口々に、毘沙門天様のご利益を唱えていた。畑を耕していたら小判が見つかった、大量に仕入れた笠が全て売れた、今冬の狩りも成功した。それもこれも、この寺におわす毘沙門天様のお蔭だと。呑気な連中だ。本堂にいるのはただの代理、偽者の毘沙門天だというのに。彼の者の監視のために、ナズーリンは遣わされて来たのだ。
ナズーリンには、鼠の耳と尻尾がある。大量の鼠を従えてもいる。本物の毘沙門天様の使いであることの証明だ。しかしそれは同時に、人間に恐怖を与えかねない。ただの妖怪と誤解されかねない。ナズーリンは木陰に隠れ、灰色の頭巾で両の耳を覆った。尻尾は下穿きの中に隠した。鼠には散開を命じた。そうして人間の娘の振りをして、寺に入っていった。
毘沙門天様の話では、この寺の主は相当な変わり者らしい。まあそうだろう。近隣で一番信頼されていた妖怪を連れてきて、勝手に毘沙門天様の代理にしてしまうくらいなのだから。加えて、妖怪を手厚く保護しているそうだ。珍妙な人間もいたものだ。
主人に守られていると思しき妖怪は、すぐに見つかった。山門の前に、黒い頭巾で青い髪を覆い隠した妖怪が立っていた。人間には、ただの少女に見えるだろう。けれどもナズーリンには、頭巾の陰から妖気が見えた。入道だろうか。実体の不確かな生き物が、頭巾に隠れている。ナズーリンは彼女に名乗り、寺の主と毘沙門天に会いたい旨を伝えた。頭巾の端から、少し鼠の耳を見せて。正体は明かさなかった。彼女はナズーリンを妖怪と認めると、寺の本堂へと先導した。
「貴方も聖の教えを学びに来たのね。良いことだわ」
「聖は素晴らしい方なのかい」
「それはもう。私達のことを守ってくれるの」
人間の、野蛮な妖怪狩りから。ナズーリンの耳元で、彼女はそう囁いた。
見れば、彼女の他にも妖怪と思しき者がいた。途中のお堂から、白い船帽子の娘が此方を覗いていた。頭巾の彼女は帽子の娘に、「聖の入門者よ」と告げた。違うのだが。
本堂の戸は、全ての者に開かれていた。堂の四隅に、蓮の花を模した灯りが煌めいていた。金属製の花越しに、蝋燭の光が堂内を照らす。天井が高い。陰影の激しい世界の中央に、毘沙門天様の代理は佇んでいた。その姿は鼠かと思いきや、寅だった。黄色と黒のまだらの髪、金色の瞳。神様の真似らしい、羽衣つきの装束。声を上げて笑いそうになった。毘沙門天様の代理が、こんな無関係のけだもの? 姿勢を正して、両腕を仏像のように広げた寅妖怪。この寺の主人は、頭を強く打ったのではないだろうか。毘沙門天様も、これなら己を遣わすまでもないだろうに。
しかし周囲の人間達は、彼女に一心に祈りを捧げていた。豊作、商売繁盛、豊漁、妖怪退治。様々な願いに、寅の妖怪は穏やかな笑顔で応じていた。時には「叶いますように」と答えることもあった。彼らの幸せを求める気持ちは本物だった。ナズーリンは笑い転げそうになるのを、胸を叩いて抑えた。まじまじと、偽者の毘沙門天を監視した。彼女は時折、傍らの女性に笑いかけていた。これでいいですかと上級僧に問いかける、無学な小坊主のように。菫色と茶色の混ざった髪の女性は、にこやかに頷いていた。
「あの毘沙門天様が寅丸星。隣に居るのが寺の聖よ。聖白蓮様」
黒い頭巾の娘が、熱っぽい声で教えてくれた。余程聖を尊敬しているらしい。手を合わせていた。
ナズーリンは首から下げた、青い水晶を握り締めた。生粋の探索者である彼女に、毘沙門天様が授けてくれた宝石だ。探し物から悩み事まで、何にでも答えてくれる。ナズーリンは水晶を結びつけた紐を、中指に通した。青い煌めきを宙に浮かせて、問いかけた。
――毘沙門天様、毘沙門天様。彼女は貴方の代理として、相応しい存在ですか。私には、とてもそうは思えないのですが。だって寅ですよ、毘沙門天様とは無縁の。信仰は集めているようですけれども、皆騙されているのでは?
「はい」なら、水晶は円を描く。「いいえ」なら、左右に振れる。
ナズーリンは目を疑った。水晶は、「はい」にも「いいえ」にもならなかった。その丁度中間、半月の形を作った。夜空に浮かぶ、今夜の月のように。まだ、どちらともつかないということか。
――まずは私の目で見極めろと言いたいのですね、毘沙門天様。
頭巾の少女の訝しげな視線を受けながら、ナズーリンは水晶を戻した。
そのとき、寅の妖怪と目が合った。人垣の向こうから、彼女はしっかりとナズーリンの姿を捉えていた。
ナズーリンは、笑いも睨みもしなかった。無表情に無感情に、信仰の対象を眺めていた。
寅丸星は、見る者を和ませる笑みを浮かべていた。ナズーリンに向けて、まるで歓迎するかのように。
何か、気に入らなかった。媚を売られている訳ではない。笑いかけられただけだ。いかにも、優等生と言った感じで。それが嫌だった。本物の、毘沙門天様のようで。偽の神なら偽の神らしく、ふんぞり返っていればいいものを。それならば、あっさり偽者と認定できるのに。
不満と苛立ちから、ナズーリンは目を細めた。何としてもこの偽者に、偽者だと認めさせたかった。私は偽者です、毘沙門天様の名を騙ってすみませんでした。涙目で、そう言わせてやりたかった。
聖白蓮は、できる人物だった。一目でナズーリンの正体と、役目を見破った。人間の参拝者の去った後、白蓮はナズーリンの頭巾を取って一礼した。
「まさか本物から監視が来るとは思わなかったわ。どのくらいの期間になるのかわからないけれど、この寺で快適に過ごしてね。食事やお風呂は一緒にしましょう」
「私が罠を仕掛けるかもしれないよ」
「貴方はそんなことをする子じゃないわ。目を見ればわかるの」
少し暗いわね。白蓮は呟くと、右手の指先を擦り合わせた。紫色の光球が、堂内を明るく照らした。彼女は魔法使いなのだ。光によって、寅丸星の温厚そうな笑顔が見えた。
「貴方の正体は、皆には黙っていた方がいいわね。せっかく毘沙門天様の代理がいるのに、監視つきの見習い生と知られては面倒なことになるわ」
「ばれても構わないけれどもね。いっそばらしてやろうか」
「それはやめてください」
星が困った顔をした。いいぞ、もっと悩めばいい。
「私は毘沙門天様の代理として、精一杯努めています。ナズーリン。今に、貴方に認められる存在になりましょう。ですから、皆には言わないでください」
また、優等生じみた発言か。毘沙門天様が聞いたら、真面目でいいとお褒めになるかもしれない。ナズーリンはどうにも気に食わないが。
(まあ、当分は様子を見るか)
粗を見つけるためにも。
寺の宿坊へと、星が自ら案内してくれた。本堂を出て、十二月の凍える風の中を歩む。足が雪に埋まった。白い息が星空に上がった。星の羽衣は風に舞った。飛んでいきそうになるのを、両手でしっかと押さえていた。聖がくれた装束なのだそうだ。
「変わった住職だね。妖怪を助けたり、人間を助けたり。普通どちらか片方だろう」
「聖は、妖怪も人間も平等だとお考えです」
「理想論だね。妖怪は人間を食べるものだよ」
ナズーリンも、人肉はたまらなく好きだ。特に脳はとろけるほど旨い。
「それでも、両者の共生をお考えなのです」
「そのお考えに、君も乗っているのかい? 『ご主人様』」
「そのような呼び方、お止めください」
嫌と言われるとやりたくなる。そうだ、この寺にいる間は、ナズーリンは星の手下だということにしよう。手下の立場から、至らない点を散々見出してやるのだ。
「『ご主人様』じゃないか。私は毘沙門天様の使い、貴方は毘沙門天様だ。代理であっても」
「うう。尊敬されるようになってから、まだ日が浅くて。敬語を使われるのは、慣れません」
「慣れないと神にはなれないよ、『ご主人様』」
「……努力します」
寅の毛が、羽根のように力なく垂れた。これは面白い。この寅妖怪は、どこか虐めたくなる。
本堂を下ったところにある宿坊の、扉を『ご主人様』が開けた。中は小部屋の集まりになっている。無人の一室に、私は通された。『ご主人様』が手にした灯篭で、室内を照らす。四畳ほどだろうか。眠るのと書き物以外には使えなそうな部屋だった。布団は敷かれていた。たまに近所の妖怪が使うのだという。
「慣れないところに、わざわざありがとうございます。ゆっくり休んでください、ナズーリン」
「そうさせてもらうよ。『ご主人様』が神様として失敗しない限りは」
「努力します」
本当に、よくできた代理だ。だからこそ、気に食わない。ナズーリンが仕えているのは、本物の毘沙門天様ただ一人だから。偽者は、要らない。
(どうやっても妖怪だ、すぐに馬脚を現すさ。……寅だけど)
宿坊の戸が閉まる前に、ナズーリンは配下の鼠を一匹送り込んだ。四六時中、寅丸星にくっついて様子を観察させるために。早ければ、明日にも何か欠点が見つかるかもしれない。それなら、それで終わりだ。寅丸星は毘沙門天の代理に相応しくありませんと、報告に戻れる。
鼠が行ったのを確認して、ナズーリンは薄い布団に潜り込んだ。宿坊の壁は札のように薄く、北風を隙間から良く通した。こんな所に、長居はしたくない。手足と耳と尻尾が冷えて、眠れない。
風の音を鼠達と一緒に聴いていたら、足音がした。部屋の前で止まった。何事かと思って開けてみたら、『ご主人様』の姿があった。手に、口を縛った皮袋を握っている。中に液体が入っているのか、形が歪む。
「寝酒かい? 仏道では酒はいけないはずだが」
「中身はお湯です。布団の中に入れるといいですよ。冬の宿坊は冷えるでしょう」
渡された袋は、凍えた手に優しかった。熱が指先から手首、腕へと染み渡っていく。有難かった。有難いのに、素直に礼を言うのは何故か悔しかった。
「私に媚びる必要はないんだよ、『ご主人様』」
「媚びているのではありません。風邪を引いてはいけません」
「私は毘沙門天様の使いだ。風邪など引くものか」
「それでも、使ってください。寒い夜は辛いでしょうから」
更に何か言おうとしたところで、戸が閉められた。足音が遠ざかっていく。仕方なく、ナズーリンは布団に入った。横になって、皮の湯たんぽを転がした。温かかった。憎たらしいほどに。
――前略、毘沙門天様。あの寅妖怪には隙がありません。今のところ、立派に貴方の代理をしています。貴方の教えを誤解することも、理解し過ぎることもありません。信仰も順調に集めています。問題はないでしょう。ですが、念の為。もう少し監視させてください。
幾ら待っても、『ご主人様』は失敗をしなかった。人間の信仰と山々の妖怪の信頼を一身に受け、畏縮することなく立っていた。敬語を使われることにも慣れたらしい。人間に勢い良く願い事を叫ばれても、全く怯まなくなった。人間を食べなくなった。季節は春に変わろうとしていた。一妖怪が、神になろうとしていた。
ナズーリンは『ご主人様』の成長を、苦々しい思いで見詰めていた。毘沙門天様の教えから外れないのはいいことだが、寅丸星がここまで神に近付くのはどうなのか。どうしてか、素直に祝福できなかった。毘沙門天様の威光を、こうもあっさりと手にしてしまうなんて。どこか許せない思いがあった。
(気に入らない)
そう思う度、ナズーリンは水晶に問いかけた。寅丸星は、『ご主人様』は毘沙門天の代理に相応しいですか? と。青い石は、何度も半月を描いた。自慢の宝石は、答えてはくれなかった。
その夜もナズーリンは、宿坊の屋根に座って水晶を弄っていた。答えは変わらなかった。
(あんなへらへらした毘沙門天の代理が、あっていいものか)
「何を見ているのですか? ナズーリン」
気付くと、隣に『ご主人様』の姿があった。屋根に腰掛けて、此方を不思議そうに眺めている。眼下には、参拝者のまばらな列があった。
「毘沙門天様に貰った水晶だよ。それよりいいのかい、『ご主人様』。本堂にいないで」
「今は聖が説法をしています。私はいなくても構いません」
「聖ねえ」
『ご主人様』は、信仰心の厚い聖の力で毘沙門天の代理に仕立て上げられているに過ぎない。自らの意思で、神になろうとしたのではない。そのことについて、どう考えているのだろう。それとなく、訊いてみた。どこか申し訳なさそうな、しかし力強い笑みを、『ご主人様』は顔一面に広げた。
「毘沙門天様の代理にならないかと誘われて、最初は困惑しました。私は毘沙門天様とは縁のない存在ですから。でも今は、神様としての日々に意味を感じています。皆に慕われることに、責任を感じています」
「人間を食べたくはならないのかい」
「慣れました」
また、そつのない発言をする。数ヶ月の滞在で、ナズーリンにはこれが『ご主人様』の本音なのだとわかっていた。わかっていたが、今ひとつ好きになれなかった。妖怪としての性を剥き出しにする、駄目な『ご主人様』を見てみたかった。
「星が綺麗ですね。春の始まりの星は、希望を感じさせます」
「そういうものかい」
『ご主人様』は星と共に、ナズーリンの水晶を珍しそうに見ていた。本物の毘沙門天様の力のこもったものだ。興味を抱いて当然だろう。
「気になるなら、持ってみるといい」
「いいのですか」
見せびらかすつもりで、ナズーリンは青い結晶を紐ごと手渡した。深い蒼に弓張り月を透かし、『ご主人様』は水晶を揺らしていた。美しいものですねと、心の奥底からの声を発しながら。
「私の問いに答えてくれる振り子なんだ。真実なら円を描く」
「私が毘沙門天様の代理になれるのかどうかも、教えてくれるのでしょうね」
「……答えてくれないこともある」
早春の涼風が、石を揺らめかせた。半月。「はい」でも「いいえ」でもない。『ご主人様』は、毘沙門天様の代理として適任なのかどうか。早く答えが出ればいいのに。
「ありがとうございました」
頭を下げて、『ご主人様』は水晶を私に手渡そうとした。
「あ」
「え?」
『ご主人様』の手が滑った。紐つきの石は宿坊の屋根を転げ落ち、消えた。床下に転がってしまったのだろうか。夜目の利くナズーリンにも、わからない。
(毘沙門天様の大事な水晶に、何てことを)
傷でもついたら、割れたらどうしてくれる。ナズーリンは『ご主人様』を睨みつけようとして、止めた。『ご主人様』が、水晶よりも青い顔をしていたからだ。怒る気が溶けていった。
「ご、ごめんなさいナズーリン。私、うっかり」
そういえば、この『ご主人様』はうっかりが多い。付き合い始めて数ヶ月、花器を割るところや蝋燭を折るところを何度も見てきた。信者の前では、気をつけているようだったが。注意して手渡すべきだった。
顔面蒼白の『ご主人様』は、うわ言のようにどうしましょうどうしましょうと続けた。すぐに屋根から飛び降りて、床下に潜っていった。ありません、どうしましょう。悲惨な声が響く。人間達にそんな情けない姿を見られたら、どうするのだろう。ナズーリンは地に降り立って、『ご主人様』の様子を窺った。
「『ご主人様』? 慌てないで、灯りをつけるといい」
「つけてます、つけてます」
額に蜘蛛の巣をへばりつかせ、『ご主人様』が顔を出した。手の平に、橙色の光を纏わせている。顔が埃と煤で汚れていた。
「どうしましょうナズーリン、大事なものなのでしょう」
「心配は要らないよ、『ご主人様』」
水晶を探す方法くらい、幾らでもある。ナズーリンは一流の探索者だ。自力で探し出せるだろう。
「私が自分で見つける。『ご主人様』は本堂に戻るといい。直に聖の説法も終わるだろう」
「そうはいきません、私が見つけないと」
「毘沙門天様の、大切なものだからかい」
「ナズーリンの宝物だからです!」
(え)
夜を裂くような、芯の強い声だった。
「そ、そうだね。毘沙門天の使いである、私の信頼を失ってはいけないだろう」
「そうではありません。ナズーリンが、大事にしているものだから」
床下の土を、寅の手が漁る。光るものは、見つけられないようだった。
(私が、大事にしているものだから?)
毘沙門天様に、関係なく? ナズーリンは、『ご主人様』の言葉に戸惑いを覚えた。自分は毘沙門天様の使い、監視役だ。警戒されこそすれ、寵愛されることはない。それとも、異様に気を遣われているのだろうか。いや、多分違う。この真っ直ぐな『ご主人様』は、単純に申し訳ないと思っているのだろう。
「『ご主人様』、そんなに躍起になって探さずとも」
「ですが。ナズーリンの大切な水晶なのに。けほっ」
埃が口に入ったのか、『ご主人様』が咳き込んだ。そんなに、しなくてもいいのに。
床下の動きを見詰め、ナズーリンは溜息を吐いた。懐から、折り畳み式のダウジングロッドを取り出した。地面と平行に持って、水晶の気配を探る。『ご主人様』の気が邪魔なのか、探知できない。どこに消えてしまったのか。
「ごめんなさいナズーリン、一通り探したのですが」
装束を泥まみれにして出てきた『ご主人様』を、ナズーリンはなじれなかった。毘沙門天様の水晶をなくしたのだ。毘沙門天の代理失格と見なして、帰ってもいい。でも、不思議と帰る気にはなれなかった。そのくらいのことなら、許せる気がした。もっと大きな失敗を見届けてから、毘沙門天様の許に戻ろうと考えた。
何故だろう。この哀れな『ご主人様』を、叱る気にはなれなかった。余りにも、真剣過ぎて。
「また明日、探してみます。駄目なら、代わりのものを見つけます」
「無理はしないでいいよ」
たかが水晶だ、とは言えない。けれども、『ご主人様』に無茶はさせたくなかった。
『ご主人様』が本堂に向かった後、ダウジングロッドで宿坊の床下を探索してみた。水晶は、煙のように消えてしまった。小さな宿坊を三周しても、反応はなかった。
毘沙門天様に、怒られるかもしれない。頂き物を失くしてしまったのだ。責められたら、何と言おう。素直に、『ご主人様』が落としたと伝えようか。考えていたら、『ご主人様』の済まなそうな顔が浮かんだ。
(「ナズーリンの宝物だからです」、か)
そんな風に言われたのは、初めてだった。強い言葉が、苦しそうな表情が、まとわりついて離れなかった。
(たかが監視相手だろう。粗を探すだけの)
翌朝、宿坊の枕元には白い水晶柱が転がっていた。掌に載るほどの大きさで、柱の先端に紐を通せる穴が開いている。達筆の書置きが、水晶柱の横にあった。
『とりあえず、これを代わりに使ってください。元の水晶と、同じ力はないでしょうが……必ず見つけ出して、返します。ごめんなさい。 寅丸星』
穴に糸を通して、中指から提げてみた。朝日を浴びて、透明な水晶は七色の光を放っている。元の青い水晶と違い、無骨で素朴だ。カッティングも、まるでなっていない。それでも、振り子があることに安心できた。
『ご主人様』は、寅丸星は、毘沙門天の代理になれるか。石に問いかけた。石は輪を描かなかった。左右にも揺れなかった。止まったままだった。
水晶を首から下げて、宿坊の外に出た。雀の鳴き声がする。涼やかな陽光の下、聖白蓮が一輪やムラサと体操をしていた。ナズーリンの姿を認めて、手を振る。
「昨日は大変だったそうね。星から聞いたわ」
「いや、もう問題ないよ」
「困ったことがあったら、何でも言って頂戴ね。力になるわ」
ああ。何て居心地がいいのだろう。この寺は、優しい。人間にも、妖怪にも。流れる髪を見ながら、そう感じた。
鼠の耳と尻尾に、爽やかな風を受けた。そう言えば、人間に見つかるといけないから、頭巾を被るように言われていたか。思い出して、灰色の頭巾で耳を隠した。
「早く、その頭巾を取れるようになるといいわね。人間も妖怪も、関係なく生きられるといい」
「本当に、そんな世の中が来ると思っているのかい」
「来るわ。人間も妖怪も、私の目には平等に映るもの」
「他の者の目には、どうだろうね。君が妖怪を匿っていると知られたら、どうなるだろう」
ゆるやかな長い髪を春風に遊ばせ、白蓮は振り向いた。千年に一度咲くという、蓮の花のような微笑。形のいい唇が、言の葉を紡いだ。
「その時は、星のことをよろしくね。私や一輪達の代わりに、守ってあげて」
あの子だけは、皆の神様だから。
――前略、毘沙門天様。先日は水晶を失くしたことを許してくださり、ありがとうございます。毘沙門天様の宝塔、確かに受け取りました。これを、『ご主人様』に渡せばいいのですね。それで、お別れなのですね。この寺とも、『ご主人様』とも。『ご主人様』は、正式な毘沙門天様の代理として、認められたのですね。
春の終わり、山桜も散り切ろうかという頃。ナズーリンの手元に、毘沙門天様から宝塔が授けられた。勿忘草色の淡い光を湛える、信仰の証。これは、毘沙門天様から『ご主人様』への合格証書のようなものだ。お前は立派な毘沙門天の代理だと、認めた者にしか与えない。
(私の監視もここまでか)
毘沙門天様は、空の上からきちんと『ご主人様』を見ていたのだ。私の目を通じて。己の信奉者として、正しいかどうかを。
さて、どうやって渡そうか。お祝いの品らしく、何かに包むべきだろうか。否、宝塔の光を覆い隠すなど美しくない。この姿のまま、渡そう。『ご主人様』が壊さないように、丁寧に。
西日が眩しかった。この時間なら、『ご主人様』は聖と本堂にいるだろう。丁度いい、聖にも宝塔の神々しい光を見てもらおう。信心深い聖のことだ、喜ぶに違いない。宝塔を渡したら、寺の面々とはお別れだ。監視の仕事は終わったのだ。宿坊から本堂へと続く石灯篭の道を、ナズーリンは見返した。数ヶ月とはいえ、居着くと別れが辛くなるものだ。毘沙門天様の許に戻れば、いずれ忘れられるだろうが。
(……何だろう)
本堂には、相変わらず人間達が集まっていた。信仰を求めて。いいや、違う。今日は、雰囲気がおかしかった。人々は数珠ではなく、鍬や鎌や弓矢を手にしている。重いものを持てない子供は、尖った石を握っている。皆が、殺気立っている。怒号が、本堂に寄せられている。
(「その時は、星のことをよろしくね」)
嫌な予感がした。ナズーリンは、本堂に向けられる非難の声を聞き分けた。
「信じていたのに、白蓮様」
「妖怪を守っていたなんて、何を考えてるんだ」
「俺たちを騙していたんだな」
「許せない」
聞き分けて、悟った。ばれたのだ。白蓮のやってきた行いが。中から、妖怪の童の泣き声が聴こえた。頭巾を引き剥がされ、獣の耳を引っ張られている。やめて、やめてと泣き叫ぶ声。白蓮は静かに、「やめなさい」と命じている。聞く耳を持つ者はいなかった。
本堂内はどうなっているのだろう。ナズーリンは裏に回って、堂に飛び込んだ。白蓮や『ご主人様』、頭巾姿の妖怪達が人々に包囲されていた。一輪やムラサは抗戦の姿勢を見せているが、白蓮に静止されている。ナズーリンが入ってくるのを見た農夫は、鍬の先を突きつけて叫んだ。
「そいつも仲間か」
「いいえ、違います。この方は毘沙門天様の使い。手にした宝塔がその証です」
白蓮が正直に応じた。目で、『ご主人様』の傍にいるよう指示を出す。場をなだめる力のないナズーリンは、渋々従った。『ご主人様』は、小声でナズーリンを叱り付けた。
「どうして来たのですか、ナズーリン。隠れていればいいものを」
「何事かと思って。まずいようだね」
「ええ、とても」
宝塔を渡すどころでは、なくなってしまった。どう言えば、人間達は納得してくれるだろう。人間と妖怪が、共に生きていけるなど。
捕まった妖怪の子供の耳に、鎌が押し当てられた。血がにじむ。悲鳴が一層高くなる。
「やめなさい。妖怪だって血を流すのです。私達と同じ、生き物です」
「同じなものか」
「切り刻んでやる」
妖怪の獣耳は、今にも千切られそうだった。大きな碇を手に、ムラサが立ち上がる。白蓮が制して、光る手を向けた。菫の色の光条が、所々錆びた鎌を貫く。光線は本堂の天井に、大穴を開けた。木片が、小雨のように降ってくる。人間達がざわめいた。
「妖の技だ」
「そんな、白蓮様まで妖怪の仲間だったなんて」
白蓮は凛とした声で、答えた。
「私は魔法使い。既にその身は人間ではありません。けれども、人間と妖怪の共生を、両者の共に守られる世界を、切に望んでいます」
「妖怪の言うことなんて、信じられるか!」
「信じられなくても、それが私の真実です。私は、間違っていない」
賛同する声は、人間からは上がらなかった。
裏切り者の僧侶を、どうするべきか。人々の視線は、自然と神――『ご主人様』の許に集まった。『ご主人様』とて妖怪、ばれたらただでは済まないだろう。
『ご主人様』は、困った様子で白蓮を見た。視線は返ってこなかった。最早白蓮の指示では、人々は動かないだろうから。『ご主人様』が、毘沙門天として処罰を決めるしかない。
「封印だ」
「そうだ、封印だ! 二度と出てこられない場所に、封じてしまえ」
『ご主人様』が、私の右手を握った。痛いほどに。手に汗をかいていた。表情は、無理に息を止めている時のようだった。辛さを耐えていた。これから、やらなければならないことの。
「毘沙門天様、貴方なら封じられるでしょう」
「そうです、力をお貸しください」
「こいつらを、二度と地上に出してはいけません」
日が暮れていく。ささやかな希望が、失われていく。人の悪意によって。善意の化身のような、白蓮とその仲間を封じるなんて。なんて、醜い。『ご主人様』が怒り出さないのが、不自然に思えた。信仰を集める身である以上は、人に従うしかないのか。
『ご主人様』が、口を開いた。声はひび割れ、力もなかった。
「毘沙門天の光で、僧侶・聖白蓮とその仲間に封印を施しましょう。白蓮は、魔界の外れへ。残りの者は、地底に封じればいいでしょう。二度と、その姿を目にすることはありません……」
歓声が上がった。『ご主人様』の手が震えていた。今にも泣き出しそうだった。自分に居場所を与えてくれた者を、自らの手で封じなければならない。それは、どれほど辛く悲しいことだろう。白蓮を見た。「それでいいのよ」と、温かな目が語っていた。
――前略、毘沙門天様。『ご主人様』は、毘沙門天の代理としての役目を見事に果たされました。宝塔と寺の力で、聖白蓮を法界に、仲間達を地底に封じ込めました。人間の信仰と、期待に応えました。見事な仕事ぶりでした。悔しくて、涙が出るほどに。
聖白蓮がいなくなってからも、寺には人が訪れていた。『ご主人様』を信じる人々が、本堂に足を運んでいた。もう、寺に妖怪は来ていなかった。人間達が、追い払ってしまった。
「『ご主人様』」
深夜、宿坊の屋根の上で、『ご主人様』は丸くなっていた。膝を抱えて、傍らに宝塔を置いて、俯いていた。宝塔の光が、朧に残春の夜を照らしていた。
「貴方だけになってしまいましたね、ナズーリン」
「淋しくなったね」
「とてつもなく」
声には以前のような力がなかった。白蓮と共にいたときは、もう少し自信に溢れていたのに。今の『ご主人様』は、とても威厳ある毘沙門天様には見えなかった。
「今日、人間を食べてしまいたくてたまりませんでした」
月は欠ける寸前、春の星座は殆どなかった。墨をぶちまけたような空が、広がっていた。
「人間を食べれば、私も妖怪と認められるでしょう。仲間達と同じ、地底に封じられるでしょう」
「でも、できなかったのだろう」
「聖の願いですから。私が、神であることは」
でも、私は。声が滲んだ。
「私は妖怪です。聖の望む、神にはなれません。私には、毘沙門天様の代理なんて無理だったのです。私は、偽者です」
それは、ナズーリンの聞きたかった言葉だった。私は妖怪だ、偽者だ。毘沙門天の代理なんて、やめる。そう言わせたかった。言わせたかった、はずなのに。『ご主人様』の言葉は、ナズーリンの胸に哀しく響いた。
『ご主人様』は、毘沙門天様の宝塔を掴んだ。屋根の上に立ち上がると、
「ちょっ、『ご主人様』!?」
勢い良く遠くに放り投げた。光る塔は、山の奥に流星のように消えた。見つけ出すのは至難の業だろう。
「『ご主人様』、何を」
「宝塔を、うっかり失くしてしまいました。私は、毘沙門天様の代理失格です」
黄金色の瞳が、潤んで光っていた。
「ナズーリン。これでもう、貴方も自由です。私の監視は終わったのでしょう。本物の毘沙門天様のところに、戻るといい」
「『ご主人様』」
「『ご主人様』では、ありません。もう。私はただの、寅丸星。山の妖怪です」
こんな彼女は、見たくなかった。こんなことは、言わせたくなかった。毘沙門天様の代理の姿は、痛々しかった。
ナズーリンは、「宝塔を探してきます」と言って夜空に浮かび上がった。
山桜の小路を、頭巾をつけずに歩いた。花弁は既に全て散り、足元で泥と同化している。木々の細枝に邪魔されて、星も月も見えない。暗い場所だから、宝塔の光は目立つはずなのに。探しても、探しても、どこにもなかった。毘沙門天様が、持ち去ってしまったのだろうか。
思い出すのは、これまでの『ご主人様』だ。初対面のナズーリンに、微笑みかけてくれた。宿坊は冷えるだろうからと、湯たんぽをくれた。水晶の振り子を、必死になって探してくれた。誰よりも大切な人を、誰の手も届かない場所に封じた。あんなに優しい彼女が、傷ついた。これから彼女は、どうなるのだろう。後悔に包まれたまま、山の妖怪としてうらぶれた一生を終えるのだろうか。そんなのは、悲し過ぎる。
「……ご主人様」
ナズーリンは初めて、寅丸星を呼んだ。ふざけることなく、嘲ることなく。自らの、主として。
そのとき、山椿の下で光るものがあった。宝塔だろうか。草むらを掻き分けて、手で探った。
硬い、石の感触があった。繊細にカッティングされた、青い水晶。以前に失くした、ナズーリンの振り子だった。
「こんな所まで飛んでいたとは」
拾い上げて、冷たい石の手触りを確かめた。毘沙門天様の、水晶。どんな探し物にも悩み事にも、答えてくれる。
ナズーリンは水晶を吊り下げると、訊ねた。
――毘沙門天様、毘沙門天様。彼女は貴方の代理として、相応しい存在ですか。
青水晶は、変わらず半月の形をなぞった。
(それでも)
ナズーリンは無理矢理に、水晶で円を作った。自分では、彼女こそ毘沙門天様の代理に相応しいと思ったから。強引に「はい」と答えさせた。
――毘沙門天様。ご主人様はこれから、幸せになれますか。「はい」。
――私は、彼女の幸せを探し出せますか。「はい」。
――私は、ご主人様の傍にいていいですか。「はい」。
――ご主人様に待っている未来は、素晴らしいものですか。「はい」。
無数の「はい」の輪を、自分の指の力で作った。幸せは、自分の力で探し出すものだから。白蓮が、己の理想を追い求めたように。ご主人様が、努力して神の道を歩もうとしたように。これからは、ナズーリンも、ナズーリンの力で。ご主人様の、笑顔を取り戻そう。
――前略、毘沙門天様。私はこれからも、ご主人様の監視の任務を続けます。ご主人様が貴方の代理としてきちんとやっていけるか、近くで見続けます。ご主人様が幸せで在れるように、力を尽くします。貴方の許に戻るのは、もう暫く待ってください。
ご主人様の、笑顔を取り戻す。あの日の誓いから、長い月日が経った。ナズーリンはご主人様を連れて、幻想郷に移り住んだ。人と妖が共に暮らす其処は、白蓮の理想の場所に近いと思ったから。寺に拘るご主人様を、無理に引っ張り込んだ。
無数の春が過ぎ、冬を越えた。間欠泉と共に、かつての仲間が飛び出てきた。皆で再会を喜び、白蓮復活のために動き出した。結果は、素晴らしいものだった。
スペルカードルールによって、幻想郷では人間も妖怪も平等に暮らしている(違うと言う者もいるが。黒い魔法使いとか)。白蓮は幻想郷を気に入り、命蓮寺を建てた。ご主人様は寺で、参拝者の信仰を集めている。最近、少しだけお酒を飲むようになった。緩いところなのだ、幻想郷は。
ご主人様のうっかりは、直らない。今日も果物ナイフを探して、寺中をうろつき回っていた。参拝者に貰った蜜柑でゼリーを作って、皆で一緒に食べるのだという。そのくらい、私に命じてくれればいいものを。でも、ナイフを探す顔は幸せそのものだった。
「ナズーリン、そっちにはありませんかー?」
「無いね。全く、面倒なご主人様だ」
――前略、毘沙門天様。私とご主人様は、今日も元気にやっています。
願わくは、この幸せがいつまでも続くように……。
すばらしいの一言です。
なんか私もまたSS書きたくなってきたなぁ…
それしか言えない自分は情けない。
もう無理に回す必要はありませんよね
答えは「はい」ですから
星蓮船組の幸せが末永く続きますように。
思うのですよ
うっかり宝塔を失くしてしまった星と水晶を回すナズーリンに涙が止まらなかった。
コメントに、少し答えます。
>もうひと山欲しかった……。
>幻想郷で過ごす二人の場面をもう少し欲しかった。
今回は、ナズーリンの星への感情の変化を中心に書きました。そのため、感情が完全に忠誠や慈愛に変わった――自ら振り子で円を描いた後については、詳しく描写しませんでした。その後をもっと書き続けても、良かったかもしれません。物足りなかったら、ごめんなさい。削り過ぎてもいけないのだなと、反省しました。
>星蓮船組の幸せ
>幸せな未来の予感
幻想郷の人々が、幸せにしているのが好きです。星蓮船組には、それまでの苦労や嘆きの分、幸福になって欲しいと思います。
とても心にくる素晴らしいお話でした
その上で、たまに未熟な所を見せたりするのがとても良い。
この話の星は最高です。
特に、「うっかり」宝塔を無くすシーンでは完全にやられた。その手があったか、と。素晴らしい。
少し距離があったとしても違和感はありませんね。
言葉のひとつひとつに優しさが丁寧に込められている
時代は変わったんですよね。
宝塔をうっかり失くすシーンは特に素晴らしい
本当に命蓮寺の面々は幸せになってほしいです
その悲しみを糧に、未来を築いていったのでしょう。
素晴らしかったです。
かわいくて健気で
人間と聖たち妖怪、二つの存在の間で板挟みになる星ちゃんに惚れた。
このss読んでから星ナズがもっと好きになりました。最後が残念だったので-0点