一般的に妖怪は、何らかの存在意義を持ってこの世に生を受ける。
存在意義を無くした妖怪は、やがて人々の前から姿を消し、等しく消滅へ至る。
幻想郷を創始した賢者――八雲紫とて、それは例外ではない。
彼女もまた、存在意義を持って生まれ落ちた「妖怪」であった。
夢を、見た。
それはひどくぼんやりしていて、ミルクを紅茶に入れてかき混ぜたような曖昧さを持った世界だった。
どうしようもないくらい輪郭がぼやけた意識の中に、私はふわふわと浮かんでいた。
現か夢かの区別をつけることすら忘れるような倦怠感だけが、その場を支配していた。
いつの間に私の横にいたのか、彼女は寝惚けている私の横で、静かに佇んでいた。
非常に胡散臭い話だが、夢の中で現れた彼女は、やはり濁したような曖昧な表情で私に言った。
さようなら霊夢、と。
◆
意識が、覚醒した。
紫が出てくるなんて変な夢だったなー、と思った。
それ以上夢の内容を気に留めることなく、寝起きの体をぐっと伸ばす。
全身に広がる虚脱感を押さえ、むくりと起き上がって周りを見渡す。
例えるなら、死屍累々。
私の寝室には、魔理沙や早苗のような人間たちと、
レミリアや萃香などの妖怪たちが、座布団を枕にしたり炬燵の中に潜ったり、
おそらく押入れから引っ張り出された布団にくるまって雑魚寝していた。
布団や座布団が敷かれている隙間には、空になった日本酒の瓶や、
萃香が飲み干したと思われる酒樽(すごい邪魔)がごろごろしていた。
自分もこいつらも、相当な量を呑んだんだっけと思い出す。
今更ながら、部屋の中に相当なアルコール臭が漂っていることに気付いた。
少しだけ頭痛のする頭を抱え、よろよろと外と繋がっている障子の方へ歩み寄る。
室内の淀んだ空気を外の新鮮な空気と入れ替えるためだ。
「いい天気ね……」
部屋から出て縁側に立った私は、雲のひとつ無い冬の空を見上げた。
ぽかぽかな陽気が差し込む縁側でも、やっぱり冬は寒い。
体がぶるりと震えたので、外と部屋を区切る障子はやっぱり閉めた。
太陽の位置によると、今は午前十時ほどであるらしい。
部屋の中で屍のようにぴくりとも動かない連中の顔を見回すと、
どいつもこいつも一様に、幸せそうな顔で惰眠を貪っていた。
やれやれと思い、炬燵の中で眠りこけている魔理沙の頬をぺちんぺちんと叩いてみる。
「ほら起きなさい魔理沙、八頭身になれる茸が空を飛んでるわよ」
「おー……んおー……イッツミー……魔ー理沙ー……」
ダメだこりゃと思い、次は私の布団の中に足だけ潜りこんでいた早苗に声をかける。
ついでにスカートの中を覗いてみたら、彼女はやっぱりパンツを穿いていた。
「アンタまだパンツ穿いてるの? ドロワーズ穿けばいいのに」
「ふえ……、ぱんつ……? ……ってきゃああああああああああ!」
早苗が一気に意識を取り戻し、あわててスカートを押さえながら起き上がった。
「おはよう早苗、今日も白かったわね」
私は心の底から湧き上がってくる満足感を押さえきれず、笑顔で言った。
早苗は耳まで真赤に染めてぷるぷると肩を震わせると、「霊夢さんのバカ! アホ! 腋毛!」とかなんとか叫びながら外へ飛び出していった。
いつまでたってもウブな早苗は、からかい甲斐があって楽しい。
「んー……もう朝ー……?」
早苗の声に目を覚ましたのだろうか。
萃香をはじめ、寝ていた面々が目を擦りながらゆっくり起き上がってきた。
こんな光景を見るのも、何十回目のことなんだろうか。
私は自分の布団を畳み、彼らの意識が覚醒していくのを待つ。
いつも通りの、よくあること。
布団でも干そうかなーと、ぼうっと頭を巡らせる。
「あー……それにしても変な夢を見たなー」
魔理沙の言葉に、私は思わず体を硬直させた。
普段なら気に留めるまでもない言葉であるはずの「夢」という言葉。
私は今朝に見た夢の記憶を辿り、頭を振った。
予感めいたものは、確かに感じていた。
だが私は、それを判っていながらも心のどこかで否定していた。
一時の悪い気の迷いだ、有り得るはずがないのだ。
だが夢に出てきた紫の紡いだ言葉は、なぜか消えることなく頭の中で反響していた。
「もしかして、それ」
思いがけず、反射的に言葉が口から出ていたが――
「紫が出てきて『さようなら』なんて言い残す夢じゃないわよね」
「おお、よく判ったな霊夢。エスパーか?」
――有り得ない、という希望を込めた言葉に返ってきたのは、無情な肯定の言葉だった。
◆
/断章
人里で夏祭りのあった夜のことだった。
里長に頼まれた巫女の演舞を終えた私は、里の近くにある丘の上まで登ってみた。
そこは人里を一望でき、今夜はさぞかし良い景色だろうと考えたためである。
丘に着いてみると、すでに草の上に座り込んで盃をあおっている者の後ろ姿が見えた。
一目見ただけで誰なのか判ってしまうほど、見慣れた後ろ姿であった。
「あら霊夢、こんばんは」
まるで私がここに来るのが判っていたとでも言わんばかりの、先の読めない妖しい笑み。
私と同じ赤いリボンで結った、金砂のような艶やかな長髪が、少し涼しい夏色の風になびいている。
「紫、か。こんなところで何してんのよ。屋台は下よ?」
何で居るんだコイツは、という意味を込めて丘の下を指さす。
「独りで祭りに行っても、ちっとも楽しくないんですもの」
「狐と猫の式神がいるでしょう」
「あの子たちを二人っきりにしてあげた老婆心、少しは判って下さいな」
「ふぅん。私は子供も孫もいないから判らないわ」
「そのうち判るようになりますわ。人間は妖怪よりも成長するのが早いから」
「そんなものかしらねえ」
「そんなものですよ」
私は紫の横に座り、中身の入った赤い盃を受け取る。
景気づけにそれを一気に呑み干すと、紫に盃を渡した。
そして横に転がっていた日本酒の瓶を手に取り、透明色の中身を注いでやる。
紫は軽く会釈すると、やはり盃の中身を一気に呑み干した。
「無事にお祭りが成功してよかったわね、霊夢」
「ま、私は演舞くらいしか出番がなかったけどね」
「あら、とっても素敵な舞だったわよ。それに巫女の演舞はとっても肝心よ。あの演舞にはいろんな意味があって――」
「見物人みんな、そんな大層な意味があっただなんて判っちゃいないわよ」
紫によって注がれた盃の中身をぐいと呑み干し、私は深く息を吐いて言った。
紫はそんな私の横顔を、柔らかな表情で見つめ続けていた。
「ねえ霊夢」
紫は人里の明るい方を指さした。
それにつられて私もそちらを見やる。
確かあの辺りでは屋台が数多く開かれ、まだお祭が続いているはずだった。
紫は立ち上がると、夜空に瞬く星たちを見上げた。
そして次の瞬間、
「ああー、わたし、すっごくしあわせー!」
吠えた。文字通り、空に浮かぶ月に向かって。
両手を真上に伸ばして叫んだ紫は、満足そうに一度大きく息を吐くと、草むらの上に置いた盃を手に取って、その中身を一気にぐいと呑み干した。
私は呆気にとられ、口を開けたまま固まってしまった。
「こんなに楽しい気持ちになったのは久しぶりよ」
「珍しいわね、紫がそんなに感情的になるなんて」
「私はいつだって感情的よ?」
「式神という論理を操り、論理すら凌駕する境界操作能力を持ってるくせに、何言ってんだこの妖怪は」
私は大げさに肩をすくめてみせる。
紫はそれすら呑み込んでしまうかのような微笑みをこちらに向けた。
そして、祭りが行われているあたりを指差し、口を開いた。
「今この場にいる人や妖怪たち全員が楽しんでいる。私が創った幻想郷という世界に生きることを、楽しんでくれている。人も妖も関係なく活気に溢れていて、皆がこの幻想郷を愛してくれているのだと判るのよ。幻想郷の守り手として、これほど嬉しいことはないわ」
今回の人里での夏祭りは、人里含む人間たちだけでなく、妖怪たちにまで広く門戸を開いた大々的なものであった。
今まではお祭といえば、人と一部の妖怪だけが楽しむものであった。
だが、紫や慧音や里長の中で会談が持たれ、今年は妖怪に向けてもう少し広く門戸を開いてはどうかという議論がなされた。
紅魔館に白玉楼、永遠亭に妖怪の山、そして地底世界に命蓮寺など、妖怪たちの勢力が少しずつ目立ち始めたためである。
紫は妖怪を祭りに受け入れる提案と引き換えに、今回の夏祭りを見守る義務があった。
幸いなことに大事はなく、祭りはもう終盤に差し掛かっていた。
慧音や妹紅、紫や藍たちが十二分に目を光らせていた結果である。
つまり、今回の夏祭りは紫の全面的な力添えがなければ、実現も成功もしなかったかもしれないのだ。
紫は祭りの成功を見届けることができて、嬉しかったと言ったのだろうか。
「ふぅん、あいつらはただ酒呑んで浮かれてるだけにしか見えないけれどねえ」
「ちょっとまだ霊夢にこの話は早かったかしらね。貴女も、そのうち判るようになるわ」
「幻想郷の守り人として?」
「幻想郷の守り人としてよ」
「そんなものかしらねえ」
「そんなものですよ、ささ、もう一杯」
「ったく、みんな酒呑みたいだけなんじゃないのかなあ」
私は頭を掻きながら、紫に注いでもらった酒をぐいとひと呑みした。
屋台の光が、人里をぽつぽつと明るく飾り立てていた。
リリリリ……と遠くから聞こえる虫の音色は、どこか懐かしくて、少し寂しくて。
紫と見た幻想郷の光は、やけに眩しくて美しいのに――どこかおぼろげな儚さを持っていた。
夏が、終わろうとしていた。
◆
「私も魔理沙たちと同じ夢を見たわ」アリス・マーガトロイドが言う。
「私のところにも紫が出てきたわね」レミリア・スカーレットが言う。
「あれ、みんな同じ夢を見てたの?」伊吹萃香が言う。
「あたいも、それと同じ夢を見たよ」チルノが言う。
口々に広がっていく夢の話。
どうやら私と魔理沙だけでなく、昨晩の宴会にいた全員が同じ夢を見ていたらしい。
騒然となった場では、ああでもないこうでもないと確証のない憶測ばかりが広がった。
昨晩は八雲の者たちの姿を見ていないと誰かが言うと、さらに場は騒がしくなった。
確かに昨晩は吸血鬼に亡霊に宇宙人、死神に神様に地底の妖怪とそろい踏みの中で、紫たちだけは宴会に姿を見せていなかった。
私はそのことに昨晩から気付いていたが、「紫は気紛れだから」と思い、特に気に留めることもしなかった。
紫などは特に、居てもらいたいときには絶対に姿を見せず、居てほしくないときに姿を見せる天邪鬼であることが判っていたからだ。
だがこの場に居た全員が同じ夢を見るなんていうのは、いくらなんでもおかしい。
誰かの意図的な操作が私たちの夢に介入したとしか思えない。
そして、そんなことが可能な人物と言えば、境界を操る妖怪である八雲紫。
もしくは無意識を操るさとり妖怪の、古明地こいしの二名である。
どちらがやったかは判らないが、冗談なのだとしたら相当にタチが悪い。
笑えない冗談は、既に冗談としての意味を持たない。
人を傷つけるためだけの嘘と何ら変わりないからだ。
とりあえず、答えの出ぬままその場は解散となった。
水掛け論的な議論を続けても埒が明かないからだ。
「いつもの手の込んだ冗談だろう」と誰かが言い出した。
そうであってくれ、という願望がそこに含まれていたのかもしれない。
魔理沙たちは皆、申し訳程度に片づけを手伝った後、一同に帰路に着いた。
私は寝室に転がる酒瓶を一カ所に纏めながら、今日の夢を見た意味を考えていた。
紫がいなくなるということ。
それがどんなことであるのかなんて、考えたこともなかった。
あいつは神出鬼没で、胡散臭くて、いつもはぐらかすような喋り方で。
けれど時々見せる、幻想郷を守る者としての真剣な表情が、やけに印象的で。
本当に時々だけど、その姿が幻想郷の守り手としてあるべき姿を私に示しているように感じられて。
私は彼女に対して、今までどんな思いを抱いてきたのだろう。
ぼんやりと纏まり切らない思考を弄んでいると、突如部屋の中に見慣れたスキマが現れた。
口を開いたその中から現れたのは、八雲紫の姿ではなく――
「藍……?」
――九尾の妖怪であり八雲紫の式神、八雲藍であった。
私は隙間から紫ではなく藍が出てきたことに激しい違和感を覚えて眉根を寄せた。
はっきりしない違和感の正体を探るべく、藍の傍へと近寄っていく。
もしかして、という不明瞭な予感はあった。
でもまさかそんなことは、と頭の片隅に蔓延る不安を拭おうとした。
しかし、一歩一歩八雲藍に近づくにつれ、その予感は確信へと変化していった。
私は背筋を寒いものが伝っていくのを感じながら、八雲藍と対峙し、全てを悟った。
「博麗霊夢、これからは私が結界の――いや、幻想郷の管理者だ」
そう言い切った八雲藍から溢れる妖気はまさに、八雲紫と同質のそれであった。
私があいつのパートナーとして肩を並べていたんだから、余計によく判る。
目の前に居る八雲藍の有している力の質は、明らかに紫のそれと同等だった。
「どうして、紫は」
「紫様は――もう居ない」
藍の言葉から受けた衝撃で、どくん、と血液が強く脈打つ。
紫はもう居ない?
お前は何を言っているんだ?
なんで紫が居なくなる必要があるんだ?
私の中でぐるぐると回り続ける疑問を察してか、藍が口を開いた。
「紫様は『もう自分のすべきことは終えた』と言い残して居なくなった」
「ふざけないでよ。だったら誰が、結界を」
「だからそれは、これからは私が引き継ぐ。現時点で紫様と同等の役目を果たせる力はあると自負しているし、紫様もそれは認めていた。何か問題があるか?」
事務的で淡々とした口調で返す藍に、少しずつ苛立ちが募っていく。
「問題があるか、ですって?」
訳が判らぬことへの怒りだけが、沸々と湧き上がっていく。
「そんなの大アリに決まってるじゃない! なんで……なんで今なのよ!? 紫が消える必要なんてどこにあったのよ!」
「霊夢、落ち着け」
「落ち着いていられる事態じゃないでしょう!」
狂人のように喚く私に対し、藍は声色を低くして一喝した。
「落ち着きなさい、霊夢」
藍の言葉に、びくりと体が震えて固まった。
博麗の名誉のために断っておくが、決して藍に気押されたのではない。
九尾の妖怪といえども、博麗の巫女たる私に力で敵うはずがないからだ。
私が感じたのは、もっと別の何か。
今までの八雲藍とは、絶対的に異なる何か。
でもそれを認めてしまったら、紫が居なくなった現実を認めてしまうのと同義で。
認めたくなかった。
目を逸らしたかった。
受け入れたくなかった。
紫が居なくなっただなんて、嘘だと思いたかった。
今までのようにひょっこり現れて、冗談のひとつでも言ってくれるのだと思っていた。
「――紫様なら、そう言うのかな」
藍は余裕を持った笑みを讃えながら、妖艶に微笑んだ。
もう、限界だった。
私は目の前が真っ白になっていくのを感じた。
白状しよう。
私は先程の藍の言葉が、まるで紫によって発せられたように感じられたのだ。
私ですら押されてしまうような圧倒的な重みの正体は、博麗の巫女ですら持たない妖怪の賢者としての妖力である。
こんな力は、八雲紫その人しか持ちえぬ力であったはずだった。
彼女の持つ力は、唯一にして絶対的のものだった。
私の持つ博麗の力とはまた違う、世界の理を覆せる圧倒的な力。
けれど八雲藍は、その力の片鱗を私に示して見せた。
八雲藍が八雲紫と同質の力を持つことなどは、有り得ることではないのだ。
八雲紫という唯一の存在だけが持つ力を、八雲藍が手にすることなど有り得ないのだ。
――紫が自身の力を、藍に譲渡でもしない限り。
私が紫と錯覚してしまうほどの力を、眼前に居る九尾の狐が宿している。
即ち、八雲藍が幻想郷の管理者としての力を有しているということだ。
言葉すら失った私を見据えながら、藍は淡々と語った。
「紫様は幻想郷を創り、幻想郷を誰よりも愛した妖怪だ。そしてそれが、彼女の妖怪としての存在意義だった。彼女はその為に生まれ、その為の力を持った妖怪だった。彼女は力を存分に奮い、ただの荒れ果てた大地であったこの地を幻想郷として創り変えた。そして、現在の幻想郷の平和を創るために奔走した。それが紫様の生きる意味であり、本質であり、存在意義だった」
「まさか、紫は」
深く考えるまでもなく自動的に結論に思い至った私は、愕然として膝をついた。
幻想郷を愛した八雲紫は、人間でも幽霊でもなく、どこまでも妖怪であった。
幻想郷という世界を創り、誰よりも愛した彼女は、どうしようもなく妖怪だった。
彼女は幻想郷を創り上げるという存在意義を持った、ただ一匹の妖怪だったのだ。
「……お前が思い描いている答えが、多分正解だ。人間と妖怪の争いの絶えなかった幻想郷が平定された今、紫様の存在意義はもう殆どなくなった。妖怪は己が持つ存在意義を失った瞬間に、完全な消滅に至る。だから紫様は私に幻想郷を見守り続ける力を残して、消え去ったんだ」
藍の口から告げられた真実は、私の思い描いた真実と相違なく。
紫が消え去ってしまったというのが、幻想でもなんでもない現実であった。
残酷で、非情で、絶望的な真実だった。
「はは、ははは」
乾いた笑いだけが、喉の奥から漏れていく。
ホワイトアウトした思考が、紫の幻影だけを追い求めて彷徨っていた。
「ああ、そうか」
私は、気付いてしまった。
幽明の境で出会ったあの日からずっと、私は彼女の背中を見てきたのだということに。
彼女の姿こそが、私のあるべき姿として重ねられていたということに。
八雲紫という存在は、私の中で重要なポジションにいたのだということに。
誰にでも分け隔てなく接する公平さを、博麗の巫女として持っている自覚はあった。
誰かが死んでしまったとしても、仕方が無いことなのだと受け入れる覚悟はあった。
誰にも捕らわれない博麗の巫女として、幻想郷の未来を背負っていく勇気はあった。
だが真実はどうだ。藍の話を聞いて、私は大きく動揺している。
いつものように自由奔放にマイペースを保つことなんてできやしない。
仕方ないことなのだと割り切って受け入れることなんてできやしない。
幻想郷の未来を背負っていく勇気なんて、一人では持てやしなかった。
私は、気付いてしまった。
紫の存在が、私の心の隙間を埋めていたということに。
彼女が居たからこそ、私は公平でいられたのだということに。
公平であるはずの私の心は、紫の存在に支えられていたのだということに。
私の気付かない間に、私の心は彼女なしでは成り立たなくなっていたのだということに。
紫が、居たから。
紫がいつも傍に居てくれたから。
私は博麗霊夢として、いつも強く在れたのに。
貴女が居なくなってしまったら、もうどうしたらいい?
紫を失いたくない。
紫と別れたくない。
紫が居なくなってしまったら、
私は、私は、私は――――
――――夜が、降りてくる。
◆
夢を、見た。
それはひどくぼんやりしていて、ミルクを紅茶に入れてかき混ぜたような曖昧さを持った世界だった。
どうしようもないくらい輪郭がぼやけた意識の中に、私はふわふわと浮かんでいた。
現か夢かの区別をつけることすら忘れるような倦怠感だけが、その場を支配していた。
いつの間に私の横にいたのか、彼女は寝惚けている私の横で、静かに佇んでいた。
非常に胡散臭い話だが、夢の中で現れた彼女は、やはり濁したような曖昧な表情で私に言った。
さようなら霊夢、と。
そして、くるりと後ろを向き、私の元から彼女は離れていこうとした。
私に彼女を止める術は無く、紫と私の距離はみるみる広がっていく。
待って。
私を置いていかないで。
紫はこうしている間にも遠くへ行ってしまう。
永遠に、彼女と会えなくなってしまう。
それが途方も無いほどに恐ろしくて――
「馬鹿言わないで!」
――体中の力を込めて、去り行こうとする紫に叫ぶ。
幻想郷が平和になったからもう紫は必要ない?
存在意義がなくなったから居なくなる?
自分だけ、勝手なこと言わないでよ!
「私が紫を必要としているのに――」
胸の奥が、熱くなる。
心臓が絞られているような気がして、呼吸すら苦しくなる。
瞳の奥から、とめどなく熱い涙が流れていく。
抑えきれない思いが体中から溢れて、私の意識をどろどろに溶かしていく。
私の中の一番奥にある、まっすぐな感情が言葉になって口を衝く。
「――どうして、いなく、なるのよぉ……」
私が言っていることは、どうしようもなく自分勝手だ。
紫の存在意義なんて、私には知ったことではなかった。
ただただ、私の傍に紫はずっと「居る」のだと思っていた。
いつか消えてしまうだなんて、考えたことも無かったし、実際にそれが起こり得るだなんて勿論考えていなかった。
幻想郷は紫と共に在り、そして博麗である私がそれを支えるのだと思っていた。
だけど、現実はそんなことはこれっぽっちもなくて。
紫は私の前から居なくなり、それが平然と受け入れられようとしている。
去り行く貴女の背中を見つめながら、膝をついてみっともなく涙を零していた。
夢の中の私の意識は動けないのに、貴女の姿はどんどん遠ざかっていてしまって。
ただただ、去り行く貴女を見送ることしか出来なくて。
紫は一度だけ振り返り、寂しそうな哀しそうな、そんな目で私を見つめていた。
どこか幻想的な彼女の表情に、私は何も言えず、彼女を見つめ返すだけだった。
ぐるり、と世界が暗転する。
視界がゆっくり奪われていく。
夢が、醒めようとしていた。
私の意識が落ちていく直前、紫がそっと私の髪を撫でたような気がした。
そして「ありがとう」と、呟いた。
夢が、現へと変わっていく。
◆
――
――――
――――――――
――――――――――――――――
意識が、覚醒した。
見慣れた部屋の見慣れた天井が、ぼんやりした視界に映る。
冬の空気が肌に刺さり、思わず体を布団の中に引っ込める。
頭が働き始めるまで、しばらくそうやって、ぼうっとしていた。
やがて体を起こし、夢の続きを思い出すため、そっと瞳を閉じた。
私が最後に見たのは、私の髪を撫でてくれた紫の姿だった。
けれど、夢の中の紫はどんな表情をしていたかは判らなかった。
哀しそうな表情だったのかもしれない。
瞳から涙を零していたのかもしれない。
今となってはもう、知る由も無いことなのだが。
かたちのない、おぼろげな夢の記憶が組み合わさり、ひとつの答えを導く。
瞼に焼きついた彼女の後姿は、どんどん私の元から離れていく。
私は必死に手を伸ばしているのに、背中はだんだん小さくなっていく。
行かないで、と願ったのに。
紫は結局、私の元を離れて遠くへ行ってしまった。
私の意識が完全に堕ちる直前に何か言っていたが、思い出すことは出来なかった。
彼女から私に向けた、最後の言葉だったのに、思い出せなかった。
どうにもできなかったという事実だけが、真実だった。
「ああ」
擦れた息と共に、自然と声が漏れる。
切なさに掻き立てられて、こころがぎゅうと締め付けられていく。
慟哭しているかのように、こころがぎいぎいと金切り声を上げる。
錆び付いた歯車のように、こころがぎちぎちと軋んで音を立てる。
「紫は、いっちゃったんだなあ」
あまりにも呆気ない幕切れに、呆然とする。
私と紫の交わる道は、これからもずっと続いていくのだと思っていた。
これからもずっと続いていくのだと、なんの根拠も無しに信じていた。
それなのに、夢からも現からも、貴女は姿を消してしまった。
「ふ……うぁ……」
自分への怒りと呆れと不甲斐無さが、一気に押し寄せる。
紫が居なくなってしまった悲しみが、一気に押し寄せる。
欠けてしまった心の隙間から、押さえきれぬ感情が溢れていく。
感情がぶつかり合い、混ざり合い、ぐちゃぐちゃになり。
私を溶かして、溶かして、溶かしていく。
「あ、あああ……」
涙がこみ上げてくる。
私は初めて、己の無力さに打ちひしがれた。
どうにもならなかったことへの不甲斐無さを、初めて思い知らされた。
こんな感覚は、今まで感じることは無かった。
博麗の巫女たる私に、不可能なことなど何も無かった。
私が願えば、願いはすぐに実現した。
それが当たり前だと思っていたし、これからも変わることは無いのだと思っていた。
でも、貴女はもう居なくなってしまって。
「ぐー……すぴー……」
私を置いて、貴女はいなくなって――――って、寝息?
涙を拭い、まさかと思いながら瞳を開き、自分が寝ている真横に目を遣る。
するとそこには――
「んぅ……れいむ……」
――幸せそうな顔で私の名前を呼ぶ八雲紫が、布団の中ですやすやと眠っていた。
「ゆか、り……?」
一瞬何が起こったのか判らなくなり、自分はまだ夢の中にいるんじゃないかと思い、思い切り自分の頬をつねり上げる。
痛い。すごく、痛い。
つまり私が目にしている光景は夢じゃないわけで。
それでもまだ信じられなくて、手を伸ばして紫の頬を指でつついてみる。
ぷに、という感触が指先に広がり、紫が少し苦しそうに顔を歪ませる。
そして漸く、これが夢じゃないんだと思い知らされる。
嬉しさのあまりに、一瞬頭が真っ白になって何も考えられなくなる。
でも嬉しさと共に、すぐに疑問が湧き上がってくる。
どうして紫がここにいるの?
昨日私と藍がした会話は夢じゃなかったわよね?
それとも今までの全部が悪い夢だったの?
ぐるぐると解決しない疑問を頭の中で巡らせていると、紫が身を捩って大きく手足を伸ばした。
数秒後、ぱっちりと目を覚ました紫は、私の顔を見つけると優しく微笑んだ。
「おはよう、霊夢」
「おは――って、紫、なんで、あんた、ここに」
開いた口がぱくぱくと塞がらないまま唖然とする私をよそに、
紫は上半身を起こすと、優しく微笑んだまま私の体をきゅっと抱き締めた。
「霊夢、ありがとう」
夢で聞いた言葉が、今度は現の世界に響いた。
私はそれに安堵を覚え、紫の体を優しく抱き返す。
「今私がこうして此処に居ることができるのは、霊夢のおかげよ」
「私のおかげ? 私は何もできなかったのに」
「いいえ、貴女は私と居たいと願ってくれたじゃないの」
「でも、それだけよ」
「それが、とっても大事だったの」
紫はそっと私の体から離れると、私の瞳を見据えたまま言葉を続けた。
「私は幻想郷を創るために生まれた妖怪だった。生きる目的を与えられた妖怪は、その役目を終えたら完全な消滅に至る。それが妖怪として生きる物のルールよ。幻想郷が平和になった今、幻想郷の安寧を見守ることを藍に託し、私は消えるはずだった」
「でも、紫は此処にいるじゃない」
「そう。私は此処にいる。誰かさんが、目的を無くして消える寸前だった私に、生きる目的を与えてくださったんですもの。それを無下にすることなんて、とてもできませんわ」
「生きる、目的?」
疑問ばかり浮かべる私の顔を見て、紫はやっぱり微笑んだ。
「霊夢が私にくれたんじゃない――」
その時の紫の表情は、私が今まで見た中でも一番優しくて。
彼女のことしか、今の私の目には入らなかった。
私の世界にはただ一人、彼女だけが存在しているような心地だった。
「――『霊夢と共に生きる』、という目的を」
こころの境界線が、完全に溶けていく。
私と紫を区切る境界線が溶けて溶けて溶けて、混ざり合っていく。
視界が潤んで、世界が光を帯びながら歪んでいく。
「ゆかり……!」
私は紫の胸の中で、子供のようにみっともなく大声を上げて泣いた。
紫は何も言わず、ただ私を優しく包んでくれた。
彼女が居てくれることが、私の最上の喜びだった。
今はただ、祈り続けたい。
私の心の隙間を埋める貴女が、どうかいつまでも傍にいてくれることを。
貴女と私の世界がこれから先も、ずっとずっと続いていくことを。
ただただ、祈らずにはいられない。
もうすぐ、冬が終わろうとしていた。
これから来る新しい季節を、二人で歩いていきましょう。
どんな場所でも、どこまででも、どんな景色も――。
<了>
なんだか一番考えたくないけれど、一番考えなければならないものですよね、幻想郷にとっては。
うん、納得。
それでこそゆかれいむ。マジでありがとう。
そして紫復活の瞬間にネクロファンタジアのサビに入ったWALKMANはGJ
よかった
OK、作者とはいい酒が呑めそうだ。
いい。
ごちそうさまでした。これからも頑張って下さい。
ジーンときたわぁ…。
よし、作者様!一緒に酒呑もう!
絶対旨い酒になるぜ・・・
台無しだwwwwwwww
泣き笑いになっちゃったじゃねーかwww
チクショウ、持ってけ100点!
ゆかれいむ、ご馳走様でした
最後の一行はafterなのか…afterなのか…!?
ゆかりゆかるゆかれ
これからも頑張って下さい、GJ
俺の幻想郷はここにあるっ!
紫様は霊夢の為に、霊夢は紫様の為に!
スキマ妖怪と素敵な巫女に、幸あれ!
ゆかれいむが俺のロードォォォォォォォォォォォォォォォ!!!
でも「いて欲しい」って思った奴らは、きっと想像以上に多いんだろうな。
ゆかれいむのおかげで幻想郷は今日も平和ですね
藍様の反応も可愛くて愛しくてやっぱりこの主従は素晴らしいものだと感心した。
二人に祝杯を!