(……拙いです。これは非常に拙いですね)
衣玖は雲の上で膝を付き頭を下げながら、この状況の危険さを何度も心の中で叫ぶ。何とかしようと思考を巡らせる度、全身から滝のような汗が流れた。
正直に告白しよう。
永江衣玖は自分が遣える『龍』という存在をほとんど知らない。
人間や天人が伝承を基に描いた絵画や掛け軸でその姿は想像できるものの、実物であるその姿を自らの瞳で映したことがないのだから。
何故なら龍はいつも深い雲で体を覆っており、竜宮の使いに対し容易に姿を見せることがないから。その雲の中に入ればいいと簡単に考える者がいるかもしれないが、雲に見えるそれは龍と現世との境界を示しており、触れた瞬間膨大な力で細切れになるのがオチ。無礼だからやらないとか、そんな理由以前の問題なのだ。
よって彼女より先輩の竜宮の使いたちに聞いても、首を横に振るばかり。唯一衣玖に許されたことは、おぼろげに雲に投影された巨大な影からその姿を想像することだけ。一般的な知識を持つものよりも進んでいるのは、竜神の傍にいることを許されていることと。もう一つ。
『頭を上げよ、永江衣玖』
その重厚的で威圧的な竜神の声を聞けること。
衣玖はその声のまま、雲の固まりに向かって従順に面を上げる。静かな表情からは彼女の聡明さが伺えるようだったが。
(どうやって説明しろというんですか! この状況で!)
彼女の心臓は破裂しそうなくらい速く脈打ち、頭の中で警報が鳴り続けていた。別に彼女が竜神を知らないのが危険というわけではない。
じゃあ何が不味いのか。
そんなもの言うまでもない。
今の彼女の立場が非常に不味いのである。
心を嵐のように乱したまま、それでいてそれを絶対表に出さないよう。必死で表情を作りつづけるものの。
『どうした、報告をせよ』
どうやって話を切り出せばいいのかがわからないのだから、どうしようもない。
その報告するべき事柄については、すべて把握している。順序立てて説明することなんて容易い。
ただし、遣えるべき竜神。
上司のような扱いの天人。
さらには同僚の竜宮の使いたち。
全員とのこれからの関係を考えると、どんどんと気が滅入って来る。そもそも何故自分があの事件のことで矢面に立たないといけないのか。それがおかしいのだ。だから竜神の御前に参る際は、必ず天人。とくにある家系の者を立会いに出すよう要求した。同僚である竜宮の使いにも心細いからお願い、と必死に頼み込み。竜神との一対一だけは絶対に避けよう。
そう心に決めてから望んだというのに。
結果もたらされたのはコレ。
『私の声が聞こえておらぬのか?』
「い、いえ! 滅相もございません」
言葉どおりの孤立無援状態。
一緒に立ち会ってくれるといっていた比那名居家の方々は急にキャンセルしてくるし、他の竜宮の使いたちもお腹壊したとか適当なことを言ってくるし。それでも行方不明のはずの総領娘様は『絶対ばらすな』とか書置きを机の上に残していくし。
とくに仲間だと、友人だと思っていた同僚にあっさり裏切られたのが精神的にもきつかった。
もう、この場で声を上げて泣きたいくらい。
けれど泣いたところで何も解決しないことを知っている。それを知らないほど子供ではないのだから。しかしこれ以上時間を引き伸ばしたとしても、良い案がそうそう頭の中に浮かんでくるわけもない。衣玖は意を決して龍神に対し言を述べる。
「ええ、では遅ればせながら今回の件について報告させていただきます。私はご命令どおり地震が起きることを地上の人間、そして妖怪たちに知らせてまわりました。しかし地震は起きなかった。以後かわりなく、平穏な毎日が続いているようです」
無難な、とある事件を誤魔化すような回答だが。
それでも嘘は語っていない。
真実まで到達するには明らかに言葉が足りないけれど、本当のことを言っているのは確か。
『して、今回の事件の主犯は如何した?』
「……それは。目星はついたのですがまだ確定的な証拠が見つからず」
『ほぅ、そうか。私の記憶違いやも知れぬが。確か天界には気質を操る奇怪な剣があったかと思うが。それを所有しておる者は把握しておらぬのか?』
「その人物についても現在行方知れずでして、全力を持って捜索に当たっております故。しばしお時間を頂きたく存じあげます」
けれど今回の事件は報告するだけで終わらない。
本来、森羅万象を司る竜神が操るべき大気や大地の気の流れ、つまり気質を自分の欲望のために操り。大地の地脈を大きく変貌させる大地震まで故意に起こそうとした人物。それを探り当てこの場に連れて来いというのが、報告以外に衣玖に与えられていた命令であり。その期限が、今日。
その犯人なら、もう思い出しただけで頭が痛くなるほどしっかり記憶されているというのに。天人と竜宮の使いの複雑な立場上、無理やり引っ張ってくることもできなかった。そもそも本当に昨日の夜からに姿をくらませてしまったし。
『何か、隠しだてしておるのではなかろうな?』
「いえ、竜宮の使いの名にかけて。そのようなことは一切ございません」
『本日がその期日と知りながら、連れて来ぬ者がよくその名を名乗れたものよ』
「はっ、全て未熟な私が招いたこと、如何なる罰も受ける所存です」
(すべて総領娘様がやりました。 なんて、今さら言える状況ではないですし……)
これから自分の身に降りかかる竜神の罰。それを考えるだけで全身の毛穴が開くような、そんな寒気を感じでしまう。けれどこの状況で実は知っていました。なんて事実を話せば余計にややこしい事になる。
だからここは我慢してなんとかやり過ごそうと、衣玖は静かに瞳を閉じるが。
『……まあ良い。今回だけは厳罰はなしとしよう』
「はい、ありがとうございます」
思いもよらない竜神の恩赦に、衣玖は深々と頭を下げる。
けれどこういう場合の多くは。
『ただし、明日の日没までに主犯を捕らえられなかった場合。より重い罪を課すと心得よ』
予想通り、新たな条件を突き付けられてしまう。
けれど彼女にそれを拒否できる道理などなく。
「はい、肝に銘じます」
竜神との一対一でのやり取り。
それで精神を磨り減らした衣玖は、重く感じる体を引き摺るように、謁見用に作り出された空間を後にしたのだった。
◇ ◇ ◇
「はは、龍神様のお仕置き? 大丈夫、大丈夫。全然大した事ないから。
ぜんっぜ……ん。大した……事ない……
ああっ! やめてくださいっ! だ、誰かっ誰か助けてぇぇぇ」
過去に竜神の罰を受けたことのある同僚に、どれくらいのものか聞いてみたら。最初は明るかったのに、いつのまにか言葉に詰まり、最後には雲の上で丸まって泣きじゃくるという豹変ぶり。
衣玖は何も言わないまま、その場を後にして。
(どんな手を使っても総領娘様を捕まえないと危ない。命とかいろんなものが危ない)
そう直感し、顔色を真っ青にしながら全力疾走で空を飛ぶ。
とは言っても、もともと雲の中をゆっくり飛び回るのに慣れている彼女の全力は、その辺にいる妖精よりわずかに速い程度。
なので一般的な妖怪であれば、追い抜くのは難しくない。
そんな自分の弱点をよく理解している衣玖は、速さなど気にせずに目的地へ向かうことだけを優先した。
そんな彼女の背中に妙な違和感が生まれたのは、博麗神社へと向かう道程の半分過ぎた頃。棒状の突起物が何の前触れもなく背骨あたりに触れたのである。
その感触に、嫌な予感がして振り返ると。
「お、なんだ? 珍しいのがいるじゃないか」
黒い三角帽子が特徴的な魔法使いがそこにいた。背中に接触しているのは彼女の乗っている箒の先端、それを押し当てながら興味深そうに衣玖の顔を覗き込んでくる。
「よ、久しぶりだな。また博麗神社でも倒壊したのか?」
「何で私が地上にいると神社が壊れたことになるんですか」
「お前の進行方向に神社があるからな、簡単な推理だ。それに、肝心の巫女が信心深くないのもすぐ壊れる原因の一つだと私は思うぜ」
「……私の目が確かなら、あそこで立派に建っているような気がするんですが」
「おお、それは異変だ。これは急いで調査しにいかないとな! ってことで、お前もいくんだろ?」
「あなたは相変わらず強引ですね。目的地が同じですから別にいいですけど」
魔理沙の箒にぐいぐい、と押されるまま。他人からゆっくりに見えるけれど必死な速度で神社の境内へと急降下するのだった。
「おっす、霊夢。神社が倒壊していない異変について調査しにきたぜ。お茶はどこだ~」
「ずいぶんな挨拶ね……
確かに最近は壊れてる時の方が多かったけど、いきなりそれはないんじゃない? っていうか支離滅裂だし」
鳥居の近くの地面に着地する直前。
衣玖の背中を押していた魔理沙が一気に追い抜いて、境内の掃き掃除をしていた霊夢へと声を掛けた。それが挨拶というものに分類されるかどうかは疑問だが。
「まあ、それはおいといて、だ。よっと。
あいつがお前に用があるらしいぞ」
箒から飛び降り、握った右手の親指で鳥居を指す。そこには頭を下げた状態の衣玖が待機していて、霊夢も釣られて頭を下げた。
「なんだよ、私のときとはえらい違いだな」
「真摯に対応してほしいのなら、誠意を見せてくれないと。まあ、あなたには程遠い言葉でしょうね」
「なんだよ、私は誠意の塊だぜ? 今もこうやって困っている妖怪を霊夢のところに連れて来たんだからな」
「普通、神社に妖怪を連れて来るのはおもいっきり悪意だと思うわよ? ま、あんたの基準は常識からかけ離れてるから仕方ないか」
むっとする魔理沙に対し、霊夢は微笑みながら舌を出して応戦。そうやっていつものやり取りを終えてから、衣玖に向かって手招きする。
「ちょうど掃除も終わったところだから、魔理沙と一緒に上がってて。まだ新しいから畳の匂いが気になるかもしれないけど」
「まあ、すでにその辺から異臭がしてたり、キノコが生えたりしてるかもしれないけどな」
「それはあんたの部屋でしょう? 片付けられない女は行き遅れるわよ」
「余計なお世話だ。茶菓子全部食べてやるからな」
「あら、私はお茶だけでも楽しめるけど?」
そうやって仲良く神社に入っていく二人を見送りながら。
衣玖は小さく声を漏らす。
「……あんまりのんびりしたくないんですけど」
けれど、そんな微かな願いが聞き入れられることはなく。
神社の中に招かれた衣玖は、日が暮れるまで二人の世間話に突き合わされたのだった。
それで、一番聞きたかった情報。
天子の現在の所在に関してはどうかというと。
「あ、そういえば『少し前』に、迷いの竹林の方へ飛んでいく青っぽい影があったわね」
すでに四時間以上が経過した『かなり前』の情報だけだったという。
◇ ◇ ◇
すっかりと日が落ち、夜の帳が下りたころ。
両腕をぶらぶら揺らし、衣玖はすっかり脱力しきった状態で空を飛んでいた。夜空に輝く綺麗な三日月が妙に妬ましく見えるのは、心に余裕がないからだろうか。
(精神崩壊するような罰なんて受けたくないですし……)
大事な手がかりは、飛んでいく青い影があったことだけ。
もしそれが天子でなければ大事な半日を棒に振ったことになる。神社で長居し過ぎたおかげですでに手遅れの可能性が高いけれど、せめてその後の足取りを掴めればいい。
そう割り切って竹林が見える方向へと進んでいると、何か前方で光がぶつかり合うのが見える。
もしかしたら、挑発に乗りやすい天子が誰かと勝負でもしているのかもしれない。
そんな期待を胸に速度を上げる衣玖であったが。
見えたのは大きな炎を放つ白髪の少女と。
鮮やかな弾幕を撃つ、黒髪の少女。
どうやら天子とは全然違う二人が弾幕勝負というより、決闘に近い戦いを繰り広げているようだ。何はともあれ人違いなら接触は避けるに限る。そう判断し、進路を左へ取ったが。
ゴゥ
なんだか、急に背中が暖かくなる。
月明かりってこんな暖かいものだっただろうか。不審に思って背中の方を見ると。
何か、赤っぽい。
おぼろげに揺れる橙色が、背中を彩っていた。
この橙色のものは、よく知っている。
何度も何度も見たことがある。
だってこれは、落雷を落としたあとによく発生する。
「あははは……
この位置で流れ弾って。どんな火力なんですか……」
明らかな、炎。
衣玖は悲鳴を上げながら、眼下の竹林へ急降下。バサバサと竹の葉の天井を掻き分けながら落下し、そのまま背中で着地、黒い土の上に火のついた衣服を力いっぱいこすりつける。
その途端、じゅぅっとか美味しそうな音が聞こえてくるが、熱さが収まったことから判断して、なんとか消火は完了したようだ。背中や腰周りの服が焼け焦げ、灰となって欠損した部分。そこから白い肌や下着の一部が露出してしまっており、煽情的な雰囲気を醸し出していた。
その中でも特に気になる胸の後ろや腰のラインを羽衣で隠しながら起き上がれば、なんだか温かみを感じさせる光が竹林の奥から漏れていた。
(そういえば、噂で聞いたことがありますね)
人を迷わせる竹林の中には、永遠亭という医療機関があると。もし竹林の奥から覗く光がそれであるなら。ヒリヒリと痛む背中を治療してもらってもいいかもしれない。落下のせいで頭から零れ落ちた帽子を拾い上げ、再度身なりを確認し、意を決して進む。
と――
ギュッ として
バタン
「――――――!?」
勢いをつけて歩き出そうとした瞬間に、いきなり足を捕まれたらどうなるか。
不意打ちで体勢を崩されたまま、固い地面とキス。
いや、鼻を強打したと言うべきか。
火をつけられたり、転ばされたり、と。一体今夜は何なのだろう。
涙目になりながら上半身を反らした衣玖は、いきなり人の足を掴んだ不届き者を叱り付けてやろうと振り返り。
「ほ、ほら! てゐ! いたずらのできる人がきたよ、おもいっきりやっちゃっていいんだよ!」
「……ふふ、いいのよもう、私のいたずらなんてどうせ子供騙しだよ。これからはもう……普通の兎として生きるよ……」
「てゐ! しっかりして、てゐ!」
「あ、あの~、お取り込み中でしたら。御暇させていただきたいのですが……」
なんだか、注意したくでもできない雰囲気を纏った妖怪兎が現れた。その内の大きい方が地面に這いつくばりながら衣玖の足首を掴んでおり。そしてもう一人はというと、一本の竹に背を預けたまま膝を抱えていた。どんよりとした空気を纏っていることから判断して、酷く落ち込んでいるようだ。
以上の状況から導かれる、衣玖の正しい行動は。
面倒ごとに巻き込まれないよう、ただ逃げるのみ。
けれど、右の足首を掴む手の力が思いのほか強く、引き抜こうとしても外れない。そんなもがく獲物を逃がさないように、大きい兎が匍匐前進しながら近づいてくる。薄ら笑いを浮かべながら迫るその光景は、もうホラー以外のなにものでもない。
「ふふ、あなたは逃がさない。だって、てゐのいたずらの餌食になってもらうのだから。ふふふ、あははっ!」
妙な笑い声を上げ、接近する妙な妖怪兎。
まともな精神状況下であれば、良くわからない状況に追い詰められたまま動揺し、泣き喚くことしかできなかったかもしれない。
けれど。
ぷちっ
午前中の竜神とのマンツーマン。
そして午後の、抜け出せない世間話。
さらに追い討ちの背中の火傷と、現在のこの状況。
残念ながら。いまの衣玖の精神状況は、どう考えてもまともではない。
――つまり。
我慢の限界♪
「……そうですか、いいでしょう。
好きなだけ掴んで下さい」
そう言いながら、胸元から一枚のスペルカードを取り出し空中に掲げ。表情を暗くしながら妖怪兎の体を抱きしめ返す。もしこのとき、気がついていたら。
この大きな妖怪兎が竜宮の使いと争ったことがあったなら。
別の結果が生まれていたかもしれない。
「ただし、離れるときは死ぬ気で頑張ってくださいね♪」
額に青筋を浮かべた状態で、彼女が掲げたスペルカード。
それが接近した状態でどれほど危険か。
もしもわかっていたのなら、逃れられたかもしれないのに。
「棘符……」
妖怪兎は衣玖の体に触れ続けたまま。
発動の声を間近で聞く。
「雷・雲・棘・魚!!」
帯電させていた体内電流を爆発的に開放することで、至近距離にいる相手に強烈な電撃を浴びせる彼女の奥義の一つ。
雷光を散らし、まさに雷の塊となった衣玖の体。
それにもし接触したらどうなるか。
普段なら火の気すらないその竹林の中。
若干香ばしい、兎肉の香りが広がったという。
「……で、正気に戻っていただけましたか?」
「あい、もうひわけあいまへんれひた」
電撃を受け過ぎてまだ痺れが取れないのか。鈴仙という大きな妖怪兎は地面に座り込んだまま、呂律の回っていない謝罪を口にする。着ている服の所々が焼け焦げているのを見るだけで、さきほどの衣玖の本気さが理解できる。
「まったく、人が背中を火傷して苦しんでいるというのに。いったい何なんですか! 言うにことかいて、いたずら? もう少し周囲の迷惑を考えたらどうです!」
「ごめんりゃは……こほんっ!
あー、あー、ご、ごめんなさい。
悪気は確かにあったんだけど、あの子のために仕方なくというかなんというか……」
「あの子? ああ、あそこで落ち込んでいるあなたのお仲間ですか。それがどうしたというのです?」
「あの、話せば長くなるんだけど……」
そこで鈴仙は、今日起こった出来事を衣玖に語り始めた。
午後からの仕事がなかったので、たまにてゐと一緒に何かして遊ぼうと竹林の中を捜していたとき。
てゐが、少し前に幻想郷を騒がせたあの天人と一緒にいる現場を目撃したのだという。それを物陰から眺めていると、てゐは見慣れぬ天人を上手く誘い込み。定番のいたずら、落とし穴に引っ掛けたのだった。
普通ならここで、罠にかけられた相手は怒り。てゐは頭に血が上った相手に対して、いたずらを繰り返す。そんないつもの光景が始まるはずなのに。
『え、何これ! 凄くおもしろいじゃない!』
痛いと怒るどころか唐突に落下する感覚が気に入ってしまったようで、「もっともっと!」といたずらを要求する始末。それで意地になったてゐが彼女自慢のいたずら全てを持って迎え撃ったそうなのだが。
天子はその全てを笑いながら、受け続け。
最後に、こんな言葉を言い放ったのだという、
『え~? もう終わりなの? つまらない兎ね』
そんな残酷な一言で、てゐのプライドはガラスのように砕け散り。
傷心状態で座り込んでしまった。
「で、現在に至る。というわけですか。まったくあのお方らしいというか、なんといいましょうか……」
体の頑丈な天人だからこそ可能な遊び。
そんなものに付き合わされたてゐの方が被害者と言っていいかもしれない。その様子を思い浮かべ、乾いた笑い声を上げていると、鈴仙がまた腰のあたりに抱きついてくる。余裕のかけらもない、必死な形相で。
「でも、他の人がてゐのいたずらに引っかかれば、また元気になってくれるんじゃないかと思って。だから、お願い! あの落とし穴に落ちて!」
「あの、正直言って凄く嫌です。何が悲しくてあるとわかっているものに落ちなければいけないのか」
「私たちを助けると思って!」
「あの、とりあえず雷を使ったせいで、酷く痛み出した背中を先に治療して欲しいと言いましょうか」
「そんなのどうだっていいじゃない! ね、お願い!」
ぐいっ
「ですから嫌ですって」
「ああもう、わからない人ね! そんなこと言うと師匠のところに連れて行って上げないから!」
ぐいっ
「え~っと、その師匠というお方があそこで治療してくださる方と受け取っても?」
「そうよ、亀の甲より年の功。経験も知識もばっちりで――
ああもう、てゐ。私の耳にいたずらしないで」
ぐいっぐいっ
「――銀髪で、赤と青の配色が特徴的な服を着ている?」
「うん、そうそう、ってあなた私の師匠を知っているの?」
「ええ、たぶん。
あなたの後ろで、長い耳を引っ張っている人がそうなんじゃないかと……」
「……えっ?」
ギギギっと。
壊れたブリキのおもちゃが重い音を響かせるように。
堅い動きで振り返る鈴仙の後ろ。
もう、満面の笑みを浮かべた永琳が、彼女の長い耳を掴みながら立っていて。
「あらあら、患者さんをこんなところで足止めして、何をしているのかしら? う・ど・ん・げ?」
「し、しししししし、しし、ししょっ……」
壊れた蓄音機のように、同じ音を何度も繰り返しながら身を引こうとするが。耳をつかまれているため抵抗すらできない。
そのまま笑顔の永琳に引かれて行ってしまう。
「すみません。今すぐ診察の準備を致しますわ。それにしてもこの子ったら、私のどこが年の功なのかしらねぇ、おほほほほ」
「そ、そうですよね。お若いですよね、とても……、お、オホホホ……」
永琳が案内のもと、衣玖はやっと永遠亭に到着し火傷の治療を受けることができた。それと弟子が粗相をしたお詫びとして、服の修繕、さらに夕食まで準備してくれるという至れりつくせりな待遇。ただ、死人のような、生きるのを諦めたような瞳をする鈴仙が途中から姿を見せなくなったのだけが気がかりではあったが……
……油断して、朝まで熟睡してしまったときは一体どうすればいいのか。
ちょっと、治療してもらうだけ。それだけのはずだったのに。おもいっきり一晩を明かしてしまった。一気にいろんなことが起きすぎて、休養を欲しがる体の声に従った結果がこれだ。
(あと一日……あと一日しか)
いや、日が沈むまで、と考えれば。
時間的に言えばもう半日程度しかない。
慌てて布団から這い出し、お礼を言うために永琳を探していると、元気そうに廊下を歩く昨日の妖怪兎二人組みとすれ違う。昨日はアレほど暗い表情をしていたというのに。昨晩のうちに何があったのだろう。お礼を言うついでにそのことを永琳に尋ねてみると。
「ふふ、弟子との接し方はいろいろあるのよ」
と含み笑いを零しながら答えてくれた。
ただ、その笑みが妙に深みがあるというか、妖艶であったのが気になるところだが。
けれどそんな細かいことまで気にしている場合ではない。一刻も早く天子の足取りを追うことが衣玖にとって最も優先するべきことなのだから。
もしかしたら永琳なら何か知っているかもしれないと思い、足取りについて何か知らないかと尋ねたところ。
「そう言えば、今朝お戻りになられた姫様が、奇妙な女性を見たといっていました。湖の方へ飛んで行ったと」
その姫が戻ってきた時間を尋ねれば、まだ半刻程度しか経過していないという。
半刻!
たった、それだけ。
これはとうとう、運が回ってきたのかもしれない。
最高速には追いつけないけれど、目的地さえ絞り込めれば出会える可能性は非常に高くなる。ただ、あの湖は日中濃い霧に覆われているから。まず紅魔館から攻めた方が利口かもしれない。もし出会えなくても、一人くらいは目撃者がいるかもしれないし。
衣玖は大きく伸びをしつつ体の調子を確認してから、真新しい気持ちで空に飛び立った。
◇ ◇ ◇
「私が今から言う、三つの選択肢の中から好ましいと思われる選択肢をお選びください」
衣玖が紅魔館に到着したとき、そこは少々刺々しい雰囲気に満ちていた。
過去に一度しかここに訪れたことの彼女でも、異常だと判断できる気配をその門番が放っている。
メイド服を着た、銀色の髪の門番が。
そして衣玖がその前に着地した瞬間、有無を言わさず指を三本突き付けた。
「一番、断固拒否。二番、お引き取りください。三番、一昨日きやがれ。
さあ、どうぞ」
「できればもう少し救いのある選択肢が欲しいのですが……」
いっそのこと最初から「お通しできません」とでも言ってくれればいいのに。
今日はいけるかもしれないという期待を一気に裏切られるような、取り付く島もない言葉を浴びせられ、帽子がずり落ちそうになるほど肩を沈めた。
「だって、あなたを通すとお嬢様が不機嫌になると相場が決まっているんですもの。先日の異変の際、降り止まない雨のせいで核の部分に参加できなかったことを思い出されて」
「いえ、別にそのお嬢様と会うのが目的ではないのですが」
「あら? ではまた地震か何かで?」
「いえ、それを起こした張本人を捜索中です」
「なるほど、そういうことなの。手の掛かる主人を持つと大変ですわね」
「本来は主従関係ないはずなんですけどね。どうしてこうなったのやら……」
帽子を元に戻し、前髪を正しながら愚痴を零す
そうやって落ち込む衣玖にどこか共感するものがあったのか、咲夜は周囲にばら撒いていた気配を弱め、表情を緩める。
「それで、私があの天人の居場所を知っているか。そのことを尋ねたいと?」
「ええ、できれば詳細に」
「残念だけど、私がここに来たのはほんの少し前。交代してから一番目の客人があなただった、だからお答えできる情報は持ち合わせてはいないのよ」
「そう、ですか……
あ、でも。交代したということは、それより前は別の人がいたということですよね。前回ここを訪れたときは緑色の服を着た方がいらっしゃいましたし。何故か気持ちよさそうに眠っておられましたけど」
「……美鈴ね。彼女なら確かに見ているかもしれないわ。けれど今は大事な、別の仕事中でね」
それは困る。
こっちは少しでも生きた情報が欲しいというのに。しかしこの周囲でまともな情報が得られそうな場所といえば、視界の悪い霧の湖しかないので証言もあまり期待できない。となると、やはり咲夜が変わる前にいた門番が何か見ていないか。
どうしてもその情報が欲しい。
「あの、どうしても時間を割いていただくということはできませんか?」
「……そうね、そこまでいうのなら。一度話を通してみましょう。聞き入れてもらえるかどうかはわかりませんが」
その声が全て衣玖の耳に収まるより早く。
彼女の姿が、幻のように忽然と消える。一度手合わせしたことがあるのでこの能力についての知識は備えている。けれど時を止めるという行為を頭で理解できたとしても、目の前でその不可思議な現象が起きればどうしても眉を潜めてしまう。
そうやって戸惑っているわずかな時間のうちに。
「会話をするくらいなら構わないそうです。ただし部屋まで来るようにと」
「っ!? あ、ありがとうございます」
再び現れた咲夜が、無表情にそう告げてくる。
けれど、やはりこの登場の仕方は心臓に悪いこと悪いこと。感謝の言葉を伝えながらも、思わず身を引いてしまうという体たらく。
しかし咲夜にしてみれば、そうやって驚く客人を見るのは日常茶飯事。
特に気を悪くすることなく、庭で花壇を手入れしていた妖精メイドを呼び寄せた。首を傾げる妖精に門番をするよう言い聞かせると、衣玖を連れて屋敷の中へ。
彼女を先導し、地下へと潜る階段を進む。
その後も彼女の使えるべき主がいる部屋とはまるっきり正反対の道を、客人の歩幅に合わせて進み続けた。そうやって幾許も経たないうちに、意外と早く終着点に辿り着く。衣玖たちの身長を祐に超える、見上げるほど大きな扉の前。
ここで衣玖と並ぶように止まるということはこの先に、美鈴という門番いるということになる。
「一つだけ忠告をさせていただきます。
くれぐれも、幼い姿をした吸血鬼。フランドールお嬢様には失礼のないように」
「そのつもりですよ。下手を踏みたくもありませんし、あまり長居をするのも失礼でしょうし」
「懸命です。それとこれは私の純粋な疑問なのですが」
咲夜はそう言いながら、衣玖の後ろに回り込み。
その奇妙な物体を指差した。
「その背中の。
不自然なくらい大きなウサギの刺繍の意味は?」
「……お願いだから、聞かないでください」
『服の破れ方が、ウサギの顔の形に似ていたから、つい出来心で♪』
そんな竹林の賢者の個人的な趣味で修復された背中には。
つぶらな瞳のアップリケが異様な存在感を放っていたという。
◇ ◇ ◇
コンコン
「失礼します、妹様」
咲夜によって開かれた、その部屋はとても可愛らしい空間だった。赤を主体としているようで絨毯もベッドも、ティーポットですらどこかに赤に属した何かが散りばめられている。テーブルに置かれた上品な一輪挿しの花瓶の中にある花も、真紅の薔薇。まるで人の血液を啜ったような、吸血鬼の一族に愛でられるために生まれてきたような鮮やかな色彩。
と、そんな赤い部屋の中に。
「あのー、フランドールお嬢様?
お客様が部屋に入ってきたら優雅に迎えるのが常識ってさっきおっしゃってませんでしたっけ?」
「あら、美鈴。状況は刻一刻と変わるものよ?」
「あはは、刻一刻で変わる常識って……」
「むー、文句ある?」
「あ、いたっ! ですから三つ編を掴むのは駄目ですって! 本当に痛いんですから」
緑色の点があると、凄く目立つ。
人間で言えば十分に大人の女性と言えるべき体躯の、見覚えのある服装をした人物。幻想郷の中を飛び回っていたとき彼女だけ異質な服を着ていたので、彼女の記憶にも姿だけは残っているし、先ほど美鈴と名前も呼ばれていたから間違いない。
衣玖はさっそく問いかけようとするけれど。
「え~っと、どうやって話を振れば……」
四つん這いになり、フランドールと呼ばれる吸血鬼を背中に乗せた。
『お馬さんごっこ』状態の相手にどうやって話を切り出せばいいのか。それに加えて、フランドールは邪魔と言わんばかりに衣玖を威嚇し続けているし。
「ふふふ、私の圧倒的な存在感の前に、声もないようね」
うん、確かに圧倒的だ。
圧倒的に、可愛いというか。微笑ましいとかいう意味で。
頼りだった咲夜はというと。
美鈴の背中の上で威張り散らすフランドールを瞳の中央に捉えたまま、手を胸の前で組み。蕩けた表情のまま放心状態。それが凄く幸せそうで。
本当に、別の意味で声を掛けづらい空間が仕上がっていた。
しかしここで停滞していては意味がない。
「えーっと、あの美鈴さん? さきほど咲夜さんから聞いたかと思うのですが。少しお尋ねしたいことがありまして」
「あら、美鈴は私と一緒に遊ぶのに忙しいの。後にしていただけない?」
「しかし、先ほどは会話だけなら良い、と」
「だから、気が変わったの。物分りが悪い子は嫌いよ」
自分勝手な滅茶苦茶な理屈。
それを恥じることなく口にしながら、フランドールは美鈴の上から飛び降り、舐め回すように衣玖の姿を凝視。その後何を思ったか一枚のカードを服の中から取り出し、見せ付ける。
「要求を通したいなら、力を見せる。それがこの世界のルールなのでしょう?」
「本当にもう、余計な時間は使いたくないのですが……」
そう言いながらも、衣玖も同じようにスペルカードを取り出した。このわがままなお嬢様を黙らせるには力づくでやるしかない。そんな結論に至らざるを得なかった。
横にいる咲夜が正気に戻ればなんとかなるかもしれないけれど。
「スペルカードは、4枚。先に使い切ったり、降参した場合は負け。それでよろしいですか?」
「いいよ、でもまだ条件を忘れてる。
泣き叫んだり、壊れても負けだからね? おねーさん♪」
そうして二人は同時に、空中にスペルカードを展開し。
色鮮やかな弾幕戦の火花を――
ひょいっ
「それまでです。フランドールお嬢様」
物理的に妨害する影が一つ。
発動させようと魔力を込めていたフランドールのカードを、背の高い女性が後ろから奪ったのである。瞬間、遊びを邪魔されたフランドールから物凄い量の魔力が溢れる。この小さな体のどこにそんな力が眠っているのかと目を疑うほどの。しかしそのカードを持っているのが美鈴と知り、大人しく魔力を抑え彼女の服を力一杯掴む。
「返して! ねえ、返してよ!」
「ダメです、どうなるかと思って黙って見ていたら。お客様といきなり喧嘩するなんて! そういうのはお嬢様のするべきことではありません」
体を揺らしてくるフランドールの力を綺麗に受け流し、平然とした表情のまま立ち続ける。
その右手に取り上げたカードを掲げたまま。
「ケンカじゃないもん。決められたルールの中の勝負だもん。
あいつとだって、スペルカードは四枚までって約束したし!」
「でも、フランドールお嬢様は先にあの人との約束を破った。私も聞いてましたよ。話をするだけなら我慢する、そうおっしゃっていたはずですし」
「それとこれとは話は別!」
「一緒です」
美鈴は体を屈め、カードを右手から左手に移動させた。
手の届く位置に目的のものが見えたフランドールは、それを目で追う。そんな少女の視界が、横にスライドさせている左手に集中したのを見計らい。
「えぃ!」
視界の外から右手を素早く動かし、フランドールの額の前にセット。
彼女がそれに反応するより早く。
親指を、丸めた人差し指で弾く。
いわゆる、デコピンを彼女の額にお見舞いした。
「いつっ! 何するのよ、美鈴!」
「約束を簡単に破る悪い子にお仕置きをしただけです」
「ふん、いーんだもん! あんな馬鹿面の約束くらい」
「そうですか、じゃあ私も、フランドールお嬢様と遊ぶ約束、全部なしにしちゃいますから」
「う゛~~~~~~~っ!」
見知らぬ誰かとのスペルカード勝負と。
彼女の小さな意地と。
美鈴と遊べなること。
その三つを心の中で天秤にかけたフランドールは。
ふんっと鼻を鳴らしながら、入り口を指差した。
「いいわよ、でも! この部屋で私を抜きにした話なんて許さないから!」
「わかりました、少し廊下をお借りします」
譲れない意地が最後に下した判断は。
そんな小さな抵抗だった。
「ああ、なるほど。あの妙な女性をお探しでしたか。着ましたよ私が門番をしていたときに」
「本当ですか! それはよかった。それで何をしにここにいらっしゃったのでしょう?」
「どうやら弾幕ごっこがしたかったみたいですよ。私と三戦ほど手合わせして満足したようですから」
「暇つぶしに弾幕ごっこですか、実にあのお方らしい……」
本来弾幕ごっこは交渉が上手くいかないときの交渉手段の一つとして使われる。仕方ないからやろうか、程度のものなのだが。それを天子は単なる遊びと解釈しているらしい。
「それで満足したようで、また違う場所へ行きましたけどね。あまり留まり過ぎると、あなたに居場所がばれる。きっと怒られるとも」
「ははは、ばれちゃってましたか。どおりで……」
警戒されていたから、天子は執拗に移動を繰り返しながら遊んでいる。ということだろうか。
そしてばれていると言えば。
「あの美鈴さん、後ろ、よろしいのですか?」
美鈴の後ろの大きな扉。
それが2寸ほど開き、紅い瞳がおもいっきりこちらを凝視している。つま先をコツコツと地面にぶつけるという、苛立ち音のおまけ付で。
しかも分厚いはずの扉を掴む手から、固い物にヒビが入るような破砕音が聞こえて来るし。
「可愛げがあっていいじゃないですか」
「あれを可愛げがあるだけで片付けますか」
「それより、その天人の情報の続きはどうします?」
「え、もしかして行き先をご存知とか?」
「いいえ、飛んでいった方角くらいしかわかりませんね」
「ああ、やっぱり……」
警戒しているのなら、下手な情報は残さない。
こんな状況なら日暮れまでに捕まえられる可能性は、限りなくゼロに近いだろう。これでは確実に竜神のお仕置きの餌食になってしまう。
そんな諦めのつぶやきを漏らす衣玖だったが、美鈴は腕を組み不敵に笑う。
「でも、早く帰らないとご両親が心配しますよ、って私が言ったら。日暮れ前には天界に戻る。なんてことを言ってたんですよ」
「日暮れ前! そう言っていたんですね!」
「ええ、それを待ち伏せするのがいいかもしれません。あなたの空を飛ぶ速度はお世辞にも……」
「……わかってます。なので天界で待ち伏せする案を採用させていただきます」
「日暮れまでに、捕まるといいですね。永江さん」
そうやって手を振って見送ってくれる彼女に、衣玖は何故か違和感を感じつつも天界へと戻った。その後は雲の中に身を隠して根気良く機を待ち続け、見事天子を捕まえて見せたのだった。
◇ ◇ ◇
天界のとある一角。
竜神の世界と人間の世界への入り口の一つはそこにある。
雲と青空しかない風景に見えるこの場所だが、意識を集中させながら手を伸ばせば水面のような波紋が生まれた。
この歪こそが入り口、『龍』のために存在する世界への。
竜神以外では竜宮の使いしか入ることができない世界。
しかし、今回は竜神の希望により幻想郷で無礼をはたらいた天人が呼び出された。
きっと今ごろ、あの上から押さえつけられるような威圧感と戦いながら説教を受けているのだろう。
(総領娘様、申し訳ありません……)
そして、同僚があれほど恐れた、罰というのも与えられているに違いない。
その光景を見たくなかった衣玖は、天界に残って天子の帰りを待っていた。
(きっとあれだけ泣き咽ぶということは……)
きっと我慢できない激痛を長時間受け続けたり。
精神を破壊されるような、酷い映像を見せられたり。
もしかしたら、想像を絶するような責め苦を味あわされ――
「わぅっ!?」
「はぅっ!?」
想像の中で恐怖を増幅させていると、いきなり天子が何もない空間から落ちてきた。高さは衣玖の身長ほどなので天人であればまったく問題にならない落下の衝撃である。むしろ、いきなり天子が現れたので衣玖の方が精神的ダメージを受けてしまったくらい。
「もう、なんなのよもう! 人のこと説教したと思ったら急に放り出すなんて!」
尻餅をついてから不満そうに起き上がるが、やはり肉体的なダメージはほとんどないようだ。
ん? ダメージが、ない?
「あ、あの、総領娘様。龍神様から何かされなかったのですか?」
「されたわよ、見てよ衣玖!」
そういいながら、帽子を取り。
前髪を掻き上げて額を見せた。
するとそこには、ほんのりと赤くなった点が一つ。
「なんか雲の中から人の手が生えてきたと思ったら、ぴんっ! ってこう私のおでこを弾いてきたのよ! 悪い子にはお仕置きとかいいながら」
「それだけ、ですか?」
「ええ、それだけ。凄く痛かったわ。竜神か何かしらないけれど。私を天人と知ってのあの振る舞い! 許せない!」
(……え? それは、どういう)
信じられない。
もっと厳しい罰だと思っていたのに、でこぴんだけ?
龍が? 天下の龍神様が?
「でも、衣玖も大変ね。あんなのが上司なんて」
「まあ、大変といえば大変ですね」
「今回はあいつに命令されて、無理やり私を連れてきたんだろうからお咎めなしにしてあげるけど。私をこれ以上貶す事があれば、比那名居の家系が黙っていないと知りなさい」
「ええ、天人様とは今後とも仲良くしたいので」
額を摩りながら家の方へと飛んでいく。その小さな体を見送りながら、衣玖は自分の前髪をぐしゃりと掴んだ。
そう、天人との今後のつながり。
それを気にしながら、それでも竜神の命令に従い。竜宮の使いに恥じない仕事をする。それが本来の彼女の立ち居地。本来の自分らしさ。
なのに、それすら崩す勢いで立ち回り、罰を必死で回避しようとした。
その結果が、回避しようとしたものが単なるデコピンだなんて自分が馬鹿らしくなってくる。
(そうですよねぇ、初めから罰がその程度と理解していれば)
何も行動しなかったし、甘んじでそれを受けただろう。
そして、自分が望む場所に。
自分が望む仲間と共に。
ただ変わらぬ毎日を行く。
赤白の巫女と白黒の魔法使いのような。
悪口すら毎日の香辛料と変えてしまう、腐れ縁。
兎の妖獣たちのような。
狂うほど仲間を思いやる、連帯感。
あの館の吸血鬼にの周りに集う。
姉妹のような、それでいて家族のような、温もり。
自分というものをしっかりと持ち、生き生きと暮らす地上の人間や妖怪たち。
それのなんと眩しい事か。
それを知らずに、ただ形だけの。上辺だけの友人たちとの、くすんだ色の楽しい世界。それが自分の世界だとずっと思い込んでいただろう。
手を伸ばせば、自分も手に入れられたはずなのに。
怖かったから、空気を読んだ。
その場でどうあれば、荒波が立たないか。嵐が起きないか。
脅えながら、周囲の顔色を伺いながら。
「まったく下界というのは、おそろしいですね。総領娘様が惹かれたのは、こういうことなのでしょうか。龍神様が私に戯れのような罰を与えたのは、あの世界を見せるためだったのでしょうか」
もしそうなら、なんて残酷な。
あんなものを知ってしまったら。
もう、戻れるわけがないじゃないですか。
衣玖は、何かを思い出したようにくすくすと微笑みだすと。
同僚たちのいる竜宮の使いの住処へと戻っていった。
自分の気持ちに整理を付けるために。
「えー、本当に? 何それぇ。衣玖ちゃんったらカワイソー」
「あーあー、あの優等生らしいねぇ。ははっ、馬鹿みたい!」
「でしょー、うけるよねー!
まさか本当に信じるなんてさ! そんな酷い事されたら、龍神様の側にいるわけないっての!」
「昨日はここに帰ってきてなかったって聞いてるし、どれだけ必死なんだよっ! って話だよねっ、ホント知識があるだけの馬鹿はこれだからさぁ」
衣玖が地上に降り立つ前に相談した竜宮の使いと、取り囲むように並ぶ三人。合計四人がお腹を抑えたり雲を叩いたりして、彼女を笑い続けていた。
娯楽の少ない空ではこうやって他人の失敗談を噂して回る、厭らしい集団がいた。それでもその四人は比較的に竜宮の使いの中でも古株なので、新しく生まれた者たちは簡単に逆らうこともできず。彼女たちの言葉を信じてしまう。
今回はその標的が、衣玖だっただけ。
「大体あの子、むかつくんだよね~。すかした態度とってさ、どっちつかずの意見しかいわないし。我がないっていうの?」
「あ、わかる。必死に仲のいい同僚の立場を保とうとするんだよね。うざいだけだっての」
「えー、みんなこわーい。私も嫌いだけど♪」
「あんたが一番毒舌な癖に、さてさて。そろそろあっちの様子見に行ってみる? 必死に天人追っかけ回してた、馬鹿を見学にさ」
「あー、いいねー。それ最高! そして、悔しそうにしてるあの子を慰めてあげるの~♪」
「ははは、何クネクネしてるんだよ、気持ち悪い」
何も知らない子を食い物に、遊ぶ。
そんな馬鹿を一度でも。『 』だと思い込んでしまった。
「ね、ねぇ、ねぇ。ちょっと聞きたいんだけどさ」
「何よ、急に。そんなマジな声出して?」
本当の『 』はもっと暖かいというのに。
ケンカしても、一時の感情で憎みあっても、必ず最後には手を握り合えるような。
「私、あんまり外の世界とか出ないから、そういうやついるのかどうかわからないんだけどさ」
「だから何よ、はっきりいいなさいよね」
「わ、わかった。じゃあ言うよ?」
だから彼女は、一歩だけ前に進むことにした。
もしかすると一度踏み出したら、過去の関係には戻れないかもしれないけれど。
「背中に大きな兎のアップリケをつけた竜宮の使いなんて、いないよね?」
「え?」
「なに?」
「そんなやついるわけなっ!?」
「いるんですよ、冗談ではなく。本当に」
その日、天を大きなドリルが貫き。
激しい稲光が何度も、何度も、空を彩ったのだという。
それからというもの、衣玖に好んで会話を振る仲間は少なくなってしまった。
その事件が起きる前の、半分以下。
下手をすると四分の一くらいかもしれない。
少なくなったせいで彼女の毎日を孤独に過ごし、荒んだものになっているのではないか。単純な数で言えばそうなるかもしれないけれど。
(これが本当の『仲間』そういうものなんでしょうか)
昔のように、脅えることもなく。
心休まるときを満喫することができる。
他愛もない話を、半日ずっと続けられるような、そんな関係まではまだ到達していないけれど。今のように心許せる友人が入れば、悠久に近い寿命が少しくらい短く感じるかもしれない。
それに――
「衣玖、今日も地上に行くわよ!」
「はい、かしこまりました。総領娘様」
きっと、この我侭天人の側にいられるのなら、本当に一生などあっという間なのだろう。
毎日が突拍子もなくて。
毎日が冒険の連続で。
そして、毎日が楽しすぎて。
追記
「……また美鈴が門番をサボってどこかに出掛けていたんですって?」
「ええ、そのようです、レミリアお嬢様。昨日の夕方から夜の数時間程度ですが」
「まったく、困ったものね。少し前にも同じことがあった気がするけど?」
「はい、その前日の朝も同じように、抜け出していますわ」
まったく、美鈴のさぼり癖にも困ったもの。
レミリアは、ふぅっと紅茶に息を吹きかけてから、瞳を軽く閉じる。
「それで、問い詰めた結果は?」
「それが何ともよくわからないことを言うばかりで。
天に上る気分を味わっていた、と」
「……別な場所で眠っていて、気持ちよかったからそんな気分になっただけ、きっとその程度ね」
その結論が正しいかどうか。
それはわからない。
真実を知るのは美鈴一人だけなのだから。
衣玖は雲の上で膝を付き頭を下げながら、この状況の危険さを何度も心の中で叫ぶ。何とかしようと思考を巡らせる度、全身から滝のような汗が流れた。
正直に告白しよう。
永江衣玖は自分が遣える『龍』という存在をほとんど知らない。
人間や天人が伝承を基に描いた絵画や掛け軸でその姿は想像できるものの、実物であるその姿を自らの瞳で映したことがないのだから。
何故なら龍はいつも深い雲で体を覆っており、竜宮の使いに対し容易に姿を見せることがないから。その雲の中に入ればいいと簡単に考える者がいるかもしれないが、雲に見えるそれは龍と現世との境界を示しており、触れた瞬間膨大な力で細切れになるのがオチ。無礼だからやらないとか、そんな理由以前の問題なのだ。
よって彼女より先輩の竜宮の使いたちに聞いても、首を横に振るばかり。唯一衣玖に許されたことは、おぼろげに雲に投影された巨大な影からその姿を想像することだけ。一般的な知識を持つものよりも進んでいるのは、竜神の傍にいることを許されていることと。もう一つ。
『頭を上げよ、永江衣玖』
その重厚的で威圧的な竜神の声を聞けること。
衣玖はその声のまま、雲の固まりに向かって従順に面を上げる。静かな表情からは彼女の聡明さが伺えるようだったが。
(どうやって説明しろというんですか! この状況で!)
彼女の心臓は破裂しそうなくらい速く脈打ち、頭の中で警報が鳴り続けていた。別に彼女が竜神を知らないのが危険というわけではない。
じゃあ何が不味いのか。
そんなもの言うまでもない。
今の彼女の立場が非常に不味いのである。
心を嵐のように乱したまま、それでいてそれを絶対表に出さないよう。必死で表情を作りつづけるものの。
『どうした、報告をせよ』
どうやって話を切り出せばいいのかがわからないのだから、どうしようもない。
その報告するべき事柄については、すべて把握している。順序立てて説明することなんて容易い。
ただし、遣えるべき竜神。
上司のような扱いの天人。
さらには同僚の竜宮の使いたち。
全員とのこれからの関係を考えると、どんどんと気が滅入って来る。そもそも何故自分があの事件のことで矢面に立たないといけないのか。それがおかしいのだ。だから竜神の御前に参る際は、必ず天人。とくにある家系の者を立会いに出すよう要求した。同僚である竜宮の使いにも心細いからお願い、と必死に頼み込み。竜神との一対一だけは絶対に避けよう。
そう心に決めてから望んだというのに。
結果もたらされたのはコレ。
『私の声が聞こえておらぬのか?』
「い、いえ! 滅相もございません」
言葉どおりの孤立無援状態。
一緒に立ち会ってくれるといっていた比那名居家の方々は急にキャンセルしてくるし、他の竜宮の使いたちもお腹壊したとか適当なことを言ってくるし。それでも行方不明のはずの総領娘様は『絶対ばらすな』とか書置きを机の上に残していくし。
とくに仲間だと、友人だと思っていた同僚にあっさり裏切られたのが精神的にもきつかった。
もう、この場で声を上げて泣きたいくらい。
けれど泣いたところで何も解決しないことを知っている。それを知らないほど子供ではないのだから。しかしこれ以上時間を引き伸ばしたとしても、良い案がそうそう頭の中に浮かんでくるわけもない。衣玖は意を決して龍神に対し言を述べる。
「ええ、では遅ればせながら今回の件について報告させていただきます。私はご命令どおり地震が起きることを地上の人間、そして妖怪たちに知らせてまわりました。しかし地震は起きなかった。以後かわりなく、平穏な毎日が続いているようです」
無難な、とある事件を誤魔化すような回答だが。
それでも嘘は語っていない。
真実まで到達するには明らかに言葉が足りないけれど、本当のことを言っているのは確か。
『して、今回の事件の主犯は如何した?』
「……それは。目星はついたのですがまだ確定的な証拠が見つからず」
『ほぅ、そうか。私の記憶違いやも知れぬが。確か天界には気質を操る奇怪な剣があったかと思うが。それを所有しておる者は把握しておらぬのか?』
「その人物についても現在行方知れずでして、全力を持って捜索に当たっております故。しばしお時間を頂きたく存じあげます」
けれど今回の事件は報告するだけで終わらない。
本来、森羅万象を司る竜神が操るべき大気や大地の気の流れ、つまり気質を自分の欲望のために操り。大地の地脈を大きく変貌させる大地震まで故意に起こそうとした人物。それを探り当てこの場に連れて来いというのが、報告以外に衣玖に与えられていた命令であり。その期限が、今日。
その犯人なら、もう思い出しただけで頭が痛くなるほどしっかり記憶されているというのに。天人と竜宮の使いの複雑な立場上、無理やり引っ張ってくることもできなかった。そもそも本当に昨日の夜からに姿をくらませてしまったし。
『何か、隠しだてしておるのではなかろうな?』
「いえ、竜宮の使いの名にかけて。そのようなことは一切ございません」
『本日がその期日と知りながら、連れて来ぬ者がよくその名を名乗れたものよ』
「はっ、全て未熟な私が招いたこと、如何なる罰も受ける所存です」
(すべて総領娘様がやりました。 なんて、今さら言える状況ではないですし……)
これから自分の身に降りかかる竜神の罰。それを考えるだけで全身の毛穴が開くような、そんな寒気を感じでしまう。けれどこの状況で実は知っていました。なんて事実を話せば余計にややこしい事になる。
だからここは我慢してなんとかやり過ごそうと、衣玖は静かに瞳を閉じるが。
『……まあ良い。今回だけは厳罰はなしとしよう』
「はい、ありがとうございます」
思いもよらない竜神の恩赦に、衣玖は深々と頭を下げる。
けれどこういう場合の多くは。
『ただし、明日の日没までに主犯を捕らえられなかった場合。より重い罪を課すと心得よ』
予想通り、新たな条件を突き付けられてしまう。
けれど彼女にそれを拒否できる道理などなく。
「はい、肝に銘じます」
竜神との一対一でのやり取り。
それで精神を磨り減らした衣玖は、重く感じる体を引き摺るように、謁見用に作り出された空間を後にしたのだった。
◇ ◇ ◇
「はは、龍神様のお仕置き? 大丈夫、大丈夫。全然大した事ないから。
ぜんっぜ……ん。大した……事ない……
ああっ! やめてくださいっ! だ、誰かっ誰か助けてぇぇぇ」
過去に竜神の罰を受けたことのある同僚に、どれくらいのものか聞いてみたら。最初は明るかったのに、いつのまにか言葉に詰まり、最後には雲の上で丸まって泣きじゃくるという豹変ぶり。
衣玖は何も言わないまま、その場を後にして。
(どんな手を使っても総領娘様を捕まえないと危ない。命とかいろんなものが危ない)
そう直感し、顔色を真っ青にしながら全力疾走で空を飛ぶ。
とは言っても、もともと雲の中をゆっくり飛び回るのに慣れている彼女の全力は、その辺にいる妖精よりわずかに速い程度。
なので一般的な妖怪であれば、追い抜くのは難しくない。
そんな自分の弱点をよく理解している衣玖は、速さなど気にせずに目的地へ向かうことだけを優先した。
そんな彼女の背中に妙な違和感が生まれたのは、博麗神社へと向かう道程の半分過ぎた頃。棒状の突起物が何の前触れもなく背骨あたりに触れたのである。
その感触に、嫌な予感がして振り返ると。
「お、なんだ? 珍しいのがいるじゃないか」
黒い三角帽子が特徴的な魔法使いがそこにいた。背中に接触しているのは彼女の乗っている箒の先端、それを押し当てながら興味深そうに衣玖の顔を覗き込んでくる。
「よ、久しぶりだな。また博麗神社でも倒壊したのか?」
「何で私が地上にいると神社が壊れたことになるんですか」
「お前の進行方向に神社があるからな、簡単な推理だ。それに、肝心の巫女が信心深くないのもすぐ壊れる原因の一つだと私は思うぜ」
「……私の目が確かなら、あそこで立派に建っているような気がするんですが」
「おお、それは異変だ。これは急いで調査しにいかないとな! ってことで、お前もいくんだろ?」
「あなたは相変わらず強引ですね。目的地が同じですから別にいいですけど」
魔理沙の箒にぐいぐい、と押されるまま。他人からゆっくりに見えるけれど必死な速度で神社の境内へと急降下するのだった。
「おっす、霊夢。神社が倒壊していない異変について調査しにきたぜ。お茶はどこだ~」
「ずいぶんな挨拶ね……
確かに最近は壊れてる時の方が多かったけど、いきなりそれはないんじゃない? っていうか支離滅裂だし」
鳥居の近くの地面に着地する直前。
衣玖の背中を押していた魔理沙が一気に追い抜いて、境内の掃き掃除をしていた霊夢へと声を掛けた。それが挨拶というものに分類されるかどうかは疑問だが。
「まあ、それはおいといて、だ。よっと。
あいつがお前に用があるらしいぞ」
箒から飛び降り、握った右手の親指で鳥居を指す。そこには頭を下げた状態の衣玖が待機していて、霊夢も釣られて頭を下げた。
「なんだよ、私のときとはえらい違いだな」
「真摯に対応してほしいのなら、誠意を見せてくれないと。まあ、あなたには程遠い言葉でしょうね」
「なんだよ、私は誠意の塊だぜ? 今もこうやって困っている妖怪を霊夢のところに連れて来たんだからな」
「普通、神社に妖怪を連れて来るのはおもいっきり悪意だと思うわよ? ま、あんたの基準は常識からかけ離れてるから仕方ないか」
むっとする魔理沙に対し、霊夢は微笑みながら舌を出して応戦。そうやっていつものやり取りを終えてから、衣玖に向かって手招きする。
「ちょうど掃除も終わったところだから、魔理沙と一緒に上がってて。まだ新しいから畳の匂いが気になるかもしれないけど」
「まあ、すでにその辺から異臭がしてたり、キノコが生えたりしてるかもしれないけどな」
「それはあんたの部屋でしょう? 片付けられない女は行き遅れるわよ」
「余計なお世話だ。茶菓子全部食べてやるからな」
「あら、私はお茶だけでも楽しめるけど?」
そうやって仲良く神社に入っていく二人を見送りながら。
衣玖は小さく声を漏らす。
「……あんまりのんびりしたくないんですけど」
けれど、そんな微かな願いが聞き入れられることはなく。
神社の中に招かれた衣玖は、日が暮れるまで二人の世間話に突き合わされたのだった。
それで、一番聞きたかった情報。
天子の現在の所在に関してはどうかというと。
「あ、そういえば『少し前』に、迷いの竹林の方へ飛んでいく青っぽい影があったわね」
すでに四時間以上が経過した『かなり前』の情報だけだったという。
◇ ◇ ◇
すっかりと日が落ち、夜の帳が下りたころ。
両腕をぶらぶら揺らし、衣玖はすっかり脱力しきった状態で空を飛んでいた。夜空に輝く綺麗な三日月が妙に妬ましく見えるのは、心に余裕がないからだろうか。
(精神崩壊するような罰なんて受けたくないですし……)
大事な手がかりは、飛んでいく青い影があったことだけ。
もしそれが天子でなければ大事な半日を棒に振ったことになる。神社で長居し過ぎたおかげですでに手遅れの可能性が高いけれど、せめてその後の足取りを掴めればいい。
そう割り切って竹林が見える方向へと進んでいると、何か前方で光がぶつかり合うのが見える。
もしかしたら、挑発に乗りやすい天子が誰かと勝負でもしているのかもしれない。
そんな期待を胸に速度を上げる衣玖であったが。
見えたのは大きな炎を放つ白髪の少女と。
鮮やかな弾幕を撃つ、黒髪の少女。
どうやら天子とは全然違う二人が弾幕勝負というより、決闘に近い戦いを繰り広げているようだ。何はともあれ人違いなら接触は避けるに限る。そう判断し、進路を左へ取ったが。
ゴゥ
なんだか、急に背中が暖かくなる。
月明かりってこんな暖かいものだっただろうか。不審に思って背中の方を見ると。
何か、赤っぽい。
おぼろげに揺れる橙色が、背中を彩っていた。
この橙色のものは、よく知っている。
何度も何度も見たことがある。
だってこれは、落雷を落としたあとによく発生する。
「あははは……
この位置で流れ弾って。どんな火力なんですか……」
明らかな、炎。
衣玖は悲鳴を上げながら、眼下の竹林へ急降下。バサバサと竹の葉の天井を掻き分けながら落下し、そのまま背中で着地、黒い土の上に火のついた衣服を力いっぱいこすりつける。
その途端、じゅぅっとか美味しそうな音が聞こえてくるが、熱さが収まったことから判断して、なんとか消火は完了したようだ。背中や腰周りの服が焼け焦げ、灰となって欠損した部分。そこから白い肌や下着の一部が露出してしまっており、煽情的な雰囲気を醸し出していた。
その中でも特に気になる胸の後ろや腰のラインを羽衣で隠しながら起き上がれば、なんだか温かみを感じさせる光が竹林の奥から漏れていた。
(そういえば、噂で聞いたことがありますね)
人を迷わせる竹林の中には、永遠亭という医療機関があると。もし竹林の奥から覗く光がそれであるなら。ヒリヒリと痛む背中を治療してもらってもいいかもしれない。落下のせいで頭から零れ落ちた帽子を拾い上げ、再度身なりを確認し、意を決して進む。
と――
ギュッ として
バタン
「――――――!?」
勢いをつけて歩き出そうとした瞬間に、いきなり足を捕まれたらどうなるか。
不意打ちで体勢を崩されたまま、固い地面とキス。
いや、鼻を強打したと言うべきか。
火をつけられたり、転ばされたり、と。一体今夜は何なのだろう。
涙目になりながら上半身を反らした衣玖は、いきなり人の足を掴んだ不届き者を叱り付けてやろうと振り返り。
「ほ、ほら! てゐ! いたずらのできる人がきたよ、おもいっきりやっちゃっていいんだよ!」
「……ふふ、いいのよもう、私のいたずらなんてどうせ子供騙しだよ。これからはもう……普通の兎として生きるよ……」
「てゐ! しっかりして、てゐ!」
「あ、あの~、お取り込み中でしたら。御暇させていただきたいのですが……」
なんだか、注意したくでもできない雰囲気を纏った妖怪兎が現れた。その内の大きい方が地面に這いつくばりながら衣玖の足首を掴んでおり。そしてもう一人はというと、一本の竹に背を預けたまま膝を抱えていた。どんよりとした空気を纏っていることから判断して、酷く落ち込んでいるようだ。
以上の状況から導かれる、衣玖の正しい行動は。
面倒ごとに巻き込まれないよう、ただ逃げるのみ。
けれど、右の足首を掴む手の力が思いのほか強く、引き抜こうとしても外れない。そんなもがく獲物を逃がさないように、大きい兎が匍匐前進しながら近づいてくる。薄ら笑いを浮かべながら迫るその光景は、もうホラー以外のなにものでもない。
「ふふ、あなたは逃がさない。だって、てゐのいたずらの餌食になってもらうのだから。ふふふ、あははっ!」
妙な笑い声を上げ、接近する妙な妖怪兎。
まともな精神状況下であれば、良くわからない状況に追い詰められたまま動揺し、泣き喚くことしかできなかったかもしれない。
けれど。
ぷちっ
午前中の竜神とのマンツーマン。
そして午後の、抜け出せない世間話。
さらに追い討ちの背中の火傷と、現在のこの状況。
残念ながら。いまの衣玖の精神状況は、どう考えてもまともではない。
――つまり。
我慢の限界♪
「……そうですか、いいでしょう。
好きなだけ掴んで下さい」
そう言いながら、胸元から一枚のスペルカードを取り出し空中に掲げ。表情を暗くしながら妖怪兎の体を抱きしめ返す。もしこのとき、気がついていたら。
この大きな妖怪兎が竜宮の使いと争ったことがあったなら。
別の結果が生まれていたかもしれない。
「ただし、離れるときは死ぬ気で頑張ってくださいね♪」
額に青筋を浮かべた状態で、彼女が掲げたスペルカード。
それが接近した状態でどれほど危険か。
もしもわかっていたのなら、逃れられたかもしれないのに。
「棘符……」
妖怪兎は衣玖の体に触れ続けたまま。
発動の声を間近で聞く。
「雷・雲・棘・魚!!」
帯電させていた体内電流を爆発的に開放することで、至近距離にいる相手に強烈な電撃を浴びせる彼女の奥義の一つ。
雷光を散らし、まさに雷の塊となった衣玖の体。
それにもし接触したらどうなるか。
普段なら火の気すらないその竹林の中。
若干香ばしい、兎肉の香りが広がったという。
「……で、正気に戻っていただけましたか?」
「あい、もうひわけあいまへんれひた」
電撃を受け過ぎてまだ痺れが取れないのか。鈴仙という大きな妖怪兎は地面に座り込んだまま、呂律の回っていない謝罪を口にする。着ている服の所々が焼け焦げているのを見るだけで、さきほどの衣玖の本気さが理解できる。
「まったく、人が背中を火傷して苦しんでいるというのに。いったい何なんですか! 言うにことかいて、いたずら? もう少し周囲の迷惑を考えたらどうです!」
「ごめんりゃは……こほんっ!
あー、あー、ご、ごめんなさい。
悪気は確かにあったんだけど、あの子のために仕方なくというかなんというか……」
「あの子? ああ、あそこで落ち込んでいるあなたのお仲間ですか。それがどうしたというのです?」
「あの、話せば長くなるんだけど……」
そこで鈴仙は、今日起こった出来事を衣玖に語り始めた。
午後からの仕事がなかったので、たまにてゐと一緒に何かして遊ぼうと竹林の中を捜していたとき。
てゐが、少し前に幻想郷を騒がせたあの天人と一緒にいる現場を目撃したのだという。それを物陰から眺めていると、てゐは見慣れぬ天人を上手く誘い込み。定番のいたずら、落とし穴に引っ掛けたのだった。
普通ならここで、罠にかけられた相手は怒り。てゐは頭に血が上った相手に対して、いたずらを繰り返す。そんないつもの光景が始まるはずなのに。
『え、何これ! 凄くおもしろいじゃない!』
痛いと怒るどころか唐突に落下する感覚が気に入ってしまったようで、「もっともっと!」といたずらを要求する始末。それで意地になったてゐが彼女自慢のいたずら全てを持って迎え撃ったそうなのだが。
天子はその全てを笑いながら、受け続け。
最後に、こんな言葉を言い放ったのだという、
『え~? もう終わりなの? つまらない兎ね』
そんな残酷な一言で、てゐのプライドはガラスのように砕け散り。
傷心状態で座り込んでしまった。
「で、現在に至る。というわけですか。まったくあのお方らしいというか、なんといいましょうか……」
体の頑丈な天人だからこそ可能な遊び。
そんなものに付き合わされたてゐの方が被害者と言っていいかもしれない。その様子を思い浮かべ、乾いた笑い声を上げていると、鈴仙がまた腰のあたりに抱きついてくる。余裕のかけらもない、必死な形相で。
「でも、他の人がてゐのいたずらに引っかかれば、また元気になってくれるんじゃないかと思って。だから、お願い! あの落とし穴に落ちて!」
「あの、正直言って凄く嫌です。何が悲しくてあるとわかっているものに落ちなければいけないのか」
「私たちを助けると思って!」
「あの、とりあえず雷を使ったせいで、酷く痛み出した背中を先に治療して欲しいと言いましょうか」
「そんなのどうだっていいじゃない! ね、お願い!」
ぐいっ
「ですから嫌ですって」
「ああもう、わからない人ね! そんなこと言うと師匠のところに連れて行って上げないから!」
ぐいっ
「え~っと、その師匠というお方があそこで治療してくださる方と受け取っても?」
「そうよ、亀の甲より年の功。経験も知識もばっちりで――
ああもう、てゐ。私の耳にいたずらしないで」
ぐいっぐいっ
「――銀髪で、赤と青の配色が特徴的な服を着ている?」
「うん、そうそう、ってあなた私の師匠を知っているの?」
「ええ、たぶん。
あなたの後ろで、長い耳を引っ張っている人がそうなんじゃないかと……」
「……えっ?」
ギギギっと。
壊れたブリキのおもちゃが重い音を響かせるように。
堅い動きで振り返る鈴仙の後ろ。
もう、満面の笑みを浮かべた永琳が、彼女の長い耳を掴みながら立っていて。
「あらあら、患者さんをこんなところで足止めして、何をしているのかしら? う・ど・ん・げ?」
「し、しししししし、しし、ししょっ……」
壊れた蓄音機のように、同じ音を何度も繰り返しながら身を引こうとするが。耳をつかまれているため抵抗すらできない。
そのまま笑顔の永琳に引かれて行ってしまう。
「すみません。今すぐ診察の準備を致しますわ。それにしてもこの子ったら、私のどこが年の功なのかしらねぇ、おほほほほ」
「そ、そうですよね。お若いですよね、とても……、お、オホホホ……」
永琳が案内のもと、衣玖はやっと永遠亭に到着し火傷の治療を受けることができた。それと弟子が粗相をしたお詫びとして、服の修繕、さらに夕食まで準備してくれるという至れりつくせりな待遇。ただ、死人のような、生きるのを諦めたような瞳をする鈴仙が途中から姿を見せなくなったのだけが気がかりではあったが……
……油断して、朝まで熟睡してしまったときは一体どうすればいいのか。
ちょっと、治療してもらうだけ。それだけのはずだったのに。おもいっきり一晩を明かしてしまった。一気にいろんなことが起きすぎて、休養を欲しがる体の声に従った結果がこれだ。
(あと一日……あと一日しか)
いや、日が沈むまで、と考えれば。
時間的に言えばもう半日程度しかない。
慌てて布団から這い出し、お礼を言うために永琳を探していると、元気そうに廊下を歩く昨日の妖怪兎二人組みとすれ違う。昨日はアレほど暗い表情をしていたというのに。昨晩のうちに何があったのだろう。お礼を言うついでにそのことを永琳に尋ねてみると。
「ふふ、弟子との接し方はいろいろあるのよ」
と含み笑いを零しながら答えてくれた。
ただ、その笑みが妙に深みがあるというか、妖艶であったのが気になるところだが。
けれどそんな細かいことまで気にしている場合ではない。一刻も早く天子の足取りを追うことが衣玖にとって最も優先するべきことなのだから。
もしかしたら永琳なら何か知っているかもしれないと思い、足取りについて何か知らないかと尋ねたところ。
「そう言えば、今朝お戻りになられた姫様が、奇妙な女性を見たといっていました。湖の方へ飛んで行ったと」
その姫が戻ってきた時間を尋ねれば、まだ半刻程度しか経過していないという。
半刻!
たった、それだけ。
これはとうとう、運が回ってきたのかもしれない。
最高速には追いつけないけれど、目的地さえ絞り込めれば出会える可能性は非常に高くなる。ただ、あの湖は日中濃い霧に覆われているから。まず紅魔館から攻めた方が利口かもしれない。もし出会えなくても、一人くらいは目撃者がいるかもしれないし。
衣玖は大きく伸びをしつつ体の調子を確認してから、真新しい気持ちで空に飛び立った。
◇ ◇ ◇
「私が今から言う、三つの選択肢の中から好ましいと思われる選択肢をお選びください」
衣玖が紅魔館に到着したとき、そこは少々刺々しい雰囲気に満ちていた。
過去に一度しかここに訪れたことの彼女でも、異常だと判断できる気配をその門番が放っている。
メイド服を着た、銀色の髪の門番が。
そして衣玖がその前に着地した瞬間、有無を言わさず指を三本突き付けた。
「一番、断固拒否。二番、お引き取りください。三番、一昨日きやがれ。
さあ、どうぞ」
「できればもう少し救いのある選択肢が欲しいのですが……」
いっそのこと最初から「お通しできません」とでも言ってくれればいいのに。
今日はいけるかもしれないという期待を一気に裏切られるような、取り付く島もない言葉を浴びせられ、帽子がずり落ちそうになるほど肩を沈めた。
「だって、あなたを通すとお嬢様が不機嫌になると相場が決まっているんですもの。先日の異変の際、降り止まない雨のせいで核の部分に参加できなかったことを思い出されて」
「いえ、別にそのお嬢様と会うのが目的ではないのですが」
「あら? ではまた地震か何かで?」
「いえ、それを起こした張本人を捜索中です」
「なるほど、そういうことなの。手の掛かる主人を持つと大変ですわね」
「本来は主従関係ないはずなんですけどね。どうしてこうなったのやら……」
帽子を元に戻し、前髪を正しながら愚痴を零す
そうやって落ち込む衣玖にどこか共感するものがあったのか、咲夜は周囲にばら撒いていた気配を弱め、表情を緩める。
「それで、私があの天人の居場所を知っているか。そのことを尋ねたいと?」
「ええ、できれば詳細に」
「残念だけど、私がここに来たのはほんの少し前。交代してから一番目の客人があなただった、だからお答えできる情報は持ち合わせてはいないのよ」
「そう、ですか……
あ、でも。交代したということは、それより前は別の人がいたということですよね。前回ここを訪れたときは緑色の服を着た方がいらっしゃいましたし。何故か気持ちよさそうに眠っておられましたけど」
「……美鈴ね。彼女なら確かに見ているかもしれないわ。けれど今は大事な、別の仕事中でね」
それは困る。
こっちは少しでも生きた情報が欲しいというのに。しかしこの周囲でまともな情報が得られそうな場所といえば、視界の悪い霧の湖しかないので証言もあまり期待できない。となると、やはり咲夜が変わる前にいた門番が何か見ていないか。
どうしてもその情報が欲しい。
「あの、どうしても時間を割いていただくということはできませんか?」
「……そうね、そこまでいうのなら。一度話を通してみましょう。聞き入れてもらえるかどうかはわかりませんが」
その声が全て衣玖の耳に収まるより早く。
彼女の姿が、幻のように忽然と消える。一度手合わせしたことがあるのでこの能力についての知識は備えている。けれど時を止めるという行為を頭で理解できたとしても、目の前でその不可思議な現象が起きればどうしても眉を潜めてしまう。
そうやって戸惑っているわずかな時間のうちに。
「会話をするくらいなら構わないそうです。ただし部屋まで来るようにと」
「っ!? あ、ありがとうございます」
再び現れた咲夜が、無表情にそう告げてくる。
けれど、やはりこの登場の仕方は心臓に悪いこと悪いこと。感謝の言葉を伝えながらも、思わず身を引いてしまうという体たらく。
しかし咲夜にしてみれば、そうやって驚く客人を見るのは日常茶飯事。
特に気を悪くすることなく、庭で花壇を手入れしていた妖精メイドを呼び寄せた。首を傾げる妖精に門番をするよう言い聞かせると、衣玖を連れて屋敷の中へ。
彼女を先導し、地下へと潜る階段を進む。
その後も彼女の使えるべき主がいる部屋とはまるっきり正反対の道を、客人の歩幅に合わせて進み続けた。そうやって幾許も経たないうちに、意外と早く終着点に辿り着く。衣玖たちの身長を祐に超える、見上げるほど大きな扉の前。
ここで衣玖と並ぶように止まるということはこの先に、美鈴という門番いるということになる。
「一つだけ忠告をさせていただきます。
くれぐれも、幼い姿をした吸血鬼。フランドールお嬢様には失礼のないように」
「そのつもりですよ。下手を踏みたくもありませんし、あまり長居をするのも失礼でしょうし」
「懸命です。それとこれは私の純粋な疑問なのですが」
咲夜はそう言いながら、衣玖の後ろに回り込み。
その奇妙な物体を指差した。
「その背中の。
不自然なくらい大きなウサギの刺繍の意味は?」
「……お願いだから、聞かないでください」
『服の破れ方が、ウサギの顔の形に似ていたから、つい出来心で♪』
そんな竹林の賢者の個人的な趣味で修復された背中には。
つぶらな瞳のアップリケが異様な存在感を放っていたという。
◇ ◇ ◇
コンコン
「失礼します、妹様」
咲夜によって開かれた、その部屋はとても可愛らしい空間だった。赤を主体としているようで絨毯もベッドも、ティーポットですらどこかに赤に属した何かが散りばめられている。テーブルに置かれた上品な一輪挿しの花瓶の中にある花も、真紅の薔薇。まるで人の血液を啜ったような、吸血鬼の一族に愛でられるために生まれてきたような鮮やかな色彩。
と、そんな赤い部屋の中に。
「あのー、フランドールお嬢様?
お客様が部屋に入ってきたら優雅に迎えるのが常識ってさっきおっしゃってませんでしたっけ?」
「あら、美鈴。状況は刻一刻と変わるものよ?」
「あはは、刻一刻で変わる常識って……」
「むー、文句ある?」
「あ、いたっ! ですから三つ編を掴むのは駄目ですって! 本当に痛いんですから」
緑色の点があると、凄く目立つ。
人間で言えば十分に大人の女性と言えるべき体躯の、見覚えのある服装をした人物。幻想郷の中を飛び回っていたとき彼女だけ異質な服を着ていたので、彼女の記憶にも姿だけは残っているし、先ほど美鈴と名前も呼ばれていたから間違いない。
衣玖はさっそく問いかけようとするけれど。
「え~っと、どうやって話を振れば……」
四つん這いになり、フランドールと呼ばれる吸血鬼を背中に乗せた。
『お馬さんごっこ』状態の相手にどうやって話を切り出せばいいのか。それに加えて、フランドールは邪魔と言わんばかりに衣玖を威嚇し続けているし。
「ふふふ、私の圧倒的な存在感の前に、声もないようね」
うん、確かに圧倒的だ。
圧倒的に、可愛いというか。微笑ましいとかいう意味で。
頼りだった咲夜はというと。
美鈴の背中の上で威張り散らすフランドールを瞳の中央に捉えたまま、手を胸の前で組み。蕩けた表情のまま放心状態。それが凄く幸せそうで。
本当に、別の意味で声を掛けづらい空間が仕上がっていた。
しかしここで停滞していては意味がない。
「えーっと、あの美鈴さん? さきほど咲夜さんから聞いたかと思うのですが。少しお尋ねしたいことがありまして」
「あら、美鈴は私と一緒に遊ぶのに忙しいの。後にしていただけない?」
「しかし、先ほどは会話だけなら良い、と」
「だから、気が変わったの。物分りが悪い子は嫌いよ」
自分勝手な滅茶苦茶な理屈。
それを恥じることなく口にしながら、フランドールは美鈴の上から飛び降り、舐め回すように衣玖の姿を凝視。その後何を思ったか一枚のカードを服の中から取り出し、見せ付ける。
「要求を通したいなら、力を見せる。それがこの世界のルールなのでしょう?」
「本当にもう、余計な時間は使いたくないのですが……」
そう言いながらも、衣玖も同じようにスペルカードを取り出した。このわがままなお嬢様を黙らせるには力づくでやるしかない。そんな結論に至らざるを得なかった。
横にいる咲夜が正気に戻ればなんとかなるかもしれないけれど。
「スペルカードは、4枚。先に使い切ったり、降参した場合は負け。それでよろしいですか?」
「いいよ、でもまだ条件を忘れてる。
泣き叫んだり、壊れても負けだからね? おねーさん♪」
そうして二人は同時に、空中にスペルカードを展開し。
色鮮やかな弾幕戦の火花を――
ひょいっ
「それまでです。フランドールお嬢様」
物理的に妨害する影が一つ。
発動させようと魔力を込めていたフランドールのカードを、背の高い女性が後ろから奪ったのである。瞬間、遊びを邪魔されたフランドールから物凄い量の魔力が溢れる。この小さな体のどこにそんな力が眠っているのかと目を疑うほどの。しかしそのカードを持っているのが美鈴と知り、大人しく魔力を抑え彼女の服を力一杯掴む。
「返して! ねえ、返してよ!」
「ダメです、どうなるかと思って黙って見ていたら。お客様といきなり喧嘩するなんて! そういうのはお嬢様のするべきことではありません」
体を揺らしてくるフランドールの力を綺麗に受け流し、平然とした表情のまま立ち続ける。
その右手に取り上げたカードを掲げたまま。
「ケンカじゃないもん。決められたルールの中の勝負だもん。
あいつとだって、スペルカードは四枚までって約束したし!」
「でも、フランドールお嬢様は先にあの人との約束を破った。私も聞いてましたよ。話をするだけなら我慢する、そうおっしゃっていたはずですし」
「それとこれとは話は別!」
「一緒です」
美鈴は体を屈め、カードを右手から左手に移動させた。
手の届く位置に目的のものが見えたフランドールは、それを目で追う。そんな少女の視界が、横にスライドさせている左手に集中したのを見計らい。
「えぃ!」
視界の外から右手を素早く動かし、フランドールの額の前にセット。
彼女がそれに反応するより早く。
親指を、丸めた人差し指で弾く。
いわゆる、デコピンを彼女の額にお見舞いした。
「いつっ! 何するのよ、美鈴!」
「約束を簡単に破る悪い子にお仕置きをしただけです」
「ふん、いーんだもん! あんな馬鹿面の約束くらい」
「そうですか、じゃあ私も、フランドールお嬢様と遊ぶ約束、全部なしにしちゃいますから」
「う゛~~~~~~~っ!」
見知らぬ誰かとのスペルカード勝負と。
彼女の小さな意地と。
美鈴と遊べなること。
その三つを心の中で天秤にかけたフランドールは。
ふんっと鼻を鳴らしながら、入り口を指差した。
「いいわよ、でも! この部屋で私を抜きにした話なんて許さないから!」
「わかりました、少し廊下をお借りします」
譲れない意地が最後に下した判断は。
そんな小さな抵抗だった。
「ああ、なるほど。あの妙な女性をお探しでしたか。着ましたよ私が門番をしていたときに」
「本当ですか! それはよかった。それで何をしにここにいらっしゃったのでしょう?」
「どうやら弾幕ごっこがしたかったみたいですよ。私と三戦ほど手合わせして満足したようですから」
「暇つぶしに弾幕ごっこですか、実にあのお方らしい……」
本来弾幕ごっこは交渉が上手くいかないときの交渉手段の一つとして使われる。仕方ないからやろうか、程度のものなのだが。それを天子は単なる遊びと解釈しているらしい。
「それで満足したようで、また違う場所へ行きましたけどね。あまり留まり過ぎると、あなたに居場所がばれる。きっと怒られるとも」
「ははは、ばれちゃってましたか。どおりで……」
警戒されていたから、天子は執拗に移動を繰り返しながら遊んでいる。ということだろうか。
そしてばれていると言えば。
「あの美鈴さん、後ろ、よろしいのですか?」
美鈴の後ろの大きな扉。
それが2寸ほど開き、紅い瞳がおもいっきりこちらを凝視している。つま先をコツコツと地面にぶつけるという、苛立ち音のおまけ付で。
しかも分厚いはずの扉を掴む手から、固い物にヒビが入るような破砕音が聞こえて来るし。
「可愛げがあっていいじゃないですか」
「あれを可愛げがあるだけで片付けますか」
「それより、その天人の情報の続きはどうします?」
「え、もしかして行き先をご存知とか?」
「いいえ、飛んでいった方角くらいしかわかりませんね」
「ああ、やっぱり……」
警戒しているのなら、下手な情報は残さない。
こんな状況なら日暮れまでに捕まえられる可能性は、限りなくゼロに近いだろう。これでは確実に竜神のお仕置きの餌食になってしまう。
そんな諦めのつぶやきを漏らす衣玖だったが、美鈴は腕を組み不敵に笑う。
「でも、早く帰らないとご両親が心配しますよ、って私が言ったら。日暮れ前には天界に戻る。なんてことを言ってたんですよ」
「日暮れ前! そう言っていたんですね!」
「ええ、それを待ち伏せするのがいいかもしれません。あなたの空を飛ぶ速度はお世辞にも……」
「……わかってます。なので天界で待ち伏せする案を採用させていただきます」
「日暮れまでに、捕まるといいですね。永江さん」
そうやって手を振って見送ってくれる彼女に、衣玖は何故か違和感を感じつつも天界へと戻った。その後は雲の中に身を隠して根気良く機を待ち続け、見事天子を捕まえて見せたのだった。
◇ ◇ ◇
天界のとある一角。
竜神の世界と人間の世界への入り口の一つはそこにある。
雲と青空しかない風景に見えるこの場所だが、意識を集中させながら手を伸ばせば水面のような波紋が生まれた。
この歪こそが入り口、『龍』のために存在する世界への。
竜神以外では竜宮の使いしか入ることができない世界。
しかし、今回は竜神の希望により幻想郷で無礼をはたらいた天人が呼び出された。
きっと今ごろ、あの上から押さえつけられるような威圧感と戦いながら説教を受けているのだろう。
(総領娘様、申し訳ありません……)
そして、同僚があれほど恐れた、罰というのも与えられているに違いない。
その光景を見たくなかった衣玖は、天界に残って天子の帰りを待っていた。
(きっとあれだけ泣き咽ぶということは……)
きっと我慢できない激痛を長時間受け続けたり。
精神を破壊されるような、酷い映像を見せられたり。
もしかしたら、想像を絶するような責め苦を味あわされ――
「わぅっ!?」
「はぅっ!?」
想像の中で恐怖を増幅させていると、いきなり天子が何もない空間から落ちてきた。高さは衣玖の身長ほどなので天人であればまったく問題にならない落下の衝撃である。むしろ、いきなり天子が現れたので衣玖の方が精神的ダメージを受けてしまったくらい。
「もう、なんなのよもう! 人のこと説教したと思ったら急に放り出すなんて!」
尻餅をついてから不満そうに起き上がるが、やはり肉体的なダメージはほとんどないようだ。
ん? ダメージが、ない?
「あ、あの、総領娘様。龍神様から何かされなかったのですか?」
「されたわよ、見てよ衣玖!」
そういいながら、帽子を取り。
前髪を掻き上げて額を見せた。
するとそこには、ほんのりと赤くなった点が一つ。
「なんか雲の中から人の手が生えてきたと思ったら、ぴんっ! ってこう私のおでこを弾いてきたのよ! 悪い子にはお仕置きとかいいながら」
「それだけ、ですか?」
「ええ、それだけ。凄く痛かったわ。竜神か何かしらないけれど。私を天人と知ってのあの振る舞い! 許せない!」
(……え? それは、どういう)
信じられない。
もっと厳しい罰だと思っていたのに、でこぴんだけ?
龍が? 天下の龍神様が?
「でも、衣玖も大変ね。あんなのが上司なんて」
「まあ、大変といえば大変ですね」
「今回はあいつに命令されて、無理やり私を連れてきたんだろうからお咎めなしにしてあげるけど。私をこれ以上貶す事があれば、比那名居の家系が黙っていないと知りなさい」
「ええ、天人様とは今後とも仲良くしたいので」
額を摩りながら家の方へと飛んでいく。その小さな体を見送りながら、衣玖は自分の前髪をぐしゃりと掴んだ。
そう、天人との今後のつながり。
それを気にしながら、それでも竜神の命令に従い。竜宮の使いに恥じない仕事をする。それが本来の彼女の立ち居地。本来の自分らしさ。
なのに、それすら崩す勢いで立ち回り、罰を必死で回避しようとした。
その結果が、回避しようとしたものが単なるデコピンだなんて自分が馬鹿らしくなってくる。
(そうですよねぇ、初めから罰がその程度と理解していれば)
何も行動しなかったし、甘んじでそれを受けただろう。
そして、自分が望む場所に。
自分が望む仲間と共に。
ただ変わらぬ毎日を行く。
赤白の巫女と白黒の魔法使いのような。
悪口すら毎日の香辛料と変えてしまう、腐れ縁。
兎の妖獣たちのような。
狂うほど仲間を思いやる、連帯感。
あの館の吸血鬼にの周りに集う。
姉妹のような、それでいて家族のような、温もり。
自分というものをしっかりと持ち、生き生きと暮らす地上の人間や妖怪たち。
それのなんと眩しい事か。
それを知らずに、ただ形だけの。上辺だけの友人たちとの、くすんだ色の楽しい世界。それが自分の世界だとずっと思い込んでいただろう。
手を伸ばせば、自分も手に入れられたはずなのに。
怖かったから、空気を読んだ。
その場でどうあれば、荒波が立たないか。嵐が起きないか。
脅えながら、周囲の顔色を伺いながら。
「まったく下界というのは、おそろしいですね。総領娘様が惹かれたのは、こういうことなのでしょうか。龍神様が私に戯れのような罰を与えたのは、あの世界を見せるためだったのでしょうか」
もしそうなら、なんて残酷な。
あんなものを知ってしまったら。
もう、戻れるわけがないじゃないですか。
衣玖は、何かを思い出したようにくすくすと微笑みだすと。
同僚たちのいる竜宮の使いの住処へと戻っていった。
自分の気持ちに整理を付けるために。
「えー、本当に? 何それぇ。衣玖ちゃんったらカワイソー」
「あーあー、あの優等生らしいねぇ。ははっ、馬鹿みたい!」
「でしょー、うけるよねー!
まさか本当に信じるなんてさ! そんな酷い事されたら、龍神様の側にいるわけないっての!」
「昨日はここに帰ってきてなかったって聞いてるし、どれだけ必死なんだよっ! って話だよねっ、ホント知識があるだけの馬鹿はこれだからさぁ」
衣玖が地上に降り立つ前に相談した竜宮の使いと、取り囲むように並ぶ三人。合計四人がお腹を抑えたり雲を叩いたりして、彼女を笑い続けていた。
娯楽の少ない空ではこうやって他人の失敗談を噂して回る、厭らしい集団がいた。それでもその四人は比較的に竜宮の使いの中でも古株なので、新しく生まれた者たちは簡単に逆らうこともできず。彼女たちの言葉を信じてしまう。
今回はその標的が、衣玖だっただけ。
「大体あの子、むかつくんだよね~。すかした態度とってさ、どっちつかずの意見しかいわないし。我がないっていうの?」
「あ、わかる。必死に仲のいい同僚の立場を保とうとするんだよね。うざいだけだっての」
「えー、みんなこわーい。私も嫌いだけど♪」
「あんたが一番毒舌な癖に、さてさて。そろそろあっちの様子見に行ってみる? 必死に天人追っかけ回してた、馬鹿を見学にさ」
「あー、いいねー。それ最高! そして、悔しそうにしてるあの子を慰めてあげるの~♪」
「ははは、何クネクネしてるんだよ、気持ち悪い」
何も知らない子を食い物に、遊ぶ。
そんな馬鹿を一度でも。『 』だと思い込んでしまった。
「ね、ねぇ、ねぇ。ちょっと聞きたいんだけどさ」
「何よ、急に。そんなマジな声出して?」
本当の『 』はもっと暖かいというのに。
ケンカしても、一時の感情で憎みあっても、必ず最後には手を握り合えるような。
「私、あんまり外の世界とか出ないから、そういうやついるのかどうかわからないんだけどさ」
「だから何よ、はっきりいいなさいよね」
「わ、わかった。じゃあ言うよ?」
だから彼女は、一歩だけ前に進むことにした。
もしかすると一度踏み出したら、過去の関係には戻れないかもしれないけれど。
「背中に大きな兎のアップリケをつけた竜宮の使いなんて、いないよね?」
「え?」
「なに?」
「そんなやついるわけなっ!?」
「いるんですよ、冗談ではなく。本当に」
その日、天を大きなドリルが貫き。
激しい稲光が何度も、何度も、空を彩ったのだという。
それからというもの、衣玖に好んで会話を振る仲間は少なくなってしまった。
その事件が起きる前の、半分以下。
下手をすると四分の一くらいかもしれない。
少なくなったせいで彼女の毎日を孤独に過ごし、荒んだものになっているのではないか。単純な数で言えばそうなるかもしれないけれど。
(これが本当の『仲間』そういうものなんでしょうか)
昔のように、脅えることもなく。
心休まるときを満喫することができる。
他愛もない話を、半日ずっと続けられるような、そんな関係まではまだ到達していないけれど。今のように心許せる友人が入れば、悠久に近い寿命が少しくらい短く感じるかもしれない。
それに――
「衣玖、今日も地上に行くわよ!」
「はい、かしこまりました。総領娘様」
きっと、この我侭天人の側にいられるのなら、本当に一生などあっという間なのだろう。
毎日が突拍子もなくて。
毎日が冒険の連続で。
そして、毎日が楽しすぎて。
追記
「……また美鈴が門番をサボってどこかに出掛けていたんですって?」
「ええ、そのようです、レミリアお嬢様。昨日の夕方から夜の数時間程度ですが」
「まったく、困ったものね。少し前にも同じことがあった気がするけど?」
「はい、その前日の朝も同じように、抜け出していますわ」
まったく、美鈴のさぼり癖にも困ったもの。
レミリアは、ふぅっと紅茶に息を吹きかけてから、瞳を軽く閉じる。
「それで、問い詰めた結果は?」
「それが何ともよくわからないことを言うばかりで。
天に上る気分を味わっていた、と」
「……別な場所で眠っていて、気持ちよかったからそんな気分になっただけ、きっとその程度ね」
その結論が正しいかどうか。
それはわからない。
真実を知るのは美鈴一人だけなのだから。
衣玖さんが色々な所に行くのですが、各所ごとの描写をもう少し深くした方が良かったのかな、って思いました。
永遠亭で治療してもらった後に、次のシーンで一晩を明かしてしまった、って辺りで違和感。
そこは永琳が休んでいきなさいって台詞を言わせたりしないと、いけない気がしました。
あとは、衣玖さんの先輩が「アップリケ」について、尋ねてるときの、衣玖さんの立ち位置が矛盾してるのかなーって。
でも衣玖さん哀れ;ww