息が荒い。
既に暗く沈みかけた視界に映るのは白と赤。
人里の裏路地の石畳。
これが白だ。では赤は?
己の腹に開いた穴から流れる命の源。
これが赤だ。
「幽々子……さま……」
呟く言葉は弱々しい。
ただ、流れる赤を見て、死ぬという事を悟った。
彼女に出会ったのはほんの偶然。
人里に出かけた時に、ならず者達に絡まれているのを助けた事がきっかけだった。
一人目を投げ飛ばし、二人目を叩きのめし、三人目を蹴り飛ばし、黙らせた。
その際に付いた服への汚れを払っていると、逃げなかった彼女と目が合った。
鮮やかな腰まで届く赤い髪に、黒いベストとスカートが良く似合っていた。
やや大人びた顔つきのその子の頭と背には二対の蝙蝠の翼が羽ばたいていた。
そう、彼女は悪魔だったのだ。
「酷いですよね!」
お礼代わりにと、誘われた甘味所で彼女は不満を漏らしていた。
「悪魔だからっていやらしい事が好きなわけではないのに」
ぷりぷり怒るその様子がみょんに子供っぽくて顔が緩むのを抑える事ができなかった。
それが彼女……小悪魔との出会いだった。
週に二回ほど私は人里へと買い物に出かける。
その際に、まるで計ったかのように彼女に出くわすのだ。
「こんにちわ、妖夢さん!」
いや、どのような方法かは分からないが、実際は計っていたのだと思う。
まあ、不快ではなかった。むしろ私も楽しみにしていたからだ。
「可愛い小物が売っているお店があるんですよ!」
なぜなら、彼女は私の知らない事をたくさん知っていたからだ。
可愛い小物のお店。おいしい甘味のお店。綺麗な洋服のお店。楽しい寸劇のお店など。
おおよそ、剣一筋で生きてきた私には無縁で疎い事ばかりで、それがとても新鮮だった。
「これなんかどうですか? いえいえ、似合いますよ!」
初めて体験する、おそらく年頃の乙女のような体験に私の心は躍った。
幽々子様と共にいる時とも、異変を解決に向かう時とも違う。
些細な事で愉快に笑ったり、悲しんだり、そんな世界に私は夢中になっていった。
小悪魔と出会って一ヶ月もすると、人里に買い物に出るのが楽しみになっていた。
週に二回だけ、また時間も大して取れない事がよりその感情に拍車をかけていたのかもしれない。
「妖夢、ちょっといらっしゃい?」
いつもの様に庭の掃除をしていると幽々子様に呼ばれた。
傍まで行くと、幽々子様は観察するように私に視線を走らせる。
疑問を口にすると幽々子様はこう言うのだ。
「ここしばらく様子がおかしいと思ったのよ。
前は本当に飾りっ気など無かったのに、今見たら……」
確かに、幽々子様の言葉は正しい。
頭に黒いリボン、緑を基調とした服装と、私自身のおおよその装いは変わらない。
だが、目に見えぬところ。
たとえば髪に隠れた耳や首元などには小悪魔の選んでくれたピアスなどの装飾品を付けている。
小悪魔に教えてもらい薄く化粧もする様になった。
「未熟者が色気付いたのかしら? いえ、未熟だからこそ誘われてしまったのね」
おっしゃる意味が分かりませんが?
「悪魔は堕落をもたらす物」
……それは。
「だけど、貴方くらいの年頃はそう言うことに興味を示すのも確か。
あの子……貴方のお友達もそんなつもりはないみたいだけれど程々にしなさいね」
言葉の流れからてっきり説教でもと思ったけれど、心配してくれていたみたいだ。
……あれ? 小悪魔の事は話していない筈なのに……まあ、何でもお見通しでも不思議じゃない。
大丈夫です。私は自分の役目を見失うような事は致しません。
「ならば良いのだけれど」
でも幽々子様もよく気が付くものだ。なるべく見せぬように気をつけていたつもりだったけど。
とっくに悟られていたらしい。私もまだまだ未熟という事かな。
小悪魔に誘われて本屋に寄った。
あれこれ本を物色する小悪魔に付き合う事しばし。
彼女は図書館勤務だけあってこの時だけは真剣になる故に会話も途切れる。
だんだん暇になってきた私は何気なく手元の本を手に取る。
何気なく開いて…………
なにこれ……裸?……女同士で……その……春画本……
顔が赤くなる。すぐに閉じて戻さねばとは思うのに体が動かない。
というかなんでこんな所にこんないかがわしい本があるの?
そりゃ興味が無い訳じゃないれど、剣の道には不必要というか心惑わす邪な物で……
「あら、妖夢さんも興味あるんですね、そう言うの」
言葉に体が痙攣するのが分かった。
恐る恐る視線を巡らせると小悪魔が覗き込んでいた。
慌てて言い訳をしようにも言葉が出ずに意味不明なことを呻いてしまう。
「照れないでください、誰だって興味があって当然なのですよ。
あ、恥ずかしいんですね。大丈夫、私が買いますから任せて」
何でそうなるの!?
「照れなくてもいいんですよ。
幽々子さんとそうなった時に必要ですからね」
違う!幽々子様とは主従であって、また育ての親でもあって……
いやいや、もっていかないで~。買わなくていいから!
「はいどうぞ!」
春画本の入った紙袋を押し付けられてしまう。
何事も無かったかのように歩を進める小悪魔を慌てて追う。
結局そのまま買い物は続行した。
が、返すタイミングを失い、捨てるわけにも行かずに持って帰ることになる。
机の引き出しにしまう。
鍵をかける。これで大丈夫。
この春画本は邪な物、もう永久封印だ……封印……
……でも……ちょっとだけなら……いやいや妖夢……
(あら、妖夢さんも興味あるんですね、そう言うの)
……ないから……でも誰だって興味があるって……いやいや妖夢……
(照れなくてもいいんですよ。
幽々子さんとそうなった時に必要ですからね)
……だから駄目だって……いやいや妖夢……うるさい私……
気が付いたら夜が明けていた。
どうやら悩みながら眠ってしまったらしい。
ただ引き出しは鍵がかかったままだったので私は煩悩に打ち勝ったのだ!
………たぶんね……さて……幽々子様が起きる前に洗濯しなくちゃ……
その日、小悪魔がやけに浮かれていた。
いつもの甘味所で舌包みを打っている時も落ち着き無くそわそわし、二対の羽が盛んに動いていた。
こうして一緒に遊ぶようになって分かった事だけど、小悪魔の羽はダイレクトに感情に反応する。
嬉しければ羽ばたき、悲しければ垂れ下がる。
逆に言えば表情は怒っていても羽ばたいていれば嬉しいのだ。
悪魔なのに嘘が苦手とか言っていたのも分かる気がする。
まあ、そんなわけで彼女の羽はせわしなく風を巻き起こしている。
「え、何があったかですって?」
頬に手を当て照れたように頭を振る小悪魔。
いや、聞いて欲しそうだったから。すっごく聞いてよオーラみたいの出してたから。
「あのね、ご主人様と本契約を結んだの!」
小悪魔のご主人。悪魔の館の図書館の主。
本契約がなんだか分からないがともあれおめでとう。
「ありがとう」
照れたように笑う彼女。初めて見せた表情に釣られた様に笑って。
不意に思う……。
照れたような、……普段見せないこの笑顔は彼女の主人に向けられた物なのだ。
………変だな。
小悪魔の幸せは嬉しい。
誰だって、友達が幸せに成る事は望むべき事だ。
だけど胸が重い。
顔こそ笑えているけれど苛立つような感情が心にある。
これはなんだろう、どうすればよいのだろうか?
分からない、分からないなぁ。
冷静に考えて嫉妬なんだろうと思う。
小悪魔に対する嫉妬。自分以外にあんなにいい笑顔を見せる嫉妬。
私にとって小悪魔は始めての友達だ。
他愛ない事で笑ったり、悲しんだり、愚痴りあったり。共に買い物をしたりして。
この前は春画本なども押し付けられたけど、不思議と恥ずかしかったけど嫌な感じはしなかった。
ただの知り合いは……そうたくさんいる。
異変で知り合った博麗の巫女や普通の魔法使い、完全で瀟洒なメイドなど。
彼女等とは知り合いで合って友達ではない、他愛ない事で笑い合ったりもしないし遊んだりもしない。
ほかならぬ小悪魔だからこそ、私はこんな感情を抱いている。
友達が取られてしまったような嫉妬。本当に卑しい感情。
「……夢。……妖夢!」
……幽々子様?
「何をしているのよ?
紫が来ているのにお茶も出さないで」
気が付かなかった……申し訳ありません。
不愉快そうに幽々子様が息を吐く。
「ほどほどにしなさいといったでしょう?本当に妖夢は未熟なのだから」
返す言葉も御座いません。
今、お茶を用意いたしますので。
「もういいわ、私が用意しましたから」
……申し訳ありません。
本当に未熟で役立たずですね、私。
「本当に役に立たないのね。心此処に在らずといった感じだわ」
追い討ちの様に言葉が刺さった。
「何か言い返さないの、いつもの様に」
珍しく、本当に珍しい苛立ちを含んだ声が聞こえる。
情けなくて、悔しくて、心が軋んだような気がした。
冬晴れの空を眺めていると小悪魔が声をかけてきた。
「元気がないですね……」
小悪魔の言葉に力なく頷く。。
あれほど私の心を惑わせていた嫉妬の波は去り、今は鈍い何かが心に残る。
少なくとも小悪魔の前では通常通り振舞えるまでには落ち着いていた。
「いろいろ失敗しちゃって」
あれから、何をしてもうまくいかなかった。
いつもなら難なく出来る事が出来なくなっていた。
食事の準備、お風呂の用意、さりとて自身の訓練でさえうまくいかない。
「幽々子様とも喧嘩してしまうし……」
怒られた。
普段は飄々としている幽々子様が、本当に感情を露に怒ったのだ。
初めての事で動揺した私は、全て自分が悪いはずなのに何故か言い返してしまった。
何の道理も通っていない感情に任せた反論。
とぼけていても頭の良い幽々子様だ。的確に反論の穴を付いて飛んでくる言葉に私は何も言えなくなって……。
飛び出してきてしまった、白玉楼を。
其処まで考えて、事の重大さに頭が痛くなる。
どうしよう……解雇されてしまうかもしれない……
行くあてなど無い。
「妖夢さん」
言葉に首を巡らせると笑顔があった。
小悪魔の笑顔。でも、違う笑顔。
私が向けて欲しい笑顔じゃない、また、胸がざわめいて……
それを抑えようと、締め出そうと考えて。
考えれば考えるほど訳が分からなくなる。
頭が痛い。心が苦しい。
もう、何で悩んでいるのかもよく分からくて。
不意に、小悪魔の腕が伸びて、頭にかかって。
そのまま、柔らかいものに包まれた。
抱き寄せられた、と感じるのに数秒。
そして……
「辛かったですね」
言葉に、何かが崩れた。
口から勝手に呻き声が漏れた。
瞑った目をこじ開けて雫が落ちてくる。
我慢していた何かが零れて溢れて、全て流れていく。
現金なものだと自分でも思う。
泣いたら、あれほどわだかまっていた心のもやもやが随分と無くなっていた。
小悪魔には全て話した。
嫉妬していた事も、幽々子様と喧嘩した事も。
弱いと思った。
自分はこんなにも弱いのだと。
剣の道を追い求め、ただ潔癖であろうと。
それが強さに繋がると思っていた。
でも、それは知らないだけだったのだ。
何も知らない故の強さだったのだ。
己の中の醜い感情も、性根からの未熟さも。
剣の道以外の楽しみも、友達と過ごす嬉しさも何も知らない強さだった。
それはとても脆い強さで、知った今、見事に根元から折れたのだ。
「頑張ってください」
笑顔で小悪魔が見送ってくれる。
今までの私の強さは折れてしまった。
だからまた作り直さなくてはいけない。
……戻る所は初めから一つしかない。だから戻ろう。
どれほど酷い事を言われても頭を下げよう。
許してもらえないのなら許してもらえるまで頭を下げ続けようと。
戸を開いて、感じたのは酷い酒臭さだ。
空瓶が幾つも転がっており、埋もれるように幽々子様が倒れていた。
慌てて抱き起こすとぼんやりとした目をこちらに向ける。
「あ~妖夢だ」
そのまま幼子の様に笑うと首に腕を絡めてくる。
酔っている。これ間違いなく酒に飲まれていた。
おかしい。
いままで何度もお酒の相手をしているが、ここまで酔ったのを見たのは初めてだ。
「妖夢!」
強く呼ばれて視線を移す。
目と目が合って、そうしたら幽々子様は嬉しそうに笑う。
「やっと、私を見てくれた」
幽々子様の腕から力が抜けて、慌てて支えると甘えるように頭を胸に寄せてくる。
「居なくならないわよね? 妖夢は」
その唇がそう告げるのを確かに聞いた。
居なくなりませんと告げると、安心したように笑んで、瞳を閉じる。
安らかな寝息が聞こえる。眠ってしまったようだ。
幽々子様を胸に抱えたまま、ただ寝顔を眺める。
安らかで、無邪気で、まるで……
「夢を見ているようね、いや、見て……いるの」
何時の間にやら目の前に彼女が居た。
鮮やかな、その名の通りの紫色。
八雲 紫様。
幽々子様の親友。
「幽々子はね、桜の下で孤独な少女が見ている幸せな夢」
謳うように告げる。
ただ、その表情は静謐で、とても悲しげに見えた。
「全ての苦悩から解き放たれた、永遠の幸せが続く夢」
意味はよく分からない。
だけど余りにも語る声が悲しみに満ちていたから……何もいえなくて。
「でもね、失ってしまったの。永遠に続く筈の夢のひと欠片が消えてしまった」
そこで、紫様は言葉を切った。
視線は一瞬、此方に、否、私が携える二振りの剣に向いて。
おそらく……二振りの剣の前の持ち主に向いて。
「幽々子がここまで荒れたのはその時以来だわ。
もう、戻ってこないかも知れないと考えて、それを誤魔化そうとしたのね」
信じられない。
幽々子様はいつも飄々としていて、何事にも動じない、そんな人だったはずだ。
少なくとも自分の前ではずっとそうだった。
でも、実際は違ったのかもしれない。もしかしたら、あの時。
祖父が居なくなった時に一番嘆いたのは……たぶん幽々子様だった。
その時はまだ……これは傲慢になるかもしれないけど……私が居たから平静を装えた。
でも、今回は、私が居なくなってしまうと思ったから、だから……
「ねえ、魂魄妖夢。妖忌と同じく、何時か消えてしまう夢のひと欠片」
紫様が此方を見ていた。
その視線に宿る力は強く、何よりも真摯だった。
「でも、どうかそれまでは、幽々子に夢を見せてあげて欲しいの」
真摯で、でも何故か泣き出しそうに見えて。
「永遠に続くと錯覚するほどの幸せな夢を見せ続けて欲しいの」
紫様。貴方の言っていることは妖夢にはよく分かりません。
ですが、唯一つだけ、確かな事があります。
妖夢はこの身を賭して、生涯、幽々子様の傍にお使え致します。
冥界一の盾として、あらゆる苦難から……その身を蝕む孤独も、悲しみも何もかもからも。
我が主 西行寺 幽々子様をお守りいたします。
ですから、ですからそのような悲しいお顔をなさらないでください。
最近知った事ですが友人の悲しみは本人の悲しみ、幽々子様が起きていたら共に悲しむでしょう。
ですから、ですからそのような悲しいお顔はなさらずに……逆に……
「そうね、ありがとう。妖夢」
そうして、紫様が、笑みを浮かべた。
息が荒い。
既に暗く沈みかけた視界に映るのは白と赤。
人里の裏路地の石畳。
これが白だ。では赤は?
己の腹に開いた穴から流れる命の源。
これが赤だ。
「幽々子……さま……」
呟く言葉は弱々しい。
ただ、流れる赤を見て、死ぬという事を悟った。
腹を抑える手の、指の間を縫ってただ地面を赤く染めていく。
その先に男が倒れていた。
見覚えがある。小悪魔を助けたときに叩きのめした男だ。
もっとも、今も仲間ともども私に叩きのめされて地面を張っている訳だが。
その手に、見慣れぬ鉄の機械が握られていた。
奇妙な形をしている。知識の上では知っている。
あれは鉄砲という物だ。
ずうっと前に、みょんな事から知り合いになった永遠亭の者に見せてもらった事がある。
人里について、いきなり数人で囲まれて、迷惑になると路地裏についていって。
もちろん勝算はあった。不意でも打たれぬ限りこの程度の烏合の衆、幾ら集まっても蹴散らせる自身があった。
今の私にはもう、先日の様に迷いなど何も無いのだ。
かくして何事もなく叩きのめして終わらせるはずのこの出来事は、男の持っていたこの鉄砲によって崩れた。
後ろからいきなり撃たれた。殺気も何も感じなかった。
気がついたら腹から血が流れていて、男達が襲い掛かってきて。
夢中で抵抗して、気がついたらこの様だった。
建物の冷たい感触を背に感じる。
感覚が酷く希薄で、視界が暗くなってくる。
ずっと一緒に居ると、改めて誓った翌日にこれとは運命と言うのも意地が悪いと思う。
これでは出来の悪い三文小説ではないかと。
(やっと、私を見てくれた)
思い出す。あの夢見るような眼差しを。
(本当に妖夢は未熟なのだから)
幾度も向けられた呆れたような、でも暖かい眼差しを。
もう、見れない。
視界は暗く、全てが闇に染まっていく。
あの方は悲しんでくれるだろうか?
否、きっと未熟ねなどと呟いて苦笑するだろう。
少なくとも皆の前では……
そしてその後、自分が死んだ後の事を考える。
どうなるのか……どうなるのか考えて。
意識が………遠の……かない?
視界が急に開けた。
動かないと思っていた体が動き、立ち上がっていた。
回りには倒れ伏した男達、己が流した赤の溜まり。
そうだ、まだやる事がある。
死んでも死に切れない。
歩を進めよう、戻ろう。
やる事をやる為に。
満足していた。
振り絞った最期の力も使い果たしたらしくもう指一本動かせない。
やることはやった、もう大丈夫だ。
暗くなりかけた視線の先には唯一つ。
開け放たれた机の引き出しと原形を留めぬほどに切り裂かれた春画本。
立つ鳥後を濁さず、そんな言葉が口から漏れて、意識が闇へと堕ちていく。
終
既に暗く沈みかけた視界に映るのは白と赤。
人里の裏路地の石畳。
これが白だ。では赤は?
己の腹に開いた穴から流れる命の源。
これが赤だ。
「幽々子……さま……」
呟く言葉は弱々しい。
ただ、流れる赤を見て、死ぬという事を悟った。
彼女に出会ったのはほんの偶然。
人里に出かけた時に、ならず者達に絡まれているのを助けた事がきっかけだった。
一人目を投げ飛ばし、二人目を叩きのめし、三人目を蹴り飛ばし、黙らせた。
その際に付いた服への汚れを払っていると、逃げなかった彼女と目が合った。
鮮やかな腰まで届く赤い髪に、黒いベストとスカートが良く似合っていた。
やや大人びた顔つきのその子の頭と背には二対の蝙蝠の翼が羽ばたいていた。
そう、彼女は悪魔だったのだ。
「酷いですよね!」
お礼代わりにと、誘われた甘味所で彼女は不満を漏らしていた。
「悪魔だからっていやらしい事が好きなわけではないのに」
ぷりぷり怒るその様子がみょんに子供っぽくて顔が緩むのを抑える事ができなかった。
それが彼女……小悪魔との出会いだった。
週に二回ほど私は人里へと買い物に出かける。
その際に、まるで計ったかのように彼女に出くわすのだ。
「こんにちわ、妖夢さん!」
いや、どのような方法かは分からないが、実際は計っていたのだと思う。
まあ、不快ではなかった。むしろ私も楽しみにしていたからだ。
「可愛い小物が売っているお店があるんですよ!」
なぜなら、彼女は私の知らない事をたくさん知っていたからだ。
可愛い小物のお店。おいしい甘味のお店。綺麗な洋服のお店。楽しい寸劇のお店など。
おおよそ、剣一筋で生きてきた私には無縁で疎い事ばかりで、それがとても新鮮だった。
「これなんかどうですか? いえいえ、似合いますよ!」
初めて体験する、おそらく年頃の乙女のような体験に私の心は躍った。
幽々子様と共にいる時とも、異変を解決に向かう時とも違う。
些細な事で愉快に笑ったり、悲しんだり、そんな世界に私は夢中になっていった。
小悪魔と出会って一ヶ月もすると、人里に買い物に出るのが楽しみになっていた。
週に二回だけ、また時間も大して取れない事がよりその感情に拍車をかけていたのかもしれない。
「妖夢、ちょっといらっしゃい?」
いつもの様に庭の掃除をしていると幽々子様に呼ばれた。
傍まで行くと、幽々子様は観察するように私に視線を走らせる。
疑問を口にすると幽々子様はこう言うのだ。
「ここしばらく様子がおかしいと思ったのよ。
前は本当に飾りっ気など無かったのに、今見たら……」
確かに、幽々子様の言葉は正しい。
頭に黒いリボン、緑を基調とした服装と、私自身のおおよその装いは変わらない。
だが、目に見えぬところ。
たとえば髪に隠れた耳や首元などには小悪魔の選んでくれたピアスなどの装飾品を付けている。
小悪魔に教えてもらい薄く化粧もする様になった。
「未熟者が色気付いたのかしら? いえ、未熟だからこそ誘われてしまったのね」
おっしゃる意味が分かりませんが?
「悪魔は堕落をもたらす物」
……それは。
「だけど、貴方くらいの年頃はそう言うことに興味を示すのも確か。
あの子……貴方のお友達もそんなつもりはないみたいだけれど程々にしなさいね」
言葉の流れからてっきり説教でもと思ったけれど、心配してくれていたみたいだ。
……あれ? 小悪魔の事は話していない筈なのに……まあ、何でもお見通しでも不思議じゃない。
大丈夫です。私は自分の役目を見失うような事は致しません。
「ならば良いのだけれど」
でも幽々子様もよく気が付くものだ。なるべく見せぬように気をつけていたつもりだったけど。
とっくに悟られていたらしい。私もまだまだ未熟という事かな。
小悪魔に誘われて本屋に寄った。
あれこれ本を物色する小悪魔に付き合う事しばし。
彼女は図書館勤務だけあってこの時だけは真剣になる故に会話も途切れる。
だんだん暇になってきた私は何気なく手元の本を手に取る。
何気なく開いて…………
なにこれ……裸?……女同士で……その……春画本……
顔が赤くなる。すぐに閉じて戻さねばとは思うのに体が動かない。
というかなんでこんな所にこんないかがわしい本があるの?
そりゃ興味が無い訳じゃないれど、剣の道には不必要というか心惑わす邪な物で……
「あら、妖夢さんも興味あるんですね、そう言うの」
言葉に体が痙攣するのが分かった。
恐る恐る視線を巡らせると小悪魔が覗き込んでいた。
慌てて言い訳をしようにも言葉が出ずに意味不明なことを呻いてしまう。
「照れないでください、誰だって興味があって当然なのですよ。
あ、恥ずかしいんですね。大丈夫、私が買いますから任せて」
何でそうなるの!?
「照れなくてもいいんですよ。
幽々子さんとそうなった時に必要ですからね」
違う!幽々子様とは主従であって、また育ての親でもあって……
いやいや、もっていかないで~。買わなくていいから!
「はいどうぞ!」
春画本の入った紙袋を押し付けられてしまう。
何事も無かったかのように歩を進める小悪魔を慌てて追う。
結局そのまま買い物は続行した。
が、返すタイミングを失い、捨てるわけにも行かずに持って帰ることになる。
机の引き出しにしまう。
鍵をかける。これで大丈夫。
この春画本は邪な物、もう永久封印だ……封印……
……でも……ちょっとだけなら……いやいや妖夢……
(あら、妖夢さんも興味あるんですね、そう言うの)
……ないから……でも誰だって興味があるって……いやいや妖夢……
(照れなくてもいいんですよ。
幽々子さんとそうなった時に必要ですからね)
……だから駄目だって……いやいや妖夢……うるさい私……
気が付いたら夜が明けていた。
どうやら悩みながら眠ってしまったらしい。
ただ引き出しは鍵がかかったままだったので私は煩悩に打ち勝ったのだ!
………たぶんね……さて……幽々子様が起きる前に洗濯しなくちゃ……
その日、小悪魔がやけに浮かれていた。
いつもの甘味所で舌包みを打っている時も落ち着き無くそわそわし、二対の羽が盛んに動いていた。
こうして一緒に遊ぶようになって分かった事だけど、小悪魔の羽はダイレクトに感情に反応する。
嬉しければ羽ばたき、悲しければ垂れ下がる。
逆に言えば表情は怒っていても羽ばたいていれば嬉しいのだ。
悪魔なのに嘘が苦手とか言っていたのも分かる気がする。
まあ、そんなわけで彼女の羽はせわしなく風を巻き起こしている。
「え、何があったかですって?」
頬に手を当て照れたように頭を振る小悪魔。
いや、聞いて欲しそうだったから。すっごく聞いてよオーラみたいの出してたから。
「あのね、ご主人様と本契約を結んだの!」
小悪魔のご主人。悪魔の館の図書館の主。
本契約がなんだか分からないがともあれおめでとう。
「ありがとう」
照れたように笑う彼女。初めて見せた表情に釣られた様に笑って。
不意に思う……。
照れたような、……普段見せないこの笑顔は彼女の主人に向けられた物なのだ。
………変だな。
小悪魔の幸せは嬉しい。
誰だって、友達が幸せに成る事は望むべき事だ。
だけど胸が重い。
顔こそ笑えているけれど苛立つような感情が心にある。
これはなんだろう、どうすればよいのだろうか?
分からない、分からないなぁ。
冷静に考えて嫉妬なんだろうと思う。
小悪魔に対する嫉妬。自分以外にあんなにいい笑顔を見せる嫉妬。
私にとって小悪魔は始めての友達だ。
他愛ない事で笑ったり、悲しんだり、愚痴りあったり。共に買い物をしたりして。
この前は春画本なども押し付けられたけど、不思議と恥ずかしかったけど嫌な感じはしなかった。
ただの知り合いは……そうたくさんいる。
異変で知り合った博麗の巫女や普通の魔法使い、完全で瀟洒なメイドなど。
彼女等とは知り合いで合って友達ではない、他愛ない事で笑い合ったりもしないし遊んだりもしない。
ほかならぬ小悪魔だからこそ、私はこんな感情を抱いている。
友達が取られてしまったような嫉妬。本当に卑しい感情。
「……夢。……妖夢!」
……幽々子様?
「何をしているのよ?
紫が来ているのにお茶も出さないで」
気が付かなかった……申し訳ありません。
不愉快そうに幽々子様が息を吐く。
「ほどほどにしなさいといったでしょう?本当に妖夢は未熟なのだから」
返す言葉も御座いません。
今、お茶を用意いたしますので。
「もういいわ、私が用意しましたから」
……申し訳ありません。
本当に未熟で役立たずですね、私。
「本当に役に立たないのね。心此処に在らずといった感じだわ」
追い討ちの様に言葉が刺さった。
「何か言い返さないの、いつもの様に」
珍しく、本当に珍しい苛立ちを含んだ声が聞こえる。
情けなくて、悔しくて、心が軋んだような気がした。
冬晴れの空を眺めていると小悪魔が声をかけてきた。
「元気がないですね……」
小悪魔の言葉に力なく頷く。。
あれほど私の心を惑わせていた嫉妬の波は去り、今は鈍い何かが心に残る。
少なくとも小悪魔の前では通常通り振舞えるまでには落ち着いていた。
「いろいろ失敗しちゃって」
あれから、何をしてもうまくいかなかった。
いつもなら難なく出来る事が出来なくなっていた。
食事の準備、お風呂の用意、さりとて自身の訓練でさえうまくいかない。
「幽々子様とも喧嘩してしまうし……」
怒られた。
普段は飄々としている幽々子様が、本当に感情を露に怒ったのだ。
初めての事で動揺した私は、全て自分が悪いはずなのに何故か言い返してしまった。
何の道理も通っていない感情に任せた反論。
とぼけていても頭の良い幽々子様だ。的確に反論の穴を付いて飛んでくる言葉に私は何も言えなくなって……。
飛び出してきてしまった、白玉楼を。
其処まで考えて、事の重大さに頭が痛くなる。
どうしよう……解雇されてしまうかもしれない……
行くあてなど無い。
「妖夢さん」
言葉に首を巡らせると笑顔があった。
小悪魔の笑顔。でも、違う笑顔。
私が向けて欲しい笑顔じゃない、また、胸がざわめいて……
それを抑えようと、締め出そうと考えて。
考えれば考えるほど訳が分からなくなる。
頭が痛い。心が苦しい。
もう、何で悩んでいるのかもよく分からくて。
不意に、小悪魔の腕が伸びて、頭にかかって。
そのまま、柔らかいものに包まれた。
抱き寄せられた、と感じるのに数秒。
そして……
「辛かったですね」
言葉に、何かが崩れた。
口から勝手に呻き声が漏れた。
瞑った目をこじ開けて雫が落ちてくる。
我慢していた何かが零れて溢れて、全て流れていく。
現金なものだと自分でも思う。
泣いたら、あれほどわだかまっていた心のもやもやが随分と無くなっていた。
小悪魔には全て話した。
嫉妬していた事も、幽々子様と喧嘩した事も。
弱いと思った。
自分はこんなにも弱いのだと。
剣の道を追い求め、ただ潔癖であろうと。
それが強さに繋がると思っていた。
でも、それは知らないだけだったのだ。
何も知らない故の強さだったのだ。
己の中の醜い感情も、性根からの未熟さも。
剣の道以外の楽しみも、友達と過ごす嬉しさも何も知らない強さだった。
それはとても脆い強さで、知った今、見事に根元から折れたのだ。
「頑張ってください」
笑顔で小悪魔が見送ってくれる。
今までの私の強さは折れてしまった。
だからまた作り直さなくてはいけない。
……戻る所は初めから一つしかない。だから戻ろう。
どれほど酷い事を言われても頭を下げよう。
許してもらえないのなら許してもらえるまで頭を下げ続けようと。
戸を開いて、感じたのは酷い酒臭さだ。
空瓶が幾つも転がっており、埋もれるように幽々子様が倒れていた。
慌てて抱き起こすとぼんやりとした目をこちらに向ける。
「あ~妖夢だ」
そのまま幼子の様に笑うと首に腕を絡めてくる。
酔っている。これ間違いなく酒に飲まれていた。
おかしい。
いままで何度もお酒の相手をしているが、ここまで酔ったのを見たのは初めてだ。
「妖夢!」
強く呼ばれて視線を移す。
目と目が合って、そうしたら幽々子様は嬉しそうに笑う。
「やっと、私を見てくれた」
幽々子様の腕から力が抜けて、慌てて支えると甘えるように頭を胸に寄せてくる。
「居なくならないわよね? 妖夢は」
その唇がそう告げるのを確かに聞いた。
居なくなりませんと告げると、安心したように笑んで、瞳を閉じる。
安らかな寝息が聞こえる。眠ってしまったようだ。
幽々子様を胸に抱えたまま、ただ寝顔を眺める。
安らかで、無邪気で、まるで……
「夢を見ているようね、いや、見て……いるの」
何時の間にやら目の前に彼女が居た。
鮮やかな、その名の通りの紫色。
八雲 紫様。
幽々子様の親友。
「幽々子はね、桜の下で孤独な少女が見ている幸せな夢」
謳うように告げる。
ただ、その表情は静謐で、とても悲しげに見えた。
「全ての苦悩から解き放たれた、永遠の幸せが続く夢」
意味はよく分からない。
だけど余りにも語る声が悲しみに満ちていたから……何もいえなくて。
「でもね、失ってしまったの。永遠に続く筈の夢のひと欠片が消えてしまった」
そこで、紫様は言葉を切った。
視線は一瞬、此方に、否、私が携える二振りの剣に向いて。
おそらく……二振りの剣の前の持ち主に向いて。
「幽々子がここまで荒れたのはその時以来だわ。
もう、戻ってこないかも知れないと考えて、それを誤魔化そうとしたのね」
信じられない。
幽々子様はいつも飄々としていて、何事にも動じない、そんな人だったはずだ。
少なくとも自分の前ではずっとそうだった。
でも、実際は違ったのかもしれない。もしかしたら、あの時。
祖父が居なくなった時に一番嘆いたのは……たぶん幽々子様だった。
その時はまだ……これは傲慢になるかもしれないけど……私が居たから平静を装えた。
でも、今回は、私が居なくなってしまうと思ったから、だから……
「ねえ、魂魄妖夢。妖忌と同じく、何時か消えてしまう夢のひと欠片」
紫様が此方を見ていた。
その視線に宿る力は強く、何よりも真摯だった。
「でも、どうかそれまでは、幽々子に夢を見せてあげて欲しいの」
真摯で、でも何故か泣き出しそうに見えて。
「永遠に続くと錯覚するほどの幸せな夢を見せ続けて欲しいの」
紫様。貴方の言っていることは妖夢にはよく分かりません。
ですが、唯一つだけ、確かな事があります。
妖夢はこの身を賭して、生涯、幽々子様の傍にお使え致します。
冥界一の盾として、あらゆる苦難から……その身を蝕む孤独も、悲しみも何もかもからも。
我が主 西行寺 幽々子様をお守りいたします。
ですから、ですからそのような悲しいお顔をなさらないでください。
最近知った事ですが友人の悲しみは本人の悲しみ、幽々子様が起きていたら共に悲しむでしょう。
ですから、ですからそのような悲しいお顔はなさらずに……逆に……
「そうね、ありがとう。妖夢」
そうして、紫様が、笑みを浮かべた。
息が荒い。
既に暗く沈みかけた視界に映るのは白と赤。
人里の裏路地の石畳。
これが白だ。では赤は?
己の腹に開いた穴から流れる命の源。
これが赤だ。
「幽々子……さま……」
呟く言葉は弱々しい。
ただ、流れる赤を見て、死ぬという事を悟った。
腹を抑える手の、指の間を縫ってただ地面を赤く染めていく。
その先に男が倒れていた。
見覚えがある。小悪魔を助けたときに叩きのめした男だ。
もっとも、今も仲間ともども私に叩きのめされて地面を張っている訳だが。
その手に、見慣れぬ鉄の機械が握られていた。
奇妙な形をしている。知識の上では知っている。
あれは鉄砲という物だ。
ずうっと前に、みょんな事から知り合いになった永遠亭の者に見せてもらった事がある。
人里について、いきなり数人で囲まれて、迷惑になると路地裏についていって。
もちろん勝算はあった。不意でも打たれぬ限りこの程度の烏合の衆、幾ら集まっても蹴散らせる自身があった。
今の私にはもう、先日の様に迷いなど何も無いのだ。
かくして何事もなく叩きのめして終わらせるはずのこの出来事は、男の持っていたこの鉄砲によって崩れた。
後ろからいきなり撃たれた。殺気も何も感じなかった。
気がついたら腹から血が流れていて、男達が襲い掛かってきて。
夢中で抵抗して、気がついたらこの様だった。
建物の冷たい感触を背に感じる。
感覚が酷く希薄で、視界が暗くなってくる。
ずっと一緒に居ると、改めて誓った翌日にこれとは運命と言うのも意地が悪いと思う。
これでは出来の悪い三文小説ではないかと。
(やっと、私を見てくれた)
思い出す。あの夢見るような眼差しを。
(本当に妖夢は未熟なのだから)
幾度も向けられた呆れたような、でも暖かい眼差しを。
もう、見れない。
視界は暗く、全てが闇に染まっていく。
あの方は悲しんでくれるだろうか?
否、きっと未熟ねなどと呟いて苦笑するだろう。
少なくとも皆の前では……
そしてその後、自分が死んだ後の事を考える。
どうなるのか……どうなるのか考えて。
意識が………遠の……かない?
視界が急に開けた。
動かないと思っていた体が動き、立ち上がっていた。
回りには倒れ伏した男達、己が流した赤の溜まり。
そうだ、まだやる事がある。
死んでも死に切れない。
歩を進めよう、戻ろう。
やる事をやる為に。
満足していた。
振り絞った最期の力も使い果たしたらしくもう指一本動かせない。
やることはやった、もう大丈夫だ。
暗くなりかけた視線の先には唯一つ。
開け放たれた机の引き出しと原形を留めぬほどに切り裂かれた春画本。
立つ鳥後を濁さず、そんな言葉が口から漏れて、意識が闇へと堕ちていく。
終
シリアスとギャグの比率が悪いと言うか、なんかちぐはぐな印象を受けた。
妖夢は、みょんな従者だな