「人間よ、一体お前は一人で自惚れているほど賢いものなのか?」
――レオナルド・ダ・ヴィンチ
その日、東風谷早苗は、神を殺した――
話は、少し前に遡る。
「おつかれさま!」
山麓に古い神社があった。夜の山において、巫女を除き生物の存在しないその空間は独特の静謐さを保っている。
その拝殿で早苗が日課ともなっている巫女舞の奉納を終えると、既に時計は午前零時を示していた。
早苗に声をかけたのは、彼女が信仰を奉げる神の一人、洩矢諏訪子である。
「諏訪子さま」
「今日も遅くまでご苦労様。もう遅いからゆっくり休んでね。明日も学校でしょ?」
相も変わらず飄々とした雰囲気である。人懐っこい笑顔の裏の本心は余人には窺い知れない。
「まだ修行中の身ですから。日課をサボるなんてバチがあたりますよ」
「早苗は相変わらず謙虚だね、いいことだよ。知ってるかい?凋落ってのは自らに驕ったその時から始まるんだよ。決して坂道を登りきったとは思わないように。登り続けている限り下りはないからね」
「諏訪子さまが説教されるのは珍しいですね」
「あはは、明日は雪が降るかもね。ところで、あの大木、早苗はなんて名づけたんだっけ?」
諏訪子が指すのは本殿の裏に生えた巨木のことである。早苗は巨木を『ブリキ大王』と名づけていた。一生世間の理解は得られまい。しかし、これくらいの遊び心を持っていても悪くないに違いないと早苗は思っていた。
ブリキ大王のことを伝えると、諏訪子は「ほほー」と感嘆の声を上げ、巨木に見入った。
「それがどうかしましたか?」
「いやー、のどまで出掛かっていたんだけど、名前が思い出せなくてねー。変な名前だとは思ってたけど、それじゃ思い出せないよ」
「変な名前じゃありませんよ。由緒ある名前なんですよ」早苗は抗弁する。
「あの樹なんだけどね」と諏訪子。
「どうかしましたか?」
「上に石剣が乗ってるって知ってるかい」
「えっ?」早苗には初耳だった。
「昔、神社の外に置いてあった石剣が突然発生した小さな竜巻に乗って飛ばされちゃってね。あの樹の上に落ちたのだけれど、あんな大きな樹でしょ? 結局誰も取りに行かず、そのままになっているんだよ」
「いいんですか!? そんなので」
「いいのいいの。神はそんなこと気にしないの。でも、早苗があの樹に興味を持ったときは、さすがにおっと思ったもんだね。何か巫女のもたらす直感のようなものがあったのかな」
「昔のことですし、わかりません。ただ、あれだけ大きな体ですから、神社を守ってくれるような心強さを感じたのかもしれませんね」
「そっか、まぁ夜も遅いんだし、早く寝なよ」
諏訪子は何か思索を巡らしているような様子で、早苗の名づけた『ブリキ大王』を見上げていた。
母屋に帰る途中、信仰を奉げるもう一人の神である八坂神奈子に出会った。
「いつも遅くまですまない。感謝する」と神奈子は言った。
「世に信仰が弱くなって久しい。我々、神の力はその信仰を持つ者を媒介とするが、もはや私たちを信仰してくれる者は早苗、おまえ一人なんだ」
「科学の時代ですからね、仕方ないですよ」
「科学か。科学と信仰は並立可能なものだというにな。人はいつになっても極端だ」
「学校では、先生がこう言ってました。科学も一種の宗教のようなものだと。人類は自然現象をはじめとした理屈で説明できないものを神の仕業として説明してきたけれど、最近では科学の進歩により、説明を科学で代用するように変わっただけだと」
「人はまだそんなことを言っているのか。科学を神の代用と看做すか」
神奈子は嘆息した。
実際のところ、科学と信仰の関係性については、早苗にも良くわかっているわけではなかった。
しかし、生まれたときから信仰の重要性について聞いて育ち、こうして神と対話し、巫女をやっている。
それだけで早苗は十分に満足していた。
「でも、きっといつかわたしは人々の信仰を取り戻してみせます」
「ありがとう。しかし奇跡の少女よ、勤めと言えどもあまり気に病むではないぞ。信仰の形は自由なのだ」
神奈子が言っているのは、風祝に伝わる由緒正しき信仰の形を、早苗が踏襲していることであった。
そのため、早苗は毎夜毎夜遅くまで一連の儀式に時間をとられ、朝に眠い目をしてパンを口に咥えたまま、家を出る羽目になるのだ。
それも、駆け足で。
「奇跡、ですか。神奈子さまはいつもそう仰いますが、私には奇跡を起こしている実感がありません」
「奇跡の形もまた多様なんだ。目に見えてわかりやすい奇跡もあれば、実感できない形での奇跡もまたありうる。たとえば、本来起こるべきである災害の発生を防ぐ。一見、誰にも理解できないが、またこれも奇跡の一つの形といえる」
訪れる未来を捻じ曲げる。
確かにそれは奇跡といえる。ならばこうして自分が毎日行っている祈祷にも意味があるのだろうか。
誰かの不幸を救っているのだろうか。
だが、観測できない未来の存在性を人間が語ることなどできようもない。それこそ、そこは神の領域とでもいうべきだろう。神奈子や諏訪子の分野であり、早苗には関知できないところでもある。
「ところで」と神奈子が話題を変えた。
「学校の授業はどうだ? 難しくないか?」
神たる者が『学校』なんて単語を口にするおかしさを覚えながら「ええ、それなり、ですね」と早苗は答えた。
東風谷早苗は真面目な少女だった。
風祝の家に生まれ、信仰すべきとされた神を信仰し、行うべきとされた儀式を行っていた。
「同級の学生らは塾とやらに通って勉強しているらしいではないか」
「あはは、神奈子さま、私を馬鹿にしてますね? 塾なんていかなくとも私は大丈夫ですよ」
「そうか……くれぐれも無理はするんじゃないぞ」
心配する神奈子の声が耳に入ると同時に、地面が揺れた。
外にいるにも関わらず感知できるなんて、相当大きな地震なのだろう。今頃テレビでは速報テロップが流れているに違いない。
「そういえば、昔は地震もナマズの仕業なんて言われてたのでした」
信じる者のいなくなったナマズは、どこかに追放されてしまったのだろうか。
ひょっとしたらナマズも科学の被害者なのかもしれない、なんて思った。
翌日の下校時、早苗は興味深い看板を見つけ、立ち止まった。
今どき珍しい木板による立看板である。早苗は神社で育ったせいか、こういうレトロな風潮は嫌いではない。
「なになに? 『ハクタク塾 何でも教えます。得意分野 ヒトの歴史』ですって」
人ではなく、ヒト。鳥瞰的な視点で人間を見ているような感覚に興味を持った。
今日も帰宅後に作法の勉強や舞の奉納をする予定であったが、少々の寄り道だったら問題ないだろうと自分に言い聞かせる。
「ま、たまにはいいですよね。神奈子さまも塾に行っていいと仰ってましたし」
早苗は看板の示す『ハクタク塾』の方角に向かって歩き出した。
しかし、と早苗は思う。看板の質から考えても、センスとしてはいささか古めかしい。
おおよそ、会社を引退して時間を持て余す知的な人物が開いた私塾に近いようなものなのかもしれず、それはそれで楽しい話が聞けるに違いないと予感した。
老人の話は面白い。いかに長い話だろうが、笑顔で聞き続けられる不屈の忍耐力を持った早苗にとって、老人の話は知識の宝庫としか思えなかった。
ハクタク塾は古ぼけた一軒家であった。
屋根は藁葺きで、庭は草が一面に生えており、人の住んでいる気配を感じさせない。
門から玄関に至るアプローチのみ多少の手入れがされており、何とか中に入れるといった按配だ。
急激に曇天模様となった空と相まって、不気味な存在感を醸し出している。
「これは……」
ここに来て早苗はことの深刻さを理解し、戸惑った。
この現代において、あんな看板があるほうがおかしいのだ。
会社を引退した知的な老人? とんでもない。
中に居るのはおそらく妖怪だ。こんなところに人間が住んでいるはずが無い。
帰ろうとする早苗に家の中から大きな笑い声が聞こえた。
「――――だぜ? おかしいだろ?」
どう考えても女の子の声だ。快活さを感じさせるまっすぐで気持ちの良い声だった。
自分の思い過ごしかもしれない。こんなに明るく笑う人がいるところに妖怪などいるわけないではないか。そう、神奈子さまも言っていた。理屈をこねるのは結構、ただし逃げるための理屈をこねてはいけない、と。
建物が不気味だというだけで引き返すのはよくないのだ、きっと。
そう思うやいなや、空一面の雲から雨が落ちだした。早くこの家に入れといわんばかりのタイミングである。これも神の差配なのだろうか。
早苗はえいと自らに気合をつけ門をくぐり、玄関の扉をこんこんと叩いた。
「慧音、客が来たんじゃないのー!? ほらみなさい」「そんなバカな、きっとインチキだぜ!」「負け惜しみはよしなさい。あんたは負けたの」「こんなの奇跡だぜ。神か悪魔でも憑いてやがる。それともまた吸血鬼の仕業か? わたしは帰るぜ」「あ、こら待ちなさい!」
騒々しい声が中から漏れる。中に居るのはどうやら一人ではないらしい。
勝ちだの負けだの言っていたような気がするが、賭け事でもやっていたのだろうか。
しばらく早苗が玄関前で待っていると、中から一人の少女が現れた。なぜだか年上とも年下とも判断がつかない。
「何か……用だろうか?」
少女は若さに似合わず、落ち着いた口調で話した。
「あの……町で看板を見て……」
「看板? なんのことだ?」
「『ハクタク塾』と書かれた看板でしたが……こちらではなかったでしょうか……?」
もしかしたら間違えたのかもしれないと、早苗は不安になる。
「なんだって!? ……まさか……」少女は目を見開き、言った。
「驚いたな。あの看板を見つけられる奴がいるなんて。あの看板の歴史はとっくに終わっているのだが」
「歴史が終わっている?」なんのことだろう。
「こっちの話だ。忘れてくれ」と短く言ったあと、少女はコホンと咳払いすると
「すまなかった。こちらの手違いのようだ。まぁ入ってくれ」
よく事情は飲み込めなかったが、早苗はおじゃましますと言って、古ぼけた一軒家の中に足を踏み入れた。
三和土で靴を脱ぎ、廊下を進んだ後、障子で区切られた八畳程度の部屋に案内される。
うらぶれた外観とは異なり、中は案外綺麗に片付いていた。かと言って物がないというわけではなく、大量の本があるにはあったが、整頓されて置かれており、全体的にすっきりとした印象を与える。
「まぁ座りなよ」
「では失礼して」
腰を下ろす。早苗はいつも座るときは正座である。
「私は上白沢慧音。慧音と呼んでくれてかまわない。親しい友人は皆そう呼ぶ」慧音が腰を下ろして言った。
早苗も自己紹介し、自分が神社で巫女をやっていることを告げると、慧音は『巫女』という単語に強い反応を見せた。と言っても、現代で巫女をやっている人間が物珍しがられることは当然だろう。
「巫女か。私の友人にも巫女がいてね。信仰心のカケラも無いような奴だが、見てて飽きない」
「そんな人がなんで巫女を?」
「知らない。しかし、その質問に答えられるような人間はそう多くないんじゃないか。自分が何者かを知っている者はあまりいないよ。……まぁあいつは違うかも知れないが。逆に聞くが、早苗だってなんで巫女をやっているか答えられるか?」
「神への信仰心があるからです」
伝統的に神職にある家系に生まれたという理由もあるが、あくまでそれは家の事情。個人的な事情については、こう答えざるを得ない。生まれたときから神を身近に感じてきた。
「結構なことだ。その信仰心、忘れるんじゃないぞ。特に巫女たる者は神への信仰の象徴のようなものだ。巫女の信仰なしに人々の信仰もなかろう」
人々の信仰という言葉を聞いてふと昨日の神奈子との会話を思い出した。
神奈子は科学と信仰は並存しうるものにも関わらず、人々が科学に溺れ信仰を忘れていると嘆いていた。早苗にはそのあたりの難しいことはわからない。だけど、知りたいと思う。わからないことばかりでも、少しずつ考えていけば一歩ずつ進んでいけるはずなのだ。
慧音の言うとおり、巫女は信仰の象徴ともいえる。だから、自分は、もっと考えなければならないのだ。
「慧音……さんは」
「ん?」
「慧音さんは、人々はどうして神を忘れてしまったのだと思いますか? 科学の発展が原因でしょうか? 神はもう必要とされていないのでしょうか?」
「まぁそういっぺんに言われても困る」
一呼吸おいて慧音は言った。
「確かに人は神を忘れつつある。昔と違い、神の名を借りずとも物事に説明をつけられるようになったため、神の力が不必要になった、というのが主な理由だろう」
「神は説明書じゃありません」
「そのとおりだ。しかし、人々が神に求めるもっとも重要で、原初の機能はそこだったのだよ。一方で、神の名を借りて説明せざるを得ない点もまだまだある」
「というと」慧音の意図がつかめない。
「早苗はアキレスと亀というパラドックスを知っているか?」
「知っています。アキレスが亀を追いかけている。アキレスが亀に追いついたとき、亀は元いた場所からさらに進んでいる。アキレスがさらにその場所まで進んだとき、亀はさらにわずかに前に進んでいる、という話ですよね」
「そうだ。だが実際はアキレスは亀を追い抜くことができる」
「それがどうかしましたか?」
「なぜだと思う?」
「え?」
「なぜアキレスは亀を追い抜くことができるんだ?」慧音は繰り返し聞いた。
「……速度が違うからです。アキレスの方が亀よりも速いからです」
「それは最初からの前提だ。たとえアキレスの方が速かったとしても、亀の位置まで追いついたとき亀はさらに前に進んでいるという問題は解決しない」
「うーん……」早苗は言葉に詰まる。
「この問題は錯覚なんだ。一見無限の時間が必要に思えるが、実際はアキレスが亀を抜くためには無限の時間が必要なわけじゃない。アキレスが亀の位置まで移動する過程の操作を無限回行う必要があるだけだ」
「数学的な問題ですね」
「そう、ここまでは科学の範疇だ。だがこの無限回の操作は誰が行っている? 無限という概念を範疇に収めた存在がある。それこそ神ではないのかな?」
「わかるようなわからないような……」
「まぁいいさ。すぐに理解する必要は無い。私が言いたかったのは、神を否定する科学という分野においてでも、神の介在する余地はあるのではないかということだ。ましてや運命や倫理においては、さらに神の影響力は強まるだろう」
「まだ運命の話の方がわかるような気がします」
「そうだな、決定論といえば最近では量子力学で面白いものが……あるのだが、余計話が難しくなってしまうな」
「ふふっ、そのとおりです」
二人で笑った。この慧音という少女は小難しい話だけではなく、相手に合わせた気配りもできるようだった。
ふと疑問に思う。自分とそう変わらない年のように見える慧音はなぜこれほど物知りなのか。ひょっとすると最初の直感が当たっていて、彼女は本当に妖怪なのかもしれない。
けれど、それでもいいと思った。彼女の話は面白かった。それだけでいいではないか。
「そういえば倫理で思い出したのだが」慧音が言った。
「最近このあたりで通り魔が出ているらしい。それこそ信仰心のカケラも無い奴だな」
「あら、そうなのですか。悲しいことですね」
本当に悲しいことだと思った。神奈子の言うとおり、自分に奇跡が起こせるのならば、そんな事件も無くせるといいのだけれど。
その後もしばらく歓談したが、時間も時間なので帰ることにした。とても楽しい時間だった。予定の寄り道時間をオーバーしてしまったから、今日は簡単な夕食にしよう。
「ところで慧音さん。私が来たとき、他の人の声が聞こえたのですが」
「ああ、友人が遊びに来ていてね。付き合って日が浅いが、ずっと昔からの間柄のような気もするよ」
早苗は、彼女たちはどこへ行ったのですか、とは聞かなかった。
家の外に出ると雨は降り続いており、止む気配は無かったため、早苗は慧音から傘を借りた。
それから早苗の『ハクタク塾』通いは続いた。
慧音の話は面白く、とりわけ歴史についての見識は卓越したものがあった。坂上田村麻呂の蝦夷征伐を、まるでその目で見たかのように語れる人はこの人くらいだろう。何でも田村麻呂の墓の場所まで知っているらしい。これを教えてしまうと大騒ぎになるから、と言って教えてはくれなかったけれど。
かと思えばこうも言った。
「人間には食欲、性欲、睡眠欲が三大欲ともう一つ、面倒くさいという欲望があって、人間は殆どの時間、それに支配されているんだ」と。
神奈子や諏訪子の知識とは違う、どこか人間らしい、けれども人間でもないような視点が早苗には新鮮で刺激的だった。
一度、なぜ貴女のようなこんなところにいるのですか、と聞いたことがある。すると、慧音は逡巡なくこう答えた。
「人にモノを教えるのは楽しいよ」
変わった人だと思った。そういえば、この数日、下校時に『ハクタク塾』に通うようになったが、ほかの来客は見たことがない。慧音も不在にしていることはない。わざわざ自分のために在宅してくれているのだろうか。
初めて慧音と会ったとき以来、不思議と間断なく雨は降り続いていた。
テレビでは土砂崩れの恐れについて警告している。
うちも何らかの対策をしなくちゃね、と早苗は山麓のわが神社を思った。
「早苗は神を視ることができるのか? そりゃ今どき珍しいな」
その日も学校帰りに『ハクタク塾』に寄ったところ、こんな話になった。
「えへへ、それほどでもないです」
「いや、珍しい珍しい。お前のほかに神を視れる人間なんていないだろう? 今どき宮司や禰宜だって視えてやいないさ」慧音は本当に驚いたようだった。
「皆にも神様の姿が視えるのならば、どれだけ信仰を集めるのが楽かわかりません」
「そうだろうな。現代の人たちは神なんて必要としていないよ」
「うーん。でもいらっしゃるものはいらっしゃるのです」
「お前が言ってもしょうがないよ。要は彼ら一人ひとりにとってどうか、ということが重要なんだ。客観的に神が存在しようが存在しまいが、彼らの生活にとって神が有効でない限り、彼らは神を信じないだろうな」
「神様は役に立つとか役に立たないとか、そういうものではありません。ものさしや定規じゃないんですから」早苗はふくれてみせる。
「悪かった。そのとおりだ」慧音は軽く笑った。
「でも、一方で民草は自分に役に立つものしか求めていないのも事実だよ。だからこそ、ご利益なんて言葉も存在する。みんな自分ひとりでは抱えきれない問題を抱えて生きている。昔は、神がその手助けをしたものだが、最近は信仰の風習も廃れつつあるからな。解決を自分の中に求める者が多い。早苗は何か問題を抱えていないか?」
「まさに今慧音さんが言った問題ですよ」早苗は嘆息する。
「信仰心が薄れてきています。うちの神社も何とか信仰を取り戻したいのですが……うまくいきません」
「そうだろうな。しかし、早苗。お前には神と対話する力がある。ならば、その神に相談してみたらどうだ?」
「それは……したくありません」
信仰を集められないのは巫女たる自分の問題。それは神々の仕事ではないように思う。
「そうか。あまり自分に背負い込むんじゃないぞ。お前には一人で溜め込んでしまう悪い癖がある。たまには自分の思うところを外に出してみてもいいんだぞ」
そう言って慧音はお茶をずずと啜った。このお茶は京番茶というらしく、早苗には慣れない味ではあったものの、さっぱりした口当たりは嫌いではなかった。
「……今日で、ここを引き払おうと思うんだ」慧音がぽつりと言った。
「ええっ!突然ですね」
「ああ、元々もう少し早く帰る予定だったのだが、予想外に早苗が来てしまったのでな」
「お邪魔してしまったのですね。申し訳ないです」
「いいんだ。私も楽しかった」
「そういえば、慧音さんはどちらからいらしたのですか?」前々から疑問に思っていたことを尋ねる。
「遠いところだ。とても、とても、な」
はっきりと答える気はないようだった。ならば、早苗もそれで良かった。無理に聞くようなことでもない。慧音は本来いる場所に帰らないといけないのだ。何か大切な用事でもあるのかもしれない。
「今日と同じ明日がいつまでも続くわけじゃない。たった一つの前提条件が崩れただけで、終わってしまうものも多いんだ。たとえばこの世界ですら、電子の重さが少し重かっただけで、中性子が多すぎる原子核が発生し、この宇宙は崩壊する。何もかも不安定なバランスの上に立っているんだ。終わりは突然にやってくるものだよ」
「あはは、相変わらず慧音さんは難しい話ばかりです」そんな難しい話も、早苗は嫌いではなかったけれど。
二人の間を心地よい風が流れた。
楽しい時間はいつまでも続きはしない。終わりは、前触れ無く突然やってくる。慧音の言っていることは、きっと正しいのだ。
「ならば、私も早めに失礼したほうが良さそうですね」
そう言って早苗は腰を上げた。そんな早苗に、慧音は片手をあげ申し訳無さそうに手を振った。
『ハクタク塾』から出ると、雨は地面を打ちつけるように降り注いでおり、夜に差し掛かっていることもあって、見える景色は薄暗い。
このまま天から何もかも落ちてきてしまうのかもしれない、なんて思った。天気予報によるとまだ当面は降り続くようで、昨夜もニュースキャスターはこの異常気象を地球温暖化の問題と結び付けて騒いでいた。
足元の水はねで靴を汚さぬよう注意しながら、神社への路地を急ぐ。山の麓という辺鄙な場所へ向かう道のため、人通りはまばらだった。降り続く雨も、それに拍車をかけているのかもしれない。
薄暗い道の前方には、部活帰りだろうか、楽器袋を担いで歩く早苗とそう変わらぬ年端の少女。それから会社帰りと思われるスーツ姿の男がいた。
早苗がそんな景色を視界の片隅に捉えながら、今日のおゆはんは何にしようかなと頭を巡らしていたところ、スーツの男の右手が懐に差し込まれ、その手が再び早苗の視界に入ったときには何か鋭いものを携えていた。
男はするすると少女に近づいていく。
「最近このあたりで通り魔が出ているらしい」
慧音の言葉が思い出された。まさかと思いつつも、早苗も進める足を急がせた。
男が少女の背後から至近距離に近づいたとき、男は右腕を振り上げ、その手に持つ刃物がはっきりと見えた。
男は間違いなく噂の通り魔であったろう。そしてその右腕は、まさに少女の首に振り下ろされようとしている。
――間に合わない!
止めるにしてもその距離はあまりにも離れすぎていた。
神様!……神奈子さま!諏訪子さま!
神の視える巫女である私にだけでなく、あの子にだって神は存在していいはず。
神はそんな不公平じゃない。
ならば、あの子を、助けて!
奇跡を……お願い……。
早苗はそう願った。
その瞬間、雨を切り裂くように、強い向かい風が吹いた。急激に横殴りとなった雨粒が三人の顔を打つ。
雨粒が目に入ったのだろうか、男がよろめいた。
「逃げてっ!!」
早苗の叫びに反応し、振り向いた少女は男の手に握り締められた刃物を目にし、小さな悲鳴をあげて駆け出した。
男は駆け出した少女と早苗を交互に目をやった後、薄暗い闇に溶け込むように去っていった。
気がつくと傘を放り出していて、全身が濡れていた。
ふと背筋の内側に冷たいものが走る。
恐怖? 違う。嫌な予感がする。
自分の直感が間違っていることを信じて、傘を手に神社へ駆け出した。
風は落ち着き、夜は再び静寂を取り戻していた。
神社は虫の声も聞こえないほどいつも以上に静寂で、早苗を不安にさせるには十分だった。
聞こえるのは、石段を駆け上がり激しく動悸する自分の胸の音と、荒れる息遣い。
山の漆黒はすべてを飲み込むかのようだ。
神社に、もはや神の気配は無かった。
「神奈子さまー!諏訪子さまー!」
夜の山中に高い声は跳ね返り、虚しい願いがこだまする。
そもそも神は本来人間の呼び声になど反応はしない。隣人を呼ぶのとは訳が違うのだ。
それでも叫ばずにはいられないのは人としての性質だろうか。
諏訪子が好んだ神社の隣の湖にも行ってみたが、早苗を待つのは闇だけだった。
「やっぱりいない……」
早苗も幼い頃から訓練を受けた一人前の巫女である。祭神の気配が消えたことに気がつかないわけはなかった。
途方にくれる早苗に一人の人間の顔が思い浮かんだ。
今日で引き払うと言っていたが、まだ間に合うかもしれない。
何でも知っていて、何でも教えてくれた彼女ならば、いいアドバイスをくれるに違いない。
僅かに萌芽した希望を胸に、早苗は再び『ハクタク塾』へ向かった。
「あれ……」
『ハクタク塾』のあった家屋が消え去っていた。
まるでその空間だけがすっぽりと抜け落ちたかのように、平たい空き地が広がっていた。
確かに慧音は、今日引き払うとは行っていたが、さすがに建物まで消えてしまうのには違和感を覚える。
神奈子、諏訪子に続いて、『ハクタク塾』まで消え去ってしまった。
自分に関係する世界が一つ一つ抜け落ちていく。
このまま世界に一人ぼっちになってしまうような錯覚を覚えた。
「この世には神も悪魔も……」
口にして実感する。
「神は、いなくなってしまったのでした……」
角を曲がって路地に入る。先ほど通り魔を見かけた路地だ。このまま進めば神社までは間もない。
早苗は暗い夜は好きではない。やっぱり人間は晴天の下で活動するのがあっていると思う。
夜祭だって提灯をたくさん置いて騒ぐではないか。やはり暗いよりは明るいほうがいい。
見慣れた風景なのに、今夜の景色はいつもより不気味に感じる。
そういえば、世界は観測者次第で構成されると語った哲学者は誰だったか。慧音に教えてもらったような気がするけれど。
「もっとまじめに聞いておけばよかったなぁ……」
「おお、早苗じゃないか。まだほっつき歩いていたのか」
「えっ」
振り返ると傘をさした慧音がこちらを見つめていた。
「慧音さんっ……!」
早苗は勢いよく慧音に抱きついた。
「お、おいっ。まぁ落ち着けって」
二つの傘が地面に転がった。
「なるほど、な」
早苗が事情を伝えると慧音は神妙に頷き、話し出した。
「早苗が祈りを捧げると、奇跡がおき、その後神社に帰ると神が消えていた、と」
「そうです」
「早苗、その突風だが、それは奇跡じゃないぞ。奇跡は恣意的に起こせるものじゃない」
「いいえ、違います。奇跡を起こせるから神なのです」
珍しくはっきり否定する早苗に慧音は面食らったようであったが、続けた。
「たとえそうだったとしても。神が消えた原因はハッキリしているぞ」
「そうなのですか!?」
「早苗、お前、神を試したな?」
「試した?」
「そうだ。お前は彼女にも神がいるかどうか、試した。そして神に奇跡が起こせるかどうか、試したんだ。試すということは、疑うということだ。信じるものは試さない」
「でも、あの状況じゃどうしようもなかった!」
「それは人間の傲慢だろう。なぜ神が人間の生死までコントロールせねばならない? ましてや、今回は危害を加えるほうも人間であっただろう。神は一体どちらの味方をすればいいんだ?」慧音は静かに言った。
「それでも善悪というものはあると思います」
「善悪など人間の価値基準にしか過ぎない。神にそれを求められても迷惑だろうよ」
「そうかもしれませんが……」
早苗は落胆した。
慧音ならばいいアイディアを出して問題を解決してくれる。そう思っていたからだ。
慧音は決して悪い人ではないと早苗は思っている。現にこうして相談に乗ってくれている。
しかし、どこか人間を覚めた目で見ているというか、人間を一括りにした上でその外から見ているようなところがあって、根本のところで結局のところ仲間意識は持てないかもしれない、と感じていた。
「そして」慧音が言葉を続ける。
「神は疑われたことで、最後の信者を失ったんだ。祝(ほうり)たるお前が最後の信者だ。信者のいない神が、存在する道理はなかろう」
「でも、それじゃあ……」
「そこから先を第三者が言うほど野暮じゃないよ。けれど、私にはこれ以外の理由が考えつかないな」
慧音の言いたいことは早苗にも理解できた。
「私が……殺した??」
「原因となっただけだ。早苗にその意図は無かったのだろう? 不運な事故なんだ」
事故? 事故なんて言葉で済ませて良いものとは早苗には思えなかった。
「事故ですって! 交通事故だって加害者は必ず責任をとるでしょう。好きこのんで人をはねる人なんていません。でも、これは、責任がとれないのです。私は……神奈子さま、諏訪子さまに対してどうしたらいいのかわからない!」
「察するよ」と、慧音。
「私は今でも神奈子さま、諏訪子さまを信じています。それではダメなのですか!?ここに信者はいます!」
「多分ダメだろう。一がゼロになるのは簡単だけれど、その逆はないんだ。無から有は生み出せない。一度ゼロになった時点で消えてしまうと思う。早苗も神社に戻って確認したはずだ」
「そう……ですね」早苗は肩の力が抜けていくのを感じた。
「力になれなくて、すまない。けれど、最後に会えてよかった。少なくともそう思うよ」
「私も、です。相談に乗っていただいてありがとうございました」
絶望を感じながらも、早苗は慧音に丁寧にお礼をした。
慧音も以前と同じように、早苗に対して片手を上げて見せたが、申し訳無さそうな表情が印象的だった。
境内へと続く石段を登りきって、疲れた体で山を見上げる。
数日前から続く大雨で、だいぶ地盤も緩んできているようだ。
山の斜面からは湧き水も出てくるようになってきている。
もしこの山で土砂崩れが起きるとすれば、今夜なのだろう。
ひとたび土砂崩れが起きてしまえば、神社は飲み込まれてしまうだろう。
避難すべきなのかもしれない。
しかし、もはや自分しか神社を守るものはいない事実を目の前に、今夜は本殿で過ごそうと早苗は決意した。
そして、いなくなってしまったふたりの神に祈り、謝ろうと思う。
届くことのない祈りかもしれないけれど、最後の信仰者だった人間としての、これは義務なのだ。
本殿まで辿り着いた早苗は、振り返り、鳥居を見つめる。
この神社の鳥居は明神鳥居というもので、わが国でもっとも一般的な形式の鳥居だった。
しかし、早苗はその一般的なところが好きだった。
まるで、多くの人々から信仰を得られているように思えて。
まるで、神奈子と諏訪子が今でも人々に受け入れられているように思えて。
「神は死んだ……か」
この言葉を言った人間はきっと元々神を信じていなかったのだ。だから『死んだ』なんて軽々しく口に出せるのだ。
「神様だって、死んだら悲しいよ……」
早苗の呟きは雨音に打ち消され、空に広がることなく消えた。
神社の本殿というものは、本来入ることを前提として作られていない。祭儀は拝殿で行われるからだ。そのため、本殿は非常に小さい。
主のいない本殿の空気は冷たく、まるで自分を責めるようで居心地は悪かった。
そして早苗は祈りはじめた。
雨脚は強まり、やがて地面が揺れ、流れ落ちる土砂の音が早苗の耳に聞こえてきた。
元々この神社は、諏訪子のものだったそうだが、神奈子があとからやってきて、乗っ取ったという。
それまでは信仰者の少ない衰退した神社であったが、神奈子を祭神とするようになってからは勢力を大いに盛り返し、信仰者の大層多い神社であったということだった。
神奈子と諏訪子もよく分業体制を築き、また民衆の生活を実り多きものにしたとか。
しかし、時代の潮流は人々に神を忘れさせた。
早苗が生まれたときには、神社の参拝者も大いに減少しており、境内はいつも寂しかった。
しかし早苗にとって、ふたりの神は物心ついたころから身近な存在だった。
幼い頃、早苗はふたりの神に尋ねたことがある。
「ねぇ、昔よりも神社はさびしくなっちゃったけど、かなこさまとすわこさまはそれでいいの?」
「遺憾だが、現状やむを得まい。しかし、いつか信仰を取り戻したいとは思っている」と神奈子は答えた。
「気にしないよ。言っても、人間の問題なんだよ。私たちは私たちでいつも人間のそばにいるし、力になる。ただ人間がそれに気がつくか気がつかないか、ただそれだけだよ」と諏訪子は答えた。
結局、早苗は神社への信仰を取り戻すことはできなかった。
神奈子は失望しただろう。諏訪子も口にこそ出さないが、きっとその願いはあっただろう。
だからこそ、せめて自分の力で神社だけは守りたいと思った。
神の力でなく、一人の人間の力で、奇跡を起こすのだ。
二の矢はない。祈るという方法が正しいのかどうかもわからない。
けれど、早苗はこれしか知らなかったし、こうするべきだと思ったのだ。
「相変わらず神妙な顔だな。たまには肩の力を抜けと教えたはずだぞ」
狭い本殿の中で、ありえない声が聞こえた。振り向くとそこには消えた祭神、神奈子が早苗を見つめていた。
「神奈子さま……」
「どうした?ありえないものを見るような顔じゃないか」
「一がゼロになるのは簡単だけれど、その逆はない……」
早苗は、慧音から聞いた言葉を思わず口にした。
「本来そうだ。しかし、無から有を生み出す……」
「それを人は奇跡と呼ぶんだよ!」いつの間にか居た諏訪子が口を挟んだ。
「諏訪子さま!」
「早苗は若い頃から苦労してるねぇ。肩の力を抜けってのは珍しく神奈子に同意したいね、こりゃ」
「良かった……」
「早苗もたまには相談してくれてもいいんだよ。なにせ、ここは神社なんだからさ」諏訪子は微笑み、続けた。
「神への相談、いつでも受け付けるよ!」
「ありがとう……ございます……」
消えたはずの神を見て安心したのか、早苗は糸が切れたかのようにそのまま意識を失った。
「おっ、気がついたか」
目を覚ますと本殿には神奈子だけがいた。
「ど、土砂崩れは!?神社は大丈夫だったのですか!」
昨夜は気を失ってしまったので、被害状況がわからなかった。こうしているということは本殿は無事だったのだろうけれど。
「百聞は一見に如かず、だ。とりあえず外に出てみたらどうだ?」
神奈子の勧めにしたがって外に出てみると、雨は止んでいたが、境内は全体的に薄く土砂に覆われていて、折れた木材や枝、石などが一面に散らばっていた。早苗は後片付けの大変さを想像して残念に思う。
しかしそれにしても
「よくこれで本殿が無事でしたね」正直に疑問を口に出した。
「あれだ。あの樹のおかげで本殿は無事だった」
見ると、本殿裏にある巨木が堤防の役目を果たし、土石流を左右にうまく分岐させ、本殿をかばう形になっていた。
それは、早苗が『ブリキ大王』と名づけていた巨木だった。
ふと見ると、巨木の下に一つの石剣が落ちている。これが諏訪子の言っていた、その昔に竜巻で飛ばされた石剣だろうか。土石流の勢いで樹から落ちてきたのかもしれない。
未だ固まらぬ土砂に足をとられながら、早苗は巨木に近づき、石剣を拾い上げる。
石剣には文字が書かれており、早苗はそれを見てふふと笑みをこぼした。なんだ、こんな近くに答えがあったなんて。
「そうだ。早苗に一つ提案したいことがあってな」
神奈子が声をかけてきた。
「怪我の功名というか。こたびのことで、面白い場所があることがわかってな。名を幻想郷というらしい。実は諏訪子には内緒なんだが、この神社をそこに持っていこうと考えているんだ」
「ええっ!?」早苗は目をぱちくりさせる。
「早苗にもついて来てもらいたいんだ」神奈子は言った。
「そりゃ……また随分」
突飛ですね、と言いかけてやめた。もう一度石剣を見つめて思う。結論は決まっているのだ。
「もちろんご一緒しますよ!私以外に誰が巫女をやるというのですか!」
「そうか!じゃあ早速準備をしないとな。諏訪子にはくれぐれも内緒にするんだぞ。あいつに知れたらうるさいからな」
念を押して神奈子は去っていった。
早苗の見上げた空の先には、澄んだ青が広がっていた。
「神社あるところに、また巫女あり、ってところかしらね」そっと空に呟く。
そう、信じると決めたのだ。どこに行こうと今さら迷うまでも無い。
そしてもう少し明るく肩の力を抜いて、常識に捉われず生きていこう。
困ったことがあれば、ふたりの神に相談すればいい。
石剣をそっと樹の根元に置く。
神社に戻すことも考えたが、ここにあるべきものだと思った。
大切なその言葉を胸に刻もうと、石剣に書かれている文字をそっと音に変える。
「信仰は儚き人間のために」
音は、青空を抜けて、先に新しい世界へと飛んだように思えた。
――ユビキタスな彼女たち 了
神とは現代の科学信仰に流され忘れ去られたものなのでしょうか……
ただ、ユビキタスは偏在ではなく、遍在では?
正反対の意味になりそうな。
あと、ネットでみかけるのは、神ではなくネ申です。本質に違いはありませんが。
幻想入りの前に慧音が幻想出していたという発想も実に面白く、話の内容も実に考えさせられるものでした。
こういったSSが増えると嬉しいです。
面白かったです